#まさに帝国の墓場は無秩序
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)8月23日(月曜日)
通巻第7024号
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「北部同盟」の残存部隊が反タリバンの狼煙。三箇所を制圧
「パンジシールの獅子」の遺児が軍事的反撃を声明
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アフガンがタリバンの手に落ち、アフガン・イスラム首長国(阿富汗伊斯蘭酋長国)を宣言した。ともかくタリバン(塔利斑)がカブール(喀布爾)を軍事的に抑え込んだのは事実である。『ザ・タイムズ・オブ・インディア』(8月21日)に拠れば、国際空港での犠牲は20名となり、労働者が逃げ出しため、施設が十全に機能していない。軍用機専用となったので、パキスタン空港はカブール便を中断した。
しかし、国内で全体主義統治が始まるかと言えば逆で、すでにタリバンに軍事挑戦を始めた軍閥がある。パキスタンの有力紙「ドーン」に拠れば、パンジシール渓谷の周縁三箇所で反タリバン軍閥が、タリバンを押し出した。一方で統制がとれていない軍閥のなかには略奪行為を行っている。本質は山賊と変わらず、人を殺すことは知っていても組織的軍隊としての行動規範がない。
かつてソ連と戦ったムジャヒディーンの「北部同盟」の司令官であり、国防相にもなったマスードは「パンジシールの獅子」と呼ばれたカリスマだった。
パンジシール渓谷の一帯だけはソ連軍もタリバンも手が出せなかったため、タリバンに教唆されたアルカィーダの偽装ジャーナリストによってマスードは暗殺された。2001年9月9日。NY貿易センタービル襲撃の二日前だった。
遺児のアフマド・マスードは8月19日に、「父の後を継ぐ準備がある」と宣言した。
マスード元国防相は反ソビエト・反タリバン連合を統率した英雄でもあり、その残存勢力はカブールの北東150キロのパンジシール渓谷に部隊を集結させた。およそ6000人の武装集団で、ヘリコプター数機、装甲車などを保有しているが、いずれも30年前のソ連製という(『ドーン』、8月22日)
米国はただちにタリバンに経済制裁を課したため、ATMからの現金引き出しが殆ど出来なくなっている。ウエスタンユニオン、マネーグラムなどが送金作業を中断し、在米のアフガン資産95億ドルを凍結した。IMFは融資を中断している。
▼ロシアも中国もタリバンへの警戒を緩めてはいない
ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は、「タリバンはアフガニスタン全土を支配しているわけではない」と指摘する一方で、タリバンへの抵抗勢力がパンジシール渓谷に集結しているとの情報があると先の動きを裏付けた。
ロシアはタリバンとの対話を重視し、モスクワにタリバン幹部を招いた(8月7日)が極度の不信はぬぐえなかったという。
たしかにタリバンはロシアに敵対しないし、アフガニスタン領内からロシアへテロリストの出撃基地にすることはないと言明し、そのうえでアフガニスタン国内にアルカイーダもISも居ないとまで発言したが、そもそもタリバンに「そんな統率力はない」というのがロシア外務省の分析である。
タリバン幹部が今後一切、敵対しないし、出撃基地にはしないと言明しているのはモスクワ、北京、テヘランに対する外交辞令のようなもので、国内にアルカイーダとISが潜伏していることは歴然としている。
米軍はすでに5800名のアメリカ兵をカブール空港の警備に派遣しているが、空港までたどり着けないアメリカ人があり、市内は依然として混乱の極にある。米国内ではバイデン批判が高まり、トランプ前大統領は、この無様なバイデン政策を徹底的にこき下ろした。
モリソン豪首相は「8月21日夜から22日未明にかけ、航空機でアフガニスタンの首都カブールから300人以上のオーストラリア国籍者を退避させたと明らかにした。豪州人のほか、アフガン人でビザ保有者や、ニュージーランド人、米英人も含まれた。
ロシアの情報筋は「タリバンは一枚岩ではない。極端に言えば部族ことの軍閥の寄り合いであり、そのうえ地域軍閥意識が強く、各派がお互いに信じ合っていない」とする。
つまり、状況が変われば、いつでも殺戮、内訌に走る、いはば山賊集団が呉越同舟しているとみてよいのである。
中国の王毅外相もタリバン幹部を天津に招いて会談したが、「アフガニスタンの政策決定はアフガニスタン自身が決めることであり、希望することは穏健に速やかに安定へむけてのあゆみだ。ただしアフガニスタン国内には不穏な要素が充満しており、予断を許さないだろう」とロシアとほぼ共通の認識であることがわかる。
タジキスタンにおいてロシア軍とタジキスタン軍は合同演習を重ねているが、中国も特殊部隊を派遣しておりタジク軍との軍事演習。おもにカウンター・テロ戦争の演習を繰り返している。
カブールでは、カルザイ元大統領、アブドラ元副大統領らが、カンダハールからカブール入りしたタリバンナンバー2のバグダールらと新政権構想の話し合いに入っている。現在はカブールの治安確保対策が主に話し合われているという。
#アフガニスタン残存の北部同盟軍が一部地域を奪還#一枚岩では無いタリバン#軍閥同士の烏合の衆か#中には山賊、追い剥ぎの類も#ロシアも中国もタリバン政権を信用していない#アルカイーダもISも掌握していない#まさに帝国の墓場は無秩序#宮崎正弘の国際情勢解題#宮崎正弘の国際問題早読み#宮崎正弘の国際問題速読み#宮崎正弘の国際問題先読み
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【無名戦士と霊璽簿】
かなり久しぶりに靖国神社を詣でた。 社会情勢相応ということで、新型コロナウイルスの問題が生じてからは足が遠のいていたのだが、やは��ウイルス対策のためか、昇殿参拝のやり方など相当簡略化されていて、これからこういうお参りごと全般、果たしてどうなっていくものなのか、いろいろ考えさせられるところがあった。 ところで今、社会の大きな関心事は自民党の総裁選である。また総選挙も近いので、次代の日本の政治指導者は誰になる��か、また、そこに擬せられている人々はどういう政策をとるものなのか、メディアなどでは日々盛んに取りざたされている。そうした際に日本の各メディアが定番のように発する、「もし総理大臣になったら、あなたは靖国神社に参拝するのか」云々といったことも、また日々、各種のメディアで取り上げられている。 日本の政治家はなぜ靖国神社に行くのをためらうのか。いろいろな理由はあるけれども、ようするにこれは、「外国から『第2次世界大戦以後の世界秩序に対する挑戦だ』と批判されることを恐れている」といったことに、最終的には尽きていく問題である。かつ、特に多くの自民党の政治家にとって、その恐るるべき外国とはアメリカ合衆国ただひとつであって、間違っても中国や韓国ではない。ただそれゆえに、自民党支持層の間からは「アメリカの靖国参拝批判は、『あなたの国にも(戦死者の追悼・顕彰施設である)アーリントン墓地があるでしょう』といったふうに、意を尽くして説明すれば、理解されて解消するはずだ」といった、期待にも似た意見が常にある。しかしどうも、この自民党総裁選の行われている中で久々に靖国を詣でてみて、あらためて「この問題は本当に難しいなあ」ということを、感じたのである。 周知のように、靖国神社とは戦没者の遺骨、遺体などが、具体的に埋葬されている場所ではない。あくまでも「概念としての英霊」が、祭神としておわす社である。 一方でアーリントン墓地は、まさにその名が示すように文字通りの墓地であって、多くの米国政府、米軍関係者の遺体が、実際に眠っている場所だ。ただアーリントン墓地において、そうした個別具体的な墓のある区域というのは(ジョン・F・ケネディ大統領のような一部著名人のものを除き)、その故人の関係者など以外はほとんど足を運ばない場所であり、実際結構閑散としている。 時々の合衆国政府高官や、外交で訪れた他国の政治家などが訪れ、献花などをするのは、あくまでアーリントン墓地の一角にある「無名戦士の墓」という場所なのだ。ここには現在、第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争の3つの戦争で戦死した、身元を判別することのできなかった米軍の戦死者の3つの遺体が、そのほかの墓地とは別格の扱いで埋葬されている。そこでは���メリカ軍から特に選別された優秀な兵士が、365日、24時間、衛兵として厳格に警備をしていることでも有名だ。 政治学者のベ���ディクト・アンダーソンは、この無名戦士の墓の意味に関し、主著ともいえる『想像の共同体』の中で、非常に有名な解説を行っている。彼ら無名戦士は、名前や顔はもちろん、出身地や正確な人種なども、判別することができない。彼らに残されているアイデンティティとは、ただ「アメリカ合衆国のために戦い、命を捨てた」という事実だけだ。移民たちが人工的につくり上げた実験国家とされるアメリカにとって、この無名戦士の属性とは、全国民が最も等しく仰げるものであり、ゆえにアンダーソンは無名戦士の墓をして「これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない」と言ったのである。 であるから、この無名戦士の墓にはかつて、ベトナム戦争での戦死者の遺体も葬られていたのだが、後にDNA鑑定で身元が判明し、掘り返されて別の場所に移されてしまった。そして、最近は軍の名簿の管理もITなどを入れて厳格なものになっているし、またDNA鑑定の技術なども進んでいるから、今後のアーリントンに「新しい無名戦士」は加わらないだろうとされている。ただ、アメリカはその国家の統合の象徴として、恐らく未来永劫この3体の「無名戦士」を必要とし続けるだろうし、彼ら以外にアメリカの「近代文化としてのナショナリズム」を支えうるものもないのである。 一方で靖国神社なのだが、ここには約246万の英霊が祀られており、その数字を支えているものは、よく知られているように「霊璽簿」という、戦死者たちの名前を具体的に書き記した名簿である。 無名戦士と霊璽簿。この「無名と顕名」がそれぞれ支える戦没者追悼施設は、実はそれを成り立たせている根本的な思想において、180度違う価値観を示しているのである。 アメリカが無名戦士を尊ぶ理由としてもうひとつ指摘しうるのが、同国の国是である共和主義である。1776年7月4日、当時世界最強の王権国家だった大英帝国に反旗を翻して独立、成立したのがアメリカ合衆国である。王権的なものを否定・警戒する心情は、アメリカという国家のDNAに刻み込まれている、強烈な感情だ。よってアメリカの市民は古来、「過度に個人の業績を顕彰したりすると、個人崇拝を生んで共和政体が破壊される」という価値観を、無意識レベルで持ち続けてきた。首都ワシントンDCにある、建国の父ジョージ・ワシントンの記念碑「ワシントン記念塔」が、ただの石柱(オベリスク)であり、ワシントンの像などをまるで備えていないのも、この共和主義の精神の発露である。 もちろん時代が進むにつれて、同じくワシントンDCにあるリンカーン記念���のように、過去の偉人の具体的な像を備えるモニュメントなども登場するのであるが、それらの多くは20世紀に入るあたり以降に建設されてきたもので、大昔からアメリカにあるようなものではない。この9月、バージニア州リッチモンドにあった、南北戦争における南軍の将軍、ロバート・E・リーの銅像(1890年建造)が撤去されるという事件があった。これは奴隷制擁護の軍隊だった南軍由来のモニュメントに向けられたBLM運動の一環として起こった出来事ではあったのだが、そもそもアメリカ人の精神の奥底には深く、「個人の名前や姿を顕彰する必要それ自体が、果たしてあるのか」という問いが、強固に存在するという事実は、認識しておいたほうがいいだろう。 また言うまでもなく、アメリカはキリスト教国である。現代ではなかなかゆるくはなっているが、キリスト教も本来は偶像崇拝を否定する宗教であり、イエス・キリストの絵や像などを崇拝することを、決して奨励するものではない。私はかつて、第1次安倍晋三政権があった時代に、ある縁から米国務省関係の人と話をする機会があって、彼から「対中国、北朝鮮といった視点などから、日本の保守勢力には期待するが、しかしわれわれはシントイズム(神道)は理解しないし、日本政治がそれに影響を受けることもよしとはしない」と、かなりはっきりと言われたことがある。また、これはアメリカ人ではなかったが、私はある保守的なクリスチャンから「神道の神々などというのは、私にはディアブロ(悪魔)のようにしか感じられない」といったことまで言われたこともある。私は彼らクリスチャンを非難しているのではない。これは結局われわれ日本人が、なかなかイスラム教を本質的に理解できないのと同じことであって、いいとか悪いとかの話ではない。 また、「分かり合えないから放っておけばいい」などというのは極めて幼稚な態度で、「さまざまな違いがある人々と話し合い、分かり合う」ための手段として、われわれは「政治」という行為を行うのである(むしろ世界の人々が均質で、簡単に理解をしあえるのであれば、世に政治などというものは必要ない)。 ただ現実として、靖国神社とアーリントン墓地の間にある溝は、一般的に思われているよりもずっと広くて深い。そんなことを今日、私は久しぶりに靖国神社を詣でて、つらつらと考えたのであった。
2021年9月26日 小川 寛大
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���ラシックの天才作曲家には、華やかな印象があるかもしれない。しかし、モーツァルトやベートーヴェンは存命中、“お金”に悩み続けていた。『
社会思想としてのクラシック音楽
』(新潮選書)を刊行した大阪大学名誉教授の猪木武徳さんは「ベートーヴェンはパトロンのひとりを『年金不払い』で訴えたこともあった」という――。
※本稿は、猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
貧困の中で亡くなったモーツァルト
芸術活動には資金が必要だ。ではその資金を誰から、どのような形で獲得していくのか。これは容易な問題ではない。歴史的に見るとバッハもモーツァルトも、ベートーヴェンも、パトロン(後援者)をどこに求めるかという問題に悩まされ続けている。
モーツァルトがザルツブルク大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲家として活動を開始してからの経済生活の惨めさはよく知られている。1787年にヨーゼフ2世が私的な宮廷楽師という低所得のポストをあたえたものの、彼の活動の多くは、個人的な得意先からの不定期の注文で支えられていた。
ただこの1787年という年は、芸術家モーツァルトの生涯にとってひとつの転機となった年でもあった。1月にはプラハへ旅立ち、『フィガロの結婚』(K492)を上演し好評を博した。そのため、国立劇場の支配人から次の新しいオペラ作曲を依頼され、同年秋に傑作『ドン・ジョヴァンニ』(K527)を初演している。
しかし芸術活動においては豊穣であったものの、経済状況は逆境のさなかにあったと言ってもよい。1787年年5月、病気がちであった父レオポルトが急逝する。妻のコンスタンツェの健康も芳しくない。家族の状況も経済状況も思わしくない中、モーツァルトは、教会からも宮廷からも疎んじられ、無視され続けた。
モーツァルトは、パトロンのいないまま、ウィーンでわれわれ音楽愛好家の宝となるような幾多の傑作を生み出している。そしてヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世の戴冠式の翌年、1791年12月5日にこの世を去り、ウィーン市門外の聖マルクス墓地に墓標もないまま埋葬された。
パトロンを求めたベートーヴェン
一方、ベートーヴェンは当時ケル���大司教領であったボンに生まれ、カトリック社会の文化的風土の中で育っている。ボン時代のパトロンには、司教・選帝侯以外に、『ピアノ・ソナタ第21番(ハ長調)』(「ワルトシュタイン」、Op53)を献呈したフェルディナント・エルンスト・フォン・ワルトシュタイン伯爵もいた。
ハイドンの教えを受けたいと考えたベートーヴェンは、1792年秋にウィーンに居を移した。ウィーンに移る前の年に、モーツァルトが貧困のうちに亡くなったことが自分の将来の経済状態への不安を高め、安定した収入を保障してくれるパトロンを求める気持ちにつながったに違いない。
ウィーンでの本格的な作曲活動に入った時点で、最初に彼の熱心なパトロンとなったのはプロイセン領シュレージエンの大土地貴族(元はチェコ系)でモーツァルトを援助したこともあるリヒノフスキー侯爵であった。1806年に仲違いするまで、彼はベートーヴェンを援助し続けている。
この大作曲家の初期と中期の傑作の多くは彼に献呈されている。『ピアノ三重奏曲第1番』(Op1-1)、『第2番』(Op1-2)、『第3番』(Op1-3)、『ピアノ・ソナタ第8番』(「悲愴」、Op13)、『第12番』(「葬送」、Op26)、『交響曲第2番』(Op36)などが挙げられる。
「3貴族から5000万円調達」生活苦から逃れるために……
しかしベートーヴェンのウィーンでの経済生活は不安定で、苦しい状態が長く続いた。
生活苦から逃れようとして、ついに彼は誘いのあったカッセル宮廷への異動を考え始める。ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(あのナポレオンの弟)が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート)の年金の支給をオファーしてきたからだ。
ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職計画に驚き、それを思い止まらせたウィーン貴族が3人いた。ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、そしてキンスキー公��ある。取りまとめ役はルドルフ大公であった。彼らが拠出した年金総額は、残された契約書には3者合計で4000フローリンとある。現代日本の通貨価値にすると5000万円を下らないであろう。
ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンであった。ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲はいずれも大作だ。『ピアノ・ソナタ第二六番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、『ピアノ三重奏曲第七番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)など後期の傑作が多い。
パトロンの支えで生まれた名曲の数々
ベートーヴェン最晩年の大曲『ミサ・ソレムニス』は、ルドルフ大公がモラヴィアのオロモウツの大司教に就任したお祝いとして作曲されたが、あまりに熱を入れすぎて、就任式には間に合わず、結局その完成にさらに3年を費や��ことになる。ルドルフ大公から受け取っていた年金は、先に触れた契約書では1500フローリンとある。
ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンであった。彼が契約書にサインしている額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲にも傑作が多い。
ベートーヴェン初期の6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲では、『第三番』(「英雄」、Op55)、『第五番』(「運命」、Op67)、『第六番』(「田園」、Op68)、中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、そして『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などである。
ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していたパトロンであった。エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はこのキンスキー公に献呈されている。
破産したパトロンを訴えたベートーヴェン
ただ、ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始める。ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いが不能となった。
キンスキーがプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減する。そうした不運が重なり、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」の廉で訴え、有利な判決を得ている。
これら3者と交わした契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、そして仕事あるいは芸術振興の目的で一定期間当該地を離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていた。
ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、基本的に教会音楽への貢献を求めることのない、自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族であった。
そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもあった。したがって、経済的・社会的上下関係としてはパトロンであったが、芸術分野での教育に関しては師弟関係にあった人物ということになる。
---------- 猪木 武徳(いのき・たけのり) 経済学者、大阪大学名誉教授 1945年、滋賀県生まれ。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』(サントリー学芸賞)、『自由と秩序』(読売・吉野作造賞)、『戦後世界経済史』、『経済学に何ができるか』、『自由の思想史』、『デモクラシーの宿命』など。 ----------
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戦争を可能にするもの
その時の割れそうなほどの強い悲しみと胸の痛みを今でも覚えている。
今から約20年ほど前、当時は幼稚園児の俺は親に聞いたのだを
「戦争で人を殺すのは国を奪うためで奪いやすくするためなの?」と。
親はそうだよ、と答えた。そのあっけなさ。戦争の輪郭と本源的な意味をはじめて自分で考えて、たどり着いた答えは恐ろしい世界の一端をしっかりと引き当ててしまっていた。わたしはなんていう世界に存在しているのだろう、わたしはなんて無力なのだろうと悲しみと虚しさに沈んでいくような気持ちだった。
国を奪いやすくするために人を殺す。その国の人間を殺せば、国は手に入りやすくなるからだ。士気を落としたり恐ろしがらせるために、時には残酷な方法も使う。そんな利己的な国の願望のために平然と機械的に人を殺戮するのが戦争なのだ。なのに、どうしてそんなことが現代まで行われているのか。人間の全てを無視した暴力を考えてただ重く悲しく怒りがこみ上げる。
頭や心で戦争がいかなるものであるか、何をもたらすどんなものなのかを考えることは簡単だ。けれど、目の前に戦争が迫っていてもそれがはっきり「戦争」なのだとわかるのは、戦争が産声をあげたときだ。その強大な脅威やざらついた姿のない不安を感触として捉えることが可能になるのは、戦争が始まる間際から戦争が開始されるタイミングなのではないだろうか。
この国の戦争観は戦禍によって引き起こされる直接的暴力の被害にのみ集中しているように思う。この戦争観の形成は戦争被害の語りを軸としている。当時を経験した人々が語りつぐことは必要だが、今それをすでにこの世に生まれてしまった次世代に引き継ぐ世代は被害者主観の人々だ。死の恐怖や恐ろしさに焦点があたることは自然なことではある。けれど、戦争という相互による被害と加害の拡大は危害を受ける自分という認識にのみ偏っていては全体としての戦争像を掴み、他者をいたわる感情が不足してしまうように思う。他国の人々に危害を加え、加担してしまっている自分という視点や認識や責任が被害者主観の中には最初から視界の中に存在していない。被害者主観から発生した思想感情は厭戦に近い。被害と加害という両側面と自分ではない他者の存在を認められてこそ、反戦なのではないかとわたしは思うのだ。
集団的自衛権が可能にしてしまった戦争参加(戦禍の拡大)のリスクを国民は懸念するが、自分たちが被害者になること中心でわたしたちに攻撃されることで命を落としたりあるいは大切な人やこれまでの日常を奪われ壊される他国の人々の存在はその中に存在していないのではないだろうか。
現実的な戦争の気配は常に死角となっている。死角にある見えなくなった戦争はこの国には米軍の基地や基地があることによる弊害や不安・負担への軽視や原発が空爆で狙われる問題などへの関心の薄さから伺うことができる。
靖国神社は「終戦記念日」だろうといつだろうと常に混雑しているが、無名の戦士たちが眠っている千鳥ヶ淵の戦没者墓苑は特定の戦争に関する記念日以外の日は閑散とし、存在感も非常に薄い。
この国の人々が如何に戦争という形を保ったイデオロギーの形象化を戦争として捉え、演出された強い国家像の理想を投影し、そこに国家と自分を結びつけているのかをこのエピソードに示されているように感じられてならない。
強い国家や偉大ないさましい兵士(実際は戦う前に無責任な命令で餓死していたり病死している兵士も非常に多い。あるいは上官の暴力で心を壊し、亡くなるまでを精神病院で過ごした兵士もいるが、排除されている)に共感し憧れる感覚は一体、どこから生まれ、育まれたものなのか。
8.15の終戦記念日は天皇がラジオで直々に国民に伝え、耐え難きを耐えて忍び難きを忍んでがんばれと言っただけの日であって実際の本当の終戦の日は異なる。天皇制は終わったものの、未だにこの終戦(を報告した)記念日が事実上の終戦記念日であるかのようにあつかわれ無条件的に伝統であるかのように重んじられているところに俺は天皇制支配という直列の家父長制の支配の影を感じるのだ。終戦記念日の尊崇は未だ現人神だった天皇の権威の温存でもあり、神聖視と崇拝だ。
現人神を父��とする赤子(せきし)が『大日本帝国』の最小単位である各家庭の中で女性と子どもを管理し拘束した時代はそうした記念日の中でまだ重んじられているうちは、またいつでも当時に蘇ることができると思う。天皇は人間であり、今では象徴だ。現人神だった時代に作られた認識を今日まで引きずり、国家が国家に都合よく象っただけの英霊像をかぶせられた戦没者たちを尊崇する理由はどこにあるのだろうか。
それは次なる戦争に息を吹き込むようなことと同じではないだろうか?
この国は、ずっとどことなく戦前に近い状態をじりじりと重油が床を浸すようなスピードで直進している。それは時々高い波にかわる。今がちょうど、その時のような気がしてならない。
高校生の頃、エログロナンセンスが流行した時代と現代の文化の傾向と人々は似ていると思った。
不況の風で社会が荒れ狂うとき、雇用は安定を失い、失業や廃業が相次ぐ。そのような不安定な社会に属する人々の精神も同じように脈拍気味になっていく。差別はいつの世も娯楽になるが、不安の時代は所属する安心感と不安を散らし、怒りに理由をくれる差別が強力な娯楽になる。差別は心強く快い友になるのだ。
これは、コロナ禍の現在の日本にも重なる。
退廃的で、人々は楽観的でありながらも同時に深く疲労している。
現在、アゼルバイジャンとアルメニアはナゴルノ=カラバフを巡って戦争状態にある。この戦争にすでにトルコはアゼルバイジャンに加勢している。トルコはかつてアルメニアの虐殺を行った過去があるために、この戦争は泥沼化していくと考えられる。事態が拡大すればCSTOが動き、ロシアも戦いに加わるだろう。戦線が拡大すればNATOも動かざるを得なくなる。そうなると日本も全く人ごとではない。現在インドはカシミール地方を巡る紛争の気配が濃い。今世界はこれ以上なく緊張している状況にあり、今この瞬間も国家と国家のみとめる優位な民族によって少数民族や宗教弾圧が至るところで行われ人々の血が流されている。
ニュースは被害を無機質に数字でしか伝えないが、戦争の幾重にも折り重なった層の中で一般住民たちは数字に変えられることにわたしはいつも納得がいかない。いま国家や民族などの関係で、迫りくる危機が地層のように重なった狭間で人々は尊厳と命と自由その全ての人間としての権利を地層の上下に挟まれて不安と恐怖と見えない波の中にのまれてしまっている。
戦争に巻き込まれるのは子どもと女性、高齢者たち、全ての国民だ。彼らは幾重にも連なった抜け出すことができない地層の上下の間にいるのである。
戦争は子どもたちにPTSDや飢え、医療の不足や栄養失調による死、不満足な教育などのリスクをもたらす。かれらは本来ならば経験しなくても良いはずの自分と家族らの生命と心身の重篤な危機に直面させられ、心身に強大な負担を背負わせる。子どもは親を失った後孤児となり、路上などの生活を強いられる可能性と隣り合わせだ。もしくは兄妹や家族を亡くしたショックで廃人のようになってしまった親の介護や世話をする日々をやすみなく送るかもしれない。あるいは戦争による怪我や心身の後遺症で働けなくなった保護者のために小さな体で過酷な労働をするかもしれない。戦争以前から親もなく路上で生活していた子どもたちは戦争前よりもより困難な生活を強いられるのではないだろうか?
戦争がもたらすものは直接の被害だけではない。攻撃によって家族の働き手が怪我・死亡した場合は子どもと女性たちは心に傷を負いながら、困窮した生活を強いられることになる。主計者を失ったことで貧困生活に転落する家族たちも多くなるだろう。主計者を失い、体に怪我を負って働くことができない家族、または子どもたちだけが生き残った場合はどうなるだろう。
戦争による大規模な人とものの移動は現在のコロナ禍の状況をより悪化させる。大規模な人員の投入、また、大量の避難民は過密状態での移送・移動が行われる。そうした状況でパンデミックはより深く広がり悪化するのではないだろうか。免疫力の低い子どもたちや高齢者たちは感染症に無防備だ。
人々が疎開・避難した先にたどりつくことができれば心身や命の安全が確実に保証されるのかというと、そうとは言えない。物的な資源の不足や攻撃による物資の足止めを食らうことにより、栄養面や医療的な危機、飢餓や精神の安全が脅かされる場合がある。女性は避難した先ではプライバシーも何もない場合が多い。レイプや妊娠、性感染症の危険と隣り合わせだ。
一時的に攻撃を避けるために集まる防空壕やシェルターでも感染や性被害のリスクは高まる。病院は攻撃で体を傷つけられた人々で溢れ、医師は不足する。その他の疾患の治療や手術が必要な人たちは医師が少ないために後回しになるだろう。大規模な攻撃が起これば小さな集落の小規模の病院は運び込まれる人々で過密状態が継続されてしまい、防護服や薬や消毒薬等の物資の不足が起こる。
閉じられた空間内での感染症やコロナの爆発的感染が充分起こり得る状況が戦争によって作られてしまうのだ。
戦後も人々が戦禍とコロナ禍に振り回された事実は変わらず残り、多くの子どもたちは心身の後遺症やその後の人生や生活に困難し苦労するだろう。戦争の傷は戦争が生んだコロナの拡大や性被害、あるいは戦時下の子どもの心身を戦争のためにコントロールする教育によって、または身近な家族の死によってより深くなっていく。
直接的に戦争維持に関わる軍人はさらに厄介な空間の中にいる。
作戦に従う兵士らは命を奪われる恐怖とストレスに直面されられる。戦後はPTSDとの戦いだ。死ぬか、殺されるかの環境は人の心をおかしくさせる。小隊の中での人間関係、上司の派閥や年功序列、兵士同士の人種間や宗教の争いも内部には溢れている。兵士は暴力性の規格や男同士の絆によって拘束されるのだ。戦争の恐怖やそのややこしさは単なる生命の危機だけに限定されることはなく、人間関係からも生じる。
戦時空間では正義の顔をした分断と排除が公的に行われ、暴力が肯定され、持続的な心身の供出と協力が求められる。
そのために都市化や工業化は持続され、工場で兵器の製造などに従事する貧しい人々は空爆の標的になる。より弱いものから先に死ぬのだ。
戦場という広域の空間を護持し、人々に空間の維持を促進させるのが「地層」の上部、つまり社会の意思決定とは法であり、ルールだ。これは戦争を可能にする法だけではなく、検閲のルールや監視のルール、国のために全員が一丸となって戦おうという意思決定の根拠となる、人々の集団化を促進させる、社会全体が自発的に守る規範である。
国に属する国民としての自覚が戦争の進む先を決めてしまう。そうした自覚は個々人に宿り、民族自決や折り重なった歴史から形成されていくものである。そうして、人々に自発的に戦時空間を維持させ、守らせることで人々の権利を上下から縮めていく。
監視は人々を統一し統合するために必要になる。行動だけでなく教育や文化、個々人の葉書やニュースなどの大規模なものから小規模なものまでの情報の流通や内容に関するものにまで監視は及ぶ。監視されているという無言の圧迫が自己検閲につながる。そうすると、国家に有利な人々ばかりが増える。国家が強権的に人々に干渉することで国家に有利な潮流を形作り、定着させていく。
女性は戦時空間の中で被害者であるが、男主導の社会空間のなかで男と同等の権力を持つために率先して戦争に積極的に関与したり協力したりして認めてもらい、加害者の側に転じる場合がある。
これも家父長制の罠である。
こうした現象は現代の政治の場でも起こっていることだ。党の中の派閥争いに打ち勝つため、あるいは支持者を集めるために巨大な家父長的な組織に属して家父長制を強化する立場になることもある。���して、「女性の立場からも家父長制を支持し、支援している。女性も納得しており、家父長制を望んでいる」という動機付けを与えている。
戦時空間の意義と秩序を護る皮膜はホモソーシャリティも関わっている。
日本人として自覚や誇り、都合よく編集された伝統などの優越感の皮膜によって差別や自国優先主義は守られてきた。国内で公然化する外国人差別や女性差別、憎悪、ウィークネスフォビアは家父長制の産物である。
物事の主観や決定権を片側の性別にのみ恣意的に伝統の名を借りて偏らせた状態の社会は常に戦争の火種を蓄えていると言っていい。
軍国主義の権威主義的パーソナリティはホモソーシャリティと強固に結びついている。視座に市民は存在せず、意向に沿わない市民は敵である。そうした国内の敵を排除するという政府と、そうした政府への支持や暴力的な権力者への思いやりもまた、ホモソーシャリティとの関わりが強いように思っている。
ホモソーシャリティの縫い目からこぼれ落ちた男は攻撃の対象となる存在であった。力こそ正義の空間では、そうした異端者は嘲笑と矯正の対象だ。
多岐にわたる細分化された差別と支配者主観を軸にした被差別層・差別層の区別を家父長制は正当化した。差別を温存する構造と文化・それらの形式の命脈を持続させてきたその集大成が戦争だとわたしは考えている。いわば、現状の社会は暴力を内包した空間なのだ。そうした者の中で男たちは男らしい力をふりかざす慈しみ深く悲劇的でいさましい国家がこしらえた兵士象に共感し、憧れ、彼らがあるから今のわたしたちがあるのだというふうに兵士像と一体化しようとする。
そのような空間で差別は民間防衛や「平和のため」という正義の皮膜をかぶってさらに公然と露���していくのだ。
戦死者は実像と人生を失い『英霊』や『偉大な戦士』という外部の人々が「そうであって欲しい」とねがう誇り高い戦士像の牢獄の中で永久に忘却されていく。人々は「英霊」の物語に心を傾け、個人が目と耳に優しいうるわしい戦争を望む限り、新しいかたちの差別は生まれ続け、家父長制が意思決定層を男たちにゆだねることで、戦争の火種がずっとありつづけるのだ。
この家父長制の国は家父長制の国だからこそ戦争に傾こうとも全くおかしくないと思う。いまだに政治のトップは敗戦を恨んでいるからだ。
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『天皇の美術史』刊行記念鼎談
髙岸 輝 先生
五十嵐 公��� 先生
橋本 麻里 先生
美術との出会い
――本日は来年1月から刊行開始する『天皇の美術史』の企画編集委員である髙岸先生と五十嵐先生、そして今、テレビや雑誌などでご活躍中の橋本先生にお越しいただきました。まずは、先生方が美術に携わるようになったきっかけをお聞かせ下さい。
髙岸 もともと僕はデザイナーの仕事に憧れがあったんです。
橋本 そうだったんですか!
髙岸 美術と歴史とはずっと好きだったのですが、高校卒業となると進路を決めなければいけない。そのとき文系・理系という分け方に収斂されることがすごく嫌で、ハタと見ると芸術系という部門が(笑)。
橋本 第3の道ですね。
髙岸 はい、芸大に行きたいなと思って。一番やりたかったのは車のデザイン。イタリアの工業デザイナー、ピニンファリーナとかジウジアーロとか、本当はそちらに行っているはずだったけど道を外して…。
五十嵐 初めて聞きました(笑)。私は美術にまるで興味がなかったのですが、たまたま高校3年生のときに読んだ高階秀爾先生の『名画を見る眼』(岩波新書)が面白かった。絵画に意味や歴史があることを知ってからです。
橋本 髙岸先生はそんなに早くからデザインに関心を? 早熟ですね。
髙岸 子どものときから図工に得意意識があって。
橋本 五十嵐先生は見る方だった?
五十嵐 何も作れません(笑)。作っても「よく頑張ったね」という感じ。
髙岸 今でも作る側にいた自分というのを常に思い描いてしまうんですね。
橋本 あったはずのもう1つの人生…。
髙岸 今ごろ僕の車が走っていたかな、とか思います(笑)。
五十嵐 美術史でそういう人はいるかな。
髙岸 結構、実技崩れという。
橋本 実技崩れ(笑)。
髙岸 芸大は多いと思います。第1巻の増記隆介さんは東大ですが実技も。
五十嵐 日本画を描いていたそうですね。
髙岸 橋本さんはどうですか。
橋本 私も図工は好きでしたが、美術に深い関心はなかったですね。私の場合、研究者だった伯父の影響で文化人類学に興味を持っていましたが、ベルリンの壁崩壊や天安門事件があった時期で、つい浮気をしてICUに入学、国際関係を勉強したんです。国連機関に就職しようと考えていたのですが、結局また文化人類学に引き返して、双墓制(両墓制)をやりました���
髙岸 まだ美術の美の字も出てこない。
橋本 卒業後、就職したのがいけばなと現代美術の二刀流の出版社だったんです。そういうものを仕事として扱っているうちに、美術や茶の湯などに関心を持ち始めて…。その後、独立したライターになったときに、現代美術と日本美術の両方について書く人がほぼおらず、両刀使いができるというので、いろいろな形で便利に使っていただくうちに、こんなことになっていました、という経緯です。
日本美術ブームの到来 髙岸 2000年の少し前くらいから、日本の古美術研究や展覧会が変わってきましたよね。展覧会にはお客さんを入れなければいけなくなったし…。 橋本 その変化のきっかけは何なのでしょう。いわゆる「日本美術ブーム」は、京都国立博物館(京博)の若冲展から、という言われ方をしますが。 髙岸 その時期に博物館にいた五十嵐さんは肌で感じていた? 五十嵐 新聞社の巡回展にはお客さんが来る。でも、自主企画展はお客さんが来ない。そういう状態が少し変わってきたように感じていました。 髙岸 お客さんも展覧会の企画も変わった。昔は東博(東京国立博物館)本館の特別展でも閑散としていて、どこか「研究者しか相手にしていません」という構えがあったし、京博の常設展はそれが長く続いた。院生がギャラリーで学ぶには最高の環境でした。図録もアカデミックだけど、デザインは凝っていなかった。それが90年代の終わりぐらいに、京博の図録が急におしゃれになり始めた。 五十嵐 デザイナーが入るようになったんだと思います。また、展示のデザイナーなんて昔はいなかったですよね。 髙岸 94~95年くらいまでは、国立博物館の展覧会でも企画者の顔が見えた。それが今残っているのは京博? 五十嵐 京博とは一緒に仕事をさせてもらったことがありますが、頑張っておられますよね。 橋本 独立行政法人化以降の流れが、結果的に今、日本美術の展覧会に多くの人が足を運び、テレビ番組のコンテンツにもなり、という状況に結びついているのだとしたら、今の状況をプラスに、ポジティブに評価していいのでしょうか。 髙岸 以前はアカデミックな組織運営だったとおもいますが、今は観客の目を強く意識していることが伝わってきます。日本美術がブームといわれているけれども、いつかは終わると思っています。だから今、ぎりぎりのところで美術館・博物館は努力しているのではないかと思うのですがどうでしょうか。 五十嵐 これまでの様々な研究成果を吸い上げて展覧会を作っている。頑張って吸い上げているという状況ではないでしょうか。 髙岸 例えて言うなら、昔は地下に石油はいっぱいたまっていたけど、吸い上げて地表に出すパイプが細かった。今はどんどん吸い上げているから、枯渇に向かわないか心配です。 五十嵐 それを何とかしたいとう意図が、このシリーズにはあります。その鉱脈として権力、天皇に目をつけたわけです。 橋本 これまで手をつけられてこなかった鉱脈だろうと。 髙岸 天皇��けとか、権力そのものだけで日本美術を通史的に編むということは、今まで意外となかったのではないかと思います。
シリーズ誕生と伊藤若冲 五十嵐 初めてこの話が出てきたのが、2011年8月。吉川弘文館から新しいシリーズを作るので、どうですかと声をかけてもらって。 髙岸 私も五十嵐さんも吉川弘文館から単著を出していますが、これらの延長線上にある「権力と芸術」というのが、大きなテーマになるかな、と思いました。 五十嵐 言い出しはどちらともなく。 髙岸 とにかく一本筋を通したシリーズものがいいよねという話をし、考えられるキーワードは何があるだろうか、ということでしたね。 五十嵐 最初は一人一天皇という方針があったのですが、影響力の強い天皇、そうでもない天皇がいて。 橋本 濃い薄いがある。 五十嵐 ええ。それで構成も大きく変わりました。 橋本 大正までで終わらせたのは、あまりにも現代史に過ぎ、まだ研究の対象になり得ないからですか? その先にある現代の天皇と美術というテーマは、非常に気になります。 髙岸 おっしゃるとおりで、美智子皇后は美術に精通されていて、皇族の方で研究者もいらっしゃいます。そして、今の美術館の現場に行啓される。 五十嵐 美術館だけでもないですよね。 髙岸 そういう方々が、広い意味での美術史にかなり重要な役割を果たしているという気はします。 五十嵐 「展覧会に天皇がいらっしゃいました」というと、ニュースになりますよね。 髙岸 その辺は橋本さんの方が(笑)。 橋本 いや、よくは分からないのですが、権力と美術ということでいうなら、今の天皇にはいわゆる政治的な権力はない。かといって文化をつかさどる権威であるという立場でもない。彼ら皇族が美術に関わることを許されているのは、権力と関わらない分野だからということで、生物学を研究なさったり、美術館に行幸啓なさったりということなのかなと思うのですが、近代以前とは反転した状態にある現在の天皇と美術の関わりについては、やはり読みたかったところです。 髙岸 2年前、三井記念美術館の「東山御物の美」展では会期末ぎりぎりになって行幸がありました。まさに室町時代の北山殿とか室町殿への行幸が再現されていて、本来、それは政治以外の何物でもなかったわけですが…。美術というのは文化の領域に属するということで、今の天皇が政治に関わることをうまく回避できる部分でもある。でもまったく政治的でないかといわれれば、そこは研究の余地がある問題という気はします。 五十嵐 でも、この点は扱えなかったかな。全6巻を作るだけで精一杯でしたから。 髙岸 もう少し歴史の検証を待ちたいところですかね。今やってしまうと、1次資料ではあるけれども、検証、研究した内容と言えるかどうか。各美術館で行幸啓をお迎えした方にインタビューをして、実際にどういうお言葉があったかなど、すごく知りたいですが。 橋本 折々にいろいろな方からそのあたりの話を伺うと、面白いエピソードを話してくださるので、かなりあるはずです。 髙岸 このシリーズがいったん終わって、その後新たに、という形があるかもしれません。
橋本 現在の日本美術ブームの中で、核になっているのは伊藤若冲ですが、その中でも最も愛され、人気の高いコレクションが御(ぎよ)物(ぶつ)の中にあるのも面白いですね。 五十嵐 若冲は私が担当する第5巻の時代なのですが、出てきません(笑)。というのは、5巻は御所障壁画に注目したからです。御所障壁画は江戸在住の狩野一門が描くことになっていました。ところが1788年の天明の大火で御所が焼失し、それが変わります。御所再建は幕府の仕事だったのですが、その頃の幕府はお金がなかった。そこで御所障壁画制作を京都在住の絵師たちに任せたわけです。安くあがるからです。その際、土佐家と鶴沢家に京都在住の絵師たちをまとめさせた。その結果、土佐家と鶴沢家が注目される。京都の人名録である『平安人物志』では、天明の大火以前の序列トップは応挙、2番目は若冲です。ところが、天明の大火以降は土佐と鶴沢が最上位、それ以外の絵師がその下のランクになるんですよね。 髙岸 面白いですね。 五十嵐 18世紀後半、確かに応挙や若冲は、天明の大火以前の京都で大変な人気があった。ところが天明の大火で、新たな絵師の序列ができてしまう。それが京都の絵師たちの活動を、つまらなくしたのかもしれませんね。 髙岸 つまらなくなったというと買ってもらえなくなるので(笑)。 五十嵐 そうですね。言葉を選ばないといけないですね。 髙岸 辻惟雄先生が「奇想の画家たち」を再評価し発掘した。発掘したということは埋めた人がいるわけで。 橋本 埋まっていた状況があるわけだ。 髙岸 その状況は、今までほとんど語られてこなかったわけです。掘り起こした人を評価すると同時になぜ埋まっていたのかを見れば、掘り起こしたことの価値も、もっと上がってくる。 橋本 同じような事例は、文化の別の領域でもあったのでしょうか。秩序の回復といったらいいのか、ある自由な状況が、そうではない状況に移行する、ということが。 五十嵐 ほかの文化はどうでしょうか。ただ、天明の大火は京都の大事件だったように思います。それまでの比較的自由だった状況を変える契機だったのではないでしょうか。 髙岸 そうすると、今は天明の大火以後みたいな状況になっているのか…。 五十嵐 ついでに言うと御所障壁画を描く絵師は登録制だったんですよね。絵師は登録業者。だから、今の公共工事のやり方と御所障壁画を描く絵師の選ばれ方というのはよく似ているんです。
天皇と美術
――各巻の内容、見どころについてお聞かせ下さい。まずは第1巻から。
橋本 毎年この時期に奈良博で正倉院展が開かれていますが、天皇による文物のコレクションの始まりはあの頃からですね。
五十嵐 後白河法皇がものを集めてきたことと、正倉院でものを集めたことを第1巻を担当した増記さんがなぞらえて論じているんですよね。そういう視点はものすごく面白いと思います。
橋本 聖武天皇の妻の光明皇后が正倉院にコレクションを残した。そこには、例えば中華皇帝のコレクションを意識するような部分はあったのでしょうか。
髙岸 少なく���も後白河の時代、北宋の徽宗の美術コレクションというのは、すでに日本で認識されています。
橋本 憧れの対象になっているんですね。
髙岸 第1巻でかなり明確になっていると思います。中華皇帝のコレクションと、権力と��直結させるような考え方は、古代国家の中で重要な役割を果たしていた、ということになっています。
五十嵐 第1巻は扱う時代がすごく長い。よくまとめてくれたなという感じです。
橋本 平安末の院政まで入っている。
髙岸 実は鎌倉まで入っているんです。
橋本 第1巻と第2巻は微妙に重なり合っているようですね。
五十嵐 個性の強い天皇が出てくるので重なってしまうんです。
髙岸 第1巻から第3巻までの要になっているのは後白河で。
橋本 3冊共に出てくるのですね。
髙岸 後白河の大仏開眼供養。源平合戦で焼けた後の大仏開眼で、最初の開眼のときに使った筆を正倉院から持ってきて、そこでちゃんとループするんだと。
五十嵐 面白い点に注目したなあ、と思いました。
橋本 完璧なページェントですね。
髙岸 続く伊藤大輔さん担当の第2巻はシリーズで最初に刊行されるのですが、これがまた濃い1冊で。
五十嵐 加須屋誠さんが、そのまま単行本になりそうな原稿を書いてくださった。ページ数は大幅にオーバーでしたが、全部もらわなければ損だと皆で判断しました。
橋本 後白河・後鳥羽・後醍醐がいて、もうお腹いっぱいという感じで。
髙岸 橋本さんからみても、14世紀はすごく印象の薄い時代というか…。
橋本 美術の通史だと、南北朝はさらっとスルーされちゃうんですよね。
髙岸 これまでの研究はいくつか山があって、その山から谷を埋めていくというやり方できてるから、仏教美術だと平安、鎌倉がひとつの山、次の山は桃山あたりの近世絵画。谷底の日陰になっていたのが14世紀。だから、鎌倉時代の絵巻・彫刻・仏画で、よくわからないものは全部14世紀に放り込んできたわけです。 五十嵐 ところが、頼朝の神護寺3像の。 髙岸 そう、あれで状況が変わったんですね。伝頼朝像が14世紀のちょうど真ん中だという話になって。 橋本 あれは何年でしたっけ。 髙岸 1345年が最初の2幅です。後のもう1幅が51年ごろですから本当に真ん中なんです。今まではほとんど注目されていない、分からないものを放り込んでおくブラックボックスみたいな。 五十嵐 そう、ブラックボックスですね。 髙岸 そういうところが14世紀だったのですが、後醍醐という強烈な帝王がいて、そのブラックボックスを後醍醐中心に見直すと、実は大変豊かな場所だと。僕は若冲の発見に匹敵すると思っているんです。辻先生の『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)で18世紀が面白いと分かったとすれば、今回の第2巻で「南北朝、実はすごいよ」ということが、日本美術史でほぼ初めて分かったのではないかと思います。 橋本 歴史の分野での南北朝、後醍醐ブームは昔からありましたよね。なぜそれが美術史に反映されなかったのでしょう。網野善彦さんのようなトリックスターがいなかったから? 髙岸 文学でも『太平記』の研究はすごく盛んで、歴史では常にホットであり続けている14世紀が、美術史で注目されてこなかった理由というのは…。 五十嵐 柱になる作品がなかったところに頼朝像が出てきたからではないでしょうか。 橋本 やっと拠りどころになる、足掛かりになる作品が見つかった。 髙岸 このイン��クトはかなり大きいですよね。 五十嵐 そんな第2巻が、最初の刊行というわけです。
髙岸 私が担当している第3巻。室町・戦国は、日本の歴史の中でも江戸と並んで天皇の権威が最も落ちてきた、最も存在感が希薄だったといわれている時代です。一方で、足利将軍や戦国大名、そして天下人が出てきます。金閣(北山文化)・銀閣(東山文化)や大坂城・安土城・聚楽第(桃山文化)が美術の象徴だったといわれるのですが、最近、歴史の研究を見ていても、彼ら武家側の支配者たちが天皇と深く関わり、公家社会と混然一体となっていくことが見えてきました。将軍と天皇が一体化し、ハイブリッド化していくことによって新しい武家政権は古典を手に入れ、天皇の側は古典を維持するためのお金を得た。お互いウィンウィンで、文化と経済、あるいは権威と生活、それぞれの交換が成し遂げられる時代です。戦国時代の天皇は、権力としては衰退の極みといわれていたけれども、すごく立派な書を書くんです。これには超然とした迫力を感じます。 五十嵐 できれば書(宸(しん)翰(かん))を扱った章が、どこかに欲しかったですね。 髙岸 宸翰というのは天皇自身がアーティストでもある。 橋本 それこそ正倉院に入っているコレクションの中で、制作者の個人名が立っているものって書にしかありませんよね。日本で「美術」と見なされたものの始まりで、かつ天皇家のコレクションの中でも重んじられてきたのは書だと思うのですが、同時に彼らが書けば宸翰となる。そういう意味では、ぜひ書で1章を立てていただきたかったです。 髙岸 鑑賞者、あるいはコレクターとしての天皇だけではなくて、制作者側の天皇という話ですね。天皇本人、あるいは宮中でさまざまな女性皇族たちが、実は絵を描いたり、飾り物を作ったりということで活動している。そのことの意味は結構大きかったことが、第3巻、第4巻で見えてきました。作り手の問題というのは、今回注目したポイントのひとつです。
五十嵐 野口剛さん担当の第4巻、私が担当した第5巻で江戸時代を扱っているのですが、門脇むつみさんが注目したのが、江戸時代前期の大物である後水尾天皇。たくさんの子どもたちが描いた絵、書はどんなものかというのを論じてくれました。 髙岸 野口さんの原稿は、琳(りん)派(ぱ)と天皇の関係をかなり深く追究しているので、これも画期的なものですよね。 五十嵐 私は第4巻で、御所障壁画の通史を書きました。先ほど言ったように、天明の大火以前、江戸在住の狩野一門が御所障壁画を描いていました。彼らに注目して時間軸をつくったという感じです。続く第5巻は天明の大火以降。光格・仁孝・孝明天皇の時代です。少しマニアックになってしまったかもしれません(笑)。 髙岸 いまだかつてない充実した史料です。 五十嵐 どのような選考があって京都在住の絵師たちが御所障壁画を描いたのか、その実情を暴いたのが武田庸二郎・江口恒明両氏の論文です。そして私は、江戸時代の最後の天皇である孝明天皇について書きました。ペリーが浦賀に来てから急速に日本は変わるのですが、天皇の周りで美術は動いていったという話です。最後の第6巻は塩谷純さんの担当ですが、まるごと明治天皇に注目したという内容になっています。明治天皇が美術史に果たした役割はそれだけ大きかったということですね。 髙岸 このへんは橋本さんもいろいろと。 橋本 御真影の問題とかも含めて、問題山積ですね。 髙岸 まさに現代に直結するような…。帝室博物館もそうだし。 橋本 近代的な美術の制度がみんな天皇絡みでつくられていくという。 五十嵐 最初の天皇の写真が隠し撮りだったと書いているのは第六巻でしたね。 橋本 そんなことして大丈夫だったんですか(笑)。 髙岸 今でいう盗撮(笑)。 橋本 では、公に認められた御真影ではなくて。 髙岸 それが民間で流布するという面白さですよね。伝統的な皇室だけれども、西洋的な技術や表現の受け入れ口にもなっているということです。正倉院からしてそうですが、ヨーロッパやアメリカも含め、広い意味で唐物受け入れの公式な窓口としての天皇、というのは全巻を通してのテーマです。さっき紹介しなかったけど、第3巻の黒田智さんの観点も大変面白い。安土桃山時代に後陽成天皇が地球儀を見たという話です。そのことの象徴的な意味。 五十嵐 黒田さんが書いてくださった章は刺激的ですよね。 髙岸 先ほどの加須屋さんの14世紀論というのも、初めてだけれども、黒田さんの16世紀論というのも、初めて全部まとめて論じています。ありとあらゆる江戸の美術のベースになっているものは、16世紀に出そろうわけですが、その辺の問題を地図まで含めて見ています。 五十嵐 秀吉が大坂城で持っていた書画リストの新出資料があるんです。 髙岸 結構、東山御物が流入していることとか。 橋本 そういう意味で、茶の湯は1つ大きな受け皿だったと思うのですが、武家に好まれた墨蹟中心の掛け物に、歌(うた)切(ぎれ)が入ってくるのも16世紀です。 髙岸 和物もそこから再評価ですよね。 橋本 貴族、公家たちが持っていたものが使われるようになる。そして、それに価格がついていく。 髙岸 細川家もずいぶんと、その価値付けの問題とはかかわっていますね(笑)。 橋本 価値の「創出」は重大です。公家にも切実な貧乏脱出作戦ですから。 髙岸 信長にとって茶道具などを蒐集、強奪、展示、下賜する最大の理由は由緒だと。どこかの戦いで城を陥としたときに、こういう大名からこれを奪ったんだということを茶室で語りたいために、そこにポンと置いておく(笑)。そして茶室に来た人とのファーストコンタクトで、「いやこれ、最近手に入れて。このあいだ松永弾正がね」と語るような、極めて生々しいものですね。 橋本 ということは、モノそのものの価値というより、物語消費。 髙岸 だから、由緒書きというものをとにかく信長は必要とした。またそれを書く専門のライターが、この時期につぎつぎに出てくるわけです。
橋本 それこそ今の歴史学における信長の描き方というのでしょうか、信長がどういう目的をもって彼の戦いを戦っていたのか、その見方が近年大きく変わってきていますよね。そういうあり方とも…。 髙岸 深く関係してきますね。安土城も茶道具もそうですけれども、視覚的な形になったものを信長がどう活用したかということがかなり明確になった。それを秀吉は、忠実にトレースをしている。そういう意味ではいい師弟関係、2人で1つみたいなところがあります。 橋本 権力と美術。でも信長の、弱体化する天皇とその秩序を守る将軍、そして将軍を支える自分、というあり方と、その由緒書き主義みたいな感じは、すごくシンクロしていると思いました。 五十嵐 秀吉は無邪気に天皇に近づいていったように見える。信長は利用するために天皇に近づいているけど、秀吉は近づいていって官位をもらったり、関白になったり、天皇を聚楽第に呼んだり…。 髙岸 そういう無邪気さが許されるだけの天下の安定と、莫大な経済力が。一方、家康はそこから一歩引いてかなり慎重にやっていた。 五十嵐 家康は鎌倉幕府をサンプルにして、京都から離れたところに幕府をつくったから、どっぷりではなかったんでしょうね。江戸から天皇をコントロールするというやり方ですよね。 髙岸 後白河が持っていた絵巻を、源頼朝は見せてやるといわれたのにあえて断ったという有名なエピソードがありますね。おそらくそれを地でいったのは家康だったと思います。実は家康も結構、絵巻をコレクションしている。あの人は本が好きだから。 五十嵐 そうすると、後水尾天皇が後白河の役割かな。 髙岸 本人たちが意識するしないにかかわらずなぞってしまっていたんでしょうね。
興奮と期待と
――最後に本シリーズについて一言ずつお願いします。 五十嵐 どの執筆者の方にも、少しでも新しい史料を加えて何かしようという姿勢があったような気がします。ありきたりの通史の本にはなっていません。そんな点を理解していただけると嬉しいですね。 髙岸 企画編集委員として各原稿の最初の読者として接する幸運に立ち会っているのですが、皆さんいろいろな意味ではみ出しています(笑)。ですから、問題作がたくさん詰まっていて、五十嵐さんがありきたりではないと言った意味は、そこですね。まったく新しい切り口をひとつ設定するだけで、美術史の叙述がかくも豊かになるのかという新鮮な驚きというか。 五十嵐 皆さんの原稿を読んで興奮しました。 髙岸 興奮と同時に、打ちのめされるんですよ。すごい書き手のものを共著として読んでしまったときの、「やられた」という感じを今回は何度も味わいました。 五十嵐 サラッと美術史を勉強しようという方には違和感を与えてしまうかもしれないけれども…。 髙岸 本シリーズに出てくるさまざまなストーリーは、今後、美術館で学芸員の皆さんが企画をされるときの種になると嬉しいです。 橋本 今日お話を伺って、14世紀の問題、16世紀の問題など個別に読みたいテーマもたくさんありましたし、同時に天皇という切���口を作ったことで見えてくるものもさまざまにあるように思います。単に美術史の問題として終わるのではなく、読み手自身がそこから、権力とは何かという問題意識を持つこともできるはず。政治史であったり、もう少し大ざっぱに日本史といってもいいですが、そちらの方面からではなかなか見えにくい日本の権力のあり方のようなものが、このシリーズを通じて��らかになってくるのではないか、という期待がありますので、そういう意味でもとても楽しみです。――本日はありがとうございました。(2016年10月29日)
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