#宇宙的ナンセンスの時代
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宇宙的ナンセンスの時代 宮内勝典 教育社 構成・レイアウト=三村淳、カバー表写真=Susumu Sato
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--深海人形-- ※ い つ も の
※ザクジムよりも見た連中(※ジェガンよりも出番が多い連中でもある)。
※閲覧&キャラ崩壊注意
※ネタも話題も雑多(※闇鍋)。
※自死ネタあります
--彼女が自らの意志で天国に旅立った理由を考える 2
--我々は、どうしても、あなたに死んで欲しく無かった
貴方が自らの意思で世を去ったと言う訃報を聞いた時、とてつも無い衝撃が走りました。その数日後に、虚無の中、呆然としながら、温泉旅行(そう言えば、あなたは温泉むすめとも深く関わりを持っていましたね)に行って、Film Redを見た後、温泉に入りながら、最後の最後であのような衝撃的な結末を迎えたウタちゃんと貴方の姿をふと重ねた。
……貴方が消え去っても、貴方の描いたイラストも同人誌も鮮やかであり続けている。皆末長く記憶していく。忘れ去られたりはしない。絶対に。
--
それに、草田さん、未成年で脳腫瘍の病気で病死した今は亡き妹に貴方はとてもよく似ているのです。だから、今も、自分の妹に二度死なれた気がして、本当に、悲しいし、悔しいし、口惜しいのです。
----
こんな自分は、彼女達の姉(のような存在)として、不甲斐無いまま死ぬことはできない。いつも、後世のためにも、彼女たちのためにも、何か誇らしい、業績を一つでも多く残して、現在の世を去らねばと思う。少しでも、愛を残さねば。今ここで、愛を持たねば。そして、----その佇まいはとてもささやかながらではあれど----愛によって立つものは、シロッコのように目先の欲望によって立つもの、ガトーのような可也狭い範囲で大義とされる義によって立つものよりも強い。これは宇宙の常識だ。
--睦月型への投影
少しナンセンスな説かもしれないが、ここに文章として書かせて欲しい。睦月型は、史実において、性能が凄まじく旧式で不遇だ。短命ではあれど、かの有名な新鋭高性能駆逐艦 島風、あの米軍の精鋭艦隊、航空隊とも互角かそれ以上の戦闘を頻繁に繰り広げた、同じく、新鋭駆逐艦の姉妹達、陽炎型、秋月型、そして、量産型雑木林の艦艇達と比べるのは酷なほど、性能に、開きがある。
それから、その、睦月型以上に旧式の神風型は戦後に生存艦を出しているが、睦月型ではそうはいかなかった。ただ、武勲艦がいるのが救いだ。それでも、彼女達は、帝国海軍から何も武勲と貢献を���待されずに沈んでいった。駆逐艦は、潜水艦他と並ぶ、『菊の御紋』を艦首にいただくことはない消耗品扱いとは言え、それくらいの扱いであった。
そして、----もう一人の睦月型担当絵師さんもそうだと思うのだが----彼女は、自分の立場とイメージを、睦月型の娘達に重ねていたところがあったのではないか?そうして、----彼らだけが痛感する----自分の無力さ、足掻きの報われなさ、哀愁、悲しさに打ちひしがれながら、永遠の眠りについていったのではないだろうか。ですが、あなた方は、決して、底辺でも実力不足でも無かった。
……それなのに、どうして。
--彼女の、金銭面における死に至る病
彼女は、いつも、経済的支援を欲して居た。徐々に、死に向かう頃には「医療費が嵩む嵩む」と言っていて、「このまま、自分は歳を取ったらどうなる?先が思いやられる」と言う感じではあったが、そんな中でも彼女はいつも通りの生活を生きていた。だが、うつ病は甘くない。その日暮らしマインド、ライブ感だけで放埒、無責任、能天気に生きていく精神をうつ病の人たちは保てないし、到底持てない。故に、うつ病は将来を心配し過ぎて世を去る人間を、多く輩出する。その後、それから、しばらくしない内に、彼女は「お金が無い」「お金が無い」と言いながら、自分の意志で死んで行った。
……結局のところ、それはただの『貧困妄想』だったのか?これは、個人情報でもあるし、真相は、闇の中であり、分からない。然し、国際的にも名前が知られ、----至極狭い内であるとは言えど----世間に認められ、名誉ある努力の人、偉大で、栄光を得た絵師であった若く尊い命は永遠に失われた。永遠に。
そして、もう、彼女より前に失踪した絵師さんもそうだった。メリークリスマスツイートの一つ前に、九蓮宝燈を一向聴した、かの人も。
いずれにせよ、これからも、睦月型の新規絵は無い。何か奇跡が起これば別であるが……。
…。
…。
--書き切れなかった分
某動画サイトでの、「とある方の葬式に参列した」と言う報告からしばらく経った後、その故人の跡を追う様に、彼女は世を去った。多分、そのお亡くなりになった方は、彼女の祖父か祖母で、生前、非常に、御世話になったのだろう。似たような状況の方は何人もいる。自らの祖父を看取った後、後憂無く、自ら命を絶って旅立った成年向け漫画家さんも。もしかしたら、彼女もその一人なのかもしれない。
…。
ブアカ絵師界隈が、不倫騒動の��、自ら命を絶った絵師を出したのは記憶に新しいね。ダム絵師界隈で、そう言う最後を迎えた絵師って、相当数居そうだけど、全然話題にならないよね。財団Bが隠蔽工作したのかな(※無いです)?…此れ迄に、100人単位で自らの意志で、旅立ってそうな気がする(※或いは、ブアカ界隈が異常なだけか)。
…。
そして、筆者にも身に覚えがある。
…毒親……、
毒親はその子供の一生を支配する。潜在的に、根本的に、宿命的に。こうして生きている限り、逃れられはしない。…だから、さようなら。
…。
黙れ小僧!お前は分かるのか?三十代目前で、自ら、自分の意志で死を選んだ絵師が私達の推し絵師だ!数々の持病と疾患に苦しんだ末、自死により急逝した末長く愛されるべき絵師だ!もう新作は二度と描かれない!其の自ら死を選んだ絵師を推して���た者達をお前に救えるか!?
…。
常に、私の頭上に、死兆星が自らの存在自体を誇る様に輝きはじめてずいぶん久しいですが、別に心配なさらないでくださいね(※前書きの様な駄文)。
…。
上級まほうつかいプリキュア
キュア賢者
キュア魔界幻士
キュア完徳者
キュア導師
キュア極限流
…。
ガトカスは、割と、初心者向けのヤツだと思います(※逆にコウが中〜上級者向け)。野獣大尉は、初心者〜中級者向け(※扱い易さだけは万人向け)。
…。
拙作の交渉人は、シロカスと同じ上級者向けだモンなぁ(※原作では明らかに中級者向け)。
シロカスと完全同類の、大いなるOも認める紳士では無く、大いなるOもあきれる紳士の時点で、まともな運用を想定して居ないのは(※確定的に明らか)。
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交渉人が居ればシロカスは要らないし、シロカスが居れば交渉人は要らないみたいなパワーバランス(※…只単に、其れ位、「キャラ被りしてるだけ。」…とも言う)。
…正直、どっちも『正義の味方面した悪党(※限りなく真の邪悪に近い存在)』だしな…(※何故かシロカスが疎まれ、粗雑に扱われて、対照的に、交渉人は慕われ、丁寧に扱われがちと言う所は正に真逆だけど)。
…。
某無限特殊ルールトーナメントの動画にあった「親戚一同」、「此処のトーナメントの常連は、正月に集まって会食してそう」「俺らの親戚」、「親の顔より見たメンツ」、「もはや実家」、「俺たちの家族」…と言うコメ(※爆笑した)。
…。
拙作内で、シロカス、野獣大尉と仲良しなガトカスは、最早、名誉連邦軍人、名誉ティターンズやん(※畑と田ん��を荒らす鹿が猟師と仲良くし��居ると言う愉快な絵面)。名誉ティターンズガトカス(※ 辞 め ろ )。
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曼珠沙華風紫陽花(アナベル)と神の侍者風宣教師(パプテマス)。
リリス風モリガンみたいな(※レラ風ナコみたいな)。
…。
もっと生物的で無くて、機械的な性格だったら、調教する手間も省けましたのに(※彼奴等等滅茶苦茶扱い辛い)。…で、拙作に出てるのは調教した結果か?…と言われると……(※遠い目)。
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七瀬が紗波音を偽物扱いするのは、ガソダムで言えば、赤いあれがUCの全裸を偽物扱いする様なもの(※其れにしても、fexl公式は無神経だなぁと思う)。
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ブルーコスモスですら純粋悪ではないと言うのはややこしい。あれは名もなきナチュラルのコーディネーターに対する怨嗟と悲痛が生み出した存在でもあるから。然し、やってること自体は純粋悪そのものなのでタチ悪い。しかも血のバレンタイン事件の発端はブルーコスモスの構成員らしい(※…其の上、プラントにはプラントでザラ派と其の思想的後継者達が居るので、一体、誰が一番正しいのか?状態になる)。
…。
コーディネーターは、遺伝子組み換え大豆みたいなものだから。遺伝子組み換えを使ってない大豆製品を求める消費者もいれば構わんと言う消費者も居る(※丁度、種製作された時期は、其う言う問題で、皆、荒れて居た)。
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あの世界でオーブがやけに狙われる理由も永世中立国でコーディネーターに寛容だからだとか。
まぁ、元々、コーディネーターに対して寛容になっただけで、生体CPU載せたデストロイ差し向けて来る世界だしな()。
…。
種のブルーコスモスは、元々、反コーディネーター主義団体になる前は、自然保護団体であったと言う経緯があって、其う言う背景も種が制作された時代を反映している(※遺伝子組み換え食品を嫌って居たのは、多くは、自然派の消費者だったので)。
ハーフコーディネーターに至っては非遺伝子組み換えとの交雑種だから、随分先進的なアニメだな
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※クロスオーバー注意
あれ書いてたら、シロカスは、寧ろ、原作でティターンズの罠に嵌って、銃殺刑か絞首刑にならなかったのが不思議だと思った。
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ファンタジーストライクにはガイガーと言うロボット作る時計職人上がりの科学者がいて、それが大量生産したロボットを仕掛けて捕まえて処刑台に連れて行った(※ニュータイプはカツ・コバヤシの件見れば分かるけど無機物には反応出来ない ���筈)。ニュータイプの意外な弱点を教えてくれて、ありがとカツ〜〜(※謝々茄子並)。
…。
本当に、無事シロカスを吊るせた展開見たいなぁ(←※書け)。絶対平和になるぞ(※確信)。
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あのガイガーを見て、ドゥガチを思い出す読者もいると思う
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あの拙作では、シロカスを、オニマルとクインスは、部隊を派遣して迄、絞首刑台から救うので。1stの時点で連邦(無慈悲な強権支配者)vs.公国(連邦を倒す為なら戦法も手段も選ばない独裁軍事政権)だったし、
ティターンズとブルーコスモスでさえ理由があって発生し、純粋な悪では無いと言うのが、非常に機動戦士らしい。
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原作ではガイガーは根っからの善玉で、逆に、オニマルとクインスは根っからの悪玉、純粋悪です。割と機動戦士的ですね
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大半のフラグストン市民は、現代人で言うと、遺伝子組み換え大豆と非遺伝子組み換え大豆の区別が付かない人達である(※元々、コズミック・イラとは違って、遺伝子云々に興味無いタイプ)。
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ブレア御嬢様は、七夕か旧正月の時期に何時もいぢめてる彼奴等の所に押し掛けて来そうだなと思った(※ストシリーズと言うかこfでありそうなノリ)。…最早、彼奴等は、名誉(※…と言うか只の)下僕(※確信)。
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ブレア御嬢様と七瀬ちゃんの名誉下僕(※或いは、名誉豚)。
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彼奴等がUC勢に逆らえないのは、光線兵器で蒸発されられるか、「やめなさい!」とMSで潰れたフレッシュトマトにされるからだよ(※多分)。
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くろろ団長「光学兵器要らねぇ(※近接距離特化)。
交渉人「はぁ????????(※全射程対応バランス型)。
ビゴーくろろ団長仕様案
アークライン 奇襲用。或いは、我道拳と化した波動拳先輩。
クロムバスター 滅多に使ってくれない。
ミサイルパーティー 生命線。何処ぞの富豪とは違い、ケチりながら大切に使うぞ。因みに、に、全方位ミサイルパーティーが理想との事。然し、「それは無理だ」とビゴーも言って居ます。
キャノンパーティー これも生命線。近接戦特化。散弾仕様の時もある。
モビーディックアンカー ロケット機構無し。鎖鎌仕様。低コスト。
サドンインパクト 男ならこれを選べ!!レベルの存在感。実はあんまり団長は使ってくれない。肘撃ち版がある。肘の装甲にある鋼鉄板を攻撃に含めると隙を生じさせぬ二段構えでの肘撃ちが可能。
プラ���マギミック ガードキャンセル、リバーサル専用。防御面での使用は度外視されて居る。
Xサンダー Oサンダーでは無い。十字に交差させるように連装砲の如く打つ。弾幕密度を犠牲に弾幕拡散力を保証。
ローラーダッシュ お前は(※某最低野郎達御用達の)ATか。
結論:ビゴー「銃火器光学兵器射程攻守問わずバランス型で、富豪故の豪快な戦法を積極的に取る本来のデュミナスとは違い、全体的に近接射程、銃火器偏重、攻撃特化でケチ臭いと言える(※まるで他人事)。」
どうせ、デュミナスやるなら、航空メガデウスデュオの方が向いてる(※…としか思えない位に噛み合わせが悪い)。
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ダグラス アダムズの『銀河ヒッチハイクガイド』は、1978年にBBCラジオドラマからスタートしたSFシリーズであり、小説版第1作(1979)のタイトルである。 ラジオドラマがスタートした当初から人気があり、小説版はベストセラーになり、テレビドラマ、演劇、コミックス、コンピュータゲームなどにもなった。アダムズは2001年に死去するが、小説版の5作品は存命中に世界で1500万部以上売れた。2005年には映画化もされた。 本当かどうかはわからないが、イギリスで最初にMacを購入したのはアダムズだと言われていて、初期のインターネット文化の擁護者だったとも語られる。『銀河ヒッチハイクガイド』作中に登場する重要なフレーズというかジョークである「ドント パニック」や「42」は、SNS以前のインターネットにおいて「インターネットミーム」として認識される最初期のものの一つになったとも言われる。 「ミーム」という語は、文化現象の広まる原理を説明するために、文化の伝播を遺伝子になぞらえ、脳から脳へと伝わる文化の単位として、進化生物学者であるリチャード ドーキンスが1976年に『利己的な遺伝子』という著書の中で造語したものである。アダムズとドーキンスは友人で、共に無神論者であることを公言していた。ドーキンスの著書『神は妄想である』(2006)はアダムズに捧げられており、アダムズの「妖精が隠れていることを信じなくたって、庭は十分美しいじゃないか」という言葉が引用されている。
去年の末くらいにイーロン マスクがインタビューで、影響を受けた作品として『銀河ヒッチハイクガイド』を挙げていて、それを聞くとなんとなく言ってることのノリがわかる気もして印象に残っていたが、改めて読んでみると何言ってんのか全然わからなくなってくるというか、わからなさをジョークにした作品である。 『銀河ヒッチハイクガイド』は、荒唐無稽な展開を起こすためにSF的な用語や形式をとってつけた「バカSF」であり、政治、宗教、社会制度から科学まで、さらにはSF自体をも風刺して皮肉った「ナンセンス文学」である。 イーロン マスクがこの本を愛読書として挙げているのは大分前からよく知られた話らしく、今年7月の、心理学者ジョーダン ピーターソンによるインタビューにおいても、自身の考えの基礎を作った本として紹介していた。マスクはこの本を、人生に意味を見出せないと悩んだ少年期に、「ユーモアを装った哲学」として読み、「正しい問いを探すことこそが重要だ」という考えに救われたという。それを「宗教的な信念」と呼びたいならそれでもいいし、それなら「好奇心という名の宗教 (レリジョン オブ キュリオシティ)」だということになるだろうと言っていた。 このインタビューの話の流れでマスクは、自身は「宗教的(レリジャス)な」人間ではないが、キリスト教の原則はとても良いものだと思っていると語り、そこでピーターソンが、無神論者として有名なリチャード ドーキンスが最近「自身は文化的なクリスチャン(カルチャル クリスチャン)だ」と語り多くの人を驚かせたことに触れ、それについてマスクが「だったら自分も文化的なクリスチャンかもしれない」というようなやりとりがあった。 このインタビューの中でも、両者共に「WOKEカルチャー」を批判していたが、WOKEカルチャーが宗教や伝統文化、特にキリスト教文化を攻撃対象にしているのに対し、他方では、伝統的で宗教的な文化に回帰しようという、「リバイバル」と呼ぶ人もいる文化的な動きも起きている。このインタビューでピーターソンも指摘しているが、WOKEカルチャーの中心にある思想であり、近年の様々な問題の根本だとも考えられるものは、虚無主義(ニヒリズム)と、意志を欠いた虚無主義として現れる快楽主義(ヘドニズム)であり、それは反動的あるいは漂流的なリバイバルの中にもある。これは20世紀の問題に通底したものでもあり、それを予言的な正確さで指摘していたのがニーチェだった。だが、ニーチェが解決策として挙げたものは、「超人」になることという、何を言ってるのかわからない、わかったとしてもかなり無理そうなものだった。
『銀河ヒッチハイクガイド』は、ある日地球に宇宙開発局というのがやってきて、銀河ハイウェイ建設工事の立ち退き期限が過ぎたので工事を開始すると言って地球を破壊してしまうところから始まる。その直前にひょんなことから宇宙船をヒッチハイクして生き残った地球人の主人公が宇宙を放浪するという物語である。 大昔ある宇宙人が「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を計算するためにスーパーコンピューター「ディープ ソート」を作った。750万年かかって導き出された答えは「42」だった。皆は当然ディープソートの答えの意味が分からず、納得がいかない。ディープソートは言う。「究極の答え」に対応する「究極の問い」が分からないから答えの意味が分からないのです。しかし残念ながら私には究極の問いを計算する能力はありません。そこで代わりに究極の問いを計算する「この宇宙の時空で最もすぐれた」コンピュータを設計しましょう。 ディープソートが「問い」を求めるために設計した巨大コンピュータは生命体を取り込んだもので、あまりに大きいのでよく惑星と間違えられる。それは「地球」である。「地球」で計算を始めたが、「問い」がわかる5分前に「地球」は建設工事のために破壊されてしまう。こうして「究極の問い」は永遠に失われてしまった。
SFでは、そこ��登場するアイディアや技術などについて、科学的に「説明する」ことが求められる。が、『銀河ヒッチハイクガイド』は、そうした「説明」をもパロディ化し、ジョークにする。 常識的な約束事や論理性を無視し、壊そうとするような文学を「ナンセンス文学」という。「ナンセンス」は「意味のないもの」「馬鹿げたもの」を意味するが、ナンセンス文学の「ナンセンス」は、意味の欠如よりもむしろ意味の過剰によってもたらされる。「ナンセンス文学」の多くはユーモアを目的にしたものだが、「意味を成すこと」によって面白みが引き出される大多数のユーモアとは反対に、「意味を成さないこと」によって成立するユーモアである。ナンセンス文学が読者に与える効果の一つは、「わかっているという思い込み」「知っているという妄想 (イリュージョン オブ ナレッジ)」を壊すということである。 人は常に何に対しても意味を求めるが、しばしばそれが過剰になることがある。相手を説き伏せたいと思っている人同士の口論などが典型だが、過剰に積み上げられた意味の大部分は、たとえ一つ一つが事実で、論理的に正しく組み合わされていても、なぜか、ナンセンス(無意味)なイリュージョン(妄想、幻想)になってしまう。積み上げられたナンセンスの中では、当然だが、意味が見出せず、虚無主義に陥る。ナンセンス文学は、それを皮肉ってジョークにする。 あらゆるものを皮肉った『銀河ヒッチハイクガイド』は、哲学的論争の風刺とも言えるものになっている。また、内と外を逆さまにして、根本からひっくり返すようなものの見方をジョークにして風刺につなげている。こうした視座の転換は、当たり前と思っていた物事を、懐疑的な目で見られるようにする。そしてそれは哲学的な問いかけを含むことが多い。 哲学を風刺すると同時に、「風刺としての哲学」ともなっている『銀河ヒッチハイクガイド』は哲学者たちを刺激し、作品の中の問いを哲学的に考察したり、作品内のエピソードを使って哲学を説明するというような本もいくつも出版されたらしい。それらを紹介し、それに加えてさらに、その時話題の哲学的あるいは科学的な議論などを説明するというような記事もいくつも書かれている。 例えば、「地球」が「究極の問い」���計算し終える5分前に破壊されてしまうというエピソードは、それだけで皮肉の効いたナンセンスなジョークでもあり、哲学的な疑問を呼び起こすような気もしてくるが、そこに哲学者バートランド ラッセルが提唱した「世界五分前仮説」という思考実験を紹介する。世界五分前仮説とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説から様々な思考実験を行うものだが、この仮説は確実に否定する事ができない。つまり、世界は5分前に出来たのではなく、ひいては過去というものが存在するということを、論理だけで示す事は不可能である。例えば5分以上前の記憶があるという事は反証にならない。なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、5分前に世界が始まったのかもしれないからだ。現在を「結果」とみなし、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだという主張、つまり「因果律」というのは論理的な必然性から導かれたものではなく、日頃の経験から無意識的にそれを前提として思考しているという類の仮定であり、因果律自体を論理的必然から導くことは出来ない。これは、事実だけを論理的に正しく並べてもなぜか「ナンセンスなイリュージョン」になってしまう理由のひとつでもある。そのため、こうした思考実験は「知識とはいったい何なのか」というような根源的な問いへと繋がっていく。世界は5分前に始まったのかもしれないし、地球の究極の目的は5分後に達成されるのかもしれないが、もう何を言ってんのかわからなくて爆発する。 『銀河ヒッチハイクガイド』に絡めて「哲学」を語る際に、多くの人がウィトゲンシュタインの次の言葉を引用している。 「 たとえ可能な科学の問いが全て答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されていはいない。そしてまさにそれが答えなのである。生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。 」 「 私を理解する人は、私の命題を通り抜け - その上に立ち - それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。) 私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。 」
人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などないという考えは、すなわち「虚無主義 (ニヒリズム)」だが、意義も目的も真理も価値も、あらゆるものを皮肉った『銀河ヒッチハイクガイド』も虚無主義である。 ニーチェは、今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となる事態のことをニヒリズムと呼んだ。今まで最高の価値と人々がみなしていたものというのは、キリスト教の文化圏においては「神」であり「キリスト」が念頭にある。ダグラス アダムズは無神論者であることを公言していた。 ニーチェは、ニヒリズムという事態において、人が取りうる態度は大きく分けて次の3つだとした。一つは、従来の最高の価値を信じる精神力を失ったために、そうした価値を無意味に感じ、何も信じられない事態に絶望し、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度、「消極的、受動的ニヒリズム」である。もう一つは、精神力が高揚し、従来の価値を乗り越えてゆくがために、すべてが無価値、偽り、仮象だということを前向きに考え、自ら積極的に新しい価値を創造していく生き方、「積極的、能動的ニヒリズム」である。そのどちらも否定し、自分では何も考えずに、しかし他者からの干渉も価値がないものだと無視して生きるという態度を「無関心的ニヒリズム」とした。 ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、高揚した精神力と確立した意思でもって自らを創造的に展開していく「超人」としての道を切り拓くことをすすめた。
ジョークは、人を笑わせようという、最も気高く美しい、崇高な形での人間精神の表れであり、積極的な意思である。それは必ず精神を高揚させる。面白くても、ムカつくほどつまらなくても。言った本人だけでも。
世界の平和を祈っている。
2024年9月 オン ザ トラジェクトリー フロム ア ミラクル
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雑食
本はキリスト教のバイブルからマルキ・ド・サドから夜のみだらな鳥、仏典や葉隠、ドンキホーテや源氏物語、哲学はソクラテスの謂をものしたプラトンからカント、ハイデガー、そこから派生する戦後の哲学、挙句ドゥルーズまで行き、フーコーは書籍として購うには高すぎるから無理。ピンチョンも同様だが、ピンチョンは正直読む価値がないと思っている。チョムスキーやソシュールにたどり着きはしたものの、翻ってウィトゲンシュタインに戻ると、ロゴスの限界に到達するものの、そこを開くのはロゴスではなくポエジーで、詰まるところ自分の宝物はヴェイユの『重力と恩寵』である。「重力」と翻訳されているが、とどのつまり、「のしかかってくるもの」という意味だと勝手に解釈している。意味の広さを単語に託した。最近の日本文学で芯食ってるのは村田沙耶香とか川上未映子だと考えていて、村田沙耶香は現実に疑義を呈し、川上未映子はそれでも生きてるんだから、と引き戻してくれる。町屋良平の初期はただの青春懐古かと読み取れたが、最近の長編作品は危険物だ。読むと考えることをやめながら喰らってしまう。人間であるということと文学の中ではロゴスの囚人であることを突破しようとしているような。さらに、暴力描写の鮮やかさは美しくなく、純粋な暴力だ。で、それをただ笑い飛ばしてきた存在が町田康だと思う。町田康は面白すぎる。ただサービス精神がたくさんある。『ギケイキ』はもう爆笑ですよね。「インディーズの僧侶」とか彼にしか考えつかない。明治以降の文学は、夏目漱石の門下以外は、結局いまおじさんの苦労話を「それ本にしたらいいですよ!」とお世辞を言うぐらいの作品だが、いまのそう言うお世辞よりも作者の苦悩は深かった。池井戸潤や百田尚樹のノスタルジック・ポルノ感。端緒は司馬遼太郎だと思うが。SFも好きだけども、未来予想図にとどまる。で、日本のナンセンスなSFが、「日本しかできないやり方だなあ」と思うし、というか『竹取物語』はSFチックだ。だって宇宙人の話じゃん、あれ。社会哲学は全般的にあんまり好きじゃない。サルトルが社会哲学に頭を開くと、コミュニストになってしまった。社会哲学が機能したのは啓蒙主義時代のモンテスキューまででは?と思うし、そのあとの構造主義や抜け出そうとするベクトルとか、ここまで書くと翻ってガッチガチに固まったキリスト教から抜け出したかったルターやカルヴィンの宗教革命に戻る。哲学の母は神学だったのだ。体系にすれば、時代は巡る、としか申し上げられず、あとは中南米の混沌から真実らしさを紡ぐやり方は、素敵だなあと思う。意識の流れ手法を扱いきれたのはヴァージニアウルフだけで、あとはただの実験にしかならなかった。『ユリシーズ』の退屈。
グレゴリオ聖歌を参照してマイルスはモードジャズを演奏し、クラシックはWW2以降発達していないように思う。ガーシュウィンは頑張った。ジャズからロックへ、ロックはバンドの不満を訴え、フォークソングは叙情であれば、パンクは叙事だと思う。そこからだんだん発展して、今度はポップスに至るが、ポップスは聞いてて楽しいけどよく読むと叫びだ。アニソンは知らん。テンションコードマシマシの二郎系だと思っている。アイドルソングは……秋元康が何を考えてるか、ってことだ。マリリン・マンソンの後を継いでしまったのがビリー・アイリッシュだと勝手に思っていて、マリリン・マンソンは過激さゆえに嫌悪されたが、そこをうまいことやったビリー。しかし彼女はSheであるゆえになんぼでも何もかも言われている。テイラーはまあ、頑張ってね、としか。向井秀徳から確実にtricotに受け継がれたものはある。あとは優しさとしてヒゲダンが割と説法に近い音楽をやっていて、あとヒップホップは本当に、「今まで言ってこなかったけどよ」と中指を立てている。海外のヒップホップに関してはもうちょっと規模が大きいので抗争に近いかと思います。
いわゆるアート(この言い方が嫌いだ)は、今やスプレーアートが主流で、バスキアやバンクシーが音のしない反抗を示している。そもそも絵画作品は反抗的であり、ルネサンスでさえ、あの群れは過去への反抗、印象派は才能への反抗、そこからさらに美しさへの反抗。宮廷画家が異常に美しく書いた人物は、本当にその人が美しかったか、嫌味だったらしい。ピカソは現実を抽象化し、そのあとの抽象画は実験に実験を重ね、ダダイズムの一派はどちらかというと実験するあまり本質はなかったように思う。岡本太郎は本質があったかと。で最近は美術にトマトソースかける、みたいなやつがあるけれども、別段それを岡本太郎がやられたって怒ることはないだろう。彼の作品を見に来た男の子が転んで壊したとき、岡本太郎は「いずれなくなるからな。仕方ないよ」と。
映画は語れば終わらなくなる。では。
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――ガンダムで描かれた宇宙世紀は現実に訪れそうでしょうか。 ガンダム・ワールドで考えるような宇宙世紀は来ないでしょう。 ――きっぱりと否定されて驚きました。ガンダムが最初に放送された40年ほど前よりも技術が進んだと思うのですが。 夢を売るという意味で、アニメで宇宙開発のシミュレーションをしましたが、現実的ではないと考えるようになりました。月や火星への飛行を目指す民間企業などが、簡単に宇宙開発について発言しているのはナンセンスに近い。 まず、現在の移動手段が、打ち上げだけで生きるか死ぬかがかかっているロケットのような技術しかないのが問題です。あれを新幹線と同じような移動のための乗り物と思えますか。 次に、宇宙空間での衣食住について。(1620年に英国からアメリカ大陸に渡った)メイフラワー号が新大陸でアメリカ合衆国を建国できたのは、そこに水と空気と土地があって、先住民が住んでいたことで、人が住めることが明らかだったからです。宇宙はそれが一切合切ない。宇宙開発を目指している企業の責任者は、人が宇宙に住むことの深刻さを想像できていません。 「坊や」のような宇宙開発 ――衣食住というと、ガンダム作品では細長い筒のような巨大な居住空間「スペースコロニー」をつくり、その中で人々が生活しています。 あの規模の建設は絶対に不可能です。コロニー1基をつくるのに、地球にあるレアメタルでチタンという高性能で頑丈な金属を使うとします。1年間に採掘できるチタンの量では到底追いつかない。スペースコロニーを直径6・5キロ、長さ30キロと設定したのには理由があります。国際宇宙ステーション(ISS)や南極基地レベルの大きさでは人が住む場所にはなりえない。街という規模がなければ、人は定住できないという意味の表現です。 ――ガンダム作品では人類が宇宙に進出した時代でも、争いを続けています。未来でもそうなるのでしょうか。 太平記と源氏物語にも書いてある通り、人類は2千年くらい前から同じで、色事ともめ事しかやっていないわけです。そういうリアルな暮らしや衝動と切り離せない宿命にあります。 だから暮らしを支える基盤や衣食住について考えが至らない宇宙開発は「坊やだよね」って話です。 ――ガンダムで夢を見た立場として��、厳しい意見ばかりで寂しい思いもあります。 人類は、夢を想定しておかないと、窒息してしまうから宇宙開発論というものがあり得ました。1960年代くらいまでは、そういう夢を描けた時代だった。今は夢を語るではなく、もうリアリズムを考えなければならない時代になっています。それは地球が有限だからで、今のままでは人類の増殖によって地球が食いつぶされると分かる時代になりました。宇宙開発よりも、地球を存続させるためにやらなければいけないことの方が急務になっています。 ――今後、科学技術は人類に何をしてくれるのでしょうか。 それを冷静に考えなくちゃいけないのが21世紀で、人類史上、21世紀のおかげで地球がめちゃくちゃになっちゃったとは言われたくありません。科学技術を現実に対してどのように行使するかと考える時代になっているのです。
「宇宙世紀は来ない」ガンダム描いた富野由悠季が見据えるリアルとは:朝日新聞デジタル
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富野監督は「富野由悠季です!」と一言のあいさつだけでマイクを置き、「わざわざ紹介する必要はないと思います。こういうことは時間の無駄。知らない人はネットで調べてください! 以上、次いきましょう!」と一喝し、ただならぬ緊張感が漂う中、授業が始まった。
◇僕はもう死んでいくための準備を始めました
「監督が今、10代だったら何を目指しますか?」という質問に「そういう質問は、80歳を過ぎた年寄りにはナンセンスです。というのは、僕はもう死んでいくための準備を始めました。体の自由も利きません。苦しまずに死ぬにはどうしたらいいのかを考えています。ただ、あえて、どら焼きさん(質問者)の質問に答えるならば、こういうことです。“高校時代から何になりたいか決めろ!”と学校とか先生とか大人が言ったりしますが、そんな目標がきちんとある人がいたら教えてほしいのです。なのに大人たちは、平気で言いますよね。“俺さ、まだよく分かんないんだよね”という気分を分かってくれない大人が、ものすごく多いと思いませんか?そういう大人社会に入っていってどうなるかというと、だんだんバカな社会人になっていくんです」と語った。
「ちなみに富野監督が10代の頃はどんな学生だったんですか?」と聞かれると「出来の悪い学生でしたので、未来への希望は一切持っていませんでした。ただ何となく中学高校時代から好きで、“こういう方向しかないだろう”と思っていた職業が映画監督でした。ですが、僕が大学時代に映画産業が徹底的に衰退してしまって、大学3年時には、映画会社が新規採用を一切しなくなってしまったんです。考えても絶望感しかなかったので、大学4年のときには、就職のことは一切考えませんでした。ただ偶然、新聞の3行広告に、虫プロダクションが新規採用をするという募集が一回だけ載りました。 それに応募したら受かったので、この職業に入ったということです。そうしてアニメみたいな嫌いなものをやるようになってしまった、というのがぼくのキャリアです。だからアニメの監督を目指していたなんていうことは金輪際ありませんでした。つまり学生時代までのことを言うと、全く何にもない学生でした」と明かした。
◇ガンダムの持っている宿命
「富野監督がガンダムを作る際になぜ明確な悪との戦いではなく、人々との戦争という形にしたのですか?」という生徒の質問に対して「順序が逆です。巨大ロボットものを作らざるを得ないんだから、戦闘シーンがなくてはならない。悪いやつがいなくてはいけない。だから初めから戦争があるところで物語を作れば、戦闘シーンが作れるわけです。それだけのことです。仲やんさん(質問者)は、生真面目過ぎますね。もっとフレキシブルに柔軟性を持って物事を考えていくようにしてください。生真面目は宝かって言うと、生真面目は良いことなんですが、生きていく上では武器になりませんという側面は覚えておいてください」とコメント。
「ガンダムで大事なのは、宇宙人の敵は出てこないということです。それまでの巨大ロボットものの敵は、全部宇宙人でした。なぜかというと子供たちから見たら、敵が宇宙人の方が分かりやすいからという大人の理屈です。これって子供をなめてませんか? 子供をバカにしてはいけないと思ったので、ガンダムでは20数メートルにしました。“戦闘機の大きさと同じです。一人乗りの乗り物にします。一人乗りの兵器にします。だから人型でもコックピットに人が乗ります……”というふうに説得しました。放送されて視聴率が取れれば良かったのですが、悪かったので打ち切りになってしまいました。そういう現実がありました」と続けた。
さらに「ところが、放送が終わった瞬間に人気が出てしまったというのが、ガンダムの持っている宿命です。これが世の中というものです。それは僕にはコントロールできません。ですから、打ち切りになった半年後に、“映画にならないか?”という話が出てきたときに、敵も人間にしているし、ドラマがそこにはあったので、“はい、作って見せますよ!”と即答できました。それでテレビの再編集もので映画を作りました。 公開した瞬間に、応援団のファンがバーッ!とついてきたので、“即2本目を作ってくれ!”となったのが、ガンダムの事情です。これも作り手にはコントロールできないことです。その時に、そういう状況に対応できる自分、対応できる作品にしておいて良かったと思いました。つまり敵が人間で、人間同士のドラマが作れるようになっていたので、“はい、2本でも3本でも作ってみせます!”と言えたのです。これは、生真面目だけでは作れません。キャンユーアンダースタンド?」と熱弁した。
◇映画の根本って何?
「映画」と話題になると「ここ20年ぐらい骨身にしみていることがあります。“映画の根本って何?”ということです。最近、ようやく分かってきました。それは恋愛映画です。つまり人の話でしかないのですね。結局、一般客は人の物語しか見ていません。“自分はメカものが好きだ!”とか言っているようなオタッキーな人でも、10年ぐらいすると、“あのアニメは良かったよね”“あの映画は良かったよね”と中身は恋愛話をしています。我々は男と女に分化して、成長して、文化を作ってきた人類です。 そういう生物ですから、根本的な恋愛話にスーッと入っていけるのでしょう。たとえば、アガサ・クリスティの良くできたミステリーを見ていると、強いて人間関係を描いていて、恋愛映画として作っているところがあります。そこを絶対に間違ってはいけません。今、皆さんはアニメも当たり前のように見るようになってきました。気をつけてほしいのは、絵にごまかされないで、“自分たちは一体何を見ているのか”、結局“人の物語を見ているんだよね”という部分をとても大事にしていただきたい。これだけは、千年たっても二千年たっても、人類は変わりません。オスとメスに分かれているのですから。それを覚えておいてください」と話した。
「つい最近、ものすごくびっくりする映画を見ました。『硫黄島からの手紙』です。メインの主役をやっているのが二宮和也さん。あの映画に出ている二宮さんは、演技をやっていないんです。そのまんまなのに、どんぴしゃりなんです。二等兵で、硫黄島で最後まで生き残っていく役をやっています。“こんなに演技者だったかな?”と思って、プロダクションノートで調べました。そうしたら“俺、アイドルなんだよね”と平気でクリント・イーストウッド監督の前で言っていて、カメラの前に立って、自然のままで演っていたそうです。 “あれは演技ではなかった”とも言っています。けれども『硫黄島からの手紙』では、ものすごい役者をやっています。これも人ができる可能性なのです。それは“演技を目指してやっていたんですか?違いますよね”ということです。つまり、生真面目にものを考えて、これからの自分の将来を決めつけるようなことは一切しないでくださいという教えです。“こういう事態に陥った”とか、“こういう会社に入ってしまった”とか、“こういう仕事をしなければならなくなってしまった”という時に、“へこたれずにそれをやってみせる”という気力、胆力、学習能力を作っていってください。それを積み上げていくと、30歳過ぎには、何とか自分のやりたい方向性というのは見つかります。ですから、中学高校時代に将来の職業を決められるなんてことは絶対にありません」とメッセージを送った。 「小さい時から“バイオリンをけいこしていました”とか、“スケートをやっていました”という人すべてが成功して、オリンピックで金メダルを取れるわけではありません。そうではない人がある日、突然出てきて、金メダルを持っていってしまうようなことも起こります。そう考えたときに、生真面目にやることだけが重要なことではないんです。 自分が立たされた現場や現実の中で、“こういう職業しかできないんだ”とか、“こういうところにしか居られないんだ”とか、何よりも東京で仕事ができないようなことが起っても、“俺はもう本当に都落ちもいいところだ”と、そこで人生を諦めてしまうのは簡単なんです。ところが人の暮らしというのは一度、こういうふうに生かされてしまったときに、そう簡単に人生をあきらめるわけにいきません。その時に、“5年後、10年後にも生きていられる私”を作るためにはどうするか、というふうに考えてほしいのです。 つまり現実を嫌がらずに見ていく。それを実感していくという能力を身につけてください。それを乗り越えていくための忍耐力というものを身につけてください。きょう、わざわざ大阪から来た生徒さんも居ます。大阪から来たという努力を持って帰っていってほしいから、ぼくは嘘の話ができないのです。とにかく“現実に耐えろ!”という自分を作ることはとても大事なことです。“好き嫌いなんか実は言っていてはいけないんだ!”というのが人生なのですから」と思いを明かした。
◇物語って一体何の意義があるのだろう?
「アニメの中で絵に頼らないで物語で見せていくということをおっしゃいました。最近、アニメや映画を観る中で、物語って一体何の意義があるのだろうということを考え始めました。インターネットを見ても答えられる人が誰もいなかったので、監督にお聞きしたいです」と聞かれると「簡単に説明出来ていたら、ぼくはもっと有名になっています(笑い)。物語の本当の意味とか意義とかが分からないから、きょうまでこういうふうに、ぐだぐだ生きてきたといえます。実をいうと、“物語って意味があるのか?”については、基本的には、物語そのものに意味があります。でも、その意味というのは、必ずしも簡単には伝わらないところがあります。そして一番伝わる物語というのは、童話であったり神話であったりするものです。 “何で私は生きているの?”“生かされているから生きているんだよ”という一番ベースになっていることを物語っているのが、童話や神話だったりします。基本的にそれを“はなから認めろ!”という物語構造を持っています。これを100回ぐらい聞かされているうちに、そういうものだなと納得していくことができるのです。それを人間というのは、7~8歳、10歳ぐらいまで繰り返していく中で、それぞれが物語を作っていくんでしょうね」とコメント。
「それともう一つ。物語があることによって、“自分の人生と違う生き方があるんだな”ということを学習していくんです。そういう意味で、物語というものは必要です。僕にはそういう説明しかできません。たとえば『ロミオとジュリエット』の悲恋話があります。つまり、恋愛をして、ちょっとした誤解が起こったことによって、ジュリエットが死んでしまい、ロミオは自分も後追い自殺をしてしまう。ところが実は、ジュリエットは死んだのではなくて、偽の薬によって一晩寝ていただけだった。目覚めた時にロミオが死んでいるのを知ったジュリエットは、改めて自殺をするという話。そういうようなカップルがいたとすると、“俺はそんなバカなことはしないよね”と思うのも一つの教訓です。そういう教訓を10か20くらい、小学校くらいの間に取り込んでおくと、自分の中に物語というものができてきます。“俺はこうしない”“私はこういうふうにはしない”“私はこういうふうにして、もっとすてきな人を別のところで見つけてみせるんだ”というような決心をしていくことで、人生っていうのは始まっていく気がします。だから童話とか神話が持っているものを学習する必要があるのではないでしょうか」と続けた。
◇ネットできちんと説明できる���はいません
“物語”の話題は続き「古事記に出てくるような物語を、子供向けでも、マンガでもいいので読んでおく必要があります。つまり古事記にある国生みの話には、“神様が剣を立てて、そのしずくが落ちたところに佐渡島ができた!”というようなバカな話があります。それは本当にバカな話なのかというと、実は地球の生成ということから���えてみると事実なんですね。そういう物語を2000年前の人がどうして知っているのかというと、初めは想像力なのです。その想像力を積み上げていって神話というものができてくる。神話というものができるような時代になって、政治というものが起こってきたときに、政治学的に利用されていくような神話というものがさらにできてくる。日本の場合には、古事記という神話は、山の中で政権を取った人たちが作った話なので、海の話がほとんど出てこない。そのために古事記に日本人みんながとらわれてしまって、考古学者が九州地方、つまり海の民が生んだ文化というものを全部捨ててしまった。それでは申し訳ないということで、天照大神を作ったという話があるのですが、皆さんはご存知ですか? つまり物語というのはいろいろな要素が入っているということ。物語には、われわれが生きていく上での礎(いしずえ)になる指針が含まれている、ということを知る必要があるのです」と語った。
「それとゆうりさん(質問者)、もう一つ重要なことを言っていました。“ネットで調べて”とか、“ネットで良く説明をしている人がいない”とか。ネットできちんと説明できる人はいません。残念なことに、今のネットでは、表面だけの説明しかしていません。ネットでは一見いろいろなことを教えてくれているようですが、百科事典の項目をそのまま並べているだけです。 それでは、皆さん、百科事典って読みますか? つまり百科事典みたいに並んでいる知識がネットにはあふれていて、それをクリックしてその内の何行かを読んで勉強したような気になっているだけです。それではほとんど勉強になっていません。本当に意味を知りたいと思ったら、出典となっている本を読むというところまで行かない限り、知識と言うのは身に付きません。それだけは間違いなく承知してください。そういう意味では、僕はネットでの教育論を基本的に全否定する人間なので、実をいうと、このN/S高のシステムは大嫌いです」とばっさり。
「思考の流れを知る必要があるということでいいですか?」という質問に 「言葉でいえば全くそうなんですが、これが実は落とし穴です。では、“あなたはものを考えるという思考をしていますか?”ということです。思考していることがなくて、その流れだけをつかみとっていたら、ネット上とかパソコン上で、ウィキペディアをバーッと流して見せているようなものであって、そんなものは知識でも何でもありません。知識にしなくてはいけないのです。知恵にしなくてはいけないのです。ものすごく分かりやすい言い方をします。日本には四季があります。 日本の国土で、農民たちは九州から北海道までの土地で、土地の癖を天候と相談しながら、作物を作り、作物の品種改良をやってきました。それが知識です。知識というのは言葉ではありません。体感で伝えていくものです。体感を積み上げていくものです。体感とは、その場の気候風土というものと密着しているものなのです」と話した。
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【My Favorite Movies of 2022】
【My Favorite Movies of 2022】
ノー・シャーク
バスタブとブロードウェイ: もうひとつのミュージカル世界(U-NXET邦題ブロードウェイとバスタブ)
エルヴィス
セイント・モード/狂信
アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー
スペンサー ダイアナの決意
NOPE/ノープ
ミセス・ハリス、パリへ行く
幸せへのまわり道
マイ・ニューヨーク・ダイアリー
*今年も「3年ルールで2020年以降公開を新作とカウント」します。 ◆劇場で
『エルヴィス/Elvis』
“その時、腰が動いた”。メンフィスからラスベガスまで悪夢と背中合わせのスターダムを貪り、貪られ、燃え尽きるまでの英雄暗黒神話。パーカー大佐を語り手に大胆に解釈した、魔術(ブードゥー?)的ジェットコースター映画。20世紀アメリカ史、ポップ音楽史、芸能史、信仰、亡霊…の複数レイヤーはぴったりくっ付いたまま、どれも切り離せない。エルヴィスもその一つ。でもこんだけアメリカの光と影を象徴するポップアイコンは、エルヴィスかマリリン・モンローくらいだろうな。(奇しくもその2人の映画が同じ年に…)
『スペンサー ダイアナの決意/Spencer』
『ジャッキー』に続き、パブロ・ララインの20世紀実録風「亡霊映画」。ジョニー・グリーンウッドの音楽、まるで棺を運ぶように進む車列、そこにあるキジの屍、そして「何かが見ている」気配を感じる亡霊視点のカメラが過剰にオカルトホラー。ダイアナは魂を失くした着せ替え人形と化し、二つの屋敷の間に放置された案山子だ。けど、ララインは亡霊を殺しはしない。ただ穏やかに安らぎを与えるのだった。
『ミセス・ハリス、パリへ行く/Mrs. Harris Goes to Paris』
憧れは力なり。キラキラ輝くドレスと、それに心奪われる瞬間のドリー・ズーム!ミセス・ハリスの赤い頬、ちょこまかした仕草、時に押しが強い姿勢、旅行鞄で佇む姿はまるでパディントン。でも実は対��についての話であり、「箱とその中身」の話で、ある意味左岸派映画。贅沢は敵じゃない!レスリー・マンヴィルとイザベル・ユペールの共演こそ、ほんと贅沢でした。
『NOPE/ノープ』
思った以上にスローバーン。そして思った以上に『ヴァスト・オブ・ナイト』と対になる。何せ、方や「I see you」、方や「I hear you」だもの。アレはアダムスキー型というより、下から見上げたカウボーイハットみたいだった。
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』
作家になるにはNYだ!と、まずは憧れの力ありき。でも書く以前に読んでばかりの読書映画。ひたすらインプットの日々、消化しきれないほどの情報や知識や刺激���体験が次々と。羨ましいやらわかりみ深いやら。「フラニーとゾーイー」を久々に読み直したくなった。
◆配信で
『ノー・シャーク/No Shark』 https://www.amazon.co.jp/dp/B09KGFZ86K?tag=vod_contentsdetail-22
サメに食われたいのにサメはなし。NYのビーチを転々としながら、ひたすらその時を待つ女の脳内モノローグが��々と続く。まるで「ゴドーを待ちながら」か、ひとりマンブルコアか。正に人を食ったようなオチと、Toby Goodshankのエンディング曲がダメ押しする、デッドパンでナンセンスな「探索的狡噛」。それでもれっきとしたビーチ映画でサメ映画(反ジョーズ映画)。あの声とリズムが妙に心地良かった。
『バスタブとブロードウェイ: もうひとつのミュージカル世界/Bathtubs Over Broadway』 https://video.unext.jp/title/SID0067147
企業ミュージカル・レコード沼へようこそ。それは知られざるミュージカルの宝庫、もう一つのショウビズ世界。名作や名曲があり、巨匠もスターもいた。深い、深いぞこの沼は…!愛と情熱、同志との出会い、真剣で貪欲な探究心が思わぬ広がりを見せていくのにワクワクしかないドキュメンタリー。マニアの真っすぐで曇りのない愛が起こす奇跡に清々しく心洗われた。
『セイント・モード/狂信』 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09HNDY45W/ref=atv_dp_share_cu_r
『キャリー』meets『ミザリー』を更にメンタル・スプラッターに振り切った感じで、ローズ・グラス監督デビュウ作は完成度高いと思う。陰気に寂れたコニーアイランド、ワンルームのアパート、主演モーフィッド・クラークが良い。
『アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー』 https://www.netflix.com/title/81161042
ロトスコープ・アニメで事細かに再現したスペースエイジの子供時代。ギプスしてる子が必ずいたとかイタズラ電話とかあったあった、TVアンテナに巻いたアルミホイル細かすぎ!でも記憶とは既にファンタジー。同じ69年の『ベルファスト』と通じると思った。ベトナム戦争とアイルランド紛争、少年の頭の中で混じり合う虚実、モノクロやアニメーションとしてパッケージ化した少年時代…けど、こちらには帰る家があって安心して眠れる。その楽観性が尊い。
『幸せへのまわり道』
(Amazonプライム、 U-NEXTほか)
トム・ハンクスはご本人完コピ以上に、優しく細めた目の奥にぞっとさせるブラックホールを演じているから恐るべし。殆ど瞬きしないし笑顔なのに笑ってない、『コラライン』のボタンの目みたいな…つい覗き込んでしまうようなその目に映る自分を見つめざるを得ない。ロジャースさんのシーンは全部、心がツーンとする。君たちは僕であり、君にできたなら僕にもできる。大変だけどやらなくちゃ…。ご本人の歌声が流れる中、優しさの王国ミニチュアセットを組み立てる男たちの手!
◆他にも良かった
『アネット』
緑のローブで殆どメルド(ドニ・ラヴァン)と化してるが、アダム・ドライヴァーはマイクとも人形ともプロレスができる、ほんと良いプロレスラーだな!先にサントラ聴いてたのもあって、スパークスのナンバーが頭から離れない。
『レット・ゼム・オール・トーク』
事件のないミステリー。ロードのないロードムービー(客船だから)。けど作家と探偵と死体はいる。そこがとても面白い。いわば聞き込みをする探偵役、ごく自然と年上に懐き気を許させるルーカス・ヘッジスのリアクションが絶妙。ソダーバーグは今まで特にピンとこなかったけれど、これはかなり好みで楽しかった。
『さよなら、私のロンリー』 https://www.netflix.com/title/81239497
エヴァン・レイチェル・ウッドの長くて重たそうな髪とダボダボな古ジャージ姿、動物的で芸術的な身のこなし、そして野太い声のインパクトたるや。生まれたてでおっぱい目指して匍匐前進する場面はちょっと感動しちゃう。痛くて甘くて苦くて儚くて曖昧で奇妙な、説明しにくい感覚をユーモラスに掬い取ってみせるミランダ・ジュライ。『ニューヨーカー誌の世界』にある短編小説の映画化『ロイ・スパイヴィ』も、ほろ苦く甘い後味が好き。
『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』 https://www.netflix.com/title/81341644
銀貨30枚より銃よりも強いのは、権力のバッヂ(今だからこそ尚更うんざりする話だ)。言葉と目力で深く静かにカリスマ性を放つダニエル・カルーヤと、身軽な身体で飄々とリアクションするラキース・スタンフィールドがとても良い。特に「何なんだよもう!」って巻き込まれて焦って悪足掻きするラキースは毎度最高、そのジレンマは滑稽なほど哀しい。監督シャカ・キングの演出が非常にソリッド。
『ワールド・トゥ・カム 彼女たちの夜明け』 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09HNDVQL7/ref=atv_dp_share_cu_r
黒髪長身キャサリン・ウォーターストンと赤毛ヴァネッサ・カービー、これ時代が違えば『テルマ&ルイーズ』だ。だから悲劇だけど希望でもある。展開とは裏腹に、雪に覆われ荒涼とした冬景色から夏を迎え、来るべき世界へと「台帳には記録されない」女たちの地図。
夜空に星のあるように(��ヴァイバル)
ザ・フォッグ(リヴァイバル)
ディナー・イン・アメリカ
スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム
ヒッチャー ニューマスター版
家をめぐる3つの物語
ザ・ハーダー・ゼイ・フォール 報復の荒野
パワー・オブ・ザ・ドッグ
ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!
幸せの答え合わせ
TOVE/トーベ
目指せメタルロード
トラブル・ウィズ・ユー
ペトルーニャに祝福を
元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件
洞窟
マチルダ・ザ・ミュージカル
ホワイト・ノイズ
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ダ-ティ・松本 不健全マンガ家歴30年[-α]史 ●はじめに この文章は同人誌「FUCK OFF!7」において書かれたものをベースにして逐次増補改定を加えていき、いずれ歴史の証言として、[というほど大袈裟なものでは無いが…]一冊の本にまとめたいという意図のもと、近年どんどん脳が劣化していくダ-松の覚え書きとしても使用の予定。事実関係は間違いに気付き次第 訂正。同人誌発表時のものも今回自粛配慮して、実名、エピソード等を削除した箇所有り。有り難い事に某出版社よりすでに出版打診があったがまだまだその時期ではない、マンガを描く事が苦痛になったら活字の方も気分転換にいいかも…。 /*マークは今後書き加える予定のメモと心得たし。 ●前史/修行時代・1970 さいとうプロの短くて濃い日々…… 1968年に上京。数カ月後東京は戦場に。熱い季節の始まりだった。 2年後親元を飛び出し友人のアパートに転がり込む。場所は渋谷から井の頭線で駒場東大駅下車、徒歩5分。地図で見ると現在の駒場公園あたり。昼間でも裸電球を付けなければ真っ暗という馬小屋のような部屋。数メートル先には当時の建設大臣の豪邸が…。前を通りかかるだびに警備のおまわりがじろり。 いつまでも友人に迷惑もかけられないのでとりあえずアシスタントでも…と手元にあったマンガ誌をひっくり返し募集を探す。幸いさいとうプロと横山まさみち氏のところでアシ募集があり両方応募。どっちか一つ通れば…と思っていたら何と両方受かってしまい、双方に条件を聞く。当時高円寺 のアパート、風呂無し4畳半の部屋で相場12000円の時代。前者一ケ月の給料10000円、後者20000円との事。給料の方がボロアパートの家賃より安いとは…!どう考えても前者は食う方法がないと判断し、後者さいとうプロへ入社。 ここに居��のはたったの半年に過ぎないけれど今思えばこれだけで本が一冊描ける位の濃い半年だった。しかしこのあと2X年分も書かねばならないことを思えば今回はいくつかのエピソードを書くだけに留めよう。 ダー松が入った時は小池一夫氏[クビ?]、神田たけ志氏や神江里見氏、きしもとのり氏[現・松文館社長]等と入れ替わりの時で、きし氏の女遊びの凄さと神江氏の絵のうまさは伝説になっていた。現在「亀有」「ゴルゴ」が歴代単行本の巻数の多いベスト1、2位だが[ともに100巻を越えた]、3位は神江氏の「弐十手物語」[70巻以上]だという事は知ってる人は少ないだろう。 当時の制作部は、さいとうたかを[以下ゴリ]をトップに石川班[ゴルゴ13、影狩り]、甲良班[バロム1]、竹本班[シュガー、どぶ等]の3つに分かれ、それぞれのキャップにサブ・チーフが一人づついて、ヒラが2~6人いるというシステムで総16名。独立し現在も活躍中の叶精作、小山ゆう、やまさき拓味の3名がそれぞれの班のサブ・チーフ。ダー松は石川班で左右1メートル以内に叶氏とゴリにはさまれ、のんびり出来ない状態で、はなはだ窮屈。叶氏はほとんどマンガ家になりたいとも思った事のなかった人で、設計事務所みたいなところで図面を引いていた人がなぜマンガプロダクションに来たのか不思議だった。格別マンガ好きというわけでもなかったせいか現在まで全ての作品が原作もので、オリジナルは一本もないのはそのせい?祭りなどの人がうじゃうじゃ出てくる群集場面が得意。 やまさき氏は大の競馬好き、現在競馬マンガを多く描くのは当時からの趣味が生きたというべきか。もう一つの趣味である風俗についてはここでは書くのは差し控えよう。小山氏は後日ここの事務の女性と結婚するが、当時はつき合っているとは誰も知らず、スタッフの一人がやめる時その女性に交際を申し込んだら、茶店に呼び出されて小山氏からと凄まれたと聞いたが嘘か本当かは不明。 ここでの生活は新入り[ダー松を含めて3名]は朝の9時前に会社に行き、タイムカードを押し、前日のごみをひとまとめして外に出し、トイレ掃除をして、16人分のお茶を2Fで入れて制作部のある3Fへの狭い階段をふらふら昇り、机ごとに置いて歩き、終れば、一息ついて買っておいたパンと牛乳を3分で食べて、やっとそれから仕事。しかし新入りの3名の内1人折茂は常に遅刻なのでいつも佐藤と2人でやっていた。佐藤も遅れる時はダー松1人で。辞めてから10年位、16人分のお茶を持って階段をふらふら歩きお盆をひっくり返す夢をよく見たものだが、実際ひっくり返したのは折茂と佐藤の2人で、よく茶碗を割っていた。 たまには夕方6時には帰れるが、普通は夜10時までで、アパートに帰って銭湯に行けばもう明日にそなえて寝る時刻、このくり返しの日々。週1日は徹夜で明け方に帰り、その時は当日の昼12時出勤。休日は日曜日のみで忙しい時はそれも取り消し。つまり休みは月3日。[これで給料2万円!]そんな日々の繰り返し。 夕方までは皆和気あいあいと仕事していたが、ゴリが夕方6時頃に「おはようさん」と現れると、全員無駄口がたたけなくなり、仕事場はシーンと静まり返り、以下その日が終わるまでは疲れる時間がただひたすら流れるのみ。 当時石川班は「ゴルゴ13」と「影狩り」を描いていたがゴリは主人公の顔と擬音のみ。マジックで最後に入れる擬音はさすがに入れる位置がうまいと感心。ゴルゴの顔はアルバムに大小取り混ぜてコピーがとってあり、忙しい時は叶氏がピンセットで身体に合わせて「これが合うかな~」といった感じで貼り付けていた。 その頃すでに「ゴルゴ」は近々終わると噂されていたが、現在もまだ続いているとは感嘆ものだ。 ゴリと石川氏が「ゴルゴ」の最終回の終わり方を話しているのを聞いたら、何ともつまらない終わり方。しかしあれから20年以上も経つ事だし、きっともっといい終わり方を考えてあるだろうなと思っていたら、先日TVで本人が最初から考えてある終わり方だと言うのを聞き、がっくり。企業秘密だろうから書かないが、作品の最初の方に伏線が数度出ているのでわかる人にはすぐわかる筈。 辞めた小池一夫氏とさいとうプロに何があったかは知らないが、漏れ聞く話では結構もめ事があったみたいだ。 「子連れ狼」で「ゴルゴ13」と同じ設定の回があった時、「小池のガキャー訴えたるー!」とゴリが吠えていたものだが、結局たち消え。さいとうプロ作品で脚本を書いた本人が辞めた後、他の作品で同趣向の作品を書いても著作権は脚本を書いた原作者のものだと思うがどんなものだろう。その回のタイトルは忘れたが、ある場所に居合わせた人々が武器を持った集団の人質となり、その中に素人だと思われていた主人公、実は殺しのプロフェッショナルがいて、次々とその集団を殺していく、といったプロットで、ミッキー・スピレーンの短編に同じような作品があり、本当に訴えていたら恥をかいたと思うが・・・。 そういえば事務の方には山本又一郎という男がいたが、後年映画プロデューサーとして 「ベル薔薇」や「太陽を盗んだ男」等を創る事になるが、この野郎が生意気な男で当時皆に対して10歳は年上、といった感じの振る舞いだったが後日俺と一つしか年が離れてなかった事を知り、そんな若造だったとは、と皆怒ったものだ。以来奴の事を「マタさん」から「クソマタ」と呼ぶようになる。 さて半年後に先輩たちが積もり積もった不満を爆発させる反乱事件が勃発し、2年は居るつもりでいたここでの生活も、辞めるか残るかの選択を迫られる。残ればさいとうプロの現体制を認める事となるので、ダー松も退社。 しかし反乱グループとは別行動をとって一人だけの肉体労働のアルバイター生活へ突入。超ヘビーな労働の製氷工場、人使��の荒い印刷所、命綱もない高所の足場で働く建設現場等々。トラックの助手をしていた時は運ちゃんが「本宮ひろしって知ってるか?うちの息子の友達でさぁ、昔、おっちゃんメシ食わしてくれーなんて言ってきたもんだが、今は偉くなっちゃってさー、自分のビル建てたらしいよ。赤木圭一郎みたいにいい男なんだ。」とうれしそうに話してくれたが、運ちゃんには悪いがそいつは今も昔も一番嫌いなマンガ家なんだ。あの権力志向はどうにかならんか。天下を取る話ばかりだもんなぁ。 ところで後日、単行本の解説で高取英が「さいとうたかをのヤローぶっ殺してやる!」とダー松が言ったなどと書いているが、小生はそんな危ない事言った覚えはないのでここできっちり訂正しておきます。 「会社に火ィつけてやる!」位は言ったかも・・・[嘘] 。 悪口は言っても別に怨みなど無い。ところでアシスタントとしてのダー松は無遅刻、無欠勤以外は無能なアシだったと反省しきり。理想的なアシスタントとはどんなものか、それはまた別の機会に。 *入社試験はどんな事を? *さいとうプロには当時ほとんどろくな資料は無かった? *ハイジャックの回の飛行機内部の絵は、映画「大空港」を社内カメラマンが映画館で写してきたものをもとに描く。 *当時のトーンは印刷が裏面にしてあり上からカッターでけずったり出来ない。 *トーンの種類は網トーンが数種、それ以外はほんの3、4種類位しかなかった。 *仕事中のB.G.M.はアシの一人が加山雄三ばかりかけるので大ひんしゅく。好評だったのは広沢虎造の浪曲「次郎長三国志」、初代桂春団次の落語。眠気もふっとぶ位笑えた。 ダ-松が岡林信康の「見る前に跳べ」をかけてるとゴリは「何じゃー!この歌は!」と怒る。名曲「私たちの望むものは」はこの男には理解不能。 ●1 9 7 1 ~ 1 9 7 4 持 ち 込 み & 実��話 雑 誌 時 代 当時は青年劇画誌全盛時代で、もともと望月三起也氏や園田光慶氏のファンで活劇志向が強く、 主にアクションもののマンガを描いて持ち込みに行っていた。今のようにマンガ雑誌が溢れかえって、山のようにマンガ出版社がある時代ではなく、数社廻るともう行くところがない、という状態で大手では「ビッグコミック」があっただけで 「モーニング」も「スピリッツ」も「ヤン・ジャン」も当然まだない。テーマを盛り込んだ作品を持って行くと編集から「君ィ、うちは商売でやっているんだからねぇ」と言われ、アクションに徹した作品を持って行くと「君ぃ、ただおもしろいだけじゃあねぇ」と言われ 「おい、おっさん!どっちなんだ?」とむかつく事多し。この辺の事は山のように書く事があるが、有りすぎるのでパス。 *そのうち書く事にする。 ただ金属バットで頭をカチ割って脳みそをぶちまけてやりたいような奴が何人もいたのは事実。今年[’97]「モーニング」に持ち込みに行って、断られた奴が何万回もいやがらせの電話をかけて逮捕された事件があったが、そのうちトカレフを持って殴り込みに行く奴が出てくるとおもしろい。出版社も武装して大銃撃戦だぁ!などと馬鹿な事書いてどうする!とにかく持ち込みにはいい思い出が何もない。そんな中、数本だけ載った作品は渡哲也の映画「無頼」シリーズの人斬り五郎みたいな主人公がドスで斬り合う現代やくざもの[この頃の渡哲也は最高!]、ドン・シーゲルの「殺人者たち」みたいな二人組の殺し屋を主人公にした『汚れたジャングル』、陽水の「傘がない」が好きだという編集さんの出したテーマで車泥棒とブラックパンサーの闘士とのロード・ムービー風『グッバイ・ブラザー』、拳銃セールスマンを主人公にした『ザ・セールスマン』、等々10本ちょい位。 さてその頃並行してまだエロマンガ専門誌といえるようなものがなかったような時代で、実話雑誌という写真と記事ページからなる雑誌に4~10ページ位を雑誌の味付けとして描かせてもらう。当時、お手本になるようなエロマンガなど皆無で、エロ写真雑誌を古本屋で買ってきてからみのポーズを模写。マンガで裸を描く事はほとんど初めてで、これがなかなか難しいのだがエロシーンを描くのは結構楽しい。当時出版社に原稿持って行き帰りにグラフ誌をどっともらって帰るのが楽しみだった。SM雑誌の写真ページも参考になる。なお当時のペンネームは編集部が適当につけた池田達彦、上高地源太[この名前はいけてます。また使いたい]等。その数年後、逆にマンガが主で記事が味付けというエロマンガ誌が続々と創刊される。 *さいとうプロをやめたあと編集や知人に頼まれて数人のマンガ家の所へ手伝いに行く。秋田書店「漫画ホット」で『ジェノサイド』を連載中の峰岸とおる氏の所へ行き、仕事が終わったあとまだ売れてない頃の榊まさる氏も交え酒を飲む/川崎のぼる大先生のところへ数日だけ/3000円たこ部屋/小山ゆうオリオンププロ *当時のアルバイトは記憶によると時給150~200円位/大日本印刷市ヶ谷駐屯地/坂/ *一食100円/どんなに貧しい漫画家もみかん箱の上で書くやつはいない/TV萩原サムデイ *ろくでなし編集者 ●1 9 7 5 ~ エ ロ マ ン ガ 誌 時 代 に 突 入 実話誌は意外とエロは抑え目で描くように口すっぱく言われていたのだが、以前活劇っぽい作品を描かせてもらってたが潰れてしまった出版社にいた児島さんが編集する「漫画ダイナマイト」で打合せも何にもなしに好きに描かせてもらい、ここでエロマンガ家としての才能[?]が開花する。描いてて実に楽しく眠る時間がもったいない位で、人に睡眠時間が必要な事を恨んだ程。出来る事なら一日中休まず描いていたい気分で完全にはまってしまう。 初の連載作品「屠殺人シリーズ」はこの頃から/『漫画ポポ』。中島史雄氏は大学時代にこの作品を見ていたとの事で、トレンチコートにドクター・ペッパー模様のサイレンサーつきマグナム銃で遊戯人・竜崎一也が犯しまくり殺しまくり、サディスト、マゾヒスト、殺人狂、まともな奴が一人も出てこない性と暴力の祭典。ちなみにタイトルページは描かないでいい、との事でどうするのかと思っていたら編集部が中のワンカットを拡大してタイトルページを創り、1ページぶんの原稿料をけちるというせこいやり方だった。けちるといえば、原稿の1/3にCMを入れる際、原稿料を1/3削った会社もあり。 ●1 9 7 6 ~ 後に発禁仲間となる高取英と出逢い、『長編コミック劇場』で「ウルフガイ」みたいのをやろうと、怒りに震えると黒豹に変身してしまう異常体質の主人公を設定し、獣姦のイメージで「性猟鬼」なるエロマンガをスタート!しかしその号で雑誌が潰れる。この路線は今でもいけそうな気がするがどんなものだろう。 この頃の珍品に「快楽痴態公園」がある。タイガースに11-0とワンサイドで打ちまくられ、怒ったジャイアンツファンのおっさんが公園でデート中の女をずこずこに犯りまくり、その間にジャイアンツは9回裏に12-11とゲームをひっくり返してしまうのである!その時のジャイアンツの監督はもちろんミスター長嶋、先発堀内、打者は柴田、土井、高田、王、張本等々がいる。タイガース監督は吉田、ピッチャー江本、キャッチャーフライを落球する田淵、そして��の川藤もいる。解説は牧野…… ●1 9 7 7 ~ 上記2作品を含む初の単行本「肉の奴隷人形」が久保書店より発行。後にリングスの会場で逢った佐竹雅昭氏はこの本が一番好きとの事だった。 「闇の淫虐師」もこの年スタート。一話完結でバレリーナ、バトンガール等々、毎回いろんな女たちをダッチワイフのごとくいたぶりまくるフェチマンガとして1979年まで続け、単行本は「堕天使女王」「裂かれた花嫁」「エロスの狂宴」「陶酔への誘い」「終りなき闇の宴」の全5巻。ちなみに今年「闇の淫虐師’97」を『コミック・ピクシィ』にて発表。いつか『闇の淫虐師・ベスト選集』でも出したいところ。 [’98に実現、’99には続刊が出る] ●1 9 7 8 ~ 久保書店より第2弾の単行本「狂った微惑人形」。収録作品の「犯された白鳥」は持ち込み時代に描いた初のバレリーナもの。結構気に入っていた作品なのに、後年再録の際、印刷所の掃除のおばさんが捨ててしまい、この世にもはや存在しない不幸な子となる。[’99に宝島スピード・ブ��クに本より直接スキャンして収録] エロ、グロ、ナンセンスの会心作「恍惚下着専科」を発表。サン出版より同名の単行本発行。また同出版より「コミック・ペット/堕天使画集」として今までの作品を続々単行本化。全10巻位。これは今でも古本屋で流通しているとの事で、まだまだ世間様のお役にたっているらしい。 この年、「堕天使たちの狂宴」を描いていた『漫画エロジェニカ』が発禁処分、来年でもう20年目となる事だし、当時の人たちと集まってその大放談を収録し「発禁20周年特集号」でも創ってみようかと計画中。さて当時の秘話としてもう時効だろうから書いてみるけど、前述の『堕天使画集』に「堕天使たちの狂宴」は収録される事となり、当然修正をガンガン入れて出版されるものと覚悟していたら、米国から帰国後出来上がった本を見ると発禁になった状態のまま再録されている!以下桜木編集長との会話 ダ/いや~、いい度胸してますね。 編/だって修正してあるじゃない。 ダ/その修正状態で発禁になったんですよ 編/・・・・・ ダ/・・・・ 以下どんな会話が続いたのか失念…… それにしてもサドの「悪徳の栄え」の翻訳本は発禁後20年以上して復刻されたけれど、「堕天使たちの狂宴」は半年もしない内に単行本になっていたとはエロ本業界とは何といいかげんな世界!しかし作品そのものは、今見るとリメイクする気にもならないどうという事もない可愛い作品で、結局あれもあの時代の姑息な政治のひとかけらに過ぎなかったのだろう。いい点があるとしたら一つだけ、それまでのエロマンガになかった瞳パッチリの少女マンガ的ヒロインを登場させた事位か。今の美少女エロマンガは本家の少女マンガもかくや!という位眼が大きいが当時としては画期的だったかも。 ●1 9 7 9 ~ この年の「淫花蝶の舞踏」は「堕天使たちの狂宴」よりずっといい/『漫画ソフト』。今年出た「別冊宝島/日本一のマンガを探せ!」でベスト2000のマンガがセレクトされているが、ダー松の作品の中ではこの作品が選ばれている。教師と生徒、二人の女たちが様々な男たちの手によってに次々ともてあそばれ、闇の世界を転々として再び巡り会う時、女たちは蝶と化し水平線の彼方に飛び去り、男たちは殺し合い血の海の中で屍と化す。ダー松作品にはこのように男根が女陰の海に飲み込まれてに負けるパターンが多い。[性狩人、遊戯の森の妖精、美少女たちの宴、人魚のたわむれ・・等々] この年からスタートの「性狩人たち」シリーズ[劇画悦楽号]はバレエ、バイオレンス、SEXの三要素がうまくからみあい、それぞれが頂点まで達する幸福な神話的作品だ。ここから派生した路線も多く、美少年路線は’83の「聖少女黙示録」へ。身体障害者路線は’80の「遊戯の森の妖精」、’84からの「美姉妹肉煉獄」へと繋がる。’81の最終話「ハルマゲドンの戦い」ではせりふなしで24ページ全てが大殺戮シーンという回もあり、中でも一度やりたかった見開きで銃撃戦の擬音のみという事も実現。こんな事がエロマンガ誌で許される時代だった。ちなみにこの回は[OKコラルの決闘・100周年記念]だが、何の意味もない。単行本は最初サン出版より、その後久保書店より「白鳥の飛翔」「少女飼育篇」「ヘラクレスを撃て!」「眼球愛」「海の女神」の全5刊。現在入手出来るのは後の3刊のみ。[「海の女神」も最近在庫切れ] この年出た「人魚のたわむれ」の表題作は性器に{たこ}を挿入するカットを見た編集長が「・・・[沈黙]・・・頭おかしいんじゃ・・ブツブツ・・気違い・・・ブツブツ・・・」と呆れてつぶやいていたのを記憶している。たこソーニューは今年出た「夜顔武闘伝」で久しぶりに再現。なおこの作品は’83にマンガと実写を噛み合せたビデオの珍品となる。水中スローモーションファックがなかなかよい。 ●1 9 8 0 ~ なぜか「JUNE」の増刊として作品集「美少女たちの宴」がサン出版より出版され、その短編集をもとに脚本化し日活で映画が創られる事となる。[「花の応援団」を当てたこの映画の企画者・成田氏は日活退社後「桜の園」等を創る。]その際、初めて映画撮影所を見学し、せこいセットがスクリーン上ではきちんとした絵になってるのを見て映画のマジックに感心。タイトルはなぜか「性狩人」で、’96にビデオ化された。監督・池田敏春のデビュー第2作となり現在までコンスタントに作品を発表しているが、出来のいい作品も多いのになぜか代表作がない。初期の「人魚伝説」が一番いいか。 この映画に合わせて「美少女たちの宴」を2~3回のつもりで「漫画ラブラブ」で描き出すがどんどん話がふくらみ、おまけに描いてる出版社が潰れたり、雑誌が潰れたりで雑誌を転々とし条例による警告の嵐がきた「漫画大飯店」を経て、「漫画ハンター」誌上で完結したのは’83になる。この作品でクリトリスを手術してペニスのように巨大化させるという人体改造ものを初めて描く。 この年の「遊戯の森の妖精」は身体障害者いじめ鬼畜路線の第2弾!森の中の別荘に乱入したろくでなしの二人組が精薄の少女の両親達を虐殺し、暴行の限りをつくすむちゃくちゃな作品で、雷鳴の中、少女の性器に男達のペニスが2本同時に挿入されるシーンは圧巻!しかしこのとんでもない男達も少女の性のエネルギーに飲み込まれ、朽ち果てていく・・・。 ●1 9 8 1 ~ 美少女マンガ誌のはしり「レモン・ピープル」誌創刊。そこで描いたのが「白鳥の湖」。虚構の世界のヒロインを犯すというコンセプトは、アニメやゲームのヒロインをずこずこにするという今の同人誌のコンセプトと同じかも。バレエ「白鳥の湖」において悪魔に捕われたオデット姫が白鳥の姿に変えられる前に何にもされてない筈がないというモチーフにより生まれたこの作品は、悪魔に男根を植えつけられたヒロインが命じられるままに次々と妖精を犯して歩き悪魔の娘となるまでを描くが、あまり成功したとは言えない。ただ人形サイズの妖精をしゃぶりまくり淫核で犯すアイデアは他に「少女破壊幻想」で一回やっただけなのでそろそろもう一度やってみたいところ。「ダーティ松本の白雪姫」はその逆をいき、犯す方を小さくした作品で7人の小人が白雪姫の性器の中にはいり、しゃぶったり、処女膜を食べたり、と乱暴狼藉![ちなみに両者をでかくしたのが同人誌「FUCK YOU!3」の「ゴジラVSジュピター」]この童話シリーズは意外と好評で続いて「ダーティ松本の赤い靴」を上記の単行本に描き下ろして収録。童話は結構残酷なものが多く、この作品も切られた足だけが荒野を踊りながら去って行くラストは原作通り。 *近年童話ブームだがこの頃もっと描いておけば「こんなに危ない童話」として刊行出来たのにとくやまれる。 「2001年快楽の旅」もこの本に収録。快楽マシーンを逆にレイプしてしまう、珍しく映画「2001年宇宙の旅」風のSF作品。 掲載誌を決めずに出来る限り多くのマンガ誌で描こうというコンセプトで始めたのがこの年スタートした「怪人サドラン博士」シリーズ。「不死蝶」シリーズや「美少女たちの宴」シリーズの中にも乱入し、「漫画ハンター」最終号では地球をぶっ壊して[その際地球は絶頂の喘ぎ声をあげ昇天する!]他の惑星へ行ってしまう。今のところ10誌位に登場。いつかこのサドラン・シリーズだけ集めて単行本化したいところ。ちなみに「サド」と「乱歩」を足して「サドラン博士」と命名。作者の分身と言っていい。 [後年、「魔界の怪人」として全作品を収録して刊行、04年現在品切れ中] この年描いて’82の単行本『妖精たちの宴』に収録の「とけていく・・」はレズの女たちが愛戯の果てに、肉体が溶けて一匹の軟体動物と化す、タイトルも内容も奇妙な作品。作者の頭もとけていた? ●1 9 8 2 ~ 1 9 8 3 ’83年に「美少女たちの宴」が完結。全てが無に帰すラストのページは真っ白のままで、このページの原稿料はいりません、と言ったにもかかわらず払ってくれた久保書店、偉い![明文社やCM頁の稿料を削った出版社=某少年画報社なら払わなかっただろうな……と思われる……]この作品以外は短編が多く、加速度をつけてのっていく描き方が得意のダー松としてはのりの悪い時期に突入。また10年近く走ってきてだれてきた頃でもあり第一次落ち込み期と言っていい。マンガがスタンプを押すように描けないものか、などとふとどきな考えまで湧いてくる。思えば一本の作品には、いったい何本の線を引いて出来上がっているものなのか。数えた馬鹿はいないだろうが数千本は引いている筈。一ヵ月に何万本とペンで線を引く日々・・うんざりする筈です。 この頃のめぼしい短編をいくつか書くと、少女マンガ家の家に税務調査にきた税務署員が過小申告をネタにねちねちいたぶるが、アシスタントに発見された署員は撲殺される。そして板橋税務署は焼き討ちにあう、といった作品「[タイトル失念]xx税務調査」。[後日読者よりこのタイトルを「色欲ダニ野郎」と教えていただく。ひどいタイトル *編集者のつけるタイトルはその人のセンスが実によくわかる。しかしサイテ-の題だなこりゃ…。 果てるまで「おまんこして!」と言わせながら処女をやりまくる「美処女/犯す!」はラスト、狂った少女が歩行者天国の通行人を撃ちまくり血の海にする。「嬲る!」はパンチドランカーとなった矢吹ジョーが白木葉子をサンドバッグに縛りつけ、殴って、殴って、殴りまくる。段平おっちゃんの最後のセリフ「・・ブスブスくすぶっちゃいるが・・・」「打てッ!打つんだ!ジョー!」「お前はまだ燃えつきちゃいねえ!」とはエロ・ドランカーの自分自身に向けて発した言葉だったのかも。トビー・フーパーばりの「淫魔のはらわた」は電気ドリルでアナルを広げてのファック!とどめにチェーンソーで尻を切断!いまだに単行本に収録出来ず。[’98の「絶頂伝説」にやっと収録]「からみあい」は夫の愛人の性器を噛みちぎる。「危険な関係」はアルコール浣腸をして火をつけ尻から火を吹かせる。この手は『FUCK YOU!2』の「セーラー・ハルマゲドン」で復元。そういえばこの作品の序章と終章だけ描いて、間の100章位をとばすやりかたはこの頃の「禁断の性獣」より。女性器にとりつき、男性器に変身するエイリアンの侵略により地球は女性器を失い滅亡する、といったストーリーで当時聞いた話では谷山浩子のD.J.でこの作品がリスナーの投書でとりあげられ、ダー松の名はダーティ・杉本と読まれたそうな。ヒロインの少女がひろ子という名前なのでこのハガキが選ばれたのかもしれないが、作者は薬師丸ひろ子からとったつもりだったのだが・・。[別にファンではない。] 「女教師狩り」は映画館で観客に犯される女教師とスクリーン上の同名のエロ映画の二本が同時進行し、一本で二本分楽しめるお得な作品。 ’83は’80に「漫画エロス」にて描いた「エロスの乱反射」の最終回の原稿が紛失したため単行本が出せないでい��のを、またまた「仏の久保さん」に頼んでラスト近くをふくらませて「漫画ハンター」に3回程描かせてもらい、やっと’85に出版。見られる事に快感を覚えるファッション・モデルが調教される内に、次第に露出狂となっていき、街中で突然裸になって交通事故を起こさせたり、最後はビルの屋上でストリップショー。そしてカメラのフラッシュの中に飛び降りていき、ラスト1ページはその性器のアップでエンド! 本格美少年・ゲイ・マンガ「聖少女黙示録」も’83。レズの姉たちの手によって女装に目覚めた少年がホモのダンサーたちに縛られなぶられ初のポコチンこすり合いの射精シーン。そして性転換して女となった主いるが、その中の’84の「白い肌の湖」はタイトルで解る通りのバレリーナものだがポコチンを焼かれた男が、一緒に暮ら人公が手術で男になった少女と暮らすハッピーエンド。この作品は単行本「美少女ハンター」に収録されてす二人の女と一人の男に復讐するエンディングがすごい!まず男の性器を切り取り、片方の女の性器にねじ込んだあと、その女の性器ごとえぐり取る。そしてその二つの性器をつかんだまま、もう一人の女の性器にフィストファック!のあげく、その二つの性器を入れたままの女性器をナイフでまた切って、ほとんどビックマック状態でまだヒクヒクうごめく血まみれの三つの性器を握りしめるとんでもない終り方!全くダー松はこんな事ばかりやっていたのかとあきれかえる。もう鬼畜としか言い様がない!しかし「ウィンナー」を二枚の「ハム」で包むなんて・・GOODなアイデアだ、又やってみよう。 ●1 9 8 4 ~ 「漫画ハンター」で「闇の宴」前後篇を描き、後日これをビデオ化。雪に包まれた六本木のスタジオで痔に苦しみながらの撮影。特別出演として中島史雄氏が絶妙の指使い、東デの学生時代の萩原一至が二役、取材に来たJITAN氏もスタジオに入ってきた瞬間、即出演で生玉子1000個の海で大乱交。カメラマンが凝り性で照明が気に入るまでカメラを廻さず、たった二日の撮影はやりたい事の半分も出来ず。撮影が終ると痔はすぐに完治。どうもプレッシャーからくる神経性だったみたいでこれに懲りてビデオは一本���み。 この年の「肉の漂流」は親子丼もので、近所の書店のオヤジからこの本はよく売れたと聞いたが、一時よく描いたこのパターンは最近では「FUCK YOU!3」の「母娘シャワー」のみ。熟女と少女の両方が描けるところが利点。「血の舞踏」は久しぶりの吸血鬼もの。股間を針で刺し、噛んで血を吸うシーン等々いい場面はあるが、うまくストーリーが転がらず3回で止める。短編「果てるまで・・」は核戦争後のシェルターの中で、父が娘とタイトル通り果てるまでやりまくる話。被爆していた父が死んだ後、娘はSEXの相手を捜して黒い雨の中をさまよう。 またリサ・ライオンの写真集を見て筋肉美に目覚め、マッチョ女ものをこの頃から描き出す。しかしなかなか筋肉をエロティックに描くのは難しい。 ●1 9 8 5 ~ くたびれ果ててすっかりダレてきたこの頃、8年間働いてくれたアシスタント女史に代わってパワーのかたまり萩原一至、鶴田洋久等が東京デザイナー学院卒業後加わってダーティ・マーケットも第2期に突入!新旧取り混ぜておもしろいマンガをいろいろ教えて貰って読みまくる。「バリバリ伝説」「ビーバップハイスクール」「ペリカンロード」「めぞん一刻」「わたしは真悟」「Be Free!」「緑山高校」「日出処の天子」「吉祥天女」「純情クレイジー・フルーツ」「アクター」「北斗の拳」「炎の転校生」「アイドルをさがせ」「綿の国星」「いつもポケットにショパン」「バツ&テリー」「六三四の剣」永井豪の絶頂期の作品「バイオレンス・ジャック」「凄之王」「デビルマン」等々100冊以上とても書ききれない位で、う~ん・・マンガってこんなにおもしろかったのか、と感動! そこで眠狂四郎を学園にほうり込んで、今まであまり描かなかった学園マンガをエロマンガに、というコンセプトで始めたのが「斬姦狂死郎」。「六三四の剣」ばりに単行本20巻を目指すものの、少年マンガのノリは今では当たり前だが、当時はまだエロマンガとして評価されず、ほんの少し時代が早すぎたかも。’86に中断、今年’97に「ホリディ・コミック」にて復活!果たしていつまで続けられるか? →後に「斬姦狂死郎・制服狩り」、「斬姦狂死郎・美教師狩り」として刊行完結 前年末から始めた「美姉妹肉煉獄」は身障者いじめの鬼畜路線。盲目の姉とその妹を調教して性風俗店等で働かせ、娼婦に堕していく不健全・不道徳な作品で、肉の快楽にひたっていく盲目の姉に対し妹も「春琴抄」の如く己の眼を突き、自らも暗黒の快楽の世界にはいり、快楽の光に目覚めるラスト。 また、これからは女王様物だ!となぜか突然ひらめき「筋肉女」シリーズの延長としてフィットネス・スタジオを舞台に「メタル・クイーン」シリーズも開始。これは単行本2冊分描いたが、連載途中でヒロインの髪型を歌手ステファニーのヘア・スタイルにチェンジしたり、レオタードもたっぷり描けてわりと気に入っている。 10年近く描いた「美蝶」先生シリーズもこの年スタート!こうしてみるとマンガを描く喜びに満ちた大充実の年だったかも。 ●1 9 8 6 ~ この年は前年からの連載ものがほとんどだが、「エレクト・ボーイ」は空中でファックするシーンが描いてみたくて始めた初の超能力エロマンガ。コメディ的要素がうまくいかず2回で止める。この路線は翌年の「堕天使輪舞」で開花。 「夜の彷徨人」は自分の育てた新体操選手が怪我で選手生命を失ったため、その女を馬肉のごとく娼婦として夜の世界に売り渡した主人公という設定。しかし腕を折られ、女にも逆に捨てられ、そして事故によってその女を失ったあげく不能となってしまう。失った快楽を取り戻すため無くした片腕にバイブレーターを取りつけ、夜の街をさすらい次々と女たちをレイプしていくというストーリー。がっちり設定したキャラだったのにまったく話がはずまず、男のポコチンは勃起しないままに作品も不発のまま終る。 「斬姦狂死郎」が不本意のまま終わったため学園エロス・シリーズは「放課後の媚娼女」へと引き継がれる。当時見ていた南野陽子のTV「スケバン刑事・」とS・レオーネの「ウエスタン」風に料理。ラストの「男といっしょじゃ歩けないんだ」のセリフは一番好きな映画、鈴木清順の「東京流れ者」からのもじり。単行本は最初司書房から出て、数年後ミリオン出版から再販、そして’97久保書店より再々販ながら結構売れて今年また再版。この作品は親を助けてくれる有難い孝行息子といったところ。 ●1 9 8 7 ~ さいとうプロOBで那珂川尚という名のマンガ家だった友人の津田が「漫画ダイナマイト」の編集者になっていて、実に久しぶりに同誌で「堕天使輪舞」を描く。超能力エロマンガの第2弾。今回はエロと超能力合戦とがうまくミックスされ一応成功といっていい。この路線は「エレクト・ボーイ」とこの作品、そして’96の「夜顔武闘伝」も含めてもいいかも。一時、この手の作品は数多くあったが最近はめったに見かけない。しかし、まだまだこの路線には鉱脈が眠っているとにらんでいるがどんなものだろう。 ●1 9 8 8 ~ 「放課後の媚娼女」に続いて抜かずの凶一無頼控え「放課後の熱い祭り」を2年がかりで描く。’89に完結し司書房より単行本化。そして今年’97に改定してめでたく完全版として復刊!この頃が一番劇画っぽい絵で、たった2~3人のスタッフでよくこれだけ描き込めたなと改めて感心!エロシーンがちょっと少なめながら中島史雄氏がダー松作品でこの作品が一番好き、とお褒めの言葉を頂戴する。 TVで三流アマゾネス映画を見ている内、むくむくとイメージがふくらみ、昔から描きたかった西部劇と時代劇がこれで描けると、この年スタートさせたのが「不死蝶伝説」なるアマゾネス路線。昔々青年誌の創世期にあのケン月影氏がマカロニ・ウエスタンを描いていたことを知る人は少ないだろう。俺もあの頃デビューしていたらウエスタンが描けたのに、と思う事もあったが、このシリーズでほんの少しだけその願望がかなう。 この頃、アシスタントやってくれてた格闘技マニアの鶴田洋久に誘われ、近所の空手道場通いの日々。若い頃修行のため新宿でやくざに喧嘩を売って歩いたという寺内師範は、もう鬼のような人で、行けば地獄が待っていると判っててなぜ行く?と不思議な位休まず通う。体育会系はマゾの世界と知る。組手は寸止めではなく顔面以外は当てて可だったので身体中打撲のあざだらけ、ビデオで研究したという鶴田の体重をかけたムエタイ式の蹴りをくらい、右手が饅頭のように腫れ上がる。先輩たちの組手の試合も蹴りがもろにはいってあばら骨が折れたりで、なぜこんなヘビーな事をする?と思うが、闘う事によって身体の奥から何か沸き上がってくるものがある。スリランカの元コマンドと組手をやった時、格闘家の気持ちが少しだけ判るようになった。 ●1 9 8 9 ~ ’94まで続く「美蝶」シリーズでこの年は『ノスフェラトウ篇』を描き、シリーズ中これが一番のお気に入り。同人誌の「王夢」はこれが原点。 短編では「悪夢の中へ」はスプラッタ・エロマンガで久しぶりにチェーンソゥでお尻のぶった切り!はらわた引きずり出し、人肉食いちぎり!顔面叩き割り等々でラストに「ホラービデオの規制をするバカは俺が許さん!」などと書いているので、この年が宮崎事件の年か?世間は彼が日野日出志・作のホラービデオ「ギニーピッグ」を見てあの犯罪をおかした、としてさんざんホラービデオの規制をやっといて、結局見てもいなかったとわかったあとは誰一人日野日出志氏にもホラービデオさんにも謝らす゛知らんぷり。残ったのは規制だけで、馬鹿のやる事には全く困ったもんである。先日の「酒鬼薔薇・14才」の時も犯罪おたくの心理学者が、「これはマンガやビデオの影響です。」などと相も変わらずたわけた寝言をぬかしていたが、馬鹿はいつまでたっても馬鹿のまま。少しは進歩しろよ!お前だよ、お前!短絡的で幼稚な坊や、小田晋!よぅく首を洗っとけ!コラ! 「獣人たちの儀式」は退学者や少年院送りになつた生徒、暴走族、ヤクザ達が集まって酒盛りしながら女教師たちをずこずこにしてOB会をひらく不健全作品。編集長が「また危ない作品を・・・」とこぼしたものだが、岡野さん、田舎で元気にお過しでしょうか。この頃の「漫画エロス」には「ケンペーくん」だとか「アリスのお茶会」だとかおもしろい作品が載っていたものです。「爆走遊戯」は伝説のストーカー・ろくでなしマンガ家の早見純が一番好きな作品と言ってくれたが、なぜだかわからない。人の好みはいろいろです。以上3本は単行本「熱き唇の女神」に収録。 「ふしだらな女獣たち」はフェミニストの女二人が美少年をいじめる話。これは「氷の部屋の女」に収録。 ●1 9 9 0 ~ この年の「美蝶」シリーズは『ダンシング・クイーン篇』。マネキン工場跡でJ・ブラウンの「セックス・マシーン」にのせて5人プレイをするシーンや文化祭でのダンスシーン等々結構好きな場面多し。暗くて硬い作品が多いので、この「美蝶」シリーズは肩肘張らずに、かなり軽いノリでキャラクターの動きに任せて、ストーリーも、そして次のコマさえも先の事は何にも考えず、ほとんどアドリブで描いた時もある。 「不死蝶伝説」に続いてシリーズ第2弾「不死蝶」は2誌にまたがって2年位続ける。これも結構お気に入りの一遍。 ●1 9 9 1 ~ 1 9 9 3 「性狩人たち」の近未来版、といった感じの「夜戦士」は学園物が多くなったので、マグナム銃で脳天をぶっとばすようなものが又描きたくなって始めたミニシリーズ。全5話位。松文館より単行本「黒い夜と夢魔の闇」に収録。 この年から知り合いの編集者がレディス・コミックを始める人が多く、依頼されてどうしたものかと思ったが、エロなら何でもやってみよう精神と何か新しい世界が開けるかも、という事から’94位までやってみたものの結果的に不毛の時代に終わる。与えられた素材が体験告白物という事で、非現実的なものは描けないという事は得意技を封印して戦うようなもので苦戦を強いられ、これって内山亜紀氏がやまさき十三原作の人情話を描いたようなミス・マッチングで不発だったかな。今後、もしやることがあれば美少年SMのレディス・コミックのみ。そんな雑誌が出来れば、の話だが。 いくつかやったレディコミの編集の一人「アイリス」の鈴木さんは同じさいとうプロOBで、マンガ・アシスタント、マンガ家、マンガ誌の編集、そして今はマンガ学校の講師、とこれだけ多くのマンガに関わる仕事をしてきた人はあまりいないだろう。これでマンガ評論でもやれば全て制覇だが・・・。 この頃はいつもと同じ位の30~40本の作品を毎年描いていたが、レディコミは一本30~40枚とページが多く結構身体にガタがきた頃で、右手のひじが腱傷炎になり1年以上苦痛が続く。医者通いではさっぱり痛みがひかず、電気針で針灸治療を半年位続けてやっと完治。その後、住んでいたマンションの理事長を押しつけられ、マンション戦争の渦中に巻き込まれひどい目にあう。攻撃するのは楽だが、話をまとめるなどというのは社会生活不適格のダー松には大の苦手で「お前等!わがままばかり言うのはいいかげんにしろー!」と頭をカチ割りたくなるような事ばかりで、ひたすら我慢の日々で血圧がガンガン上がり、病院通いの日々。確実に寿命が5年は縮まる。あの時はマジで人に殺意を抱いたものだが、今でも金属バット持って押しかけて奴等の脳みそをクラッシュしたい気分になる時もある。いつかこの時の事をマンガにしようと思っていて、まだ誰も描いてない「マンション・マンガ」というジャンル、タイトルは「我が闘争」。え?誰も読みたくない? この間に出た単行本は「血を吸う夜」、「赤い月の化身」「熱き唇の女神」[以上・久保書店] /「牝猫の花園」「真夜中の人魚たち」[以上久保書店]、「美蝶/放課後篇」「美蝶/ダンシング・クイーン篇」「不死蝶/鋼鉄の女王篇・上巻」[以上ミリオン出版]。 ●1 9 9 4 ~ 1 9 9 5 ろくでもない事が続くのは厄払いをしなかったせいか、このままここにいたら頭がおかしくなる、と15年以上いたマンションから引っ越し。板橋から巣鴨へ移動し気分一新!以前からうちもやりましょうよ、と言われていた同人誌創りをそのうち、そのうちと伸ばしてきたものの遂に申し込んでしまい、創らざるをえなくなる。しかもそれが引っ越しの時期と重なってしまい大いに後悔する。しかしいろんな人にお願いして何とか一冊でっちあげ、ムシ風呂のような夏コミに初参加。これが運命の分岐点。レディコミもこの年で切り上げ、以下同人街道をまっしぐら。現在まで「FUCK OFF!」が9まで、「FUCK YOU!」が4まで計10+&冊創る。 ’95からダーティ松本の名前にも飽きてきたしJr,Sam名でも描き始める。 レディコミ時代は松本美蝶。あと2つ位違うペンネームも考案中。 この間の単行本「氷の部屋の女」「双子座の戯れ」[久保書店]、「黒い夜と夢魔の闇」[松文館]、「危険な女教師/美蝶」[ミリオン] ��1 9 9 6 ~ 美少女路線の絵柄もこの年の「夜顔武闘伝」あたりでほぼ完成、今後また少し変化させる予定。しかしこの作品は超能力、アマゾネス、忍法エロマンガとでも呼ぶべきか。「グラップラー刃牙」みたいに闘技場での勝ち抜き性武道合戦までいきたかったけれど、残念ながらたどり着けず。 「冬の堕天使」は久しぶりの吸血鬼もの。都営住宅で生活保護をうけている吸血鬼母子のイメージが浮かび、そこから漫画家協会・加藤芳郎を撃つ有害図書騒動のマンガへ。吸血鬼少年が光の世界との戦いに旅立つまでを描き、「闇に潜みし者」は時空を越えて近未来での戦い。その間を描く作品を今後創らなければ。 「FUCK CITY 2006」はクソ溜めと化した近未来のTOKYOを舞台に久しぶりにダーティ・バイオレンスが炸裂!ハード・エロ劇画と同人誌風・美少女路線の合体は果たしてうまくいったかどうか?30ページほど描き足して、’97、9月にフランス書院のコミック文庫にて発売。[「少女水中花」] 「放課後の媚娼女」と「人形愛」刊行。[いずれも久保書店刊]前者は以前、上下巻だったのを一冊にまとめて。後者は近作を集めた同人時代を経ての初単行本で、同人誌を知らなかった読者はショックを受ける。メタルフアンから以下のようなお手紙を受け取る。「これはジューダス・プリーストの『ターボ』だ。ラストの『眠れる森の少女』は『レックレス』にあたる。しかしジューダスもその後『ラム・イット・ダウン』や『ペイン・キラー』という傑作を世に出した事だし、今後を期待したい」という意のダー松のようなメタルファン以外は意味不明の激励をうける。 ●1 9 9 7 同人誌「エロス大百科シリーズ」スタート!いろんな項目別に年2刊づつ計100ページ位を別刊シリーズとして出し続ければ10年で1000ページになり、以前「谷岡ヤスジ1000ページ」という枕に最適の本があったが、これも一冊にまとめて枕にして寝れば、目覚める頃は3回夢精しているなんて事に・・・などとまだたった40ページの段階で言っても何の説得力もないか。飽きたら2~3号でSTOPするだろうし・・。[推測通り「毛剃り」「美少年SM」「女装」3号でストップ中]冬にはやおい系にも進出の予定。 今年出した単行本は厚くて濃いエロマンガを集めた久保書店MAXシリーズ第2弾!「放課後の熱い祭り/完全版」と「夜顔武闘伝」オークラ出版。ともに大幅描き足して25周年記念出版として刊行。ティーツー出版よりJr,Sam名で「昼下がりの少女」、9月にはフランス書院より「少女水中花」の文庫本が出る予定で現在、この同人誌と並行して描き足し中。「斬姦狂死郎」第2部も「ホリディ・COMIC」誌にて6月よりスタート!年内創刊予定の『腐肉クラブ』なる死体姦専門のマンガ誌にも執筆予定。 さてさて25年間、旅行の時を除いて、現在まで2日続けてマンガを描かなかった事はほとんどない。これはその昔、伊東元気氏というマンガ家とお会いしたとき「今月何ページ描いた?」との問いに、「今月仕事ないんでぜんぜん描いてません」と答えたら、「そんな事じゃ駄目だ。仕事があろうがなかろうが、毎月100頁は描かなきゃ。」と言われ、以後その教えを守り[描けるページ数は減ったが]、マンガは仕事ではなくなり、朝起きたら顔を洗うのと同じで生活そのものとなり現在に至る。 今は何でも描けそうなハイな状態で、以前はたまには外出しないと煮詰まってしまうので週いち位ガス抜きをしていたものだが、最近はせいぜい月いち休めば十分の「純エロマンガ体」。[純粋にエロマンガを描くためだけの肉体、の意。ダー松の造語] こうしてふり返ると、この路線はまだえぐり足りない、これはあと数回描くべし、なぜこれを一度しか描かない!等々、残り時間にやるべき事、やりたい事の何と多い事! 爆裂昇天のその日まで・・・ 燃 え よ ペ ン ! なお続きは 1997年後期 1998年 INDEX
http://www.rx.sakura.ne.jp/~dirty/gurafty.html
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宮内悠介 feat. lil uzi vert
宮内悠介は僕の好きなSF作家のひとりだ。彼は小説家のみならず、雀士、プログラマーという側面も併せ持つ。彼の諸作でもとりわけユーモアとエッジの効いた短編集『超動く家』(2018)は今年読んだ本の中でも特に印象に残っている。特に面白かった一編のタイトルは『法則』。二年前の短編小説ということで、ネタバレ期限はとうに切れていると信じたい。
『法則』は、実在した作家S・S・ヴァン・ダインの短編『ヴァン・ダインの二十則』(1936)に記された「探偵小説の作法と遵守すべきルール」が絶対規則の世界に主人公が迷い込む話だ。主人公は殺人を犯し、隠蔽と逃亡の過程で世界がヴァン・ダインの法則によって支配されていることに気付く。「犯人」として法則に縛られる主人公は、法則との試行錯誤の末に追い詰められて、自ら命を断つことでこの世界からの脱出を試みるが、最後にヴァン・ダインの法則の18条を思い出す。
18.事件の結末を事故死や自殺で片付けてはいけない。
主人公は世界を抜け出すことが出来ず、永遠に付き纏う法則と無念に潰えて物語は終わる。おそらく、何かしらの教訓や説法の提示というよりはSFらしい自由なアイデア一本勝負で書き上げられた一編だ。13ページと短く、さらっと具現化された自由な飛躍を垣間見れた。他の作品も強烈な良作揃いなので、是非。
年の瀬ということで、年間ベストアルバムを決め打ちするために今年聴いた作品を振り返っていた。ライブ興行の壊滅とは裏腹に、優れた作品に恵まれた一年だったと思う。中でも、3月にリリースされたlil uzi vert『Etarnal Atake』がとても良い。新型コロナウイルスを巡る一連の出来事が本格化する直前の作品ということで、大きな話題になったのが遠い昔のようだ。どうにも遠近感が掴めない。
本作はどうやら2018年にはリリースされる見込みが付いていたそうだが、彼の所属レーベルとのトラブルによって延期に次ぐ延期がなされ、約二年の歳月を経て正式に発表されたのが『Etarnal Atake』。セールスのみならず音楽批評筋からも歓迎されていて、Pitchforkなど各メディアの年間ベストアルバムにも選出されている。円盤と宇宙、サイケな極彩色があしらわれたジャケットに同じく、全編通じてSFライクな空気感が漂う。特に好きだったのはこの曲。
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Travis Scott"Way Back"(2016)のビート・スイッチ以降のフレーズを早回し/サンプルして作られただけあって、荘厳かつ高揚感に溢れた仕上がりとなっている。キーが外れている(ように聴こえる)808の重低音が、却って奇妙な浮遊感を醸出しているのも興味深い。特に、このリリックが面白かった。
Hickory, dickory, dock (Uh)
ヒッコリー・ディッコリー・ドック
VVS all in my clock (My Rollie)
極上のダイヤモンドが俺のロレックスに燦く
Hickory,dickory,dockとは、英語圏の言葉遊び的な童謡(=マザーグース)のひとつ。歯切れ良くライミングできる言葉とメロディーで、lil uzi vertと同様、migosの例のフローを連想させるような拍と節回しだ。
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Hickory Dickory Dock
ヒッコリー・ディッコリー・ドック
The mouse ran up the clock
ネズミが時計をめがけて走る
The clock struck one
時計が一時を指すと
The mouse ran down
ネズミは時計を走り去る
Hickory Dickory Dock
ヒッコリー・ディッコリー・ドック
成功を収めたラッパーのアイコンである宝石を散りばめたロレックスと、子供のための無邪気な童謡を一列に並べてラップする発想力。「天から降るように燦く言語」と言いたいが、おそらく彼は何も考えていない。それもまた、lil uzi vertの魅力のひとつだろう。さながら子供のようなエモーションの暴発と予測不可能な危うい知性。今年26歳となった彼は、ラップスタイルやゴシップも含めて賛否両論別れるものの、時代性を象徴するラッパーのひとりだと思う。
『Etarnal Atake』には明確な引用元がある。アメリカのカルト教団、ヘヴンズ・ゲートだ。1997年、「天の国」からの使者であるUFOが我々を迎えに来たとして決起された集団自殺事件で知られている。彼らの教義には「地球はリセットの時を迎えようとしており、生き残るためには地球を脱出しなければならない」というものがあった。事件も含め、その根底にはいわゆる「アセンション」的発想があるようだ。lil uzi vertがヘヴンズ・ゲートに着想を得た根拠として、『Etarnal Atake』の一部アートワークに対してヘヴンズ・ゲートのメンバーが訴訟を起こしている。
事件以前、従来のヘヴンズ・ゲートは「進化に背くもの」として、自殺行為を禁止していた。1996年に地球へ接近したヘール・ボップ彗星の写真に、未確認飛行物体が映り込んでいるという噂が事件の契機になったそうだ。その真偽や結末はどうあれ、救済/変革は外部から訪れるものということを一貫して信じ、道徳倫理はともかくそれを全うしたということだ。ここでその是非を問うことはしない。1996年に彼らは救済の兆しを感知し、その翌年に「アセンション」した。ただそれだけだ。
lil uzi vertが何らかのインスピレーションを得たヘヴンズ・ゲートのビジョン。まさに外部から齎された事象が混沌を齎した2020年に発表された『Etarnal Atake』のモチーフとしてヘヴンズ・ゲートを引用したlil uzi vertの狙いは、ある意味で的を射ていたのだろう。先述したように、発表が延期しただけで2018年にはほとんど完成していたこともまた、見方によっては運命的。何らかのビジョナリーを彼に見出すこともできるかもしれない。
ヘヴンズ・ゲートが唱え、lil uzi vertが参照する救済とは宇宙を飛翔するUFOなのか、時刻を告げて疾走するネズミなのか。救いを受け入れるために死を選んだ彼らは、天の国に到達できたのだろうか。それとも、集団自殺事件の「犯人」として、無間の18条世界を彷徨っているのか。答えは誰にもわからない。そもそも、宇宙/救済/外部って何なんだ。『もののけ姫』のダイダラボッチに近い概念だとしたら、善悪の判断を超えた、誰も抗えない「法則」としてただそこに大きく横たわっているものなのかもしれない。
あるいはlil uzi vertの引用は、ラップ表現の一環における悪意のない茶化しだったのかもしれない。宮内悠介が小説家としてのアイデアを持ってヴァン・ダインの法則を挑発したように。あらゆるモチーフを無節操に吸収し発散するラップ・ミュージックの胆力、論理的な/整合性の取れた解答などナンセンスそのものだと嘲笑うSF的発想力の自在性、無邪気な子供たちが歌い、解答不可能な謎でさえも掌で転がすような音と言葉の遊び──ヒッコリー・ディッコリー・ドック!
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『心射方位図の赤道で待ってる』読書会レジュメ
この記事について
この記事は、文芸同人・ねじれ双角錐群が、2019年の第二十九回文学フリマ東京にて発表した���四小説誌『心射方位図の赤道で待ってる』について、文学フリマでの発表を前に同人メンバーにて実施した読書会のレジュメを公開するものである。メンバーは、事前に共有編集状態のレジュメに自由に感想や意見を書き込み合った上で読書会を実施した。読書会当日の熱気は残念ながらお伝えできないものの、レジュメには各作品を楽しむための観点がちりばめられているように思われる。『心射方位図の赤道で待ってる』読者の方に少しでもお楽しみいただけたならば幸いである。
『心射方位図の赤道で待ってる』についてはこちら
神の裁きと訣別するため
一言感想
実質まちカドまぞく
岸部露伴とジャンケン小僧的な
サウダージを感じる
むらしっと文体はミクロとマクロをシームレスに語るのに向いている、というか何を書いても神話っぽい感じがする。神待ちという地獄に誘う詩人ウェルギリウス的なポジとして冒頭に置かれているのがとてもいい。読者は思わず一切の望みを捨ててしまうだろう
いつもよりむずかしくなくて(?)そのぶんむらしっと文体の魅力に意識を割いて読めた
一読した印象として、古川日出男っぽいなというのがあった
完全なグー まったき真球〜チョキまでのくだり、かっこよさの最大瞬間風速
細部
箇条書きって進むポイントというか切れ目が明確? みたいな感じはあって、ノベルゲー(いや別にノベルゲーでなくても良い。ゲームで)で次のテキストに進むために決定ボタンを押すじゃないですか。なんかそういう感覚がある。箇条書きが一つ一つ切れていることが。
連打していく感じになる
それが後半で長いのがでてきたときに効いてくる
あとなんか連打のだるさみたいなのがあるじゃないですか? 別に箇条書きじゃなくてつながってるのと負荷変わってないはずなのに。ゲームもつながった文章を読むのと変わらんはずだが決定ボタンを押すリズムがこう負荷を作ってるよな。
上記は箇条書きがあげている効果について書いたんだけれども、そもそもどうしてこの作品は箇条書きなんだろうか? その意図というか、狙ったことがあるんだろうか? そこまでないにしてもなぜ箇条書きにしようと思ったんだろうか?
●のシーン。ナツキ(本田圭佑)が導入されてじゃんけんの話をしてこの時点でギミックと言うか、じゃんけん強いというのが、すでに引き込む力がある。じゃんけんからの視点の飛躍、特に蝉が木から落ちる下りで「次の年」っていきなりなるのは良いなと思った。
池袋西口、昔のおとぎ話、宇宙、キムチチャーハン、みたいな、遠近が入り乱れている世界観に特色がある気がする
★の家族のところが印象強くて、いたりいなかったりする兄とか、石を食べて予言をする姉っていうのが、マジックリアリズムな感じもありつつ、グラース家的なイメージも感じたりした。
▲のところで、つまり地の文のまなざしは父性だったということになるんだけど(実質)、それが変質していくというか、悪夢が変形する感じがちょっとあって。おとぎ話はグイグイ来て良い。
じゃんけんに関する要素が入れ子みたいになっている
完全なグー、外界を寄せ付けない孤独の象徴
P16「完全なグーについて」「ナツキの孤独について」で、ナツキがじゃんけんに絶対に勝ってしまい疎まれることが語られる。孤独。
●の部分がグーということなんだろうけど、ここでナンパの男にじゃんけんで勝ち続けて気味悪がられるナツキの孤独が語られている
完全なパー、記録すなわち過去の象徴
P18「完全なパーについて」「ナツキの記憶について」で、ナツキ(というより、「ぼく」)のナツキのはじめてのじゃんけんの記憶が語られる。
★の部分が(この完全なグーチョキパーを語っているところを含めて)ナツキの過去を語っており全体が記録、過去になっている
完全なチョキ、繋がりを切断する、他者との関係の象徴
P21「完全なチョキについて」ここはグーとパーと異なり「ナツキの●●について」という言葉は続かないんだけど、他者との関係、そしてそのつながりの切断についてということになるんだろう。家族のことが語られる
▲の部分が、逆に★の部分で語られなかった相手である「ぼく」、父親との関係とその断絶になっている
P21ではじめてのじゃんけんでナツキに無意識に出された手が、完全なチョキであったことの意味を噛みしめてる感
我が子に関係を「切断」されたということを否定したくて(その完全性を壊したくて)、躍起になったのかな
ところどころナツキが負けたがっていることを知っている描写があり、自分がナツキの完全性を否定することが彼女の救いになることもわかっているはずだ
でもなんか挑発的だし、やっぱり負けたのがすごく悔しかったのかもしれない
官吏(仮)も天体望遠鏡の順番決めでじゃんけんをしていた。むしろじゃんけんのほうをたのしみにしているようにも読める(P14)。
父もナツキに負けたことで、宇宙をいくつかまわって再び勝負をしかけるくらい入れ込んでいた。
父も実はじゃんけん自信ニキだった?
本田圭佑vs本田圭佑
全然関係ないが、じゃんけんする人の国民的ポジションを一瞬で本田圭佑がサザエさんから奪い去ったのすごいな
自信ニキにしてはパー(過去)を出すのにも「失敗したキムチチャーハン」で負けるあたり、舐めていたのか、地力が低かったのか、ナツキが強すぎたのか。
父は抱きしめてやるべきだったんだよこれ。
おとぎ話、これなんなんだ?
最強の手「グーチョキパー」と、官吏が囚人とのじゃんけんで出した手が官吏にしか分からない(グーとチョキとパーいずれかを事後報告できる)ということは、似ている
並行宇宙の話をしてたから、つまり重ね合わせの状態の手を出しているということか(???)
どの宇宙でも勝つように収束する
やけに星がよく見える池袋でナツキたちのちょうど反対側にいた男の故郷(この国でいっとう星がよく見える土地)と、官吏の故郷(星がいっとうよく見える土地というのがこの世界にはある。おれの故郷はそんな場所の一つだ)の類似
わからん。もう少し考えたい
それはちょっと意識してるのかなーとおもったけど、おもったけど、その先がわからなかったな
よく側を通り過ぎている女二人は官吏の妻と、彼女と密会していた女っぽい(P33)?
あの二人はなんか意味はありそうなんだけど、そうなんですかね? なんか手がかりある?
そもそも官吏の妻が密会していた女っていうのがよくわからん。p33「隣の独り身の女と、三日にいっぺんは会っていた」も最初は読み方がわからないというか、男の誤記か、会っていたの主語は官吏の方かとか考えてしまったから、でもここでその目立つ書き方をしているってことは、通り過ぎている女二人なのかもしれないな、必然性があるはずだと考えるならば。
「~しあわせな結末が待っている/そのまえにすこしだけの試練~(P12)」「おれの女房が、じつはおれのことを好いていない~(P33)」
同性愛で、片方には少なくとも家庭があり云々っていう話で素朴に読んでました。おとぎ話と「現実」が地続きなことを示唆する描写っぽいけど、地続きだとしてどういうことになるのかはまだよくわかりません。
反対側に官吏(仮)がいるので、当然彼女たちのことも見かけているはずだけど、そういうところには踏み込んでいない。
「塔のまわりをぐるぐる回るわたしにまとわりついて、しゃべりはじめた(P30, L9)」
ナツキの父の一人称は「わたし」じゃなくて「ぼく」
ここの「わたし」が「ぼく」の誤りだったら、「実は父の回想でした」筋が通る気がするんだけど
だとしたら反対側にいる男がおとぎ話の官吏で、囚人がナツキの父親なら、ふたりともここにいる/そこにいないのはどういうことかってなるし
おとぎ話パートに一人称が出てきてもなんらおかしくないという当たり前の結論に達した
これがただのおとぎ話だとしたらやっぱり、上記の類似はなに?ってなるな
「官吏のいかさま/それを覆す方法」のどちらかが、ナツキに「勝てる方法(P30, L2)」と対応する?
「つまらない方法」でも「教訓がない」と強調されている
P16で完全なグーチョキパーと「昨日見た夢」が並列に扱われている
おとぎ話との関係ありそうか?
最後のじゃんけんのところ
「親指をひろげて」「人差し指をひろげて」「中指をひろげて」「薬指をとじて」「小指をとじて」なんかじゃんけんの最強の裏の手みたいなやつか?
『ラッキーマン』で勝利マンがじゃんけんで出す最強の手「グーチョキパー」の印象が強かったので読みながらウフフとなった
指を家族にたとえる歌「おはなしゆびさん」
「中指をひろげて おにいさんゆび」って言ってるけどこの宇宙には、もうおにいさんは「すでにいない(P22)」はず
ナツキはおにいさんが「すでにいない」ことを知らないのか
「だからおおむね、いるのだといっていいのだろう(P22)」で解決か
小指=あかちゃんゆび=ナツキ自身
「わたしはもういなくなるから」の意味とは?
めっちゃかっこいいんだが、なんで勝つと神の不在を証明できるんだ?
自分を負かす存在を待っている→やってきた男に勝つ、という構図で、テーマが神待ちだから?
(1)完全性の自覚を打ち砕いてくれるくらい完全なもの(神)に出会いたい→満を持して史上最も期待できそうなやつ(父)が現れるが、勝ってしまう→神の不在に感じ入る
(2)「勝てる方法」を使用してくる父に勝つには「最強の手」を使うしかない→勝つために「最強の手」を使った自分は完全ではなくなった→「じゃんけんの神」であるナツキはいなくなった。(※「最強の手」には完全性が宿らないという前提)
後者だと「わたしはもういなくなるから」に若干繋がりそうな気配があるが……。
「気に入らない男だけれど、負けるのはほんとうらしい(P30)」
実は勝ってないけど負けることによって勝利しているとかそういう話の可能性は、ないか。
なにもわからなくなってきた。
最後のビュレットがないことの意図
ここまでの文が全部、ナツキが最後に出した「最強の手」の動線ってことなのか。
山の神さん
一言感想
広瀬の(声 - 小野大輔)感
笹さんは本当にエッチな男だなあ
広瀬の絶妙なすけべ感がすごいいいんだよな
舞台が大正時代なのもあって、なんとなく森見登美彦風味も感じた
実質ヤマノススメ
過去と未来、機械と人が「重なって」ゆき止揚される様がいい。
私は毎回打倒笹さんを目指してカワイイ女の子を描こうと四苦八苦しているのだが、そんな私の苦闘を尻目に笹さんは毎回さらりと可憐な少女を書いてしまう。私がシャミ子なら笹さんはさながらちよももといえるのではないか? この観点からね群とまちカドまぞくの類似点について指摘したい。
ね群とまちカドまぞくの類似点について指摘するのはやめろ
おもしろい小説を書くのってむずかしい(今回なぜかとくに思った)んだけど(隙自語)笹さんはすごいよ
時代は姉SF
対比的な文体芸が楽しい
ちゃんとそれぞれの文体の思考法でおのおのの結論に至るという意味での必然性もあり
短文が素打ちされていき、隙間にとぼけた感じが挟まれるこの手の文章が自分は好きなんだよなと思った。というか、思えるくらいに自然でうまいというのがある
p58で一瞬ネタにして明示してくれるの親切というか、やっぱりそうなんだ!っていううれしさがあり、かといってそれ以上しつこくネタにしない慎み深さがある
「機械の身体」にたいする各々の対照的な考えが、登山という身体性をともなう行為によって止揚される云々!テーマの消化のしかたがきれい
おれは登山をしたことはほとんどないが……
とまれ、こういう短いキャッチフレーズにまとめられるくらいの主題があるのは大事だよなあといつも思うんですよね……
会話が四コマ漫画を連想させてまんがタイムきららだろ、これ。
意識して読んだらマジでまんがタイムきららが脳内展開された。
ドキドキビジュアルコミックス
SF的な設定について
ものすごく複雑なことをしてるわけでもないと思うんだけど、人間と機械のきょうだいってのはちょっといろいろ考えがいがありそうなんだよな
血縁がないにもかかわらず姉妹を擬制するというのはひとつの伝統なので……
義姉妹の約を結んだのか……
単純にスペア的な存在のような気が(名前が神籬だし)
医王山登りたいな
プロットで動機や結末などを「重すぎず、軽すぎず」っていう思案してたっぽいけど、それがちゃんと活かされててよいな。
細部
大正15年、大正デモクラシーの流れで前年に男子普通選挙法、昭和が目前、世界恐慌前だしそんな世情はギスギスしてない感じだろうか。張作霖爆殺が昭和3年とかなので徐々に種が撒かれてた感もあるか
舞台は金沢らしい。旧制高校のエリートである
転移時の文章のくずれのかっこよさ、これなにか書くコツとかあるのかな……
実質パプリカ(映画)なんだよな
今敏監督で映画化だ
p52で先を歩かせてるときにスカートがちらちらするのぜったい気にしとるやろがそれを明らかにせず別の理由をつけるあたりのむっつり感
「まったく許しが��いことだ」じゃあないんだよ
p.72「広瀬は次に登る山のことを考え始めた」の爽快感がすごくよかった。
でもじつは神籬のことをめっちゃ考えてたんだけど、私小説的な照れ隠しでこの書きっぷりだった可能性もあるな
エピローグ(p.72の※以降)で広瀬たちと神籬の後日談があることが最高の読後感を提供してくるんだよな
囚獄啓き
一言感想
夜ごと街を走って体力を高めるの草
え、なんで妻は罪を犯したの?
愛だ。小林さんは愛の輪郭線をたどることで愛を浮かびあがらせるのが巧い。直江兼続の兜を想起させる。そして銀河犬が気になる。
いつもよりギュッとしてる
ぼくも同じ印象を持って、最初は漢字のとじひらきがかなり過剰に閉じ寄りになってるからかなと思ったんだけど、むしろいつもより地の文が多く、強めの短文を連打してるからなのかな
どこかに魚が出てくるかなと思ったけど、なかった
ところどころに小林さんの昏い性癖が出てる気がします
冒頭にある「地獄とは心の在り方ではないか」がポイントなんすかね
平等な地獄を作ったはずの主人公が、また別の、その人固有でしかありえない、妻の不在という地獄に……という、やっぱ愛か……
刑罰ってのがそもそも歴史がありその意義などいろいろな話があり現代に照らし返せるものの多い、したがって近未来の世界の「当たり前」がどうなっているかを描くまっとうなSFに向くテーマで、そのへんを上記の愛の話のもう片手として簡潔にまとめてるので、SF!って感じがするのだよな
理屈づけのおもしろさで魅せてく鴻上さんのとか、未来ならではの思索で魅せてく笹さんやばななさんのとあわせて、SFらしさのバリエーションがでてると思う
初読時には時系列というかエピソード間の間隔のことあんま意識して読んでなかったんだけど、妻が事件を起こしてから刑を執行されるまでにけっこう時間が経ってるのがわかって、なかなか大変やなというきもちになった
と言いつつ実はちょっとわかってないんですが、二人称で語られる断章は(多少その前な箇所もあるとして、おおむね)妻が捕まって以降の話ということでいいのかな?p85の妻への言及とかも相まって自信がないんですが
そもそもそのへんの語り全体が妻の見ている地獄という解釈もあるんだろうけど……(でないとなんで語り手がこんな詳らかに知ってるのかが説明できないというのもあり)
「牛乳を含んだ雑巾」みたいな独特の比喩から小林節を感じる。
SFってガジェット自体の新規性や利便性から話の筋を作るというのもあるんだけど、そういう未来を描くことで(かえってその迂回が)現在に通用する倫理とか問題意識を切実にさせる側面もあるんじゃないか、みたいなこと考えることがあり、これはすごくそれよりな感じがします(感の想)。時代によらず共感しうるものだったり、いま揺れている倫理に地続きの問いだったりが中心に据えられている。んじゃなかろうか。
「あなた」の作る地獄(への道)を「無関心」で舗装していたのは、むしろ妻のほうか(P79の後ろからL5、あるいは全体に漂うフラットな語り口から)? 舗装、とは言い得て妙かもしれない。その下に押しつぶされているもののほうをこそ俺はなんとなく想像してしまう。
妻の犯した過ちには子供の死と、ひょっとしたら、球獄とそれを取り巻く感情が関係している。いる?
平等であるというのは、ある意味残酷なことだ。だからこそふさわしいのだろう。意思が介入せず、全くぶれない罰を与える球獄だからこそ、罪の清算(救済)が可能である。それがどんなに償い難い罪だろうと、いやむしろ償い難いものであるほどそう感じられるのかもしれない。「あなた」による偏執的な研究の日々の傍で失われていったものがあるならば、それらの重さは球獄と��う完全性への期待に加担する。その信仰は、妻の中にも「あなた」の中にも、いつからかあるはずだ。
「神待ち」に関して
これから堕ちる地獄(世界)の創造主(=神)に「そこで待っている」という発言をしたことが、テーマに沿っている気がしたんだけど、どうなんだろう。
こういう発言にも妻の「あなた」への共犯��識が垣間見れるし、なんかやっぱり妻の罪の動機と球獄の製作って関わってるよね。そこをあえてすっぽり省いてる気がして。
脳波の逆位相を……という発想がよく考えたみたらどういうことだってところではあるんだけど、とくに瑕疵にらなないのはいいなというのがある
性的快感の逆位相=性的快感以外のすべてがある
妻がいない世界に生きる「あなた」=妻以外のすべてがある世界に生きる「あなた」
ということで、妻の地獄と、それ以降の「あなた」の生活は相似しており、このことがp.90「僕たちは二人並んで閻魔様に裁かれて、それから長い長い地獄に落ちるんだ」に繋がるところがうまいと思った。
細部
終盤で語り手が妻だとわかるみたいな仕掛けはやっぱりグッときちゃうんだよな
p80 パパ活やってて喫茶店のスティックシュガーパクる?と思って笑ってしまった
p81 京文線、なぜか印象に残る。急に架空の(だよな?)固有名詞が差し込まれるのが異質っぽいのかな?(ワイン、とか、省、とか、固有名詞が割と排除されている空気の中で)
「顔が見えていても私はいいんだけどね」「また来ても良い?」普通は、三倍払うと言われてそれに釣られてやってきた女は、こんな好意的な反応を返さないだろうから、そこに都合の良さというか、あるいは記録者による逆のバイアスがあるのかなとか思ったりする
p82「再び端末のキーを押下」エンジニアしぐさ
p84「君の身勝手な自棄で何人の未来を奪ったんだ」なにやらかしたの?
p.86「銀河犬」「(おばあちゃん)その辺で見ませんでしたか?」の台詞がすごく好き。小林さんは一作目からこの手のシュールさを志向している印象がある
記録の語り手が妻っていうのはなるほどねと思った
p.85「それから数年にわたって女はあなたの研究室に通い続けた」以降は、妻が罪を犯した後?
p.88「語りが過ぎた。ここで記録は結ばれ、以降は記録ではなく〜」記録3の後の最後の断章は、妻が地獄執行される場面であり、妻はその場面の記録を執筆できないということを意味している
p.89「私の心は現在どのレイヤーにあるのだろうか。」レイヤー?わからなかった
杞憂
一言感想
中盤からの加速感
これ絶対あれだろと思って読んでたのにやられた
デジタルタトゥーとかそういう意味じゃないけどわかる単語がずるいよな
インディアンのネーミングについて調べてしまった(おもしろい)
この手の一般名詞(?)をそのまま訳して名前として表すやつがなんか知らんが妙に好きなんだよな
ナツメもライチも中国原産っぽい?
原産というか縁がありそう
両方とも滋養強壮できるらしい
ちゃんと資料にあたり、ネイティブアメリカンの習俗とかJKリフレの店内の様子とかそういう細かいところをしっかりさせてて、小説の足腰ができている、見習いたいんだ……おれは……神は細部に……
SF的な理屈をいかに飽きさせずに読ませるかってところで、JKリフレとの強引な対応関係をつくる手つきがすげえ上手いんだよな
馴染みのある語彙に変な言葉を紛れさせて地の文で展開する、みたいな
オーバーロードが中年男性に……(さらにはそれがエルクに……)っていう絵面的なおもしろさと設定的な必然性を両立してるのとか、漫才っぽいプレイの流れのなかでちゃんと話進めるところとか
文化盗用とかアーミッシュへの皮肉っぽい視線みたいなのは前回の感動ポルノに通じるところあるよな
バトルシーンの手の込みようとおっぱいで窒息するくだらなさの融合だけで“勝ち”なんだよな……
もしかしてこれをやりたいがためにここまでの全部を作り込んできてないか!?!?!?
古事成語オチをつけてなんかやっぱネイティブアメリカンの伝承の話だった?みたいにするふざけかたも好き
あ、ここから怒涛のあれが来るんだって予感でわくわくしてやはり来て、凄かった。
SF的な設定、未来の世界での娯楽・趣味的的な観点がけっこうよくて
意図されたであろう魅力が初読で存分に伝わるつくりで、かつ細部に注目する部分がたくさん残されているのがめちゃくちゃつよい。
人物やガジェットのネーミング、その他取り扱われている文化へのリスペクトなど。
細部
p97「俺たちの世界の理にして〜」、読み返してみると、焼き脛は序盤からちゃんとわかって言ってんだな……
侍ミーて
「ひょっとするとお忍びで欲望を満たしにきた元老院議員の可能性さえある。」ここクソ笑うんだよな。千と千尋のあれかよ。
「あれこれ無駄な心配をする痴れ者をさして杞憂と呼ぶ習慣」これ文脈的に杞憂じゃなくてマウンティングベアって呼ばれるんじゃないの??
なんか笑った
略されて使用されていくうちに逸れていく、みたいな、なんかそういう言葉いくつかある気がする。いまは思いつかないけど
用語について調べて/考えてみる
赫の終端(レッドコーダ):ハンドラ族の長
赫は赤いこと、勢いが盛んであること。コーダは音楽で終わるあれ。なので日本語とルビは直訳的に対応しているっぽい。レッドコーダーだと、競技プログラミングのあれになる。プログラミング力が高いから長なのか?
ポアソンの分霊獣
ポアソン:名前。有名どころだと数学者? ポアソン分布の。
分霊獣:分霊は分け御霊。獣?
分霊という言葉のもともとの意味は、分け御霊ということで、コピーして増えるという意味の分けるなんだけど、作中でこの獣の動きとしては、流れを分ける、分配するという意味の様子。
っていうかロードバランサだよな? だからポアソン分布なのか! 待ち行列だから神待ちなんだ!(今更気づいたの俺だけか?)
待ち行列SFらしいということは垣間みえていたんですけど、まさかこんなん出てくると思わんやろ
杞憂(キユー)
杞憂は空が落ちてくることを心配した故事成語。カタカナでキユウではなくキユーなのはなにか意味あるのかな。待ち行列のキュー?
あー!なんで杞憂なのかと思ってたら、そうか、queueか!気づかなかった……
キューとかレッドコーダーみたいな二重の意味、他のやつにもそういうのあるんじゃないかと思ったけどわからんな
キノコジュース
一言感想
光――
初手「ふざけるなよ」と感想を書こうとしていたんですが、本人がふざけているつもりないとしたらめちゃくちゃ失礼になってしまうな、と口をつぐんでいました。やはりふざけるなよでよさそうです。
そういう意味では、我々としてはかなり楽しく読めるんですが、どこまで本気でやってるのか測れない距離の読者からすれば、読んでいて不安になる可能性もあるのかもですね
購入者の感想がたのしみです(なんなら自分の作品よりも)
ふざけどころの緩急がすき
ナンセンス漫画ってやっぱ絵があるからこそギリギリ成り立つもんなのかなあと思っていたところ、それを小説で成り立たせてる腕力がすごい
理路のつながらなさをゲーム的な世界観と苦しむ顔がかわいい女を好きな思い込みの激しい男とでギリギリもたせている感じというか、一般のナンセンス文学の退屈さを補う怒涛のクリシェというか
ほかの人のはそれぞれに「自分もこういうのできるようになりたい」という部分があり、その一方で「だけど本当にそれが書けるようになることを自分は求めてるのか?」という立ち止まりもあるなかで、国戸さんのは心情的に共感みがすごいんだよな。「これをやりたいし、これをやればおれのやりたいことができるのか!」みたいな
好き。酒呑みながらブコウスキー読んだときとおんなじ仕合わせな気持ちになる作品。
実際完敗した感じはあるんだよな。旋風こよりを前にした上矢あがりみたいな。
国戸さんの料理好きな部分が出てるのか。登場する食べ物飲み物が気になる。苔とか。
笑えすぎて本当にずるい
細部
すべてが細部なので読みながら挙げていきます(正直一文一文挙げてきたいところはあるんだが……)
そもそも冒頭の大剣のくだりからしていきなりバカにしてて、そこから「エロい体」の「悪魔系の魔物」が出てきて(系ってなんだよ)、ハートがパチン、そして光——の畳み掛けで完全に引き込まれちゃうんだよな
本当に最初の3行ですごいじわじわきたところに「セクシーで人間と同じ形状をしたエロい体の悪魔系の魔物」でトドメ刺されるんだよな。笑えすぎる。
くっそお、俺はこいつが好きだ
「大型魔物」、「の」を入れないのが良い
最強の二人のもう片方、だれだっけて
双剣を捨てる言い訳から店主を攻撃して半殺しってところまで一文一文笑いどころしかない
全体的にそうだという気もするんだけど、とくに「ルシエは用心棒で〜」からのくだり、なんか妙にサガフロ2を思い出したんだよな
キノコジュースのくだり正直まったく不要で、リアリティを増すための習俗の描写を馬鹿にしまくってる感がある
そういう意味ではその前の鴻上さんの緻密さと対比的でおもしろいな
「戦闘で、全力でしゃべってるんだと感じた」突然詩的になるな+ペンダントのくだりの思い込みの激しさ
いきなり世界が壊れだしてから第三世界の長井みがこれまでにも増して、ちゃんとゲームの世界なんですよという無用の目配せに笑ってしまうんだよな
素直に強く反省する主人公
p136の唐突な暴力描写の投げやりっぷり
「まさか点滅して消えるだなんて」ほんと好き
「その勢いは凄まじく、まるで矢のような勢いで飛び込んで来たのだ。」ここも好き
ひかりごけをいきなり食って、しかも飢えた人間へと連想をつなげるのをやめろ
もうこ���あたり完全にゾーン入ってるんだよな、一文一文が常に笑える
「強い恐怖は、それまで持っていた弱い恐怖を克服する」の決め台詞感に至るまでの思考回路がくだらなすぎる
玉ねぎの連想から無理やり涙につなげて、象徴にもなってない象徴を引っ張り出したうえで「確かに」と結論づけさせるのすごすぎる
「過去の出来事が現在の状況を暗示している」みたいなありがちなアレをばかにしてる
いきなり寝ている、いきなり寝るな
「すると〜」からの段落の描写の雑さが主人公の現実認識の雑さを象徴しててめちゃくちゃいいんだよな
ダグラスの登場あたりからやにわに話が盛り上がるのだが(そもそもこれで盛り上がってる感がちゃんと出てるのがまずすごい)、インベントリがいっぱいなことを心配したり速い虫の話をしたりさらには親の回想がはじまったりしてこいつ集中力がなさすぎないか?
とても速いなにかしらの虫ってなんなんだよ、ほんとに。何回読んでも笑ってしまう
でもなんかちょっとかっこいいんだよな
p140からのなんかいいこと言ってる感の空虚さがすごいし、そもそもなんでダグラス現出してんだよだし、それらすべてが学校の机でガタンの恥ずかしさとなんかしらんが妙にリンクしてる感じがして凄みがすごい
「あれ、これだいぶ前にもやらなかったか?」で突然我に返って、読んでる方も一瞬我に返り、ページをめくると最終ページの登場である
「苦しそうな顔が〜」で最後までふざけて、ロケットが開くのもなんか勢いで、それから光——ではないんだよ
まさしく腕力
リュシー (Lucie)は、フランス語の女性名。 ラテン語の男性名ルキウス(Lucius)に対応した女性名ルキア(Lucia)に由来し、『光』を意味する。
蟹と待ち合わせ
一言感想
マァンドリン
わりと文章が硬質なんだけど擬音語擬態語とか、こういう音声的な話を印象的に使ってくる印象がばななさんにあったけど今回それが強まっている気がする
いつもより書いてて楽しそうな印象をうけた
どこかでも書いたがばななさんの導入いつもよいと思う(導入以外が、という話ではなく)
今作はわりとエキゾチックなんだよな。キャノンビーチの鳥居を蟹がくぐる光景がエモい。
全体的にアルカイックなのは意識の誕生以前の世界への回帰だからか。
おなじ文献に着想を得てるのに杞憂との落差よ。
御神体フェチ
毎回SFギミックがハードコアではあるのだけど今回もそうで、そのうえ↓の書き手の感想にあるとおり、実際書き方がより挑戦的になってる
んだけど、それなのに!夏の島のバカンスの雰囲気に包まれててめちゃくちゃさわやかなんだよな、なんなんだよ
そう、すごくさわやかなんだよな……本当に
ずっと空と海を描いていて、そのうつくしさは質感としては憧憬に近いんだけど、ラストで急にその突き抜ける青さが手元に戻ってきて調和するのがすきなんだ
人類補完でなにが起こるかのところにこの回答持ってきたのは(↓で書いた情報の出し方のおかげもきっとあるんだけど、個人的な考えとしても)個人的にはめちゃくちゃ納得感がある
収録作のなかでもアジテーション的で、わりと全体通してゆっくりアジってくるので「たしかにそうだよな……」みたいな納得感がある。あるよな?
「鯨」で強めの主張をしてからの「石球」での転調、そこからラストの「蟹」で落とす流れがきれい
というか、全体的に情報の出し方のコントロールという基本ががうまいんだよな。我慢できなくて設定語りしちゃわない?おれは我慢汁出ちゃう!
細部
ちょっと入り組んでいるので整理を試みます(みなさん適宜修正してくれ):
人類
全体と言語野を共有している
読む限り電脳である以外、形としては「普通の人間」でよさそう?
現代から100年後が舞台であること(そう遠くなく、まだ最後の電脳化が終わって間もない)、人間の肉体として考えて不自然な描写が出てこないこと
もし「異形」であるなら、相応の描写があっていいはず
自然な人間の形であるからこそ「四本足」や「七つの目」という描写が活きているんじゃないかと思って
しかし、なんでもいいというのも、この話の主題のひとつだ
「アラスカやシベリアの軍事拠点と並び、地球上で全住民の接続を完了した最後の地のうちの一つだった(P152)」
語り手たちはまだ完全に統合しておらず「人間らしい」雑念に溢れている(ように語っている、が)
笠木
御神体「ヘイスタック・ロック」
「キャノンビーチ」
笠木グループ:腕が各2本、脚が各2本の3体か
彼らの姿を想像することにあまり意味はなさそうだがいちおう
肉体(?)の数と一人称複数形のバリエーションの数は一致しない
p146で「三つの肉体」とあるから上記の解釈をしたんだと思うけど、最初読んだときそう読み取っていなかったのでなるほどと思った。何故かはよくわからないが、6本腕(兼ねる、脚)がある物理的には1つの塊を最初イメージした。p145で「七つの瞳」(3では割り切れない)とか、「三つの声、四つの声」とか書いてあるのを読んで、あまり整合的にわかりやすい体の形をしたものが何体かいるみたいな状況じゃないんだろうなと思ってしまったので。
でも油圧ショベルを操縦してるから、人間みたいな形をしているのだろうか(人間向けの油圧ショベルなのかどうかは定かではないが)
瞳のひとつは「対流圏から熱圏にいたる範囲を巡航する種々の飛行撮影機と衛星によって構成された視線(P163)」とのこと
なるほど!!
どうも彼らは記録をしているらしいことがわかる
マンドリングループ(たぶん)とは異なる一人称複数的な主体を維持しており、(一方的であれ)独立性を保てるらしいことがわかる
性交は非対称的な行為であること
「私たちは背中が三つある獣(P147)」すごいな
マンドリン
御神体「鯨→海自体へのイメージ」(仮)
マンドリングループ:腕が計6本、脚は計4本
……とあるけれど、海岸を歩んでいない2本があったりするかもしれないか
人類全体の意識(というべきではないかもしれないが)が共有されており、各々の肉体は物理的な入出力器官として位置付けられている、入れ替わることもあるていど自由っぽいことがわかる
「四本の足(P150)」という表現、ひとりはかならず共用スペースで開発をこなしているという描写(ここすき)
「肉体と精神の求めに応じて」とあるので海岸を散策する肉体も実際に交代してそうな雰囲気がある
「巨大な一つの意思たる海、それを身に纏う美しい惑星(P154)」(『ソラリス』だ)に自分たちの集合知としての存在を重ねる
パレイドリアがそれなり大事そうな概念として導入される
大戦があったこと、舞台が太平洋の群島であることなど、若干の歴史や場所の情報
環礁・核実験・地形などの情報からビキニ環礁だと思われる
鯨
鯨グループ:7つの眼
あとの「蟹」を読むかぎりでは笠木グループと同一であると思われるが……
パレイドリアの話の続きとして:自他の境界がない(このへんが神々の沈黙っぽい)→パターンを形作ることができず、生の感覚(?)としてしか受容できないみたいな話になってくる(現代的に見れば統合の失調ではある)
人間の意識(?)が完全に同一化するまでの過渡期らしいことがわかる
石球
御神体「石球」
「2121年9月のアラスカ」と明確に述べられている
時系列的にはちょっと前のように見えるが、正直よくわかってない
夢:イリアスっぽい描写
このへんも神々の沈黙で、ゆうたら「自他の境界がない、昔バージョン」の話
「開いた」球
視覚的な描写ができない、よね?
蟹
笠木グループっぽい
7つのうちのひとつの瞳が別の夢を見たらしい
俯瞰することの話��ただび
ここまでときどき出てくる語りのアップロードなどなどの話から徐々に彼らの生態の全体像が見えてくる形になってる
小さなボートのなかに女
「人類すべての言語野がつながったのが、いまからちょうど半年前(P152)」で七つ目の瞳は「一年以上にわたって(P160)」漂流していた女を見ていた(という夢を見ていた?)
P158で大地が揺れたことと関係がありそうなんだけど
鳥居をくぐる。今まで、あえて鳥居をくぐることはしなかった(P161)
純粋な観測者であるはずの7つ目の瞳が女をとらえて震える
「間近で見た御神体の岩肌は、海鳥の糞にまみれて白く汚れていた(P164)」は単純に美醜の描写を行ったり来たりすることで対象の存在感が強まるという効果もあるんだけど、もしかしたら「岩→女」への神性の移行ともとれる
女は一人称単数でしゃべる
濃い日焼け、脇毛ぼうぼう、乳に蟹
その前の段落の「あたしはようやく目を覚ます」の主体がちょっとあいまいで、おそらくこの女なのだけど、どうもここまでの一人称複数であった人間たちのうちの一個体のようにも読める……読めない?
むずかしい……最後の台詞の読解にかかっている気がする
ここで個としての人間が復活しているらしく、たしかにしているっぽいのだが
システムの「手足」に回収されつつある在りかたを、独立した「動物」のほうに引き戻してくれたらということなんだろうけど、この言いかただとそういう流れは止まらないと展望している
しかし七つ目の瞳のほうは、純粋な観測者としてあるまじき挙動をしていて……
もはや個を剥奪された端末になりつつある人間から全体への、人間性の逆流? といえばいいのか?
鳥居(文脈から切り離された木一般の意味が異邦で再構築される)というのが、いや鳥居に限らず漂着物の再構築などが(マンドリンもそうだ)、女の登場と構造的に対応しているように思う
単純な近似ではなく、その異質さを強調するための
イリアスパートの「怒り」は、システムに回収されつつある生の叫び(全体的な語りから読み取れる)に沿っている気がする(捕らわれたクリューセーイスの奪還と、漂着した「女」の物語的な関係やいかに。未読なので詳しくはわかりません)
鯨も同様、またソラリスの話も寓意に富む
女、オフラインなのかな(最後の台詞からははっきりと推測できない)
書こうか迷ったが、もしかしたら「正体」があるんじゃないか
P150の環礁・核実験・軍艦というワード(七つ目の瞳では観測できない海底)
ビキニ環礁のクロスロード作戦
鳥居への祈りから、日本の軍艦を連想
クロスロード作戦で沈没した日本艦は長門・酒匂
軍艦の擬人化と言えば艦これ・アズレン
双方のキャラクターの特性に照らす
「あたし」という一人称と「ささやかな乳房」という情報
「酒匂」ちゃん??
艦これの話か?
なんかこうもっとロジカルに導きたいんだけど、まだひらめきに近い
でもこう読むとすっと入ってくる描写とかある気がするんだよ
海への柔らかい執着とか、肉体の話とか
深海棲艦説としか思えなくなってきた
あー、なんかそっちっぽい!
最後の台詞がわかった気がする
元の肉体(艦)が(七つ目の瞳以外に)憧憬?をもって観測されつづけたことによって顕現できた、みたいなことか?
どうなんや
元あたし(傍点)じゃん?
いくつもあった「すれ違う」描写、しかし最後に「越境」して交わり、岐路に立つ!
つまり女の漂着は人類にとっての“クロスロード”だったんだよ!!!(キバヤシ)
ブロックバスター
一言感想
コインを振る。裏。←かっこいい
まったくわからないんだけど、いつもよりわかるよな
Cの盛り上がりがBとDのクライマックスと呼応していく感じが好き
読後感すごくいいからやっぱりこれ最後配置で正解なんだよな
津浦さんの作品一番難解なんだけど、なんか童話的な柔らかさがあるんだよな
ポリフォニック(ね群メンバーの作品は全体的にそうかもだけど)
こーしーもう一杯
王の祈る姿が比例して増えた←感謝の正拳突きしそう
細かな表現のかっこよさはもはや言うに及ばずなんだよな
Aの語りに出てくるモチーフの並置の伸縮自在さとか
あと「その大きさはもはや比喩の範疇を超えて唯一だった」がめっちゃ好き
挙げてくとキリがないのでやめます
細部
こっちもまずは整理してみる(修正求む)構成:4幕。
(1) p.168「「世界」という言葉がきらいだった」
(2) p.171「「世界」という言葉は、ずっと昔のあいまいな約束だった」
(3) p.174「「世界」という言葉は、その実なにも説明できていない」
(4) p.177「「世界」という言葉が薄い殻から芽吹くとき、その平熱の期待を逃してはならない」
語りの種類:5種類。
A:ほかと同じ明朝体のやつ
各挿話の最初に置かれ、「「世界」という言葉」からはじまる
p.168は病院に行く(お見舞い?)シーン?
p173「恋人の手」と「犬のクソ」は素晴らしいものと価値のないものを表しておりそれらを混同しないとみんな言いはるんだけど実際には紙一重だ、みたいなことを言っているように読み取れる、一方でp174では「生きている私たち」の強調によって、両者はいずれも生命を示しているというふうにも止揚されてくる
p.177「意味のある対象が〜
B:丸ゴシックのやつ
母を知らず、物語を作るハルと、魚から這い出したところを見つかった、八つ目の毛玉のキャット
八つ目!魚から!Cの「ものども」あるいは王だ!
母を知らないっていう宣言的な言い方がDとの関係というか、そういうものを感じる
p171「私は無垢を演じているのではないかと~」からも、直截的にはそういう読み方が誘発されると思った。Dの母との問題を無視した空想の世界。p171の描写は作り物感を補強している。p172「自身のスペアを要請」
世界の果てでコインを投げる
世界の果てが出てきて殻を破るって実質ウテナじゃん
p.180「あるいは誰かのその前駆が私と私の世界を作ったのだとしたら〜」エフェメラルな雰囲気がする
最後に揺れて、そのあと魚、でもって「彼」は(世界の)棘を持つ、(Cの)大亀だわな…
C:教科書体(?)のやつ←例のクレー
彷徨し、「世界の棘」を持つ大亀、王とものども
p.183より、ものども(たぶん王も)八つ目である
最後、魚がめっちゃとんできて世界の殻が壊れる
p.183Bによれば、Bにおける「物語」が世界と同一視できそうではある
D:薄めの丸ゴシックのやつ
現代劇っぽさのあるわたし(空想が好き、大学は文学部、就職に困る)と母。二人は折り合いが悪い
p178「世界に目を向けて」という母親の言葉とそれに従わずに目を閉じる私。「世界」という言葉への反発はAにつながっているように思う。
目を閉じて以降、空に魚が出現し母が消えるので、ここで世界に背を向けたように感じられる。というかp182のBにシーン的には合流しているように読める。丸ゴシック繋がりもあり。
ふと思ったがここの「わたし」が神待ち行為を行なっていた可能性があるぞ!!!!(ないです)
最後、やっぱ空に魚(バラクーダ!)が出現する。母はいなくな
E:薄めの明朝体のやつ
わたしと「彼女」(母性を感じはする)、あやとり
p.174「わたしは彼女の暇潰しの相手に過ぎない」が、その前のp.173B「気晴らし」につながらなくはなくて、そうなると物語自体ってことになるのか?
p.183「名づけたのは他でもない、わたしだ」。「世界」を?「世界の棘」を?
「ふだん浮遊している〜彼の棘はもたらす」らしいぞ!(だいじそう)
ストーリー性は希薄で、間投される語り
p.183、やっぱ魚は大亀の斥候なんだよな
あ、ここに寝室(Dの末尾の舞台)出てくんじゃん
あえて階層構造を仮定するなら、基底から順にD→B(Dのわたしの空想あるいは物語)→C(Bのハルの物語)で、大亀による崩壊がC→B→Dと還流してるように読めなくはない気はするんだけども……(BとDは……つーか、いうたら全部上下がなく並列でもいけるか)。で、それで世界がつながるのはわかる。じゃあ「その外に残された」の外って?(火じたいは王の演説にも出てくる)
レイヤーを想定しちゃうのは悪い癖だな。読み返してたらあんま上下関係ない説の方が強まってきた
自分だったらレイヤーを想定して書くのだろうが、多分作風的にはレイヤーとかじゃないんだと思う。しかし相互の関係性とかが変奏していく感じがあって良いんだよな
テーマについて
神待ち
神の裁きと訣別するため:自分を負かす誰かを待っている→勝って神の不在を証明
山の神さん:神待ちアプリ
囚獄啓き: 「地獄とは神の不在なり」なので、不在なんじゃないかな
杞憂:中年男性(世界を維持するための計算資源→神?)待ち、待ち行列理論
キノコジュース:ルシエが宮殿で完全性を持つであろう存在を待っていたこと
蟹と待ち合わせ:蟹待ち
ブロックバスター:亀待ち
むりやりまとめると、神待ちの「神」を、原義側に寄せた、圧倒的なものとか完全なものとかでとって書いたのが多数派、という感じだろうか
とどのつまりは祈りだ。
3 notes
·
View notes
Link
TEDにて
アラン・ド・ボトン:無神論2.0
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
価値観を分ける一般的な方法は、神を信じるもの。信じないもの。ですが様々な価値のひとつです。無神論者が、宗教から(敬意を持って)取り入れられるものに、どんなものがあるでしょう?
アラン・ド・ボトンは「無神論者のための宗教」(無神論2.0)として、人間的な繋がり、儀式、超越的存在への要求を満たすために、科学的にフレームワークで宗教的な作法や伝統を、ブランド的に取り入れることを提案しています。
いわば、これは宗教の大枠の構築に関する提案であり、Wikiみたいなもののようなことです。教育によって道徳を保つには、いかにすれば善いか?文化である!というアイデアはすでに崩壊しています。
では、何か?
説教と講演は似てはいますが、非なることです。では、宗教は?ここから物語が展開していきます。数千年にも及び練り上げられた手法には、詳細に観察し分析してからですが、手本として学ぶべきことがあるそうです。
この十年くらい。無神論者がどういうものかは、すごくはっきりしていました。とても、声の大きな無神論者達がいて宗教は 間違っているだけでなく、馬鹿げていると言っています。
そういった人の多くが、北オックスフォードにいて彼らに言わせると 神を信じるのは、妖精を信じるようなものであり、子どもじみた遊びに過ぎないというのです。
宗教全体をそのように切って捨てるのは簡単なことです。私が今日お話ししたいのは、無神論者の新しいあり方についてです。お望みなら、その新しい無神論を「無神論2.0」とでも呼びましょうか。
無神論2.0とは何でしょう?
まず、ごく基本的な前提ですが、「神はもちろんいません。神々もいなければ、超自然的な精霊も天使もいません。」と定義して先に進みましょう。
これで話は終わりではなく始まりなのです。文化圏からすると西洋のキリスト教での神はいない?
前提条件として、一神教の中での無神論ということです。多神教では、無神論という概念はありません。
詳しくは、多神教であるテーラワーダ仏教の「アビダンマ」という書籍に書いてあります。
データとして検出できる?
神の定義も決まっていないのに、いるもいないも存在するもしないも、本当のところは誰にもわからないため「無神論2.0」のテーマでの中だけの発言だと思います。
さて、難しい選択ですが、別な道があります。その道とは、全く不信心ながら、敬意を持って宗教から学ぶのです。宗教を信じていないなら、宗教の良い部分だけ選び取りミックスしていけない理由は何もありません。
私にとって無神論2.0とは、敬意と不信をもっていろいろな宗教を見て「この中で使えるのは何かな?」と考えることです。
世俗の世界は、科学的に観ると穴だらけです。世俗化をやり損なったのです。宗教をよく研究することで、人生のあまりうまくいかない側面についてあらゆる洞察が得られます。今日は、そのいくつかを簡単に見ることにしましょう。
まずは教育です。教育は世俗社会が強く信じているものです。世界をどう良くしていけるかと考える時、私達は教育のことを考え、そこに多くの投資をします。
教育は、商業や技術のスキルを与えてくれるだけでなく、より良い人間にもしてくれます。19世紀初期に、西欧で教会に行く人の数が急速に減り、人々はパニックを起こしました。
彼らはこう自問しました。みんな、道徳をどこに見出すつもりなのか?どこに導きや慰めの源を見つけようというのか?影響力ある声が1つの答えを出しました。
「それは文化だ」と文化にこそ、導きと慰めと道徳を求めるべきであるとシェークスピアの劇を見。プラトンの対話を読み、ジェーン・オースティンの小説を読もう。
かつては、ヨハネの福音に見出していた真実をそこに見出せるだろう。これはとても素晴らしい。とても正しいアイデアだと思います。彼らは、聖書を文化で置き換えたいと思ったのです。
うまいアイデアだったと思いますが、忘れられてしまいました。現在では、必要なのは情報やデータであって救いではないと考えています。
教育についてはもう1つあります。現代の世俗社会では、誰かに何かを一度教えれば足りるものとしています。
20歳でプラトンについて習ったら、その後経営コンサルの仕事を40年やっていても教わったことは、ずっと身についているものと考えます。宗教は「ナンセンスだ」と言うでしょう。
「教えを日に10遍繰り返す必要がある。跪いて繰り返すんだ」と。それがどの宗教でも言っていることです。「跪いて日に10回でも20回でも繰り返しなさい」人類の頭は、脳の構造上、ザルのようなものです。
宗教は繰り返しの文化であり、偉大な真理の周りを繰り返し回るのです。一方、私達、人類は繰り返しを退屈に感じます。「新しいやつがいい」といつも言っています。
宗教は、また時間を設定します。主要な宗教はどれも暦を持っています。暦とは何でしょう?暦は、一年を通じて様々な重要な考えに間違いなく出会うようにする方法なのです。
宗教がよく分かっているもう1つのことはうまく語るということです。私は、あまりうまくできませんが、修辞というのは宗教にとって鍵となるものです。
世俗的な世界では、大学教育を受けてもスピーチは下手で、それでも仕事はこなせます。しかし、宗教の世界はそうではありません。語る内容は、説得力ある語り口に支えられている必要があるのです。
今度は、芸術に目を向けてみましょう。芸術は、世俗的世界において高く評価されているものです。芸術は、とても重要なものと考えられています。
2つの非常に間違った考えが、現代社会に漂っていて芸術から力を引き出す能力を妨げています。1つは芸術のための芸術というものです。馬鹿げた考えです。
芸術は、密封された泡の中にあって騒然とした世界とは、関わるべきでないというのです。私はまったく反対です。もう1つの思い込みは、芸術は自らを説明すべきでない。
芸術家は解説すべきでないというものです。それをやると魔法が解けてしまい、簡単になりすぎてしまうからです。美術館で受けるあの感覚はこのためです。皆さんも覚えがあるでしょう。
「これ、いったい何なのかわからない」生真面目な人は、認めようとしませんが、あの困惑の感覚は現代芸術の構造的な問題なのです。
宗教の芸術への態度は、ずっとまともで芸術の意味を説明するのに躊躇いません。主な信仰で芸術の役割は2つ。
第1に、愛すべきものを思い起こさせること。第2に怖れ。憎むべきものを思い起こさせることです。それが芸術です。芸術は信仰における重要な観念を、腹の底から感じる体験なのです。
教会やモスクや聖堂を歩き回るときにしようとしているのは、通常は頭で理解するところの真理を目を通し、感覚を通して吸収するということです。実質、これはプロパガンダです。
レンブラントはキリスト教的世界観のプロパガンダをしていたのです。「プロパガンダ」と聞くと、皆、警戒し、ヒトラーやスターリンを思い浮かべますが、本来、プロパガンダは何かを笠に着て説教する方法のことです。
それが、良いものであるなら何も問題はありません。
美術館は、宗教を見習うべきです。美術館に歩み入ったとき・・・私が作るとしたら、愛の部屋や寛容の部屋を設けるでしょう。芸術作品は、すべて私達に何かを語ります。
様々な作品に出会い。そこで語りかけられ、作品によって観念を心に刻めるよう展示スペースを構成できるなら、芸術からもっと多くを得られるでしょう。
間違った考えのため無視されてきた芸術本来の役割を取り戻せるでしょう。芸術は社会を良くするための道具でもあるべきです。芸術は説教的であるべきです。
別なものを考えてみましょう。現代の世俗的世界では、魂に関すること。精神に関すること。高次の霊的なものなどに関心のある人は、孤立した存在になりがちです。
詩人、哲学者、写真家、映画制作者など。彼らは自分だけでやる傾向があり、家内産業的で弱い一個の人間です。1人でいると絶望や悲観をしがちです(色々な過去の実験で確認もされています)
そして、あまり影響力を持つこと���ありません。
今度は、組織的な宗教を考えてみましょう。組織的宗教がするのは何でしょう?集まって組織を作ります。これにはあらゆる利点があります。第一に、規模と力があります。
これらは、すべてとても良い資質であり、企業にも見られる特質です。実際、企業(法人)は様々な点で宗教に似ていますが、マズローのピラミッド底辺の欲求に応え、靴や車を売るという点が違っています。
まとめたいと思います。私が本当に言いたかったのは、様々な異なる領域で活動されている皆さんは、たとえ宗教を信じていなかったとしても宗教を手本として学べることがあるということです。
何か共同的なこと。大勢で一緒にやることに関わっているなら宗教には参考になるものがあります。旅行業界に何らかの形で関わっているなら、巡礼に目を向けてみることです。
じっくり、観察してみることです。旅行がどんなものでありうるか?私達は、表面的にしか理解していません。宗教が、旅行で何をしているか見ていないからです。
芸術の世界にいるのなら、宗教が芸術で何をしているか見ることです。教育者なら、宗教が思想を広める方法に目を向けることです。思想の中身は置いておくとしても、宗教は思想を広めるための非常に効果的なメカニズムなのです。
だから、私の結論は宗教に同意しなくとも、宗教は様々な面で、歴史の長さを見てもとても巧妙であり、複雑であり、知的であり、信者だけのものにしておくのは、もったいないということです。私達みんなのものにすべきです。
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任です! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
<おすすめサイト>
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
サラ・パーカック:宇宙から見た考古学
現時点2015年での時間の概念の解釈について
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
古代エジプト - Wikipedia
<提供>
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⑥イエス②仏陀③イマム・マーディ
好みは別れるが、パン🍞やご飯🍚とチーズ🧀🍳とワイン🍷適量の🥗菜食や🍯フルーツや木の実や必要なら🐟などを推奨します。個人的にはあまり🥓肉食自体は好みません。あまり贅沢は言えないですね。老化や消耗するので過度の食事や睡眠や労働は避けるべきです。
拒絶
戦争は受容できない。❺破壊兵器やその使用自体はナンセンスの塊であり反キリストである。身体は魂の牢獄であるが、生を受けたことは否定できず人生の営みは尊い。破壊は凄惨である。病気や老化は酷いが存在は否定できない。哲学は❶父であり、意識②子は維持し、❸聖霊は創造的知性であるー。
超心理学
以前、世界大師キリスト・マイトレーヤに抱えられたサイババ大聖(木星のアバター)白黒が視え、縦の列に並んだ黄色の3つボタンが木星に生きて横たわるサティア・サイババの霊の姿が見えた。神の化身の前世のシルディ・サイババ、現世はプレマ・サイ、として輪廻転生する事が予言されている。
悪魔
殺人や自傷行為や傷害行為自体が悪魔的であり、悪霊(悪魔霊媒)的である。反キリストは物質界に封じ込めらるべきである。キリストはいつもあなたの事を愛しているから互いを敬って助け合って優しく生きなさい。世界を分かち合って救いなさい。所で『気候帯の調和』(ハーモニクス)が急務である。
イエス覚者
想像力の中でプロンプトのスターシェル・カスタムの様な打ち上げ花火が上がって、空に浮かんだイエス覚者の姿を見上げるエル・グレコの『オルガス伯の埋葬』が記憶の霊的視覚の中に展開された。覚醒時の間のぼくの瞳のARの拡張にコントロールされたイマジネーション(幻想)の極致でしたー。
光合成
🌳葉緑素の緑と🚰水と土は大事です。
豊かな実りは根を張り大地を繋ぎ止め、潤いを与え、木々の緑は水H2Oと土と二酸化炭素CO2の栄養から酸素O2を生み出します。蛋白質の栄養素🍳🍟と糖質🍚🍞🍜🍝🍕🍣と光の摂取に野菜🥗は有効です。食事は自分にあった節度を選びましょう。『野菜とオゾン層』
🌿『調和』ハーモニクス
❺水素(チャーム)のクリーンでクールなエネルギー源は空気を澄んだものにし、世界の温暖化を防ぎ、環境を救う。太陽の横道帯の運航によると⑥パイシス(双魚宮)星団から❼アクエリアス(宝瓶宮)星団との整列の時代に入った。②融合と❶統合と④調和のエネルギーが世界を満たす。
チャクラの開放
❼頭頂(ヘッド)への集注❌
⑥眉間(アジュナ)⭕への集注はメンタル偏極を達成するのに大切で伝導瞑想は強力です。
❺喉(スロート)⭕
④胸(ハート)⭕
❸太陽神経叢は❌
②仙骨❌
❶脊柱基底❌
ヨガは荒療治であり、少々の危険は伴いますが、『覚者方』がコントロールしてくださいます。
邪悪さ
日本の軍部とヒトラー、ムッソリーニが魂が切り離された狂人であったとか、物質性の大主方のオーバーシャドウを受けていたとか、反キリストの顕現であったことにはある程度同意できるが、政治的・経済的に追い詰められた国がどういう行動を取るかは其ほど想像に難くないー。『戦争責任』
顕示体
もう既に幾度か述べたが、旧家にて #キリスト・マイトレーヤ の訪問を受けた事がある。彼とは一言も言葉を交わさなかったが、ぼくの描いた油彩画のイエスの足に打たれた杭を彷彿とさせる様にぼくの足は彼に思いっきり踏まれた。今想えばその痛みでその後、違う宮の夢の中に入った様だったー。
徴
『ダリ全画集』ー旧家にて、フロイトのインクで描かれた様なダ・ヴィンチの自画像の『床の染み』の幻と、二人の覚者。木製の家屋、後に老人ホームに顕れた『光の十字架』の徴。窓から見えたイエス抜きの『ルーベンスの最期の審判』の雲☁️の形相。夢の中のメタルで出来た手との握手ー。次元旅行ー。
信仰の対象
物質界に於ける身体は���的触媒であり、生と死を掛けた人生の存在の光芒である。死や病や老いがある以上は、生きる事は苦痛を伴う地獄に近く深刻であるが、愛する人や愛する作品が在る限り、生きた事は後悔できない。
ただ『感動と感謝』しかない。
『不定愁訴と愛別離苦』に悲し涙ー。
覚者方
死を悟る事は比較的容易である。然し、死後の霊魂の不滅を証明する数学は難しい。『キリストの再臨』に際して真なる修行と客観的で厳格な秘教数秘術的なイニシエーションの段階と光線が紹介されている書物に出逢うことは稀であり、この『伝導瞑想』の機会を掴み採る事は比較的幸運であろうー。
不自然と霊性の深刻さ
私自身は神のような存在に為るための自己犠牲は幾らでもする覚悟はある。
修行が容易である筈もなく、道はいつまでも続く程、長い。1850万年前から今まで途方もない長い時間の間留まれらている義理堅い『地球奉仕の道』に残られている覚者方の忍耐には全く頭が上がらないー。
魔法のランプ
神が与え給うた運命ならば其れは仕方のない事である。全ては神の配剤であるならぼくも運命を受け入れよう。イエスの大きな犠牲を無駄にしないように生きようと神に誓う。自分が変わるしかないなら使命を果たそう。ぼくにできる細やかな事を生きる中で宇宙の調和のシステムに成ろうー。
Balance Is Restores (FFⅥ)
愛する人と夢
もしも、ピアノが弾けたなら想いの全てを歌にして愛するあなたに伝えたいー。俳優に全く向いてないぼく。音楽への、歌手への、作曲家への、愛と感謝は筆舌に尽くしがたい。雄弁に語る歌の力と俗世との距離を計る必要が在るかもしれない。凡ゆる犠牲を捧げても神様であることが目的ー。
イタワリ
先日の夢で、ーサッカー選手同士が抱き締め合って板を割る光景(!)ーは試合の後お互いのユニフォームを交換し合う事の象徴的な表現であり、まるで友情の溢れる様な犬同士がじゃれ合うような、スマートで体力の要る労働者の階級の好むまともなスポーツである。『#インターナショナルの理由』
世界大師
#外国語 の国際的な文化交流や相互理解ができる。「真に知的である事は、平和を愛する事である。」
『色で分けること 血を選ぶこと』❸FREEDOM
ー如来(キリスト)よ地上に戻られ給え!ー神の意志、
④阿弥陀如来、❶大日如来、❸薬師如来、②釈迦如来、ー風・火・地・水ー
#七光線心理学
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「過大評価されているアカデミー賞受賞作18本」 「わが谷は緑なりき」(41)……「市民ケーン」に勝ったという事実は、いまだに犯罪行為といえる 「地上最大のショウ」(52)……時代遅れで、陳腐でナンセンス。なのに、「真昼の決闘」に勝っている 「80日間世界一周」(56)……ジェームズ・ディーンの「ジャイアント」が取るべきだった 「マイ・フェア・レディ」(64)……「博士の異常な愛情」が取るべきだった 「わが命つきるとも」(66)……「バージニア・ウルフなんかこわくない」のほうがずっとまし 「オリバー!」(68)……救いようがないほど古くさくて凡庸。同年には「2001年宇宙の旅」と「ローズマリーの赤ちゃん」という傑作があったのに、ノミネートすらされていない 「普通の人々」(80)……もっとも許せないのは、「レイジング・ブル」を負かしたという事実。これまでのアカデミー賞の歴史のなかで、もっとも理解に苦しむ選考 「炎のランナー」(81)……これが「レッズ」や「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」より優れた映画だって? 「ガンジー」(82)……ベン・キングズレーは素晴らしい。でも、同年の「E.T.」や「トッツィー」のほうが良いと思わない? 「愛と哀しみの果て」(85)……「蜘蛛女のキス」「女と男の名誉」といった凡庸なライバルに救われた 「ラスト・エンペラー」(87)……フラッシュバックが多いとはいえ、映像的には魅了してくれる。しかし、主人公が退屈きわまりない 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(90)……「グッドフェローズ」が、この長ったらしくて説教臭いケビン・コスナーのエゴ丸出し映画に負けたとは 「フォレスト・ガンプ」(94)……ひどい映画というわけじゃない。でも、「パルプ・フィクション」を負かしたことが許せない 「イングリッシュ・ペイシェント」(96)……正直に答えてほしい。もう一度見るとしたら、この映画とコーエン兄弟の「ファーゴ」とどっちを選ぶ? 「恋におちたシェイクスピア」(98)……「プライベート・ライアン」よりもいい映画だって? 50年後も語り継がれているのは、どっちの映画だと思う? 「アメリカン・ビューティー」(99)……1999年のトップ10を選ぶなら、「マルコヴィッチの穴」「インサイダー」「マトリックス」「シックス・センス」「マグノリア」「スリー・キングス」「ボーイズ・ドント・クライ」「女子高生ギャルに気をつけろ!」「ファイト・クラブ」。サム・メンデス監督のこの映画はトップ10にも入らない 「クラッシュ」(05)……「ブロークバック・マウンテン」が取るべきだった 「英国王のスピーチ」(10)……良く出来た時代劇だが、過去50年のあいだいつ公開されても良かった映画。現代を反映した「ソーシャル・ネットワーク」が取るべきだった
米誌「過大評価されているアカデミー賞受賞作18本」を発表 https://eiga.com/news/20120304/3/
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【渋川のヤバショ】 2018AW Collection
エッ!?アメリカのお菓子!??
…と思ったらヤバショ(※)でした。
※=群馬県渋川市にあるヤバいリサイクルショップのこと。筆者の故郷であり、そのリサイクルショップに魅せられた筆者は帰省のたびに逐一足を運ばねば東京に戻れないというゆかいな性癖がある。
リサイクルショップが大好きです。夏は嫌いです。えくぼは恋の落とし穴、三枝です。お世話になっております。先日までお盆休みで、例のごとく、龍が如く、渋川市にあるヤバショに行ってまいりましたのですが、相変わらずヤバさの宝箱、ヤバさの正倉院でございましたため、ヤバショフォルダの潤いは美魔女の肌レベルでございます。
真夏のピークも去ったって天気予報士も言ってたことですし、平成ラストサマー、最後の花火、この夏のヤバショフォルダを一部共有させていただきたく、何卒。
めちゃくちゃブレてますが、これは、お盆真っ盛りでも営業中だったという興奮と感動のためです。よかった〜〜〜
3ヶ月ぶりくらいに行ったら文房具コーナーができていました。しかもはちゃめちゃに品揃えが◎、この3ヶ月間でヤバショに一体なにがあったのか、想像せざるを得ません。
アノVCORNの旧タイプが箱で売ってました。箱で試し書きをするなよ。
しかしVCORNまじで書きやすいです。仕事中からプライベートまで文字書くときはもっぱらこれ使ってます。というわけでこれはマジで買いでした。ヤバショはたまにこういうマジな掘り出し物があるからやめられないんですよね。
本当にだいすきなペンだったので買う前「試し書き欄で宣伝しておきました。PILOT VCORN最高!これはグッドコピー。刺さる。学生時代、コピーライター養成講座(基礎講座)に通っていた僕に書かせればこんなもんよ。
試し書きノートの傍に不穏な落書きが。しかも右上に微妙にウォーミングアップをした痕跡が。そこまでして書きたかったことがそれなのかよ。
本コーナーにめぞん一刻が!!誰もが知ってる超名作、古本屋行ってもごく稀にしか見かけないマジな掘り出し物、その2です。
めぞん一刻に感動してたら、漫画コーナーに琴が雑に売られていました。なぜそこにいるんだ。
誰かのサインが100円で売られていました。厳しい。もしも僕が有名人になったとして、自分のサインがリサショに売られていて、しかも100円だったら泣いちゃうだろうな。誰のサインか分かる方、教えてください。
あっ!松原のぶえのサインじゃん!正直これ見つけてググるまではいまいちピンとこなかったのですが、曲聴いてみたらこれ知ってる!ってなるくらい超有名人でした。13年前のサインですね。ガッツリお寿司屋さんの名前が入ってたのですが、たぶんこのお店はもうつぶれちゃったのでしょうね。諸行無常を感じずにはいられない案件。
ごはん屋さんの電光掲示板、38,000円。食事処営業中の人は見逃せないですね。これがふたたびビカビカに光る日は来るのでしょうか。
あっ!!!ラーメン屋スターターキットじゃん!!ラーメンの「茹で」を極めたい、自宅でも茹でていたい、そんな人に勧めたい。なんといっても、いっぺんに6玉も茹でられますからね。こういった「元飲食店の一部」だったものが垣間見えるのもこのヤバショのヤバさのひとつです。
これはちょっと普通にほしかった。めちゃくちゃポップ。こういうふうに生きたい。このタッチの絵に既視感があるものの、誰の絵だったか思い出せない。詳しい人、ぜひ教えてください。
で、これがツキノワグマのはく製です。
こんなに近くでツキノワグマを見たことがなかったのでドキドキしました。あれ?高校球児?と思わせるほどまっすぐな瞳に、特殊な気持ちになります。サファリパークよりも間近でツキノワグマが見られるのはヤバショだけ。
このたびのヤバショの中で非常に刺激的な商品がこれ。映画とかでたまにみるシャワールーム。これでいつでもどこでもシャワーが浴びられます!なんでスケスケのガラスなんだろう。プライバシー的側面を一切合切無視した仕様���こちらのシャワールーム。すりガラスとかにしとこうよ。
そして、最後にヤバショ2018AWシーズンの、最もヤバかった商品が、下記のものとなります。
マスターハンドっぽいオブジェです。台座が異常にポップなりんごのイラストなところに制作者の狂気をビンビンに感じますね。たぶん意図とかを考えてはいけない。これは、宇宙の真。人類がまだたどり着くことのできない未知の領域。未だ見ぬ深淵。そういうものだと思っています。
今回のヤバショのヤバコンテンツは以上となります。
ここにいると、売り物とそうでないものの領域がだんだんと曖昧になってきます。さながらバリ島のパサールのよう。所有の曖昧性。これも、僕がヤバショに魅かれてしまう理由のひとつであるとかんがえています。
たとえば、
うりもの。
うりものではない
うりもの。
一番手前だけうりもの。奥のふたつと、台車はうりものではない。
灰皿含めてうりものではない。
だんだん、何が売り物でなにがそうでないのかわからなくなってきます。
でもたぶん、そういう区別をつけること自体がここではナンセンスなことなのかもしれません。もはやここはただのリサイクルショップの域を超えて、観光スポットのひとつと考えてもよいでしょうね。この混沌とした「場」を楽しめよと、ツキノワグマのはく製にそう言われているような気にすらなります。ヤバい薬とかはやってないです。
さいごに、家族にこのヤバショを紹介したその日のうちに姉から送られてきた姉的激ヤバ商品を紹介して終わりたいと思います。
どう見ても最高です。のろわれそう。
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「日傘を使う男性」に賛否両論の声…暑さ対策と見た目、どっちが大事?
集計期間:2020年8月18日~8月20日 回答数:17085
日除け対策に欠かせないアイテムのひとつ、日傘。
主に女性が使用しているイメージを持たれがちですが、最近は男性用も売られているようです。
また、日本気象協会も「日傘は女っぽいとか、もうやめませんか」という文言の入った熱中症対策ポスターを発表し話題になっています。
そこで今回は「日傘をさしている男性」についての意識調査を行いました。
男性が日傘をさすことに抵抗を感じますか?
回答者17085名のうち、男性の日傘に抵抗を感じると答えた方は全体の約35.1%と、少数派でした。
ここからは性別ごとに、抵抗を感じる人とそうでない人の意見を見ていきましょう。
抵抗を感じる(男性)
<日傘じゃなくてもいい>
・帽子で十分
・帽子の方が持ち運びが楽なので帽子を愛用している。
<人目が気になる>
・日傘を使いたい気持ちは多少あるが恥ずかしい。
・カッコ悪い
・カッコいい傘なら考えるけどね
・ジャニーズならともかく、ジロジロ見られそう。
・誰も見てないなら使ってもいいかな?とは思うが、人目が気になる。
・女性と一緒ならいける
<日傘は男らしくない?>
・骨が弱くなる
・日焼けしたら身体が丈夫になる
・男は日焼けしてナンボでしょ!
・漢は黙って直射でしょう。
・ナルシスト以外何者でもない。
・日傘を指す男なんて男らしくないし、女々しくて気持ちが悪い。
・涼しいのはいいが男は木陰じゃ?
・九州男児として、日傘なんてありえない。考えが古いと言われそうですが…
・どうしてもイメージ的にキツい。男だって人間だし日差しは刺さるぐらい痛いけ��我慢してる。
・絵に描いた様な軟弱野郎を見せられて不快。但し、本人は自分の感性でやってるんだろうから、口は出さずに無視します。
<日傘=女性というイメージが強い>
・昔からそうであったように、日傘は女性が指すものと言う気がする。ただ、昨今の強烈な日差しの下では、少なくとも中高年の男性も日傘をさした方が良いかもしれない。
・長く勤めた会社で、毎年夏になると日傘をさして出かけている男性の先輩がいた。自分は絶対無理だと思った。日傘=女性の嗜み、という固定観念がある。
<傘を持つのが面倒>
・恥ずかしいと言うより、面倒くさいです。
・日傘は片手が塞がってしまうので余計に抵抗がある。
・感じると言うか面倒くさくて、いちいち持ち歩きたくない。
・雨も降ってないのに傘をさすのは嫌。荷物が増える。
<そもそも日傘は迷惑?>
・男女関係なく嫌だ。周りが迷惑。
・狭い歩道では、女性の差しているものはまだ許せるが、男性はやめて欲しい。もしくは少しの配慮あるかたならまだOK
・そもそも日傘をさしてる人が嫌い。他者の歩行の邪魔になってても知らん顔してるバカとかよく見るので。
<抵抗はあるが、理由によっては容認>
・抵抗あるけど、そろそろ持たないと危険な気がしてきました
・暑さ対策ならいいが、日焼けを気にしたなら抵抗ある。
・肌が弱いとか仕方がない理由があるならまだしも美意識でしているのはちょっと気持ちが悪いです
・昔と違って、照射のレベルが違うから致し方無いのかも。
<いずれは浸透する?>
・まだね、時代が追いつかない。
・使用する人が増えれば慣れてくると思う。
・まだ馴染めませんけど、コロナの関係で流行るかもしれませんね。
・熱中症対策として、政府、自治体主導でキャンペーンをしてもらうと広まると思います。
・今はまだ男性の日傘に抵抗を感じます。しかし、紫外線の身体に及ぼす悪影響が広く知れ渡れば、マスク着用に違和感を感じなくなったのと同様に、普通になるのだと思��ます。こんなに科学が進歩しても、太陽光や紫外線を避ける方法が『日傘』なのには、残念な気がします。
<価値観を変えたいという人も>
・抵抗を感じるので自ら使ってスタンダードになるように努めています
・日焼けが嫌いなので日焼け止めクリームを塗ってる。毎年「男の日傘、流行らないかな。流行ったら絶対に差すのに。。」と思う。稀に日傘差してる男の人を見ると凄く羨ましい。
抵抗を感じる(女性)
<男らしくない>
・なんか女子っぽい
・ちょっと気持ち悪い。
・男は日焼けがカッコイイ!
・帽子ならイイけどね…男のくせに日焼けしたくないかな?
・病気でもない限り男の人は日に焼けてもいいと思います
・皮膚がん予防かなとも思ったりしますが、たくましさに欠ける。
・不思議です。今は紫外線が強すぎるから、肌の弱い人は仕方ないのかな。
・うちわや扇子で日除けをしてほしい。
・男なら堂々と炎天下歩いてほしい
・日傘をさしている時点で気持ちが悪いです。男らしさがなくなってきたと思います
・格好良くさしている人もたまに見られるが、あまりに様になっていない人が多い。
・なんか女々しいな!!と思ってしまう・・・男は黙って日焼け!!みたいな。男性も暑いのはわかりますが 女より軽装になれる
・男性はさしていると、弱く感じるが、この40°前後は熱中症予防にさすのは有りですね
・暑さを和らげるためや熱中症対策としての使用として、良いことではあるとは思う。しかし、色白のガリガリの美白男子みたいな人がさしている日傘は少し嫌。
・日傘、脱毛、スキンケア、毛髪ケア、気持ち悪いと思ってます。男女平等ではあると思いますが、男性には男性の良さ、女性には女性の良さとして発揮できるものは若干違うと思いますが、なよなよとただ媚びているような今の風朝は気持ち悪いです。何かあったときにこの国を、家族を、誰が守ってくれるのでしょうか?美顔、美白、日傘、他にもっと大事なものがあるのではないでしょうか。外見、見た目ばかりを気にする男性や、商売にする会社自体もあまり気持ちよくないです
<見慣れない・違和感がある>
・まだまだ見慣れない
・抵抗というより違和感がある。もちろんしないよりはした方がいいのは分かっているが、男性が日傘さして歩いているのを見たことがないので…。
・郷ひろみのような有名人ならば分かるけれど、一般人はまだ受けいれられない。
・日傘イコール日焼け防止のイメージが強いので違和感ある
<この暑さでは仕方ない>
・男性は日傘はささないと思っていたけど…最近は殺人的な暑さなので…さしたくなるのはわかる
・抵抗は感じるけど、使わないと太陽からの直火焼きを阻止できない、それが一番暑いのに夫にも通勤のために勧めたいけど、使ってる人なんて見たことないから抵抗ありすぎて使えないらしい
・抵抗を感じるが、日差しが強くなってきた現在、男性でも必要になってきたなぁと思う。そして美や紫外線を気にすることは良いことだと思う
<男性にも普及するべき>
・なじまないが、この夏からは定番になっても良い
・男性用のオシャレな物が、たくさん出るといいと思います
・日傘をした方が良いと思うので、もう少し、一般的になったら良いなあとは思ってます。
・あまり日傘をさしている男性がおらず見慣れない為。男性でも日傘を差す人が増えれば気にならないと思う。
・悪い印象はなく、むしろ男性にも普及するべきだと思うが、見慣れないので、ジロジロ見てしまうと思う。
・まだ少し抵抗はあるがさしたい人はさせば良いと思う!きっと男性も日傘をさしたくても本人が一番さしにくい状況だと思うしこれから気軽にさせるようにならば良いと思う!
・はじめはちょっとオネェみたいなイメージでしたが^^、よく考えると男女問わず日焼けは健康上考えると良くないので必要ですね。前SMAPゴローちゃんも日傘を差していると聞いた事があります、彼のステキでかっこいい容姿は日々の美容対策生活習慣からも出来ているのですね^ ^見習らわなきゃいけませんね
<男性の日傘=ゴルフ?>
・ゴルフ場以外で男性日傘は見た事ないかも。
・ゴルフなどのスポーツでさすのは問題ないが街の中ではあまり見たくない。
抵抗を感じない(男性)
<暑いものは暑い>
・暑さ対策やコロナ対策に有効だと思います。
・最近の暑さにはなりふり構っていられない。
・熱中症や皮膚がんなどの対策になるので何も抵抗を感じない。逆に好印象。
・酷暑で日陰を探すのは難しい。日傘は恥ではない。命の方が大事。
・仕事で屋外に居ることが多いので少しでも日影が欲しいから。
・自分自身は利用してませんが、日傘の断熱効果は高いと聞くので、日焼け云々関係なく、酷暑の夏を乗り切るにはとても有効な方法だと思います。
<実際に使っている人の声>
・自分自身でも暑さ対策として日傘を利用している。
・交通環境の無い場所へ行く際、営業で長い距離を歩くので、常に持っている紫外線カット機能がある折り畳み雨傘を使っています。疲労度がち��います。
・英国紳士は雨傘をファッションアイテムと考えているくらい傘はファッションの一部なので、自分は日傘も1つのファッションアイテムと捉えています。
<男も女も関係ない>
・男女平等。女は良くて男は変はおかしい。機能が優先。
・熱中症に男女は問わない。日傘を差す男は気持ち悪いという概念はもはや時代遅れ
・ココ最近の夏の陽射しは性別問わず避けるべき強さ。「男のくせに」という人は放っておけばいい、熱中症になってしまえと思う。
・直射日光や紫外線から体を守るためなのだから、そんなものに性差別的な目が入ることがおかしい。
・紫外線に弱いとかの事情があったりもするし、そもそもジェンダーバイアスはおかしい
・男女関係なく暑さをしのぐと言う行為は誰でもしたいので、日傘を使うことに抵抗はない。ただ、男性がピンクの日傘だと一般的ではないのでその辺は考えてます。
・環境の変化が大きすぎて、色々な対策を性別問わず試すべき。近い将来、宇宙服的なも��を着ないと、外出もままならない過酷な時代が来るかもしれない。
<その他>
・別に悪いことではないので
・ゴルフの時はいつもやっています。
・ゴルフ傘みたいに立派な傘を持ちたいです
・ゴルファーからすると、違和感はないんですけど。。
・炎天下で行う子供のスポーツ観戦には必須。
・逆にかっこいいと思う
・むしろ美意識高くて尊敬する。
・美容に気を使う男性も増えているし、熱中症になるよりいいと思います。
・私も紫外線アレルギーなので、もっと男性の日傘が広まってほしい。
・まだ馴染んでない光景ですが、使った方が絶対良いと思います。まぁ男性は荷物が増えるのも嫌がりそうですけどね。
・太ったおじさんほど日に当たると汗臭くなるので日傘をさして汗を抑えて欲しい。
抵抗を感じない(女性)
<やはり暑さに男女は関係ない>
・あまりの暑さに日傘をさすのは熱中症予防としてとてもいいと思います。男も女も関係ないと思う
・この時代に日傘は自己防衛。男も女も関係ありません。男が云々とは時代を見ることの出来ない愚かな人の感覚でしょう。
・男性だって暑いのや日焼けは嫌だって思うハズだから嫌とか特に思わないし、偏見とかが元々好きではないから。
・今は暑いから男性でも積極的に使えばいいと思う。女性は日焼け対策に使っていると思うから違和感があるのではないでしょうか?
・男性も使ったほうが良いと思う。日傘をさすだけでだいぶ暑さがやわらぐので。
・むしろ男性も積極的に持つべき。頭皮、皮膚、命を守るために
・男性だって暑い。スーツもやめるべきだ。
・異常な暑さにマスク着用とあっては、男性やお子さんであっても積極的に日傘を使用して欲しい
・女で日傘が要らないという人がいるように、男で日傘をしたいという人もいる。男だからとか関係ないと思う。
・さして!帽子は頭だけだけれど、だいたい体全体に影を作ってくれて絶対に良いから!老若男女子供もさして!
<“日傘男子”という言葉>
・日傘男子いいと思う
・日傘男子と言えば稲垣吾郎ですね!
<好感を持つという人も>
・逆に好感を持ちます!こんなに強い陽射しを浴びてる方が不自然な行為です
・身を守る方が大事。差してると逆に周りに流されずしっかり自己管理が出来る人なんだな、と思います。
<家族にも使って欲しい>
・主人も使ってます。暑いのに我慢することない。初めて使った時に感動してました。
・皮膚がんなどの心配もある昨今、夫にもさしてもらいたいくらいです。デザインが男性らしければ良いと思います。
・暑いのだから、性別関係なく日傘使うべき!うちは、日傘兼用の折り畳み傘を持たせてます
・男性も同じ人間です。昔と違うこの酷暑では熱中症を回避するには日傘や帽子は男性でも必需品だと思います。旦那さんは杖を使用しているので帽子を使用していますが、本人は日傘の方が涼しいと言ってました。
・主人は仕事柄移動が多いのでだいぶ前から外を歩くときは晴雨兼用傘を使ってます。周りの目より命を守ってほしいです。
・25分ほど徒歩通勤している夫に数年前より使用するように仕向けました。40℃にもなる暑さは性別、年齢関係なく出来る事はしたいと思っています
・主人が使っているが日傘があるとないとでは疲労感が全く違うと言ってる。晴雨兼用なので夏以外も持ち歩いてる。
・男性が直射日光をもろに浴びている姿は、心配でならない。でも帽子は似合う似合わないがあるから、日傘なら年齢や服装に関係なく合うと思います。ちなみに我が家では、男性用の折りたたみの晴雨兼用傘を持たせてます。中側が日差しをシャットアウトする素材のものです、
・年齢と共に髪が薄くなる主人に日傘を勧めていますが、聞いてくれません。帽子より涼しいと思うし、ソーシャルディスタンスに良いと思います
<熱中症になるよりマシ>
・日陰とひなたでは体感温度が全然違う。熱中症予防には、良いと思う。格好つけて倒れたらもともこもないし、今はコロナで医療関係大変なのに迷惑かけることになる。
<暑さ対策だけじゃなく、男性も美容を気にしていい>
・この暑さだから誰がさしてても良いと思う!男性も美容を意識していた方が、後々のためになるし、そもそも傘なんだから誰がもっても変じゃないと思います
・今の時代は、男性も化粧をしたり美容に気を使ったりする人が多くなっていると思うので日傘には全く抵抗を抱かない。それに、これだけ暑いのに健康のことよりも見た目のことを気にして指摘するのもナンセンスだと思う。
<いずれは見慣れる>
・初めは違和感あっても、多くの男性が持てば、見慣れると思う。今は見慣れてないだけ。私は良いと思う。
<日傘はコロナ対策にもなる>
・男女平等。ソーシャルディスタンスにもなるからとっても良いと思う!
・コロナの頃、ソーシャルディスタンスを保てて、日に焼けないのは男女を問わず良いと思います。熱波の中で、帽子では防げない暑さを日傘は日陰を作ってくれて、助かっています。
・紫外線を浴びすぎるのは皮膚にも良くないし、直射日光による体力消耗もかなり激しい。健康面を考えると、日傘は非常に有効。また、この時期コロナ対策の一環として互いに距離を取るのにも有効。男性だけが傘を差すのがおかしい理由が見つからない。
<ビジネスマンを気遣う声も>
・外回りの営業さんは見るに耐えかねる。自分を護って!
・暑さに男女関係ないし 男性が日傘を使っていてもいいと思う ただでさえマスクで暑いんだから 営業マンなんて 内勤よりもしんどいと思う
・男性のほうが営業などで外を歩くと思うので良いと思います。帽子は被ったりとったりで煩雑になりそうですし。
・ビジネスマンの方たちが強い日差しの中汗まみれで歩いてらっしゃるのを見ていつも日傘させばいいのにって思ってました。じゃんじゃん日傘をさして お仕事頑張ってほしいです。
<男性向けのデザインも必要、流行ってほしい>
・男性もシンプルな日傘だとかっこいいと思う。熱中症を防げるから、男性の日傘持参を流行らせてほしい。
・和傘を日傘として男性が使っていたら通だなと思います
・熱中症などにならないために大事だと思うが、まだまだ女性向けのデザインが主流。男性でも使いやすいものを販売してあげて欲しい。
・男女関係ない、みんな使うべき。男性が必須と思えるように、芸能人発信で流行させれば一気に広まる。
・25年くらい前は日傘といえば白やパステルのレースのものばかりで、さしているのは上品マダムやお嬢さまといった感じでした。その後黒やシンプルなデザインのものが出て来て、自分でも使ってみてその効果にビックリ。男性も使うべきだと思います。使ってみて、効果を実感すればみんな使うようになるんじゃないかなぁ。
・折り畳み式の日傘の使用は抵抗を感じません。長い日傘の場合は少し珍しく感じますが、使いこなしていれば格好いいと思います。フリルのついた日傘は違和感があるかもしれない。
・レース付きなどのヒラヒラしてるロリータ系の日傘なら二度見してしまうと思うけど、普通の日傘ならなんとも思わない
<周りの目を気にしないで>
・晴雨兼用傘を日傘にすれば男の人でも抵抗なく使えると思う。日傘を使うことに抵抗があるのは、日傘をさしている自分がどう思われるかを気にする男の人の方だと思う。
・男性も「恥ずかしいから」という理由で熱中症、日焼け対策を怠らないようにしてほしい。
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宇宙的ナンセンスの時代 宮内勝典 テクノロジーと魂(サイキ)との関係性を旅しながら書いたエッセイ。 この人の感覚に凄くシンパシーを感じる。 いつもよりメモり切れなかったけど抜粋。 1679 23と73の素数の積に分解したとき現れてくる像である 鯨の脳の進化は2000万年前に止まり ヒトの大脳はこの10万年間少しも大きくなってない 誤解を恐れずに言えば、反核デモよりもゲイパレードの方がはるかに刺激的で時代の熱い空気を感じさせる。時代の核心を突きつけてくる。骨の髄まで管理化された自閉状態、膠着状態に揺さぶりをかける唯一の力がある。 人口増加のため、地球規模の恐ろしい食料危機がくるのは火を見るより明らかだ。 「子供を産まないゲイやレズこそ、未来の理想的なカップルです」 と、道徳教育する方がはるかに人類のためではないだろうか? 宗教について 宗教は車みたいなものじゃないかな。人によってフォードが、最高だ、いやキャデラックだ、トヨタがいいとバラバラだろう。しかし車種の違いなんか問題じゃないと思う。大切なのは、その車に乗ってどこへ行くかなんだ。 ジェームスタレル 魂は自ら光を放つ。光は魂から生じ、心の場である脳に届く。 世界は心、つまりアートマン(真我)の光の反射によって見られる。心の助けを得て知覚される。 心は光を当てられると世界を認識し、その光が弱いと世界を認識しない ラマナマハリシ 「科学」の時代がいよいよ行きづまったとき、もう一つの選択肢、再生のための遺伝子プールとして残されているのが、この多様性かもしれない。 下記 この本に出てくるラッセル・ミーンズは 1998年1月16日に次のようなスピーチを行っている 私は、「ネイティブアメリカン」という用語を憎んでいる。これはアメリカ合衆国の囚人としてのすべての原住民を記述するのに用いられる「総称としての政治用語」である。これらは、アメリカのサモア人、ミクロネシア人、アレウト族、原住ハワイ人、そして実際はユピクとイヌピアトであるエスキモーのことであり、そしてもちろん、アメリカインディアンのことである。 合衆国政府によって用いられる統計は、どれだけの「ネイティブアメリカン」がこの国にいるかについて、上述した全ての民族を含んであなたたちに説明している。これは隣接する48の国(州)で、「ネイティブアメリカン」の総数が「アメリカインディアン」の総数であると仮定しているが、それは誤りだ。およそ170万人の「ネイティブアメリカン」のうち、120万人の「アメリカインディアン」がいて、60万人未満のインディアンがインディアン保留地に頼って暮らしているのである。 私はその由来を知っているので、「アメリカインディアン」という用語を好んでいる。これはスペイン語の「En Dio」が、粗悪に英語化したもので、それは「神とともに在る」と翻訳される。そして、更なる区別として、「アメリカインディアン」は、「合衆国のアメリカ人」という民族分類より前から存在するアメリカ合衆国の唯一の人種集団なのである。 我々「国際インディアン条約会議」は、1977年にスイスジュネーブで開催された国連会議において、全会一致で「アメリカインディアン」という呼称を支持すると決定した。 我々は「アメリカインディアン」として奴隷にされた。我々は「アメリカインディアン」として植民地化された。そして、我々は「アメリカインディアン」として我々の自由を得、我々は我々自身を我々が選ぶどんなものとでも呼べるのだ。 “共感”という意味ではインディアンは死んでいる。我々が求めているのは“敬意”だ。 章の始めに原爆や水爆の爆破写真が毎回出てくるのだが、AKIRAの大友さんも言ってたが、理屈としては肯定出来ないものも、美という観点では美しいと言わざるを得ない、その不条理を納得させられた。 #宮内勝典 #みやうちかつすけ #エッセイ #本 https://www.instagram.com/p/BzJ1ls7jZFX/?igshid=1grth38bftea4
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