#古代米食パン
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みんな知らない「実は略語」の言葉をまとめました。詳しくは...
食パン:主食用パン
食パンの語源に関しては複数ありどれが正しいかわかりませんが、有力な説を2つ紹介します。1つは、「主食用パン」の略。パンが日本に入って来た当時はイースト菌などもなく、比較的小さな菓子パンだけが作られていました。それからパンが大きく膨らむようになり、米の代わりになり得るようになったため、「主食用」と名付けられました。もう1つは、消しパンではない「食べられるパン」の略。昔は美術のデッサンなどでパンを消しゴム代わりに使用していたためです。
ブログ:ウェブログ
ウェブサイトの一種で日記形式のもの。英単語でも”blog”がありますが、もともとは”Web”と記録を意味する”log”が合わさった言葉である”web log”の略です。
軍手:軍用手袋
元々軍隊用の手袋として使われていたためです。日露戦争の際に、寒冷地を戦場と��る兵士に支給するために考案されたものです。その後、荷物運搬や土いじりなど日常生活で使われるようになりました。
演歌:演説歌
元々は自由民権運動の政治運動家(壮士)たちが演説の代わりに歌った壮士節が始まりとされます。1930年代にジャズやクラシックが大衆歌に組み込まれていき、歌詞も政治とは関係のない叙情詩的なものに変わっていきました。
教科書:教科用図書
主に小・中・高および特別支援学校などで学ぶ時に配布される中心的な教材のことで、「教科用図書」の略です。教科書と教材の違いは、文部科学大臣の検定に合格したものが教科書と呼ばれます。
チューハイ:焼酎ハイボール
焼酎とハイボールを組み合わせた「焼酎ハイボール」の略語。焼酎やウォッカなど無色で香りのない酒類をベースに、炭酸で割ったものを一般的に指しますが、炭酸ではなくウーロン茶で割ったウーロンハイもチューハイの一種です。
ジャガイモ:ジャガタライモ
ジャガイモはそもそも南米原産の食材であり、日本には16世紀末にインドネシアのジャカルタからオランダ人により伝えられました。そのため当時は「ジャガタライモ」と呼ばれていましたが、後に略されていきました。ちなみに日本では中国語由来の馬鈴薯とも呼ばれます。
ワイシャツ:ホワイトシャツ
主に男性が背広の下に着るシャツのことですが、元々は和製英語である「ホワイトシャツ」の略。よく「Yシャツ」と記載されることがありますが、これは完全に当て字です。一方で、「Tシャツ」はアルファベットのTの字に似ているためこう呼ばれるようになりました。
割勘:割前勘定
友人との飲み会などでよくある割勘は「割前勘定」の略。割前とは分割してそれぞれに割り当てることを意味する言葉です。江戸時代後期の戯作者で浮世絵師として有名な山東京伝が発案されたと言われており、当時は「京伝勘定」と言われていたそうです。ちなみに世界的に見ると割勘の文化は少数派で、男性や年上が払うのが一般的のようです。
カラオケ:空オーケストラ
歌のないオーケストラの意味で、「空(から)オーケストラ」から「カラオケ」と略されました。カラオケは日本で1960年後半に誕生したとされ、その後世界に広がっていきました。そのため英語でも”karaoke”と書きます。ちなみに中国語では「卡拉OK」と突然アルファベットが出てくる不思議です。
バス:オムニバス
ラテン語で「すべての人のために」という意味の「オムニバス」が語源で、フランスの乗合���車の発着所の雑貨屋の看板に書かれていたことに由来します。そこから多くの人が利用する乗合自動車をオムニバスと呼ぶようになり、その後略されました。
リストラ:リストラクチャリング
英語で「再建」を意味する”restructuring”から略されたものです。リストラと聞くと人員削減をイメージしますが、本来の意味は事業構造を再構築することです。その中の一環として、人員削減が起こります。
リモコン:リモートコントロール
英語で「遠隔操作」を意味する”remote control”から略されたものです。TVなどに向かってリモコンから赤外線をデジタル信号で送ることでチャンネルや音量などを操作することができます。
ソフトクリーム:ソフト・サーブ・アイスクリーム
海外では「柔らかいクリーム?」となり伝わらない和製英語です。英語では” soft serve icecream”であり、ソフトクリームサーバーの製造などを行っている日世の創業者・田中穰治が日本でソフトクリームを広めるのにわかりやすくするために省略したとされています。
ペペロンチーノ:アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ
唐辛子をオリーブ油で炒めたパスタ料理。正式名称は「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言います。イタリア語で「アーリオ」は「ニンニク」、「オーリオ」は「オリーブオイル」、「ペペロンチーノ」は「唐辛子」を意味しています。
経済:経世済民
中国の晋朝について書かれた歴史書である『晋書』に書かれた「経世済民」を略した言葉です。現在の政治と同じような意味で昔から使われていました。明治以降、”economy”の訳語として頻繁に使われるようになったようです。
首相:首席宰相
首席はトップを意味し、宰相は辞書で調べると「古く中国で、天子を補佐して大政を総理する官。総理大臣。首相。」と載っています。首相の言葉の中に首相が含まれている二重表現のような言葉です。ただ「首相」は日本国憲法に記載された言葉ではなく、報道などで使われる内閣総理大臣の通称です。
切手:切符手形
お金を払って得た権利の証明となる紙片のことを古くから「切手」と呼んでいました。日本の近代郵便制度の創始者である前島密が、“郵便物に貼って支払済を表す印紙”に「切手」という言葉をそのまま当てたそうです。
出世:出世間
元々は仏教語で、仏陀が衆生を救うためにこの世に出現することを指す言葉で、「出+世間」でした。そこから略され、日本では僧侶が高い位に上ることを意味するようになり、世間一般でも役職が上がることなどを指す言葉となりました。
断トツ:断然トップ
2位以下を大きく引き離すことを指す言葉ですが、元は「ずば抜けて」の意味を持つ「断然」と首位を表す英語の”top”が合わさった言葉の略。そのため「断トツの1位」という表現は二重表現になります。
押忍:おはようございます
朝の挨拶である「おはようございます」から「おっす」と短くなり、さらに「おす」へと略されました。そこから「自我を押さえて我慢する」という意味を込めて「押忍」という漢字が当てられました。
デマ:デマゴギー
大衆を扇動するための政治的な宣伝を意味するドイツ語の「デマゴギー」を略したものです。元の意味の通り、政治的な意味合いを持つ言葉でしたが、昭和になってから、単純に「嘘」や「根拠のない噂」の意味で使われるようになりました。
おなら:お鳴らし
屁を「鳴らす」の名詞である「鳴らし」に「お」をつけて婉曲に表現した言葉で、そこから一文字略されました。元々の言い方の方が上品な感じがあって良いですよね。というのも、一般庶民は昔から「屁」と言っていましたが、宮中に仕える女房たちは隠語として用いていたためです。
電車:電動客車
電動客車をより細かく表現すると、「電動機付き客車」または「電動機付き貨車」となります。電車は架線あるいは軌道から得る電気を動力源として走行しています。
電卓:電子式卓上計算機
計算機という本来役割を表す意味の言葉が略されています。1963年に世界初の電卓が登場し、1964年に現在のシャープから日本初の電卓が発売されました。当時の価格は53万5千円と車を買えるほどの値段でした。今では100均で売られているものもあるのに驚きですね。
ボールペン:ボールポイントペン
英語で”ball-point pen”と言い、これを略した言葉です。ボールという単語が使われている理由は、ボールペンの構造上、先端に小さな回転玉(ボール)があるためです。
インフラ:インフラス��ラクチャー
英語で「下部構造」や「基盤」を意味する”infrastructure”から略されたものです。電気・ガス・水道・電話・道路・線路・学校や病院などの公共施設など、私たちの生活に欠かせないものを指す言葉となっています。
シネコン:シネマコンプレックス
「コンプレックス”complex”」が「複合の」を表す英単語で、同一ビル内に複数のスクリーンを備えた複合型映画館のことを表します。国内の代表的なものとしては、TOHOシネマズ、イオンエンターテイメント、MOVIX、ユナイテッド・シネマなどがあります。
シャーペン:エバー・レディー・シャープペンシル
シャーペンが「シャープペンシル」の略ということを知っている方は多いと思いますが、実はこれも略語。1838年にア��リカで「エバーシャープ」という筆記具が登場し、その後1915年に現シャープの創設者である早川徳次氏が国内初となるものを考案し、「エバー・レディー・シャープペンシル」という商品名をつけヒットさせました。
ピアノ:クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ
イタリア語で「小さい音と大きい音を出せるチェンバロ」という意味です。いつの間にか「小さい音」を表すピアノだけに略され、楽器を表す名詞となりました。元のピアノの意味は今でも音の強弱を表す「メッゾピアノ」や「ピアニッシモ」と合わせて音楽記号として使われていますね。
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我が国の未来を見通す(67)
『強靭な国家』を造る(4)
「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
米国の雑誌「タイム」が岸田首相のインタビューの
特集記事として、「日本を軍国大国に変える」して
いた見出しを「平和主義だった日本を国際舞台でよ
り積極的な役割をもたせようとしている」と変更し
たが、記事そのものは「軍事大国」としたまま変え
ていないとした記事がニュースになっていました。
当然、アメリカも言論の自由が保障されている国な
ので、だれが何を言ってもよいのですが、「タイム」
誌の記者たる者が、この日本を「軍事大国」と呼称
するぐらいの見識しか持ち合わせていないことに愕
然とします。
GDP比2%の防衛費年額約10兆円はようやくN
ATOに肩を並べる水準ですし、アメリカは約85
80億ドル(約114兆円)〔2023年度〕、中
国の約1兆4505億元(約26兆3000億円)
〔2022年度〕には遠く及びません。その上、未
だ憲法にも明記されておらず、反撃能力を保有する
としても「専守防衛」という不可思議な防衛政策を
堅持している我が国です。
この記者は、日本に対する「ビンの蓋」的な発想と
か、「平和主義」の原点である「日本憲法はアメリ
カがつくった」などの思想を保有しているのでしょ
うか。このような時にだけ、「さすがアメリカ���と、
“それが何を意味するかもロクに考えないまま”国
内の同調者がことさらに騒ぎ立てることも問題なの
です。
本当に困ったものですが、個人的には、様々な話題
を世界に発信したい「タイム」誌なれば、もう少し
“賢い記者”を抱えてほしいと願うばかりです。
▼「食料自給なくして独立なし」
前回の続きです。鈴木宣弘氏も引用している言葉で
すが、食料に関してまさに“身につまされる言葉”
を送りましょう。まず「食料を自給できない人たち
は奴隷である」とのキューバの著作家ホセ・マルテ
ィの言葉です。我が国でも、明治時代、高村光太郎
が残した言葉として「食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」
との有名な言葉もあります。
鈴木氏は、「日本に独立を名乗る資格があるのか」
として、現政権などの政策に「食料自給率」の言及
がないことを取り上げ、「日本には『食料安全保障』
が存在しない」とも指摘します。
ゴールデンウイークを利用して、『安倍晋三回想録』
を読破し、改めて諸所に感銘を受けましたが、農業
政策に関する記述はほとんどありませんでした。安
倍元総理は、財務省とはかなり喧々諤々の議論を重
ねたようですが、「経産省政権」と揶揄する向きも
あるように、経産省主導の政策が多かったことは事
実でした。鈴木氏は、「かつては農家が自民党の票
田だったが、農家が減ったことで票田の価値が下が
ってしまったことなどが積み重なって、農政全体に
『ゆがみ』が生じてしまった」と指摘します。調べ
てみると我が国の戦後の農業政策についても意外な
事実があることがわかりました。その概要を紹介し
ておきましょう。
▼我が国の自給率低下と農業離れの要因
私たちは一般に「日本は島国で国土が狭いために農
地面積も限られている。よって、食料の自給率は低
くて当然である」という考えを持っていますが、長
い歴史を振り返ると、我が国は、(現在より人口が
少なかったとは事実ですが)、伝統的に食料自給率
100%を維持してきました。
だからこそ、江戸時代は鎖国政策を採用できました
し、外国から資源の輸出入ができないような情勢下
にあっても、様々な工夫で再生可能な植物資源を活
用する独自の「循環型社会」を築き上げてきたとい
う歴史があります。
戦後の歴史を紐解くと、意外にも我が国の食料自給
率が下がった原因は、「貿易の自由化」と「食生活
改善政策」にあったことがわかります。もっと具体
的にいえば、自動車などの関税撤廃を勝ち取るため
に農産物の関税引き下げと輸入枠の拡大を認めたの
でした。そこに、アメリカやヨーロッパが自国の農
家に補助金をジャブジャブ出してダンピングを仕掛
けてきたため、日本の農家は壊滅的打撃を受けてし
まったのです。
特にアメリカは、当時、小麦の生産過剰が問題にな
っていましたので、日本人の食生活を無理やり変え
させてまで、我が国をアメリカの農産物、特に“小
麦の一大消費地”に仕立て上げようとしました。
様々な宣伝・情報工作の中で、当時、影響が大きか
ったのが1958年に出版された『頭脳─才能を引
き出す処方箋』(慶応大学名誉教授・林たかし著)
でした。本書には「米食国民は一歩遅れる」として
「米を食うとバカになる」「日本人が欧米人に劣っ
ているのは、主食の米が原因である」などの主張が
掲載されていました。本書はまた、発売3年で50
刷を超える大ベストセラーになり、その影響は計り
知れないものがありました(ちなみに、本書は現在、
アマゾンの中古本として、最低価格が4758円、
中には1万円を超える価格で売られているものもあ
ります)。
当然ながら、この主張は科学的根拠が全くない「暴
論」のようですが、慶大名誉教授の肩書も手助け
し、当時は“正しい学説”としてまかり通りました。
これが「洋食推進運動」に発展して、「日本人の食
生活近代化」のスローガンのもと、和食を「排斥」
する運動まで拡大しました。この結果、本来、洋食
に反対するはずの農家の人々まで洗脳され、欧米型
食生活を崇拝するようになりますが、「これほど短
期間で伝統的な食文化を捨てた民族は世界史上もほ
とんど例がない」と鈴木氏は指摘します。
この背景には、「日本農業を米国農業と競争不能に
して余剰農産物を買わせる」というアメリカの「し
たたかな食料戦略」があったことは疑いなく、19
73年、当時のバッツ農務長官が「日本を脅迫する
のなら、食料輸出を止めればよい」と豪語したとの
記録も残っています。
終戦後の占領時代の初期、「日本が二度と武器を持
って米国に立ち向かうことができない国にする」と
のトルーマン大統領の「降伏後における米国の初期
の対日方針」が発出され、マ��カーサーの占領政策
の方針になります。1970年代と言えば、日本が
オイルショックから一早く立ち直り、ホンダやトヨ
タがアメリカ進出を果たした頃でしたが、その報復
というべきか、1970代あたりでも、トルーマン
大統領の「対日方針」がくすぶったままとはいえ、
まだ生きていたのでした。冒頭の「タイム」記事を
読むと今でも一部に残っていると感じざるを得ませ
ん。
▼その結果が「減反政策」や「酪農」を危機に
伝統的に、米を主食としてきた日本人にとって米の
安定供給は大きな課題でした。特に、戦後の“食糧
難”を経験した日本は、「米の生産量引き上げが国
全体の問題である」といっても過言でない時代があ
りました。
そして、この問題を解決するため、戦後まもなく過
ぎた頃、肥料や農業用機械の導入が進むなど技術革
新が起こり、米の生産量を大きく引き上げることに
成功し、米が名実ともに家庭の主食になりました。
個人的な体験で言えば、小学校の低学年の頃まで、
近所の農家はみな、農作用の馬を飼育していました。
兄が耕運機を購入して我が家から馬がいなくなった
のは小学校4年生の頃、つまり昭和36年だったと
記憶しています。その後の農作業の風景が様変わり
し、我が家も近くの畑や牧草地などを改良して田ん
ぼの面積を大幅に拡大するとともに、兄は、精米に
加工するためのライスプラントを建設し、近所の米
の精米を支援していました。
そのような折、前述の「洋食推進運動」が広がり、
「主食=米」の常識が徐々に崩れ出し、日本人の食
卓の欧米化が進行し、「米離れ」が加速しました。
この結果、米が生産過剰になり、生産量を調整する
ために、政府は「減反政策」を導入しました(昭和
44〔1969〕年に試験的に開始、1971年本
格導入)。これに対して、農家は当初は激しく反発
しますが、政府は、米農家の転作を支援するために
補助金を支払うことで農家を納得させ、事後「減反
政策」は約50年間続けられ、平成28(2018)
年、ようやく終わりを迎えます。
2018年に終了した理由は、高く販売できるブラ
ンド米を耕作する農家が増えて、業務用の米が不足
するようになったのが原因の一つと言われています。
食料増産を目的として米生産は、終戦時の900万
トンから20年後の1967年に1400万トン超
まで拡大しますが、「減反政策」以降の50年間で
半減し、最近は700万トンを切ってしまいました。
つまり、餓死者が出た終戦時より人口が1��7倍に
増えているのに、米生産は当時よりも少なくなって
しまったのです。
1960年以降、中国もアメリカもインドも、米の
生産を3倍以上に増やしていますし、世界全体では3.
5倍に増加している中で、日本のように、米が主食
にもかかわらず、米の生産を減少させている国は極
めて稀でした。
▼“米離れ”が招いたもの
2011年の総務省「家計調査」の結果、日本の一
般家庭におけるパンの消費額が米を上回ったと話題
になりました。1世帯(2人以上世帯、農林漁家世
帯除く)あたりの米に対する年間支出額2万742
8円に対し、パンは2万8318円と逆転したので
した。これは昭和21年(1948年)に始まる
「家計調査」史上、初めてのことだったようです。
現に、我が国の小麦の2016~20年(5年間)
の平均流通量は、国産82万トン(14%)のみで、
488万トン(86%)が輸入、その内訳は、アメ
リカ(49.8%)、カナダ(33.4%)、オー
ストラリア(16.8%)で、この3カ国でほとんど
を占めています。
ここでとても興味深い事実に気がつき、私自身は唖
然としました。ほとんどのパンやめん類には「小麦
粉(国内製造)」と書いてあります。実は、外国産
小麦を“国内で製粉した小麦粉”だからこのような
表記になっているのだそうです。
小麦の需給と価格の安定を図るために、政府が外国
産小麦の輸入と売り渡しを行なっており、製粉会社
は国が決めた“売り渡し価格”で小麦を購入して小
麦製品を作っています。小麦や小麦加工品(小麦粉
など)を輸入すると最大で1kgあたり158円の
関税がかかりますが、国が輸入する小麦には関税は
かかりません。
小麦粉は食品スーパーなどで、1kg100円ほど
で特売されていることもありますが、わざわざ高い
関税を払って小麦や小麦粉を輸入する人はいないの
で、外国産小麦から製造された小麦粉は“国内製
造”なのだそうです。
さて、米農家が「減反政策」で向かった先は様々で
した。その1つとして、「酪農」について取り上げ
ておきましょう。
我が国が「酪農」に力を入れたのは、我が国がGA
TT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟した
1955年以降でした。つまり、貿易・資本の自由
化が進められて、日本経済の開放体制のなかで、日
本農業の零細性の克服や生産性向上が求められたこ
とが始まりでした。
それを受けて、1961年、政府は「農業基本法」
を制定し、新しい農業と農業政策の方向を示し まし
たが、 経済成長に伴う所得上昇によって牛乳・ 乳
製品の消費量増大が予想されたため,「酪農」は
「農業基本法」の“選択的拡大”部門として位置づ
けられました。
そして、酪農支援策(低利融資、補助金、技術普及
等)の結果、1960年代から70年代、「減反政
策」で米作を諦めた農家が酪農に転向したこともあ
って、酪農農家は飛躍的に増加します。しかし、そ
の形態は、大半が水田の裏作や転作で飼料作物を生
産する 「水田酪農」と呼称される稲作と酪農の複合
経営に留まったという一面もありました。
一方、日本の酪農は、国内の飼料基盤が不十分 なま
ま輸入飼料に依存して急速に発達した ところに大き
な特徴があり、1970年には49.3%であった
飼料自給率は低下の一途をたどり、2007年には
32.8%まで低下します。
時を同じくして、人口増加に伴い、乳製品の消費量
も増加しますが、折からの乳製品 の輸入自由化、関
税率低下、円高もあって乳製品の輸入量も増加しま
す。事実、牛 乳・乳製品の自給率は,1960年で
は89%であ ったものが90年には78%に低下し,
2007年には66%まで低下します。また、飲用
乳の消費量も1994年をピー クに減少に転じます。
その後も、継続的な減少局面に転じ、現在に至って
います。
これらを背景に、酪農農家、特に経営規模が小規模
の「水田酪農」は減少に転じ、1970年代に、3
0.7万戸もあった酪農家は2022には1万33
00戸にまで減少してしまいます。こうして、酪農
と水田農業の結びつきが弱まった とはいうものの、
酪農家の5 割が米を生産しているといわれます。
残った酪農家も最近はコロナ禍やウクライナ戦争の
影響で生産資材価格が上昇し、特に200頭以上の
牛を飼育する大規模経営が赤字に陥っており、この
ままでは赤字がさらに膨らみ、連鎖的に酪農家が倒
産する可能性もあるといわれ、現に北海道ではかな
りのハイペースで倒産が相次いでいるようです。
コロナ禍などの理由以外に、北海道の酪農家は、輸
入している脱脂粉乳を国産に置き換えるための差額
として乳代1キログラムあたり2円以上の負担金が
課せられているようで、酪農家に重くのしかかって
いるのが実態です。
政府が主導した「畜産クラスター事業」(畜産の収
益向上のために、畜産農家を核として地域の関係事
業者が連携・結集していく体制をいい、これによっ
て、補助金として機械や設備導入時に本体価格の2
分の1の国庫補助を受けられる)の結果、全国的に
牛乳余りが生じ、酪農家は経営危機に直面している
一方で、海外からの乳製品輸入は据え置き、酪農家
には「乳製品が過剰だから、生乳をしぼるな、牛を
処分しろ」という矛盾しているではないかと疑問も
沸き上がり、「人災としての危機」と批判されてい
ます。
子牛も値下がりし、生後1カ月の雄子牛がだいたい
1万円ほどでコロナ前の10分の1に下がっている
ようです。餌代にもならない価格に、一斉に酪農家
がいなくなるとの危機感も叫ばれています。
ふたたび、個人的な経験ですが、「減反政策」で米
の生産を諦めた兄は、「水田酪農」に転じますが、
今度は「乳余りのあおり」を受けて、多額の借金を
抱えたまま酪農を諦め、その後、和牛の飼育に転じ
ます。その和牛飼育も12年前の福島原発事故の影
響で再びあきらめざるを得なくなりました。多額な
借金を息子の代(私の甥)になって完全返済したの
はようやく昨年でした。
第2編でも紹介しましたが、「政治家と農林省の官
僚(の愚策)によって、50年前に農業を奪われた」
と今なお、事あるごとに口癖のように語る兄ですが、
実際にこのような被害を受けたのは決して我が家の
みではなさそうです。次回、「日本の農業は過保護
なのか」について、諸外国と比較して“見える化”
してみましょう。意外な事実に気がつくことでしょ
う。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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人生は目分量
みそかです。12/9の稽古は第一回通しでした。
舞台を立てて何回も稽古をしているおかげか、イリハケ、場転がスムーズに感じました。わたしは5限後参加が多いのですでに舞台が立ててある状態でいつも稽古させてもらってます。感謝。返し稽古ではキャスパとアクセント矯正大会が盛り上がってましたね。やっぱりわたしは関西弁が好きです。
尺が足りないので、みそかと米粉パンの戦いについてのお話でもしましょうか。
ある日突然思い立ちました。
「米粉パンが食べたい」
最近はフライパンや電子レンジで作れるパンもあるそうで、ハードルは意外と低め。
地獄のようなTOEFLの帰りに米粉とベーキングパウダーを買って、るんるんで帰ってきました。
そしてさあ作ろうと台所の前に立って気づく。
はかりがない。
いつもはかりなんて使わないので存在をすっかり忘れていたんですね。
ここで。
いつもわたしの料理を褒めてくださるみなさんいいですか、そう、はかってないんです。
調味料はもちろんのこと、食材も勘で調理しています。
だから、たとえば豚肉とナスの炒め物を作ろうとしても、豚肉〜ナスを添えて〜みたいな比率になることはしょっちゅうなんですよね。
しかし、それが許されるのは普通の料理まで。お菓子作り系にははかりは必須です。
泣く泣くその日は米粉パンを諦め、大人しく白米を食べました。
翌日。みそかは某Dソーに行きました。「4桁の商品が当たり前のように並んでいてはそれはもう百均ではないのでは」なんてことを思いつつ、1000円のはかりを買ってふたたびるんるんで帰宅しました。
そしてさあ作ろうと台所の前に立って気づく。
電池がない。
うわあああああああああああああああああぇぇ
それも、単三、単四なら常備していたのですが、あいにくのボタン電池。
しゃーない。
なんて諦めはしませんよ、昨日からお預けくらってるんだ。
ということで、【みそかの勘😳🤩クッキング👩🍳🍳🍞レッツスタート‼️🎵🕺】
米粉!ドサアァァ!!
水!ジャー!!
砂糖!ドーン!!
卵!グシャアァァ!!
ベーキングパウダー!サラサラアァァ!!
まぜまぜ!!!!!
チン!!!!!
そして出来上がったものが、こちらになります。
ちゃんと膨らんでいる!!ふわふわもちもちで味も美味しかったです。蒸しパンみたいな感じでしたね。
その後ふたたび某Dソーへ行き、はかり用のボタン電池はゲットしました。
目分量でも、やってみると上手くいくものですね。
どんな場面でも客観性が重視されるこの時代において、主観的な見方、考え方を持ち続けることの大切さを学びました。おや、失礼。どこからか授業コメントが飛んできてしまいました。
わたしはおいしいものが食べられれば目分量でもいいと思っています。気を張りすぎず、ときには適当に生きましょう。人に迷惑をかけない程度にね。
雑談の方が長くなってしまいました。まあこの文量も、目分量ということで。
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2024年11月20日
原爆を見つめた2人の学長 広島大学で企画展「長田新と飯島宗一」(毎日新聞)
広島大の前身・広島文理科大で学長だった長田(おさだ)新(あらた)氏(1887~1961年)と、広島大第4代学長の飯島宗一氏(1922~2004年)。同郷で同窓、同じ大学の学長を務め、原爆がもたらした被害に熱心に向き合った2人の足跡を紹介する展示「信州から来た2人の学長、原爆を見つめる 長田新と飯島宗一」が、広島大医学部医学資料館(広島市南区)で開かれている。
「広島大学創立75+75周年記念事業」の一環。広島大は1949年創立で、最も古い前身校の白島学校が設立された1874年から数えると、2024年は150年の節目となる。前半の75年の学長を代表して長田氏、後半の75年では飯島氏を取り上げた。
2人とも長野県出身で、諏訪中学(現諏訪清陵高)の卒業生。その生涯を県民性や母校からひもとくと共に、広島との出会いや原爆との関わりを示すパネルや書籍などを展示している。
広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島文理科大の教授だった教育学者の長田氏は自宅で被爆。同年12月から学長に就任し、大学の復興に努めた。その後、長田氏は広島で原爆を体験した子ども1175人の作文を集めて編集し、51年に手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を出版した。105人分を収録し、序文で84人の作文を部分的に紹介している。
出版翌年の52年、作文を書いた子どもたちは「原爆の子友の会」を結成し、彼らをねぎらう集会も開かれた。展示では、当時作文を寄せた1人の早志(はやし)百合子さん(88)がその時の写真を提供し、教室に集まった子どもたちが長田氏から本を手渡されている様子や、集合写真などが並ぶ。
病理学者だった飯島氏は、米軍が接収していた被爆直後の解剖資料を返還させるなどした。69年に46歳の若さで広島大学長に就き、東広島市へのキャンパス移転など大学改革を主導。72年に発足した「広島大学原爆死没者慰霊行事委員会」の委員長を務め、74年8月には原爆死没者を追悼する碑を建立した。
被爆30年の75年には、大学の被爆状況や被爆、被災した学生・職員らの記録「生死の火 広島大学原爆被災誌」を刊行。飯島氏が広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)に寄贈したものを今回展示している。飯島氏は母校の名古屋大の学長も務めた。
展示を企画した原医研の久保田明���助教は「広島出身ではない2人が大学人として、広島の大学がどうあるべきか考え、原爆のことに尽力した。その功績と併せ、信州についても知ってもらえたらうれしい」と話している。
入場無料。12月25日まで、平日午前10時~午後4時。土日祝日休館。【根本佳奈】
「無人餃子」閉店ラッシュの中、なぜスーパーの冷凍餃子は“復権”できたのか(ITmedia ビジネスオンライン)
「盛者必衰の理をあらわす」とは、まさしくこのことだ。コロナ禍で日本全国に急増した「餃子無人販売店」の閉店ラッシュが続いている。
それを象徴するのが、このカテゴリーを代表する「餃子の雪松」だ。2019年7月に無人店舗で冷凍餃子の販売をスタート。群馬県みなかみ町にある老舗中華食堂「雪松」の人気の味を再現した餃子は、「冷凍とは思えないおいしさ」との評判だった。
その結果、コロナ禍真っ只中の2022年には、全国400カ所以上への出店を実現。また、「2023年内に1000カ所を目指す」という経営陣の声も注目を集めた。
『マネー現代』が2024年6月に公式Webサイトで店舗数を数えたところによると、374店舗だったという。ところが11月17日時点で、同じく公式Webサイトでカウントしたら219店舗。2年前から半分ほどの規模にまで縮小してしまったのである。
実際、ネット��SNSではさまざまな地域��「近所の雪松がなくなってしまった」など閉店を惜しむ声が多く寄せられている。
さて、このような話を聞くと、「高級食パンと同じで最初は珍しいから飛びつくけれど結局、たくさん似たような店ができて飽きられちゃうんだよなあ」という感想を抱く人も多いだろう。
確かにそのような面もあるだろうが、個人的にはここまで苦戦を強いられているのは、「ライバル」に足を引っ張られていることも大きいと思っている。つまり、「無人餃子」ブームで客を奪われていた「スーパーで売っている冷凍餃子」が復権してきたのだ。
冷凍餃子の売り上げはパッとしない?
冷凍餃子最大手の味の素冷凍食品(以下:味の素、東京都中央区)の調べでは、2010年4月から2021年3月にかけて、市販用冷凍餃子売り上げ(金額ベース)は約2倍に伸長している。もともと冷凍餃子というものを世に出した味の素は大きなシェアを握っており、「大阪王将」で知られるイートアンドフーズ(東京都品川区)とともにツートップとして市場をけん引している。
ただ、伸長はしているが、ずっと順調に成長しているわけではない。2016~18年の3年は横ばいで、以下のような記事が出るように、王者・味の素もパッとしなかった。
『味の素、「冷凍ギョーザ」の販売が冴えないワケ』(東洋経済オンライン 2019年2月15日)
背景にはいろいろあるが、味の素が2012年に開発した「水なし・油なし」という調理方法が競合品でも当たり前になったことで、「似たような冷凍餃子」ばかりになってしまったことも大きい。
2018年7月には味の素のライバル、イートアンドフーズ運営の「大阪王将」が「水なし・油なし・フタなし」という画期的な冷凍餃子を世に送り出したことで市場は再び成長していくが、3年間の「隙」をつく形で新たなプレーヤーが参入してくる。「餃子無人販売店」だ。
コロナ禍で「無人餃子」が勢力を拡大、しかし……
火付け役の「餃子の雪松」も2018年9月に1号店を誕生させると、その味のクオリティーもさることながら、24時間いつでも購入できる便利さからじわじわとファンを増やし、それがコロナ禍のステイホームで大ブレーク。つまり、スーパーの冷凍餃子の成長が踊り場になった隙をついて、「無人餃子」が勢力を拡大していった、という構図だ。
それがここにきて「無人餃子」があからさまな苦境に陥っている。そのタイミングで、食品業界紙に以下のような記事が出るほど冷凍餃子が好調ならば、「客が奪われている」と見るべきではないか。
『【速報】味の素冷凍食品、「ギョーザ」復権し出足好調』(日本食糧新聞 2024年7月9日)
なぜここにきてスーパーの冷凍餃子は「復権」できたのか。一つは、最大手で業界をけん引している味の素が「顧客の声に真摯に向き合う」という普通の企業なら腰が引けてしまうことに乗り出したことが大きい。
スーパーの冷凍餃子をよくつくっている人なら分かると思うが、「水なし・油なし」さらに「フタなし」などと掲げている商品で説明書き通りにやっても、うまく焼けないことがある。焼きむらができ、底はパリっと焼けても上のほうがまだ凍っていたり、逆に火加減やフライパンによっては焦げ付いて、餃子の皮が取れてしまうなんてこともある。
このようなややネガティブな声、ストレートにいえば「文句」というものに対して普通、食品メーカーはあまりまともに取り合わない。調理環境など個々の事情が影響している場合もあるので、1つ1つ取り合ったらキリがないからだ。だから、「調理方法をもう一度よくご確認のうえ調理してください」などと当たり障りのない対応をしてお茶を濁すのが常だ。
味の素の戦略
しかし、味の素はこの「文句」に真正面から向き合った。「こちらでは何度やってもうまく焼けるのに、焼けない消費者がいることは、こちらが想定していない状況があるはずだ」ということで、冷凍餃子がうまく焼けなかったフライパンの提供をSNSで呼びかけたのである。
これが反響を呼び、なんと全国から3520個も届けられた。しかも、驚くのはここからだ。味の素はそれらを全て検証し、その結果を専用サイトに掲載したのである。
それからほどなくしてリニューアルした冷凍餃子がよく売れたことは言うまでもない。メーカーへの「文句」に対して、ここまで真摯に向き合って改良した餃子を食べてみたいと思うのは、消費者として自然な感情だ。
ちなみに、味の素がやったのは「マネジメント」で知られるピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)氏が言うところの「フィードバック」というものだ。
ドラッカーは、組織外からの情報を得て学習する「フィードバック」が機能している組織のマーケティングは、「セールスや宣伝をしなくても自然にモノが売れていく」状態になると説いた。味の素はドラッカー理論に基づいてマーケティングを成功に導いたのだ。
このように冷凍餃子市場をけん引する最大手が「顧客の声に真摯に向き合う」という範を示したことで、他のプレーヤーも刺激を受けたのか、「冷凍餃子の顧客満足度向上」に力を入れてきたことも大きい。
マルハニチロが14年ぶりにカムバック
分かりやすいのは、14年ぶりに冷凍餃子市場にカムバックしてきたマルハニチロ(東京都江東区)だ。
2024年7月に発売した「赤坂璃宮の餃子」は、その名の通り高級中華・赤坂離宮監修のもと���素材にこだわった高級餃子が「水なし・油なし」で手軽に調理できるというのが売りだ。
また、大阪の中華料理店から餃子の製造・販売メーカーとなった「餃子計画」が2024年9月から発売している「創業の味 生餃子 12個」も分かりやすい。
一般的なスーパーの冷凍餃子というのは、餡を皮で包んだ後に蒸してから冷凍する。しかし、この商品の場合は餡を皮で包んだ「生」のまま急速冷凍している。このような製法をすることで、具材の旨みや香りが抜けないという。
確かに、料理をする人は分かるだろうが、炒め物でも蒸し物でも、一度加熱したものを温め直すと味や香りが若干落ちる。そこで、熱を入れるのは最小限のほうがいいという発想である。
このような形で、各社がスーパーの冷凍餃子の質や顧客満足度を競い合うように上げていけば当然、市場は盛り上がる。そうなると、「これまで無人販売店で売っている餃子がおいしいと思って買ってたけど、スーパーで売っている冷凍餃子コーナーも充実していいじゃん」という感じで、客がスーパーの冷凍餃子売り場に戻ってくるというワケだ。
「閉店ラッシュ」の要因は他にも
もちろん、「閉店ラッシュ」の要因はそれだけではない。コロナ禍で「24時間無人で餃子が買えるなんて面白い」と注目を集めた「強み」の部分が、近年の餃子ブームで「近場にある有名な店に行けば、どこでも冷凍餃子が買える」という状況になって、かすんでしまったこともある。
冷凍餃子は参入障壁が低い。イオンやライフといったスーパーのPB(プライベートブランド)はもちろん、大手コンビニ3社、無印良品などもオリジナル冷凍餃子を販売している。
極端な言い方をすれば「やる気さえあれば誰でも参入できる」ジャンルだ。実際、UFOやネッシーなどダイナミックなスクープが一面に踊ることで知られる『東京スポーツ』も、少し前に「東スポ餃子」という冷凍餃子の販売に乗り出している。
この動きは2024年に入ってからさらに加速しており、これまで冷凍餃子に無縁だったプレーヤーが「オリジナル冷凍餃子」の販売に乗り出している。
その代表が、ドラッグストア大手のウエルシア薬局(東京都千代田区)だ。同社初の冷凍食品として「黒豚をちゃんと感じる幸せの肉餃子」を2024年4月に発売。2023年に「ドラックストアにあったらうれしい食品」に関するアンケートを行ったところ、冷凍おかず、特に冷凍餃子を求める声が最多だったため、開発をスタートしたという。
百貨店なども参入
「閉店ラッシュ」に苦しむ百貨店も参入している。
広島県内で展開する老舗百貨店「福屋」(広島市)は、同じく広島県内で「広島カープ餃子」などを製造している井辻食産(広島県安芸高田市)とコラボして、消費者と一緒にアイデアを出し合いながら、広島県産の食材を用いた「カラダにやさしい餃子」を開発した。これを「広島新名物 餃子としあわせ」とネーミングして、オンラインショップや百貨店で2024年3月から販売している。
「町おこし」の世界でも冷凍餃子��アツい。草津温泉のある群馬県の草津観光公社では2024年7月、嬬恋高原キャ���ツなどの厳選食材をふんだんに使った「草津温泉餃子」を発売した。全国にある「道の駅」でも、オリジナルの冷凍餃子を販売している。
このような「どこでも誰でもオリジナル冷凍餃子」という社会状況になってしまうと、いくら群馬県の名店「雪松」の味を忠実に再現しても、無人店舗で24時間購入できたとしても、「馬群に沈む」ことになってしまうのは致し方ないのではないか。
これはスーパーの冷凍餃子にも同じことが言える。今は好調かもしれないが、ちょっとでも景気の良いところには「オレにも甘い汁を吸わせろ」と言わんばかりに新規参入が殺到して、すぐにレッドオーシャンになる、というのが最近の日本のパターンだ。
つまり近い将来、ビールメーカーが作ったこだわりの冷凍餃子とか、有名シェフが監修した冷凍餃子なんてのが、スーパーの冷凍食品に並んで、壮絶なシェアの奪い合いが始まるのだ。
実際、この原稿を書いているとき、近くの「肉汁餃子のダンダダン」でランチをしたら、「鳥羽周作シェフ監修 究極の餃子定食」を展開していた。
もはや「国民食」というほど普及した餃子カテゴリーの中で、「おいしい」を訴求するのは当たり前だ。それ以外に、どうやって競合と異なる独自のカラーや強みを打ち出し、消費者の支持を得ていくのかは大きなテーマだ。
熾烈な生き残り争いに突入した冷凍餃子プレーヤーたちの次の一手に注目したい。
中井彰人(株式会社nakaja lab 代表取締役/流通アナリスト)見解 日本冷凍食品協会のR6年「冷凍食品の利用状況実態調査」によれば、冷凍食品を利用する機会が増えた理由のアンケート結果では、2024年と2020年の回答の変化が示されている。そこでは「おいしいと思う商品が増えたから」、「野菜など生鮮品の価格が上がったから」という回答が増えていて、中でも価格が上がったという答えが2倍以上に増えている。これでみると、おいしさとコスパが相対的に良くなったことで、スーパーで冷凍食品を選ぶ人が増えたことが背景にあることが伺える。多くの消費者にとって、食品の買物で価格上昇が最大の問題であり、賢く選択していくためには、冷凍食品のコスパがはずせなくなってきているということと解釈出来る。ただ、冷凍食品全体の需要が増えていても、無人餃子はコロナ禍における選択であり、制約がなくなり、かつ、スーパーなどでの選択肢が増えている中では、減少するのはやむを得ないのだろう。
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティングプランナー)補足 餃子の無人販売店や自販機は、物珍しさで消費者が飛びつき、媒体がこぞって取り上げSNSなどで拡散しブームとなったが、出店戦略やマーケティングを駆使した事業展開ではなかったことから、ブームが沈静化すれば淘���されるのは当然の結果。
それに対して冷凍のスーパーの販路においては、有力メーカーの商品開発力とマーケティングにより巨大な定番市場を形成している。
その一方で、こだわりやプレミアムのアイテムの商品開発も行われ、それぞれ棲み分けがなされ、市場は活性化している。
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パングラタンナポリタン🍞んまーい柔らかくて甘い🍝 なぜかノーマルパンも添えられている(くり抜いた分かも)。ささやかなキッシュ セットのラインナップにピーチのソーダ...そいえばUSJでも飲んだな...と思い出したので頼んでみる
セリアのミリペン、筆圧のらない、面白いかもしれない。きれいパンなのに絶妙に汚い。洗おう。
平面加工した後にAI頼りにするの楽しいし理にかなってる良い気がする。。!てぬぐいはずすのを忘れてたし😉かき氷の精みたいなのも誕生している、かわいいがな🍋
おいもミルク、レモンミルク、各エスプーマ載せ。かき氷👏あぁかき氷。こげぱんたちの色と偶然揃う🍧 エスプーマ単品でも食べさせてもらった、生クリームと牛乳、少しガムシロ入りとのこと、シフォンケーキといる奴ですね?と思ったり、懐かしくもあるようなイメージ。チョコやコーヒーやあずきやらにも合うだろう。レモンミルク(練乳)の他にもマスカルポーネクリームがあったけれど組み合わさるクリームたちの脳内再生難しいからややこしい時代なのだった 胃が少しチクチク痛い
お寿司屋さんの居抜きなカウンター
散歩チャレンジしたけれど都内でなくたってもうただ暑いという思いをし、寄り道とは何だろうと思った。でも、こんなところにタイ料理屋さん出来てたんだ〜とか、夕方は居酒屋さんも匂いと灯りで存在感あったりとか、まだギリギリある古い自販機にはポッカコーヒーの顔が一列並んでるんだなーとか。 普段も歩いてみると、ここに友達の姿を思い出してしまうとか、いたらなとか思うことがあったけれど、安心や不安の原理それだけの全てなのだろうか 静かなものに思える思いたいことももう少し知りたい
そして♪眠くなっちゃった〜になっていた 前に米米だけ流れ続けていた休憩所は今月でしまっちゃうらしい。キティポップコーンの歌の「アッッ」を練習したりと、スポット堪能をした。空きの問題が深刻だよ 駅前からマックがなくなってしまった、、ところで昔のキャラが再登場するらしい?
空が黄色と水色だった、カメラ通すと全然赤くなってしまった
ムーデンちゃんを、ちょうど教わる
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シャンデラ「じゃじゃ〜ん!今日の語り部はボクが代役だモシ!
…え、なんで「モシ」かって?そりゃあ、ボクは元々ヒトモシだったから、昔の語尾がそのまま残っているモシよ。御愛嬌ってコト。
トレーナーのりな氏は諸事情によりクーラーもつけられない部屋で夏バテに苦しんでいるので、そこで熱につよーいほのおタイプのボクが初めて代筆をしてみたモシ!
ちなみにボクと一緒の時期に手持ちに入って、ヒトモシのままでいるヒトモシ(便宜上2世とでも呼ぶモシ)は、未だに家の隅っこのモンスターボールに入ったままだモシ…(※筆者注:ごく僅かに開封できなかったダンボール箱があるのだけど、その中にぬいぐるみ達が格納されています)。もうちょっと辛抱してな…。
カントー地方はやはりという感じで、常に変化とエンターテイメントとレジャーと情報でいっぱいだったモシ。ボクがいたところは八景島シーパラダイス!
最近はどこもスタンプ集めが流行っているけど、ただ場所に行くとかなんか見るだけじゃなく、プラスαがあるものだと良いな〜って思えたモシ!この水族館はどうぶつの森さんの生き物の説明を活かしつつ、さらにリアルな話を水族館サイドの補足で読めるという形で参考になったし、生き物への親しみが湧いた…とのりな氏談!
ボクは水は苦手だけど、仲間たちもテンション高そうで嬉しかったモシ!(まだ、ジメジメしててもカントーがそれほど暑くもなくて良かったモシな…りな氏…)
ヤバソチャ〜元気してたかモシ?見ての通りりな氏は帰宅すると気力がなくなる&転職というものをしてから長い間旅に出ず(※筆者注:スカーレットバイオレットをプレイせずに結構な月が経っていた感じ。色ビビヨンにちょこっと会えたくらい。後サブのスイッチもとりあえず引き出しの奥にしまっちゃったので、取り出すのが手間である)、ブルーベリー学園の入学も断って逃げ続けているけど、君のことは忘れていないモシ!りな氏は時間に追われて慌ててメニューを食べたらしいけど、良かったとの談!(あれ、この話したことある…? ←※筆者注:別の脈絡でNoteにこれは呟いたことあり)
気を取り直して、最近あった出来事だモシ!
ずーっと前から気になってた山形に行ってきたモシよ!
中でもずっと気になってたとりな氏が言っていたこの致道博物館。様々な施設と歴史的建造物を全部含めて「致道博物館」と名付けられていて、この写真の建物は旧西田川郡役所という元役所だモシ。縄文とかその辺の考古学資料が出てくる時代、戦国武将の時代、幕府で酒井さんが代々街を整えた時の時代、そして明治近代に至るまで、街の歴史や暮らしなどを幅広く紹介されていた面白いところだったモシ!
ユキメノコちゃんとりな氏はミニチュア作家さんの展示にも夢中になっていたモシな〜。この役所建物の1階がミニチュア作家さんのドールハウスを展示したおしゃれな空間になっていて、建物自体のスタイルとよくマッチしていたモシ。ご存命ではない作家さんらしいけど、遺った作品があれば探してみたい!とはりな氏談…
これは渋谷さんっていう人の民家を移築して保存し��文化財だそうで、雪がたくさん降る地域でも生活ができるように、縦に何層と生活空間を作ったり、養蚕ができる作業場を作ったりと生活の知恵がたまっているなぁ…と感じられたモシ…
君たちもとても嬉しそうだったモシな。いかにも中の暖房がしっかりしてそうとか、とんがった屋根の家を見ると、やっぱり雪とか冬を思い出せるからこおりタイプのみんなが好きなのかな?
��祭りで会えた新しい子は色違いのニャスパーとセビエだけだったけど、どっちも初めてだからりな氏も満足してたモシ。
セビエはお肉のにおいを嗅いで来たのかい?うんうん、米沢牛の深い旨さと味わい深さ、ずっと忘れられないモシよ〜!!
(※筆者注:米沢牛亭 ぐっど さんです!美味でした!)
カントー地方だからスタンプのみんなもつい会いに行ったけど、暑くてみんなやばそうにしてたし、りな氏も歯を食いしばりながら本当にこまめに飲み物を飲みまくってたモシ…。改札外出たらすぐ!とか、少なくとも屋根があるところにスタンプ台はほとんどあったので、逆に雨降ってる時にまとめてたくさん稼ぐのが良いかも?とも思っちゃったモシ!
りな氏はとりあえずステージ2で満足、ステージ3は特に意欲ないけどブラッキーには会いに行きたいというスタンスとのこと。
ちなみにルートは
①(別日である前日 埼玉まで車で移動する用事があったので)蓮田→上尾→大宮→浦和→越谷レイクタウン 回収
②(ヌオーを撮った日@都区内パス使用)
両国→東京駅Newdaysでステージ1ゴール→東京→御茶ノ水→新宿→池袋→代々木→品川→川崎(※ここでパンを買い食いして休憩)→桜木町→北千住→東京 回収
という形だったモシ。
結論としては、蓮田とレイクタウン以外車で来るのはオススメしない
上尾もなんか道が狭くて混みがちだった
常磐線のダイヤが少ない感じがした、待合室に冷房が効いたので東京駅このホームの休憩室でたくさん休憩させてもらった 後弱冷じゃなくても暑め
東京駅でゴールして東京にスタンプ取るりな氏のルートだと、東京駅のレイアウトよく知らないと迷うかも
桜木町駅とか、スタンプ押す人が多くなると待機列が屋根外にはみ出ることがある、でも全体的に雨の方が逆に快適そう。JRは地上を走るので日差しが… との感想だったモシ!
乗り鉄も乗り鉄によりけりかモシ?あるいは季節的要因?
とりあえずステージ2ゴールできてよかったモシ…。貰ったテラピースのタイプには満足できなかったみたいだけど。
ここまで代筆してみたけど、りな氏がぐだぐだとどう書こう何書こうと悩んでいるより、サッサとボクが書いた方がアウトプット速度が速くなるような気は確かにしたモシ! SNSは言わずもがな、Noteっていうところでもあまり前に出るのは一旦は控えておこう、という話だったけど…。ま、Tumblrって日記帳により近い感じだし、ブログサイトよりは軽めだから、いいってコトなのかな?また気が向いたら書いてみよ〜っと!」
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先月、事実上史上最も著名なジャーナリストの2人が話題になった。プーチン露大統領にインタビューを行い、日本時間2月9日にSNSで公開したタッカー カールソンと、2月20日と21日に英高等法院で米国への身柄引き渡しを巡る審理が開かれた、英国で収監中のジュリアン アサンジである。 事実上史上最も著名なジャーナリストというのは、タッカー カールソンについては現在のアメリカで最も視聴者数が多いからで、例えば中国やインドなどにもっと多い視聴者数を抱えるニュース番組などがあるのかもしれないが、なんといってもアメリカは情報覇権国であって、今回のプーチン大統領へのインタビューについても、視聴者数の多さ自体が語るものというのがある。 内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者であるジュリアン アサンジは対照的に今回の審理には体調不良により出席しなかった。アサンジが現在のインターネット上のメディアに与えた影響の大きさもそうだが、今回の審理をめぐっても、「ジャーナリズム」という概念そのものに対する影響というのが話題の焦点の一つになった。
こうした話題への関心は、実際のところは、主流メディアのみならずネット上のほとんどのメディアやジャーナリストとか、ジャーナリズムそのものへの懐疑とか厭世観の表れなんじゃないかとも思う。情報覇権国と言ってもその内部秩序は崩壊しまくってるようにしか見えないし、正しい情報が何かを救うとか言ってる人のこともバカだと思っている。そう言いながらもやたら情報を探し回ってぶん投げ合ってる自分たちはまるで、砂漠のような崩壊後の空間をモヒカン肩パッド姿で奇声をあげながら疾走してるようにしか見えない。
芥川龍之介は『西方の人』と『続西方の人』というエッセイで、イエス キリストをジャーナリストだと表現した。 『西方の人』の最初の章で「わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。」と断わったうえで、「ジヤアナリスト」と題した章で「我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出来ない。少くとも我々に迫つて来るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事実を直覚してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善いサマリア人」や「放蕩息子の帰宅」はかう云ふ彼の詩の傑作である。抽象的な言葉ばかり使つてゐる後代のクリスト教的ジヤアナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジヤアナリズムの効果を考へなかつたのであらう。彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジヤアナリストではない。彼のジヤアナリズムはその為に西方の古典と肩を並べてゐる。彼は実に古い炎に新しい薪を加へるジヤアナリストだつた。」と書いている。 『続西方の人』でも「ジヤアナリズム至上主義者」と題した章で「クリストの最も愛したのは目ざましい彼のジャアナリズムである。若し他のものを愛したとすれば、彼は大きい無花果のかげに年とつた予言者になつてゐたであらう。平和はその時にはクリストの上にも下つて来たのに相違ない。彼はもうその時には丁度古代の賢人のやうにあらゆる妥協のもとに微笑してゐたであらう。しかし運命は幸か不幸か彼にかう云ふ安らかな晩年を与へてくれなかつた。それは受難の名を与へられてゐても、正に彼の悲劇だつたであらう。けれどもクリストはこの悲劇の為に永久に若々しい顔をしてゐるのである。」と書き、「クリストの言葉」という章では「クリストは彼の弟子たちに「わたしは誰か?」と問ひかけてゐる。この問に答へることは困難ではない。彼はジヤアナリストであると共にジヤアナリズムの中の人物――或は「譬喩」と呼ばれてゐる短篇小説の作者だつたと共に、「新約全書」と呼ばれてゐる小説的伝記の主人公だつたのである。我々は大勢のクリストたちの中にもかう云ふ事実を発見するであらう。クリストも彼の一生を彼の作品の索引につけずにはゐられない一人だつた。」と書き、「貧しい人たちに」と題した最後の章でも、「クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天国などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた為もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狭い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果のやうに甘みを持つてゐる。彼は実にイスラエルの民の生んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「予言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる為に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」と書いている。 キリストについて書いたエッセイで、中心テーマに「ジャーナリズム」を置いている。しかし、「ジャーナリズム」という語について特に定義付けを行ってはおらず、つまりは当時の一般的な意味で使っており、それは現在ともそれほど大きくは変わっていないと思われる。
『西方の人』の初出は1927(昭和2)年の雑誌『改造』8月号で、『続西方の人』は翌月の『改造』9月号に掲載された。7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと芥川は、致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。そのため『西方の人』『続西方の人』は必然的に作者の死と深く関連するものとして語られ、あるいは読者への遺書としても解釈されるが、死後に見つかった久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」で芥川は自身の自殺の動機を「ぼんやりした不安」とした上で、それを解剖したものを『或阿呆の一生』に書いたとしている。『或阿呆の一生』は、『改造』1927年10月号に掲載された。それらを読み比べると、『西方の人』『続西方の人』はむしろ最期だからこそ自身の「不安」や、あるいは信仰などとは切り離して、唯感じた通りを書くことができたものだとも解釈できる。そして「クリストのジヤアナリズム」というのは、唯感じた通りを伝えることであり、それを聞いた人が見たまま聞いたままのことを感じられることであり、またそれぞれが感じた通りのことを表現できるようになることであって、それが「我々の心を燃え上らせるクリスト」だとも解釈できる。 「エマヲの旅びとたち」というのは、『ルカによる福音書』24章13節から32節に書かれている���ピソードである。エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ歩いていたクレオパとルカとされるもう一人の弟子のところへ、復活したイエスが近づいてきて、その二人の弟子と語りながら一緒に歩いた。彼らの目はさえぎられて、それがイエスだと認めることができなかった。彼らが行こうとしていた村に近づき、夕暮になっていたため、なお先へ進み行く様子のイエスを引きとめ、一緒に食卓についた。イエスがパンを取り、祝福してさき、彼らに渡してるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。するとその時イエスの姿は見えなくなった。二人の弟子は互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 この場面は多くの画家が描いた場面でもあり、なかでもカラヴァッジョが描いたや絵画『エマオの晩餐』(1601)が有名である。カラヴァッジョは、日常の中に訪れる日常を超越させるもの、日常生活を中断させる崇高な存在、自分自身の感情に自分自身が気づく瞬間といった、二面性や二重性を持つテーマを繰り返し描いた。カラヴァッジョはそれらのテーマを、一瞬を切り取る鋭い観察眼と見たままを描写できる卓越した技巧で超越すると同時に、その技巧をテーマで超越するという二重の超越で、二面性や二重性の中に、矛盾や逆説とは別の、それらを超える「超越性」そのものというような概念があることを提示し、西洋美術史に新たな美意識を加えた。 芥川もこの超越性のような概念に触れていて、『西方の人』の「復活」と題された章で、「我々は唯茫々とした人生の中に佇んでゐ��。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊の子供たちはいつもかう云ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か「永遠に超えようとするもの」を。」と書いている。 これらは作者自身の不安などとは切り離して唯感じた通りを書いたものだとも解釈できると言ったものの、「ぼんやりした不安」にあたるとも思われるものを、『西方の人』の「クリスト教」という章に書いている。この章は「クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。」という文で始まり、「クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭の声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々を虐んでやまないものを、――近代のやつと表現した世界苦を感じずにはゐられないであらう。」という文章で締められている。 この「世界苦」というのは、ドイツ語の「ヴェルトシュメルツ」をほぼ直訳したもので、「感傷的厭世観」「世の中の邪悪を思って悲しむこと」「悲観的世界観」というような意味を言い表す文学的概念だと説明される。もともとは、この「ヴェルトシュメルツ」という言葉は、ゲーテと同時代の作家のジャン パウルが遺稿となる小説『セリーナ』(1827)で造語したものとされる。小説の翻訳では「苦痛」や「苦悩」などと訳されている。「世界苦」という言葉は19世紀後半のドイツ哲学などで使われるようになり、19世紀のロマン主義の底流に流れていた文明に対するペシミスティックな懐疑主義のことを言い表す言葉になっていった。こうした文明に対する懐疑や厭世観が顕著に表れたのが19世紀末のデカダンス(退廃、世紀末芸術)である。この中からアールヌーヴォー(新しい芸術)やモダンスタイル(近代様式)などと言われる新しい潮流の可能性を見つけ、終末的な気分も終わった頃には、「世界苦」という言葉は、自己憐憫を「世界の苦悩」だとはき違えただけだとして一蹴され、そうした傾向を揶揄あるいは自嘲するための言葉としても使われるようになる。 悩みの多くは何かをはき違えただけというのも確かにそうかもしれないが、世の中に問題がないわけでもない。大雑把に分けると、18世紀後半の古典派は、教養と技術の習得によってこれを乗り越えようとしたのに対し、ロマン派は、問題の所在を明確にするための主題(テーマ)探しへと向かった。あらゆる問題を解決する教養は存在しないし、必要なすべての技術の習得も不可能で、テーマやスローガンなどに踊らされた群集心理は暴徒化する。1世紀近い混乱の時代の後で、これを乗り越えたのが大衆文化の成立で、すなわち近代ジャーナリズムの成立だった。
芥川個人の不安というのが何だったのかは結局はわからないし、関東大震災(1923年9月1日)後のCPTSDだとか、それっぽい理屈を当てはめるのも何か違う気がするが、後に解釈されるように、1920年代はどことなく不穏な空気が世界を漂い、ジャーナリズムも危機を迎えていた。検閲もそうだが、後にナチスが政権獲得(1933年)後に本格的に行うエンタルテテクンスト(退廃芸術)の排斥運動の理論的な基礎が組み上げられていた。 退廃芸術の排斥というのは、理屈としてはイコノクラスム(聖像破壊運動)にあたる。イコノクラスムに長けていたとされる宗派や集団というのが古くから存在していたとされ、アリストテレス学派やユグノーがそうだとも言われるが、議論も多く実際のところはわからないと言われている。イコノクラスムの目的の一つは経済的な支配権の獲得だと考えられていて、経済的な支配と思想的な支配はいわば車の両輪の関係にある。 近代ジャーナリズムの成立と、アメリカの南北戦争(1861年-1865年)によって奴隷貿易による利権が崩れたことは、間接的かもしれないが、少なくとも時期が同じという以上の関係があり、1930年代の世界恐慌とナチスの台頭は、間接的かもしれないが、少なくとも時期が同じという以上の関係がある。
2024年3月 リハイドレーション
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限界東北旅行2
庄内平野編
いなほ号の車内でバスターミナルで買ったおにぎりを食す。すじこと紫蘇の実をチョイスしたが、とても美味しい。たくあん付いてるのがナイス。
快晴で海も綺麗。行けども行けども日本海。
鶴岡で下車。ここでバスに乗り換える。
バスの車窓より南銀座池田。鶴岡のミニデパートである。
そして鶴岡市立加茂水族館に到着。クラゲが有名な水族館で多種多様なクラゲを見ることができる。そんなに大きくはないので40分ほどで見終えた。
さて、ここから12:26発のバスに乗ると鶴岡駅には13:01に到着する。
そこから羽越線・陸羽西線代行バスで新庄を目指そうとすると鶴岡、余目でそれぞれ1時間ほど待たされ、接続がよろしくない。それでも宿にたどり着くことはできるが時間がもったいないように感じる。
それよりも鶴岡12:43発のいなほに乗れば余目で40分ほど待たされるものの一本前の陸羽西線代行バスに乗ることができるため、できればそうしたい。
かといって鶴岡駅までタクシーに乗ると4000円くらいかかる。そんな金は無い。じゃあどうする。
意を決し、加茂水族館の駐車場で車に乗りそうな人々に声を掛ける。
一組目。鶴岡駅の方から来たので戻る形になってしまうとのことで断られる。
二組目。家族連れだ。偶然にも鶴岡駅方面に向かうという。
交渉は成立し、ヒッチハイクに成功した。ここで失敗していればこの後の旅程はまあまあつまらなくなっていたはずだ。感謝しかない。
世間話にも華が咲いたところで、鶴岡駅には12:30ごろに着くことができた。
というわけで、鶴岡12:43発のいなほ3号に乗ることができた。
余目。庄内町の中心駅ではあるが、「米と花の里」というキャッチフレーズが物語るように駅前に何も無い
……と思ったら、観光客向けの拠点施設「クラッセ」があった。ここのパン屋で簡単な昼食をとる。
13:40発の陸羽西線代行バスの快速に乗車。最初はかなり空いていたのでノビノビと過ごしていたが、古口から中国人ツアー団体が乗車し満席に近くなった。
14:51に新庄に到着した。
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コーヒーは発酵食品って知ってました?
香ばしい香りと苦味のバランスが絶妙のコーヒー。
多くの健康効果も高いと言われ、毎日のようにコーヒーを楽しまれている方も多いと思います。
そんなコーヒーは発酵食品ってご存知でしたか?
そうコーヒーは、納豆やキムチと同じ発酵食品なんです。
クセのある味わいのコーヒーは発酵というプロセスを踏むことで味の行方が左右されます。
嗜好品として楽しんでいる方も多いコーヒーの発酵方法からコーヒー酵母、乳酸発酵、麹菌、酸素が関わる複雑な情報をまとめました。目次
そもそもコーヒーってなに?
コーヒーは発酵食品
コーヒー豆は製造過程で発酵
コーヒーの発酵方法
コーヒーの発酵方法1・水洗式(ウォッシュド)
コーヒーの発酵方法2・非水洗式(アンウォッシュド)
コーヒーの発酵で多くの味が楽しめる
アナエロビックファーメンテーション
ハニープロセス
マロラクティック(乳酸発酵)
麹菌
酵母の力で発行
最後に
関連
そもそもコーヒーってなに?
コーヒー豆はアカネ科の植物であるコーヒーの木から収穫されます。
コーヒーの果肉は完熟した状態になるとサクランボのように鮮やかな赤色になるため、コーヒー豆は別名コーヒーチェリーとも呼ばれています。
そんなコーヒーは気軽に飲めるものと答える方、こだわりを持っていると答える方、様々な楽しみ方があります。
コーヒーは突き詰めていくと非常に奥が深い飲み物です。
市販されているコーヒーは粉末のものからドリップして飲むものなど、個々の嗜好によって好みの飲み方ができます。
しかし、そんな世界中で愛飲されるコーヒーは独特の香りやクセのある味わいから、発酵食品のカテゴリーに入るのではないかと疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。
コーヒーは発酵食品
コーヒーは発酵食品か、という点ですが、結論から言えばコーヒーは発酵食品です。
コーヒー豆が収穫されてから私達が普段目にする状態になるまでに様々な工程を踏んでいきます。
そもそもコーヒーはコーヒー豆を収穫した後に、果肉を処理加工して種の部分が見慣れたコーヒーの元になります。
コーヒー豆の生産処理は味わいが変化するだけではなく、輸送や保存の関係で腐敗を防ぐために行われます。こういった生産処理のことを「プロセス」と呼び、様々なプロセス方法を実施されることで口に入れた際の香りや味わいが変わります。
ちなみに、このコーヒー豆の生産処理は他にも「コーヒー加工方法」や「精製」とも呼ばれます。
コーヒー豆は製造過程で発酵
コーヒーの実が馴染んだ豆の姿になるまでには、木の育成から収穫、生産処理、脱殻、焙煎という順番を経て消費者の元へ届きます。
コーヒーが発酵する段階は生産処理を行う際に進んでいきます。
コーヒー豆が発酵食品に含まれるということは、ヨーグルトなどの乳酸菌を体内に取り込めるのかという疑問が出てきますが、焙煎が終わっているコーヒーは既に死滅した乳酸菌のみが含まれています。
生きたまま体内へ送ることはできませんが、死滅した状態でも腸内で善玉菌のエサになってくれるため、コーヒーは適度に飲むと体に良いと言われています。
しかし、コーヒーの発酵に関しては効用を期待するというよりも、発酵することによって発生する香りや味わいを楽しむという方向性に期待されています。
コーヒーの発酵方法
手間をかけずに飲めれば良いという方や、コーヒー豆によって抽出する道具を変えるほどこだわりを持っている方など、コーヒーにかける熱量は違うものの、万人に愛されるコーヒーはどのような発酵方法を経ているのでしょうか。
大きく分けて2種類の果実を取り除くための方法があります。
コーヒーの発酵方法1・水洗式(ウォッシュド)
水洗式(ウォッシュド)と呼ばれるプロセスは、その名の通り水につけて発酵させることで果実を除去する方法です。
コーヒー豆の果皮と果肉を機械で除去してから水へ浸すと、ほぼ完璧に果肉を除去することができます。
水を使ったこの方法は、水の中に含まれる微生物の増殖が進むことで、その働きによりコーヒー豆を分解(発酵)していきます。
ただし、水洗式で発酵したコーヒー豆は腐敗に近い状態の欠陥豆になってしまうことが多く、その場合は取り除かれてしまいます。
水洗式で作られたコーヒーは香りや質の良い酸味を味わえ、この方法を定番として取り入れているのはブラジルやエチオピア、イエメン以外の地域です。
コーヒーの発酵方法2・非水洗式(アンウォッシュド)
非水洗式(アンウォッシュド)と呼ばれるプロセスは、乾燥をメインに果肉を除去する方法です。
果皮と果肉を天日干しにして乾燥させた後に、機械的に除去が行われます。
乾燥させる間は虫の被害や不純物が混ざる可能性も高くなりますが、しっかりと熟した味わいと香り、コクが楽しめます。
非水洗式では果肉に残った微生物が酸素と触れて増え、果肉や種の部分の発酵が進んでいきます。
ブラジル、エチオピア、イエメンなどの地域がアンウォッシュド式を主流としています。
ちなみに非水洗式の方が乳酸菌発酵が進みやすいのだそうです。
コーヒーの発酵で多くの味が楽しめる
コーヒーは非常に歴史の古い飲み物です。上記で触れた製造方法や発酵などを用いて現代まで飲み続けられていますが、嗜好の広がりからコーヒーは多用性を求められる時代になりました。
コーヒーがもともと持っているおいしさを異なるおいしさにシフトさせられないかと、今現在でも試行錯誤が続けられています。
次は上記でご紹介した以外の方法で作られるプロセスについて触れていきます。
アナエロビックファーメンテーション
アナエロビックファーメンテーションは日本語にすると「嫌気性発酵」です。もともとワインの製造工程で見られるこの方法を、コーヒーのプロセスにすることで特別な発酵が起こります。
発酵酵母の中には酸素を嫌うものがおり、酸素がない環境で活発になる酵母やバクテリアが存在します。
それらを活発にさせるために、タンクや容器などにコーヒーチェリーを入れて酸素をなくした環境で発酵させる方法がアナエロビックファーメンテーションです。
一般的な発酵と比べ、フルーティーな香りや独特の甘みが発生します。
ハニープロセス
ハニープロセスは前述した水洗式と非水洗式の中間である「半水洗式(セミウォッシュド)」とほぼ工程が同じです。
ハニープロセスは中米産のものに対して言い、果皮、果肉を除去してから乾燥させます。
コーヒー豆には殻の部分に「粘液質(ミューシレージ)」と呼ばれるネバネバとしたものが付いていますが、ハニープロセスはこの粘液質を付着させたまま乾燥が行われます。
その結果、ハニープロセス独自の甘い香りと味わいが引き立ち、クセのない魅力的なコーヒーが出来上がります。
また、ハニープロセスは粘液質をどの程度残すのかによって呼び方が変わり、90%除去されているものをホワイトハニー、75~80%除去されているものをゴールデンハニー、50%除去されているものをイエローハニー、20~25%除去されているものをレッドハニー、全く除去していないものをブラックハニーとしています。
マロラクティック(乳酸発酵)
マロラクティックという方法は上記でも少し触れましたが、もとはワインを製造する際に用いられる発酵プロセスです。
この方法は添加された乳酸菌の働きでリンゴ酸が乳酸に変化し、酸味を軽減させて広がる風味を引き出します。
コーヒーの果実に含まれるリンゴ酸が乳酸発酵することにより、甘さやなめらかさがアップしたコーヒー豆に仕上がります。
麹菌
コーヒーを発酵させる過程で麹菌を使ったものに注目が集まっています。
その元となっているのは、幻のコーヒーと謳われるほど希少価値の高い「コピ・ルアック」という高級コーヒーです。
東南アジアに生息するジャコウネコがコーヒー豆を食べて排泄した豆を使用します。
ジャコウネコの消化器官で発酵されたこのコーヒー豆は、麹菌を使うことで再現できるのではないかということで、麹菌発酵したコーヒーを開発しました。
麹菌発酵されたコーヒーはクリーミーで軽い口当たりと甘さが付加され、丸くカドが取れた味わいになるようです。
酵母の力で発行
そもそも酵母とは、含まれる糖をアルコールと炭酸ガスに変える善玉菌(微生物とも言う)のことです。
パン作りに詳しい方はコーヒー酵母や〇〇酵母という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、発酵や酵母などは良く似ているため違いが分からないという方も多いことでしょう。
酵母は簡潔に言うと目的のものをアルコール発酵させる親のようなものです。
酵母があるから発酵するのですね。
コーヒーにも同じことが言え、コーヒー豆から起こした酵母をコーヒー酵母と言います。
ナチュラル思考の方が多い現代では、コーヒー酵母のような自家製酵母を1から作り、パンやケーキ作りに活用しています。
コーヒー酵母を混ぜて作ったパンはふっくらと膨らみ、良い香りを放ちます。
最後に
コーヒーは発酵食品か、についてご紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
コーヒーはただでさえ種類が多いため、情報の多さに困惑させられる食品です。
歴史を刻んできたコーヒーは普段目にする段階では既に発酵し終えていて、それが普段楽しんでいる香りや味わいに直接アプローチ��れます。
一杯のコーヒーに手間暇がかかっていることを考えると、丁寧にゆったりとしたコーヒータイムを楽しみたいものですね。
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2023.7.18tue_yamanashi
日課を愛しています。 数年単位で続けてるものもあれば、1ヶ月ごとに変わるものもあり、飽きたら終わり。 誰にでもできる簡単な事を毎日続ける事でクオリティが想像を超えて高くなっていく事に、代え難い喜びを見出しています。
5月は毎朝、目玉焼きを焼いた。 31日間、欠かさず焼いた事で、自分のベストオブ目玉焼きを発見し、どんな場所と道具でもそれを再現できるようになった。 僕のベストオブ目玉焼きは以下の通り。
フライパンを火にかけてから、油を少量敷く。 手のひらをかざして、熱いな、と思うくらいになったら卵を割り入れる。 ジュワーという音をひとしきり聞いてから、火を弱め、塩をひとつまみ、胡椒を一振りかける。 白身が箸でつまめるくらい固まったらひっくり返し、火を止め、余��で黄身の表面を固める。 再度ひっくり返し、皿に乗せる。 以上です。
白身はほどよい厚みと弾力を保ち、黄身が破れたら緩やかに流れ出す程度の硬さ。 米にもパンにも最適です。 ぜひお試しあれ。
時間や分量は意外とアテにならない。 どこでも自分が一番好きな目玉焼きを食べられる、という安心感は人生に目玉焼き一人前分の安心をもたらしてくれました。
話は変わって前日、お向かいの一人暮らしのお婆さん(90)が凸して来たらしい。 らしい、というのは僕が不在の時だったので妻が対応してくれたから。
今年の3月に今の戸建賃貸に越してから、お隣のおじいさん(70代霊媒師)からあの人はクレーマー、要注意人物だから気をつけろ、と口酸っぱく言われていたのでなんとなく警戒はしていたのだが、妻からLINEをもらった時はいよいよ来たか、と思った。
妻の話を聞くと、おばあさんはチャイムも鳴らさず「ごめんください!」と玄関を開けて入ってきて、洗濯物の干し方と、庭の雑草がみっともないから改善しろ、という主張をなさったそうで、なんでも来客があった時に、客の視界にそういった物が入るのは品がない、家と人の格式が下がる、と。
妻がおばあさんの手を握り、ひとしきり話を聞くと、昼は事務職、夜は夜職と掛け持ちして子供を三人を育てた事、一人は慶應とアメリカの大学院に進んだ事、今の家を五千万で買った事、時々息子が様子を見にきてくれる事などを教えてくれた。 去り際おばあさんは、「私は自分で働いてここまで生きてきた、人の言う事なんて信用せず、自分の目で見たものだけを信じなさい」と言って帰っていった。
おばあさんが帰ったあと、お隣のおじいさんから、話の内容などを根掘り葉掘り聞かれ、仲良くなれそうだと言っても「一度の事で信用するな、絶対に甘い顔をしないように」と釘を刺され、ご自宅へと戻って行かれた。
片や、目に見えぬ存在からのメッセージを受け取り、伝える人。片や目の前に積まれた仕事に取り組んできた人。
相性悪くて当然だよな、と思った。
-プロフィール- 牧野容也(まきのまさや) 38歳 山梨県甲府市 シンガーソングライター 1984年7月生まれ。 小鳥美術館、Hei Tanaka、GUIROなどのバンドでギタリストとして活動。 36歳、年男を機にシンガーソングライターに転向し、 2022年、2023年と2年続けてアルバムをリリース。 ツアーやイベントなど精力的に活動し、 SNSをきっかけに韓国で、初の海外ライブを敢行、成功を収める。 人の心に深く染み入る声と耳に心地よいギターの音色は、 美しい短編映画のように人々に優しく寄り添う。 2021年名古屋から山梨に移住、三児の父でもある。 https://masayamakino.online
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#11 トルコの飯情報
こんにちは、カサダニアンです。
番外編ということで、トルコの料理関係について、熊野さんのおすすめを再度まとめます。
この記事は、トルコの飯情報について紹介します。
〇ケバブ(kebap)
トルコの代表料理で、数多くの種類がある。
日本のようにサンドされているものはなく、ワンプレートで来る。
ドネルケバブ/シシケバブが定番、イスケンデルケバブなどもおすすめです。
「ドネルケバブ(döner kebap)」
「シシケバブ(şiş kebap)」
「イスケンデルケバブ(iskender kebap)」
〇トルコアイス(türk dondurması)
屋台のトルコアイスも日本同様にあるが、観光客向けなので料金はやや高い。
トルコ発のデザート専門カフェmadoがおすすめです。
バニラやピスタチオが人気ですが、伸びるのはバニラのみです。
〇バクラヴァ(baklava)
日本で今年人気のシロップ漬けパイです。
街のカフェなら必ずメニューにありますが、Karaköy Güllüoğluのバクラヴァは有名です。
(東京・銀座のバクラヴァはこの店舗から派生した海外1号店です。)
〇ココレッチ(Kokoreç)
パンに子羊の腸(ホルモン)を詰め込んだジャンクフードです。
〇ミディエドルマ(Midye Dolma)
ムール貝にピラフと呼ばれる米を詰め込んだ料理です。
1ピース単位で注文する形式で、¥20くらいで食べられます。
海が近い都市でしか食べられず、イズミルやイスタンブールで食べられます。
(ただし、夏場は屋台のお店は控えたほうがいいかもです。)
〇ラフマージュン(Lahmacun)
トルコの薄ピザで、ランチやディナーなどにサクッと食べられます。
一緒に出てくる野菜にレモン汁をかけて、丸めて食べるスタイル。
¥200〜¥400くらいで食べられます。
〇バルック・エキメッキ(Balik Ekmek)【鯖サンド】
イスタンブールの定番メニューのサバサンドです。
ただし、ガイドブックに載っているサバサンドはシンプルそのままな味で、若干割高です。
イスタンブールに発泡スチロールの上でつくるおじさんがいるのですが、彼らのつくるサバサンドは骨も抜かれ、スパイスも効いていて美味しいのでおすすめです。
〇エフィスビール(Efes)
ルコを代表するビールが「EFES(エフェス)」です。
1966年創業のANADOLU・EFES社のビールで、同社のビール工場があるイズミルの古代遺跡・エフェソス(世界遺産)から名づけられました。
スッキリとキレのある喉越しと爽やかな味わいが特徴です。
誰にでも飲みやすく、合わせる料理も選びません。
〇ボモンティ(BOMONTI)
「BOMONTI(ボモンティ)」はトルコで最も古い歴史を持つ老舗です。
ボモンティビールの特徴は、やわらかな甘みと麦の旨味です。
コクがありながらクセがないため、どのような料理にも合うでしょう。
創業当時から変わらない味を保っています。
〇シャラプ(Sharap)【トルコワイン】
トルコではワインのことをシャラプといいます。
赤ワインは「KIRMIZI ŞARAP(クルムズ・シャラプ)」、白ワインは「BEYAZ ŞARAP(ベヤズ・シャラプ)」と言います。
トルコのワインはフレッシュで香り豊かで飲みやすいのが特徴です。
近年は品質も向上し、ヨーロッパのワインコンクールでも賞を取るようになるなど、世界でも評価が高まってきました。
〇カヴァクリデレ(Kavaklidere)
Kavaklidere(カヴァクリデレ)社は、1929年に創業したトルコの民間ワインメーカーのパイオニアです。
アンカラ、カッパドキア、マニサに最新設備を備えた工場を持ち、アナトリア産の上質なワインを世界に発信し続けています。
〇シルーフ(Shiluh)
Shiluh(シルーフ)は、トルコ東部で古代アッシリア人の末裔と言われる人々が作るワインです。
トルコ原産のブドウ品種・ボアズケレとオキュズギョズを使った果実味あふれる赤ワイン「Shiluh turabdin(シルーフ・トゥルアブディン)」や、希少種であるマズローナとケルクシュを使った個性的な白ワイン「Shiluh kustan(シルーフ・クスタン)」など、トルコでしか作れないユニークなワインを楽しめます。
〇シリンジェ(ŞİRİNCE)【フルーツワイン】
ワインが苦手、果実酒なら飲めるという方は、エフェス遺跡近くの ŞİRİNCE(シリンジェ)村で作られているサワーチェリーやメロンなどのフルーツワインをおすすめいたします。
〇トルコのスーパー
トルコのスーパーではお土産がたくさん買えます。
熊野さんの記事がわかりやすい。【URL】
以上、トルコの飯情報でした。
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2024年10月7日
ガザ戦闘から1年 現地通信員が見た戦場(朝日新聞 10月7日)
「世界は僕たちが死ぬのを見ていただけ」 だれも止めぬガザ侵攻1年(朝日新聞 10月7日)
パレスチナ自治区ガザでのイスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘開始から7日で1年経つが、終わりが見えない。死者4万1千人超――。街が破壊されたガザの人は何を見て、何を感じてきたのか。朝日新聞のムハンマド・マンスール通信員が報告する。
友人に「見てくれ」と促され、スマートフォンに表示されている動画に目をやった。9月19日のことだ。見たことのある光景があった。パレスチナ自治区ガザ南部ラファ。私が住んでいた街だ。
戦闘が始まって1年近く経ったパレスチナ自治区ガザ南部では空爆や砲撃を完全に免れている建物は少ない=2024年9月25日、ハンユニス、ムハンマド・マンスール撮影
マンスール通信員が語るガザ 食料不足に加えて、衛生状況も悪化しているガザで、市民たちはどう生きているのか。記事の後半に出てくる、もう一つの動画では、朝日新聞のムハンマド・マンスール通信員が、街を歩き、テントを訪れ、人々の生活を追いました。
次の瞬間、動画の中で爆発音がして、煙が上がった。
「ここにあるの、お前の家だろ!」
友人が泣き出しそうな声で叫んでいる。その通りだった。
動画はイスラエルの極右グループのテレグラムチャンネルに投稿されていた。イスラエル兵と思われる男の声がした後、建物や地上に仕掛けられた爆弾が爆発した。ヘブライ語で視聴者にこう話していた。
〈このラファでの爆発をあなたたちに贈ります〉
隣で心配そうに私の顔をのぞき込む友人の声が、とても遠くに聞こえた。
私の家が完成したのはこの戦闘が始まる直前だった。借金を背負い、少しずつ建てた家の完成には4年間かかった。
壁は明るい白を基調にして、居心地のいい空間になるよう、内装の細部にまでこだわった。自分たちのルーツであるアラブと、暮らしやすい西洋の様式を組み合わせたような雰囲気で、壁には馬や鳥の絵画を飾った。
イスラエルに周囲を壁やフェンスで封鎖されて「天井のない監獄」と呼ばれるガザの環境下でも、昨年8月に結婚した妻と一緒に、なんとか穏やかで幸せな生活を求めて暮らそう。そんな願いと、覚悟の詰まった家だっ���。
だが、そのすべてが完全に破壊された。
奪われることがこれほどの痛みを伴うのならば、初めからなかったらよかったのに、と思う。
ここガザでは、「ただ生きるということ」には大きな代償が必要とされるらしい。
生きるため、転居5回
私は、生まれ育ったラファから今住むハンユニスのテントまで、この1年間で何回住む場所を変えたのかを数えてみた。
5回までは覚えていた。だが、その後は記憶にない。戦闘が激しくなるたびに、私は家族と一緒に、時に家族とばらばらに生活した。避難所、知人の家、そしてテント。目的は「生きること」だった。
一方、「死」は大安売りだ。そこら中に転がっている。私たちは生きていくため、水やパンを手に入れるために何時間も長蛇の列に並ぶ。浄水施設は空爆で破壊され、きれいな水は手に入らない。
そのため、どこならそれなりに「使える」水が手に入るのかを知人たちと情報交換��ながら探す。無料で手に入れられるはずの支援物資の食料も、今や市場で高値がつく。高騰した価格をみると、私たちの命より高いのではないかと思う。
【動画】ルポ「侵攻から1年 ガザで暮らす人々の今」=ムハンマド・マンスール撮影
ガザでイスラエルとハマスの戦闘は過去に何度も繰り返されてきた。2014年の戦闘では、50日間でパレスチナ側で2千人以上、イスラエル側で71人が死亡、21年の戦闘では11日間でパレスチナ側で約250人、イスラエル側で13人の死者が出た。
だが、今回の戦闘の発端となった昨年10月7日のハマスの越境攻撃では、イスラエル側で約1200人が死亡した。イスラエルの報復がこれまで経験したことがないものになることは想像できた。戦闘は長く、苦しいものになるだろう。私だけではない。ガザの人たちの多くはそう思っていた。
それでも戦闘が1年も続き、4万1千人以上が殺されることは予想できなかった。国際社会がここまで止められなかったことも。
パレスチナ人だから、しかたないということなのだろうか。もう、私は世界を信じられない。それでも信じるべきだと言うならば、その方法を教えてほしい。ただ、それでも、私は言葉を書き、写真を撮り続けるしかない。他にできることがないのだ。(ハンユニス=ムハンマド・マンスール、構成・エルサレム=高久潤)
孫たちが嫌う「豆ごはん」
避難所になっている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の学校で、食事を作るマリヤム・ディーブさん=2024年9月9日、パレスチナ自治区ガザ南部ハンユニス、ムハンマド・マンスール撮影
どこにも逃げることができない。イスラエル軍の攻撃にさらされるガザの人たちはこの1年、どんな生活を強いられてきたのか。
ガザ南部ハンユニスの国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営する学校で、8人の孫と避難生活を送るマリヤム・ディーブさん(54)は、毎朝午前4時ごろ起床する。
家族の命をつなぐ水を手に入れるためには、長蛇の列に並ぶ必要があるからだ。
待つこと、数時間。水を持って戻ると、太陽はすでに空高く昇っている。
一休みしながら考え始めることは、その日の食事をどうしようか、ということだ。ただ、それは平和な土地に暮らす親たちの悩みとはかなり異なる。
まず、献立には悩む余地がない。今のガザで手に入るのはたいてい、豆の缶詰だ。次に手に入るのは米だ。炒めた米に、豆を付け合わせる。おいしいとは言いにくい代物で、その証拠に孫たちはその「料理」を非常に嫌っている。
孫たちは「豆ごはん」を前にするたびに、けわしい顔をしながら食べる。ディーブさんは言う。
「おいしいものをおなかいっぱい食べさせてあげたい。でも今、私にできることはこれ以外にない」
避難所になっている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の学校で暮らすマリヤム・ディーブさん(左から2人目)と孫たち=2024年9月9日、パレスチナ自治区ガザ南部ハンユニス、ムハンマド・マンスール撮影
避難所の衛生状態も深刻だ。利用できる公衆トイレが見つからない。男性は物陰で用をたすのが当たり前になっているが、女性はそうもいかない。何時間も公衆トイレを探す人も少なくない。
トイレを見つけたとしても非常に汚い。そんな環境で、孫たちはバケツの中で用を足し、父親が離れた場所まで処分しに行っているという。
居住空間と排泄などの空間が交わり合っていることで、人々は常に、病気に感染しやすい状況にさらされている。
「石器時代みたいな生活」
そこから北に3キロ。地中海沿いの海岸で家族とともにテント暮らしをしているショルク・ダワスさん(19)は、ガザ北部からここに移り住んできた。ダワスさんは自身の生活を「石器時代みたいだ」と語り、涙を流した。
海岸で父親が立てたテントに小さい妹たちと暮らす。眠るのは、使い古されたマットレス。「どこの誰のものかは知らない。避難をしているとき、空爆で破壊された建物の跡で拾った。海岸の砂の上だと硬くて眠れないから」とダワスさんは言う。
最近4歳の妹が成長して靴のサイズが合わなくなった。そこで父親が廃材を使って、妹用のサンダルをつくった。
ダワスさんは、戦闘が始まる前までガザの海が好きだったと語る。だが、今は嫌いだという。空爆の音が風にのってよく響くからだ。「1年経っても、この音は慣れない」
ガザは、「物があまりない」生活に残念ながら慣れている地域だ。
イスラエル軍が2007年にガザを封鎖し、人や物の行き来を徹底的に管理するようになった後、私たちはできるだけ自分たちの地域の内部で採れる農産物や、国際機関による外から入ってきた支援物資で生計をたてることが日常になっている。しかし、この1年は農地が破壊され、検問所がほぼ閉鎖され、210万人の人口の9割以上が食料不安に陥っている。
ダワスさんのテントの近くには夜になると、いい香り���する場所がある。
地元でおなじみの料理ファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)などの露店が並ぶ。ガスはなく、まきをみんなで割って分け合いながら運営している。「食事」と呼ぶには、一人前は少量なのだが、安い値段でありつくことができ、人々の笑顔が見える。
家族の生活を支えるため、露店を始めたフサム・ナイムさん=2024年9月8日、パレスチナ自治区ガザ南部ハンユニス、ムハンマド・マンスール撮影
店を出している人たちのなかで、ひときわ若い少年がいた。フサム・ナイムさん(14)。自分で作った木のテーブルに、菓子などの食品を並べた簡素なものだ。この1年について、「まるで何千年も経っているような感じだ」と疲れ果てた表情で話した。
ナイムさんの言う通りだ。ガザの人々は、人間が到底耐えることができない量の死と、恐怖と、苦しみにさいなまれてきた。
私は日本の新聞で伝えるジャーナリストだ、と彼に伝えた。最後に聞きたい。世界の人々に、伝えたい言葉はある?
ナイムさんは、少しの沈黙のあと、首を横に振った。
「みんな、僕たちが死んでいくのを無慈悲に見ていた。誰もこの戦争を止めてくれはしない。伝えたいこと���、伝えるべきことも何もない」(ハンユニス=ムハンマド・マンスール、構成・エルサレム=高久潤)
生産能力を奪い、外部依存を強いる「反開発」
「ガザはこの1年だけで破壊されたのではない。破壊され続けてきた」。米ハーバード大中東研究センターのサラ・ロイ上級研究員は、今回のガザ戦闘について、イスラエルの60年近い軍事占領の歴史的な文脈から考えるべきだと指摘する。
ロイ氏は、ガザでの現地調査を踏まえ、1980年代からガザの占領問題の政治経済学的研究を手がけてきたことで知られる。両親は第2次世界大戦のホロコースト(ナチスドイツのユダヤ人大虐殺)の生存者で、親族もイスラエルにいる。イスラム組織ハマスの攻撃でイスラエル側で約1200人が殺され、ガザに200人以上が拉致されたことに「耐えがたい感情をかき立てられた」と振り返り、「ハマスの残虐行為は責任を問われるべき戦争犯罪だ」と批判する。
一方でハマスが実効支配するといわれるガザは、イスラエルが実質的に支配し、抑圧を強めてきた現実を無視するべきではないと言う。
イスラエルは67年の第3次中東戦争で、ガザを占領した。その後、2005年にイスラエル軍と入植者はガザから撤退。ハマスがパレスチナ自治政府内の権力争いの末、この地域を掌握して07年から統治し、イスラエル側は安全保障上の理由で、ガザの四方を封鎖し、人やモノの行き来を厳しく制限してきた。
ロイ氏は、イスラエルのガザ支配の特徴を「反開発」という言葉で説明する。低い開発レベルの貧困を意味する「低開発」に対して、開発をできないよう生産能力を意図的に奪うことを意味するという。パレスチナの人たちが、自らの力で自分たちの未来を形づくる能力を奪い、生活を外部に依存する状態を強いる支配だ。
「反開発」の支配が完成に向かうきっかけになったのは、封鎖が行われた07年前後だという。封鎖で、ガザの経済の民間部門は壊滅的な打撃を受けた。ロイ氏によると、英NGOのデータで、燃料の搬入制限を通じてガザの約3900の工場のうち95%が閉鎖に追い込まれた。封鎖前に雇用者数の58%を占めていた民間部門が21%に減少した。自分たちで経済を発展させられない構造になっていったという。
ガザは今回の戦闘が始まる前の時点で、人口の8割が国際機関の支援に頼り、失業率も5割近くに上った。こうした状況はとりわけ、移動や貿易の緩やかな制限も含めると、90年代から始まり、「時間をかけてつくられてきた」と指摘する。
イスラエルは今回の戦闘が始まって以降、自分たちはかつてはガザに入植していたもののすでに撤退しており、ガザとは関わりないのに、ハマスが攻撃してきたと強調する。ロイ氏は、「イスラエルがその後もガザの領空、通信、海上・陸上交通を支配している。徹底的な境界管理も続けている現実は占領」とし、イスラエルの説明は誤りだと指摘する。
この1年の戦闘で、ガザ全域が破壊された。ロイ氏は、もう一つのパレスチナ自治区のヨルダン川西岸でユダヤ人入植者たちがパレスチナ人を襲撃し、さらに入植地を拡大させようとする動きにも警鐘を鳴らす。今回の戦闘で破壊されたガザに加え、西岸でもパレスチナ人が住める場所が年々小さくなっているからだ。
「欧米は(イスラエルとパレスチナが将来的に国家として共存する)『2国家解決』を主張しているものの、実際はパレスチナの人たちが住む場所が失われつつあることに対抗できていない」という。
今後のこの地域に平和をもたらすことはできるのか。「とても難しい」としつつ、「パレスチナ人に自分たちの命や生活に関する決定権を保障することが最低限の条件だ」と話す。そのためには、イスラエルの軍事占領を終わらせることが不可欠だ、と述べた。
Sara Roy 1955年、米国生まれ。米ハーバード大中東研究センター上級研究員。パレスチナ自治区ガザで、80年代から現地調査を繰り返し、ガザの政治経済の構造分析で知られる。著書に「ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学」「なぜガザなのか パレスチナの分断、孤立化、反開発」(いずれも編訳岡真理・小田切拓・早尾貴紀、青土社)がある。
コメントプラス
平尾剛(スポーツ教育学者・元ラグビー日本代表)【視点】 心がかきむしられて冷静に読むことが難しい記事だった。
フサム・ナイムさんの「みんな、僕たちが死んでいくのを無慈悲に見ていた。誰もこの戦争を止めてくれはしない。伝えたいことも、伝えるべきことも何もない」という言葉に、途方もない後ろめたさを覚える。彼が言う「みんな」と、記事のテーマにある「世界」には、当然のことながら「私」も「私たち」も含まれているから。どうしようもない無力感とともに、各国首脳など権力を有する個人や団体への憤りが同時に湧いてくる。たまらない。
いまの私には虐殺の現実をこうして伝えたり、授業やゼミで学生たちに伝えることくらいしかできない。あまりの悲惨さにたじろぎ、何の役にも立たない自らへの苛立ちを抱えながら、地道に伝えていくことにはほとんど意味がないかもしれない。それでも私はこうして伝えていく。
ともに生を営むこの地球上で、目も当てられない事態が引き起こされている。まずはこの現実を知ること、そしてこの現実に心を痛める人を増やしていかなければ、解決には至らない。たとえささやかな抵抗であってもそれを表明し続けたい。イスラエルを受け入れることは、私にはどう逆立ちしてもできない。ガザで暮らす人たちの苦悩が、1日でも早く霧消することを心より願っている。
浅倉拓也(朝日新聞記者=移民問題)【視点】 ガザやシリアと言えば、ついコンクリートが崩れ落ちた街を想像してしまう。でも、破壊されたマンスール記者の自宅は、4年がかりで借金をして、内装の細部にもこだわって、戦争が始まる直前についに完成したものだったという。また、ある4歳の女の子はこの1年間で足が大きくなって靴が合わなくなり、父親が廃材でサンダルを作ったという。被弾で子どもが大けがをして血だらけになったわけではないけれど、4歳の子の新しい靴が手に入らないのは確かに大問題だ。ニュース映像でちらっと見る彼らは私たちで、私たちは彼らなのだと思い知らされる記事です。
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ナンとピタの違いって
世界の多くの地域で 主食になっている“パン” 日本でもお米よりも パンを主食にする方も 増えているというのは よく耳にする話ですが そんなパンのなかでも 窯で焼く“ナン”が 今日7月6日を ナ(7)ン(6)という語呂合わせから ナンの日だそうです。 ナンというと カレーといっしょに食べる イメージが多いかもしれません。 Wikipediaなどの情報によると 起源はイランで その後メソポタミア 古代エジプト、 インド・アジア大陸に 広まったと考えているそうです。 語源はペルシャ語の“ナーン” 原材料は小麦粉と塩、水、酵母が 主原料で、地域によっては ヨーグルトや牛乳、油脂類、 鶏卵、少量の砂糖、スパイス類を 加えることもあるそうです。 ちなみにナンとよく似ている ピタパンはヘブライ語で アラブのパンという意味だとか。 主にアラブ諸国で食べられるパンで 中が空洞でポケットのように…
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5/18
街にでた 昼前から夕方まで 極大満足
これは夜ご飯
・白米
・煮物
セブングループの煮るだけのやつ
書いてあるものより母からもらったものを信じろ(パッケージ通りの分量で作ったら濃かった いや、食べれるけどあまり口に合わない)
・肉団子
形はハンバーグだけど
前に作ったやつの豆腐なしのやつ
豆腐がないと喧嘩しまくり! おまえらあいつがいないと急に空気悪くなるじゃん おいしいにはおいしいけど、豆腐あったほうが何倍も美味しい
朝はパン、ヨーグルト
昼はハンバーガーを食べました
5/19
学校行って図書館で資料みて帰った 何か気が抜けて超怠けた なぜなら明日は実家に帰るから やった〜〜〜!!! それはそれとして、早く寝ろ
これは夜ご飯
・焼きそば
冷蔵庫の余りものらを一緒くたにしたやつ ベーコンと昨日の煮物が入ってる 煮物の味が濃かったから焼きそばは薄め 麺となら煮物パクパク食べれた
焼きそば、炒めしもの全てを包み込んでくれる 強〜
朝はパン、ヨーグルト
昼は学食を食べました
5/20〜21
実家!
前にならい箇条書き
ピザ食べた うますぎ イカ好き
UFOキャッチャーとかやるもんじゃない 写真だけを愛でとけ
いい感じの手さげバッグ買えた よし!
全然頭回ってない はよ寝とけ
自分の興味ない自分のものの説明下手すぎる その時系列全部話しちゃう
騒音の中で話してると頭めっちゃ使う
茹でたてのさやえんどうが美味しすぎる!!! 塩ゆで��けなのに味が“しっかり”ある 感動もの やばい 美味しすぎて無のままに口に運んでる
新玉ねぎ美味しすぎる あまりにもあま〜い! たぶん今まで美味しく食べてた玉ねぎって全部これだったかもしれない
玉子焼き美味しすぎる 甘くて目が覚める 玉子焼き、そういえばまだ作っていない 定番のご飯なのに 今週らへんに作りたい
さやえんどうもらったから月曜日の夜に食べる めっちゃめっちゃに楽しみ
いかおくら美味しすぎる! いかがデカくて嬉しみ
全員がチルットのPCクリーナーに反応していく
家帰って新しく買ったネイル試した LOQ上がりまくり 高揚感、爆ある
21日の夜は白米、トマトのごった煮を食べました
ごった煮は母からもらったやつ 激旨
雑記
宇沢レイサ、出勤してくれません なぜ… 外堀は埋まってる 埋まってるんだけど埋まってるだけだから何も関係ないよ 外堀って関係あるんじゃないんですか?! 埋まってるだけだから何も関係ないよだって外堀って物語のなかだけじゃん なぜ…
慣れを感じている この生活が日常になったのかもしれない 怖い 慣れがあることが怖い 寝ていると、他人がシャワーを浴びたりトイレを流したりするとそれが部屋をつたって聞こえる 今まで夜に聞こえる音といえば、発情期の猫と季節の虫 人の声がなかった 他人の音が聞こえるって怖いのではないか? それに慣れているって怖いのではないか? いや、そんなに怖くはなくて、なんかこう、なんか、なんだ 哀愁? 懐古? 今の夜じゃなくて3月までの夜への感情だ
じゃあ「はたして虫の声、聞こえるのか!? そろそろ聞こえるはずなのに 聞きて〜!」って話っぽい
一話完結型に愛を今更感じてる 縦軸メインのストーリーもまあ好きではあるが 急に縦軸の存在が表れたり消えたりするのが好き 混乱させてくれるから それで時間が狂うから あとメインが縦軸じゃないから他のところに焦点合わせやすいし あと情報への怯えが少ないし
家、落ち着けるかどうか微妙 居心地が良くはない そりゃお前床に寝そべってるからだよ こたつが、欲しい!!! 柔らかいカーペットが、欲しい!!!! でも揃った日にはどこにも行けなくなりそうではある
家の中に誰の声もないのに寂しさを感じてるけどテレビつけとくの何でかできない テレビで人の声摂取すればいいのに もったいないって思ってしまう どっかでテレビ消しとくだけで電気代こんなに減るんですよってやつ見たから… 逆にもったいない! そんな知識いらん いるけども
なんでか知らんが健康診断好き
物によるかってことを考えるのめんどっ
予約するのめんどくてカラーいけてない なんかもうカットと一緒でいいかも
レモンクラッカー爆裂にうまい
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二年前日記21(2021年5/21〜5/27)
5月21日 仕事の日。朝から気持ち悪かったが何とかなった。帰り、ベリーニとダニエルに寄り、冷凍のパスタセットとカヌレをテイクアウトした。結婚記念日の準備。帰宅したらダウン。夫が帰ってくる前に何とか起き上がってシチューを作った。気づいたら寝ていて、起きたら1時過ぎ。気持ち悪くてなかなか寝付けず、3時ごろまで起きていた。
5月22日 天気の良い日は調子がいいなぁ。朝ご飯を食べながら『あちこちオードリー』を見る。少し散歩に行って、お昼は切り干し大根入りの焼きそばを。私はお昼からカウンセリング。10回目。不妊治療のクリニックのカウンセリングだけど、妊娠後も出産後も受けたいときは受け続けていいらしい。妊娠したこと、不安なこと、出生前診断のこと、産後のことなど話す。私はやっぱり家族や友人よりも知らない人のほうが、いろいろ頼れるタイプのようなので、産後は自分の家で過ごすほうがいいのかなと思った。終わってからあれも話せば良かったなぁなどといろいろ思い出す。次は調子がよかったら対面でお願いしてみようかなと思う。夫は定期の更新やら、オイル交換やらいろいろ出掛けていた。私は読書。晩ご飯は夫が作ってくれたビーフストロガノフ。牛乳をきらしていたので、「牛乳の代わりに昨日のシチューでいいんじゃない?」と少しだけ残っていたシチューを水で薄めて混ぜた。引っ越しのことなどもいろいろ話す。身の丈にあったところで、交通の便がいいところってあまりない。少し無理してもいいような気もしてきたけどどうなのかな。逃げていたペットのヘビが見つかったニュースがよくて何度も見てしまう。見つかってよかった。
5月23日 結婚記念日。8年目のスタート。手紙の交換をする。嬉しいな。来年はどうなってるんだろうねということに2人とも思いを馳せていた。今日は天気も良く食欲ももりもりあった。朝はパンを食べ、昼はベリーニの冷凍パスタで何となくお祝い。蟹のトマトソースと牛肉のミートソースの二種類。ミートソースの方がとても美味しかった。大豆田とわ子を見返しながら、ゆっくり食べた。しかし食べすぎたのかだんだん気持ち悪くなってきて、横になる。横になると寝てしまう。夕方、夫がエンジンオイルを入れたので車を走らせたいとのことで、寝てばっ��りもよくないなと思い出かけることにした。新しくできた加古川のカフェに行こうかと思ったが、だんだん食欲がなくなってきて、ゆっくりしたくもなくなってきて、アジア料理屋さんに行くことにした。18時45分ぐらいに入った。19時15分ラストオーダー。私はトムヤムクンフォーを、夫はガパオライス。ノンアルコールの飲み物も頼んだ。トムヤムクンが今の体調にぴったりすぎて超沁みた。近くにあって欲しい。帰ってすぐにダウン。お風呂は浸かるだけ浸かった。
5月24日 朝、お風呂に入って頭を洗う。散歩に行こうとでかけてみるものの、雨だったので階段の登り降りのみ。今日こそは掃除やらなんやらしようと思うがなかなか思うようにはいかない。お昼は炒り豆腐をのせたお茶漬け。『コントが始まる』を見て、布団に入って読書してる間に夕方になる。以前の職場の人の昔のTwitterを読んでいた。そういえば40歳で出産されたんだよなぁと思って。あの頃はとても大人だと思っていたし、実際そうだったわけだが、自分がその年になってみると10年前と何ら変わっていない気もする。歳を重ねれば大人になれるというわけではない。晩ご飯は切り干し大根と絹さやの卵焼き、豚バラとキャベツの甘酒味噌汁、ポテトサラダ。夫がいきなり葉酸と亜鉛が大事とか言いはじめておかしかった。この人も少しずつ変わってきてるんだな。
5月25日 仕事の日。朝から気持ち悪くて大丈夫かなと思ったが何とか乗り切れた。他のことを考える余裕がない分、仕事にはぐっと集中できている感じもする。何があるかわからないし、なるべくさくさく片付けなければと思う。帰り、実家に寄る。両親ともにワクチンの予約は完了したみたい。市から高年クラブに向けて、予約の取り方のお知らせがきたらしいが、遅すぎると怒っていた。父はあまり感情を表に出さないタイプだと思っていたけど、最近はそうでもない気がする。母に抑圧されていたのかもしれない。母はめっきりおとなしくなった。本当はこれが母の等身大の姿なのかもしれない。夫も義実家に寄ると言っていたので、私もご飯を食べて帰ろうか迷ったが生物を食べさせられそうな感じだったので、食材だけもらって帰った。鯖とキャベツで味噌仕立ての鍋にする。気持ち悪くなって、そのあとはずっと寝ていた。お風呂に浸かったあと、あまり食べられなかったからかお腹が空いていたので、カロリーメイトとプチトマトを食べて歯磨きをして寝た。
5月26日 仕事の日。今日もサクサク片付ける。帰ったらぐったり。晩ご飯は鯛茶漬け、塩茹でのそら豆。大豆田とわことセブンルールを見て寝る。12時前に起きてきてお風呂に浸かった。
5月27日 朝、お風呂に入る。2件電話。1人の人はワクチンを受けたくないと言っていた。持病の関係で心配とのこと。もう1人の人は明日息子さんがきて予約してくれるとのこと。お昼は玄米餅と卵入りの味噌汁。『コントが始まる』を見た。晩ご飯を作ってから夫を迎えに行く。2人で鍼へ。今日も先生の反応が微妙な気がする。やっぱり経過よくないんだろうか。こんなにしっかりつわりもあるのになぁ。次の検診がこわい。晩ご飯は、エビピラフとラタトゥイユ。どっちもキットオイシックス。夫の機嫌が悪い。ひととおり思い当たることは聞いてみたが、反応なし。しんどいのであきらめる。夜はお風呂も入らず寝てしまった。
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