#小田急新5000形
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伊勢原10号踏切 夕景 小田急3000形 小田急ロマンスカーGSE 小田急新5000形
X-T2
2020年2月 撮影
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シベリアの「巨大な穴」が急速に広がっている。温暖化を加速させる可能性も 2024.10.24 14:35Business Insider author Morgan McFall-Johnsen (翻訳:仲田文子、編集:井上俊彦) X
シベリアの「巨大な穴」が急速に広がっている。温暖化を加速させる可能性も 5月の衛星データに基づくグーグル・アースに表示された「バタガイ・クレーター」。 Photo: Google, Airbus
BUSINESS INSIDER 2024年9月8日掲載の記事より転載
・衛星���像によって、シベリアにできた巨大な穴が急速に拡大していることが示された。
・「バタガイのメガスランプ」は北極の気温上昇にともない、凍土が融けて形成された。
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巨大な穴がシベリアの陸地を切り開いている。宇宙から撮影した衛星画像によって、それが急速に成長していることが示されている。
「バタガイ・クレーター(Batagay crator)」と呼ばれるその穴の形は、エイやカブトガニ、巨大なオタマジャクシに似ている。1965年に撮影され、その後、機密解除された衛星画像では、確認するのが困難なほど小さな穴だった。
だが今では、急峻な崖のある大きな裂け目となり、宇宙からでももはっきりと見えるようになっている。
アメリカ地質調査所によると、1991年から2018年の間に穴の大きさは3倍になった。
1_bhole 1965年に撮影された衛星画像は、「バタガイ・クレーター」が広がりはじめた当初の様子を捉えている。 Corona Satellite/USGS 2_bhole 1999年(左)と2017年(右)の衛星画像は、バタガイ・クレーターの成長(そして衛星の撮影機能向上)を示している。 NASA Earth Observatory/Jesse Allen/Landsat data from the US Geological Survey 「バタガイカ」や「地獄の入り口」と呼ばれることもあるバタガイ・クレーターは、地球全体に影響を及ぼす重大な問題を象徴しており、その問題はしばしば目に見えないことがある。
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シベリアにあるこの穴は何なのか 北極圏は地球の他の地域よりも急速に温暖化が進んでおり、以前は永久に凍っていると考えられていた「永久凍土」までもが急速に融解している。
バタガイ・クレーターは、実際にはクレーターではない。世界最大の「後退的融解スランプ」と呼ばれる穴で、永久凍土が融解することで地面が崩れ、周囲の土がその穴に滑り込んで地滑りを引き起こすことで���成される。
北極圏には何千もの融解スランプがある。しかし、バタガイ・クレーターはその巨大さからメガスランプと呼ばれるようになった。バタガイという名は、近郊の町の名前にちなんでいる。
3_bhole ドローンで撮影したバタガイ・メガスランプのふち。 Reuters TV セントルイス・ワシントン大学の地球物理学者、ロジャー・ミカエリデス(Roger Michaelides)がBusiness Insiderにこう語っている。
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「永久凍土は、最もフォトジェニックな被写体というわけではない。というのもほとんどが地下の凍った土壌であり、このメガスランプのように何らかの方法で露出しない限り、見られないからだ」
だからこそ、バタガイ・クレーターは有名になり、未来を予兆するものだと考えられている。
地球の未来の解読に、バタガイ・クレーターが役立つかもしれない 4_bhole 2020年に撮影されたバタガイ・クレーターの近赤外線画像。 contains modified Copernicus Sentinel data (2020), processed by ESA 永久凍土が融解すると、何世紀にもわたって凍りついていた動植物の分解が始まり、二酸化炭素とメタンが大気中に放出される。
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これらは強力な温暖化ガスであり、気温上昇をますます進行させ、永久凍土の融解を加速させる。
この悪循環は深刻な影響を及ぼすだろう。永久凍土は北半球の陸地の15%を覆っており、大気中の2倍の二酸化炭素を含んでいるからだ。
ある研究によると、産業界や各国政府が温暖化ガス排出量を積極的に抑制し、気温上昇を抑えなければ、永久凍土の融解により2100年までに排出される温暖化ガスは、大規模な工業国と同じ量になると推定されている。
これは欲しい!最新ルンバは充電ステーションがすごかった これは欲しい!最新ルンバは充電ステーションがすごかった Sponsored by アイロボットジャパン合同会社 「このフィードバックループや、それがどのように作用するのかについては、わからないことが多い。しかし、地質学的に非常に速い時間スケールで気候システムに極めて大きな変化が起きる可能性がある」とミカエリデスは述べている。
つまり、永久凍土の融解は、気候危機を急速に悪化させる可能性があるということだ。だがそのプロセスについては解明されていない。バタガイ・クレーターのような極限の環境を研究することで、永久凍土の融解を理解し、将来を見通す手がかりが得られるだろう。
衛星画像とドローンのデータを用いてバタガイ・クレーターの3Dモデルを構築し、その拡大速度を計算した研究論文が、2024年6月15日付で『Geomorphology』に掲載された。
研究チームは、バタガイ・クレーターで融解した氷と永久凍土の量が、ギザのピラミッド約14個分に相当し、クレーターの体積が��年約100万立方メ��トル増加していることを明らかにした。
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「これらの数値は本当に驚くべきものだ」と、論文の筆頭著者であるロモノーソフ・モスクワ州立大学のアレクサンダー・キズヤコフ(Alexander Kizyakov)が、Business Insiderに宛てたメールに記している。
「我々の研究によって、永久凍土の融解がいかに早く進むかということが示された」
研究チームは、バタガイ・クレーターが毎年約4000トンから5000トンの二酸化炭素を放出していることも計算で明らかにした。これは、アメリカの1700から2100の世帯がエネルギーを使用することで排出される二酸化炭素の量に相当する。
ミカエリデスは、これらの数値には驚いていないものの、将来的な永久凍土の融解や排出のモデル作成に役立つだろうと考えている。
いいロボット掃除機は、裏面を見るとだいたいわかる いいロボット掃除機は、裏面を見るとだいたいわかる Sponsored by Roborock 「バタガイカを調査することで、これが時間の経過とともにどのように変化するのかということだけでなく、北極圏にある似たような地形がどのように発達していくのかなど、さまざまなことが分かるようになるだろう。その地形のサイズがバタガイカの10分の1や100分の1であったとしても、物理的な仕組みは基本的に同じなのだから」
Photo: Google, Airbus
(シベリアの「巨大な穴」が急速に広がっている。温暖化を加速させる可能性も | ギズモード・ジャパンから)
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#あの保存車両を撮る No.23
辻堂海浜公園 小田急2600形クハ2658
すごかった,推しの話
特急電車より通勤電車が好き.通勤電車しか来ない路線に住んでいると,憧れより馴染み深さに魅力を感じていた.近くを走る小田急ではRSEやEXEといった新たな時代を予感させるロマンスカーより,旧来の田文字型の二段窓に豚鼻ライトを付けた小田急顔と言われる5000形や2600形が昔から好きだった. 小田急顔は既に引退していて,身近なところだと辻堂に保存されている2600形だけだ.辻堂海浜公園の交通公園に保存されていて,子どもたちの遊び場になっている.車体の整備が行われたのかクリーム色に青い帯が綺麗になっている.ただ片側だけやって終わったのか,反対側の側面は今も大きな錆びがあり,過酷な環境を物語る. それでもあの豚鼻ライトの顔の車両が今も残る.子どもたちにとってこの公園でしか見られない車両.でもかつてはこの車両が凄かったんだぞ,そんな自慢をつい語ってしまいそうになる.そんな話が出てくるのって,もしかしてどんどんおじさんになっているからなのか.
辻堂海浜公園交通公園 神奈川県藤沢市辻堂西海岸3-2 ◆休館日 月曜日 ◆最寄り駅 JR東日本東海道線 辻堂
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小田急2024年投資計画 5000形10両2本新造 8000形置き換え用 https://www.odakyu.jp/news/b4fuqs0000002lwo-att/b4fuqs0000002lwv.pdf
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『少女仮面』ビジュアル解禁
3月上演『少女仮面』ビジュアルを解禁します。チラシも順次みなさまにお届けしてまいりますので、是非お手にとってご覧ください。
また、美術家の浅野友理子さん(https://www.asanoyuriko.com/)の絵画提供という形での作品参加が決定しました。ぜひ注目ください。 【チケット発売】 1月29日(日)午前9:00~ 以下専用フォームよりお申し込みください。 https://www.quartet-online.net/ticket/syoujyo_kamen
デザイン:石原絵梨
ゲッコーパレード出張公演 劇場Ⅱ 『少女仮面』 作:唐十郎 演出:黒田瑞仁 日程:2023年3月16-19日 会場:下北沢OFF・OFFシアター https://geckoparade.com/whats-on 主宰・出演 崎田ゆかり 出演 永濱佑子 林純平 小川哲也(平泳ぎ本店) ナオ フクモト 石田夏希 長順平 平野光代 佐藤冴太郎 衣装 YUMIKA MORI 照明 鈴木麻友 音楽・音響 富山雅之 劇中歌作曲 小室等 絵画 浅野友理子 舞台監督 中野雄斗(ステージワークURAK) 当日運営 加藤じゅんこ(ジエン社) デザイン 石原絵梨 【日時】 2023年3月 16日(木)19:30 17日(金)14:00 / 19:30 18日(土)14:00 / 19:00 19日(日)14:00 ※開場は開演の30分前です。 ※写真・映像撮影が入る回がございます。あらかじめご了承ください。 【会場】 下北沢OFF・OFF・シアター 「下北沢駅」京王井の頭線中央口から徒歩3分 小田急線東口から徒歩3分 〒155-0031 東京都世田谷区北沢2-11-8 TAROビル3F TEL:03-34-24-3755 【料金】 一般 3,500円 プチ・パトロンチケット5000円 ※1 U24 2,500円 ※2 蕨市民 1,000円※2 ※1 特典はありません。このチケットのご購入が、団体の継続的な活動につながります。ぜひもう一押し、応援ください。 ※2 「U24」「蕨市民」の方は、身分証明書をご提示ください。 【チケット発売】 1月29日(日)午前9:00~ 以下専用フォームよりお申し込みください。 https://www.quartet-online.net/ticket/syoujyo_kamen 【お問い合わせ・詳細】 電話:070-3822-1256(当日問合せ) メール [email protected] ウェブ https://geckoparade.com/ Twitter @geckoparade 主催・企画・制作 ゲッコーパレード 後援 蕨市 協力 M.M.P 助成 芸術文化振興基金助成事業 感染症対策について
出演者・スタッフの検温や体調確認を日々行い、新型コロナウイルス感染症対策に努めております。会場内ではマスクの正しい着用や他者と距離を保つなど、感染症対策にご協力お願いいたします。37.5℃以上の発熱や、ウイルス感染の症状がある方はご入場をお断りする場合がございます。詳しい感染症対策については集団ウェブサイトをご確認ください。
チラシ折り込みについて
他団体さまのチラシの折り込みを受け入れています。 ご希望の方はこちらのフォームよりお申し込みください。追って担当者よりご連絡いたします。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfBC13cL6qeVWCaOzgLAwBNi_rEhkG3NCic4Dpd73WrUii4Ag/viewform
��演劇やダンス、美術などジャンルは問いません。 ・不特定多数の接触を避けるため、折り込み作業はこちらで行います。 ・3月14日(火)または15日(水)に持ち込みまたは劇場に郵送をお願いします。 ・300部またはそれ以下のご用意できる部数をお渡しください。
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京王電鉄のロマンスカーが,改良した座席を搭載して増備されるというニュースです。 着席による快適乗車には高いニーズがありますね。最近ではJR東日本は中距離列車にグリーン車を連結するようになりました。それに対して私鉄においては進行方向を向いて座れるクロスシートを備えたロマンスカーを活用し,乗車に特急券の必要な列車を走らせる鉄道会社が増えています。元々そうした有料特急向けの車両を持っていた東武・西武・小田急・京成・京急などの他,今まではそうした車両を持っていなかった京王・東急などにもロマンスカーが導入されるようになりました。そうした新しく導入されたロマンスカーの多くは特急専用ではなく,90°回転させることで通常の通勤用車両と同じくベンチのように長いロングシートにも出来る座席を搭載していますね。これを最初に本格的に導入したのは関西私鉄の近鉄で,同社ではそうした座席を「L/C腰掛」,またそうした座席の車両を「L/Cカー」と呼びました。僕もその呼び方に馴染んでいるので,以下,別会社の座席・車両をも同じ名前で呼ばせて頂きます。 この「L/Cカー」というのは特急列車としてもそれ以外の列車としても活用出来るので,鉄道会社にとっても使いでが良いようです。「L/Cカー」を最初に本格導入した近鉄もそうですが,東武・西武・京急など元々ロマンスカーを持っている鉄道事業者も「L/C腰掛」を持つ車両を導入しています。最近では昔だと考えられなかった「地下鉄への有料特急乗入」も行われるようになりましたが,東京メトロ千代田線に本格的なロマンスカーを直通させている小田急を除き,そうした列車には「L/Cカー」を宛てるのが一般的です。但し,この「L/C腰掛」にはこれまでリクライニング機能がありませんでした。元々のロマンスカーにもリクライニング機能の無い京急やそれまでロマンスカー自体の無かった会社においてはあまり問題にならないかもしれませんが,それ以外の会社においては通常のロマンスカーに比べて見劣りする着席サービスしか提供出来ていなかったと言えるでしょう。僕には技術的なことは判りませんが「やはり『L/C腰掛』にリクライニング機能を持たせることは無理なのかな」と思っておりました。 そんなわけで今回「京王電鉄が令和4年度にリクライニング可能な『L/Cカー』を導入する」と聞いて,僕は予想を裏切られた心地良い敗北感を味わっています(◍•ᴗ•◍) 京王は上述の「それまでロマンスカー自体の無かった会社」ですから「L/C腰掛」を持つロマンスカーが導入されただけでも大きなサービス改善だったのですが,同社はそれに満足せず更なるサービス向上を実現させようとしているわけですね。 こうした優れた座席が開発されたのですから,是非各鉄道会社においてもこれを積極的に導入して欲しいと願うところです。無論,新車をガンガン導入せよというのは無理な要求ですが,座席をこの「L/C腰掛」に取り換えるだけで既存車両をロマンスカーに改造することが出来てしまいます。僕としては大都市圏への導入を望むのは勿論のこと,むしろ郊外路線や地方の閑散線区などにこそ導入して欲しいと思います。「有料特急やグリーン車はクロスシート,鈍行の普通車はロングシート」という使い分けからも明らかなとおり,クロスシートのほうがより快適で高級とされていますす。実際,列車内においてたとえば飲食をしようと思ってもロングシートでは困難ですが,クロスシートであればそれも問題無く可能ですね。無論,そうした路線でも通勤通学時間は混雑するので全列車をロマンスシートにすることなどは不可能ですし,また「ロマンスカーと通勤列車用車両の両方を配備する」などというのは財政的にも無理なことですが,この「L/Cカー」であれば「ラッシュ時には通勤列車に,それ以外の時間帯はロマンスカーに」と自在に使い分けることが可能です。鉄道の利用を促進するには安全・便利・快適に尽きますが,郊外路線や閑散線区で「ラッシュ時以外は普通列車でもロマンスカーに乗れる」というのは,そのうちの「快適」の程度を大きく高めることになるでしょう。 唯一指摘しておきたいのは,乗客が任意に「L/C腰掛」の向きを変えられるようにする必要もあるということです。たとえば4人組などであれば座席を回転させて向き合う形にして乗車したいでしょう。しかしそれはさして難しいこととは思えません。もともと「L/C腰掛」は回転出来るように設計されているのだし,実際にリクライニングしない従来型の座席における事例ですが,近鉄や東武の車両はそれにも対応しています。 このリクライニング機能を備えた「L/C腰掛」が各地の鉄道車両に採用されて乗客の快適性が高まること,特にローカル線においては普通列車にも「L/Cカー」を投入することでサービスを大幅に向上させることを願って止まないところです♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
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1 . 在西伯利亚熊前偃旗息鼓的民族外宣
不知道从何时开始,中国出现了一���蹊跷现象,就是网络环境中充斥着杀伐之气。其蹊跷之处在于现实中分明很胆小平和的人,一旦进入网络,其民族豪情和斗争气焰就无比高涨。
当然这很大一部分得益于我们政府宣传上的努力,因为知道民众生活艰难,心中怨愤,再不宣泄就会酿成隐患。好在本身也和周边国家矛盾不断,因此也就有了煽动的素材。不管有心无意,都要不时在媒体上挑起一些事端。就算没事发生,也可以翻一些旧账,拉出一些“历史仇恨”来,提醒大家“勿忘国耻”,以持续这火焰不灭。
并且这工具使顺手了,也就八面玲珑,皆可致用。好比国内发生一些伤害百姓的事件,引起民愤时,就可以抛出民族大义。例如食品安全吃坏了身体,疫苗作假打坏了孩子,大家满腔怒火时,媒体就开始摆弄“爱国”手段,频繁播报某某国家辱华了,或者日本教科书乱写了,如此一来争议焦点自然逐步转移,倒也屡试不爽。
正如前几十年的威胁有“帝,反,修”,今日又有“西方反华势力”,总之“颠覆势力”的阴影从没消散过,所以挑动民族仇恨也就成了官方的常规操作,无论西方列强还是左邻右舍,都被我们挞伐了无数遍。
由网络征讨的范围来看,中国显然是世界上民族主义最强的群体,他几乎与全世界为敌。但又有个怪诞之处,就是这个民族主义具有很强的选择性,会对某些国家十分克制,比如我们的邻邦俄罗斯。近几十年中,除了中苏交恶被批驳了一段时间“修正主义”之外,中国对其一直是和颜悦色。而且就算对方背叛了社会主义阵营,走了代议制的歪路。中国也不以为意,很快就与其“睦邻修好”,成为肝胆相照的老朋友。
中国最激烈的战场通常在纸面上,往往“笔杆子”比“枪杆子”更凌厉,然而一群锋芒毕露的民族主义对一个国家温言细语,必然是对方有让他们感到惊恐的实力,以至于政府文宣和红小兵们都小心翼翼,时刻避免着触怒这个脾气不太好的“友邦”。
2 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 1 领土
要了解中国对俄罗斯的恐惧,就要彻底地分析这个民族。中国对俄罗斯的恐惧不仅仅存在于当朝政府,而是有久远的历史根由的。
早在叶卡捷琳娜二世时期,这位女帝就开始觊觎中国的领土,并在内部起草了《关于对华战争的意见》 ,宣称黑龙江流域原为���国所有,但后来因为正筹备与奥斯曼帝国的战争而作罢。
此后中国与沙俄签订了第一份国际条约《中俄尼布楚条约》,俄罗斯也对中国的企图具备了大体雏形。沙俄意图吞并黑龙江的太平洋出海口,因此在 1858 年英法联军攻占中国期间威逼清廷签订《瑷珲城和约》,割占黑龙江以北、外兴安岭以南 60 多万平方公里领土及江东六十四屯地区。
1860 年英法攻占北京,沙俄再次趁机发难,以“调停人”的角色逼迫清政府签订了《中俄北京条约》,割占乌苏里江以东的外满洲(包括库页岛)约 40 万平方公里的领土,并获得海参崴这个太平洋出海口。
《北京条约》并不是沙俄的最终目的,而是为后续侵占土地提供条约根据。1864 年,新疆回民反清起义,沙俄军队趁机入侵中国西部(外藩),强占伊犁西北,陈兵塔城威逼清廷签署了他们起草的《中俄勘分西北界约记》,以此占据了唐努乌梁海西北。两国在此后的 1869 年又签订了《乌里雅苏台界约》,沙俄再次吞并唐努乌梁海西北 4 万平方公里地土,同一年还签订了《科布多界约》,将乌梁海十佐领割占。
唐努乌梁海正式易主是在 1921 年,苏俄红军进驻此地宣布其“独立”,为图瓦共和国。而又于 1944 年直接将其吞并。
时隔不久中国西北出现了动乱和割据政权,沙俄趁浩罕入侵新疆之际,立刻出兵进占伊犁。并在 1879 年胁迫满清签订《中俄交收伊犁条约》以割让伊犁以南及以西领土,以及赔款 500 万卢布。后来双方改订为《伊犁条约》,这个条约包括此后几年的五个子约一共割让塔城东北和伊犁,喀什噶尔以西约 7 万多平方公里领土。
以上所述的领土割占,是官方至今所承认的。自 1858 年起,中国在沙俄手中总计损失 161 万平方公里土地。这并不包括存在争议的《尼布楚条约》之前的领土归属,有很多人认为此前满清也曾割让百万平方公里土地,比如贝加尔湖沿岸地区,以及当今哈萨克斯坦的一部分,而他们的丧失都是沙俄直接侵占或以划分边界等手段导致的。
3 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 2 屠杀
清朝对沙俄是异常忍让甚至可说是卑躬屈膝的,一方面是惧怕沙俄的军事实力,一方面还因为满清后期朝政不稳,因此在与沙俄接触的一两百年间竭力避免着战争冲突。而���国真正给中国政府和民间带来的恐惧,是在此后对中国人的屠杀中种下的。其中最骇人听闻的是 1900 年庚子俄难中的“海兰泡大屠杀”和“江东六十四屯惨案”。
1900 义和团起义,沙俄瞅准时机,以“保护铁路”之名出动军队在黑河挑起事端,以执行其“黄俄罗斯计划”。 7 月 16 日,俄军逮捕了此地所有中国人。并于次日将中国人赶到黑龙江边,挥刀将中国人赶进水里。
俄军的目的是彻底抹灭这个地区的中国人,因此采用了异常残忍的手段。他们起初打算将中国人淹死在黑龙江里,然而有些人企图逃走,他们便组成阵列将其围住,逃跑者皆被刺刀捅死。一些妇女乞求他们放过婴儿,但官兵顺势就将婴儿挑在刺刀上捣碎。——整个事件其人性灭绝的程度让史学家们惊骇。据记载:此事过后,血肉狼藉,无论死活,皆投诸江。 海兰泡屠杀持续了 6 天,共杀戮 5000 多人,数日后黑龙江中死去的尸体上浮,以至于浮尸蔽江,水面浑浊,满目油腥。
而就在同时,俄军为了彻底解决《中俄北京条约》里中国侨民在江东六十四屯的居留权问题。将海兰泡的手法如法炮制,他们首先搜捕各屯的中国居民,驱赶其进入一座大屋中,然后点燃房屋将他们烧死。此后俄军沿路枪杀居民,最后将剩余的居民逼入江中,此次又杀死 2000 余名中国人。
两次屠杀共造成 7000 余中国人罹难。在此后的一个月中,俄军沿黑龙江和乌苏里江再发起多宗驱逐,袭击和屠杀中国人的行动。
在这两起事件之后,沙俄也顺利地将海兰泡和江东六十四屯的中国居民财产,耕地等悉数征收。
上述事件是沙俄帝制时期制造的灾难,此后的苏维埃执政时期,同样发生了对华侨的迫害。——列宁在执行新经济政策后,将几千名中国人划入有产阶级或资本家行列,很多人因此被判刑入罪。此后在斯大林“大清洗”时期,苏联当局把远东华侨当作“反革命民族分子”和“有害分子”逮捕、杀害或发配到西伯利亚高寒地带,海参崴这个中国人聚居区的华侨被尽数驱逐。
苏联不止对于中国人,同时对一切少数民族和他国侨民也采取了全面的打压。苏维埃政府褫夺了他们的财产和申诉权利,并罗织罪名将其发配边疆��劳役,此举让很多人死在了流放地,以至于各国侨民,尤其是中国侨民的数量锐减。
4 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 3 掠夺
俄国一直对东部的出海口有所企图,因此在中国东北的活动最为频繁。 1945 年二战结束前夕,苏联红军以对日宣战为由进入东北,造成了这个地区深重的灾难。
在战争几近结束之前,国民政府与苏联就《中苏友好同盟条约》谈判,提出日本的在华资产应归属中国作为战争索赔。苏联表示支持,但此后却在与罗斯福的私下商议中要求恢复俄国在日俄战争中失去的东北特权,而更进一步的目的则是为了将东北的日本资产全部占有。
因此红军刚进入东北,就迅速将所有日资产业宣布为战利品接收。苏军立即开始拆卸工业设备,进行了贪婪的掠夺,当时的工业企业无一幸免,其中沈阳最重要的工业基地鞍山钢铁遭到了最严的破坏。东北的工业停顿,工矿,物资,粮食,牲口,甚至连铁路的枕木,都当作战利品运往苏联。
此外,苏联红军还对满洲的银行和金融储备机构的大量贵金属,包括黄金,铂金,白银,钻石,以及债券、纸币等一并席卷而去。完全无视国际法中海牙陆战章程中对被占领国的规则。
苏联数日驻军就抢夺了中国多年抵抗日军并作为战胜国的大部分成果。曾有老一辈见证人看到沈阳满目疮痍,说:“没有打仗,为什么破坏如此厉害”。后来才知道是苏联红军所为。
荒唐的是,中国并不是战败国和敌对国,但苏联同样把中国本土物资一并掠夺。苏军在对日本人进行掠杀俘虏的过程中,同时亦对东北的本土居民进行抢掠和强奸,其野蛮的行径比日军尤有过之,以致当地人对苏联红军的厌恶远超日本殖民者。
当时被苏军劫掠的并不仅限于东北,苏联对其他国家的做法也如出一辙。他们在德国亦是风卷残云,拿走一切能带走的,并索求巨额赔款,即便在东德投靠自己之后也是不依不饶。
此外苏军在其他被占领国家如波兰,爱沙尼亚,拉脱维亚,立陶宛,罗马尼亚,匈牙利,捷克和斯洛文尼亚等,亦进行着疯狂的掠夺,杀戮和强奸。
5 . 斯拉夫的侵略性
毫无疑问俄罗斯是这个世界上最具侵略性的种族,他们的文化中存在着强烈的民族情结,俄罗斯的历史���身就是侵略和吞并的历史。
斯拉夫民族曾被蒙古统治,他们本身的版图并不大,但却极富进取心,带有蒙古人游牧的特性和攻城略地的扩张意识,对于土地存在异常狂热的需求。
俄罗斯经历数百年才具有国家的雏形,通过一系列东西两向的疆土扩张,直到伊凡三世迎娶亡国的东罗马公主带来了斯拉夫与罗马文化的融合,让当时的莫斯科公国自称为“第三罗马”,这成为俄罗斯入主西方的标志。
俄罗斯此前向西的扩张止步于欧洲列强的抵御,因此只能向西伯利亚扩张。而对欧洲进行真正的蚕食,是在彼得一世时期,他希望重整俄罗斯在西方的疆域,因此悍然对瑞典发动了战争。在近二十年的战役中,俄国战败瑞典占领了芬兰湾,里加湾沿岸的土地,得到了波罗的海的出海口。
此外,俄罗斯对曾占领东罗马的奥斯曼帝国存在一种侵略执念,他认为自己是被占领的基督教世界的拯救者。因此为争夺神圣罗马的继承权,俄罗斯将奥斯曼帝国视为了宗教上的宿敌。两国之间的战争跨度 200 多年,终于在彼得遗志的继承人叶卡捷琳娜这里战胜了土耳其,取得了黑海出海口。
俄罗斯对欧洲领土的欲望最强,因为这里同时也是宗教权利的核心。沙俄第一次著名的大型战役,就是和法国天主教争夺伯利恒主导权,从而将宗教问题上升为政治问题引爆的克里米亚战争。而这也是俄国争霸欧洲的序曲。此后数百年间,俄罗斯都与西方各国陷入互相征讨的胶着中。
6 . 俄罗斯的谋略和冒险主义
欧洲在文化和宗教上都对俄罗斯具有强烈的抵触心理,这是一种血统和气质上的对立。但让欧洲惧怕的是,这个民族偏又富有极大的韧性,正如他可以持续数百年地争夺宗教遗产。此外,俄罗斯在战争中极富谋略,尤其善于见缝插针和见机发难。
俄罗斯的眼睛窥伺着全世界,他观察各个国家的矛盾,从而寻找涉足的机会。如同克里米亚战争,就是趁拿破仑称帝让西方出现罅隙时插足欧洲的举动。而在二十世纪阿富汗与巴基斯坦就普什图尼斯坦出现争端时,俄罗斯就顺势把势力渗入了中东。
俄罗斯最成功的是对中国的入侵,几乎每次都把握着中国政局遭逢内乱或外患的时机,然后将其作为自己进军侵占的契机。
最典型的例子莫过于中日甲午战争,俄罗斯趁中日两国军力大损之际,立刻以拯救者的姿态强行进入东北,要求清政府“租借”旅顺和大连海口,以获取辽东半岛的不冻港,扩大自己的制海权。
而除了善于把握战略机会外,俄罗斯在外交上也十分狡黠,善于运用军事讹诈和合纵连横的手段。——在叶卡捷琳娜打算侵占土耳其之前,就曾与普鲁士,英国及丹麦签约,将土耳其孤立,此后才大举进军。而后趁英国和法国疲软无暇他顾之时,又建立了俄罗斯-奥地利联盟再度进击土耳其。
除叶卡捷琳娜的欧洲联盟外,最著名的连横策略就是二战前夕苏联和德国秘订互不侵犯条约,密谋了对波罗的海的瓜分,同时为苏联缓解了西面的压力。
而另一边苏联同样和轴心国之一的日本签订了《苏日中立条约》,承认伪满洲国,以换取日本对“蒙古人民共和国”的承认。
欧洲不止一次联手制约俄国,但也不止一次被俄国分裂。俄国在战略上最大的特点就是并不在乎对方的意识形态是否和自己合拍,只在乎对本国的利益。为此他可以和任何阵营结盟,也可以和任何阵营反目,他原本就不属于这世界的任何阵营。
而俄罗斯最让各国顾忌的一点是,他十分富于军事上的冒险精神。通常西方国家需要权衡利弊的问题,俄国都毫不介意大胆尝试。
这个国家既偏执又具备超常的动员能力,对目的和成果都很急切。他们建造了世界第一座核电站,也第一个进入太空领域。并且敢于第一个将马克思主义实现在国家政治层面。
彼得一世第一次入侵瑞典,就是一个很大的冒险主义决策。因为瑞典斯正值强盛,但俄罗斯不惜与其鏖战二十年夺得波罗的海的领土。
另一个军事上十分大胆的行动是在 1979 年,苏联为维持中东影响力而意图控制阿富汗,直接派军进入了这个国家并刺杀其总统。这个举动也让苏联陷入了泥潭。
而最著名的一次冒险行动是在古巴部署弹道导弹,其间俄罗斯在运送导弹的同时一直对美国谎称没有战略武器,以致在美国发现其真实目的后,立刻升级为一次核威慑的对抗��
冒险主义对俄国是一种突进战略,尽管这种战略不是每次都成功,但也确实让他们获得了丰厚的利益。尤其在古巴导弹危机中,尽管美国赢得了表面上的胜利,但私下撤走了位于土耳其和意大利的核武装部署。俄罗斯在没有失去原本任何利益的情况下解除了近在眼下的芒刺。
7 . 俄罗斯的民族性和信仰
俄罗斯的侵略性实际上一直被他们的宗族信仰所巩固和助长,哪怕经历不同的政体,经历数次文化和社会的革命。他们都围绕在这个信仰之下,这就是基于东正教精神的大俄罗斯主义。
俄罗斯很难与外族成为真正的���襟,就在于他们强烈的斯拉夫宗族精神。这种精神源于他们对罗马教权的主观上的继承,让其具有了民族救世主义的信念,形成了他们“帝国转移”的宗教观。
所以俄罗斯对于拜占庭具有强烈的占有欲,他们认为自己是基督教唯一的正统,是将在宗教和政治上继承罗马财产的民族,是继东罗马和西罗马之后的第三个罗马。
但俄罗斯从来不是严格意义的神权国家。正如彼得一世曾改组过教会,无论是神权对政治的影响,还是政治对神权的利用。宗教在俄罗斯都是为了更深切地建立民族纽带。
因此基督教在这里蜕变为神圣帝国的理想,俄罗斯将他们的意志扩展到全人类来看待自己的征服和救赎。这是集体主义的,民族主义的信仰。即便不信教的俄罗斯人,也会不自觉将自己归属于东正教的氛围。即便是无政府主义者,也会将自己维系在俄罗斯的民族情结中。
俄罗斯建立了他们原生态的一元性宗教,在他们看来,多神论,多信仰,甚至多教派,都是不纯正的。锡安和伯利恒从东正教被确立之时就转移到了俄罗斯,再次占领君士坦丁堡就是新教统的确立。
他们站在民族主义的立场理解信仰,并不认为曲解了基督精神。他们将神授的权柄转化为世俗的权力意志,让他们成为手持刀剑与火焰的救世军。东正教的苦行,极端和冰冷对他们而言是一种精神体验,所以俄罗斯的救世情怀不是弥赛亚式的拯救,他带有更少的怜悯,带有清洗和净化的成分。
而这样的意志确实让他们得以建立功勋:俄罗斯曾推翻了蒙古的统治,成功在欧洲抗击拿破仑,同时在第一次和第二次世界大战中抵御了德国。这一切都助长着俄罗斯的民族认同。
俄罗斯的国徽就是他们帝国理念的象征。这个徽记除苏俄时期,一直沿用至今。——它的主体是一个双头鹰,一手握着权杖,一手握着象征基督权威的十字圣珠“ globus cruciger ”,这意味着对神圣罗马和拜占庭权威的继承。中间的骑士是杀龙者圣乔治,代表着勇武和胜利。双头鹰上各有一个冠冕,同时又被缎带连接到顶端的冠冕上,意味着神权与皇权在俄罗斯这里的统一。
这宣示着俄罗斯对世界的企图,他们会行使天赋神权对外族进行征服和主宰,并将自己的意志加于他们。
对外侵略不止一次让俄罗斯遭受重创,甚至导致政权的崩溃。但统治者更迭之后,俄罗斯依然故我地对外扩张。任何意识形态都没改变俄罗斯的民族精神。无论何种政体,无论男帝或是女帝,俄罗斯的战争意识和侵略主张都一以贯之地进行。就好像叶卡捷琳娜本身是普鲁士人,但他同样能领导俄国。即便是无神论的苏俄时期,斯大林的扩张计划也是沙文主义的。——正如基督教的统一必须是建立于东正教信仰的大一统。共产主义的大一统也应该是围绕着苏联斯拉夫民族的大一统。
所以领导俄罗斯的是永远是一种精神而不是宪章,每一代杰出领袖都会在战争中树立自己的权威,将自己的形象建立在英雄崇拜之上。彼得一世就是在征服了瑞典之后才被封帝。叶卡捷琳娜也以征服奥斯曼成为女帝。亚历山大一世抗击了拿破仑让俄国被誉为欧洲救世主。而斯大林更是淋漓尽致发挥了英雄主义的领袖艺术,在德国大军压境之时举行红场阅兵,然后士兵们直接开赴战场。
8 . 中国和俄国,截然不同的民族性
俄国和世界很多国家都发生过战争,毕竟他是一个在战争中建立的帝国。然而在战争后,他仍可以和奥地利交流,和德国交流,和英国法国交流,甚至和土耳其波兰交流,但唯独对中国会另眼相看。
历史中日耳曼文化和斯拉夫还有所交融,但中国对俄罗斯而言是完全的异族。俄罗斯对其是纯粹的予取予求的态度。这并不是单纯由民族力量决定的,而是这两个在地域上接壤的民族秉性截然不同。
最根本的区别在于两个民族对待信仰的态度,俄罗斯信靠宗教,信仰凝聚和激励着整个民族,给予他们神圣的加持。在他们看来,没有信仰引导的精神是不可想象的。
而中国恰恰是一个严厉打压宗教的国家。中国人大多是无神论,或者说功利性宗教。
通常归属于信仰的国家对于无信仰民族是很轻视的。虽然就功利来说中国人更精明,俄国人显得更单一,但最终吃亏的往往是中国。因为精明的人对利弊看得很重,而俄罗斯更具有原始的掠夺性,以至于很多时候难以用利益去衡量其行为。
中国的民族性格比较细腻,而俄罗斯比较粗犷。但耐人寻味的是,中国人对工作远没有俄罗斯严谨。俄罗斯的严谨和刻板在某种程度上和德国相若,他们往往表现出一种对细节极尽严苛的追求。
这种背反的倾向还表现在艺术领域,俄罗斯生来相信灵感的指引,并重视灵感在艺术中的表达,他们是充满浪漫和感性的。俄罗斯人热衷于舞蹈,文学,音乐和绘画。他们的文化是由社会一切群体所共同继承的,即便是普通民众,也会让表演,晚会,戏剧等节目融入他们的生活。
而中国的艺术传播土壤很贫瘠,更是不入主流的,艺术熏陶受限于中国的阶级分化。相较人文来说,中国更倾向于资本意识,一种剥离了文化的资本意识,在这一点上,中国比资本主义的西方走得更远。
这实际上和两国的政治传统有关:俄罗斯对西方文化抱有开明的态度,从彼得一世引进西方的技术,到叶卡捷琳娜对欧洲学术界的支持,俄罗斯的开放态度就从未停止。
这和中国政府保守的政治态度不同。正如同处一个时代的彼得大帝和康熙皇帝,就可以看到政治倾向导致的截然不同的国家走向。
因为俄罗斯具有难以切割的民族主义纽带,因此并不担心被西方思想“颠覆”。而中国的民众和统治阶层从来都是对立的,中国政府时刻担忧着民间的动乱。
所以在两国的民族情结上就产生了很微妙的对比。俄罗斯是文化开放的国家,然而在民族性上是排外的。中国政府很保守,但却是世界上最媚外的政府,洋人在中国都能享受到超国民的待遇。
所以在俄国基本不会看到外国人的聚居区,尤其是全世界都存在的唐人街,在俄罗斯是受到压制的。——俄罗斯联邦移民局多次宣称,俄政府不会允许外国移聚居区在其境内发展,“唐人街”也不会在俄罗斯出现。
斯拉夫民族性中一直存在着与外邦的对立情绪,而政府也总是会为此背书。这和中国的外交观念完全相反,——政府会严防过激的对外情绪,朝廷会压制民间高涨的民族主义。中国政府畏惧不安定的局面,而俄罗斯却认为民族情绪必不可少。中国始终是纸面的民族主义,因为政府很怕惹火烧身。而俄罗斯从不担忧民族主义壮大,这正是他们国家巩固的基石。
民族性的区别更表现在对权力的态度上,中国和俄罗斯皆存在权力崇拜,尽管如今的俄国是代议制政府,但他们在某种程度上依然信奉集权对国家的领导。然而俄国人绝不会拥护一个懦弱的政府,一个不能代表斯拉夫精神的政府。而在中国这里,气节通常只存在于民间,政府总是息事宁人的一方。尤其是政府常年执行的弱民疲民政策,实际上是弱化民族精神的。俄罗斯人的气节,总是在整个民族推动的战斗和胜利中巩固。而中国人的气节,总在政府的一次次打压和背叛中消沉。
其实这正是历史中两个国家理念上的鸿沟。——俄罗斯是侵略和进取的东正教斯拉夫主义,而中国是处于守势的儒家道统。这样的民族意志对俄罗斯来说,不啻为一个送到嘴边的猎物。
9 . 俄罗斯强权光芒下的中国孔乙己
俄罗斯在历史上一直是一个让中国难堪的国家,他对中国的姿态异常高傲和野蛮。其实俄国和中国都明白,在民族性和价值观方面两者截然相反,所以永远不可能站在对等的地位。
要明白俄罗斯对中国的态度,除了海兰泡和江东六十四屯这类惨绝人寰的事件,最有代表性的就是日俄战争。这场战争的惨烈和造成的破坏触目惊心,日俄双方为争夺中国的利益都付出巨大代价。不过这段战争最让人注意的是两个交战国本身在第三方国家交战,却将中国视为一块可以肆意践���的土地。两军过处烧杀抢掠,赤地千里,完全将满清朝廷和中国平民视若无物。
后来苏俄与中国共同站在了社会主义阵营,苏联仍将中国视为属国看待,在许多方面对中国的政治政策进行“指导”和干涉。在两国缺少理念共识之后,苏联也开始在各方面刁难中国。仅 1964 年 10 月至 1969 年 3 月,就挑起边境事件 4189 起,更在 1968 年越过乌苏里江侵入中国七里沁岛轧死和撞死渔民,随后又在 1969 年与中国发生了珍宝岛和铁列克提武装冲突。”
即便在今日,中国和俄罗斯保持着常态的外交和援助关系,俄罗斯也不时地在各个领域敲打着中国政府。
比如之前大使馆在网络上用中文庆祝海参崴的建城纪念日,并告诉大家,这座城的俄文名字意谓:“统治东方”。
还有正当中国外交部长访俄之际,宣布在中越争议区内为越南开采南海油田。或者在中越两国海域属权争执不下的时候卖潜艇给越南。以及在中国与印度发生边境冲突时卖战机给印度。
不过中国对俄国素来以忍让著称,即便发生了卖军火给敌对国的事,我们的外宣还是可以绕着弯子找出“俄罗斯卖给对方军火其实也不是什么坏事”这样的辩解辞。
中国历来的的宣传规则是:凡是不伤害自己的对象,大可声色俱厉,无所顾忌,因为心中知道是安全的。但对于会付诸行动伤害自己的人,就一定是噤若寒蝉,战战兢兢。甚至双方出现任何一点微小的罅隙,一定是中国尽力圆场,拼命维护。民间但凡发出一点不满,都要竭力封杀,并大骂这些群众“不顾大局”,“别有用心”。
我们政府对俄国正是一种十足的孔乙己式的卑怯和自欺欺人的态度。因为自己在俄罗斯这里吃瘪太多,面子上挂不住,因此只能一面装聋作哑,一面用些模棱两可的说辞来为自己开脱。就好比对日本,会大义凛然地说忘记历史等于背叛,而一旦提到俄国的侵略,就躲躲闪闪地说纠结于历史毫无意义。
而俄国也从不顾虑自己的行为会让中国丢脸,因为他知道中国自会找一个台阶下,至于这个台阶是否下得有些跌跌撞撞,丑态百出,俄国是并不在意的。
并且中国最大的标准就是毫无标准。对每个国家的态度是根据对自己的压迫来定义的。加上舞文弄墨的技艺首屈一指,甚至连自己都会相信那些编造的谎言。比如疫情期间,美国封锁海��,国内大骂“不讲道义”。但俄罗斯驱逐中国人,绥芬河口岸关闭,作为第一批禁止中国游客入境的国家,中国的反应就异常温婉。
而就连对方没有遵守约定,不按期交付卖给中国的导弹,媒体们都能总结出一个暖心的理由来。
既然国际是一个舞台,大家也就看着孔乙己的一举一动。一来二去,所有国家都明白了这个政府的秉性。中国和俄罗斯的关系甚至成为了各国对中国分析的参照,所以周边国家无论大小,对中国都异常强硬,正因为他们一直在从中国的历史角色中揣摩。
其实中国政府对俄罗斯的情结很复杂,他一方面明白中国不过是俄罗斯和他国利益的角逐场,是俄罗斯沙文主义的演武场。一方面又因为自身的外交一直陷于困顿,而唯一看在利益上还能对自己表示口头支持的大国就只有俄国,一旦与俄国交恶,中国的处境会变得十分孤立。
此外中国政府的不安还有一个深层理由,就是中国在历史上从来没有真正的支持者和利益共同者。——每每俄国入侵欧洲时,欧洲国家总会联合将其围堵。但在入侵中国时,其他国家不是袖手旁观就是与俄国一起瓜分利益。所以说中国的这份被孤立感是由来已久的。
目前俄罗斯对中国的企图是被利益按捺住的,因为中国一直在给俄罗斯输血,尤其在他受到全世界制裁的时候。然而中国一旦中断一切形式的支援或者说对这种支援无以为继,那么俄国的反复无常会立马显现。因为这终究是两个毫无渊源,也没有彼此认同感的国家。
10 . “爱国者”们的“爱俄罗斯”情结
世界上各个国家都经历过战争,且大部分都有被侵略的过往。但是唯独在中国这里,存在着长期为侵略者唱赞歌的举动。这在世界上任何一个民族都难以理解,估计作为征服者的俄罗斯自己都难以理解。——中国大概是他欺压过的最驯良的民族。
为什么至今仍有很多中国人崇拜俄罗斯,崇拜他们的历任领袖。这并不是因为俄国多具有魅力,也并不是俄罗斯对中国有多少实质性帮助。而是作为被侵略者对于强权的深刻恐惧,——俄罗斯割占了中国庞大的土地,掠夺了中国大量的财富,且以十分残忍的方式屠杀中国人。这一切已经形成了一个骨子里挥之不去的恐惧烙印。
中国的“爱俄罗斯”群体对俄罗斯的朝拜,和受害者为欺凌自己的政府摇旗呐喊是出于同一心理学动机,——企图通过对强者表示拥护而表明自己和他站在同一边。鞍前马后地侍奉,都是寄望于对自己的欺压会温和一些。
那些受到中国“尊敬”的老朋友,——斯大林,勃烈日涅夫,普京,他们冷峻的面孔会让这些人背脊发凉,如同西伯利亚的凛冽寒意,带来死亡和凌虐的恐惧。这让他们不由地跪下了膝盖,并在口头上表示崇拜。这就给自己的心理压力寻找到一个不那么卑微的出口,毕竟,“崇拜”比“臣服”“畏惧”等还是要好听一些。
所以说你可以看到无数人在网络中叫嚣“勿忘国耻”,但只要一联系到俄罗斯,这些言论就会被网络封禁,让这份“国耻”被自己私下吞回去。
当前某些中国官员和红小兵对沙俄的恐惧,或者说“崇拜”,已经达到历史顶峰。这的确是举世奇观,因为即便是割地赔款的大清,也没见历史记载过他的子民为沙俄唱赞歌,大家还是分辨得出这是民族仇敌。
不过在我们这一届政府,自从著名谀臣郭沫若先生赞颂斯大林开始,就示范了如何抛弃一个中国人的尊严,示范了如何打破了无耻卑贱的底线,示范了如何将人格中仅存的一丝气节彻底阉割。郭老先生的作为,即便在中国数千年的阉人行列中,也无人能望其项背。
并且,他的那些徒子徒孙们也就有了可以效尤的榜样。所以我们才有了今日如此之多的,继承着郭沫若遗志的,为俄罗斯唱赞歌的“爱国者”和“爱俄罗斯”者。
中国的朝廷中,历来缺的是岳飞,但永远不缺秦桧,就和现在声称骂俄国“是别有用心”的这群国贼一样,在强权到来之后,只会迅速跪服并协助对方瓜分中国。从宋朝到今日,正是应验了一句常言:自古如此。
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“缉枪治暴”隐情
在重庆故事落幕之前,王立军并未像离开锦州那样,发表正式的谢幕词。
2008年6月,王立军曾在锦州市公安局《警察文化沙龙》上发表《我心永驻》一文。这是他离开锦州的谢幕词。在这篇临行自白中,王称:让我从渤海之滨,去感受巴山夜雨。
在重庆,王立军的开幕式是低调的夏季治安综治行动。这个行动虽不如打黑一样为外界熟知,却颇得原重庆市委主要领导赞赏。
2008年11月1日,原重庆市委主要领导数次找重庆市局班子谈话。在场记者回忆,市委领导指着王,对时任市局局长、党委书记刘光磊称:要多给年轻人压压担子。
当月,王立军还在市局开展忠诚宗旨教育,摘录了市委主要领导关于公安工作的重要论述,让民警学习。
在这些铺垫后,王立军在一个涉及军地合作的案子中,打响了他的重庆第一枪。此案也让他履渝后首次在央视《法治在线》和《天网》两档节目中亮相。
2008年8月12日,王立军责令成立“缉枪治暴”专案组。为保密,“8•12”成为此次行动代号。参与行动的许令(化名)称,渝湘黔边界枪患曾一度猖獗,经中央政法委牵头三地警方治理,情况大为好转,但王上任后,声称枪患上升3倍多,并派刑侦人员前去渝湘黔边界的重庆秀山摸排。
许称,由于摸排不理想,王提出“打击技师就是打击造枪窝点”。于是,刑侦人员选好造枪点,提供设备和资金,邀技师重操旧业,并经专案组布局,于2009年1月9日凌晨对秀山“地下兵工厂”进行集中清剿。
一张大幕徐徐拉开。���透露,警方本想申请运兵专列,未获通过,遂以旅游名义申请到了专列。2009年1月7日,装甲车及其他作战车辆先行,车队绵延五六公里。次日,千余名手持冲锋枪、火箭筒等各种轻重武器的特警、刑警和武警乘坐专列,到达指定位置。
许回忆,行动场面壮观,“炸药轰隆隆响”。三号制枪点在溶洞,随访记者回忆,王立军一度准备用火箭炮炸毁溶洞,因在场的公安部刑侦局领导不同意,此举遂作罢。
许令介绍,之所以安排在溶洞,也是为了让冲突更具戏剧化。
行动收工,王立军出现在秀山花灯广场,装甲车、警车整齐开过,阵仗如同检阅部队。围观的一位当地老者对许令称:一辈子就看到两次解放军进城,一回是解放,一回是这次。
2009年1月,重庆警方通报称,在5个月的缉枪专项行动中,缴获仿制式手枪183支。
重庆打黑第一枪
秀山缉枪后,2009年2月,王立军接替刘光磊,成为重庆市局党委书记。现在看来,这是此后三年重庆打黑的起点。
这也是王立军仕途最为顺遂的时期。2009年3月19日,重庆某驻渝部队哨兵遭歹徒持枪袭击身亡。案发后,王立军任专案组总指挥。一周后,他兼任重庆市局局长。
尽管“319案”在其任职三年期间并未破获(案犯周克华于2012年8月14日在重庆被击毙,当时王已被免职),此案仍成为王立军对重庆警情基本面摸排的重要契机。
案发一月余,4月27日,王立军在治安整治动员会上透露,以“319案”为契机,警方完善了情报信息,把全市883万重点人口和27万不放心人员全都梳理了一遍,“这在全国是没有过的”。
此案还促成了“警务信息化”。当年5月,在视察网监总队电子证据中心时,王透露,重庆市委开全国先河,把移动、金融几十个部门的数据都整合给公安。他要求,对于被锁定人员,要“法律事权不商量”,意即可上情报手段。他以窃听为例,称窃听就应列为秘密证据。
在“319案”完成摸排后,借“6•3案”,王立军打响了打黑第一枪。2009年6月3日,重庆江北爱丁堡小区发生枪案,警方为此成立了“6•3”专案组。王未能预料的是,“6•3案”也为后来的李庄案预埋了伏笔,令他遭遇了打黑以来的最大阻力。
在当年的打黑除恶专项斗争会上,王���,“6•3案”前,98%的干警不知要打黑,“6 •3案”后,警方第一时间捕捉战机,技侦、网监各警种即时介入,“没有一个专案组的基地是3天建立起来的,最快的一天一宿,武警要多少给多少”。
对于打黑对象,王立军也胸有成竹。2011年9月,在会见《求是》杂志编委郑某时,王不无自得地称,部署打黑时,他一张纸也没有,就说出400多个黑恶团伙成员的名单,“不到一星期就抓了800多”。
“6•3案”后,2009年6月25日,重庆警方通报,数十个黑恶团伙的首犯陈明亮、陈坤志、龚刚模、岳村已经落网。他们皆为民企老板。正如华东政法大学教授童之伟在其《重庆打黑型社会管理方式研究报告》中指出,重庆打黑几乎所有的重头戏都是针对民营企业家和民营企业。
2009年7月14日,原重庆市人大代表、渝强运输公司老总黎强被刑拘。黎强被抓5天后,王立军在第二批次打黑除恶斗争会上透露,在出租车罢运期间,黎竟然向政法系统的一个“一把手”叫板,称要在两会上联名人大代表罢免对方,导致该干部拍案而起,称要在两会开幕前将黎抓进监狱。
“我向市委领导汇报时说,他要敢向我叫板,我就会告诉他,我可以将你击毙。”王称:“大家能想象,黑恶势力猖狂到了什么程度?”
王强调,打黑是市委主要领导的要求。2010年6月,在会见中国政法大学教授王牧时,王立军称:打黑关键要看XXX的决心。
黎强被抓次日,到渝仅一年的王立军接替刘光磊,兼任武警重庆总队第一政委、第一书记。这是继秀山缉枪案后升任市局党委书记、“319”案后担任局长之后,王立军在重庆的第三次升迁。
“091”专案组
如果说“6•3案”打响了重庆打黑第一枪,“091”专案组则帮助王立军完成了内部整肃的第一枪。
“091”专案组由原重庆市局副局长郭维国牵头。作为王立军的嫡系部队,“091”专案组参办了包括文强案、李庄案在内的所有打黑要案。该专案组得名于 “2009年打黑第一号重要案件”,成员包括原禁毒总队队长王智、万州民警熊峰等人。市局民警杨渝透露,熊峰因手段残酷,在内部有“万州熊”之称。
2009年8月7日,在重庆江北机场,数百警员包围飞机,原重庆市司法局局长文强在王立军的亲自带队下,被带上警用防暴车。
2天后,王立军召开警方警示、督办会议。他在会上宣布,打黑除恶取得了决定性突破,除铲了文强、黎强等“五强”外,还有公、检、法、司参与的“司法打捞队”,及9名律师。王透露,市政法系统一个有级别的干部还为落网的律师鸣冤叫屈,自己托市委一领导带话给该干部,让其好自为之,“现在这人闭嘴了”。
在打黑中,擅长数字管理的王立军,将案件分为A、B、C类。A类为市局参办案件,B、C类为区分局、基层派出所参办案件。部署打黑仅2月余,2009年8月,王立军在国庆60周年安保工作会上透露,目前除16个重点专案外,其余ABC类案件已达270多个。
在办案透明度极低的情况下,律师依法为其当事人进行的辩护,被王立军视为打黑绊脚石。2009年12月,北京律师、“6•3”案首犯龚刚模的辩护人李庄成为王立军决心清理的第一块绊脚石。
据案卷,2009年12月10日,“091”专案组民警熊峰等人从龚刚模处获得突破,龚反映了李庄教他编造刑讯逼供的情节。
随着李庄案庭审的推进,“铁山坪”基地浮出水面。这是重庆24个打黑基地中的标志地点。“6•3”案的所有涉事对象在此接受讯问。龚刚模称自己在铁山坪“被吊了8天8夜,大小便失禁”;其侄龚鹏称,专案组用窗帘把摄像头罩住,把他吊在窗户的防护栏上打;“6•3”案的第二被告、已被执行死刑的樊奇杭在其生前偷录的一份视频中称,他不堪折磨,曾两次撞墙自杀,咬下舌尖自残。
2010年2月9日,李庄伪证罪二审宣判,获刑一年半。李在陈述中留下了“被逼认罪缓刑”的藏头诗迷局。该月月末,重庆召开表彰大会,庆祝“打黑除恶”阶段斗争取得全面胜利,李庄案公诉人幺宁获“重庆人民卫士”称号。熊峰被记一等功,从郊县提拔为沙坪坝区刑警支队常务副支队长。
在内部会议上,王立军称,干警为了工作违纪,市局一定力保,有些同志打人,“确实打得很重,确实构成伤害了,我说那是刑讯,不是逼供。检察院捕了,那也要未罪不诉”。
在杨渝看来,熊峰的上升路径只是过去三年重庆警界的一个缩影,“刑讯逼供、私设监狱之所以泛滥,是因为王立军把恶魔从瓶子里放出来,对他们封官许愿,让他们尽情释放人性的恶。”
“大情报”
对重庆而言,打黑完全成为其进行社会管理的杠杆和抓手,并直接依靠警察部门的扩张来达到目的。
除打黑办案外,王立军还有个外界看不到的武器,那就是“大情报”。2009年12月14日, 李庄归案2天后,王视察情报信息中心,感谢他们在李庄案中的辛勤努力,并希望他们“真正成为一支武装到牙齿的战斗团队”。
在当月的情报信息中心启动仪式上,王立军表达了自己在“大情报”上的野心:法律界定的“不越雷池一步”,这次要用科技革命,能够向它冲击的要毫不客气!
2010年1月,在情报中心组建座谈会上,王介绍,情报中心可在12分半钟内将全国人口查一遍,可通过13个点,对人进行立体查找,被查找人只要登记上网、打电话、买机票或刷卡消费,警方都能知道,还能对重点人口进行GPS定位,监控其行动轨迹。他称,除数字化保障外,勤务也会跟进,市府主要领导已经同意,今年我们招警1.08万人。
2010年3月16日,在“大情报”专题讲座上,王要求,从社保到银行,除军事、战争外的一切信息,都要视为自己的资源。他羡慕其他地方的进度“有的已经一刀切到网通和移动的中心平台上”,并称大情报应对的是虚拟社会和虚拟群体。在他看来,“大情报”之所以重要,是因为“国难动民心,需要解放军;政府一告急,马上公安局。”
2010年5月14日,在为重庆市人大常委会委员做报告时,王透露了“大情报”建设的奇迹:春节前5天,4000多名有劣迹的人员进入了重庆,6小时内被锁定,3400多人被警方点对点地见面予以警告,被迫在48小时内离开了重庆。
在王主政期间,技侦总队队长这一要害职位,由其门生、东北籍干部王鹏飞担任。在王立军铁岭公安局长任内,王鹏飞被提拔为铁岭公安局副局长,主管技侦和刑侦。王立军2003年调往锦州市后,王鹏飞调盘锦市担任公安局副局长。2010年末,王鹏飞由盘锦调入重庆公安队伍,任渝北区公安分局局长、渝北区副区长等职,同时兼任重庆市局技侦总队队长。
2011年10月26日,王立军向北邮校长方滨兴透露,重庆警界刑侦、技侦、网监一次性各发3.5亿元设备,“现在我们每天要查87000人,还有技侦、网监的秘密介入,现在我们打掉了5000多人,主城刑拘以上的就达到这么多”。
2011年12月,王立军向黑龙江省绥化市公安局长盛威介绍,重庆市局共发了27亿的设备,都是德国和以色列的,“哪个省能比?”
“鲨鱼吞小鱼”
在重庆,王立军持续地强调打黑,并将之打造成当地最重要施政标志之一。通过打黑,王立军不仅实现了仕途的上升,也实现了个人权威。打黑办案以及情报系统的组合运用,成为其威慑民营企业家、公民乃至整个社会的主要手段。
在打黑除恶���面推进3月后,2009月9月,王立军倡导的“重庆人民警察英烈救助基金”正式成立,重庆名营企业家共认捐7000余万。
2010年9月,在会见“中国名博沙龙主席”一清时,王立军称,劫富济贫是世界通用,他以普京为榜样称:“十个人,普京出手把两个富的全干掉,两个一般富的一看,为了保全自己,也会把自己的东西贡献出来,剩下的六个穷人会说,干得好”。王称,这就是民情,如果黄光裕在重庆,不会发展到今天。
在华东政法大学童之伟教授看来,重庆打黑是实施了剑指民营经济的刑事司法政策。打黑除恶初期涉案企业家,都家破人亡:龚刚模被判处无期徒刑,并处没收个人全部财产;陈明亮被判处死刑,并处没收个人全部财产;岳村被判处死刑,并处罚金人民币1.5亿元……
2010年6月,在打黑除恶一年之际,重庆希尔顿老总彭治民因涉黑被“091”专案组带走,彭原为重庆市渝中区人大代表,身家数十亿。
在当期重庆市局下属的《警察文化沙龙》杂志上,发表《希尔顿擦枪走火》一文。该文称,彭“公然诽谤打黑除恶成果”, 于是被重拳喝止。
当年7月,在接受打黑创作组采访时,王立军提到,像彭治民这样的人,XXX早就在他裤腰链上挂了定时炸弹。他还为民营企业家拟了一副对联,上联是“暴力色彩,罪恶累累,原罪运行”,下联是“党政勾结,司法保护,刑经并行”,横批“好自为之”。
王称,如果这些民营企业家,包括党政官员,能认识到自己的错误,“我们还是宽以为怀,否则他们会在深水区爆炸。”
在打黑中,为最大限度地寻找权力运行空间,王立军有一套自由裁量的哲学。他指向的对象,一类为其下属,对方是否会成为黑社会保护伞,取决其“忠诚”。另一类为民营企业家、后又扩展至党政官员、社会各界,即对方是否会落马,取决于其是否“听话”。
在重庆打黑中,一批民营企业家的资产被变相收归国有,既壮大国有企业,又补助地方财政。2011年,希尔顿老总彭治民被判处无期徒刑,并被没收个人全部财产;俊峰集团总裁李俊被通缉逃亡海外,亲属多人被抓或被通缉逃亡。
这个模式,被王立军称为“鲨鱼吞小鱼”。在陪同客人参观打黑展时,王称:只要是黑社会,马上叫银行把它吞进去,或是政府一次性拿过来。
这种明火执仗,还体现重庆民警留学基金的成立上。2011年5月18日,王立军指示刑警总队长李阳,“找些企业家,让他们拿点,给我们支付留学经费。”当年7月19日,王接见了重庆13名民营企业家。当天,老板们一共认捐留学基金3000万。
在其主政后期,随着权力的膨胀,王立军的自由裁量哲学也越发���进。2011年12月1日,王立军向某银行重庆市分行行长表明自己如何爱护金融系统,称有些涉案金额达到七八百万,“我们全轻轻放下了。”
王称,自由裁量权在其手中,他以希尔顿为例,称“他说1000万,我们说只值200万,签个字就可以拿进来。跑的时候归他,划跑道的时候归我们。”
“裤腰上的定时炸弹”
童之伟在其报告中指出,在打黑型社会管理方式下,公民基本权利中因此而受损最严重之一即为言论自由。
2009年9月,重庆男子彭洪因在论坛中转发打黑漫画《保护伞》,处以劳教二年。当地青年任建宇、黃成城、田宏鸳等,也都仅因评点时政便蒙冤劳教。2011年1月,重庆市民龚汉周因转发“交巡警平台寒天裸拷酒醉男子”一帖,被以“攻击政府职能部门”为由,劳教一年半。
2011年4月22日,李庄漏罪案撤诉。李庄获得自由之际,涪陵区林业局干部方洪却因此案受牵连。方洪(网名方竹笋)因发表讽刺李庄案的“一坨屎”的打油诗微博,被劳教一年。
令重庆司法形象受到负面影响的李庄案第二季,成为王立军在渝第四次升迁的契机。2011年5月17日,王立军全票当选为重庆市副市长。对李庄案上的败绩,王立军并不心甘。2011年6月25日,王立军会见北邮校长方滨兴,副局长郭维国作陪。
“防火墙之父”方滨兴介绍了演讲时遭鞋袭后自己的应对。方的办法,为郭、王提供了灵感。郭维国称,像杨金柱、陈有西这样的人,就是要揭他的家庭住址。陈有西为李庄第一季的辩护律师,杨金柱为湖南律师,李庄案第二季时曾赴渝声援。
王则希望方能在重庆网监种试验田,“我们现在有五百多人的队伍,天天在做”。
4个月后的10月26日,王立军再次会见方滨兴。说到网上对重庆不利的言论,王称,无论实名还是匿名,“我们不客气”。
民警孙凌透露,王甚至建立了黑名单,“飞机一落地,记者和律师全在掌控中。他要审查你的背景,监控你发表的文章。”
在打黑型社会管理方式下,除极少数权力人士外,每个公民的人身权利和自由都受到了巨大的威胁。
在重庆市局2011年第14次扩大会议上,王立军提及原重庆移动董事长沈长富因受贿罪被刑拘一事,称以前警察上移动公司要数据,居然被拒,“公安局的小号平台,也给我们乱切 ,说了还不听,所以郭维国把沈长富刑拘是对的”。王还提到:打黑期间,有的银行行长不给我们提供单子,当作妨碍公务,立即拿下。
在王立军时期,公安独大,王甚至能决定判决结果。2011年1月,���对《王天伦涉黑团伙“漏网之鱼”王东明受审》的报道,王批示:“要处极刑,否则,向社会怎么交待?而且如不判死刑,那将是后患无穷!”四个月后,王东明一审被判死刑。
即便是重庆市政府主要领导,对王立军也颇为忌惮。2010年1月4日,在统筹城乡户籍制度工作会上,王称,市府主要领导向他承诺“立军,你们什么时候要我开会,我就什么时候开,你要我们开多少会,我认为都不过分,要哪些部门参加,任何部门不得讲价。”
2012年5月,在公安平联办工程会议上,一市府主要领导笑称,昔日区县的领导看见王毕恭毕敬,看到他却嬉皮笑脸,“我知道,他在你们裤腰上都挂了炸弹”。
打黑展览的功能
在多个场合,王立军都会提到,“熙来书记不是讲了嘛,一旦中央领导来了,一旦专家学者来了,得挤干压尽。”
杨渝透露,过去三年,凡来渝视察的中央领导,都要到市局参观打黑展览,节假日期间,来参观的退休老领导尤其多。市局宣传处还得将此作为政治任务,要写稿。
杨介绍,打黑展览最初的解说词是由政治处民警写成,不过,每当有官员来参观,王立军都会随口发挥,形成新版本,“领导来了他表现欲望特别强,他喜欢戏剧化的东西、高潮迭起。”
杨举例称,截至2011年,按内部统计,参观打黑展览的省部级干部共有463名,在王的口中,这个数据达到了600多名。当解说组组长对此表示疑惑后,王怒称“跟我作对,就是跟市委市政府作对”。有关领导私下做组长的工作,称王也是副部级干部,“这两年,他来回100多次总有吧,加起来不就600多了么?”
在孙淩看来,王立军的行事近乎疯狂。孙称,2010年12月,一中央领导到重庆市局参观。有个场景是该领导顺着王所指,看打黑展览资料,后王授意把照片上的背景抹掉,剩下就是领导顺着他所指,看向远方。
警令部民警蒋山(化名)回忆,一退休的中宣部领导参观过打黑展览后,王立军要求在稿中加入该领导赞成打黑的内容,并称这是领导对他的耳语。类似的还有一退休的原中纪委领导,王要求将“退休老领导的话发挥一下”,最后稿中加入了该领导在任时的讲话。
蒋山介绍,后来来渝的不少领导,参观打黑展览时都咬紧牙关,既没表情、也不说话,稿子里只好增加领导的肢体语言,如凝神贯注、频频点头等。
“王立军要出险棋、险招,不走中庸之道。他喜欢绑架别人,自己想说的话要通过别人的口说出来。”蒋称。
2010年11月,某中央领导在渝考察。新华社关于此事的统发稿全文共1600余字,关于其肯定打黑的内容共50余字,《重庆日报》上关于该领导此行的稿子达3700余字,其中肯定打黑的内容有300余字。
蒋山称,这次王立军照例要求市局写稿,但特别报道小组以该级别领导的稿子只有新华社总社可写,他们以没资格、怕犯错误为由拒写,惹得王大怒,“公安内网上的新闻,跟新华社有什么关系?”
最终,这条新闻,市局特别报道小组写了6000余字。蒋称,平常的稿子,王都亲自批示,但此稿呈给王后,他没签字,后经一副局长拍板,稿子才得以上网。在事后的总结会上,王却责骂相关人“胜在起点,败在终点”。
“我们揣测,王对新闻报道的规定肯定有耳闻,所以他不签字,一旦追究起来也能规避。另一方面,他又拿这个来捆绑干部,收放自如。”蒋称。
蒋山感慨:但是王立军没想到,有一天他会被更粗的绳索捆死。
2009年12月,得知王立军欲对自己动手的风声后,李庄从重庆跑到了成都。2012年2月6日,陷入困境中的王立军选择了跟李庄同样的走避路线,他逃离重庆,潜入了美国驻成都总领事馆。
在2012年9月24日的成都中院庭审现场。王立军被判徇私枉法、叛逃、滥用职权罪和受贿罪四罪并罚,领刑十五年。王当庭表示不上诉。
这是“打黑英雄”王立军最后一次出现在公众视野中。
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石油比水還便宜?油價崩潰,創冷戰後最大單日跌幅, 沙特俄美石油大戰怒目相向,看誰先眨眼
以噩夢糢式開啓的2020年,人們每天都在見證历史。
席卷全球的新冠疫情只是背景,短短十天時間內,人們就看到美國四次熔斷,歐洲股市腰斬,全球資本蒸發上百萬億,到處都是"王炸"和"無底限"救市。
而這一切的直接導火索,是3月8日晚間沙特阿拉伯突然發起的石油價格戰。
原本3月"歐佩克+"限產協議到期,沙特、俄羅斯等國將協商繼續限產。沙特考慮到疫情沖擊,提議在原限產協議基礎上再縮減產能,以拯救原油市場。但俄羅斯不支持沙特深度限產,二者談崩。
沙特再次祭出屢試不��的殺手鐧,宣布大幅增產降價,企圖迫使俄羅斯屈服。
這一不合作博弈,直接導致國際油價閃崩,布倫特原油(Brent)暴跌24%至每桶 34 美元,創下自冷戰結束以來的最大單日跌幅,制造了"水比油貴"的黑色星期一。
3月9日,道指跌幅7.79%;標普500指數跌幅7.60%,觸發熔斷機制;納斯達克跌幅7.29%。石油巨頭沙特阿美公司(Saudi Aramco)一天跌去1.2個中石油市值。
油價崩盤曡加新冠疫情全球化蔓延加劇,再次引發史詩級暴跌。一周內,俄羅斯、法國、英國、日本、韓國、新加坡及美國股指跌幅超過15%,十餘個國家股指觸發熔斷,美股跌入技術性熊市,債券、期貨、黃金、比特幣均遭重創。
沙特的"懲罰"
"兩家都缺錢,但不同的是,沙特想限產以抬高價格,但俄羅斯卻希望多賣,雙方的矛盾在這里。"寧夏大學中國阿拉伯研究院院長李紹先認為,這次俄羅斯和沙特不歡而散的最主要原因是利益出現分歧,以及試圖爭奪對油價的影嚮力。
石油價格戰被挑起後,國際油價不僅直線墜入4年來的最低點,3月9日開盤的各國股市也因此慘綠大跌:布倫特原油期貨大幅跳空低開,開盤跌25%,隨後跌超31%。WTI原油期貨開盤大跌逾22%,一度跌超30%,跌破30美元/桶的整數關口。
國際油價跌至約30美元/桶,是什麼概念?
一桶原油約158.98升,以WTI原油期貨價格30美元/桶來計算,換算之後原油價格為210元人民幣/桶。而同容量農夫山泉礦泉水的價格為635.92元人民幣,3倍於當前國際原油價格,是名副其實的"水比油貴"。
這也創下自1991年1月海灣戰爭以來,國際油價的單日最大跌幅。
當時,國際油價曾因中東戰雲密布被不斷炒高。但以美軍為首的國際聯軍迅疾發動名為"沙漠風暴行動"的猛烈空襲,重創了入侵科威特的伊拉克軍隊,同時美國政府又大舉釋出石油戰略庫存。因此,在戰爭短期化與國際原油供需無虞的狀態下,當年的國際油價一舉打破"戰爭炒作"預期,於一日內大跌34.8%。
然而此次油價暴跌,卻是另外一種原因。根據沙特石油部的官方說法,沙特石油之所以大幅折扣、大舉增產,其主要目的是"懲罰不願繼續配合OPEC減產的俄羅斯"。
俄羅斯原油產量位居全球前三,長期與沙特、美國並列為石油"三巨頭"。雖然俄羅斯不是"石油輸出國組織"(OPEC)的正式成員國,但其產能方針長期與OPEC的政策聯動,雙方自2016年開始同步合作,也因此被稱為"OPEC+"聯盟。
但在過去幾個月的產能談判中,莫斯科卻不再支持OPEC協商減產的"共同穩價"策略,雙方談判最終在3月6日以破局收場。俄羅斯方面也徑自決定:自4月1日起,俄羅斯將自由增產,不再與OPEC聯動穩價。
相關消息傳出後,國際油價3月7日也曾重挫逾8%。豈料沙特不甘示弱,隨後跟進加碼,甚至提前打出"折扣戰"(主要市場客戶售價下降20%)與"增產牌"(4月起每日重回1000萬桶以上的巔峰產能),過量供應的國際油價與全球股市因此墜入穀底。
產油國在石油市場的競爭,本質上是一個成本問題。在原油質量檔次相同的對手之間,只存在"誰更便宜"的競爭優勢。1960年OPEC的成立,正是旨在通過建立一個價格聯盟,來避免產油國之間的價格互殘。
按照OPEC過去的邏輯,當全球需求下降,那麼就應該統一減產,以維護價格。但這一次,新冠肺炎疫情襲來,全球經濟蒙上陰影,沙特卻反其道而行之,宣布了30多年來的最大降價措施。
對此俄羅斯極力反抗。除了力主通過放任增長來"重整油價市場",甚至更直接把暴跌油價的戰略矛頭,對準美國的頁岩油氣產業。
頁岩油氣產業是特朗普刺激美國實體經濟的重要手段,也是美國實現能源獨立的最大功臣。近年來,美國還在積極謀求頁岩油氣出口。
俄羅斯為何拒絕
兇猛價格戰之初,絕大多數人的註意力都在應戰方俄羅斯身上。彭博社文章認為,沙特突然採取如此猛烈的手段,是為了盡可能快地給俄羅斯造成最大痛苦,從而迫使俄羅斯重回OPEC+的談判桌,並借此擠壓俄羅斯的全球市場份額。
荷蘭國際集團(ING)大宗商品策略負責人沃倫·帕特森(Warren Patterson)也持同樣觀點。他表示,俄羅斯放棄減產核心因素是減產擠壓了俄羅斯的市場份額,使得其全球第二大原油出口商的地位受到了威脅。"我認為,讓俄羅斯感到不安的是,盡管他們一直在削減產量,但實際上卻幫助美國頁岩油氣行業擺脫了困境,因此,他們想結束這一局面。"
這亦是俄羅斯談判代表一直強調的觀點。自從2016年俄羅斯與沙特聯合,並通過OPEC+的聯盟減產穩價後,國際市場的走向對聯盟產油大國並沒有明顯利多。每次只要通過OPEC+"減產穩價",石油市場份額馬上就會被美國惡意增產的頁岩油填補。也就是說,"減產"的失血都是OPEC+在扛,但"穩價"的利多卻都被搭順風車的北美頁岩油吃光。
路透社3月10日刊發的報道,也證實了這個邏輯。在俄羅斯拒絕減產引發油價暴跌以後,美國頁岩油產商從3月9日開始進一步削減支出,預計2020年夏季,美國頁岩油產出將下降至100萬桶/日。可見,在俄羅斯拒絕減產拒絕讓出市場份額以後,美國頁岩油反而停止了增產。
一位從事原油期貨交易的人士分析稱,與一般的商品貿易不同,原油市場簽署的大都是長期協議,一旦失去市場就很難再奪回來。對俄羅斯來說,一旦自己減產而沙特不減產,那麼一減一增之間,俄羅斯的原油市場份額就沒有了。
"不要盯著一時的價格,原油市場價格不是核心,市場份額才是關鍵,定價權才是王道"。該人士稱,如果俄羅斯當初接受了減產協議,美國頁岩油可以立即增產,占領原本屬於俄羅斯的那部分市場份額後,再與沙特一起拉升價格。"一來一回之間,俄羅斯減產的份額,直接成了美沙的盤中餐"。他認為,這種情況下,俄羅斯只能被動應戰,保住市場份額。
值得註意的是,美國總統特朗普3月9日就石油價格戰問題和沙特王儲穆罕默德·本·薩勒曼(Mohammad Bin Salman)進行過通話。3月10日,特朗普特別助理、白宮副新聞秘書賈德·迪爾在社交媒體證實,雙方討論了全球能源市場和其他重要地區及雙邊問題。
此番通話後,沙特國有石油公司、國際最大原油出口商沙特阿美表示,他們收到沙特能源部的指示,將公司的最大可持續產能(MSC)從1200萬桶/日增加到1300萬桶/日。
另據兩位彭博記者援引知情人士消息稱,特朗普與沙特王儲在電話中討論了當前石油市場狀況。其中一位透露,"特朗普致電沙特王儲的時間是在今早(3月9日)沙特宣布提高產量之前,這意味著特朗普與沙特王儲通話後,進一步加劇了原油價格戰。"
另一個版本
在俄羅斯,更多人將此視為俄羅斯最大油企、俄羅斯石油公司(Rosneft)總裁伊戈爾·謝欽的最終勝利。謝欽一直堅定反對俄羅斯和OPEC進行聯合減產,曾多次公開表示希望終止和OPEC的減產協議。
"俄油總裁謝欽、俄氣總裁祖布科夫,這兩人與普京一樣都是KGB出身,與普京關系非常密切,謝欽更是被普遍認為是���京和梅德韋傑夫之下的三號人物"。莫尼塔研究首席經濟學家鐘正生認為,此次談判破裂可能也有一些個人���素在內。
站在謝欽的立場,退出減產協議意味著對於美國人的致命一擊:當前頁岩油成本仍遠高於傳統方法開採的原油,且前景依賴於昂貴的進一步技術研發,這使得一旦各國產能恢複,油價成功下跌,無利可圖的頁岩油只能暫時停產,甚至徹底退出市場。
另據俄媒報道,普京此前曾接見謝欽。在會面中,謝欽向普京直接抱怨俄羅斯參與歐佩克發起的減產協議。謝欽認為,俄羅斯石油公司目前的操作成本僅為每桶3.2美元,能夠承受價格戰。
謝欽反對減產協議在過去幾年中不是秘密,他甚至被視為該協議唯一的反對者。但在當時,俄方高層中持這種看法的只有謝欽一人,而制約普京決策的還有更複雜的地緣政治關系:配合石油減產,意味著俄羅斯將在與相關中東國家的外交談判中更有主動性。此事因此被擱置。
當前俄羅斯與OPEC+之間的減產協議締結於2016年10月,此後經历多次延期,而2020年4月1日則是目前協議的截止日期。隨著新冠肺炎疫情在全球的蔓延,需求端多國經濟已經遭到打擊,未來市場預期低迷。OPEC的實際領導者沙特,在此之前已主動降低了本國產量,以彌補其他國家不合作造成的差額。
而俄羅斯國內的風向也已經發生了重大改變,不願意再向美國拱手奉上大禮了。多位消息人士向媒體證實,會前莫斯科在退出決定上就已達成一致,這一次俄羅斯能源部長諾瓦克的任務並非談判,而是通知全世界:俄羅斯不想玩了。
3月6日,雙方多年勉強維持的和平表象在五個小時的談判後宣告崩解:諾瓦克在會後馬上召開記者會宣布俄方退出談判,又過了幾個小時,沙特阿美就"打開水龍頭",推出了史無前例的減價促銷。
關於這一點,俄羅斯科學院世界經濟與國際關系研究所所長鄧肯(Alexander Dynkin)也曾在接受媒體採訪時證實稱,克里姆林宮已決定犧牲OPEC+,以制止美國頁岩油生產商,並懲罰美國對"北溪二號"管線項目的破壞。
"北溪二號"管線是德國和俄羅斯的天然氣合作項目,也是縱貫歐洲西北部的能源大動脈。這是一條由俄羅斯經波羅的海海底到德國的天然氣管道,可繞過烏克蘭把俄天然氣輸送至德國,再通過德國幹線管道輸送到其他歐洲國家。
從"北溪二號"動工前,美國方面就高度重視並不斷敲打歐洲各國,甚至宣稱"'北溪二號'會讓德國成為俄羅斯的人質",但歐洲各方不為所動。在被無情忽略了很久之後,美國參議院在2019年12月17日通過了《2020財年國防授權法案》,內有同意對"北溪二號"進行制裁的內容,要求施工單位立刻停工,否則將對其進行制裁,包括凍結其財產,阻止其入境美國等。
消息一出,瑞士Allseas集團立刻投降,宣布退出北溪二號線天然氣管道鋪設項目。作為全球最大的海洋油氣田開發平台安裝以及管道鋪設承包商,Allseas集團負責的波羅的海深海段天然氣管道鋪設,是項目難度最大的一部分。Allseas集團的繳械,直接導致"北溪二號"管線陷入停擺,而在目前項目方沒有替代方案的情況下,只能暫時停工。
地緣政治博弈
"直接原因是俄羅斯與OPEC在減產協議上談崩。但更深層次的原因,是沙特與俄羅斯在中東問題上的地緣政治博弈"。中國社科院世界經濟與政治研究所研究員張明說,只不過詭異的是,通常在中東地區地緣政治博弈加劇時,全球原油價格就會飆升,但這次卻是以雙方"殺敵一千、自損八百"的方式進行。
石油的生產和消費是分離的,但石油生產又集中於中東等某些地區。中東地區特殊的地緣政治構造,與石油這種戰略性資產綁定在一起,產生了複雜的化學反應。中東產油國多半嚴重依賴於石油,政治經濟結構比較簡單,往往陷入"石油詛咒"。
中東的地緣政治秩序並非內生,而是外界強加的。二戰結束之後,美國、蘇聯涉足中東,冷戰結束之後美國在中東地區獨大。特朗普上台後,實行"美國優先"方針,在全球施行戰略收縮,而俄羅斯則通過敘利亞戰爭,強勢重返中東地區。中東地緣政治秩序裂變,處於持續沸騰的狀態,已沒有穩定可言。
就最近而言,敘利亞戰爭朝著土敘戰爭的方向發展,俄土之間於3月6日達成了暫時的停火協議。伊朗問題持續發酵,加上伊朗國內疫情暴發,幾乎成為孤島。 而停火協議剛剛簽署,沙特就以俄羅斯拒絕減產為由迅速發動了價格戰。
"俄土協議直接刺激了沙特。"外界分析認為,一旦協議中涉及的M4和M5戰略公路全面打通,則什葉派天然氣管線全面打通。中俄土伊以該管線為基礎,就可以聯合搭建通往歐洲的能源管線,該管線主要以天然氣為主,其源頭是伊朗和卡塔爾共有的帕爾斯油氣田。" 如果這條管線建成,與沙特決裂的卡塔爾將實現劃時代的能源崛起,未來必將取代沙特在中東的能源老大地位,而與沙特在中東地區爭霸的死敵伊朗,也將全面崛起。沙特未來的處境可以用內憂外患來形容。"
《金融時報》認為,沙特的爆量增產與價格折扣策略,於戰略目的上確實有"威嚇俄羅斯"的宣示意味。畢竟如果無法在關鍵時刻嚇阻俄羅斯配合,未來沙特再要號令OPEC減產,其威信及影嚮力必將大打折扣。
不過也有人提醒,沙特此舉,要謹防重蹈1986年爆發的"石油過剩危機"。當年,在1973石油危機、1979伊朗伊斯蘭革命、1980年兩伊戰爭的一連串震蕩事件中,維持了很長一段時間的油價景氣。但各大產油國隨後拼命搶市、惡意增產,於1980年代中期制造了"供過於求"的結構性危機。
當時,作為OPEC盟主的沙特,不斷呼籲OPEC成員減產未果,反而自己主動減產後,海外市場也被各國"增產搶市"奪走。历經多次談判無果後,沙特決定於1986年放棄油價穩定方針,並以產能百分之百全開的"灌油"戰略,玉石俱焚地重創了所有不配合穩定價格的產油國家經濟體。
這就是著名的"1986沙特梭哈"事件。這次事件,不僅觸發了國際油價長期走低、直到上世紀90年代才逐漸回穩,對於國際戰略與世界历史,更引發了一連串意想不到的"蝴蝶效應"。
長期的低油價環境,雖讓美國與日本的制造業景氣大好,但卻讓蘇聯經濟墜入穀底,加速了鐵幕解體與冷戰結束的節奏;同時,低油價的沖擊,一度讓富裕的沙特、科威特等阿拉伯產油國瀕臨破產,後續的債台高築與石油糾紛,更引發了"伊拉克入侵科威特"以及後來的海灣戰爭。
小薩勒曼的野心
石油戰不是孤立的。在打嚮"油價戰爭"的幾乎同一時間,沙特國內亦接連傳出了一連串高度敏感的"宮廷政變"事件。多家西方主流媒體評論認為,挑起油價大戰與肅清王族的同步關系,雖然可能"只是巧合",但一系列"動搖國本"等級的震撼消息,令沙特舉國上下頗為不安。
3月7日,沙特阿美力度空前的促銷活動,甚至沒能博得國際媒體太多註意。因為前一天沙特首都利雅德發生的事情,搶占了全球幾乎所有媒體的頭條:兩位王室宗親、現任沙特國王薩勒曼的弟弟艾哈邁德親王與"前王儲"姪子同日被捕,罪名是忤逆叛國和政變。
3月16日,沙特政壇再次發生大地震,沙特軍隊再次出動,一口氣抓捕了298名沙特高官。其中包括20多名王子,8名國防部官員,29名內務部官員,3名上校,1名上將和1名準將,以及可以決定王權歸屬的兩名王室效忠委員會評審委員。
而這背後的操刀人,正是沙特王儲和實際控制人,現任國王的第8個兒子,穆罕默德·本·薩勒曼。
這位野心勃勃的王儲以其專制現代化的改革目標著稱,他試圖在維持王室統治的同時,給沙特以更為現代和開放的面貌,並鼓勵國內產業結構多樣化,擺脫石油經濟依賴。他的目標,是把沙特打造成阿拉伯與伊斯蘭世界心髒、全球性投資強國、亞歐非樞紐。
但為了達成這一目標,從石油交易獲��的收入必不可少。外界猜測,這可能也是本次與俄羅斯的談判破裂以後,沙特立即採取激烈反制措施的原因之一:王儲的政治成敗眼下完全系於油價,特別是,作為他主要政績工程之一,去年12月上市的沙特阿美公司的市場表現,對他來說至關重要。
小薩勒曼年僅29歲便出任了沙特國防大臣,掌管軍隊。對外,他一改鴕鳥政策,死懟伊朗,先是聯合其他阿拉伯國家,空襲也門胡塞武裝組織,造成數千人傷亡,數百萬人流離失所,再是制裁溫和派卡塔爾,斷交、關閉貿易和邊境,甚至出兵巴林叫板俄羅斯。
對內,小薩勒曼又作為總設計師,提出了改革計劃"沙特願景2030"(Vision 2030),解放女性就業、引進文化娛樂,壓縮宗教警察,大力推動世俗化。
自從親生父親薩勒曼於2015年登基以來,一路備受寵愛的小薩勒曼,不僅通過宮廷鬥爭打破了"兄終弟及"和王室效忠委員會的宗法,破格當上了沙特王儲,還在父親的支持下,至少策動了三次王族大清洗,通過大規糢逮捕、軟禁與"被消失",處理掉不少王室的叔伯同輩。
為了順利爭奪儲位,這父子倆當初"砸錢"搞外交的大手筆令人印象深刻。
2017年3月,81歲的國王薩勒曼訪華,帶了506噸重的行李,1500名隨從,包括10名部長、800名代表和25位王子,要求接入"一帶一路"。3月16日,兩國簽署了價值約650億美元的諒解備忘錄和合作意向書。
同年,沙特國王自建國後第一次历史性地訪問俄羅斯,當場砸下150億美元大單,普京大悅,回贈了一只珍貴的堪察加獵鷹。
也是在那一年,特朗普訪問沙特,簽下了美國有史以來最大的一筆軍售訂單,1100億美元。��此,小薩勒曼與特朗普女婿庫什納稱兄道弟,結為好友。
搞定了共和黨,小薩勒曼也沒忘了民主黨和華爾街。在他主導下,沙特先後收購了特斯拉、Uber幾十億美元的股權,還砸下數百億美元給了孫正義的"願景二期基金"。千億美元的願景基金(Vision Fund),其資本量相當於12.5個紅杉,是美國全部VC一年募資額的兩倍,讓硅穀的老牌風投們都黯然失色。
不過,沙特畢竟是一個政教合一、君主專制的國家,王子們掌握著大量政府職務和封地,再加上小薩勒曼要求沙特放棄極端宗教主義,遭到了神權和世俗政權的激烈抵抗,因此他在沙特,從未真正贏得一致支持。此外,也沒有跡象顯示,現年84歲的國王薩勒曼近期要移交王位。隨著王儲行動日益出格,他近期是否有武力奪權的計劃,一直都是外界熱衷猜測的焦點問題。
此次被逮捕的王室宗親,包括艾哈邁德親王與"前王儲"在內,全都是王族里曾爭奪過王位繼承權的敏感威脅者。在2017年被鬥垮之後,"前王儲"一派被長期軟禁,直到2018年才開始獲準出現在"非政治性"的社交場合。
但根據沙特王室的說法,過去幾個月內,"前王儲"兄弟開始秘密與外國人會面。他們曾執掌沙特內政部,並通過反恐合作在歐美各國廣泛結交人脈。據傳"前王儲"兩兄弟6日被捕時,正在利亞德郊區的沙漠露營獵鷹,但此處行程正是他們過去時常設宴招待外國友人的密會行宮。
誰會先出局?
截至目前,這場"價格戰"的走向尚算明晰:沙特與俄羅斯均公布了今年4月開始的增產計劃,普遍預期油價仍將繼續下行,兩國目前各有約5000億美元儲備可供調用,並都相信輸的不會是自己。
那麼,沙特的減價增產之舉會迫使俄羅斯重回談判桌嗎?"只有時間會給出答案"。荷蘭國際集團大宗商品策略負責人沃倫·帕特森認為,"俄羅斯的目的是對美國石油業施加壓力,盡管這可能在中期發揮作用,但會產生怎樣的長期影嚮尚不確定。"
帕特森表示,毫無疑問,沙特和俄羅斯是這場價格戰中的主角。至於兩國鬥法誰占上風,他認為,對俄羅斯來說,即便油價低於50美元/桶,也能實現財政收支平衡;而沙特則需要約80美元/桶,"從這一點來說,俄羅斯處於更有利的位置。"
數據顯示,沙特的年度財政平衡,建立在油價84美元/桶的前提之上,58美元/桶的石油價格意味著GDP6.4%的赤字,這使得沙特阿美的大促銷看上去像是慢性自殺。對比財政平衡基點為45美元/桶、央行還準備了應急方案的俄羅斯,誰離懸崖更近一目了然。
俄羅斯財政部3月9日重申,可承受每桶25~30美元的低油價,且持續6~10年。因為油價背後有俄羅斯主權基金(National Welfare Fund)做後盾,該基金規糢超過1500億美元,可以彌補因油價下跌造成的收入減少問題,因此不急於重回與OPEC的談判桌。
盡管如此,3月6日消息傳回當天,俄羅斯市場研究機構還是一片嘩然。"退出談判是一個大錯誤。"一位研究員直言不諱地向媒體表示,"增加的出口產量只能用於抵消價格虧損,俄羅斯在這種情況下完全無利可圖。"另一位業內人士則形容,考慮到沙特還有更激進的增產計劃,而其他產油國勢必各自展開競爭,此事"已經按下了啓動鍵"。
而成為局外目標的美國頁岩油廠商,的確處於極為脆弱的地位。據達拉斯聯邦能源局調查,對美國頁岩油業者來說,收支平衡的價格在每桶48~54美元之間,一旦每桶低於40美元,將對美國頁岩油產業造成毀滅性打擊。
捍衛美國石油和頁岩油氣產業,對於特朗普2020年競選連任至關重要。因為石油行業是得克薩斯州的主要產業和僱主之一,而得克薩斯州是總統大選中的關鍵選舉州之一。
按照高盛的預測,如果油價過度下跌或者跌到20美元區間,將給美國頁岩油氣產業帶來災難,並可能在未來幾個月內導致數百萬頁岩工人失業,垃圾債券將遭到災難性拋售,而信貸面臨的極端壓力,將動搖整個美國金融體系的基礎。
"政府最近一直在考慮一系列能夠幫助頁岩油行業應對油價暴跌的措施"。美國能源政策顧問菲爾·弗雷格(Phil Verleger)表示,盡管針對沙特採取關稅方面的任何行動都極不可能取得成功,甚至行不行得通也是個問題,但這並不意味著特朗普不會採取任何行動。
3月13日,特朗普表示,已指示美國能源部為戰略石油儲備購買原油,以支持遭受重創的美國能源業。《華爾街日報》援引美國政府官員的話說,美國政府和業界均認為,有必要經由外交手段穩定原油市場,正考慮一方面施壓沙特將原油日產量削減到"價格戰"前水平,一方面對俄羅斯實施新制裁。
"我會在合適時機介入……嘗試找到一個居中的位置。"特朗普3月19日說。但對此,俄總統新聞秘書德米特里·佩斯科夫予以拒絕。他於次日回答記者提問時說,俄羅斯與沙特在原油市場"關系良好","不需要其他任何人幹預"。
更多的憂慮,其實集中在外部市場的不確定性上:俄羅斯當前拒絕進一步減產的根本原因在於,他們相信新冠病毒疫情不會對全球經濟以及能源需求造成長期影嚮。但如果這一判斷最終被證明失誤,等待俄羅斯的將會是高達GDP總值4.8%的經濟損失。
"最大的問題是誰先眨眼"。U.S. Bank Wealth Management高級投資策略師Rob Haworth說,"我們也不知道病毒接下來會怎麼發展,市場非常擔心需求增長減弱"。
因此有觀點認為,如果油價進一步走低,俄羅斯也將無法獲得預期的經濟收益。"實際上,現在放棄減產是兩敗俱傷,雙方最終還得回到談判桌前。"
據俄羅斯衛星網報道,當地時間3月10日,俄羅斯能源部長諾瓦克表示,此前沒有就減產協議達成一致,但並不意味著各方不能繼續進行合作,OPEC與非歐佩克產油國下一次會議將在5月或6月舉行。"我想說談判大門仍未關閉,這並不意味著未來我們不能繼續合作"。
對於俄方的這一表態,沙特能源大臣阿卜杜勒-阿齊茲在一份聲明中回應稱,"沒有跡象顯示未來數月內將會召開產油國會議協調原油產量"。沙特阿美總裁兼首席執行官納賽爾(Amin Nasser)則表示,今年4-5月都將維持在提升後的產能水平,他們對30美元/桶的油價非常滿意。
雖然沒有排除合作的可能性,但俄羅斯顯然也做好了持久戰的準備。克里姆林宮方面稱,目前沒有計劃就油價與沙特以及OPEC進行聯系。而OPEC+原本計劃在3月18日舉行的聯合技術委員會電話會議,已經因沙特缺席而臨時取消。
從目前各方表態看,沙特計劃增產超300萬桶/日,阿聯酋準備將產能提升25%至400萬桶/日,加之俄羅斯的潛在產能增量,4月起全球原油產能將增加近500萬桶/日。如果再考慮伊拉克和科威特宣布的降價措施,市場將進一步陷入低油價沖擊下的供應過剩泥潭。
"我們從未見過像這樣的市場。"Commodity Research Group高級合夥人安德魯·勒博說,"不是說石油以前從未崩潰,但這次是供需雙方同時沖擊,足以載入史冊。"
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「トリプルパンチ」どころではない
東京都の小池百合子知事が3月25日、今週末の外出自粛を要請した。今後の感染状況次第では「首都封鎖」の可能性も否定していない。前日の24日には、東京五輪の1年延期が決まった。日本経済は、そして政局はどうなるのか。
昨年秋の消費増税が日本経済に大変な悪影響をもたらしたのは、ご承知の通りだ。昨年10〜12月期の国内総生産(GDP)はマイナス7.1%に急落した。政府は悪天候も理由に挙げたが、天気が悪かった程度で、これほど落ち込むわけがない。主犯は増税である。
この数字には、新型コロナウイルスの影響が含まれていない。新型コロナは日本だけでなく、世界経済に大打撃を与えている。5月18日に発表される今年1〜3月期のGDP速報値は前期に続いて、悲惨な数字になるだろう。
加えて、東京五輪・パラリンピックの延期が決まった。私は2月中旬から複数の連載コラムで「夏の東京五輪は難しい」と書いてきた(https://www.zakzak.co.jp/soc/news/200222/dom2002220004-n1.html、https://www.zakzak.co.jp/soc/news/200321/dom2003210006-n1.html、https://www.shikoku-np.co.jp/feature/hasegawa_column/20200229.htmなど)。予想通りとはいえ、延期の決定は遅すぎたくらいだ。
そこへ、外出の自粛要請である。もしも首都封鎖となったら、日本経済は「消費増税、東京五輪延期、新型コロナウイルスによる首都封鎖」というトリプルパンチに直撃される形になる。いや「世界経済の低迷」を加えた「クワトロパンチ」と言っていい。
リーマン・ショックを上回る事態
今回の危機は、よくリーマン・ショックに比べられるが、もはや「リーマンを上回る」とみて間違いない。まさに、経験したことのない世界に突入している。
首都閉鎖は決まったわけではないが、東京都の新規感染者数が23日に16人、24日に17人、25日に41人と、異例のペースで増えた事実を踏まえれば、そうなる可能性は低くない。消費者も首都封鎖を織り込んでいる。私は26日午前中、近くのスーパーを回ってみたが、1店目は駐車場が満車の行列で入れず、2店目もレジは大行列だった。
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そこで、政府の対応に注目が集まっている。安倍晋三政権は4月上旬に経済対策を策定する見通しだが、はたして、どれほどの規模になるのだろうか。すでに「事業規模で30兆円超」とか「消費減税は見送り」などと報じられている(https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202003/CK2020032302000120.html)。
事業規模は政府系金融機関による緊急融資などを含んだ額で、それもないよりはマシだが、景気の下支え効果は小さい。肝心なのは、あくまで「真水」と呼ばれる財政支出と減税規模だ。その際、GDPに比べた真水の割合が評価の目安になる。国によって経済規模が異なるからだ。
米国のトランプ政権は当初、1兆ドル規模の対策を検討していたが、民主党の要求を受け入れて、最終的に約2兆ドル(約220兆円)の規模で合意した。米国のGDPは約20兆ドルなので、GDP比で10%だ。これを日本に当てはめれば、日本のGDPは約550兆円なので「約55兆円規模の対策が必要」という話になる。
事業規模30兆円超の対策のうち、真水部分は15兆円程度と推測されていたので、米国に比べれば、まったく力不足であるのは明らかだ。真水15兆円は、リーマン・ショック時の経済対策になぞらえた数字にすぎない。
非常時には非常時の政策を
米国の対策の中身を見ると、年収7万5000ドル(約830万円)以下の人に1200ドル(約13万円)の小切手支給など、現金給付が盛り込まれている。日本はどうなるのか。
麻生太郎副総理兼財務相は「現金の場合、貯金に回らない保証があるのか。商品券なら貯金に回らない」と述べて、現金給付に消極的だ。だが、これまでのように商品券を地方自治体が発行する形にすると、その分、手間暇のコストと時間がかかる。
米国では、家賃や学費はもちろん商品の購入、寄付に至るまで小切手による支払いが普及している。小切手が一般的ではない日本では、政府がどうやって現金を配るのか、工夫が必要だが、商品券より現金のほうがインパクトがあるのは間違いない。
消費減税も、たとえば「2年間は全品目を5%にする」といった思い切った施策が必要だ。他に「2年間は住宅ローンの支払いを猶予する」といった政策も考えられる。「賃貸住宅に住む家庭はどうするのか」といった問題には、別に家賃補助を考えればいい。
いずれにせよ、非常時には非常時の政策が必要だ。安倍首相は2月29日の会見で「世界経済の動向も十分に注視しながら、そのインパクトに見合うだけの必要かつ十分な経済財政政策を行っていく」と語っていた。こういう言い方は、私が記憶する限り、前例がない。
となれば、ぜひ「クワトロパンチ」のインパクトにふさわしい「クワトロ級の経済対策」を策定すべきである。
「ポスト安倍」をも左右する
経済対策が注目されるのは、経済面だけではない。ポスト安倍問題に絡んで、政治面にも影響を及ぼす。ここでシャビーな(みずぼらしい)対策を打ち出せば、安倍政権が信頼を失うだけでなく、有力候補の1人である岸田文雄・自民党政調会長の行く末にも、暗雲が灯る可能性がある。
ポスト安倍をめぐっては「安倍首相の意中の人は岸田政調会長」という見方で衆目が一致している。麻生氏も岸田氏を押している。そんな中で、もしも失望感が広がる対策になったら、安倍、麻生両氏が推す「岸田氏も期待できない」という話になるからだ。
それでなくても、岸田氏は存在感が乏しい。「霞が関の言うなり」という評価もある。私が岸田氏の地元、広島市で講演した際「もっと自分の言葉で語るべきだ」と話したら、会場にいた岸田後援会の最高幹部が「それは私が長年、本人に指摘してきたことだ」と語ったこともある。
見方を変えれば、ここは岸田氏にとって千載一遇のチャンスでもある。自民党の政策責任者として、安倍、麻生両氏が驚くような大胆な経済対策を打ち出せば、これまでの評価を一変させられるかもしれない。
とてつもない破壊力
逆に、慎重一辺倒を貫いて「がっかり感満載の対策」になると、ポ��ト安倍も不透明になるかもしれない。いまや国民の危機感は尋常ではない。「こんな非常時に決断力のないトップはいらない」という話になるからだ。
新型コロナウイルスは東京五輪を吹き飛ばしてしまった。それどころか、日本と世界の経済も吹き飛ばしつつある。とてつもない破壊力をあなどってはならない。たかが日本の財務省を吹き飛ばせないような政治家では到底、太刀打ちできないのは明白である。
そうなれば、逆に、新型コロナがポスト安倍候補を吹き飛ばしてしまうのではないか。
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絶望のパレード
魂がうわついている。まるで自分が自分でないみたいだ。ここしばらく意識は常に前方斜め下で、歩いているのは抜け殻か尻尾のようなものである。いつから、そしてなぜそのようになってしまったのだろうか。正月にかこつけて内省的になってみる。
昨年の初めに私家版詩集を刊行した。それまでに書き溜めた僅かな詩編を、2人の詩人と編集者、美術家とともに共著の形でまとめた。処女詩集にして全集のようなおもむきがあるけれども、自分としてはそれでよい。稲垣足穂風に言うなら、以降に自分が書くものはその注釈かバリエーションに過ぎないということだ。共著者と編集者が営業に奔走してくれ、関西の大型書店のみならず、関東の書店にも置いてもらうことができた。ありがたいことに帯には人類学者の金子遊氏が一文を寄せてくださった。個人的には、自分の高校時代からの読書遍歴を決定づけた恵文社一乗寺店に置いてもらえたこと、そしてそこで一度品切れになったことが大変嬉しかった。これで一地方のマイナーポエットになることができたという感じがある。それ以上は望まないが、この営みは細々と続けていくつもりだ。
詩集に関するあれこれが落ち着いてからは、英語の学習に明け暮れた。一昨年は仕事で繁忙を極めており、勉強どころか読書も満足にできなかったため、それを取り戻すように必死にやった。おかげで昨年度中の目標としていた点数を一発で大きく上回ることができ、すぐに違う分野へ手を出した。次はフランス語であった。気合を入れて5000円もする参考書を買い、基礎からやり直していった。ところがその参考書、誤植があまりにも多く、解説も非常に不親切で、ページをめくるのが億劫になり早々にやる気を失ってしまった。なんとも情けない話である。新しい参考書を買う気もなくなり、漢字の勉強へシフトしたところ、こちらはうまくいった。徐々に、平日はカフェで、週末は図書館で勉強するスタイルが出来上がっていった。その間も読書は続け、昨年で40~50冊程度は読むことができた。
秋ごろには面白い出会いがあった。実存的な不安が高まったこともあり、有休を取って哲学の道を散歩していたところ、海外からの観光客に、掛かっている看板の意味を聞かれた。訛りのある英語だったため、フランス人ですか? と問うと、そうだとの答え。自分がわずかばかりフランス語が話せるとわかって意気投合し、3日間観光ガイドのようなことをした。彼の名はムッシュー・F、ひとりで日本にバカンスに来て、東京でラグビーの試合を見たりしたとのこと。七十を超える高齢だが、つい最近まで自分もラグビーをしていたと話すエネルギッシュな人物で、全���年齢を感じさせない。パリで会社を営んでいるそうで、これが私の家だと言って見せられたのは、湖畔に浮かぶ大邸宅の写真であった。週末には森を散歩したり、湖にモーターボートを浮かべたり、馬に乗ったりしているよと言う。もちろんそれらは全て私有(森や湖でさえ!)、モノホンの大金持ちである。京都では一緒にカフェに行ったり、大文字に登ったり、うどんをご馳走したり、孫用の柔道着を探したり、旅行の手配を手伝ったりした。是非フランスにおいでと言い残し、彼は去った。それから今でも連絡を取り合っている。実に50歳差の友人ができた。
かつて自分は、日本で日々を平穏に過ごしながらたまに外国語を話す生活を望んでいたが、今になって少しばかり叶っていることに気が付いた。仕事ではしばしば英語を使う。ただ、本音を言えば、金子光晴のように海外を旅して回りたい。学生時代に思い描いていた生活はと言えば、高等遊民か世界放浪者であった。金子は詩の中で「僕は少年の頃/学校に反対だった。/僕は、いままた/働くことに反対だ。」と言った。人間は何からも自由なのである。自分も「成績」や「評価」、「管理」などには絶対に反対である。人に指示され、その目を気にして送る生活など耐えられない......。ところが、じっさいの自分には構造の外へ飛び出す勇気がない。そもそも自分は道の外から生のスタ-トを切ったのだ。そこから正道に戻るだけで精いっぱいだった。血の鉄鎖に引きずられながらもなんとか空転を繰り返した結果、保守的な思想が全身に染みついてしまった。今はなすすべもないまま泣く泣くレールの上を鈍行で走っている。窓からは、空中を並走するもうひとりの自分が見える。全てに背を向けて純粋な精神の飛翔を楽しむ自分の姿が。金子の詩友・吉田一穂は「遂にコスモポリタンとは、永生救はれざる追放者である」と言った。世界は狭量だ。自分にとっては、シュマン・ド・フィロゾフもアヴェニュ・デ・シャンゼリゼも等価である。どうにか国や所属を超越したいと強く思う。やはり勉強をし直さねばならない。
自分の様子がおかしくなったのは10月頃からだ。一昨年度に忙殺されたせいで少なからず人間の心を失った自分は、仕事における虚脱感に苛まれていた。家における問題もあり、また昨年度新たに来た上司とは全くウマが合わず、フラストレーションも募っていた。そもそもが5年で5人も上司が変わるという異常な環境である。自分はよく耐えてきたと思う。働くことが馬鹿馬鹿しくなり、ぼーっとする時間が多くなる。そんな中、自分はある大きなミスをしでかしてしまった。それは実際大した問題ではない、誰にでも起こりうることだった。尻ぬぐいは上司とともに行うこととなった。しかし、そのミスのせいでかなり落ち込んでしまい、さらに事後対応や予防策の打ち出し方が虫唾が走るほど不快なものであったため、自分は深く考え込むこととなった。さらにそこで追い打ちのごとく転勤が告げられたため、自分はついに心身に不調をきたしてしまった。抑鬱、不眠、吐き気、緊張性頭痛、離人感、悲壮感、食欲不振……全ての事物から逃げ出したくなる衝動に眩暈がする。ある日職場で人と話している時に、どうにもうまく言葉が出てこなくなったため、何日か休む羽目になった。初めて心療内科を受診し薬をもらった。一日中涙が止まらなかった。その頃の記憶はあまりない。日々、ふわふわと悲しみのなかを漂っていたように思う。ただ、話を聞いてくれる周りの人々の存在はかなりありがたく、ひとりの人間の精神の危機を救おうとしてくれる数多の優しさに驚かされた。転勤の話は自分の現況を述べたところひとまず流れた。その際、上役が放った言葉が忘れられない。「私は今までどこに転勤しても良いという気持ちで仕事をしてきましたけどね」。他人の精神をいたずらに脅かすその無神経さに呆れて物が言えなかった。薬の服用を続け、1ヶ月半ほどかけて不調はゆるやかに回復したが、自分が何もできずに失った貴重な期間を返して欲しいと強く思う。仕事に対する考え方は世代間でもはや断絶していると言ってもよいだろう。
労働を称揚する一部の風潮が嫌いだ。仕事をしている自分は情けない。それにしがみついてしか生きられないという点において。システムに進んで身を捧げる人間の思考は停止している。彼らは堂々と「世の中」を語り始め、他人にそれを強制する。奴隷であることの冷たい喜びに彼らの身体は貫かれている。何にも興味を持てなかった大多数の人間が、20代前半に忽然と現れる組織に誘拐され、奇妙にも組織の事業であるところの搾取に加担・協力までしてしまう。それは集団的なストックホルム症候群とでも言うべきではないか。社会全体へのカウンセリングが必要だ。尤も、使命感を持って仕事に臨む一部の奇特な人々のことは尊敬している。生きる目的と収入が合致しさえすれば、自分も進んでそうなろう。だが自分は、「社会とはそういうもの」だという諦念には心の底から反抗したい。組織とは心を持たない奇形の怪物だ。怪物は人間の心の欠陥から生まれる。ただ怪物のおかげで我々は生きられる。それをなだめすかしておまんまを頂戴しようという小汚い算段に、虚しさを深める日々。人間的であろうとする以上、この虚しさを忘れてはいけない。
どうしようもない事実だが、労働によって人の心は荒む。労働は労働でしかない。肉体を動かすことによる健康維持という面を除けば、それ自体、自己にとっては無益なものだ。勤労意欲のない文学青年たちはいかなる生存戦略を以て生活に挑んでいるのか。彼らの洞窟を訪ねて回りたいと思う。現代には、彼らのように社会と内面世界を対立させたまま働き消耗する人々がいる。ある経営者がその現象を「ロキノン症候群」と呼んでいた。芸術に一度でもハマったことがあるような人々がそうなのだという。しかし彼らも納得はいかないながら、どこかで折り合いをつけて頑張っているはずだ。自分は彼らに一方的な連帯感を覚える。来る亡命に向けて、励まし合っているような気さえするのだ。世間様はきっと我々を馬鹿者だと罵るだろう。「なんとでもいはしておけ/なんとでもおもはしておけ」と、山村暮鳥の強い声が聞こえる。目に見えるものだけを信じるのもいいが、それを周りに強いてはならない。我々は今、ようやく開けてきた時代を生きている。だが認識は未だ模糊としている。完全な精神が保証される世界からすると、まだまだ古い時代なのだ。人間の姿を見失いがちな現代に対して言えるのはただ一つ、みんなで一緒に幸せになろう、ということだけだ。
さて、年末に3日間の有休をぶち込んだので年末年始は12連休となった。天六で寿司を食べ、友人宅に入り浸ってジャークチキンをむさぼった。ポルトガル料理に舌鼓を打ち、サイゼリヤで豪遊した。特に予定を立てずに、ひたすら酒とコーヒーを鯨飲する毎日であった。心身の不調はマシになったものの、不運が続き、人と会わなければどん底に落ちると思った。それはまるで自分という神輿を中心にした絶望のパレードのようだった。
休みの初日、ふと思い立ち、生き別れた父親の所在を探るべく、戸籍を請求してみた。私は父親の顔も名前も知らなかった。さほど興味がなかったというのもあるが、これまで家族に問うても曖昧な答えしか返ってこなかったのだ。働き出してからしばらくして、親戚から聞いたのは、父親は母親と同じく耳が聞こえなかったこと、暴力をふるう人間であったことの二つだけだ。養育費が払われることはなかったともどこかで聞いたような気もする。いずれにせよクズのような人間であったことは疑いようもない。生まれてから会った記憶もなく、不在が当たり前の環境で育ったため、会いたいと思ったことはほとんどない。ただ、自分の身体の半分が知らない人間の血によって構成されていることに何と���言えない気持ち悪さを覚えていた。というのも、顔は母親似だと言われるが、色覚異常の遺伝子は父親から受け継いだものであり、おかげで少年はある夢を断念せざるを得なくなったからだ。その「不可視の色」を意識するたび、自分の身の内には不在の存在がかえって色濃く反映された。違和感は自分が年を重ねるごとに増してゆくような気がした。そのため、せめて名前と消息だけでも知っておこうと思い、今回ようやく役所に出向いたのだ。職員に尋ねたところ丁寧に教えてもらえた。自分の戸籍から遡れば簡単に辿ることができる。しばらくして数枚の紙きれが手渡された。そこには聞きなれない苗字が書かれてあった。そして、案外近くにひとりで住んでいることがわかった。ふーん。何か虚しさを覚えた。自分は何がしたかったのか。カメラを持って突撃でもすれば面白いのかもしれない。ネットで調べてみると同じ名前の者が自己破産者リストに載っていた。そうかもしれないし、そうで��ないかもしれない。結局自分には関係のないことだ。じっさいこの文章を書いている今、父親の下の名前をまったく忘れてしまっている。思い出そうとしても思い出せないのだ。
旅行前日の夜中に家の鍵をなくした。普段ほとんど物をなくさないのでかなり焦った。約4㎞の距離を3往復し、交番に駆け込むも見つからず。最後に寄ったコンビニの駐車場を這うように探し回ったところ、思いがけない場所で発見し安堵した。寒くて死ぬかと思った。自分は落とし物を探す能力には自信がある。物をなくさない、などと言いながらイヤホンのイヤーピースはこれまでに3度落としたことがある。しかし、その都度血眼になって道端から救出してきたのだ。今回見つからなかったら自分はどんなに落ち込んでいただろう。2時間も無駄にしてしまったが、とにかく良かった。もうお洒落を気取ったカラビナは使わない。
中学時代の友人3名と有馬温泉に行った。ここ数年、年末の旅行は恒例行事となっている。とはいえこの4人で遊ぶために集まるのはおよそ10年ぶりだ。有馬は京都から車でおよそ1時間半。温泉街は観光客でごった返している。外国人も多い。昼飯にカレーを食べ、しばしぶらつく。細く入り組んだ坂道が続く。公園には赤く錆びついた蛇口があった。飲用可能な鉄泉だったが、衝撃的な味に顔がゆがむ。血だ。その後、目当ての温泉旅館に行くも臨時休業であった。どこの湯も混雑しており、20分待ちがザラだった。日帰り湯の看板が出ていないホテルにダメもとで聞いてみると、幸運にも入れるとの答え。客もほとんどおらず、金泉をこころゆくまで楽しめた。歩き途中、炭酸せんべいを土産に買う。特徴のない普通のせんべいだ。ここで一旦宿に戻って車を置き、再びタクシーで温泉街へ。鉄板焼き屋でお好み焼きを食べ、銀泉に入る。顔がツルツルになった。宿はそこからかなり離れた山裾にある合宿所のようなところだった。嫌がるタクシーに乗り込み、外灯のない急坂を登る。受付には緩い感じのおじさんがいて、懐かしさを覚える。鍵を受け取り、宿泊棟へ。一棟貸しなので騒ぎ放題だ。大量に仕入れた酒とつまみと思い出話で深夜までウノに耽った。翌朝気が付いたのは隣の棟の声が意外とよく聞こえるということだ。大声、というか爆音で昔の先生のモノマネやらツッコミやらを繰り返していた我々の醜態は筒抜けになっていたようだ。棟を出る時に同年代くらいの若者と鉢合わせてかなり気まずかった。ここにお詫び申し上げる。この日は朝から中華街へと移動し、料理を食らった。鰆の酒粕餡かけという聞きなれない一皿がめっぽう美味かった。バリスタのいるコーヒー屋でエスプレッソを飲み、だらだら歩いて旅行は終了。京都に着いてからなぜか3時間ほどドライブし、大盛の鴨南蛮そばを腹に入れてから解散となった。
大晦日は友人宅で蕎麦をご馳走になってから鐘を撞きに行き、深夜まで運行している阪急で松尾大社へ。地元の兄ちゃんが多い印象。社殿がコンパクトにまとまっていて良かった。おみくじは末吉だった。年明け早々、以前付き合っていた人が結婚したことを人づてに聞く。めでたい気持ち半分、複雑な気持ち半分。元日は高校時代の友人3人と四条で酒を飲むだけに留まる。2日は友人らと蹴上の日向大神宮へ。「大」と名づくが割合小さい。社殿の奥には天の岩屋を模したと思しき巨大な岩をL字型にくりぬいた洞窟があり、潜り抜けることができる。いつ作られたものかは不明だそう。暗闇を抜けて日の光を再び浴びる時、不思議にもスッキリとした感覚になる。ここでもおみくじは小吉だった。その後は下鴨神社の露店を物色し、ケバブとヤンニョムチーズチキンなる悪魔のような食べ物に枡酒で乾杯。旧友と合流し、深夜まで酒を飲み、コーヒーで〆。怒涛のアルコール摂取はここで一旦落ち着いた。
3日、昼に起きる。夕方ごろ喫茶店に行くもぼんやりして何もできず。3時間で本のページを3回めくったのみ。その帰りがけに初めて交通事故を起こした。自分は自転車に乗っていたが、考え事ごとをしていたかそれとも何も考えていなかったか、赤信号の灯る横断歩道の真ん中で車に真横からはねられて、初めて意識が戻った。即座に状況を理解し、平謝りする。非常に幸運なことに怪我も物損もなく、さらには運転手が気遣ってくれたおかげで大事には至らず、事故処理のみしてその場を後にした。自分はあまりにぼーっとしすぎていたのだ。赤信号はおろか、横断歩道があることさえも気づいていなかった。完全にこちらが悪い。ただ、こんなことを言ってはヒンシュクを買うだろうが、何か自分のせいではないような気もした。昔、轢かれたことのある友人が、「車は鉄の塊、人なんて無力」と言っていた。生と死は笑えるほどに近い。車の同乗者には、生きててよかったなぁ! と半ば怒った口調で言われた。果たしてそうなのか。苦しんで生きるか、知らぬ間に死ぬか、どちらが良いのか。よくわからない頭のまま先輩の家に遊びに行き、帰ってからおみくじを捨てた。馬鹿にもほどがある。
“WWⅢ”がツイッターのトレンド入りした日に、リニューアルしたみなみ会館で映画「AKIRA」を見た。第三次世界大戦で荒廃・復興した2020年のネオ東京が舞台である。東京オリンピックの開催まで予言されていて瞠目する。作画の緻密さと色彩の美麗さ、展開のスピードが尋常ではなく、見るドラッグのようであった。見に来ていたのは意外にも20代の若者が多かった。なぜか終了30分前に入ってきた女性3人組もいた。目がぐるぐる回って、もう何が何か訳がわからなかった。溢れそうな鍋に蓋をしたところ、その蓋の上から具が降ってきた。そんな脳内で、世界の終わりというよりは、自分の終わりという感じだった。翌日から仕事だったが、変に興奮して夜中まで寝付くことができなかった。
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TASCは電子制御の車両と親和性が高く、アナログ制御の電車には搭載しにくい。簡単に言うと、ハンドルが1本の電車には取り付けやすく、ハンドルが2本の電車には取り付けにくい。そこで、まずは8000形のうち、ハンドル2本タイプが廃車となる。他の8000形はリニューアル工事でワンハンドルになったから、しばらくは走る。
簡単に言いすぎだとは思うけど、だからと言って「MBS車には取り付けやすくHSC-Rの電車には取り付けにくい」ではそれこそ何がなにやらわからんもんな
個人的には「デジタル式のブレーキは取り付けやすく、アナログ式のブレーキは取り付けにくい」が妥当じゃないかと思うんだけど、HRDAはじゃあどうあるんだってことになるんだよな今度は。まあ、小田急はHRDAはなかったと思うからいいのかな?
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回 銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館 銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はで���かせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして���たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~ 総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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メインブログ: My B Side Life *Hyper 先行公開‼
小田急新5000形 伊勢原11号踏切 大山 麓の風景 青田 田園風景
※小田急新5000形の走り抜ける大暑の頃の伊勢原11号踏切の寸景※
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