#呉軍港空襲
Explore tagged Tumblr posts
Text
中国海軍シュパン級測量艦1隻が2024年8月31日午前4時47分頃、鹿児島県口永良部島西の接続水域を東進し、同日午前6時00分頃、口永良部島南西の領海に入った。
その後、午前7時53分頃、鹿児島県屋久島南西の領海から出て、南に向けて航行した。
測量艦の領海侵犯は、中国軍情報収集機(スパイ機)が8月26日、長崎県沖の領空を侵犯した5日後のことだ。
この艦は、中国海軍の「測量艦」であり、この海域での潜水艦作戦と深く関わっているので、特に注目する必要がある。
中国軍情報収集機の日本領空侵犯については、JBpress「台風襲来時を狙って日本の領空を侵犯、中国軍情報収集機の狙いとは」(8月30日)、「単なる嫌がらせではない中国軍機の領空侵犯、日米レーダー施設破壊が目的」(9月3日)を参照。
この測量艦は中国の軍港を出港し、日本の経済水域、接続水域に入り、その後、日本の領海に侵入し、約2時間かけて海中・海底の測量を行った。
そして、海底の実態を解明しつつ、その海域を通過した。
中国軍の測量艦が自国の水域ではなく、わざわざ日本の領海に接近し、入り込んで、その海域を調査したのである。
重要な意図があって実施したと考えるられる。
図1 中国測量艦とその艦の移動経路

1.測量船(艦)は海中・海底を調査する
測量艦(船)は、主に海域において測量に従事する艦(船)であり、水深測量や海底地形の調査を行う。ほかに、海流・海水温・潮流・海流など海象に関する調査もする。
中国の測量艦(軍艦なので船とは呼称しない)は、正真正銘の海軍所属の艦である。沿岸警備隊の機能を有する中国会海警局艦艇や民間の船ではないのだ。
中国測量艦は、海軍の作戦のために、主に作戦海域の海中・海底の情報を収集するための艦である。
測量艦の主な仕事は、超音波による音響測深機を使って、推進測量や海底地形を調査することである。
ほかに、底質、海流・潮流、海水温度、地磁気なども含まれる。
図2 測量船艦による海底地形調査のイメージ

ギャラリーページへ
2.作戦海域の海中・海底調査が目的
今回は、自国の経済水域や領海内を調査するのではなく、日本の領海に入って調査していった。
まさに、スパイ艦の行動である。
中国は、測量艦をなぜ、日本の領海内を航行させたのか。
中国の軍艦が水上を航行する場合は、測量艦の調査データは必要ない。また、潜水艦がこの海峡を浮上して通過する場合にも必要ない。
しかしながら、潜水艦が水中を静かに潜航して通過する場合には、水深や海底の詳しいデータが必須なのである。
図3 中国の潜水艦が日本の領海(海峡)を通過するイメージ

ギャラリーページへ
日本国内で販売されている海図を見れば、それぞれの位置に水深などが記載されている。
そのデータは、常に最新の情報が記載されているわけではない。海底は海流によって地形が変化する可能性がある。
潜水艦が他国を潜航して通過するには、その国の海図のデータだけでは不十分であり、最新の詳細なデータが必要なのである。
3.通航したことがない海峡情報を収集
<このページから読み始めた方へ>この記事を初めから読む→
中国海軍測量艦の調査は、東シナ海の中間線から中国の沿岸まで、およびこれまで中国海軍艦艇が頻繁に通過している宮古海峡、大隅海峡については終了している。
これからは、中間線から日本の南西諸島周辺、そして太平洋に出るためのすべての海峡の海底を丹念に調査すると考えられる。
その主な理由は、日本の南西諸島の各島間の海峡が、中国潜水艦にとって必ず通過する必要がある最大の難所だからである。
中国海軍艦艇は、西太平洋に進出する場合、日本の南西諸島によって、地形的に閉じ込められてい��。
西太平洋に進出できないと、台湾の防衛の背後(東側)から攻撃することはできない。
通峡時、その出口で日本から攻撃��れれば、その海峡で撃沈される可能性がある。
また、中国海軍が台湾を海上封鎖する場合、潜水艦は南西諸島の各島の間で通過できるすべての海峡の海底地形を調べておく必要がある。
すべての海峡を使えるようにしておきたいのである。
そうでなければ、潜水艦はそれらの海峡を安全に静粛に通過することはできない(潜航中にアクティブソナーを使って地形を確認する方法があるが、これを使うと、大きな音を発してしまうために、敵に発見されやすくなる)。
通過できなければ、中国海軍は南西諸島に封じ込まれ、西太平洋で米軍との戦闘ができなくなる。
中国は、南西諸島付近(概ね第1列島線)での接近阻止(A2)、南西諸島以東から第2列島線までで、来援する米軍を自由に行動させない領域拒否(AD)戦略があると言われている。
しかし、潜水艦が南西諸島の間の海峡通過を秘匿できないか、あるいは強硬突破できなければ、この戦略は達成されないのである。
図4 南西諸島における第1列島線内の海洋を通過するイメージ

ギャラリーページへ
4.今後、各海峡で領海侵犯の可能性
各海峡が日本の領海内であっても、中国は有事のときはすべての海峡を通過できるようにしたいと考えている。
測量艦の領海侵犯の5日前にも、情報収集機の領空侵犯があった。
中国は、潜水艦作戦のための海の中を調査し、電子戦のための情報を収集している。
これは、対米、対日との軍事作戦を想定して準備していることの現われである。
中国による領空侵犯や領海侵犯は、実際の作戦に使える情報を収集するために、これからも頻繁に繰り返されるだろう。
これらのデータは、実戦で必要であり、その準備を進めているのだ。
5.準備に勤しむ中国、脅威に無関心な日本
中国国防省呉謙報道官は、中国軍機による初の日本領空侵犯について、「深読みしないことを望む」��強調した。
また、中国外務省毛寧報道官は中国軍測量艦のトカラ海峡の通過について、「意図的に関連づけたり、過度に解釈したりする必要はない」と主張した。
情報収集機や測量艦は、わざわざ東シナ海の日中中間線を超えて日本の領海・領空に接近し、侵犯してでも作戦に必要な情報を集めているのだ。
中国国防省や外務省によるこれらの発言には裏がある。
「我々(中国)は、は戦争の準備を着々と進めるが、日本には、このことを悟られないようにしたい」と考えているのだ。
そのため、報道官の2人は、「深読みするな」「過度に解釈する必要はない」と念を押しているのだ。
中国報道官の発言は、日本のメディアでそのまま紹介される。
中国は、日本のメディアが、日本のニュースでどのように流すのかを意識している。
これらの発言がそのまま、日本のお茶の間に流されれば、軍事に詳しくない日本の市民は、額面通りに受け取ってしまうだろう。
これは、日本人の中国敵対意識を薄める中国の情報戦なのである。
一方で戦う準備を行い、他方で相手国市民の感覚を麻痺させようとしている。
戦争を始め侵攻する側の国は、戦争の準備を着々と進め、防衛する側の国は、敵国の動きの真意を探ろうともしない。また、その軍の行動を止めようともしない。
このような実態は、かなり恐ろしいことだ。
6.日本は中国の作戦準備行動を止められるか
中国の行動をそのまま実行させていると、サラミソーセージを少しずつスライスするかのような「漸進的な小さな行動の積み重ね」(サラミスライス戦略と呼ばれる)の行動で、日本はいずれ敗北を余儀なくされる。
戦争で敗北するということは、領土を占領され、そしてその地域に中国の旗が立つということだ。
それなのに、日本の林芳正官房長官は9月2日の会見で、中国の測量艦が領海に侵入したとして、「外交ルートを通じ強い懸念を伝え、抗議した」と語っただけだった。
中国は、日本が抗議してもお構いなくやって来て侵犯している。抗議したところで、「領空・領海侵犯をやめる」とは絶対に言わない。
中国は、戦闘準備を現実に進めているのだ。
今回の領空・領海侵犯は、自民党総裁選や立憲民主党の代表選が予定されている直前に、中国が仕掛けてきたものだ。
日本の次期総理や党の代表となる人によって、対中国の軍事的な政策がどうなるのかを見極めようとしている。
具体的には、「これまでどおり懸念を伝え、抗議するだけか」、あるいは、「強硬策を実行してくるのか」などだ。
日本のリーダーが「懸念を伝え、抗議するだけ」であれば、中国は今後も、日本の弱腰軍事政策をあざ笑い、そして戦う準備を着実に実行してくるだろう。
0 notes
Text

ずっと実家のもの処分したり整理してた。そしたらこの未使用のアンティーク風のノート出てきて、日記帳として使いたくなった。できれば3年日記とか5年日記とかつけたい。ちょうど年末だし、来年からつけようと思うんだけども、ページ数数えてみたら、318ページだから365日に足りない。

だからこんな感じで1日3行使って、1ページ4日分とすると、約1256日間使えるから、3年ちょっと使える計算。ほんまに続くかわからんけど、毎日じゃなくても良いからというゆるーい感じでやってみようと思う。ちいかわのマンガ手帳は日本語でつけてるから、これはめっちゃ洋風のノートやし、英語とか���イツ語で一言日記つけようと思う。ランダムにその日の気分でドイツ語にしたり英語にしたりしよ。ドイツ語は一応毎日喋ってるけどもさ、綴りとか忘れてるからw
ᙏ̤̫͚
映画「この世界の片隅に」を観た。この主人公のすずちゃん、大正14年(1925年)生まれだけど、うちのおばあちゃんは一歳年上だからほぼ同年代なんだよな。すずちゃんの子供時代の戦前は貧しいながらも平和に幸せに暮らしてたわけだけども、19歳で広島市から呉市に嫁いで、そこから戦況が厳しくなって、どんどん平和な生活が脅かされ、転落していく人生。うちの祖母もよく言ってたわ。青春時代が戦時中で一番辛かったって。これを見て、祖母の人生を垣間見た感じ。まあすずちゃんと全然性格違うけどもな。
祖母はすずちゃんみたいに若くて一番かわいい時期に全然おしゃれもできず、ボロ服着るのが悲しい…義理の姉のケイコがモガだった時代の服が今見てもやっぱかわいい。あの時代がずっと続いて欲しかったよね…
うちの実家は大阪の田舎で、八百屋やってたから、実際そこまで食べ物には困ってもいなかったとか言ってたし、雑草を食べずに済んだとか。もちろん大阪市内と違って空襲もほとんどなかったし。原爆で有名な広島、呉は軍港で最前線の街だから、そりゃ全然違うよなあ。まあそりゃ全国的に物資不足ではあったから贅沢はできないし、現代と比べ物にならないほどの苦労はしたんだろうけども。
0 notes
Text
「遺跡としての晴海団地」参考文献
「遺跡としての晴海団地」は日本建築学会のウェブサイト「建築討論」で2023年1月から11月にかけて連載された。もしかすると、いつか誰かの役に立つかもしれないので、参考文献の一覧をまとめておく。なお、赤字は連載内で2回以上触れたもの。
都市
磯崎新「都市の類型」、『磯崎新建築論集2 記号の海に浮かぶ〈しま〉』、岩波書店、2013年。
磯崎新「建築=都市=国家・合体装置」、『磯崎新建築論集6 ユートピアはどこへ』、岩波書店、2013年。
レム・コールハース『S,M,L,XL+』、太田佳代子、渡辺佐智江訳、ちくま学芸文庫、2015年。 ・「シンガポール・ソングライン」 ・「ビッグネス、または大きいことの問題」
藤村龍至「超都市(ハイパー・ヴィレッジ)の建築」、『SD2021』、鹿島出版会、2021年。
山岸剛『TOKYO RU(I)NS』、山岸剛、2022年。
島
ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」、前田英樹訳、『ドゥルーズ・コレクション1 哲学』、河出文庫、2015年。
里見龍��『不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』、河出書房新社、2022年。
晴海
『万博』1938年5月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
「オリンピック中止 万国博覧会の延期 閣議で承認」、東京朝日新聞(夕刊)、1938年7月16日。
『万博』1938年11月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
東京都中央区役所編『昭和32年版 中央区政概要』、東京都中央区役所、1957年。
東京都中央区役所編『中央区史 下巻』、東京都中央区役所、1958年。
『観光お国めぐり 東京都の巻(上)』、国土地理協会、1959年。
東京都中央区役所編『昭和35年版 中央区政年鑑』、東京都中央区役所、1960年。
「運転手、死体で発見 血だらけ乗捨てタクシー」、朝日新聞(夕刊)、1963年12月7日。
「個人タクシーご難 晴海 三人組強盗に襲わる」、朝日新聞、1965年8月10日。
「運転手しばり放り出す 晴海 三人組タクシー強盗」、朝日新聞、1966年5月26日。
「スペインが初名乗り 万国博参加」、朝日新聞、1966年8月27日。
三島由紀夫『鏡子の家』、新潮文庫、1969年。
「カーサ晴海」、『近代建築』1977年8月号、近代建築社。
東京都中央区役所編『中央区史三十年史 上巻』、東京都中央区役所、1980年。
日東製粉社史編纂委員会編『日東製粉株式会社65年史』、日東製粉株式会社、1980年。
『第二次東京都長期計画』、東京都企画審議室計画部、1986年。
晴海をよくする会『晴海アイランド計画の提案』、晴海をよくする会、1986年。
「ソ連の一万トン客船 あす初寄港」、朝日新聞、1987年3月20日。
東京都港湾局、社団法人東京都港湾振興協会、東京港史編集委員会編『東京湾史 第1巻 通史 各論』、東京都港湾局、1994年。
小柴周一「晴海アイランド トリトンスクエア」、『新都市開発』1998年1月号、新都市開発社。
『晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業』、住宅・都市整備公団、晴海一丁目地区市街地再開発組合、1999年。
吉本隆明『少年』、徳間書店、1999年。
茅野秀真、大村高広「再開発地区計画の活用による一体的な広場・歩行者空間形成の実現──晴海アイランドトリトンスクエアにおける実践例──」、『再開発研究』第18号、再開発コーディネーター協会、2000年。
『トリトンプレス』vol.2、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2000年。
『トリトンプレス』vol.5、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2001年。
「晴海トリトンで「いい日常」」、朝日新聞(夕刊)、2001年3月23日。
「晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業 晴海アイランド トリトンスクエア」、『近代建築』2001年6月号、近代建築社。
佐藤洋一『図説 占領下の東京』、河出書房新社、2006年。
夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』、原書房、2016年。
渡邊大志『東京���海論』、東京大学出版会、2017年。
晴海団地
「港に近く、高層アパート群」、朝日新聞東京版、1956年1月22日。
大髙正人「東京晴海の公団アパート」、『国際建築』1956年11月号、美術出版社。
志摩圭介「団地ずまい礼讃」、『新しい日本 第2巻 東京(2)』、国際情報社、1963年。
「団地に住んでゼンソクになった 工場ばい煙規制へ」、朝日新聞(夕刊)、1963年10月8日。
種村季弘『好物漫遊記』、ちくま文庫、1992年。
種村季弘ほか『東京迷宮考』、青土社、2001年。
中央区教育委員会社会教育課文化財係編『中央区の昔を語る(十六)』、中央区教育委員会社会教育課文化財係、2002年。
晴海団地15号館(晴海高層アパート)
小野田セメント株式会社創立七十年史編纂委員会編『回顧七十年』、小野田セメント、1952年。
河原一郎、大髙正人「新しい生活空間へ」、『新建築』1957年1月号、新建築社。
野々村宗逸「住宅公団の晴海高層アパート」、『住宅』1957年4月号、日本住宅協会。
『建築文化』1959年2月号、彰国社。 ・大髙正人「設計の概要」 ・河原一郎、大沢三郎「都市の住居:高層アパート」 ・野々村宗逸「いつまでも豊かさを」
川添登「晴海高層アパート──将来への遺跡」、『新建築』1959年2月号、新建築社。
前川建築設計事務所「晴海高層アパート」、『近代建築』1959年2月号、近代建築社。
木村俊彦「構造計画論の展開と私の立場」、『建築』1962年1月号、中外出版。
ロジャー・シャーウッド編『建築と都市 臨時増刊 現代集合住宅』、エー・アンド・ユー、1975年。
「アンケート:パブリック・ハウジングの可能性」、『都市住宅』1980年8月号、鹿島出版会。
日本経営史研究所編『小野田セメント百年史』、小野田セメント、1981年。
日経アーキテクチュア編『有名建築その後 第2集』、日経マグロウヒル社、1982年。
レイナー・バンハム「世界の建築の日本化」、伊藤大介訳、鈴木博之編『日本の現代建築』、講談社、1984年。
枝川公一『都市の体温』、井上書院、1988年。
大髙正人、小西輝彦、小林秀樹「昭和の集合住宅史(6)高密度高層住宅 広島市営基町住宅と公団高島平団地」、『住宅』1992年3月号、日本住宅協会。
野沢正光「〝ささやかな悠久〞をおびやかすもの──晴海高層アパート1958によせて──」、『住宅建築』1994年10月号、建築資料研究社。
住宅・都市整備公団、日本建築学会編『晴海高層アパートの記録』、住宅・都市整備公団、1996年。
『住宅建築』1996年8月号、建築資料研究社。 ・小畑晴治、野沢正光、初見学、松隈洋「座談会──晴海高層アパートから引き継げるもの」 ・初見学「晴海高層アパート残照」
井出建「都市に住まうことの戦後史 「晴海アパート」取り壊しと集合住宅の未来」、『世界』1998年1月号、岩波書店。
志岐祐一「晴海高層アパート 可変性検証の記録」、『住宅建築』1998年3月号、建築資料研究社。
高橋郁乃「「晴海高層アパート」は歴史館に行き、そして晴海は…」、『建築ジャーナル』1998年9月号、建築ジャーナル。
前川國男
田中誠「住宅量産化の失敗と教訓──プレモス前後」、『今日の建築』1960年9月号、玄々社。
ル・コルビュジエ『今日の装飾芸術』、前川國男訳、鹿島研究所出版会、1966年。
佐々木宏編『近代建築の目撃者』、新建築社、1977年。
前川國男、宮内嘉久『一建築家の信條』、晶文社、1981年。
丹下健三「前川先生の死を悼む」、『新建築』1986年8月号、新建築社。
伊東豊雄「公共建築の死・前川國男を悼む」、『住宅建築』1986年9月号、建築資料研究社。
宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』、晶文社、2005年。
生誕100年・前川國男建築展実行委員会監修『建築家 前川國男の仕事』、美術出版社、2006年。 ・井出建「前川國男と集合住宅」 ・「日本万国博覧会建国記念館 コンペ応募案」
前川國男建築設計事務所OB会有志『前川國男・弟子たちは語る』、建築資料研究社、2006年。 ・河原一郎「前川國男」 ・松隈洋「「生誕一〇〇年・前川國男建築展」という出発点」
団地
島田裕康「住宅団地におけるコンクリート塊の再生利用」、『月刊建設』1996年10月号、全日本建設技術協会。
原武史『団地の空間政治学』、NHK出版、2012年。
祝祭
岡本太郎、針生一郎「万博の思想」、『デザイン批評』第6号、風土社、1968年。
岡本太郎『新版 沖縄文化論』、中公叢書、2002年。
「五輪チケット、販売済みは収容人数の42% 7割が地元」、朝日新聞デジタル、2021年6月11日。URL=https://www.asahi.com/articles/ASP6C66BZP6CUTIL05R.html
「IOC広報部長、コロナと五輪「パラレルワールド」無関係強調」、毎日新聞デジタル、2021年7月29日。URL=https://mainichi.jp/articles/20210729/k00/00m/050/117000c
ギリシャ神話
ヘシオドス『神統記』、廣川洋一訳、岩波文庫、1984年。
呉茂一『ギリシア神話(上)』、新潮文庫、2007年。
賃金
労働大臣官房労働統計調査部編『昭和33年 賃金構造基本調査結果報告書 特別集計』、労働法令協会、1960年。
「賃金構造基本統計調査」、厚生労働省ウェブサイト。URL=https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html
銀座
東京都中央区役所編『中央区史 中巻』、東京都中央区役所、1958年。
赤岩州五編著『銀座 歴史散歩地図』、草思社、2015年。
築地
テオドル・ベスター『築地』、和波雅子、福岡伸一訳、木楽舎、2007年。
東京タワー
電気興業社史編纂委員会編『電気興業 40年史』、電気興業株式会社、1990年。
1 note
·
View note
Text
呉軍港空襲
呉軍港空襲
https://genbou.blogspot.com/2023/07/blog-post_28.html
0 notes
Photo

. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月24日(日) #先勝(戊寅) 旧暦 6/26 月齢 25.0 年始から205日目(閏年では206日目)にあたり、年末まであと160日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 30週目も終わり🤚今日から31週目に 突入🚀残りが今週含めて23/53週です。 たったのそれだけって思っちゃいません か😅💦計算あってるかなって思うが 23週(掛ける)7日🟰161日だから本日を除く と残りが160日です🤚今年は土曜始ま リなので日曜日は残りが22回だけです。 一年って本当に短いですよね💧人生も 長い様に思われますけど一瞬です🏓💦 この広大な宇宙の歴史から見たら人間 の一生なんて瞬きすらにもならないの でしょうけど、折角、生まれて来たの だから無駄にない様に行き���いです🤚 って事で今年は東京で迎える日曜日は 今日で最後か来週にあるかないかです。 この歳になって単身赴任だなんて意味 あるのかなって❓私に何を託してもら いたんだろうって思いますが🤣😆🤣 そんな感じの今朝の心境です⤵️😅💦 . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ミス・ユニバース・ジャパン. 1959(昭和34)年7月24日(金)赤口.にアメリカ合衆国で開催された第8回ミス・ユニバース世界大会で日本人の 児島明子(コジマ アキコ)がミス・ユニバース1959で日本人初でアジア人でも初の栄冠を獲得しました。 「有色人種」初のミス・ユニバース世界大会優勝者であるのと旧枢軸国(第二次世界大戦の敗戦国)出身 のミス・ユニバースとして世界の話題を呼びました。 宝田明の最初の妻であり、その娘の児島未散の母としても知られている。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 寝坊は、もっての他とされますね😅💦 . #小土(コツチ). 選日の一つ。 犯土(つち、ぼんど)の中の分類の一つ。 この日は犯土には含まれない。 あるいは犯土には含まれても犯土の禁忌は存在しない。 犯土期間には土公神(どくじん)が本宮、あるいは土中にいるため土を犯してはならない。 穴掘り、井戸掘り、種蒔き、土木工事、伐採など土いじりは全て慎むべきとされている。 特に地鎮祭等の建築儀礼には凶日とされる。これらの内容は土用と共通する。 犯土とは元来、これらの「土を犯す行為」、特に現在の地鎮祭に相当する儀式を意味したが、後にそれを禁じる禁忌やその期間へと意味が変化した。 庚午(甲子から数えて7番目)から丙子(13番目)までの7日間を大犯土(おおづち、大土)云う。 戊寅(15番目)から甲申(21番目)までの7日間を小犯土(こづち、小土)と云う。 その間の丁丑(14番目)を間日(まび)、犯土間日(つちまび)、中犯土(なかづち)と云う。 . #地蔵ぼん(ジゾウボン). 地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日で、厳密には毎月24日���あるが、一般的には、その中で特にお盆にも近い旧暦7月24日のものをいう。 ただし、寺院に祀られている地蔵ではなく、道祖神信仰と結びついた「路傍や街角のお地蔵さん」いわゆる「辻地蔵」が対象となっている。 . #相馬野馬追(ソウマノマオイ). . #兄弟姉妹の絆の日(七月の第四日曜日). . #親子の日(七月の第四日曜日). . #ドローンサッカーの日. . #呉軍港空襲. 1945年《昭和20年》7月24日(火)第二次世界大戦中にアメリカ軍が率いる連合国軍により日本本土空襲計画のひとつである。 . #セルフメディケーションの日. . #スポーツアロマの日. . #劇画の日. . #河童忌(#芥川龍之介). . #ブルボンプチの日(毎月24日). . #ドッグデー期間(7/23~8/23犬の日)#ドッグデイズ. . #シモンボリバルデー(#エクアドル・#ベネズエラ). . . ■今日のつぶやき■. #深い川は静かに流れる(フカイガワハシズカニナガレル). 【解説】 英語のことわざ「Still waters run deep.」の訳。 深い川の流れは、浅い川のように水音を立てず、静かであることから。 分別のある人や思慮深い人は、ゆったりとしていてやたらに騒がないと云う例え。 中身がある人は悠然としていて、出来ていない人ほど騒々しいものだと云う事。 . . 1985(昭和60)年7月24日(水)赤口. #渡辺知夏子 (#わたなべちかこ) 【ファッションモデル】 〔群馬県〕 . . (デニーズ) https://www.instagram.com/p/CgX6OoNhMu_QN65yjtXG_cdTd08fcAZYU8HAEA0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先勝#ミス・ユニバース・ジャパン#小土#地蔵ぼん#相馬野馬追#兄弟姉妹の絆の日#親子の日#ドローンサッカーの日#呉軍港空襲#セルフメディケーションの日#スポーツアロマの日#劇画の日#河童忌#芥川龍之介#ブルボンプチの日#ドッグデー期間#ドッグデイズ#シモンボリバルデー#エクアドル#ベネズエラ#深い川は静かに流れる#渡辺知夏子#わたなべちかこ
0 notes
Text
1945年7月28日、呉軍港空襲が行われました。
この空襲で軍港にいた戦艦の大部分が被害を受けたほか、アメリカ軍に投下された機雷によって出入りが封じられたことから呉軍港は母港としての機能を失いました。
写真は戦艦榛名、日向、伊勢の様子です。
9 notes
·
View notes
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷���✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消��章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂���賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓���醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号// ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝��〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
#FAQ#ifontmaker2#Symbols#Dingbat#Cyrillic#Greek#Coptic#thai#character set#character sets#list#language
8 notes
·
View notes
Link
第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。
著書『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。
八杉氏は福山市��豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。
担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。
敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分に積んでいたはずです」
乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。
壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長
隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。
「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。
ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた保本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた短刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑張れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」
八杉少年は横転��た大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。
空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。
沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれでオットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。
4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」
雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。
広島では自爆攻撃訓練
大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。
ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるからな」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。
音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたが���ぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。
みつかった戦艦大和
1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。
「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と反対した。
名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる
朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。
だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。
筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一彦中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。
作品では大和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)���たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。
吉田満氏は東京帝大出身。大和には電測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれは作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。
八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。
2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。
感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が誰か判別も付かずショックを受けた。
「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。
週刊新潮WEB取材班編集
24 notes
·
View notes
Photo

雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。
一等駆逐艦陽炎型の8番艦。
太平洋戦争(大東亜戦争)当時の主力駆逐艦(睦月型駆逐艦、吹雪型駆逐艦、初春型駆逐艦、白露型駆逐艦、朝潮型駆逐艦、陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦、丙型島風)約60隻の中で、雪風は唯一終戦まで生き残った駆逐艦である。
日本海軍の駆逐艦は激戦区に投入され非常に損耗率が高かったが、雪風は第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦(初風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風)、第27駆逐隊の時雨等と共にスラバヤ沖海戦から坊ノ岬沖海戦(戦艦大和特攻)まで16回以上の主要な作戦に参加した。
その中でも雪風は戦果を上げつつ一度も大きな損傷を受ける事なく終戦を迎え奇跡の駆逐艦と呼ばれた。
戦中より雪風のその幸運ぶりは広く知られ、呉の雪風、佐世保の時雨と謳われた。
終戦後、雪風は日本海軍解体に伴い除籍後中華民国に賠償艦として引き渡され丹陽と改名、同国海軍の主力艦として活躍したが、1971年(昭和46年) 12月、台湾にて解体された。
レイテ沖海戦の雪風
1944年(昭和19年)7月。本土帰投後、雪風は因島ドッグでスクリューを交換して各部を修理すると再び対空兵装の強化を行い、25mm単装機銃10挺・13mm単装機銃4挺を増設した。
この頃、第二戦隊(司令官西村祥治少将)の扶桑、山城が第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入されることになり、第17駆逐隊の雪風、磯風、浜風、浦風は扶桑、山城を護衛して9月22-23日に日本を出発、10月4日にリンガ泊地に到着した。
10月20日以降のレイテ沖海戦における第17駆逐隊は第二艦隊第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)第2部隊(指揮官鈴木義尾少将、第三戦隊金剛、榛名、第七戦隊熊野、鈴谷、利根、筑摩、第十戦隊矢矧、浦風、雪風、浜風、磯風、野分、清霜)に所属し、第三戦隊(司令官鈴木義尾少将/兼第2部隊指揮官)の戦艦金剛、榛名の直衛として参加した。
しかし雪風はターボ発電機の歯車が欠損し、出力の少ないディーゼル発電機のみで海戦に参加している。
10月22日、栗田艦隊はブルネイを出撃した。
レイテ湾突入までに、米潜水艦の襲撃とアメリカ軍航空隊の猛攻により重巡2隻(愛宕、摩耶)が沈没、重巡2隻(高雄、妙高)と駆逐艦2隻(長波、朝霜)戦場離脱、戦艦武蔵航行不能《沈没》という被害を受けた。
僚艦浜風は被弾して速力が低下し、清霜と共に武蔵の護衛として��離した。
10月25日、午前7時45分、栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇する。
この海戦で栗田艦隊将兵は、指揮官・参謀・将校・そして雪風問わず、全員が小型の米護衛空母を大型の正規空母と誤認した。
日本戦艦部隊(大和、長門、金剛、榛名)が砲撃する最中、雪風ら第十戦隊はアメリカ艦隊に突撃した。
アメリカ軍駆逐艦三隻が栗田艦隊へ反撃に出て熊野を撃破したが第十戦隊は駆逐艦ホエールを戦艦部隊との挟撃により撃沈、さらに矢矧と十七駆逐隊は駆逐艦ジョンストンおよび護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを撃沈した。
第十戦隊は敵空母部隊へ酸素魚雷20本以上(矢矧7本、雪風・浦風4本、野分不明、磯風のみ8本)を発射するが、10kmという遠距離雷撃であり、1本も命中しなかった。
雪風側は「アメリカ軍正規空母1隻撃沈、新型空母1隻大火災、駆逐艦2隻撃破、主砲462発発射(残98発)、機銃1万発発射、魚雷4本発射(残12本)」と報告している。
本隊の合流命令に従いに転進した雪風は、沈没した米駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) から脱出したアーネスト・E・エヴァンス艦長や乗組員を乗せた救命ボートの近くを通過した。
雪風の寺内艦長は咄嗟に救命ボートに向けて機銃掃射を行った兵(照準を合わせるため2射したのみで命中せず)を止めている。
ジョンストンの乗組員は、当時の状況について「日本の一駆逐艦がすぐ近くを通過したが我らに危害を加える事はなかった。
その駆逐艦の艦橋に立つ一人の将校が我らに敬礼するのを認めると、エヴァンス艦長は涙と共に答礼を返した」と、戦後米公刊誌に発表したとある。
この後、雪風はアメリカ軍機の攻撃で航行不能となった重巡洋艦筑摩の救援に向かうことになったが、大和より「雪風は原隊に復帰し、野分は筑摩の救助に当たれ」との命令があった。
姉妹艦野分は沈没した筑摩乗組員を救助すると退避行動に移ったが、戦艦ニュージャージーを含むアメリカ艦隊に捕捉されて撃沈された。
野分は生存者なし、筑摩は水上偵察機搭乗員と砲塔員1名だけが生存者となった。
一方、雪風は魚雷誘爆により航行不能となった重巡洋艦鈴谷の救援に向ったが、救助活動開始寸前に鈴谷は大爆発を起こし、雪風は難を逃れた。
出力の少ないディーゼル発電機のみでレイテ沖海戦を戦い抜いた事について、寺内艦長は「あの海戦で心配したのは燃料の事だけ。敵機が攻撃した時だけ機関の出力を上げ全速力を超える。攻撃が終わったら中速くらいまで落として燃料を節約した」と述べている。
雪風が長門から燃料補給を受けたのはレイテ沖海戦が終了し、ブルネイに帰還する前日(10月27日)であった。
雪風機関��員は定期保守の間隔が短いディーゼル発電機(クランク・シャフト)の保守点検を戦場でも行い、三人の兵曹が手元に工具と消耗品を取り揃えて随時分解、修理作業を行った。
メインのターボ発電機は大和の金工場に修理を依頼したが復旧せず、そのまま呉に帰港した。
呉では司令部の将校5、6名が雪風の電気室、補機室の検査に訪れディーゼル発電機のみで戦闘ができた事について確認調査を行っている。
20 notes
·
View notes
Photo

共に生きる 命の限り平和求める 核兵器禁止条約署名に取り組む村上護さん(77) 埼玉・桶川 2022年1月15日【社会】 埼玉県桶川市の村上護さん(77)は、1945年8月6日の米軍による広島への原爆投下で多くの親族らを失いました。重度障害のある娘を育てながら「命の重み、大切さ」を訴え、「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」を友人・知人126人から473人分(昨年1月~11月)集めています。 村上さんは昨年10月、損保9条の会主催の講演会で、核兵器禁止条約署名に取り組む思いをテーマに講演。「命ある限り、核廃絶、平和を求め続けたい」と結びました。旧・大成火災(現・損保ジャパン)のOBです。 郵送する署名用紙には、平和への思いをつづった手紙を同封します。年賀状のやりとりがある約140人を超える225人に郵送。人生で出会った人、縁を持った人と幅広い人を対象にしています。 返送された署名には丁重な手紙や一言書きなどが添えられているのが常です。 小・中・高の同窓生からは「懐かしい名前に驚き小学生の頃を思い出しました」などと11人から25人分。損保関係者からは「被爆国日本が率先してやらなければならない事なのに批准しないのは日本の恥」などと22人から67人分。 広島県のいとこは、喫茶店やお茶飲み友達、通院する看護師や医師など、日常的につながりのある人から18人分を。親類14家族から73人分集まりました。 趣味、抒情(じょじょう)歌を唄(うた)う会では11人から30人分。友人���13人から37人分。太陽光パネルの点検にきた青年も署名しました。 先輩の遺志 受け継いで 村上さんは1944年、戦艦大和の母港、広島県呉市に生まれました。同市は45年の空襲で、2000人が死亡しました。村上さんは、祖父母の住む同県尾道市に疎開していて命拾いしました。 義姉は白血病を発症し吐血がひどく、1年半の闘病のかいなく、3歳の娘を残して亡くなりました。広島で勤労作業中に被爆し一緒に労働組合運動で活動した先輩は5年前に亡くなりました。「原爆は戦争を終わらせるためではなく、アメリカの“人体実験”だった。核兵器をなくしてほしい」。先輩の遺志を受け継ぐ覚悟です。 村上さんの次女(38)は先天性の心臓病と先天性緑内障の複合障害を持って生まれ、会話が困難な重度障害者です。出産が遅れ酸欠状態になり、脳細胞の半分が壊死(えし)していました。 専門医を訪ねまわった末、障害児を受け入れる無認可保育園(桶川市)にたどり着きました。園児の父母がホールの柱にする木の伐採や皮むきを手伝うなど手作りの保育園。81年の開園以来、緊密な父母の輪ができました。娘の左目は視力が出ないといわれましたが、奇跡的に出て、雑巾を縫い、竹馬にも乗れるようになりました。この保育園関係者からも「訴えに賛同して家族全員で署名しました」などと40人から210人分集まりました。 改憲阻止へ決意固める 世にあって誰もが“平和”であることを望む気持ちに変わりはない―。村上さんの強い信念です。「臆することなく、自分の気持ちや心を率直に伝えることで、その人の心を動かせる。一番大事なことは命を守ること。娘や孫のためにも平和な社会を引き継がせることが必要だ」 今度は改憲阻止署名にも取り組む決意をかためています。(遠藤寿人) (しんぶん赤旗)
0 notes
Photo
伊勢(いせ)は、日本海軍の戦艦で伊勢型戦艦の1番艦である。
当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。
太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。
1944年(昭和19年)10月、台湾を攻撃したアメリカ軍機動部隊との間に台湾沖航空戦が発生し、伊勢に搭載予定の第六三四航空隊が投入された。
この戦いに勝利したアメリカ軍は、フィリピン攻略を開始した。
一方で、アメリカ空母11隻(実際の米空母損害なし)を撃沈したと誤信した日本軍は、上陸したアメリカ軍を撃退すべく捷号作戦を発動する。
伊勢と日向は機動部隊本隊に所属し、10月20日に日本を出発し、レイテ沖海戦に参加した。だが六三四空が台湾沖航空戦に投入されたため、日本海軍機動部隊最後の海戦でも伊勢が航空機を搭載することはなかった。
10月24日午後3時10分、小沢機動部隊本隊から日向と共に分離してアメリカ軍方向に進出する。
午後7時には前方に閃光を認めたが、これは雷だった。
深夜、前衛艦隊は反転、10月25日午前7時に本隊と合流した。
この時の対空戦では松田司令官の発案した弾幕射撃が効果を挙げ、航空機多数撃墜(30~70機)を報告している。
また巡航速度で航行し、敵艦上爆撃機が降下態勢に入ると同時に急転舵する爆弾回避術も大いに効果をあげた。
この機動は急降下爆撃を行う艦爆側から見れば、目標が後逸していくので見失ってしまう。さらに艦爆は一度降下に入ると大きな目標修正ができず、重量物である爆弾を投下しない限り再び上昇できなかった。このため艦爆は狙いが逸れたまま爆弾を投下して上昇するしかなかった。
伊勢は空母瑞鶴・瑞鳳の第一群を護衛した。
護衛戦闘機のほとんどない小沢機動部隊はアメリカ軍艦載機の一方的な空襲を受け、瑞鶴、瑞鳳、千歳の3空母は沈没した。
千代田と駆逐艦初月はアメリカ巡洋艦隊に捕捉され、砲撃戦の末に撃沈された。
伊勢と日向はアメリカ軍艦隊を求めて反転・南下したが、会敵しなかった。
伊勢は戦死7名・重軽傷者80名を出し、至近弾4発によりバルジに浸水約800-900t、傾斜左に1.5度という損傷を受け、主砲徹甲弾全弾、主砲対空弾160発、高角砲通常弾2000発、機銃弾120000発、噴進砲弾480発が残っていた。
対空戦闘でアメリカ軍機撃墜63機、もしくは44機撃墜・不確実12機などを主張しているが、戦闘詳報では『重複スルモノ相当アルモノノ如ク』と評している。
10月29日、伊勢は呉に戻った。
11月1日、射出機を撤去し、伊勢は航空戦艦としての機能を失う。
大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。
そこで伊勢は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。
11月9日、佐世保を出港、南方に向かった。この作戦ではアメリカ潜水艦やアメリカ軍機の襲撃を受け、命中寸前の魚雷を高角砲で迎撃するなど危険な場面が度々あった。
1945年(昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。
この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外・音戸町坪井沖に停泊した。
7月24日、アメリカ軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲により艦橋に直撃弾を受け、伊勢の牟田口艦長はじめ伊勢の主だった指揮官20名���どが戦死、浸水は5000tに達した。
師岡勇高射長が艦長代理となり呉工廠第四ドックに曳航しようと作業中の7月28日、伊勢は再びアメリカ軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底、戦死者���573名に及んだ。
空襲後、伊勢の二番砲塔は三式弾が装填されたまま最大仰角で停止した。
火災もひどく暴発の恐れもあったため呉市街を向いたまま発射、発射後は砲塔が仰角を保ったまま艦の正中位置まで旋回したところで伊勢は完全に動力を失い停止した。
このときの主砲発射が奇しくも日本海軍戦艦の最後の大口径砲の発砲となった。
終戦後、伊勢は引き揚げられて一時期住宅として利用された後、解体されスクラップとなりその生涯を終えた。
伊勢の艦名は、戦後海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれた。

208 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)8月23日(月曜日)
通巻第7024号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「北部同盟」の残存部隊が反タリバンの狼煙。三箇所を制圧
「パンジシールの獅子」の遺児が軍事的反撃を声明
****************************************
アフガンがタリバンの手に落ち、アフガン・イスラム首長国(阿富汗伊斯蘭酋長国)を宣言した。ともかくタリバン(塔利斑)がカブール(喀布爾)を軍事的に抑え込んだのは事実である。『ザ・タイムズ・オブ・インディア』(8月21日)に拠れば、国際空港での犠牲は20名となり、労働者が逃げ出しため、施設が十全に機能していない。軍用機専用となったので、パキスタン空港はカブール便を中断した。
しかし、国内で全体主義統治が始まるかと言えば逆で、すでにタリバンに軍事挑戦を始めた軍閥がある。パキスタンの有力紙「ドーン」に拠れば、パンジシール渓谷の周縁三箇所で反タリバン軍閥が、タリバンを押し出した。一方で統制がとれていない軍閥のなかには略奪行為を行っている。本質は山賊と変わらず、人を殺すことは知っていても組織的軍隊としての行動規範がない。
かつてソ連と戦ったムジャヒディーンの「北部同盟」の司令官であり、国防相にもなったマスードは「パンジシールの獅子」と呼ばれたカリスマだった。
パンジシール渓谷の一帯だけはソ連軍もタリバンも手が出せなかったため、タリバンに教唆されたアルカィーダの偽装ジャーナリストによってマスードは暗殺された。2001年9月9日。NY貿易センタービル襲撃の二日前だった。
遺児のアフマド・マスードは8月19日に、「父の後を継ぐ準備がある」と宣言した。
マスード元国防相は反ソビエト・反タリバン連合を統率した英雄でもあり、その残存勢力はカブールの北東150キロのパンジシール渓谷に部隊を集結させた。およそ6000人の武装集団で、ヘリコプター数機、装甲車などを保有しているが、いずれも30年前のソ連製という(『ドーン』、8月22日)
米国はただちにタリバンに経済制裁を課したため、ATMからの現金引き出しが殆ど出来なくなっている。ウエスタンユニオン、マネーグラムなどが送金作業を中断し、在米のアフガン資産95億ドルを凍結した。IMFは融資を中断している。
▼ロシアも中国もタリバンへの警戒を緩めてはいない
ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は、「タリバンはアフガニスタン全土を支配しているわけではない」と指摘する一方で、タリバンへの抵抗勢力がパンジシール渓谷に集結しているとの情報があると先の動きを裏付けた。
ロシアはタリバンとの対話を重視し、モスクワにタリバン幹部を招いた(8月7日)が極度の不信はぬぐえなかったという。
たしかにタリバンはロシアに敵対しないし、アフガニスタン領内からロシアへテロリストの出撃基地にすることはないと言明し、そのうえでアフガニスタン国内にアルカイーダもISも居ないとまで発言したが、そもそもタリバンに「そんな統率力はない」というのがロシア外務省の分析である。
タリバン幹部が今後一切、敵対しないし、出撃基地にはしないと言明しているのはモスクワ、北京、テヘランに対する外交辞令のようなもので、国内にアルカイーダとISが潜伏していることは歴然としている。
米軍はすでに5800名のアメリカ兵をカブール空港の警備に派遣しているが、空港までたどり着けないアメリカ人があり、市内は依然として混乱の極にある。米国内ではバイデン批判が高まり、トランプ前大統領は、この無様なバイデン政策を徹底的にこき下ろした。
モリソン豪首相は「8月21日夜から22日未明にかけ、航空機でアフガニスタンの首都カブールから300人以上のオーストラリア国籍者を退避させたと明らかにした。豪州人のほか、アフガン人でビザ保有者や、ニュージーランド人、米英人も含まれた。
ロシアの情報筋は「タリバンは一枚岩ではない。極端に言えば部族ことの軍閥の寄り合いであり、そのうえ地域軍閥意識が強く、各派がお互いに信じ合っていない」とする。
つまり、状況が変われば、いつでも殺戮、内訌に走る、いはば山賊集団が呉越同舟しているとみてよいのである。
中国の王毅外相もタリバン幹部を天津に招いて会談したが、「アフガニスタンの政策決定はアフガニスタン自身が決めることであり、希望することは穏健に速やかに安定へむけてのあゆみだ。ただしアフガニスタン国内には不穏な要素が充満しており、予断を許さないだろう」とロシアとほぼ共通の認識であることがわかる。
タジキスタンにおいてロシア軍とタジキスタン軍は合同演習を重ねているが、中国も特殊部隊を派遣しておりタジク軍との軍事演習。おもにカウンター・テロ戦争の演習を繰り返している。
カブールでは、カルザイ元大統領、アブドラ元副大統領らが、カンダハールからカブール入りしたタリバンナンバー2のバグダールらと新政権構想の話し合いに入っている。現在はカブールの治安確保対策が主に話し合われているという。
#アフガニスタン残存の北部同盟軍が一部地域を奪還#一枚岩では無いタリバン#軍閥同士の烏合の衆か#中には山賊、追い剥ぎの類も#ロシアも中国もタリバン政権を信用していない#アルカイーダもISも掌握していない#まさに帝国の墓場は無秩序#宮崎正弘の国際情勢解題#宮崎正弘の国際問題早読み#宮崎正弘の国際問題速読み#宮崎正弘の国際問題先読み
6 notes
·
View notes
Photo

渡邉英徳さんのツイート: "90年前の今日。1927年9月20日、巡洋艦「青葉」竣工。各地を転戦したのち、1945年7月28日の呉軍港空襲で大破着底し終戦を迎えた。「この世界の片隅に」にこの写真と同じアングルで登場。ニューラルネットワークによる自動色付け。 https://t.co/b93X3rkuSD"
90 notes
·
View notes
Text
5.軍人蜂起と閔妃の売国行為
問い7:朝鮮の近代化とその阻止>5.軍人蜂起と閔妃の売国行為
目次は こちら
5.軍人蜂起と閔妃の売国行為
『韓国の歴史教科書』の141~142ページには「旧式軍人と民衆が蜂起する」と題して軍人の蜂起に関して次の記述があります。
【開港後、政府は開化政策を実施して軍事制度を改編した。1881年に新式軍隊である別技軍を設置したことは、政府が進めた富国強兵策の代表的な事例であった。しかし、別技軍だけを優待して旧式軍人には13カ月も月給を支給せず、軍制改編で多くの旧式軍人が職を失って生計を脅かされた。
遅れた給料として支給された米にもみがらや砂が混ざっていたため、怒った旧式軍人は1882年6月9日、ついに暴動を起こした(壬午軍乱)。開港後日本に米や豆が大量流出して米価が暴騰したため生活が苦しくなった下層民までがこれに加わり、軍乱の規模は大きくなった。彼らは閔氏政権の高官の家に火を放ち、興宜大院君を訪ねて行って支援を要請した。続いて捕盗庁、義禁府などを襲撃し、日本公使館を攻撃した。日本人教官は死に、公使は日本に逃げ帰った。
翌日には宮殿に踏み込で李最応、閔謙鎬ら政府高官を殺害した。王妃まで生死が分からない状態に達すると、高宗は興宜大院君に事態収拾を要請した。興宜大院君は開化施策を中断して統理機務衛門と別技軍を廃止し、武衛営と壮禦営をなくす代わりに五軍営を復活させた。
しかし清の介入で状況は変わった。閔氏政権の要請を受けた清は迅速に軍隊を朝鮮に派遣した。そして軍乱の責任を問い、興宜大院君を清に押送した。
壬午軍乱の後、清は朝鮮に対する干渉を本格化した。清は朝清商民水陸貿易章程の締結を強要して清が宗主国であることを明文化し、清の商人が日本に比べて簡単に朝鮮経済に浸透できるようにした。清は軍隊3000人をソウルに駐屯させ、馬建常とメレンドルフを政治・外交顧問として朝鮮の内政と外交に深く干渉した。】
この軍人の1882年の蜂起に関連して、『日韓併合の真実』の「第二章 「大院君VS閔妃」の91ページにおいて詳細に記述しています。以下その要点を転載します。
[閔妃は、大院君に対して勝利を収めたのに酔って、宮廷で毎夜、宴会を続けた。このため国庫が空になり、公然と売官売職によって得た金銭でも足りなかった。高宗と閔妃はいつも夜明けまで続く宴会に疲れて、午後4時過ぎに起きた。
第2回修信使が日本を訪れた高宗17(1880)年に、大幅な軍制改革が行われた。日本軍士官が教官として招かれて指揮官となって、別技軍という近衛部隊を新設した。別技軍は特別な技術を持った軍隊という意味である。
翌年は全国が異常な旱魃に見舞われ、農民が飢饉に苦しみ、都市では米価が暴騰した。それでも閔妃は宮中で相変わらず歓楽に耽っていた。
別技軍は在来の軍隊よりも服装から給与まで待遇がよかった。在来軍のほうは、俸給が横領されていたので、遅配が続いていた。軍人とその家族は飢餓状態に陥っていた。高宗19(1882)年6月に、軍人たちは13カ月ぶりに、遅配の中の1カ月分の俸給米を支給するという知らせを受けた。最初に王宮警備兵で、それまで優遇されてきた武衛営の兵士に配られることになった。ところが、給付担当者が運ぶ途中で横領し、重量不足分を砂と水を入れて誤魔化したために、兵士たちの手に渡った時には、砂利が混入していたうえ、米がすっかり腐っていた。
軍人は身分上、賤民扱いにされていたから、例え大将であっても、文官である高官に面接することすら難しかった。高官に抗議することは、決死の覚悟をするか、免職されるのが当然であると考えられていた。
(中略)
兵士たちは抗議することに決した。もう家族を養えない。抗議して殺されようが、これ以上飢餓に耐えられなかったから、何れにしても死ぬことになる。宮殿の警備を担当していたから、こうなった原因は閔妃が途方もない遊興を繰り広げ、巫堂会のために浪費したことにあるのを良く知っていた。
ついに兵乱が勃発した。俸給米を支給する担当大臣で、閔妃の族戚だった閔謙鎬はこの報らせを聞くと、即座に主謀者の幹部兵士を逮捕して、死刑に処することを命じた。
兵士たちは武衛営大将の李景夏宅に押しかけて、閔謙鎬の不法を訴えた。(中略)李景夏は閔謙鎬あてに手紙を認めると、兵士たちに渡し、請願するように説得した。
(中略)
閔謙鎬はすでに王宮へ行った後だった。兵士たちが王宮の昌徳宮へ向かうあいだ、一部の者が雲峴宮に行って大院君に顛末を報告した。兵士たちは大院君の密命を受けて、捕盗庁と義禁府を襲撃して、囚人たちを釈放した。(中略)その上で別技隊の教官の日本軍士官と、閔妃の側に与していた大院君の次兄に当たる李最応と、京畿監司の金輔鉉の家を襲って虐殺した。
兵士たちは閔妃とその親戚を皆殺しにしようと企てた。なかでも閔妃は民衆の怨嗟の的となっていた。昌徳宮は修羅場と化した。閔謙鎬は宮中で発見されて、惨殺された。しかし、閔妃は兵士たちが宮殿に乱入した時に、間一髪のところを宮女の服に着替えて、脱出して難を逃れた。
(中略)
高宗は日和見だったから、父の大院君に再び大権を委ねた。そして軍乱が収まった。
(中略)
閔妃は、天津に李朝の使節として駐在していた、大院君反対派の金充植を通じて、宗主国の清の北洋大臣であった李鴻章に軍乱が起こったことと、大院君がその主謀者を演じたことを訴え、清軍を急派するように請願した。
(中略)
李鴻章は、(中略)8月に丁汝昌、馬建忠、呉長慶提督に4000人の清兵を率いさせて、北洋艦隊に乗せて、ソウルへ送った。日本はその6日後に、1500人の部隊を仁川に上陸させた。
清軍は大院君を捕らえた。大院君は天津に拉致され、北京の西南にある保定府に幽閉された。清軍は反乱兵と、同調した多くの者を捕らえて処刑した。】
この『日韓併合の真実』の記述と『韓国の歴史教科書』の記述では幾つかの重要な相違点があります。それを以下に記します。
⑴ 『韓国の歴史教科書』では、米価の暴騰原因が「開港後日本に米や豆が大量流出した」ことにあると記していますが、崔基鎬氏の記述では、「全国が異常な旱魃に見舞われ、農民が飢饉に苦しみ、都市では米価が暴騰した」と記しています。『韓国の小学校歴史教科書』、『韓国の中学校歴史教科書』、『朝鮮史2』共に、日本の買い占めにより米価が高騰し���ことは記していません。
⑵ 『韓国の歴史教科書』では13カ月も給料が支払われなかった理由を記していませんが、崔基鎬氏は、「在来軍のほうは、俸給が横領されていたので、遅配が続いていた。軍人とその家族は飢餓状態に陥っていた」と遅配の原因が官吏の横領に在ると記しています。官僚の不正に横領していたことも『韓国の歴史教科書』は隠しています。。
⑶ 『韓国の歴史教科書』には、「支給された米に籾殻や砂が混ざっていた」として、籾殻や砂が混じった原因を記していませんが、崔基鎬氏は「横領し、重量不足分を砂と水を入れて誤魔化したために、兵士たちの手に渡った時には、砂利が混入していたうえ、米がすっかり腐っていた」と記して、官僚による横領を誤魔化すためであったとしています。
⑷ 『韓国の歴史教科書』では「怒った旧式軍人は1882年6月9日、ついに暴動を起こした」として、その当時の王宮の状態を記していませんが、崔基鎬氏は「王宮を守っていた兵士たちはこうなった原因は閔妃が途方もない遊興を繰り広げて浪費したことにあるのを良く知っていた」として、米の遅配の本当の原因が閔妃の途方もない浪費であると記しています。
⑸ 『韓国の歴史教科書』では単に「しかし清の介入で状況は変わった」と記しているだけで、清軍が4000人もの大部隊を派遣してきた原因は、閔妃が密かに清の李鴻章へ軍の派遣を要請したことが隠されています。
この「壬午軍乱」の発生による朝鮮にとっての一番大きな損失は、せっかく始まった朝鮮を開化・近代化して自強を図り真の意味で独立国にする方策が、停止に追い込まれたことです。高宗は大院君が反開化・反近代化の思想で固まっている人物であるのを承知の上で、彼に軍乱の収拾を依頼しました。高宗を信頼して日本を見倣って朝鮮の開化・近代化を進めていた洪英植ら重臣たちを、高宗は裏切って捨てたのです。
次の大きな問題は、自分が再び権力を掌握するために、閔妃が、中国の清軍を朝鮮に呼び入れて、関係者を処刑して、大院君を中国・保定に幽閉させたことです。これは、閔妃の敵とも言うべき大院君を清軍に逮捕させ、中国・保定府へ幽閉させたことからも、清軍を引き入れたのは閔妃であることを示していると言えます。
閔妃は4000人もの清国軍をソウルに導き入れて、再び閔氏政権にして自分が享楽できるようにして、国民を裏切り、朝鮮を清国へ売ったのです。
次に惜しまれることは、せっかく始まった朝鮮の軍隊の近代化が、その芽を摘まれたことです。1882年は日韓併合の28年も前のことです。これだけの期間があれば、朝鮮は軍隊の近代化を推進して、清国・日本・ロシアなどの内政干渉を阻止するだけの力を持てた可能性が十分にあったと思われます。しかし事実は逆に、大院君が近代式軍隊の卵とも言うべき別技軍を廃し、日本人の軍事教官を殺して、列強に侮られないだけの強い軍隊を創建できるチャンスを自らが棄て、その上閔妃が清国軍を導き入れ、その反乱軍を処刑しました。その結果、朝鮮は清軍の支配下に入ってしまったのです。
外国である清国の4000人もの軍隊を導入して、自分の国の軍隊を鎮圧させ処刑させた統治者は、すでにその国の統治者としての資格を自ら放棄したといえるのではないでしょうか。
0 notes
Photo

【旅の記:広島・神戸・大阪ツアー2020冬①呉・亀山神社・音戸の瀬戸】
2020年1月末から2月頭まで広島・神戸・大阪とライブツアー。恒例の歴史探訪の旅の記です。
今旅の最初の探訪は広島市内から車で1時間くらいだったかな、呉市へ。前回の広島で行けなかった吉田郡山城と迷ったのですが、天候も悪く山城は無理だろうなってのと、お正月に観た映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の舞台となった呉へ。 うん、やっぱり呉に行ってよかったな。。映画のシーンを思い出して、感慨にふけるのでした。戦前から��業都市として栄えた呉は「戦艦大和」を生んだ軍港としても有名です。戦中、この町で生きた人々の物語はだいぶ胸を打ったなぁ。ちなみにもっと古くは村上水軍の一派が根城にしていたそうです。ここから厳島合戦に向かった船もあったことでしょう。
呉に到着、まずは街を見下ろす高台にある亀山神社へ。応神天皇を祀る八幡神社で呉の氏神でもあります。 703年文武天皇の時代に宇佐神宮のある筑紫国宇佐島から遷座。もともともっと海の近くに鎮座していたけど、軍港を造るにあたり1886年に現在の位置に移動した。海軍で働く人たちもよく参拝していたそうです。空襲で社殿や古文書を失い昭和30年に再建された。

少し見える海。高い建物がなかったころはきれいに見えただろうな


拝殿。

ご本殿。


港の方へ。期待していた「大和ミュージアム」は休館でした。残念、また来よう。こちらは引き揚げられた戦艦「武蔵」の主砲。でかい!!

潜水調査船「しんかい」シリーズの初号機が敷地内にありました。

海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)にある潜水艦。こちらもでかーい!

港。

港のほうから望む灰ヶ峰。映画の主人公すずさんが嫁いだところです。

もう少し足をのばして平清盛が開削したという音戸の瀬戸へ。沈む夕陽を清盛が金扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫び、再び登らせて、一日でこの海峡を掘削したという伝説があるそうです。ちなみにこの日招きが災いして清盛は死んだとか。清盛像がある音戸の瀬戸公園は改装のため?閉まっていました。

第二音戸大橋。ちなみに第三まであります。第三は歩道橋だそうで。。

呉市街から音戸まで、道すがらは工業地帯で、天気のせいもあってか、異世界な感じもありました。大和ミュージアム、音頭では瀬戸公園に入れなかったし清盛塚も見れなかったからまた来ましょ。
0 notes
Text
だからk国と関わってはいけない❗️
※k国の人と結婚してはいけない理由 日本人よ見習ってほしいwww タイ… 韓国に絶対に行くなと報道 メキシコ… 共存できない民族と報道 フィリピン… 当局が自国女性に韓国人警戒令 カンボジア…国民に韓国人男性との結婚禁じる ベトナム… 国民に韓国人男性との結婚禁じる ネパール… 「韓��人はささいなことですぐ 殴るから」という理由で 「今後、韓国人登山客の 道案内はしない」と公式に表明 キリバス… 性が乱れた人たちを「コレコレア」と呼ぶ。 アメリカ… 韓国人によるレイプ注意警告を公式に出した。 黒人紙で「韓国人は下劣、貪欲、傲慢、差別主義的」 と報道。 NASAが韓国人と韓国系アメリカ人の出入り禁止。 イギリス… 「韓国はW杯開催してはいけない馬鹿な国」 と報道された。 台湾… 国交を餌に韓国車輸入させた直後に断交。 韓国に対する感情は最悪。 パラオ… 手抜きのKBブリッジが崩落。 韓国は損害賠償など一切せず。 スイス… 「韓国人を見たら犯罪者と思え」と報道。 ナイジェリア…「呆れる人種差別する韓国人」と報道 カンボジア…「韓国人の空港マナーは最悪」と報道 フランス… 国民の40%が韓国を知らない、 60%が韓国を知りたくない。 「ジャパンエキスポをコリアンエキスポなんて 名前にしたら誰も来なくなる」 イタリア… 韓国の誇るPSY()に 国民一斉に大ブーイング ドイツ… 国民の過半数が一番嫌いな国は韓国。 「韓国人見ると殴りたくなる」 「韓国人は目が小さくて気持ち悪い!死ね!」 イラン… 韓国ベンチに近づいた イランのサッカー選手が、 韓国のコーチング スタッフに2度殴打される。親善試合を拒否 キルギス… 韓国人男性との結婚を禁じる法案検討中 【国際】アメリカ・カナダ・イギリスで 韓国にのみレイプ注意警告発令 【米国】 韓人1,600人、追放裁判急増 ~2000年に比べ7倍増加。 【米国/韓流】CNN報道 K-POPが 世界を席巻?笑わせんな 【中国】中国人アンケートで 嫌いな国1位「韓国」 4 【フランス】フランスで嫌われる韓国人。 来年から会場出入り禁止? 【フランス/韓流】「KPOPは独自性が 感じられないJPOPを踏襲してる 冷静な意見多数 【イギリス】韓国人のマナーは最低、 ハングル文字の禁止事項ポスター作成 【イギリス/韓流】ロンドンのKPOPイベント、 参加者は1000人どころか実は50人! 【ドイツ】ドイツW杯で差別され暴力を 受ける韓国人(NAVER)、「韓国人お断り」の店多数 【フィリピン】人身売買が酷すぎて政府に 訴えられる。フィリピン当局、自国女性に 「韓国人警戒令」 【台湾】台湾人アンケート73%が韓国人が 一番嫌いな民族。台湾の食堂に 「韓国人出入禁止」の貼り紙 【台湾/韓流】台湾の呉総理「韓国ドラマに 反吐がでる」「見れば見るほど背筋が寒くなる」 【タイ】マスコミ「韓国に絶対行くな」と報道 【ネパール】韓国人による結婚詐欺、 人身売買の被害を報道。コリアは北も南も恐ろしい国 韓国人は暴力的、登山案内拒否を宣言 【カンボジア】韓国人を結婚禁止民族に指定 【ベトナム】戦争中虐殺+レイプしまくりで 混血児1万以上で憎まれている。 ベトナム政府が ベトナム戦争での���国軍の蛮行に対し謝罪・賠償請求 国連で提起も 【ナイジェリア】呆れる人種差別する韓国人 【スイス】「韓国人を見たら犯罪者と思え」 【メキシコ】「韓国人は共存できない民族1位」 【チェコ】韓国国旗の落書きに対し「韓国人は弱虫野郎」 【オーストラリア】日本人女子大生を 名乗っていた韓国女売春摘発 【アルゼンチン】「韓国人は追放したい民族1位」 【ロシア】ロシア人女性ら「韓国は地獄だった」 韓国では2000年代以降、外国人の花嫁が増えている。 その多くが仲介業者のあっせんで韓国の農村部に 嫁いでいるが、夫から虐待を受けた末に 殺されたり自殺したりする悲劇が後を絶たない。 今年に入ってからは、 江原道で36歳の 韓国人の夫がベトナム人妻(21)の首を 絞め殺害した事件も起きている。そして、2007年 以降、韓国では「外国人妻の悲劇」 がほぼ毎年発生しているのだ。ジャーナリストの 室谷克実氏が、韓国での 外国人妻の悲劇について解説する。 嫁いだベトナム人妻を待つのは、 韓国社会からの差別、家庭内での暴力だ。 韓国農村経済研究院が全国34の農村部に 暮らす国際結婚した400世帯を面接調査したところ、 外国人妻の 約2割が「ここ1年で家庭内 暴力を経験した」と答えた(『東亜日報』 2012年4月19日付)。家族から無視され 侮辱的な言葉を浴びせられたり、 外出を禁じられたりする上に殴るぞと脅され、 また、実際に殴られた妻が 少なくなかったという。 韓国の女性家族部の調査では、家庭内暴力を 受けている外国人妻は7割にも上る。 韓国KBSは外国人妻の 相談窓口に寄せられた 事例として、韓国人男性と結婚し、2度妊娠したが 夫に人工中絶を強要されたベトナム人 妻や、結婚してから5年間、韓国人夫の 暴力を受け続けているフィリピン人妻の 肉声を伝えた(2013年5月21日)。 言葉もわからず、生活習慣も異なる韓国で 夫から暴力を受け、舅や姑にもいじめられ、 さらに労働力と しても酷使される外国人妻の 支援団体関係者は「外国人女性を妻にしたと 考えているのではなく、自分が対価を 払って連れて来たのだから、自分の好きに していいという間違った考え方が暴力に つながっている」と説明する。 相次ぐ事件を受けベトナムなど各国は 対策に乗り出した。 2010年には半官半民の「ベトナム女性連盟」と 韓国政府の間で、韓国人男性の経済力や家族構成、 健康状態 などの基本情報を国際結婚仲介業者に 通知させる制度を作ることが合意された。 しかし、書類を捏造するなど 虚偽が横行したため実効性は皆無。 2012年にはベトナム女性連盟が、50歳以上、 または年の差16歳を超える 韓国人男性との結婚を禁止する方針を打ち出した。 ベトナムだけではない。同じく仲介業者による 「売買婚」の標的であるカンボジアはこれまで 数次にわたり 「韓国人男性との結婚禁止」 措置を講じてきた。昨年3月には 中央アジア・キルギスの副首相が韓国大使に、 キルギス人妻が韓国で「不幸な生活を送り、 中には死に至るなどの問題が報告されている」 と伝えた上で 「議会では韓国人との結婚を 禁止する必要があるとの話まで出ている」と述べた。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 チェルノブイリ原子力発電所事故 スリーマイル島原子力発電所事故あとの 96年後も他国それも住民の近くで 地上核実験を行っている。 他国の核保有国は地下実験が常識である。 1972年日支国交正常化 させるために売国奴田中角栄は 台湾を見捨てた(国交断絶) 台湾と国交正常化させ我々西側の敵である 共産主義支那と属国韓国と国交断絶! 日本共産党はコミンテルン日本支部である。 しんぶん赤旗で認めている! 平和と言いながら革命暴力で 変えようとする集団である。 中核派、革マル派、革労などは 対立して殺し合い(内ゲバ)で 十数名の集団殺害や女性のイヤリングが ブルジョアと言い出しそれだけで 女性殺害した狂人集団。 公安監視対象(年数回家宅捜査) 20世紀は罪もない1億7千人の人々を虐殺 した事を忘れてはいけない。 今も続くチベットウイグルの虐殺を 支援する日本共産党! 池内沙織は支持されず落選比例復活 結局はウリナラの民族であるし売春婦をばらまいてる馬鹿なk国です。
43 notes
·
View notes