#呉港
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日本の製鉄技術って凄い
@大和ミュージアム
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14 Blades
錦衣衛 (2010)
#14 Blades#錦衣衛#Donnie Yen#Vicki Zhao#Kate Tsui#Wu Chun#甄子丹#趙薇#徐子珊#呉尊#Daniel Lee#李仁港#China#movie#gif#2010
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラ���ウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として��戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあ��た。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦��飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカ��行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の��地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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三高山砲台跡2
兵舎跡からの絶景
広島名物の牡蠣の養殖棚
兵舎跡(手前)と弾薬庫(奥)
奥の階段から降りてきたのだが、その横の下に伸びる道から南部砲台跡に
こんな道を10分ほど歩く
煉瓦積みの防塁
こちらは石積みの溝梁
10分ほどで南部砲台跡到着
土に埋もれた感じが何とも良い感じ
もちろん中に入れます😁
北部砲台跡を出て海岸沿いの三高港に。正面は広島市内。車なら呉を回って2時間あまりが船なら40分で広島市内に
呉に戻る途上で海上自衛隊エアクッション整備科なるところでホバークラフトを発見💡
#history#landscapes#photographers on tumblr#motorcycle#autos#nature#travel#tourism#tour#sea#photography#photo#写真#絶景#青い海#青い空#広島県#日本遺産#日本の遺跡#日本の歴史#ラピュタ#日本の風景
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)8月13日(火曜日)
通巻第8365号
バングラ政変の黒幕に米国が関与? 『南アジアの春』?
インドから見れば、周りのスリランカ、ミャンマー、モルジブに政変が起きた
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筆者の印象ではバングラデシュの人々はたいそう親日的である。国旗をみても、日本の国旗そっくりのデザインで、白地がみどり、日の丸は赤。小学生でもまっさきの覚える国旗だ。
1971年の戦争でパキスタンから独立後、日本が最大の支援国だったこともある。
そのバングラ人が日本にあきれかえった事件は、ダッカ空港日本赤軍ハイジャック事件で、凶悪犯人の出鱈目な要求を当時の福田政権は「命は地球より重い」と言って身代金にも応じ、ハイジャッカーの言いなりになったことだった。
日本には武士道があったのでは?
2015年に筆者は関空からダッカへ向かった。飛行場で登場寸前に継体電話が鳴り、うっかり或る新聞コラムの原稿締め切りを忘れていたことを知った。原稿の督促、それも24時間以内。
機中で書き上げ、ダッカのホテルから、FAX送稿して間に合った。間一髪だった。原稿用紙を持っていないので、同行した家内に下書きの字数を数えてもらい、1200字にまとめた。強烈に思い出すのはダッカの三流ホテルからでもFAXが通じたからだ。
機内で隣に座ったのは若いバングラデシュの男性。日本ではタイル工務店で働き、一年ぶりの里帰り、親方がボーナスを呉れたからと嬉しそうな笑顔だった。「おみやげも沢山買えた」。
先般のバングラ政変はシェイク・ハシナ首相がインドへ逃亡し、欧米が保護していた銀行家のムハンマド・ユヌス(ノーベル平和賞。グラミー銀行創設)を暫定政権のトップの据えることで、混乱は一時的に収まった。超法規的措置だが、最大野党BNPと軍が納得したからで、軍は出来るだけ早い時期に民主手続きによる選挙を行うと宣言した。
バングラデシュの軍隊はエリートで陸軍13万2000人、海軍1・7万、空軍が1・4万の陣容である。
さてバングラ政変の「黒幕」は誰なのか?
ハシナ前首相は亡命先のインドでメディアの取材に応じ、「明らかに黒幕はアメリカよ」と言っている。
中国では? と切り返す暇を与えず、アメリカ黒幕説の理由を「セント・マーチン島をアメリカは軍事基地として租借し、ベンガル湾で睨みを利かそうとしていましたが、私が拒否し続けたからです」と説明した。ハシナは親中派である。
セント・マーチン島はチッタゴンから南へ、ミャンマー沿いのリゾート島で、バングラの国内観光では人気もあるが、インフラが整っていないばかりかアクセスが悪く、外国人はほとんど行かない。
そもそもバングラは日本の四割しかない面積に一億八千万の人口を抱えて、世界一の稠��度をほこり、そのうえ国土の半分が湿地帯、海岸線はマングローブ、人が住める土地は限られている。
▼軍事要衝の確保を急いでいるのは中国である。
米軍が、いくら地政学的要衝にあるとはいえ、この島を租借して空軍基地をつくるとは考えにくいのではないか。
とはいえ当該島の北にあるチッタゴンは中国がねらっているし、南のミャンマーのチャオピーはすでに中国の石油とガスのパイプラインの拠点化し、将来は港湾近代化を予定している。
筆者は、このチャオピーにも行ったことがあるが、ミャンマーの仏教原理主義過激派が70万人のロヒンギャをバングラに追いだした拠点でもある。中国が大工業団地を造ると言って土地の買い占めをしていた。
一方、インドの心配事は何かと言えば、バングラ国内に19000人のヒンズー教徒、その安全である。バングラではヒンズー教徒への謀略事件が目立ち、8000人のインドからの留学生は政変前後に帰国した。カナダのトロント等では、ヒンズー京都を守れという集会とデモが行われている。
バングラの政治はAI(アワミ連盟)とBNP(バングラ民族党)の対立構造で、最大野党BNPは過去二回の総選挙をボイコットした。
BNP総裁のジア元首相(殺害されたジア将軍未亡人)は自宅監禁を解かれたばかりで、これから政治力量を発揮できるか、どうか。
BNPには過激派JEI(ジャマート・エ・イスラミ)を抱えており、さらにこの分派の過激派が昨今のバングラ暴動を仕掛けたとされる。
ハシナが去って、ラーマンミュージアムは破壊された。ハシナの邸宅は民衆が押し入り、手当たり次第に家具、備品を持ち去った。
エアコン、応接セットから扇風機、絨毯、植木鉢から家畜まで。陽気に歌を唱いながらの略奪だが、新聞も余裕を持って写真グラビアを特集したが、罪を咎める風情はまったくなかった。
▼バングラの産業は繊維だが女工哀史、ユニクロも撤退
さきのグラミー銀行と組んでバングラに繊維工場、店舗を展開したのがユニクロだった。
そのグラミーユニクロは経営方式などで意見が合わず、撤退した。
また日本が援助し、JICAが中心となって、ダッカ市内を縦断する地下鉄は部分開通していた。ところが、さきの暴動で駅や改札などが破壊され、メトロかいつの目途は立っていない。日本企業も新たな難題を抱え込んだ。
日本に住む外国人は増えるばかりで、中国の82万人を筆頭に、二位ベトナムが57万人、三位韓国が���1万人。犯罪件数もこの順番である。
四位以下はフィリピン人が32万、ブラジル22万、ネパール18万、インドネシア15万、ミャンマー8・7万、台湾、アメリカ、タイ人とつづき、ミャンマー、ペルー、インドスリランカのあと、第十五位がバングラデシュ人の27962人(23年度末統計)。
そういえば日本のコンビニ店員は十数年前までは中国福建省閥が多かった。
いまではスリランカ、バングラ、ミャンマー勢にカザフスタン、ウズベキスタンなどの新顔。つまり他の国からの出稼ぎ組はコンビニや居酒屋より給与の高いところへ移動したのである。
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2024.5.5 広島 広島⇔江田島 (乗換) 江田島⇔呉
広島港→呉→松山のフェリーと2回会ったり
呉の軍船が見えたり見応えのある船旅に
7枚目のクレイトンベイホテルさんは戦艦大和と同じ高さ
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無題
挙式で引用した詩の全文です。
*
噴火口のあとともいふべき、山のいただきの、さまで大きからぬ湖。
あたり圍む鬱蒼たる森。
森と湖との間ほぼ一町あまり、ゆるやかなる傾斜となり、青篠密生す。
青篠の盡くるところ、幅三四間、白くこまかき砂地となり、渚に及ぶ。
その砂地に一人寢の天幕を立てて暫く暮し度い。
ペンとノートと、
愛好する書籍。
堅牢なる釣洋燈、
精良な飮料、食料。
石楠木咲き、
郭公、啼く。
誰一人知人に會はないで
ふところの心配なしに、
東京中の街から街を歩き、
うまいといふものを飮み、且つ食つて廻り度い。
遠��望む噴火山のいただきのかすかな煙のやうに、
腹這つて覗く噴火口の底のうなりの樣に、
そして、千年も萬年も呼吸を續ける歌が詠み度い。
遠く、遠く突き出た岬のはな、
右も、左も、まん前もすべて浪、浪、
僅かに自分のしりへに陸が續く。
そんなところに、いつまでも、立つてゐたい。
いつでも立ち上つて手を洗へるやう、
手近なところに清水を引いた、
書齋が造り度い。
咲き、散り、
咲き、散る
とりどりの花のすがたを、
まばたきもせずに見てゐたい。
萌えては枯れ、
枯れては落つる、
落葉樹の葉のすがたをも、
また。
山と山とが相迫り、
迫り迫つて
其處にかすかな水が生れる。
岩には苔、
苔には花、
花から花の下を、
傳ひ、滴り、
やがては相寄つて
岩のはなから落つる
一すぢの絲のやうな
まつしろな瀧を、
ひねもす見て暮し度い。
いつでも、
ほほゑみを、
眼に、
こころに、
やどしてゐたい。
自分のうしろ姿が、
いつでも見えてるやうに
生き度い。
窓といふ
窓をあけ放つても、
蚊や
蟲の
入つて來ない、
夏はないかなア。
日本國中の
港といふ港に、
泊まつて歩き度い。
死火山、
活火山、
火山から
火山の、
裾野から、
裾野を
天幕を擔いで、
寢て歩きたい。
日本國中にある
樹のすがたと、
その名を、
知りたい。
おもふ時に、
おもふものが、
飮みたい。
欲しい時に、
燐寸よ、
あつて呉れ。
煙草の味が、
いつでも
うまくて呉れ。
或る時に
可愛いいやうに、
妻と
子が、
可愛いいと
いい。
おもふ時に
降り
おもふ時に
晴れて呉れ。
眼が覺めたら
枕もとに、
かならず
新聞が
來てるといい。
庭の畑の
野菜に、
どうか、
蟲よ、
附かんで呉れ。
麦酒が
いつも、
冷えてると、
いい。
若山牧水『空想と願望』
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オーストラリア縦断3000キロ 呉港高、世界最大級ソーラーカーレース出場へ 4度目の挑戦 [中国新聞] 2023-09-26
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2023.12.13 〝越中和膳 秀庖〟で かにのコースを食べてから、富山の冬の味覚は〝かに〟ですって言う様になりました。「今年も頑張りました。もうしばらく頑張りましょう。」という事で、先日、かにのコースをいただきました。新湊漁港で水揚げされた〝かに〟とっても美味しいです。語彙力とぼしく美味しいしか言えません。季節の香箱がにの内子、カニ刺し...格別です。県外の方は是非冬の富山に、かにを食べにきてください。ベニズワイ、本ズワイ、香箱ガニ、どれも良いです。秀庖店主の腕も良いです。
#越中和膳秀庖#カニ三昧#ベニズワイガニ#本ズワイガニ#香箱ガニ#カニコース#富山食の匠#珈琲使っていただいてます#富山#呉羽#贅沢時間#頑張ります#coffeelovers#toyama
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【広島県】呉線🐙漁船と鉄道
忠海駅付近
最近鉄道が増えてきたのはネタ切れです
このネタ切れは悪いネタ切れではなく、
もうすぐ「京都もよう」から「旅もよう」への
移行が終わりそうです
(2021/03/29撮影)
#呉線 #jr呉線 #忠海港 #忠海駅 #漁船 #漁船がある風景 #広島県 #広島県竹原市 #忠海 #広島観光 #広島旅行 #鉄道のある風景
#旅行
#日本旅行
#国内旅行
#旅行好き
#日本の旅
#一人旅
#ひとり旅
#japantravel
#japantrip
#japanphoto
#japanphotography
#日本の風景
#retrip_nippon
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大きな窓の外は呉港
@大和ミュージアム
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■ 1.情報収集機Y-9は、中国軍のスパイ機だ 中国軍情報収集機「Y-9」が、2024年8月26日、下図のように接近飛行を行い、午前11時29分頃から11時31分頃にかけて、長崎県男女群島沖の領海上空を侵犯した。 情報収集機というのは、俗にいうスパイ機である。 このスパイ機が、監視・通告を受けても堂々と接近して領空侵犯を続け、実働行動による妨害も受けず帰投していったのである。 写真と図:領空侵犯した情報収集機Y-9と接近・侵犯の経路 今回の接近で、スパイ機Y-9は九州に配置されている航空自衛隊の監視レーダー、戦闘機基地、海上自衛隊の航空基地、港あるいは九州近海に所在していた艦艇とそのレーダー、米軍の艦艇とそのレーダー電子信号情報(以下レーダー信号)をキャッチ、録音して母機地に持ち帰った。 中国国防省呉謙報道官は8月29日の記者会見で、26日の中国軍機による初の日本領空侵犯について「深読みしないことを望む」と強調した。 スパイ機の役割を知っている軍の報道官は、それを公にされると中国が批判されることが分かっているので、批判をそらそうと、この表現にしたのだろう。 中国のスパイ機が、日本に領空侵犯してまで取った米軍および自衛隊の通信電子情報は、戦時に監視レーダーや艦艇を攻撃するために使われる。 戦時に使う貴重なデータとなることは、軍事専門家であれば「深読み」をしなくても分かっている。 スパイ機Y-9に関わって、 (1)電子情報を取る方法 (2)その情報の戦時での使用法 (3)ウクライナでの戦争でレーダーの破壊に使用 (4)中国軍の日米の電子情報を入手する狙い (5)中国はどの場面で電子情報を使用するのかについて、考察する。 ■ 2.スパイ機Y-9による電子情報取得の方法 中国のスパイ機Y-9は日本の九州に向かってきた。 そこで、日本と米国の各種兵器はレーダーを作動させ、電子信号を放出してその機を監視し、追随したと考えられる。 なぜなら、その機が日本に侵入し攻撃行動を取った場合に、撃墜する必要があるからだ。 今回の場合、航空自衛隊の監視レーダー、防空ミサイルの捜索レーダー、戦闘機の捜索レーダー、日米軍艦の防空レーダーが、図1のように活動したものと考えられる。 監視レーダーは、300キロを超える探知能力、戦闘機は約150キロの探知能力がある。 Y-9に捜索レーダー波(射撃用レーダー波ではない)を照射するはずである。 つまり、中国のY-9は、各種レーダー波を照射された。 図1 侵入するY-9が電子情報を収集するイメージ Y-9は、エリント情報とシギント情報の両方を収集する能力を保有しているので、その情報を受信し録音する。 そして、そのデータを持ち帰り、解析専門の機関に提供する。 解析機関は信号を詳細に分析し、それぞれの信号はどの種類の戦闘機、軍艦、監視レーダーなのかを特定する。 例えば、電子信号であれば、戦闘機の「F-15」「F-16」「F-35」のどれなのか、イージス艦なのか空母なのかを特定できるようにする。 海上であれば、商船を含めた各種艦船が航海中に電波を放出しているので、その中から空母やその他軍艦の電子信号を分離しなければならない。 それができなければ、軍艦を対レーダーミサイルで攻撃することはできない。 空母は、レーダー信号を放出することが少ないため、エリント衛星で入手した信号とY-9から入手した信号と照合することになろう。 中国軍は今、最も知りたい米空母の位置を知るために、空母のレーダー信号を特定することに努力を集中している。 以前、中国が米本土にバルーンを飛行させたことがあったが、そのバルーンも、米艦艇のレーダー信号情報を取るために、軍艦の上空を飛行させたものだと思っていたが、その意図がバレてしまったため、今はできなくなったと推定している。
単なる嫌がらせではない中国軍機の領空侵犯、日米レーダー施設破壊が目的(JBpress) - Yahoo!ニュース
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高烏砲台跡
呉港を守る旧陸軍の砲台跡
かっての兵舎跡
砲台跡
音戸大橋を見下ろす絶景
江田島をはじめとするしまなみ
呉港
平清盛公の銅像
#history#landscapes#photographers on tumblr#motorcycle#travel#tour#tourism#photography#photo#日本の歴史#日本の風景#絶景#広島県#日本遺産#日本遺跡#戦争遺跡#ラピュタ#写真#ツーリング#バイクで行く景色
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月28日(水曜日)弐
通巻第8154号
「借金の罠」を仕掛け、結局は自らも「借金の罠」に嵌まった中国
BRI(一体一路)は汚職の伏魔殿、不良債権の山となっていた
*************************
「債務の罠」とは中国が展開した海外プロジェクトで、「新興国など債務国が中国から借りたカネの返済ができなくなり、国際機関から有形無形の拘束を受ける状態」を意味する。債務の代償として中国は合法的に権利を取得することになる。たとえばスリランカのハンバントタ港、パキスタンのグアダール港などがそうである。
この「債務の罠」というタームは、インドの地政学者ブラーマ・チェラニーが「中国のBRI(一体一路)プロジェクト外交と搦めて提議したのが最初だった。
債務国は返済計画もずさんで、放漫な財政政策や経済運営など「モラル・ハザード」がおこる。債権国は相手国の過剰債務を梃子として政治武器化し、債務国を経済的支配下に置く戦略が隠されていた。ジブチがその典型だろう。同国は一万人の中国軍基地の造成を認めざるを得なくなった。
しかし債務国が罠に落ちることもさりながら、あまりに肥大化し、膨張した中国の債権は、債務国に返済能力がないわけだから、事実上の「不良債権」である。むしろ中国自身が逆ブーメランのごとく「債務の罠」に陥没する。この諧謔的な結末を最初に言い出したのは筆者ではないかと思っている。
さて中国の官吏の特徴は文豪の林悟堂が言ったように「賄賂賄賂賄賂賄賂賄賂」である。海外プロジェクトほど、賄賂と汚職が蔓延しているのに誤魔化せる分野はない。政府の交渉人、窓口の役人、融資する銀行、資材企業、労働者斡旋起業、運送会社などなど。海外の実情を当局はすぐに把握できないため、「汚職の伏魔殿」と言われた。
不良債権の山とは汚職の積み重ねの結果でもある。
習近平が2013年から開始した「一帯一路(BRI)」ではアジア・アフリカから中南米、南太平洋の島嶼国家にいたるまで、インフラ建設が目白押しになった。どの国の山奥へ行っても中国企業の看板があった。
たとえばパブアニューギニアの国際会議場は中国が建てた。東チモールの山奥でも中国企業の旗、橋梁工事をしていた。「JICAが金を出し、中国企業が請け負う」という定番である。対外宣伝で中国はBRIに1兆ドルを注ぎ込んだとしているが、実質上7000億ドル前後をBRIに投じた。そして大規模な汚職が進行していた。
▼汚職腐敗をとりしまれと習近平が大号令をかけたのだが。。。。。。。。
中国の汚職摘発機関(中国共産党中央紀律検査委員会=CCDI)は『BRI汚職』の捜査を開始することになった。
2月25日に公表されたCCDI報告で「BRI構想下のインフラ建設プロジェクトを捜査対象に挙げた」とインド、香港のメディアが報じた。腐敗の防止・対策・摘発に重点が置かれている。
これまでのCCDIの捜査実績は国内が対象で、「長江公司事件」では当時北京市党委書記で、大規模な汚職事件に密接に関わった陳希同を政治局委員から解任、中央紀委書記だった尉健行が北京市の党委書記を兼任した。陳希同は江沢民最大のライバルだった。
「遠華密輸事件」ではCCDI副書記だった何勇が陣頭に立って捜査にあたった。主犯はカナダに逃亡したが、十年後���中国に送還された。この間に関係者の多くが不在となって、真相はいまも謎のままである。
CCDIの歴代書記は、朱���、董必武、陳雲、喬石ら党の大物が務めてきた。1992年頃から党の序列人事となって、尉健行、呉官正、賀国強らがポストに就いた。
習近平時代には、このポストを政治の武器として活用することが露骨になった。辣腕家の王岐山が登板し、江沢民派、団派という敵対派閥、ライバル派閥の汚職にメスを入れた。これは同時に習近平派が利権を手に入れたことを意味する。
その後、趙楽際は自らも多くの汚職に手を染めていたため辣腕を振るえず、2022年からは李希が中央紀律検査委員会を率いている。
これまで李希CCDI書記は国内の汚職の温床を捜査対象としてきたが、海外プロジェクトが絡むと外国の政治家や国際金融尉官が絡んでくるため、対外的な対応ができる権限をもった新組織が必要となると提議してきた。
そこで、習近平は2024年1月9日に「中国共産党20期中央紀律検査委員会第3回全体会議」を召集し、次を強調した。
「反腐敗闘争は強力な腐敗撲滅キャンペーンを経て、圧倒的な勝利と全面的な強化を得た」。しかしながら「情勢は依然として厳しく複雑である。われわれは反腐敗闘争の新たな状況と動向に対する冷静な認識、腐敗問題が生まれた土壌と条件に対する冷静な認識を持つ必要がある」
つまり同委員会の改革を示唆したのである。
▼汚職捜査の責任者、李希とは何者か?
さて中央紀律検査委員会書紀は、政治局常務委員で序列七位の李希である。
この人物は、福建閥でも清華大学閥でもない。ほかの政治局常務委員はなんらかの腐れ縁があって習ファミリーにおける習の子分たちだ。
ところが、李希は習のミウチではないのに、どうしてこうも大出世が可能となったのか?
李希は甘粛省生まれ、蘭州市の秘書長になるまで地味な、まるで目立たない地方官吏でしかなかった。
陝西省に飛ばされ延安市書記になった頃、突如、ツキがまわった。
李希が陝西省延安市トップの党委書記を務めていた頃に、習近平がやって来たのである。
共産革命のメッカといわれる延安は毛沢東の「長征」の終着駅。革命の聖地と言われる。実態は毛沢東らは穴蔵に籠もり、共産革命の美名に酔って馳せ参じた女たちをハーレムとしていた。
その延安のはずれ、梁家河村は、文化大革命のころの「下放運動」で習が15歳から7年間過ごした場所なのである。
洞穴のような横穴式住居に暮らし、農民になり、苦しさに耐えた青春時代を、習近平は懐かしむ。延安市党書記だった李希は「全力を挙げて梁家河村を『模範村』とし、党中央や習近平同志に安心してもらおう」と呼びかけたのだった。
その後、李はとんとん拍子の出世階段を驀進し、2011年に上海市副秘書長、2014年に遼寧省長、17年に政治局員となって広東省書紀(上海、広東は出世コースのひとつ)、そして2022年にトップセブンにのぼった。
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【広島】呉「漁師料理 かつら亭」
【出川哲朗の充電させてもらえませんか?】蒲刈 漁師料理『かつら亭』#鈴木奈々 瀬戸内・絶景島めぐり 宮島⇒因島 2024/11/16放送 広島県呉市蒲刈町宮盛2032-1 #充電させてもらえませんか #出川哲朗 #石原良純 詳しく見る↓
「漁師料理 かつら亭 蒲刈本店(かつらてい)」 食べログでcheck! 地元で獲れた新鮮な魚介をふんだんに使用した料理が自慢の老舗店 住所 広島県呉市蒲刈町宮盛2032-1 TEL 0823-66-0114 ホームページ 呉にある和食といえば人気の「漁師料理 かつら亭」 広島県呉市にある和食「漁師料理 かつら亭」。呉港から毎日鮮度が良い魚を仕入れ、もっとも美味しく食べられると自負する調理法でご提供しています。宿泊もできますので観光や旅行の際にもおすすめです。… ホームページをcheck!
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2024年10月31日に発売予定の翻訳書
10月31日(木)には21点の翻訳書が発売予定です。日本語から英語への翻訳も含みます。
あくたれラルフ ますますあくたれる
ジャック・ガントス/著 ニコール・ルーベル/イラスト こみやゆう/翻訳
出版ワークス
新装版 輪切り図鑑 クロスセクション : 18の建物や乗物の内部を見る
スティーヴン・ビースティー/イラスト リチャード・プラット/著 北森俊行/翻訳
岩波書店
ミュータントタートルズ:TVアドベンチャー ③
サラ・マイヤー/著 ルビー翔馬ジェームス/翻訳
フェーズシックス
オラクルオブザフェアリー スペシャルエディション ゴールドエッジ
カレン・ケイ/著 ジンジャー・ケリー/イラスト 宇佐和通/翻訳
JMA・アソシエイツ
日本の神話
湯川英男/著 高橋明弘/翻訳
鉱脈社
The Bento Lunchbox : Delicious Japanese Box Lunches in 30 Minutes or Less (With Over 125 Recipes)
Sachiko Horie/著 Makiko Itoh/翻訳
チャールズ・イー・タトル出版
The Illustrated Book of Japanese Haiku : A Journey through the Seasons with Japan's Best-Loved Poets (Free Online Audio)
William Scott Wilson/翻訳 Manda/イラスト
チャールズ・イー・タトル出版
病案本 1 Case File Compendium
肉包不吃肉/著 呉聖華/翻訳
すばる舎
病案本 2 Case File Compendium
肉包不吃肉/著 呉聖華/翻訳
すばる舎
高雄港の娘
陳柔縉/著 田中美帆/翻訳
春秋社
アントン・ブルックナー
フェーリクス・ディアガーテン/著 池上健一郎/翻訳
春秋社
ターシャ・テューダーの言葉 楽しみは創り出せるものよ
ターシャ・テューダー/著 食野雅子/翻訳
KADOKAWA
ターシャ・テューダーの言葉 今がいちばんいい時よ
ターシャ・テューダー/著 食野雅子/翻訳
改訂新版 最短距離でゼロからしっかり学ぶ Python 入門 実践編 〜ゲーム開発・データ可視化・Web開発
Eric Matthes/著 鈴木たかのり/翻訳 安田善一郎/翻訳
技術評論社
改訂新版 最短距離でゼロからしっかり学ぶ Python入門 必修編 〜プログラミングの基礎からエラー処理、テストコードの書き方まで
Eric Matthes/著 鈴木たかのり/翻訳 安田善一郎/翻訳
技術評論社
貧乏カレッジの困った遺産
ジル・ペイトン・ウォルシュ/著 猪俣美江子/翻訳
東京創元社
コアリーディング : たった1冊読んで人生を変える読書術
パク・サンベ/著 村山哲也/翻訳
ダイヤモンド社
テーバイ物語2
スタティウス/著 山田哲子/翻訳
京都大学学術出版会
ふたごの魔法使い 大冒険の始まり
ミリアム・ボナストレ・トゥール/著 中井はるの/翻訳
Gakken
クリスマス・キャロル
チャールズ・ディケンズ/著 村岡花子/著・翻訳 オスカー・ワイルド/著 河合祥一郎/解説
魂と運命
アラン・コーエン/著 赤司桂子/翻訳
ナチュラルスピリット
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