#加茂金秀
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#日本酒 #sake #日本酒うさぎ 土曜日のラストはうさぎで #加茂金秀さくらふぶき #箕面ビールスタウト (日本酒うさぎ) https://www.instagram.com/p/Co9YJqSSiTg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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自民党総裁選候補の最終的印象(敬称略) 小林:太陽光パネル補助金いらん 小泉:空っぽ。親離れ(郵便局長会よろ) 石破:財政規律ガ― 河野:思いついた政策つぶやくだけ 上川:思い出づくり総裁選 高市:アベノミクス-成長戦略+規制 加藤:いたのか 林:ピアノひいてた 茂木:エビアン水のんでた
田中秀臣 / X
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自民系の三世議員(市町村議員)です。 河井夫妻の事件について、元国会議員の豊田真由子さんや、金子恵美さんが地元でのカネ配り(先輩議員に地方議員にカネ配れとアドバイスされた)について発言しているので、地方議員側からの話をします。 もともと、業界には与野党問わず「目配り、気配り、カネ配り」という言葉があって、この3つができ��政治家が優秀な政治家だとされていました。 でもそんな話は中選挙区時代(~1993年)であって、今はこの言葉すら死後になっています。 中選挙区時代のはなし 今の話をする前に、すこし中選挙区時代の話をします。カネ配りはこの時代に盛んに行われたので。 中選挙区制は選挙区の人口によって定数が決まっていて、選挙の上位2人~6人くらいが当選します。なので、ひとつの選挙区から同じ政党の候補者が何人も出馬します。たとえば群馬3区では当選議席数が4で、自民党からは3人(福田、中曽根、小渕)が出馬します。 有権者や、地方議員からすると、同じ自民党の候補者なので、3人に基本的に政策に違いがありません。3人の候補者は政策的な差別化が図れないので、「あの道路は俺が作った」みたいな、どれだけ予算を地元に持ってきたか(利益誘導政治)がアピールポイントになります。さらにその先が、直接的なカネ配りだったり、選挙事務所での食事だったりするわけです。とにかく政策では差がないので、政策以外の差が得票になるのです。 旧群馬3区では選挙メシも有名でした。福田料亭、中曽根レストランとwikipediaの「上州戦争」でも書いてありますね。私の選挙区でもオヤジの話を聞くと、昔は選挙事務所で鰻重が出た、なんて聞きます。うなぎ食べたい。 参議院の選挙は都道府県によっていまでも中選挙区制なので、制度的にはこうなりやすいです。現に河井さんの広島も改選2議席で、自民から2人でたからね。しかもアンリさんは新人で実績(利益誘導)をPRできないから。 政治改革 戦後、そんな選挙がずーっと続いていたのですが、1988年のリクルート事件が発覚して、カネと政治をめぐる事件が立て続けにおこりました。それで、なんでこんな金権政治になるんだろうと考えたところ、中選挙区制が原因じゃろう、となったのです。 派閥の親分が無理してカネを集める→系列の国会議員に配る→地元でカネが飛び交う のが中選挙区制の行きつく先だったのです。 それでついに1993年の選挙で自民党は大敗し、細川護熙内閣が誕生します。細川内閣は、政策も理念も異なる8会派が集まってできた内閣で「8頭立ての馬車」、7政党に大臣ポストを振り分けたので「レインボー内閣」なんて言われました。この内閣の唯一の政策の共通点は「政治改革」で、結果としてこの内閣のもとで中選挙区制をやめて、小選挙区制にします。 このときに行われた政治改革のポイントは2つです。1つは小選挙区制(1���の選挙区に各政党は1人しか公認しない)にすることで、カネではなく、政策で勝負する選挙構造にすること。もう一つは政治献金に大きな規制を設けることで金権政治の元凶であるカネ集めをできなくする、その代わりに税金から政党交付金(約300億円)をつくってこれを各政党に分配するということでした。 いまの状況 この政治改���から約30年、選挙は確実に変わりました。カネ配りも、選挙事務所での豪華メシもなくなりました。石破茂さんも雑誌とかメディアのインタビューで「小選挙区になって、お金は確実にかからなくなった。誰でも議員に挑戦できるようになった」、「中選挙区制だったら私は議員を続けていられなかっただろう」って何度も言っています。そりゃそうだよね、自民党から1人しかでないなら、カネ配んなくても地方議員はその人応援しないといけないもん。 だから、我々自民党の地方議員も、河井夫妻の事件をみてビックリしています。なんて昭和なんだろうって。うちのじいさんのときの話みたい。 んで、本題に入りますが、もちろん、地元の代議士からお金をもらうことはあります。年間10万円くらい。 正確には、党勢拡大のための組織活動費として、自民党選挙区支部(代議士が支部長)→自民党地方総支部(代議士か県会議員が支部長)→自民党市町村第XX支部(増田が支部長)という形でお金がきます。このお金は政治資金規正法に則り、年にいくらもらって、年にいくらつかったかを報告義務があり、その収支報告書はウェブでも公開されています。もちろんお金を受け取ったら領収書を発行します。 地方議員は国会議員と違って、給料以外の集金の手段(政治資金パーティーや政党交付金)を持たないので、基本的に活動はすべて自腹です((野々村竜太郎県議が城崎温泉に行って有名になった、政務活動費という税金が原資の経費があるが、一連のスキャンダルで使途についてチェックがえらく厳しく、文房具か交通費か広報紙くらいにしか使えない。せめて議員として招かれる団体の会合の参加費には使わせてほしい。))。一方で国会議員は給料以外に、文書通信費で1200万、立法事務費で800万、派閥から数百万、党本部から2000万(政党交付金)、パーティーで2000万と、だいたい年間6000万くらい集金できるので、それを原資に活動しています。どこの選挙区でも、与野党問わず、国会議員の支部から地方支部(=地方議員)に組織活動費を出します。代議士は国会が開かれる1~7月、10~12月は永田町に行っていて、週末しか地元にいませんので、その間、地元で党を守り、地域の声を直接聞くのは地方議員ですから。会社組織でい���なれば、本社から支店に補助をだしてるみたいなイメージ。 冒頭の豊田真由子さん、金子恵美さんの発言(先輩議員から地方議員にカネ配れとアドバイスされた)はこの収支に報告義務のある組織活動費の話と、領収書なしの裏金であるアンリさんのお金を混同していて、センスのなさを感じます。きっと、彼女たちはパーティーで集めたお金や、政党交付金を自分1人でガメていて、こうした党勢拡大の組織活動費を地方支部に出さなかったんでしょう。そりゃ落選するわ。 とまあ、河井夫妻の事件は自民党の地方議員もびっくりしているので、当たり前とは思わないでほしいです。 とはいうものの でも、仮にうちの代議士が、去年の統一選挙直後に「当選祝いです。領収書はいりません」といって、30万持ってきてたら受け取っちゃうよなーとはちょっと思う。 選挙ってそれほどつらくて厳しいもの(ほんとに毎回憂鬱になる。新人候補が思ってたよりつらくて途中でやめるのはよくあること)で、カネもかかるから金銭感覚もマヒしているし(普段なら絶対30万なんて怪しいとおもうけど、選挙で多額の金を突っ込んでるから感覚がマジでマヒしている)、当選の直後なんて超絶な解放感で有頂天だし(4年に1回の選挙、オリンピックでメダルをとった感覚をイメージしてほしい)、単純に「あっ、どうも、気遣いありがとうございます」って感じでご祝儀として受け取っちゃう。受け取ったときに「奥さんの集票のため」なんて思わない。広島の地方議員や首長が軒並み「集票のためとは思わなかった」って見苦しい言い訳してるけど(私ですらそう思うから、一般の人からするとマジで見苦しい言い訳にしか見えないだろう)、当事者だったらマジでそう思ってると思う。
自民系の地方議員です。カネ配りについて書きます。
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导游彼得——夏威夷之行(二)
第二天早上,邮轮安���的停靠在檀香山国际码头,迎接我们的是一个艳阳高照的檀香山。从悉尼到檀香山,邮轮载着我们走走停停,跨越大半个南太平洋,二十天的航程终于划上一个圆满的句号。
下了船,我们随着蜂涌而出的人潮来到旅客大厅,首先印入眼帘的是身穿艳丽民族服装的夏威夷姑娘,她们头戴花冠,身穿花裙,笑意盈盈站成一排,一边弹着吉它,一边唱着抒情的夏威夷骊歌《珍重再见》(Lloha 'Oe),这让初次踏上这块土地的我们有一种回到了家的温暖。
走出大厅,一阵热浪迎面扑来,有点让人猝不及防,看来夏威夷的夏日太热情似火了。外面的马路上到处停满了接送旅客的私家车、计程车、大、小旅游巴士。我们在外面转了一圈,受不了热浪又退回到了大厅,写大家一起商量如何去酒店。我们一行共八人,可以分坐二辆出租车,可问题是现在才早上八点,我们订的酒店房间要到下午三点才能入住,中间有七个小时的时间差,这么一大早去酒店显然不合适。这时我们中的一位重庆朋友出了个主意,何不就地找一家旅行社,安排一个半日游,游玩结束,顺路送我们去酒店,正好与入住的时间相衔接,这真是一举三得(省时、省出租车费、省寄放行李的麻烦)的高招。
想法很不错,但要临时找一家旅行社并非易事,接洽了几家都说需要事先预定,他们众口一词的说词是这几千号游客一起下船,现在最紧缺的就是车辆和导游,哪还有什么剩余的资源给你们加塞。还好凭借我们几个人的软磨硬泡,总算说动了一名女职员,并借用她的手机,与她的老板约翰(John)交涉了好一阵子,最后约翰答应派给我们一辆小巴士,司机兼导游的名字叫彼得(Peter)。
旅行社先临时调一辆巴士把我们送到檀香山市中心,并约定三十分钟后在卡美哈美哈国王雕像(King Kamehameha l Statue)与彼得汇合。我们也趁这段空隙时间,在附近的皇宫、州议会大厦和教堂等走走逛逛,拍照留影。
彼得来的还真准时。他身材魁梧,皮肤黝黑,理一个平顶头,戴一副墨镜、身穿黑色的T恤衫、黑色的短裤、一双黑色的运动鞋,从上到下一身黑色系列,看上去犹如一尊黑色火山岩雕刻出来的石像。他一见到我们,便喜形于色的挥手致意,还煞有介事同我们一一握手,然后又手脚麻利地把我们的行李搬上了车。他一边搬,一边不停的抱怨说:"约翰真不够意思,休息日还硬拽着我来开车。"。
我说:"你老板约翰会多付给你工钱的。"
他一听这话,嘴角顿时露出不屑的样子,说:"他才不会这样呢。"然后压低声音说:"他是个守财奴,你不知道他对自己的孩子也十分吝啬。"
我哈哈一笑,说:"看得出来你比你老板更够意思。"紧接着大家你一言,我一语的给他猛灌一阵"迷魂汤",彼得听了很受用,笑的乐不可支。
开车之前,彼得先开诚布公的告诉我们,他除了爱开车,剩下就是爱跟人聊天,所以英语说的溜的人坐在前排,好让他开车解闷。他还说,他非常喜欢这份导游工作,工作能满足他所有的爱好。看他那乐呵呵的样子,真叫人羡慕不已,人生难得有这么两全齐美的好事。
小巴一上路,彼得的话匣子就打开了。他先狠狠地调侃了他的老板约翰一番,然后再自我介绍说,他当过兵,在日本和韩国都驻扎过。退役后,结婚生子,目前有二个孩子,但都离开夏威夷去美国本土上大学。孩子不在身边,没有了牵拌,彼得的生活更加自由快乐。说完了他自己,他连忙转移了话题,开始进入他的导游角色。他看到什么就跟我们聊什么,眼前一幢幢漂亮的公寓,他会聊日本人、中国人在当地的投资。看到街上头戴遮阳帽的姑娘,他先猛夸她们迷人的身材,顺带聊当地的天气、习俗和风光之类的话。见到警车呼啸驰过,他不忘先调侃警察的车技,捎带着聊当地的治安。当我们的车路过���巴马前总统曾经就读的普纳荷学校(Punahou School)",他更眉飞色舞地讲一通奥巴马在夏威夷的童年趣事。看到街上一家家的商店,他会跟我们说哪家是热门的餐厅,哪家有些什么样的特色商品出售。他说话有趣,滔滔不绝,热情好客,就像是一个可爱的"人来疯"。碰上这么一个有趣的人,我们的情绪也调动了起来,车厢内不时听到我们欢乐的笑声。
小巴很快拐入了卡拉���乌阿大道(Kalakaua Ave),这是夏威夷最著名的一条商业街。宽阔齐整的大街,高大挺拔的椰子树,风格各异的建筑物,世界名牌精品店,窗明几净的橱窗展示着各式的服装、皮鞋、皮包、手表、香水等。这条购物大街极富热带风情,前面就是著名的威基基海滩,购物与休闲,花钱与享乐,逛街与浪漫完美融合在一起,像这样的购物体验在其它地方难得一见。据彼得介绍说,以前这里很多店铺都是日本人所拥有的,现在情况完全变了,越来越多的中国人在这里置业开店,陆资的涌入改变了市场的格局,也说明这里日益受到人们的青睐。
这时我们的右前方出现了一望无际的大海和宽阔的海滩,而左边的街道则是一家紧挨一家的餐厅、咖啡馆、便利店,度假酒店,路上不时能看到身穿泳衣,身披浴巾,手拿着冲浪板的俊男美女。相较刚才看到的购物人群,这里主要是赶往海滩的游客,他们在海上冲浪,浮潜,游泳,或者坐卧在沙滩上晒太阳,看书,聊天,甚至坐在海边的椰子树底下,面朝大海,思绪飞扬,这一幅幅悠闲自在的图景,让人不得不感叹,古人"行到水穷处,坐看云起时"的那份淡然与从容也不过如此。
除了天上飞的鸟,水里游的鱼之外,彼得什么都跟我们聊,威基基海滩旁有一个警察分局,彼得看到一辆辆警车泊在那里,忙不迭地嘲讽说:"这些警察个个都像只猫头鹰,白天看不见他们的人影,晚上可不好惹。"。经过一家连锁便利店,忙夸奖起里面的东西既便宜,质量又好。看到二个小伙子抬着一只大保温��,吃力的往海滩上去,他又开口说:"我一个人扛着也能疾步如飞。"看到海滩上众多的美女,他兴奋的像个多情的少年,猛夸她们的身材,秀发,肤色和女人魅力,好像这些美女都曾跟他有过一腿似的。说完之后,接着又是一通牢骚,说:"今天不接你们这单生意,我现在正躺在这群美女的怀抱里,美女作陪度春秋,天天都是好日子。"
"彼得,你到底喜欢哪国的美女?"车上不知谁问了一句,
彼得不加思索回答道,"当然是我们夏威夷的姑娘。"说完还作了一个赞不绝口的手势,逗得大家哈哈大笑。
小巴继续缓慢的前行,太阳斜斜地照进车内,车窗玻璃把外面炽热的���光和清新的海风统统给隔绝在外,也把我们的欢歌笑语关在了车厢里。真是的,在车上坐久了,看到窗外一张张喜气洋洋的脸,心里不时泛起一种羡慕的感觉。我真想立马跳下车去,汇入熙攘的人群,奔向海滩,投身于大海波涛。佳美的日子,与其坐车观景,还不如站在海边,看片片云彩,数朵朵浪花;与其坐车神聊,还不如在沙滩上拾一把细沙,捡一只贝壳。在广阔天地里放飞生命,俯瞰那一草一木,一山一水,一个充满活力的世界。
近一个多小时的"游车河",我们的双脚还未沾过地面。彼得似乎知道我们心里想什么,他说到下一个景点钻石山(Diamond Head)就让我们下车,随心所欲的玩上半个小时。临近中午,路上朝钻石山方向去的车还真不少,难怪它是檀香山著名的地标。钻石山是一座死火山,据说每当夜幕降临,山上的凝灰岩锥会发出闪闪的绿光,像绿宝石一样,故取名为"钻石山"。
小巴抵达钻石山,彼得第一个跳下车,行动敏捷的从车的左边绕到车的右侧,拉开车门,放下上下车的踏扳,站在一旁恭恭敬敬的扶我们下车。刚才他还是嘻皮笑脸的开玩笑,现在却变成认认真真的样子,看了让人直想笑,不知他那殷勤备至的背后,是老板的要求,还是他本身就是个热心肠的人。山脚下有一条上山的小径直通山顶,来回需要二个小时,显然时间来不及,只能放弃爬山登顶的打算。据说在山顶看夕阳日落,整个檀香山市区的高���大厦,蜿蜒的威基基海滩,扬帆出海的游船,波光粼粼的浩瀚大海,全都沐浴在一片金色的霞光中,景色非常美丽壮观,而我们只能望"顶"兴叹,自我安慰一番,留点遗憾才会有下次再来的冲动。
在钻石山山下转了一圈之后,彼得又带我们来到檀香山的高挡住宅区凯海兰(Kahala)。这里离钻石山很近,又临近大海,依山傍水,景色秀丽,世界各地的许多顶级富豪都喜欢在这里置业。车开入了小区,大家纷纷下车,把本该爬山的余力都用在街头散步上。狭窄的林荫小道,宽大的前院,幽深的庭院,一座座豪华别墅掩映在自家的绿树丛中。幽静的街道空无一人,我们这批外来者仿佛是一群闯入寂静林子的鸟,叽叽喳喳的叫个不停。"所谓幸福的生活,必然指安静的生活,原因是只有在安静的气氛中,才能够产生真正的人生乐趣。"此时,大哲学家罗素的这句话突然闪过我的脑际。有钱人花大钱幽居郊外,真的能从安静中找到他们想要的幸福生活?我只能说不知道,但眼前彼得乐不可支的身影,却让我觉得彼得这样的生活,又何尝不是另一种幸福的表现?有时大哲学家的思辩也会有偏差。
面对整条街宽大气派的豪宅,彼得介绍的津津有味,像是在介绍他自己的房产。一连串富豪明星的姓名,有些是大家知晓的,更多的闻所未闻,反正都与我们这群外来客毫无关系。不知谁突然冒出一句:"彼得,你家是哪一幢别墅?"。
他先是一愣,接着便开怀大笑,说:"我家离开这里还有20多英里,虽然也能看到大海,但房子小,又有点破旧。反正能看到海就高兴。"在他脸上丝毫看不到不好意思的神色。不在乎别人是怎样的生活,只在乎自己的生活是否过的快乐。
出了小区,我们又回到沿海的Kalaiana’ole高速公路,一路往东行驶,车窗的右边又出现了湛蓝的大海,沿途的海边岩石大多呈黑色的形状,这是因为火山喷发出的熔岩遇到海水迅速冷却而造成的,当然夏威夷群岛本身就是火山喷发后形成的岛屿,有这么多黑色奇观一点都不令人惊讶。车很快来到了拉纳岛观景台(Lanai Lookout),从这里可以清��看到拉纳岛(Lanai)、莫洛凯岛(Molokai)、茂宜岛(Maui),特别像今天这种能见度超好的天气。这三大岛都是夏威夷群岛中的主要岛屿。
到这里我们的半日游算是划上了句号,接下来便要打道回酒店,可彼得还觉得意犹未尽,执意再陪我们玩几个景点,这真是求之不得的好事,我们大家一齐拍手鼓掌,真恨不得上前亲他一口。但彼得却像孩子似地用食指放在嘴边作"嘘"字状,还告诫我们不要把这事告诉约翰,他这种慷公司之慨的行侠仗义,颇有点古代"罗宾汉"风范。接下来我们沿着海岸线一路往东北,一直到夏威夷的海洋生物公园(Sea Life Park Hawaii)。每停一个景点,彼得照样还是忙前忙后,并不因为多出的行程而有丝毫懈怠。他爱给我们大家照相,也喜欢与我们合影,而且始终是一副滑稽搞笑的样子。他把我们看成是来他家串门的邻居或亲戚,大家也把彼得当作久违的朋友,从彼得身上实实在在感受到夏威夷人热情似火的性情。
彼得把我们送回凯悦嘉轩酒店已经是下午三点,本来约定半日游,现在却玩了五个多小时,我们都很感激他,临别的时候,大家都有点依依不舍,可他还是嘻皮笑脸的样子,说:"今天我算是被约翰坑了,以后再碰到这种事,打死我都不干。人生苦短,别再辜负美好的时光,我这就到海边泡妞去。"他停顿一下,做了一个说漏嘴的样子,又接着说:"还得带上老婆"。其实岂止是他一个人这么想,我们又何尝不想尽快去拥抱这片美丽的大海。
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目次の表示・非表示を切り替え 野茂英雄 13の言語版 مصرىDeutschEnglishEsperantoEspañolفارسیSuomiFrançais한국어MalagasyРусский中文Bân-lâm-gú他 4 言語 ページノート 日本語 閲覧編集履歴表示 その他 閲覧編集履歴表示 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: "野茂英雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年3月) 野茂 英雄 2011年2月16日 日南市天福球場基本情報国籍 日本出身地 大阪府大阪市港区生年月日 (1968-08-31) 1968年8月31日(54歳)身長体重 6' 2" =約188 cm220 lb =約99.8 kg選手情報投球・打席 右投右打ポジション 投手プロ入り 1989年 ドラフト1位初出場 NPB / 1990年4月10日 MLB / 1995年5月2日最終出場 NPB / 1994年8月24日 MLB / 2008年4月18日経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 大阪府立成城工業高等学校 新日本製鐵堺 近鉄バファローズ (1990 - 1994) ロサンゼルス・ドジャース (1995 - 1998) ニューヨーク・メッツ (1998) ミルウォーキー・ブルワーズ (1999) デトロイト・タイガース (2000) ボストン・レッドソックス (2001) ロサンゼルス・ドジャース (2002 - 2004) タンパベイ・デビルレイズ (2005) カンザスシティ・ロイヤルズ (2008)国際大会代表チーム 日本五輪 1988年野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 選出年 2014年得票率 82.4%(324票中243票)選出方法 競技者表彰 この表について[表示] この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート オリンピック 男子 野球 銀 1988 野球 野茂 英雄(のも ひでお、1968年〈昭和43年〉8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。MLBのサンディエゴ・パドレスでアドバイザーを務める��� 概要[編集] 「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、日本プロ野球(以下:NPB)とメジャーリーグベースボール(以下:MLB)で活躍した。 NPB時代はパリーグ初の沢村栄治賞を受賞(大阪近鉄バファローズが存在した時代に受賞した唯一の近鉄出身投手でもある)、平成初の投手三冠王を達成、パ・リーグ最多タイ記録となる最多勝利を4回獲得している。 MLB時代にはノーヒットノーランを2回達成、最多奪三振を2回獲得、新人王受賞といういずれもアジア人史上初の偉業を成し遂げている[1][2]。 NPB/MLB通算最多奪三振(3122)記録保持者。 2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任[3][4][5]。 長男は2015年から2018年まで北海道日本ハムファイターズの球団通訳を務めた野茂貴裕[6][7][8][9]。また、シンレンサイのメンバー、三戸キャップは遠戚にあたる。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 小・中学校時代は全くの無名選手であったが、「体を捻って投げると直球の威力が増す」と理解し、後のトルネード投法の原型となるフォームで投げていた。高校は近大附など名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格となり、大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学する。高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦で完全試合を達成。3年時はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。高校時代の監督は後年その投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。 高校卒業時��既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社(勤務先は子会社の新日鐵化学の総務部)。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。2年目の1988年には都市対抗に出場。1回戦でNTT東京に完投勝ち、2回戦でも延長17回を投げ抜き大昭和製紙にサヨナラ勝ちを飾る。準々決勝は東芝の菊池総と投げ合うが早々に打込まれ敗退[10]。同年のワールドカップ日本代表に選出され、ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。1989年の都市対抗も準決勝に進出するが、大昭和製紙北海道に敗れる[10]。同年のインターコンチネンタルカップ日本代表となる。 名実共にアマチュアNo.1投手となった進路が注目される中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。 近鉄時代[編集] 1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げた。同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。 1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した。オールスターゲームでは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手として登板し、先頭打者の立浪和��をはじめ6奪三振を記録(1990年代の球宴では最多)する。第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打で出場。結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。この時オリックスの中嶋聡のヘルメットを被って打席に立った。 1992年も18勝を挙げ、2年連続で最多勝や最多奪三振などのタイトルを獲得した。 1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった)。 1994年は開幕戦の西武戦で4回までに11奪三振、8回まで無安打に抑えたが、9回に先頭の清原にヒットを打たれてノーヒットは途切れた。その後2四球で満塁となったとこで赤堀元之に交代したしたが、この試合前監督の鈴木啓示は「今日は野茂と心中や」とマスコミに発言しておりその言葉を聞いてた赤堀もそれを鵜呑みにしていたこともあり準備不足の中登板し伊東勤に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦した[11](野茂も鈴木の言葉を信じていただけにこの降板でモチベーションは下がった[12])。7月1日の西武戦では1試合16与四球の日本記録を作ったが、191球を投げて3失点完投勝利を挙げた。8月に右肩痛のためシーズン途中で戦線を離脱したため8勝、126奪三振に留まり、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れた。 近鉄退団の経緯[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "野茂英雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) 球団との確執[編集] 1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際球団は「君はもう近鉄の顔ではない」と告げたとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に球団フロントに対しては後に確執が表面化することになる球団OBの投手出身鈴木啓示に対して鈴木が監督になる以前の仰木彬監督の時代から不満をいだいていたと語っている。 開幕投手であるにも関わらず、球団関係者に本社の人間が来るので���を動かすよう要求された(藤井寺球場には選手専用駐車場が無かった)[13][14]。 観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「(10.19決戦のように)熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。 4年連続最多勝のシーズンオフに現状維持の年俸を提示された[15]。 球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがMLBへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。代理人団野村は、野茂は当初からメジャー移籍を模索しており、近鉄球団から任意引退を引き出したのは作戦であったと後に明かしている[16]。 監督との確執[編集] もう1つの理由は、仰木の後任である鈴木啓示との確執だった[17]。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督仰木彬はこれを快諾し[18][19]調整方法も本人に任せたため、野茂は仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝という実績を挙げた投手出身ということもあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。また選手指導としても厳しい姿勢を見せつけていた。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買うこととなった。 監督就任直後、鈴木は道上洋三のラジオ番組への出演時に野茂について「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。 こうした指導法が元で鈴木と対立するようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時野茂とチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。 これらの要因が重なった結果、野茂は球団フロントの制止を振り切り近鉄を退団しMLBに挑戦することとなった。自由契約ではなく任意引退扱いなのでNPBに帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には「全保留選手は、他の球団と選手契約に関する交渉を行い、または他の球団の為に試合或るいは合同練習等、全ての野球活動をする事は禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、MLB球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在ではNPBのみならずMLB球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在��団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店��残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措��績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 ���� 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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详细澳门会所体验攻略
=====安排必读=====
【出行方案】:
出入关口(免费发财巴士)
拱北口岸:早6~凌晨1点(出关有免费巴士 也有的士)
青茂口岸:24小时(没有免费巴士 只有的士)
路氹横琴:24小时(出关有免费巴士 也有的士)
【桑拿价格】:
澳门是合法经营 现场“海选” 价格不一
参考:
2~3.9:泰国 越南 中国 巴西 非洲
4~4.9:中国 俄罗斯 乌克兰 古巴 台湾 墨西哥
5~6.4:日本 韩国 香港
(所有价格都是估算不会相差太多 具体以场所为准)
【档次】:
低端:金池 达令 假日 波士
中端:开心 金龙 帝豪 金凤 凯旋 帝道
中高:富豪 帝湖 壹号 皇堡 晋汇 尊贵 英皇 豪门
【时间推荐】:
⚠️玩乐时间不推荐 高峰期 ,休班时间 早上 中午没人
⚠️最好带现金 银行卡 信用卡 电子支付大多都是一比一
⚠️提防主动邀请你的人
【安排步骤】:
①进门服务员引导至场所 经理接待介绍 把物品放储物箱 更衣换浴袍
②淋浴 换衣
③大浴池泡澡 蒸桑拿 每隔10-15分钟有选秀或者经理安排 海选 手快有 手慢就被别人选走(出勤充足会快点 人数少慢点)
④洗浴和选妃完成后去房间等待 假日高峰期 可能需等待20~30分钟左右
⑤有水床服务 情景角色扮演10分钟 spa30分钟 全程50~60分钟 洗澡服务 手口服务 最后激情ooxx 可按照您要求去做
⑥服务完成后可去餐饮区用餐 80%免费 20%需要收费
⑦大堂有按摩师傅工 上海式 按头肩 脚 腿 修脚 采耳 自行选择(收费约250元/25分钟)预约安排免费送一个
⑧最后进入休息区过夜 可在选秀 第二次有优惠
【剧本杀】:
主题➕制服➕1V1角色扮演
按要求配合 会有对白
部分有翻译器
例如:警察调查你有没有违禁品开始搜身,搜到就会惩罚你
快餐店装扮服务员不小心把茄汁射到你身上进行清洁
【主题情景房间】:
制服➕主题➕莞式服务 服务上会有所升级
【按摩师傅工】:
部分进场消费会送 可以选择按摩,修脚,采耳,刷背 安排可加送一个
【自助餐】:
大多数都有免费餐饮 少数店铺没有餐厅需点餐在座椅上吃
【爆炸糖】:
口部服务 不是所有地方都有 需加400左右主题套餐才有
【延时湿巾】:
预约安排都会送 持久时间 等待15分钟即可发挥
【悍马糖】:
提升体能 提前一至两个小时 适合一天两次或以上(预定要800块钱一盒 30天内安排三次,可免费领一盒)
【花心公子表演】:
男女都可进场 490元一位 每晚19:30到凌晨1点 分五场进行 两位以上可提供接送
【常见问题】:
1.每家澳门桑拿店铺玩法都一样吗?
澳门桑拿主要分三大类 主打莞式水床 情景房 剧本杀
2.日韩什么收费?
日韩菜是最贵的 价格通常在4.8k到6.3k左右 日韩基本不能英文交流,选之前注意
3.桑拿服务的时长是?
约60分钟~90分钟左右一次
4.澳门桑拿的费用预算要多少?
2K到6.4k
5.桑拿店铺里面可以k歌吗?
部分店铺有KTV
6.什么时间去澳门桑拿最好?
每天下午6点后到凌晨3点 注意假日高峰期
7.选秀技巧?
选人注意灯光 会美化皮肤 注意穿很高的高跟鞋 看清楚礼服是否藏着小肚腩 不喜欢上半改装的 也可以问经理 选人后 没进房前是可以取消的
8.大厅内有必要点师傅工吗?
没有必要 进行大项消费后 会送师傅工 部分的要收费
9.入场一般都有进桑费 从大几百到1500不等 如果选人后则免收进桑费
10.可以打探整容问题吗?
可以,大多数经理都会回答 少数经理不乐意回答
11.澳门住宿贵可以在澳门桑拿过夜吗?
可以,但基本在太空舱或者休息区躺椅 容易受到别人影响 周末客人众多 也未必有床位
12.澳门桑拿安全吗?
澳门桑拿是合法经营,都有牌照
13.大堂的按摩工有特殊服务?
部分有 500 1000 详细自己问
14.澳门用的是什么货币?
港币和澳门币
15.可以支付宝或者微信吗?
可以,但汇率不划算 最好准备现金 国内银行卡,信用卡
16.小费要不要给
不用的 如果你觉得满意也可以给
17.剧本杀好玩吗?
比较新鲜,充满神秘感
18.剧本杀要另外收费吗?
要的 一般在400块钱左右 部分是加15%
19.怎么安排接送?
出发前提前15分钟通知,我会安排埃尔法接送
20.都有免费餐饮吗?
大部分都会有
21.大堂有两种颜色衣服?
不同衣服的颜色就是做不同项目
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2024/10/30 9:00:21現在のニュース
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【斑柱】速速变大
hp系列2
一战成名之后,霍格沃茨的刺头们从此学会了看见宇智波斑绕着走,他们缩在寝室里咒骂宇智波斑像个“野蛮粗俗的原始人麻瓜”,还给他起了个外号叫“拿着棒槌的巨怪”,然而到了人前,又不得不跟孙子一样对着他们恨得牙痒痒的宇智波斑点头哈腰。
对此,德姆斯特朗男孩们端出了前辈的架子,用怜悯的目光注视着那些不知天高地厚的小崽子——毕竟他们每一个都曾因为看轻宇智波兄弟而遭受过惨无人道的毒打——“识时务者为俊杰,宇智波斑能在德姆斯特朗横着走可不是因为他有个在魔法部工作的父亲。”
幸运的是,这位可怖的魔王最近正全身心沉浸于甜蜜的恋爱,他彻底抛弃了德姆斯特朗的大船,转而和他英俊的男朋友、有着丝绸般美丽的黑色长发和迷人笑容的格兰芬多级长千手柱间出双入对。这对快活的爱情鸟手挽手行走在古老的城堡内,旁若无人地在午后的草坪上拥抱,又悄悄在无人经过的走廊尽头依偎在一起交换一个甜蜜的吻。
在宇智波斑当选勇士后不久,属于宇智波家的那只雕鸮就给他带来了一个巨大的包裹,随之而来的是德姆斯特朗的男孩们恐惧已久的,来自宇智波泉奈的吼叫信。赶在千手柱间下课之前,大忙人宇智波斑终于又一次踏足了被他遗忘许久的领地,他看着公共休息室里横七竖八躺了一地的尸体,疑惑道:“你们这是和摄魂怪舌吻了?”
“比这个更可怕。”一脸生无可恋的宇智波火核嘴比脑子更快,“是你那个魔鬼弟弟的吼叫信。”
半小时后,宇智波斑心满意足地带着属于自己的那个包裹走了出去,留下了门后一屋子雪上加霜鼻青脸肿的尸体们。
今天的霍格沃茨格外的热闹,千手柱间刚刚带上占卜课教室的大门,就看到正对着教室门的窗户那里聚集着一大群人。他甫一露面,立即有站得近的学生喊了一句“他出来了”,原本聚集的人群顿时像被摩西分开的红海一般给他让出了一条小路。他疑惑地走过去,发现是他的男朋友正骑着扫帚风驰电掣地往塔楼这边飞过来。
宇智波斑大笑着在顶楼的窗户前一个漂亮的甩尾停住,他一头长发在狂风中猎猎飞舞,露出了他那张平日里被刘海遮了大半的英俊脸庞。人群因为这个惊险的急刹车发出了一阵惊呼,而宇智波斑毫不在意,他满心满眼都是自己的男朋友,他伸出手,对着千手柱间发出了邀请:“亲爱的,要和我一起去兜风吗?”
格兰芬多黑发级长的心脏猛烈跳动起来,这简直像一个令人无法拒绝的私奔邀请,他克制不住地向男朋友靠近,就在他踩上窗台的那一刻,身后猛然传来一声暴喝——
“你们两个在干什么?!”
千手柱间被吓得一个哆嗦,身体差点维持不住平衡,眼看着就要往前跌去。在学生们慌乱的惊呼中,宇智波斑眼疾手快地抱住了自己的男朋友,他皱着眉,小心翼翼地搂住了千手柱间的腰,好让他靠在自己怀里坐稳,然后看向来人,一张俊脸阴沉得可怕:“臭老头你什么毛病。”
“我简直不敢相信自己的眼睛!”德姆斯特朗的校长怒气冲冲地快步过来,勒令窗外那对胆大包天的爱情鸟现在立刻马上从扫帚上滚下来,“我收到消息说德姆斯特朗的勇士在霍格沃茨违规飞行——该死的,我一听就知道是你能做出来的事情,你这个劣迹斑斑的混小子——但是我没想到你居然敢做出这种事情……”
他气得额头的青筋都迸出来:“我可以暂时不计较你骑扫帚的事情,但是我必须要问你一句——你身上穿的是什么东西?”
宇智波斑看了一眼自己身上的黑色长袍,不明所以:“呃……巫师袍?”
“巫师袍。”老校长重复了一遍这个回答,忍不住咆哮起来,“这位尊敬的宇智波先生,我不管你是准备改名叫千手斑还是其它的,总之,请你记住自己现在依旧是属于德姆斯特朗的学生,请你不要穿着不属于你的外校校服招摇过市。”
身上穿着千手柱间同款格兰芬多校服的宇智波斑沉思了一下:“那我现在转学也不是不可以。”
老校长登时被气得一口气差点提不上来,他深呼吸几下让自己强行冷静下来:“……这次说什么你也逃不掉了……在第一个项目开始前,请你务必每晚都去禁闭室待着。”
“先生,您误会了……”
听到自己男朋友被罚紧闭的千手柱间有些焦急地开口,想要为宇智波斑求情,但是宇智波斑按住了他的手示意他不要这么做。
“没事的柱间,只是一个禁闭。”借着袖子的遮掩,他在千手柱间的手背上摩挲了一下以作安抚,他注视着对方溢满担忧的黑眼睛,还不忘和自己的男朋友开玩笑,“你可能不知道,禁闭室是我在德姆斯特朗的专属寝室,我对那地方可再熟悉不过了。”
“宇智波先生,怎么听起来你好像很得意的样子。”
老校长还要发作,就听到身后占卜课教室的大门打开,随后一道他此生绝不会忘记的、堪称他前半生噩梦的声音在背后响了起来——
“你们聚在我的教室外面吵吵嚷嚷的是想干什么。”
穿着下摆绣有星月的黑色袍子、品味和霍格沃茨的老顽童校长如出一辙的瘦高老人走过来,一双深邃但明亮的蓝眼睛嫌弃地扫视着眼前闹哄哄的、嘈杂如市场一般的场景。
他拍了拍老校长的肩:“坠入爱河的年轻人有点疯狂的举动很正常,没必要这么大惊小怪。”
敢怒不敢言的老校长忍气吞声,只能对着宇智波斑咬牙道:“最少也要三天,你捅下这么大的篓子,不可能更少了。”
本来也没打算待在禁闭室的宇智波斑毫无疑义地接受了,他光明正大地带着自己的男朋友就要从两人眼皮子底下离开,那位瘦高的占卜课教授却叫住了乖乖被男朋友牵着的千手柱间:“虽然我不觉得这是什么大事,但是一点惩罚性质的扣分还是必要的,我想千手先生应该没有疑问。”
好学生千手柱间点了点头,然后就被他的叛逆男朋友揽着腰强行带走了。
当晚,一道矫健的身影如约敲响了格兰芬多级长寝室的窗户。
千手柱间惊喜地走过去,把自己的男朋友迎了进来:“你的禁闭结束了吗?”
“没有,我偷偷溜出来了。”蹲在窗台上的宇智波斑一反常态地没有进来,他兴致勃勃地看着千手柱间,“我听说霍格沃茨的禁林很有趣,我们去夜游吧。”
“虽然我很想肯定你的想法,但是你的扫帚已经被没收了,你准备怎么躲��管理员的视线过去?”
宇智波斑得意地摸出了一个巴掌大的口袋,然后从里面掏出一把飞天扫帚:“一个小小的无痕伸展咒。”
千手柱间惊讶地拿过了那个袋子,试探性地把自己整个手臂都塞了进去,他震惊地看向自己一向不按常理出牌的男朋友:“这可是非法私人改装,被魔法部知道了可是要被指控的!”
“那就不要让别人知道,让它变成属于我们的小秘密。”
他拉过千手柱间坐到扫帚上,借着夜色的掩护一溜烟往禁林方向冲过去。落地之后,他妥帖收好那个精致的口袋,对着男朋友俏皮地眨了眨眼睛,在对方的注视中变成了一只和黑夜融为一体的黑色猫咪。
“梅林啊,你竟然也是个阿尼马格斯。”千手柱间赞叹地看着眼前毛蓬蓬的大黑猫,他欢喜地把猫咪抱在怀里亲了亲,“亲爱的,你真是一只英俊又可爱的臭脸小猫咪。”
被甜言蜜语捕获的宇智波斑自然没有忽略男朋友口中的“也”字,他喵呜了一声,和他心有灵犀的千手柱间也朝他眨眨眼:“你猜得没错。”
然后他就变成了一只体态秀美、身姿灵活矫健的梅花鹿。
实际上刚刚学会阿尼马格斯没多久的千手柱间不想在看起来游刃有余的男朋友面前认输,他在原地小范围地跑跳了一下来适应属于鹿的全新躯体。没多久,他看了看远处黑夜中沉寂的霍格沃茨城堡,曲起前肢,示意蹲坐在一旁的黑色猫咪跳到他的背上。
夜晚的禁林中,一只驮着黑色猫咪的梅花鹿飞速地奔跑着。他在月光下高高跃起,像是披着月辉出现的精灵,快速穿梭在茂密的树林间。等又一次越过溪流,梅花鹿突然开始踟蹰不前。
坐在他背上的黑猫轻巧落地,随即变回了人类模样,他摩挲着恋人湿润的鼻子和那对小巧的尖耳,顺着皮毛柔软的棕色鹿身一路摸到了屁股后面那个小小的圆绒绒的短尾巴。
千手柱间有些生气地用坚硬的鹿角把自己坏心眼的男朋友顶开了一点,一双温顺、湿漉漉的小鹿眼睛谴责地看着毫无悔意的宇智波斑。
就在宇智波斑沉迷小鹿的时候,禁林深处突然传来了一声奇异的轰隆响声。千手柱间不安地用鼻子拱了拱宇智波斑的手,示意他禁林深处有什么危险的大家伙。看懂暗示的宇智波斑给了他一个安心的眼神,然后掏出魔杖给一人一鹿都上了幻身咒,才小心地往声音来源摸索过去。
在拨开一处不起眼的树丛之后,两人看到了一片开阔的空地,几个��副武装的巫师正守在边上,而中间被锁起来的,是三只在月光下沉沉睡去的火龙。
发现了大秘密的两人甚至不敢大声喘气,连忙骑上扫帚回到了塔楼上的寝室。
“居然是火龙!三强争霸赛为什么会有这么危险的神奇动物!”回到卧室的千手柱间不安地踱来踱去,没一会儿就开始翻箱倒柜,把压箱底的珍贵魔药和防护用具一股脑地塞给了自己的男朋友。
宇智波斑用魔杖控制着那些瓶瓶罐罐回到箱子里锁上,他抱着担心的千手柱间在床上滚了一圈:“没有那么夸张,他们���不会让我们几个没毕业的学生去和火龙搏斗。”
千手柱间气鼓鼓地戳了戳男朋友的脸颊:“万一呢。”
“你这是关心则乱了,那几只被拴着的都是母龙,我猜大概是让我们偷龙蛋里的什么东西。”
“好吧。”千手柱间闷闷不乐地把脸埋进男朋友的衣襟,“希望如此。”
和伟大的先知宇智波斑所预料的一样,第一个项目开始之前,选手们被通知他们的任务是尽可能完美地拿走火龙守护的那颗金蛋。在短暂的抽签环节之后,宇智波斑看着手里标着1号的迷你版中国火球龙模型有些郁闷——他不仅是第一个出场的倒霉蛋,还幸运地抽到了体型最庞大、也最危险的一条龙。
得知结果的德姆斯特朗校长暗暗提起了心,不是为了宇智波斑,而是为那条龙。在他心里,一个宇智波斑的危险程度远远超过一条可怖的火龙,他不担心宇智波斑这样年轻的天才会搞不定一条龙。相反,正因为中国火球龙是这样一种可怕的、极具挑战性的存在,他才害怕宇智波斑作为狂热的战斗爱好者,面对这样极具诱惑力的挑战会因为兴奋过头坏了事——梅林才知道他有多怕德姆斯特朗的勇士会擅自把目标从拿走金蛋改成和火龙搏斗并战胜它,从而导致三强争霸赛直接变成古罗马斗兽场。
伴随着震天的欢呼声,宇智波斑不得不走出选手待着的帐篷去迎接自己未知的命运。他站在入口,一眼就在看台上的茫茫人海中看到了他闪闪发光的温柔男朋友。他动作潇洒地对着千手柱间所在的方位做了个飞吻,又引起了一阵浪潮式的欢呼。
待欢呼声停歇后,他举起自己的魔杖——十四���寸,由金合欢和神秘的夜骐尾羽组成的不可多得的奇迹——轻轻点了点虚空,不一会儿丝状的云雾便从四面八方涌出,充斥着整个宽阔的场地。
“非常完美的无声咒!”看台上的解说��高兴一开场就是这样激动人心的大场面,“来自德姆斯特朗的勇士选择干扰火龙的视线来达成自己的目的!”
宇智波斑没有理会呱噪的解说,他站在原地,又挥了一下魔杖,在最基础的漂浮咒的控制下,一粒和火龙比起来渺小到几乎看不清的石子缓缓升上高空,一直飞到肉眼所不能及的地方。
所有人都一头雾水地看着他的奇怪举动,只有隐约清楚他要做什么的千手柱间替自己的男朋友捏了一把汗。他掏出了随身携带的望远镜,还不忘给坐在自己旁边的弟弟也分一个,然后两个人一起抬头望向天空。
没一会儿,所有人都看到宇智波斑高举魔杖指向天空,他清了清嗓子,声音如金石般掷地有声:“速速变大。”
于是天空中,有什么东西急速膨胀开来。看台上的观众们惊恐地仰望着那个遮天蔽日、如达摩克利斯之剑一般悬在他们头顶的巨大陨石,纷纷发出惊慌的尖叫声,连看台上解说的声音都不自觉地开始发抖。
“太可怕了,仿佛是末日降临的场景,德姆斯特朗的勇士发挥了惊人的力量,连场中的中国火球龙都不安地挣扎起来。”
评委席上,德姆斯特朗的校长已经顾不上瞪着那个无法无天的混世魔王,他和其他两位校长一起捏紧了手中的魔杖,只要陨石再往下一寸他们就必须出手来保障所有人的安全。
就在火龙的嘶吼与众人的尖叫声中,那个即将砸到他们头顶的巨石突然消失了,原本充斥着整片场地的云雾也在顷刻间消散殆尽。所有人愣愣地看向天空,打破这一寂静的是德姆斯特朗的勇士本人——
“你们在等什么?”
他举起手中的金蛋,不明白那些人像傻瓜一样抬着头是在看什么。
片刻后,因为有心理准备所以最先回过神来的千手柱间冲下了看台。他翻过最前面的栏杆落到场地里,一把抱住了自己的男朋友。
“斑,你太了不起了!”
被男朋友主动投怀送抱的宇智波斑得意地笑了起来,他把珍贵的金蛋塞到了千手柱间的怀里,顾不上在评委席上大吼大叫的老校长,在众目睽睽之下搂着男朋友的腰重重地亲了下去。
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山樱之落 叁 写给鸢的—— 2
伊万君一离开,我就对樱说:“我没有干涉你的打算,也知道至少得再过八、九年你才会考虑此事。我只是希望假如你真有那种想法的话能提前告知我,以便我做好应对内阁、皇室的准备。所以,你打算和——”我不知怎的说不出“那俄罗斯人”这样的指代词,思索数秒后最终选择了与樱一样的对伊万君的称呼,尽管对那时的我来说,这称呼太显亲密了些,“——伊万君性交吗?最重要的是,你打算使用伊万君的精子来孕育你的女儿吗?”
樱用看患了病说胡话的病人的眼神看向我,“为什么会这样想,哥哥?”她疑惑地问,“你想得也太远了吧?而且你自己也说了,得等至少八、九年之后我才会考虑怀孕的事。”
“我是因为你的表现才会这样想的啊,”樱的眼神让我感到些微委屈和恼怒,“过去你可不曾用如此亲切的、放松的态度对待其牠男人。今日你和伊万君与其说在聊天,不如说伊万君在用聊天这种方式向你学习日语吧。来东京的这两年我们不是常常听闻那样的事例吗?那些西洋男人在东京以招佣人或以结交朋友、谈恋爱的名义找个日本女孩,向对方学习日语、让对方充当翻译的同时又与对方性交。咱犬舞见人虽没有贞洁一类的说法,也不在乎你与谁性交、与性交的对象是否有婚姻关系,但内阁、皇室一定非常在意此事。现在爵位又不在你的身上,即使裕仁亲王和陛下与明治天皇不同,对本田家的态度更为柔和,可顾及法律、皇室的脸面以及死掉的明治天皇,牠们会先召见我而非直接召见你以打探你打算同何人性交,毕竟在非犬舞见人的眼中,性交等同于生育嘛。应付皇室、内阁可是非常麻烦的,所以我才……”
樱那微眯起眼的、盯着我沉思的表情让我的话越来越说不下去,我的视线情不自禁从樱脸上移开落在石板路旁茂盛到完全遮住下方泥土的植物上。与其它于明治维新后或被皇室与内阁接收、或主动出售给政府与企业的屋敷不同,本田家在曾用名为江户的东京市的上屋敷在建造之时就采用的是裕福国所流行的建筑风格、布局和构造。即不但没有其它屋敷那种归大名居住的表御殿、归大名正室居住的奥御殿等区域,除去靠近外门的、停放车马的一小片地方夯实了泥土并铺有细腻的沙砾外,余下的地方除去石板路与水池外皆种有各类灌木和树木。因着这种布局,据说本田家的上屋敷被他人戏称为䒳泓园,加之过去历任本田家家主皆为女性,江户时代常有御台所、皇女等向本田家主请求在本田家的上屋敷内小住一段时间或借本田家的上屋敷同友人见面。在被东京大学录取前,我唯有继承爵位、被明治天皇召见的那次离开过犬舞见,被召见期间我一直住在本田家的上屋敷里,即使在首次进入并游览整个上屋敷之时,我也不觉得这上屋敷有何独特之处,想必那些借用、借助本田家上屋敷的女性只是为了暂且躲避令她们感到窒息的大奥、皇居吧。
“哥哥,”樱开口唤我,她的声调让我想要装作什么都没听见并立即快步走开,“说起来,今日在同伊万君打过招呼后哥哥竟未离开而是留在我和伊万君身边就已经够让我惊讶了。结果伊万君首次拜访我时,几乎未加入我们的闲谈之中的哥哥脑中竟在想着这等事吗?这种有着明确方向性却又过于发散的、不切实际的联想令我忍不住思考,过去的一个多月里哥哥究竟是抱着何种想法、用着何种目光去跟踪与观察伊万君的呢?”
我能感到自己的脸颊和双耳在发烫,我想这两处已变得通红了吧。于是我迁怒起七月初日落的时间来,虽伊万君是吃过晚饭才离开的,离开之时太阳也已落入重重建筑之后,可天色仍未昏暗到足以遮掩我的神态的程度。我死死盯着不知何时出现在视野中的、分不清是蝶还是蛾的、停在紫阳花上的昆虫,那虫子似感知到我的视线般不安地扇动几下翅膀后飞走了。樱的视线也让我想如那只虫子般不安地挥动几下双手,可惜我却无法如虫子般飞走,只能继续忍耐愈发沉重紧绷的寂静。
‘之前可从未觉得外门和我屋子之间的距离有这么远呐。’我想着,挫败地叹了口气。“好啦,”我的声音里充满了投降的意味,“我承认可能我在观察伊万君时不止把伊万君当作你新结交的朋友,也以一种超出正常应有的程度去关注牠的身体。但,”我情不自禁提高音量转头看向樱,“那是因为伊万君的穿着比较奇怪啊,一直戴着围巾什么的,或是把浴衣当作西式大衣、把甚平当作薄外套穿在衬衫外,羽织上家纹的大小和位置也不符合常规————”
“哥哥。”樱平缓的声音���一把利刃般切断了我的话,“这般音量和语速只会显得你心虚。况且,我和伊万君也还未亲密到能互称对方为朋友。”
我的话卡在喉咙里,嘴延迟了数秒才闭上。“所以说,”这次我真的举起双手以示投降,“我没有一瞧见伊万君就想着牠的身体是什么样的,或与牠性交是何感受,性交中牠会作出何种反应、露出何种情态等。我只是在观察伊万君一段时间后发现了伊万君外表的魅力所在而已,虽然对日本人来说,伊万君的身高、体格会造成压迫感,但习惯那种压迫感后,却能发现伊万君体态修长匀称,肤色白皙,五官也能用精致来形容。尤其是双眼,无论是柔润的、深且大的轮廓,长而卷的睫毛还是在阳光下泛出犹如紫阳花般蓝中带紫的色泽的眼眸都令人印象深刻。你应该明白我的感受吧,自小见惯了犬舞见的、身高与我们相似且不会过瘦也不会过胖的大家,来到东京后见到的却几乎都是比我俩矮一个额头乃至大半张脸的人。同时那些东京人大多因食物种类单调、长期食素而像刚长出没多久就枯死的竹竿般干瘦,少数能担负起丰富的饮食的、能摄入充足营养的男人年纪轻轻就长出垮塌在两颊和胃腹处的赘肉,偶有几名体表脂肪不多不少的男人,不但身上的肉软趴趴的,神态里总缠绕着股时常熬夜、酗酒、频繁性交所积累下的颓废,原本算得上清秀的五官都被破坏成衰老的猿猴的模样。身处一堆粗制滥造之物中两年之久,遇见整洁漂亮的人后视线自然而然会被对方吸引吧。”
樱不知怎的露出叹为观止的表情,“看来哥哥真的很欣慕伊万君的外表。我都还未这般留意过伊万君的外表哦,虽然近来的确觉得伊万君比旁人更悦眼些。”
“是啦,你当然没留意伊万君的外表,否则当初你会告诉我你结识了一名精致美丽的人而非有趣可爱的人。”我恹恹地说,虽自觉替自己做了不少辩解,但总觉得我的辩解起了相反的效果,所幸樱不会因此误解我是一个满脑子性交的、只用性方面的目光去审视伊万君的人。
“只听哥哥这番话,倒会以为哥哥在性方面对男人的兴趣多于对女人的兴趣。”樱说。
我知道这是樱在取笑我的辩解中几乎只提及了男人,“伊万君是男性,所以作比较的对象也应是男性啊。”我解释道,“男人的五官再怎么精致,不作修饰也是无法同女性媲美的。自进入成长期后,女性与男性就有着骨骼、肌肉量等方面的差别,只有不了解医学和人体的家伙才会将女性和男性放在一起比较,说出某个男人长得如女人一样美丽的话来。况且这里的女人…………”我用一道叹息代替未尽之语。
“都过去一年多了,哥哥仍会受那几次经历的影响吗?”樱揶揄我道。
“算不上受其影响吧,只是,”叹息再次不受我控制得自我的嘴中溜出,“我猜无论我在东京生活多长时间都无法习惯这种事。”
这种事,指得是把女人当作货物来买卖。如我先前所说的那样,某些华族子弟虽霸凌我和樱,霸凌的方式却有所不同。牠们一面排挤我,一面又邀依牠们所取的外号“犬舍助”——犬舍二字的读音いぬなか接近田舍一词的读音いなか,助的含义是形容人的特征,不过这里的助和当时对俄罗斯人的蔑称露助一词中的助是相同的用法,此外号的含义即取笑我是个从犬舞见来的乡巴佬——的我前去吉原、也就是未来的浅草区千束三至四丁目,说是让我见识见识大都市的女人。
事实上,在没有将与性有关的一切当作不可谈及且需避讳的事的犬舞见长大的我能肯定,我拥有的性方面的知识远超过和我同龄的、乃至比我年长的非犬舞见男人。而且犬舞见既没有‘女性的贞洁‘这样的概念,又一直实施妻问婚。或更准确来说,除去需政治联姻的历任本田家家主不得不娶某个来自公家、武家的非犬舞见男人以外,犬舞见内根本不存在婚姻这种制度。即便是本田家的家臣,如村越家、辻野家等的女性在想要子嗣时也不过是向看中的男性提出性交邀请,而非如平安时代中后期那般将子嗣在母亲身边长大后前往母亲性交对象的家并继承其姓氏、财产。
在这种环境和氛围中成长的女性是可以不受约束地探索与性有关的一切的,犬舞见的女人在进入成长期以后从诸如母亲、姐姐等长辈那里了解何为性,或与朋友们一起摸索自己的身体构造、试验刺激性器官后的会产生什么体感是非常正常的事。出生于本田家的我受限于性别和阶层,无法如犬舞见的藩民乃至本田家家臣那般拥有一同长大的、可共同探索快感和性行为的伙伴,然而在樱和我四岁近五岁时阿母就开始教我们了解人体结构,我十多岁时也遇见过女性藩民向我提出性交邀请。即使因对方没有孕育子嗣的打算而不曾采用阴道阴茎的性交方式,但受惠于对方所拥有的经验——顺带一提,与日本其它地区不同,在犬舞见,年长的女性和十多岁的男性之间性交是被允许的,不过若是双方的性别交换,年长的男性即便只是向十多岁的女性提出性交邀请都会被执行逐森审之刑,更别提真的同少女性交了——我体验、实践并学会了不少性方面的技巧。其实向我提出性交邀请的还有男性藩民,可我认为同性间性爱的事前准备太过麻烦,若不进行到将阴茎插入某一方体内的那一步,那么对象是女人还是女人都无甚区别,所以比起男性藩民,我更常同意女性藩民的邀请。
因此,首次前去吉原的我没有作出那群霸凌者想看的、面对游女时不知所措且生涩紧张的反应。相反,席间我用介绍有趣的知识的语气谈起阴茎的构造、各人种男性的阴茎尺寸,如果没有清洁阴茎的习惯、频繁更换性交对象将会患上何种疾病,疾病的症状又是什么。我故意表现出一副不懂得察言观色的医学生炫耀知识的模样滔滔不绝地讲述着,无论是想要缓和气氛的附迴女郎——不知是无法担负同最高级的游女见面的资金还是别的原因,邀请我的男同学指定的是等级低于呼出、昼三的附迴——还是欲转移话题的华族子弟皆无法成功打断我的话。大约是我的描述非常生动、能让人轻易在脑中想象出对应的画面的缘故,那几名华族子弟的脸色也逐渐变得近似杯中的抹茶或碟中黃褐色的腌菜,最后牠们不但逃似的离开引手茶屋,几次后就再未邀我同去吉原。
依照那时的习俗,同花魁得见上三次才会获取与之性交的资格,而附迴女郎也被划分在花魁这一等级中。前两次我的注意力放在反击那些试图看我笑话的、捉弄我的男同学上,对陪同我们的附迴只抱有一种浅薄的、不真诚的同情。这同情令我愿多给她们些赏钱,也仅止于赏钱。我不曾深思对于这些被父亲、兄弟卖掉或被从母乡拐卖至吉原的女人们来说,那种反复被男人当物品买卖的生活意味着什么,也不知我谈及的与性交有着因果关系的疾病与她们的生活的联系。
阿母死后,那场到底是由樱还是由我继承本田家爵位的、明治天皇同犬舞见及保守派之间的政治争斗已让我隐隐发觉日本其它地区对待女性的方式和犬舞见不同。而十四、五岁时,我读过诸如《たけくらべ》、《ヰタ・セクスアリス》这类背景被设置在吉原的书籍,整个成长过程中也偶有从春日姐——春日姐是阿母任命的管理藏田川町的城主,或按照官方的称呼是町长,春日姐���樱和我年长十一岁,在阿母病逝前曾在犬舞见生活过数年,同樱建立了深厚且亲密的关系,阿母病逝后她助樱良多——等人口中听闻过发生在犬舞见邻县或那些新迁入犬舞见的人家之间的、女性成为受害者的事,例如产下死胎后被赶回娘家,不堪忍受丈夫和丈夫的家人的折磨而自杀,被父兄乃至男性情人卖去东京、京都、长崎一地的吉原等。
所以,不能说在前往东京前我对日本其它地区的女性的处境一无所知,但也不能说我关注那些女性的处境。由于犬舞见县内几乎不曾发生此类案件,我甚至都不曾对那些女性产生同情,她们距我的生活太过遥远,比起活生生的、需要人帮助的对象更像是用以打发时间的故事里的、未给人留下深刻印象的角色。以及,在我的记忆中,入读东京大学前樱只处理过两起这类案件。一起是阿母尚在人世间时移居来犬舞见的商户家的男人偷窥女孩子洗澡——其实犬舞见一直没有如它县那般根据性别将公共浴场分为女汤、男汤,甚至因犬舞见的公共浴场不是私人开设的经营场所而是免费的公共设施,故犬舞见的公共浴场被称为‘汤所’而未选取诸如钱、屋这类与商店、经营有关的字,所以我着实不明白那男人为何要扒在用于透气的狭长格子窗外窥视汤所——樱在询问美加惠、春日姐等人并参考先代本田家家主对此案的处理方式后,判决对那男人执行逐森审之刑。
另一起案件的罪犯来自青森县,是一个近二十岁的、苗字为岩下的男人。岩下携一名十多岁的小姑娘入住藏田川町的宿屋。宿屋的女将瞧着牠和那小姑娘的面容无相似之处,不像亲戚,便唤自己的女儿通知警察来问讯。结果不等警察前往宿屋问讯岩下同那小姑娘是什么关系,女将就发现那男人竟对小姑娘又打又骂,于是当警察抵达宿屋后,原本的问讯岩下改为直接逮捕岩下。经调查后发现,那小姑娘苗字为川村,同是青森县人,其父听岩下说能介绍东京的工作后让她随川村前往东京。而岩下口中的工作,其实就是去吉原当游女。岩下坦白川村是村里容姿最佳的姑娘,牠想着将川村卖去吉原,即便入不了扬屋,收容下等游女的格子给出的买女钱对来自偏远山村的岩下来说也已足够多了。在岩下的计划中,那笔买女钱归牠所有,算作川村成功获得工作的“中介费”,川村当上游女后的收入牠可帮忙寄给川村的父亲,只收一分当作跑腿费。
岩下是在听说邻村来了个女衒[1]——即介绍女性去游廓的中介——后产生将同村女性卖去吉原的主意的,只是牠不知该如何成为一名女衒,便想着先带川村去东京吉原试一试能否卖掉川村,若能那么川村又能被卖出多少钱。也因此,岩下不知犬舞见县禁止人口贩卖、不知其他女衒搜寻可成为货物的女性和前往各地的吉原时皆会特意绕过犬舞见县。此案的判决比前一个案件更容易,只需按照犬舞见的律法判决岩下死罪并处以斩首刑。行刑后,岩下的头被送回青森县作为震慑和警告,川村倒是留在了犬舞见,成为了繁育裕福犬的饲养员。
第三次前去引手茶屋后,按惯例我获得了同附迴女郎性交的资格。那名陪同我三次的附迴女郎名为常夏,显然这个出自《源氏物语》并非那女子的真名。经我询问,常夏告诉我吉原的花魁有着从姐姐、即先代花魁那里继承名字的习俗,而花魁大多直接使用或更改《源氏物语》中女性角色的名字充作艺名,少数花魁的名字也来自落语。我问过常夏的本名是什么,现在,不,哪怕是一年后回想起来,我都已经能意识到这是一个非常冒犯的、且会勾起游女伤痛记忆的问题,遗憾的是,那时我只以为那是句顺其自然的寒暄。而常夏自然没有告诉我她的本名,只挂着礼貌又疏离的微笑,用着与东京人惯用的不同的、仅在吉原内出现的口调说那不是个足够优雅以能入客人耳的名字。
说刚在东京生活一个多月的我尚不明白嫖娼是怎么一回事也好,说我对游女们那浅薄的同情无法盖过我对她们的好奇心以及我放纵了自身的性欲也好,总之我不曾放弃与常夏性交的机会。与常夏性交时,我自然遵循了我受犬舞见女藩民——其实版籍奉还后所有原属本田家的藩民、家臣就变成了直接归天皇管辖的日本公民,可无论是自姥姥到樱的本田家的人还是犬舞见的平民们皆仍习惯使用藩民这样的称呼——培养成的习惯,试图用吻与抚摸挑起常夏的兴致。只是隔着赤红色的、比女性通常所穿要精美浮夸不少的肌襦袢,以及透过常夏的姿势、神态和另一些我无法准确说出但能感知到的东西,我明白我的抚慰非但没有产生预想的效果,似乎还令常夏变得紧张不适。
当我拂开覆盖在常夏躯体外的肌襦袢后,眼见之景让我顿住了。那是一具怎样的躯体啊,被涂满白粉[2]的脖颈衬得黯淡、又被烛光度上层暖黄的皮肤显现出种不健康且僵硬的灰白色,犹如沾上灰尘的和纸般的皮肤包裹在松散软绵的脂肪与肉上,而那脂肪与肉虽松散软绵,份量却犹如怀石料理席上的一碟小菜,配上那一身极有可能因生长期未获得充足营养故未能好好儿发育的、小小的骨骼,使得从外观来看,其躯体还停留在仅能当新造的年龄。
我入读东京大学时年满十九岁又两个月,哪怕真与一名十四、五岁的姑娘性交也不违反除犬舞见以外的日本的律法和道义,可对着常夏那具与十四、五岁女孩相仿的躯体,我兴致全无。我自然可宣称导致我丧失性欲的是同情,是对拥有苦难生活、且生活中的苦难多至浸润了其躯体的常夏的怜悯。然而浇灭我欲火的真实原因,一小部分是作为一个在健全的、对什么样的年龄算是儿童有着清晰定义和认知的环境中长大的我,根本没办法对儿童或任何看上去像是儿童的对象产生性欲。余下则是因我的审美由我的成长环境养成,我能将游女那涂满白粉的脸脖、特意染红的眼尾与嘴唇、画得弯曲细长的双眉当作日本其它地区的独特风俗来观赏,可无论如何,对着常夏的躯体我都说不出‘美丽’这一词。脱去衣服之前,我还能称赞常夏像樱年幼时于雏祭[4]收到的、与本田家有着生意往来的外县商人送来以套好阿母的雏人偶般精巧,脱去衣服之后,我便只能以犬舞见人和医学生的身份判定常夏缺乏锻炼、营养不良、需要日晒。
如我能察觉到常夏为因我的挑逗变得紧张不适一样,常夏也能察觉到我的性欲在看见她赤裸的身体后似落在烛火上的雪般消融。虽受昏暗的烛光影响,我无法看清常夏的神情,但我仍能从她合拢肌襦袢、左手攥住衣衿等肢体动作读出她的恐慌。“不是您的问题,”我说,“是我的问题,我还是更习惯母乡的女性的那种——”我想了想,找不出能在避免将犬舞见女藩民同常夏作比较、避免对常夏的躯体做出负面评价的前提下表达自己更喜欢那种健康且充满活力的肉体的说法,便只得将余下的话变成几道含糊的、无意义的嗯声。同时,尽管我已打算离开,可大约是受那浅薄的同情的影响,也因夜宿在吉原所需的金额对我而言不算负担,我便补充道:“请放心,我仍会付泊夜的扬代[5]的。”
之后直到那群华族子弟放弃找茬,每次牠们邀我去吉原时,预计那群华族子弟找不了我几次麻烦故懒得再按照流程认识新的花魁的我仍指名扇屋的常夏。常夏并未因那次止于前戏的性交用不同的态度和方式对待我,而我也如那次一样,虽不会夜宿吉原,可仍会付泊夜的扬代。不过,由于那群华族子弟已差不多快放弃找茬——坦白说,旁观牠们转动那颗智慧犹如东京的荤食类菜肴般稀少的脑袋,努力思索着试图找出能引出我任何负面情绪,即任何可以惹怒我、或使我难堪、或让我嫉妒的事,可比观看席上舞伎跳舞更有趣——我不需将注意力集中在牠们身上以时刻准备着反击牠们的戏��,余出的时间便被我用来和常夏闲聊以满足的我好奇心。
如同我询问常夏的本名是什么一样,那时我也不知、也可以说是懒得留意为满足自己好奇心问出的问题对游女的冒犯和伤害。只是就算听起来像狡辩,我也得解释我不是以冒犯、伤害常夏为目的而提问的,促使我问出那些问题的情绪除去好奇以外还有医学生对实际案例的探索欲,我想知道是什么原因导致常夏拥有如此不健康的身体。
面对我的问题,最初常夏像我询问她的本名是什么时那般用委婉的、无意义的话语代替了确切的答案。然而也许是我过于执着,也许是之前的闲聊中我曾提及我就读的学校和所学的专业,常夏最终还是回答了我的问题。于是我了解到游女们的作息与常人不同,她们在夜间两点左右入睡,若有客人,那么六点得起床送别在吉原住了一夜的客人,接着睡到十点左右后起床梳洗、吃早饭并做好妆容、服装上的准备,十六点左右开始吃晚饭,到了十八点就是男人们前往吉原寻欢作乐的时间。至于吃食,妓楼只提供米饭、味增汤与腌菜,想吃别的需游女加钱点餐。
在二十世纪二十年代,医学界对睡眠不足、颠倒的作息、缺乏日晒对人体的负面影响尚未有充足��研究——或准确来说是日本医学界完全不关注此类问题,后来我得知俄罗斯帝国对此类论题已获得一定研究成果,只是在我就读东京大学时日本没有引进俄罗斯的医学研究成果罢了——故虽然我直觉游女的作息对她们的身体有害,可我无法判断具体有哪些危害以及有害的程度是什么。比起作息,我更能依据所学知识与在犬舞见生活时积累的经验判断出游女的餐食无法为她们提供足够的营养。
“为了健康,你们需要更多的摄入肉类,腌菜也应替换成新鲜的蔬菜,尤以动物油脂烹饪的蔬菜为佳。”我劝告常夏说。
在我的固执追问中,常夏逐渐换掉那种一味讨好、奉承男客并用无数谎言堆砌出男人喜欢的假象以引诱男人再来的相处模式,转而习惯将真相当作答复。因此常夏没有说些“吃精巧的小菜、漂亮的和菓子的女孩不是更可爱吗”这类虚假又讨其牠男人喜欢的话,而是苦笑着告诉我说:“本田旦那,我的收入可不足以让我每日吃上肉类和新鲜的蔬菜啊。”
“以你的收入都负担不了吗?”我惊讶地问。我惊讶的原因,在于作为上等游女的常夏,连茶席与泊夜一共能收取接近三円的扬代,而在那个年代,低级公务员的收入为一月五十円,东京一个馒头的卖价是一钱,一百钱又等于一円[6]。同时,游女们全年仅有新年与盂兰盆节这两个假期,余下都是工作日,所以按照常理来说,常夏一月的收入甚至高于低级公务员。
“您知道我们都是被卖进吉原的吧?我被卖给扇屋时,扇屋的楼主给了我阿爹超过五百円的买女钱,且我进入扇屋时年龄尚小,作为服侍上一任常夏的秃被培养了数年。”常夏说,“我开始接客后,所获得的收入得偿还楼主当初付给阿爹的买女钱和身为秃时的花费。在我当上附迴、获得属于自己的房间和秃后,还得支付租用及维护房间、雇佣秃的费用,同时我所穿的和服、头戴的发簪也需我自己付钱。”
常夏没告诉那些花费的具体数目,但我已能猜出尽管花魁们的收入较高,可支出也同样多。她们如那些家业衰败的华族一样,虽有着高出平民的收入,为了维持与自己身份相匹配的生活又不得不将那份收入用在无实际作用的物什上,不但存不下钱,还可能四处借债。
我与常夏之间的往来本应止于那群华族子弟停止邀我去吉原后,可晚了我一学期、于九月入读东京大学的樱,不知是早有此打算,还是在听说我的遭遇后对吉原、游女产生好奇,竟在抵达东京后决定去见一见常夏。这可是从未有过的事,那时除去游女以外的女人虽能进入吉原,可她们皆是在妓楼、引手茶屋、吉原内商铺工作的女佣或屋主。听说江户时代末期有公家与身份足够高的武家的正室会召游女一同吃酒或玩双六、丁半等赌博游戏,然而那些正室也并未亲自前往吉原,仅是在吉原附近的茶屋同游女见面。曾有浮世绘师葛饰应为为了收集素材前往游廓,但她仅是预先与妓楼私下协商好,其后作为打杂的帮佣借由将茶酒、菜肴端去席上的机会进入引付座敷等房间并观察房间内的游女。
樱后来告诉我的确是葛饰应为混入妓楼的做法给了她进入吉原的灵感,不过我不知樱用了什么手段,连葛饰应为当初去过妓楼的事都是她告诉我的,她则是在姥姥的阿母的日记中获知的,而姥姥的阿母又是从葛饰应为本人口中听说的。说起来,葛饰应为与她的父亲一样长寿,其父葛饰北斋死后,她应姥姥的阿母的邀请前往犬舞见,不久后决定在藏田川町定居。葛饰应为如她的父亲那般直到死前不久都依旧在作画,最终于樱和我出生的几年前逝世。姥姥曾同樱和我聊起过葛饰应为,听上去她是一名对世界一直保持着孩子般的探索欲和好奇心的女人,无论是樱还是我都很遗憾未能与她结交。
总之,樱成功进入了吉原,位于新吉原大门处防范游女逃跑的面番所里的守卫没有阻拦、搜查樱,引手茶屋也没有拒绝接待她——顺带一提,樱入学后,那群华族子弟试图霸凌樱的理由之一便是樱是个去过吉原的放浪女人——我作为已被常夏接受的‘熟客’,为引常夏认识樱这样的‘生客’而陪同樱与常夏初见。能当上花魁的常夏即使遇上女人以客人的身份召她去引手茶屋、熟客将她介绍给自己的妹妹这两件同时发生的事都未作出任何���常或失礼的反应。我瞧着常夏那张几乎没什么表情的、仅唇角微微勾起的脸,猜想她没准儿正在暗自抱怨遇见了不合常理又麻烦的客人。
我在席上没呆多久,樱就说出“哥哥今日还有事吧?之前不是说趁着难得有空闲时间,打算将近来的报纸制作成剪报吗?”这般委婉赶走我的话,我自然不会拆樱台,回以“我可从未有过制作剪报的兴趣”,只顺着樱的话离开引手茶屋。因此我不了解樱同常夏谈了些什么,只能从下一次在我未陪同樱的前提下常夏不曾拒绝樱的指名来推测,至少常夏不认为樱是难以招架的、宁愿得罪也不肯继续往来的客人。
向樱引荐常夏便是我与常夏最后一次见面了。至于樱,不知是因开学后事务繁杂——樱得同时处理学业、犬舞见的政务、学校里师生的霸凌——还是因东京一家名为朝日新闻的报社[7]将樱以客人的身份前往吉原当作奇谈轶事登载在报纸上,很快樱也不再前往吉原。朝日新闻对樱的报道在以东京为首的地区很是引起了番议论,一些不了解本田家独特地位的教师、同学以及霸凌我和樱的华族子弟认为应开除樱,摄政未满一年的裕仁亲王也遣侍从询问樱此事,朝日新闻报社的记者还跑来学校试图采访樱。
说樱完全不受当时的流言和非议的干扰是不准确的,不过那些流言和非议没有让樱感到恐惧、羞愧或难堪。详细描述的话,樱既觉得将她去吉原做客当作了不得的恶劣事、为此议论并传出各类流言的人们很无聊,又为被迫同关注此事的如裕仁亲王、时任东京大学总长古在由直、时任东京大学文学部部长服部宇之吉等人周旋而感烦闷暴躁。而我之所以如此了解樱那时的情绪和心态,除去樱数次向我抱怨那些编造流言、非议她的品行的人们有多么愚蠢又无所事事的缘故,还因虽天赋远不及樱,但我终归拥有感知、使用咒术的天赋。于是在其他不具备咒术天赋的人看来,那段时间的樱仅是表情和情绪都变得阴沉,可在我的感知中,自樱体内散发出的、萦绕樱周身的巫力犹如雷电般暴虐且像刺草[8]般蛰人。
这就是我不敢插手以保护者的身份阻止那群华族子弟霸凌樱的又一起原因,我可没有招惹处于那种状态里的樱的勇气,我的勇气全用在了坚持留在上屋敷里居住这一行为中。其实我很是犹豫了一段时间是否暂且躲开樱去森川町寻个住处,哪怕是下宿屋都好。然而顾虑到另租住处的行为很可能被好事者解读为我认定樱有辱门楣而耻于和樱住在一起、且樱性情暴烈反将我赶出上屋敷,并以此为题材传出新的、更多的流言进一步激怒樱,最终我放弃了另寻住处的想法。
裕仁亲王遣侍从询问樱后以非公开的途径下令禁止各地报社继续报道此事,为尽快消除与樱有关的流言和非议,又命东京各报社报道些别的事以转移民众的注意力。因此,若翻看一九二零年九月末至十月初的报纸,便能看见原本在各报纸版面上都占据一地的、以《本田 樱 氏 前往吉原,女人也能作为吉原的客人吗》这类文名登载的报道突兀得被于秋田县发现的白岩陨石、宝冢歌剧团在京都的公演等报道取代。
以及,裕仁亲王遣侍从询问樱后却为惩处樱,学校也一直未开除樱,两者叠加似乎被大部分同学视作某种不可再议论樱去吉原的信号。那群华族子弟则如我先前提到的,或是退学、转学,或是遭遇了某起致其伤残的意外事故。而樱去吉原召游女的历史,在樱同伊万君结识、交好后曾被再次翻出来作为她品行不端、性情放浪的佐证。只不过两年的相处足以让同学们意识到樱不是软弱可欺的、能肆意当作谈资的对象,那些言辞较为激烈的、涉及贬低用语的议论仅在男同学们的口中遮掩着流传,并不敢传至樱乃至簇拥在樱身周的女同学们的耳中。
[1]女衒
[2]白粉
[3]新造
[4]雏祭
[5]揚げ代
[6]钱
[7]朝日新聞
[8]即荨麻
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人生初めての新宿御苑。 かつて、桜を見る会は総理公邸で開催されていたはずだが、いつの頃からか新宿御苑。 天野秘書に車で送ってもらい、大木土門に到着。 人ごみ。 かき分けて受付に向かうと、おお、ちょうど、石川県からご招待した米川女性局長や野口幹事長や自民党石川県連の岡部さんと合流。 すると、そこにやってきたのは、高見恭子さんが所属する「ナベプロ」の渡邊ミキ社長。 かっこいい! オレンジ色のスーツを着こなして、てきぱきと動くキャリアウーマン。 「どうしたの?」 「うちのタレント連れて行くんです。ここで待ち合わせなんです!」 とのこと。 高見さんも「うちのタレントの一人」なのだが、今日ばかりは、国会議員夫人。 そのうち集まってきたのは、ボクシングの具志堅さんとか、中山秀征さんとか、恵さんとか、しょこたんとか、井上純一さんとか、東尾理子さんとか、東尾監督とか、アイドルのみなさん・・・・・・・・・・ そっか、みなさん、ナベプロなんだ。 あらためて、幅の広いタレントさんが所属されているんだなと、実感。 渋谷のホテルからタクシーで向かっていた小矢部の両親も、迷子にならずに到着し、いよいよ会場へ! といっても、広い広い会場いっぱいに紅白の幕を垂らしたテントがいくつもあり、簡単な食事が提供されているだけ。 でも、安倍総理はじめ閣僚のみなさんや、タレントの皆さんも参加されており、全国から招待された国民にとっては晴れ舞台。 にぎやかで和やかなひと時。 惜しむらくは、もう3週間前に開催すれば、本当に桜満開��ったのにな、ということ。 本日は、うすら寒く、葉桜もしぼみがち。 そんな中、自衛隊音楽団の皆様のかなでるメロディに、あちこちで、記念撮影や歓談の輪が広がる。 われわれも、メインテントで北村茂男ご夫妻や、顔見知りの皆様と、懇談。 神田うのチャンもご来場であり、よくわからないけど、なんかゴージャスな気分。 ちょっとお寿司が冷たくて硬かったけどね。 こないだオーストリアとウクライナの出張に同行してくださった外務省の西林文化交流大使や、JSCの河野一郎理事長や、石川県建設業協会の北川会長もご夫妻でお見え。 はせ浩 オフィシャルブログ「はせ日記」Powered by Ameba はせ浩 オフィシャルブログ「はせ日記」Powered by Ameba 金沢からお招きした紐野県議や村田信親後援会長なども、のんびりと新宿御苑を堪能。 はせ浩 オフィシャルブログ「はせ日記」Powered by Ameba 小矢部の両親にも、少しは楽しんでもらえたかな。 最初は行くのが億劫だったと言っていた千尋特別秘書も、 「来てよ��ったです!」 と大喜び。 マチコデラックス秘書は、地元のみなさんをかいがいしくお世話し、大活躍。 こういう大掛かりなパーティに来て、いろんな人たちに逢うことも、これもまた社会勉強の一つ。 国会議員仲間にも、あちこちでご挨拶。 はせ浩 オフィシャルブログ「はせ日記」Powered by Ameba 萩生田光一代議士など、地元の皆さんと一緒に、バスを借り切ってお見えであったし。 10時半、終了し、いったん帰宅。 大混雑でちょっと人疲れしたので、しばしシンバルをいじって休憩。 13時45分、自宅を再出発。 おりんさんの高校保護者会に出席。 クラスには高見さんが向い、なぜか俺は、校長室へ。 教育問題について、世間話。 15時過ぎには一足早くお暇し、羽田空港へ。 16時前、ぎりぎりに羽田空港貴賓室到着。 16時15分発のJAL機にて、小松空港へ。 17時到着。 ここで、小矢部の両親とも合流し、秘書の車のハンドルを握り、一路富山県へ。 18時05分、山辺県議の南砺市連合後援会総会到着。 地元福野町での開催。 5月2日には夜高祭りで再訪するので、今夜は堂故参議院候補の応援演説。 わずか5分滞在。 小矢部の実家で両親をおろし、金沢へととんぼ返り。 19時04分、金沢エクセル東急ホテルへ。 新神田校下各種団体連合会懇親会にお招きいただき、全テーブルへとご挨拶。 19時35分金沢駅へ。 小松からやってきた大学時代の同級生をピックアップ。 19時50分、笠舞の居酒屋で懇親会をしている大桑団地町会の皆様のもとへご挨拶。 20時10分、青柳。 マスコミのみなさん、各種団体代表の皆さんと、情報交換会。 21時50分、退出。 22時10分、金沢駅へと同級生を送り届け、帰宅。
桜を見る会~4月20日~ | はせ浩 オフィシャルブログ「はせ日記」Powered by Ameba
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勸學的故事
H:「年少時代」劇中有一幕是女主角看水電工聰明,告訴他「聰明,為什麼不去讀書,社區大學夜間部不貴」,水電工雖辯解事情忙,但有聽進去,後來去讀書成為餐廳經理,小小的改變影響一生。片尾去餐廳,經理接待感謝其勸說告訴其兒女「你應該聽聰明人的話」,並請其全家免費用中餐。古有孟母三遷。古人常說「少壯不努力,老大徒傷悲。」那要努力什麽?古人忙於讀書爭取功名。「三分天註定,七分 靠打拼」凡人打拼是唯一選擇,而在學校讀書爭取學歷,考取專業證照,選擇優渥的工作就職,是所謂的捷經。少壯已不努力了,老年也可終身學習,何時開始?雖有遺憾,有個動力就去做,填補無知的時代,創造人生的不無聊。活到老,學到老,學什麼?「人老了,不是要學習追求什麼、擁有什麼,而是要學習過一個感恩、寧靜和平安的生活歲月。」20241010W4
網路字典
少壯不努力,老大徒傷悲
(諺語)年輕力強時不奮發向上,年紀大了便後悔莫及。《樂府詩集.卷三○.相和歌辭五.古辭.長歌行》:「百川東到海,何時復西歸。少壯不努力,老大徒傷悲。」《黃繡球》第二六回:「『少壯不努力,老大徒傷悲』,就是這些秀才們情景。」
十年寒窗無人問,一舉成名天下知
「十年寒窗無人問,一舉成名天下知」出自元末高明的《琵琶記》。意指古人經過多年苦讀,只要一旦高中狀元,便能名成利就,無人不識。放諸現代社會,指的是經過多年的努力而取得成功,也可一舉成名。
形容長期閉門苦讀。元.關漢卿《蝴蝶夢.楔子》:「父親母親,你孩兒十年窗下無人問,一舉成名天下知。」明.高明《琵琶記.蔡公逼伯喈赴試》:「你為甚在十年窗下無人問?只圖個一舉成名天下知。」也作「十年寒窗」。
網路資料:
活到老,學到老,學什麼?年輕的時候出航學習,我們總是以成績、學歷、職位和財富衡量一個人的成敗。
年老的時候,我們應該放下這些外在的評價標準,重新思考和選擇生活目標與人生價值。年老回航學習面對工作和親友的失落,不會因此而憂鬱;學習面對生病和死亡,不會因此而恐懼;學習在有限的歲月裡,如何過得更有意義;學習檢視和修復我們在出航人生中所傷害的重要人際關係,以及學習從事志願服務和社會公益活動等。
維基文庫
《勸學詩》或稱《勸學文》,是宋末元初經多人參與創作,假託宋朝宋真宗皇帝所作的詩歌,[1]目的是勸勉男兒努力讀書,透過科舉出仕來達成自己的夢想。一般人常說的「書中自有黃金屋、書中自有顏如玉」就是出自這首詩。該詩見於元代的《古文真寶(日語:古文真宝)》。
原文
《勸學詩》:
富家不用買良田,書中自有千鍾粟。
安居不用架高堂,書中自有黃金屋。
娶妻莫愁無良媒,書中自有顏如玉。
出門莫愁無人隨,書中車馬多如簇。
男兒欲遂平生志,六經勤向窗前讀。
維基文庫
勸學
先秦兩漢 -> 儒家 -> 荀子 -> 勸學
《勸學》
君子曰:學不可以已。青、取之於藍,而青於藍;冰、水為之,而寒於水。木直中繩,輮以為輪,其曲中規,雖有槁暴,不復挺者,輮使之然也。故木受繩則直,金就礪則利,君子博學而日參省乎己,則智明而行無過矣。
故不登高山,不知天之高也;不臨深谿,不知地之厚也;不聞先王之遺言,不知學問之大也。干、越、夷、貉之子,生而同聲,長而異俗,教使之然也。
《詩》曰:「嗟爾君子,無恆安息。靖共爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。」神莫大於化道,福莫長於無禍。
吾嘗終日而思矣,不如須臾之所學也。吾嘗跂而望矣,不如登高之博見也。登高而招,臂非加長也,而見者遠;順風而呼,聲非加疾也,而聞者彰。假輿馬者,非利足也,而致千里;假舟楫者,非能水也,而絕江河。君子生非異也,善假於物也。
南方有鳥焉,名曰蒙鳩,以羽為巢,而編之以髮,繫之葦苕,風至苕折,卵破子死。巢非不完也,所繫者然也。西方有木焉,名曰射干,莖長四寸,生於高山之上,而臨百仞之淵,木莖非能長也,所立者然也。蓬生麻中,不扶而直;白沙在涅,與之俱黑。��槐之根是為芷,其漸之滫,君子不近,庶人不服。其質非不美也,所漸者然也。
故君子居必擇鄉,遊必就士,所以防邪辟而近中正也。
物類之起,必有所始。榮辱之來,必象其德。肉腐出蟲,魚枯生蠹。怠慢忘身,禍災乃作。強自取柱,柔自取束。邪穢在身,怨之所構。施薪若一,火就燥也,平地若一,水就溼也。草木疇生,禽獸群焉,物各從其類也。
是故質的張,而弓矢至焉;林木茂,而斧斤至焉;樹成蔭,而眾鳥息焉。醯酸,而蚋聚焉。故言有招禍也,行有招辱也,君子慎其所立乎!
積土成山,風雨興焉;積水成淵,蛟龍生焉;積善成德,而神明自得,聖心備焉。故不積蹞步,無以致千里;不積小流,無以成江海。騏驥一躍,不能十步;駑馬十駕,功在不舍。鍥而舍之,朽木不折;鍥而不舍,金石可鏤。
螾無爪牙之利,筋骨之強,上食埃土,下飲黃泉,用心一也。蟹八跪而二螯,非蛇蟺之穴,無可寄託者,用心躁也。是故無冥冥之志者,無昭昭之明;無惛惛之事者,無赫赫之功。行衢道者不至,事兩君者不容。目不能兩視而明,耳不能兩聽而聰。螣蛇無足而飛,梧鼠五技而窮。《詩》曰:「尸鳩在桑,其子七兮。淑人君子,其儀一兮。其儀一兮,心如結兮。」故君子結於一也。
昔者瓠巴鼓瑟,而流魚出聽;伯牙鼓琴,而六馬仰秣。故聲無小而不聞,行無隱而不形。玉在山而草木潤,淵生珠而崖不枯。為善不積邪,安有不聞者乎!
學惡乎始?惡乎終?曰:其數則始乎誦經,終乎讀禮;其義則始乎為士,終乎為聖人。真積力久則入。學至乎沒而後止也。故學數有終,若其義則不可須臾舍也。為之人也,舍之禽獸也。故書者、政事之紀也;詩者、中聲之所止也;禮者、法之大分,1類之綱紀也。故學至乎禮而止矣。夫是之謂道德之極。禮之敬文也,樂之中和也,詩書之博也,春秋之微也,在天地之間者畢矣。
1. 群 : 刪除。 王念孫《讀書雜志》:「元刻無『群』字,元刻是也」。
君子之學也,入乎耳,著乎心,布乎四體,形乎動靜。端而言,蝡而動,一可以為法則。小人之學也,入乎耳,出乎口;口耳之間,則四寸耳,曷足以美七尺之軀哉!古之學者為己,今之學者為人。君子之學也,以美其身;小人之學也,以為禽犢。故不問而告謂之傲,問一而告二謂之囋。傲、非也,囋、非也;君子如嚮矣。
學莫便乎近其人。禮樂法而不說,詩書故而不切,春秋約而不速。方其人之習君子之說,則尊以遍矣,周於世矣。故曰:學莫便乎近其人。
學之經莫速乎好其人,隆禮次之。上不能好其人,下不能隆禮,安特將學雜識志,順詩書而已耳。則末世窮年,不免為陋儒而已。將原先王,本仁義,則禮正其經緯蹊徑也。若挈裘領,詘五指而頓之,順者不可勝數也。不道禮憲,以詩書為之,譬之猶以指測河也,以戈舂黍也,以錐餐壺也,不可以得之矣。故隆禮,雖未明,法士也;不隆禮,雖察辯,散儒也。
問楛者,勿告也;告楛者,勿問也;說楛者,勿聽也。有爭氣者,勿與辯也。故必由其道至,然後接之;非其道則避之。故禮恭,而後可與言道之方;辭順,而後可與言道之理;色從而後可與言道之致。故未可與言而言,謂之傲;可與言而不言,謂之隱;不觀氣色而言,謂之瞽。故君子不傲、不隱、不瞽,謹順其身。《詩》曰:「匪交匪舒,天子所予。」此之謂也。
百發失一,不足謂善射;千里蹞步不至,不足謂善御;倫類不通,仁義不一,不足謂善學。學也者,固學一之也。一出焉,一入焉,涂巷之人也;其善者少,不善者多,桀紂盜跖也;全之盡之,然後學者也。
君子知夫不全不粹之不足以為美也,故誦數以貫之,思索以通之,為其人以處之,除其害者以持養之。使目非是無欲見也,使耳非是無欲聞也,使口非是無欲言也,使心非是無欲慮也。及至其致好之也,目好之五色,耳好之五聲,口好之五味,心利之有天下。是故權利不能傾也,群眾不能移也,天下不能蕩也。生乎由是,死乎由是,夫是之謂德操。德操然後能定,能定然後能應。能定能應,夫是之謂成人。天見其明,地見其光,君子貴其全也。
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勸學篇 (張之洞)
勸學篇
作者:張之洞 清
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上諭
序
編輯
昔楚莊王之霸也,以民生在勤箴其民,以日討軍實儆其軍,以禍至無日訓其國人。夫楚當春秋魯文、宣之際,土方闢,兵方強,國勢方張,齊、晉、秦、宋無敢抗顏行,誰能禍楚者,何為而急迫震懼如是之皇皇耶?君子曰:「不知其禍則辱至矣,知其禍則福至矣。」今日之世變,豈特春秋所未有,抑秦、漢以至元、明所未有也,語其禍,則共工之狂、辛有之痛,不足喻也。廟堂旰食,乾惕震厲,方將改弦以調琴瑟,異等以儲將相。學堂建,特科設,海內志士發憤扼腕,於是圖救時者言新學,慮害道者守舊學,莫衷於一。舊者因噎而食廢,新者歧多而羊亡。舊者不知通新者不知本。不知通則無應敵制變之術,不知本則有非薄名教之心。夫如是,則舊者愈病新,新者愈厭舊,交相為愈,而恢詭傾危、亂名改作之流,遂雜出其說以蕩眾心,學者搖搖,中無所主,邪說暴行,橫流天下。敵既至,無與戰,敵未至,無與安。吾恐中國之禍,不在四海之外而在九州之內矣。
竊惟古來世運之明晦,人才之盛衰,其表在政,其里在學。不佞承乏兩湖,與有教士化民之責,夙夜兢兢,思有所以裨助之者。乃規時勢,綜本末,箸論二十四篇,以告兩湖之士。海內君子與我同志,亦所不隱。內篇務本,以正人心;外篇務通,以開風氣。
內篇九:曰同心,明保國、保教、保種為一義。手足利則頭目康,血氣盛則心志剛。賢才眾多,國勢自昌也。曰教忠,陳述本朝德澤深厚,使薄海臣民,咸懷忠良以保國也。曰明綱,三綱為中國神聖相傳之至教,禮政之原本,人禽之大防,以保教也。曰知類,閔神明之胄裔,無淪胥以亡,以保種也。曰宗經,周秦諸子,瑜不掩瑕,取節則可,破道勿聽,必折衷於聖也。曰正權,辨上下,定民志,斥民權之亂政也。曰循序,先入者為主,講西學必先通中學,乃不忘其祖也。曰守約,喜新者甘,好古者苦,欲存中學,宜治要而約取也。曰去毒,洋藥滌染,我民斯活,絕之使無萌枿也。
外篇十五:曰益智,昧者來攻,迷者有凶也。曰遊學,明時勢,長志氣,擴見聞,增才智,非遊歷外國不為功也。曰設學,廣立學堂,儲為時用,為習帖括者擊蒙也。曰學制,西國之強,強以學校,師有定程,弟有適從,授方任能,皆出其中,我宜擇善而從也。曰廣譯,從西師之益有限,譯西書之益無方也。曰閱報,眉睫難見,苦藥難嘗,知內弊而速去,知外患而豫防也。曰變法,專己襲常,不能自存也。曰變科舉,所習所用,事必相因也。曰農工商學,保民在養,養民在教,教農工商,利乃可興也。曰兵學,教士卒不如教將領,教兵易練,教將難成也。曰鑛學,興地利也。曰鐵路,通血氣也。曰會通,知西學之精意通於中學,以曉固蔽也。曰非弭兵,惡教逸欲而自斃也。曰非攻教,惡逞小忿而敗大計也。
二十四篇之義,括之以五知、一知恥,恥不如日本,恥不如土耳其,恥不如暹羅,恥不如古巴。二知懼,懼為印度,懼為越南、緬甸、朝鮮,懼為埃及,懼為波蘭。三知變,不變其習,不能變法,不變其法,不能變器。四知要,中學考古非要,致用為要。西學亦有別,西藝非要,西政為要。五知本,在海外不忘國,見異俗不忘親,多智巧不忘聖。凡此所說,竊嘗考諸「中庸」而有合焉。魯,弱國也,哀公問政,而孔子告之曰:「好學近乎知,力行近乎仁,知恥近乎勇。」終之曰:「果能此道矣,雖愚必明,雖柔必強。」茲內篇所言皆求仁之事也,外篇所言皆求智求勇之事也。夫「中庸」之書,豈特原心杪忽、校理分寸而已哉?孔子以魯秉禮而積弱,齊、邾、吳、越皆得以兵侮之,故為此言,以破魯國臣民之聾蔥,起魯國諸儒之廢疾,望魯國幡然有為,以復文武之盛。然則無學、無力、無恥則愚且柔,有學、有力、有恥則明且強。在魯且然,況以七十萬方里之廣、四百兆人民之眾者哉?吾恐海內士大夫,狃於晏安而不知禍之將及也,故舉楚事。吾又恐甘於暴棄而不復求強也,故舉魯事。《易》曰:「其亡其亡,繫於苞桑。」惟知亡,則知強矣。光緒二十四年三月南皮張之洞書。
目錄
編輯
內篇
同心第一 教忠第二 明綱第三 知類第四 宗經第五 正權第六 循序第七 守約第八 去毒第九
外篇
益智第一 遊學第二 設學第三 學制第四 廣譯第五 閱報第六 變法第七 變科舉第八 農工商學第九 兵學第十 鑛學第十一 鐵路第十二 會通第十三 非弭兵第十四 非攻教第十五
網路資料:
福澤諭吉《勸學篇‧論文望》
[日]福澤諭吉《勸學篇》 明治十三年(1880年)七月三十日
第四篇 論學者的職分
今試觀察我國現勢,其不及外國之處,就是學術、貿易和法律。世界文明不外就是這三項。如果這三項不完備,國家就不能獨立,這是不待識者就會明白的。但是我國這三項都不完備。
從維新的時候起,政府方面雖不是沒有花費人力、物力,也不是才力不夠;但其多數措施總是不能令人滿意,原因就在於人民的無知文盲。政府既知原因所在,就不斷開闢獎勵學問,議訂法律和規定商法之道,或者曉諭人民,或者示以先例。但雖用盡各種方法,而至今未見實效,就是因為政府依然是專制政府, 人民依然是沒有志氣的愚民。這些努力也許稍微促進了一些進步,但如與所費的精力和金錢相較,則所得到的效果是不夠的。這是什麼原故呢?就是因為一國的文明 事業不能單靠政府的力量來舉辦。
也許有人說:政府暫時駕禦這類愚民是一時的策略,等他們將來智德增進,自然就會進入文明之域。這種話是可說而不可行的。我全國人民苦於數千 年的專制統治,人人都不能把心裏所想的說出來,而是互相欺騙來偷安逃罪。大家以為欺騙是做人的法寶,不誠不實成為日常的習慣,既不知恥,也不以為怪,真是 自身的廉恥喪盡,又何暇關心國事?
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琵琶記《第四出 蔡公逼試維基 -> 琵琶記 -> 第四出 蔡公逼試
《第四出 蔡公逼試》[查看正文] [修改] [查看歷史]
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一剪梅生上浪暖桃香欲化魚,期逼春闈,詔赴春闈。郡中空有辟賢書,心戀親闈,難舍親闈。世間好物不堅牢,彩雲易散琉璃碎。蔡邕本欲甘守清貧,力行孝道。誰知朝廷黃榜招賢,郡中把我名字保申上司去了;一壁廂已有吏來辟召,自家力以親老為辭。這吏人雖則去,只怕明日又來,我只得力辭便了。正是:人爵不如天爵貴,功名��似孝名高。2 
宜春令雖然讀萬卷書,論功名非吾意兒。只愁親老,夢魂不到春闈裏。便教我做到九棘三槐,怎撇得萱花椿樹。天那!我這衷腸,一點孝心對誰語?3 
前腔末張太公上相鄰並相依倚,往常間有事,來相報知。生來的卻是張太公呵。相見科,末秀才,試期逼矣,早辦行裝前途去。生公公,我雙親年老,不去。末呀!秀才,子雖念親老孤單,親須望孩兒榮貴。你趁此青春不去,更待何日?生公公言極有理,爭奈父母無人奉侍,如何去得?末你既不肯去呵,且看老員外和老安人出來如何說;我想起來,也只是教你去的分曉。道猶未了,老員外來也。外上4 
前腔時光短,雪鬢催,守清貧不圖甚的。有兒聰慧,但得他為官,吾心足矣。外末相見科。外孩兒,天子詔招取賢良,秀才每都求科試。你快赴春闈,急急整著行李。末老安人也出來了。淨上5 
前腔娘年老,八十餘,眼兒昏又聾著兩耳。又沒個七男八婿,只有一個孩兒,要他供甘旨。方纔得六十日夫妻,老賊強逼他爭名奪利。天那,細思之,怎不教老娘嘔氣。相見科,淨孩兒。我不合娶個媳婦與你,方纔得兩個月,你渾身便瘦了一半。若再過三年,怕不成一個枯髏。末呀,老安人,你要他夫妻不諧呵。外孩兒,如今黃榜招賢,試期已逼;郡中既然辟召你,你的學問可知,如何不去赴選?生告爹爹得知,孩兒非不要去。爭奈爹媽年老,家中無人侍奉。末老員外和老安人,不可不作成秀才去走一遭。淨咳,太公你豈不知道,我家中又沒有七子八婿,只有一箇孩兒,如何去得?外呀!你怎說這話,如今去赴選的,家中都有七子八婿麼?淨料賊,你如今眼又昏,耳又聾,又走動不得。你教他去後,倘有些個差池,兀教誰來看顧?你真個沒飯吃便餓死你,沒衣穿便凍死你,你知道麼?外你婦人家理會得什麼!孩兒若做得官時,也改換我門閭,如何不教他去?生爹爹說得自是,只是孩兒難去。6 
繡帶兒生親年老光陰有幾?行孝正當今日。末秀才此行,必定脫白掛綠。生終不然為著一領藍袍,卻落後五彩斑衣。思之,此行榮貴雖可擬,怕親老等不得榮貴。外孩兒,春闈裏紛紛的都是大儒,難道是沒爹娘的方去求試?7 
前腔換頭末秀才,你休疑,男兒漢淩雲志氣,何必苦恁淹滯。秀才,你此回不去呵,可不干費了十載青燈,枉捱過半世黃齏?須知,此行是親志,你休固拒。秀才,那些個養親之志。淨我百年事只有此兒,老賊!難道是庭前森森丹桂。8 
太師引外他意兒我也難提起,這其間就裏我自知。末老員外知他為著什麼?外他戀著被窩中恩愛,捨不得離海角天涯。生孩兒豈有此心。外你是個讀書之人,我說一個比方與你聽:塗山四日離大禹,你今畢姻已曾兩月,直恁的捨不得分離。末笑科呀!秀才,你敢是如此麼?生太公,卑人怎敢?末秀才,你貪鴛侶守著鳳幃,只怕誤了你鵬程鶚薦消息。9 
前腔淨太公,他意兒只要供甘旨,又何曾貪歡戀妻。自���道曾參純孝,何曾去應舉及第?功名富貴天付與,天若與不求而至。生娘言是,望爹行聽取。外呀,娘言的是,父言的非呵。你敢是戀新婚,逆親言麼?生跪天科天那!蔡邕若是戀著新婚,不肯去呵,天須鑒蔡邕不孝的情罪。外怒介畜生,我教你去赴選,也只是要改換門閭,光顯祖宗,你卻七推八阻,有許多說話。生爹爹,孩兒豈敢推阻,爭奈爹媽年老,無人侍奉。萬一有些差池,一來人道孩兒不孝,撇了爹娘,去取功名;二來人道爹爹所見不達,止有一子,教他遠離,孩兒以此不敢從命。外不從我命,也由你;你且說如何喚做孝?淨老賊,你年紀八十餘歲,也不識做孝?披麻帶索便喚做孝。外咦,你曉得什麼!生告爹爹:凡為人子者,冬溫夏凊,昏定晨省,問其燠寒,搔其屙癢,出入則扶持之,問所欲則敬進之。所以父母在,不遠遊;出不易方,復不過時。古人的孝,也只是如此。外孩兒,你說的都是小節,不曾說著大孝。淨老賊,你又不曾死,只管教他做大孝,越出去赴選不得。末咦,這話有些不祥。外孩兒,你聽我說:夫孝始於事親,中於事君,終於立身。身體髮膚,受之父母,不敢毀傷,孝之始也。立身行道,揚名後世,以顯父母,孝之終也。是以家貧親老,不為祿仕,所以為不孝。你若是做得官時節,也顯得父母好處,兀的不是大孝是什麼?生爹爹說得極是。但孩兒此去,知道做得官否?若還不中時節,既不能夠事親,又不能夠事君,卻不兩下擔閣了。末秀才所見差矣。老漢嘗聞古人云:幼而學,壯而行;懷寶迷邦,謂之不仁。孔席不暇暖,墨突不待黔,伊尹負鼎俎於湯,百里奚五羊皮自鬻,也只要順時行道,濟世安民。自古道:學成文武藝,貨與帝王家。秀才,你這般才學,如何不去做官?淨太公,你都有好言勸我孩兒去赴選。我有個故事說與你聽。末老漢願聞。淨在先東村李員外有個孩兒,也讀兩行書。他爹爹每日鬧吵,只是教孩兒去求官,孩兒吃不過爹爹鬧吵,去到長安,那裏無人抬舉。他遂流落去街上乞食,見個平章宰相,他疾忙在地上拜著,叫聲抬舉他。那宰相道:我與你做個養濟院大使,去管你爹娘。這孩兒自思道:做個養濟院大使,如何管得自己的父母。比及他回家,不想他父母無人供養,流落在養濟院裏居住。他父母見孩兒回來,說道我教孩兒去得是,今日我孩兒做個頭目,眾人也不敢欺負我。你如今勸我孩兒去赴選,千萬叫他做個養濟院頭目回來,眾人也不敢欺負我。末笑科老安人你說這乞丐事,盡教我聽了半日。外孩兒,你趁早收拾行李起程。生爹爹,孩兒去則不妨,只是爹媽年老,教誰看管。末秀才不必憂慮。自古道千錢買鄰,八百買舍。老漢既忝在鄰居,你但放心前去,若是宅上有些小欠缺,老漢自當應承。生如此,多謝公公!凡事仗託周濟。此行若獲寸進,決不敢忘恩。卑人沒奈何,只得收拾行李便去。10 
三學士生謝得公公意甚美,凡事仗託扶持。假饒一舉登科日,難道是雙親未老時。只恐錦衣歸故里,怕雙親不見兒。11 
前腔外萱室椿庭衰老矣,指望你改換門閭。孩兒,你道是無人供養我,若是你做得官來時節呵���三牲五鼎供朝夕,須勝似啜菽並飲水。你若錦衣歸故里,我便死呵,一靈兒終是喜。12 
前腔末託在鄰家相依倚,自當效些區區。秀才,你為甚十年窗下無人問?只圖箇一舉成名天下知。你若不錦衣歸故里,誰知你讀萬卷書?13 
前腔淨一旦分離掌上珠,我這老景憑誰?苦,忍將父母饑寒死,博得孩兒名利歸。你縱然錦衣歸故里,補不得你名行虧。14 
急辦行裝赴試闈,父親嚴命怎生違?15 
一舉首登龍虎榜,十年身到鳳凰池。
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高陽
H:高陽的作品《胡雪巖》(《胡雪巖》、《紅頂商人》、《燈火樓臺》) (聯經出版),最了解胡雪巖。「當代作家,以歷史小說著稱,精通清代歷史掌故。善於以細膩的描敘烘托氛圍,使人如親臨其境,近古歷史小說創作者未有第二人。」「1959年,以中華民國空軍上尉軍銜退伍,進入報界。」軍人出身,多產作家,高陽晚年臥病在床,因為不懂得投資保險,其醫藥費都還是王惕吾先生代墊的。不善理財,幸得貴人(王惕吾)相助,否則也只能以晚景淒涼稱之。20241007W1
高陽
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高陽,本名許晏駢,譜名儒鴻,字雁冰,筆名高陽、郡望、史魚、孺洪等,以筆名「高陽」行。浙江杭州人,為中華民國當代作家,以歷史小說著稱,精通清代歷史掌故。善於以細膩的描敘烘托氛圍,使人如親臨其境,近古歷史小說創作者未有第二人。河北高陽原為許姓郡望。家族聚居於錢塘橫河橋,至清末有四世尚書。
出生資訊: 1922 年 4 月 11 日,浙江省
逝世: 1992 年 6 月 6 日,臺北台北市
著作: 紅樓夢斷、 紅樓夢、 千門八將: 千手觀音、 千門八將: 永樂大典、 高陽作品集、 慈禧前傳、 燈火樓台, …
配偶: 郝天俠(離異)
高陽 (作家)
台灣作家(1922-1992)
高陽(1922年4月11日—1992年6月6日),本名許晏駢,譜名儒鴻,字雁冰,筆名高陽、郡望、史魚、孺洪等,以筆名「高陽」行。浙江杭州人,為中華民國當代作家,以歷史小說著稱,精通清代歷史掌故。善於以細膩的描敘烘托氛圍,使人如親臨其境,近古歷史小說創作者未有第二人。河北高陽原為許姓郡望。家族聚居於錢塘橫河橋,至清末有四世尚書。性嗜酒,有一說其筆名「高陽」是出自「高陽酒徒」的歷史典故,其實為誤。 許氏多郡望,長年世居多處。高陽筆名源於其世家高陽郡。因此高陽許氏。
Quick Facts 高陽, 性別 ...
簡介
其父許寶璞為清秀才,壯年早逝,��母親黃婉教養成人。
抗戰結束後,從事新聞工作。大學中途退學,考入國民政府空軍軍官學校書記,後在1949年隨軍赴台灣,駐居岡山。於軍中刊物、文藝活動中顯露才華。
1951年,高陽開始了他的小說創作歷程。(高陽早期的寫作主題不是歷史,而是言情諜報的通俗小說)
1957年任中華民國國防部參謀總長王叔銘秘書,隨其調往台北。因此開始進入台北文壇,文名漸起。
1959年,以中華民國空軍上尉軍銜退伍,進入報界。在《中華日報》擔任主筆多年(後曾升任主編)以及《中央日報》特約主筆。亦因結識人稱「當代孟甞」的聯合報系董事長王惕吾先生的關係,在《聯合報》擔任特約小說作家,王老亦因愛才,才在高陽一生之中替其償還了不少債務,還曾撥了一棟房子供其居住。對於這些事,王惕吾先生曾說過:「像高陽這樣一位有才華的文人,他要求的不多,我負擔得起,不像有些才華不高的文人,卻要求的很多,那就不是我負擔得起囉!」。甚至到了高陽晚年臥病在床,因為不懂得投資保險,其醫藥費都還是王惕吾先生代墊的。病中之高陽心有所感曾在《病中手記》寫道:「我在少年輕狂時期,曾有一聯:天生傲骨難諧俗,養就雄心不受憐。惕老憐我,不是恤老憐貧之憐,而是憐才愛士之憐,每念及此,熱淚盈眶……」。
1962年,其長篇小說處女作《李娃傳》問世.並在這本小說上首次署名筆名「高陽」,從此洛陽紙貴一戰成名。
1989年訪泰山,因過度勞累,加上畢生嗜酒, 從此體況一落千丈。
1992年6月6日,高陽先生病逝於台北榮民總醫院。
一生創作頗豐,著作約90餘部,105冊,讀者遍及全球華人世界。其中代表性作品有《胡雪巖》三部曲、《慈禧全傳》、《紅樓夢斷》全集等。高陽的作品中對於清代歷史有着獨特的研究深度,也是他最為拿手的部分。他也是著名的紅學家。出版家霍寶珍曾言:「中國大陸有十一億人口,也沒有出過一個高陽」。亦著有《明朝的皇帝》。
主要著作列表
小說
《猛虎與薔薇》
《霏霏》
《落花生》
《紅葉之戀》
《凌霄曲》
《花落花開》
《避情港》
《紅塵》
《桐花鳳》
《驚蟄》
《李娃》
《愛巢》
《風塵三俠》
《少年遊》
《金色的夢》
《淡江紅》
《荊軻》
《紅燭》
《緹縈》
《清官冊》
《百花洲》
《慈禧全傳》(《慈禧前傳》、《玉座珠簾》、《清宮外史》、《母子君臣》、《胭脂井》、《瀛臺落日》)
《紫玉釵》
《百花洲》
《胡雪巖》(《胡雪巖》、《紅頂商人》、《燈火樓臺》) 聯經出版
《鴛鴦譜》
《狀元娘子》
《金縷鞋》聯經出版
《鐵面御史》
《小白菜》
《小鳳仙》
《乾隆韻事》
《烏龍院》
《翠屏山》
《正德外記》
《花魁》
《印心石》
《劉三秀》
《徐老虎與白寡婦》
《大將曹彬》
《楊門忠烈傳》
《金色曇花》
《粉墨春秋》
《陳光甫外傳》
《草莽英雄》(又名《琵琶怨》)
《石破天驚》
《血紅頂》
《紅樓夢斷》(《秣陵春》、《茂陵秋》、《五陵遊》、《延陵劍》聯經出版、《曹雪芹別傳》聯經出版、《三春爭及初春景》聯經出版、《大野龍蛇》聯經出版)
《野豬林》
《林沖夜奔》
《魚的喜劇》
《燈火樓臺》聯經出版
《林覺民》
《丁香花》
《李鴻章》
《恩怨江湖》
《假官真做》
《再生香》
《王昭君》(原名《漢宮春曉》)
《八大胡同》
《鳳尾香羅》聯經出版
《玉壘浮雲》
《醉蓬萊》
《安樂堂》
《水龍吟》聯經出版
《蘇州格格》聯經出版
其他
《文史覓趣》
《明末四公子》
《清末四公子》
《同光大老》
《柏臺故事》
《清朝的皇帝》
《明朝的皇帝》
《紅樓一家言》
《高陽說曹雪芹 (頁面存檔備份,存於網際網路檔案館)》聯經出版
《高陽說紅樓夢》
《高陽說詩》(獲1984年台灣中山文藝獎之文藝論著獎)聯經出版
《大故事》
《高陽雜文》
《翁同龢傳》
《古今味》
《古今食事》
《梅丘生死摩耶夢》聯經出版
《宮闈蒐秘》
《清幫》
《高陽出擊》
與他人合著
《筆與槍》
《獵及其他》
家庭
高陽晚婚,49歲才同空軍少將郝中和之女,22歲的郝天俠結婚,但因高陽不擅理財,經常和高利貸往來;婚後育有一女,取名議今,10年後離異。許議今成年後長期旅居歐洲。
1983年,結識小其19歲伴侶吳菊芬。
其姑���為俞平伯;曾叔祖為光緒朝軍機大臣許庚身。
參考文獻
大風之歌: 38位牽動臺灣歷史的時代巨擘,高關中著,由「獨立作家」出版
鄭穎:《臺灣現當代作家研究資料彙編 66 高陽》,國立臺灣文學館,ISBN:9789860463897
逸事
武俠作家古龍,亦酒中豪客。作家燕青曾對高陽驚嘆:「古龍豪飲,一大杯酒可以直接倒進肚子裡,仿佛可以省略喉管之旅。」高陽撲哧一笑,又搖頭:「這哪裡是喝酒,分明是在糟蹋酒。」雖然喝法不同,古龍確係高陽性格契合,酒道投緣的朋友。古龍英年而逝,生前好友購買48瓶XO威士忌灑向墳塋祭奠。高陽在場見證,既傷良友之逝,復感世事無常。更覺得人生有酒且須醉,一滴何曾到九泉。
大導演李翰祥系高陽好友,初進高門,連稱怪哉。因為大作家高陽的書房四壁兀立,根本見不到書,隨處可見的居然是成行成列的威士忌、白蘭地空酒瓶。其實,高陽非但自己就是一個兩腳書櫥,也藏書1500冊,不過另有安置所在。
傳記文學社長劉紹唐先生在憶高陽時說: 「我認識高陽,是在中央研究院,因為那兒有傅斯年圖書館,他常去那查資料,他查到什麼資料就很高興地扯著你不能走,我對高陽這種精神很佩服。」「高陽欠了我很多債,第一是鈔票的債;第二是文債,他答應了我的文章沒有交卷;第三是書債,他看了我的書喜歡的就拿走了,到現在不知拿走了多少書。講到文債,他已經開出題目來,第一個他要寫楊度,杜月笙周圍的八大文人之一。」「講到高陽的喝酒,是另有特色,當高陽拿起酒杯,是要講話的開始,他不像有的人你乾杯我乾杯的鬧酒,他不鬧酒,他喝酒時一定要向你,要向同桌的人講話,也許同桌的人只有少數人對他的話有興趣,他講什麼呢?他講詩,他另外講他新發現的資料,他很少喝得東倒西歪!」
外部連結
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9月28日「蔦屋家電」一階に「酒商山田」を見つけ行ったら東広島市の「金光酒造」さんの「賀茂金秀秋あがり」の無料試飲会があり参加しました。「賀茂金秀」ぜひ買いたい思い意欲を持ってましたが残念ながら最終的には買いに行けなかった。試飲会に広島の日本酒に詳しい酒場の店主さんにも出会いました。#蔦屋家電広島 #蔦屋家電 #酒商山田 #酒商山田エディオン蔦屋家電店 #金光酒造 #賀茂金秀秋あがり #賀茂金秀
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七篇 上 その一
京見物をしている弥次郎兵衛と北八。 五条の遊所でのひと悶着があって、 やっとのことで切り抜けた。
ある人の句に
花尊い 都に本寺 本寺かな
とある。
そう詠んだのが思い出されるほどに、この都の寺院、堂塔は広大無辺にしてその荘厳麗秀さも、言葉にあわらせないほどである。 ことに花の咲き乱れる春や紅葉の秋は、古今東西に聞こえているほどの名だたる景勝の地である。 また加茂川の名酒の樽とともに、人の魂をとかしてしまう。
この地の商人は、きれいな衣装をきているがこれは、他の地では見られない光景だ。 まさしく京の着倒れとはこのことか。 これは、西陣の織元よりでたことらしく染めた衣の華やかさは、堀川の水のように清い。 その他にも名産、奇製の品物、あまたあるこの都にたまたま、入こむ場違いな二人がいる。 弥次郎兵衛と北八だ。
この二人、抜け参りのついでにと淀川の下り船に乗ったつもりが、勘違いで荷物は失うは五条新地で一杯ひっかっけて、丸裸となってしまった。 北八はしかたなく、連れの弥次郎兵衛の木綿の合羽を借りて着ているのが、せめてもの救いである。 まさしく北八は、“着た八”なのに丸裸である。 本来ならこの都は面白いはずなのに、今の二人にとっては朝の風が身にしみわたっているだけである。
さて五条の橋に差し掛かったのだが、ここは弁慶が千人切りしたという所で北八は、それを思い出しながら一首詠んだ。
かかる身は うしわか丸の はだかにて 弁慶しまの 布子こいしき
二人はその五条の橋を渡って、西の方に行く。 河原院の旧跡や門出八幡も素通りして、高瀬ぶねの網にひかれてたどりゆく道すがら北八が、弥次郎兵衛に言った。 「思えば、つまらないに事になったもんだ。 はやく古着屋でも見つけて、どんなんでもいいから綿入れが一枚ほしいが、金もあんまりねえし弥次さんよ。いい知恵はねえか。」 「なに、買わなくてもいいじゃねえか。こちとら、江戸っ子だ。 江戸っ子の抜け参りなんだから裸になって帰るのは、あたりまえってもんだ。」 と弥次郎兵衛は、本気かどうか笑って答える。 「そうはいうけどな、寒くてならない。」 と北八が、肩を抱くようなしぐさをするので、 「そんならちょうどいい。湯屋と書いてある。 この銭湯でちょっくら温ったまっていかねえか。」
「ああ、ほんとだ。湯屋とかいてあらあ。 こりゃいい。弥次さん、お先。」 と北八は一目散にのれんを潜り抜けるとすっと奥に入って、裸になりだした。 とそれを見ていたここの亭主が、慌てて言う。 「もしもし、こんさん。誰じゃいな、何さんすのじゃ。」 そう言われて北八は、あらためてあたりを見回すとどうやら、銭湯とは雰囲気が違う。 「ええい、いまいましい。湯屋かとおもった。」 「ははは、家の暖簾に湯の字があるさかい、それで銭湯かと思うてじゃの。」 と亭主は笑っている。
「ありや“済生湯(薬の名)”というお湯にといて飲む、薬の名じゃわいな。」 「と言うことは、ここは薬屋か。こいつはいい。大笑いだ。」 と弥次郎兵衛は、脱いだ合羽を又着ている北八を横目に見ながら、腹を抱えて笑ってる。 「くそ、また、一段と寒くなった。いまいましい。」 と小言を言いながら北八は、こそこそとそこを出る。
しばらく行くと、しみたれの古着屋が一軒あるのがみえてきた。 店先にいかにも古そうな、布やつるしが架かっている。 北八は弥次郎兵衛をくどいて、布一枚買おうとその店先にたって、その布をひねくりまわしだした。 「もし、この布こは、いくらだね。」 「はいはい、こっちゃへおかけなされ。」 と亭主は、愛想がいい。 「これ、お茶もてこんかいな。 お煙草の火もないわいな。はよう、ちゃちゃっとくさんせ。」 北八は、それどころではではない。 「いや、茶も煙草もいりゃせん。こりゃいくらだというに。」 「はいはい、そりゃ、結構で、ござりますな。 お安うしてあげようわいな。」 亭主はもみ手をしながら、言う。
そこにこの店の小僧さんが、 「はい、お茶あがりなされ。」 とお茶を持ってくる。 亭主は湯気のたっていないのをみて、 「長吉。そりゃ、おぬるいじゃないかいな。 なぜ、熱い茶あげんぞい。」 と言うと、小僧さんは店の奥をうかがうように、 「いや、おかみさんが、今朝は茶粥じゃさかい、お茶をたくなと、おっしゃってござります。 それは昨日たいたまんまの、茶でござりますわいな。」 と小さな声で言う。
弥次郎兵衛はその茶をさっと取り上げると、一口飲んで、 「なるほど。昨日の出がらしだ。まるで、河童の屁のようだ。」 と盆にお茶を返す。 「いや屁のついでにビロウながら、御亭主さん便所に行きたい。ちょっとかりますよ。」 「はいはい。便所にお出でかいな。」 と亭主が、裏の方を指し示そうとすると、さっきの小僧さんが、 「便所は、ぬるうはござりませぬ。 ようわいてじゃあろぞいな。」 と言う。 これを聞いて、ここの亭主は、 「なに、便所をだれが沸かしたぞい。」 と小憎を見ると、 「それじゃてて、たったいま、わたしが済ましたところじゃさかい、すぐいて見なされ。ぽっぽと煙が出てじゃあろ。」 と小さくなりながら、小僧が答える。 「ええい、むさいこというやつじゃ。」 と亭主は、呆れ顔である。
「そんなことより、この布子はいくらだ。 早くきめてくんねえ。寒くてたまんねえ。」 北八は、亭主と小僧のやり取りも聞こえぬ風で両手に持っている布を亭主の方に、押しやる。 「ははあ、お寒いなら、もっとそっちやへよりなされ。 そないによう日がさして、じゃわいな。」 と亭主は、日のあたるほうに北八を誘うと、 「昨日も着物を買いにお出らおかたが、こりゃ、いい。えろうぬくい家じゃいうて、ほれそこで、一日、日向ぼっこしていなれましたが。」 亭主は北八にお構いなしに話し続ける。
「そのお方が言われるには、もう着物買うて着いでもかまわない。 毎日ここの家へ、日向ぼこしにこうわいなと、こないにいうてじゃあったわいな。」 北八は、持っている布を、亭主に押し付けるようにすると、 「ええ、じれってえ。こりゃあ、売るのか売らねえのか。どっちなんだ。」 と詰め寄る。 「はいはい、売ります。うりますよ。せわしない人じゃ。」 と亭主は、やっと北八の手から布を取り上げた。 「安くしてくんねえ。」 と、北八は、亭主に言う。 「この紺の木綿の綿入れはと。」 とそろばんぱちぱち、やりだした。
「銀で三十五。これが、ぎりぎりじゃわいな。」 北八は、顔の前で手を振りながら、 「高いたかい。わっちらは江戸ものだが、古着は商売がらでいくらもとりあつかっているから、無駄な時間はつかいたくねえ。ほんとうの所をいいなせえ。」 亭主は、ちょっと顔をしかめて、 「はあ、御商売がらとあれば、おまいさま、古着屋なされてかいな。」 と北八の方を見る。 「いや、わっちは質やさ。」 と北八は、すまして言う。 「しちとあれば、何かいな。おとりなさるのか、置きなさるのかいな。」 と聞くと、横から弥次郎兵衛が、 「おくのが、この男の商売さ。」 と横槍を入れる。
つづく。
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