#大泉学園蕎麦
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第13回常陸の国・里山&野外ワークショップ&マインドフルネスアート合宿【初秋特別編】(2023年9月18日-19日 in 茨城県常陸太田)
第13回常陸の国・里山&野外ワークショップ&マインドフルネスアート合宿【初秋特別編】 (2023年9月18日-19日 in 茨城県常陸太田) https://kanglohoops202309.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/690266253005922
今年で12年目を迎えたオープン合宿。今回は、初秋特別編です。「160年の古民家荒蒔邸、300年の菊地邸などの里山古民家、1000年古神社で過ごす心鎮めるマインドフルネス、本格有機農体験、手仕事ワークショップ、深い森と滝散策リトリート、参加者との交流ダイアローグ、創業200年八幡太郎義家ゆかりの湯で心と体を癒すなど、今年もゆったりと過ごす企画にする予定です。
茨城県の常陸の国は、元は日高見国とされていた土地。7世紀に令制国として常陸���が誕生。『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されました。ここは、古い里山だけに多くの文化遺産が残っています。昨年には、NHKの朝ドラマのあの「ひよっこ」の舞台にもなりました。今回は、天候、状態にもよりますが、御岩神社への巡礼も行う予定です。
そして、160年古民家荒蒔邸を拠点に、ゆったりとマインドフルネスな時間を体験をします。地元でも秘境の深い森や滝、古神社でゆっくりと過ごします。また、就農25年目となる布施大樹さんと美木さんご夫妻の経営する有機栽培農園「木の里農園」の有機野菜と共に、夜は本物の火や囲炉裏を囲んだ談義と自分達で仕込んだ自然食を頂き下鼓を打ち、焚火の灯で温まりながら、夜の思い出を刻みます。今も住人が住み続ける300年を超える古民家「菊地邸」(ご主人の話を聴けるかな?)で安土桃山時代の空気を味わいます。
このような素晴らしい里山で2日間共に過ごす程、贅沢な時間はないでしょう。里山の人たちとの交流や自然・大地の恵みを得ながら、ライフコーチ、スピリチュアルカウンセラー、アーティストの森夕花先生と共に人生の本来の目的を思い出し、明日への道を見出したいと考えています。今回も素晴らしい機会となることを確信しています。ご参加をお待ちしております。
主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.facebook.com/hoops.kanglo
■旅の案内人: ★マインドフルネス&ライフコーチング担当:森夕花(もりゆうか)先生 ●ライフコーチ/アーティスト/カングロ(株)取締役執行役員、尚美高等音楽学院ピアノ科卒業 京都芸術大学芸術学部卒業。ピアノ、声楽、シナリオ、演劇、ジャズダンス、日本舞踊などの自己表現を通して自分自身を探求する。1993年ドイツ、イタリアへの留学。その後、21世紀に入り、ハワイ、セドナ、インドのアシュラムを巡礼する。心理学、哲学、美学、手相、インド占星術、代替医療(中医学・ヒーリング)などを学び、 ヒーリングカウンセラーとして23年間、企業のライフコーチとして9年間、セッション、研修を行う。現在、「大人のためのアート思考講座」「Philoarts研究会」を主宰。趣味は、声楽、読書、人間観察、そば栽培、ヨガ、瞑想。特技、人・動物の心を読む、直観力、探求。好きな言葉は、「自由」「日日是好日」
★企画&案内人担当:藤井啓人(ちょろお) ●茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督を経験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度で全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリティ・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、俺のベランダ菜園。
★有機野菜:木の里農園 http://konosato.com/
■開催日:2023年9月18日(月)- 19日(火)1泊2日 ※下記集合場所に10時頃に集まり、翌日16時頃に現地解散予定です
■集合場所: 道の駅さとみ(茨城県常陸太田市小菅町694-3) http://www.hitachiota-michinoeki.jp/page/dir000003.html
■スケジュールイメージ: ※天候などの状況により変更となる場合があります <8月26日(土)> *10時:集合場所(道の駅さとみ) ※電車組は、JR常磐線東海駅からの送迎有り *10時15分~:手打ち蕎麦ワークショップ *12時~13時:自分の打った蕎麦で昼食&オリエンテーション *13時15分:大中町の荒蒔邸へ移動しチェックイン ・1000年以上前に建立された大中神社にご挨拶 *13時30分~22時頃: ※概ね下記のメニューをゆるりと実施していきます。 ・里美の滝散策(美しい秘境の滝を巡ります) ・300年古民家「菊地邸」訪問 ・全員で夕食準備&自然食料理での夕食&片付け ・荒蒔邸の囲炉裏と焚火を囲んでのダイアローグ(対話) ・横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は個別清算) *22時頃:自由時間 *23時頃:就寝
<8月27日(日)> *06時:起床~朝のさんぽ(朝陽を拝むマインドフルネスウォーク) *07時:全員で朝食準備&朝食(禅イーティング)&片付け *09時~:森夕花先生のマインドフルネスアートセッション *11時~:清掃・片付けをし移動 *12時~:御岩神社巡礼 *14時~:ゆっくり昼食&対話&クロージング *16時頃:解散(電車組は近場のJR常磐線内の駅まで送迎します)
■宿泊場所: 里美 160年古民家の宿「荒蒔邸」 茨城県常陸太田市大中町1547 【地図】https://www.aramakitei.com
■当イベントの参加資格:どなたでもご参加可能です。 お気軽にお申し込みください。以下は参考です。 どなたでもご参加可能です。お気軽にお申し込みください。 ※エコビレッジ、パーマカルチャー、トラジションタウン、半農半X、 スローライフ等に関心のある方 ※マインドフルネス、スピリチュアル、メディテーション、ヨガ、 リトリート等に関心のある方 ※お子様は、小学生高学年以上が良いと思います(過去参加有)。 お子様を同伴されたい方は、事務局に事前にご相談下さい。
■参加料:お一人様 3万800円(税込)※小中大学生は1万5400円(税込) ※上記には、参加費、宿泊費、夕食のBBQ及び翌日の朝食付き代が含まれています (アルコールは最低限用意をしますが、多めに飲まれる方は持参頂いています) ※上記には、交通費、夕・朝食以外の食事、入湯料、工芸料などは含まれておりません ※小中高大生はお一人様半額となります(お子様同伴の方は、事前にご相談下さい) ※必要に応じ、領収書をご用意致します
■注意事項:※必ず目を通しておいて下さい ※コロナ対策のご準備をお願い致します ※当企画は、現地集合・現地解散企画です ※電車組は、JR常磐線「東海駅」にてピックアップ致します ※宿泊は、状況に応じ、女性専用部屋を用意します(枕、敷/掛布団あり) ※横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は500円、個別清算となります) http://www.satomi-nakanoya.com ※工芸ワークショップは「常陸蕎麦・本格手打ち蕎麦教室」を予定(昼食込みで一人2000円程度) ※参加者同士、車での乗り合いをお勧めしております ※参加料は、事前振込制となっております(申込後にお知らせ致します) (前日キャンセルは50%、当日100%のキャンセル料を徴収致します)
■定員:8名限定 ※先着順。定員になり次第締切ります。 ※最小携行人数は5名。参加者が5名を下回る場合、開催を見送る場合があります。 ※小学生未満同伴の場合は、事前にご相談下さい。
■当イベントの申込方法【重要】: ※ 下記をご一読いただきお申込み下さい。 ①下記URLの申込フォームにより正式エントリー 申込フォーム https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSft1YNO6SP4C-YGlgpacoHgGK-wLQ9t-NOybyJuhsVg8sNbjg/viewform
②お申込後、24時間以内に参加受付受領のe-mailを事務局よりご返信させて頂きます。 e-mail: [email protected]
③②の返信メール内にある振込み先に前日までにご入金
(現地でのお支払いも可能です)
④これにて「申込完了」となります。
■協力:木の里農園さん、地元の仲間たち ■主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.kanglo.co.jp
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- 𝐀𝐁𝐎𝐔𝐓 𝐌𝐄
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𝐍𝐀𝐌𝐄
鮫島 藍子 ( サメジマ アイコ )
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𝐁𝐈𝐑𝐓𝐇
6月30日┋22歳┋非加齢式
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𝐈𝐌𝐀𝐆𝐄
#𝐁𝟗𝐃𝟗𝐄𝐁 #紫陽花
- 𝐋𝐎𝐎𝐊𝐒
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𝐇𝐭 𝟏𝟔𝟗±𝐜𝐦 ┋ 𝐖𝐭 𝟓𝟓𝐤𝐠
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𝐇𝐚𝐢𝐫 : 𝐑𝐚𝐦𝐮𝐧𝐞 #𝐁𝟗𝐃𝟐𝐄𝐀 + #𝐂𝐁𝐂𝟑𝐄𝐄
𝐄𝐲𝐞𝐬 : 𝐖𝐚𝐬𝐚𝐛𝐢 #𝐂𝐂𝐃𝟖𝐁𝐂
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𝐇𝐎𝐁𝐁𝐘
映画鑑賞(ホラー)
伝統芸能鑑賞┋寺社巡拝
文房具蒐集┋読書┋落語
旅行┋温泉巡り ♨︎
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𝐅𝐎𝐎𝐃
おにぎり(昆布)┋白米┋唐揚げ
オムライス┋蕎麦┋拉麺( 味噌 )
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𝐌𝐔𝐒𝐈𝐂
サカナクション┋ヨルシカ┋米津玄師
KingGnu┋amazarasi┋キタニタツヤ
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𝐋𝐎𝐕𝐄
宮沢賢治┋市川春子┋最果タヒ
紫陽花┋水族館┋夜明け┋雨音
𝐃𝐫𝐞𝐚𝐦 𝐜𝐨𝐫𝐞┋𝐋𝐢𝐦𝐢𝐧𝐚𝐥 𝐒𝐩𝐚𝐜𝐞
- 𝐒𝐔𝐌𝐌𝐀𝐑𝐘
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戦国生まれ、平成育ち、令和を生きる自称忍者のたまご。
旧套墨守に身を包み、忍者と戦国武将に浪漫を抱く元気なオタクです。時代交錯した一人称と古風な語り口が特徴的。日本史や純文学などの文化、また落語や歌舞伎などの伝統芸能分野をこよなく愛しており、造詣が深い。最近は殺陣稽古を本格的に習い始めたり、美術館や博物館に足を運んだりと自分の趣味や嗜好を思う存分に楽しみながら人生を謳歌する道楽人。ド田舎生まれド田舎育ち、都会で暮らすことを夢見るしがない田舎娘。明朗快活、剽軽者で楽天的。自分の気持ちに素直に生きる豪放磊落とした思考構造。
三度の飯よりも食べることがダイスキです!食に関することなら食材選別から調理過程、食べることに幸せを感じており、好き嫌いもありません。味噌と醤油は自家製。自分で作れるものであれば何でも作るし野菜も一から育てます。家庭菜園と自給自足は��得意。いつか自分の育てた米を使って日本酒を作ることを夢見ています。「いつも美味しいごはんが食べたい」と言う己の欲望を満たす為に、食に関するスキルを磨き、自分の機嫌を取りながら暮らしています。
老舗温泉旅館「あたらよ」にて仲居見習いとして働いている。
旅館から少し離れた辺鄙な田舎町に古書店兼自宅となる古民家を所有しており、オフの日は家屋の修繕や本の手当の為、定期的に自宅に帰るようにしています。 所蔵している本の数はおよそ一万冊以上。本の情報は全て記憶しています。
- 𝐎𝐓𝐇𝐄𝐑
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𝐏𝐋 : 成人済 社会人┋ 𝐏𝐋≠𝐏𝐂
𝟏𝐏𝐋𝟏𝐏𝐂 𝟏𝐂𝐏思考
𝐑𝐏 :𝐓𝐋 𝟓𝟎𝟎+┋𝐃𝐌 𝟏𝟎𝟎𝟎±
𝐃𝐌:𝐒𝐍𝐒または自室として利用可能 ご自由にどうぞ!
@𝐃:独白または日常生活の描写┋反応 𝐎𝐊
- 𝐂𝐎𝐍𝐓𝐀𝐂𝐓
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映画 動画など 同時視聴 𝐎𝐊❕
長文思考 熟考型 感覚<会話重視!
私生活最優先の為、置きレスを主体に交流しています。じっくり、ゆっくり、のんびりと交流を楽しみたいスタンスですので基本的にレスポンスを継続させがちですが、収まりの良い場合はこちらから留めることもあります。会話を経て親睦を深めていきたいので、積極的にお声掛けをしています。また既知設定の相談、こちらの設定に合わせた交流など、双方が楽しめる交流でしたら何時でも歓迎しております。一方通行の交流にならないように配慮をしていますが、至らぬ点などございましたら何時でも気軽にお声掛けください。恋愛発展はご縁がありましたら程度なので、今のところは考えていません。
- 𝟐𝟎𝟐𝟒.𝟎𝟗.𝟐𝟑
✦ 𝐜𝐫𝐞𝐝𝐢𝐭
𝐏𝐅𝐏:智瀬 @_𝟐𝟐𝟏𝟏𝟐𝟏
たくさん の ありがとう!
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生命拾いと戯れる~草加健康センターと戦後~
「人生の楽園」と題されたテレビ番組がある。西田敏行のナレーションで、四半世紀も続いている。都会暮らしの勤め人を脱した家族が田舎に逃れてパン屋や蕎麦屋を営む様を、楽園を得たひとに見立てて紹介するという筋立てだが、子供の頃のわたしは手品に魅入るように番組を眺めていた。近年、この番組に紹介された人々の七割が元の都心に戻っているという風説が囁かれている。それ自体は驚くに足りない、だが自ら築いた楽園をあっさり放逐される寓話は、逆説的にメーテルリンクの戯曲の有名な教訓を証明しているようだ。
草加健康センターの話をしよう。
わたしがこの地を踏んだのは8月10日。日本がポツダム宣言を受諾した日からちょうど77年後、北千住駅から東武スカイツリーライン快速に乗ること二駅の草加駅から送迎バスで10分、或いは徒歩で一時間で辿り着くこの場所は既に多数のサウナ愛好家たちにより紹介されており、さらに付言して汚すのはしのびない。
しかし百聞は一見に如かず。高温ながら高湿度に保たれたサウナ、真夏日でも15度を保つ清涼なハイブラの水風呂、小体な施設内で最大限に設置された外気浴の椅子。そして、サウナ室の入口と水風呂がおなじ露天スペースに設置されている為に一連の動作を円滑にする親切な導線は、灼熱の煉獄から逃れて救いの泉を得、その後微風に扇がれつつ身体に沸々と涌く余韻を味わうまでに些かの遅疑もさせまいとする心遣いを表している。その快楽は、身体に即せば高温からの急激な冷却を経ての血管の急激な収縮、拡張による血流や自律神経への好影響ということになる。だが、暑さ寒さの彼岸を好んで彷徨った挙句、外気浴スペースの椅子に背を預けて空を仰いだとき、晩夏の午後の光が雲をふちどる風景をふと目にして感じる瞑想的な法悦は、ただ身体の機構に帰して済ませてよい類のものだろうか。
走っている 火の海のなかに炎の一本道が 突堤のようにのめりでて 走っている その一本道の炎のうえを 赤い釘みたいなわたしが 走っている 走っている ――宗左近『燃える母』より
思いつく限りの戦時における空襲の描写を挙げれば、どこかで必ず火の海を逃げ惑う様子であったり、水を求めて煮えたぎる川に飛び込んで落命したひとの姿に行き当たる。『方丈記』以来の生き地獄の描写である。わたしは冗談ではなしに、高温のサウナに炙られている最中、先に挙げた宗左近の詩を連想する。信濃町で、母と二人で炎のなかを逃げ惑い、つい手を離してしまったが為に母は焼け死に、詩人が悔恨から鏤刻した凄まじい詩のことを。
だが、サウナがひとを殺すことは殆どない。わたしは自由に出口から抜けて出て、水風呂に浸かることが許されている。この水風呂も十秒以上浸かれない程に冷たく、一瞬で身体を覆う火照りを剥がしてしまう。水面に浮かぶ無数の泡が時に光の反射で無数の砕氷のように錯覚することすらある。それでもこれは八甲田山の死の彷徨ではない。
あくまで戯れに抑えられた灼熱と寒冷の往還とその余韻はどこか生命の危機から九死に一生を得る体験に似ている。次第によっては神仏の実在をひとに確信させるに至る、真の九死に一生の体験も身体の出来事だけに焦点を当てれば急激な緊張からの解放という一連の運動であり、これが浄化の感覚を否応なく引き起こす。草加健康センターがわたしに幾度となく追体験させてくれる快楽、それは極言すれば死の恐怖を抱く手前で精密に抑制された九死に一生ということになる。
解剖学者の養老孟子は90年代の講演集にて、くり返し「仏教の古い経典に描かれている極楽は『空腹も寒暖もない世』である」として彼の都市批判に繋げている。この極楽は日本において概ね達成されて久しい。コンビニでおにぎりもアイスも買えるし冷暖房が一家に一台備えられている世界は古人の夢見た極楽の姿をしている。日本国憲法の序文に綴文された「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」て今日まで幸運や、反対に薄氷を渡るような危機を躱して、今日楽園を前提と出来る程の世を享受している。そして、わたし達が世に抱く不平不満も煎ずれば極楽を足場に叫ばれている。
古人の想像力は、しかし果たして灼熱と寒冷の彼岸に戯れる、この草加健康センターのような施設にまで到達しただろうか。これはどんな古賢さえ夢にも見なかった楽園の一形態である。そしてわたしたちは他者により隅々まで保障の行き届いた施設にて生命拾いの快楽と戯れることさえ許されている。過去の悔恨も未来への恐怖も束の間忘れて、他者の承認も不要としながら独り身体的快楽の余韻に身を任せるとき、楽園のうえに更に築かれた楽園の到来に戦慄しないだろうか。
一方、誰が語ったか人生百年の時代であると言う。地上の至るところで戦禍がやまない世に先人の建立した砂上の極楽浄土が永続すると仮定して平和裡に制度維持の恐怖に震えること自体が既に慢心であると一瞬でも掠めたひとがどれほどいるだろう。遠い未来、わたしたちは抑制された灼熱ではなく、本物の火に生命を奪われるかも知れないのだから。
故にわたしは草加健康センターへふたたび通う。細心の注意により存続する楽園が、楽園として享受出来る限りにおいて。滅びの予感のなかで穏やかな現在はいっそうかけがえなく在る。そしてセンターの隣の自販機でアイスを贖い、舐めながら草加松原駅に至るまでの鄙びた道のりを歩き、暑さの峠を越えた夜風や虫の音に、これも優しい秋の気配を感じながら。
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【夏山日記 その0】
二ヶ月ぶりにまた散髪に行き(今度はジミン風マッシュになった 笑)、さっぱりしたところで、夏山登山決行。いくつかの候補の中から、いちばん条件の良い信州伊那谷へ向かう。Tさんの車で。伊那谷でも北部の伊那市まで来ると、駒ヶ根ほど観光地化されておらず、広々として静かで、とても好きな土地だ。
子どもや学生は夏休みに入り、行きはどこのサービスエリアも混んでいて、なかなか昼食にありつけないまま、結局高速を下り、登山口近くまで来てしまった。Googleマップで一軒だけ蕎麦屋を見つけたのでそこへ入った。ところ、なんと行列ができている。のどかな山間の古民家。こんな辺鄙な店になぜ? 何にも知らずに入ったけど、どうやら、ここは信州そば発祥の���地とかで、"行者そば"という十割蕎麦で人気の店らしい。7世紀、修験道の始祖である役小角(えんのおづぬ)が、村人からのもてなしのお礼に蕎麦の実を置いて行ったのが始まりだそうな。仕方なく、名簿に名前を書いて、待ち時間の40分間、登山口を見に行ったり、車中泊の場所を検討したりして過ごす。標高が高いせいか、暑さはなく、適度な湿気と風が気持ち良い。
ようやく呼ばれて入店したのは13時半回った頃。我々の一つ後ろのグループで蕎麦が品切れ、本日終了になった。名物の"行者そば"はもうなく、細打ちの十割盛り蕎麦と、鴨のくわ焼きを注文。やや汗ばむくらいの弱冷の古民家の座敷に、程よい間隔でテーブル席が置かれていて、BGMはなく、蝉の声しかしない。窓から赤いモミジが見える。配膳に来た店の女性に聞けば、ショウジョウという種類の、もともと赤いモミジで、この季節だけ青みがかるのだそうだ。紫陽花も咲いていた。
塩とわさびで頂く細切りの盛りそばは、大変美味だった。冷たく清い水を感じるシュッとした繊細なお味。つゆも添えられていたけど、これにつけてずずっとすすってはもったいない感じ。ゆっくり噛み締めて、味わって食べる。つゆは、蕎麦湯で頂く。鴨のくわ焼きがまた、野菜とともに絶品だった。これは、赤ワインでも合わせたいほど。選択肢がなくて駆け込んだお店だったけれど、想定外の良い昼食となった。ご馳走様でした。帰りがけ、閉店した客席で、スタッフの女の子が二人、まかないのうどんと西瓜を食べていたのがほほえましかった。
翌日早朝入山予定なので、本当は、登山口で車中泊したかったのだけど、トイレも水場もなく、どうしようかとまたGoogleマップを見ていたら、麓のほど近くにきれいな公園を見つけた。ひとまず近くの立ち寄り温泉に入って、明るいうちにそこへ向かう。 たまたま軽トラで管理棟にきて掃除をしていた方に、夜もトイレが閉鎖されないか確認し、大丈夫そうなので、ここの無料Pに泊まることにする。村上春樹の小説にでも出てきそうな、ちょっと不思議な雰囲気の管理人の方だった。止まった時計塔と静かな野球場のある、芝生と木立は丁寧に整備されたきれいな公園だ。でも夕刻過��ればひと気もなくなり、どこかパラレルワールド感あり。
晩はコンビニでお弁当を買ってきて、家から凍らせて持ってきたパックワインと共にその公園で頂く。野球場では地元の父子が薄暗くなるまで練習していた。こんなのどかな田舎でも、Googleマップとコンビニの存在がありがたいと思う。夜の公園と、明日の入山に、少し緊張しながら一夜を過ごす。
つづく
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もう直ぐ閉店して移転しちゃう行きつけ。 #和樂 #大泉学園 #手打ち蕎麦 #家庭の味 #ふらっと箸置き https://www.instagram.com/p/CGV-dGNA9j0/?igshid=qm1pa2lrp4c1
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絶望のパレード
魂がうわついている。まるで自分が自分でないみたいだ。ここしばらく意識は常に前方斜め下で、歩いているのは抜け殻か尻尾のようなものである。いつから、そしてなぜそのようになってしまったのだろうか。正月にかこつけて内省的になってみる。
昨年の初めに私家版詩集を刊行した。それまでに書き溜めた僅かな詩編を、2人の詩人と編集者、美術家とともに共著の形でまとめた。処女詩集にして全集のようなおもむきがあるけれども、自分としてはそれでよい。稲垣足穂風に言うなら、以降に自分が書くものはその注釈かバリエーションに過ぎないということだ。共著者と編集者が営業に奔走してくれ、関西の大型書店のみならず、関東の書店にも置いてもらうことができた。ありがたいことに帯には人類学者の金子遊氏が一文を寄せてくださった。個人的には、自分の高校時代からの読書遍歴を決定づけた恵文社一乗寺店に置いてもらえたこと、そしてそこで一度品切れになったことが大変嬉しかった。これで一地方のマイナーポエットになることができたという感じがある。それ以上は望まないが、この営みは細々と続けていくつもりだ。
詩集に関するあれこれが落ち着いてからは、英語の学習に明け暮れた。一昨年は仕事で繁忙を極めており、勉強どころか読書も満足にできなかったため、それを取り戻すように必死にやった。おかげで昨年度中の目標としていた点数を一発で大きく上回ることができ、すぐに違う分野へ手を出した。次はフランス語であった。気合を入れて5000円もする参考書を買い、基礎からやり直していった。ところがその参考書、誤植があまりにも多く、解説も非常に不親切で、ページをめくるのが億劫になり早々にやる気を失ってしまった。なんとも情けない話である。新しい参考書を買う気もなくなり、漢字の勉強へシフトしたところ、こちらはうまくいった。徐々に、平日はカフェで、週末は図書館で勉強するスタイルが出来上がっていった。その間も読書は続け、昨年で40~50冊程度は読むことができた。
秋ごろには面白い出会いがあった。実存的な不安が高まったこともあり、有休を取って哲学の道を散歩していたところ、海外からの観光客に、掛かっている看板の意味を聞かれた。訛りのある英語だったため、フランス人ですか? と問うと、そうだとの答え。自分がわずかばかりフランス語が話せるとわかって意気投合し、3日間観光ガイドのようなことをした。彼の名はムッシュー・F、ひとりで日本にバカンスに来て、東京でラグビーの試合を見たりしたとのこと。七十を超える高齢だが、つい最近まで自分もラグビーをしていたと話すエネルギッシュな人物で、全く年齢を感じさせない。パリで会社を営んでいるそうで、これが私の家だと言って見せられたのは、湖畔に浮かぶ大邸宅の写真であった。週末には森を散歩したり、湖にモーターボートを浮かべたり、馬に乗ったりしているよと言う。もちろんそれらは全て私有(森や湖でさえ!)、モノホンの大金持ちである。京都では一緒にカフェに行ったり、大文字に登ったり、うどんをご馳走したり、孫用の柔道着を探したり、旅行の手配を手伝ったりした。是非フランスにおいでと言い残し、彼は去った。それから今でも連絡を取り合っている。実に50歳差の友人ができた。
かつて自分は、日本で日々を平穏に過ごしながらたまに外国語を話す生活を望んでいたが、今になって少しばかり叶っていることに気が付いた。仕事ではしばしば英語を使う。ただ、本音を言えば、金子光晴のように海外を旅して回りたい。学生時代に思い描いていた生活はと言えば、高等遊民か世界放浪者であった。金子は詩の中で「僕は少年の頃/学校に反対だった。/僕は、いままた/働くことに反対だ。」と言った。人間は何からも自由なのである。自分も「成績」や「評価」、「管理」などには絶対に反対である。人に指示され、その目を気にして送る生活など耐えられない......。ところが、じっさいの自分には構造の外へ飛び出す勇気がない。��もそも自分は道の外から生のスタ-トを切ったのだ。そこから正道に戻るだけで精いっぱいだった。血の鉄鎖に引きずられながらもなんとか空転を繰り返した結果、保守的な思想が全身に染みついてしまった。今はなすすべもないまま泣く泣くレールの上を鈍行で走っている。窓からは、空中を並走するもうひとりの自分が見える。全てに背を向けて純粋な精神の飛翔を楽しむ自分の姿が。金子の詩友・吉田一穂は「遂にコスモポリタンとは、永生救はれざる追放者である」と言った。世界は狭量だ。自分にとっては、シュマン・ド・フィロゾフもアヴェニュ・デ・シャンゼリゼも等価である。どうにか国や所属を超越したいと強く思う。やはり勉強をし直さねばならない。
自分の様子がおかしくなったのは10月頃からだ。一昨年度に忙殺されたせいで少なからず人間の心を失った自分は、仕事における虚脱感に苛まれていた。家における問題もあり、また昨年度新たに来た上司とは全くウマが合わず、フラストレーションも募っていた。そもそもが5年で5人も上司が変わるという異常な環境である。自分はよく耐えてきたと思う。働くことが馬鹿馬鹿しくなり、ぼーっとする時間が多くなる。そんな中、自分はある大きなミスをしでかしてしまった。それは実際大した問題ではない、誰にでも起こりうることだった。尻ぬぐいは上司とともに行うこととなった。しかし、そのミスのせいでかなり落ち込んでしまい、さらに事後対応や予防策の打ち出し方が虫唾が走るほど不快なものであったため、自分は深く考え込むこととなった。さらにそこで追い打ちのごとく転勤が告げられたため、自分はついに心身に不調をきたしてしまった。抑鬱、不眠、吐き気、緊張性頭痛、離人感、悲壮感、食欲不振……全ての事物から逃げ出したくなる衝動に眩暈がする。ある日職場で人と話している時に、どうにもうまく言葉が出てこなくなったため、何日か休む羽目になった。初めて心療内科を受診し薬をもらった。一日中涙が止まらなかった。その頃の記憶はあまりない。日々、ふわふわと悲しみのなかを漂っていたように思う。ただ、話を聞いてくれる周りの人々の存在はかなりありがたく、ひとりの人間の精神の危機を救おうとしてくれる数多の優しさに驚かされた。転勤の話は自分の現況を述べたところひとまず流れた。その際、上役が放った言葉が忘れられない。「私は今までどこに転勤しても良いという気持ちで仕事をしてきましたけどね」。他人の精神をいたずらに脅かすその無神経さに呆れて物が言えなかった。薬の服用を続け、1ヶ月半ほどかけて不調��ゆるやかに回復したが、自分が何もできずに失った貴重な期間を返して欲しいと強く思う。仕事に対する考え方は世代間でもはや断絶していると言ってもよいだろう。
労働を称揚する一部の風潮が嫌いだ。仕事をしている自分は情けない。それにしがみついてしか生きられないという点において。システムに進んで身を捧げる人間の思考は停止している。彼らは堂々と「世の中」を語り始め、他人にそれを強制する。奴隷であることの冷たい喜びに彼らの身体は貫かれている。何にも興味を持てなかった大多数の人間が、20代前半に忽然と現れる組織に誘拐され、奇妙にも組織の事業であるところの搾取に加担・協力までしてしまう。それは集団的なストックホルム症候群とでも言うべきではないか。社会全体へのカウンセリングが必要だ。尤も、使命感を持って仕事に臨む一部の奇特な人々のことは尊敬している。生きる目的と収入が合致しさえすれば、自分も進んでそうなろう。だが自分は、「社会とはそういうもの」だという諦念には心の底から反抗したい。組織とは心を持たない奇形の怪物だ。怪物は人間の心の欠陥から生まれる。ただ怪物のおかげで我々は生きられる。それをなだめすかしておまんまを頂戴しようという小汚い算段に、虚しさを深める��々。人間的であろうとする以上、この虚しさを忘れてはいけない。
どうしようもない事実だが、労働によって人の心は荒む。労働は労働でしかない。肉体を動かすことによる健康維持という面を除けば、それ自体、自己にとっては無益なものだ。勤労意欲のない文学青年たちはいかなる生存戦略を以て生活に挑んでいるのか。彼らの洞窟を訪ねて回りたいと思う。現代には、彼らのように社会と内面世界を対立させたまま働き消耗する人々がいる。ある経営者がその現象を「ロキノン症候群」と呼んでいた。芸術に一度でもハマったことがあるような人々がそうなのだという。しかし彼らも納得はいかないながら、どこかで折り合いをつけて頑張っているはずだ。自分は彼らに一方的な連帯感を覚える。来る亡命に向けて、励まし合っているような気さえするのだ。世間様はきっと我々を馬鹿者だと罵るだろう。「なんとでもいはしておけ/なんとでもおもはしておけ」と、山村暮鳥の強い声が聞こえる。目に見えるものだけを信じるのもいいが、それを周りに強いてはならない。我々は今、ようやく開けてきた時代を生きている。だが認識は未だ模糊としている。完全な精神が保証される世界からすると、まだまだ古い時代なのだ。人間の姿を見失いがちな現代に対して言えるのはただ一つ、みんなで一緒に幸せになろう、ということだけだ。
さて、��末に3日間の有休をぶち込んだので年末年始は12連休となった。天六で寿司を食べ、友人宅に入り浸ってジャークチキンをむさぼった。ポルトガル料理に舌鼓を打ち、サイゼリヤで豪遊した。特に予定を立てずに、ひたすら酒とコーヒーを鯨飲する毎日であった。心身の不調はマシになったものの、不運が続き、人と会わなければどん底に落ちると思った。それはまるで自分という神輿を中心にした絶望のパレードのようだった。
休みの初日、ふと思い立ち、生き別れた父親の所在を探るべく、戸籍を請求してみた。私は父親の顔も名前も知らなかった。さほど興味がなかったというのもあるが、これまで家族に問うても曖昧な答えしか返ってこなかったのだ。働き出してからしばらくして、親戚から聞いたのは、父親は母親と同じく耳が聞こえなかったこと、暴力をふるう人間であったことの二つだけだ。養育費が払われることはなかったともどこかで聞いたような気もする。いずれにせよクズのような人間であったことは疑いようもない。生まれてから会った記憶もなく、不在が当たり前の環境で育ったため、会いたいと思ったことはほとんどない。ただ、自分の身体の半分が知らない人間の血によって構成されていることに何とも言えない気持ち悪さを覚えていた。というのも、顔は母親似だと言われるが、色覚異常の遺伝子は父親から受け継いだものであり、おかげで少年はある夢を断念せざるを得なくなったからだ。その「不可視の色」を意識するたび、自分の身の内には不在の存在がかえって色濃く反映された。違和感は自分が年を重ねるごとに増してゆくような気がした。そのため、せめて名前と消息だけでも知っておこうと思い、今回ようやく役所に出向いたのだ。職員に尋ねたところ丁寧に教えてもらえた。自分の戸籍から遡れば簡単に辿ることができる。しばらくして数枚の紙きれが手渡された。そこには聞きなれない苗字が書かれてあった。そして、案外近くにひとりで住んでいることがわかった。ふーん。何か虚しさを覚えた。自分は何がしたかったのか。カメラを持って突撃でもすれば面白いのかもしれない。ネットで調べてみると同じ名前の者が自己破産者リストに載っていた。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。結局自分には関係のないことだ。じっさいこの文章を書いている今、父親の下の名前をまったく忘れてしまっている。思い出そうとしても思い出せないのだ。
旅行前日の夜中に家の鍵をなくした。普段ほとんど物をなくさないのでかなり焦った。約4㎞の距離を3往復し、交番に駆け込むも見つからず。最後に寄ったコンビニの駐車場を這うように探し回ったところ、思いがけない場所で発見し安堵した。寒くて死ぬかと思った。自分は落とし物を探す能力��は自信がある。物をなくさない、などと言いながらイヤホンのイヤーピースはこれまでに3度落としたことがある。しかし、その都度血眼になって道端から救出してきたのだ。今回見つからなかったら自分はどんなに落ち込んでいただろう。2時間も無駄にしてしまったが、とにかく良かった。もうお洒落を気取ったカラビナは使わない。
中学時代の友人3名と有馬温泉に行った。ここ数年、年末の旅行は恒例行事となっている。とはいえこの4人で遊ぶために集まるのはおよそ10年ぶりだ。有馬は京都から車でおよそ1時間半。温泉街は観光客でごった返している。外国人も多い。昼飯にカレーを食べ、しばしぶらつく。細く入り組んだ坂道が続く。公園には赤く錆びついた蛇口があった。飲用可能な鉄泉だったが、衝撃的な味に顔がゆがむ。血だ。その後、目当ての温泉旅館に行くも臨時休業であった。どこの湯も混雑しており、20分待ちがザラだった。日帰り湯の看板が出ていないホテルにダメもとで聞いてみると、幸運にも入れるとの答え。客もほとんどおらず、金泉をこころゆくまで楽しめた。歩き途中、炭酸せんべいを土産に買う。特徴のない普通のせんべいだ。ここで一旦宿に戻って車を置き、再びタクシーで温泉街へ。鉄板焼き屋でお好み焼きを食べ、銀泉に入る。顔がツルツルになった。宿はそこからかなり離れた山裾にある合宿所のようなところだった。嫌がるタクシーに乗り込み、外灯のない急坂を登る。受付には緩い感じのおじさんがいて、懐かしさを覚える。鍵を受け取り、宿泊棟へ。一棟貸しなので騒ぎ放題だ。大量に仕入れた酒とつまみと思い出話で深夜までウノに耽った。翌朝気が付いたのは隣の棟の声が意外とよく聞こえるということだ。大声、というか爆音で昔の先生のモノマネやらツッコミやらを繰り返していた我々の醜態は筒抜けになっていたようだ。棟を出る時に同年代くらいの若者と鉢合わせてかなり気まずかった。ここにお詫び申し上げる。この日は朝から中華街へと移動し、料理を食らった。鰆の酒粕餡かけという聞きなれない一皿がめっぽう美味かった。バリスタのいるコーヒー屋でエスプレッソを飲み、だらだら歩いて旅行は終了。京都に着いてからなぜか3時間ほどドライブし、大盛の鴨南蛮そばを腹に入れてから解散となった。
大晦日は友人宅で蕎麦をご馳走になってから鐘を撞きに行き、深夜まで運行している阪急で松尾大社へ。地元の兄ちゃんが多い印象。社殿がコンパクトにまとまっていて良かった。おみくじは末吉だった。年明け���々、以前付き合っていた人が結婚したことを人づてに聞く。めでたい気持ち半分、複雑な気持ち半分。元日は高校時代の友人3人と四条で酒を飲むだけに留まる。2日は友人らと蹴上の日向大神宮へ。「大」と名づくが割合小さい。社殿の奥には天の岩屋を模したと思しき巨大な岩をL字型にくりぬいた洞窟があり、潜り抜けることができる。いつ作られたものかは不明だそう。暗闇を抜けて日の光を再び浴びる時、不思議にもスッキリとした感覚になる。ここでもおみくじは小吉だった。その後は下鴨神社の露店を物色し、ケバブとヤンニョムチーズチキンなる悪魔のような食べ物に枡酒で乾杯。旧友と合流し、深夜まで酒を飲み、コーヒーで〆。怒涛のアルコール摂取はここで一旦落ち着いた。
3日、昼に起きる。夕方ごろ喫茶店に行くもぼんやりして何もできず。3時間で本のページを3回めくったのみ。その帰りがけに初めて交通事故を起こした。自分は自転車に乗っていたが、考え事ごとをしていたかそれとも何も考えていなかったか、赤信号の灯る横断歩道の真ん中で車に真横からはねられて、初めて意識が戻った。即座に状況を理解し、平謝りする。非常に幸運なことに怪我も物損もなく、さらには運転手が気遣ってくれたおかげで大事には至らず、事故処理のみしてその場を後にした。自分はあまりにぼーっとしすぎていたのだ。赤信号はおろか、横断歩道があることさえも気づいていなかった。完全にこちらが悪い。ただ、こんなことを言ってはヒンシュクを買うだろうが、何か自分のせいではないような気もした。昔、轢かれたことのある友人が、「車は鉄の塊、人なんて無力」と言っていた。生と死は笑えるほどに近い。車の同乗者には、生きててよかったなぁ! と半ば怒った口調で言われた。果たしてそうなのか。苦しんで生きるか、知らぬ間に死ぬか、どちらが良いのか。よくわからない頭のまま先輩の家に遊びに行き、帰ってからおみくじを捨てた。馬鹿にもほどがある。
“WWⅢ”がツイッターのトレンド入りした日に、リニューアルしたみなみ会館で映画「AKIRA」を見た。第三次世界大戦で荒廃・復興した2020年のネオ東京が舞台である。東京オリンピックの開催まで予言されていて瞠目する。作画の緻密さと色彩の美麗さ、展開のスピードが尋常ではなく、見るドラッグのようであった。見に来ていたのは意外にも20代の若者が多かった。なぜか終了30分前に入ってきた女性3人組もいた。目がぐるぐる回って、もう何が何か訳がわからな��った。溢れそうな鍋に蓋をしたところ、その蓋の上から具が降ってきた。そんな脳内で、世界の終わりというよりは、自分の終わりという感じだった。翌日から仕事だったが、変に興奮して夜中まで寝付くことができなかった。
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存在しないのに駅名になっているものと私 ・ 東大前駅には東京大学がありますが都立大学駅には都立大がありませんね。お隣の学芸大学駅も東京学芸大学がありませんがどちらも歴史を辿るとかつては大学がありました。 ・ 戦後の復興施策として歌舞伎劇場を誘致したいという思いから名付けられた歌舞伎町は残念ながら誘致できず町名だけが残りましたね。 ・ 練馬区にあるこちらの町名も大学を誘致して学園都市を目指したいという思いから駅名と町名に学園がついているのですね。 ・ と言うわけで本日のモーニングは大泉学園駅すぐそばにある #そばうどん松本 です。日曜日の朝からやっている #立ち食いそば のお店って案外ない中、発見し訪問です。 ・ ラーメンやカレーに麻婆となんでもござれな感じですが #そば を頂くことにします。頼んだのは #蕎麦 に #春菊天 と #コロッケ そして #生玉子 をトッピングです。 ・ 「コロッケは揚げたてだから美味しいよ」と言ってくれたのでコロッケをまずいただきます。野菜たっぷりで少し甘みが感じられるのはニンジンなどの甘味でしょうか? ・ #そば は中細でちょうど良い食感。 #つゆ はバランスが取れていて高級店でも安っぽい感じでもないほんとに中間を行っている感じです。 ・ 続いての #春菊 はほろ苦いけれども #天ぷら にしたので衣に包まれて優しい仕上がりになっています。ここで #生卵 を溶かして食べると、うんうまい。 ・ 少しずつ汁に溶けてフニャッとなったコロッケが愛おしいと思いながらたっぷり入ったネギも食べつつ一気にフィニッシュです。 ・ 次回はラーメンとご飯メニューをセットで頂きたいと思います。 ・ #大泉学園モーニング #大泉学園グルメ #大泉学園ランチ #大泉学園そば #大泉学園立ち食いそば #大泉学園蕎麦 #麺スタグラム #とa2cg (そばうどん松本) https://www.instagram.com/p/CPy2URvgA4g/?utm_medium=tumblr
#そばうどん松本#立ち食いそば#そば#蕎麦#春菊天#コロッケ#生玉子#つゆ#春菊#天ぷら#生卵#大泉学園モーニング#大泉学園グルメ#大泉学園ランチ#大泉学園そば#大泉学園立ち食いそば#大泉学園蕎麦#麺スタグラム#とa2cg
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能��凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史とその庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆���塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
『一流と日本庭園』 生島あゆみ 著 CCCメディアハウス
正伝寺 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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おはようございます 10月21日(金) #西多賀眼科医院 午前9:00〜12:00 午後14:30〜17:00 あかり の日 1879年のこの日、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させた。 あかりのありがたみを認識する日。#エジソン 1967年 #アルシンド の誕生日 (ブラジル:サッカー(FW)) 【おすすめ仙台グルメ】 西公園から大学病院へ少し行った所にある、山形そばのお店です。 ここのお蕎麦は中太でコシがあって、とても大好きです。 冷たい蕎麦も暖かいのも美味しいですし、 鶏中華も美味しいですし、 何度も通いたくなるお店です。 そば処 かほく 宮城県仙台市青葉区春日町10-20 富士ビル 1F https://tabelog.com/miyagi/A0401/A040101/4025465/ 西多賀眼科医院ホームページも、どうぞよろしくお願いいたします↓ https://nishitaga-ganka-clinic.com/ #眼科 #仙台 #宮城 #白内障 #結膜炎 #緑内障 #ドライアイ #眼鏡 #メガネ #コンタクトレンズ #眼瞼下垂 #太白区 #鈎取 #西多賀 #長町 #八木山 #富沢 #名取 #秋保 #秋保温泉 #日帰り手術 #白内障手術 #仙台グルメ #長町モール #誕生日 #今日は何の日 #蕎麦 (そば処 かほく) https://www.instagram.com/p/Cj83xXpybJJ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2022.08.10
この古い団地に引っ越して来て、
今日で半年が経ちました。
大雪の日のお引越し。
数々の珍事件。
思い出し笑いばかりの
本当に面白い半年間でした。
命が危ぶまれた(お引越しのお兄さん曰く)、
古い洗濯機(カックン)と、
古い冷蔵庫(クロ)も変わらずに元気です!
団地の古い換気扇(バッタン)や
バランス釜(カチカチ)、
���して中古の軽バン(手廻し窓のギン)も、
変わることなく賑やかにしています。
雪が解けて春が来て、
小さな工房が出来上がって、
istutが再出発をして、
お仕事が忙しくなって、
忙しない日々が続いても、
温泉に行ったり、
直売所のお野菜をモリモリ食べたり、
お山や大きな空を眺めて深呼吸したりと、
ふたりで楽しく半年間を過ごしてきました。
そして。
半年たった今、
ふたりではなく3人になりましたね。
我が家にシブが来てくれて、
私たちの暮らしは変わってきています。
今はまだお互いに慣れないし、
微妙な距離もあるし、
分からないことがいっぱいで、
悩んだり悲しんだり喜んだり。
でもそれはきっと、
シブも同じだと思うんですね。
彼はきっと寂しい。
彼はきっと戸惑っている。
一緒に生まれた兄弟が恋しい。
ノラ猫さんだったお母さんのことを、
毎晩思い出している。
そう思うと、
ますます悩んでしまうのですが、
シブがずっと暮らしていく場所。
シブがずっと一緒に過ごす人間。
そういう場所と存在になれるように、
今、マコさんと学びの日々です。
何しろ20年以上、
マコさんとふたりっきりで暮らしてきたので、
新しいメンバーは、やりにくいんだと思います。
だからこそ焦らずに時間をかけて、
お互いを尊重し合いながら、
お互いを助け合いながら、
シブとの関係を築いていけたらいいなあと思います。
半年という時間は、
東京にいる時は本当にあっという間でした。
1年が飛ぶように過ぎていく。
そういう感覚で生きていました。
まさに東京砂漠。本当にハードでしたね。
よくやっていたなあとつくづく思います。
2月に長野市に出戻って、
団地で暮らす日々が始まってからの、
この半年は意外にも��く感じています。
毎日同じことの繰り返しですが、
その繰り返しのひとつひとつが楽しい。
朝ごはん(毎日同じメニュー)の時間も楽しい。
お昼のお蕎麦(毎日乾麺の蕎麦)も楽しい。
忙しくてバタバタしている時も楽しい。
美味しい美味しいと、
地元の野菜をムシャムシャしながら、
晩酌している時も楽しい。
↓(オクラが21本で100円。もちろん天ぷら)
温泉でぼんやりと空を見上げている時も楽しい。
シブの夜鳴きに悩んでいる時も楽しい。
シブの寝顔を見ているだけで楽しい。
そうやって、
2��時間×半年がユックリと過ぎたからなのか、
時間の流れがとてもユックリと感じるんですね。
本当に不思議です。
今日は団地暮らし半年記念日ということで、
久しぶりにワインでも飲んじゃおうかなあ。
(いつもは焼酎のお茶割りです)
あ。
今年のワッサーの収穫が始まりまして、
今週は農園さん巡りが続いています。
来週から、
ジャムおばさんは、またジャムになります。
販売は月末の予定。
これで今夏のじゃむじゃむセットは、
最終回となります。
楽しみに待っていてくださいねー。
ワッサーのお話は、
また次の機会に綴りたいと思います。
つづく。
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零の会
2022年4月2日
於:南麻布いきいきプラザ
坊城俊樹選 岡田順子選
坊城俊樹出句
坊城俊樹出句
空襲に焼けたんぽぽの大銀杏 更科へ蕎麦食ひにゆく恋猫と かぎろひ��暗闇坂をとぼとぼと 花衣たはむれに寄る煎餅屋 あべちやんの焼きとんもまた霞むなり 霞みたる幽霊坂へ迷ひ込む 女学館へとまやかしの蜃気楼 霾るや夏目雅子が路地ぬつと まだ開かぬ麻布温泉のどかなり 春の坂東洋英和へと続く
_______________________________________________
坊城俊樹選 特選句
坊城俊樹選 特選句
花の舞ふ五叉路に迷ふ女かな きみよ 蛇穴を出て街中に紛れたる 梓渕 大江戸も春や二の橋三の橋 荘吉 ハワイアンたらたら流れ逝く春ぞ いづみ 大銀杏とは崩れつつ芽吹くもの 光子 散る花も散らざる花も手に遠く 和子 春の地上へとエスカレーターエスカレーター 炳子 六本木ヒルズの方へ茎立ちぬ いづみ 小津映画ほどの間合や春の昼 美紀 春爛漫東洋英和女学院 梓渕
坊城俊樹選▲問題句
花人の一人は泣いてをりにけり 光子
坊城俊樹選入選句
さ迷うて麻布十番花疲れ 眞理子 川と云ふ都会の隙間春の風 梓渕 春の寺供花抱きしめて車椅子 小鳥 花の雲麻布の空を押し上げて 三郎 うららかやくらやみ坂に影もなし 千種 パンの香と春の香のして西麻布 季凛 口元のうつくしき人梅真白 美紀 門番をかすめ燕の大使館 きみよ 花の昼髪に顔入れものを食ふ 和子 赤い靴履いて麻布の永き日を いづみ つぼみからくしやくしやぽんと八重桜 いづみ 座すによき石をみつけて花衣 光子 春闌けて地下鉄駅の深すぎる いづみ 花の夜は狸も出でよ麻布山 きみよ もの言へばまた一片のさくら散る 和子 のどけしや人住めさうな大公孫樹 千種 ひらひらと卒業式の少女かな 美紀 越路吹雪の碑に惜しみなき花よ 眞理子 陽炎やぬうと伸びたるビルの首 千種 コーちゃんへ愛の参加のごと落花 慶月 鯛焼もかりんともある春の昼 荘吉 間口狭き仕舞屋の奥春の闇 眞理子 鳥のこゑ芽ばり柳を噴き出づる 光子 駄菓子屋の二階は歯医者町日永 千種 湯タンポの錆びて売らるる万愚節 佑天 帽子屋の主は女花疲れ 炳子 胴吹きの花に語るや道成寺 眞理子 塔頭の始まりとして八重桜 慶月
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岡田順子出句
岡田順子出句
香具師達の来る花守の面相に 弔ひも祝ぎも桜のひと色に 花万朶啄みたるや鳥の糞 カーネーション諭吉の墓に妻の名も 花朧シャンソン歌手の碑を包み 人形の瞳に春の夢去らず バザールへひやうと古今の花吹雪 囀と花の散り込む名刺受 子の膝の跡に窪みし花の塵 白椿麻布幼稚園へ矢印
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岡田順子選特選句
岡田順子選特選句
女学館へとまやかしの蜃気楼 俊樹 道路鏡に真昼の空や鳥交る 炳子 花衣抱かれて泣く真昼かな 光子 花盛り帝都の地下を逝く列車 久 骨董を異人売りをり春市場 季凛 花衣とて親鸞のわらぢ履き 千種 散る花も散らざる花も手に遠く 和子 開山堂椿は白に額は朱に 季凛 老酒の壺の箆跡風光る 和子 手のひらが日を受くやうに飛花落花 小鳥
岡田順子選▲問題句
生者死者みな散る花の子でありし 光子
岡田順子選入選句
湧水の落花くるりと回しつつ 季凛 霾るや夏目雅子が路地ぬつと 俊樹 囀もテニスボールを打つ音も きみよ ダリの絵の斜塔めきたる目借時 光子 いくつものレシピを聞きて春キャベツ 季凛 霞みたる幽霊坂へ迷ひ込む 俊樹 春の海向く福沢諭吉の墓碑 いづみ 勅使門うやうや拝す百千鳥 慶月 花の昼髪に顔入れものを食ふ 和子 花屑は情念となり鐘楼下 小鳥 花の舞ふ窓開かるる大使館 きみよ つぼみからくしやくしやぽんと八重桜 いづみ 泣き上戸一人をりけり花の宴 光子 仰ぎ読む山号寺号花の下 荘吉 花片を少女のやうに掬ひ撒く 秋尚 男の子二人の家に燕来る 美紀 風信子星の匂ひと想ひけり 美紀 浄土より花降る街の石畳 きみよ 愛子忌へ花の仏の鎮もれる 三郎 名にし負ふ山寺寺号花万朶 荘吉 木々の芽のふくらむやうに父よ癒えよ 美紀 ヘリ飛べば桜吹雪の麻布かな いづみ 塔頭の始まりとして八重桜 慶月 狸坂暗闇坂へ椿墜つ いづみ 花時をシティーボーイは遅参して 光子
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第12回常陸の国・里山&野外ワークショップ&マインドフルネス合宿(2023年8月26日-27日 in 茨城県常陸太田) https://kanglohoops202308.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/812427666889630
今年で11年目を迎えたオープン合宿。「160年の荒蒔邸、300年の菊地邸などの里山古民家、1000年古神社で過ごす心鎮めるマインドフルネス、本格有機農体験、手仕事ワークショップ、深い森と滝散策リトリート、参加者との交流ダイアローグ、創業200年八幡太郎義家ゆかりの湯で心と体を癒すなど、今年もゆったりと過ごす企画にする予定です。
茨城県の常陸の国は、元は日高見国とされていた土地。7世紀に令制国として常陸国が誕生。『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されました。ここは、古い里山だけに多くの文化遺産が残っています。昨年には、NHKの朝ドラマのあの「ひよっこ」の舞台にもなりました。今回は、天候、状態にもよりますが、御岩神社&御岩山への巡礼も行う予定です。
そして、木の里農園さんのコテージを拠点に、ゆったりとマインドフルネスな時間を体験をします。地元でも秘境の深い森や滝、古神社でゆっくりと過ごします。また、就農25年目となる布施大樹さんと美木さんご夫妻の経営する有機栽培農園「木の里農園」での援農・収穫体験をし、夜は本物の火や囲炉裏を囲んだ談義と自分達で仕込んだ自然食を頂き下鼓を打ち、そして冷たいスイカと花火で夏の日の夜の思い出を刻みます。今も住人が住み続ける300年を超える古民家「菊地邸」(ご主人の話を聴けるかな?)で安土桃山時代の空気を味わいます。
このような素晴らしい里山で2日間共に過ごす程、贅沢な時間はないでしょう。里山の人たちとの交流や自然・大地の恵みを得ながら、ライフコーチ、スピリチュアルカウンセラーの森夕花先生と共に人生の本来の目的を思い出し、明日への道を見出したいと考えています。今回も素晴らしい機会となることを確信しています。
主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.facebook.com/hoops.kanglo
■旅の案内人: ★マインドフルネス&ライフコーチング担当:森夕花(もりゆうか)先生 ●ライフコーチ/アーティスト/カングロ(株)取締役執行役員、尚美高等音楽学院ピアノ科卒業 京都芸術大学芸術学部卒業。ピアノ、声楽、シナリオ、演劇、ジャズダンス、日本舞踊などの自己表現を通して自分自身を探求する。1993年ドイツ、イタリアへの留学。その後、21世紀に入り、ハワイ、セドナ、インドのアシュラムを巡礼する。心理学、哲学、美学、手相、インド占星術、代替医療(中医学・ヒーリング)などを学び、 ヒーリングカウンセラーとして23年間、企業のライフコーチとして9年間、セッション、研修を行う。現在、「大人のためのアート思考講座」「Philoarts研究会」を主宰。趣味は、声楽、読書、人間観察、そば栽培、ヨガ、瞑想。特技、人・動物の心を読む、直観力、探求。好きな言葉は、「自由」「日日是好日」
★有機農指導担当:布施大樹さん(奥様:美木さん) ●東京都出身。東京農工大学農学部環境・資源学科卒業。在学中に沖縄の波照間島でのサトウキビ刈りアルバイトで農業に目覚める。栃木県の帰農志塾で研修後、1998年に現在地に就農。あらゆる野菜・作物の栽培、管理を行い有機農業の可能性を追求。家族で約2haの木の里農園の経営を行い、約50種類の有機野菜を全国に出荷している。
・木の里農園 http://konosato.com/ ・種継ぎ人の会 http://tanetsugibito.com/
★企画&案内人担当:藤井啓人(ちょろお) ●茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督を経験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度で全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリテ��・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、俺のベランダ菜園。
■開催日:2023年8月26日(土)- 27日(日)1泊2日 ※下記集合場所に10時頃に集まり、翌日27日16時頃に現地解散予定です
■集合場所: 道の駅さとみ(茨城県常陸太田市小菅町694−3) http://www.hitachiota-michinoeki.jp/page/dir000003.html
■スケジュールイメージ: ※天候などの状況により変更となる場合があります <8月26日(土)> *10時:集合場所(道の駅さとみ) ※電車組は、JR常磐線東海駅からの送迎有り *10時15分〜:手打ち蕎麦ワークショップ *12時〜13時:自分の打った蕎麦で昼食&オリエンテーション *13時15分:大中町の荒蒔邸へ移動しチェックイン ・1000年以上前に建立された大中神社にご挨拶 *13時30分〜22時頃: ※概ね下記のメニューをゆるりと実施していきます。 ・里美の滝散策(美しい秘境の滝を巡ります) ・300年古民家「菊地邸」訪問 ・木の里農園にて有機野菜の調達体験 ・全員で夕食準備&自然食料理での夕食&片付け ・よる花火とスイカのうたげ ・荒蒔邸の囲炉裏を囲んでのダイアローグ(対話) ・横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は個別清算) *22時頃:自由時間 *23時頃:就寝
<8月27日(日)> *05時:起床〜朝のさんぽ(朝陽を拝む) *06時:全員で朝食準備&朝食&片付け *08時〜:森夕花先生のマインドフルネスセッション *10時〜:清掃・片付けをし移動 *11時〜:御岩神社、御岩山巡礼リトリート(標高492m) *14時〜:日立おさかなセンター食事処で昼食&クロージング *16時頃:解散(電車組は近場のJR常磐線内の駅まで送迎します)
■宿泊場所: 里美 160年古民家の宿「荒蒔邸」 茨城県常陸太田市大中町1547 【地図】https://www.aramakitei.com
■当イベントの参加資格:どなたでもご参加可能です。 お気軽にお申し込みください。以下は参考です。 どなたでもご参加可能です。お気軽にお申し込みください。 ※エコビレッジ、パーマカルチャー、トラジションタウン、半農半X、 スローライフ等に関心のある方 ※マインドフルネス、スピリチュアル、メディテーション、ヨガ、 リトリート等に関心のある方 ※お子様は、小学生高学年以上が良いと思います(過去参加有)。 お子様を同伴されたい方は、事務局に事前にご相談下さい。
■参加料:お一人様 3万800円(税込)※小中大学生は1万5400円(税込) ※上記には、参加費、宿泊費、夕食のBBQ及び翌日の朝食付き代が含まれています (アルコールは最低限用意をしますが、多めに飲まれる方は持参頂いています) ※上記には、交通費、夕・朝食以外の食事、入湯料、工芸料などは含まれておりません ※小中高大生はお一人様半額となります(お子様同伴の方は、事前にご相談下さい) ※必要に応じ、領収書をご用意致します
■注意事項:※必ず目を通しておいて下さい ※コロナ対策のご準備をお願い致します ※当企画は、現地集合・現地解散企画です ※電車組は、JR常磐線「東海駅」にてピックアップ致します ※宿泊は、状況に応じ、女性専用部屋を用意します(枕、敷/掛布団あり) ※横川温泉 中野屋旅館 で入浴(入湯料は500円、個別清算となります) http://www.satomi-nakanoya.com ※工芸ワークショップは「常陸蕎麦・本格手打ち蕎麦教室」を予定(昼食込みで一人2000円程度) ※参加者同士、車での乗り合いをお勧めしております ※参加料は、事前振込制となっております(申込後にお知らせ致します) (前日キャンセルは50%、当日100%のキャンセル料を徴収致します)
■定員:15名限定 ※先着順。定員になり次第締切ります。 ※最小携行人数は5名。参加者が5名を下回る場合、開催を見送る場合があります。 ※小学生未満同伴の場合は、事前にご相談下さい。
■当イベントの申込方法【重要】: ※ 下記をご一読いただきお申込み下さい。 ①下記URLの申込フォームにより正式エントリー 申込フォーム https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSft1YNO6SP4C-YGlgpacoHgGK-wLQ9t-NOybyJuhsVg8sNbjg/viewform
Peatixからの支払いも可能です。 https://kanglohoops202308.peatix.com/view ②お申込後、24時間以内に参加受付受領のe-mailを事務局よりご返信させて頂きます。 e-mail: [email protected]
③②の返信メール内にある振込み先に前日までにご入金
④これにて「申込完了」となります。
■詳細パンフレットを下記よりダウンロード頂けます。雰囲気だけでもどうぞ。 https://firestorage.jp/download/0043db17b8ec86a09890b17a59239b92fbadf08d
■主催:カングロ株式会社 HOOPS!事業部 https://www.kanglo.co.jp
■協力:木の里農園 布施大樹さん・美木さん、深津澄世先生、田中尚也さん、本橋寿幸さん、藤井家母、実弟
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新旧軽井沢散歩と万座温泉に浸かる旅
休日も心身が休まらない日が続き、進捗の低下をひしひしと感じ始めた。週末にしたい・しなければならないことが多いことも一因かと考え、たまにはいつもの土地や行動から離れて無為に過ごす日もつくってみようと思い立った。
Swarmのチェックイン履歴をだらだら眺めていて、学生の頃に万座温泉の日進舘に行っていたのを振り返った。観光地というほど賑やかでなく、アクセスも車で数時間とそこそこ大変だが落ち着ける場所だった。以前行ったときは立ち寄り湯のみだったが、風呂に入る・食事を摂る以外に「なにもしない」のにいい意味で最適だった。早速日進舘の予約を済ませた。
日進舘では軽井沢駅や万座・鹿沢口駅から送迎バスが出ている(事前予約制)。スタッドレスタイヤを履いたレンタカーを借りたり路線バスを探すのもお金がかかって面倒なので、送迎バスの予約も済ませておいた。早めに駅に着いたとして、万座・鹿沢口の駅前で暇を持て余すのも退屈なので、軽井沢駅から乗ることにした。
宿泊当日の週末朝7時、立川駅から軽井沢行きの高速バスに乗る。このご時世だからか、またはウインタースポーツをする方は新幹線や車で早々に向かっているのか、乗客は私を含めて2人だけだった。バス会社にとって赤字だろうなぁと考えるが、私にとっては人が少ない方がリラックスできて都合がよかったりする。
途中休憩を挟み、3時間ほどかけて軽井沢駅に到着。現地に着いてから知ったが、駅前の通りは冬季休業のお店が多く、人もまばらだった。
ちょうどお腹が空いたので軽く食事を済ませる。駅から北側へ2, 30分ほど歩き、11時ちょうどに旧軽井沢のベーカリー&レストラン沢村に到着。先客は数人待ちだったが、レストランは11時オープンなので、すんなり案内された。
カルツォーネは旧軽井沢のランチ限定とのこと。カルツォーネはピザを半分折りにしたものに相当するが、通常の円いピザもメニューにある。カルツォーネは具材が異なるものが数種類あるが、ねぎ味噌とチキンのカルツォーネを注文。自家製ねぎ味噌のことだが、このあたりだと信州味噌か下仁田ねぎが関連するのか無関係なのか、調べてるうちに前菜のサラダとメインディッシュができあがる。
とろけるチーズが入っており、ねぎ味噌との甘塩っぱさのバランスがよい。わずかな七味のからさが食欲を増幅させる。ジューシーなので、こぼれないよう慎重に口に運ぶ。ビールも合わせて飲みたくなったが、ここはいったん我慢。腹7分目まで満たして散歩に繰り出す。
もう少しお腹を満たすために喫茶を探す。軽井沢といえば丸山珈琲!と言いたいところだが、巡回セールスマン問題的に考えると駅北側から本店へは非効率なルートで時間もあまり余裕がない。丸山珈琲に寄るのは翌日に回して、1日目は旧軽井沢銀座のミカド珈琲で喫茶をたしなむことにした。
ここの定番はモカソフトなのだが、甘味が欲しい気分ではなかったのでハウスブレンドを注文。レモンのようなほのかな酸味があるが、酸味が苦手な方でも飲めると思う。あわせてマイルドな苦みもあり、バランスがとれている。フードなしでもコーヒー一杯で満足できる味。イートインの席数が非常に限られているが、ここもやはり閑散としていて、帰る頃には客が私一人となっていた。
宿のバスの迎えまで残り1時間強というところで、駅の方面へ戻る。道中Quartet Brewingというブルワリー兼タップルームを見かけて、クラフトビール好きとしては立ち寄らない理由がないので寄り道をすることにした。タイミング悪くタップルームはテイクアウトのみの営業となっていたが、タップを直接缶に詰めてもらえる方式となっていた。
お店オリジナルのレゾナンスウィートを持ち帰り、近くの公園で飲む。麦の味とわずかな苦味、やさしく透き通る喉ごし。
軽く酔いが回りつつ駅に到着。若干時間の余裕があるので、待合室で軽井沢駅について調べていた。どうやら駅そば発祥の地とのことで、発祥当時のそば屋はないものの、釜めしのおぎのやが駅そばを提供しているとのこと。釜めし以外にもメニューがあったことが驚きだが、せっかくなのでお腹のわずかな空きを満たすことに。
380円のシンプルなかけそば。駅そばを食べること自体が、学生の頃に食べた弥生軒以来だった。それゆえ駅そばにあまり大きい期待はしていなかったが、つゆのうまみと出汁の香りが予想以上に効いている。麺も柔らかすぎない、蕎麦といえるものだった。駅そばなのだが期待を上回る出来で、じっくり食べたい一杯だった。
ほぼ定刻どおりに宿のバスに乗る。これもまた乗客が私一人で、わざわざ迎えに来てもらったのが申し訳ないくらいだった。途中うたた寝したり鬼押ハイウェー・万座ハイウェーの景色をぼーっと眺め、16時前に宿に到着。道路は雪が積もっており、わずかに滑る。こういうことを予想して足が濡れないよう3シーズン用の登山靴を履いてきたのだが、辺りは坂も多く、チェーンスパイクも持ってきたほうがよかっただろうかと思い始めた(結果的にさほど出歩かなかったので不要だった)。
チェックインを済ませ、荷物を部屋に置き、数年ぶりに白濁したお湯に浸かる。立ち寄り湯は14時までだったので、予想よりも空いていた。一方でスキー客の家族連れが多く、露天風呂は比較的混んでいた。それでも天気のよい日だったので、リラックスして最高の雪景色を堪能した。
内湯は比較的熱めで、数分入っていると上せそうな気がしたので、長湯はせず複数の風呂をこまめにはしごする形式をとった。露天風呂は外気温とのバランスがよく、さらに脚を伸ばして全身浸かることができるので、ついつい長居してしまう。夕食後もまた宿泊者用の湯船に浸かり、合計3回風呂に出入りした。
......
翌朝は6時起床。時刻はいつもどおりだが、胃痛はいつもよりも落ち着いていた。事前に天気予報で降雪を確認していたが、吹雪いているようすはなくパラパラと降っていた。朝風呂、朝食、朝風呂(2回目)のルーチンを決め、身体に温泉のにおいが染み付いたところでチェックアウト。来る前は手指が乾燥気味だったが、帰る頃にはハンドクリームなしでも指先のひび割れがなくなっていたことに気づく。ふたたびバスに乗り、読書や仮眠をしながら軽井沢駅に戻った。
到着時刻は12時過ぎ、直前に調べて決めていた駅前の洋食屋「フレスガッセ」へ。おしゃれな場所というよりも昔ながらの大衆食堂に近い。観光客向けというよりも地元の方向けという店構えだった。穀米と味噌汁、そして種類の異なるジューシーなソーセージの定食をいただいた。いい感じのレストラン並みの味と、定食という庶民的なバランスが面白かった。
旅行もそろそろシメに入る頃、一日目にパスしていた丸山珈琲へ向かう。早歩きで20分。外気温は0度で身体は暖かいが手袋がないとやや厳しい。駅からは歩けないこともないが、駐車場は十分にあるので自動車で来た方が無難ではある。
店内は15人までに制限されていたが、そこそこ余裕のある日だった。期間限定ブレンドやシングルオリジンなど種類がとにかく豊富で迷ったが、本店限定の「丸山珈琲ブレンドクラシック1991」を注文。本店は基本的にすべてフレンチプレスで淹れられるため、豆の香りや味・そしてオイルを堪能することができる。ブレンドクラシック1991はキャラメルのような香ばしく甘味のある香りと、深煎りながらなめらかな舌触り、そしてスパイシーな後味を楽しめた。
時間が余っているので、軽井沢から高崎までは新幹線で、そこから先は鈍行列車で帰路に着いた。社会人になってからお金よりも時間を大事にする意識が働いたのか、最近は新幹線を使ったりバイクで急ぐことが多くなっていた。今回みたいな徒歩や電車で時間をかけた移動も、その間に考え事をしたり調べものをする余裕があって、案外悪くないなと思った。
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「虚子への俳話」145
「花鳥」令和3年9月号より転載
「虚子と漱石」
歴史の「もしも」だが、もし漱石との出逢いがなかったならば、虚子という存在もなかった。子規の存在はあったかもしれぬが、碧梧桐の存在もなかったろう。
虚子の本質にある小説への思いというものはかなり晩年まであった。それは写生文などへのこだわりに現れ、『虹』などの文章に結実している。 その出逢いとは、虚子がまだ旧制の中学生のころであった明治24年あたり、松山の子規の帰省先らしい。
漱石や子規らは「松山鮨」(私は近年食べたが、ちらし寿司のようなものでありかなりの美味)を食べていた。子規はあぐらをかき、漱石は几帳面に膝を正しく折って、正座して、松山鮨の皿をとりあげて、一粒もこぼさぬように食べた。
このあたりに子規と漱石の性格の違いが見えていて面白い。虚子も食べたようだが、まだ年少すぎてどんな味だったかはすっかり忘れてしまったようだ。 やがて明治28年に漱石は大学を出て、松山の中学校教師に、いわゆる「愚陀仏庵」の一階に子規、二階に漱石が住む。そして歴史は動いた。この二人の天才の同居とは日本史の奇跡。
「大学を中途で退学して新聞社に入り不治の病の子規居士と素直に大学を出て中学の先生としていそしみつつあった漱石氏とは、よほど色彩の変わった世界を、階段一つ隔てた上と下に現出せしめておった」(虚子)
七歳年下の虚子との交友はこのようにして始まった。その後、虚子帰省、漱石ともう一人の英語教師とよく道後温泉にゆく。赤シャツはそのときの話題になったらしい。その先生のシャツかは不明だが、ただ虚子の猿股にも赤い筋が入っていて「君のも赤いのか」と漱石が言ったとか。
ところで虚子は漱石たちと神仙体という新しい俳句形態をそのころすでに始めていた。そして道後温泉の帰りに句を拾いつつ創作、村上霽月とともに雑誌「めさまし草」に出す。
怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜 虚子
明治29年12月5日付の漱石からの一番古い手紙と思われるものがそれに触れている。
「来熊以来はすこぶる枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉に宿したることなど、みな過去の記念として今も愉快なる印象を脳裏にとどめ居り候。今日『日本人』三十一号を読みて君が書トク体の一文を拝見致しはなはな感心いたし候。立論も面白く行文は秀でて美しく見受け候。この道にしたがってお進みあらば君は明治の文章家なるべし(略)『世界の日本』(竹越三叉刊行の雑誌)に出たる(音たてて春の潮の流れけり 虚子)と申す御句はなはだ珍重に存じ候。 ただし大兄の御近什中にははなはだ難渋にして詩調にあらざるやの疑いを起こし候ものも有之様候。いわゆる『べく』づくしなどは小生のもっとも耳障りに存候ところにござ候」
この漱石の指摘は将来の虚子の俳句というより、小説にたいする潜在的な働きかけをしている。神仙体の是非はともかく、難解な俳句や文章は「べく」だらけで理屈家の漱石をもってしてもくどく感じたわけである。
ところで、明治30年以降となると虚子は漱石の俳句にたいして、いつも蹲踞の態度ばかりではなかったのではなかろうか。むしろ子規とともに漱石の俳句に朱筆をとって○や△をつけたくらいなのだから面白い。次の句は○。
菫程な小さき人に生れたし 漱石
虚子曰く、後年は文壇の権威であった漱石も、熊本五高の教師として赴任し、当時はわずかに東京の俳友の消息を聴いて慰撫していたのは愉快だと言っている。 やがて、漱石は海外へ行く、明治33年9月文部省から二年間の留学派遣であった。
「航海は無事にここまで参り候えでも下痢と船酔いにて大閉口に候、(略)唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮屈千万、一向、面白からず、早く茶漬けと蕎麦が食いたく候、」 明治33 年9月「ホトトギス」
往きの航海上でもう船酔いなどで外国がすっかり嫌になっている漱石である。もっとも、漱石は松山や熊本も本来の自分の居場所ではなかったと思っていたはずだから、この英国留学には大きな期待感はあったはずで、彼の超人的な神経質がそうさせたのに違いない。
〈白金に黄金に柩寒からず〉漱石 「女皇の葬式はハイド公園にて見物致し候。立派なものに候、」〈吾妹子を夢みる春の夜となりぬ〉漱石 「もう英国はいやになり候、」 明治34年「ホトトギス」「倫敦消息」
しかし、この「ホトトギス」掲載の消息はたいがい、病床の子規宛のものであって、このような西洋の消息をくわしく送ることは子規を喜ばせる。絵はがきや下宿生活の様子なども詳細に送った。さぞかし病床六尺の子規にとって世界の窓口になったことだろう。
そして子規は死ぬ。
漱石が帰国したのは明治36年1月、その後一高の教授、大学の講師となる。やっと都に帰ってこられた漱石先生であったが、どうも帰朝後も神経性の病は続いていたようである。 虚子への手紙で夫人曰く、
「どういうものだか、この頃機嫌が悪くて困るのです。(略)あなたも暇な時にはチトどこかに引っ張りだしてくれませんか」
そして漱石と虚子は芝居や落語などを見に行ったが、あまりにくだらないと我慢しきれずに様々の冷評をし、虚子にたいしても君はこんなくだらない物を見ているのかと言う。 漱石の不機嫌に馴れていた虚子だが、こんなことをしていてもあまり進展はないなと悩んでいたようであった。
「『猫』の誕生��
「山会」というものが明治「ホトトギス」にあった。子規以前からあった文章会で、文章には山がなくてはならないという趣旨。ふつうは写生文が主流であって、いわば日記や作文的なものが多かった。普段はその文章を自分で朗読するきまりがあった。それに奇才漱石の文章を推薦してみてはどうかと。
漱石も乗り気で、すごい情熱でそれを書き上げたという。ある日その原稿を持ってきて、虚子にそれを読んでくれたまえと言う。ちょっと自分の気に入っているらしい部分になると、「うふふ」と漱石は笑う。
虚子は少しぎょっとしたが、原稿用紙数十枚という長さであったものの、とにかく変わっていて面白かった。
タイトルは始めの、「猫伝」の候補にたいして「吾輩は猫である」はどうかと提案した。ご存じのタイトルは虚子が決めた。明治38年1月発行の「ホトトギス」巻頭付近に掲載、これより歴史が始まる。
漱石の教師を辞めたいという意志はその後顕著になる。なにしろ爆発的なその小説の反響と売れ行きに、虚子と漱石は発行人と小説家という関係に変化。虚子はその寄稿に頼らざるをえなくなってゆく。
一方、漱石は門下生を推薦し、その要求通り三重吉などの処女作が掲載されはじめる。これなども喝采を受けた。しかし、四方太などは山会の純正写生文の雑誌としての伝統と異なると反感を持ったようだ。
そして明治40年頃からは新聞社社員として教師を辞職して小説家一本となる。
虚子は漱石が朝日新聞に移った後は「ホトトギス」に掲載がなくなり、また健康上の理由もあり、その経営に四苦八苦する。それもまた歴史の必然だったかもしれない。
一種の歴史のレトリックにはまった虚子はその生涯で、二人の巨人と出会った。それがすべてではなかったが、今の俳壇を形成する多くの歴史はこの二人と七歳下の少年の出逢いが化学反応を起こしてビッグバンとなったものだ。
多くの歴史もそうであって、松山の奇跡は秋山兄弟などの軍人たちも巻き込み、維新後の大きな潮流となってゆく。
歴史とはそういう天才の衝突で決定されるのであろう。
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【かいわいの時】享保十六年(1731)*八月十五日:狂歌師油煙斎貞柳没(大阪市史編纂所「今日は何の日」) *ママ。『朝日日本歴史人物事典』他では没年を享保十九年(1734)としています。
江戸時代の狂歌作者。永田氏。名は良因、のち言因。通称は善八、家号は鯛屋、号は由縁斎、信乗軒、精霊洞、霜露軒、珍菓亭、又生庵、鳩杖子、長生亭など。家は代々禁裡御用を勤めた菓子商。父は山城大掾貞因といい歌学を松永貞徳に、俳諧を安原貞室に学び、狂歌も好んだ。叔父は俳人花実庵貞富、弟は浄瑠璃作者として有名な紀海音である。貞柳も和歌や俳諧を好んだ。 寛文12(1672)年『後撰夷曲集』に8首入集、延宝7(1679)年『銀葉夷歌集』に23首入集して、狂歌に頭角を表す。豊蔵坊信海(玉雲翁)について信乗と名乗り、元禄1(1688)年信海が没すると、その弟子黒田月洞軒に師事し、雲洞と号す。同6年、師信海の狂詠を選した『八幡拾遺』の下書きを月洞軒に送ったが、月洞軒は「難波江の藻にうづもれて居はせいでよしなき歌のゑらびだてかな」「げに玉の雲の翁が狂歌をばかゞやく月の洞にとへかし」「玉のやうな月はむさしにあるものをたのまでくらき雲の洞かな」と3首の狂歌で叱責した。月洞軒との繋がりはこののちも続いているが、これに遠慮したのか、貞柳自身の歌集の出版も最晩年までみられない。享保9(1724)年出火に遭って高津の菩提庵に閑居したが、狂名は世に広まった。同19年、81歳で没し、下寺町光伝寺に葬られた。歌集としては『家づと』『続家づと』『置土産』『机の塵』などがある。文化6(1809)年には無心亭有耳が『貞柳翁狂歌全集類題』を刊行した。その狂歌は雅俗折衷で平明、とりわけ機知に富む。享保11年、南都古梅園松井和泉が家製の大型墨を叡覧に供したことを聞いて、「月ならで雲の上まですみ登るこれはいかなるゆえん成らん」と詠んだ。これが世上にもてはやされ、油煙斎と呼ばれ、狂歌中興の名をほしいままにした。芥河貞佐ら多数の優れた弟子を擁し、門流は全国に広がった (園田豊)。『朝日日本歴史人物事典』より。
(写真)「御堂前鯛屋」 『絵本御伽品鏡 上』1739(国立国会図書館蔵)より。 我宿ハ 御堂のまへに 菓子所 油煙斎とも 人ハいふなり
長谷川光��画、油煙斎貞柳詠の狂歌入り大坂名物絵本。半紙本2巻1冊。墨摺り。刊記に元文4年(1739)正月買板、千草屋新右衛門とあるように、享保15年(1730)板の求板本である。貞柳の序に「つら/\風に乗し月にあかし、名所よしあしの其しな/\を絵にうつす長谷川氏の筆すさみ、ゆゑん斎に懇望し、絵のはたらきを狂歌に顕はし梓にちりはめ」云々とある。内容は見世、物売り、芸能、祭礼、行者、遊戯、職人、景物など、大坂の名物尽くし絵。見開き1図に二つの物事を扱う。画題は「御堂前鯛屋(御菓子所)」「万歳楽・春駒」「帳屋見世・大黒舞」「今宮戎・西宮」「六十六部・寒こり」「紙子屋一閑・越後獅」「飛たんこ・沈香屋」「のぞき・はみかきや」「夏屋扇見世・住吉踊」「入のこし(目薬)・人形廻し」「煮売舟・豆蔵」「堺庖丁・蓬艾売」「傀儡師・鳥貝舟」「猿廻し・面の糯屋」「講釈・まんざい」「野郎・尤踊」「米まんぢう・杉山膏薬」「蛍売・女郎屋」「瓦屋・高津の景」「神子・返魂丹」「豕子糯・鉄輪役」「曝嚊・柳の道場」「遊山舟・沙魚釣舟」「牡蛎売・百日行人」「油掛の地蔵・琉球芋」「鱣かばやき・蕎麦切屋」「貝まはし・枕の曲梯子の長兵衛」「親子奴・天満飴売」「竹田(からくり人形)」。光信得意の諸芸風俗図であり、当時の社会、生活資料として尊重される。(鈴木淳)(2017.2)(参考文献)黒川真道編『日本風俗図絵』7(日本風俗図絵刊行会 1914)。書誌の解題/抄録より。
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10/12 また、少し暑さを取り戻した天気。台風が去ったから? 滞りなく過ごしたものの、なんとなく消化不良でした。
買い物して帰る。 アジカンのドラムの伊地知さんのレシピでチャーシューを作ってみる。楽しみ。
10/13 昼食としてチャーハンを作る。毎回、大量に作りすぎる。 4人前くらい作ってしまう。 案の定、いま書いてる16日まで残っている。 こういうときにおすそ分けするのかな。 チャーハンのおすそ分けはイメージにはないけど。
昨日に作ってみたチャーシューを食べてみる。 おお、いままで作ってきた中で1番おいしいかも。 しかも、1番かんたん。いいつまみ的におかずになりそう。 (お酒は一滴も飲まないけれど。)
あー、と思っていろいろ登録する。 じゃあ、いろいろ��メールが来た。そりゃそうだ。 一気にやる気をなくす。向いていないなあ。
10/14 昼から仕事へ。 連続してだからばたばただったなあ。
読みたいと思っていたものをじーっと読む。 改行がない文章は読むのに疲れる。 内容に大きく賛同できるものではないけど、とても興味深く読めた。 とりあえず、やろうと思ってたことを放棄した、、、 いいのか、悪いのか。
さーっと帰る。気温が日ごとに違うのでなにを着るべきか迷う。 疲れて早めに寝てしまった。
10/15 風が強い。半袖ではもう寒いくらい。 銀行やら買い物行ってきて帰り。
本を読んだり、昼食に出かけたりした。 晩ごはんに鍋。鍋は楽ちんですね。
シャワーで済ませていたけれど、そろそろということでひさしぶりお湯に浸かった。 半身浴程度のお湯だけれど温まる。 温泉に行きたくなるね。
福利厚生で近くの銭湯に無料でいけたのに今年、福利厚生の冊子が届いていない。。 どこかで止まっているのかな〜。
アンビエント音楽を聴いてから眠る。
10/16 なんだか一日中無気力だった。 寒くなってきたり季節の変わり目を感じているからかもしれない。 うーむ。。
夜に意見が合致したので焼鳥へ行く。 2回目だけどお気に入りのお店。 普段、自分では頼まない内臓系の刺身が食感がこりこりしておいしかった~。 他にも心なんかがおいしかった~。
しかし、大学生みたいな集団が来てげんなり。 大手焼鳥チェーンのノリで個人店には来てほしくないな。。 お店も受け入れてくれてるんだし、ちょっとはお店の雰囲気に合わせてくれてもいいじゃないのか。 5人もいてそれか…。きつい。大声の電話で1人を追加で呼び始めるし、メニューの頼み方もお店の人が引いてたよ。 「俺、今日、潰れるからよろしく!」と言っていて本気でダサいし、気持ち悪いなと思った。
ああいう大学生活ではなくてよかった。 そういう物差しの感覚なしで生きていくのは嫌だな。 あっちほうが楽だとしても。
食事の余韻に浸りたかったけれど、すっとお店を出た。
10/17 焼鳥味のポテトをファーストキッチンで食べたけれど、おいしかった。 昨日、本物の焼鳥を食べたけれど全然おいしく食べられました。
なんだか作業が止まってるなー。 syrup16gを最近また聴いています。 救いでしかない。
10/18 またしてもフレッシュネスバーガーへ行く。案の定、お腹ぱんぱん。 おいしいけれどぱんぱんです。
10/19 昼にひさしぶりに鍋を食べに行こうとしたら、営業していなかった。ちーん。 再開したというのは夜だけだったのかな。
ということで前から行きたかった蕎麦屋へ行く。 おとな~という雰囲気のお店だった。 おいしくいただきました。海老天もおいしかった。 葱がなかったけれど、あれも逆にこだわりなのかな。(ネギ好きだから欲しい。)
帰ってきてから本読んだりした。 そして、こたつをセッティングしました。 しかし、こたつでなんだか気分が悪くなり吐き気を催した。 体温が一気に上昇しすぎたかな。 なんとかゆっくりと食事をしたら回復した。
鬼滅の刃をアマプラで見てしまう。一気に5話分見た。 総集編で飛ばされてた5-15話を見るつもり。 このルートでいくと完全に映画を見ることになる。
とてもかなしいニュースをお昼に知る。 なんで、、信じられないという気持ちしかない。 同世代の方の訃報はよりきついものがある。 赤い公園も好きだし、SMAPのJoy!!なんか名曲だし、ミュージシャンとして天才的なセンスの持ち主なのに。。 とにかく、津野さんが作ってくれた音楽を聴き続けようと思う。
〆
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