#十返���一九
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七篇 下 その二
京見物をしている弥次郎兵衛と北八。 三条小橋の先で旅館に着くと例のハシゴでまたひと悶着やりだした。
三味線を弾いて浄瑠璃を語りだした娘に北八が、 「これ、何が機嫌にいらぬのか。 つれないそぶりと、その思わせぶり。 われらのような、浪人のあかで汚れた着物がいやなのか。」 と言うと、 「そのまま、またしゃんせ。」 と浄瑠璃の声がかかる。 丸哲の梅が枝が答える。 「このざひき(座敷)をふとめる(勤める)ひゃず(筈)で、今日ここへほらわれた(貰われた)のは、手紙でひらせて(知らせて)あるじゃないか。」 「憎い男と思っていても~、会えたうれしさに涙する。 涙は恋の習わせなり~。」 浄瑠璃が歌う。 「ああ、こりゃ、寄るな寄るな。臭くてならねえ。 そっちへぐっと寄った、寄った。むちゃくちゃ臭い梅が枝だぞ。」 北八は近寄ってきた丸哲が余りに臭いので、つい台詞にないことを言う。
「ひょりは(それは)、聞こえませぬ。へんた(源太)さん。」 となおも擦り寄って来ようとする丸哲を、 「ええ、寄るなというに。 こりゃもう、手短にやってくれよう。」 と北八、顔を背けながら早口でまくし立てる。 「こりゃ、ぼうず。いや、梅が枝。預けていた産衣の鎧はどうした。」 「質屋に、売ってしまいましたわいの。」 「なに売り払った。そりゃ、なぜに。」 「そりゃ私が病気で、寝たきりになって間接が痛み出し、山即来という薬をのんだのだが腫れ物は、しくしく。 このひゃな(鼻)を直したいばっかりに、ひゃね(金)がほしくて。 でも、低いひゃな(鼻)はおとすし、ひゃね(金)もなくなるしなあ。」
浄瑠璃が聞こえる。 「二八十六でふみつけられて~、二九の十八でついその心~、 四五の二十なら、一期に一度~、わしゃ帯とかぬ。」 丸哲が、その歌に憤慨しながら、 「ええ、なんじゃに。 人の心もひらず(知ら��に)に、ふたい(歌い)くさる。」 「いや、まったまった。」 と弥次郎兵衛。 こらえきれずに表に出ると、ずっと持ち歩いていた例のハシゴを持ってきて鴨居(かもい)に立てかけると、ハシゴの真ん中辺りに登り手ぬぐいをたたんで、三角の頭巾の格好にしてちょいと頭にのせると、 「さあさあ、源太が母の安曇のやくだ。 さあ坊主さん。続けなせえ。」 と言い出した。
丸哲は一瞬びっくりしたが、大きくうなずくと、 「伝え聞く、ひゃね(鐘)をつけば、富み栄えるのも自在。 心のまま、ほれ(これ)より小夜の中山へ。 はるかの道はへだたれども、ほもい(思い)つめたる念力で、この手水鉢をひゃね(鐘)となぞらえ、ひし(石)にもせよ。ひゃね(鐘)にもせよ。 心ざすのは、ほもい(思い)のひゃね(鐘)。」 とやり出した。 この時、弥次郎兵衛はハシゴの上から腰に巻きつけている袋の中の銭をばらばらと投げながら、浄瑠璃を語りだした。 「その金ここにと三百文、錢なげいだす~。 みやまおろしに山吹の~、花ふきちらすようにはあらで~。」 「ここに三文、あちらに五文~。拾い集めて、三百銅。 こりゃ、雇われの賃錢、さきどりとは有がたい。」 と丸哲は、その投げられた金を拾い集め出した。 勿論、丸哲は今回の報酬のつもりである。
それを見て弥次郎兵衛はハシゴの上から、丸哲を睨みつけると、 「そりゃ、やるのじゃねえ。俺のだ。」 とハシゴに乗ったまま丸哲を捕まえようとしたので、ハシゴもろとも倒れこむ格好になって先程まで、浄瑠璃を歌っていたこの宿の娘のわき腹をうつことになってしまった。 娘はその場に倒れこむと、一瞬、間があったがいきなりわっと泣き出した。 亭主は、 「大丈夫か。」 と娘に駆け寄ろうとして、煙草ぼんをひっくり返しているしているし、ハシゴが当たったらしく行灯(あんどん)もこけて真っ暗である。
弥次郎兵衛はハシゴから落ちたときに打った腰をさすりながら、 「あいたたた。」 とあたりを見たが当然、真っ暗で何も見えない。 その中で泣き喚いている娘の声が聞こえ丸哲の、 「ああ、うう。」 と呻いている声も聞こえている。 そんな中、亭主が灯りを持ってきて、 「ああこりゃ、いとおしい我が娘はどうじゃい。 いや梅が枝が、おかしな目をしおるわい。 これこれ、気をたしかにせいやい。」 「ああ苦しい。あしゃ、びっくりして、はっと思ったせいか、ひんたま(金玉)が上のほうにつったわいな。あいたたた。」 と股間を押さえている。
「そりゃ、こまったものだ。 もしもし御亭主さん。梅が枝が金玉をつるしあげました。」 と弥次郎兵衛は、真剣に心配している。 「金玉があがったんなら、こうしなせえ。 さっき見たんだがここの店に錢膏薬という看板が架かっているのを見た。 それをぼんのくぼ(うなじのすこしくぼんだところ)へ貼ると金が下がる。」 と北八。 「何いわんすぞいな。錢膏薬を首筋へ貼ても何で、下がるものかいな。」 と亭主は、あきれている。 でも北八は、すましていう。 「はて、さがる理屈さ。 なぜかというと、錢(の相場)があがれば、金(の値段)がさがる。」 「ええ、なんのこっちゃいな。」 と亭主は、呆れ顔。
しばらくすると、 「ああわしゃ、どうやら落ち着いたようじゃが、お嬢さんはどうじゃいな。」 と落ち着いてきた丸哲が、女将に聞いた。 「これ誰か、一っ走り、寸伯さんへ行ってたもらんかいな。」 と女将は娘の様子に、医者を呼ぶようにいうと、 「わしはもうよいさかい、医者さまよんでこうわいな。 そのかわりお寺へは、誰か他の者をやらんせ。」 と丸哲。 「ええ何ぬかしくさるぞい。縁起でもない。」 と亭主は、丸哲をにらみつける。 「本当にお気の毒なことだ。娘御はどこを打ったんだ。」 と北八が、問うと、 「横腹をえらくうちおったてて、痛がりますわいな。」 と亭主。
「痛い横腹は都の生まれ。 人にどやされ悲惨な目に合わされて、流行歌と同じだ。面白い。」 「いや、おまえ。 人の娘に怪我さして、ふざけてる場合じゃあろまいがな。」 亭主は弥次郎兵衛の様子に、怒ってしまった。 「ははは、人の娘に怪我さしたとは、わしゃ恥ずかしい。」 とまだふざけている弥次郎兵衛に、 「いやいや、笑うところかいな。 だいたいお前さんがたは、けしからんやからじゃぞや。」 「けしからんとは何がけしからんだね。」 「何がとは生意気な。よう見さんせ。 わしゃこの年まで宿屋しておったが、かつて今まで一度もハシゴを持って来た客など泊めたことはないわいな。 いったい遠国のお方が何しにハシゴを持て歩かんすやら。 こちゃ、とんと理由がわからないわいな。 もしかしたら、屋根から忍び込むこむドロボウじゃないかと家内のもんがつぶやいておったが、なるほど、ふざけたことをする衆と見えるわいな。」 と亭主は怒り心頭で、すこし言葉あらくいう。
弥次郎兵衛は亭主の言いように、むかっ腹をたてて、 「おや、お前さん。おかしなことをいう。 おれたちゃ非常に正直で、真面目な旅人さまだ。 つまんない冗談を言うと、ただじゃおかないぜ。」 亭主も負けていない。 「おお、よくもそういう口幅ったいことがいえるものじゃて。 お前さんがたがハシゴを持ってござんしたから、おこった事じゃわいな。」 そこの女将の声がわって入った。 「これ、あんた。そないな人にかまわずと、こちきて下んせ。 娘がアレ、変な目つきしてじゃわいな。」 と涙ぐんで騒ぎ出したので亭主も、うろうろしだした。
「これ見やんせ。もしも、娘が死におると、お前さんは、人殺しじゃ。そうおもうていさんせ。」 と亭主。 「返事がなくなったわいな。」 「こりゃ、目がまわったのじゃ。やあい、おとら。やあい。」 「おとら。」 と夫婦は娘をかきいだき、水を持ってこいと騒ぎ立てて、泣き喚き出したので、弥次郎兵衛はさすがにうろたえ出した。 「ええ、こりゃ、北八どうしたらいいんだろう。 俺はもうここに、いられない。」
つづく。
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一、やさしい言葉で書く
二、外来語を避ける
三、目に見えるように表現する
四、短く書く
五、余韻を残す
六、大事なことは繰り返す
七、頭でなく、心に訴える
八、説得しようとしない(理詰めで話を進めない)
九、自己満足をしない
十、ひとりのために書く
『暮しの手帖』初代編集長が残した「文章を書くときの心得」が、今でも通用しすぎてすごい
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栗浜陽三 (文・写真) 『九十九里浜』 より 雑誌MLMW (ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
九十九里浜・しなやかな風景 写真と文 栗浜陽三
九十九里浜が、何県にあるかを知らない人でも、その名の持つ雰囲気に、何か特別のイ メージをお持ちであろうと思う。太平洋に面した、その茫漠たる長い長い浜の風物は、浜というものが持つ様々の要素を凝縮させて、 我々の期待感や夢を満たしてくれるかのように思える。しかし残念ながら今では九十九里浜の魅力の殆どは、過去のものとなってしま った。一体、十数年前の、あの素朴で夢のよ うに美しかった九十九里浜は何処に行ってしまったのか。この僅か数年の間に、都会人の荒々しい神経で浜は汚され、美しい砂の起伏は姿を消し、近代化の手は浜に沿って長々とハイウエイを引いてしまった。九十九里浜にとって、全く無意味としか思えないこのハイウエイプランを耳にした時、私は自分の心の中の大切な部分を引きさかれる思いがしたが、土地の政治家というある人は、それは芸術的
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
しなやかな風景●九十九里浜
・・・は黒ダンの前袋の両脇から黒々と毛をかき出して男らしさを競ったといい、亦、漁から浜に帰って来る舟は、長い竿を舟の両側につき出して、その先に黒褌を結びつけ、尾長鶏の尾羽根のように海風になびかせてもどって来たと話してくれた。
私がせめて十数年早く九十九里を訪れていたら、目にしたであろうこれは誠に九十九里の匂いのする昔語りであった。 それでも私は消えてゆく残り火の色を見る ように、時折浜で数少ない漁師の浜仕事や、 女達のフラミンゴの踊るような鮮やかな作業っぷりを見る事が出来た。
度び重なる私の九十九里訪問につれて、私の仕事友達や学生達が浜を訪ねるようになり、若々しい彼等の裸身が浜をにぎわすようになった。彼等はアっと いう間に海風にやけ、町中まで褌姿でのし歩き地引網を楽しみ、九十九里独特の丸板の波乗りをし、別人のように生き返った。
私は丸裸で浜仕事をする漁師をたびたび目にしたが、 この風俗は戦後アメリカ人の手前禁じられてしまったその名残りであった。中年の漁師が性器の先をワラシベや布切れで結んで褌の代用としている様も、決して雑でも奇異なものでもなく、浜の風物の中ではごくノーマルに感じられた。これは海水に濡れたままの褌の不衛生さを彼等がきらったからだという。
浜の女達はよく働いた。小柄でたくましいマイヨールの彫刻のような彼女達は、舟を浜に 引き上げる時には男以上の働きを見せた。母 親の仕事を見ている少女の背中の、赤ン坊の顔には、一刷毛はいたようにウッスラと砂が乗っていた。
十年以上訪ね続けている私の目には、浜の舟の数が年々少くなって行くのがよく解った。最初一、二年の間、浜にそびえていた何艘かのK家の船もいつしか姿を消した。民宿が急激に増え、そしてドカンと音のするようにハイウエイが浜に沿って走り、浜と村を引きさいたのである。庭から海に裸で飛び出してゆけた私達もトンネルをぬけて海に出る為に廻り道をしなくてはならなくなった。浜は見る見る中にゴミが打ち上げられ、マイカーが波打ぎわを走りぬけ、ビーチパラソルが立ち、その下で一日中マージャンをするという馬鹿げた男達が東京からやって来た。日本人は本当のゼイタクの楽しさや味わい方を知らないし、知ろうともしない。なぜ九十九里に都会生活をそのままズルズルと引きづって来る必要があるのだろうか。彼等は潮騒をきく代りに、浜でトランジスタラジオをきこうとする訳なのである。民宿になった素朴な土地の家で、海の香りを味い、あるがままの九十九里の生活に思いきり身をまかしてこそ、本当のゼイタクの楽しさではないだろうか。ハイウエイは私如き人間の知らない理由で必要なのかも知れないが、その代り、日本一のあの美しい浜の風景は二度ともどってこないのである。
K家にはその頃四年程続けて、ある外国の大使館の青い目の客が来るようになった。映画スターのような見事な美女達であった。私の友人の若者達とこの美女達は、伸々打ちとけ合う機会がなかったのだが、ある日、彼女達がK家の前庭の椅子に腰をおろして読書を楽しんでいる最中に、この若者達が海からもどってきたのである。彼等はオイルで鋼のように輝く背中をみせてタオルやマットを干し始めた。その姿を一人のブロンド娘がしみじ ・・・
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
以上の写真と文は雑誌MLMW(ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事『九十九里浜』より
これらの文章を読むと、栗浜は性的にも、性的な物を離れても伝統を残したままの海やそこに暮らす漁師を愛していたことが判る様だ。また、他の記事を読むと祭りについても性的にも、性的な物を離れても愛していたことが判ると思うよ。
栗浜のオリジナルは持ってないからウェブから集めた画像だけど、九十九里浜は良い画像がなかったんだ
一応拡大して補正はしておいたけど画質はちょっと残念だね
世間一般では本名の藤井千秋でイラストレーターとして有名な人なんだよ~
藤井千秋は画像検索したらいっぱい出てくるよ
2つの名前の作風の違いに驚くよー!
#栗浜陽三#九十九里浜#ムルム#六尺褌#ふんどし#褌#藤井千秋#kurihama youzou#youzou kurihama#fujii tiaki#loincloth#japanese national costume#japanese underwear#common japanese daily underwear#japanese formal wear#MLMW
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Sarah Àlainn - Celestial Christmas Concert
サラ・オレイン
~ 天使と天上の音楽 ~
念願だった日本の協会でのクリスマス。
11年目でやっと実現できました。
色々なサライブをプロデュースして来ましたが、どれも特別な思い入れがある中。
今回は1番印象に残るステージの一つになりました。
これをきっかけに、また日本の教会でコンサートが実現できれば幸せす。
個人的にはとても長崎に行きたく、、、チャンスに巡り合えることを祈っています!
では、プロデューサラからのライナーノート。
今回のセトリ。デザインさせて頂きました^^
夏のオーストラリアで育ったため、リースのサラは半袖。
寒さにとても弱いものの(昨日のライブでもカイロを貼ってて落ちないかドキドキ)、
クリスマスはやっぱり寒いのがしっくり。
1. Pie Jesu (Andrew Lloyd Webber)
2. Bring the Snow『ムーミン谷とウィンターワンダーランド』
3. Toccata (J.S. Bach) ~ Shchedryk/Carol of the Bells
4. Eternal Rest 『蒼き革命のヴァルキュリア』
5. Eight Melodies 『MOTHER』
6. Hijo de la Luna
7. Airmail Special Xmas Vers.
8. Hallelujah (Leonard Cohen)
9. Andata (坂本龍一)
10. Merry Christmas Mr. Lawrence 『戦場のメリークリスマス』
11. Joyful Joyful / 第九
12. O Holy Night
ENCORE
13. Ave Maria (Vavilov)
14. Silent Night
15. Nessun Dorma
16. You Raise Me Up
海外の協会や大聖堂といえば、キャンドル🕯️
本物はNGとのことで、こちらに。帰って我が家のツリーの下に🎄
今回のサラスタイルは、一番好きな純白。
1部はサラッと見つけた衣装!今回ネックだったのは、パイプオルガンの弾き語り。
普段はもっと高いヒールを履いてパフォーマンスをしているのですが、ペダルがもちろんキツく不可能。
因みに、ペタンコな靴でも試したところ、これもこれで初心者にはとても��みにくく、多少ヒールがあった方が演奏しやすかったです。
長いスカートも足の動作の邪魔になるため、とても苦労しました。最終的には普段より低いヒール(これで)に動きやすいドレスに出会えました。オープニング、アンコール、エンディングの演出としてバージンロードを歩きたかったため、
それにしてはカジュアルすぎる姿かなと思い、裾が長い素敵なビジューのケープに出会えました。
アンコールではお世話になってる方々のお衣装:
Instagram
Dress: DRESS SALON Lu:Che @dress_salon.luche
Veil: @paradisewest
Hair & Make up: @west_kuboki
アー写でも着てた一点もののヴェールとウェディングドレス。
華やかな衣装も大好きだけど、普段着も含めて、基本一色でシンプルなスタイルが1番好き。
見えにくかったはずですが、アクセサリーには十字架のネックレス。
Sarah’s Angels
チャーリーズ・エンジェルともちろんかけてます。
ピアニストの宮本貴奈さんは色々な意味で今回救いの天使でした!
Soprano/ SAK.
Mezzo Soprano/ 渡辺磨裕美
Alto/ 会原実希
Tenor/ 大山桂佑
エグイアレンジにも関わらず🙇♀️サラッと歌われて素晴らしかった👏Bravi!
皆さんのシックな衣装が会場にぴったりでした。
実はAngels’のスタイリングもしてたのですが。。なんと、衣装が間に合わず(本番の次の日に到着><)
いつかまたぜひこちらも着て一緒に歌いたいものです!
では、音楽のもう少し詳しい編成や演出について。
聖なる場所で、今回はとても分かりやすいテーマとメッセージがあったこともあり、
MCを最小限にし、音楽中心のコンサートに。
アルバムやテレビと違って、コンサートでは自分の思いを自由に語れる貴重な場なので、
基本話せる時は話したいですが、今回はより音楽に集中できたため(ツアーでは毎回MC=ー「笑い」に命をかけていますw)、こういうコンサートも続けたい。
1. Pie Jesu (Andrew Lloyd Webber)
Takanaのクリスマス・アドリブから始まり、イエスキリストを讃える一曲へと繋がる。
色々な作曲家のPie Jesuがありますが(Faureフォーレのも好きで迷いました)、アルバムに収録されてることと、京都音舞台での思い出もあり(お寺でのPie Jesuなんて、日本の神は心が広い)、Andrew Lloyd Webberバージョンに。
皆さん驚かれたかもしれませんが、後ろから登場し、キャンドルを灯し、歌いながらバージンロードを歩きました。
教会の大きな十字架✝️を見ながら歌う感覚。
色々な感情が心に重く、深く、宿る。
2. Bring the Snow『ムーミン谷とウィンターワンダーランド』
クリスマスは基本違和感と寂しい思い出しかなかったですが(夏のオーストラリアで、クリスマスを祝わない家族)、
昔からクリスマスソング・キャロル・讃美歌が大好き。とても嬉しいことに、オリジナルのクリスマスソングを歌わせて頂いています。それも、憧れのムーミンの。映画『ムーミン谷とウィンターワンダーランド』で英語版と日本語版で主題歌を歌わせて頂くクリスマスの奇跡が起こりました。
そんなムーミン一家も、クリスマスはお祝いしません。
クリスマスが何なのかすら、知りません。
でも、「クリスマスさんがやってくる!」
人と勘違いしてる?
ツリーの飾り方も分からず独特。テッペンには薔薇。
そんなムーミンは、何よりも大事なクリスマスのメッセージに気づきます。
そんなハートフルなクリスマスソングを教会でも歌えるなんて。
年に一度しか使えないと思ってゲットした鈴は、今日も大活用。
3. Toccata (J.S. Bach) ~ Shchedryk/Carol of the Bells
さあ、ここからが難関。思いだすだけで冷や汗。
人生初のパイプオルガン演奏。弾き語り。そして途中で指揮。
本来予定してなかったのですが、教会の下見に行った時、オルガンを見て、これは演奏してみたい!、と燃えてしまいました。
どの楽器もマスターするのに難しいですが、その中でもパイプオルガン奏者にはリスペクトしかありません。
ピアノ、チェンバロと違って、鍵盤が三段階。それぞれ音色は違いますが、その音色をさらに左と右横にあるストッパーで調整する。演奏中引っ張ったり押したり大忙し。シンセも昔から好きだったので、感覚が似てて、音色を選べるのはとても楽しいです。演奏してる間は別問題ですが^^;そして、私にとって何よりも困難だったのはペダル。ペダルも鍵盤になっているんです!ひ〜
エレクトーンの経験もないので、シクシク家で妄想練習。手書きの鍵盤。
あるピアニストがピアノがなくて紙の鍵盤で練習したという都市伝説を聞いたことがあったけど、
本当だったかもしれない。
最初はオルガンソロのみ予定してて、何が良いかなと思って、冗談で「バッハのトッカータとフーガニ短調BWV 565」なんて!と言ったら、ピアニストの塩入俊哉さんが、「それで良いんじゃない」と真面目に答えられてから、やることになっちゃいました(塩入さん、体調回復されて、元旦でお会いします^^)
どうやって鍵盤を弾きながらペダルを踏んで歌うのだろうか。。。練習ができないため、
今回はずっと足を見て演奏するしかない。
そのため、普通のマイクではなく、ヘッドセットをお願いしました。
ここで合唱���登場したらカッコ良いなと思い、バッハからウクライナの新年の曲「Shchedryk」、別名「Carol of the Bells」(ホームアローンやテーマパークでもよく流れるクリスマスの定番)に繋がる。
ペダルを踏んでない時は指揮。オルガンが大きくて見えにくい位置でしたが、さすが聖歌隊、
Sarah’s Angels見事について来ています。
「Carol of the Bells」 「鐘のキャロル」というだけに、パイプオルガンにも鐘があるので、このチャイムをペダルと鍵盤でもONに。
今回は合唱のアレンジをさせて頂き、こちらも燃えました。
GLORIA CHAPELだけに、アレンジに「Gloria」(讃美歌)も取り入れました。
ウクライナ語、早口英語(合唱お見事)、脳みそがフル回転に働かされる一曲でした。
足元の動画をとってあとで見返してみると、おそらくこの姿勢で筋肉痛になったかと。
YouTubeにアップしました!
動画編集に苦戦。いくつかのカメラが音と映像がシンクしない。多分カメラの位置とホールの響きの影響も?
また、見返して思い出したのは、音のディレイ。特にオルガンは、鍵盤を弾いてる時と、実際に聞こえてくる音とズレがあります。ゆっくりなところは大丈夫でしがた、早いパッセージは心臓バクバク。
【LIVE】Shchedryk Carol of the Bells /Pipe Organ, Voice & Choir|Sarah Àlainn サラ・オレイン | パイプオルガン弾き語り
<初!パイプオルガン弾き語りinウクライナ語+指揮🎄>
youtube
4. Eternal Rest 『蒼き革命のヴァルキュリア』
ここでやっと普通のMC。
次からは合唱メインの選曲へ。
今回リーダーのSAK.に合唱についてご相談させて頂きました。SAK.とのご縁はゲーム音楽のコンサート。
そんな繋がりもあり、一番最初に合唱とやりたい!と浮かんだ曲は、ゲーム音楽でした。
私の歌のデビューは光田康典さんのゲーム音楽『ゼノブレイド』の「Beyond the Sky」。
よくライブで歌わせて頂いている大切な楽曲。SEGAの 『蒼き革命のヴァルキュリア』でもコラボが実現。
ラテン語で英語で作詞させて頂き、とても好きな世界観。でも、ライブでは一度も歌ったことがありません。
レコーディングでは自分の声を何重に重ねたセルフ・クワイヤー。
ループするようなラインでもないため、ルーパーでも一人でライブでは歌えません。
今日までは!
合唱のおかげで、やっと生でこの歌が届けられる!テーマも「Requiem(レクイエム)」なので教会にもぴったり。
ゲームの中では死神の歌なので、プレイヤーとしてはあまり聞きたくない曲かもしれませんが^^;
さらに、この曲は完全にアカペラ。オリジナルと同じように表現できた喜び。
アカペラが大好きで、合唱の皆さんにまたハードルが高い曲を2曲目に持って来たのにも関わらず、Bravo!
正面向きながらの指揮。
5. Eight Melodies 『MOTHER』
ルーツのvgmが続きます
ご縁があり、作曲家のChip Tanaka(田中宏和さん)の前で彼の作品をいくつか演奏する貴重な機会がありました。私が最初にプレイしたゲーム機はGAME BOY(ゲームボーイ)。唯一入ってたゲームがDr. Mario。今でも完璧に覚えてるあのチップチューン。それがまさかのChipさん作曲。そんなDr.MarioとRPG『MOTHER』をご本人の前で演奏させて頂く夢のようなステージがありました。
その時はサラカルの編成だったため、歌とヴァイオリンはルーパーを使ってました。
この名曲をSt. Paul’s Cathedral Choirが歌われてるバージョンをサラジオでも以前お届けしましたが、
これぞ教会で聞きたい一曲!ゲームでは8つのメロディーが物語のキーとなるのですが、アレンジバージョンには英語歌詞がつきました:
Take a melody, simple as can be
Give it some words and sweet harmony
Raise your voices, all day long now, love grows strong now
Sing a melody of love, oh love…
作詞:Linda Hennrick
作曲:鈴木慶一さん/Chip Tanaka
簡単なメロディーをとって、歌詞をつけて、
優しいハーモニーを当てて、
声をあげて、愛のをメロディーを共に歌おう。
何とも純粋な美しい歌詞。。。
以前のループも生かしつつ、合唱とピアノ演奏を加えた教会バージョンにアレンジ。
Chipさんに映像を送らなければ〜年末は休めるのだろうか^^;
今回は出番が短かったですが、ここでサラ・オリジナル八ヶ岳カリンバが重要なところに登場。
シンプルなメロなので、これもいずれ皆さんとカリンバで演奏するのが夢です^^
6. Hijo de la Luna
合唱がミステリアスなピアノアドリブの中ゆっくり去っていく。
ガラッと雰囲気を変えて、不思議なスペイン語の世界へ。
スペイン語は話せないので、早口言葉がとても難しい一曲です。
子供の時ラジオでも流れてたヒットで馴染みがある一曲なのに、大人になってから歌詞��意味を知り、びっくり:
かなりダークです
当日のセリフをそのまま:
『母といえば、息子が欲しかったお月様の話、ご存じでしょうか?
ある女性の望みと引き換えに、息子を手にした、お月様
女性は望み通り、夫をもらった。
でも、その間に産まれた子は、夫と違い、肌色が真っ白だった。月のように。
あまりの怒りに、夫は女性に怒り、最悪な結末に。
お月様は、こうして母になった。
「お月様、腕がなくて、あなたはどうやって息子を抱くの?」
「三日月になって、息子を揺らすのよ。」
Hijo de la Luna 月の息子』
やっぱり怖い。
ヨーロッパで大ヒットしたMecanoの名曲。オリジナルがとにかくカッコ良い。
Takanaからお借りしたシェーカー(振り方、角度によって音が変わる!欲しい)も登場。
音楽的にはシンプルに1番、サビ、という構成ですが、違和感がある転調があったり、
演奏してみると意外とミスしやすい(そして目立ちやすい)、難関な曲。
7. Airmail Special Xmas Vers.
今回のセトリからカットされそうになった一曲。
でも、リハで試しに一回Takanaとやってみて、これはやっぱり入れなきゃとcome-backしたジャズナンバー。
「天上の音楽」とはかけ離れたイメージだけど、普段のライブなら元気に盛り上がる・アップテンポな曲が入ってからの重ための曲の流れを意識してるので、やっぱり息抜きできる一曲が必要。
炭水化物好きでもたまには野菜を挟んだほうが良い、的な?
ただ、中々息する暇もない、かなりのアップテンポで音かずが多い一曲。
以前ハマジャズ��急遽この曲をやることになり、必死にElla Fitzgeraldの音源を完コピ。
バンドが初めて歌ったと信じてなく、嬉しくも複雑な(嬉しい)ライブでした。あんなに必死に歌を覚えたのは初めてです。
ヴァイオリンでは速い曲はたくさんありますが、歌はどうしてもバラードが多く、
こういう一曲を待ってました!
クリスマスネタをあちらこちらにアドリブで飾っていく。
さすがJazz出身のTakana。刺激されて、色々湧きでくる、セッション!
ちょうど次の曲のセットチェンジもあるので、ここで会場に降りました。
ワンピ+ヒールが低いと本当に簡単に動き回れる〜
Airmail Specialと並んでYoasobiさんの「アイドル」が同じ部類のもの。癖になる。
続きはPART 2 で!
#サラ・オレイン#sarah àlainn#sarah alainn#サラオレイン#サラ#サラスタイル#violin#ヴァイオリン#sarah styling#multi instrumentalist#マルチプレイヤー#パイプオルガン#pipe organ#carol of the bells#shchedryk#Youtube
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大雪山の夏の終わりを告げる花「クモイリンドウ」に会いに行ってきました!
ほんのりクリーム色に鮮やかな藍色が差し色となり、なんとも可憐。思い返すとこの花をしっかり見たことはなかったような… という事で今年も十分高山植物を楽しませてもらいました!というお礼も併せて、クモイリンドウを探しつつ、お山も楽しむ日帰り緑岳周辺登山へ行ってきました。
以前登ったトムラウシ山を眺めながら、いたるところで冬に向けて準備をすすめる生き物たちを見るのも楽しいですね。
あらためて見るクモイリンドウの姿は、他の高山植物のお花に比べて大きく、秋の風に揺れて美しかった…見惚れてしまいました。
また来年以降も、会えますように。
一枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/1000【F値】/1.8 二段目左【焦点距離】14mm【ISO】64【SS】1/500【F値】/5 二段目右【焦点距離】14mm【ISO】64【SS】1/320【F値】/10 四枚目【焦点距離】14mm【ISO】64【SS】1/2500【F値】/2.5 五枚目【焦点距離】40mm【ISO】64【SS】1/320【F値】/7.1 六枚目【焦点距離】14mm【ISO】64【SS】1/250【F値】/8 六段目左【焦点距離】14mm【ISO】64【SS】1/4000【F値】/1.8 六段目右【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/2500【F値】/1.8 九枚目【焦点距離】135mm【ISO】64【SS】1/640【F値】/1.8
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「3年後に、君はいくらの給料が欲しい?」
会社員時代、私は採用面接のたびにこんな質問を候補者に投げかけていた。するとその大半は「う〜ん」と首をひねって、答えに困ってしまう。この質問に正解はない。年収500万円でも、1000万円でも、1億円でもいい。中には「サーフィンが大好きで、千葉の九十九里の海沿いに住みたい。生活費は手取りで月15万円あれば十分です。その代わり、波がいい日は休ませてください」。そんな交渉を持ちかけるのだってありだ。私が知りたいのは、目の前の候補者がこれからどんな人生を歩みたいと考えていて、そのためにいくら稼ぎたいのかを���拠をもって具体的に考えているかどうか、だ。そして自分がその金額に値するのだと、私を説得してほしいのだ。
ところがほとんどの人は何も答えられない。中には「3000万円欲しいです!」と意気揚々と答えてくれる人もいるが、「何で3000万円なの?」と突っ込んできいてみると、「なんとなく」「それくらい稼いでいれば凄い」など漠然とした答えしか返ってこない。仕事の時間は人生の3分の1を占めるとも言われる。そんな大切な仕事を選択するための場でさえ、みんなどこか投げやりで他人任せだ。
仕事は、幸せに生きるための手段だ。つまりどんな仕事をするかを考える時には、そもそも「自分がどんな人生を生きたいのか」「自分はどこに向かっているのか」を考えなければ始まらない。
私は、会社とは電車のような乗り物みたいなものだと思っている。これまでに6回転職した私にとっては、会社を変わることは電車の乗り換えに近い。目的地を定めたら、そこまでどうやって行くかを考えて乗り物を選ぶだろう? 同じように自分の人生の目的に合わせて、どんな会社で働くかを決め、乗り込んでいく。途中で自分の目的地と会社の行き先がズレてきたなと思ったなら、そこで一度降りてまた別の乗り物に乗ればいいだけだ。
よく「良い会社」とか「人気企業ランキング」という記事を見たりするが、万人にとって良い会社などあり得ない。一人ひとり人生の目的はバラバラだし、どういう進み方をしたいのかも人によって違う。結局のところ「君にとっていい会社」があるかないかの問題だ。
東京に行きたい人もいれば、北海道に行きたい人もいる。とにかく早く目的地に着きたい人もいれば、寝台列車でのんびり進みたい人もいる。中には「今は目的地を決めず、気ままに流されたい」という人もいるだろう。大切なのは、自分が今どこに向かっていて、何を求めているのかを自覚しておくことだ。大阪から東京に行きたい人が、「目の前に来たグリーン車が座り心地良さそうだから」と、博多行きの新幹線に乗り込んでいたら意味が分からない。
ところがこんな意味の分からない選択が、人生という旅においてはよく見受けられるのだから困ったものだ。「人気だから」「プラチナチケットだから」「乗り心地がいい(福利厚生がいい)から」なんて、行き先も確かめずに人気の列車の椅子取りゲームをしている様子には疑問を抱いてしまう。
若いうちから自分の目的地が明確に決まっている人は稀だと思うが、それにしても「海か山か」「東か西か」「暑い場所か寒い場所か」「都会か田舎か」くらいの大まかな目的地の方向性くらいは定めておいてほしいものだ。
どこへ向かうかも考えず、とりあえず世間体や居心地の良さで乗り込む先を決めてしまい後悔している人を私はたくさん知っているからだ。彼らの中には、もはや引き返すこともできずにいつのまにか「会社に乗っかること」が目的となり、会社という乗り物にしがみ続けるしかない日々を送っている人もいる。
「また月曜日がきたよ……」と憂鬱そうに満員電車に乗り込む。
理不尽な転勤も、クビになるから断れず、泣く泣く家族と離れて暮らす。
誰にでもできる単純で退屈な仕事を、ひたすらこなす。
すべてを捧げてきたのに、定年と同時に強制的に降ろされる。
そんな会社の奴隷のような働き方だけは、君にはして欲しくないというのが父としての私の本音である。
「働く」とは本来、とてもエキサイティングで楽しいことだ。ビジネスこそ最強のオンラインゲームでチームスポーツだと言ってもいい。会社に振り回され仕事のために生きてはならない。
幸せに生きるために仕事を味方につけるんだ。
https://twitter.com/tabbata/status/1645577690207096833?s=46&t=XBYGx0NYt69itB5p-cHcLg
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2024-11月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「運」です◆
今月は参加者の皆様に「運」のお題でアンビグラムを制作していただいております。今月も見るだけで運気が上がりそうなアンビグラムが集まっておりますので、ごゆるりとご鑑賞ください。
今号も失礼ながら簡易的なコメントとさせていただいております。皆様のコメントがいただけますと幸いです。
「運否天賦」鏡像型:化学氏
うんぷ(ぴ)てんぷ。幸運と不運は天に決められているということ。 字画の途切れと飾りによる切り替えが見事です。ステキなタイポグラフィです。
「逆境/成功」 鏡像型:KSK ONE 氏
不運からつかむ幸運。 伸びやかなヒゲを生かした書体で強弱の付け方がが有効的です。遊びのある筆画でも読みやすくなっています。
「ケガの功名」 回転型:てるだよ氏
「怪我の功名」とは、失敗や過ちなどから、偶然にも好結果が生まれること。 「ケガ」をカタカナにすることで字画密度がそろってうまく対応付けできるのですね。文字送りも適切です。
「家相」 図地反転複合型: いとうさとし氏
家の配置や方角・間取りから、その家の吉凶を判断するもの。 「相」を優先で「家」の形状がかなり崩れていますが、しっかり読める範囲でおさまっているのが流石です。
「運命の悪戯」 回転型(共存型):lszk氏
人知の及ばないものに弄ばれているかのような、奇妙な巡り合わせ。 作者らしい書体でうまいデフォルメですね。「の」は別字形の共存型で驚くべき形状です(cf.過去の例)。
「運命の悪戯」 回転型(共存型):douse氏
この言葉でのネタかぶりは運命の悪戯か。 かっちりとした対応と作字。lszk氏の作との違いを見るのも楽しいです。「命/悪」で字画共有するため「の」を横に置いていますが表現の仕方がよいですね。
「四柱推命/九星気学」 図地反転型: いとうさとし氏
四柱推命と九星気学は古代中国から伝わる占術で、陰陽五行説に基づく代表的な占い。四柱推命の方が九星気学よりも古い。 アンビグラマビリティが低そうなのに仕上げてしまう達人技。「学」は言葉の流れで読ませていますね。
「12星座占い」 回転型:螺旋氏
別名「星占い」、西洋占星術を簡略化したもの。 ステキな書体での作字で星占いの書籍の表紙にしたくなるデザインですね。「星/占」の密度差の解決も見事です。
「おみくじ/うらない」 図地反転型: いとうさとし氏
おみくじは運勢を全般的に占ってくれます。 この言葉同士で対応付けできる驚き。大きく崩れた「な」も流れでその文字に見えてきます。
「いのり」 図地反転型亜種:kawahar氏
水晶玉に うんと いのりをこめる。 「図」と「地」のほかの領域もあるため純粋な図地反転ではないですがいくつか作例があるタイプの作品。バランスが良いですね。
「地雷除去」 旋回型(×2):Jinanbou氏
マインスイーパーでよく起こる運命の2択。 低解像度のドット処理による作字が成功しており非常に読みやすいですね。
「ボイジャー探査機のレコード盤」 回転敷詰同一型:繋氏
1977年に打ち上げられた2機のボイジャー探査機に搭載されたレコード。地球外知的生命体や未来の人類が見つけて解読することを期待している。 とても魅力的な書体。どのように敷き詰められるのか、知的な皆さんによる解読を期待します。
「ビギナーズラック」 回転型:.38氏
初心者が往々にして得る幸運のこと 。 変わった位置につけた濁点と「ッ」の点々を中央に揃え、うまく対応付けています。楽しい作品。
「ノーペアで、挑む所以」 回転型:T.A.氏
役がない状態でもブラフで勝負に挑む理由とは…… 読点が反対側で有効に生きています。半分だけの半濁点の形が良いですね。
「単にラッキーなだけ」 回転型:無限氏
クッキークリッカーの隠し実績から。 クッキーのチョコチャンクが効果を発揮していますね。文字送りにも工夫があります。
「配牌」 回転型:lszk氏
麻雀牌モチーフによる読み方の示唆だけではなく、閉領域の並びの中間をとると五筒に近くなっています。中央部の短いはらいの共有がぴったりです。
「乱数調整」 回転型:ちくわああ氏
主にコンピュータゲームで擬似乱数の生成を調整すること。 「乱数」をはさむように「調整」がある、特殊な文字送り。プリント基板に合う書体が対応付けにマッチしていますね。「調整」の対応が気持ちいいです。
「期待値」 回転重畳型:超階乗氏
平均値のこと(確率変数を含む関数の実現値に確率の重みをつけた加重平均)。 左下は顔のようなマークでしょうか。細かい線によって文字の特徴づけに成功しています。「期」は単体では読みにくそうですが「待」に引っ張られて読みやすくなっているようです。
「四つ葉のクローバー」 回転型:douse氏
幸運のシンボル。 何処にも無駄がなく驚きました。手書きのマーカーペン風で少し字画を遊ばせているのがポイントでしょうか。
「仕合せ」 回転型:peanuts氏
運命に従って巡り合わせた相手との出会い。 流れるような美しく伸びやかな作字がステキです。「仕/せ」の切り替えがキレイですね。
「幸せ者(者)」 回転型:Σ氏
幸運��人のこと。 点付きの「者」にして手書き書体にするとぴったりはまるのですね。表現もとてもステキです。
「海野十三/運の十さ」 振動型:兼吉共心堂氏
作家「うんのじゅうざ」が「運の十さ」にも読める。 「海野/運の」の対応が流石です。筆文字のポテンシャルを本作でも感じます。
「「その男の云う事を聞くがよい。」」 鏡像型:結七氏
芥川龍之介の「運」からの引用。 略字の「亊・闻」を使っていますね。色を変えている部分はおしいですが、長文をうまく対応付けしていて素晴らしいです。
「運動量保存則」 回転重畳型:かさかささぎ氏
外力が無視できるとき、物体系の運動量の和は保存される、という法則。 対応付けの発見と巧みな文字組によって実現された素晴らしい作品。字画の強弱も生きています。
「等加速度直線運動」 図地反転鏡像型:つーさま!氏
加速度が一定かつ初期速度が加速度と平行か0で、変位が直線の運動。 どの文字も読めるようにするための調整が大変そうですが、やはり鏡像軸上の文字に注目です。
「運ぶ」 回転型:douse氏
物をほかの場所に移すこと。 「運」単体でもアンビグラマビリティは高いのですが「運ぶ」にするとさらに回しやすいのですね。ぴったりです。
「夕時を運べ」 鏡像フラクタル型:松茸氏
文字列生成で。 鳥とキラメキの図形が生きています。拡縮を絡めることで敷詰可能となる発見が素晴らしいです。
「赤血球」 回転型:うら紙氏
赤血球に含まれるヘモグロビンが酸素を運びます。 字画のカーブの具合が揃っていてまとまり感があります。共有のさせ方も見事です。
「運搬」 旋回型:ラティエ氏
人や物を運び移すこと。 アンビグラマビリティの高い言葉ですね。ベルトコンベアの表現が楽しいです。 先行作との違いもご確認ください。
最後に私の作品を。
「配送」 敷詰振動式複合型:igatoxin
物をくばり届けること。無事に届くかは運次第(?)
お題 運 のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は「時事」です。2024年を振り返り、時事ネタでアンビグラムを作ります。
締切は11/30、発行は12/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
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2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史} 10月{ヒーロー} 11月{ゲーム} 12月{時事}
2024年 1月{フリー} 2月{レトロ} 3月{うた} 4月{アニメ} 5月{遊園地} 6月{中華} 7月{猫} 8月{夢} 9月{くりかえし} 10月{読書} 11月{運}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は、「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」(滝沢馬琴)に葬られた。その墓は、誓願寺境内で3回[註]移設されている。その経緯および実行者を記すと
(1回目 1889年)幸田露伴 今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴。「井原西鶴を弔ふ文」『小文学 第1号』1889より。
*幸田露伴が処女作『露団々』で金港堂から得た原稿料は五十円(現在価値で約170万円)。その「資」で露伴は旅に出る。1888年大晦日から1889年1月31日まで丸ひと月(露伴来弔はこの折。移設費用は、その「資」で賄った)。「時に嚢中一銭も無くなりければ、自ら経済の妙を得たるに誇ること甚し」(『酔興記』)。
(2回目 1910年)木崎好尚 浮世の月二年見過ごして二百七十年の昔(略)印の墓はいつしか八丁目寺町誓願寺の無縁塔におし込められしを二十余年前幸田露伴君が旅の置みやげに現今の本堂東南手に再興されしも浮世草紙の紙よりも薄き人情今度の電路問題の墓地取払ひの憂い目見る墓のぬし誰も見返るものなく《略》二百十年忌の追善発起の手前それがし痩せ腕を揮うて施主と相成申さん四日の日曜の午後一時に形計の移転式を営んで下さいと口約して置いた《略》さて、今度の改葬場所は元の地点に近いと信ぜらるゝ本堂の西南手の樟の下陰と定めたれば鶴のなき声に尋ね寄らんとする文学上有縁の方々に此顛末を告参す(大阪にて好尚)。「東京朝日新聞 明治四十三年十二月五日」
(3回目 1933年)南木芳太郎 明治二十幾年の頃、幸田露伴氏によって無縁塔中より発見され、門内近き所に建てられてあったが、明治四十二年の冬、電車通路の爲寺域は狭められ墓地整理の止むなきに至ったのを木崎好尚氏によつて、本堂西南手の通路に面し移されたのである、その後星霜二十幾年、現在に至りては背後が隣地との境界線にあるため、いつしか建てられし古小屋の板塀は痛く損じ實に見苦しく且つ墓域もなく悄然として無縁塔に並んであるのは如何にも侘しく感じられるので、今回誓願寺住職を促し更に西北隅の好位置に再轉させ、墓域を画し松壽軒に因み大なる松樹を植え、塔上を被ふ事とした、ほんの心だけであるが、これで墓らしくなったと思つてゐる。「西鶴の墓」上方郷土研究会『郷土研究 上方 第三十ニ号』1933(=写真も)
[註]滝沢馬琴が報告した「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」を本来の位置(0)とすれば、西鶴の墓は正確にゆうと「4回」移動している。以下に。( )内実行者
0)本堂西の裏手、三側目中程(北条団水他1名) 1)無縁塔の内(誓願寺) 2)本堂東南隅(幸田露伴) 3)堂の西南手、樟の下(木崎好尚) 4)西北隅の一画(南木芳太郎)
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一段难忘的挨操经歷
(一)
我是0.5,主要做1,喜欢操比我高大威猛的0,尤其是大鸡巴0,看著这些健壮的男人臣服在我鸡巴下发骚的样子,很满足。可能是因为做多了1的缘故吧,有些单调厌烦了,越发想尝尝被人操的滋味,无奈我的菊花比较小,有时候便便稍硬都会出血,看到大鸡巴也只能望洋兴嘆,没有合適大小的鸡巴也只能不了了之。
直到有一天遇到一个网友,他號称纯1,我们本来说好和他一起找0玩的,视频看了下他鸡巴,嗯,不错,乾净直溜,又勾起我做0的欲望了,便改了主意。
於是我开好房间洗好澡在被窝里等他,不一会,门铃响了,我去开门,长得还不错,挺男人的,身材也很健壮魁梧,一打听,山东爷们,是我喜欢的类型,后面称它为强哥吧,简单的冲洗过后,便拉开了我难忘的挨操序幕:
首先是我躺著,有些小紧张,强哥厚实的嘴唇在我身上、耳边、脖子游动,吹著热气,配合舌头舔的动作,让我舒服的放鬆下来,同时他的手也不闲著,一边捏我的乳头,一边捏我的屁股,同时有意无意地触碰我敏感的鸡巴,但却挑逗似的故意不直接刺激它。
我看著自己被眼前的这个男人玩弄于股掌,心里痒痒的,不禁有些期待起来,嗯,要的就是这种感觉,我闭起眼睛享受著。这时他在我耳边用他雄性低沉的嗓音呢喃了一句,“准备好了吗?哥要开始操你了!”,听到这句生疏的话,我不禁有些害羞,但鬼使神差的立马点头回应起来。
接下来我的菊花感到一丝凉意,强哥的半截手指进来了,他非常温柔,仅仅是半截,並轻轻搅动著,我没有感觉到任何不適,只希望他手指继续搅拌下去,只可惜他没有按我的节奏,他脱下裤子,露出他细长的鸡巴,我稍微松了口气,这个鸡巴我应该能吃得消。
简单给他口了几下,强哥便带上套子,准备用他的武器攻击我了,顿时我又开始有些害怕,紧张、激动,因为我感觉到火热的鸡巴已经兵临城下了,我知道我的城门稍一放鬆它便会长驱直入,便用力夹紧了我的菊花。强哥看出了我的紧张,一边揉搓著我的胸部,舌头已贴到我唇上来,这时我突然有一种被佔有的感觉,菊花一松,鸡巴便进来了1/3,还好,没有特別疼,这时候我也不紧张了,今天我不就是要尝尝被操的滋味吗,我配合的张开菊花,做往外使劲的动作,这个细长的武器便迅速佔据了我的甬道,丝毫不给我留任何余地。
我能感觉他顶的很深,强哥也爱惜的没有抽动,带著男性磁性的声音问我感觉怎么样,我觉得顶的太里面了,像是到了阳心,微微有些疼,於是收缩菊花,想把它挤出去一些,但是我很快发现这个努力是徒劳的,这杆枪非常霸道的在我的菊花里面呆著,没有任何移动。
我靠深呼吸放鬆自己的身体,强哥也揉著我的蛋蛋和鸡巴,几分钟后疼痛感渐渐消失,强哥也隨之慢慢的动了起来,除了轻微的疼没什么特別的感觉,尤其是菊花里面,难怪很多0都说主要是来自于心理上的快感,看著强哥在我身上不紧不慢的耕耘著,听著啪啪的声响,这就是被操的声音,非常强势,无可挣扎。
这种感觉,天哪,我已经被一个陌生男人操了,一种被征服感迅速升起,我的自尊心、羞耻心在这样的活塞运动中渐渐褪去,这一刻,只有性,没有其他。强哥看我有点適应了,便放弃传统动作,开始玩起花样来,接下来这个姿势让我至今流连忘返:
强哥让我跪在床上,大腿儘量分开,屁股往后撅,他贴身跪在我身后,大腿顶在我两腿之间,限制我大腿併拢,同时鸡巴抵在我的菊花口,双手拉住我的手,反剪扣在我背后,和我说了句“我要开始干你啦!”我知道又要准备挨操了,此时我没有重心,手也没有著力点,一切都在他的掌控之中,隨著缓慢的插入,我感觉到菊花逐渐被填满,强哥马上就要开始抽动了,我感觉大腿在发抖,本能地想要加紧大腿却因为强哥大腿的限制无能为力,强哥这招太狠了。
我只能求他慢一点,温柔点,他像个勇士一样主宰著我的快乐和痛楚,忽快忽慢,九浅一深的操著我,我的鸡巴在他的操弄下失神的前后甩动著,完全没有之前操別人时的坚硬挺拔,像是完全臣服在强哥的雄风之下,被他狠狠的教训著,无奈的低下了头。龟头前面淫水不听使唤的往下流,我低下头看自己鸡巴的样子,发现自己彻底被操服了,仅有的一丝反抗的念头也在强哥一阵阵有力的衝击下消失的无影无踪。
强哥仍然不紧不慢的操著我,一边说著:“哥操的你爽不爽?”,“喜欢哥操不?”,要是平时,我可能会不好意思回答,但现在我已经沉浸在这淫荡的氛围中,一个劲的「嗯嗯、啊啊…」的答应著。渐渐地,菊花著力点处涌现出一种酥麻的感觉,並且兴奋感越来越强烈,我求强哥快点操我,强哥没有理会,仍按他的节奏,我明显觉得已经把持不住了,快感在我体內涌动,但无能为力,全身都在强哥的控制下,只能等快感一点点累积。
终於,一股热流穿出的体外,身体像触电似的抖动起来,这个时候强哥才开始使劲快速抽插,杆杆见底,我发现强哥真是个性爱高手,这个时候快感比之前来的强烈的多,比我之前任何一次打飞机或操別人都来得爽,我完全不能自持的发出声音,活生生被操射了,一股股精液隨著强哥的动作,一个衝刺一波,连射了七、八股,这才叫不由自主的被操射,我之前也操射过別人,不过远没有这种1捅一下,0就喷出来一些的强烈的视觉刺激,我开始嫉妒这位强哥高超的操人技巧,不得不说,我这次真被他操爽了。
射完后,我像一个俘虏一样低著头仍被双手反剪控制著,强哥还没射,但他体贴的没有抽动,我大口的喘气,回味刚才的激情,夸讚著强哥的操人技巧,准备帮强哥打出来。这时强哥贴著我的耳根来了句,“別著急,这才到哪啊,一会让你爽上天!”,我是既害怕又期待,今天真是遇到极品1了。
(二)
做1的都有相似的心理,总喜欢把身下的0操的嗷嗷乱叫,发骚、瘫软求饶,並且越是大鸡巴操的越过癮,快慢结合,以点带面,哪怕使出浑身解数,累的吭哧、吭哧,也要满足自己的征服欲。不过时间一长也就审美疲劳,就像再好吃的菜也要换换口味,这次我就打定主意要享受下被操的滋味,要不然总觉得缺了些什么,我一直坚信,没做过0的1人生是不完整的。
强哥让我充分享受了被动的角色,他命令我从床上爬起来,这时我才觉得菊花处传来一阵阵火辣辣的感觉,摸了一下,还好没有出血,这也是我选细长鸡巴的原因,安全第一嘛。我们来到洗手间,强哥把水调好,让我弯下腰去,把屁股翘起来,一股温柔的水流在我菊花四周飞溅,强哥仔细地给我清洗、按摩,我闭起眼睛享受著,菊花发送的舒展著,射完精后的不適应也逐渐消散,突然一个温热的东西贴了上来,我扭头从镜子里一看,强哥的头正贴著我的骚屁股,用舌头给我按摩呢。
顿时我觉得害臊了起来,非常不好意思的说,“强哥,別舔,那里脏。”
强哥呵呵了两句“没事,我不嫌你脏,你好好享受,一会把你送上天!”,说罢,强哥舔得更卖力了,我感觉菊花周围的嫩肉不停被强哥灵巧的舌头刮蹭,像是有千万只小虫在爬,痒痒的,心里明明害羞却不想让强哥停下了,我脸贴在浴室的墙上,仅仅抓住前面的扶手,我决定终於我肉体的感觉,只希望时间定格在这一刻。
慢慢的,我的鸡巴渐渐抬起了头,阴囊也由刚才鬆散的状態变得收缩成紧致的一坨,儘管我想掩饰,想多享受一下强哥技巧高超的舔弄,无奈身体上的变化出卖了我,强哥很快注意到了这个变化,停下来,用力拍了下我的屁股,“恢復的挺快啊,小骚货!”,“强哥,操我吧!”,我也不想装下去了,我很期待强哥一会要用什么方法操我。
“给你毛巾,擦乾了到镜子前等我。”,强哥的语气不容推脱,我听话的来到酒店穿衣镜前,相信大多数的酒店都有这样的落地镜子,站在镜子前,整个身体一览无余,我从上到下审视著自己健壮的身躯,鼓动的喉结,褐色的乳头,紧致的腰肢和小腹,略微勃起的鸡巴,粗壮的大腿。想像著之前操別人英勇的姿势,感觉全身上下都散发著一股威严。
而今天我要做0了,被另一个比我更高更壮的男人主宰著,臣服在他的大鸡巴下,任他挖掘我的骚劲,操出我的淫虫。
“把腰弯下!”强哥不知道啥时候已经来我的身后,把我立马从幻想中拉了出来,我只好笨拙的低下腰肢,“再低点!”,我感到有些屈辱,但仍继续往下,穿过我的襠,我看到强哥的健硕的大睾丸若隱若现,鼓鼓的,性欲非常旺盛的样子,我甚至能想像出它以后击打我屁股的情形。
强哥並不急於操进来,而是抚摸我撅起的屁股,光洁的后背,我费力的抬头看了眼,镜子里的我被迫弯腰屈膝的贴在镜前,像一条待操的母狗,散发著非常淫荡的气息,后面的壮汉略叉开双腿,熟练的挑逗著我,强哥一只手揉捏著我的屁股,另一只伸手从后面用力的捏我的蛋蛋,我有点疼,但又有点爽,想叫却发不出声音,只能更卖力的撅起屁股,轻微的扭动著,仿佛在求强哥快点进入正题。
我这一刻深刻感受到什么叫被人玩弄於股掌之间,也开始有点明白为什么0被操后会依赖於1,因为你乖乖趴下的那一刻,就决定了自己的身体交由身后这个男人来控制,是爽是疼、一切计画、一切节奏完全掌握在这个男人手中,而自己只有等著被操的份。
想到这里,我的头无奈的垂了下去,这时候,强哥调整了一下我脚分开的角度,我深呼吸了一口,因为我明显感觉到一个火热坚硬的东西已经到了我的洞口。
(三)
我继续用手扶在镜子前,脸贴著玻璃,身体稍稍前倾,双脚分开45度,儘量地撅起屁股,屏住呼吸,小心臟扑通扑通,略带忐忑,同时又期待后面的鸡巴破门而入,强哥的武器匀速的推进,有了刚才的扩充,这次稍微顺利一些,没有太大的阻碍,像是经过润滑的活塞,硬邦邦、直挺挺的冲进我身体里最柔软的部位,我闭著眼睛仔细体会著这个过程,甬道一寸一寸的逐渐被攻陷,菊花规律的收缩著,但显然没有太多的防守能力,直到强哥健硕饱满的阴囊也贴到我菊花,我真实的感受到菊花已经彻底沦陷了。整个过程可能就十几秒,对我来说却像是一场长达数年的没有硝烟的战爭,而我是被攻陷的那方。
强哥很爽的「啊」了一声,拖著成年男性成熟的嗓音,仿佛在举旗宣告战爭胜利,这时候他的旗帜就是身下那根引以为傲的肉棒,一抖一抖的仿佛在戏謔调戏著我,而我的菊花,一般都是只出不入的菊花,此时却被身后的这个男人全盘插入,进退不能,身心都被牢牢的控制著,我突然有种丧权辱国的感觉,於是非常有限的扭动上身表达我反抗的情绪。
强哥看到我扭动,以为我发骚了,「啪」一下在我屁股上来了一巴掌,“小骚货,这么快就发骚了啊,等下有你受的!”。打得我屁股火辣辣的,我觉得好刺激了,非常配合的回应:“哥哥,我再也不敢了,求你轻点操我吧!”,同时调整脚的位置,奉上我最柔软的菊花。强哥这才满意的扶住我的小腰,挺著他的大鸡巴开始抽动起来,就像是启动一辆汽车,鬆开离合,放下手刹开始上路了。
后面的鸡巴「噗嗤、噗嗤」的蹂躪著我的小穴,说实话並没有像很多小说中描述的那样怎么怎么爽,我的菊花周围隨著有规律的撞击是有种被按摩的感觉,但內部並没有太多的感受,可能跟这段位置並没有丰富的神经末梢有关吧,反而是有时候插的过快或者撞击到了某些特殊位置的会有点疼,我之前也对很多激情文字的真实性持怀疑態度,这次亲身体会更加印证了我这个判断,所以我现在並不喜欢看那一类文章,太过於缺乏真实感,完全是凭空想像出来的。
言归正传,我默默的承受著这一阵阵的撞击,蛋蛋打在我屁股上发出「啪啪啪」的声音,强哥肯定是个高手,他看我露出痛苦的表情,一只手不断在我身后游走,大力的揉捏我的屁股,按摩我的乳头这些敏感部位,鸡巴虽放慢节奏但仍然非常有力的操著我,並没有要放过我的意思,既展示他鸡巴的威严,又体现他体贴的柔情,真是个刚柔並济的汉子。
也许是强哥的爱抚让我的注意力得到了分散,或者是菊花渐渐適应了这种撞击,疼痛感没有刚才强烈了,偶尔有那么一两下还觉得挺舒服,我的眉头渐渐舒展开来,这时我开始睁开眼睛看著镜子里这个精壮的男人,看著他坚毅的脸庞,孔武有力的双手,匀称结实的身躯,还有一下一下带点痞子气的操人动作,虽然不快,但非常扎实有力,次次直达我阳心,心理上的快感战胜了身体的不適,作为此时正主宰著我的快乐和痛苦的男人,我的这一切变化强哥尽收眼底,他看我没哼的那么厉害了,开始继续採用下一步的攻势。
果然,他托起了我的蛋蛋,我的蛋蛋外形、体积也还不错,饱满而又有质感,以前是小0们的最爱,他们都喜欢跪在我脚下给我舔弄,含在嘴里玩吞吞吐吐的游戏。
但今天强哥可没有要给我舔的意思,他一边保持著刚才的节奏,用力的操著我,一边不紧不慢的滑动我的蛋蛋,对我蛋蛋来说,他的手心非常温暖,两只睾丸在他手心里非常舒服的运动著,快感在体內积聚,前列腺也在他的玩弄下愈发充血膨胀了起来,我似乎明白了强哥的诀窍,因为刚开始的时候,前列腺没有完全膨胀,强哥基本上刺激不到我的阳心,尤其有时候我会刻意躲避那个又酥又麻的位置,但隨著他对我睾丸的强烈刺激,前列腺跟著充血体积壮大,他的每次抽插次次都能命中我的阳心,而我更是无从躲起。
睾丸传来的快感,让我没有动力拿开他的手,菊花內前列腺的双重刺激又让我欲罢不能,就这样,快感像电流一样从我的阳心传送到全身每个角落,而他的鸡巴就是这套精密系统的发动机,是控制这一切快感的源泉。
在一波波的快感衝击下,我像一只在风雨中飘摇的小舟,承受著巨浪的拍打但位置却被固定在强哥的双手和鸡巴之间,撞出去等到以为快脱离这个鸡巴的侵犯时,又被无奈的拉回来。
一次又一次,反復不止,我的眼神越来越迷离,我试图擼动因为疼痛而软下去的鸡巴,却被强哥严厉喝止:“这一刻,你身体的一切都由要听我的命令!”而事实上,我的身体真的像是已经背叛了我,完全在他的控制下,並且鸡巴也真的神奇的一次次被操硬,强哥更加得意的耸动他的鸡巴,“看吧,你的鸡巴现在也臣服於我的鸡巴了,我的鸡巴让他硬,他就得硬,你等著,一会我还要命令它射精!”。
我低头瞧瞧我鸡巴那高高挺起又不停晃来晃去的贱样,暗自骂了句“靠,真JB不爭气!”
我两手扶著镜子,由於屁股往后撅的厉害,脚尖也不由自主的踮了起来,承受著后面强哥一波波有力的衝击,时间一长,大腿被操的酸软发抖,我提议到床上去玩,强哥痛快的答应了。
我舒服的趴在床上,脸歪著贴在枕头上,身体感受著棉质被套柔滑的触感,回想著刚才经歷那暴风骤雨般的袭击,终於能喘上一口气了但是很快,强哥赤身裸体的跳上了床,还挑逗式的用脚掌踩了踩我的屁股,说道:“小圆屁股挺性感的嘛,撅起来点,让哥哥好好伺候你!”。
「伺候」这个词让我我不禁又一阵害臊,但更多的是刺激与期待,一面想著强哥一会要怎么玩呢,一面配合著把屁股拱了起来,幅度不是很大,但鸡巴已经离开了床面,紧接著一双大手对著我的屁股肆意的揉捏了起来,强哥的手宽��略带粗糙,一定是没少干体力活,这样的一双大手几乎盖过我两瓣屁股,交替抚摸玩弄著,轻中带重,时不时的还从我身体两侧或大腿之间伸进去,揉捏我的鸡巴和蛋蛋,这种似有似无的抚摸让我非常受用,温存中有带著男人的野性,使我心甘情愿的奉献我身体最为隱私的部分,一览无余的供身后这个男人隨意享用。
我舒服的都快要沉醉了,直到一根手指非常自然的插入我的菊花,非常顺利,没有任何阻碍,我调皮的收缩我的菊花,让强哥感受我的紧致,强哥手指轻轻的转了转,“別急,还有呢,呵呵!”很快第二根也进来了,这次我没敢回应,生怕强哥继续三根四根的弄进来。
还好强哥比较疼惜我,两根都抽了出去,给我菊花加了点油,又给自己的大鸡巴加了点,强哥这时开足马力,准备大干一场了。
强哥把擦手的毛巾一扔,顺势扑在我身上,我的身体被他紧紧包围著,压迫的力度也刚刚好,温暖踏实,说实话,就这样被搂著,啥也不干,我也非常乐意,有种被保护被呵护的感觉,这正是我做0想要找的东西。更何况屁股上紧贴那火热的傢伙也提醒我,绝不可能啥也不干的。
那傢伙一跳一跳的,让我想起蓄势待发的摩托车,响起阵阵的轰鸣,而主宰这个硬傢伙的强哥此时牢牢抓住我的手腕,脚顶住我的小腿,仿佛我就是那辆他轻鬆驾驭的摩托。
我再一次被完全控制住,强哥总是这样,在开动之前就已经把我降服,让我丝毫没有还手能力,只能乖乖的任由他摆佈。这次和前几次不同,
我们全身上下大多数部位都紧贴著,强哥还呼呼地在我肩颈边催著热气,我感受到一种水乳交融的感觉,整个身心都被强哥所拥有。强哥没有要用手的意思,身下的大傢伙不停在我菊花附近滑来滑去,寻找最有利於进攻的位置,我虽然手脚受制,膝盖也勉强可以挪动些许,配合著让我的菊花快些早到后面这个冒冒失失的大傢伙,因为此刻,我被挑逗的也有点等不及了。
突然,我感觉到菊花口和强哥的大鸡巴契合上了,像是打桩机的头对准了位置,我括约肌还紧紧的闭著,我想是不是要完全放鬆放他进来,但想到之前的疼痛又有些犹豫,就在我迟疑不觉得时候,一股衝击力贯穿而来,直接突破所有防线,直达阳心!!
我倒吸了一头凉气,忍不住哼出声来,“啊!疼……”强哥这次没说话,鸡巴也没再动,只觉得他握我手腕的力道更强了,舌头一边舔我的脖子,我感觉到脖子凉凉的,软软的,有些舒服,但还是无法忽略菊花后面传来阵阵疼痛,难受的直哼哼,强哥放开我的手腕,双手分別从我的腋下穿过,紧紧扳著我的肩膀,我和他之间贴的更近了,我感受著他胸膛的温度,甚至还能感觉到他的心跳。
一系列的动作让我分散了注意力,菊花那里貌似也没有变的更疼,我深呼吸了一口,呼吸的节奏也慢慢平缓了起来,不再像刚才哼的那么厉害。强哥搂我肩膀的手也放鬆了下来,一只手还摸起我的乳头来。
我小心翼翼的调整了一下姿势,適应强哥的角度,过程中强哥稍微抽出一些鸡巴,缓缓的,坚硬的,未等我回过神来,很快又重新填了进来。强哥问“宝贝,好点了没?”,虽然还有些疼,我被强哥男人磁性的声音一刺激,不由自主的点了点头,紧接著,强哥开始抽动,过程漫长而绵绵不绝,我闭上眼,仿佛看到工地上打桩机,「啪啪啪」的往下击打的场景,我能想像当前的画面和打桩机是何等相似。
强哥雨点般的攻势下,我努力的承受迎合著。「啪啪啪」每每都落到实处,我像一个做错事的孩子,默默接受这一切。强哥重心仍在我背上,抽查的幅度不是那么大,但声音却出奇的大,啪啪啪不绝於耳,我还能感受到蛋蛋击打我洞口的感觉,大棒子欺负我就罢了,你们俩也来教训我,简直就是帮凶,哼哼!
强哥这次似乎没有前几次怜香惜玉,可能他估摸我也不会有太大的问题了,便不管不顾的操起来,我做一的时候有这种体会,不少0就是喜欢1爷们一点,不用太顾及他们的感受,我此刻也有相同的感觉,虽然生理上希望他能慢一点,轻一点,可以减少疼痛,但心理上却又喜欢他这样爷们的横衝直撞,按他自己的思路操我,整个过程全然託付与他,每一次撞击都能带来新鲜感。於是我咬紧牙关,疼中带爽的享受著,享受著后面爷们的撞击也好,惩罚也好,一切开心就好。
这时,强哥保持恒定的速度操我的同时,手也开始不安分起来,一会抚摸我的胸部,一会伸下去抚摸我的大腿和腹股沟,搞得我又睾丸紧缩,努力想发射又一波了,不行,我这样非被强哥操死不可,我假装膝盖支撑不住,屁股往下一沉,大鸡巴一不留神从我菊花中溜了出来。“强哥,我想坐单人沙发上,你站著操我。”强哥也许不知道,这是我使出的一招缓兵之计……
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)10月8日(火曜日)
通巻第8449号
嘘と偽善と贋物は中国四千年の文化である
血縁と地縁いがいは何も信じない硬直さ、他人は裏切りの対象
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野村総研(NRI)香港に『次の大国 中国』(1994年、サイマル出版会)の著者でもあるウィリアム・オーバーホルトが在籍していた時代。彼とはハーマンカーンの愛弟子時代からの知り合いだったので、香港へ行く毎に議論に出かけた。97年香港返還前にも現地取材へ『諸君!』の特派で赴いた。
筆者は中国の躍進という表面的な事象より、本当に中国の庶民、とくに奥地の農民の暮らしから判断しても沿岸部はのびる可能性は高いが、アンバランス解消は不可能であり、全体として中国が先進国入りすることはないとした。
反対にオーバーホルトは、楽観論だった。
当時の野村證券グループは中国に積極的に関与し、中国企業の株式に強気な予測をたてていた。
しかし楽観論者が立脚する中国の公式データはまったく信用出来ないシロモノである。
中国の若者の失業率が、2024年9月に18・8%と公表され、それほどの不景気かと驚いた人が多いが、これは真実を反映してはいない。低すぎる数字だからだ。
中国の失業率の定義は「過去3カ月間、求職活動をしており、適切な仕事があれば 2 週間以内に働き始めることができる人」である。 調査対象は、12万戸で、訪問調査をもとに算出されている」
つまりサンプリングが少ない、地域の選び方は恣意的であり、問題は「求職活動をしている人」を如何にとらえているのか、ぶらぶらしている人間は算定されず、農家に戻った大量の建設労働者は農民人口に置き換えて失業の範疇に加えていない。
日本はハローワーク速報でも雇用情勢がつかめるし、失業保険需給状況からも正確な数字がでてくる。
中国の「国家統計局」なる機関は1952年に国務院直轄の行政機関として発足した。だから国務院総理(首相)が適宜適当に数字を改竄したり、地方政府幹部が北京に陳情に来て、統計局長に「良い数字にしてくれ」と賄賂を運ぶと、数字は上方に訂正される。国家統計局長が愛人とフランスへ高飛び寸前に北京空港で逮捕される事件も起きた。賄賂は桁外れに大きかったからだ
「あんなもの(中国の経済統計の公式データ)を信用しているのですか」と駐北京米国大使に発言したのが、李克強首相その人だったことを私たちは鮮明に思い出す。
2024年度の中国GDP成長率が5・2%で名目4・6%と発表されたが、こんな作り話を報道する日本のメディアはどうかしている。「三割水増しが常識」というのが筆者の持論だが、「水増し」(中国語は「灌水」)ではなく「捏造」だと石平がいう。
中国人社会は嘘で成り立つ国であり、誰もが産まれてから死ぬまで嘘をつく。朝から晩まで、いや夢のなかでも嘘をついている。そうしないと生きていけないからである。
嘘と偽善と贋物は中国四千年の文化であり、血縁と地縁いがいは何も信じない精神性の硬直姿勢はかれらの宿痾と言って良い。
となると役所も役所なら企業経営者にあっては三重帳簿が常識で、税務署提出用、銀行と株主総会提出用、そして自分用である。
官僚は収賄、企業側は賄賂、これらが社会の潤滑油である。だから毒入り餃子、石灰入りのペットフードや薬品、グッチ、ルイビュトンの贋物なんぞ朝飯前。公共工事は政治家の利権だから手抜き工事は当たり前。橋梁がおちたらなかに鉄筋ではなく生ゴミがはいっていたっけ。そしてばれても決して謝罪しない。つぎはもっとうまくやると誓う。デジタル人民元最大の目的は、じつは偽札対策なのだ。
警察とヤクザはグルである。これを「十警九黒」、あるいは「警匪一家」という。贋物商人らの認識では「無奸不成商」(阿漕に稼がなければ成功しない)となる。筆者が講演でよく喩えるのは「中国では石川五右衛門と長谷川平蔵は同一人物なのです」
日本人が美徳とする「知行合一」の発想は中国人にはない。「陽明学」は中国で生まれ、日本で純粋培養された。中国で陽明学とは「殺人の哲学」として忌み嫌われている。
したがって「文武両道」は理解不能、中国では「尚文卑武」である。だから利にさとい権力と結んだ商人が出世し、軍人は「最低の職業」となる。軍のモラルは信じられないほどに低い。このような社会構造の中国が、今後も経済成長を持続させるにはたいそう困難をともなうだろう。
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八篇 上 その二
大阪で宿とった弥次郎兵衛と北八。 あんまにもまれながら菓子売りと話している。
菓子売りの女が茶をくんで、お盆にのせ持ってきた。 「さあ、ぬくいのをあがりなされ。」 弥次郎兵衛は、 「せっかく、お前がきなさったものを、まんざらそっけなくも出来ない。」 と菓子箱をながめて、 「これはいくらだ。」 と適当に指差すと、 「はいはい、それは、一番安いやつじゃわいな。 そりゃ美味しくない。こっちゃ、あがって見なされ。」 と勧めるので弥次郎兵衛も北八も丹羽の人も、てんでにとって食う。
「でも、待ちねえ。こんなに勝手に食っちまうと、数がわからねえだろう。」 と北八が言うと、 「よござります。なんぼでも、あがりなされ。 こちゃただでもあげよわいな。のう、おたこさん。」 と、あんまにいうと、 「さよじゃわいな。さあ、ようございます。 こっちゃのおかた、もみましょかいな。」 と弥次郎兵衛の肩をポンと軽く叩いて、 「おう、もうおしまいか。」 「さあ、あなた、わしのそばによってかいな。」 と、北八に声をかける。 「それ、よしかよしか。」 と弥次郎兵衛と場所を替わると、 「さあさあ、もうひとつ、あがりなさらんかいな。」 と弥次郎兵衛に、菓子売りがいう。 「おなべさん、御ちそうなされ。 このお方は、えらい気前のいいお方じゃわいな。ささ。」 と北八をもみ始める
ここで、丹波の人が、 「こりゃ、お前たちの口車に乗って、えらい、食ったのけ、何ぼぞい。」 と問うと、 「はいはい、お三人さまで、二百四十八文でよござりますわいな。」 と言う。
「やあ、とんでもないことを言う。 そんなに誰が食ったんだ。北八はいくつだ。」 と弥次郎兵衛がびっくりして答えると、 「さて、いくつ食ったか。」 と北八は、あんまにもまれていて気持ちいい��か、適当に答える。 「わしは四文のを五つくたから、そりゃ二十やるぞ。」 と丹波の人は、銭を払ってしまったので、 「そんなら、あとは二人で出すのか、ばかばかしい。 菓子よりか宿代の方が安い。」 と北八はもまれながら、なんとなく上の空でいう。 「それじゃてて、あがりなされたのじゃから、 しょうことがないじゃないかいな。おほほほ。」 と菓子売りもひかない。
「いや、おほほじゃねえ。無茶苦茶なはなしだ。」 と小言を言いながら、弥次郎兵衛は仕方なく銭を払うと、そのうちあんまももんでしまい、 「あんまさんはいくらだ。」 と北八がきいた。 「はい、おふたりでちょうど百文おくれいな。」 「なんと五十づつか。こりゃ高い高い。」 と思わず大きな声で北八がいったが、これも終わったあとでは仕方なく、百文出してやると菓子売りとあんまの二人は、そろって出て行く。 その後姿を見ながら、 「上方の女にゃ、油断がならねえ。 しかし、菓子売りが俺たちを、いいようにしたと思ってけつかるであろうがそうは問屋が卸さない。 とっくに菓子をここに、隠しておいたのをしらぬやつさ。」 と後ろを探したが、菓子はどこにもない。 北八も同じように自分のうしろを探ってみていたが、みつからない。 そこへ、女中が、湯飲みと急須を持ってきて、 「御退屈さまでござりましょ。お茶でもどうぞ。」 と置いて行く。
北八はまだ、あたりを探しながら、 「ええい、さっきの菓子があるとちょうどいいのに、どうしたんだろう。」 と言っているのに、丹波の人が、 「そりゃ、さっきのあんまが、取っていったんだろ。ははは。 それより、ここにいいものがありよる。」 と後ろの柳行李から、小さな包みを取り出して、 「さあさあ、こりゃ、道修町の店で貰うてきよったさとう漬じゃ。 茶の子にひとつやらっしゃれ。」 と持ち出してきた。 北八が、 「こりゃ、ありがてえ。弥次さんどうだ。たくさんいただこうぜ。」 と言うと丹波の人は、 「いんや、そないに食うてもらうてはならんわい。こちにくされ。」 とひったくりて、そうそうにしまってしまった。 そのうち女中が布団を引きずり持ってきて、 「もう、お床のべましょうかいな。」 とそこらを取り片付けると、また、別の女中が枕を持ってきてほうりこんで行くのを見るとはなしにみると、どうやらさっきのあんまのようだ。
皆々びっくりして、 「もし��中さん。今そこへ来た女は、さっきのあんまじゃねえかの。」 と弥次郎兵衛が聞くと、 「さよじゃわいな。」 とそれがどうしたのかという顔。 「どうして目が見える。」 と北八が聞くと、 「ありゃお客さんがたの前に出るのに、目あきでは、お客様が気をつかうから、お座敷へはあないに目の見えんふりして出てじゃわいな。 この家でやっかいになってるから、ここから帰る前には、いつもあないに手伝ってんでじゃわいな。」 「どうりで、俺の事をよくあてたはずだ。目が見えるものを。」 と弥次郎兵衛は、苦笑い。 「そんなら俺が、さっき隠した菓子も、横取りしたに違いない。」 と北八も、苦りきって言う。
「ああ、おかしい。 お前さんがたがくすねた菓子も、今はこれ、私が貰いましたわいな。」 とたもとから出して見せ、笑いながら出て行く。 その様子に、 「大笑い大笑い。」 「やっぱり、あっちの方が一枚うわてだ。ははは。」 と二人は、笑い出した。
ろくろくに 按摩もせずに 菓子までも こちらに目がない ゆえに取られた
そんなこんなでそれより三人とも布団を、引かぶり寝ることにした。 丹羽の人は、はや高いびき。 でも二人はいまだ寝られない。
なんとなく話していたが、裏通りに「火の用心」の声が聞こえてきた。 北八はふと頭を上げて、 「おい弥次さん。お前、ごそごそと何をしてるんだ。」 「なぜかあんまり寝付けないから、ふっと思い出した。 これ見ろや。足でこんなものをかきよせた。」 と布団中から、小さな袋を取り出した。 「おや、そりゃさっき、あの人の出したさとう漬じゃあねえか。」 と北八がいうと、 「こりゃ、声がたかい。 柳行李のわきに出してあるを、さっきからにらんでおいたんだ。」 「こりゃいい。ひとつよこしねえ。」 「まてまて。」 と弥次郎兵衛は暗い灯りのなかでよくわからないが、袋のふたを取りひとつつまんで口に放り込んで噛んでみると、かっちり。 「こりゃ、固い。」 と言う弥次郎兵衛から、 「どれどれ。」 と北八も、袋の中から一つ取り、これもつまんで口にいれると今度は、ぐしゃり。にちゃにちゃ。 「ええ、なんだ。こりゃ、灰だらけなものだ、ぺっぺっ。」 と吐き出してしまう。 「こりゃ、さとう漬じゃあねえ、なんだかおかしな匂いがする。」 と気分が悪くなって、げいげいとやりだした。
この声を聞きつけ丹羽の人が目をさまし、この様子にびっくりしてはねおきて、 「やあやあ、わりさまたち。こりゃ何しよる。わしが女房をなんぜくいよる。」 と慌てた様子。 「なに、お前のかみさんたあなんのこった。」 と弥次郎兵衛は、訳がわからない。 「なんのこっちゃとは情けないわいの。ありゃ、わしの恋女房じゃわいな。 その入れ物のふたをよう見やれ。」 と丹羽の人に言われて弥次郎兵衛はとんでおき、灯りの前に持って行くとそのふたの書付をよんだ。
「はあ、秋月妙光信女。てことは、この袋の中身はお前のかみさんの骨だな。」 「なに、骨とは、こりゃ大変。 どおりで胸がむかつく。ええ、どうしよう。」 と北八は、ますますげいげいやりだした。 「わりさまたちの胸のわるなったより、わしの胸がつっぱったわい。 こりゃ、わしどもの村のきまりで、その骨を高野へおさめに持っていきよるにござるわい。 ようまあ、大切な仏をなんぜ食いよった。貴様たちは、真人間じゃあるまい。 鬼か畜生じゃろ。」 とたもとを顔におしあて、おいおいと泣く。
弥次郎兵衛もおかしさ半分、小腹もたって、 「ええ、ごたごた言うんじゃねえ。お前がさっき柳行李を開けた時ころげ出たをしらずに居たのは、そっちの失敗だろ。 それをさとう漬だと思って、食ったのがこっちの失敗。 それで、五分五分だ。何もごちゃごちゃ言うもんじゃねえ。」 「いやいや、きかんきかん。元通りに弁償してかえしや。」 と丹波の人は息まいていて、涙まじりにわめきちらしているので、北八がいろいろと断りをいって、さまざまなだめすかして、ようよう納得させて、落ち着いてきたので弥次郎兵衛も内心面白かったのだが、 「いや、もうめんぼくしでえもねえのさ。」 と弥次郎兵衛が一首詠む。
人の骨 食うのも当然 若いとき 親の足をも かじりたる身は
と弥次郎兵衛がくちずさんだのに丹波の人も心とけて、笑いを催し機嫌もなおってうちとけた。
まもなく一睡の夢さめて夜も明けてしまうと、女中が起こしにきて朝食もさっさとすましてしまった。 丹羽の人は高野へ出て行った。
つづく。
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手に���かれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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《 我的粗壮渔夫 》-民工男男小说,直男同性,农民文章
我家以捕鱼为业,一个既古老又传统的行业。先祖本是越人,为避秦乱,逃入江海,以渔为业,久而成蜑,就是现称的蛋家人。有人以为水上人就是蛋家人,
其实并不尽然,蜑是一个族矞,水上人不过是以捕鱼或航运为业,又或以舟为家
的人而已!(此非本文主旨,可以不理!!!)
自小我便居于船上,就是常在渔港中看到的有帆渔船,起居地方狭小,但除
了泊港的时候,每天都是置身海阔天空里,尤其是到公海捕鱼,更是水天相连,
出海的日子蛮苦闷的,有时风高浪急,有时数天不着陆地,脚下永不踏实。
然而,自从来了外聘工人李杰,我的生活即有了色彩,海上生活也踏实起来。李
杰是大陆人,是合法的外聘劳工,二十七,八岁,是个不折不扣的粗汉子,听说
他是下岗的兵哥,老家是四川。由于大陆精简军队,他下岗转为渔民,刚巧我爸
需添人手,他就聘在我们的艇中干活。
第一次看到他,我即被他粗豪,高大的外表深深吸引着,他来了一个多月,
但很少说话,除了工作,他祇是看着大海抽烟,浓密的粗眉永远深锁,像有无数
心事,粗而短的须根,更添他的沧桑味,我最爱偷偷看他。
今天渔获不错,爸命令提早回航,除了开船的叔叔,爸和工人都在船仓稍息,
李杰又蹲在船尾抽烟。他赤裸了上身,衹穿了一条黑色粗布裤,卷起了裤管,小
腿的蜷毛很是性感。
「嗳,小伙子,老是看着我干吗?」我正坐在船舵边看着他动人的粗臂,忽
然被他一问,我几乎不能反应。
「没,没甚么,就是看看有甚么大不了!嗳,你为什么不常说话,不爱在此
工作吗?」我故意拉开话题,但目光却没有离开过他长着短毛的乳头,在壮实的
胸肌上,显得格外性感。
「我不爱说话!」他似乎看出我对他身体有遐想,低头看看自己的胸肌,微
微一笑,然后站了起来说:「喜欢?」
宽阔的肩膊,挺凸的胸肌,粗壮的手臂,凹凸有致的腹肌,黝黑的肤色,在
夕阳的照耀下,好像一尊雕塑。
我举头看着李杰,真想走过去将他抱着。
「小伙子你多大?」他问。
「十九,怎样?」我答。
「原来不小了,我猜你才十六,那甚么也可做了!」他说。
「可做甚么?」我不明所以。
「你心里想甚么就做甚么,你常看着我想干甚么!」说着他走到船尾近抛锚
的地方,突然拉下裤子,掏出阳具——一条粗黑的阳具,向着大海撤尿,我看得
心差没跳了出来。尿毕,他把粗屌上下一抖,抖去余滴,龟头好像又大了一点。
李杰转过身来,在我面前,将大屌塞回内裤里,裤裆中仍隆起一大包。
他笑吟吟的向我走来,突然伸手在我下体一握,我被出奇不意的动作吓得向
后一退,险些堕入海中,但身手不凡的李杰合手将我一抱,在他的怀中,我首次
面颊贴在他挺凸的胸膛里,一阵男人的汗味,令我几乎醉倒。
「对不起,没事吧,差点玩出祸来!」他手拍在我的屁股上,歉意地说。
我没有回答,只是细味着「差点玩出祸来」的那句话,若只是玩的,那实在
令人失望。海风吹得船帆鼓满,看看李杰的裤裆,都是一样!
船泊岸后,我们立刻将渔获运到鱼市场去,交收事宜都由爸爸及叔叔处理,
我和李杰帮手搬运,但法例上他是不能上岸的,待办好事后,每次都由爸开船载
返大陆,到下次出海再来。但今天爸很累,着李杰在艇中留宿一晚,明早再走。
我家有三只船,一艘是家,一艘作业,另一艘较小的,作替补之用,李杰晚
上就睡在那儿。在大船吃过晚饭,我带他到小船去。那儿虽小,但亦房牀俱备。
李杰走到仓内,就大字形的躺下。其实,我们蛋家艇没有分牀与地,整个船仓都
铺上塑胶席,起居、饮食、睡觉都在此。天气仍是热,我们的汗衣早已湿透,李
杰索性脱去衫裤,衹穿着破旧老土的大陆平价内裤,拿着扇子不断的扇向身体。
「小伙子,这么热怎睡,可有水冲凉?」
「就在船尾,露天的,衹围板遮身。」
「遮不遮也所谓,不脱内裤便可,穿着冲凉都是一样,进来可以不穿。」他
还未说完就走到船尾冲凉,也懒得入围板中,穿着内裤就一瓢一瓢水的往身上淋
去。月色下,他几乎全裸,健硕原始的身体,在水光中更是凹凸分明。
「小伙子,你不冲么,很舒服!」他向我示意一起洗。
我求之不得,像他一样,脱剩内裤,在月色下,与他一起淋浴。看着他的身
体,我早硬了,撑得内裤隆起。李杰看到,又伸手轻轻一握说:「你这小子不规
距,嗯,不小啊!」
他的一握令我更加涨大,再看看他的,亦已高高竖起,龟头险些伸了出来。
李杰此刻突然发劲拉我进入船仓内,垂下仓门,在淡暗的灯光下,他扯下自己及
我的内裤,以湿漉漉的身体把我搂着,在他的怀中,我吸啜着有毛的乳头,李杰
的手则不断挖进我的股沟。
「小子,你老爱挑逗我,今晚你杰哥给你尝过饱,来,给杰哥吹吹爽!」他
躺在地上,挺得大屌高高的,示意我为他吹。
我一点也没有犹豫,趴身张口就含着硕大的龟头。李杰将我身移向他身上,
成69式,所不同的是我像狗的趴在他身上,屁眼及屌完全近距离暴在他面上,而
他一边为我吹,一边以手指插入我未经人道的处男穴。
我从未有过被吸的经验,吮着李杰的大屌巳万分兴奋,再被他一吹,一股冲
动由丹田涌上,阴茎一阵抽搐,已射入李杰口中。但他没有松口,我不断射,他
不断吸,直至我射毕。跟着,他要我平躺在地,然后将我双脚架在肩上,吐出口
中精液,涂在大屌上,揉搓一轮就开始捅入我的肛门中。
「你不是常看我吗?你喜欢我的屌,我就给你,忍着,哥会叫你爽翻天,啊
…妈的,真紧,放松点…。啊………他妈的,比处女还紧,好,我爱操紧洞……
…啊!」他边插边用手尽量掰开我的股沟,一种前所未有的剧痛直剌心田。
「呀………。不行………。呀,很痛,会爆的,李杰,太大啦………呀,不
…。求你停啊…………呀………………」我痛得肚腹抽筋,但他并不理会,衹是
发狠的捅,差不多八吋的巨屌,一点一点的顶入我的肠壁中。
「嗯…………小子,我第一眼见你就想操你,你这蛋家屁股特别圆挺,最好
操的………。啊,都全进了,爽吗?啊………………你杰哥耍抽插啰!」
话还没说完就开始大力的拉出,跟着又拼命捅入,那种挤压的感觉,令我不
知是痛还是乐,我死命的搂着他,咬完他的肩膀就和他激烈的湿吻。李杰的口腔充满烟味,但我迷醉在他粗犷的男人味上,我吸吮着他的舌头,吞着他的唾液,肉纹 帅炆 直男、民工 1X0文 唛文微 星 labi(腊笔的拼银)10010。 第一次,他干了我差不多半小时,射了还不肯拔出,只是搂着我,不久,又硬了,再操。这初夜,李杰足操了我一整晚,我已分不出是舟摇还是人动,是觉长夜里,有枝长桨在我的肛门撑着,不停地摇曳!
自此之后,我成了李杰的人,他愈来愈爱操我,而且一次比一次操得利害。每当没有人的时候,他甚至要我乾诡不穿裤子,他说这更加方便干我,一想要就
可立刻捅进来。在船上工作,往往要蹲身或趴着,不穿裤子,后庭定必大开,他就是最爱看这个姿态,衹要看见就即时掰开我的股沟狂舐,舐完就操,而我也变得要被他每天操过才安乐,李杰已成为我人生的一部份。
碧海里,烟波千顷,一叶轻舟何其渺小,但在他壮硕的怀中,只要他挥动巨屌,我仍是感动无比的安稳,踏实。
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日経新聞の特集記事の「間違い」 坂本氏は、(1)「生き残っていれば、世界と戦えた」とか、(2)問題は「資金力だ」と発言したが、全く事実は異なる。調査結果で論じたように、異常なまでの高コスト体質のエルピーダが倒産したのは必然である。「坂本社長のエルピーダ」は淘汰されたのであ��。資金力の問題ではない。収益率の低さが問題であり、収益を出せない技術にこそ問題があり、そこに経営のメスを入れることができなかったことが致命傷になったのだ。 日経新聞の(3)「エルピーダの破綻劇は、官民が巨額投資を伴う長期戦に耐えられなくなった構図」というのも間違っている。繰り返すが、過剰技術で過剰品質をつくり、歩留り100%を目的にする、そのエルピーダの企業体質が問題だったのだ。 東京理科大大学院教授の若林氏の(4)「DRAMの技術や最終製品の動向を、当局や金融機関が十分に捉えられていなかった」や(5)「日米貿易摩擦の記憶が残る日本」などは、全く的外れな指摘だ。もっとエルピーダの技術の実態を見て発言してもらいたい。 萩生田経産相の(6)「世界の半導体産業の潮流を見極めることができず、適切で十分な政策を講じてこなかった」という発言もどうかしている。昨年(2021年)6月1日の衆議院の意見陳述でも述べたことであるが、経産省は呆れるほど「合弁、国プロ、コンソーシアムをやり続けた」のである(図5)。そして、全部失敗した。「経産省が出てきた時点でアウト」なのである。その反省をなぜしないのか? 図5 合弁、国プロ、コンソーシアム、全部失敗した (出所:半導体シェアのデータはガートナーおよび一部筆者予測) (7)TSMCの誘致を奇貨として日本での産業基盤を強くするためには「「設備にしても開発にしても『カネ』と『ヒト』だ」という経産省の西川課長、『ヒト』を育成してからTSMCを誘致すべきではないのか? 順序があべこべだろう。そして、(8)「九州では人材育成の準備を急ぐ」というのは、あまりにも泥縄すぎるだろう。 筆者が日経新聞の特集記事を読んで、うんざりした理由が分かっていただけただろうか? 「マイクロンになってよかった」という社員たち 坂本氏、日経新聞の記者、東京理科大大学院教授の若林氏、萩生田経産相、経産省の西川課長には、EE Times Japanの記事「『Micronになってよかった』という言葉の重さ」(2019年7月8日)を、目を見開いて読んでいただきたい。そして、「Micronになってよかった」という言葉の意味をよく考えていただきたい。 筆者も、2019年に広島で国際学会があった時、旧エルピーダで現マイクロンジャパンの社員たちから、「マイクロンに買収されて本当のDRAMビジネスが理解できた」「エルピーダが倒産したのは不運だったのではなく、当然の帰結だ」「外資企業となった現在は完全な実力主義であり、実績を上げれば昇進・昇格・昇給できる」「仕事は大変だが充実しており、エルピーダ時代がいかに甘かったかが実感される」ということを聞いた(「中国は先端DRAMを製造できるか? 生殺与奪権を握る米国政府」EE Times Japan)。 このような実態を理解せずに、日本半導体産業への政策などは、一切行わないでいただきたい。それは税金の無駄遣いであり、何度も失敗の歴史を積み重ねることになるからだ。本当に、もう、うんざりなんです。
まだそんなことを言っているのか!間違いだらけの「エルピーダ破綻の原因」 あれから10年、まったく生かされていない“教訓”(7/7) | JBpress (ジェイビープレス)
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読んだ本の余韻をそのままに小旅行の記録を残す
三重県の丸善でその本を見つけた時、私はこれを確実にこの年末に読もうと決心したのだった。
私の年末は読書の為にある。
正確に言うなら読書の為にもある。他の目当ても沢山ある。例えば、友達に会うこと。例えば、街を歩いて故郷の空気を胸いっぱいに吸い込むこと。
さて、この年末とは即ち令和6年、西暦2024年12月29日日曜日から31日火曜日までの3日間のことだ。
そしてその本とは古川日出夫「京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る」だ。
だから私はこれを携えて西へ帰った。
即ち名古屋から京都へと。
私の実家は京都ではないし、一度も住んではいないが、仮住まいもなかったのだが、「帰った」と言ってはばからない程には故郷のように愛している街である。
私は道中、読んだ。
しかし京都では読んだか。題に謳われし京都に着いて以降は読んだのか。読まなかった。
その代わりに京都を歩いた。
これには書かれていない京都を。即ち洛外を。
洛外のどこであるか。それは京都市伏見区だ。伏見区の稲荷大社だ。
一人でか。否、もう一人いた。大学時代の友人がいて、だから二人だった。
私たちが約束したのは令和6年、西暦2024年12月29日だった。
日曜日と言い添えるべきか。いや、もう書かずとも構わない。
バカンスに曜日は意識されない。
我々はわざと隣の駅で待ち合わせて、二人とも遅刻していて、しかしお互い気にしないで、挨拶を交わして、それから歩いて。
すぐに稲荷大社へ向かう訳ではない。
隣の駅で待ち合わせたのは訳があり、見たいものがあったからだ。
目的の一番目を達する為、京阪電車の龍谷大前深草駅を降り西へ向かう。
そこは普通の文教都市の住宅地である。しかしそこは京都の住宅地だ。並みの街とは、風格が違う。
実はそこにはカタカナ地名がある。漢字を受け入れる前の、日本の、この国の、古い古い記憶が残されている。
それを見る。標識に、看板に、自治会掲示板に。
まず、駅を降りるとそこはススハキ町である。
それからまっすぐ西へ歩き龍谷大学深草キャンパスと京都府警察学校との間を抜けていくとヲカヤ町。
誤字ではない。
地名であるにも関わらずーーー現今の国語体系ではまずありえないことにーーー「を wo」の字を冠する町がある。
それを確認して嬉しくなった所で大学の学舎群に沿ってぐるりと回って戻って来ればケナサ町に至る。
固まって所在する三つの旧い町を見、満足して私達は北進する。
するとすぐ、国際観光都市京都の、Kyotoの、面目躍如であった。
当然日本人もいて、地元の人々や九州人や関東の人がいて国の言葉が飛び交う。しかし同等かそれ以上かと思われる程に肌や、眼や、言葉の違う人がいる。コーカソイドがいて、モンゴロイドがいる。
私たちは本命の目的地に着く。
巨大な二本の鳥居の下を通り、歩く。
山を、神域たる山を登っていく。
千本を優に超えていると思われるほどの夥しい朱の鳥居が続く。
くぐる。
歩いて。
登って下って。
鳥居に挟まれた道は狭い。
狭い参道を歩いて、登って下って、鳥居をくぐり続ける。
参道で産道を連想する。
しかしこの場所で生まれるーーー生まれ直す人の数が、多い。
だから、混んでいる。
稲荷神社の狐は多産の象徴だから正しい状況とすら言えるかも知れない。
自撮りする旅人を抜かし、恋人を「映えスポット」で撮影するこれも旅人をそっと待ってから進み、家族写真を手伝おうか迷って、足を止めるが友人は行ってしまうので追う。
二人は黙って歩いていたのではない。しかし会話を続けるには狭くて、混んでいた。
だから途切れ途切れに言葉を交わした。
私たちは久方の再開をおざなりに寿ぎ、散策を開始し、以降休まず歩き続けているのだった。
体がほぐれ、心拍が上がる。
狭い参道で人を避ける為に縦一列になりまた戻りを繰り返した。並んでいても遠ざかったり肩が触れ合いそうな距離を歩いたりした。
状況に応じて左右を入れ替わったりしている内に奥社奉拝所に出た。
それぞれに願を掛け、おもかる石に挑戦した。
また、歩く。
四辻まで辿り着く頃にはすっかり日が傾いていた。
森は緑から黒に移ろい、濃さを増していた。
稲荷山参道の四辻は開けていた。視界が。街に向けて。西を向いて。
国立天文台の発表によると、令和6年、2024年12月28日の京都市における日の入り時刻は16時53分だ。
だからこの思い出はその時刻の頃だった、と後からでも断じることができる。
しかしその日の私はそこで時計を検めなかった。
スマホのカメラを夕焼けに向けながら、しかし画面の隅の時刻は確かめなかった。
バカンスに曜日は必要なく、もう時刻すらも煩わしくなっていた。
ここで明かしておくと、私は稲荷山を登るのは初めての事ではない。
なので四辻が眺望という観点ではゴールであることを知っていた。
なので念の為に尋ねた。友に。まだ、進むのかと。
進む、と友。
応、と私。
四辻の先、山頂へ向かうルートはすぐに角度を増した。我々は試されていた。
我々の腿が、ふくらはぎが、踵が、心臓が。
三の峰、二の峰、最後の一の峰に着く頃には、混雑ではなく疲れから口数が減っていた。
しかし引き返すという手はなかった。
かわりに足を出して歩み続けるのだった。
裏稲荷、という言葉は存在しないが、四辻で右を選び、一の峰、すなわち山頂からそのままぐるりとまた四辻へ戻る道は正に裏、といった風情だった。
日は暮れていた。下り道が続いた。お喋りは減り続けて今や殆ど止んでいた。
電灯がかろうじて鳥居の内側を照らしてるだけで、外側はもう全くの暗がりだった。
自分たち以外の観光客も殆ど見なかった。
四辻でまた観光客を認め、進んで三ツ辻へ再び差し掛かって、先に来た方角へは戻らず、北向きのルートへ入った。
登りと同じだけ人がいるのが道理だと思うが、目の届く範囲が無人であることが多くなる。
二人きりになることが増えた。
闇に包まれているが自分達の道筋だけは明るい。
不安定な傾斜の中で、お喋りの途切れた時、不意にこれまでに感じたことのない種類の親密さを傍らの友に覚えた。
音のない森の中で、それがいつかも分からず、方角をも知らなかった。
上と下、前と後ろ、内と外の別だけがかろうじて残っていた。
幽玄で原始的な感覚の中で傍らの人の存在は強烈だった。確固としていた。
肩が触れた。
そっと手を取りたくなってーーー迷って止した。
今日は本当に楽しかった、私は言った。
そやね、またね、友が言い、分かれた。
互いに交わり合うことのない観光客同士で混雑する、JR稲荷駅と京阪電車伏見稲荷駅の中間地点で、私たちは一人ずつに戻った。
高揚は続いていた。
私は実家へ帰る道すがらまた本を読み、実家で読み、名古屋で帰る道中でまた読んだ。
僅か三日の経過がめぐるましかった。
日常があり、今やそれは休んでおり、非日常なひと時があり、そこで新たな感覚を得、虚構の世界に入り、また出ていこうとしていた。
京都には私の過去が、今が、そして虚構すらもが重なっていた。
境目はあやふやだった。
混ざりつつあった。
帰名の道中、梅田スカイビルを見た。
JR西日本の新快速に乗り、僅か十五分揺られるだけで乗り換えの京都駅に着いた。
乗り換えの合間に京都駅舎を内から外から眺め、観察し、原広司の世界を楽しんだ。
作中、古川が住んでいたという原広司事務所策の借家を思った。
私はこの本のカバー裏に京都駅来訪記念スタンプを押すことにした。
改札の近くまで行くと、南西アジア系の浅黒い肌をした観光客がはしゃぎながら先にスタンプを操作していた。
すぐに私の番になった。
この思い付きはーーー迷わなかった。
ハンドルを下げ、抑える。
手を上げてみると案外インクが薄く、期待外れだったが、これで全てが繋がったと思った。
内と外も。リアルとフィクションも。過去と今も。
ここを地獄の、とは言わないでおく。
ここは国際観光都市Kyoto。
愛する街を離れながら、私は次の本を開いた。
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かすが野にふれるしらゆきあすのごと けぬべくわれはいにしへおもほゆ 秋艸道人
今年最後の出張は奈良と伊賀でした。撮った写真を数葉載せます。手向山八幡宮で見た、遅い落葉は杉謙太郎さんの花を思い起こさせるものでした。
2023年もお客さま、作り手・配り手の皆さんのご協力を得てなんとか一年を過ごすことが叶いました。ありがとうございます。
店の仕事としては、今年は「風の会」「LICHT LICHT 金澤さんのサンダルと靴」「小島優さんの椅子」「オホーツクの木工」といった新しい試み、また久しぶりだった大隈美佳さんの会、二年ぶりの出西窯青年展なども行いました。新しい会をやろう、やりたい、やるぞ!と思って準備を始めるわけですが、いざ告知も済ませ、品も届き、展示替えをしている時には、これ、僕らはすごく好きな仕事、そして好きな作り手なんだけど、みなさんにこの気持ちが伝わるかなあ、伝わって欲しいなあ、と不安になります。振り返ってみれば、それぞれにお客さまに楽しんでいただけたようで、ほっとします。
また、今年からは術後の経過もある程度落ち着き、執筆仕事はもちろんのこと、あらためて出張や講座が増え、各地でたくさんの方にお世話になりました。みなさんからご教示いただいたこと、来年以降の仕事に結実すべく、準備を進めます。
ほか、民藝関係の仕事としては、五月に福岡民藝協会長を引き継ぎ、六月に日本民藝協会の役員改選があり、常任理事及び民藝誌編集長の続投が決まりました。これに合わせて編集委員会の改組を行い、これまで以上に多様なメンバーに参加いただくようにしました。民藝というキーワードを固定した記号としてとらえず、今の暮らしのなかから生まれる言葉によって、様々な方の口から語っていただけたら、と願っています。そして、九月号から民藝誌の電子版を発行したことも、一つの転機かと思います。1926年の「民藝」提唱からあと2年で100年。その年に向けた準備も進めます。
いずれにしましても、来年は店も20年、僕も50歳。五十而知天命、といくかどうかはわかりませんが、しなくていいことがはっきりしてきた、とは思います。まあ、ずっと以前から年末に記す「来年の方針」は「したくないことは、しない」なので、変わらないと言えば変わらないのですが。
2024年もよろしくお願いいたします。
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