#太鼓谷稲成神社
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初詣⛩ 今年は人が多いと聞いてたから3日にしたけど、それでも多かったです。駐車場待ち、参拝待ち、御守り購入待ち。疲れました。 #太鼓谷稲成神社 #津和野町 #初詣 (太鼓谷稲成神社) https://www.instagram.com/p/Cm8fXWNpSGv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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尋找真實的我
遠藤周作 集英社
遠藤周作 - 搜尋 (bing.com)
想見到 的 中國人
一個村落的小歷史
來說一個小小的村子的歷史。
幕末的事情。法國神父 普吉江 來到了 長崎。那時的幕府因為無法
抗拒諸外國的要求,和與美國為首等五國簽訂了友好通商條約,
長期抵制基督教崩塌了一角,承認了居留日本的信眾偏離了教義。
普吉江神父來到為外國人建造的教堂履任,然而他有一個秘密的
目的。那是他在 那霸 學習日本種���四年前的事情。有一個中國人
告訴他,被嚴禁的基督教其實有不少隱密的教徒。
怎麼樣都想找到,並接觸這些「隱密教徒」。他在街上問,小孩子
也問,可是一談到這一點,大家表情就黯淡了下來。
然而在 1865年春天,一群圍著這個罕見的異國教會參觀的日本人
中,有幾個百姓模樣的男女混了進來。其中一個女的問神父說 :
「 聖母瑪麗亞的神像在那裡呢 ?」
就這麼一個契機,神父知道他們是從長崎越過一個山頭的貧窮的
浦上村 的百姓,知道他們是自己尋求到基督教的村民。
從此,神父每到夜晚就越過山丘,去到 普上村 拜訪。教會長年的
沒有宣教師,他們的信仰有偏離基督教義的部份,神父教導他們,
以倉庫做教堂,舉行彌撒,也為他們洗禮。
這個秘密的傳教持續了一年,因為一點小事情為 長崎奉行所 知道
了,受到衝擊的奉行所,在六月的夜裡,包圍了浦上,並逮捕了
基督教徒的首謀。
小村落歷史的意義
受到嚴厲的調查,很多人拒絕棄教。浦上村的男女一一被投獄,並
受到酷刑。
種種經過之後,浦上村基督徒的處理,轉到了明治新政府,明治新
政府反彈諸外國公使的抗議為「干涉內政」,並且將這些男女老少
的信徒全體,分散至全國各地的監獄。
離開故鄉在異地的監獄,是這些浦上村人們痛苦的開始。各地的待遇
有差別,而受到的拷問、飢寒沒有不同。其中最有名的是 島津縣
津和野。今天津和野的年青人們,對浦上村農民的痛苦歷史,應該
都不知道吧。
【津和野の旅】江戸から明治にかけての和洋の文化が息づく城下町・島根県津和野への旅をVlogにしました|津和野カトリック教会|藩校養老館|太鼓谷稲成神社|津和野城跡|旧堀氏庭園|糧|旧畑迫病院 (youtube.com)
這些人們在監獄的六年之中,明治的日本全力的進行近代化。明治
四年十一月,以岩倉具視為大使,連同木戶孝允、伊藤博文等一���
四十八名,為了準備改訂屈辱的安政條約,經過歐洲去到美國,並且
受到格蘭總統的接見。
格蘭總統說 :「給我國人民帶來財富與幸福的原因 . . . . . . 就是不
剝奪出版自由,不束縛信仰的良心,不只國民,包括居留的外國人
的宗教,一切不設限制。」向岩昌一行演說表示,在日本應該停止
對浦上農民們對基督教信仰的禁制與迫害。
岩倉一行從美國政府的態度,深深感受到有必要向世界各國宣言,
為了修改條約、日本是個近代國家。隨著他們的請求,明治政府於
明治六年,解除了在日本禁制基督教的法令。並且讓被關押在全國
各地監獄的浦上村男女老少一千九百六十人,在事隔六年後回到了
故鄉。
農田荒蕪,家屋毀壞,他們拼命的重建了他們的家園,而且在貧困
之中,試著重建他們的教堂。女孩子們發揮愛心,學習護士,也他們
手中建造完成了浦上的大聖堂。
歲月流逝 ;曾經救助了浦上農民,助其信仰自由的美國與日本戰爭
開始了。昭和二十年八月,從美國飛來的飛機,就在浦上村上空投
了炸彈。炸彈閃光,爆炸。在農田耕作的浦上農民們,他們的家,
曾經在被釋放後所蓋成的大聖堂,在一瞬間破壞殆盡。
浦上是個小村落;如今僅只是被劃入長崎市邊緣的一個小區域。然而
每當我去到那裡,這個小小的地方在日本的近、現代史上卻是如此
的大,而且想到了這件有著深長意味的兩件事,不得不為即便是
社會正義與民主主義,在政治次元之中產生矛盾的結果,而為之
嘆息。並且想到生息在浦上的農民信徒們,在日本國民的信仰與
日美關係上所付出的犧牲。這就是這個小村落的歷史。
凱 薩 琳
春寒賜浴群星池
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2nd day Tsuwano, Shimane Taikodani shrine Uzume meshi #tsuwano #津和野 #taikodaniinarishrine #太鼓谷稲成神社 #uzumemeshi #うずめ飯 小京都、津和野に移動 朝一、太鼓谷稲荷神社へお詣り 物凄く長い千本鳥居⛩がありました 津和野はずっと行ってみたかった場所 ランチは駐車場のおじさんが教えてくれた埋め飯を頂く ご飯は鯛のお出汁が入っていて捲ると下に色んな具が隠してあるという楽しいご飯 江戸時代質素にしなければならなかった昔の人が考えた知恵だとか とても美味しかった😋 駅には味わいある電車でSLも走ってるみたいなので今度は乗ってみたい (Taikodani Inari - Jinja Shire) https://www.instagram.com/p/CVpdyWmvtE-/?utm_medium=tumblr
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たまには娘と津和野観光 #太鼓谷稲成神社 #津和野 (太皷谷稲成神社) https://www.instagram.com/p/CDbZ09CnejS/?igshid=13ch7ifq926gp
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2019/5/4(土) 島根県津和野 太鼓谷稲成神社
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昨日の津和野散策の写真を載せます。ほんとに秋を感じさせて貰えてストレスも解消出来ました。 I will post a picture of yesterday's walk in Tsuwano. It really made me feel autumn and relieved my stress. #津和野 #殿町通り #津和野カトリック教会 #太鼓谷稲成神社 #永明寺 #津和野散策#乙女峠マリア聖堂 #森鴎外 #津和野の秋 (津和野) https://www.instagram.com/p/CkmjYoyJ_lpU9o-K0Y2Qhe0UbHg_Oyl0hDseWY0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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雪の中で佇む太鼓谷稲成神社。風情がありますね。 #津和野 #太鼓谷稲成神社 (津和野 太鼓谷稲荷神社)
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4���とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
〔目次〕
1、解説(宮地)
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
3、広場の七人が語る〔真相〕
2、資料編
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
1、解説(宮地)
〔小目次〕
1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』
3、広場の七人が語る〔真相〕
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観る��がくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入りました。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
2、資料編題名『広場における戦闘』
ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くん��とする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際派と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、���終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表���字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ1万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門 二重橋
馬場先門
第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大��団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民広場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に���っていたと推定できるからです。
それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マッカーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識していました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
3、広場の七人が語る〔真相〕
以��の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
2、資料編
〔小目次〕
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
(注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した論文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.104~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむか��ものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着した。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ」という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動��ための強固な遊撃部隊を組織していなかったことで��る。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ隊を支持していた。見物の大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しかし大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、各署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電車通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
警官死亡三(うち一名は丸の内久保次席)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
(注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化��会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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『皇居前メーデー騒擾事件』
昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれて会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこれを突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放���炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
『血のメーデー』 検察側の見解
計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同日午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四団隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると��列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の先頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
(注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告団長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や、それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。この裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁「軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を���人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信しています。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
この時馬場先門には約四百五十名の警官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏ん���。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
午後二時四十分。事態は急変した。
全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊と、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始 ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形 とデモ隊の崩壊 デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交差点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
第一審・・・・・
東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組」と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
第二審・・・・・
一九七一年(昭和四十六年)九月三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれています。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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総評常任幹事会声明 1952年5月2日
五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
(二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共産党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
(三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものであ���。
(四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
(五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
(六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
一九五二年五月二日 日本労働組合総評議会」
労働界を二分する意見の分裂
記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判���定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
(注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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日本共産党国会議員団声明 1952年5月��日
日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
(メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
(『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
(注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
ところがその三日後の二一日に、突如、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国��正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争���弾圧反対のたたかいが燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたのであった。
こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第一段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかいの指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時代における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」を���りひらくことは、全く不可能なことであった。
ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席していた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
(中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運���―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
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石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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日本の絶景スポットとパワースポット(スピリチュアルスポット・神社・寺)を旅しよう#54 アメリカのCNNが「日本で最も美しい場所31」の一つに選出した「元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)」山口県 長門市 日本
#54 アメリカのCNNが「日本で最も美しい場所31」の一つに選出した「元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)」山口県 長門市 日本
Motonosumishrine Yamaguchi Nagatocity Japan
【relaxing music/study music/meditation music/nature sounds/sleep music/Japan】
元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)は1955年に“この地で漁師たちを見守ってきた白狐の��告げ”により、島根県津和野町太鼓谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)から分霊されて創建された。商売繁盛、大漁、海上安全、良縁、子宝、学業成就など様々な願い事を叶えてくれるといわれており、絶景パワースポットとしても人気の場所。 最大の見どころは、目の前に広がるコバルトブルーの日本海と約100m以上に渡り斜面に連なる123基の朱塗り鳥居です。。 その神秘的な風景により、2015年にアメリカのテレビ局・CNNが発表した「日本で最も美しい場所31」の一つに選出された。 2018年までは、「元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)」という名前でしたが、海外観光客にも覚えやすいようにと「元乃隅神社」(もとのすみじんじゃ)に改名されたそうです。 また、123基の鳥居と並ぶ見どころが、高台にそびえ立つ、もう一つ大きな鳥居です。大鳥居の中央上部に設置された「日本一入れにくい賽銭箱」その高さは約6メートル。お賽銭を投げ入れることができれば、願い事が叶うと言われています。 鳥居の参道を下りた先には、コバルトブルーの日本海が広がり、断崖の上から海を見下ろすこともできる。 この辺り一帯は玄武岩が露出して地形が変化にとんでおり、「龍宮の潮吹」として国の天然記念物及び名勝に指定されている。 ※「龍宮の潮吹」とは、打ち寄せる波が断崖の海面近くにある小さな穴に突入することで、海水が真上に高く吹き上がる現象。 特に冬場の季節風(北東の風)が吹き、海が荒れる時ほど潮が高く上がり最大で30メートルにも達するそうです。
■元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)の基本情報■
所在地:〒759-4712 山口県長門市油谷津黄498
電話:0837-32-2003(食事処「汐風」)
駐車場: 1時間につき300円 (1時間を超える毎に100円で最大500円)
第1駐車場:92台(神社の目の前)
第2駐車場:24台(神社まで約200m)
※バス駐車場の一角を「身障者用駐車場」として利用可
バス駐車場:6台(神社の目の前)
二輪車:約20台(第1駐車場内)
HP:https://motonosumi.com
アクセス:
【車の場合】 ・中国自動車道「美祢IC」から約60分
【電車の場合】 ・JR山陰本線「長門古市駅」からタクシーで約20分 ・JR山陰本線「人丸駅」からタクシーで約20分 ・JR山陰本線「長門市駅」からタクシーで約40分
【長門市駅方面からの方】
最寄り駅:長門古市駅 古市タクシー/TEL:0837-37-3194 (長門古市駅前に営業所あり) (片道約2,300円前後/約20分) (交通状況によりますのであくまで目安です)
【下関駅方面からの方】
最寄り駅:人丸駅 人丸タクシー/TEL:0837-32-1126
(人丸駅前に営業所あり) (片道約2,600円前後/約20分) (交通状況によりますのであくまで目安です)
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おはようございます。松江から車で4時間近く、、、津和野に来てます。車で4時間走ってもまだ県内😅山間にある町並みはホントに風情あって良いところです。朝、ランしたかったのですが生憎の雨😢また来たいと思います。 (太鼓谷稲成神社) https://www.instagram.com/p/COMC4hRjisI/?igshid=1bsblp1qt0vki
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【アンケート企画】 「2017年の3本」
WLでは読者のみなさんから2017年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を、その理由などを書いたコメントとあわせて募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画、3回目の今回は20名の方にご参加いただきました。掲載は到着順です。
雨宮 縁(会社員) ・劇団四季『ノートルダムの鐘』(四季劇場〔秋〕) ・ホリプロ『パレード』(東京芸術劇場 プレイハウス) ・ホリプロ『ファインディング・ネバーランド』(東急シアターオーブ ) 『ノートルダムの鐘』は何が悪なのか? 怪物は誰なのか? 人間の業と差別について圧倒的なクワイアの歌声で問われる秀逸な作品。 ミュージカル『パレード』はストレートプレイを見ているようなミュージカル。アメリカ南部で起こった実話の冤罪事件をミュージカル化した異色作。ある少女殺人事件をきっかけに人種差別や成功者への妬みなどから警察やマスコミ、政治家様々な立場の人達により犯人に仕立て上げられていく恐ろしさ。これが物語ではなく実話であるというさらなる恐ろしさに声が出ない程の衝撃だった。実力者ぞろいの出演者達で見応え満点だった。 ブロードウェイミュージカル『ファインディング・ネバーランド』は来日公演。ミュージカルらしい作品。イマジネーションの世界は自由だと夢のあるミュージカル。窮屈な現実から解き放される感動作で前向きな気持ちにしてくれます。(年間観劇本数:24本)
小田島 創志(大学院生・非常勤講師) ・KAAT『オーランド―』(KAAT神奈川芸術劇場) ・やみ・あがりシアター『すずめのなみだだん!』(小劇場てあとるらぽう) ・地人会新社『豚小屋』(新国立劇場 小劇場) 1.KAAT『オーランド―』…ジェンダー、言葉の意味、文化慣習、時代精神などの脱自然化を、舞台上で緻密に表現。観客の想像力を喚起する役者さんの演技も白井さんの演出も圧巻。「男である」「女である」のではなく、「男になる」「女になる」というボーヴォワール的な価値観を、演劇的にスタイリッシュに表現していて素晴らしかった。 2.やみ・あがりシアター『すずめのなみだだん!』…個人と社会、個人と宗教の関係性を、コミカルかつ丁寧な言葉を紡いで描いた意欲作。テーマが複層的で、観客側の思考を誘う。 3.アソル・フガード『豚小屋』…個人よりも集団が過剰に優先され、個人の犠牲の上に集団が成り立つ状況下で、戦争に駆り立てられる庶民の「受難」を、北村有起哉さんと田畑智子さんの壮絶な演技で伝えていた。(年間観劇本数:53本)
豊川 涼太(学生) ・ロロ『父母姉僕弟君』(シアターサンモール) ・木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談 通し上演』(あうるすぽっと) ・ままごと『わたしの星』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) 今年の3本を選んでみると、全てが再演(初演はどれも観ていない)だった。 特にロロ『父母姉僕弟君』はキティエンターテイメントプロデュースで、より大きなサイズで大きなスケールで上演できていた。 他の方々も語るように、再演賞を設ける等、演劇界全体で再演文化の定着に力を入れて欲しい。(年間観劇本数:50本程度)
なかむら なおき(観光客) ・月刊「根本宗子」『スーパーストライク』(ザ・スズナリ) ・劇団四季 『ノートルダムの鐘』(四季劇場〔秋〕) ・こまつ座『イヌの仇討』(紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA) 『スーパーストライク』は良し悪しの前にもっとも欲していることが届く作品だったので。『ノートルダムの鐘』はあえて出来事だけを表現して観客に判断を任せているのが面白かった。そして『イヌの仇討』は忠臣蔵を下敷きに目に見えない得体の知れない大きな力を描いていて続々としたなぁと。あ、これらは趣味です。 で、上演された作品を見ると、今の世の中に応答するような作品が多いように思うのです。そして小劇場界隈で育ってきた演出家が大劇場の演出を務めるようになってきているように思うのです。また少し変わったかなぁと思うのです。(年間観劇本数:100本ぐらいですかね)
北村 紗衣(研究者) ・ケネス・ブラナー演出、トム・ヒドルストン主演『ハムレット』(RADA) ・カクシンハン『マクベス』(東��芸術劇場 シアターウエスト) ・モチロンプロデュース『クラウドナイン』(東京芸術劇場 シアターイースト) 今年は『ハムレット』を6本見て、アンドルー・スコット主演版や川崎ラゾーナ版なども良かったのですが、ヒドルストンの『ハムレット』が一番好みでした。ハムレット以外の若者役を全員女性にするキャスティングが効いていました。カクシンハンの『マクベス』はまるでゴミみたいなセットでしたが、内容はゴミとはほど遠いエネルギッシュなものでした。『クラウドナイン』は大変面白かったのですが、あまりよく考えずに「レズ」とか「少年愛」などという言葉を使っているマーケティングは大変残念でした。 (年間観劇本数:121本)
町田 博治(会社役員) ・青☆組『グランパと赤い塔』(吉祥寺シアター) ・小松台東『山笑う』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・ SPAC『アンティゴネ ~時を超える送り火~』(駿府城公演特設会場) 『グランパと赤い塔』 吉田小夏が人の綾なす思いを紡ぎ、丁寧に織り上げられる。 背筋が伸び厚みと洒脱さを合わせ持つ老紳士を佐藤滋が見事に演じ、福寿奈央の初老の妻も見事。二人が作品に一本の筋を通す。 裏の主役とでも言うべき女中役を大西玲子が、目線、ことば、仕草、身体で見事に演じていた。役者が皆素晴らしい。 『山笑う』 兄と妹、地方と都会、肉親ゆえの諍い。 静かに光る小さな宝石の様な作品。 松本哲也の演出がシリアスさと笑いをバランスさせ絶妙。厚みのある演技、役者達のバランスも絶妙。 『アンティゴネ』 冒頭女優石井萠水がミニ・アンティゴネを演じ客を引き込む。 舞台は一面水。灯篭が浮かび明かりが揺れる。あの世と現世の境としての水、水上で舞台が静かに進む。背後に投射された動きが影となり、台詞、歌唱が絡み、幻想的。 「弔い」にこだわるアンティゴネ、最後、円く連なってゆく静かな盆踊りが弔いを暗示胸を締め付ける。(年間観劇本数:299本)
文月 路実(派遣社員・フリーライター) ・ゴキブリコンビナート『法悦肉按摩』(都内某公園) ・NODA・MAP『足跡姫』(東京芸術劇場プレイハウス) ・ 範宙遊泳『その夜と友達』(STスポット) 「五感を総動員する」と謳っていたゴキコンの本公演は、まさにその通りの悪夢だった。入り口で目隠しされ、何が何やらまったくわからない状態で味わう地獄。四方八方から泥水や血糊や汚物や虫が飛んでくる。突然役者が飛び出してきて身体の上に載る。内容はいつも通りのひどい話だ。テント内はかなり暑く、なにやら異臭がすごい。終わったときには頭に虫がとまり、レインコートは泥や血糊でぐしょぐしょ、汗で眉毛が半分消えておったとさ。そんなに過酷だったのにもかかわらず爽快感を覚えたのは不思議。普段使わない感覚を刺激されたからか。これこそが演劇の力なのでは。『足跡姫』は勘三郎へのオマージュ。ここ数年の野田作品のなかで一番ストレートに「想��」が伝わってきて、純粋に美しいと思った。『その夜と友達』は、生きづらさを抱えた「夜」というキャラクターが個人的に刺さった。「しんどさ」を知ってしまった人間にも希望はあるのだと信じたい。(年間観劇本数:42本)
永田 晶子(会社員) ・努力クラブのやりたくなったのでやります公演『フォーエバーヤング』(人間座スタジオ) ・燐光群『湾岸線浜浦駅高架下4:00A.M.(土、日除ク)』(ザ・スズナリ) ・dracom Rough Play 『ぶらんこ』(OPA_Lab) 上演日順です。 ・説明が削られ、描くべきことだけ残った合田団地氏の劇作は、努力クラブの魅力のひとつです。同世代の俳優による静かな演技で、人生における中途半端な時間の儚さをより楽しめました。 ・燐光群の公演で、劇場という閉ざされた空間が持つ危うさを確かめました。戯曲に負けない強い演技と、暗闇にわずかな光を感じるラストシーンが印象的でした。失われた街に思いを馳せる機会にもなりました。 ・既存戯曲を本読み一回・稽古一回で上演するラフプレイを観て、演劇は一度きりの瞬間に在ると思いました。会場全体に広がる「わかりあえなさ」に、戸惑いつつも笑いました。戯曲を忠実に辿ろうとするデッサンのような行為は、dracom の新作での慎重な表現にも繋がっていたと思います。(年間観劇本数:100本くらい)
青木 克敏(地方公務員) ・SPAC『アンティゴネ〜時を超える送り火〜』(駿府城公演特設会場) ・ロシア国立サンクトペテルブルク マールイ・ドラマ劇場『たくらみと恋』(世田谷パブリックシアター) ・NAPPOS PRODUCE『SKIP〜スキップ』(サンシャイン劇場) あまりぱっとしない演劇状況に思えました。その中で、SPACの宮城聰さんの取り組みは素晴らしいものに感じています。アンティゴネは構成がしっかりとしていて分かりやすいかったですが、私の価値観を揺るがしてくれるほどの感動を、与えてくれました。たくらみと恋では、俳優陣をはじめとして芸術レベルの高さを見せつけられました。そして、スキップ。なんだかんだ言っても、キャラメルボックスは、夢と希望をいつだって分かち合おうと走り続ける劇団です。(年間観劇本数:32本)
矢野 靖人(一般社団法人shelf代表理事・芸術監督) ・WORLD STAGE DESIGN『The Malady of Death』(台北国立芸術大学) ・HEADZ『を待ちながら』(こまばアゴラ劇場) ・SCOTサマーシーズン2017『サド侯爵夫人 第二幕』(新利賀山房) The Malady of Death”はバンコクの盟友、僕がいちばん信頼している僕自身のプロデューサー的存在でもあるリオンが演出する作品とあってわざわざそれを観るためだけに台湾まで行った作品。そういうことが出来る/したいと思える仲間がいることに感謝。今年いちばん記憶に残っている。デュラス晩年の最後の恋人は実はゲイで、しかし献身的にデュラスを愛し、デュラスに尽くしたという。美しく儚い作品だった。鈴木忠志「サド侯爵夫人 第二幕」はこの超絶技巧のこのアーティフィシャル(人工的)な日本語台詞をねじ伏せた俳優陣に快哉。久しぶりに劇場で観劇した飴屋法水さんの「を待ちながら」はこちらが思っていた以上に泣けるほどに清々しくベケットで。選外に1作品、APAFワン・チョン氏演出の「Kiss Kiss Bang Bang2.0」を。ノンバーバル且つインターナショナルな演劇の新たな可能性を垣間見せてくれた。(年間観劇本数:43本)
野呂 瑠美子(一観客) ・劇団昴ザ・サードステージ『幻の国』(サイスタジオ大山第1) ・劇団チョコレートケーキ『熱狂』(シアターウェスト) ・文学座創立80周年記念公演『中橋公館』(紀伊国屋ホール) どの時代をどういう切り口で、どのように選ぶかは作者の意識と力量による。劇団チョコレートケーキの古川健さんは、大きな歴史の流れを巧妙に切り取り、多大な資料を元に、新たに肉付けをして、その時代がどんなであったかを観客に見せてくれる。『幻の国』『熱狂』ともに、3時間ほどの舞台からは、困難な時代に置かれた人々の思いと息遣いが伝わってくるようであった。文学座の真船豊の『中橋公館』も、殆ど知られることがなかった、外地・北京で敗戦を迎えた日本人の様子をよく伝えていて、感心した。どの作品も、過ぎ去った時代を描きながら、実は現代をきちんと映し出している秀作揃いで、感動とともに、印象深い作品となった。最近あまり見なくなった歌舞伎だが、今年は仁左衛門の『千本桜』がかかり、おそらく彼の一世一代の知盛であろうと思われて、拝見した。人生は速い。(年間観劇本数:80本)
片山 幹生(WLスタッフ) ・SPAC『病は気から』 (静岡芸術劇場) ・ゴキブリコンビナート『法悦肉按摩』 ・平原演劇祭2017第4部 文芸案内朗読会演劇前夜&うどん会 「や喪めぐらし」(堀江敏幸「めぐらし屋」より) ノゾエ征爾翻案・演出のSPAC『病は気から』は17世紀フランス古典主義を代表するモリエールの喜劇の現代日本での上演可能性を切り拓く優れた舞台だった。ゴキコンはいつも期待を上回る斬新で過激な仕掛けで観客を楽しませてくれる。高野竜の平原演劇祭は昨年第6部まで行われ、いずれも既存の演劇の枠組みを逸脱する自由で独創的なスペクタクルだったが、その中でも文庫版200頁の小説を4人の女優がひたすら読むという第4部の企画の体験がとりわけ印象的だった。食事として供された変わったつけ汁でのうどんもおいしかった。(年間観劇本数:120本)
kiki(勤め人) ・日本のラジオ『カーテン』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・あやめ十八番『三英花 煙夕空』(平櫛田中邸/シアトリカル應典院) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) カーテン:この一年で拝見できた日本のラジオの作品はどれも面白かったが、結局一番好みにあったのがコレ。劇場の使い方や題材の面白さに加えて、奥行きのある人物描写で15人のキャストの魅力が充分に生きた。 三英花 煙夕空:あやめ十八番初の二都市公演で、東京と大阪の会場がどちらも物語によく似合いつつ印象はガラリと変わって面白かった。音の響きや照明も変わり、キャストも変わって、東京公演では濃密な仄暗さが、大阪公演ではエッジの効いた明暗がそれぞれ印象に残った。 アンネの日:風琴工房の題材への取り組み方にはいつも心惹かれるが、観る前には地味だろうと思っていたこの作品がこの一年で最もツボにハマった。描かれた人々の誠実さと強さ、それを演じるキャスト陣の説得力が魅力的だった。(年間観劇本数:155本)
りいちろ(会社員) ・第27班 キャビネット公演B『おやすみ また明日 愛してるよ』(シアターミラクル) ・コマイぬ『ラッツォクの灯』(石巻 GALVANIZE gallery) ・アマヤドリ『青いポスト』(花まる学習会 王子小劇場) 2017年も足を運ぶ先々に多彩な舞台の力がありましたが、中でも常ならぬ舞台の密度や呼吸を感じた3作品を。 この一年、くによし組や劇団ヤリナゲ、劇団普通、KAZAKAMI、遠吠え、キュイなど若い作り手たちの作品にも心惹かれつつ、てがみ座『風紋』、風琴工房『アンネの日』、青組『グランパと赤い塔』、うさぎストライプ『ゴールデンバット』、ワワフラミンゴ『脳みそあるいてる』など実績のある作り手の更なる進化を感じる作品も数多く観ることができました。FunIQの5人の作演での連続上演の試み,ロロの「いつ高シリーズ」やシンクロ少女の『オーラルメソッド4』のように過去作品と新作を合わせて上演することも作品の世界観を再認識させ作り手の進化を感じさせる良いやり方だったと思います。またあやめ十八番や水素74%などの歴史建造物での上演にも、スイッチ総研の諸公演やガレキの太鼓ののぞき見公演などの企みにも捉われました。(年間観劇本数:315本)
矢作 勝義(穂の国とよはし芸術劇場 芸術文化プロデューサー) ・ イキウメ『天の敵』(東京芸術劇場 シアターイースト) ・TBSテレビ『俺節』(TBS赤坂ACTシアター) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) 『天の敵』は、戯曲・演出・美術・俳優など全てのピースが寸分の狂いもなく組み合わされた、これまで観たイキウメ作品の中で一番素晴らしい舞台でした。 『俺節』は、主演の安田章大の歌・芝居ともに素晴らしく、回りを固める小劇場系の俳優も一丸となり、見事に劇世界を支えていました。何と言っても、脚本・演出の福原充則の仕事ぶりが充実していました。 風琴工房の詩森ろばさんは、2017年の1年間で多数の作品を生み出していましたが、なかでも『アンネの日』は、教養エンターテイメントと名付けたいと思います。事実の羅列や解説にとどまらず、それをエンターテイメントに昇華しながらも、一つの物語として創り上げられたとても素敵なものでした。 番外として、自身の劇場制作の、青木豪作、稲葉賀���演出の「高校生と創る演劇『ガンボ』」と桑原裕子作・演出の穂の国とよはし芸術劇場プロデュース『荒れ野』を上げておきたいと思います。(年間観劇本数:132本)
須川 渡(研究者) ・ dracom『空腹者の弁』(ウイングフィールド) ・山下残『無門館の水は二度流せ 詰まらぬ』(アトリエ劇研) ・アイホールがつくる「伊丹の物語」プロジェクト『さよなら家族』(AI・HALL) 今年も関西で多くの作品を観ました。劇場の閉館はたびたび議論になりますが、dracomと山下残はこの問いかけに作品という形で応答していました。dracomはウイングフィールド��いう場所で演劇を続けること、山下残はアトリエ劇研がなくなることの意味を、どちらも非常に挑戦的な方法で示していました。『さよなら家族』は、伊丹という場所と時間をかけて丁寧に向き合った秀作です。スタイルは様々ですが、観客である私も、同じ場所にとどまって演劇を観続けるとはどういうことかに思いを巡らせた1年でした。 (年間観劇本数:133本)
かいらくえんなつき(演劇ウォッチャー) ・ロロ いつ高シリーズvol.4『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』(こまばアゴラ劇場) ・悪魔のしるし『蟹と歩く』(倉敷市立美術館 講堂) ・範宙遊泳『その夜と友達』(STスポット) 2017年も前半は大阪にいたので、関東近辺の演劇はそこまで多くは観ていません。とはいえ、ここにどうしても挙げたいと思う関西の作品に出会えなかったのは、残念。 選んだのは今後ずっと忘れないだろうなと思う観劇体験だったものです。 この他に挙げられなかったのは、FTで上演された『忉利天(とうりてん)』 (構成・演出・美術:チェン・ティエンジュオ)。 これだけをみていうのもと思いますが、それでもいいたくなるぐらい、中国の勢いを感じさせられ、それと裏返しの日本の閉塞感を感じました。 2017年は(も?)色々と区切りとなる出来事の多かった1年だったような気がしています。 毎年同じようなことを書いている気がしますが、2018年はもっともっと新しい刺激的な作品に出会いたい!!(年間観劇本数:おそらく150本くらい)
薙野 信喜(無職) ・ Schauspiel Leipzig『89/90』(Berliner Festspiele) ・Akram Khan Company「Until the Lion」(Main Hall, ARKO Arts Theater) ・日本総合悲劇協会『業音』(西鉄ホール) 2017年は、海外で観た20数本の作品の印象が強い。パリで観たオペラ・バスティーユ『ラ・ボエーム』、オデオン座『三人姉妹』、コメディ・フランセーズ『テンペスト』、ベルリンドイツ劇場『フェードル』『しあわせな日々』、ソウルで観た Yulhyul Arts Group『Defeat the ROBOT 3』、明洞芸術劇場『メディア』の印象が強烈だった。
九州に来演した作品では、ヨーロッパ企画『出てこようとしてるトロンプルイユ』、サードステージ『舞台版ドラえもん のび太とアニマル惑星』、イキウメ『散歩する侵略者』、トラッシュマスターズ『たわけ者の血潮』 などが楽しめた。 九州の劇団では、劇団きらら『プープーソング』、そめごころ『ちずとあゆむ』、転回社『夏の夜の夢』 がおもしろかった。(年間観劇本数:156本)
でんない いっこう(自由人) ・東京芸術劇場『リチャード三世』(東京芸術劇場 プレイハウス) ・新国立劇場『プライムたちの夜』(新国立劇場小劇場) ・文学座『鳩に水をやる』(文学座アトリエ) 1.リチャード三世の人格形成に身体の障害を前面に出さなかったし、最期の苦しみを、脳内の様子が突然飛び出し襲い掛かるような映像と音響で訴えたプルカレーテ演出の意外性が惹きつける。 2.人は何に向って本心を言えるのか、自身の老後は応答するロボットを考えていたが、人型のAI・スライムなら2062年でなくとも頷けてしまう身近な物語であった。人を失した悲しみ、本来わかりえない存在、一個の人間。 3.童話作家だった男、今は認知症の鳩に水をやる男。誰にわかると言うのだ、その内面の心理が。過去を生きている男に通じる回路を持たない今を生きてる者達。次点は若い俳優、演出家の成長が嬉しい『その夜と友達』『ダニーと紺碧の海』『ナイン』気になる劇作・演出家で楽しかった『ベター・ハーフ』大野一雄に惹かれ、その時代の映像が見たくて、疑念を持ちながら観たのに何故か後半引き込まれてしまった『川口隆夫「大野一雄について」』等がある。(年間観劇本数:27本)
小泉 うめ(観劇人・WLスタッフ) ・点の階『・・・』(京都芸術センター 講堂) ・風琴工房『アンネの日』(三鷹市芸術文化センター 星のホール) ・神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』(京都芸術センター 講堂) 前半は人生最高ペースの観劇本数だったが、後半は落ち着いて、おしなべてみれば例年並みの本数になった。そのため見逃したと思っている作品も多い。演劇が演劇であるが故の悔やみである。 『・・・』 ファンタジーという言葉だけでは済まされない不思議な観劇体験となった。窓の外の雪や隙間から入ってくる冷たい空気までもが演劇だった。 『アンネの日』 詩森の戯曲はいつも緻密な取材力とそこからの跳躍力に支えられているが、この戯曲からは一人の女性として、ひいては一人の人間としての彼女の姿が明瞭にうかがえ、彼女の代表作となるだろう。 『バルパライソの長い坂をくだる話』 神里のターニングポイントと言える。再び上演される機会もあるだろうが、あの場所であの役者陣でのスペイン語上演は、当然のことながら二度とないものを観たという印象が強い。 西日本での観劇も例年よりは少なかったが、結局KACで上演された2本を選んでいるあたりも私らしいところか。(年間観劇本数:355本)
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大谷栄一さん × 安藤礼二さん × 原武史さんトーク&サイン会 「日蓮主義とはなんだったのか」 (講談社)刊行記念
「 日蓮主義とはなんだったのか 」(講談社)本体3,700円 ▼内容紹介 高山樗牛、宮澤賢治らの心をとらえ、石原莞爾や血盟団の行動を促した日蓮主義とはいかなるものだったのか? 帝国日本の勃興期に「一切に亘る指導原理」を提示し、国家と社会と宗教のあるべき姿(仏教的政教一致)を鼓吹した二大イデオローグ=田中智学と本多日生の思想と軌跡を辿り、それに続いた者たちが構想し、この地上に実現しようと奮闘したさまざまな夢=仏国土の姿を検証する。 現代日本にまで伏流する思想水脈を問う大著。
日時:令和元年10月30日(水)18時30分~(開場18:00) 会場:ハロー会議室神保町8階 〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-10 新駿河台ビル8階 (当店の斜め向かいのビルで1階にMt.石井スポーツ神田本館様があります)
トーク&サイン会には参加券が必要です。 9月25日以降に当店にて「日蓮主義とはなんだったのか」(講談社/本体3,700円)をご購入、もしくは参加料500円(本体価格)をお支払の先着50名様にトーク&サイン会参加券を差し上げます。 参加ご希望の方はお電話でご予約ください。 ご予約お電話:03-3233-3312(午前10時~午後8時・おかけ間違いにご注意ください。) ※トーク終了後ご希望の方はサイン会に参加できます。 3名とも著書(既刊本可/2冊まで)をお持ち頂ければサインいたします。 是非この機会にご参加くださいませ。
【プロフィール】 大谷栄一(おおたに・えいいち)さんプロフィール 1968年、東京都生まれ。 東洋大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(社会学)。 (財)国際宗教研究所研究員、南山宗教文化研究所研究員を経て、現在、佛教大学社会学部教授。 専攻は宗教社会学・近現代日本宗教史。 明治期以降の「近代仏教」の展開や、現代の宗教者や宗教団体がおこなう社会活動、「地域社会と宗教文化」の関係を研究している。 著書に『近代日本の日蓮主義運動』(法藏館/日本宗教学会賞、中村元賞受賞)、『近代仏教という視座―戦争・アジア・社会主義』(ぺりかん社)、『人口減少社会と寺院―ソーシャル・キャピタルの視座から』(共著、法藏館)、『ともに生きる仏教―お寺の社会活動最前線』(編著、ちくま新書)などがある。
原武史(はら・たけし)さんプロフィール 1962年、東京生まれ。 早稲田大学政治経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社、東京社会部記者として昭和天皇の最晩年を取材。 東京大学大学院博士課程中退。 東京大学社会科学研究所助手、山梨学院大学助教授、明治学院大学教授を経て、現在、放送大学教授。 専攻は日本政治思想史。 『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社選書メチエ/サントリー学芸賞受賞)、『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫/講談社ノンフィクション賞受賞)、『皇后考』(講談社学術文庫)、『大正天皇』(朝日文庫/毎日出版文化賞受賞)、『昭和天皇』(岩波新書/司馬遼太郎賞受賞)、『平成の終焉』(岩波新書)など著書多数。
安藤礼二(あんどう・れいじ)さんプロフィール 1967年、東京都生まれ。 文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。東京大学総合文化研究科客員教授。 早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学を専攻。 出版社の編集者を経て、2002年、「神々の闘争――折口信夫論」で群像新人文学賞優秀作を受賞、批評家としての活動をはじめる。 2006年、『神々の闘争 折口信夫論』(講談社)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。 2009年、『光の曼陀羅 日本文学論』(同)で大江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。 2015年、『折口信夫』(同)で角川財団学芸賞とサントリー学芸賞を受賞。
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●ひなまつり
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■雛祭り ・うれしいひなまつり https://youtu.be/YORBK20mX74 サトウハチロー:作詞 河村 光陽作曲 ひなまつりは、春の訪れと女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。 作詞は楽しい詩なのに作曲は短調で何となくさみしい感じになっています。 歌詞の中に官女から嫁いだ姉を連想していますが、嫁ぎ先が決まった矢先に 18歳で結核で亡くなったサトウハチローの姉のことを歌っているもののようです ・ひなあられが食べたい!おだいりさまとおひなさまの大冒険! https://youtu.be/bc7crDpZ5wI 3月3日はひな祭り 起源はハッキリしないそうだ。 貴族の子女の遊びが記録されている。 初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。 しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。 江戸時代になり女子の「人形遊び���と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。 とされるように日本人の持つ遊びで始まり発展してきている。 配置は色々と言われているけれども 上段 中段 下段とも雛はその檀の何処においても良い。 段の配置さえ間違えなければ。 上段はヤハリ天皇両陛下を表すようです。 私は男だからお呼ばれしたことも無いので中身については知りません。 人形(ひとがた)、あるいは形代(かたしろ)と呼ぶ草木あるいは紙やわらで作った素朴な人形に、 自分の災厄を移して海や川に流した祓いの行事と、 平安時代に始まるお人形遊び(ひいな遊び)とが、長い間に結びついたのが、現在の「ひなまつり」です。 ひな人形をその子の形代と考えて、どうぞ災いがふりかかりませんように、 また、美しく成長してよい結婚に恵まれ、人生の幸福を得られますようにという、あたたかい思いを込めて飾ります。 ●流し雛 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/流し雛 雛祭りのもとになったといわれる行事。 「雛流し」ともいわれる。 祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われている。 ●まもりびな 【守り雛】 世界宗教用語大事典 守り札の一種。和歌山市の淡島神社で出す護符の紙雛。家内安全・子孫繁栄・海上守護の利益があるとする。→ 御守り ●雛人形の由来を考えよう | 桃の節句に向けてPreferの雛雑学 https://www.rakuten.ne.jp/gold/komari/hinaningyou/hina-000-yurai.html 歴史と伝統を学び、雛人形の由来について知ろう 雛人形と言えば赤い毛氈に、男雛・女雛のお人形というのは誰もが思い浮かべる姿ですよね。 でも、雛人形をお飾りする理由や、その始まりを知っている方というのは中々居ないかもしれません。 お人形にはどのような意味や想いを込めてあるの? 雛人形の由来について考えてみましょう。 雛人形のはじまりを知ろう ■雛祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/雛祭り 雛祭り(ひなまつり)は女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。 ●時期 和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。 しかし一部では引き続き旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝う(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。 旧暦では桃の花が咲く季節になるため「桃の節句」となった。 ● 形式 「男雛」と「女雛」を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭り。 本来「内裏雛」とは雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化してしまっている。 関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆。三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。 ● 歴史 「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。 平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。 その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。 初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。 しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。 江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。 この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。 もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。 その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。 江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。 その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。 この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。 しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。 江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。 この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。 ● 雛人形 最近の雛人形「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。 ● 種類 ◆親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす ◆官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し (既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう) ◆五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である (能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある) ◆随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある ◆仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である ※メーカーによっては、以下の追加がある ◆三歌人(柿本人麻呂、小野小町、菅原道真) ◆能の鶴亀 ◆稚児2名 ● 配置 内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。 しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。 中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。 人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。 ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。 明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。 しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。 それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。 それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。 永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。 社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。 ● 飾り方 飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。 ◆御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む) ◆御殿の内の一室を拝しての飾り方 ◆屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方 ◆さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。 ◆上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。 ◆戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。 祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。 旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生��るから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。 季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。 この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。 ● 雛人形の生産地・販売地 割と関東地方に集中した感じはあるが、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区(以前の埼玉県岩槻市)が有名。 また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。 販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、東京都台東区の浅草橋が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の~」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。 これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。 ● 雛祭りが祝日でない理由 江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。 しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。 祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。 ● 特色ある雛祭り 山梨県甲州市塩山・重要文化財・甘草屋敷に展示された吊るし雛 ちらし寿司と蛤の吸い物各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。 1月末~4月中旬:三十段飾り 千体の雛祭り- 長野県須坂市 3月上旬:くくり雛まつり- 岩手県奥州市水沢区 3月上旬:石段ひなまつり - 群馬県渋川市伊香保温泉 3月上旬:鴻巣びっくりひな祭り - 埼玉県鴻巣市 3月3日:ひなまつり子供大会@妙圓寺 - 東京都渋谷区 2月下旬:かつうらビッグひな祭り - 千葉県勝浦市 2月から4月にかけて:「吊るしびな」など、さまざまな雛人形が展示される。 - 山梨県甲州市 7月下旬:人間ジャンボひな壇@岩槻祭り - さいたま市岩槻区 4月3日:生きびな@水無神社 - 岐阜県高山市 3月3日:ひいな祭り@市比売神社 - 京都市下京区 3月3日:ひな流し@淡嶋神社 - 和歌山市 2月上旬~3月上旬:中馬のおひなさん - 愛知県豊田市 2月下旬~3月中旬:鞆町並ひな祭 - 広島県福山市鞆町 3月3日:流しびな - 鳥取市用瀬町 3月上旬:ビッグひな祭り - 徳島県勝浦町 2月下旬~3月3日引田ひなまつり - 香川県東かがわ市 3月中旬:おひな様水上パレード - 福岡県柳川市 2月11日:おひな様始祭 - 福岡県柳川市 2月9日~3月5日:城下町やつしろのお雛祭り - 熊本県八代市 2月11日~3月22日:有田雛のやきものまつり - 佐賀県有田町 2月15日~3月31日:天領日田おひなまつり - 大分県日田市 2月中旬~3月下旬:佐賀城下ひなまつり - 佐賀県佐賀市 2月上旬~3月上旬:真壁のひなまつり - 茨城県桜川市真壁町 雛祭りを歌った楽曲 [編集]うれしいひなまつり(童謡、作詞:山野三郎(サトウハチロー)、作曲:河村直則(河村光陽)、1936年(昭和11年)ポリドール) ひなまつり(童謡、作詞:海野厚、作曲:三宅延齢) おひなまつり(童謡、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実) ひなまつり(童謡、作詞:斉木秀男、作曲:三宅延齢) ひなまつりの歌(童謡、作詞:与田準一、作曲:河村光陽) おひなさま(童謡、作者不明) 雛祭(文部省唱歌、作者不明) ひなまつり(文部省唱歌、作詞:林柳波、作曲:平井康三郎) 雛祭り(童謡、作詞:林柳波、作曲:本居長世) ひなまつり(童謡、作詞:水谷まさる、作曲:小松清) 雛祭の宵(ひなのよい、童謡、作詞者不詳、作曲:長谷川良夫) 雛の宵(長唄、作詞:松正子(松本白鸚夫人)、作曲:今藤政太郎) 雛の宵(清元) ミニモニ。ひなまつり!(J-POP、作詞:つんく、作曲:つんく) ●■七段飾り図解 http://www.ningyo-kyokai.or.jp/jiten/jyousi-chisiki.html ■ 人 ■ 形 ■ 辞 ■ 典 ■ http://www.ningyo-kyokai.or.jp/jiten/jyousi-chisiki.html ■雛祭り(ひなまつり)|日本文化いろは事典 http://iroha-japan.net/iroha/A01_event/05_hinamatsuri.html 読み方:ひなまつり 同義語:上巳〔じょうし〕・桃の節句・雛の節句・雛遊び・ひな祭り・流し雛 関連語:上巳の節句・五節句 3月3日は「上巳」「桃の節句」などと言われ、厄を人形に移して祓った「流し雛」の風習がありました。それらが発展し、雛人形を飾り女の子の健やかな成長と幸せを願う現在の「雛祭り」となりました。 ■ひなまつりはなぜ桃の節句というか?|伝統の木目込み雛人形 ... https://bit.ly/2O7Lsye 節句の意味 ひなまつりは、なぜ桃の節句というのでしょうか? そもそも、節句というのは季節を分ける節目のことです。 中国から入ってきた考え方で、 奇数の数字が重なる日には悪いことが起こると考えられており、 その災いや邪気を払うために祭りなどをするようになりました。 三月三日は上巳の節句、五月五日は端午の節句、 七月七日は七夕の節句、九月九日は重陽の節句となりました。 それぞれ、その季節その季節の植物が飾られます。 端午の節句には菖蒲を、七夕の節句には笹を、重陽の節句には菊を飾ります。 三月三日の上巳の節句には、桃の花が飾られます。 ■ひなまつり・桃の節句 その起源とは http://allabout.co.jp/gm/gc/72979/ 【INDEX】 ひなまつりの起源 雛祭りの食材1【蛤(はまぐり)】 雛祭りの食材2【菱餅(ひしもち)】 雛祭りの祝い膳-冷泉家のひな膳 ■雛祭り-子供の日.com http://www.hinamatsuri-kodomonohi.com/ ■『真壁のひなまつり~和の風第九章~』茨城県の旅行記・ブログ by ... https://4travel.jp/travelogue/10548874 2011/02/20 筑波山近くに位置する旧真壁町。御影石の加工と農業が主な産業の茨城県の小さな町には、毎年3月近くになると県内外から人口の何倍もの観光客がある行事を目当てに訪れます。その行事とは、「真壁のひなまつり」。江戸時代の陣屋跡の周囲に形成された古い街並みに住む人々が、自分の家に伝わったお雛様や手製の人形を店や玄関に飾ります。 このひなまつり2003年に開始以来毎年観光客が増え、最近は期間中10万人以上の人出があるそうですが、ほとんどのお店、お家は商売っ気を見せません。人気のあるお家は次々来訪者が訪れますが、困った顔もせず訪れた人に丁寧にお雛様や家のことを説明して下さいます。その人々の姿は、まさに「おもてなしの心」。また来年も行ってみたくなりました。 ■雛人形のこうげつにんぎょう(遊び方 ルール 飾り方) http://www.kougetsu.co.jp/hinamatsuri/ 季節の節目に邪気をはらう おひな様の起源は古く、平安時代に遡ります。昔の日本にはたくさんの節句があり、代表的なものに上巳の節句(3月3日)端午の節句(5月5日)七夕(7月7日)などがあります。お節句は人々が季節の節目に身の穢れ(けがれ)を払う大切な行事の一つでした。その中のひとつ、「上巳の節句」が後のひな祭りとなったのです。 →詳しくは「雛祭りの由来といわれ」「雛人形の歴史」へ https://kougetsu.co.jp/hinamatsuri/iware.html 雛祭りの由来といわれ https://kougetsu.co.jp/hinamatsuri/rekisi.html 雛人形の歴史 ■和の文化「ひな人形」 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/ブックリスト「ひな人形」.pdf国際理解にもやくだつ 日本のくらし絵事典. 年中行事から伝統芸能まで. PHP研究所/編 ■柳川市公式ウェブサイト / 2020年 柳川雛祭り ”さげもんめぐり” https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kanko/meisho/meguru/sagemonmeguri.html 柳川地方では、昔から女の子が生まれると初節句に子供の健やかな成長を願い、雛段と一緒に色とりどりの「さげもん」を飾り、盛大に祝うのが習わしです。 さげもんとは、縁起の良い鶴やウサギ、ひよこ、這い人形などの布細工と鮮やかな糸で巻き上げた「柳川まり」とを組み合わせたもので、「幸福」「健康」など、母親、祖母、親戚等の願いが込められています。 この色鮮やかで暖かい雰囲気の柳川雛祭りをみなさん��楽しんでいただこうと、観光施設や店舗に飾り付けたのが「さげもんめぐり」の始まりです。期間中は、市内各所で見ることがで��、「おひな様始祭」「柳川きもの日和」「おひな様水上パレード」等の催しもあります。 さらに今年はプレオープン期間として、1月24日(金曜日)~2月10日(月曜日)まで市内の一部を中心に「さげもん」「雛段」の展示を行います。 心と体を癒す柳川へぜひおいでください。 期間 令和年2月11日(火曜・祝日)~4月3日(金曜日) プレオープン期間/令和2年1月24日(金曜日)~2月10日(月曜日) 2020sagemonmeguri.jpg 場所 柳川市内の観光施設、商店街、各店舗 ※一部有料の施設あり プレオープン期間展示会場 柳川市観光案内所 柳川藩主立花邸御花 柳川よかもん館 古民家北島家 北原白秋生家・記念館 旧戸島家住宅 かんぽの宿柳川 柳川白柳荘 西鉄柳川駅 モリヤマ民芸・森山醤油 ハラダ手芸店 鰻・日本料理山田屋 さげもん美草・北原みやげ店 柳川夢工房 柳川市役所柳川庁舎 佐賀空港 ■桃の節句とひな人形|一般社団法人日本人形協会 https://www.ningyo-kyokai.or.jp/sekku/momo.html ひな祭りの意味やお祝いの仕方、人形の贈り方、購入のポイントなどをご説明いたします。 面白いモノが沢山ある。 遊び心と日本人がここでも結びついている。 男尊女卑といつまで誤解しているのかな。 日本はヤハリ女尊男卑の国である。 女はミットもないのを好かないのが日本ではないのかな。 だから余り出しゃばらないように昔からみんなでそう言うルール作りを してきたのだと思う。 日本人バンザイ。
●神道と宗教の違い 日本人らしさとはどこから来ているのか? https://youtu.be/kCUwXYRAO90 【神道】の心とは日本の心、私達日本人のアイデンティティなのです。 よく、中国人は!!とか韓国人は!!などと日本人と比べてものを言います。 しかし、それはその人自身が言っているのでしょうか? それとも日本人としての心がそう言わせているのでしょか? おそらく、この日本という国に生まれ、そして育ったからこそ、そのような言葉が出るのではないのでしょうか? 多くの人は正しくない行動に違いを感じます。しかし、自分たちが取っている正しい行動をあまり正確に認識した事はありません。日本人らしさとは日本人の悪い所ではなく、良いところを伝える時に使います。しかし、その日本人の良さを正しく答えられる人はあまりいません。 人は自分の良い所を知らなければそれは【ないに等しい】と言います。 もし、自分に誇りを持てないなら、日本人として他国にない良いものを見つけ、自分が日本人である事を再認識すれば、自ずと自分に誇り湧いて来ます。 また、経済活動にばかり意識を奪われ、人と争い競い合い、勝つ事を虐げられ、さらに奪う事で勝利するな人生。 大企業ならその道もありでしょうが、私達凡人には凡人の歩む道があるのです。 その歩む道こそ日本が歩んで来た道。神道に通じるのです。 世界で一番長く続く国【日本】 世界の国のほとんどが200年から300年で滅びると言われています。 徹底的に合理的に行い、寿命を縮めた国と一歩一歩少しずつ歩んで来た日本。 あなたはどの道を選びますか?それとも選んでいますか? そのヒントがここにあります。
なぜ日本人は世界の人々から称賛されるのか?日本人らしさとはどこから来たのか?宗教が教えならば、神道は道である。【一神教】キリスト教には1人の神イエスが-仏教には1人の神ブッタが。多神教【八百万の神】神道には水神や土神など自然に宿ると考え、複数の神様が存在する八百万の神と呼ぶ さらにイエスやブッタ等も神道は受け入れ『八百万の神』に含まれる。西洋の神は全知全能で決して間違-いを犯さない正義の象徴であるのに対し、日本の神様は祟りや災いを起こす怖い存在であ-る。キリスト教は過ちを起こして懺悔をすることで神から許しを乞う。神道は自然災害や-祟りなども神が起こすと考え、祭祀や祭りを行い神々に感謝の意を唱える。西洋では努力-や反省をすれば神に近づくと考え未来に答えがあると考え神道は人の祖先が神であるため-祖先を敬い過去に答えがあると考える。伝統を重んじる日本人と進化を求める西洋人の違-いである。宗教には教典や聖書と言った教えがある。神道には教えはなく一人一人が自然-から感じ取る取るものである。キリスト教やイスラム教は神の教えが存在し、真理も人間-の生き方も決まっている。神道は教えはなく自らが答えを求めて歩まなければならず、神-はその歩みを見守るだけで、道は示してくれない。天照大神は邇邇芸命に稲を育て地上を-統治する事を託す。【天孫降臨】天照大神の孫である邇邇芸命が降臨した事で天孫降臨と-呼ぶ。さらに高く積んだ稲穂に神霊が降りる場所として高千穂を選んだ。稲を植えると雑-草が生える。この雑草を取り除く事、つまり神道とは自然の利に従う事であるのと同時に-自然に逆らう事でもある。ただし、悪を取り除くのではなく善を育てるのに妨げるものが-あれば取り除くという考え方である。虫は野菜を食い荒らすが、そのおかげで交配が進む-。人が人の為に善が作られ、自然の中では悪も善となる。その中で学び取るのが人生であ-る。子が親を敬い親が祖先を敬う。この当たり前で当たり前ではない思想の根源が神道で-ある。 初詣、節分、ひな祭り、七夕、七五三、成人式 これらすべてが神道の行事である。 我々は知らず知らずの間に神道という道を歩んでいる 西洋の文化を取り入れ伝統を重んじる柔軟さは 神道の道が我々日本人に与えた答えなのかもしれない
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