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待ってました #エンジンオイル添加剤 #nanoworks #a1 少し値ははりましたが、#初購入 #世界特許 #早稲田大学理工学術院 #総合研究所 開発 ෆ ̖́- (Db-STUDIO ホールディングス) https://www.instagram.com/p/CoyiwVuvABX/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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📸小林古径記念美術館(旧小林古径邸)/ Kobayashi Kokei Memorial Museum Garden, Joetsu, Niigata ——続日本100名城で桜の名所“高田城跡”🏯🌸に残る、近代日本画壇で活躍した画家 #小林古径 の旧宅・アトリエは近代数寄屋建築の巨匠 #吉田五十八 の貴重な戦前の初期作品…国登録有形文化財。 新潟・小林古径記念美術館(旧小林古径邸)の紹介は☟ https://oniwa.garden/kobayashi-kokei-museum-niigata/ ...... 「小林古径記念美術館」は新潟県上越市出身の日本画家・小林古径の名を冠し、氏の作品の中心に展示されている美術館。美術館の庭園内には近代数寄屋建築の巨匠・吉田五十八が設計した小林古径の旧宅も🏡 . 2022年7月、上越市に残る大庄屋/庄屋クラスの豪農屋敷の公開イベント『上越名家一斉公開』を訪れた足で初めて訪れたのがこの美術館。吉田五十八好きとしては一斉公開と同じかそれ以上にずっと訪れたかった場所でもあった…! . 夜桜の名所として有名な『高田城址公園』(高田公園)。松平忠輝(徳川家康の六男)の居城として1614年に築城された『高田城』の跡に開かれた都市公園で、「高田城跡」として新潟県指定史跡&続日本100名城🏯 . なお築城奉行として指揮をとったのは松平忠輝の義父だった大大名・伊達政宗だったとか🌙現在では桜だけでなく、夏にかけてピンクの花を咲かせる外堀のハス群も“東洋一”と呼ばれる名所!🪷 . そんな高田公園内に2001年に移築・復原されたのが地元出身の日本画家・小林古径の旧宅『小林古径邸』。 元は東京都大田区の南馬込…『川端龍子旧邸』なども残る“馬込文士村”と呼ばれた一帯に居を構えていた小林古径。主屋は1934年(昭和9年)竣工で“近代数寄屋建築の巨匠”吉田五十八の現存する建築の中では最も古い戦前の建築(*場所���変えていない条件が加わると別のものになるけれど)。 . 大工棟梁は京都の宮大工 #岡村仁三 。この方が吉田五十八にとっての数寄屋の師だったとか…? . 小林古径の没後は大田区が管理していたそうですが、マンション計画🏢により1993年(平成5年)に解体。 上越市がその部材を引き受け、吉田五十八に師事した建築家 #今里隆 さんや早稲田大学の調査・監修の下、 #宮本忠長建築設計事務所 #大林組 により現在地に復原。なお冬に雪に覆われる土地柄を考慮して見えない部分では随所に補強が加わっているそう。 . 小林古径が吉田五十八にひとこと《私が好きだという家をつくって下さい》と注文し、古径の芸術作品を研究した上で建てられた2階建の住宅。 . 文化財登録の評価などにも「貴重な初期作品で」「近代数寄屋建築の作風を確立する途上」といった評価で、外観は後年の作品と比べると独自色が滲み出る前…って感じだけれど。 玄関ににじり口���あったり、『旧山口蓬春邸』で見られるような小堀遠州『孤篷庵』の“忘筌席”オマージュや床の間など随所にその過程が感じられる。 続く。 - - - - - - #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #sukiya #japanesegarden #beautifuljapan #landscapedesign #niigata #yoshidaisoya #美術館 #近代建築 #近代和風建築 #近代数寄屋建築 #数寄屋建築 #数寄屋 #庭園 #日本庭園 #建築デザイン #ランドスケープ #庭院 #庭园 #上越市 #おにわさん (小林古径記念美術館) https://www.instagram.com/p/CmLQSzxv38x/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#小林古径#吉田五十八#岡村仁三#今里隆#宮本忠長建築設計事務所#大林組#japanesearchitecture#japanarchitecture#japanarchitect#japandesign#sukiya#japanesegarden#beautifuljapan#landscapedesign#niigata#yoshidaisoya#美術館#近代建築#近代和風建築#近代数寄屋建築#数寄屋建築#数寄屋#庭園#日本庭園#建築デザイン#ランドスケープ#庭院#庭园#上越市#おにわさん
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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第18回 日本建築史研究会開催のお知らせ
日時:2024年10月12日(土)14:30~17:00
場所:対面 + オンライン 対面会場:東京大学本郷キャンパス工学部1号館 3階会議室(315)
オンライン参加の方のみ、下記フォームより事前に参加登録をお願いします。 オンライン参加申込みフォーム コチラへ
発表(1) 発表 尾高真輝(早稲田大学大学院博士後期課程) 司会 未定 報告内容 「五街道宿場間における村落構造の研究」
参考論文 (1)尾高真輝、小岩正樹「「間の宿」の再考 -場と人の関係性からみる中山道・吹上-」日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)、pp.891-892、2021.09 (2)尾高真輝、小岩正樹「五街道における立場・間の宿の一考察」日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)、pp.35-36、2023.09
発表(2) 発表 野村渉(株式会社山手総合計画研究所) 司会 未定 報告内容 「戦前期の農林行政における農村住宅改善の理念と実践に関する研究」 参考論文 (1) 野村渉,小沢朝江「戦前の農村中堅人物養成施設における〈模範農家〉建設と農村住宅改善の取組み」,日本建築学会計画���論文集,第775号,pp.2001-2011,2020.9 (2) 野村渉,長田城治,小沢朝江「開墾地移住奨励制度による移住家屋・共同建造物の実態と農村生活改善像」,住宅系研究報告会論文集,第15号,日本建築学会,pp.131-140,2020.12 (3) 野村渉,小沢朝江「茨城県新興農場の移住家屋の設計・建設経緯と農村住宅改善の思想―今和次郎・竹内芳太郎による設計案とその位置づけ―」,日本建築学会計画系論文集,第782号,pp.1284-1294,2021.4
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2024年7月4日
「氷河期世代」念頭に低年金対策 厚生年金活用、負担増で難航も(時事通信)
2025年の次期年金制度改正では、現在40~50代の「就職氷河期世代」を念頭に置いた低年金対策が焦点となる。
【ひと目でわかる】世代別の年金額の分布状況の推計
年金財政検証では、厚生年金に加入できるパート労働者らの対象を拡大する案や、将来世代の負担を減らすための受給額の減額調整を見直す案に、給付改善効果が確認された。ただ、いずれの案も事業者や国民の負担増が不可避。政府・与党内での議論は難航しそうだ。
◇約4���が月10万円未満
氷河期世代である1974年度生まれの50歳の人が65歳時点で受け取る年金額(現在の物価水準ベース)の分布状況を推計したところ、全体の39.1%が月10万円未満だった。このうち18.1%が月7万円未満、5.7%は月5万円未満になる可能性がある。この世代は非正規雇用が多く、年金加入期間も短いためだとみられる。
現行制度のままだと、年金の減額調整は2057年度まで続く見通しだ。慶応大学の駒村康平教授(社会政策)は「氷河期世代の年金額は老後も減り続け、生活保護に陥るリスクが高くなってしまう。40年ごろまでに改善効果が出る低年金対策を講じる必要がある」と訴える。
◇減額調整、前倒し終了
具体的には、給付の手厚い厚生年金の適用拡大が考えられる。厚生年金は従業員101人以上(今年10月から51人以上)の企業に義務付けられている。対象の労働者は週の所定労働時間20時間以上で、賃金月8万8000円以上だ。
この要件を見直し、週10時間以上働く全ての人に広げると、新たに約860万人の非正規・短時間労働者が厚生年金に加入できる。これにより、現役世代の手取り収入に対する年金の給付水準である「所得代替率」は、現行のままだと50.4%で下げ止まるのに対し、56.3%に改善。減額調整も38年度に前倒して終了することが可能だ。
ほぼ全ての短時間労働者が厚生年金に入るので、保険料負担による収入減を避けて就業調整する「年収の壁」問題も生じなくなる。
ただ、厚生年金は保険料の半分を事業主が負担するため、適用範囲を一気に広げると小規模企業の経営が成り立たなくなる恐れがある。政府関係者は「企業規模や賃金の要件などから段階的に見直すしかない」と話す。
◇国庫負担増が課題
もう一つは、厚生年金の積立金を活用して基礎年金の給付水準を改善させ、減額調整が終了する時期を57年度から36年度へ短縮する案だ。所得代替率も56.2%まで上がる。
ただ、基礎年金の給付額の半分は国庫でまかなうため、政府は36年度以降に給付水準の改善に伴う追加財源の拠出を迫られる。試算では50年度時点で年1兆8000億円が必要で、自民党内には「増税論議が避けられない」(閣僚経験者)との声も漏れている。
「ドローン戦争」で変わる人間と技術の関係性 尊厳なき殺害許すのか(朝日新聞)2024年7月4日
ロシアとの戦争で、ウクライナは戦力差を埋めるためにドローンを使い、AI(人工知能)に制御される自爆型ドローンも投入している。人間を介さずに兵器が攻撃目標を設定して殺傷する「自律型致死兵器システム(LAWS: Lethal Autonomous Weapons Systems)」の開発を進める国々もある。
この動きをどう考えたらいいのか。戦場でAI兵器が人間を大量に殺害していく先に、何があるのか。科学技術史が専門で国際交流NGO「ピースボート」共同代表を務める畠山澄子さんに話を聞いた。
「マンガ入門 殺人ロボットがやってくる!?」を出版したのは、2018年。非人道的な兵器として規制対象にすることを議論すべきだと考え、軍事ドローンや自律型致死兵器システム(LAWS)の問題を取り上げました。
米国は01年の同時多発テロ以降、「テロとの戦い」を理由にアフガニスタンやパキスタンなどでドローン攻撃を仕掛け、誤爆で多くの民間人の犠牲を生んできました。ドローンを使う理由として、自国の兵士を巻き添えにせず、ピンポイントで標的を殺害でき、経費を削減できるなどといった合理性が語られました。
しかし、一般市民を巻き添えにするのは国際人道法違反です。ドローンの誤��動などで重大な問題が起きたときだれが責任を取るのか、という問題意識が当時すでにありました。
出版から6年経ちましたが、戦争や紛争での軍事ドローンの投入が一気に加速している印象を受けています。このドローンの拡大をどう理解すればいいのか。戦争のあり方とともに、人間と技術の関係性が大きく変わろうとしているのではないでしょうか。
現在、人間の介入なしに、機械の判断で人を殺害できるという段階に入っています。機械は人間の尊厳を無視したような殺害もためらわない。核兵器の問題にも通じますが、人類としてそれを許してよいのかが問われています。
かつての戦争では、悲惨な「戦場のリアル」を体験した兵士たちが、「戦場で起きていることは人間としてあってはならない姿なのだ」という感覚を持ちました。しかし、機械と機械が戦うドローンの戦争では、それが失われていくことの危うさも感じています。
ロシアとの戦争にウクライナがドローンを投入すること自体には、驚きはありません。戦争が長期化する中、戦費を削減し、兵士の命を守っていくためにその傾向は強まるでしょう。ウクライナでは、戦争で官民が一体化していっています。民間で使われているドローンも、武器を搭載すれば、殺傷型ドローンに変わることが見えてきました。殺傷型への転用は簡単な技術で可能なため、アフリカや中東、中央アジアなどにも急速に拡散しています。
LAWS規制をめぐり、特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の締約国会議などで議論が始まり、国連総会は昨年12月、「対応が急務」とする決議案を日本や米国などの賛成で採択しました。今年4月には、規制を議論する国際会議がオーストリア政府が主催して首都ウィーンであり、オーストリアのシャレンベルク外相が演説で、AI(人工知能)を使った兵器について「人が管理することを確実にするため、今こそ国際的なルールと規範に関して合���すべき時だ」と呼びかけました。
日本政府は、人道的軍縮を大胆にリードし、規制・禁止のあり方の議論を前に進めて欲しい。AIの進展で技術が人間を上回る時代が来ると言われる中、人間の尊厳をいかに守っていくかが、軍事の世界でも問われているからです。(聞き手 編集委員・豊秀一)
畠山澄子さん 科学技術史で博士号。早稲田大学・立教大学非常勤講師。共著書に「マンガ入門 殺人ロボットがやってくる!?」など。
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佐倉統(東京大学大学院教授=科学技術社会論)【視点】 ドローンに限らず、ほとんどの科学技術は戦争と密接な関係がある。科学技術は戦争で勝つために進歩してきたというのは言い過ぎだとしても、戦争が科学技術発展の大きな契機であり原動力であったことは歴史的な事実である。
ドローンやAIの兵器利用を規制することは喫緊の課題だが、問題はドローンだけではない。生物兵器やサイボーグ兵器も大きな問題だ。これらの技術の研究開発過程をできるだけ透明化することが、抑止や規制に不可欠だ。
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June 15, 2024: Annual General Meeting 2024 for “Waseda University IE Alumni Club of Kansai, Japan”: This time, Professor OHNO from Waseda University participated, providing us with the opportunity to have a lively exchange of views and opinions about the current situation and future of Waseda University and its alumni association.
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅰ
花鳥誌2024年1月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
「恋の季題」は材料も尽きてお開きとしたが、書き物は続けてほしいとのお話だったので、『虚子百句』を私なりに読んでいくことにしたい。
まず、本書の成り立ちや、おおよその性格を説いて、なぜこの書物を丁寧に読んでいくことにしたのか、その理由をあらあら述べておきたい。
本書は昭和三三年、すなわち虚子の亡くなる前年の自選句集である。京都の便利堂からの依頼を受けたもので、短時日の間に選んだものであるから、本書の価値は、ある程度割り引いて考える必要はある。が、ともかくも虚子が、自分の代表作と認めた百句だったことは間違いない。
選句の基準については、追々検討を加えていくが、まず揮毫しやすく、たびたび揮毫してきた句であったことは、序で虚子自身が明らかにしている。本書は、虚子の揮毫を写真で掲載し、五十句ずつを高濱年尾と星野立子が分担して、簡単な句の評釈をつけるという趣向のものだった。年尾の跋文によれば、虚子も事前に二人の文章を検したという。
本書の企画を持ち込んだ便利堂は、明治二十年創業の書店兼出版社である。コロタイプ印刷機を早くに導入し、美術書の出版で信頼を得た。岡倉天心が創始し、今日でも美術史学の権威的雑誌の位置を保っている「國華」は、便利堂の図版印刷の高度な技術が遺憾なく発揮されたものである。
四代目店主中村竹四郎は、国宝級の貴重書の複製印刷をも数々手がけ、『虚子百句』刊行の翌年には文化功労者として表彰されている。虚子の字は、それ自体が俳句文化の遺産としての価値を持つ、と認識されていたわけである。
つまり、主役は百句のみならず、その揮毫でもあったわけで、この点には留意しなければならない。書は、運筆から句の呼吸や中心点を確認できる。同じ字であっても、楷書か行書かといった書き分けがあれば、それは句の眼目ともなる。
一例を挙げよう。小諸市立虚子記念館に残る十二ヶ月十二句の揮毫を屏風に仕立てたものは、展示の目玉だが、「心」を詠んだ句が三句ある。
鶯や文字も知らずに歌心 虚子
二三子や時雨るる心親しめり 同
我が心ある時���し罌粟の花 同
このうち三句目のみ「心」はきちんと楷書で書かれ、他の二句はややリラックスした崩し字となっている。三句目は愛児六を失った悲嘆の中で詠まれた句だからである。書道家に聞くと、「心」の字のバランスは、筆をとる者の「心」を反映するのだと言う。
こうした鑑賞の醍醐味も『虚子百句』にはあることが、当然予想される。年尾の跋文によれば、この頃の虚子は眼が弱って、それが字に出てしまっている、という。確かに、青年期・壮年期のそれから比べ、運筆の力や字配りを焦点化する眼の力の衰えは隠せない。それでも、修練とは凄いもので、序文の虚子自身の言によれば、百句の大方は一、二時間で揮毫してしまったというから驚きである。字の味わいも、私の能力の範囲で解説を試みたい。
本書の構成は、春夏秋冬・新年の部に分かれ、各部の句の配列は、成立順となっている。従って明治・大正・昭和と万遍なく句が拾われている。『百人一首』が古典和歌そのものの粋であり、歴史でもあるように、『虚子百句』も虚子の句業の入門書にして到達点でもある。これが本書を読む何よりの理由である。
本書の装幀を担当した福田平八郎(一八九二〜一九七四)についても、簡単に触れておこう。虚子との縁は、『虚子京遊録』(昭和二三年)『喜寿艶』(昭和二五年)に続き、これが三度目である。 大分出身で、上村松園や竹内栖鳳も出た京都市立絵画専門学校を卒業。京都日本画画壇で重きをなす。トリミングやデザイン感覚に秀で、書物の装幀も得意とした。『虚子句集』の竹の絵は、自家薬籠中の画題であったと考えられる。
本書は二〇一〇年、岩波書店から復刊された。解説は東京大学教授であった、日本近代文学専攻の野山嘉正が担当した。
最後に一言。平成期、伝統派で、虚子句の解説つき選集といえば、稲畑汀子氏の『虚子百句』が定番だった。虚子自身の選句とは違ったところに新味を出した素晴らしい本だが、時に稲畑氏らしからぬ、非常に硬い内容と文章の評釈があるのは惜しい。この連載は、あくまで虚子の自選に立ち戻り、虚子句の成立事情と、選句の背景を平易に語ることに徹したい。ただし、この自選句集の性格上、私の虚子観・俳句観が問われることは言うまでもない。
1 美しき人や蚕飼の玉襷
初出は明治三十四年四月三十日の新聞『日本』。季語は「蚕飼」。蚕はふつう四月に孵化して繭籠る。
初出では「蚕」の題で内藤鳴雪・坂本四方太・河東碧梧桐・佐藤紅録らの各三句も載る、題詠句である。虚子の他二句は〈蝋燭の灯影に白き蚕かな〉〈蚕飼ふや年々ふやす桑畠〉。『新歳時記』にはこの句を採用せず、写生句らしい〈逡巡として繭ごもらざる蚕かな〉を載せたか。
蚕は食欲旺盛だ。食べ残した桑やフンは蚕網(さんもう)を使って取り除く。蚕は眠る。睡眠と脱皮を四回ほど繰り返して成長すると、絲を吐き始める。ここで蔟(まぶし)という仕切りのある箱に移す。繭籠らせるのである。絹糸を吐き、繭を成す様は、実に神秘的だ。春の陽が漏れてくる中、吐き出されたばかりの絹糸は光そのものである。この過程に、ひと月ほどはかかる。
蚕網をかけ、桑を与えると、蚕は網目を通り上にあがる。蚕網の下は蚕のフンと桑の食べ残しが残る。網を上げると、蚕とフン、食べ残した桑の分離ができる。蚕の成長に合わせて網目の大きなものへ変えながら使用する、といった具合である。丁寧さと経験が要求される女性の仕事である。
養蚕は、明治期日本の主要産業だった。欧州では産地の南仏で病害が発生し、需要が高まったのである。巨利を成した者も多い。出荷は横浜が多かった。
女性は襷掛けで、髪も縛る。明治期の浮世絵等を見ると、襷の色は赤が代表的である。かの富岡製糸工場では、技術のある女工は赤襷をして周囲から尊敬されたという。
国を挙げての養蚕業振興を宮中も率先して奨励し、皇后美子が手ずから養蚕を行い、浮世絵などで宮中養蚕が喧伝された。皆赤襷で、髪はおすべらかし、すなわち、後ろでまとめた髪に「長かもじ」を継ぎ、水引や絵元結などを掛けて、長く垂らしたのである。
結髪の問題にこだわったのも、襷掛けの女性は、皆髪を結ったり、挙げたりして、うなじがあらわになる点が一句の焦点だと考えるからである。つまり、「美しき人」の美しさの拠って立つところは、「襷」に暗示される、黒髪と白いうなじだったのだ。
「玉襷」という言葉は、『万葉集』以来ある言葉で、これ自体一種の神々しさを醸し出す。『虚子百句』の評釈で、年尾が宮中養蚕を詠んだと解したのも一理ある。しかし、もっと重要なのは、「玉襷」は「うなじ」の連想から、大和の畝傍山を呼び出す決まり文句だったことの方である。謡曲の「恋重荷」に用例がある。虚子がこれを知らないはずはない。
蚕と繭の「白」と、後れ毛を残したうなじの「白」の連想が、この女性の「美し」さを支えるものだったと考えたい。虚子は、和装の女性の髪にはかなり執心した。
「まあ旦那でいらしつたんですか。どなたかと思ひましてね。お断り申しましたですけれど何だか気になりまして、一寸御挨拶だけに。どうも姉さん有難う。姉さん有難う」と二人に挨拶して末座に坐つたまゝ一寸こぼれた鬢を掻き上げる。
小光は総髪の銀杏返しに結つてゐるのが仇つぽくて、薄つすらと白いものゝついてゐる額の広々としてゐるのも美しい。 (『俳諧師』) 小光のモデルは、女義太夫の竹本小土佐で、虚子は彼女の語りがかかる東京中の演芸場へ出かけ、追い回したのであった。虚子の眼裏に焼きつけられた美しさは、挙げた髪やこぼれた鬢にあった。
谷崎潤一郎も言っている。女性美の焦点は首だと(『陰翳礼賛』)。和服で身体が露出するのは、首・手先・襟足だ。首は細く長くなければいけない。「猪首」という言葉を想起すればよい。肌は白くなければいけない。そこにうなじの後れ毛が色気を呼ぶ。
「玉襷」はその呼び出しであり、それは説明しないことが肝要だから、「美しき」とだけ冒頭に置いて謎を掛けた。だから、『喜寿艶』でも、この句については、木で鼻をくくったような説明しかしていない。
完全な主観句で、実際にそういう女を見たのか、絵の中の女か、記憶の中の女か、そんなことはどうでもいい。小説家志望で主観派が本質だった虚子らしい、冒頭の一句なのである。『虚子百句』は『新歳時記』のような教育的意義を取り払った、「作家」虚子の選集だった。
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)7月5日(水曜日)弐
通巻第7819号
「中国軍は台湾を侵略する陣容を整えたとは言えない」
玉沢徳一郎(元防衛庁長官)が台湾で講演
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2023年7月3日、前原誠司議員が野党議員団十名を率いて台湾を訪問し、蔡英文総統と面会した。
その前日、玉沢徳一郎元防衛庁長官(防衛大臣)は台湾「日台交流協会」(事実上の日本大使館)で講演し「中国軍は台湾を侵略できない。理由は戦力不足である」として、次のよう述べた。
「中国が台湾に侵攻するには少なくとも130万人から160万人の兵力が必要、その兵員を輸送する能力がない(強襲艦は8隻)」。
また中国は「食糧安全保障の問題」に直面しており、台湾侵攻には総合的な兵站を含む能力を欠いている。
玉沢氏は続けてこう述べた。
「中国は以前、輸入穀物の多くをロシアとウクライナから得ていた。こうした食料輸入もロシアのウクライナ侵攻によって脅かされた。中国の人口の60%が豚肉を食べているが、豚肉1kgの生産には30kgの穀物が必要である。戦争のイロハとして、豊富な食糧が必要である。もし中国が戦争を始めれば、直ちに食糧不足に直面するだろう。『腹が減っては戦はできぬ』」。
中国政府は侵略が失敗することを認識しているため、台湾に対して攻撃的な認知戦争の戦術を採用していると付け加えた。
ちなみに玉沢氏は早稲田大学雄弁会出身で、海部、森、小渕ら歴代首相と親しかった。大学院時代の論文は「中ソ対立」で、当時、一枚岩と考えられていたソ連と中国が抜き差しならない対立にあることを玉沢氏は早くから掌握していた。
中国人の癖は演出、芝居好き、嘘つきである。異常なほど声高に何かを吠えるときは、舞台裏では異なった行動をとっていることが多い。
たしかに玉沢氏の指摘するように、戦争は勝利だけを目的とはせず、戦闘準備で国内を統一する統治の効果的方法でもある。侵略直前に異変が起きて、戦争どころではなくなる例も世界史には多い。
いや、日本とて聖徳太子は300隻の船団と2・7万の兵士を用意していたが。出陣直前に指揮官の弟君が急逝して中止に追い込まれたし、藤原仲麻呂は新羅攻撃のため、400隻3万を出航直前に疫病が蔓延し沙汰止みとなった。
政治は、一寸先は闇である。
▼「グローバリズムは死んだ」
7月5日、日本の議員団や大臣経験者とは対比的に米国議員団の発言はエスカレートした。米下院議員のケビン・ハーン(共和党、オクラホマ。共和党研究委員会委員長)が台湾を訪問し総統府で蔡英文総統と面談、そのときは「何時の日か台湾が独立することを希望する」と述べた。7月4日は米国の建国記念日だった。
共和党研究委員会の台湾訪問団はハーン委員長以下、バージェス・オーウェンズ、マイク・フラッド、マイク・コリンズ、ラッセル・フライ、ケイス・セルフら六名の下院議員。この共和党研究委員会は1973年設立で。現下院に175議席を擁し、共和党にとって下院で二番目に重要な議員団体である。
同日、TSMC創設者の張忠謀(モリスチ・ャンン、94歳)が台湾工商会で講演し、「グローバリズムは死んだ」と発言していることは注目に値する。
「嘗てグローバリゼーションは数十億人を貧困から救い出し、多くの国で生活水準を向上させたが、他方で富の不均衡な分配を悪化させるなどのマイナスの影響もあった。しかし近年、グローバリゼーションによって雇用が失われ、多くの国の中産階級が弱体化した。米国の鉄鋼、自動車、衣料品メーカーは製造施設を海外に移転し、メリットを共有できなくなった。これは『トゥキディデスの罠』、つまり新興国が地域または国際的な覇権者として既存の大国に取って代わる脅威を感じたとき、戦争への流れを形成する。まさに中国と米国である。米国は軍事的
、経済的リーダーシップを確保するために中国に対して貿易制限を導入しライバル国の競争力を弱めようとしている」
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ゲスト◇児玉 絵里子(Eriko Kodama)京都芸術大学 専任講師
早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)修士課程修了。 沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、文化学園大学文化ファッション研究機構共同研究員。東京国立博物館学芸部工芸課染織室非常勤職員、国指定重要無形文化財「紅型」保持者 玉那覇有公主宰・玉那覇紅型工房、浦添市美術館嘱託学芸員を経て、財団法人海洋博覧会記念公園管理財団(一般財団法人沖縄美ら島財団) 学芸員。退職後、 ドナルド・キーン・センター柏崎学芸員などを経て現職。単著に、錦正社『初期歌舞伎・琉球宮廷舞踊の系譜考―三葉葵紋、枝垂れ桜、藤の花―』2022年、ADP『琉球紅型』2012年、河出書房新社ふくろうの本 『図説 琉球の染めと織り』2005年など。 第十回木村重信民族藝術学会賞受賞���第47回(平成30年度)三菱財団人文科学研究助成採択。 ・京都芸術大学 ・研究者HP
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「NISHIIKE JAM SESSION」
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ジャムセッションと題して、何でもありのお祭りを開催しました。
[参加団体] 1. SOUVENIR SOUVENIR SHOP 値段をつけられない店主による、世界のおみやげ屋さん。すべての商品を言い値で売ります。旅先で買い付けた雑貨や、アンティークの和食器を販売します。 2. VEGETABLE まーるく企画 晶 気まぐれな野菜好きな学生。 3. FLOWER アラマホシ花木 いけばなをもとに、暮らしに繋がる花たちの提案をしていきます。 4. WALL PAINT すみれこ 1996年生。早稲田大学理工学術院建築学専攻修了。画家・イラストレーター・詩人。歌、朗読、演技をしたり、モデルになることもある。お店はじめるお店「アラマホシ商店」メンバーで、「これみすとあ」運営。建築活動集団「アキチテクチャ」メンバー。2023年の目標は個展開催、詩集づくり、漫画をかくこと。 5. BOOK CLUB 孤独じゃない読書 :『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』を読む アラマホシ書房 [企画] アラマホシ書房
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Location : Toshima-ku, Tokyo Date : 2023.02 Category : Event
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MOT(技術経営)が学べる機関のまとめ
早稲田大学ビジネススクール(大学院経営管理研究科) カリキュラム募集要項 東京理科大学大学院、経営学研究科、技術経営専攻(平成30年4月開設) カリキュラム募集要項 日本工業大学MOT 東京農工大学工学府産業技術専攻 下記のように入試説明会と講義公開を実施します。社会人、学部生(学年を問いません)の積極的な参加をお待ちしています。 日時2021年7月10日(土) 12:00 – 13:00(説明会)、10:30 -(講義公開)形式ハイブリッド(対面とオンラインのどちらでも参加可能。講義公開は対面のみ)内容カリキュラム、入試の方法、質疑応答、講義の見学など「大学院産業技術専攻の紹介」 専攻長 長澤和夫 教授「選抜方法について」 入試実施委員 斎藤拓教授質疑応答…
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早稲田大学メルマガ
e-OHNO Mail News 2023 年 8 月号
シニアの部 エッセイ
グローバル化の流れの中で私が学んできたこと
1982年学部卒(尾関研)の十河哲也と申します。この度、大野先生からシニアの部のエッセイ執筆を仰せつかりました。私は大学卒業後、製造部門のエンジニアとしてNTN 株式会社という自動車や産業機械用の軸受や部品を製造販売する大阪���社のメーカーに就職し、2011年から役員として米州地区を中心に経営に携わり、2020年から CFOとして 3 年間、NTNの経営再建に取り組んだ後、2023 年に 63 歳という役員定年ガイドラインに従って退任したところです。この機会に、41年という随分⻑い間、 同じ日本メーカーで働き続けた私のようなOBが、企業経営に関して何を学び、どのように考えてきたかについて記述してみたいと思います。
29 歳の頃、私はアメリカのシカゴ近郊でチーフエンジニアとして自動車用HUB ベアリングを生産する新工場の立ち上げメンバーの一人として参画し、1989 年から1996 年の 7 年半、初めての海外勤務を経験しました。日本から 当時の最新鋭の生産設備と技術を導入しましたが、生産性は日本のマザー工場よりかなり低いという状況に苦しみながら、従業員のスキルが低い、欠勤率、退職率が高い等の問題に直面しました。一体、何が本質的なマネジメ ントの問題であり、何を変えねばならないのだろう、ということで変革に向けた色々な試行錯誤を繰り返しましたが、 結局は『現地の人材のやる気を最大限に引き出すための納得性の高い公正な評価と処遇』が必要不可欠、すなわち『人の行動は自分がどのような基準で評価、処遇されるかによって大きく変わる』ということを学びました。当時の 曖昧な人事考課と給与体系を刷新し、スキルとパフォーマンスを誰もが納得できる形で客観的、公正に評価し、それを給与に明確に連動させることで従業員のモチベーションが向上し、工場全体が活性化して赤字が続いていた会社が1 年後に は急に黑字になるという自分でも驚くような結果になりました。この経験がエンジニアとしての単なる技術指導よりも、 いかに従業員の学習意欲を高め、やる気を出させるシステムを設計することが重要か、当時MITのピー ターセンゲと いう教授が提唱していた『ラーニングオーガニゼーション(学習組織)』の重要性を強烈に認識した私の原点となりまし た。
この新給与体系導入に当たり、なぜ評価システムを変えるのか、何を目指すのか、企業理念やビジョンとの整合性とともに会社としての考え方、ポリシーを全従業員との直接対話で 説明しましたが、この徹底的な対話がその後の成果 に結びつくキーだったと思います。英語は下手でも、何が言いたいのか、言いたいことがパッションとともに全身から伝わる、流暢な英語よりも人の心を動かす英語が必要、オープンな心と変革への情熱なくして、どんなに英語が上手 でも全く意味がない、ということを学びました。工場の従業員はアメリカ人といって���アメリカで生まれてアメリカで教育 を受けた人だけではありません。メキシコから来た人、中国、インド、ロシア、エチオピア、ベトナム等、それこ そ世界中の人が一緒に働いていました。したがって、基本的に、日本のように『あうんの呼吸』は通じません。日本では小学校の頃から、先生に『相手の立場に立って考えなさい、自分が相手の立場であったらどう思うかを考えなさ い』とよく言われましたが、そもそも生まれ育った環境や考え方が違う場合、自分がこう思うから相手も同じように感じるだろうという考えはむしろ危険でした。年齢差別の問題やアファーマティブアクション(少数⺠族や女性に対する差別是正のための優遇措置)への対応は、特に日本人にとっては注意が必要でした。
当時は、米国の製造現場で色々な試行錯誤を繰り返しながらも、同時にアメリカ流のマネジメントを学びたくて、 1994 年から1996 年の 2 年間、仕事をしながら週末にノースウエスタン大学のケロッグ経営大学院で MBA の勉強をしま した。 技術者の私にとって、特に戦略論、ファイナンスやマーケティング等、非常に新鮮で『目から鱗』という経験でした。入学面接は一流ホテルのような Executive MBA専用の校舎でインタビューを受けました。丁重にエレベーター に案内され、アシスタントディーンと書かれたオフィスに通され、そこでエリカさんという女性に迎えられまし た。最初は 秘書の方かなと思いましたが、この人がアシスタントディーンでした。試験官が何人かいて、その前に私が座らされて難しい質問をされることを勝手に想像していましたが、豪華な応接室で『コーヒーにしますか、紅茶にしますか』、『私はこれから1 時間、あなたの話を聞きます』と言われて、その場でコーヒーを飲みながらの1 対 1 の面接が始まりまし た。予想していた面接と全く違った、こんな面接試験は受けたことありませんでしたが、考えてみれば、いきなり一定の時間を与えられ、何をどのように話すかも含めて全く自由に話をさせることで、その人物の色々な面が見えるのだ ろうと思います。エリカさんは基本的に何の質問もせず、ひたすら私の話すことをメモしていましたが、自分の言いたいこと、自分の思いや熱意を1 時間なら1 時間、短い場合は90 秒なら90 秒というような限られた時間で、伝えるべき相手に確実に伝えるということは、特にグローバルに仕事をする上で極めて重要なことなのだということを、その後の NTNでの仕事の中で何度も経験することになりました。自分の考え方や方針について、相手の レベルに合わせて相手が理解し、心底納得できるようなストーリーとして伝えることは、経営のプロとしての必須スキルであると思います。最後に、エリカさんは『正式には教授会で書類審査とともに合否が決まりますが、あなたは多分合格でしょう』と言って��れました。このエリカさん、私より少し年上の颯爽とした⻑身の女性でした。そういうこと で、この MBAコース入学の直前に生まれた⻑女の名前をエリカにしました。 その⻑女も今では社会人なので随分昔の話ですが、今でもこの面接は強烈に印象に残っています。
このケロッグ経営大学院を卒業して 1996 年に日本に帰ってからは 2011 年の 2 度目の渡米までの 15 年間、本社の経営企画部で中期経営計画の策定とともに、特にグローバルアライアンス、クロスボーダーM&A等に集中的に取り組み、相手側とのあらゆる知恵比べ、 駆け引き、本音の探り合い等、物事を裏から、斜めから見ながらの交渉を経験してきました が、やはり最後は交渉相手との相互理解と信頼関係を築けるかどうか、これ無くしてアライアンスは成功しない、ということを痛感しました。中期経営計画においても大事なのは競争戦略や理論体系だけでなく、 いかに各部門、各地域に納得性を持って動いてもらえるか、結果を出すためには、いわゆるファシリテーションが重要であるということを学びました。これを怠ると、特に事業部門からは『自分ではやらない口先だけの部門』と思われ がちな経営企画部のような本社の中枢部門がグローバルな求心力と遠心力を有効に働かせることは不可能で���る と考えま す。
2011 年から 2018 年までの 7 年間、2 度目の米国赴任においては、米州地区総支配人として、特に経営という正解の誰にもわからない判断を、南米も含めた米州地区全体において、 異文化の中で日々行わねばならない状況の私にとって、言葉には表しにくい組織の状況、雰囲気を色々な交流の中から感じ取る能力が非常に重要であると感じていました。現地にて日々直面する課題は全てコンピュータのように論理的に分析して正解を導き出せるようなことではなく、その場その場で総合的により良い判断を迅速にしてゆく必要があり、そのためには本質を的確に感じとる 能力、センスを磨かねばならず、 face to faceのコミュニケーションが必要不可欠でした。MBAの授業では、戦略論、 マーケティング、ファイナンスというような科目は人気が高く、名物教授も多かったので気合を入れて学びましたが、 一方、 組織論、HR (人材マネジメント)などは当時はあまり人気がありませんでした。しかし、組織論や HR、これらは歳を取るほどジワジワ重要性を増してくるような気がします。若い頃の米国赴任においては、ひとつの製造会社の現場で働く従業員のやる気をいかに引き出すか、そのための変革に色々挑戦しましたが、2 度目の米国赴任 において は南米も含めた米州地区全体の組織強化に向けて経営上層部のローカライゼーションが大きな課題であり、各国の マーケットを一番知る人材に事業拡大を託してゆかねばなりませんでした。日本から出向者は何のために海外に来ているのか、なぜローカルで対応できないのか、ということを明確にする必要がありました。日本人どうしのやり取りは 非常に楽で居心地が良く、現地化は言葉の問題も含めて非常に疲れますが、全拠点における従業員 とのタウンホー ルミーティング、ミドルマネジメントに対するリーダーシップ研修、ケロッグ経営大学院との連携による 経営者教育等を 繰り返し推進し、これをやらねば将来は無いとの認識でした。グローバル化とは、『現地の優秀な人 材をモチベートし て存分に実力を発揮してもらうこと』という私の信念は最初の米国赴任時から一貫して、益々強固 なものになっていました。人と人との部門を超えた密接な情報交換をベースにクロスファンクションで効果的に機能できる、ブラインドス ポットの発生しない緻密な組織、トップダウンだけでなく、日本流のミドルアップダウンマネジメントによるグローバルな 学習組織を実現したいと考えておりました。
米国から帰国直後には、当時の戦略本社としての経営戦略の欠除、及び経営管理(FP&A)機能の杜撰さによる危機的な連結財務状況を目の当たりにして、特に日本における莫大な減損処理とともに、CFOとしてグループ全体の 企業価値再生計画の策定、推進とそれを支える資金調達が急務でした。私が徹底して推進した NTN の抜本的な変革は、(1)全ての顧客を満足させようとする考え方からの脱却による Pricing Power の向上(商品/事業ポートフォリオ改革)、(2)棚卸資産の過大さからの脱却によるCash Conversion Cycleの短縮(生産・物流改革)、(3)社内での 技術蓄積に偏りすぎる自前主義からの脱却による Strategic Partnership の強化(調達改革)、の3 点に集中しました。 この再生計画の本質を各地域がしっかりと納得した上で、各地域ごとにそれぞれの経営環境の変化に迅速に 対応しながら自律的に事業計画が遂行、フォロー、修正されねば成果は見込めず、本社と各地域のコミュニケーションと連携が必要不可欠でありました。そのための共通言語として、資本コストの概念導入による投資の判定基準や 事業価値の評価基準の明確化と徹底をはじめとした企業財務(Corporate Finance)の視点を導入、展開するとともに、バラバラに機能していた本社の財務本部、経営企画部、及び各事業本部の事業企画部という統括部門間のコ ミュニケーションと連携強化、一体化によるグループ全体の CFO 組織としてのFP&A 機能向上を目指しました。毎年、各年度における グループ全体の経営方針徹底のため、社内外にCFO メッセージを発信しながら各地域の経営幹部や株式市場、 金融市場とのコミュニケーションにより企業価値再生に向けた社内の変革推進と社外の信頼獲得を自らの最重要課題と位置付けることで、コロナ禍、半導体不足、ウクライナ情勢、原材料費の高騰という逆風の中において、着実な財務体質の強化と株価の回復を目指しました。経営の厳しい状況とその打開策としての変革の重要性をしっかりとグ ループ全体、特にミドルマネジメント層に納得してもらい、変革に向けて力を発揮してもらうことの重要性と難しさを再認識した CFO としての 3 年間でした。
添付の写真は、生前に父が話していた香川県の『十河城跡』を、この夏に初めて訪れ、戦国時代の武将である十河 一存(かずまさ)と十河存保(まさやす)の墓を参拝したときのものです。今日の日本のリーダーにとって、『武士道』の 精神は非常に重要な意味があると思います。企業経営者は常に内省し、自らに恥じることがないことを確認し、自分の行動や言葉が顧客の不満を引き起こしていないか、従業員に当惑を与えていないかを常に見直す必要があり、こ の内省こそが日本企業の⻑期的な成⻑・発展への道を切り開くものであると私は確信しています。『⻤十河』と恐れ ら れた十河一存が、自らの地位向上や領土拡大よりも、皆が平和に笑い合える国づくりを優先し、今も地元のこの地域で尊敬され愛されているという話を同族会の会⻑からお聞きして、企業経営においても、表面的な世の中の流 行を追うことなく、また見せかけの優しさだけの物言わね上司になることなく、真の『ESG経営』や 『人的資本経営』 を��求することの重要性を再認識させられました。偉大な先祖の逸話を色々と聞かせて頂き、自らの不甲斐無さを恥じるとともに叱咤激励される思いでした。
***** English Translation *****
Waseda Mail Magazine
e-OHNO Mail News issued in August 2023
Essay for the senior section
What I have learned in the trend of globalization
I am Tetsuya Sogo, a 1982 undergraduate (Ozeki lab), and have been entrusted by Professor Ohno to write an essay for the senior section of Waseda Mail Magazine. After graduating from Waseda university, I joined NTN Corporation, headquartered in Osaka, a manufacturer involved in producing and selling bearings and components for automobiles and industrial machinery, where I started to work as an engineer in the manufacturing department. From 2011, I held positions as an executive officer, primarily overseeing NTN Americas region. After working as CFO for three years since 2020, focusing on NTN's business revitalization, I have just retired in 2023 in accordance with the executive retirement age guideline of 63 years old. In this opportunity, I would like to describe what I, as an alumnus who worked for the same Japanese manufacturer for 41 years, have learned and how I have thought about corporate management in the trend of globalization.
At the age of 29, I participated as a member of the launch team for a new factory producing HUB bearings for automobiles in the outskirts of Chicago, USA, serving as a chief engineer. From 1989 to 1996, for a period of 7 and a half years, I experienced my first overseas assignment. While introducing state-of-the-art production facilities and technology from Japan at that time, we struggled with significantly lower productivity compared to the Japanese mother factory. We faced challenges such as low employee skills, high absenteeism, and high turnover rates. In an effort to bring about transformation, I repeatedly experimented with various approaches, reflecting on what constituted the core management issue and what needed to change. Ultimately, I learned that a “highly just evaluation and treatment that resonates with local talent to maximize their motivation” is essential. In other words, “people's behavior changes significantly based on how they are evaluated and treated.” I revamped the vague personnel evaluation, pay and treatment system of that time, objectively and fairly evaluating skills and performance in a way that everyone could agree upon, and clearly linking it to compensation. This led to improved employee motivation, and within a year, the entire factory, which had been in the red, astonishingly turned profitable. This experience made me realize the importance of designing systems that enhance employees' willingness to learn and motivation to improve, more than just providing technical guidance as an engineer. It became the cornerstone of my recognition of the significance of “Learning Organizations”, a concept advocated by Professor Peter Senge of MIT at that time.
In the process of introducing this new employment system, I explained the company's perspective and policies, aligned with our corporate values and vision, through direct dialogue with all employees. I believe that such dialogue was the key to the success that followed. I learned that even if my English was not good, I was able to convey what I wanted to say with passion from my whole body, that I needed English that would move people’s hearts rather than simply fluent English, and that fluent English was meaningless without an open mind and passion for change. Factory workers are especially diverse. Even though they are Americans, not all of them are born and educated in the United States. People from all over the world—Mexico, China, India, Russia, Ethiopia, Vietnam, and so forth—were working together. Therefore, basically, “a-un no kokyu” (communicating and agreeing with each other without exchanging words) does not work as it does in Japan. In Japan, from the time children are in elementary school, their teachers keep telling them to “think from the other person's point of view, and imagine how you would feel if you were in the other person's position”, but this method would not be effective if we were born and raised in a different environment or with a different way of thinking. It is rather dangerous to think that because you feel this way, the other person will feel the same way. Especially for Japanese managers, it was necessary to pay attention to the issue of age discrimination and affirmative action.
At that time, I wanted to learn American management practices while undergoing various trials and errors in the manufacturing field in the United States. From 1994 to 1996, I worked while studying for an MBA at the Kellogg School of Management at Northwestern University on weekends. As an engineer, subjects like strategic theory, finance, and marketing provided a fresh and eye-opening experience for me. The admission interview took place in a dedicated Executive MBA building resembling a top-class hotel. I was courteously guided to an office labeled “Assistant Dean”, where I was welcomed by a lady named Ms. Erica Kantor. Initially, I thought she might be a secretary, but she turned out to be the Assistant Dean. Instead of facing a panel of interviewers and expecting challenging questions, I was offered coffee or tea in a luxurious reception room and told, “I will listen to your story for the next hour.” This unexpected one-on-one interview began as I sipped coffee. This interview was completely different from what I had anticipated, and though I had never experienced such an interview before, in hindsight, I believe that providing you with a certain amount of time to freely express yourself, including how you convey your thoughts, allows various aspects of your personality to emerge. Erica mainly took notes of what I said without asking many questions. However, the idea of conveying one's own thoughts and passion within a limited time frame, such as an hour or even just 90 seconds, to ensure effective communication with the recipient, turned out to be an essential skill for working globally, as I repeatedly experienced during my work at NTN afterwards. Tailoring my way of thinking and approach to the level of my counterpart, making them understand and genuinely agree, and presenting it as a compelling story, are crucial skills for a management professional. Finally, Erica told me, “Officially, the final decision is made by the faculty after document review, but you will most likely pass.” Erica, a slightly older than I and elegant tall woman, gave me these words of encouragement. I named my first daughter, who was born just before I entered the Executive MBA program, “Erica” after her. My first daughter is now a working adult, so my interview with Erica was a long time ago, but it still left a strong impression on me.
After graduating from the Kellogg School of Management, I returned to Japan in 1996. For the 15 years leading up to my second trip to the United States in 2011, I worked in the headquarters' management strategy department, focusing on developing medium-term management plans. During this time, I concentrated particularly on global alliances, cross-border M&A, and engaged in negotiations that involved various forms of intellectual sparring, tactics, and probing for genuine intentions, experiencing negotiations from behind the scenes and oblique perspectives. However, I came to realize that ultimately, the success of alliances hinges on the mutual understanding and trust established with negotiation partners. In the context of medium-term management planning, I learned that it's crucial not only to have competitive strategies and theoretical frameworks, but also to ensure that every department and region is motivated with a sense of conviction. To achieve results, I understood the importance of facilitation. Neglecting this aspect could lead to the headquarters, often perceived by business divisions as merely a department of empty words, being unable to effectively harness both global centripetal and centrifugal forces.
In my second assignment to the United States for seven years from 2011 to 2018 as CEO of NTN Americas Region, I had to make decisions on a daily basis in a cross-cultural environment, especially in the entire Americas region that included South America, where no one knew the correct answer to management questions. I felt that it was very important to have the ability to sense the situation and atmosphere of an organization, which was difficult to express in words, through various interactions. All of the issues that I faced on a daily basis in the field were not something that could be analyzed logically like a computer that finds the correct answer. Rather, I needed to quickly make a better overall decision on the spot, and to do so, I had to polish my ability and sense to accurately perceive fundamental issues, and face-to-face communication was essential in doing so. In the MBA program, subjects such as strategy, marketing, and finance, were very popular, and there were many famous professors, so I put a lot of energy into studying them. On the other hand, subjects such as organizational theory and HR, were not so popular at that time. However, I feel that organizational theory and HR are becoming more and more important as I get older. During my assignment to the United States back when I was young, I challenged myself to make various changes to motivate the employees at a manufacturing company. In my second assignment to the United States, on the other hand, localization of upper management was a major issue to strengthen the organization in the Americas, including South America. So I had to entrust business expansion to the people who knew the markets of each country the best. For the Japanese people on overseas assignment, it is necessary to clarify why things cannot be conducted locally. It is easy and comfortable for Japanese people to communicate with each other, while localization is very tiring due to the language problem among other difficulties, but I repeatedly promoted town hall meetings with employees at all locations, leadership training for middle management, and executive development programs through collaboration with Kellogg School of Management, recognizing that without doing these, there would be no future. My belief that globalization is based on “motivating local talented people to fully demonstrate their abilities” has not changed at all since my first assignment to the United States. I want to realize a global learning organization that can operate effectively cross-functionally based on the close exchange of information between people across departments, a close-knit organization that does not generate any blind spots, by focusing on a middle-up-down management style that is indispensable to resolve the contradictions between ideal and reality in each working area.
Upon returning from the United States, I witnessed a critical consolidated financial situation caused by the lack of strategic management direction from the headquarters at the time, as well as the poor leadership and management of Financial Planning and Analysis (FP&A) functions. Particularly in Japan, along with significant impairment charges, urgent actions were needed as CFO to formulate and drive a group-wide corporate value revitalization scenario, supported by necessary funding. I focused on three main aspects in the comprehensive transformation of NTN: (1) Enhancing “Pricing Power” by moving away from the approach of satisfying all customers (product/business portfolio reform), (2) Shortening the “Cash Conversion Cycle” by departing from excessive inventory (production/logistics reform), and (3) Strengthening “Strategic Partnerships” by moving away from an in-house focused technical accumulation (procurement reform). The essence of this “Revitalization Scenario” required each region's thorough understanding and autonomous execution, adapting rapidly to changes in their respective business environments, necessitating essential communication and coordination between the headquarters and regions. As a common language, the introduction and deployment of Corporate Finance perspectives, including criteria for investment assessment and business valuation through the concept of capital cost, were initiated. On the other hand, we improved collaboration and integration among the disjointed key central divisions, finance headquarters, management strategy department, and each business planning department. The aim of such activities was to enhance the FP&A function of the entire CFO organization globally. In order to enforce group-wide CFO policies, I positioned the communication, while sending my regular CFO messages, with internal and external stakeholders, such as regional executives, stock and financial markets, as crucial for the company's value revitalization. Under tough business situations caused by the COVID-19 pandemic, semiconductor shortages, Ukrainian tensions, and rising raw material costs, I directed efforts towards accelerating the financial and stock price recovery. Over the course of three years as CFO, I came to recognize the importance and challenges of gaining the full understanding and commitment of the entire group, particularly the middle management level, regarding the significance of the tough business conditions, the need for transformation as a solution, and their contribution of effort towards driving the changes.
The attached photo is from my first visit this summer to the “Sogo castle ruins” in Kagawa prefecture, which my father used to talk about before his passing. During this visit, I paid respects at the graves of the samurai lords “Kazumasa Sogo” and “Masayasu Sogo” from the Sengoku period. I believe that the spirit of “Bushido” holds significant importance for today's leaders in Japan. Business executives must constantly introspect, ensuring they have nothing to be ashamed of, reviewing whether their actions and words might evoke customer discontent or cause embarrassment to their employees. This introspection forms the foundation of “Business Ethics” and “Corporate Social Responsibility”, and I firmly believe that it paves the way for the long-term growth and development of Japanese companies. Kazumasa Sogo, who was feared as “Demon Sogo”, prioritized the creation of a country where everyone could laugh together in peace over advancing his own position or expanding his territory. I heard from the chairman of Sogo family association that Kazumasa Sogo is still respected and loved in this local area, and this story reminded me of the importance of pursuing true “ESG management” and “human capital management” in corporate management, without merely following superficial trends of the world, or becoming a good boss who only shows pretended kindness. Listening to various anecdotes of great ancestors, I felt both ashamed of my own shortcomings and motivated by their admonishments.
#tetsuya sogo#十河哲也#CFO of NTN Corporation#CEO of NTN Americas#Waseda Mail Magazine#e-OHNO Mail News#globalization#management#leadership#learning organization
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東京大学は2018年、学内の工学系研究科、新領域創成科学研究科、生産技術研究所の各研究室とファーウェイとの間で共同研究を行うことを検討していた。これらの共同研究が実際に行われたかどうかは、東洋経済では確認できていない。 また7大学(北海道大学、東北大学、東京工業大学、京都大学、大阪大学、慶應義塾大学、早稲田大学)は、個別企業に関する情報開示は控えると回答。「提供元の利益を損なうおそれがある」(京都大学)、「委託者や寄付者の保護の観点」(早稲田大学)などを理由に挙げている。 ただこのうち東京工業大学や慶應義塾大学など複数の大学については、過去の公開資料の中で、ファーウェイとの共同研究や研究に必要な物品の提供などの支援があったことが判明している。 以下の11大学・機関は、ファーウェイから資金を提供されたことはないと回答した。筑波大学、東京医科歯科大学、名古屋大学、豊橋技術科学大学、神戸大学、広島大学、九州大学、熊本大学、奈良先端科学技術大学院大学、自然科学研究機構、高エネルギー加速器研究機構。
東大とファーウェイが「微妙な関係」にある理由 | 通信 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
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中国から“救出”された最初の日本人
「国家安全当局が岩谷氏の滞在するホテルの部屋を捜査したところ、中国の国家機密と関連する資料を発見した」 2019年11月15日午後、北京市中心部の中国外務省で定例記者会見に臨んだ耿爽報道官は、北京訪問中の北海道大学の岩谷將(のぶ)教授が9月8日に国家安全当局に連行された理由について、説明を始めた。 「取り調べを受けた岩谷氏は、以前も中国の秘密資料を大量に収集していたことを供述した。違法をおかした事実関係は明白であり、証拠もしっかりしている。彼の行為は、中国人民共和国の『刑法』と『反スパイ法』に違反している」 こう強調した耿報道官だが、突然声のトーンを下げ、「岩谷氏は罪を認めており、後悔の念も示したことを考慮して、中国は彼を訓戒したうえで保釈を認めた」と述べた。 耿報道官が会見を開く数時間前、岩谷氏は釈放され、日本に戻る飛行機に搭乗した。 中国政府は2015年春から、中国国内で「日本人スパイ狩り」を始めた。これまでに10人以上が拘束され、なかには最高で懲役15年の判決を受けている人もいる。 「後悔の念を示した」ことを理由に釈放され、帰国した岩谷氏は日本政府とメディア、言論人が力を合わせて、中国から“救出”した最初の日本人といえる。
入国して間もなく拘束
中国政治、軍事史の研究者として知られている岩谷氏は、日中戦争史、中華人民共和国建国前の政治史などを専門にしており、かつて防衛省防衛研究所で戦史研究センターの教官、外務省大臣官房国際文化協力室の主任研究官を務めた経歴をもつ。中国政府系シンクタンク・中国社会科学院近代史研究所の招聘で9月3日に北京入りし、同月8日に連行され、釈放されるまで約9週間、拘束された。 帰国した岩谷氏が中国で起きたことの詳細を明らかにしていないため、日中関係者の間で未だにさ���ざまな憶測が飛び交っている。 ある中国情報機関に詳しい共産党関係者は、「岩谷氏が中国に入国して間もなく拘束されたことから、中国の国家安全当局が、まず拘束する方針を固め、社会科学院と連携して岩谷氏を呼び寄せた可能性がある」と推測する。
これのどこが国家機密なのか
中国当局が主張する「国家機密」の詳細は明らかではないが、「岩谷氏はこれまでも、自らの研究テーマである日中戦争など当時の資料を収集するため、中国に渡航したことがあった」と証言する関係者もいる。主に古本業者から購入していたという。 80~100年前の歴史資料が「国家機密」でないことは、国際社会の常識である。中国でも、その年代の資料は基本的に公開されている。しかし中国の治安当局は、拘束の口実として、岩谷氏が手に入れた歴史文献が「国家機密」と主張した可能性もある。
中国当局の逆鱗に触れた?
南京事件の経緯や慰安婦問題など日中戦争当時の出来事について、中国政府と日本の研究者の間で大きな見解の違いがあり、岩谷氏はこれまでに、中国当局の主張を実質的に否定する論考を展開したこともある。一部の関係者の間で、「岩谷氏の研究が中国当局の逆鱗に触れたのではないか」との見方が示されている。 もし岩谷氏の拘束理由が研究内容と関係しているのであれば、日本の中国研究者の学問の自由が侵される由々しき事態といえる。
日本の対中外交の小さな勝利
岩谷氏が2カ月あまりで釈放されたことについて、日中関係者の間で「日本の対中外交の小さな勝利だ」と指摘する声がある。なぜなら、これまでスパイ容疑で拘束された日本人は、ほとんど起訴されているからだ。 岩谷氏のように「違法をおかした事実関係は明白であり、証拠もしっかりしている」事件なら、「数年~10年以上の懲役刑は避けられない」(中国共産党関係者)はずだった。それを中国当局が突然、譲歩したのは、日本メディアがこの問題を大きく伝え、「中国に対する強い姿勢」を示したことによる力が大きいと筆者は考える。
「記事にするな」と外務省が産経新聞記者を恫喝
筆者は産経新聞の北京駐在記者時代の2015年頃から、中国による日本人拘束問題をたびたび紙面や雑誌などで大きく取り上げ、会合などで国会議員に直接訴えたこともあった。 しかし、肝心の日本外務省はこの問題に消極的で、さまざまな形で筆者に圧力を加えたこともあった。「北京と交渉しているから、書かれたらうまくいかなくなる」というのが彼らの言い分で、当初、筆者もそれを信じ、記事を見送ったこともあったが、3年経っても4年経っても一人も救出できずに、中国に拘束される日本人は増えるばかり。邦人を救出しようとしているのではなく、中国を刺激したくないのが外務省関係者の本音であることに気づいた。 今回の岩谷事件について、北京駐在の同僚記者が「拘束された事実」を確認し、記事化する際にも、外務省高官から「絶対に書くな」 「責任をとれるのか」などと恫喝されている。
「知中派」も一斉に抗議
産経新聞はこうした恫喝を無視して、2019年10月19日の朝刊一面トップに「中国、北大教授を拘束 準公務員、スパイ疑いか」との見出しで報じ、大きな反響を呼んだ。 インターネット上では中国を批判する書き込みが殺到し、2020年春に予定されていた習近平国家主席の国賓来日を再考すべきだ、と主張する日本の識者が急増した。 産経新聞が記事を掲載した3日後、天皇陛下の即位式典に出席するために来日した中国の王岐山国家副主席に対し、安倍晋三首相がこの岩谷事件について言及したことも、中国に対する大きな圧力となった。 その後、中国政治や現代中国論が専門の早稲田大学の天児慧名誉教授や、法政大学の菱田雅晴教授など八人が呼びかけ人となり、事件について強い懸念を示す声明を発表。岩谷氏の拘束について、「言葉にしがたい衝撃を受けている。関係当局は拘束の理由など背景を一切明らかにしておらず、理由が不明なままの拘束は国際社会では到底受け入れられない」とし、拘束理由など関連情報の開示を求めた。 また、今回の事件を受けて、日本の中国研究者が恐怖で中国に渡航できなくなる可能性もあるとして、「日中間の学術交流に好ましからざる影響が立ち現れ、日中関係の健全な発展に大きな影を落としている」と強調した。これらの学者は日本で「知中派」と呼ばれる人たちで、彼らが一斉に抗議することは中国にとって大きなインパクトがあった。
新しい日中関係を考える研究者の会が公表したアピール文(スクリーンショット)
手柄がほしい国家安全当局
この声明に対し、中国外務省の報道官は当初、「日本の学者たちは真相を知らないかもしれないし、考え過ぎだ」と応じたが、日本の反発は収まらなかった。 「岩谷氏の拘束は、手柄がほしい国家安全当局の判断とみられる。しかし、反響は予想よりはるかに大きく、このままでは習氏の訪日に大きな影響が出ると判断した中国指導部が、岩谷氏の釈放を指示した可能性がある」と分析する中国の政治学者もいる。 岩谷氏の釈放は、日本政府、メディア、学者らが中国に対し強い姿勢を示したことの成果とともに、習近平訪日前という特別な時期とも関係しているといえる。
それでも情報を隠し続ける外務省
しかし、岩谷氏が釈放されたわずか12日後、別の50代の日本人男性が中国湖南省長沙市で、国内法違反で拘束されていたことが報道によって明らかになった。 この男性は介護関係の仕事をしていたといい、拘束された時期は岩谷氏よりも2カ月早く、2019年の7月だった。中国の治安当局は日本人を拘束したあと、日本大使館に伝えなければならない取り決めがある。つまり、この男性の拘束を外務省は認識しており、国民に隠していたことになる。 これまで中国当局によってスパイ容疑で拘束された日本人はその全てがメディア取材によって明らかにされたものであり、外務省が公表した例は一度もない。 戦後、周辺国との武力紛争を極力避けてきた日本が、中国の国家安全に危害を加える工作員を中国に派遣するなど常識的に考えにくい。しかも1人や2人ではなく、わずか数年で10人以上も同じような容疑で拘束されている。明らかに異常な状態といえる。 しかし外務省は邦人保護に関し、ほとんど事実関係を明らかにしない。約1年前に、大手商社の伊藤忠商事に勤務する40代の日本人男性社員が中国広東省の国家安全警察に拘束されたことが判明した時も、外務省はメディアの取材に対し冷淡な対応を貫いた。日本政府は拘束情報を約1年前から把握しておきながら、報道されるまでこの事実を公表しなかった。 その後、菅義偉官房長官が定例記者会見でようやく事実関係を認め、「邦人保護の観点からできる限りの支援をしている」と強調したが、男性の氏名や容疑、拘束された当時の状況など詳細は明らかにしなかった。
拘束、起訴された日本人
この他、2015年から2018年にかけて、中国でスパイ容疑などをかけられ拘束、起訴された日本人は、以下の9人であることがメディア報道によって判明している(年齢はいずれも当時)。 1、愛知県出身の会社員の男性、54歳。2015年、旅先の浙江省で拘束され、軍事施設や公船を撮影したとされる。2018年に懲役12年の実刑判決。 2、神奈川県在住のパチンコ店店員の男性、58歳。元脱北者で、北朝鮮にいる妹を救出しようとして日中間を往復していた2015年に遼寧省の中朝国境近くで拘束され、2018年に懲役5年の実刑判決。 3、東京都の日本語学校幹部の女性、58歳。元中国人で、中国の機密情報を日本の政府機関に提供した容疑で拘束され、2018年に懲役6年の実刑判決。 4、札幌市の団体職員の男性、73歳。元日本の大手航空会社社員で、定年退職後、中国と経済交流を促進する団体を立ち上げた。2018年にスパイ容疑で懲役12年の実刑判決。 5、東京都の日中友好団体幹部、男性、61歳。元日本社会党職員、中国との交流などを担当し、中国の砂漠に植樹するプロジェクトなどに参加。2017年にスパイ罪で起訴。2019年に懲役六年の実刑判決。 6、千葉県の地質調査会社社員、男性、70代。中国の業者の依頼を受けて温泉を探すために訪中したが、国家機密探知罪で逮捕。2018年5月に起訴。2019年に懲役5年6カ月の実刑判決。 7、千葉県の地質調査会社社員、男性、 50代。中国の業者の依頼を受けて温泉を探すために訪中したが、国家機密探知罪で逮捕、2018年6月に起訴。 2019年に懲役15年の実刑判決。 8、出身地不明の会社代表の男性、60代。遼寧省で拘束され、2018年3月にスパイ罪で起訴。2019年に懲役5年6カ月の実刑判決。 9、大手商社、伊藤忠の男性社員、40代。 2018年2月に広東省で国家安全当局に拘束され、同6月に起訴。2019年に懲役3年の実刑判決。 この他、メディアに報じられていない拘束された日本人も数人いると噂されている。
起訴された日本人全員が冤罪の可能性大
拘束、起訴された日本人の職業を見ると、中小企業の会社員、日本語教師、パチンコ店のアルバイト、中国の砂漠で植林プロジェクトを推進する「日中友好人士」などが含まれている。いずれも専門的なトレーニングを受けた情報分野のプロではない。同時に、中国の国家機密を探れる社会的立場にもない。 そもそも日本の情報機関は、国内の過激派の動きを監視することを仕事の中心にしており、海外に工作員を送る法的根拠もなければ予算もない。先述した伊藤忠商事の社員を含めて、起訴された9人全員が冤罪である可能性は極めて高い。
それでも犯罪者扱いする日本政府
冷戦時代、米国とソ連の間で拘束した相手側の諜報要員を同時に釈放する「スパイ交換」が行われていた。日本人が中国でスパイ容疑をかけられて拘束されたなら、日本政府はすぐに国内で活動する同じ数の中国工作員を拘束し、交換交渉を始めるべきだが、日本政府にそういうことを実施��る気配は全くみられない。 筆者が北京に駐在していたとき、中国にスパイとして拘束された日本人の家族や周辺者の取材をしたことがあるが、複数の関係者から「冤罪なのに、外務省と大使館はなにもしてくれない」と言われたことがあった。 日本人の拘束が判明するたびに、菅官房長官は「(日本政府は)できるだけの支援をしている」と記者会見で述べているが、北京の大使館関係者によると、菅氏が言う支援は釈放に向ける外交努力ではなく、あくまでも本人の要望にしたがって弁護士を斡旋したり、漫画やカップラーメンを差し入れしたりするなど、いわば詐欺や傷害容疑などの一般刑事犯と同じ人道的な支援だ。日本政府も、彼らを“犯罪者扱い”しているという。
抗議も釈放要求も一切しない
北朝鮮による日本人拉致問題に長年、取り組んできた松原仁衆議院議員は2019年2月27日の衆議院予算委員会の分科会で、中国による邦人拘束問題を取り上げ、政府の見解を問いただした。 衆議院同分科会の議事録によれば、松原氏の「政府はなぜ邦人拘束という事実を公表しなかったのか」との質問に対し、外務省の垂秀夫領事局長(当時)は「政府としては、ご家族への配慮、人定事項を含めたなんらかの確認や公表を行うことにより、当該邦人および同様に拘束されている他の邦人に対する中国当局の今後の中国側司法プロセスにおける取り扱いなどにおいて、不利益な影響を生じさせる可能性が排除できなかったことから、対外公表をすることは差し控えたものでございます」と答弁した。 松原氏はさらに、「日本政府は中国に対し抗議、または釈放要求をした事実はあるか」と質問したのに対し、垂氏は「日中首脳会談、日中外相会談を含めてあらゆるレベルを通じ、厳正に申し入れ、前向きな対応を求めているところでございます」と回答した。 垂氏の答弁から、日本政府はこれまでに中国と外交交渉で、邦人拘束の件について「前向きの対応」を求めただけで、抗議したことも、釈放要求もしたことがないことが明らかになった。
邦人拘束をなぜ公表しないのか
また、邦人拘束を外務省が公表しなかったことについて、垂氏は「被害者への不利益な影響を避けるために」としているが、残念ながら、事なかれ主義の外務省の言い訳にしか聞こえない。 伊藤忠の社員は1年以上、温泉業者らほかの拘束者は、長ければ約4年も拘束されている。すでに十分な不利益を蒙っている。人権侵害が激しいといわれる中国の刑務所、留置場に未だ日本人が捕われている責任は外務省、そして日本政府にある。 対中交渉がうまくいかなければその事実を公開し、中国当局による人権侵害の事案として国際社会に訴えるべきだ。それが中国への圧力になり、邦人の救出につながる可能性もあるが、自らの仕事を増やしたくないのか、外務省と日本政府には、こうした発想がないようだ。
ファーウェイ創業者の長女を拘束したカナダ
足首にはGPS付きの追跡装置がつけられている
外務省や日本政府の邦人を守る姿勢は、国際社会の基準からみれば明らかに不十分だ。日本と同じく、中国に複数の自国民を拘束されたカナダ政府は中国に対して毅然とした態度を取り、国際社会の協力を積極的に求めている。 2018年12月、カナダは中国の大手IT企業、華為技術(ファーウェイ)創業者の長女で同社副会長の孟晩舟氏を拘束した。孟氏は米国の対イラン制裁回避に関連する不正行為の疑いがあったとして、米政府の要請を受けたカナダが孟氏の拘束に踏み切った。 これに対して、中国の外務省はすぐさま反応し、米国とカナダに猛抗議、釈放要求を繰り返した。中国外務省の王毅外相は全国人民代表大会中の3月8日、記者会見して華為事件に言及し、孟氏の拘束事件とその後に起きた一連の華為排除の動きについて、「意図的な政治的抑圧であり、われわれは中国企業と市民の合法的権益を断固守る」と強調した。
中国の激しい報復、カナダ人を次々に拘束
この事件の背景には米中のハイテク分野の主権権争いも絡んでいるが、ある意味で、中国にとっては「外国に拘束された自国民を保護する事案」でもある。その後、中国当局の激しい報復行為は国際社会を驚かせた。 孟氏拘束後、中国はすぐに中国国内にいる2人のカナダ人を「国家安全に危険を与えた」などの容疑で拘束。その後も次々とカナダ人を拘束し、中国の地方都市の英語学校で教える若い女性を含めて、わずか2カ月で計13人のカナダ人を拘束した。その後、5人を釈放したが、残り8人はスパイ容疑で取り調べを続けた。 中国当局による一連のカナダ人拘束は、カナダ政府に対し、孟晩舟氏の身柄を米国側に渡さないように牽制するためと言われている。
屈しなかったカナダ
しかし、カナダは中国に屈しなかった。当初、カナダ人2人の拘束が判明すると、フリーランド外相はすぐに「中国によるカナダ人の恣意的拘束を深く懸念している」との声明を出し、即刻釈放を求めた。 その後、ほかにも複数のカナダ人が中国に拘束されていることが次々とわかり、同外相はさらに「中国側がカナダ国民に対して取った行動は、すべての国にとっての脅威だ」との声明を発表し、厳しい言葉で中国を非難した。 北京の駐中国カナダ大使も拘束者と面会するなど、国民を守る決意を表明した。中国に拘束された自国民の救出はいま、カナダ政府の最も重要な外交課題の一つになっている。 こうした中国に対するカナダ政府の強い態度は、複数の国、国際組織、人権団体の支持を受けており、拘束カナダ人を支援する輪は、すでに国際社会で広がっている。
これぞ中国の「人質外交」
米国国務省は2019年1月、一連のカナダ人拘束事件を踏まえて、米国人が中国に渡航する場合、中国当局による「恣意的な法執行」に対する警戒を呼びかけ、渡航危険度について、4段階のうち下から2番目の「一層の注意」に据え置かれて、中国へ圧力をかけた。 中国当局は「拘束した8人のカナダ人」について、スパイなど国家安全を脅かす疑いがあると説明しているが、中国から遠く離れ、人口も少ないカナダが地政学的に中国を仮想敵として見ているとは思えない。常識的に考えれば、カナダが大量の工作員を中国に送り込むはずがない。 中国は一連のカナダ人拘束を通じて、外交カードとしてカナダを牽制し、孟晩舟氏の身柄を米国に引き渡すことを阻止する狙いがある。いわば、人質をとって相手に圧力を加える「人質外交」である。 2010年、尖閣諸島海域で海上保安庁の巡視船に体当たりした中国漁船の船長を日本側が逮捕すると、中国は即座に「河北省の軍事施設を撮影した」という容疑で日本の建設会社フジタの社員を拘束。日本に対し、「スパイ罪で起訴すれば死刑もあり得る」と脅して、船長の釈放を強く求めた。当時の民主党政権は中国の要求に屈し、結果としてフジタの社員たちも釈放された。 一方、今回、カナダ当局は孟晩舟氏の釈放になかなか応じないため、中国とカナダの対立の構図は今後も長期化する可能性もある。
習近平が恐れていること
また、中国当局による外国人拘束は、国内の締め付けを図る思惑もあるとみられる。中華民族の偉大なる復興などナショナリズムを煽るスローガンを掲げる習近平政権は、外国の価値観などが中国国内に入るのを阻止することに力を入れている。中国人と外国人が接触することを嫌い、外国の民間人に“スパイ”のレッテルを貼って摘発することが、ここ数年、急増している。
日本が世界の笑いものに
筆者の北京駐在時代も、複数の北京在住の外国人知人が“スパイ”として拘束された。中国人からもらった重要でない会議の資料をいきなり「国家秘密」だと言われ、海辺で撮った写真にたまたま軍艦が写っていたことなどを理由に起訴された人もいる。 筆者は当時、取材で中国国内出張が多かったが、スーツケースを持たず、小さな手荷物で飛行機に乗ることを徹していた。荷物を空港に預ければ、自分の知らないうちに麻薬や政府の機密文書を入れられ、罪をでっち上げられることを警戒したためだ。 今後、トランプ政権下で米中関係が深刻化する可能性があり、米国と関係が深く、外交の脅しに屈しやすい日本は、中国にとって国内の引き締めを図るうえでも、人質外交を展開するうえでも餌食になりやすい。 今回の岩谷氏の釈放が、日本の対中外交の小さな勝利といえるなら、この経験を活かして情報を公開し、強い姿勢を継続すべきだと考える。主権国家として自国民を保護する姿勢を見せてほしい。それをしなければ、日本は世界中の笑いものになるだけでなく、ますます中国から軽視され、在中日本人はこれからも拘束され続けるだろう。(初出:月刊『Hanada』2020年3月号)
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日本の輸出管理の運用変更を輸出規制と呼び、やめさせようと呼びかけている人のリストがこちらになります
呼びかけ人
<呼びかけ>(*は世話人) 2019年7月29日 現在78名
青木有加(弁護士)
秋林こずえ(同志社大学教授)
浅井基文(元外務省職員)
阿部浩己(明治学院大学教授)
庵逧由香(立命館大学教授)
石川亮太(立命館大学教員)
石坂浩一(立教大学教員)*
岩崎稔(東京外国語大学教授)
殷勇基(弁護士)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)*
内田雅敏(弁護士)*
内橋克人(評論家)
梅林宏道(ピースデポ特別顧問)
大沢真理(元東京大学教授)
太田修(同志社大学教授)
大森典子(弁護士)
岡田充(共同通信客員論説委員)*
岡本厚(元「世界」編集長)*
岡野八代(同志社大学教員)
荻野富士夫(小樽商科大学名誉教授)
小田川興(元朝日新聞ソウル支局長)
大貫康雄(元NHKヨーロッパ総局長)
勝守真(元秋田大学教員)
勝村誠 (立命館大学教授)
桂島宣弘(立命館大学名誉教授)
金子勝(慶応大学名誉教授)
我部政明(琉球大学教授)
鎌田慧(作家)
香山リカ(精神科医)
川上詩朗(弁護士)
川崎哲(ピースボート共同代表)
小林久公(強制動員真相究明ネットワーク事務局次長)
小林知子(福岡教育大学教員)
小森陽一(東京大学名誉教授)
在間秀和(弁護士)
佐川亜紀(詩人)
佐藤学(学習院大学特任教授)
佐藤学(沖縄国際大学教授)
佐藤久(翻訳家)
佐野通夫(こども教育宝仙大学教員)
島袋純(琉球大学教授)
宋 基燦(立命館大学准教授)
高田健(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会共同代表)
髙村竜平(秋田大学教育文化学部)
高橋哲哉(東京大学教授)
田島泰彦(早稲田大学非常勤講師、元上智大学教授)
田中宏(一橋大学名誉教授)*
高嶺朝一(琉球新報元社長)
谷口誠(元国連大使)
外村大(東京大学教授)
中島岳志(東京工業大学教授)
永田浩三(武蔵大学教授)
中野晃一(上智大学教授)
成田龍一(日本女子大学教授)
西谷修(哲学者)
波佐場清(立命館大学コリア研究センター上席研究員)
花房恵美子(関釜裁判支援の会)
花房敏雄(関釜裁判支援の会元事務局長)
羽場久美子(青山学院大学教授)
平野伸人(平和活動支援センター所長)
広渡清吾(東京大学名誉教授)
飛田雄一(神戸学生青年センター館長)
藤石貴代(新潟大学)
古川美佳(朝鮮美術文化研究者)
星川淳(作家・翻訳家)
星野英一(琉球大学名誉教授)
布袋敏博(早稲田大学教授・朝鮮文学研究)
前田哲男(評論家)
三浦まり(上智大学教授)
三島憲一(大阪大学名誉教授)
美根慶樹(元日朝国交正常化交渉日本政府代表)
宮内勝典(作家)
矢野秀喜(朝鮮人強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動事務局長)
山口二郎(法政大学教授)
山田貴夫(フェリス女学院大学・法政大学非常勤講師、ヘイトスピーチを許さないかわさき市民ネットワーク事務局)
山本晴太(弁護士)
和田春樹(東京大学名誉教授)*
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)6月16日(木曜日)
通巻第7370号
孔子の思想を教えるのならOKだが、実際は中国共産党の宣伝機関だ
米・豪・加につづき、英国もスパイ機関「孔子学院」の閉鎖を検討
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トランプ前政権は全米各地の大學にある孔子学院の実態を調べ、いくつかを閉鎖処分とした。
中国の非営利教育機構「孔子学院」は全世界に1500校!
名目は中国語教育とされたが実態は中国の「プロパガンダ機関」だ。筆者が驚いたのは南太平洋のフィジーの首都スバのサウスパシフィック大学にも孔子学院があったこと。ウラジオストックでは日本文化センターの隣が孔子学院だった。
ポンペオ��国務長官は2020年8月に演説し、「孔子学院は中国共産党による世界規模のプロパガンダ工作に使われている」と断定した。
そのうえで、米国内の学院を統括するワシントンの「孔子学院米国センター」を大使館や領事館と同様の外国公館に指定した。同センターに米国内の人事や保有資産を米政府に報告することを義務付けたのも、孔子学院の政治宣伝活動の実態を把握するためだった。また米国の小中校や大学などの教育機関が孔子学院と契約や提携した場合は報告を義務付ける行政命令をだした。
バイデン政権も孔子学院に厳しい対応を取る姿勢は前政権を継承している。
バーンズCIA長官は「孔子学院は本物のリスクだ」と指摘し、教育機関に「厳重な警戒」を要請した。
同様な措置はカナダ、豪でもとられ、両国ではいくつかの孔子学院を閉鎖した。
英国保守党の議員たちも行動にでた。孔子学院の資金源、言論の自由と学問の自由の問題を提案し、その理由を、「孔子学院が英国を攻撃するツールとして利用されている」からだとした。
英国政府は「中国と英国は事実上の戦争状態である」と説明し、資金源の明確化など法案を準備している。
保守党のアリシア・カーンズ議員らは、「中国共産党は英国の孔子学院が大学キャンパスでの言論と思想の自由を抑圧する懸念がある」と警告した。
保守党のイアン・スミス議員は、孔子学院は学術機関ではなく、隠された目的を持つ機関であると述べた。「(孔子学院の目的は)中国人学生や他の学生を威嚇し、英国の大学で勉強している中国人学生の行動を中国に報告することだ」。
孔子学院の教師は、台湾、チベットなどの政治問題について話さないよう生徒に警告した。英国には30の孔子学院があり、世界で最初のオンライン孔子学院もある。2015年から2024年の間に英国政府が北京語を教えるため2700万ポンドの資金のほぼ全額が孔子学院に振り向けられた。
日本で孔子学院が設置されている大學は以下の十五校だ。
立命館大学、桜美林大学、北陸大学、愛知大学、札幌大学、立命館アジア太平洋大学、兵庫医科大学、早稲田大学、岡山商科大学、大阪産業大学、福山大学、工学院大学、関西外国語大学、武蔵野大学、山梨学院大学(なかでも中国人留学生が多いのは立命館大学、早稲田大学である)。
日本では孔子学院の実態について、まだ真剣な政治課題になっていない。大學は税金により成り立っているのだから、敵性国家の宣伝機関を「知性の府」(?)に設置させたこと自体が問題である。
中国人留学生の野放図な受け入れ、スパイとおぼしき留学生への監視なし、日本政府から奨学金を受け取り、授業料免除とは、なんと日本は寛大且つお人好しなのか。中国にとって笑いが止まらないだろう。
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