#厩戸王子
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【かいわいの時】推古天皇二十一年(613)十一月条:掖上池・畝傍池・和珥池を作る。又難波より京に至る大道を置く(『日本書紀』)
7世紀初めの推古朝には、遣隋使を派遣し、中国を手本として国の整備が進められ、上町台地の先端に近くに難波津が整備されました。推古15年(607)に遣隋使として派遣された小野妹子らの帰国とともに、翌年隋から裴世清らがやってきました。裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
ところが、遣隋使から中国では幅広い直線道路が整備されていることを聞いた推古らは、道路の整備が急務であると考えました。『日本書紀』推古21年(613)には、「難波より京に至る大道を置く」と記されています。この京とは飛鳥の小墾田宮のことです。大道とは幅の広い直線道路でしょう。裴世清の来朝から5年後のことです。 この推古21年に置かれた大道とは、難波宮から南へ直線的にのびる「難波大道」と、それに直交する竹内街道と一般に考えられてきました。しかし、発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。
竹内街道ではなく、渋河道・龍田道・太子道(筋違道)のルートこそ推古21年に設置された大道ではないかと考えられます〈=写真〉。このルート沿いには7世紀前半に建立された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺などの寺院が建ち並びます。そしてこのルートならば、それまで利用していた大和川に沿ったルートでもあります。しかも、大和と河内のあいだの峠越えとして、もっとも高低差の小さいルートでした。四天王寺、渋河、斑鳩という聖徳太子(厩戸皇子)に関連深い地を通ること��ら、このルートを整備したのは聖徳太子だったと考えられます(安村俊史)。
以上、柏原市立歴史資料館・館長の連載コラム「龍田古道(2)飛鳥時代の龍田古道」2022より抜粋して編集。表記はママ、〈〉編註。
(写真)推古21年設置の大道(柏原市文化財課)
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実は昔とは変わっている教科書の内容や表記をまとめました。詳しくは... 西暦1192年⇒西暦1185年 これは何をもって鎌倉幕府成立とするかの議論があるためです。時系列で見てみると、 1180年 源頼朝が鎌倉に侍所を設置。 1183年 朝廷が頼朝による東国支配権を公認。 1185年 壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡し、全国に守護と地頭を設置。 1192年 頼朝が征夷大将軍に任命。 こう見ると解釈次第でどこでも鎌倉幕府成立と見なすことができます。実際、1180年説や1183年説もあります。現在は実質的な支配権を得て、朝廷から頼朝に権力が移行した1185年が学者の中で最有力であるため、1185年となっています。しかし、これもまた今後変わる可能性はあります。 聖徳太子⇒厩戸王 厩戸王が実名であり、聖徳太子は死後100年以上経ってから後世の人がつけた名前とされるためです。また、教科書からは肖像画も消え、聖徳太子が行ったとされる内容の扱いも薄くなっています。 元寇⇒蒙古襲来 元寇という表現は江戸時代末期に定着したものであるそうで、当時はモンゴルのことを蒙古と呼んでいたためそれを踏襲する形となっています。 踏絵⇒絵踏 表現方法が昔のままだとおかしくないかと議題に挙がり変更となりました。踏ませる行為は「絵踏」であり、踏まれる絵が「踏絵」であるとするもので、確かにその方がスッキリしますよね。現在はそれぞれを区別して掲載されています。 和同開珎⇒富本銭 1999年に奈良・飛鳥京跡で日本最古とみられる貨幣が発見されたためです。和同開珎は708年に発行されたもので、富本銭は683年頃に発行されたものとされています。 鎖国⇒いわゆる鎖国 現在では断定的な表現は避けられています。なぜなら当時は長崎・薩摩・対馬・松前で海外と通じていたからです。 リンカーン⇒リンカン マゼラン⇒マガリャンイス 現在ではどちらもよりネイティブの発音に近い表記に統一されています。 アウストラロピテク��⇒サヘラントロプス・チャデンシス アウストラロピテクスは約250万年前 アルディピテクス・ラミダスは約440万年前 サヘラントロプス・チャデンシスは約700万年前 考古学の進歩により人類の歴史は450万年も実は遡っているのです。今後もまたしかり。 リアス式海岸⇒リアス海岸 リアスとは元々スペイン語で「入り江」を意味する"ria"の複数形です。この意味なら「式」��1文字必要ないのでは?となり削除されました。 四大工業地帯⇒三大工業地帯 かつては工業の盛んなエリアは京浜、中京、阪神、北九州の4つを指していましたが、1980年代以降北九州の生産高が現象したため、北九州は外されました。 9個⇒8個 太陽系の惑星は以前は、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星でしたが、2006年に惑星の新定義が決まり冥王星が外されました。その定義は、 ①太陽の周りを回っていること ②十分重く、重力が強いため丸い形であること ③まわりに同じような大きさの天体が存在しないこと 冥王星は③に引っかかり、準惑星となりました。 l⇒L エルの小文字「l」が数字の「1」と紛らわしいため、大文字に変更となりました。 『奥の細道』⇒『おくのほそ道』 原文の表紙には松尾芭蕉の自筆で「おくのほそ道」と書かれているため、これを正式な表記としました。 My name is...⇒ I am ... 「I am...」の方がカジュアルな場面でよく使われるためです。「My name is...」は仕事のプレゼンや明説、スピーチなどフォーマルな場面でよく使用されます。 こんな多くの人が知らない言葉の知識なども日々Twitterで発信しています。フォローで応援してもらえると励みになります。今の固定ツイも是非チェックしてみてください。
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(BSマンガ夜話 第02弾(1997年01月06日~10日放送分)第03夜「日出處の天子」 山岸凉子 - YouTubeから)
日出処の天子 - Wikipedia
山岸凉子による日本の漫画。1980年から1984年にかけて『LaLa』(白泉社)に連載された。1983年度、第7回講談社漫画賞少女部門を受賞。
厩戸王子(聖徳太子)と蘇我毛人(蘇我蝦夷)を中心に、主人公である厩戸王子が少年時代を経て、摂政になるまでを描く。聖と俗、男と女という矛盾を抱える厩戸王子の圧倒的な存在感に加え、厩戸王子を天才・超能力者・同性愛者として描く斬新さが特徴。厩戸王子には超能力を持っているとでもしなければ説明できないような逸話が『聖徳太子伝暦』などに残っており、これはこうした伝承・伝説を積極的に採用したものである。 1983年度、第7回講談社漫画賞少女部門受賞。夏目房之介は「戦後マンガ史に残る傑作である」と評価
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虚偽報道 - Wikipedia
1984年 「日出処の天子」事件 (毎日新聞)[ソースを編集] 1984年1月24日の毎日新聞夕刊に、「えっこれが聖徳太子?法隆寺カンカン」との記事が掲載。当時連載中だった山岸凉子作の少女漫画『日出処の天子』に登場する聖徳太子の同性愛描写を法隆寺関係者が問題視し、抗議を検討しているという内容で、作者と連載誌編集長の反論コメントも掲載されていたが、その全てが毎日新聞社奈良支局の若手記者による創作であり、2月4日に誤りを認める「おわび」記事が掲載された。 実際には記事掲載前日に法隆寺を訪れた記者の側から「このような漫画があるが問題ではないか」という話をもちかけていたが、法隆寺は「そんな漫画は知らないし、読んでみないことには何とも言えない」と態度を保留。しかし、それで話が通じたと思い込んだ記者は取材を断られた作者と編集部のコメントも創作して記事にしていた。
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「日出処の天子」(山岸凉子)に対して新聞が事実無根の「法隆寺が怒っている」という記事を掲載し、数日後訂正文を掲載し���もらった話 - Togetter
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なんかあったなあ、とうろ覚えだった。こんな虚偽報道だったのか。
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彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)。
推古天皇 - Wikipedia
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【 宗教女王 卑弥呼の真実 】
王様というと男性を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし歴史上、女性の王・女王はたくさんいました。今でも世界には女性が治める国があります。
実は日本でも女性が国を治めていた時代があります。聖徳太子(しょうとくたいし/厩戸王・うまやどのおう)の時代には、女性が天皇になり、男性(聖徳太子)がそれを補佐していましたし、源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、鎌倉幕府を実質動かしていたのは、頼朝の妻だった北条政子(ほうじょうまさこ)でした。このように、日本の歴史の中にもたびたび権力を持った女性が出てきます。
そんな日本の歴史の中で、最も古い女王とされているのが、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)です。
卑弥呼は今から『約1800年前』の『弥生時代』に活躍した、日本の女王です。邪馬台国で、鬼道(きどう)と呼ばれるまじないを使って、政治を行っていたといわれています。
卑弥呼が女王になる前、日本は男性の王が治めていました。しかし、その後長い間内乱が続き、その結果、王にまつりあげられたのが卑弥呼です。
卑弥呼といえば有名なものが「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印です。当時の中国では魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)の三国に分かれて中国の覇権を争っている最中でした。有名な『三国志』の時代です。
卑弥呼は三国の中で最も大きな勢力を持っていた魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印を与えられます。つまり「魏が認めた倭(日本)の王」ということです。
『卑弥呼はあまり人前に出ることがなく、「弟」が政治を補佐していたといわれています。「結婚はしておらず」、食事を運ぶ男が1人、仕えていたとされます。』
卑弥呼が亡くなると、大きな墓が作られました。その後は男性の王が即位し、また争いが起こりましたが、卑弥呼の一族の娘を王にすることで落ち着��ました。
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2023-9月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。 詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「日本史」です◆
今月は参加者の皆様に「日本史」のお題でアンビグラムを制作していただいております。 日本の歴史をめぐる逆さ文字の数々をご覧ください。
「空白の4世紀」回転型:douse氏
西暦266年から413年までの147年間のこと。この147年間の飛躍的な文化的進歩について文字的な史料も考古学上の発見も乏しく、大きなミステリーになっているとのこと。
絶妙な省略がされていますがノートへの走り書き風にすることで自然に見せています。
「天皇」回転型:いんふぃにてぃ氏
「天皇」の称号が使われ始めたのは7世紀ごろといわれていますが、皇室の起源は紀元前660年ころの神武天皇までさかのぼります。
エンブレムのようなデザインがカッコイイ���す。
「梅花歌三十二首并序」回転型:mishima氏
奈良時代に成立したといわれる「万葉集」より。「令和」は万葉集五巻 「梅花の歌三十二首并せて序」の詩序に由来するそうです。
明朝体の力を生かした大胆な字形の解釈が見所です。
「日ノ丸/日本」振動型:kawahar氏
日本の国旗は日ノ丸ですが、白地に赤丸の由来は源平合戦の結果が影響しているとも言われています。
うまく分解できるものですね。とても面白い発見です。
「公家」回転型:peanuts氏
朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。鎌倉時代以降、「武家」に対して「公家」という呼び方ができました。
とても大胆な解釈をしていますね。規則的な字画配置によりロゴとしての魅力が高まっていると思います。
「平家物語」図地反転回転型:オルドビス紀氏
鎌倉時代に成立したとされる日本の軍記物語。
作者が初めてツイートしたアンビグラムがこの作品でしたが非常に衝撃を受けました。傑作です。
「夜討強盗謀綸旨」回転重畳型:螺旋氏
「建武年間記」に収録されている文である「二条河原の落書」の一節。
きれいな作字で統一感があり、読みやすくて素晴らしいです。
「譜代/外様」鏡像型:Σ氏
1600年の関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣だったのが譜代大名、それ以外が外様大名と出自の違いを表しています。
角度をつけることで90度(+鏡像)回転の対応関係にある文字同士を単純な鏡像に落とし込む、氏お得意のテクニックです。
「鎖国」 図地反転鏡像型:いとうさとし氏
江戸時代の外交制限などの政策のことですが実情は諸説あるようです。
上下鏡像(水平軸対称)の図地反転対応です。作者の いとうさとし氏は日本語の図地反転アンビグラム(ネガポ字)における最大の功労者です。
「厩戸王とは?/聖徳太子」 回転共存型:兼吉共心堂氏
様々な伝説とともに虚構説も複数唱えられているようです。600年頃に活躍した人物ではありますが、現在に至る後世にわたって大きな影響を与え続けています。
「厩戸王とは?」を180°回転させると「聖徳太子」と読めるアンビグラムです。このようにある文字を回転させると別の読みになるデザインはアンビグラムの醍醐味です。「書」としてかっこいいです。
「黑船来航」 図地反転型:いとうさとし氏
ペリー率いる艦船4隻が日本に来航した事件。幕末の始まりです。
黑/来、船/航、で図地反転アンビグラムになっています。字を観察すると同じ区画から「舟」を2つ切り出していたり 「灬」を巧みに設計するなど 本作は図地反転アンビグラムの良いお手本になっています。
「散切り頭」回転型:ヨウヘイ氏
明治初期の文明開化の象徴。1871年(明治2年)の「散髪脱刀令」から2年後の1873に明治天皇が断髪し、庶民の間でもちょんまげ離れが進んでいったといわれています。
配置の工夫で字画がうまくやりくりされています。解読が楽しいです。
「明治維新」 図地反転回転型:いとうさとし氏
幕末から明治時代初期の日本において行われた一連の近代化改革のこと。諸説ありますがおおむね明治20年ごろまでに完了していたとされます。
明/治、維/新、の180度回転+図地反転対応です。複雑な字形を極めて上手く切り分けていてとても読みやすいです。
「二千円札発行」鏡像型:.38氏
二千円札は2000年に発行されましたが現在は沖縄以外ではほとんど流通していない不遇の紙幣となってしまっている模様。
円形配置により自然に角度を変えていくことで自然に読めるようになっているのが素晴らしいテクニックです。
最後に私の作品を。
「律令制」回転型:igatoxin
日本では7世紀後期から10世紀頃まで実施されたとされます。
日本史がお題のアンビグラム祭、いかがでしたでしょう。空白の4世紀から二千円札発行まで 日本史をめぐる機知に富んだカラクリ文字が集まり私自身とても眼福でした。 お忙しい中 御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は『ヒーロー』です。締切は9/30、発行は10/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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今までに何度も読み返している漫画、山岸涼子著『日出処の天子』と、昨年末から読み始めてすっかりどっぷりハマって読んでいる岩波文庫版『日本書紀』です📚
どちらも、ほぼ「ご近所物語」で、特に聖徳太子が厩戸王子(または厩戸皇子、豊聡耳王子)だった頃は我が家から徒歩数分の場所にお住まいでした(らしいです)。散歩がてら歩いて遊びに行きました😆
まずは厩戸王子ご本人のお住まい(上宮 『かみつみや、うえのみや』、南上の殿 『かむつのみや』)だったと比定されている「上之宮遺跡」です。お庭の排水溝跡が発掘され保存されています。斬新で凝った排水溝です🤔
ここは住宅街ですし、すぐそ��に学校も建設されているので、上宮(宮殿)の建物を復元するには残念ながら手遅れです😔
排水溝というより、当時は何より貴重だった水路の掌握や新技��を誇示した権力の象徴のように感じます。
上宮や南上の殿 『かむつのみや』と呼ばれていたのは、厩戸王子の父である豊日大兄皇子(後の橘豊日天皇、諡号・用明天皇)の宮がここより北の方角で低い地にあったからのようです。(主屋の上にある宮、南の上の方の宮という意味でしょうか。)
こちらは用明天皇(橘豊日天皇)の宮(池辺雙槻宮 『いけべのなみつきのみや』)跡に比定されている石寸山口(いわれやまぐち)神社です。こちらの方が我が家からは近いです。石寸と書いて「いわれ」と読み、転じて磐余となりましたが、桜井の古い呼び名だそうです。
江戸時代は雙槻神社と称していたそうです。鳥居のすぐ後ろに2本、杉の木が植えられていて雙槻を演出しているかのようです🌲🌲
現在は木材業界���栄の守護神だそうです。桜井は古代から昭和初期頃まで木材の河運による集積地で、この近くに木材集積地がありました���
神社のすぐ目の前に池があって、まさに「池辺」という感じがします。
雙槻は、上掲の二股の樹ではないかという話もあるようですが、まさか1400年前からあるとは思えません。古い樹だとは思いますが、時代を随分と下って植えられたものだと思います。でも雰囲気は出ています。
ちなみに神武天皇こと神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)と長髄彦(ながすねひこ)が決戦したのもここら辺りです😅(日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇「神武天皇」より)
南上の殿から池辺雙槻宮は直線距離だと約750m ぐらいですが、実際に道を歩くと15分ほどかかっていましたので1km以上ありそうです。ご一家の敷地はどれほど広かったのでしょうね。その広大さを考えますと、当時の王族の絶大な権力がよくわかりました🚶♀️💦
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1、"人"が語る、もっとも強い"馬" 武 豊(たけ ゆたか)という騎手が居る。 別業界である羽生善治やイチローと並べられるほどの"天才"と称され、 日本競走馬界で数少ない有名な"人間"であり、数々の歴代最多記録を残している。 そんな偉人がウマ娘プロモーターになって、あんなCMに出るなんて2000m芝不可避なわけだが、話がそれるのでここまでにしよう。 武豊は2018年現在も現役であり、数々の名馬と共にレースを制している。 親子三代で天皇賞制覇し「絶対の強さで人を退屈させた」と言わしめた"メジロマックイーン" 怪物達と共に第二次競馬ブーム期を盛り上げた平成三強の一頭、"スーパークリーク" 武豊としては二度しか乗らなかったものの、騎手としては伝説的ラストランを走り切らせ、 「神は居る」と思わせた、アイドルホースである芦毛の怪物"オグリキャップ" そんな武豊が騎乗した馬達の中でも、一際異様な強さを見せた馬が居る。 "ディープインパクト" 無敗のまま「皐月賞」「東京優駿(日本ダービー)」「菊花賞」を制して三冠馬となり、 「一着至上主義」「奇跡に最も近い馬」と形容されるほど勝ち続け、恐ろしい戦績を残した名馬である。 以下の画像はそのディープインパクトが残した成績である。 世間はこの馬に注目し、社会現象だと言われるまで取材は相次いだ。 馬は喋れないので当然メディアは武豊にマイクを向ける。 様々なインタビューをされていく中、こんな質問が武豊に飛び込んだ。 「もし武豊さんが『武豊&ディープインパクト』と対戦できるとしたら、これまで数多く乗ってきた優駿の中で、打倒ディープとしてどの騎乗馬を選びますか?」 その質問に武豊は一頭の馬の名をあげた。 その馬の名はサイレンススズカ。 日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せた馬である。 2、上村洋行とサイレンススズカ サイレンススズカは最初、武豊ではなく上村洋行という騎手が乗っていた。 上村騎手を乗せたサイレンススズカのデビュー戦は堂々の1着でゴール。 だが次の弥生賞ではレース開始前、柔軟な馬体でゲートをくぐってしまう。 ※ゲートをくぐっちゃうサイレンススズカ サイレンススズカは係員に押さえつけられ、なんとか再びゲートに入る。すると今度はスタートで酷い出遅れをしてしまう。 それでも驚異的な脚力で8着にはなったが、当時の関係者達��これらの気性面をなんとかしたかった。 「走りたいという気持ちが先走り過ぎる」 「スイッチが入ると暴走するぐらい走りたがる」 サイレンススズカは確かに速い。 だがその身に任せたままだとレース終盤スタミナが尽きて、勝つことが難しい。 次のレースで上村はサイレンススズカを必死に抑えつけて走らせようとしたが、我慢しきれないサイレンススズカは先頭を走り続け逃げ切り1着。 東京優駿(日本ダービー)を勝たせたかった関係者たちは不安だった。 2000mならいいだろう。だが勝ちたいレースの距離は2400mなのだ。 ※Sがスタート地点。Gがゴール地点。 ペース配分ができなければ、速さをコントロールしなければ、絶対に勝てない。 もはや上村は「マイル路線(1600m)で行ったほうがいいのでは」とも考えていたという。 しかし次の2200mでなんとサイレンススズカは1着。しかも騎手の上村が上手くサイレンススズカを抑えて、理想的な作戦勝ちだった。 「ダービーもいくらか抑えれば、勝てるだろう」 だが日本ダービーで、サイレンススズカは勝てなかった。なんと9着。 「もう小細工はやめて、逃げて競馬させよう」 関係者達は方針を転換する。 続く神戸新聞杯でサイレンススズカはレースを先行で走った。 走り続け、断然トップ。これは勝ったと見る者は思った。 サイレンススズカはペースを変えず先頭を走る。あとは、ただ走るだけ。 しかし後方からマチカネフクキタルがグングンとスピードをあげ追い抜こうとしていた。 上村騎手が気づいたころには、サイレンススズカは2着になっていた。 振り返れば、八百長さえ疑われてもおかしくないほどの、酷い抜かれ方であった。 この結果を受け、上村騎手は降板させられてしまう。 上村氏は後悔した。自らの失態を泣き、悔しがった。 そしてサイレンススズカの行く末を心配した。 「恋人以上のものが離れて行ってしまった感覚でした」と本人のインタビューも残っている。 「将来を見据えて、なるべく楽に勝たせてあげたかった」「苦しまずに走らせたかった」「勝ちをちゃんと見据えられてなかった」 当時を振り返ったブログ記事では 「出来ればここを何とか楽に勝たせてあげて、 天皇賞に向けて少しでも身体や精神面にダメージを残さない様にしてあげたい。 そしてより万全の状態で天皇賞に向かわせてあげたい」とも残している。 サイレンススズカに鞍上した上村氏は、誰よりもサイレンススズカを愛し、守りたがったがゆえに、本番レースで勝ち切る「勝負師」になりきれなかった。 競馬は勝負の世界。馬は勝たなければいけない。負けて許される馬など、皆認めなかった。 生涯成績113戦0勝のハルウララがメディアに持ち上げられ、大衆から愛された時も、競馬関係者達の声はあまり暖かくなかった。 武豊もその一人だ。 「強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さが��る」 そんな勝つことに拘る騎手、武豊がサイレンススズカと出会うことになる。 3、大逃げの始まり 「サイレンススズカに乗りたい」 そう申し出たのは、なんと武豊からだった。 乗る馬の依頼が来るのを待つのが本来騎手側の立場なのだが、 その慣習を崩した直談判である。 そして香港国際カップでサイレンススズカと武豊騎手は初めてコンビを組む。 ちぐはぐな日程や、馬房内で左回りに旋回する癖を矯正しようとした結果ストレスをため込んでしまうなど悪条件が重なり、レース終盤に他馬に捲られて結果は5着。 「最初から全力で走り過ぎちゃうというか、サラブレッドの本質の塊のような馬だった」 そんな評価をサイレンススズカに下した武豊は大胆な騎乗を思いつく。 「抑えようと思ってもきかない。だったら、前半から好きなように走らせた方がいいと思った。この馬は走っているときがいちばん楽しそうでしたからね。それでも持つんじゃないかな、と」 いかに逃げて力を配分するか。 大逃げという戦法は古くからあるにはあるものの、「勝つための戦術」としては博打感が拭えないシロモノである。 大逃げでの名馬と言えば、どれも個性的で、数は多くない。 破滅的大逃げを幾度となく繰り返し、最後の直線でスタミナを尽かし大失速して馬群へと沈んでいき最下位。そんな滑稽な姿を何度も魅せ、競馬ファン達を楽しませた"ツインターボ" あまりのハイペースでトウカイテイオーらのレース展開を乱し下位に追いやった、大逃げコンビとして有名な"メジロパーマー"と"ダイタクヘリオス" 世界レコードを叩き出したこともある"セイウンスカイ"なども居るに居るが、現在でも常用される戦術とは言い難い。 次走のバレンタインステークスでサイレンススズカはその「大逃げ」をする。 レース序盤の第三コーナー前でサイレンススズカはここまで逃げ離した。 ※左の赤丸にサイレンススズカ。右の赤丸が他の馬達である。 大逃げは最初からハイペースで走るので、最後の直線ではスタミナがあまり残らない。 なので後方馬との差は縮まっていく……はずなのだが、 サイレンススズカは加速する。加速し続け、後方の馬をさらに逃げ離す。 「逃げて差す」 次のレースも大逃げで勝ち、そしてその次のレースも大逃げで勝ち…… 1998年金鯱賞。またもやサイレンススズカ1着。2着との差なんと11馬身。 平地の重賞競走では6例目の大差勝ちであり、これ以降10馬身以上離れての重賞大差勝ちレースは現れていない。 レース後、アメリカから「サイレンススズカを売ってくれ!」とオファーが本当に来てしまうぐらいの圧勝だった。 「あんな体験、普通はできない。(後ろからくる)足音をまったく聞かないままゴールしちゃった���ですから!」と武豊は当時の金鯱賞を振り返る。 この金鯱賞のレースは印象に残るどころか、サイレンススズカが伝説と呼ばれるゆえんのレースとなり、そしてその始まりだった。 次の出るのはG1宝塚記念。しかしここで問題が発生した。 サイレンススズカが宝塚記念に出走するのは急遽決まったことであり、 武豊は同レースに出走するエアグルーヴに乗ることを先に決めていたため、鞍上がいなかったのだ。 そこでなんとか南井克巳氏が乗ることが決定し、武豊とサイレンススズカが敵として戦うことになる。 宝塚記念は芝2200m。 南井騎手は少し抑え気味で慎重に前へと走らせる。最後の直線でもギリギリまで引き付けてから鞭を入れ、そのまま加速しサイレンススズカ1着。 武豊鞍上のエアグルーヴは3着だった。 大差ではないものの、サイレンススズカにとって念願のG1レース初制覇でもあった。 4、最速の証明 毎日王冠はG2レースであり、G1より格が下である。 このレースを勝てば、サイレンススズカがもっとも得意なG1レース条件である「芝2000mの左回り」天皇賞(秋)の出場権を得られる。 しかし当初は調教不足などを理由に、サイレンススズカは毎日王冠への出走を見合わせる検討がされていた。 だがこのレースに二頭の馬が、出走を高々に宣言する。 その馬の名は"グラスワンダー" 「怪物」と騒がれ「JRA史上最強の2歳馬」と評された馬が、故障後の復帰戦にこのレースに出走を表明。 そして"エルコンドルパサー" 年度代表馬を得るために、ジャパンカップで勝つために前哨戦としてこのレースを選択。 両馬共に未だに無敗の外国産馬である。 サイレンススズカ陣営も「これで出走を回避したら『あの二頭に負けるのがわかって尻尾を巻いて逃げた』と言われてしまう」と懸念し始め、この対決を受けることを決めた。 競馬ファン達はこの三強馬による夢の決戦を見逃すわけにはいかなかった。 そして当時のルールでは天皇賞(秋)で外国産馬は出走できない。毎日王冠はこの三強馬が勝負できる数少ない機会なのだ。 こうしてG2という格が下のレースにもかかわらず会場には13万人の大観衆が詰めかけた。 レースが始まり、サイレンススズカは逃げ始める。 グラスワンダーはサイレンススズカの隙を付こうと策を弄し、エルコンドルパサーはそのまま真っ向勝負で立ち向かった。 しかし、サイレンススズカは最後の直線で、いつもの通りに再び加速。 差は縮まらない。二馬身差叶わず、サイレンススズカは1着。 不敗神話を一度のレースで二頭まとめて切ったのである。 「影さえも踏めなかった」 エルコンドルパサーに鞍上した蛯名騎手はそうコメントを残している。 サイレンススズカは6連勝。名実ともに当時の最強馬となった。 サイレンススズカ陣営は「天皇賞(秋)を制したらジャパンカップに挑戦し、そのあとはアメリカへ遠征しよう」とウキウキを隠せなかった。 5、天皇賞(秋)の前評判 サイレンススズカが狙うG1レース、天皇賞(秋) 対抗できるのは前年この天皇賞を制したエアグルーヴぐらいだろうと考えられていたが、 鞍上の関係も考えられ、エアグルーヴは別レースを狙い天皇賞を回避すること���なる。 (※サイコミ掲載の漫画「STARTING GATE! -ウマ娘プリティーダービー 【第15レース-②】特別な1日 ♯01」において、エアグルーヴが「サイレンススズカとは宝塚記念や天皇賞で戦いたい」と言っていたのは、これに由来する) そしてサイレンススズカがもっとも有利なレースにもはや挑む気力がある馬も無く、多くの陣営が競走を回避。 するともはやサイレンススズカに対抗できる馬はいなかった。 宝塚記念でサイレンススズカに11着で負けたもののそれ以外は戦績の良いメジロブライトが二番人気。 同じく宝塚記念で6着で去年の有馬記念を制覇したシルクジャスティスが三番人気。 またまた宝塚記念の出走馬であり、もっともサイレンススズカに近かった2着ではあったが、最後の1着レースがG3でもない「阿寒湖特別」というステイゴールドが四番人気という有様であった。サイレンススズカはもちろん一番人気。オッズは1.2である。 その馬体や体調面は武豊騎手、担当厩務員ともに口をそろえて「一番具合が良い」と言い、 もはやサイレンススズカが負ける要素を探すのは不可能だった。 誰もがサイレンススズカが勝つことを疑わなかった。 だがひとつ、たったひとつだけ不安要素があった。 天皇賞(秋)には都市伝説が、ジンクスが存在したのだ。 1987年にニッポーテイオーが1番人気で勝った後、 天皇賞(秋)にて1番人気の馬は、一度として勝てなかったのである。 3度も1番人気に支持されながら一度も勝てなかった"オグリキャップ" 1着でゴールしたと思いきや進路妨害により18着へと降着し、天国から地獄へ突き落された"メジロマックイーン" 大逃げコンビのメジロパーマーとダイタクヘリオスにレースペースを乱された"トウカイテイオー" 春にメジロマックイーンの三連覇を阻止したものの、スランプに陥りそのまま敗れた"ライスシャワー" パドックで違和感を感じながらもレースに入りし、5着。レース後ケガが発覚し、競走馬を引退した"ビワハヤヒデ" 故障の復帰から立ち直れずにレースに挑み、覇気なく敗れた三冠馬の"ナリタブライアン" スタートを出遅れ、その後の展開もミスしてしまい、鞍上も「最高に下手に乗った」と後悔した"サクラローレル" そのサクラロールを倒して連覇を狙おうとしたが、大逃げ馬(サイレンススズカ)を早めに捕まえようとしてしまい、最後はエアグルーヴにクビ差で競り負けた"バブルガムフェロー" 府中には、魔物が住んでいる。そう言われても仕方がなかった。 1998年。 第118回天皇賞 11月1日1枠1番で、1番人気はサイレンススズカだった。 6、"沈黙の日曜日"~Sunday Silence~ レース開始。サイレンススズカは抜群のスタートで快調に飛ばし、いつもの大逃げ。 サイレントハンターも大逃げ戦法を取るが、サイレンススズカとの差は10馬身差。 最後方ローゼンカバリーとは6秒のタイム差が離れ、 全ての馬を映さなければならない中継カメラはめいっぱいズームアウトし、馬が小さすぎて見えないほどになった。 ※左の赤丸がサイレンススズカ。右の赤丸が最後方の馬。 「息が入り始めて、いいぞ、いいぞ、と。本当にいい感じだった」 と武豊はレースを振り返る。 大欅を通り過ぎ、サイレンススズカは一度ペースダウンする。 ここで一息入れて、再加速しぶっちぎる気だろう。いつものサイレンススズカだ。 しかし、そのまま失速する。 サイレンススズカは左前足を宙に浮かせ、三本脚で立ち止まっていた。 どよめく会場、そして叫ぶ実況。 「サイレンススズカ!! サイレンススズカに故障発生です!!!」 歩く馬足で、コースの大外によれるサイレンススズカ。 それを抜くサイレントハンター、オフサイドトラップ、ステイゴールド、残りの馬たち…… 「なんということだ!4コーナーを迎えることなく、レースを終えた武豊!! 沈黙の日曜日!!」 そのまま泣き叫ぶ会場の歓声を聞きながら、レースを続ける馬達。 サイレンススズカは故障しながらも、鞍上武豊を落馬させず、馬群を避け安全な場所に運んでいった。 この事を武豊は「サイレンススズカが僕を助けてくれた」と語った。 ケガの内容は結果は左前脚の手根骨粉砕骨折。 直ちに予後不良の診断が出され、安楽死処分が下された。 1998年 11月1日 サイレンススズカ 永眠 結局この天皇賞(秋)はステイゴールドとオフサイドトラップが競り合いながら、決着がつく。 1着はオフサイドトラップ。史上初の7歳での天皇賞優勝。 「不治の病」と言われている屈腱炎を3度克服した高齢馬が念願であるG1レースを制覇し、ひとつのドラマを作った。 だがその偉業は、残念ながら無下に扱われてしまう。 1998年の天皇賞(秋)は、サイレンススズカが、最速の馬が止まってしまった悲劇のレースとして刻まれた。 粉砕骨折の詳しい原因は不明である。 武豊は「原因は分からないのではなく、無いんだ」とレース後マスコミに答えた。 レース後の武豊の落ち込みは相当なものだった。 同レースに出ていたテイエムオオアラシの鞍上である福永騎手は 「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。 その夜、武豊は知り合いとワインを飲み明かした。 「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。 夢であって欲しいな、って」 サイレンススズカの死、それは夢を見た競馬ファン達にとって、最大のトラウマになった。 サイレンススズカはまさに夢のように走る馬だった。 1600mのスピードで2000mを制せる、最速の中距離馬だった。 競馬に絶対はない。だからファンは"たられば"を夢想する。 もし、サイレンススズカがケガをしていなかったら、どうなっていただろうか。 ジャパンカップの2400mも軽々と走っただろうか。海外に遠征しても、並み居る強敵達を圧倒しただろうか。 種牡馬になったら、どんな子供が生まれただろうか。 そんな夢想をしてしまうのは競馬ファンだけではなかった。 武豊である。 自ら鞍上を名乗り出て、サイレンススズカ��未来に期待し、夢を叶えようとした武豊は、 あろうことかその夢が崩れ落ちる瞬間の馬に、跨っていた。 ジョッキーにとって、一番嫌な、最悪の瞬間。 その瞬間のサイレンススズカに武豊は乗っていたのだ。 2007年になるまで武豊はサイレンススズカに深く言及することはなく、 2013年のインタビューでも、事故の話になると途端に拒絶し、笑顔を引っ込めた。 サイレンススズカの事故、その絶望の感触は、武豊の心の中へと確かに刻まれている。 ウマ娘 プリティーダービー第1Rにて終盤、トレーナーは問いかける。 「日本一のウマ娘とは何か?」 それはG1で勝つことだろうか。 日本競馬界の象徴であり最大級の目標である東京優駿、日本ダービーで勝つことだろうか。 ファン投票で出場馬が決まり、1年を締めくくる大レース。数々の名勝負が繰り広げられた有馬記念で勝つことだろうか。 この問いに擬人化されたサイレンススズカはこう答えた。 「夢……見ている人に夢を与えられるような、そんなウマ娘」 このセリフを聞いてしまった競馬ファン達の心境は如何ほどのものだったろうか。 サイレンススズカ。 日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せてしまった馬である。 7、それでも馬達は走り続ける。 サイレンススズカと戦い敗れたエルコンドルパサーは1998年のジャパンカップを制し、海外への遠征を決めた。 「国内に敵はいない」とのコメントは事実その通りであった。 そしてその海外遠征でエルコンドルパサーは大活躍する。 ヨーロッパ最大の競走の一つ、凱旋門賞では惜しくも2着だったが、現地メディアからは「チャンピオンは二頭居た」とその健闘を称えられるほどだった。 2018年現在、国際的に競走馬のレーティング指数を決める「インターナショナル・クラシフィケーション(旧称)」や競走馬の能力を数値化する「タイムフォーム・レーティング」など、どちらもエルコンドルパサーは日本調教馬として史上最高の数値を保持している。 引退後に現れたディープインパクト等の名馬達、それらを差し置いての高評価を未だにエルコンドルパサーは維持したままなのだ。 そのエルコンドルパサーを相手に、国内レースにて唯一勝ち星をあげていたサイレンススズカの評価も未だに止まることがない。 翌年、1999年の天皇賞(秋)レース。これを武豊は再び走り見事1着でゴールインを果たす。 しかもレース記録を塗り替えるレコード勝ちだった。 去年のリベンジを果たした武豊はレース後、 「ゴールの瞬間、まるでサイレンススズカが後押しをしてくれたようでした」と語っている。 サイレンススズカが後押し、天皇賞(秋)をレコード記録で1着を取った馬、 その馬の名はスペシャルウィーク アニメ「ウマ娘 プリティーダービー」の主人公である。 さらなる余談ではあるが、天皇賞(秋)にかかった一番人気のジンクス、呪いは 2000年にテイエムオペラオーが払拭する。 その後に登場する名馬達も、天皇賞(秋)において1番人気で1着を取れるようになっていった。 名馬達を襲った忌まわしき呪いは完全に掻き消え、今は日本競馬史の一つとして、ただ記されているのみである。
https://ch.nicovideo.jp/yumemura/blomaga/ar996682
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エドワード王 四巻
昔日の王の一代記、四巻
物語
エドワードは、反抗的に母と相対していました。「僕は病気じゃないし、赤ちゃんじゃない。僕は自分一人でここにいられるよ。ミスだっていらない」モラーリンの目に危険な光が現れました。アリエラは唇を固く結びました。「あなたは彼を気にかけるのです、エドワード」
「はい、母さま」エドワードは憮然として言いました。
「おいで、���さん。ミスはお仲間のいらない王子の扱いを知っているよ」三人の大人たちは、彼にはわからない冗談で苛つかせる時のやり方で、少し笑いました。
小ぬか雨のお��気で、エドワードは鼻風邪をひいていました。訪問に行くだけでも今日は外出すべきでないと彼の母が決めたのです。モラーリンは彼の味方をしましたが、アリエラが置いていくと主張すると、両手を挙げて、エドワードに片眉を上げて見せ、諦めの仕草をしました。エドワードが仲間の中で一番好んでいないミスが、一緒に残ると申し出ました。スサースの方がましでした。ミスは―みすぼらしい見かけをしていました。厩の小僧のような。それに、いくら仲間内と言っても、生意気でした。エドワードはもうしばらくぶすっとして黙っていました。ミスは箒を持ってきて外に掃き出し、上の部屋から土埃を掃き寄せながらエドワードがいた部屋に入ってきました。本当には留まる場所もないのに留まっていることに、一体何の意味があるのでしょう?エドワードは憮然としているのに飽きてきて、箒を取りに行って、掃き掃除を手伝いに行きました。
「ミス?」エドワードが言いました。「クリスタルタワーに行ったことある?」
「あるよ。最初は危なっかしい場所だけど、そのうち慣れるよ」ミスは箒に力を込めて、風切り音をさせました。ここでは掃き掃除は楽しい類のことでした。そこには台の端がありませんでしたから、ただ土埃と落ち葉を横に払うだけでいいのです。一番高いところから始めて、好きな方向に進められます。
「箒を使うのがとても速いんだね、ミス。僕は自分側の半分も終わってないよ。そこには僕みたいな子が他にいる?」
「ああ、子供が何人かいると思うよ。大抵もう少し年上だろうがね。俺が掃き掃除が素早いのは当たり前なんだ。お前の年頃だった時、王様の厩で親父に大急ぎで掃き掃除をさせられたからな。俺はお前みたいにぼんやり夢見がちで、よくしゃべる子供だった。そのことで親父は俺を叩いたよ。だから、早くすることを覚えたんだ」エドワードは埃を舞い上げながら素早く掃きました。「そうじゃない、坊主。見てな。とにかく、急がなくてもいいんだからな、これは俺の癖なんだ。もしお前に指一本でも触れたら、モラーリンが俺の頭を皿の上に乗せて出すだろうよ。俺の親父は、けっ、あいつはいつだって…まあいいや、あいつは気難しいやつだったんだ。ノルドさ」
「お父さんが?」エドワードはミスを見つめましたが、ミスは彼が会ったことのあるダークエルフにとてもよく似ていました。そう多くはありませんでしたが。ダークエルフたちはダガーフォールには来ませんでした。ゲラルドが彼らを追放したのです。でも、他の国の王宮に旅をする数少ない機会で、何人かに会いました。そして、ファーストホール���には、モラーリンとミスの他にも何人かいました。「赤い髪だった?」ミスの髪は暗い赤色でした。ゲラルドも赤い髪でした。「モラーリンの厩の世話をしていたの?」ミスが厩の小僧に見えることに疑いはありませんでした。でも、エドワードは謙虚なトーンを保って話しました。ミスは毒舌で…ミスが粗野だったと彼が不平を言っても、両親が同情してくれないだろうことを、エドワードは知っていました。
「確かに赤毛だったよ。あいつに似たのかもな…でも、混血のエルフと人間の子はだいたいダークエルフになるんだ。そして、モラーリンはその時は王じゃなかったし、そう思われてもなかった…それに、こりゃ俺が生まれたブラックライトの話だ。その頃は、モラーリンの兄さんがエボンハートの王様だった。彼は王様を訪ねにやってきて、モラーリンを一緒にいさせたんだ。厄介ごとから避けるためにって彼は言ってたな」ミスはにやりと笑いました。「彼がそう言うのを聞いた時、俺はニヤッと笑ったもんさ。そして、その子が目の端で俺を見てるのがわかったけど、彼は気付いてなかった。俺は土埃か、それ以下のもんだった。彼の兄貴は財布を弟に投げて、街に行ってナイフの手入れをしてもらって来いって言った。親指をぐいっと立てて俺を指して、道案内をしてやれって」
「モラーリンは店を見つけるのにお付きはいらないって言って、王子たちがするように大股で歩いて行ったよ」ミスはエドワードに訳知り顔でにやりと笑って見せました。でも、その笑顔はよそよそしいものでした。エドワードが少し笑い返すと、ミスは続けました。「われらの王が俺を睨み付けるもんだから、彼のあとを着いて行ったよ。モラーリンは俺に目もくれなかった。4つほど辻を進んで、波止場を下って、そして俺が店の場所を教えようとしたら、俺を船着き場で突き飛ばしたんだ。もちろん俺はレビテトが使えたけど、びっくりしちまって大きな水しぶきを上げて落っこちた…周りのやつらはみんなロバみたいに笑ったよ。水から出て、まっすぐ店に行って、彼を待った…でも彼は来ない。やっと姿を見せた時、俺は彼の財布を取ってやった。なくなったことにも気づいてなかったよ。モラーリンが金を払えなかった時になってやっとだ…鍛冶屋に自分はエボンハート王の弟だって言ってさ…鍛冶屋はただ笑って言ったんだ。『そんじゃおれはアーチマジスターだ』ってな…それから鍛冶屋が衛兵を呼ぶと、3人やってきた。まあ、モラーリンは今みたいじゃなかったから―今だったら衛兵3人なんか準備運動にもならないだろうが―、それでも、その時でも今より早かったんだ。あんまり素早く逃げ出したもんで、俺は戸口のところでもうちょっとでぶっ倒されるとこだった。彼はさっさと上手に衛兵を巻いた。鎧のせいで遅くなるからな。俺は、公園の生垣の迷路でしゃがみ込んでる彼を見つけた。息も絶え絶えになってたが、、それでも俺はちょっと離れたところに立って、そりゃあいやらしく宮殿に戻るお付きは必要かって聞いたんだ。戻ることなんか考えてなかったんだ!俺は金を持って後ろも振り返らずに逃げようとしてた、ほんとだぜ!だけど、思いとどまったんだ。俺は高貴な生まれじゃないが、誇り高く生まれたんだって」
「彼はちょっとの間俺を睨み付けて、息を整えてから目をぐるっと回して、笑い始めた。あの笑い声さ。王子だろうが何だろうが、その時俺は彼のことが気に入り始めたんだ。笑い終わったか笑い終わらないかのうちに、俺たちはおしゃべりを始めた。俺は戻りたくないって話した。そうしないって決めたことも。『王子は怒られませんよ、王子。厩の小僧は怒られるけど』って言ったら、必ずしもそうじゃないって彼は言ったけど、要点は抑えてた。俺がお付きだったんだから、自分は兄のいうことを聞いて一緒に行かなきゃいけなかった、それと、自分の名前はモラーリンで王子じゃない、って彼は言ったよ。その時からずっと一緒にいる…だいたいはな」
エドワードは慎ましげに微笑みました。なぜミスが逃げたかは理解できましたが、モラーリンが一緒に逃げた理由はわかりませんでした。盗まれたお金のことを兄に話すのが怖いのでない限りは。エドワードはモラーリンが誰かと対峙して、失敗するところを想像しようとしてみました。「僕もそんな風に勇敢だったらいいのに。君やモラーリンみたいに」
「なんでだ、お前は勇敢だよ。それに、お前の勇気は他の部分と一緒に育ってる」
「塔にはハイエルフの子供しかいないの?」
「おおかた他の子もいるだろう。ダークエルフが何人かは確実だ。自分と同じ種族の子供が恋しくなったのか?」
エドワードは首を振った。「人間の男の子たちはなんでかあまり僕を好きじゃないんだ。ハイエルフの子たちだって…」彼の目に突然涙が浮かび、彼は顔を背けました。でも、ミスの声は予想外に穏やかでした。「塔に行きたいのかと思ってたよ」
「行きたいよ。だけど―」
「一人ぼっちになるもんな」
エドワードは頷きました。
「そりゃ、向き合うにはつらいことだ」
「ミスはそこに一人で行ったの?」
「いや、モラーリンと一緒だったが、彼はお前より年上だった。結構な。大人だったよ、ほんとのところ。当時あそこはハイエルフの生徒しか取らなかったんだよ。だけど、モラーリンはその話を聞いて、行きたいって言ったんだ。その時にはもう一緒にいた、アリエラ以外の俺たち7人はな。戦うにはちょうどいい人数だった。モラーリンは今使ってるドラゴンの剣をもう持ってて、一緒に行ったドラゴンの『トゥース』は…いつかお前に話してやるのを思い出させてくれな…もう有名な戦士だった。それに、俺たちも役立たずじゃなかった。だけど、彼は俺たちが呪文を使うのをもっと上達させられると考えたし、タワーはそれを学ぶところだ。まあ、招待状がないやつは塔の近くにも行けないんだけどな。誰もだぜ!それがどこにあるかってことも、誰も教えてくれないんだ。でも、行っちゃいけないとこは教えてくれた。それで、彼はそこに行ったんだ。一人でな。ある朝彼がいなくなってて、待っていろって書き置きがしてあった。だから俺たち待ったよ、このファーストホールドで。二週間留守にしてた。そしてある夜、舟をこいで戻ってきた。彼はただ、彼らに受け入れられたってだけ言っ��、それ以上は何も言わなかった。だけど、俺に一緒に行ってくれって頼んできた」
「『俺を呼んだのか?』『まあ、彼らが受け入れたのはダークエルフ一人だけなんだ。もう一人ぐらい増えたって大丈夫だろう』って彼が言った。それで、俺たちはそこに行って、もしアーチマジスター本人が玄関で俺たちに会って、どういうことか説明してくれって聞かれたらどうしようって思ってた。岩に変身したかったよ!厩の馬糞だったらってどれほど思ったことか!そして俺はもうすぐ願いが叶うと思った。だけど、モラーリンが本当に礼儀正しく、これがお話した友人だ、アーチマジスターが彼の能力に興味を示していたって。それで、自然と、自分の目で確かめたくなったんだ…」
「だけど、アーチマジスターは本当に興味を持ってた。ほら、彼らは鎧も着ないし、杖と短剣以外は持たないだろ。彼らは金属製品は呪文に差し障ると考えてる。だけど、モラーリンは鎖かたびらを着てても、どんな片手武器を持ってても、うまく呪文を唱えられる。それに、俺は革の鎧と、ショートソードの方が好きだが、扱いにくいサーベルも同じように使うし、呪文を唱えられる。事実、彼らは俺より、モラーリンについて考えてた…彼は玄関の外で野営してた。そして、ただそこに座ってる彼をどかそうとしたんだ!彼らはありったけの魔法をかけて、トロールの衛兵も全部けしかけた。でも何も起こらない。彼はトロールたちをのして、回復するまで放っておいた。杖で殴り掛かろうものなら、彼の剣で全部はじき返した…それに呪文は、彼の髪一本逆立てもしなかったんだ」
エドワードはあんぐりと口を開けました。「どうやってそんなことしたの?彼は―」
「まあ、仕掛けがあったんだ、言ってみればね。彼はウィローには当たり前のことをちょっと使ったんだよ。ほら、ウィローは違うからさ」
「ウィローが魔法を使えるなんて知らなかった!」
「えっと、彼女は魔法の力を持ってない、普段はね…だけど、彼女に魔法をかければ、それを吸い取ることができるんだ。もちろん、彼女には何の役にも立たないよ。だって、手に入れたところでその使い道を学ぶことは絶対にできないもんな。それがなくなったら、もう取り戻せない。だから彼女は使えない。モラーリンが彼女の中にそれを保たせて、訓練をするまではな。まあ、モラーリンはウィローがやってることをよく理解してた…ウィローにとっては当たり前のことが、モラーリンの魔力にどう影響しようとね。だから、モラーリンはそこに座って、彼に向けられたすべての魔法の魔力を吸い取って、大きなシールドの魔法に変えたんだ。彼らは怒り狂った」
「だけど、彼はアーチマジスターには負けるかもって言ってたよ」エドワードはミスの作り話ではないかと疑いました。
「そりゃ、やっと彼が来た時、彼も同じだった。だけど、残りの者が束になってもできなかったんだ。そして、モラーリンが求めているのは、彼らとともに勉強することだけだ。俺たちは見ものだったよ、全員白と金色づくめの中で、たった二人のダークエルフが装備品に身を固めてさ。俺は水から出ちまった魚みたいな気持ちだったが、モラーリンは彼らが何を言うか興味津々だった…彼らが自分たちの言葉に固執するのは確実だ。最初は言葉少なだった。2週間ぐらい経ってから、アーチマジスターに2日後に戻って来ると伝えるように俺に言った。そしたら、彼はシルクと一緒に戻ってきたんだ!もちろん彼らにはカジートの話はしてたよ…そして、いくつか質問も受けてた」
「アーチマジスターは馬鹿じゃない。彼はただシルクを見つめてた。あいつは大きな音で喉を鳴らして、彼に擦り寄って言った。『ご機嫌いかが、アーチマジスターちゃん』って。アーチマジスターはシルクを押しやって、囁き声で言ったんだ。『あと何人だ?』
『二人です、閣下』
『彼らの種族は?』
『ウッドエルフです』
『ただのウッドエルフだね。普通の、当たり前のウッドエルフだろうね。角も、蹄も、尻尾もない』
『はい、閣下。ああ、そのうちの一人は非凡な吸収能力と珍しい特性があります。他はただの吟遊詩人です』
『よろしい。吸収能力がある一人を連れて来なさい。吟遊詩人は求めていない!彼らは本当のメイジではない』
『さて、ご寛大なことです、閣下。ですが、吟遊詩人の兄は、私は彼らの両親に、彼らを引き離さないと誓いを立てております。ですから、我々の3人になろうかと』
『彼女の兄』
『はい、双子のペアです』
『両方とも連れてきても良い』
「それで、3日後に彼は双子『と』スサース『と』奴隷を連れて戻ってきた。アーチマジスターは彼らを見て、全身で跳ねるような感じだった。だけど、本当に静かな声で言った。『ダークエルフ、双子のペアとは、双子が2組という意味だったのかね?この二人が双子だと言うつもりかね―この二人が、双子だと?!』まあ、そうだな、モラーリンがそれを試さなかったのは残念な気もするが、彼は言った。『いいえ、閣下。双子はビーチとウィローです。アルゴニアンとノルドは有望な入門者ではありません。彼らは標本です。あなたのコレクションにどうぞ。彼らのような者はお持ちでないでしょうから、私は―』
『そう思ったと。私はドラゴンも持ち合わせていない!次はそれを持ってくるつもりかね?』
『ああ、はい、できますとも。お望みですか?』
『冗談だと言ってくれ』
『まあ、そうですね、お約束はできません。とても時間がかかるでしょう、一年かもしれませんし、ですが―』
アーチマジスターは目を回して天を仰いだ。『ありがとうございます、すべての母よ。少なくとも一年は準備に充てられる』って彼は囁いた。」
「マッツとスサースを標本にすべきだとは思わないな。彼らは人だもん。エルフじゃないとしてもだよ」
「ああ、彼らはスサースが面白い治療の呪文を使えるのがわかって、入門させたよ」
「でも、マッツは?」
「マッツは何も気にしないからな。マッツは魔法の素質をこれっぽっちも持ってないから、入門生にはなれなかった。とにかく、あいつは毛嫌いしてるんだ。衛兵たちとゲームしてたよ。研究されてない時はな。やつは興味深い魔法の耐性を持ってるようだった。とにかく、それ以降入門者はハイエルフだけじゃなくなったんだ。そしてすべての人間がメイジの道をたどるわけでもない。」
「僕はそうなるよ。僕はアーチマジスターみたいになるんだ」
「ああ、そうだな、その通りだ」モラーリンの声が軽やかに彼の後ろから聞こえました。「私はロバの耳を三分の一に切って、肌をサフランで染めよう。やつらの毛を白く染めて、足元まで伸ばすんだ―」モラーリンは彼を高く抱き上げました。「調子はどうだい?アリエラ、言っただろう、この子はぜんぜん病気じゃない。よかったな、アーチマジスターが戻ったんだ。明日一緒に塔に行くよ」
『一緒に』はモラーリンとエドワードだけでした。アリエラはエドワードの風邪がうつって、二人は彼女にベッドにいなさいと言い張る、ちょっとした楽しみを手に入れました。モラーリンが���ぐ小さなボートで川を渡り、昼間に少し休憩を取って、ほとんど一日中歩きました。二人が塔に着いたのは夕方で、夕陽がきらめいていました。眼下に広がる海さえも、赤く見えました。そこは、郊外の静けさに包まれていました。
「高いねえ」エドワードが立ち止まって見上げました。
「塔はそういうものだ」
「ほんとに――」エドワードは口ごもりました。このやり方で始める質問は、このエルフから満足な答えを引き出せないのです。
「ミスがあの話をしたのかい?あの話を磨き上げるのに、彼には10年時間があった。あの塔みたいに光ってたに違いないね」
「どうやって出会ったのかも教えてくれたよ」
「そうだと思った」
「どうして彼と一緒に行くことにしたのかよくわからないんだ。彼は泥棒で、厩の小僧だし、あなたは王子だったのに」
「お前は3つの素敵な理由に名前を付けたね、王子と」
「絶対本気で答えてくれないんだ」
「真剣な問いかけなのか。なるほど、よろしい。私はミスの目を通して自分自身を見た。そして自分が見たものを嫌ったんだ。無神経ないじめっ子で、臆病で、少年にも人間にも王子にもふさわしくなかった。お前はなぜ逃げるのかな、王子?」エドワードは静かに頭を抱えました。「そうじゃない、答えを求めているんじゃないんだ。おいで、日が暮れてきた」モラーリンは彼の手を取りましたが、エドワードが振り払いました。モラーリンが臆病者なら、エドワードは何になるのでしょう?かつてモラーリンを締め出し、彼が要求し、勝ち取った塔の玄関の扉を見ました。エドワードにはそんな風にはできませんが、少なくとも、彼は招かれた客人として、彼自身の足で、一人で中に入ることはできます。
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【かいわいの時】推古天皇二十一年(613)十一月条:掖上池・畝傍池・和珥池を作る。又難波より京に至る大道を置く(『日本書紀』)。
7世紀初めの推古朝には、遣隋使を派遣し、中国を手本として国の整備が進められ、上町台地の先端に近くに難波津が整備されました。推古15年(607)に遣隋使として派遣された小野妹子らの帰国とともに、翌年隋から裴世清らがやってきました。裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
ところが、遣隋使から中国では幅広い直線道路が整備されていることを聞いた推古らは、道路の整備が急務であると考えました。『日本書紀』推古21年(613)には、「難波より京に至る大道を置く」と記されています。この京とは飛鳥の小墾田宮のことです。大道とは幅の広い直線道路でしょう。裴世清の来朝から5年後のことです。
この推古21年に置かれた大道とは、難波宮から南へ直線的にのびる「難波大道」と、それに直交する竹内街道と一般に考えられてきました。しかし、発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。
竹内街道ではなく、渋河道・龍田道・太子道(筋違道)のルートこそ推古21年に設置された大道ではないかと考えられます。このルート沿いには7世紀前半に建立された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺などの寺院が建ち並びます。そしてこのルートならば、それまで利用していた大和川に沿ったルートでもあります。しかも、大和と河内のあいだの峠越えとして、もっとも高低差の小さいルートでした。四天王寺、渋河、斑鳩という聖徳太子(厩戸皇子)に関連深い地を通ることから、このルートを整備したのは聖徳太子だったと考えられます。
壬申の乱の際にも大坂道とともに西からの攻撃に対する大和の守りの要となり、天武8年(679)には、龍田山・大坂山に関が置かれています。飛鳥時代には、龍田道が最重要路だったことがわかります(安村俊史)。柏原市立歴史資料館・館長の連載コラム「龍田古道(2)飛鳥時代の龍田古道」2022より=図も。
(図)「7世紀前半の難波から飛鳥への道」
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杉山厩舎2022年5月14、15日
感動デアリングタクト!!2勝して厩舎は絶好調!! 杉山厩舎LINEスタンプ line.me/S/sticker/13219494 #杉山厩舎 #オフィシャルだよww 5月14日(土) 東京 07R ニューダイアリーズ 3歳1勝クラス ダ2100m 牡3 M.デムーロ 3着3人 5分にゲートを出ると好位で折り合いに専念して追走。 道中は折り合いもついていたし、3角過ぎから徐々に仕掛けると、直線は先に抜け出した勝ち馬を追い掛けたが、逆に差を広げられてしまい3着。 最後はいっぱいになってしまったが、勝ち馬を負かしに行った分の負け。昇級戦として内容は悪くなかった。 スピード決着にも対応出来たし、次に繋がる競馬は出来たと言える。 このクラスで留まるような馬ではないし、次も好走を期待したい。 07R アトレイユ 3歳1勝クラス ダ2100m 牡3 長岡 禎仁 14着14人 ゲートの出はまずまずで、無理せず中団後方を追走。 脚抜きの良い馬場でスピードに戸惑ったか、道中の手応えも怪しかったし、直線手前でいっぱいになってしまった。 昇級初戦でこれだけ時計の速い馬場だとちょっと厳しかった。 これがキッカケになって、もう少し時計の掛かる馬場であればもっとやれるはず。 ちょっと使い詰めでもあるし、ひと息入れてリフレッシュした姿で見たいものだ。 年を重ねて良くなるタイプだし、まだまだこれからだ!! 08R フォティノース 4歳上1勝クラス 芝1600m 牝4 松若 風馬 2着3人 ゲートは普通に出てスムーズに先行出来た。 多少、頭を上げたりハミを噛んだりしていたが、手応えにも余裕はあったし、直線外に持ち出して追い出すとしっかり脚を伸ばして2着。 ここ最近は高倉騎手が付きっきりで調教している成果が出た一戦。 気性的に難しいところのある馬が良い形でレースをして好走出来たことは今後に繋がることは確かだろう。 まだまだ上のクラスを目指せる馬だし、もっと頑張って欲しいところだ。 11R クリスティ 京王杯スプリングC 芝1400m 牝5 松若 風馬 12着11人 ゲートは上手く出たが、一完歩目が遅く、なおかつ内の馬に���つけられてしまい中団からの競馬。 道中は非常にスムーズだったし、直線は内を突いて一瞬は伸びかけたようにも見えた。ただ、あの位置取りのまま他の馬とも脚色が同じになって最下位入線。 スタート直後の不利はそんなに気にするものではなかったらしいが、1400のペースだとテンに置かれてしまったそうで、距離はもう少しあった方が良いのかも。 デキは確かに良くなっているし、あとはいかに良い位置を取れるかに掛かっている。 良い走りをする馬だし、気持ちの問題なのかもしれないが、もう一度ぜひ復活して欲しいものだ。 まだまだ諦められない。 中京 09R ガイアフォース あずさ賞 芝2000m 牡3 松山 弘平 2着1人 ゲートは5分に出ると馬なりで2番手を確保。 折り合いが付きながらも行きっぷりも良かったし、非常にスムーズな走り。 ただ、強いて言えば直線手前のところであそこは馬なりで差を詰めていけなかったところを逆に離されてしまったのが敗因。惜しい2着。 ただ、故障もあった馬だし緩いのも確かで、良くなるのはまだ先だが、なんとか菊花賞に間に合って欲しいところ。 そう考えるとここは勝っておきたかったが、内容は悪くなかったし、ここから少しずつ良くなっていって欲しい。 菊花賞に間に合わせられるか。ここは杉山調教師の腕の見せ所だ。 10R テイエムマグマ 三河ステークス ダ1800m 牡4 高倉 稜 2着5人 好スタートから楽に先行して2番手を確保。 前が離していたこともあって実質の単騎逃げのような展開になったのも良かった。 直線はいったんは先頭に立ったものの、勝ち馬には及ばず2着。 この馬が準OPで好走している姿を見るのはなんとも感慨深い。 去年一年かけて1勝クラスを卒業し、本当に一戦毎に力をつけてきた。 今は本当にデキが良いし、スタートしてからの行きっぷりの良さが好走の要因に繋がっている。 中京で3勝している中京巧者だが、今の行きっぷりの良さならば東京のマイルもこなしてくれそう。 コース替わりと距離短縮でどういう走りを見せてくれるのか。こなすようであれば、この先の走りが非常に楽しみになることは間違いない。 12R レーヴリアン 4歳上2勝クラス ダ1200m 牝4 ▲服部 寿希 6着10人 ゲートの出は悪くなかったが、一完歩目が他の馬の方が速く中団くらいの競馬になってしまった。 それでもすぐにリカバリーできて、先団を見ながら楽に追走出来ていたし、4角の手応えもまずまず。 ただ、直線は少し狭いところに入ってしまい、もろに追い出しが遅れて6着。 馬自体の調子が良かったのは確かで、追走に余裕があったのだから4角で勝負をしていたら上位争いも可能だったのではないか。 その辺の勝負勘は乗鞍の多いジョッキーとの差か。 もう少しスムーズな競馬と今の状態をキープできるのであれば、次走での巻き返しを期待したい。 服部騎手も含めて奮起を期待。 新潟 02R バトルキャット 3歳未勝利 芝1800m 牝3 西村 淳也 1着3人 ゲートの出はまずまずも一歩目が遅かった。 中団あたりにいたのだが、ハミを噛んで掛かっていくと2、3番手あたりまで上がって行ってしまった。 それでも向正面過ぎには我慢が利いて、先団の内々で上手く脚を溜めることが出来た。 直線は、馬群の間から楽な手応えで抜け出すと最後まで脚色衰えることなく1着でゴール。 ここは正直メンバーが楽だったものの、減量騎手騎乗の2着馬には最後まで詰められることなく、思っていた以上の走りを見せてくれたのも確か。 それでも、馬はまだまだ若いし、本当に良くなるのはまだ先だろう。 この時期に勝てたことは評価できるし、今後の活躍に期待したい。 5月15日(日) 東京 09R トウシンモンブラン テレ玉杯 芝1800m 牝4 三浦 皇成 1着5人 5分のスタートから内を見ながら中団外目を追走。 行きっぷりも良く、折り合いもついて非常にスムーズな走り。 直線は馬場の良い外目を通って一目散に前を追い掛けると、内の馬との競り合いを制して1着でゴール。 使いつつのタイプかと思っていただけに、休養を挟んだことでこちらの思っていた以上に馬が良くなっていたのだろう。 また、馬場の良いところを通った三浦騎手の好騎乗が光ったのも確かではある。 今回、休み明けからいきなり結果を出せたし、負かした相手も骨っぽいところが揃っていたので、これなら次はマーメイドSで一発を狙ってみてもおもしろそうだ。 期待したい。 11R デアリングタクト ヴィクトリアマイル 芝1600m 牝5 松山 弘平 6着5人 ゲートの出は速く、楽にポジションを取ることが出来た。 掛かることもなく上手く流れにも乗って、1年ぶりのレースとは思えない落ち着き払ったレースぶりにこの馬の成長を垣間見る事ができた。 ただ、残念だったのは最内1枠1番に入り、馬場の良いところを走らせてあげることができなかった事。 2着のファインルージュと同じような位置取りにいて、上がりも着差もコンマ2秒差。 4角でソダシの後ろにつけながらも、そこで我慢出来ずに内に進路を選んだ松山騎手を攻めることはできないが、あそこでワンテンポツーテンポ我慢してソダシの後ろから直線追い出しにかかることが出来ていたのであれば、ソダシの外から脚を伸ばして2着争いに加わわることは出来ていたのではないか。 また、4角で馬が一瞬反応しなかったことで思うようなポジションを取れなかったのは、休み明けが影響していたと言わざるを得ないだろう。 それでも勝ち馬からコンマ5秒差の6着という結果は、負けて強しの内容であったし、この馬のポテンシャルの高さを再認識できたことは間違いない。 枠順がもう少し外だったら。直線で外に持ち出せていたのなら。 たらればを言い出したらキリがない。ただ、デアリングタクトがそれだけの走りを見せてくれたからこそ言いたくなってしまうのである。 確かに結果は残念だったが。繋靭帯炎という非常に難しい故障を乗り越えてレースに戻ってきたデアリングタクト。 それだけでも感無量だろう。 あと欲を言えばもうひとつ。 G1勝利という大きな勲章を加える走りを見せてくれることを願うだけである。 それは杉山厩舎の責務であるとも言えそうだ。 あとはとにかく無事に。 11R ミスニューヨーク ヴィクトリアマイル 芝1600m 牝5 M.デムーロ 10着14人 まずまずのスタートだったが、行きっぷりも良く手応え十分の走り。 中団あたりに位置してポジションとしては悪くなかったと言える。 ただ、欲を言えばもう少しペースは流れて欲しかったし、さらに言えばもう少し雨が降って時計の掛かる馬場になってくれればこの馬の展開になっていたはずだ。 それでも、直線は内に進路を取りながらもこの馬なりにジワジワと脚を伸ばして10着。 状態は本当に良かったし、今持っている力を出し切ってくれている。 G1の壁には跳ね返されてしまったが、力のあるところは見せてくれたし、今後の重賞での活躍を期待したい。 2022年 芝 (9-7-9-4-4-36)69 ダ (7-4-10-8-8-32)69 障害(0-0-0-2-0-2)4 合計(16-11-19-14-12-70)142 TOTAL 芝 (84-67-66-61-62-458)798 ダ (75-91-75-75-85-551)952 障害(6-3-5-4-2-20)40 合計(165-161-146-140-149-1029)1790
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「あなたの好きな人を紹介して下さい」(くれたけ#177)
毎月、くれたけ心理相談室からのお題にお答えするコーナー。 今回は、「あなたの好きな人を紹介して下さい」(くれたけ#177)です。 何人か好きな人物はいますが、最も心理カウンセリングの分野に近い方を今回ご紹介させて頂きます。 私の好きな人はずばり、こちらの方になります。 聖徳太子さんになります。 ※ちなみに、聖徳太子の描かれたお札は全部で7種類あるようです。 正確には、「聖徳太子」というお名前は功績を称えた称号のようなもので、 現在の歴史の教科書には、本名の「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」もしくは、その略「厩戸王」(うまやとのおう)になっているそうです。 聖徳太子といえば、「10人もの人の話を同時に聞いた」という伝説がありますね。 脳科学的には、人間が同時にマルチタスクを行えるのは、3つまでとされておりますので、 この時点では、聖徳太子が人間だったのかどうかは怪し…
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グローバルDSでも、日本DSでも、日本≠地球の始まり終わりの光闇の起点であるという認識を持つならば糞も味噌も同じ。最低でも、善玉悪玉が入りこみ捻じ曲げられた厩戸皇子時代まで遡らないといけない。何故ならば、今の日本においても、【和】というものが、先人から深く霊的に継承されているから。 日本DSは、唐新羅百済のアーリア漢人、三国の大陰謀を企てたのが百済という認識。新羅百済は、巷では善悪区別しているが、性質はどちらも天の邪鬼。厩戸王一族皆殺しにした側は日本DS。何故ならば、憲をねじ曲げて人治の院生を敷いて、嘘偽りから始まったエネルギー。最初から誠神から背いている。 https://www.instagram.com/p/CRoRXVcNent/?utm_medium=tumblr
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皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、厩戸王(聖徳太子)は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。
天子 - Wikipedia
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