Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
虐待されていた子、性被害に遭って家から出られなくなった女性たち、夫の実家に嫁いでから、そのままずっと家の中で無償で働き続けた女性、義両親の介護をし、疲弊と救いのない日々を送りながらそのまま家の中で津波に飲まれ亡くなった母親たちも多くいたでしょう。震災後、性被害に遭い、魂を殺された女性たちも多くいます。10年経っても無かったことにされ続けている全ての女性のために祈ります。
0 notes
Text
めちゃくちゃ要約すると、
1.警察官もAVや性風俗を利用しているのだからそれが北欧モデルになったところで社会が変わらなければ何にも変わらない。
2.もし北欧モデルを導入したら女性を沈めて金をかせぐ男たちは処罰を免れるために配信やアバターを用いて金を稼がせる手法を使うはず。
3.巧妙化する性搾取に警察は臨機応変に対応できると思えない。意図的な見逃しもありえる。
4.抜本的な社会改革とセットで行う必要がある。女性の賃金を男と同じにしなければいけない。女性を雇用の調整弁としなければ立ち行かない社会を変える必要がある。生活費や養育費、学費、借金返済のために性産業で働くことを選ばざるを得ない女性がいる現在の状況を変えないと話にならない。
ということです。(おわり)
北欧モデルは本当に無意味か?
誤解を恐れずいうと、藤田氏のツイートに対してこの返信をした方の最初の4行はたしかにその通りだと私は思った。後半はもちろん賛成はできないが。実際この国で売春は犯罪として明記されているもののスカウトも風俗店も大半はグレーゾーンとして扱われている。
北欧モデルという枠組みだけ導入したところで変わらないという点には同感だがら私の場合はすこし彼と意見は違う。
警察の意識が変わらなければ全く意味がないといえるからだ。
枠組みを運用する側は女性の置かれた現実を知らない。意思決定層の8割は男で、身体が女であるが故の差別や不当な扱いにさらされる経験を持たない。売春業者を取り締まる警察組織も男性が大半だ。女性差別が女性身体に基づいて���われていることからこそ女性の売春被害が起こっているとして彼らは真剣に取り組むだろうか?
例えば上記に添付した記事内には、ソープは入浴補助としてみなされておりグレーとして扱われている。
仮に出会い系アプリなどを業者が使えないように封鎖したとしても、LINEのチャットや他のいろんなアプリやSNSやゲームのチャットなどを通じて隠語を用いて掻い潜って買い手と女性がやりとりす���ようになるのは目に見えている。足跡を残さない店舗を持たない風俗店は増えて被害者も増えていくだろう。そしてサービス内容も女性に心理的負担を強いるものになっていくだろう。被害もより不鮮明になっていく。摘発逃れのために業者が手を替え品を替え売らせ方は複雑になっていく。形上、廃止することはできるかもしれないが、潜在化した性産業は結局生き残る。そうなるとさらに摘発は困難だ。YouTuberのワタナベマホトもファンの児童から裸の写真を送るように指示していたように、SNS全体の課題でもある。
今のグレーゾーンのままを継続しておくのが正しいとは全くおもわないが、法の目を欺くためにすでに女性にサービスをさせている業者は売り方を変えている。
例えば、こんなふうに
今では、配信の仕事を装って可愛いアバターでおしゃべりするだけ!あなたのためだけのイラストを用意してもらえる!対面じゃない分敷居は低く、やってみたい、これなら私でもできそうだと思わせて女の子を誘導する手口だ。広告に使われているイラストも、未成年の漫画やアニメが好きな女の子から見て性的な要素は薄い。もしも北欧モデルが運用されたとしたらこういったアプリのように、配信業という形で敷居が低くリスクが少なそうなイメージで女性を誘い込む手口は増えるのではないだろうか?と私は考えている。
もし北欧モデルが導入されたとしても、こうした業者は「いえ、ただコミュニケーションをしているだけです」「ヴァーチャル空間内のコミュニケーションなんです」なんて言ってきっと逃れるだろう。これは断言する。
女の子たちがヴァーチャル空間でテレフォンセックスを強要されたり脅されたり身体に苦痛を与える暴言や性的ないやがらせを受けたとしても、女の子たちは拒否できる立場にはない。喜んだり、うまくかわさないといけない。恋人同士のような会話を強要されることもあるだろう。配信業は新しい形のグレーゾーンの店舗を持たない性風俗店の新しい砦に変わるのだ。業者としても、従事した女性は妊娠する危険がなく、生身の体で接触したわけではないといって言い逃れができる。
もしも仮に形だけ北欧モデルを導入だけしてもおそらく、業者や売り方が複雑になり摘発を免れようとして潜在化していくだろう。それを日本の警察は真剣に捜査するだろうか?摘発のために動くだろうか?風俗店に警察官があかすりの機械を置けば摘発されないとアドバイスする国で?どうやって?レイプワンストップセンターの予算を削る国で?どうやって?本当に法の枠組みだけで、この惨状はどうやったらなおるのか?
そもそも性産業というのは女性蔑視の根と幹によって成り立っている産業だ。買い手と売り手の男たちが変わらなければ意味がない、全く意味がない。女性差別の根が変わらなければ、法はただの置き物でしかない。今売春に関する法律がほとんど置物になっているように。そのことを理解しているのか?そもそも女性や障害のある女性を食い物にしている性産業は女性の賃金が抑えられているからそこに行かざるを得ない女性がいる。そこで働かなくて済むようにこの国は女性の賃金を男と同額にする必要がある。
女の子が身体が女の子であるが故の差別や中傷や不当な状況の中に置かれ、尊厳と自尊心を不当に傷つけられ続けないといけない、今の土壌から変わらないといけない。それができなければ北欧モデルは置物と変わらない。
1 note
·
View note
Text
TGismはビニールハウス?
どうも元気にしていますか?私はさっきまで暖房も付いてない部屋で、寒い寒い言いながら三島の東大全共闘論争のドキュメンタリーを見ていたんだけど、ああいう活発に議論しあってるのを見ると脳と知性が活発になってインスピレーションが起こってきて自分も言葉にして思考を何か言いたくなる気持ちが起こってくるね。
本当は生と性と三島の文学とかについても書きたいけど、そこじゃなくて今回は事物との関連からTGismってもしかして?とひらめいたのでそのことについて書きます。
東大生たちと三島由紀夫は主に事物と関係、思想と国家、自然というものについて形而上学的なやりとりをしていたんだけどそっから私はTGismっていうのは要はビニールハウスだと感じたんですね。とっぴな例えでごめんね。
まあ、そんなにおかしいことを言うつもりはないからお茶でも飲みながら、気楽に読んでください。
トランスジェンダリズムがなぜビニールハウスであるのか?
ビニールハウスっていうのはもちろん、例えです。ビニールハウスは、畑の中の温度を適切に保つためにかけてある、あれです。
私は子ども時代たまに、家族でいちご狩りだとかに出かけていたんだけど、ビニールハウスを普段見かけるところに住んでいなかったから、ビニールハウスのかかった半円で半透明の畑の群れを車の窓や電車の窓から見つけると (ああ、私はいま知らない遠くの街に来ているのだなぁ)とワクワクしたものでした。
…もちろんだけど、なに��私がビニールハウスそのものにワクワクして心を���ませてるんじゃないってことはわかりますよね?
私は当時、そこに会ったことのない知らない誰かの生活が根付いていて、その人たちの作る野菜や果物を私も知らないうちに口にしているということが不思議になったのです。
世界に知らない人々のいくつもの生活が同時に存在しているということや、どんな他者がどういう暮らしをしてるのか?そんなふうに、想像の水路を広げて遊んでいました。
ビニールハウスは、いわば他者の想起と連想の装置でもあり、過ぎた楽しかった記憶を結ぶものとして当時の私の中に存在していました。楽しい過去があったからこそ、私の心の中にそうした良い印象が形作られているのです。
同時に私はビニールハウスをただのビニールの膜じゃなくって、果物や野菜を育てるためにビニールの膜で覆っているもので、畑を覆っているものだということも認識しています。ビニールハウスを見てなんだあのでかい袋?!とはならないの��あの中に畑があるとわかっているからです。
TGismに置き換えてみます。これは外形としての例えであると理解してくださいね。
生物学的な身体そのものを畑であるとしますね、するとその上に被さっているジェンダーというのはビニールハウスであるといえます。
で、TGismはこのジェンダー(ビニールハウス)そのものを身体の性別(畑)より優先するべきで畑を覆ってるビニールハウスそのものも畑である、畑は包括的で多様なのだと言っているようなものなのです。ああ、頭痛がしてくる…
次にジェンダー(ビニールハウス)というものが持つ役割そのものについてです。
ビニールハウスは野菜や果物を育てるために適温や湿度を保って外気の影響を遮断する役割があります。ジェンダーというものは女性身体を持って生きている個人の能力を遮って疎外し、家父長制によって構築されたジェンダーロールを保つ役割があります。要は、皮膜ということです。
例えば、女性は感情的で大袈裟で論理的ではないというジェンダーがあるせいで、日頃から例えば医師にかかった時に主訴をきちんと聞いてもらえないだとか、例えばなんらかのトラブルに巻き込まれた時警察にきちんと話を聞いてもらえないとかあるいは適当にはいはいと流されてしまうだとかいうことがあります。(ちなみに前者も後者も私は経験があります。)
女性は痴漢にあった時、あるいは学校や会社でセクハラや腕力や体格差では叶わない女性の身体であるがゆえにその劣位を逆手にとったさまざまな暴力の被害に女性は遭いやすいです。
被害を上司や学校の先生などに相談すると、相手は「あなたはこういうことをされたというけど、あなたの���違いなんじゃないの?」「いや、それはきっと、相手はそんなつもりではなかったはずだよ」とあなたの認識が間違っているか、それが大袈裟なのではないかというふうに言われたり間違いであるという前提あっての指摘をされることが多いです。セクハラ・パワハラは立場や社内の関係性を利用したものであるため
また女性は細やかであるとされて女子力ということばや美に対する関心を持つことを人並みの感覚だというふうに押し付けられて美に関する感情労働をしなくてはいけません。
それらは自身の容姿を常に検閲しないといけないという苦痛をもたらします。時間や心や肌の健康を奪います。毎日、崩れないように仕上げた化粧を落とすのにクレンジングで水をたくさん使うので、環境にも悪く、結果的に女性の未来を悪化させています、首を締めているようなものです。
こうした女性の意識や身体の健康を悪化させる悪循環が存在している理由は女性が実力や能力を男性よりも求められず、容姿に価値があるとされているからです。美の基準も男性の主観が主軸となったものです。女性はこの社会の中で無徴だからこそ、装った姿でないと認められないという背景があります。
そうしたジェンダーロールやジェンダー規範の有害さというものは、まさに私たちの生命や人生を歪めているのに、はっきりと個人の生活の中に、社会の中に公然と存在しています。しかしそれを感受しているのは身体が女性である女性たちだけです。男性の場合はそれに共感を寄せたり胸を痛めることができても同じような体験や体感を持つことはできません。想像力豊かであっても難しい問題です。もし、ジェンダーが性別より優越する、あるいはジェンダーは性別そのものであるということになると身体にジェンダーが覆い隠されていることがいかに女性の生活を侵犯しているかという問題や女性の生活が脅かされているかといった問題を指摘できなくなります。
そうした明らかに存在してるのに透明なもの扱いになっている点も含めてジェンダーの有害さは半透明のビニールハウスのようだと私は感じるのです。
ビニールハウスの中ってとても暑いですよね。単純に、暑くて汗をかくし外の気温によっては息が苦しく詰まって不快です。しかし、ジェンダーに覆い隠されなくちゃならない女性の苦悩というのは不快で苦痛というだけのものではありません。誰しもが気づかないうちにジェンダーを主軸とした社会の影響を受けてそれらを再生産しながらいきています。
個人の意思や選択で脱出できるジェンダー規範もあるけれど、例えばルッキズムやエイジズムが意識の基盤や価値観に与えた影響から完全にキッパリと全てを脱することはほとんど不可能といえます。
例えば髪を切るとか服を着ると言った外形的な行��で断ち切れたとしても、行為だけでとどまってしまうこともあります。なぜならば行動によってジェンダー的な観念の拘束から離れたとしても、毎日のように脱毛やエステや、体型のわかりやすい服などジェンダー記号に溢れた広告や創作を目にしなくてはいけないためです。影響は残り続けるからです。
また、個人ではちょっとやそっとではどうにもならない問題もあります。例えば、男女で生涯賃金に格差がある状況から私がよしここからさっさと脱しようと思っても、まず生活があるから出られませんよね。作物を育ててるビニールハウスは、外に出れば湿気や暑さの不快さから離れられて逃れられるけど、ジェンダーの場合は不快どころではありません。変えるには社会全体が変わる必要があります。けれど家父長制社会は子宮や卵巣があって月経があり力が弱く、実力や能力を求められない私たちの身体を覆っているジェンダーを内面化するように迫ります。社会的にも立場が弱い私たちはそこに適合することを求められれば受け入れざるを得ないのです。立場が弱いからです。
次にT女性についてです。おそらく彼らは本気で本当にお化粧や女性ジェンダーの織り込まれた女性服やネイルや「女性的」なフレーバーの香水やロングヘアやロリータ服や、浴衣などの服や化粧を女性そのものだと思っているわけではなくって、それらが布や顔料であるというのは当然だけどわかっています。
それらをまとったりしている時の心理的な安心感だとか楽しさだとかあるいは女性の方になんとなく帰属意識があるという感覚を感じとって、自身は女性だというふうに感じとっているわけです …は?って話ですよね。
ジェンダー(ビニールハウス)と性別(畑)の例えでいうならば、彼らはビニールハウスそのものではなくて、ビニールハウスを起点として自分自身の中にある記憶や思い入れ感慨を引き出しているんです。つまり、それってメイクやファッションが好きな人であって、女性ジェンダーのカルチャーが好きで思い入れがある人たちなんですよね。
…というかそもそも……婦人服を着てお出かけしたりメイクしたりして、なんとなく帰属意識を持ってそっちの方がしっくりくる!というのは女性になったことがないからこそ出てくるあり得ない感覚なんですよ。
身体が男性であるからこそ、社会的に女性ジェンダーの差別性に直面することなく、命を脅かされる危険を体感しないからこそ出てくる感覚なんですよ。
ビニールハウスの中にお邪魔して、ただちょっといちご狩りしにきてわかったつもりになってるだけみたいな感じなのになにが女性だ。
Q.あなたはビニールハウスと例えで言ったけど強度的にはビニールハウスなんて壊せるのに、そこは考慮しないんですか?例えがめちゃくちゃです!
A.女性身体に覆い被されているジェンダーというものを視覚的に理解するためにビニールハウスと言っただけです。
また書きます。
16 notes
·
View notes
Text
北欧モデルは本当に無意味か?
誤解を恐れずいうと、藤田氏のツイートに対してこの返信をした方の最初の4行はたしかにその通りだと私は思った。後半はもちろん賛成はできないが。実際この国で売春は犯罪として明記されているもののスカウトも風俗店も大半はグレーゾーンとして扱われている。
北欧モデルという枠組みだけ導入したところで変わらないという点には同感だがら私の場合はすこし彼と意見は違う。
警察の意識が変わらなければ全く意味がないといえるからだ。
枠組みを運用する側は女性の置かれた現実を知らない。意思決定層の8割は男で、身体が女であるが故の差別や不当な扱いにさらされる経験を持たない。売春業者を取り締まる警察組織も男性が大半だ。女性差別が女性身体に基づいて行われていることからこそ女性の売春被害が起こっているとして彼らは真剣に取り組むだろうか?
例えば上記に添付した記事内には、ソープは入浴補助としてみなされておりグレーとして扱われている。
仮に出会い系アプリなどを業者が使えないように封鎖したとしても、LINEのチャットや他のいろんなアプリやSNSやゲームのチャットなどを通じて隠語を用いて掻い潜って買い手と女性がやりとりするようになるのは目に見えている。足跡を残さない店舗を持たない風俗店は増えて被害者も増えていくだろう。そしてサービス内容も女性に心理的負担を強いるものになっていくだろう。被害もより不鮮明になっていく。摘発逃れのために業者が手を替え品を替え売らせ方は複雑になっていく。形上、廃止することはできるかもしれないが、潜在化した性産業は結局生き残る。そうなるとさらに摘発は困難だ。YouTuberのワタナベマホトもファンの児童から裸の写真を送るように指示していたように、SNS全体の課題でもある。
今のグレーゾーンのままを継続しておくのが正しいとは全くおもわないが、法の目を欺くためにすでに女性にサービスをさせている業者は売り方を変えている。
例えば、こんなふうに
今では、配信の仕事を装って可愛いアバターでおしゃべりするだけ!あなたのためだけのイラストを用意してもらえる!対面じゃない分敷居は低く、やってみたい、これなら私でもできそうだと思わせて女の子を誘導する手口だ。広告に使われているイラストも、未成年の漫画やアニメが好きな女の子から見て性的な要素は薄い。もしも北欧モデルが運用されたとしたらこういったアプリのように、配信業という形で敷居が低くリスクが少なそうなイメージで女性を誘い込む手口は増えるのではないだろうか?と私は考えている。
もし北欧モデルが導入されたとしても、こうした業者は「いえ、ただコミュニケーションをしているだけです」「ヴァーチャル空間内のコミュニケーションなんです」なんて言ってきっと逃れるだろう。これは断言する。
女の子たちがヴァーチャル空間でテレフォンセックスを強要されたり脅されたり身体に苦痛を与える暴言や性的ないやがらせを受けたとしても、女の子たちは拒否できる立場にはない。喜んだり、うまくかわさないといけない。恋人同士のような会話を強要されることもあるだろう。配信業は新しい形のグレーゾーンの店舗を持たない性風俗店の新しい砦に変わるのだ。業者としても、従事した女性は妊娠する危険がなく、生身の体で接触したわけではないといって言い逃れができる。
もしも仮に形だけ北欧モデルを導入だけしてもおそらく、業者や売り方が複雑になり摘発を免れようとして潜在化していくだろう。それを日本の警察は真剣に捜査するだろうか?摘発のために動くだろうか?風俗店に警察官があかすりの機械を置けば摘発されないとアドバイスする国で?どうやって?レイプワンストップセンターの予算を削る国で?どうやって?本当に法の枠組みだけで、この惨状はどうやったらなおるのか?
そもそも性産業というのは女性蔑視の根と幹によって成り立っている産業だ。買い手と売り手の男たちが変わらなければ意味がない、全く意味がない。女性差別の根が変わらなければ、法はただの置き物でしかない。今売春に関する法律がほとんど置物になっているように。そのことを理解しているのか?そもそも女性や障害のある女性を食い物にしている性産業は女性の賃金が抑えられているからそこに行かざるを得ない女性がいる。そこで働かなくて済むようにこの国は女性の賃金を男と同額にする必要がある。
女の子が身体が女の子であるが故の差別や中傷や不当な状況の中に置かれ、尊厳と自尊心を不当に傷つけられ続けないといけない、今の土壌から変わらないといけない。それができなければ北欧モデルは置物と変わらない。
1 note
·
View note
Text
インテリジェンスデザインを公教育でおしえようとする動きに対抗するために空飛ぶスパゲッティーモンスター教ができたんだから、TGismとの闘いにもユーモアは必要だと思っている。笑いの拡散力は強いし、TRAの言っていることは破綻していておかしいから。
3 notes
·
View notes
Text
欧米圏の映画、キリスト教理解してないと「は?」となることが多い表象がある。
別にキリスト教について知らなくても私たちが女性の身体を持つ女性であり「女性」であるために直面する差別を我々女性は知っているし、それらをミソジニーだと気づくことができる。日々差別と強制的に対面させられる立場だからこそ、ミソジニーをミソジニックだと理解できる。しかし、ミソジニックな文化の水源、文化を文化たらしめ構築してきた礎の基材こそが宗教だとするとそこを理解しないとなぜミソジニーがここまで長期間もの間長らえてきたのかということを理解できないと思う。ミソジニーを延命させてきたもの、その一つに家父長制による支配と一体となっている宗教がある。宗教による支配。宗教が社会を支配し、教育や司法や医療を支配し、ある時は侵略を正当化した。ある時は独裁政治を肯定した。修道士たちは皇帝のもとに集い、修道士らの意思が宗教に対する考え方を変えたことだってある。宗教や信仰に対する態度、信仰に対する一つ一つの主義は侵略の歴史の中で細密に枝分かれして実をつけたものなのだ。かなり大雑把にいうと、宗教から派生した社会構造、社会に対する主観のありようや視界そのものの土台や画角というものはみな出発点が家父長制なのだ。宗教から派生しこの社会に定着したその全てに家父長制の影響が垣間見られる。
宗教の中のミソジニーと、宗教的な態度に現れるミソジニー、宗教の中でさまざまに枝分かれしている宗教や信仰に対する捉え方、考え方。それらの提唱者や考え方の根幹には常に家父長制がある。しかし、家父長制というのは単純な一枚岩ではない。壊せば一筋の切れ目を残して一刀両断できる壁ではないからこそ、ここまで残ってこれたのだ。家父長制についてその緻密さを探っていけば攻略の一路が開けるだろう。宗教を学ぶことはその一路を発見する手がかりになる。ここまで長きに渡り家父長制が存続してきたこと、その責任は「無理解な女性」にあるのではない。女性が努力を怠ってきたからではない。女性は政治などの意思決定の場に進出することが困難であった。この社会が女性を物理的に排除してきたからである。女性身体の妊孕性を理由に排除され、妊孕性にある身体は社会的役割を果たし貢献することを求められた。そうした役割が我々女性の身体を縛り、人権と尊厳を狭めた。妊孕性の保護と生産性の持続だけが女性保護の主たる目的だった。女性が人間として生きる権利は最初からないのである。我々女性自身の権利は未だに男と同等ではない。男が平均で標準である社会において、女性はこの社会では人間として数えられない。女性は女性として別席に置かれる。賃金が低く結婚出産をして養ってもらえるからという理由で就職進学の進路はせまく絞られ、拒絶される。ケア要員に相応しいかあるいは性消費に値するか否かなど細部に渡る評価項目がありふるいにかけられ、力を奪われ、摩耗していく。女性は社会全体が男に偏重しているために被差別者であるために直面させられる現実がある。しかし、差別を受けていることを自分自身の現実として認識できる女性がその中でどれだけいるだろうか。家父長制の作り出した婦徳や良妻賢母への憧れと美化によってそうした価値観が保ってきた文化によって声を奪われ視界を奪われている。そうした一つ一つの差別がもたらす社会への影響を示す現象はあらゆる物語、あらゆる創作物の中に顔を露にしている。
男たちの身体が平均で標準である社会の視野の中でその平均を当然のものとして受け入れさせられてきた家父長たちの歴史を私たちは一つ一つ精査していく必要がある。これからは宗教の勉強に本格的に取り組んでいきたい
0 notes
Text
妊孕性がある私たち女性が社会でどのような扱いを受けているか。雇用の調整弁として扱われて大勢の女性が死を選んだ。生理の貧困がようやく表面化され問題として共有されるようになってきたこの社会で、未だに働く母親がワーキングママと呼ばれるこの社会で、ケアワークに就く大半が女性で、ケアワークは賃金が低いこの社会で、市が発行するワーキングママ向けガイドブックで「周囲への感謝を忘れずにいるように」なんて上から目線で説教されるこの社会で、死産した子どもを弔っただけで母親が逮捕されるこの社会で、なぜ妊孕性を持たず母として妻として家事をし育児をし奉仕することを期待されて育ったことがない男性が女性になることが許されるのか。医療や学校や公共で性差別を受けず性犯罪に逢わない男性が心で感じる女性像は女性ではない。男性が自分を女性と認識すること自体性差別である。トランス女性は生物学的な女性ではなく、性別は絶対に越境できない。
4 notes
·
View notes
Text
馬鹿げてる。
何でなったこともない、男性の体で生きたことがない経験したことがないのに自分は男だと確信をもってそう思えるのかわからない。
ジェンダーアイデンティティなんていうのは心理的な枠組みであって、心の中のものだ。それを身体という自分自身を形作る表面に放出したところで性別は変わらない。あなたの臓器や骨格や体内の水分量や臓器の脂肪分なども含めた性差は変わらない。性別は心で感じているものが全てで体を蔑ろにしたセルフIDの考え方が浸透しきっているから性別を変えられる、異性になって生きていくことはできると思い込んでしまう。そんなの間違いだ。��は体じゃない。今の社会は境界のないイメージの世界だとわたしは思う。何でもかんでも共感し合い、感受性も何もかも同じチャンネルを共有しているように思い込む。イメージの中で私たちは他者と共存していると思い込み、イメージの中の他者に怒り悲しみ絆を感じている。そのことを無視している。自分の境界も希薄であり、窮屈である。自分の感じているものの違和感や苦しみの正体を知ろうとせ��、それを全て心の中に感じているぼんやりした何かやあるいは不安や疎外感から、原因を直接性別のせいだと思い込もうとする。それを形成する性役割やその生きづらさや生きにくさが
実体としての臓器や遺伝子を含めた身体があるのに、男性的女性的といった社会から要求される性役割やそれに応じた女性像男性像に従うことが苦痛である場合、逆の性別になれば解決できるだとか自分は望まない体で生まれてきてしまった異性なのだと感じ取り、そうして異性として扱われたり自認を尊重されることでその人がようやく安心感をえたり救われるという社会ってどうなのだろう?
自分の感じるジェンダーやジェンダー表現が噛み合わない、ジェンダー表現を受け入れない社会に苦悩することもあるだろうが、そもそも
しかし、そうした適合することに拒否感を覚えたり自身のジェンダー表現を受け入れようとしない社会をひもとくとそこにはミソジニーと女性差別、ホモソーシャリティの問題が基盤に存在する。男性主観で男性の感じ方のみが正しい社会の中で、女性がそうした差別の実態や構造にアクセスすることは難しい。
また、感じ方だけが全てであり、それを直接今感じている原因であるかのように
そもそもまず異性のジェンダー表現は身体性別に等しいものと見なすことは全くの間違いだ。
本当の性別人々が生きにくい枠組みがすでにこの社会に存在していて、その人たちが旧的な枠組みから外れた新しいトランス ジェンダーという枠組みを用意することも正しいと思えない。
なぜならばトランスジェンダーの人々は結局異性のジェンダー規範を再生産しているだけでジェンダー規範を強化しているからだ。
性役割をただ異性のものに交換しているだけ。その性役割というのは搾取や支配を正当化する構造であり、性役割そのものがそうした支配と隷属の関係と、それらの歴史を見えなくする蓋のようなものである。それらが差別であると認識されず、差別を受けている女性という当事者が軽んじられ、差別を受けていることや男たちは間違っていると告発するだけで「それはあなたの思い込みだ」「そんな言い方はないんじゃないか」「男性への差別だ」と言われる。トランス差別だ!を唱える人たちもこれと全く同じだ。
性の多様性だとかいっているけれど全く多様ではない。
異性の性役割やジェンダーに適合したいのに社会が云々、孤独だ孤立しているトランス差別だ云々と唱えている人たちをみていると、本当に無神経でさすが男だと言いたくなる。あの人たちはなぜセクシーな女性的な振る舞いがしたいのだろう。それが差別的な記号であると知らないからだ。そのような記号を踏襲した女性ヒロインやそれが好きな物なら尊重してあげようよと言っているのも男だ。それは女からしたら差別なのだ。それを求められ、そのような記号的な存在とみなされ、男にとって快い範囲内の振る舞いやあからさまな蔑視や使い捨ての性対象として私たち女は男に用いられてきたからだ。いまだに女性は金にがめつい、イケメンには股を開く、性犯罪加害者でもイケメンなら無罪だというような蔑視は至るところで見受けられる。女性差別を��張する女性は醜い年増で若い女に嫉妬している。男側に視野を広げて男性も辛いですよね、という配慮や優しさが無いと賢い女ではない。至るところで私たち女性は無知だという設定で上から目線の説教を食らわされたり事あるごとにマンスプレイニングを食らう。鬱病で苦しい時病院に行った時ほとんど話も聞かず、怪しい治療のセールスをされたり「その程度のことで苦しいのか」という対応をされる。女性の性犯罪被害の話や性的対象とみなされる苦痛を訴えても、怒りを直接語ると感情的だと嘲笑される。女性の痛みに対して医療は鈍感であり、医療の性差が考慮され研究されるようになったの。男が女性に対して接する時の親切の中にも、見下しや蔑視感情がある。自分の気持ちを満たしたいための感情の吐口である場合や、ただ女と話したい、気分良くなりたいという感情があることもしばしばだ。それは女性にしかわからない感覚だが、それは思い込みだ、繊細すぎる、病院に行ったほうがいいなどと言われる。常に女性の感受性はずれがあるものという前提があり、気に食わないものをただ非難したいだけだとか、イケメンなら許すんだろうなどという偏見を飛ばされる。女性はしたたかで計算高く、高飛車で、あるいは男をたぶらかし、コケティッシュな振る舞いで翻弄するファムファタール的な記号は都合よく従ってくれる、暴力によって屈服させられることが可能な男からしたら、許容する範囲でワガママに振るまう可愛い女(でも自分がいなければ生きられない弱い存在)は素晴らしい存在なのである。長くファッションではそのような被虐的な立場であることを喜ぶように見せる観念が女性ジェンダー服に染み込んでいる。それは男ウケのいい服装として堂々としている。胸元だけ穴が空いていたりオフショルダーだったり、肩だけ透けていたり、ホットパンツだったり。コルセット風ワンピースやボディハーネスだったりの類もそうだ。そうした適度に『扇情的』な要素を含んだ服が女性を縛り付ける価値観であることをかわいさで覆い隠している。女性は展示品である。自分の個性を表明するために、わざわざそのような隷属的な価値観の服装を可愛いもので個性的で自分らしく生きることを肯定してくれるものと思わされている。逆に自分の個性や癒しや自己表現が自身の才能や能力やバックボーンなどに由来するものではなく、ファッションやメイクなどの装飾でしか自信を得られない。それは全て女性が装飾、それも男目線で構築された女性を支配するための記号で作られた価値に沿っていなくては人間以下であると社会的に定められていることと同義である。私たちは差別のプールに浸かりながら、自らその水を自分たちで再生産するよう、プールから出られないように仕向けられている。
しかし、私の見たところトランスパーソンの自認女性はそうした扇情的な(男から見て)服装やロングヘアだったりとい��ったホットな女性像をまといたがる。そうした扇情的な服などを女性のみがきることを許された服だという思い込みがあるのか?そうした性的な意味も含めて男から見た男の価値観に沿った魅力に満ちた女性こそが本当の女性であるという発想があるからなのではないだろうか。つまり、かれらもまた同じように女性を固定化された家父長制に都合のいい支配の記号だけを抽出した存在として、表面だけを女性とみなしているのである。また、トランスパーソンの自認女性は完全な女性だと支持している人々にとっても女性とは着飾る生き物であり、性的魅力に溢れた姿が正しい女性の姿で、女性というのはファッションやロングヘアであるとみなしているからだ。そのような女性像はメディアや創作、映画にも氾濫している。しかしそうした表現こそが女性差別で女性憎悪だと公然と言われることがない。ドラマでは高飛車でヒステリックな金持ちの女性は面白おかしく描かれ、舌足らずで幼稚でワガママな女性が男性を振り回す。いつも考えが足りなくて幼く、考えが足りずに失敗を繰り返す。それすらも可愛さの中に収納される。ハニートラップをしかける女性や財産目当てで玉の輿を狙うしたたかな女性キャラクターや、マウントを取ることを生きがいにしている女性や、素顔を隠して女性は足りない方がいいという発想がある。逆に馬鹿な方がいい、男の前で馬鹿を演じている女性はしたたかで賢いという想像を生身の女性たちが演じている。そうしたあざとい女性を同性がいやがったり、逆にあざとさをうまく演出する女性を同性が素晴らしいと支持することもある。世の中は腐っている。それはアニメの中でも同じだ。女子学生の制服の胸や股間の線が生地から浮き上がった絵が普通に存在し、それらが表現の自由というマジックワードによって擁護される。そうした絵がどれほど女性の尊厳を害するものであるかそうした表現が表現として成立していることは正しいのか?女性が怒りを語るとそのような絵を描いている人たちの仕事をフェミニストは軽視しているだ、絵に込められた思いを馬鹿にしているだ、いやなら見るな、絵に人権はないことを理解していないだと男たちは反発する。そしてお決まりのお気持ちだお気持ちだの連呼である。女性が差別を発信するだけで嫌がらせの対象となる。個人情報をばら撒かれる。執拗に自分の納得できるデータを出せと要求され、粘着される。馬鹿フェミだキチフェミとよばれ、精神病院に行けと言われる。性犯罪と結びつけるな、被害者を自分の主張のために利用するなんておぞましい。やっぱりおんなの敵は女だと性犯罪被害に遭わない立場からものをいう。アニメの中では女性たちが胸の大きさを比べて嫉妬し合う様子が当たり前にベタなネタとして描かれる。お互いの体型で嫉妬し合い、体重で一喜一憂し、潰そうとしていて、承認欲求の塊で、知性がない存在のように描かれる。痴漢被害を告発した女性や夫のDVで苦しんでいたり、妻が家事全てをやるべきという価値観から夫の世話や片付けをしないことや全ての尻��いを無償でさせられている妻がSNSで怒りを投稿すれば女性器呼ばわりされて『マンカスゴキブリ』『専業主婦は寄生虫』『養ってもらっている分際で文句を言うな』というコメントが相次ぐ。挙句発言者の女性アカウントの顔や他の日常の投稿なども掲示板で晒されて品評される。アイドルをプロデュースするゲームには女子小学生や中学生のアイドルまでいる。女性差別的な価値観は当たり前に蔓延し現実の女性もアニメキャラクターのように属性化された存在として分類されている。自分の「需要」を理解してあざとく振る舞う女性は喜ばれる。男性の立場になって発言する弁えられるエマワトソンのようなフェミニストが真のフェミニストとして讃えられ、そしてそれ以外の男に奪われた権利を取り戻そうとする女性は女性の敵で足りない存在で、恋人も結婚もできない負け組で嫉妬している哀れな存在だと笑っている。けれど、そうした表明をしないだけで男は皆そのような幻想の中の女の姿やステレオタイプで女は足りない存在なのだというふうにこの社会が決めた通りに女を人間以下の存在と見做しているし、自分が単に不快になった時に突然黙ってみたり突然不快な態度をとって女性に機嫌を取らせようとしたり、女性が差別を語るとその発想や発言は間違いだと自動的に決めつけて笑ったり、女性が間違っているという前提で呆れた態度を発露する。社会的にも優位な立場であることは知覚している。アニメの中にはなんでも男の主人公に頼って甘える幼馴染がいて、すぐキレるのに短絡的な発想で失敗ばかりを繰り返し、生意気な態度をとっても結局は愛情の裏返しなだけで、突飛で無理くりな理由をつけて幼稚な発想で女性キャラクターたちは男性主人公が自分に好意を持つように迫る。女性たちに生理はなく、妊娠や流産や死産や中絶、同性愛者や性犯罪被害者は存在しない。また、そのような露骨な差別に満ちたキャラクターやなんでもいうことを聞いてくれる服従が約束された二次元の女性たちはその設定だけでも差別の結晶である。また、そのようなコンテンツは女性憎悪を招く。アニメやドラマや映画のように女性とは未熟で感情をコントロールできず、男に守ってもらわなくては生きていけない寄生虫で感情的な生き物だというふうに学ぶのだ。反発しても結局主人公を愛し主人公のことを必要とする女性キャラクターの存在は男がいなければ自力では生きていけないのだ。けれど、男にとってみればそうした女性は当然のようにコントロール可能な対象である。女性の隷属や無条件的な男に対する同意や賞賛や感謝を前提とし、そうした精神的ケアも含めた男にとって都合のいい存在であるとみなした関係性の構築をより強化する。社会的に蔓延している女性をコントロール可能な対象とする価値観がまた濃縮されるのだ。ストーカーが絶えないのも好意があるのにわざと反発して主人公を女性が創作物に多く、女性がコントロール可能な存在として描かれ女性をコントロール可能な対象として物扱いする社会だからこそ憎悪犯罪が絶えないのだ。アニメやドラマ、その制作者たちも当然女性を商品として扱っている。演じる女性の尊厳ではなく、キャラクターのことも女性を生きている人間としてみなさなち。実体のある尊厳のある人間ではなく、胸や尻や脚や扇情的なキャラクターと言ったようにバラバラの属性として分断し切断している。妊孕性でさえ性的なパーツである。実際アダルト業界では膣内射精やいやがる実の娘や生意気な上司を無理やり強姦して膣内に射精��たり監禁して輪姦すると言った内容のビデオがシリーズ化され、レイプや盗撮や女子高校生がジャンルとして存在されている。酔わせてレイプしたり、女性に写真をばら撒くと脅すリベンジポルノが題材になることも知っている。トランスパーソンの自認女性は性犯罪被害の危険があるから身体女性と共闘できるはずで分かち合うことができるというのは大嘘だ。実際女性は身体が女性であるから差別をされ妊孕性でさえ性欲や征服欲を満たす存在として性的な利用価値を見出され、女性の恐怖心や絶望に陥れる様を見て楽しむ映像が出回っていて、盗撮映像がインターネット上で売り買いされ、身体が女性であるがために感情ケアを当然のように男たちは自分の周囲の女性に無言で求めてくる。性犯罪被害者の人権は皆無だ。電車には乗ることができない。酒を呑んで酔って自分を誤魔化して乗り切っても駅構内でぶつかられるし街中で空いた道を歩いていても後ろから突き飛ばされたりすれ違い様にジロジロと体型や顔を見られる。その苦痛やそれらが全て差別から派生した女性憎悪が引き金になっていることなどを告発しても思い込みだ自意識過剰だお気持ちだと言われる。女性が結婚するとキャリアが絶たれることや不利な状況に追いやられることが覆い隠され、家事などを無賃でこなすことをもとめられ、体調不良だろうとなんでも家事を妻任せだ。会社の上司や友人にはしないのに、妻の話を遮ったり妻がつわりで寝込んでいても平気で食事を作るよう要求して起こしたり名もなき家事を全て妻にやらせるのだ。そうした夫の無関心には女性差別が根底に存在する。私の父が家族共用パソコンでそうした履歴やビデオを保存し、家族写真のフォルダの中にさえ女性を強姦しているビデオの画像を保存していたように、言わないだけで多くの父親が女性の家族を疎ましい存在として邪険に扱いながらも精神的なケアを求めている。妻の都合や感情に対する配慮どころかそれすらも夫の視界にはない。それ以下の存在で、都合のいい時にプレゼントをわたしたり愛を伝えたりすればいいと思っているか、勝手に些細なことで怒っているんだと自分を哀れんでいたりするのだ。妻は同意なく自分の好きなタイミングで体に触れてもいい存在で、同意を得る必要さえないと思っている。選択の権利も余地も最初からない。私が同級生から性的な加害を受けた数日後も父は女子高生逆ナンパというタイトルの動画を見ていた。
トランスパーソンの自認女性と身体女性は全く違うどころか、女性であると認識し、女性になろうとして行っているメイクや服装、女性的と社会でみとめられた振る舞いをすること自体が女性への差別なのである。また、身体男性であることで意見や主張を間違っているものと咎められたり懲罰されてきたことから意見を話すことを恐れずにすんできた。直接的な感情の発露を認められてきた。また、身体男性として生きた経験は女性差別の蓄積でもある。もし単に性別違和があるならそれは脳の病気だ。しかし、性別は変えられる(実際は臓器に性差があるからそんなことは絶対に不可能だが)という幻想は徹底的に粉砕するべきだ。性別役割が徹底した社会の中にいきぐるしさがある人が自身をトランスジェンダーだと思うのならそれはこの社会が間違っているだけ、ともいえない。それは家父長制の影響とその本流から細分化した支流を含めた差別の複雑さや複合的な差別を無視したことになる。トランスパーソンの身体男たちは男だと。家父長制の中で優遇されてきたのだから、女性をコントロール可能な対象とみなす文化も当然疑問なく受け入れることができ、現在だって感情的な女性としての規範的な金型に沿わない女性を懲罰し、暴力で支配することや暴力をちらつかせることがどれだけ女性に『効き目』があるかも彼らは理解している。女性差別に染まっていない人間はいない。男は誰でも女性差別に対して無関心でいることや無関心でも生きていける立場を守られている。ケア要員として努めることを要求している時点でトランスジェンダーの人々は被差別対象ではない。好きな格好をしているだけで偏見の目で見られるなんて言う甘っちょろい苦痛なんかではない。それを人によって感じ方が違うから苦痛に客観的な視点や重さはない、どの人も守られるべきだと言う主張で、差別のもたらす弊害や女性の死を曖昧にするな。誤魔化そうとするな。お前らの感情なんかで私たちは消されてしまう存在ではない。共生という耳障りのいい言葉を使って侵襲しようとするな。お前たちにとって心地よい共生の中に私のような性犯罪被害者など存ないのだろう。反吐が出る、何が共闘だ。感じ方なんていう個人によって尺度の違うものなんかで、実在している差別の重みは消えない。お前らの感受性や視野にもその基礎や道徳観の根にあるものは家父長制を培養した憎悪が刻まれている。男としてどれほど優遇されているか?それなのに自分は弱者だと思い込むのは傲慢だ。そして優位性に基づいた感覚で女を裁量するな。女を名乗るな、女を奪うな。彼らの枠組みを保護することは自分を女性と認めない女性を懲罰的に見つめる視点や暴力性を沸騰させるだけだ。そうして守ろうとして配慮して譲ってやればやるほどヒロイズムに浸ってシス女性には私たちの苦しみなんてわからないだなんだと悲劇ぶるだけだ。女性憎悪に満ちた社会に対抗するために女性はどれほど傷ついても戦うことを強いられる。その中で死を選ばず生きることがどれほど過酷か。女性憎悪は解決されたものであるとみなし、露骨な差別以外は全てを除外し、女性の性犯罪被害そのものを例外視し、コントロール可能な対象とみなされ発言も全てを男より劣った亜流の存在とみなされ、花柄やハートや心配りや親切といった女性なら��はの発想や特性をことあるごとに求められ制限されてきた私たち女性を別席に置いてきた男たちから、全てを奪い返さなくてはいけない。家父長制のその首を切り落として、私たちが生きる権利を取り戻しにいかないといけない。時計の針を逆回しにすることはいつでもできる。男たちこそ変われ!と言って何もしないでいるくせに男が少し平等だなんだとポーズをとっただけで理解してくださってありがとうございますと尻尾を振って理解してくれる男性を立派だと神聖視して救世主のように扱って応援するのはやめるべきだ。男の言葉を持ち上げるのも男こそ正統であるという思い込みによるものだ。その価値観こそ家父長制が作り出した女を支配下に置くことを許してきた足枷である。足枷をありがたがるのをやめよう。男が変わっているならとっくにこの世は変わっている。それでもこの世は変わっていなかった。そいつらは性風俗店で女を買い、スマホで女を虐待するビデオを見ることもできれば妻を無賃で搾取していながらそれを当たり前と思っている男たちだ。彼らは性風俗で溢れかえる繁華街や日々女性が殺されるニュースを見ても物騒な世の中になったとしか思わないし、それを見てもなんとも思わず素通りすることができる。そして電車の中では大股を開いて座り、大学進学は優遇され、高く設定された合格点に届かず志望校に行けなかった優秀な女性よりも劣った成績で進学し、妊孕性がないために就職や昇進も過大評価されている。男は無条件的にできて当たり前で成果を出せばそれは傘増しされる。女性の人権を奪ってあぐらをかいている男を見ながら男の認証や同意を求めようとするな。家父長制を処刑台に送り込まなければ私たちは殺され続けることを忘れてはいけない。差別を長らえさせることとは、私たちの今ある現実を無視することだ。
13 notes
·
View notes
Text
今まで女の居場所をぶち壊して奪って賃金不当に低くしてきた人達がスカート履いてメイクした程度のことでうけいれてもらえない疎外感を感じる居場所がない差別をされてるって何?シス女性特権って何意味がわからない、じゃあなんでわたしは父親から着替えを覗かれたりしたのかな。なんで体を触られたり同級生や上司から性的な興味を持たれたのかな。被害者なのになんで学校側はわたしに転校するように言ったんだろう。なんで痴漢されたときだれにも信じてもらえないからってそのまま会社に行ったりしたのか���それは理解されないから。自分はPTSDだってことを突きつけられる。電車の中、人混み、街中でぶつかられる時、すれ違いざま空いている道であからさまに異性からいやがらせをされるとき気遣ってやらないとふきげんになる、何もできない父親にお金の振り込みや日々の予定やこなさないといけないタスクを教える時。感情を押さえて優しくして、発達障害で何もできない父親にやるべきことやすべきことをひとつひとつねんいりに教えるとき、父親がいつもみたいに大事な約束を連絡なしにすっぽかしたりお金の無心をする時。服装なんて変えることなんて意味ないんだよ、女性ジェンダーを脱いだところで意味ないんだよ、世界はそんなふうに人生や私という存在に意味がないということを突きつけてくる。だって体が女性だからわたしがいくら強くいようとしても差別は変わらない。差別はあり続ける。わたしが能動的に取り組んでも変わらない。もしこの世界が変わったとしてもわたしのPTSDは治らない。病気が一生人生をめちゃくちゃにする。夢なんてもうない、未来の展望なんて世の中に左右されてしまううつろな笹舟だ。いまのわたしには想像することも何もできない、ただの荷物にしかならない。
最初の診断はASDだった。社会人になってからようやく病が形として目の前に現れた。最初の大きな崩壊は入社したばかりのころだった。研修の日、担当者の男の上司は傲慢な人だった。そのひとは突然前のめりになって、わたしの座っているデスクの前に腕を置き、ことわりもなくわたしのしていた作業を変わった。その瞬間わたしのからだは高校の教室と東京競馬場の「あの日」に遡った。
号泣して過呼吸になりそうなのを耐えて涙があとからあとから止まらなくてトイレの個室で泣き続けた。もうわたしはだめだ二度と普通の生活なんてできないんだ。それでも私の抱える苦しみは社会の中で完全な死角だ。ひたすら虚しくてもう全てに耐えきれなくてこの先もずっと人生こうなんだ、このままじゃ生きれない、今この瞬間死ねたらいいのにって思った。死なないと人はわからない、なぜならばこの社会は女の苦しみは自殺かあるいは特別残虐な事件でないとそれが正当なものであるというふうに認めないからだ。女の感受性や女の感じるものはそれだけで不正確であり、疑わしいものだと信じられている。そして性犯罪は100%の弱者か抵抗が不可能だということを証明しなくてはいけない必要がある。否定されて当然なのだ。それでもシス女性は特権的なのか。男として社会区分上扱われ、女の格好をすればマイノリティか?トランスパーソンの身体男たちの言葉や苦しみを必要以上にいたわり持ち上げているのも、苦しみの語り手が身体男たちだからだ。わたしが、私たち女性の語る言葉は感情的であり間違いであり誤解が多分にある言葉であると断定する根拠はなんなのか。私たちが訴えている言葉と身体男たちの言葉でなぜこうも重みが違うのか。身体男が社会的に定義された『女』��皮をかぶってものまねをしているだけでなぜ弱者なのか。なぜマイノリティなのか。女性が女性として存在している意味ってなんなのか。
あと何回生きたら死ねるんだろうあと何日寝たら死ねるんだろう。生きていても変わらない。PTSDも鬱病も治らない。虐待の傷跡も元には戻らない。それを踏み越えて生きているだけでいいとかそんな頭の中の想像で自分を長らえさせることにも疲れてしまった。そうやって麻痺させたところで毎日死体のように動けなくなる。意識が続かなくなる。もうわたしは戻れない場所まで来てしまった。その感覚と絶望ですらない諦観が全身を駆け巡っていく
「性犯罪者じゃないのに性犯罪者として扱われる」その発想こそ被害に遭うことを想定していない加害者属性の傲慢な発想だ。その程度の苦痛しかない人がなぜ自分は被害者だと思い込み信じ込めるのか。その時点で傲慢だ。女性トイレはカウンセリングルームではない。性別違和は脳の問題であって、女性用のトイレで用を足すことで治すことなんてできない。自分たちは異性のトイレに侵入することや異性だとバレないように服装を変えたりメイクをすることの苦労や疲労があるから、それにくらべてシス女性は生まれつき女性というカテゴリにいることができ居場所が用意されているから特権がある?在日特権を信じている人たちのようだ。男より低い賃金、性欲を処理する痰壷のように扱われること、そのような価値観を薄めただけで、私たち女性は人間と扱われていない。性別を受け入れられないことや違和感を軽減するために自分の性別のトイレを使いたくない人たちを受け入れるシェルターじゃない。
0 notes
Text
コロナ禍の看取りという記事を見つけた。緩和ケアに関心があり、コロナ禍で福祉に従事する者として現場のことを知りたくてよんだが、あまりにもひどい記事で唖然とした。
まず、情緒的な命の物語として看取る家族の姿を捉えている前提があり、そして現場ではたらく人々の存在感はまるでない。
以下に違和感を感じた部分を参照する。
2020年は例年の倍の看取りがあった
京都府長岡京市で在宅医療を行う土井医院は、医師3人、看護師7名を含むスタッフ約20人で在宅医療を行っている。この日、朝のミーティングは、前日に亡くなった患者への黙とうから始まった。
「新型コロナウイルスのパンデミックが起きた2020年は、前年の倍の看取りがありました。明らかにコロナの影響です」
と語るのは土井正樹院長だ。
現在、多くの病院が、新型コロナウイルスの院内感染を防ぐため、面会制限を設けている。そのため、人生の終末期をひとりで過ごす人も増えている。家族や友人に会えないまま亡くなるのは、患者、家族双方にとって非常につらいことだ。
土井医院で訪問医療に携わる医師、早川美緒さんは語る。
「家族は面会に行けない分、主治医とコミュニケーションが取りにくい。患者の容体も電話で知ることが多いんです。そして突然、臨終の知らせが入る。事態が呑み込めず呆然としている方もいらっしゃいます」
職員たちの声が聞こえるのはこの場面だけだ。職員たちはそれを見て何を感じ思うのか?という点に思考の焦点はない。記者はそこで自分の考えや想像を述べることもない。
客観的に事実を述べているようにも見えるが、この時点で命の現場で働く職員への視線や敬意があまりにも軽く感じられ、わたしは拭えない違和感を持った。あっけない、という感じだ。その淡々とした描写からはコロナ禍という未体験の過酷な社会的状況の中で家族に会えない状況で最期を過ごし、その日を迎える患者さんたちを送り出し看取る側の不可視化された姿だけがある。ただ淡々とした歪なかたちの無関心の平野。
日々の想像を絶する過酷な職務と精神的なプレッシャー、精神的負担に対する感想や言葉が何もない。ここでの現場の項目は本題を書くための導入としての単なる添え物なのだが、本当にただの添え物だ。
次にわたしが衝撃を受けたのが在宅での看取りを選んだ二組目の家族のエピソードで、「お母さんの手を握って最後を迎えたい」というタイトルの章である。
「あの人、口うるさいところがあってね」と信子さんは苦笑する。
「髪を洗ってあげても『襟足が濡れたやないか! 下手くそ!』と��鳴るし、靴下をはかせても、服を着せても『下手くそ!』と文句を言うんですよ」
達夫さんが妻以外の人にケアされることを嫌がったため、介護の負担は信子さんひとりにかかっていた。信子さんは華奢で、とても成人男性を介護できるほどの力持ちには見えない。持病があって時々めまいもするという。
見ればわかるが、これは明らかな介護ハラスメントだろう。
終末期の死にそうな人だったら、介護者を怒鳴ったりしていいのだろうか?記事ではさらりと流されているが、暴言は精神的暴力だ。介護で疲労している家族の尊厳を傷つける行為だ。無償でケアを提供している家族だからなにをしても良いと看過されて良いことではない。
介護ハラスメントを実際に利用者から受けた身としてはそうか、ここまで介護ハラスメントって認知度が低いのかと暗い気持ちになった。暴言を頑固な性格とか気難しいからだというように見せたり、家族以外の人の介護を拒んでいたからだとかいう暖かい情緒的なエピソードの一部にはならない。最悪だ
介護拒否があるためにサービスを利用することが難しいために夫の暴言からは逃げられない環境だ。さらに自分が全てをやってあげなくてはいけないという責任感、本人が他者の介護を拒否するため、人には頼めないという負担。長年連れ添ってきた思い入れと死が迫っている夫の状況からそれを許さざるを得ないこと。それらが全て悪循環の歯車となり介護者を追い詰めている。
「口うるさいところがある」と介護する妻は夫の暴言を表現するが、もともと介護をするまえから夫の暴言が日常茶飯事でそうした状況に慣らされてきたからそのように捉えられるのではないかとも推察することもできる。(もちろん、認知症のBPSDの可能性もあり、どのようなトーンで発したかにもよるものがあるかもしれない。文字に起こされるとき、現実と切り離されることもある。)
亡くなられた方にこのようなことは言いたくないが、この人は自分の死期が近いという立場や後悔なく過ごしたいと願う妻の心情を利用して妻を家から出られないように拘束して支配し、精神的暴力をふるう加害者でもある。もう夫は亡くなるから最期は見てあげたいというなかば使命感的な思いと、寄り添いたい気持ち、悔いを残したくない思いがあるからこそ、自宅で看取ることを選んだ妻。暴言を吐かれても介護拒否があるために他を頼ることができず看取る
老いてもなお自分より体格の大きな夫の世話を引き受けなくてはいけない負担になぜ視線が向かないのか?ということにも疑問を感じだ。『年老いてもなんだかんだ連れ添ってきた仲睦まじい夫婦の選択』という枠組みだけを執筆者は見つめているだけだ。しかし、彼女は在宅医療を「選択」した当事者というだけでなく、夫に虐げられた被害者でもあり、現実から遠ざけられ存在しないことになっている家庭内の介護ハラスメント当事者であり、行きすぎた負担を背負わなくてはいけなくなった当事者である、それらは妻がみずから望んだことではなく、在宅医療しか選択肢がない中で選択した環境から派生した副次的な��のだ。家族の中には逃げ場のない在宅医療によって毎日夫から暴言や暴力を振るわれて心身にダメージを受け後悔している人だっているはずだ。介護拒否があるからこそ、他のサービスを頼ることができず自分で夫の介護をするしかなかったこの女性も視線を変えれば選択肢が少なかったばかりに在宅医療を選ばざるを得なかった社会的システムの不備と精神的DVの被害者と見ることもできる。
選択を尊重という言葉への違和感
そもそもの問題として、在宅医療を選択したという表現は果たして正しい表現といえるだろうか?多少の負担があったとしてもそれでも二度と訪れない時期を後悔なく過ごしたい、看取ってあげたいと思うのが人間の情である。臨終の際しか面会ができない緩和病棟ならば、在宅医療は選択というより、半ばそうするしか選択が用意されていない選択である。それは選択と呼ぶべきか私は疑問だ。
以上の点から私は「選択」は正しいと言えないと感じた。
ケア要員と女性性
この記事に登場する語りの主人公はほとんど女性である。現在介護職やケアの仕事に就いているのはほとんど女性だ。中にはもともと介護の仕事はするつもりなんてなかったけれど、結婚してから職場復帰しようとしても再就職先がなくこの仕事以外求人がないから稼ぐため仕方なく就いたという女性は多い。それは「選択」とは呼べない。
こうした選択肢しかないこと自体が、女性は丁寧で優しい、ケア要員にふさわしいという性別役割規範に沿った選択肢しか用意していない社会的システムの不備を反映している。だからこそ、本人の主体性のある選択とはいえない。そうせざるを得ない状況で選んだ選択は選択とよべないからだ。
我が国には依然として妻が夫の介護をするのは当然、介護は家族がするべきだというふうに無償の重労働や奉仕を強いる考え方が蔓延している。また、そのように割り当てられた性別役割規範以外の特性を求められずキャリアや人生を制限され、賃金も低く設定されている。女性は総じて社会的に地位が低いまま抑圧された状況であり、女性が当然のように地位の低い存在という価値観が社会化されている。良い女性像は男性主観から見た利用価値の高い女性である。女性が結婚すると仕事よりも家を保つことら子どもを育てることが求められ、本人も子どもの成長を間近で見守ることを希望して辞めてしまう。その時点でキャリアが分断されてしまう。一旦第一線を退いてしまうことで社会での重要な意思決定と直接的に関わる場から阻害されてしまうのだ。
また、婦夫は対等ではない。なぜならば女男が対等ではないからだ。いくら仲のいい婦夫でも、夫の姓となることで家庭内でも稼いでくる「世帯主」の夫の地位が高いという認識が夫に刷り込まれる。また、稼ぐお金の有無で立場に上下ができ、アンペイドワークをするのは価値が低いという考え方がDVを正当化する温床となっている。また、共働きだとしても賃金は対等ではない。このことからみても婦夫は対等ではない。差別をされる全ての女性の現実は、女性が劣っているという差別から起因している。女性は子供を産み家を反映させるための存在であり、あるいは性的な感情を処理するために欠かせない���であるという認識があるがために、私たちは差別されている。女性を貶める価値観が力を持っている��めにその声を埋められている。劣っている、不正確で大袈裟だとみなされているから、最初から重要視されていない。だから女性のする仕事の賃金はひくく、女性の賃金は低い。そのため、社会的システムは女性にとって不備が多く差別をされる側である女性の声が反映されないために社会のシステム不備が放置され続けている。
例えばこの記事でも深く言及されないように精神的DVの問題はただの夫婦喧嘩のようなものとみなされて放置されてしまう。女性自身もそれが被害と思えず、洗脳などの影響や私の夫は違うという情緒的な感情で否定する。また、妻が夫を介護する際の苦痛や心身の重い負担は濾過されて「連れ添った夫を支える妻」という献身的な理想的な妻の姿に変換される。そして選択を尊重しようと勝手に寄り添われてしまう。
そうならざるを得ず、自らケア要員とならない状況が舗装されていたから生きるためにそこしか歩いて行くことができなかった女性をこの社会は応援し、その人の選択だからとその責任を個人に被せようとする。また、これは人身売買である性売買ビジネスがセーフティネットとなっていることや「女性の美しさや素晴らしさを生かすお仕事」というふうに偽って害のない仕事のようなフリをして敷居が低く設定して常に女性を募集するブローカーたちや顧客たちが女性を切り捨てる様に似ている、自分たちは悪くない、だって売り物がなかったら買うことなんてできない。そしてセックスワークは立派な仕事です、体を売りたい女性が売れるようにしましょう!なんて曰うすがたと全く瓜二つである。
あくまで、この記事では在宅医療を選択した人々の現実の水彩画がうっすらとぬりひろげられているだけだが、わたしには死期の近さから心理的に夫の看病を選択せざるを得なかった妻たちは逃げ場のない看病と介護のためにひどい身体的心理的負担を背負っているという実態が隠されているように感じた。夫は夫でこれまで通り妻になんでもやらせておきながら死が近いという立場を利用し、ただでさえ介護で疲労した妻を虐げている。これらを問題視すべきなのに「選択」を尊重とか言ってしまった手前何もそうした明らかな異常を指摘できずにふわふわと漂うように婦夫を見つめることしかできない、執筆者の薄い人権感覚しか浮き彫りになっていない。
根深い女性差別と在宅医療を選択せざるを得ないようなシステムになっていることや在宅医療の問題についての感想も何もない。そうした現実になぜ視線を向けられないのか?介護で逃げ場のない人々への視線がない。この記事では社会的な女性への無関心な視野から美しい老婦夫を描き出して精神的暴力をなかば肯定すらしてしまっている。
このご家族の場合、婦夫の関係が非常に良好だったのかもしれないし信頼関係があったからこそのことかもしれない、文字の中でそれは見えないからわからないけれど、それであっても思いやりとか絆とか、尊重といったふんわりした優しい感覚や視線で暴言や介護拒否、家族に無理強いをして負担を強いること全てを容認・肯定するのはいかがなものか?
家族以外の介護を拒んで家族に暴言を吐くことすら透明にすることの何が「命の尊重」なのだろうか?女の命や尊厳、介護する側の家族の命は尊重すべき対象に含まれないのか?
何でもかんでもちょっと先��的に見えるテーマを選んで当事者の声をつまみ食いしたエピソードを紹介して適当に食い散らしながら介護の負担や暴言、介護拒否のある夫を妻が負担を押して介護しなくてはいけない現実や終末期医療に従事する職員へ焦点をあてず「選択を尊重します!」といっとけば良いと思ってるのか。そんなの多様性でもない、在宅医療という選択を選んだ家族をとらえる視点も旧的な家族像ありきのものであり、夫から暴言を吐かれてもそれをどこにもぶつけようがない妻の置かれた状況への配慮もなく無視している。
本人たちの選択ということにして、それを尊重しますと言えばなにかに貢献している気になれて本人は何かをしたつもりだろうが、そんな馬鹿げた薄い共感や寄り添いなんか現場も家族も誰も必要としていないのではないだろうか。
現実の姿をひとつも浮き彫りにできていない。問題提起にすらなっていない。尊重します!と表明したり尊重するという体で社会に提起することが流行っているようだが、その視線はどこへ向いているのか?記者にとっての、こうであって欲しいというあたたかい老いた婦夫の姿と医療現場への無関心な視線しか見えてこず残念だ。
そもそも、在宅医療を提案した医師も、『最期を家族で過ごすことは誰もがそれを望む、最後の瞬間まで一緒にいることはなによりも悔いを残さないためにもその人らしく生を終えるために必要だ、家族と過ごせないのはむなしく寂しいことだ。』という家族主義的な価値観が土台にある思い込みや無条件的に家族と一緒にいることを良いものと捉える観念があるからこそ在宅で終末期を過ごすことをすすめたのではないだろうか?という疑念が浮かんだ
病院のベッドで孤独につつまれた日々を過ごす患者の姿を見てきたからこその提案かもしれないが、家族と一緒に過ごすことが全ての家庭、全ての夫婦に良い最期をもたらすものとは限らないはずだ。
在宅医療となると、支えるのは家族だ。その負担に対して医師は無関心なのではないかと私は感じた。家族に看取られず孤独で悲しみで寂しく亡くなられる患者さんや後悔する姿を見てきたからこその意見なのかもしれないが、それでも決して逃げ場のない家庭で常に看病しなくてはいけない在宅医療の悪い側面も伝えておくべきだったのではないかと思うのだ。
私たちでさえ在宅での闘病生活や在宅の介護に対して24時間テレビで報道されるあたたかい命のものがたりのようなイメージを持ちがちだ。
死の不安と恐怖で自暴自棄になり荒む家族と、その人を看病する家族が時にはぶつかって笑い合って泣いて、死が近づいた家族のためにさいごはみんなが一致団結して協力しあって思い出をつくり、最期は穏やかに死を迎え、受け入れる…そんなキラキラした豊かな最期。感謝と思いやりの輝きに満ちていて、介護する側とされる側の個性で最後の時間が彩られた美しい物語が当事者たちが不在の現実だ。この記事も、情緒的な定石を踏みながら事実を濾過していただけに過ぎないように思えるのだ
物語の中には無償で家族をケアし、自分よりはるかに体重も重い家族を介助する過酷さや暴言があっても家庭内介護の現場の理不尽さは存在しない。
介護する家族の「悔いなく過ごさ���くては」という思いが自身を追い詰めてしまうことやそのような思いも手伝って介護サービスを拒否する家族の介護を自分一人で背負わなくてはいけないことや介護拒否があるために協力を依頼できないことと使命感や本人が望む形で叶えてあげたいという思いがあるために無理をせざるを得ない環境が悪循環となり介護者にのしかかることは取り上げられない。家族間の介護ハラスメントはほとんど取り上げられない。
この女性が夫から暴言を吐かれる妻でなく、利用者や患者から理不尽な暴言を吐かれても反論できない弱い立場である介護職員や看護師のだったとしたらどうだろう?それでもさらりと暴言を流すことができるのか。家庭内だというだけでハラスメントを無効化してしまうのはなぜなのか?夫の長年の闘病と死を受け入れて自宅で夫に尽くす妻や家族の姿に理想のやさしく仲睦まじい家族像を投影しているからこそ、夫の加害行為に甘くなるのではないのだろうか。
信子三部作の男主観からみた睦まじい家族像を見ているような気分でこの記事を眺めた。夫の喜びや楽しい家族たちの団欒は妻の負担あってこそのものであるにもかかわらず、最初からそのような負担はないものとみなされているのだ。そうした無関心な傲慢さには本当にげんなりさせられる。
"夫婦の家は、2階が台所などのある生活の場で、構造上、ベッドは1階にしか置けない。1階で一夫さんが呼ぶたびに、陽子さんは急な階段を上り下りしなくてはならなかった。
「本人は緊急じゃなくても来てほしいんですよね。しょっちゅう呼ばれました」
毎日30回以上は行き来した。膝が悪いので大変でした、と陽子さんは微笑む。一夫さんは何かをしてもらうたびに、「ありがとう」「ありがとう」と言うのが口癖だった。"
死が近づいている夫にしてあげたいと思うのは当然の心理のはずだ。そうした死が間近にあるという緊迫した現実と、その中で悔いを残さないよう尽くしたいと思うからだ。それが介護者の心を追い詰めてしまうことにもつながる。そうした配慮や尊重は記事の中に何もない。
男尊女卑が透明化された旧的な家族像を通して介護や終末期在宅医療の当事者たちをあたたかい姿勢で語ろうとするのは間違っている。現実を分断するなといいたい。命の尊重という焦点の中にサービスを提供する当事者たちの苦悩はその中に存在しないことになっているからだ。夫はもう死ぬかもしれないから後悔を残さないようにしなくては、と闘病を見守ってきたが故に心理的に負担を引き受けざるを得ない家族の心理やなんでも夫の言う通りに要求を聞き入れざるを得ず、夫のいる一階に1日に何十回も老いた体で階段の登り下りをしないといけない身体的な負担を執筆者は見逃している。いったい、これは誰のための物語なのだろう?
命を考えようなどとはいうが、家族の暴言を耐えなくてはいけない介護者側の人権や命、尊���は尊重すべき命の対象の中に含まれていないようだ。おかしい。変な話になるが、偶然この女性たちが介護の苦痛のために命を断つ選択肢を選ばなかっただけなのだ。そもそも看取る職員の過酷さや葛藤、相手が終末期の高齢者であることや認知症のBPSDによる暴言・暴力はハラスメントから除外されるため被害に遭っているのにもかかわらず泣き寝入��をせざるを得ない職員たちがいること、精神的負担とハラスメントの受け皿がすくないことが命の現場の離職理由にもなっていることの問題に通じている。
わたしたちサービス提供者はいつになったら人間扱いされるのか?人間として認めてもらえるのだろうか?私たちはロボットではない、利用者からの理不尽な暴言を受け流すスキルを身につけなくては行けない仕事がほかにあるだろうか?私たちサービス提供者はどんな時でもどんなことがあってもサービスを提供できるのが当たり前の存在とみなされている。
私たちのこの体にはあなたたちと同じように血が流れ、鼓動が脈打つ心臓があり、感情を感じる心があり、尊重されるべき尊厳があるのだ。
0 notes
Text
渋谷にデモのために他所から来る人のことも正直(なんで自分の住んでいる地域の人たちに訴えるより、絶対関心のない人の方が圧倒的多数の渋谷にやってくるんだ…?)と思ってた。
なんで住んでない街でデモしたがるの?目立ちたいから???しかもそういうふうに渋谷にわざわざやってきてデモをする人たちってなんか知らないけど、渋谷区で暮らしている人のことを社会に無関心な金持ちとか、苦労を知らないひととか貧乏人をみくだしてるとか、呑気に暮らしてる奥様とかレッテル貼ったりミソジニー全開で人を見下していたりするから本当にやめてほしい。しかも、そういうふうに渋谷にきてなんかしてるつもりになってる活動家の男って女性に平気で上から目線で教えてあげてるつもりでマンスプする上に女性に雑用をやらせるのは当たり前と思ってるから最悪。女性も女性で渋谷区で暮らしている女性のことをなんか知らないけど住んだこともないのに見下していたりするので、正直本当に無理。お前に資格はねえよ、出てけ、来るな。
0 notes
Text
謎のノーマスク主張軍団とマスクつけてれば越境してもいいと思ったり路上で飲んだりしてるやばい軍団、わたしから見たらどっこいどっこい
0 notes
Text
わたしの家族は働いているわたしと父親以外みんな自粛をずっと続けてる。行きたいところも我慢してる、病院すら行ってない。母親は体調が悪くてももしわたしが感染して子どもにうつしたら…と不安がって病院に行ってない。わたしが遠い病院に行くために交通機関を使うことすら心配している。こんなにこんなに頑張ってる。自分の体調を後回しにしてまで徹底して自粛して、真っ当に怖がってる。
お母さんがかわいそう。みんなかわいそうだ、心を削っている。自粛がつらいというより、あまりにもコロナを軽く見てる人の多さに精神をやられてしまう。「なんでみんな、出かけるの?なんで変わらないの?」お母さんは渋谷の様子を撮った写真をラインで送ると、彼はとても驚いていた。「マスクをつけていればいいの?」この言葉にどんな感情があるのか。お母さんが外に出なくなって、もう1年以上が経つ。旅行に行きたい、みんなで今度はここに行こうね、どこどこに食べに行きたいね。歳をとるたび、母は体も体調も変わっていく。足も耳も手も記憶も衰えていく。その途中で、ずっと母はやりたいことをがまんしている。来年も彼は生きていられるのか?それはわからない。ただ生きていてほしい、ただ無事でいてほしい。
それなのに、そんな願いをこの社会に生きる人々のその場凌ぎの場当たり的な行動が打ち砕こうとする。変わらない社会、変わろうとしない人々。女性も男性も、もう誰のこともわたしは信頼できなくなった。コロナ禍でさえ出かける人々の多さに人間不信が一気に加速した。もう、誰のことも助けたいと思えない、変わろうとしない人々と社会を見せつけられるたび無力感の波に攫われて足が砕けていく。遊びのために出かけて電車や駅を圧迫する若くて健康な人たちが重症化したとき高齢者たちよりも呼吸器を優先されること。悔しい、悔しい。ただただ辛く、かなしい。
0 notes
Text
今日の渋谷、平日なのに人混みやばかった。この人たち全員仕事のために来てるのかな?生きてるのに集団自殺しに来てるみたい、みんな目先の自分のごきげんをとるのに必死で、その先のことは考えてない。
自粛疲れって何??馬鹿みたい、自分で自分の首締めて大騒ぎしてるようにしか見えないよ。自粛を強いられなくちゃいけない状況を望んでるとしか思えない。
わたしは今日たまたま通院のために渋谷で乗り換えたけど、街に出ると本気で驚くよ。あまりにも街の様子が変わってないから
この人たちがもし感染して重症になったら、家庭内感染や施設内で感染した重症の高齢者たちよりもこの人たちに呼吸器が渡される。高齢者たちは選別される。いつもわたしが仕事で接している高齢者の方々。みんな家族に会えない中頑張って毎日を過ごしている。ボードゲーム禁止、歌も禁止、散歩も禁止。
家族に会いたい、面会はいつなの?と不安がる高齢者に今はお会いできないということを嘘をついてごまかす職員の気持ち、辛さを考えたことあるだろうか?
家に帰れば家族に会えるのにね、外食や外出。我慢すればそれだけでも接触感染リスクは低減できるのにね。家族のことが大切なひとからしたら家に帰れば大切な人に会えて、その人が生きているというだけでそれだけで幸福なこと。その相手が友達だってそう、誰だってそう。
目先の幸福だけしか見えていないのかな?失ったら取り戻せなくなるものを失うリスクを、どうして取るのだろう。
むなしい、むなしくなる、馬鹿らしくなる。ここまで命を捨て���がる、他人の命を無碍にしようとする人たちを医療従事者が心身を削って差別をされながら耐えて守り抜く意味ってあるの?そんなことさえ思ってしまう。
自粛ってなんなの?緊急事態宣言ってなんなの?緊急事態宣言が発令された状況でこの人の多さって正直おかしいよ。それもこの人たちって渋谷に住んでもいない、わざわざ遠くから来る人たちがほとんど。渋谷区内になんでわざわざ来るの?本当に許せない、宣言や新型コロナの脅威を軽く見てるとしか思えない。この街にも多くの人が住んでいて体の弱い人も子どもも妊娠している方もいろんな方がいる。他所から遊びに来るためだけに越境して、この街で暮らすひとたちに感染リスクを広げないでほしい。もちろん仕事終わりの人もいるだろうけど、寄り道とかしないで外食しないでとっとと帰ってほしい。
わたしが生まれ育った大切な街をめちゃくちゃにしないで。ハロウィンの時も年末の時もそう、なんで人の街を自分が好き勝手していいと思えるの?むかしからずっとおかしいと思ってた。利己的すぎる、エゴの塊でしかないよ。
虚しくなってしまう。コロナ鬱が叫ばれているけど、自粛を頑張りもせずへらへらしてる人たち、ふらふらと出かけておいてコロナ怖い鬱〜って信じられん。遊びに行ってストレス発散できてよかったね?そのためにわざわざ電車をつかって越境して、電車内の人数も増やして、駅構内の人数も増やして密にしてくれて、どうもありがとう。どんだけ人を馬鹿にしてるの?
自粛をせざるを得ない人たちの精神的な疲れこそ心配だ。そりゃ、心を病むよね。こんなふうに我慢しないで感染リスクを広げ続ける人たちだらけなんだから、そりゃ不安にもなるし無力感でいっぱいになるよ。自粛を頑張れないよね、自分と誰かを守るために、今できることを頑張ってるのにね。虚しくなるよね。悲しくなるよね。
0 notes
Text
ファイザー製ワクチンを打った。実は4月中に打ってました、福祉従事者なので。コロナのワクチンは不妊成分が入ってる!!とか、馬鹿なことを声高に言ってる人たちはなんなんだろうと本当に呆れます。ひとりひとりが免疫をつけていくことで集団の感染リスクを下げることに意味があるのに、正常な社会に戻ってほしくないのだろうか?なぜしないのだろう?
わたしはそういう連中の言う「医療従事者や介護従事者に感謝を!ありがとう!」は信用できない。
とにかく、早くこの状況を収めるためにもワクチンは有効だ。高齢者の方にマスクをつけてください、鼻を出さないでくださいと毎日毎日注意��るのも、マスクで息苦しい中高齢者の方を入浴させるのも大変だ。高齢者の方は認知症でマスクをつけられなかったりマスクを拒絶する方が非常に多い。それはもちろん、本人に問題があるというより、理解することと理解を持続させることが難しいからだ。高齢者の方にマスクの注意をして、杖や手で叩かれそうになったこともある。
ワクチン接種の副反応なんてどうでも良いので、こっちは早くコロナ禍を終わらせて安心して過ごしたいし高齢者の方々にまた外で散歩したり歌を歌ったりしてその人らしい時間を過ごす日々に戻ってほしい。
もうたくさんだ、こんなのを毎回毎日続けられない。暑い時機をマスクをつけて過ごすなんて限界だ。酸欠になってしまう。高齢者たちはもっともっと辛いだろう。そう考えると心苦しい。��れなのに、どうして人々は路上飲みを続けたり県外に出かけたりできるのだろう?
コロナの感染状況や絞られている検査数を信じて甘くみて少しだけなら気晴らしもいいんじゃないかとか、ちょっとならいいとか、そうやって自分に都合のいい理由を作って出かけているひと一人一人に原因があるとわたしは思う
施設で暮らす高齢者たちについて、あまり世間の注目が薄いのでここに記しておこうと思う。まず、私の働く施設では、施設内で暮らしている高齢者たちは家族との面会が全面禁止になった。再開時期は未定だ。家族には会えない。レクリエーションができなくなった施設もあるでしょう。私のところもレクリエーションは完全に禁止になった。マスク越しの歌も禁止。高齢者が昔の歌をくちずさめばすぐさまスタッフが駆け寄って「歌は禁止です!」と注意しなくてはいけない。ただ歌うだけのことが禁止になった。友達同士で歌うことも当然禁止だ。歌うことが大好きだったおばあさんはあまり話さなくなった。いつも夕飯時の時間にみんなで楽しく合唱していたおじいさんのグループも、静かになった。今はテレビやラジオの無機質な声ばかりが部屋に響いている。毎日そこにあったはずの和やかな空気はだんだん静けさを増していく。今は食事中の談笑すら禁止だ。近所の公園に散歩にすら行けない。対面のボードゲームやすごろくはソーシャルディスタンスを保ったまま遊べないから禁止。マスクをつけるルールを忘れて会話しながら遊ぶ高齢者が多いため、禁止のゲームはいくつも追加されていった。
マスクは苦しい、風邪も引いてないのにつけたくない。鼻水も出てないのになんでなの?
マスクをつけたままの会話は聞こえにくいため、高齢者たちはすぐマスクを外す。それを注意するのも大変だし、高齢者にとってもストレスになる。
それでも多くの方々がルールを守りながらそれぞれ工夫しながら毎日を過ごしている。
路上で飲酒したり、マスクをつけてるから外出しても平気だとか自分に都合のいい理由をつけてこれまでコロナ禍だと言うのに外出してきた皆さんは上記の内容をみてどう思うだろう?食事中の談笑すら禁止されて、歌すら歌えない、そんな暮らしを強いられている高齢者たちのことをどう思うのだろう?マスクをつけることや感染リスクを理解しにくい高齢者たちは感染を防ぐためのルールや不便な生活や���わってしまった日常に、高齢者たちは疲れている。
施設の周りを散歩したり、公園でのんびりと過ごす程度の外出しかしていない高齢者たちは、そんな些細な自由すらコロナ禍に奪われてしまった。
高齢者は社会の中でも弱い立場の人達だ。
この先の短い人生を、少しでもその人らしく過ごせる時間を過ごしてほしいのに、コロナ禍がそれをゆるさない。無責任な人達のせいで感染が拡大した結果、家族と過ごす時間やほんの少しの楽しみすら奪われなくてはいけないなんて、あまりにも残酷だ。
高齢者が何をしたというのだろう?
軽率に外出を続けて「自粛疲れ」だとか都合のいい理由をつけて出かけて感染を拡大させ、弱い人たちから安らぎを奪ったあなたたちにも責任がないとは言わせない。わざわざコロナ禍というのに出かけたあなたたちが、今の不自由を作り出した。自分で感染を拡大させておいて、自分の首を絞めるようなことをした結果自粛が必要な社会になったのに、それで自粛疲れとは一体なんなのだろう?意味がわからないので説明してほしい。
この先、医療崩壊が進めば必要最低限の治療以外ができなくなるかもしれない。命が残り少ない高齢者たちは選別の対象だ。治療や手術、入院が不要と判断されて制限がされれば、認知症や高齢者特有の疾患の治療は先延ばしになったり断られたりするかもしれない。
高齢者は皆これまで頑張って日本と日本社会を作ってきた方々だ。特に高齢女性たちは人生の若い時期を選挙権もなく就業や教育の自由や権利の認められない時代を生きてきた人々だ。女性が生きにくい時代を生き抜いて、子育てや孫の世話も終えて自分の時間をようやく手に入れた人たちだ。なぜ今、人生の終焉に近い時間をこんなにも苦しめられなくてはいけないのか。わたしは無責任に外出したあなたたちひとりひとりを絶対に許さない。自分の命も他者の命も無駄にするようなことをした、あなたたちを絶対忘れない。
あなたたちは他者の手助けなしに暮らすことができない人々の存在を蔑ろにしてきた。今もなお外出をやめない人たち、今もなお路上飲みをやめない人たち、今もなお緊急事態宣言に応じていない県外まで出かけている人たち。娯楽のために自己満足のために自分の命や人生を投げ打つのは構わない、あなたが感染して後遺症で苦しむ人生を選ぶのも、家族に感染させて家族を失うことになっても、あなたが自分で選んだことなのだからその責任を背負うのもあなただ。だからあなたのことを否定しない。あなたの責任なのだから。けれどあなたがそうして無責任な行動をとって感染を広げることで、なんの責任もない罪のない高齢者たちや重症化リスクの高い人々が感染を防ぐための制限によって苦しむのだ。
いい加減覚えてほしい、自粛のストレスなんかで人は死なない。少なくとも外出をしないことで死ぬなんて、絶対にありえない。
なぜ私たちが今自粛を頑張らなくてはいけないのか、それは今この社会に生きている誰かの命を守るためだ。互いに互いの命を守るためだ。命がなくては何もできない。けれどコロナの場合、死ねば全てが終わるのでも死んでしまったら全てが終わるのでもない。コロナで死んだら生きているあなたの家族やあなたの大切は人々はあなたと最後の別れを過ごす時間すらない。コロナになって重症化ののち死ぬことになったら、あなたは人間らしい自分らしい最後を送ることができない。今の刹那的な快楽を得るために出かけたとしても、それと引き換えにあなたは自分らしく人生を終える機会そのものを失うかもしれない。
自粛を甘くみている人がいるかもしれないが、必要のない外出や県外の移動を自粛するだけで感染拡大を抑えられるし変異のスピードを緩めることができる。
ただの楽しみのために自分や誰かの人生を台無しにするのか、それとも今を耐えてこれからのために自分の人生を生きるのか?答えは簡単なはずだ
0 notes
Text
どこもかしこも、発熱や消毒やマスク着用で頑張っている。けれど、熱も何も自覚症状がない無症状者はどこでも出入りできてしまう恐ろしさにいまいちピンときていない。知識が足りていないのか、現実逃避しているのか?そうではなく、これが限界なのだ。検査なしに無症状者を特定するなんてことできない。
保健所や病院などは陽性者の濃厚接触者にこだわっているが、エアロゾル感染のことは完全に無視していいのだろうかと思う。国は経済経済というが、大勢の人が死ねば死ぬほど、感染者が増えれば増えるほど経済は疲弊し壊滅は広がっていく。政府にはこの国を支えているのは国民という意識がないのだろうか。
コロナ感染者はいないと断言して党大会前に80日闘争を行い飢餓にあえぐ国民を昼夜問わず働かせ続けた北朝鮮政府と、給付も何もせず国民に自助と共助を助け合いの美名で飾り立てて頼りきっている見下げ果てた我が国の政府の倫理観の根っこはほとんど全く同じものに思える。適当に当てずっぽうに検査し、国民個人個人に協力させ、自分たちは絶対に国民のことをたすけず切り捨てる。国民は人間ではないのか?利権や企業や政治家だけに尊い命があるのだろうか。国民と隔てがあるのはなぜなのか。国民たちが補償を受け、安全に生活を送り、命を繋ぐ権利はないのか。国民たちは感染したら一生のこる後遺症と命を落とす危険と隣り合わせになりながら、家族を悲惨な目に合わせてしまうことに怯えている。しかし、給付がないから働いている。消費税はいまだに減額されず、生理用品も軽減税率対象ではない。女は国民ではないのか。企業も人命よりも利益を重視している。この時代においては、混み合う電車に乗り、街中を歩いて勤���先と自宅を往復する働き方を国が主体となって変えていくべきだ。それなのに、いまだに依然としてそうした旧態的なやり方を変えないのはなぜなのか。国が企業がテレワーク環境を整えられるように働きかけ、出資すべきなのではないのか。医療や介護、運送業や衣食住や生活のライフラインを基礎で支えている工場、コンビニやスーパーマーケットや薬局の店員、薬剤師、市区町村の役所の職員や郵便局員、消防署職員、電車やバスの運転手など生活に不可欠な業種で働く人々は感染のリスクが非常に高い。そうした人々が感染源とならないよう、身を守って安全に勤務し生活できるように、補償をし、PCR検査のできる施設を増やしていくべきだ。ほとんどの国民は国からの給付も保障もなくそのことになかば諦めながら働いている。こんな時期でも家賃を支払えと言う保証会社もある。そうした会社を選んだのな自己責任として切り捨てるべきではない。貧しくなるばかりの国民は、見捨ててもよい存在なのか。私の母は生活難のためにクレジットカードで生活費を支払っているが、過労死ラインを500時間オーバーして働き続けたにもかかわらず父が給料未払いであるため破産しそうだ。父が倒れてしまうと、今度は私が家族を養わなくてはいけない。生活保護を受けることも視野にあるけれどそうなると色々な不利があるからだ。私が養うことになっても、私自身の経済的な自立は難しくなる。安全の保証もなにもなく、安全が保証されず、熱も何もない無症状感染者たちが野放しにされたまま特定すらせず、感染者たちが放置されたまま医療が崩壊しかけている日本は、もう先進国と呼べない。子どもたちは経済と家庭の不和や抑圧で死に続けている。虐待を苦に自死した子どももいることだろう。女性たちは女性というだけで就職困難に陥った。性風俗や結婚が女性のセーフティーネットとして機能しているこの国はもうすでに終わっ���国なのだ。国の人災であるコロナ禍によってどれほどこの国の女性と子どもたちは死なされなくてはいけないのか。絶望だけがある。旧態の労働システムの中で希望もないなか働かなくてはいけない。コロナ禍でも入管は虐待を続け、ベトナムからやってきた技能実習生たちは職を失い、仕事につくことができずに犯罪の手先として利用されている。いまやこの国は死を待つ人々が暮らす巨大な収容所のようだ。給付の気配も何もなく、自助共助の美名だけが『働けば自由になる』のスローガンのように踊っている。感染してしまったら自分や家族の人生も未来も終了してしまうかもしれなくても、それでも病気に感染するリスクが未知数の外に出て電車に乗って多くの人々が仕事をしている。改善される未来すら見えない中、国民は未来が見えないことから目を背けるために娯楽に夢中になっている。日本のPCR検査数は155位で発展途上国と同じ位置にある。接待や五輪やGoToのために使うお金があるのに検査をしないのはなぜか。陽性者のための隔離施設も作らず、ホテルに押し込めているがホテル内で症状が急変した場合、即座に緊急の処置を行うことはできないのだ。困っている人たちは野放しにされ、感染リスクの高い電車に乗って仕事をしにいっている。飲食店やコンビニは客を呼ぼうと値引きや割引のクーポンを乱発している。
しかし、経営者たちも従業員や自分の家族を養わなくてはいけないから必死なのだ。
安く外食したくてそのために外出した先の電車内やバス内で感染することだってありえる。感染したままバスや電車に乗り、感染を広げてしまうことだってある。無症状感染者は自分が感染している自覚なく、どこにでも出かけてしまうだろう。飲食店やいわゆる夜の街は緊急事態宣言で目の敵にされたが、飲食店内での感染が多いのならば来店した人がPCR検査を受けられるようにしたり、飲食店の感染対策や補償額を大きくする等できることはあるはずだ。闇雲に危険だ危険だというのになぜ何もしないのか。それならば電車やバス内の感染リスクはなぜ無視するのか。国が徹底的に国民の存在や要求や命を守ることを無視している。そもそもこの社会は命を軽視しすぎている。生きてなかったら何もできない。私たちは偶然ただ体が健康であるから健康に生きられているのだ。体あっての命と健康、将来や未来があるというのに、そのことをわかっていない。そのように命を重要視しない人と話をすると、認識の差に思いやられる。昨日話した人は私が重症家リスクの高い家族と暮らしていて、私が感染リスクを断つためにずっと自粛していたことや、家族のことを守らないといけないことや感染リスクの高い電車には乗れないことなどに対してあまりピンときていない様子だった。
いちいち私の行動や自粛について、なぜなのか、なぜなのかと問い詰めてきた。認識が浅い人と会話をするのはとても疲れるし怒りがわく。すべては政府が命を守ることに懸命ではないからなのだ。そして、他者への無理解を貫いているからだ。そのために旧態の社会システムを変えもせず、自粛をしろというだけで給付もせず、検査もしない。エアロゾル感染も無視する。特に危機意識を高く持ち、家族や自分を守るために働きに出ることも辞めて自粛をひたすら頑張っている国民だけが損をしている。危機意識の高くない他の国民からしたら自分たちは普通に出かけられているのに出かけもせず働かないなんて意味がわからない、怖がりすぎだという感じなのだろう。そうした希薄な危機意識になるのも、国の感染対策がずさんであり、検査数を絞っているからだ。毎日感染者数が発表されているが、検査数の少なさを見れば感染者は完全に収まっているように見えるはずだ。そうした危機感のない人は政府に疑問も持たず信じるだろうし、危機感を持って行動する人との間にギャップがあるのも当たり前だ。
政府が鈍感で、鈍感さゆえの隙のある行動や対策を講じているからこそ、同じように国民も誰かが誰かの命を守ろうとして行動を控えている人々の存在やそうした人々の背景に対してとても鈍感になっているのではないだろうか。
0 notes
Text
家族が「心が女性・男性」があり得るものと信じてる微トラカル教徒なんだけど、それなのにこっちが幼稚で話のわかってないやつ扱いされるの耐えられない!例えばプロレスでGIDの女子(つまり、身体は男)が女子トーナメントに出ることは主催者が認めてればオッケーだからいいんだあああ!体格差でいえば男性より女性の方が賃金が低いけどおお???ミックスドマッチもあるんだけどおお!男女で分けてるっていうけど分けられてませんけどおおお!それも男子レスラーに対等に戦ってる女子もいるううう!プロレスの場合は技術ぅうう!で話にならない。男女の体格差の話をしても、そもそも大きな差はなくない?そこまで大きく変わらないんじゃない?で話が通じない。しかも心の性別はあると思っている時点でめちゃくちゃで、曖昧で、理解が足りていない。社会的性別があることがおかしいということもわかってなくてこっちが笑われる始末。女性と男性では基礎値が違うだもんミソジニーの話をするときにこっちがおびえたりゆうきを持つことを強いられてしまう理不尽が悔しい。ミソジニーに染められて流されて生きてきてそれが社会に合わせることで当たり前と思ってる母親にも、男より女は体格差があるから賃金が低いのは当たり前と思ってる妹も。これが「普通の女性」なんだよね。辞めちゃっていいか??
0 notes