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kousuke-yoshimura · 2 years ago
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#Repost @8hachitasu with @use.repost ・・・ 千葉県最大規模で開催! "八街!激うま!ラーメン祭2023” 公式アカウント @yachimata_ramen_fes 開催地:けやきの森公園 千葉県八街市八街ほ239-62 JR八街駅南口より徒歩約2分   第1陣5/12(金)〜14(日) 第2陣5/19(金)〜21(日) 第3陣5/26(金)〜28(日) 第4陣6/2(金)〜4(日) 【出店ラーメン店様のご紹介】 博多ラーメン専門店幸ちゃんラーメン @kouchan_official 福岡県福岡市を中心に国外11カ国で愛されている元祖泡系博多豚骨ラーメン「博多一幸舎」の創業者・吉村氏がプロデュースするラーメンブランドが遂に千葉初上陸!!!!! 昔懐かしい本場博多ラーメンを思い起こし、シンプルで毎日食べても飽きのこない、生活の中に溶け込んだ町豚骨を再現した、豚骨の旨みとほんのり感じる甘味がクセになるスープに、パツっとした博多豚骨ラーメンならではの細麺!思わず飲み干したくなるような1杯です! #八街市 #八街 #ラーメン #八街ラーメン祭 #ラーメンイベント #千葉県最大規模で開催 #八街激うまラーメン祭 #八街ラーメン祭実行委員会 #八街商工会議所 #八街商工会議所青年部 #YEG #ラーメンで地域活性 #まちおこし #地域活性化プロジェクト #地域活性化イベント #千葉イベント #フードフェス #千葉ラーメン #八街ラーメン #千葉ラーメンフェス #トッピングガールズ #トピガ #仮面女子 #スリジエ #博多豚骨ラーメン #とんこつラーメン #一幸舎 #幸ちゃんラーメン (幸ちゃんラーメン博多本店) https://www.instagram.com/p/CqXk0CKynai/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長��三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間���上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩���宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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yaccham · 2 years ago
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【本八幡SDGsまつり】 今回市川商工会議所青年部として、 本八幡SDGsまつりにて一番街にてリーダーやらせていただきました! 参加賞や冊子などは早々なくなりましたが、 青年部の仲間のお陰で一番街を盛り立てる事ができた事に感写しております! ありがとうございました! #市川商工会議所青年部 #本八幡sdgsまつり #八幡一番街 #yawataichibanguy (八幡一番街商店会) https://www.instagram.com/p/Cj2VMIbyyM-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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xf-2 · 3 years ago
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新型コロナウイルスの重症患者が急増している。特に40代・50代の重症化が目立つのが第5波の特徴で、東京都では重症患者の6割を占める。だが、この年代へのワクチン接種の進み具合は、自治体によってばらつきが大きく、かなり遅れている所も多い。そんな中、東京都墨田区では、今月7日時点で1回の接種を終えた40代は区民の6割を超え、50代は7割近くに達している。
今月13日付日経新聞電子版によると、同紙が緊急事態宣言下にある6都道府県の主要都市の1回目接種率を調べたところ、墨田区は50歳代で71.9%、40歳代で60.6%とダントツに高かった。40代については、さいたま市(6.7%)、那覇市(16.4%)、大阪市(17.7%)、世田谷区や品川区(17.8%)などと接種率が伸び悩む自治体が少なくない中、墨田区の進捗状況は際立っている。その効果か、陽性者数の推移を示すグラフからは、陽性者が下降の兆しも見てとれる。
 なぜそれができたのか。同区のコロナ対策の陣頭指揮をとる西塚至・同区保健所長に話を聞いた。
困難なスタートからの巻き返し
なぜ墨田区は、こんなに速いんでしょう?
「いえ、決して順調に行ったわけではありません。出足が遅れ、想定外のこともいろいろ起きました。大学病院があるわけでも、集団接種に向いた広い施設があるわけでもなく、大きい施設は五輪で抑えられて、条件は決して恵まれていません。それでもなんとか巻き返し、いろんなことを積み重ねて、結果的に今がある、というのが実情です」(西塚さん、以下囲み内は同様)
 どのようなことを積み重ねてきたのか。西塚さんへのインタビューや資料から、主要な事柄を確認していきたい。
高齢者枠を使ってでも、まずは医療従事者に接種、という判断
 同区では昨年7月頃から、地元医師会とコロナ対策について協議を行う中で、ワクチンについても話し合いを重ねてきた。12月に区役所内に予防接種調整担当課を立ち上げ、ワクチン接種の準備を進めた。
 しかし国のワクチン調達は遅れ、当初は輸入量が少なかった。高齢者への接種が開始される4月12日時点で、東京都に割り当てられたワクチンは4箱(3900回分)のみ。高齢者人口の多い地域から配分が始まり、初回は世田谷区と八王子市が2箱ずつ配分を受けた。墨田区としてはいささか出鼻をくじかれるスタートとなった。
 墨田区は接種初日の4月17日、集団接種の予行演習をかねて、区内の医療従事者に接種を行った。国の計画では、医療従事者の接種は都道府県が行い、市区町村は住民接種を担当する、ことになっていた。それをあえて、医療従事者からスタートさせたのだ。
「区は住民のことだけ考えていればよいはずでした。しかし、予約システムがダウンするなど、都の医療従事者接種は遅れ、(高齢者への接種を行う)医師がワクチンを打てずにいました。それで、うちは住民接種の枠を使ってでも、まずは医療従事者の集団接種を先に行おう、と」 
 これは、その後のワクチン接種について、医療従事者の士気を高める効果も生んだ、という。その後、全国各地で、自身は未接種のまま高齢者施設で接種を行う医師たちから不安の声があがったが、墨田区ではそうした事態はなかった。ちなみに、同区では救急車で患者を搬送する消防署員にも、5���には接種を行った、という。
”災害時の頭”で考える
接種券を早い時期に配ったわけ
 墨田区の特徴の1つは、ワクチン接種券の配布が早かったことだ。高齢者施設の接種に目処がつき、一般の高齢者の接種が始まったのは5月10日だった。だが65歳以上の区民の接種券は、2か月近く早い4月1日には発送していた。そして6月1日には、都内で最も早く、16~64歳の全ての区民に発送を行った。
「定期接種など”平常モード”では、事業開始の直前に接種券をお送りするのが普通です。しかし、今は”危機”。”災害時の頭”で考えると、大事なのは1人でも多くの人が、ワクチンを打つことです。一足早く接種が始まった世田谷区の高齢者施設に、墨田区民が暮らしているかもしれない。他区の施設で働いている区民もいるでしょう。そういう方々が、接種券がないために打ちそびれる、という事態が起きないよう、とにかく接種券だけは早くお配りしよう、と。1人でも2人でも、今居る場所で打って下さい、という思いでした」
 この”危機モード”対応は、後に想定外の恩恵を区民にもたらすことになった。
対象者の5%が自衛隊のセンターへ
 65歳以上に限定して行われていた自衛隊の大規模接種センターが突然、6月16日からの年齢制限撤廃を発表。遠方の東京・大手町の会場まで出向くよりも地元で打ちたい、という高齢者が多かったようで、希望者が想定を大きく下回ったためだ。
 若い年齢層の接種が可能となったが、予約には接種券が必要。しかし、この時点で多くの自治体は64歳以下には配布していなかった。そんな中、墨田区の人々はすでに接種券を手にしており、区民は次々に自衛隊のセンターに赴いて接種を受けた。
「これは大きかったです。1万2000人、対象者の5%が自衛隊に行って打って下さった」
災害時の助け合い
 住民の協力もあった。
 自衛隊のセンターでは、モデルナ社製のワクチンを使用。当初、厚労省はモデルナを接種可能な年齢を18歳以上としていた(その後12歳以上に変更)。また、モデルナは副反応が出やすいという話が出回り、1回目と2回目をファイザーより長く4週間空けなければならないこともあって、敬遠する人も少なくなかった。
「ところが、区内の大人たちから、『自分たちは自衛隊に行って、モデルナを打とう』という声があがったんです。ファイザーが足りなくなる、という時期でもあり、『ファイザーは子どもたちに回そう』という草の根の運動になって、自衛隊での接種が増えました。災害時は、地域の助け合いがあってこそ、です」
区直営の集団接種をメインに
危機には「割り切り」も必要
 墨田区の”危機モード”対応は、ほかにもある。
「”平常モード”であれば、日頃診てもらっている身近なかかりつけ医に打ってもらうのが一番です。ただ、今は災害時。危機にあっては、割り切るところは割り切って、最大限効率化を図り、数を多く打つのが大事。それに、このワクチンは1瓶から6人分とらなきゃいけないので、個別の診療所でやっていると余ってしまうことも。冷凍庫で保存する必要があるなどの使いにくさもあります。
 やはり、こういうものは集団接種がいい。これは2009年の新型インフルエンザの時の経験でもあります。国がいくら練馬方式(診療所での個別接種をメインに、集団接種で残りをカバーする)を推奨しても、うちはブレずに”危機モード”で対応し、集団接種メインで行くことにしました」
”小分け隊”の活用でムダなく数を稼ぐ
 当初は4つの区施設を使い、そのほか7病院でも個別接種を実施した。このうち墨田中央病院の接種では、千葉大学墨田サテライトキャンパスが会場を提供した。運営は民間に���務委託せず、区が直営し、ワクチンの在庫管理や配送は、職員による”小分け隊”が行った。
 キャンセルが出た場合は、区の危機管理Twitterやメールで区民に告知して希望者を区役所に集め、”小分け隊”が余ったワクチンを回収、西塚さんら保健所の医師が接種した。こうして、ムダを出さずに接種回数を稼いだ。地元医師会も”危機モード”を共有。集団接種の打ち手は、すべて区内の医師たちでまかなった。
「大きい施設はオリンピックに抑えられて使えないなど、条件は厳しく、地域にある資源を最適化して使うしかなかった。でも、それをやってみたら、いろんないいことがあった。特に地元医師会は自分たちが責任をもってやろうと士気が高く、おかげで事故なく、質が高く、長続きしている」
等身大の形作り
 接種券の発送や会場の設営は、選挙の際の入場整理券や会場作りと同じ、ということで、選挙管理委員会の職員が担当した。ワクチンに関する情報を掲載した区の広報紙は全戸配布することとし、これにも選挙公報配布のスキルが生きた。
「形を作って丸投げするのではなく、自分たちにできる等身大の形を作り、そこにちゃんと血が流れるように、職員が町内を回って苦情聞きなどもやって、形をさらに整えていきました」
 住民の声を聞く中で、若い世代の接種を進めるには、夜間、駅の近くで行う必要があると分かった。そこで、6月末から東京スカイツリーに隣接するビル、JR錦糸町駅と両国駅近くのホテルにも接種会場を設置。平日は午後8時まで、さらに土日祝日にも接種を行えるようにした。スカイツリー会場には託児所も設けた。
二転三転する国の方針にも柔軟に対応
当初から複数のワクチン使用を計画
 国のワクチン供給が不安定な中、墨田区は接種が始まる前の段階から、モデルナ社製ワクチンの使用を計画に組み込んでいたことが奏功した。
 接種が始まった時点で、厚労省が承認していたのはファイザー社製ワクチンのみだった。モデルナ社とアストラゼネカ社のワクチンが特例承認されたのは5月21日。しかし墨田区では、3月に公表した「実施計画」で、7月にはアストラゼネカとモデルナのワクチンを導入して、接種を加速させる計画を明らかにしていた。両社のワクチンは、ファイザー社製とは接種の間隔が違い、在庫管理も異なるので、複雑なオペレーションが必要になる。しかし、同区では接種の加速には、ファイザー以外のワクチンも必要になると考え、事前準備をしていた。それが、以下のように役立つことになる。
事前準備でモデルナ確保
 6月11日、ワクチン担当の河野太郎規制改革担当相が、市町村の集団接種でもモデルナの使用を認める方向を示した。あらかじめ計画済みの墨田区は、すぐに手を挙げた。この素早い反応で、同区はモデルナの配送を受けることができた。
 国が自治体でのモデルナ使用を認めたのは、7月からはファイザーの輸入量が減る分を補うためだった。ところが国は、同月22日には再度の方針変更をした。モデルナを使用する職域接種の申し込みが多く、「1日の可能配送量はもう上限に達している。このままいくと、供給できる総量を超えてしまう」として、自治体のモデルナを使った集団接種と職域接種の申請を中止したのだ。準備が間に合わず、配分を受けられなかった自治体もある。
在庫を出し惜しまない
 ワクチン供給不足への対策として、河野行革担当相が一時、在庫が多い自治体には配分を減らす、という新方針を示し、全国の自治体が混乱したことがあった。この時も、墨田区は影響を最小限に済ませた。扱いが面倒なワクチン接種記録システム(VRS)は、区職員が残業してこまめに入力。2回分を確保しないと1回目の予約をとれない、という自治体が予約を停止している中、墨田区では西塚保健所長が「在庫は出し惜しみせず、ペースを落とさずに予約や接種を進めて下さい」と、現場に檄を飛ばした。
「平常であれば2回確保してから予約をとる、となりますが、これも”危機モード”で対応しました。モデルナがありますし、国の輸入予定量は公表されていましたから、そういう情報を常にチェックしながら、大丈夫だろう、と。カラ元気でもありましたが、在庫ゼロのおかげで、”ボーナス(追加)”も来ました。この時期に加速するはずが、それはできなかったけれど、(ファイザー供給減の)前と同じ水準は保てた」
 このように、ワクチンを巡ってしばしば二転三転する国の対応にも、早い時期からの準備と、”危機モード”による柔軟で大胆な反応で、切り抜けてきたのが墨田区だった。
通年議会が補正予算に迅速対応
 加えて、区議会も”危機モード”を共有。ワクチン接種会場の増設など、様々な変化に伴う予算の確保に素早く対応した。
「昨年の11月から通年議会となっていたこともあり、毎月のように補正予算を通してくれるので、次々に変化する状況に迅速に対応できたんです」
 毎月の議会で、議員が住民の要望を披露したのも、情報として役立った、という。
”危機モード”共有の背景
 このように区、地元医師会、住民、議会などが”危機モード”を共有できた背景には、墨田区特有の事情もありそうだ。
 隅田川沿いにある同区は、水害の危機と常に向き合っている。最悪の事態では、ほぼ全域が水没することもありうる、と予測されているからだ。大雨の予報が出るたびに、同区は水害の発生を警戒する。常に最悪の事態を想定して考える”危機モード”の思考が鍛えられ、コロナ対応でも生きたのではないか。
 同区では昨年1月末の段階から、新型コロナウイルスを新たな「災害」、それも警戒レベル5の最大級の災害ととらえて対応してきた、という。国や東京都では、第5波で重症患者数が過去最高を日々更新する事態になって、ようやく「災害級」という言葉が出��きたのに比べると、危機への向き合い方が異なるように見える。
 この”危機モード”を区、医師会、住民、議会が共有し、連携することで、次々に生じるいろんな問題をうまく飲み込み、ペースを落とさずに接種を続けることができた、と言えるだろう。
ワクチン以外でも素早い対応
 墨田区が速いのはワクチン接種だけではない。医療提供体制についても、際だった対応が見られた。2つの例を挙げる。1つは、地域完結型の医療体制「墨田区モデル」の構築。もう1つは、抗体カクテル療法のすみやかな導入だ。
回復期の患者を中小病院が引き受ける
 コロナ禍の日本で、医療が逼迫する原因の1つに、回復した重症者の転院が困難、という問題がある。患者は人工呼吸器から離脱できても、すぐに日常生活には戻れるわけではない。その後の治療やリハビリが必要だが、そのための転院先がなかなかみつからないのだ。
 これに対応するため、墨田区は今年1月25日、地域の病院が連携して、転院を進める仕組みを作った。同区では第一種感染症指定医療機関である都立墨東病院が重症患者を、同病院と重点医療機関の病院が中等症患者を引き受けている。そして回復期に入った患者は、他の中小私立病院が次々に受け入れ、重症者や中等症患者のためのベッドを空けるようにした。
 この体制を導入して3日後には、入院待機者が0になった。今も、医療崩壊を食い止めている。
 速やかな体制作りが可能になったのも、災害時を想定した、常日頃からの地元医師会と保健所の関係があったからだ。
「危機を想定し、墨東病院には『断らない医療』をやってもらい、そこがいっぱいになったら地域の医療機関が後方支援で引き受ける、という意識が、地元の病院経営者には以前からある。今回は、墨東をパンクさせないために、自分たちが支えていかなければならないという危機感が、地元医師会の中でより一層強い」
抗体カクテル療法にもいち早く対応
 抗体カクテル療法は、2種類の抗体を点滴投与する治療法で、軽症者の重症化を防ぐ効果がある。アメリカのトランプ前大統領が感染した際、この治療を受け、早期に回復したことで知られる。日本では、7月19日に重症化リスクの高い軽症・中等症患者の治療薬として特例承認され���。墨田区では、同愛記念病院に区民優先の病床を20床確保していたが、ここで同月27日から必要な患者にこの療法を行うことにした。8月13日までに20人の患者に実施し、いずれも経過は良好、という。
 東京都がこの療法のための病床20床を確保したことを発表したのは同月12日だったことを考えると、墨田区の手際の良さが光る。これも、”危機モード”による早い準備が生んだ。
「4月に、近いうちに特例承認されるという情報があったので、区内の病院で実施しようと、5月頃から病院と勉強をしてきました。当初は4つの病院で実施しようと考えていたのですが、入院が必要とのことなので、区民のための病床を確保していた同愛記念病院で行うことにしました」
 準備を急いだのは、第4波の大阪の状況��見て、危機感を募らせたからだ。地元医師会と共に、神戸市民病院の医師を招いたweb上の研修会を行い、関西でどのようなことが起きたのか、詳細を学び、対策を検討した。
「酸素が足りない、中等症のベッドは一杯になり、感染者が減らない。このような大阪の第4波が東京でも起きる、という前提で準備をしたのが、今生きている」
十分な検査態勢を整える
 このほか、コロナ対応としては、検査態勢を区独自で充実させてきたことも大きい。それは、昨年4月に墨東病院でクラスターが発生し、新たな入院や救命救急センターでの患者受け入れを停止した時の教訓からだという。
「国立感染症研究所が入って、症状のない人も含めて全員の検査をやった。そのやり方から学ぶことが多かった。ウイルスは目に見えない敵なので、徹底した検査しかない」
 しかし当時、東京都としてできる検査は1日に200-300件ほど。そのため、医師が必要と判断しても、検査を受けられない発熱患者がいた。墨田区は、独自にPCRセンターを設置。6月に検査会社を区内に誘致し、通常の3割程度の金額で1日240件の検査を行えるようにした。
 さらに、保健所自身が唾液によるPCR検査を開始した。検体を唾液にしたのは、医師がいちいち咽頭を綿棒でぬぐう作業をしなくてすむので、大量の検査に適していると考えたからだ。
 最初に大規模な検査を行ったのは昨年6月下旬。地元のオーケストラ、新日本フィルハーモニー交響楽団の楽団員ら74人のPCR検査で、全員の陰性を確認した。それまで演奏活動を自粛していたオーケストラは、7月初めに演奏会を再開した。
「自前の検査なので午前中に検体を出せば、2時間後には結果が分かります。費用も1人1000円くらいで済みます。どこかの施設で1人陽性者が出れば、すぐに全員の検査をやる」
 陽性者の第一報を知ると、西塚所長自身も防護服を着込み、検査のために現場に向かった。高校受験の時期は受験生の検査を行い、小学校の移動教室など人数が多い時にはプール方式で検査した。夜の街が危ないという話が広がった時期には、向島の花街の芸者たちの検査を実施。「向島は安全だと示したいので、ぜひやってください」という芸者衆の要望に応えた。
「人は大事」
 こうした対応が可能になったのは、1人の保健所職員がいたからだ。ベテラン検査技師の大橋菜穂子さん。西塚所長が独自の検査実施の方法について頭を悩ませていたところ、大橋さんが「私はPCR検査ができます」と申し出た。
 2014年に代々木公園でデング熱が発生して以来、大橋さんは毎月のように、区内の公園で蚊を採取してはすりつぶし、PCR検査で���イルス感染の有無を調査し続けていた。結果はいつも陰性だが、それを確かめるために、大橋さんは黙々と検査を重ねた。PCR検査の技術を磨き、機械もメンテナンスを欠かさなかった。
 それが、このコロナ禍で生きた。大橋さんは、感染症研でコロナウイルスの検査の手法を学び、今では変異株の検査も担っている。
「昔は、検便も結核の検査も、水道の検査も、すべて保健所でやっていた。それが次々に民間委託となり、保健所から検査機能が失われ、保健所そのものも減らされてきた。そんな中、商売にはならない蚊の検査を続けてきた検査技師が1人いたおかげで、コロナにも対応できた。本当に、人は大事です。金にならないことをやって、危機に備える。これこそ公衆衛生です」
適切な情報の公開
 住民への適切な情報発信も心がけた。象徴的な事例が、早期にコロナ対応をする医療機関名の公表に踏み切ったことだ。
 新型コロナの感染が疑われる患者に対応する医療機関は、都道府県が「診療・検査医療機関」を指定した。ただ、多くの自治体は「風評被害」を恐れて機関名を公表しなかった。東京都も同様。そのため、患者が受診するには、かかりつけ医か都の発熱相談センターに相談し、紹介を受けなければならない。同センターに電話がつながらないことも多く、煩雑さから、症状があっても軽症の場合、医療機関にかからずに済ませる人も少なくなかった。
 そうした人が感染を広げる懸念から、墨田区は昨年11月、区内の「診療・検査医療機関」の名称公表に踏み切った。それによって受診がしやすくなる利便性と、感染拡大の抑制が狙いだった。区の広報紙では、年末年始の発熱外来を行っている医療機関名と診療日や連絡先などを詳しく伝えた。
 さらに、西塚所長がTwitterなどのSNSを使って、区の対応を丁寧に説明。西塚所長のアカウントには、「家族が熱を出した。どうしたらいい?」「熱がある。日曜日だけど、どうしたらいい?」といった相談も頻繁に飛び込む。そのたび、「○○なら、予約なしで受診できます」などといった情報を伝えている。
「自分が必要な時に必要な情報が得られずに困っている人がいる。そういう人をとりこぼさないようにしたい。災害時は、区としては大きく構えて対策をしなければならないが、こういう細かい情報を補強するにはSNSは有益です」
 このような対応をするため、自宅にいても、スマートフォンは手放さない。
 ちなみに、施設で患者が確認された時、噂や風評被害を防ぐため、同区では施設名も公表している。
保健所の役割とは
 保健所の仕事について、西塚所長はこう語る。
「いろんな資料を分析しながら、地域の弱みを常にウォッチして、必要な資源を作って供給していく。インテリジェンスとロジスティクスです。墨田区は一貫して、これが公衆衛生を担う保健所の役割と認識してやってきました。私たちは、尾身先生たち専門家が言うこと���忠実にやってきただけです。その(提言を実現する)ために必要な資源は用意する。現場の医師たちが『検査をしたい』『患者を入院させたい』と言う時に、ちゃんとできるようにする。これが保健所の仕事です。
 資源が足りなければ、作る。たとえば、東京都の検査能力が限られているからと、検査数を絞るのではなく、検査がより多くできるようにしてきました。国や都の対応を言い訳にせず、資源にニーズを合わせるのではなく、ニーズに資源を合わせるんです」
 そのための工夫をし、早めに準備を整えて、あらゆる立場の人たちを結びつけていくのが、西塚流の真骨頂と言えるだろう。
 平成元(1989)年度には、全国に848あった保健所は、合理化の波に洗われて、現在は470まで減らされた。その保健所が今、新型コロナウイルスとの闘いで要の役割を担っている。
「だいぶ減らされたとはいえ、うちに検査技師がいたように、今もまだ保健所には様々なスキルが残っています。その力を、今発揮しないで、いつ発揮するのだ。そんな思いでやっています」
 各地でも今、それぞれの地域の事情を踏まえた保健所の奮闘がある。その保健所の機能を存分に生かすためにも、また、各地でワクチン接種を加速化するためにも、国や各自治体が西塚所長の話から学ぶところは多いのではないか。
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ari0921 · 4 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月1日(木曜日)
 仏領ニューカレドニアで再び「独立」を問う住民投票が行われる
  もし「独立」となると「中国の植民地になる」と現地に不安の声
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 「天国にいちばん近い島」とか。行ってみると俗化したリゾート、確かに海は綺麗だが、日本人の観光客も「コロナ禍」の前からめっきり減った。
 ニューカレドニアは今もフランスの植民地である。
2018年にもニューカレドニア独立を問う住民投票が行われたが、57%がフランス領に留まるとした。フランス軍がおよそ八千名、駐屯している。
このときは住民投票の直前にわざわざマクロン大統領がパリから飛んできて、フランス領土に留まるメリットを説いたほどだった。
植民地としてのニューカレドニアの法的地位はタヒチと同様であり、通貨はフランス・コロニアル・フランである。ユーロではない。
レストランに並ぶワインは殆どがフランスからの輸入。だから高い。人口僅か27万人。ひとりあたりのGDPは38000ドルと日本並みなのは、ニッケル鉱山と観光客の御陰である。そのニッケルのバイヤーは中国で、ほかの全輸出品より、中国向けニッケル輸出(108億ドル)の金額が多い。
 再び住民投票でフランスからの独立を求める動き��本格化している。
 ���後に中国の工作がある。「もし独立となったらフランス軍は撤兵するだろう。その力の真空を埋める国がある。ニューカレドニアには中国の植民地になる不安が拡がっている」と現地の声が拡がる(サウスチャイナモーニングポスト、9月30日)。
 国際空港から主要なリゾートまでクルマで一時間かかるが、リゾートホテルには鉄板焼きやら寿司バアもあった。近年はどっと押しかけて中国人ツアーで、中華料理も増えた。
 ▼おそるべき速度ですすむ中国の外交攻勢、札束に弱い現地指導者たち
 南太平洋に浮かぶ島嶼国家は14ヶ国。このうち台湾と外交関係にあるのは、四カ国に減った(パラオ、マーシャル群島、ナウル、ツバル)。
2019年には中国の圧力と浸透工作でキリバスとソロモン群島が北京と結び、台湾と断交にいたった。このためトランプ政権が激怒し「TAIPEI法」を制定した。同法には断行した国々に制裁を加えるとする条項があり、また当該国の首脳がワシントンを訪問しても面会を断られる一幕があった。
 南太平洋でもっとも人口大国はパプアニューギニアである。APECが開催されたとき中国が国際会議場を建設して寄付した。中国資本のショッピン街(チャイナタウン)もあり、カネに弱い性格を象徴する。ラバウルは、この島嶼国家に所属する。
 同様にフィジーも首都スバに拓けるチャイナタウン、郊外の「南太平洋大学」には「孔子学院」がすでに設立されている。中国語の新聞がでるほどに中国人移民が多く、マグロの漁場利権などが狙われている。
 バヌアツでは不動産投資の殆どが中国であり首都の商店街はチャイナチャイナチャイナとなって、この国のパスポートは不動産投資で取得できるため、夥しい中国人がやってくる。日本大使館は貸しビルのなか、中国大使館は三階建ての御殿のごとし。
 台湾と外交関係のあるマーシャル群島においてすら中国に買収された議員らが、台湾との断交を議決しようとして、女性大統領が取りやめさせた。
 大東亜戦争のおり、ガダルカナルの死闘はいまも語り継がれている。ガダルカナル沖合は深海、海底には十数隻の日本と連合国の軍艦が沈没したまま。じつは筆者、二月にここへ撮影に行く予定をしていた。コロナ災禍で中止となった。
 さて、このガダルカナルのあるソロモン諸島、その最大の島はマライタ州である。そしてソロモンから「独立」すべきとする住民運動が起きている。ソロモン諸島の人口は67万人、マライタ州は14万人である。
 マライタ州の言い分は「首都ホニアラの政権が、一方的に台湾と断交した」とし、この拙速外交に激怒して、本格的な独立運動がマライタ洲で始まったのだ。台湾に親しみを覚える住民のほうが多いからだ。
 チャイナタウンがあり、中国からの借金でビルを建てた首都ホニアラの親中派政権は、カネで外交を売ったのだ、とスイダニ州首相は非難した。中央政府のソガバレ首相の決定は「民主的ではなかった」。
 南太平洋諸国の中国傾斜という異変に危機感を抱いているのは台湾ばかりではない。米国、オーストラリアは領域に中国の影響力拡大を危惧し、投資ならびに軍事援助などを増大させる。
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2ttf · 13 years ago
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onibuscoffee · 6 years ago
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空間ではなく“空気感”をカタチにしたい。設計・デザイン/鈴木一史
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店舗の設計・デザインを生業とする鈴木一史さん。松陰神社ブームの火付け役と言われ、粋なカフェや本屋を次々と生み出している。ONIBUS COFFEEとも交流が深く、系列店のABOUT LIFE COFFEE BREWERS(2014)とONIBUS COFFEE中目黒店(2016)を設計、そして今春オープン予定のONIBUS COFFEE八雲店も鈴木さんが手がける新たな店舗となる。 途中経過の新店舗内にて。真剣な眼差しで建具の細部を見��める鈴木さん。
もともと母が絵描き、父が建築業という環境で育ったという鈴木さん。ものづくりが身近にあったことで、設計の道に進むことは特別なことだとは思ってなかったそうだ。
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「学生時代に建築を学んで、社会人になってからは設計事務所、現場の施行を経て30歳のときに独立を決めました。会社は10期目の節目の年。独立した当初はどうやって仕事を取るのかもわからない状態で、人見知りだから飛び込み営業とかそういう選択肢はないし、人脈もない。毎朝起きて暇でした。(笑)」 道玄坂にあるALCBは渋谷のストリートに馴染んだデザインで、ツーリストにも人気。
そうした状況を経て、独立した約3年後にONIBUS COFFEE代表・坂尾篤史さんと出会い、渋谷に出す店舗の設計を担うことに。それが「ABOUT LIFE COFFEE BREWERS」だ。
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「コーヒースタンドを設計するのは初めてのことで、どういう機材が必要かも知りません。ギャラリー併設でスペースが限られていたので機材や建具をパズルのようにはめ込んでいきました。難しい面もありましたが渋谷らしいシンプルないい店舗ができたと思います」
センスの違いをインプットした現場
「僕にはセンスがない」と意外な言葉を口にする鈴木さんだが、頭の中にはこれまで培ってきた素材の知識、現場での経験、さまざまなアプローチの方法など膨大なストックがある。
「僕はあまり他人のことを気にしないし影響を受けないです。それでも建設現場にいた頃、多くの設計案件を形にしたことは貴重な経験になりました。デザイナーごとに、会社ごとにセンスが違います。そのセンスの違いを、単にマネするのではなくて情報としてインプットしたことで、後々自分の設計に生かせるようになりました」
また使用する素材にこだわり、あえて古く節のある木材なども使うという。通常は敬遠される素材にも積極的にチャレンジする理由を伺った。
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「例えば、100本の木があったら100通りの木目がある。石も同様、多彩なテクスチャがある。その素材が自分の思い描くものと違っても、それがかえって面白いと思っていて。自分でコントロールできない素材にこそ興味が湧きます。リスクもあるけれど、結局は��の素材を自分が生かせるかどうか。自分で狙ったことができない素材が好きなんです。僕は新建材と言われるような便利で仕上げが楽な材料はあまり使わないようにしています。いつまでも経年変化をしない素材って気持ち悪いでしょう? それよりも、材木屋さんで売れずに眠っているような節だらけの古材などに興味がある。普通は、現場と設計は担当者が違うからクレームが出ないように節のある材料は省かれるんだけど、僕は現場と設計どちらもやっているからそういったことがない。お客さんが納得してくれたうえで“個性ある”材料を使うようにしています」
ーー今回の新店舗の内装の特徴を教えてください。
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「メインのロースターはインダストリアルな空間にしようと思っています。八雲店の立地は、駅から少し離れていて人通りが少ないので、人が入りやすいオープンな空間でありたいと。“お店と街の境界線がにじむ”、内と外の境界線があいまいなイメージです。カフェスペースは5坪ほどですが、ベンチとテーブル席を設ける予定。壁は白の漆喰塗って、柱は黒かな。看板は真鍮で作って……。ロースターメインなので、資材保管庫や駐車スペースを確保すること、夏場冬場を考えて自然の空気を取り込みながら換気をしっかり回せるように設計しています」 また、注目なのが千葉県の香取にある酒蔵・寺田本家より譲り受けた100年も前の古材を再利用した床だ。ヘリンボーンよりも複雑な組み方を採用した訳を聞くと、「坂尾くんが、ヘリンボーンにしたいけど大変ですよね」と言ったことから「できないことはない」と古材を生かせる構造を考えたという。 酒蔵から譲り受けた古材は手作業で一つひとつスタッフが製材し、思い入れある部材に。
「誰かのために」やることが、僕の仕事だと思っている 
仕事をするうえで重要なことは「お店の人がやりたいと思うことを実現すること」だと鈴木さんは言う。デザインのポイントはここ!というところは明確にはなく、あくまでもコミュニケーションを重ねて生まれてくる物事を大事にする。
「例えば初めてのクライアントから仕事の依頼がくることがありますが、それよりも2店舗目、3店舗目…と仕事を共にしてきた人たちとは信頼関係もできているので、絶対的にいいものができるという実感があります。『こういう空気感だよね!』と言い合える、個人同士のコミュニケーション���成り立つ不思議な“共通言語”を空間として形にしている感覚です。現場に足を運んで、お互いに話し合いを重ねていく。そうするとそれまでモヤっとしていたことが、ある一定のタイミングを過ぎるとぎゅーっと集約されてくるんです」
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デザインがかっこいいとかオシャレだということはどうでもいい、と語る鈴木さん。とくに飲食店を設計する場合、なるべくたくさんの人が来てくれるお店をつくることが飲食店における使命だという。 2016年にオープンしたONIBUS COFFEE中目黒店。スタッフと店舗の雰囲気が調和していて穏やか。
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「ある店に入ったときに自分が感じた空気感、肌感っていうのがあって、それはなんでその空気感を出せるのか? というのをすごく考えます。すぐに結論は出ないけれど、それは設計だけの要因ではなく、そこで働いている人だったりするじゃないですか。“このお店のこういう感じ!”っていう空気感が大事。そして、そのお店が地域や人に対しての日常にならなくてはならない。だからそこに自分のエゴは必要ない。僕、自分の家になると家具ひとつ決められないんです。(笑)。でも『誰かのために』と思うと、こういうのがいいんじゃないか?と思ってやれるんです」
「信頼する仲間とやる」ことでチャレンジできる 
「僕は、同級生に家具を頼んだり、信頼する仲間と助け合いながら仕事をしています。身近なニュアンスでわかってくれる人たちとやっていて、それはクライアントでもそう。話し合っていくうちに同じ方向に進んでいける。やったことないこともチャレンジしてくれるし、そういう意味では僕は周りに恵まれていると思っているんです。今、メインのカウンターと棚の製作を愛知の家具職人に頼んでいます。僕らは、共通の知り合いである友人の所有していた無垢材を買い取り、大切にストックしています。今では貴重な材が多く、クライアントと相談して思い入れのある箇所にはその材料を使わせてもらっています。加工してみないとわからないクセのある材もあるけれど、それも面白い。節や不揃いな板目が出ても、それはそれで味があるじゃん、と。今回、八雲店の入り口はその引き取ったオークの無垢材を使って仕上げる予定です」
ONIBUS COFFEE八雲店は、今春5月頃にオープン予定!鈴木さんの手がけた店舗がどのような姿��現すのか、今から楽しみで仕方ありません!
鈴木一史 1979年茅ヶ��生まれ。大学卒業後、都内の設計事務所、施工会社を経て2010年独立。頭を練る事と手を練る事は同義と考え、境界線なくインテリアのデザインと施工を手掛ける。主な手がけた案件として「ONIBUS COFFEE 中目黒」「ABOUT LIFE COFFEE BREWERS」「POMPONCAKES BLVD.」「Pizza 4P's SAIGONCENTRE」などがある。現在、世田谷区松陰神社前商店街の副理事長を務め、同商店街に「STUDY」という飲食店を構える。
text by Mayo Hayashi photo by Tomoko Minagawa
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第22屆中日青少年書畫音樂交流大會日本福岡5日4夜文化交流團
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活動背景:中日兩國政府將2019年定為"日中青少年交流促進年"。此次交流大會旨在在構建兩國青少年的友誼,並透過藝術及文化交流讓青少年體驗當地文化以及宣揚和平精神。交流大會中的書畫獎項將由各官方及各中日友好機構代表成員親自頒發,日中兩國各地將派出不同年齡層的表演隊伍相互觀摩交流。是次項目是高規格的官方活動,並獲中國外交部及日本外務省全力支持。國家的官方網頁及日本當地的新聞放送社均會報導此難得的中日友好青少年交流盛事。
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活動日期 : 2019年8月18日至22日 (五日四夜) 活動對象 : 4 – 18歲對藝術及表演有興趣的學生 參加資格:1)港澳區書法、繪畫「佳作賞」入選者及其隨行家庭成員。                   2)港澳區青少年兒童表演隊伍及其隨行家庭成員。 費用:每人港幣$18,500    (費用包括機票、住宿、部份膳食、交通、入場門卷、活動材料)
行程亮點
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代表香港出席在日本舉行的書畫比賽頒獎典禮/交流演出
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正宗日本和服(浴衣)穿著體驗
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親自製作獨一無二的陶瓷
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體驗日本傳統茶道 ‧ 品嚐高級綠茶
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參觀福岡亞洲美術館
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金鱗湖畔戶外寫生
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行程
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Day 1  (18/8) 抵達福岡 
香港->福岡
出發日期 : 8月18日
航班 : 港龍航空 KA 380
香港國際機場出發時間 : 10:50am
飛行時間 : 3小時40分鐘
到達福岡時間 : 03:30pm (日本時間)
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福岡 (Fukuoka) 位於日本群島的西南部的九州地區,氣候溫暖,風景美麗,交通便利。九州地區九包括福岡縣、大分縣、長崎縣、熊本縣、鹿兒島縣、宮崎及佐賀縣等7個縣。福岡市為九州的第一大城市,也是九州經濟、娛樂的重要核心,人口約150萬。它在1997年、1999年、2000年被亞洲週刊連續3次評為“亞洲最佳城市”!在2015年發行的《MONOCLE》雜誌「宜居城市排名」中,福岡位居世界第12名,是亞洲第2。在眾多中國、韓國訪日遊客的調查中滿意度為列日本全國排名第一。
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福岡市是一座非常緊密凝聚而有活力的城市,無論居住與工作地點,以及娛樂等設施都相當鄰近。福岡擁有出發與到達航班數量名列日本前茅的福岡機場,機場距離市中心相當近,從福岡機場到博多車站,搭乘地下鐵僅需5分鐘時間。
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福岡市飲食文化豐富,擁有全日本第一的大排檔,入夜後在路邊過百間的大排檔(屋台)可品嚐全國知名的博多拉麵(豚骨拉麵)、海鮮料理、碳烤雞肉串、牛雜火鍋等等。行程中已預留了兩晚讓大家盡情享受福岡處處不同的地道美食。
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福岡的自然景觀得天獨厚,青蔥的山巒環抱著福岡的市區,從市中心稍微往外走便看到美麗的博多灣。市內更有數個大型公園,如海中道海濱公園、大濠公園及舞鶴公園等,一整年都能欣賞到各季節不同的鮮花,四處皆有青山綠水的美麗景觀相伴,是少數能夠讓都市人接觸大自然景觀的美麗城市。
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抵達福岡後將安排團員到達酒店,首三晚將入住福岡市蒙特埃馬納酒店或同級酒店。酒店位於福岡市中心天神地區,交通十分便捷。鄰近天神區的屋台大排檔,大家可輕鬆步行前往,體驗當地地道美味的飲食文化。
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福岡蒙特埃馬納酒店 Hotel Monte Hermana
地址:福岡市中央區渡邊通3丁目4-24
Day 2 (19/8) 第一站 - 到訪福岡亞洲美術館 Fukuoka Asian Art Museum (FAAM)
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福岡市博多區下川端町3-1 博多河畔城7和8 樓
福岡亞洲美術館位於博多Riverain內的河濱區內的River Rain中心大樓。美術館於1999年開幕,是現時世界唯一有系統地收集和專門展出亞洲當代藝術作品的展覽館,同時也會邀請亞洲的藝術家和研究者進行美術交流。美術館收藏了亞洲23個國家和地區大約2900件美術作品,在世界上是僅此一處!亞洲的近現代美術既不同於西洋美術,也有別於日本的傳統文化,擁有自己獨特的魅力。美術館自開設以來,每三年舉行一次「福岡初・福岡發」的“福岡亞洲藝術三年展”,受到國際上很高的評價。 
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                                                                              (鳴謝Japan Discovery相片)   
亞洲展廳 - 系統地展示及介紹亞洲近現代與當代藝術的發展。館藏品無論在質還是量上都堪稱世界頂級。
藝術咖啡廳 – 是一個可以享受藝術、咖啡與書籍的開放空間,並提供約一萬本與亞洲、藝術相關的書籍和雜誌予到訪者免費閱覽。
兒童角 - 為孩子們設置的專用空間。備有鬆軟的沙發和座墊可供休息。同時還為孩子們準備了各種形狀各異的積木及亞洲國家的兒童繪本等。
精品店 - 陳列許多原創商品或相關出版品,以及亞洲各國風情的小商品及生活雜貨等。
Day 2 (19/8) 第二站 - 出席第22屆日中青少年書畫音樂交流大會
Acros (アクロス) 福岡交響音樂廳 (福岡縣福岡市中央區天神1-1-1)
中日青少年書畫音樂交流大會創始於1997年,由九州日中文化協會創辦,今年是第22屆。日本前首相村山富市、鳩山由紀夫以及著名的中日友好人士白西紳一郎擔任此活動的相關職務,活動久負盛名,影響力大。活動獲中國外交部及日本外務省全力支持,是日本與中國青少年文化藝術交流的重要活動平台之一。
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(アクロス) 福岡交響音樂廳 - 位於福岡都心「天神」地區,是一個國際・文化・情報的交流中心。音樂廳約有 1800 個座位。而館內還有多功能的展示廳,以及常設展示福岡傳統手工藝品的美術展覽廳。
第22屆日中青少年書畫音樂交流大會執行委員及資料
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今年的交流大會將於八月十九日下午1時30分假アクロス福岡交響音樂廳舉行。大會將邀請中國駐福崗領事及各友好縣、市支持機構的代表頒發証書予中日兩地書畫得獎的青少年及兒童,節目中不乏中曰兩地青少年及兒童的精彩表演。
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去年頒獎典禮中石原進委員長頒發獎項
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去年頒獎典禮日本國會議員鬼本誠先生頒發獎項
來自中國各地每年均有超過幾百位青少年及兒童參與這個書畫交流大會盛事,兩國在近年更派出不同的音樂、藝術表演隊伍在交流大會中演出,讓兩地青少年及兒童相互欣賞彼此文化藝術及進行交流。
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去年香港得獎者在典禮中上台領獎的一刻讓人感動,在數百位從中國、日本各地遠道而來的參與者及多位重量級嘉賓面前領獎可謂意義非凡。領獎的青少年及兒童來自各個年齡層面,可見藝術的鍾愛及溝通無年齡的界限。
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香港隊成員大合照,出席的香港代表團團員難掩興奮又自豪的心情。
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大家對陌生的日文獎狀感興趣,懂日文的團員即時為大家充當翻譯。(這張得獎名字給小編去掉了)
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會場中展出過百件兩地青少年兒童的作品。
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大會活動另一亮點就是兩國各地青少年兒童展現出不同的藝術文化的音樂、舞蹈的表演。充分體現兩地孩子的多元及獨特的文化氣質。十幾支隊伍的出色表現讓人留下深刻的印象,也為交流大會帶來活潑的火花。
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去年開幕式有來自中國汕尾義興的龍獅團表演傳統的南獅技術 
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日本學生的歌唱演出
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日本學生的舞蹈演出
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中國學生的舞蹈表演 
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香港學生的舞蹈表演
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全場躍動起來的熊本熊Kumamon現身歡迎大家!
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在表演隊伍的精彩大合照中不難發現「熊本熊」及熊貓“東東”的位置。
Day 3 (20/8) 第一/二站 – 分組進行文化體驗項 一) 日本陶瓷製作
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陶瓷二字,包含了陶土製做較粗獷的陶器,及以瓷土或高嶺土燒製,顏色細白而密度及硬度較高的瓷器。日本 47 個縣中,各出產不同的陶瓷食器。因為陶瓷都是取當地陶土或瓷土燒製,故大多以「產地名+燒」來命名,名稱如「伊萬里燒」、「唐津燒」、「美濃燒」等,都是以這個方式來命名。
要認識日本陶瓷,且由三大名陶開始:佐賀縣的有田燒(亦即伊萬里燒)、岐阜縣的美濃燒及愛知縣的瀨戶燒。
「 九州陶瓷之鄉」佐賀縣,孕育出「伊萬里・有田燒」、「唐津燒」等等陶瓷珍寶,以及一代代的陶瓷藝術巨匠。而「有田燒」是指出產於佐賀縣有田町一帶的瓷器。從前「有田燒」都是經由伊萬里港輸出到歐洲及日本國內各地,因此「有田燒」又被稱為「伊萬里燒」。
有著4百年歷史的有田燒是日本代表瓷器之一,亦是日本歷史上最早的瓷器。由中國(景德鎮)及朝鮮傳入的製瓷技術發展出來的有田燒,以其以青花瓷、猶如透明的漂亮白瓷、色彩絢麗纖細的彩繪等燒製技術,為瓷器界定下新的美學標準,聞名世界。
學員將到訪其中一個位於福岡廣場的陶瓷工作室,親身體驗並親手製作出獨一無二的陶瓷。
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Day 3 (20/8) 第一/二站 – 分組進行文化體驗項 二) 和服(浴衣)體驗
和服是日本的傳統服飾,現今日本人大多在重要場合時穿著,例如:成人式、茶會、婚禮…等,看似簡單的和服其實大有學問。浴衣為夏天時的和服,差別在於浴衣是以棉質布料製成,材質輕便較為清爽涼快,衣袖也改為直線式的衣袖。日本人通常會在花火大會或是盂蘭盆會中穿著浴衣。
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穿著和服地點落在歷史猶久的大濠公園附近。大濠公園對許多福岡市民來說就像是城市裡的綠洲,自開園至今約80年,曾歷經許多歷史的變遷,如今已是大部份福岡縣民的休憩最佳場所。 穿好和服後就是大家手機瘋狂拍照的時候!:D
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這兩年的學生穿起和服多漂亮!
Day 3 (20/8) 第三站 – 閒逛福岡OUTLETS瑪麗諾亞城
 行程中總不忘抽點時間去逛逛Outlet。這間大型商場於2000年開幕至今,屬於九州品牌暢貨購物中心,以開放建築格局分為三大區域,大家想得到的時尚品牌、運動、居家生活、戶外休閒、文具等都能在這裡發掘到。從時裝、運動服飾、家品、室內用品等不同類型的店舖都有,總共約有170間。
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摩天輪這棟(Marinoa Side) 1樓有小遊戲區,2樓還有電動遊戲場。 不喜歡購物的你又可以去這區逛逛 。
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Day 4 (21/8) - 第一站 - 前往八女茶之文化館
位於八女市的茶之文化館的館內寬廣舒適,在這裡能看到玉露茶的介紹、各種日本茶的聞香、體驗茶文化並了解茶的製作過程,二樓也有茶室可以參觀,習得許多茶知識後還可以到喫茶區品嚐茶類餐點、品茶。文化館提供八女茶工房做體驗,姑綠茶的製作(石臼輾抹茶、烘焙茶、綠茶)、品茶會(闘茶会)、沖泡茶方式體驗(お茶の淹れ方)、和菓子的製作(和菓子作り)。
學員此次會體驗當地的茶道及品嚐「八女傳統本玉露」茶葉的綠茶。品嚐最高級綠茶的滋味。愛喫茶的人就不能錯過!
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Day 4 (21/8) - 第二站 – 前往大分縣由布院童話村 - 漫步英國童話小鎮
金鱗湖是位於日本大分縣由布市湯布院町地區由布院溫泉旁的一個水池,面積0.8公頃,週長400公尺。由於在早晨池面常出現晨霧,成為代表由布院溫泉的景觀之一。 由於位於由布岳山麓,因此也有「岳下之池」、「岳下池」的名稱;在1884年儒家學者毛利空桑在此見到夕陽照射反射出像魚鱗的金色光影,便取了「金鱗湖」的名稱。
從湯の坪街道一直走到金鱗湖,沿途都有各色各樣特色的小店,而且都是日本傳統建築,大家在這裡可以發掘到很多日式雜貨、特色小食、精緻紀念品,許多更是由布院限定的。走到金鱗湖之前,會經過這個以英國主Cotswold童話鄉鎮小鎮為建築藍本的Yufuin Floral Villalge。在這個美麗輕鬆的英式小村莊裡,到處都放滿了可愛的佈置,村裡有很多特色小店、博物館、足湯、精品及服飾店及餐廳等等。有些店館還飼養了可愛的貓頭鷹、松鼠及兔子。
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村內到處都散發著英式歐洲小鎮的味道。
金鱗湖畔戶外寫生體驗
景色優美的金鱗湖是來由布院必遊景點之一,聽說湖水很奇特,西邊會湧出溫泉,東邊則是湧入淡水,也因為有這樣的溫差,所以清晨的金鱗湖很容易會霧氣飄渺,是最夢幻的畫面。
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坐在湖畔旁嘗試把所見的美景畫下來,或把美好的回憶描繪在自己的Art Journal與日記裡又是一件樂事。
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Day 4 (21/8) - 黃昏前啟程前往別府 - 入住杜之湯度假村 
Morinoyu Resort 度假村位於別府,距離山地獄(Yama Jigoku)不到 1.2 公里,距離別府地獄(Hells of Beppu)1.3 公里,鄰近地獄蒸氣料理工房鐵輪(Jigokumushikobo Kannawa)等景點,酒店設有全方位 SPA,並提供水療養生中心、免費 WiFi、溫泉浴場和免費接駁車服務。
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Day 5 (22/8) - 第一站 – 參觀太宰府天滿宮
地址: 福岡縣太宰府市宰府4-7-1
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太宰府天滿宮是供奉著被稱爲學問之神的菅原道真公,雖然供奉道真公的神社在全國約有12,000社,但其中「太宰府天滿宮」是被當做天神信仰的聖地。爲祈禱考試合格、學業有成的參拜者整年絡繹不絕。
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前往「太宰府天滿宮」會經過「太宰府天滿宮表參道」這條熱鬧的街道,道路盡頭就是「太宰府天滿宮」。這條表參道雖然不長,但卻有非常多特別的地道小吃!如圖中有梅花圖案的經典糕點小吃「梅枝餅」,它在太宰府隨處可見。相傳在千年前的平安時代,一代文人菅原道真因受讒言迫害而被流放至太宰府。道真公並不適應當地的生活,一名老婦好心地做了插上梅枝的烤餅送給道真公吃,便成為了今日「梅枝餅」的由來。
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前往天滿宮的參道上還能看見許多石造鳥居,以及由國際知名的建築大師隈研吾所打造出的星巴克概念店,木頭交錯的設計,成為大家的朝聖地之一。
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到達太宰府後很多人會摸一下「御神牛」像的頭部,相傅撫摸御神牛像的頭部便能得到智慧。主殿兩旁有各式各樣的御守賣,最多當然是祈求學業順利、考試合格的御守。每年約800萬人到此參拜祈禱學業順利、金榜題名、工作錄取及升遷考試順利。
「太宰府天滿宮」充滿著歷史悠久日本傳統文化特色,宮內四季有不同豐富景色,是一個很值得遊覽的地方。
參觀完天滿宮,我們便啟程回溫暖的家。
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回程日期 : 8月22日
航空公司資料 : 港龍航空 (航班編號:KA 381)
福岡機場出發時間 : 4 :40pm
飛行時間 : 3小時35分鐘
到達香港時間 : 7:15pm
期待與大家一起踏上這個獨一無二的福岡深度文化交流之旅!
查詢:香港藝術交流協會    電話:2370 1078
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herbiemikeadamski · 6 years ago
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(^_^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_^) . . 4月8日(月) 赤口(乙亥) 旧暦 3/4 月齢 2.8 年始から98日目(閏年では99日目)にあたり、年末まではあと267日です。 . . 朝は希望に起き、昼は努力に生き、夜は感謝に眠りましょう(^_-)-☆ 睡眠は明日を迎える為の未来へのスタートですY(^^)ピース! でお馴染みのRascalでございます。 . せっかく暖かくなったのに水を差す様な冷たい朝の月曜日。 週明けって怠いのに辛いですよね。。。_| ̄|○..(^o^;) . 日中は止むそうなのですが夜には再び雨になるそうなので 今日は一日中寒い感じじゃないでしょうか?{{(>∇<)}}サムッ . 今日一日どなた様もお体ご自愛なさってお過ごし下さいませ(^^ゞ “本日もご安全に参りましょう(^^)v” . . ■今日は何の日■ #佳桜忌(ケイオウキ)  アイドル歌手の岡田有希子の忌日。  1967年8月22日に生まれた佐藤佳代(本名)は、 1986年4月8日アイドル岡田有希子として所属していた事務所の屋上から飛び降り、わずか18年と数ヶ月の短い生涯を終えた。  本名の「佐藤佳代」と、桜の花が満開の時期である事に因み、「佳桜忌」(けいおうき)と呼ばれている。  2017年には生誕50年で2018年には三十三回忌を迎えた。    .  #タイヤの日  日本自動車タイヤ協会が、春の全国交通安全運動が行われる4月と、タイヤをイメージした8日を組み合わせて、この日を記念日としました。 . #花祭り(潅仏会,仏生会,浴仏会)  釈迦が旧暦の4月8日に生まれたという伝承から釈迦の降誕を祝して行う法会。  東アジア一帯で祝われるが、新暦4月8日に祝うのは日本のみで関西では月遅れの5月8日に行われます。 . #ロータスデー  映画『手塚治虫のブッダ赤い砂漠よ!美しく』を手がける東映株式会社が制定。  ロータス(蓮)は泥の中で美しく咲き、その姿が仏の叡智や慈悲の象徴とされる花。 . #ヴィーナスの日  1820年、エーゲ海のメロス島で耕作中の農夫が畑の中からヴィーナス像を発掘し翌年にパリのルーブル美術館が収蔵しました。  「ミロのヴィーナス」として知られており、紀元前100年頃に作られたとされています。 . #出発の日  新生活のスタートの時期に合わせ、忙しく乱れがちな生活のリズムを整えるために、朝食を摂ることを提案する味の素株式会社が制定。  日付は新年度のスタートの時期であり、4と8で「出発(しゅっぱつ)」と読む語呂合わせから。 . #清流の日・小川の日  京都府八幡市の山中宗一氏が制定。  小学生から大学生��での学年ごとの成長を清流に例え、その流れは小川であってもたゆまぬ努力により進んでいくことを称えるとともに、大人社会が快く迎える日とするのが目的。  日付は4月のこの時期が入学や新学年の始まりとなることが多いため。 . #指圧の日  正しい指圧の普及をとうして、人々の健康に貢献しようと特定非営利活動法人日本指圧協会が制定。 . #美容鍼灸の日  一般財団法人・日本美容鍼灸マッサージ協会が制定。 . #森町(しんまち)の日  環境共生、地域共生、多世代共生を掲げる「箕面森町」をアピールしようと箕面森町建設推進協議会が制定。 . #シーバの日  ペットフードなどの輸入・販売を行うマース ジャパン リミテッドが制定。 . #ベビーリーフ記念日  兵庫県神戸市に本社を置き、1994年9月4日に関西国際空港が開港したときにベビーリーフを日本にはじめて輸入をしたエム・ヴイ・エム商事株式会社が制定。 . #小ネタの日  地域のビジネスニュース、カルチャーニュースなどを配信する情報サイトによるネットワーク「みんなの経済新聞ネットワーク」が制定。 . #芝の日  校庭や園庭、市街地の公園などの芝生化を進めている一般社団法人長野県造園建設業協会が制定。 . #白肌の日  日本を代表する化粧品メーカーの株式会社コーセーが制定。 . #貝の日  渥美半島にある愛知県田原市の渥美商工会が制定。  「貝」の字を上下に分けると「目」と「八」になり、「目」を90度横にすると「四」と似ていることから。 . #炭酸水の日  純水でていねいに作り、スッキリした飲み口で人気の「おいしい炭酸水」などを製造販売するサッポロ飲料株式会社が制定。 . #シワ対策の日. . #ドモホルンリンクル 「しわキレイ」の日. . #シンハービールの日. . #木曽路「すきやきの日」. . #シャボン(せっけん)の香りの日. . #ホヤの日. . #忠犬ハチ公の日. . #参考書の日. . #椿寿忌(虚子忌). . #世界ロマの日. . #歯ブラシ交換デー(毎月8日). . #信州地酒で乾杯の日(毎月8日). . #生パスタの日(毎月7,8日). . . ■今日のつぶやき■ #会うのは別れのはじめ . . #1993年4月8日 #吉井香奈恵 (#よしいかなえ) 【#歌手】 〔#大阪府〕 《#9nine (#ナイン)》 . . (Minato-ku, Tokyo, Japan) https://www.instagram.com/p/Bv-P5DcA4mfNCQsoEofflTPrhNO5d3TAE3md1Q0/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1bbfuuz1cr06z
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yaccham · 2 years ago
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【本八幡SDGsまつり】 今回市川商工会議所青年部として、 本八幡SDGsまつりにて一番街にてリーダーやらせていただきました! 参加賞や冊子などは早々なくなりましたが、 青年部の仲間のお陰で一番街を盛り立てる事ができた事に感写しております! ありがとうございました! #市川商工会議所青年部 #本八幡sdgsまつり #八幡一番街 #yawataichibanguy (八幡一番街商店会) https://www.instagram.com/p/Cj2MHaMSyqO/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kotayamauchi · 3 years ago
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達造園 展示「ニワ」 始まりました〜!🌿🪨 皆様ぜひお気軽に〜 #Repost @tatsuzouen with @make_repost ・・・ 庭つくります、誰でも見れます 展示をする堀川会議室は2枚目の写真の通り、大きく戸を開放しています。 何かの用事で出かける時に堀川会議室の前を通ってみよう、ぐらいの気軽さで是非。 もちろんベンチに腰掛けてぼんやり眺めたりドリンクを飲んだり思いのままにどうぞ。 🌿🌿🌿🌿🌿 達造園 展示「ニワ」/ tatsuzouen exhibition 「niwa」 【場所】 堀川会議室(堀川商店街内) 京都市上京区桝屋町28 ▪️庭の展示▪️ 5月3日(火)〜5月8日(日) 11:00〜20:00 (※5月7日15:00〜17:00庭改修作業、5月8日のみ19:00まで) ▪️庭の中でのライブ▪️  5月7日 17:00〜 【ライブ】 川口貴大 咖喱山水 ×山内弘太 Sound Meals Set 【出店】 Botany 咖喱山水 ▪️KYOTO MTG-定期音楽鑑賞会-▪️ 5月8日 11:00〜19:00 【出店】 妄想インドカレーネグラ Botany 幻の湖 -Lake Of Illusions- メディスンカードリーディング 八屋 TASO WORKSHOP 風子 NEU(from バー下戸) ゆすらご 【DJ】 H.I.G.O arnoldboya(幻の湖) Wataru(W) 井上潤一 山内弘太 Oh Yeah!! 千里*new [visual design] 權田直博 [共催] 山内弘太、達造園 _____________________________ 小林達彦 庭師・北山安夫に師事したのち「達造園」として独立。京都を中心に庭の手入れや工事を行い、デザインから施工まで幅広く手がける。 ホームページ: tatsuzouen.com @tatsuzouen _____________________________ 川口貴大 大阪生まれ東京在住 主に自作の楽器や改造した機器を使い、音や動き、光や風を発生させるパフォーマンスを行うアーティスト。 様々なバンドやユニットへの参加を経て、現在は夏の大△、アキビンオオケストラのメンバーとしても活動中。 最近のソロでは、より音楽的なアプローチをコントロールしきれない機材を使って試みている。 @qudam _____________________________ 咖喱山水 | CURRY SANSUI 音の鳴る場所を中心にインド亜大陸料理を志向。音響派カレー。 スパイスの香りや性質、調理過程を音楽的に解釈し、コンセプトを打ち出したカレーで様々な音楽家や美術作家と共演を果たす。 2018年10月より、鎌倉は極楽寺にあるスパイス店 アナン邸宅にて、カレー教室を開催。 また2020年6月には、調理音と山内弘太のギターインプロヴィゼーションによる音源+スパイスキット〝Sound meals〟をリリース。 @curry_sansui _____________________________ 山内弘太 | Kota Yamauchi 1986年生まれ。京都、堀川団地在住。ギタリスト。 歌もの、即興、映像、ダンスとの共演など国内外問わず様々な形態、環境で活動。演奏ではギターから出るあらゆる音をその場で加工し積み重ね配置して音像を作り上げる。 ソロ活動をベースに折坂悠太(重奏), quaeru, LUCA + There is a fox , 川本真琴などのバンドに参加。咖喱山水とのプロジェクト "Sound Meals" や、堀川会議室での音楽イベント主催にも携わる。 #造園 #達造園 #室内の庭 #石 #庭 (堀川会議室) https://www.instagram.com/p/CdFFHpBvO62/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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xf-2 · 7 years ago
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第二次世界大戦は大変複雑な戦争であり、様々な側面がある。先発帝国主義国(英仏米)vs後発帝国主義国(日独伊)、欧州覇権争い(英仏独)、反共国家(日独)vs共産国家(ソ連)+
アメリカ容共政権
(ルーズベルト)、反ユダヤ国家(独)vs
親ユダヤ国家
(英米)、帝国主義国家vs植民地独立運動(日中戦争)、国共内戦(中国)、太平洋覇権争い(日米)、油田争奪戦(バクー油田、蘭印油田)、などなど。
 だが、第二次世界大戦を精査する上で、見落とされがちであるものの影の立役者として、「死の商人」の存在がある。「死の商人」とは、狭義では兵器や軍需品を作る会社に対する蔑称だが、広義では戦争当事国に戦費を融資する銀行、投資家を含む。1961年、アイゼンハワー元大統領は退任のスピーチで、軍産複合体の危険性について説いた。軍産複合体とは、「死の商人」である軍需産業やウォール街の金融業者と大学、軍部などが一体になって、それぞれの利益のために国家を戦争に引きずり込むシステムなのだが、アメリカに軍産複合体が誕生した切っ掛けこそ、第一次・第二次世界大戦だった。だが、第二次世界大戦では、その輝かしい勝利に幻惑されて、「死の商人」が果たした邪悪な役割について語られることは極めて稀である。
モルガン銀行と第一次世界大戦。
 1914年、第一次世界大戦が欧州で勃発した当時、アメリカの対独世論はそれほど悪くなかった。だが、勝利のためにアメリカの参戦を必要としたイギリスは、アメリカ国内で反ドイツ感情を煽る様々なプロパガンダ工作を行った。「
レイプ・オブ・ベルギー
」と称して、ドイツ軍がベルギーで住民を虐殺したと喧伝したりもしている。「レイプ・オブ・××」や「リメンバー・××」など、第二次大戦の時と全く同じプロパガンダの手法が使われた。やがて、英仏に巨額の戦費を貸したウォール街の銀行家たちも、政府にアメリカの参戦を求める圧力をかけるようになり、1917年、遂にアメリカはドイツに宣戦布告する。
 戦争そのものは、陰惨で地味な塹壕戦であり、アメリカ人にとって勝利の感激も薄く、ただ多くの若者たちが死んだだけの不人気な戦争だった。だが、1934年、アメリカで“
Merchants of Death
”というノンフィクション本が出版され、実は多くの軍需産業、金融業者があの戦争で莫大な利潤を得ていたことが社会問題となった。「死の商人」という言葉が広く使われるようになったのは、これが切っ掛けである。
 その“Merchants of Death”が、第三章を丸々使って詳しく説明しているのが、火薬メーカーのデュポンである。デュポン一族は元々、フランス出身だが、アメリカに移住後、南北戦争など数々の戦争を通じて「死の商人」として成功していく過程が描かれている。そして、第一大戦中、デュポンは連合軍が使用した火薬の実に40%を供給し、莫大な利益を上げた。こうした「死の商人」に対する国民の怒りと疑惑の高まりから、アメリカの参戦に軍需産業が関与していたか否かを調査する「
ナイ委員会
」が議会に発足し、デュポンなど多くの「死の商人」たちが公聴会に呼び出された。
「死の商人」デュポン。
 こうした最中の1935年、今度はアメリカ海兵隊の退役少将、
スメドレー・バトラー
が、“
WAR IS A RACKET
”(戦争はペテンだ)という小論を発表する。バトラー将軍はその軍人人生を通じ、中南米、フィリピン、中国、欧州など、アメリカがこれまでしてきた帝国主義戦争のほとんどに参加し、数々の栄誉を受けた伝説的な英雄だったが、自分がアメリカ企業の金儲けの走狗に過ぎなかったことを悟り、退役後、反戦運動家に転じることになる。この本の中で、バトラーは「死の商人」デュポンについてこう言及している。
 例えば我らが友、爆薬メーカーのデュポン。最近、その代表の一人が上院委員会で、「デュポンの爆薬で戦争に勝った」だの、「民主主義のために世界を救った」だのと証言したのを覚えているだろう。第一次大戦で、この会社は何を得たか。(中略)一九一四年から一八年までの第一次大戦中、なんと、年間5800万ドルの利潤をあげている。通常の一〇倍近い。通常でさえ、かなり良い利益を得ていたのに、それが950%以上も増えたのだ。
 「死の商人」は、新聞経営にも大きな影響を持っている。多くのローカル新聞社を所有し、大手メディアでさえ広告費の名目で報道をコントロールすることができた。報道機関が「死の商人」や国家の戦争宣伝に使われる実態をバトラーはこう語っている。
 大戦では、われわれは若者たちが徴兵に応じるよう、プロパガンダを使った。入隊しないのは恥だ、と思わせたのである。戦争プロパガンダは醜悪で、利用できるのは神様さえ利用した。ごく少数の例外を除いて、聖職者たちも「殺せ、殺せ。殺せ」という合唱に参加した。ドイツ人を殺せ。神はわれわれの味方だ。ドイツ人が殺されるのは神の意志だ、と。ドイツでも、よき牧師は、神を喜ばせるために敵を殺せ、と人々に説いた。これは、人々の戦意と殺意を高めるための、一般的なプロパガンダだった。
 死ぬために戦場に送られる若者たちのために、すばらしい理想が描かれた。「すべての戦争を終わらせるための戦争」とか、「世界を民主主義にとって安全にするための戦争」とか。彼らが戦場にでかけ、彼らが死ぬことが、莫大な利益を生むことを誰も彼らに言わなかった。彼らは、国内にいる自分たちの兄弟が作った銃弾で倒れるかもしれないのに、それは誰も彼らに告げなかった。彼らの乗った船は、米国の特許を得て建造された潜水艦によって撃沈されるかもしれないのに、誰もそれを言わなかった。彼らが言われたのは、「すばらしい冒険」になるということだけだった。
 巨利を求める「死の商人」がアメリカを戦争に引きずり込むカラクリに気づいてしまったバトラー将軍は、来るべき日米戦争も予見していた。真珠湾攻撃の約6年前である。
 1904年の日露戦争で、我々は旧友ロシアを見捨て、日本を支持した。当時、極めて寛容な米国の銀行家たちが日本を財政的に支援した。ところが、今は、反日感情をかきたてようという方向に向かっている��(中略)  対中貿易を救うため、あるいはフィリピンへの民間投資を守るため、我々は反日感情を煽られ、日米戦争をけしかけられる。何千億ドルかかるか、何万人もの米国人が命を失い、何万人もの人が身体に障害をきたすか精神のバランスを失うかも知れないのに。
 もちろん、この損失と引き換えに、メリットもあるだろう。何百万ドル、何億万ドルもの利益が入るだろう。ごく少数の人々にだけ。兵器メーカー、銀行家、造船業者、製造業者、精肉業者、投機家。彼らは大もうけできる。彼らは、次の戦争を待ち焦がれている。当然だろう。戦争はいい商売になるのだから。
 しかし、殺される男たちは何を得るのか。彼らの母親や家族、妻や恋人たちは、どんなメリットがあるだろうか。彼らの子どもたちは?
 戦争で大儲けするごく少数の人々以外に、誰が儲かるだろうか。
 幸か不幸か、バトラー将軍は、真珠湾攻撃の前年にガンで亡くなった。
NHKスペシャルが絶対に扱わないテーマ。 元下院議員ハミルトン・フィッシュのルーズベルト告発。ルーズベルトの政権にはソ連のスパイが多数おり、息子は軍需産業デュポンの娘と政略結婚した。ルーズベルトが戦争を欲した理由が知りたい。https://www.youtube.com/watch?v=lXwCYpyq_9k …
ルーズベルト大統領の息子がデュポン家の娘と結婚した話は知らなかった。デュポンは火薬メーカーから発展し、南北戦争、世界大戦で巨利を得た死の商人。原���開発にも関わっている。だが、娘は後に離婚。自殺している。 pic.twitter.com/mG8WDdKXMX
1937年、デュポン一族の令嬢エセル・デュポンが、時の大統領・ルーズベルトの四男と結婚する。戦争に利潤を求める「死の商人」と、ユダヤ系で容共・反ナチスのルーズベルトは、同床異夢の関係だった。真珠湾攻撃後、デュポンは原爆を開発するマンハッタン計画に参加する。「死の商人」として国民の恨みを買うことを恐れたデュポンは、実費を除いた利益を僅か1ドルとする契約をアメリカ政府と結び、「愛国者」をアピールする。戦後、ソ連との協調路線が破綻し、冷戦が勃発すると、デュポンは共産主義を敵とする冷戦の中に新たな商機を見出していくことになる。
デュポン家とルーズベルト家とマンハッタン計画。
原爆開発マンハッタン・プロジェクトに参加した「死の商人」たち
 第二次大戦後は第一大戦後と違って、「死の商人」への批判はあまり発生しなかった。敵が無条件降伏するまで徹底的に破壊し、戦後、敗戦国の「戦争犯罪人」を断罪する法廷ショーを強行することで、完全勝利のカタルシスを国民に与えたからであろう。アメリカ以外の全ての工業先進国が戦争で破壊されたことにより、戦後、アメリカのGDPは世界の半分以上を占めるに至り、経済的メリットも計り知れないものがあった。「正義」の戦争に勝った栄光と、経済的成功の両方を得ることができた戦争だった。普通なら戦争に反対する左翼リベラルも、共産主義国と組んでナチスと戦った戦争を「正義」と見なした。かくして、第二次大戦はアメリカで「良い戦争」(
The Good War
)と呼ばれるようになる。多くの米兵が死傷したが、家族を失った者も、障害を負った者も、「正義」の戦争に参加したことを誇りに思い、正義の戦争の熱心な信奉者となった。世界大戦で巨利を得た「死の商人」を恨む者はほとんどなく、バトラー将軍の反戦主張や「死の商人」批判は、ほとんど忘れ去られてしまった。ただ、彼の名前のみ、沖縄の米軍基地の名称として残っている(
キャンプ・バトラー
)。反戦活動家が、危惧していた日米戦争の「報酬」として得た軍事基地に名前を残すとは、何という歴史の皮肉だろうか。  戦後間もない1948年、有名な歴史家、
チャールズ・A・ビーアド
の“President Roosevelt and the Coming of War”(邦題:
ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか〕
)が出版され、ルーズベルトが日本を石油禁輸で追い詰めて戦争に追い込んだ事実が暴露されたが、戦勝気分に沸くアメリカでは、激しい反発を受け、不買運動にまで発展した。  その後、ルーズベルトの「良い戦争」は、敗戦国の「戦争犯罪」を糾弾する「被害者」によって絶対正義にまで昇華されることになる。戦争中、敵を悪魔化するために使われたプロパガンダは絶対不可侵の史実となり、ユダヤ人強制収容所における蛮行の呼び名には、「
ホロコースト
」というテレビドラマの題名が、南京大虐殺には、「レイプ・オブ・ナンキン」という小説まがいの本の題名が使われるようになった。これらを否定する者には、問答無用に「歴史修正主義者」のレッテルが貼られ、異論を許さない完全な思想統制が世界中で敷かれつつある。
 アメリカは東京大空襲や原爆投下など、民間人の無差別大量虐殺を犯したが、こうした戦勝国の戦争犯罪を免罪とする魔法の論理として「南京大虐殺」は機能している。プロパガンダで敵の残虐行為を喧伝すれば(大概は、虐殺かレイプ)、原爆を投下しようがジェノサイドをやろうが正当化できてしまう、そんな悪しき前例が「南京大虐殺」。戦争に反対する日本の平和主義者ほど、「南京大虐殺」の信者になるもの(バトラー将軍「戦争はペテンだ」の
和訳
をネットで掲載している
左翼活動家
も然り)。彼らは、軍産複合体を批判するくせに、「死の商人」が第二次大戦で果たした役割やプロパガンダについて全く無頓着で、「日本が先に悪いことをしたから、罰が当たった」というような単純な因果応報史観に陥って、せっせと日本軍の粗捜しをしては「虐殺の証拠だぁ」と喧伝する。アメリカはそんな邪悪な日本に罰を下す神なのか? 世界大戦でボロ儲けしたアメリカの「死の商人」にとっては、正に「
役に立つ馬鹿
」( useful idiot)といったところだろう。  第二次世界大戦は、アメリカに勝利のカタルシスと経済的メリットと世界のリーダとしてステイタスを与えたが、ルーズベルトが思い描いた当初の目論見は完全に崩れてしまった。ルーズベルトは、戦後の世界を米英ソ中で支配する「四人の警察官構想」を持っていたが、彼の死後、ソ連との関係は急速に悪化し、中国の共産化により中国利権を全て失い、挙句の果てに朝鮮戦争が勃発する。ソ連がスパイを使って原爆の情報をアメリカから盗んでしまったため、朝鮮戦争は勝利なき限定戦争に陥り、アメリカ史上最も不人気な戦争になってしまった。あれほど経済援助してきた中国と戦争する羽目になったことで、アジアを中国に任せるプランはご破算になり、結局、日本を反共のパートナーとして中国と対峙せざるを得なくなる。中国の覇権を巡って争った日米戦争はいったい何だったのか。
 戦勝国や「死の商人」が敵国を貶めるために広めた戦時プロパガンダが、不公正な戦犯裁判によって権威づけられ、それを自称被害者国が悪用し、敗戦国の左翼によって根強く支持されているのが、戦勝国史観の実態である。戦争は国益と国益がぶつかりあいにすぎず、「死の商人」にとっては大きなビジネスチャンスでもある。正義や悪などは、無知な国民を戦争に駆り出し、人殺しをさせるためのマヤカシに過ぎないのに、そんな嘘の歴史観にいつまでも捕らわれ続けるのは人類の不幸と言えよう。未だに多くのアメリカ人が第二次大戦を絶対正義の「良い戦争」だと信じ、「夢よもう一度」とばかりに、「良い戦争」の再現を追い求め続け、そして失敗を繰り返す。結果、酷い目にあうのは、軍に志願する無知で貧乏なアメリカの若者たちである。「正義」の存在を信じる者は、嘘や綺麗ごとに騙されやすく、プロパガンダの格好の餌食になる。戦争をなくしたければ、まず、「良い戦争」の「正義」を疑ってみることが必要であろう。
初稿:2018年1月30日
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yaasita · 3 years ago
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現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか(前編) 「行旅死亡人」のミステリーを追う 2022/2/20 10:00 (JST)2/20 21:28 (JST)updated© 株式会社全国新聞ネット
タグ 47リポーターズ 社会 広島県 特集ページを見る 地域再生大賞 📷 全国の地方新聞46紙と共同通信社が、地域モデルとなる活動団体を表彰しています
📷 2020年4月、ある高齢女性が、兵庫県尼崎市のアパートでひっそりと独りで亡くなった。女性の身元が分かる遺品はなかったが、自宅の金庫には現金約3400万円が残されていた。この所持金の額は、身元不明の死者を指す「行旅死亡人」の中でも10年間で断��ツのトップ。いったいこの女性はどんな人物だったのか。限られた手掛かりを頼りにミステリーを追いかけた。(共同通信=武田惇志、伊藤亜衣)▽「不思議な事件なんです」と相続財産管理人残されたアルバムにあった1枚。ほほ笑む女性 📷 昨年6月、ある官報の行旅死亡人の記事に目がとまった。「本籍・住所・氏名不明、年齢75歳ぐらい、女性、身長約133cm、中肉、右手指全て欠損、現金34,821,350円」。2020年4月26日午前9時5分ごろ、尼崎市のアパートの一室で女性の遺体は見つかった、とある。行旅死亡人は、病気や自殺などで亡くなり、名前や住所などが判明せず遺体の引き取り手がない人のことだ。遺体が発見されると、まず警察が死因や身元を調査する。事件性がなく、遺体を引き取る人がいなければ、「行旅病人および行旅死亡人取扱法」に基づき、発見された市区町村が遺体を火葬・埋葬し、遺品を管理する。その後、官報に遺体発見の日時や場所、推定年齢、身体的特徴、所持品などを掲載し、引き取り手を待つ。女性は2010年から官報の死亡記事をインターネット上に転載している「行旅死亡人データベース」で、所持金部門のランキングで1位だった。官報に掲載された「行旅死亡人」の情報 📷 尼崎市に問い合わせると、家庭裁判所の選任で遺産を管理する相続財産管理人の太田吉彦弁護士と連絡を取ることができた。「弁護士を22年やっていますが、かなり不思議な事件なんです。報道の力もお借りできるなら…」。太田弁護士は開口一番、電話口で切り出した。太田弁護士によると、女性は「田中千津子」と名乗り、1982年3月からアパートに住み続けていたが、住民票がなく、保険証や病院の診察券、親族からの手紙や電話帳なども見つからなかった。多額の現金は通帳や貴金属と一緒にダイヤル式金庫の中に収められ、遺体発見時に臨場した警察官により発見された、という。女性が遺体で見つかった当時の室内 右下は現金が入っていた金庫 📷 部屋からは「田中千津子」名義の年金手帳も見つかり、1945年9月生まれとあったことから、死亡時は75歳と推定された。死体検案書によると、死亡したのは2020年4月上旬で、死因はくも膜下出血だった。残されていた労災の書類から、94年4月、当時働いていた尼崎市内の製缶工場で、事故によって右手指を全てなくしたことが分かった。労災年金の給付が決まったが、後に自ら給付を断ったとみられ、97年ごろに打ち切られていた。住民票も95年、理由は不明だが市の職権で削除されていた。自宅に固定電話はあるが、電話をかけた履歴もなく基本料金を支払い続けている状態だった。遺品には、スナップ写真が入ったアルバムのほか、通帳、印鑑、セイコーの腕時計、米1セント硬貨1枚、京都・八坂神社のキーホルダーなどがある程度。部屋は施錠されていたが、不思議なことに鍵は見つかっていない。レシート類はなぜか近年のものはなく、80~90年代のものが数枚あるだけで、身元の特定につながるものはなかった。また、ポリ袋に包まれた韓国の千ウォン札1枚と、内側に謎の数字が羅列された星形のペンダントが見つかり、身元を調べた関係者の間では「北朝鮮の工作員絡みではないか?」といううわさも立ったという。遺品のペンダント 📷 結局、警察が調べても身元が判明せず、女性は市によって火葬された。民法の規定では、身元が判明せず一定期間を経ても相続人が確定できなければ、遺産は国庫に帰属することになっている。「今回は遺産が多額であり、もし国庫帰属後に相続人が出てきたら取り返しがつかない」として、太田弁護士は昨年3月、異例ながら探偵・調査会社に委託し、改めて身元調査を行うことにした。探偵は近所を中心に聞き込みなどをしたが、女性を知る人は見つからなかった。太田弁護士は「何らかの手がかりが多少は残されているのが普通。今回は積極的に身元を隠そうとしていたのかもしれない」と推察した。▽「田中〇〇」という名で賃貸契約関心を抱いた私たちはまず現場に足を運んだ。女性が遺体で見つかったアパート 📷 女性が40年近く住んでいた3階建てのアパートはJR尼崎駅から直線約1キロの住宅街にある。近くには商店街があり、昔ながらの個人商店や銭湯などが立ち並ぶ。大手家電量販店や商業施設、新しい高層マンションに囲まれた尼崎駅周辺とは対照的だ。アパートは1階が大家の自宅で、2、3階に計4室の部屋があり、現在は他に男性1人が住んでいる。2020年4月26日、この男性が千津子さんの郵便受けに家賃の請求書が入ったままであることを不審に思い、連絡を受けた不動産会社が警察署に通報。女性は玄関先で左側を下にして横になった状態で倒れていた。大家が顔を確認して部屋の住人であることが確定した。女性が住んでいた部屋。女性が倒れていた 📷 部屋の壁に掛けられた警報アラームは電源が入ったままで、部屋の窓に内側から棒が挟まれ、開かないようになっていたという。大家の許可を得て、女性が住んでいた2階の部屋に入ることができた。家具などはすでに片付けられていて生活感はなく、玄関扉の横に貼られた粘着テープと木製の郵便受けに書かれた「田中」という小さな文字が残されていた。呼び鈴と粘着テープの「田中」の文字 📷 玄関扉を開けると狭い玄関があり、すぐ横には小さな手洗い場が備え付けられていた。台所と奥に4畳半の和室、トイレがあるだけの質素な部屋だった。玄関扉の内側にはチェーンが2つ付いていたが、救急隊が部屋に入る際に壊したという。チェーンは自ら施したとみられる。大家の宮城ヒナさん(93)に話を伺うと、女性は月3万1500円の家賃を毎月欠かさず持って来ていたという。「そのやり���りで会うだけやったけど、上品でおとなしい方やったな」。女性はいつも腕を組んでいた印象で、宮城さんは女性に右手指がないことも知らなかった。アパートの賃貸借契約書は1982年3月に「田中〇〇」という男性名で契約されていた。勤務先を大阪市西淀川区の「富士化学紙工業」(現フジコピアン)とし、電話番号も付していた。太田弁護士によると、兵庫県警が同社に田中〇〇さんの勤務歴を照会したが、該当がなかったという。フェイスブックで同時期に働いていた元社員の男性を見つけ、名前と写真を見せて確認してもらったが、該当する同僚はいないとし、付された電話番号も当時の代表電話で電話帳にも載っていたもの、と証言した。何らかの事情で勤務していない虚偽の社名を書き込んでいたのだろうか。当時、田中〇〇さんと直接契約を交わした宮城さんの夫はすでに亡くなっており、宮城さんは「男性には一度も会ったことがなく、(女性の)独り暮らしだと思っていた」と話した。▽大事にしていたぬいぐるみ女性が遺体で見つかった当時の室内。大切にしていた犬のぬいぐるみも見える 📷 女性の部屋にはアルバムが残されていた。開いてみると、緩くカールした黒い髪が肩まである40代くらいの女性の写真がたくさん入っていた。写真の多くは、背景に写った車や新聞から、1980年代に撮影されたとみられる。女性は白いシャツにジーンズというカジュアルな日もあれば、首にファーを巻きロングコートで赤い口紅を塗った華やかな服装の日もあった。「晩年はだいぶ痩せていたが、田中さんの面影はある」と宮城さんは言う。眼鏡姿の中年男性が写った写真も多くあったが、そちらについては「見たことがない」と首を振る。アルバムには女性が白い乗用車にもたれかかった写真も収められていた。車は三菱自動車の「ギャランGTO―M2」。愛好家という男性に連絡すると、1970~71年に約1万6千台生産され、当時、若者から熱狂的人気を集めていたと教えてくれた。「購入できたのは30~40代のお金に余裕のあるおしゃれな独身者で、家族持ちは買わない」アルバムに残されていた男女の写真 📷 写真の男女はいつも同じペアで、多田神社(兵庫県川西市)や八坂神社、知恩院(京都市)など神社仏閣を2人でよく訪れていたようだ。女性が尼崎市のアパートで犬のぬいぐるみを着せ替えて遊ぶ姿も収められている。女性が亡くなった後、清掃前に撮影された自宅の写真を見ると、部屋にはベビーベッドが置かれ、その上にこの犬のぬいぐるみがあった。サン・アロー社(東京)が82年に販売を開始した「サンディ」という名で、40年近くも大切にしていたことがうかがえた。アルバムの写真はみな色あせ、最近のものとみられる写真は1枚もなかった。最も新しいとみられるのは、富山県南砺市の大牧温泉観光旅館で撮影された男性の写真で、92年7月12日と撮影年月日が唯一、印字されていた。旅館に電話で問い合わせると、当時の宿帳は残っていたものの、関西方面からの宿泊客で「田中」という名は見当たらなかった。大家の宮城さんの証言から、写真の女性は亡くなった田中千津子さんと推定されたが、確証は得られなかった。「このままでは無縁仏。女性が成仏できるように、ご親族が見つかればよいのですが」と太田弁護士はつぶやく。写真=残されていた「沖宗」の印鑑 📷 手がかりは何かないか。これまでの取材結果を整理したところ、突破口になりそうな情報が2つ出てきた。労災事故で入院した際の病院のカルテにあった「『23歳まで広島におり、3人姉妹がいた』と話していた」との記述と、「田中」姓に混じって見つかった「沖宗」姓の印鑑。「女性は広島出身で旧姓が沖宗さんでは?」。私たちは広島方面に取材の足を広げることにした。(つづく)情報提供やご意見は共同通信大阪社会部にお寄せ下さい。メールアドレス:daisha@kyod
onews.jp/ツイッター:@kyodonewsosaka
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kurihara-yumeko · 3 years ago
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【小説】翡翠色のアルド (1/4)
 それが一体なんであるのか、初めはよくわからなかった。
 日光に照らされ銀色に輝く砂漠の果て、地平線の向こうから、何かがこちらへ近付いて来る。
 それは、乳白色の巨大な物体だった。球状の物体がいくつも連なって見えるそれは、刈ったばかりのゴドーシュの毛を高く積み上げているかのようだった。風にそよいでいるように、右に左にゆらゆらと揺れている。
 しかしそれは、決して羊毛などではないのだった。生き物が成長していくかのように、球体を内から外へと排出し続け、どんどん膨張していく。否、膨張しているのではない。こちらへ向かって来ているので、肥大化していくように見えるだけだ。
「ドーロマ、何をしている。さっさとしないか」
 その光景に見入っていた奴隷の少年は、雇い主の男にそう怒鳴られて我に返る。少年は家畜小屋の前でロッシュの毛をブラシで撫でていたが、丘の下、遥か向こうから近付いて来る乳白色の塊を見つめたまま、動けなくなってしまっていた。
 黙って自らの主人を見上げ、地平線の彼方からやって来るそれを指差す。雇い主の男はその先を見やり、途端に青ざめた。
「おおい、皆、聞いてくれ! パレィドが来るぞ! パレィドが来る!」
 男は口から泡を噴く勢いで叫びながら、慌てて駆け出す。男に雇われていた年端もいかない奴隷少年たちも、その叫びを聞きつけて、手にしていた仕事道具をすべて放り出し、一目散に駆けて行く。
 しかし、ロッシュをブラッシングしていた少年だけは、その場を動こうとしなかった。ただじっと、乳白色の塊が街へと近付いて来るのを見つめていた。
 彼はそれがなんなのかを知っていた。そして恐らく、この小さなビルドの街に住む人間は誰ひとり、助かることがないだろうということも。
「コンタット、お前はお逃げ。やつらは人間以外の動物には優しい。お前はきっと、助かるから」
 ロッシュにそう話しかけながら、繋いでいた縄をほどき、その尻を軽く叩いてやった。
 ロッシュという生き物は、図体が大きく、常に前歯を剥き出している顔の割に、性格は温厚で礼儀正しく、とても賢い。コンタットと名付けられていた、右耳が少し欠けたそのロッシュは、少年の言葉を器用に聞き分けた。まるで、今まで世話をしてくれた彼に礼を述べているかのように、���々とこうべを下げた後、軽やかに駆け出して丘を下って行った。
 少年はコンタットを見送ってから、踵を返して家畜小屋の中へと戻り、残っていたロッシュを同様にすべて放してやった。ロッシュたちは一頭たりとも不安そうな素振りをすることなく、自分が放たれる時をずっと待っていたのだとでも言うように、少年に挨拶をして出て行った。
 最後の一頭を外へ送り出し、後を追うように少年が家畜小屋を出た時、近付いて来るそれは、もうただの乳白色の塊ではなくなっていた。
 羊毛が寄せ集まったように見えていたのは、ただ舞い上がる土埃にすぎず、その土埃の向こうから、迫り来るそれがついに正体を現した。
 砂煙を巻き上げ、低い地響きを立ててこちらへ向かって来るそれは、森林だった。
 青々とした葉を茂らせた、数千本、数万本という樹木が、鞭打つように根を叩きつけ、宙を泳ぐかのように枝を振るって、この街に向かって行進してきていた。
 それは行進(パレィド)と呼べるほど、可愛らしいものではない。地は叩かれ抉れ、根が絡め取った土は宙高く放り投げられ、向かう先に何があろうとお構いなしだ。街のひとつや、ふたつ、あの樹木たちはなんの障害とも思わない。
 あれが来たら、もう終わりだ。逃げ出してももう遅い。人間の足では、到底逃げ切れるような速さではない。馬に乗っても不可能だ。触手のような細く長い枝に絡み付かれて馬から振り落とされ、巨大な刺々しい根で踏み潰されて圧死する。街じゅうの土が掘り返され、今まで地上にあったものはすべて、地中深くに埋められてしまうだろう。
 少年は家畜小屋の中へと戻った。床板に取り付けられた地下室への扉を開け、そこに敷き詰めてあった、家畜の餌である乾燥したフィレーオの中に潜り込んだ。
 地響きはどんどん大きくなる。猛烈な速さで森林が接近しているのがわかる。耳を塞いでも耐え切れないほどその音が近付いた後、大きな衝撃と共に、家畜小屋が崩れた轟音が響いた。
 頭上には、地下室の屋根をぶち破った、屈強で巨大な何本もの根が見えた。その根は何かを探しているかのように宙を泳いでいる。
 樹木が探しているのは人間だ。木々は人間を襲うためにどこからかやって来る。少年の両足は倒壊した瓦礫の下敷きとなっていたが、かろうじて上半身は無事であった。彼は両眼をしっかりと開けて、辺りを見回していた。そうすることが、助かる唯一の方法であることを知っていた。
 根は地下室の中を覗き込むように伸びてきて、少年の鼻先までは勢いよく向かって来るが、彼の皮膚に触れるか触れないかのうちに、急に動きを変えて引っ込んでいく。少年の華奢な身体に絡み付いて投げ飛ばしてやろうか、あるいは首を絞めて窒息させてやろうかという勢いにも関わらず、目がないはずの樹木たちは、彼の翡翠色をした瞳に気が付くと、そそくさと通り過ぎて行く。彼はただ、瞬きするのも必死にこらえて、瓦礫の下で目を見開くことに集中していた。
 どれくらいの時間が経過したのだろうか。それはごく短い間のようでもあり、少年にとっては永遠のようにも感じられた。やがて根が向かって来なくなり、轟音のようだった地響きもいつの間にか聞こえなくなっていた。
 樹木たちは過ぎ去ったのだ。
 そう気付いて、少年はやっと一息つくことができた。
 辺りには、むせ返るほどの甘い匂いが満ちていた。森林に襲撃された後は、いつもこうだ。この甘い匂いには一種の麻薬にも似た効用がある。人間の身体を麻痺させ、思考を停止させる。少年はこの匂いへの耐性が多少あったものの、それでも突如として襲い来る眠気と全身の倦怠感には抗うことができなかった。
 なんにせよ、瓦礫に足を封じられ、動くこともままならない。先のことは、後で考えればいいじゃないか。最大の危機は去った。あの森林の襲撃から、生き延びたのだから。そう思って、少年はまぶたを閉じる。
 外の様子を見ることは叶わないが、もう街は跡形も残っていないのかもしれなかった。共に泥にまみれて過ごした奴隷仲間たちも、あの憎い主人も、皆死んでしまったに違いない。井戸で水汲みをしていたフィーデというあの金髪の少女も、もう生きてはいないだろう。それが少しばかり残念だった。少年は、その少女のことを慕っていた。
 だが仕方がない。襲撃してくる樹木たちに、抗う術などないのだ。人間の力では、かなうことなどない存在、それが自然なのだから。
 彼はまぶたを閉じたまま、深い眠りの中へと落ちて行った。
    目が覚めた時、少年がいたのは薄暗いホロンバの中であった。三本の脚と一枚の布だけの、狭く質素な簡易的住居の天井を、彼はぼんやりと見上げていた。
 身体を起こすと、めまいと頭痛が襲った。まだ、あの甘い匂いの効能が残っているようだ。
 どうして自分はこんなところで眠っているのか。あれからどれくらいの間、眠っていたのだろうか。
 外の様子を見ようと立ち上がろうとしたが、両足はひどく痛んで言うことを聞かない。家畜小屋の瓦礫の下敷きになっていた彼の足には、包帯が巻かれていた。誰かが手当てをしてくれたようだ。少年は、這うようにしてホロンバを出た。
 外はホロンバ内と同様に薄暗く、空は夕焼けも終わりかけていた。空の色から察するに、地平線の向こうに夕陽が沈んだばかりのようだ。
 ホロンバが組み立てられていたのは、大きな大理石の上だった。その石に見覚えがあった。この街の銀行の、外壁に用いられていた石材だ。
 少年は銀行というところがどんな場所なのかは知らなかったが、雇い主の男が日頃纏っている旅装束ではなく、大陸式の礼服を着てこの建物へ入って行くところを何度も見ていた。奴隷少年たちはいつもロッシュの手綱を握ったまま、門の外で数時間、主人の帰りを待たされていた。その建物の一部であった石が今、自分の身体の下にある。
 見渡せば、辺り一面の土は掘り返され、抉られ、家々や街並みの残骸が突き刺さり、折れ重なり、あるいは転がっていた。その合間に、人間の引き千切られた手足や潰された頭部、零れ落ちた内臓などが散乱している。どれが誰だか、見分けはつかない。知人の遺体を見つけるのはひどく困難だろうと少年は思った。そもそも、ここには行方不明者を捜索する人間さえ、残っていないのだ。生きている人間の姿は、どこにも見当たらない。
 だとすれば、少年を瓦礫の下から救い出し、手当をし、このホロンバを組み立てて寝かせておいてくれたのは、一体誰だというのだろう。王都からやって来る調査団の連中であれば、ホロンバの布地に王都の紋章が刺繍されているはずであったが、彼が眠っていたホロンバには、それらしきものはない。黒と青の糸で編みこまれたその布は、東の方に住む部族固有の編み方だということはかろうじてわかるものの、それ以上のことはわからなかった。
 少年は困惑したまま、しばらくその場でじっとしていると、突然、微かな甘い匂いと共に、声をかけられた。
「気が付いたか」
 振り返ると、ホロンバの後方に、一本の木が立っていた。街を襲撃した森林とは、違う種類の樹木だ。微かに香る甘い匂いは、その木から発せられていた。そして、その木の一番太い枝には、ひとりの男が悠々と腰掛けていた。
 それはなんとも言えない、ひどく気味の悪い男だった。
 白いガーラで作られたシャツとスボンを身に纏っていたが、この辺りでは風変りな衣服であった。布地には部族や出身地を示す文様や織り目、染めた跡もない。履物がより一層奇妙で、足の裏に薄い板を一枚あてがい、紐で足の甲に括りつけているだけのような、簡素なものだった。
 しかし、その男の気味悪さは、衣装の問題ではなかった。
 男の白い肌はところどころ緑色に変色し、よく見れば藻や苔が生えている。頭からは緑色をした頭髪に混じって草の蔓のようなものが見え隠れし、何よりも驚くべきは、その左眼だった。目玉はとうに失われてしまったのか、眼孔がぽっかりと暗い穴を空けており、その奥には草が茂っていた。細く長い葉が睫毛よりも長く伸び、頬まで垂れている。少年は思わずぎょっとしたが、その時、この男の残された右眼が、自分と同じ翡翠色をしていることに気が付いた。
「あなたは……」
 少年が言葉を捻り出そうとすると、植物男は笑って首を横に振った。
「ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ」
 少年は彼が何を言ったのか、最初は理解できなかった。独特な抑揚で発せられたその言葉が、この男の名前なのだと気付いたのは、彼が、
「呼ぶ時はフォルでいい。長い名前だから」
 と、続けて口にしたからだった。
 植物男が枝を軽く二、三回叩くと、木はまるで男の意思を汲み取ったかのように、枝をゆっくりと地面に向けて下ろした。男はひらりと砂地に舞い降りる。
「ガイーダを呼び戻して来てくれないか。この子に何か、食べ物をやらないと」
 植物男がそう言うと、木は根を揺��して歩き出した。今はただの荒野と化した街を悠々と進み、かつて家畜小屋があった丘へと登って行った。
「……あなたは、木と対話ができるのですか」
 少年が信じられないままそう尋ねると、男は笑ったまま頷いた。
「木は人間を襲うが、俺のことは襲わない。俺が人間に見えないのだろうな」
 植物男は少年へと歩み寄って来た。少年はろくに身動きをすることもできない。男の姿は恐ろしく見えたが、這うことしかできない今の彼では、逃げ出すこともままならない。咄嗟に、懐の短刀へと手を伸ばした。
 男は、人に恐れられることに慣れているのか、少年の表情を見ても、嫌な顔ひとつしなかった。近付きはしたものの、あるところまで来ると足を止め、それ以上は近付いて来なかった。
「褐色の肌、翡翠色の瞳、額の刺青……。きみは、アマゾネスに住む部族の出身だね」
 植物男は少年の容姿を見て、そう言った。
「アマゾネスは、樹木の神エマヌールが初めて地上に下り立った場所と言われている。翡翠色の瞳を持つその部族は、植物と心を通わせ、決して森と争うことはしない、と。もうとっくにアマゾネスの住民は滅んだんだと思っていたが、きみはその生き残りだったという訳だ」
 少年は、男が口にしたことを肯定も否定もしなかった。しかしそれは恐らく、すべて正しいことだった。
 自分が樹木たちに殺されないことを知っていた。たとえ、この街が全滅するとしても、自分だけは生き残ることをわかっていた。
「翡翠色の瞳を持つ者に、木は特別優しい。森林が人間を襲うために出す毒も、きみを死に追いやるほどには効いていないようだったし。普通は、あの匂いを嗅いだだけで精神に異常をきたすと言われているのに」
「……あなたは、一体、何者ですか。どうしてそんな姿で、どうして木と意思が通じ、なぜ、こんなところにいるのですか」
 少年はそう問いかけたが、男はまた笑っただけだった。
「質問ばかりだな。まぁいいさ、とりあえずホロンバの中へ戻ろう。何か食べられそうな物を作る。それを食べ���らまた眠れ。きみはそれでも、森の毒にやられて、三日も眠っていたんだ。また目が覚めたら、その質問に答えよう」
    少年は、植物男の言葉に従った。
 ホロンバに戻ってすぐ、ガイーダと名付けられた、大きな樹木が近付いて来て、男はその洞に溜まった水を汲み、枝に絡めてあった荷物袋の中から固形食糧を取り出した。ホロンバの外で薪をくべて火を起こし、鍋で湯を沸かし、男はその固形食糧を鍋へと放り込んだ。ぐつぐつと煮え立つ鍋からは、嗅いだことのない食べ物の匂いがした。少年の身体はその匂いに、食べ物を求めて腹を鳴らした。植物男は鍋の中のできあがった汁物を椀に盛り、少年へと差し出した。
 少年はそれを平らげた。雑炊に似た食べ物であることはわかったが、料理の名を訊くことも忘れ、彼は食べ終えると再び横になり、そのまま眠ってしまった。
 再び目が覚めると、少年は昨日と同様に、這ってホロンバの外に出た。外は眩しいほどに明るかった。今は昼のようだ。
 ホロンバのすぐ近くに、また木が立っていた。植物男が腰かけていた方の木だ。確か、あの男はこの木を「シンバ」と呼んでいた。ガイーダよりもずっと小柄な、若い樹木。青々とした葉を茂らせてはいるものの、まだ未熟な木だとわかる。
 今は、その枝の上に植物男の姿はない。少年は瓦礫の上を這うようにして、その木に近付いた。
 樹木をこうして間近で見たのは、否、人間を襲ってこない植物を見たのは、生まれて初めてかもしれなかった。
 少年は、迫害の手を逃れるため、故郷の集落から父と母、そして妹と共に脱し、「大陸最後の秘境」と呼ばれた、シャン・アマネス・ガンジードへとやって来た。
 少年の両親は、血の繋がった肉親ではなかった。実の親は大陸から来た人間たちに殺され、彼とその妹は、まだ物心もつかないうちに育ての親に引き取られ、身を隠すように生活をした。しかしその育ての親もまた、大陸人に捕らえられ、奴隷として扱われていた。少年も奴隷として育った。彼が物心ついた時には、故郷はすでに、植物と人間が共存することができない「不毛の地」であった。
 ガンジードで出会った奴隷商人に騙され、家族は離散した。父は殺され、母は大勢の男たちに組み敷かれ乱暴された後、やはり殺された。いずれも、少年と妹の目の前で起こった。だけれども、彼はその時のことをよく覚えていない。七歳の時だった。幼い妹の泣き顔と、母の悲鳴だけを覚えている。両親の遺体が、その後どうなったのかもわからない。妹は五歳にして娼館へ売られ、少年は奴隷市へと出品された。
 奴隷市へと向かう大きな幌馬車の中には、同じように各地の小大陸から集められた、奴隷の子供たちが大勢乗せられていた。少年は窮屈なその馬車の中、大人しくじっとしていた。不思議と、悲しい気持ちも苦しい気持ちもなかった。彼は何も感じなかった。弱い者は、強い者に殺されていく。そのことを、幼い頃から知っていた。
 奴隷市で旅商人の男に買われた少年は、それから、その主人についていろんな国を旅して回った。大陸の国に滞在することもあれば、船で海を渡り、島国を巡ることもあった。主人が売っているのは主に野菜であった。植物と共生する道を捨てざるを得なかった人間たちは、王都の地下に巨大な工場を建設し、作物をそこで栽培するようになっていた。大陸で栽培された野菜を加工し、乾燥させ、大陸から遠く離れた小国に高値で売りつける、それが雇い主の生業であった。
 少年の主人は金持ちであった。ロッシュを十数頭連れて歩き、どの地方に滞在しても、最も高い宿に泊まった。少年の他にも雇われている奴隷少年が数人いた。そして毎晩、少年たちの中からひとりずつ、主人の夜の相手をする者が選ばれた。男色家で、十八歳に満たない少年ばかりを好む主人だった。
 大陸人の少年に手を出せば罪になると知っているからか、それともただの性癖か、主人は地方の部族出身の少年ばかりを愛で、奴隷市で見つける度に買って手元に置いた。少年の奴隷仲間は皆、肌も、目も、髪の色も違った。話す言語もさまざまで、大陸の言語が通じない仲間も珍しくなかった。幼い頃から大陸人の下で仕事をしてきた少年は、彼らの通訳係となってやることもあった。
 少年は仲間との交流を通じて、各地の独特な文化を学んだ。衣服や持ち物ひとつとっても、布の織り方や染め方、文様の入れ方まで、出身国によって異なるのだということも知った。たどたどしい大陸語でお互いの故郷の文化や習慣を教え合うのが、彼らの少ない楽しみのひとつであった。
 雇い主の趣味は一貫しており、十八歳を迎えた奴隷少年は、再び奴隷市へと戻された。少年は、まだ十七歳。あと一年、あの男の下で働くはずだった。
 それも、パレィドによって打ち砕かれた未来となった。少年はそれを、悲観してはいない。喜んでもいない。ただの事実が目の前にある。荒れ果てた街、壊された家畜小屋、死んだであろう仲間や雇い主。それだけだ。自分が生き残ったのは、ただ、この翡翠色の瞳を持って生まれたためにすぎない。
 少年は、そっと手を伸ばしてシンバの太い根に触れた。地を蹴って進むための根であり、地を砕き、水を吸い上げるための根でもあり、街を破壊し、人間を殺すための根でもある。彼が触れても、木は嫌がる素振りを見せなかった。少しも動くことなく、じっとしている。硬い樹皮に覆われた根は、何も感じさせない。冷たくもなければ、温かくもない。
「……お前たちは、どうして街を襲うんだ?」
 少年はそう問いかける。
 アマゾネスの人間は、翡翠色の瞳を持つ人間は、植物と心を通わせることができる。昨日、あの男はそう言っていた。少年は木と対話したことなどない。だけれども、もしも自分にそんな力があるのだとしたら。彼はシンバの大きく張り出した枝をまっすぐ見上げ、再度尋ねる。
「どうしてお前たちは、人間を殺す?」
 ざわ、と音がした。
 風もないのに、シンバの枝が大きく揺れた。葉と葉が合わさって、音を立てる。そのひとつひとつは微量にすぎないが、合わさり大きな音の渦となり、まるで少年に迫り来るかのように空気を震わせる。
 答えたのだ、と少年は思った。この木は、彼の問いかけに答えた。少年がそれを聞き取ることはできないが、しかし自分は今、木と対話をした。彼は思わず、唾を飲み込んだ。さっきよりも指先に力を入れて、シンバの根に触れる。もう一度、問う。
「あの人は……僕を助けてくれた人は、どこ?」
 シンバの根のうちの一本が、音もなくすっと持ち上がった。まるで人間が指を指すかのように示した根の先に、丘を下ってやって来る、植物と人間が入り混じったかのような、あの奇妙な男の姿があった。
「ありがとう」
 少年がそう言うと、シンバは黙ったまま根を下ろし、まるで数百年も前からそこに生えているのだとでも言うように、じっと動かなくなった。
   「この街は壊滅だな。何も残っていないし、生存者もいない」
 植物男はそう言ながら、火を起こし、雑炊のような料理を作っていた。今日は自身も食すつもりなのか、昨日の二倍の量が鍋の中で煮えている。
「何か金になりそうな物があったら持って行こうと思っていたんだが、あまり良い結果は望めないだろうな」
 植物男は、今日もガーラでできた奇妙な服を着ていたが、昨日にはしていなかった、ターバンを頭に巻いていた。
 そのターバンは男のホロンバと同じ、黒と青の糸で編み込まれた布地であるが、少年にはそれがなんの糸なのかも、編まれた布地の名前もわからない。金色の糸で鳥の刺繍が入っており、高価に見えるのだが、そんな布地を今まで見たことはなかった。
「あなたは、何者なんですか」
 少年が尋ねると、柄杓で鍋の中をかき回していた植物男は、失くしていない方の眼で少年を見た。その口元は笑っていた。
「人に訊く時は、まず自分からだ。きみの名前��?」
「ジブです」
 少年は答える。それは奴隷となった時に付けられた名前だった。
 名前の長さは、その人の社会的地位を表す。故郷にいた頃から、大陸人には「ジブ」と呼ばれていた。少年を買った雇い主の男は、奴隷少年たちのことを区別することなく全員「ドーロマ」、つまりは「のろま」と呼んでいたが、奴隷仲間たちの間でも、少年は「ジブ」であった。
「長い名前は?」
 だから、植物男がそう尋ねてきた時、少年は答えるのを渋った。本名を人に名乗ったことなど、今までなかったからだ。
「あるんだろう? 本当の名前が」
 まるで見透かしているかのように、翡翠色の瞳が少年を見ていた。少年は観念して答える。奴隷としての身分には場違いすぎるほど、由緒正しい、その名を。
「ジンニアス・シエルノ・ブットーリア・エマヌール・ヘンデリック・ジャン・コンボイット・スティツアーノ・ズッキンガーの、アルデルフィア・シャムネード」
 少年は知っている。この名前が、大陸王シャンデム八十二世の本名よりも長いということを。
 しかし植物男は、その名を耳にしても、顔色ひとつ変えなかった。冗談だろう、と笑うことすらしなかった。
「それは、きみの故郷の言葉でどういう意味なんだ?」
 ただそれだけを、男は尋ねた。少年は答える。
 アマゾネスの国王の息子であったはずの、ジブと呼ばれていた奴隷の少年は答える。
「『最も森に愛された、翡翠の瞳を持つ、知恵のある、勇気を持った、森を統べる者』という意味です」
「良い名前だな。どこを呼べばいい?」
 ジブでいいです、と言おうとして、少年は口をつぐむ。男が求めている答えがそうではないことは、彼の眼を見れば明らかだった。
「父と母、それから妹は、僕のことをアルドと呼びました」
 記憶の底から思い出してそう答えた。植物男は真剣に頷いた。
「アルドか。だが、俺がきみのことを家族と同じように呼ぶのは良くない。親しい者が呼んでくれる愛称というものは、親しい者にだけ呼ばせるものだ。だから俺は、きみのことをアルデルフィアと呼ぼう」
「……それは、あなたの故郷での慣習ですか?」
「いいや。俺は自分の故郷なんて知らない。俺を育ててくれた人の、その故郷での慣習だろうな」
 植物男はそう言って、鍋をかき回す手を止めた。料理が完成したらしかった。
 少年の分と男の分、二杯を盛り付け、匙と椀を差し出してきた。それを受け取りながら、少年が言葉の意味を考えていると、植物男は語り出した。
「俺の名前は、昨日名乗ったな。ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ。呼ぶ時はフォルでいい。俺は自分の生まれ故郷を知らない。どこの人間なのかもわからない。育ててくれたのは、血の繋がらない赤の他人だ。この名前も、育ての親が付けてくれた。『森に棲む人』という意味だそうだ」
「……森に棲む人?」
「そうだ。少し、俺の話をしよう。アルデルフィア、もう四百年以上昔の話だが、草木が地に深く根を下ろし、今のように移動することができなかった、という話を知っているか?」
 少年は頷いた。
 植物というものは、自らの力ではほとんど移動できず、身じろぎひとつしないものだった、という話は、昔、両親から聞いた。パレィドを見てしまった後では、想像もできない話だ。地を抉り進むあやつらが、その昔は動けない生き物だったなんて。
 しかし、大陸の地下、野菜工場で栽培されている植物たちは、今でも動かないのだという。怒りに震えて毒素を出すこともない、と。そして、それは、それが本来の姿なのだ、と。
 植物は元々、動けない生き物だった。動物に葉を食い千切られても、人間に切り倒されても、それに抵抗する術を持たなかった。それが、いつの頃からか、抵抗するようになった。地から根を引き抜いて自在に動き回り、猛毒を吐いて人間を殺す。それまでは、種が落ちて芽が出た場所が、その植物の死ぬまでの住み処であったが、今では水を求めて大陸じゅうを移動する。
 植物は、森は、走るものだ。
 森は常に走っている。木は水を求め、地を掘り起こす。水を充分に吸い��げると、他の木々を連れ立ってまた走り出す。そうやって、常に移動しながら生きている。それが木であり、木の群れが森だ。ときどき、森が人間のいる地域を通り抜ける。それがパレィドだ。人間の住み処を意図的に狙って来るのかはわからない。けれど、人間を見つけた木は凶暴だ。奴隷仲間の中には木のことを、人を殺すため、街を破壊するために存在している怪物だと思っている者も多かった。
「ツンドーラのさらに北、人間の住んでいない、雪と氷に閉ざされた奥地に、まだ動かない植物が生えている地があると言われている。俺を育ててくれた人間は、森の研究をしているんだ。まだこの世界のどこかに、動かない森があるんじゃないかと夢見てる。その研究のために、馬に乗ってもう何年も、森が通った痕跡を追い続けている」
 植物男が語るには、その人はある日、まだ新しい、森が通った痕跡を見つけた。痕跡を追って行くと、まださほど離れていない距離に森がいた。樹木たちはちょうど、地に根を下ろし、休んでいるところだった。
 木々の方が先にその人に気付いた。樹木は人間を見つければ怒り出す。毒素を吐くか、襲いかかって来るか。ところが、その時はどちらでもなかった。森の中から一本の木が、その人の元へと近付いて来た。
 その人は驚き、逃げることも忘れて動けないでいたが、木はついにその人の目の前にまで迫った。毒素はまったく出していなかった。
 その木は、枝を一本突き出した。枝には、蔓が幾重にも折り重なった、奇妙な物がぶら下がっていた。まるで籠のようなその中には、ひとりの人間の赤ん坊が入っていた。
「その赤ん坊が、俺という訳だ」
 髪の毛の一部は植物と化し、柔らかそうな肌には藻が生え、苔生していた。左眼の眼球は腐り、単子葉類の温床になっていた。その不気味な姿をした赤ん坊は、身体の約半分を、植物に寄生され、その毒に侵されながらも、植物によって生かされていた。赤ん坊をその人に託すと、森は静かに去って行った。
「その人は俺を育ててくれた。俺は赤ん坊の頃から、植物の出す毒素が効かず、植物と意思を通わせることができた。だが、自分がどうして森に抱かれていたのか、こんな姿になってまで生き延びたのか、俺はその訳を知らないんだ」
 植物男の左眼から生えている植物が、風もないのにゆらゆらと揺れている。植物自身の意思で動いているのだ。もしくは、男自身の意思で。
 話に聞き入ってしまい、椀を持ったまま動かないでいた少年に、男は「ほら、食え」と促した。少年が匙を口元へ運ぶのを見てから、男も食事を始める。
「俺はあと二、三日、この辺りの瓦礫を掘り起こしてみてから、ここを発つ。きみはどうする、アルデルフィア」
「ここを発って、どこへ行くのですか」
 少年が尋ねると、植物男は匙で西の方角を指した。匙の先をいくら見つめても、ただ荒涼とした砂地が広がるばかりだ。
「この先に、コンディノという街がある。シンバの足でも七日はかかる距離だがな。俺には故郷はないが、一番馴染みのある街だ。育ての親もそこにいる。……知らない間に旅に出てなければ、の話だが」
「僕もそこに、連れて行ってもらえませんか」
「それは構わないが、その後はどうする?」
「奴隷市に出ます」
 少年が大真面目にそう言った言葉に、植物男は左眼の植物をぴくりと動かした。
「きみは、これからも奴隷として生きていくつもりか?」
「僕は物心ついた時から、ずっと奴隷でした」
 この世界で最も長い名を持つ少年は、淡々とした口調でそう言った。決して、自分を卑下している訳でも、自嘲している訳でもなかった。自分は奴隷として育ち、奴隷として生きてきた。そのことだけが、紛れもない事実だった。
 しかし、男は首を横に振った。
「残念だが、コンディノには奴隷市がない。奴隷を雇うという文化がないんだ」
「では――」
 奴隷市がある最寄りの街を教えてくれませんか、と言いかけた少年を遮るように、男は言う。
「もし、コンディノを気に入ったら、そのまま居着くといい。奴隷としてではなく、それ以外の生き方でな。あの街は余所者にも優しいし、身分も階層も気にしない。そして何よりも――」
 男は口元を緩めて言った。
「あの街は、植物と共存できる、人類最後の楽園だ。恐らくはな」
 ※(2/4)へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/660226170376306688/
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kigaku-kaiun119 · 3 years ago
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【7/27王道學を学ぶ経営者勉強会レポート】 昨日7/27(火)帝王気学を始めとする王道學を学ぶ経営者勉強会に参加しました。昼前に創業140年を誇るすき焼きの老舗「今朝(いまあさ)」新橋本店でランチを堪能し情報交換。その後有志を募り、事業繁栄させ存続する老舗の理念を学ぶ為銀座&日本橋三越を探訪した。 ■「開運」「出世」「延命」「商売繁盛」銀座出世地蔵尊と三囲(みめぐり)神社 明治の初め頃に三十三間堀川の工事中に地中から発見されてから銀座三越9階屋上の銀座テラスに祀られたという「地中から地上に出世した地蔵尊」ということから名前が付いた「銀座出世地蔵尊」。三越の創業者三井家の守護社である「三囲(みめぐり)神社」に参拝。 ■ 銀座出世地蔵尊 三越内に入り、まずはエレベーターで9階にある「憩いと癒し」がテーマの銀座テラスへ。銀座テラスの芝生広場(テラスガーデン)に心が癒される。ガーデンテラスの一角に「銀座出世地蔵尊」と「三囲(みめぐり)神社」が祀られている。「銀座出世地蔵尊」は「開運」「出世」「延命」「商売繁盛」にご利益がある。 ■「三囲(みめぐり)神社」 「三囲神社」は弘法大師の建立と伝えられ守迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。元々小さな祠だった社壇改築の際に、『白狐が、出土した右手に宝珠、左手には稲を持ち白狐にまたがった老爺の神像の周りを3回まわって消えた』という不思議な伝説のある神社。三越の創業者三井家の守護社でご利益は「金運アップ」「商売繁盛」「交通安全」です。三井家の守護社と「ご利益を祈願して成就せざるはなし」と伝えれている地蔵尊が鎮座する最強の力がみなぎる気配。しかし最強のパワースポットが目の前にあるのにもかかわらず「銀座出世地蔵尊」と「三囲神社」に私たち以外お参りする方は少ない様だ。とは言えパワースポットに行くと不思議と空いていて他の人に気を使うことなく写真を撮りお参りをすることが出来るので記念写真をパチリ!続いて陽射しイッパイ夏日の中ではあるが歩いて日本橋三越も探訪した。 ■「国指定重要文化財」 ルネッサンス様式の威容を誇る日本橋三越本店の現在の建物は、昭和10年、6年の歳月を費やし増築改修されたもので、完成当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築。なかでも、採光天井の下にフランス産赤斑大理石とイタリア産卵黄色大理石を張りつめた中央ホールは花園のような美しさ。平成28年7月、本館が国の重要文化財に指定された。待ち合わせの場所として親しまれながら、本館正面玄関でお客様をお迎えする2頭の「ライオン像」。現在ではその気品と店格を象徴して、三越の象徴的存在でもあり、また、東京名物の一つとしても親しまれている。 ■天女(まごころ)の像 本館1階中央ホールから、吹き抜けの5階に届くようにそびえる壮大な天女の像。この像が完成したのは昭和35年。この像は、三越のお客様に対する基本理念「まごころ」をシンボリックに表現する像として「まごころ像」ともいわれ、日本橋三越本店の象徴ともいえる存在である。 ■鬼門を守る三囲神社(みめぐりじんじゃ)墨田区向島にある「三囲(みめぐり)神社」は三井家の守護神。「囲」が「(三)井」を囲んでいることから、「三井を��る」とも伝えられ、江戸時代から三井家に鬼門除けとして崇拝されている。帝王気学でも鬼門方位を大切に扱い、三井越後屋を継承する日本橋三越本店屋上に分霊が祀られている。実際に大正3年9月21日に発行されたPR誌「三越」には、当時の様子がこう記されている。 (前略)当店が新たに造りし神殿は、当店の鬼門を鎮座し、遠く富士の高根と相対す。社頭の神杉いまだ鬱蒼とまではまゐりませんが、花崗の鳥居は根元より大空に立って居るのでございます。(中略)秋晴一発、八百八街はいふも更、関八州の山々も、房総の海も、悉く神前の廣庭の眺めとなったのでございました。(後略) ■活動大黒天 日本橋三越本店屋上 三囲神社境内に祀られている「活動大黒天」は、名匠 高村光雲によって彫り上げられた。慈悲深いお顔の表情のうちにも、俵の上に立ち上がり、右足を踏み出して打出の小槌を振り上げ、今まさに福徳を授けようとする活動的な御姿を表している。商売繁盛と幸運をもたらす神として、広く一般に親しまれ、敬愛されている。 昨日は六白金星の日運だけに「旭日昇天」のキーワード通りピーカンの快晴を授かり、夏日の中王道學を実地勉強。かつて日本の経営基盤を支えてきた商人魂を感じる老舗探訪でした。それではあなたにも良い事がシャワーの様に降り注ぎます様に☺️ Goodluck! #帝王学 #帝王気学 #経営者 #勉強会 #老舗探訪 #経営理念 #未来への投資 (銀座三越 Ginza Mitsukoshi) https://www.instagram.com/p/CR3OGQGNNs0/?utm_medium=tumblr
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koudelkalightnovel · 6 years ago
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Collections of Hiroki Kikuta’s blog
1997年秋から1999年末まで携わった、 「クーデルカ」という仕事は、僕の人生の中で大きな意味を持つ。 嬉しかったこともあり、残念だったこともあり、しかし、制作に費やした二年間は、 無駄ではなかったと、今振り返って思う。 サクノス立ち上げに助力していただいた、元セガ副社長の故藤本敬三氏の思い出。 ロサンゼルスはウエストハリウッドでの夢のようなモーションキャプチャーセッション。 胸に浮かぶままに、語るべきことは尽きない。 ここでは、写真、設定資料、デザイン画を中心に、ゲーム制作のプロセスと、 その印象を綴っている。 クーデルカのための宣伝用イラストレーション/1998 岩原裕二 部分 このサイトは、1999年12月にプレイステーション向けホラーRPGとして発売されたゲーム「クーデルカ」のディレクター菊田裕樹が、制作資料の掲載や作品解説を目的として運営するものです。ゲームをプレイしてくれたユーザーが、より深くクーデルカの世界とその魅力に親しんでもらうために、僅かなりと助けになれれば幸いです。 --- 「クーデルカ」のモーションキャプチャーは、1999年1月、ロサンゼルスはサンタモニカにあるスタジオで収録された。技術面を担当したのはフューチャーライト。普段は「ゴジラ」等のハリウッド映画のSFXを担当している映像制作会社である。遡る1998年9月、僕はイベント系を担当する人員の不足から、それを全てモーションキャプチャーで賄うという構想を建てた。全体で見れば一時間をこえるイベントシーンを、手打ちのアニメーションとスクリプトで実現しようとすれば、5人がかりの仕事となる。しかも、一向に従来のRPGの域を出ない、面白みの無い方法だ。ゲームのドラマ部分を表現するために、効果的で、目新しくて、しかも大きな省力化になる方法として、モーションキャプチャーは画期的な試みだった。無論、問題はあった。技術的に不可能だというのだ。物語の性質上、最大4人を同時にキャプチャーし、併せて音声も収録する必要があったからだ。僕はまず、日本国内のスタジオで実験をし、手応えを掴んだ。その結果、モーションキャプチャーは十分に魅力的な効果を生み出すという確信を得た。しかし同時に、僕の要求する仕様は日本国内では実現不可能であるということも分かった。だが、そこで諦めてはクリエイターが廃る。幸い、以前「双界儀」の録音でお世話になったデイブレイク社の大竹氏が、海外のコーディネイターに詳しいというので、畑違いながら探してもらったら、ロスにそれらしい技術を持った連中が居るという。早速連絡を取り、俳優のオーディション方々会いに行った。ところが実際に会ってみると、彼等も僕が考えるような仕様でキャプチャーをしたことがなかった。4人を同時に、音声もいっしょに、しかも数分に及ぶ芝居をいっぺんに収録する。そんなの聞いたことがない。しかし驚いたことに、面白そうだから是非やってみょうと、彼等は言ったのだ。新しいことにチャレンジするのが嬉しくてしょうがないスタッフ達。こうして、この前代未聞の試みは実現したのである。 クーデルカを演じてくれたヴィヴィアンとエドワードを演じてくれたマイケル。100人程のアクターをオーディションした中から選んだ人達だ。アメリカのアクターの層は厚い。皆、良い作品に出演することを夢見て、演技の勉強をし、技術を身に付け、レストランなどで働きながらハリウッド近辺で暮らしている。アメリカでは基本的に、どのような有名な役者でも、名前だけで出演が決まることはない。必ずオーディションをして、その役に本当に相応しいかどうかを確かめられる。彼等は、役の大小に限らず、それを勝ち取ることに真摯で、また仕事に臨んでも出来るだけ良い結果を残そうとする姿勢を崩さない。 セッションに参加してくれたスタッフ達。フューチャーライト側から、モーションキャプチャーの陣頭指揮にあたってくれたダン・マイケルソンをはじめ、プログラマーのランディ、エンジニアのジョン。彼等は4日に及ぶセッションの中で起った、様々な問題に素早く対処してくれた。日本側から、クーデルカのモーションを担当した竹原君。IPG側から、わざわざこのコーディネイトのためにニューヨークから駆け付けてくれたポール。そして、サウンドエンジニアのキース。 写真中央、このセッションのディレクションを全て担当してくれた、IPGから参加のデビッド・ウォルドマン。彼は日本でビデオクリップのADをしていた経歴があり、日本語が話せたため、今回の仕事に適任として選ばれた。映像制作の現場でのノウハウや、その進行に関して、彼に学ぶところは大きかった。その後、ロスでムービーキャメラマンの学校に入り、本格的に映画制作を志しているらしい。左は、デビッドの女房役のADであるクレイグ。右に居るのは、9才のシャルロッテ役を演じてくれた12才のサラ・パクストン嬢。その可愛らしさで、スタジオの人気者だった。しかし、プロとしての意識は本物で、長台詞を覚え、慣れないキャプチャーに戸惑うこともなく、見事に演じてみせた。下の写真は、キャプチャーセッションに先立つ、リハーサルの時のもの。近くのホテルで部屋を借り、本番の時と同じように、全ての芝居をチェックする。この時キャラクターはどんな気持ちなのか、何を考えながら演じればいいのかを、ひとつひとつ、押さえていく。このシーンは、クーデルカとエドワードが、オグデンとベッシーにスープを振舞われるところ。中央に、いかにも人の良いおばさんを演じてくれた人の良いおばさん、デニス・ホワイト。 スタジオというよりは工場といった有り様だが、実際すぐ横にプロップを組み立てる工房があったりした。一応サウンドステージとして作られてはいるのだが、防音がしっかりしていないため、上空を飛ぶ軽飛行機の音がうるさくて、撮影が中断したのには参った。真中に置いてあるのは、ジェームズら3人が大聖堂に入る扉が開かなくて悪態をつくシーンのための大道具。例えば、扉を叩く芝居が欲しい時に、何もないのにそういう振りだけしても、リアリティーは生まれない。扉を叩く時には、そこに扉があるべきだ。下の写真は、ゴミの山に埋もれてひっそりと稼動しているSGIのONYX。これに限らず、驚くような機材が、ごく当たり前に使われているのをあちこちで見た。聞けばそれらは全て、レンタルなのだという。こういう所にも、日本との状況の違いを感じた。右は、連日に及ぶ深夜の撮影で疲れ果てて眠りこける僕。 2000/11/25 菊田裕樹 --- ヴォイニッチ文書 部分 Emigre Document 紀元前5000年をさかのぼる昔、ブリタニアには高度な巨石文明を持った民族が栄えていた。今も島のあちこちに残るドルメンやストーンサークルは、現代科学を持ってしても不可能と思われるほどの彼らの技術力を、我々に示している。彼らはケルト人が到来するまで、全世界でも最も進んだ文化と文明を持つ民族であった。エジプトでピラミッドが建築される遙かに昔。中国、バビロニア、イスラエル、どの文化圏よりももっと以前に、ブリタニア全土に分布する巨石遺構は建てられたのである。 その力の秘密は、彼らの持つ宗教にあった。彼らは大地より湧きいでる生命の秘密に手をかける術を知っていたのである。生と死を操り、不死や、あまつさえ死者の再生をも我がものにし、労働力としての人間ならざる怪物を生み出し、高度な文明を築き上げた。それは自然の持つ輪廻の法則そのものを御する行いであり、神の為す神秘に等しい。いや、彼らこそが原初の「神」だったのかもしれない。彼らはその「神を遙かに遡る世界の成り立ちの秘密」を、文字にして書き記すことはなかったが、その祭儀や術としてのノウハウは、ケルト社会のドルイド僧に引き継がれた。ドルイド僧は古代人の残した祭儀法を基盤に、自分たちなりの技術的アレンジを加え、古代人には及ばないまでも、天地の秘密を力に変換することを自らのものとし��。 だが、彼らもまた、自分たちの慣習や宗教に関して書き残すことをしない。ケルト民族の在りように関して最初に言及したのは、まさにそこを征服せんとして兵を進めたユリウス・カエサルである。しかし、彼が紀元前50年頃に「ガリア戦記を」書き記す以前に、前4世紀頃ケルト民族と親交のあったアレクサンダー大王が、アレクサンドリアの大図書館に收めるべく、ドルイドの秘儀をギリシア語で文書化させていたのである。彩飾図版を交えて作成されたこの文献は、その任に当たった人物の名を取って「エミグレ文書」と名付けられた。 この文書は閲覧を禁じられた秘密の書として王宮の図書館に保管された後、戦禍を逃れて持ち出され、数世紀の間、各所を転々とする。その間にはキリスト教の成立やローマカトリックの隆盛などがあるが、6世紀に入り、アイルランドに様々な修道院が建設され、写本事業が盛んになった結果、イタリアの片田舎に忘れられていた「エミグレ文書」は、リンデスファーン島にある写本で名高い修道院に持ち込まれた。だが、ギリシア語に堪能でない彼らは、内容の美しさや彩飾の艶やかさに目を見張りこそすれ、文書の持つ本当の力に気づくことはなかった。 9世紀に入って、度重なるヴァイキングの来襲により、蔵書の保存に危機を感じた修道院は、重要な文献を各地に避難させ始める。アイルランド生まれで敬虔な信者であるヨアヒム・スコトゥスとダニエル・スコトゥスの兄弟は、大修道院長より「エミグレ文書」を託され、その内容に驚愕した兄ヨアヒムは弟ダニエルをウェールズの辺境にあると記される聖地へ赴かせ、自らは写本を携え、フランス王の元に庇護を願い出た。弟ダニエルは聖地で修道院を建て、祈りを捧げて一生を終わる。兄ヨアヒムは碩学として歴史に名を残すが、その死後、ローマ法王庁に写本を接収されてしまう。 キリスト教を脅かす力を持ったこの文書は、ローマ法王を恐怖させ、禁断の書物として誰にも閲覧を許すことなく、書庫の奥底にしまい込まれたが、13世紀になってその損傷の激しさから、新たな写本を作る必要が生じ、当時最高の知識人として名高かったフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンにその任が与えられた。彼は10年にも渡ってフランスに幽閉され「エミグレ文書」を精確に複製することを強いられたが、その過程で文書の知識は彼の物となった。秘密を守るため彼をそのまま監禁し、二度と世に出すまいという法王庁の意図とは裏腹に、彼は密かに外部と連絡を取り、自らが解読した文書の示す聖地へ赴き、生命の秘密を探る試みに取りかかるべく、着々と準備を進めていた。 彼は、先にダニエル・スコトゥスが建てた修道院を改修し、実験施設となるべきゴシックの大聖堂を建築させた。そこで彼がどのような秘術を試みたのかは、記録に残っていないが、法王庁の手を逃れフランスを脱出した彼は、二度と姿を現すことはなかった。彼は、姿を消す前に、新たな一冊の写本を残している。エミグレ文書の記述を元に、ウェールズ語の暗号で書かれたその写本は、聖地の修道院に残されていたが、16世紀になってエドワード・ケリーとジョン・ディーによって発見され、新たな写本として書き直され、さらにローマの修道院を経て、20世紀になって古物商ヴォイニッチによって再発見され、ヴォイニッチ文書と名付けられて、現在エール大学のベイニック図書館で閲覧できる。 また、ロジャー・ベーコンによって複製された「エミグレ文書」写本(原典は破棄された)は19世紀までヴァチカン宮殿の奥深くに秘蔵されていたが、1890年頃何者かに盗み出され、以後その行方を知る者はいない。ダニエル・スコトゥスが建てた修道院は1536年の修道院廃止例の後、政治犯や重要犯罪人を拘留し処刑するための施設へと転用され、聖なる場所で多くの人命が闇に葬られた。 (設定資料より) 2000/10/25 菊田裕樹 --- 2000/10/25 Hiroki Kikuta Koudelka Iasant 1879年生~没年不詳。イギリスはウェールズの田舎、アバージノルウィンの寒村生まれのジプシー。幼い頃から強すぎる霊能力を持ち、様々な怪異を起こすため、呪われた存在としてジプシーの世界から追放される。1888年9才頃ロンドンで霊能力者ブラヴァツキー婦人に拾われ、秘蔵っ子として厚遇されるが91年婦人が他界すると共に、再び放浪の旅へ。普段は霊媒として失せ物を探したりして、糊口をしのいでいる。 年は若いが、世の中の事情を一通りわきまえたところがあり、良く言えば大人、悪くいえばすれっからし。普段はあまり明るい顔をせず、大体において不機嫌そうで態度が悪いが、時折女らしいところを見せる。差別される者や愛されない者に肩入れする傾向がある。自分を表現することが下手。 (登場人物設定資料より) Notes クーデルカという名前は、著明な写真家であるジョゼフ・クーデルカから採ったものだ。口にした時の不思議な響きと、民族や国籍を感じさせないところが気に入って、名字ではなく名前として使わせてもらった。手元の資料を見ると、キャラクターデザインの岩原裕二氏にコンペ用のスケッチを発注したのは1998年の3月26日だが、遡る2月10日の段階で、僕はゲーム全体の進行手順と、シナリオの箱書きを完成させていたし、キャラクターの心理設計も完全なものとなっていた。クーデルカはジプシーの出身である。彼らはインドをもっとも古い故郷とし、放浪に生きる人々で、自分たちのことを誇りを込めてロムと呼ぶ。それは人間という意味である。一般社会の人間たちとは隔絶され、自分たちの血縁関係の中だけで生きている彼らにとって、追放はもっとも苦しい罰となる。クーデルカはその特異な能力ゆえに、子供の身でジプシーを追われることになった。僕は彼女を、どこにも安住することを許されない、最も孤独な存在として設定した。平和で豊かな暮らしの中に、彼女の居場所は無い。呪われた魔物や幽霊が跋扈する、廃虚の暗闇の中にだけ、かろうじて自分を置くべき空間を見出せる。クーデルカは、そういう悲しい存在なのである。 岩原氏はこのプロジェクトのために、100枚にも及ぶキャラクタースケッチを描いた。クーデルカだけでも数十枚になるが、そのほとんどはポリゴンによるモデル化のための制約から来る衣装デザインの試行錯誤であり、キャラクターの本質部分に関しては、最初から完成形に近いものを掴んでくれていたようだ。また、氏にはゲームの制作に先行して角川書店の雑誌で漫画連載を始めてもらい、ゲーム設定の1年後のストーリーという立体的な構成で、物語の厚みと魅力を増すことに貢献してもらった。 クーデルカのポリゴンモデルは、当時広島のコンパイル社の倒産で行き先を捜していた渡辺伸次氏に、経済的に援助するということで東京に移り住んで制作してもらった。彼は同社の仲間とCGスタジオであるD3Dを設立した。そのころの彼等には全く実績が無かったが、見せてもらったプロモーションムービーのキャラクターの動きに並ならぬ情熱を感じ、彼等と一緒に新しいチャレンジをする気になったのである。しかし実際、キャラクターのモデリングは難航した。ゲームスタッフ側の無理解も大きな原因だったが、D3D側もクーデルカほど高いレベルのモデルを作るのは初めてとあって、試行錯誤のために何ヶ月も時間が必要になった。リテイクに次ぐリテイクの嵐。最終的には、僕自身が彼等の後ろに付いて、鼻をもう少し縮めてだの、唇をもう少し上げてだのと細かく指示を出し、なんとか納得のいくものに仕上がるまでに半年近くかかっている。 モーションキャプチャーにおいて声と演技を担当してもらったヴィヴィアン・バッティカ嬢は、米サンタモニカ・スタジオで行ったオーディションの中で、クールで独特の色気があり、抑えた芝居の出来る人として選定した。ただ可愛いだけではなく、クーデルカの持つ陰の部分を表現するためである。彼女自身まだ若く経験も浅いとはいえ、その熱意と努力は相当なもので、10分にも及ぶ長丁場の芝居、何十行もある長台詞を、たった数日で完全に頭に入れて撮影に臨む辺り、なるほどプロというものはこういうものかと感心させられた。度重なる技術的不備にも嫌な顔をすることなく、エドワード役のマイケル・ブラッドベリーと現場の雰囲気を明るく盛り上げてくれたことには、感謝の言葉もない。 2000/10/25 菊田裕樹 llustrated by Yuji Iwahara このページ内の全ての画像及び文章の著作権、版権、複製権、二次使用権は全てその正当な著作者、権利所持者に帰属します。よって、無断複製、無断転載を含め、著作権法に違反する形態でのあらゆる利用を禁止します。 All Rights Reserved 1997 1998 1999 2000. クーデルカは(株)サクノス・SNKの登録商標です。 All Rights Reserved (C)SAC��OTH/SNK 1999 --- Nemeton Monastery イギリスはウェールズ地方。アバースワースにほど近い、海沿いの断崖に、人気もなく廃墟と見まごうようなネメトン修道院がある。ちょっとした公園ほどもあるその敷地の中には9世紀頃に建てられたと思われるロマネスク様式を色濃く残した修道僧の宿坊をはじめ、13世紀頃に建てられた飛び梁も美しいゴシックの大聖堂、会堂をかねた図書館、鐘つき堂、屠殺場を兼ねた炊事場、処刑台に使われた東屋、近代になって建てられた宿舎などが、全体を囲む壁と一体化して並んでいる。16世紀に修道会を禁ずる制令が発布されるのを待たずして寂れ、廃墟と化したこの場所は、17世紀に入って政治的な犯罪者や虜囚などを閉じこめたり処刑したりする目的に使用された。今でもどこかに地下牢が隠されているといわれている。近代になって、訪れる者も居なくなり、荒れるに任せていたのを、ある資産家が物好きにも買い取って移り住んだが、程なくして彼は姿を消し、後には様々な憶測と噂だけが残った。あるいは、財宝が隠されたまま埋もれているといい、あるいは、悪魔が彷徨っているといい。再び廃墟と化したこの修道院を訪れるのは、人目を避ける犯罪者や一攫千金目当ての食い詰め者だけだった。 (制作資料より抜粋) ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 1998年2月の段階で、ゲームの進行に伴う、マップ全体像の設計は、ほぼ出来上がっている。八棟の建物、地下道、墓地など、全部で100個見当の区画からなる構成で、イベントと連動して移動できる範囲が拡がっていく。実は、このような閉鎖された空間を舞台として設定したのは、単に演出的な意図によるものではなく、人的物理的制約による結果なのである。例えば、高度に訓練されたグラフィックスタッフが20人居るならば、一年間に500から600枚を超える背景画を制作することが可能だ。しかし、楽観的に考えても数人が限度と思われる人材確保の現状を前提にすると、およそ100マップ200~250画面が、用意できる背景数の上限と見なければならない。一般のRPGのように、ワールドマップがあって幾つもの街があって、などという仕様は、最初から無理。そこで、極めて限定された空間を設定し、それを有効に活用しつつ、様々な雰囲気のバリエーションを提供できるような仕掛けを考案した。それがホラーRPGという枠組みだったのである。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 ネメトン修道院を構成する建物群は、そのひとつひとつが、建てられた年代も、目的も異なるものである。各々の建築様式の違いは、ドラマの進行と相まって、ユーザーを飽きさせないための装置として機能する。扉を開けて新しい建物に入る度に、物語が次なる展開を迎えたことを実感してもらうために。微にいり細にわたり、緻密に作り上げることが、あたかも実際にそこに居るかのような臨場感を生む。そのために最も必要だったことは、実際の建築物を参考にすることであった。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 物語上でアバースワースとしたのは、アイルランド側の海岸にその場所を置きたかったからだが、98年8月にスタッフを伴って訪れた実際の取材は、ウェールズの下側に位置する観光地ペンブロークシャーを中心に行った。その一帯は、草原から突然に切り立った断崖が現れ、地平線の彼方まで続く、不思議な景観の土地である。その周辺に夥しい数の修道院や城跡が存在する。あるものは往時を偲ばせて健在だが、ほとんど廃虚と化した遺構も多い。セント・デイビッド教会は、中世そのままの姿で我々の目を楽しませてくれると同時に、石造りの聖堂が持つ、独特な雰囲気を理解するのに役立った。また、垂れ込めた雲と雨が作るどんよりとした暗い空気は、実際にその場に立ってみないとイメージできないものである。近辺の修道院の壁や石組みを大量に撮影して、3Dモデル用のテクスチャーとして使ったのも、大きく意味がある試みであった。 さて、ネメトン修道院の大聖堂はゴシック建築として作られているため、本当ならば、その常として側廊が無ければならない。ゴシック建築は荷重を分散する構造にすることで壁を薄くし、ステンドグラスの設置を実現しているからである。しかし、ゲーム仕様上の制約としてプリレンダリングのマップを考えた時に、多数の柱を立体的レイヤーとして配置することが困難であるために、内部を単純な箱型にせざるをえなかった。外側から見ると、飛び梁様の補強柱が一定間隔で取り付けられているが、現実の物として考えれば、全体の重量を支えるために、壁自体もさらに厚くせざるをえないと思われる。なお、大聖堂頂部の鐘突き堂は、そのものが飛び梁によって構成されている特殊な形式だが、これは架空の物ではなく、実際に存在するスタイルであることを付け加えておきたい。 2000/10/25 菊田裕樹 --- Library : クーデルカという物語 By 菊田 裕樹 – 2000年 3月 28日Posted in: Library, Library : ARTICLE    クーデルカという物語    2000年3月 公開    このサイトを御覧の方には僕の制作した    RPG「クーデルカ」を未プレイの向きも多いと思う。    手短に説明すると、19世紀のイギリスはウェールズの    片田舎にある今は廃墟同然と化したある修道院を舞台に、    クーデルカという19才のジプシーが出会う様々な    怪異をテーマにした、いわゆるモダンホラーと    呼ばれるジャンルに属するゲームである。    僕はこの作品のコンセプトに始まり、キャラクター設計、    マップ構成、シナリオ、ムービーや    モーションキャプチャーイベント部分の    ディレクション等など、様々な種類の仕事をした。    基本的な部分の組み立てには約3ヶ月ほど要しただろうか。    全部で100冊以上の本に眼を通したが、    物語の発想の土台となったのは、    「幽霊狩人カーナッキ」という本であった。    短編集で、主人公である怪奇現象研究家カーナッキが、    様々な「怪異」と「怪異に見えるもの」に遭遇し、    あるものは解決し、あるものは良く分からないまま    終わる(笑)という、味わいのあるホラー小説集だ。    興味のある方は是非一読されたい。 ��  さて、僕が物語を組み上げる段階でこだわるところは、    歴史上の事実を曲げないということである。    実際に起こったとして、記録に残っている様々な事件を、    相互に関連付け、その隙間を虚構で埋めていくという    やりかたが僕は大好きだ。    同じ嘘をつくのでも、まったく根拠も無く考えるのと、    事実に基づいてその基盤を組み上げていくのとでは、    細かい部分でのリアリティーが違ってくる。    だから、クーデルカという物語には、    プレーヤー諸氏が考えているよりも、    ずっと多くの史実が含まれている。    エドワードやロジャーが実在の人物である事など、    歴史に興味のある方は、調べてみられるのも一興かと思う。    1898年は科学と迷信がせめぎあう世紀末の、    まさに移り変わる一瞬を捉えて興味深い時代である。    明ければすぐに1900年、近代科学文明の浸透の    象徴ともいうべき、パリ万博が開催される。    そしてそれこそが、僕がクーデルカの続編と    目論んでいた物語の舞台なのである。    ウェールズを描くために、ロンドンやペンブロークに    足を運んだのと同じように、僕はパリやベルギーに    取材をするつもりだった。    (パリ万博に出展されていた建物が、当時の    ベルギー王の要望で買い取られ、    ブリュッセルに現存するのだそうだ)    会場から郊外を結んで建設された地下鉄と、    そこで起こる怪異。エースネクスト誌連載中の    漫画版のエピソードを終えたクーデルカが、    拠ん所ない事情でパリを訪れ、地下に巣喰う    亡霊どもの争いに巻き込まれていく。    実はクーデルカの続編は、僕の頭の中では4作目まで    出来ている。第一部イギリス、第二部フランス・・・    とくれば、第三部はアメリカである。    時代は大きく跳んで、1973年アメリカはシカゴ。    主人公は、シカゴ大学で教鞭を取る文化人類学者、    クーデルカ・ロードメル。    クーデルカの娘アメリアが後に渡米して産んだ子供で、    つまりは孫だ。ベトナム戦争末期とあって、    帰還兵が持ち帰ってしまった悪霊が、    様々な殺人事件を引き起こすのを、まだ生きている    ロジャーの助けを借りて解きあかしていく。    (ちなみにロジャーはスーツを着て出てくる)(笑)    そして第四部は1984年奈良。    関西大学で教える友人の宗教学者の元を訪れたクーデルカは    何者かに命を狙われ、陰陽師や式神と戦う羽目になる。    奈良の巨石墳墓や京都の町並みが、    雰囲気造りに一役買うだろう。    残念なことに、今のところ僕がそれらの    続編を作る予定はないが、    小説のようなものであれば、書いてもいいかなあと思う。 Story of Koudelka : Library --- Haven: On Koudelka, you served as producer, writer, and composer. What were some of the goals you accomplished in taking on these various responsibilities? Were there ways in which the project could have been better realized? Hiroki Kikuta: Let me begin by saying, whenever you divide up responsibilities among a group of people concerning the judgments that get made on a project, the end quality is bound to suffer as a result. To keep the quality high and the schedule organized on a project, it's better for as few people as possible to be making key decisions, and for them to be communicating within the group with as few conflicts as possible. The ideal situation would be for but one director to be delegated the responsibility of expressing his or her creative vision. That said, for Koudelka, I was pursuing that degree of creative control. To prepare, in gaining an understanding of the game's setting, I read about one hundred books on English history, touching on periods from the Medieval era to around 1900. It proved useful in discovering relevant episodes which could be incorporated into the story. Having several events to ground the plot in a kind of historical reality, I then started building on that foundation with some fictional events. For example, the character of Edward is based on an actual Irish dramatist named Edward Plunkett, 18th Baron Dunsany, while the woman who writes a letter for Charlotte is based on Sophie Dorothea of Württemberg. Roger Bacon is, of course, a historically famous philosopher. Also, the incident on the Queen Alice really occurred and is recorded in the captain's log of the vessel. By filling out the gaps in those historical events with fictional incidents, such as the Emigre Document and reincarnation ritual, I aimed at providing a realistic basis to the imaginary aspects of the story. Before production, some members of our staff went on a trip to Whales to gather information and capture the genuine atmosphere of the place with our own eyes. We demanded extreme accuracy in providing the background details, and we even used motion capture technology to provide culturally appropriate body language for the characters, techniques advanced enough to compete with the standards of the Hollywood industry at that time. Those challenges, which were provided by the passion motivating that project, were the real essence of Koudelka. Koudelka, "Patience," music sample I remember that I was reading the critical biography of James Cameron, who was making Titanic at that time, on the airplane to England. I was overwhelmed by his tremendous efforts to capture those startling images. At that time, I realized that it is necessary for creative work to have a degree of obsessive passion involved. I hope that some degree of that conviction had a positive result on the end product. --- As soon as it is in the year 1900, the Paris World Expo is to be held as a symbol of the penetration of modern scientific civilization. And that is the stage of the story that I was thinking as a sequel to Kuderuka. In the same way that I went to London and Pembroke to draw Wales, I planned to cover Paris and Belgium. (It seems that the building which was exhibited in the Paris Expo is bought at the request of the King of Belgium at the time and exists in Brussels.) The subway built by connecting the suburbs from the venue and the monster occurring there. Kuderuka who finished the episode of the comic version in the series of Ace Next magazine visits Paris due to circumstances that are not based, and is caught up in the strife of ghosts who nest underground.    (The first line of the Paris Metro opened without ceremony on 19 July 1900,[4] during the World's Fair (Exposition Universelle - that is what is meant by subway) Actually, the sequel to Kudelka is made up to the 4th in my head. Part 1 England, Part 2 France · · ·     If you do, the third part is the United States. The era greatly jumped, in 1973 America was Chicago. The hero is a cultural anthropologist, Kurdelka Roadmel, who teaches at the University of Chicago. Kuderuka's daughter Amelia is a child who gave birth to the United States later, that is, it is a grandchild. With the end of the Vietnam War, the evil spirits brought back by the returning soldiers will solve various murder cases with the help of living Roger yet.     (By the way, Roger comes out wearing a suit) (lol) And the fourth part was Nara in 1984. Kurdelka who visited the origin of a religious scholar of a friend taught at Kansai University is targeted to someone, and it will be fought against the Yin Yang masters and the expression god.     The megalithic tomb of Nara and the townscape of Kyoto will contribute to the atmosphere building.     Unfortunately, for the moment I have no plans to make those sequels, but if it's like a novel, I wonder if I can write it. --- RocketBaby: At what age did you become interested in music? Hiroki Kikuta: When I was ten years old, I met up with the music of Emerson, Lake & Palmer. I had never heard such marvelous music before. It was quite an impact for me. A few months later I heard that Keith Emerson was using a particular instrument called MOOG synthesizer. RB: At what age did you start writing music? HK: When I was twelve years old, the Folk blues movement came over to Japan from America. I studied Acoustic Guitar and started to create an original song immediately. I wanted to be a singer/ songwriter... if I wasn't a terrible singer. Actually, Digital equipment opened up my potential as a music composer. Without a musical sequencer, I can't create any complicated tunes. When I first acquired a YAMAHA SY-77 synthesizer/sequencer, I felt as if I got a ticket to a different world. RB: Why did you start Sacnoth? HK: I had held many original ideas about video games and visual expression for a long time. The most important purpose is to create an entertainment. When I was searching for a way to achieve my dream, I met a dominant business advisor. He introduced me to the chairman of SNK. I told him about many pitfalls that every existing RPG had. I thought those were lacking a comprehensive insight and a integrative interpretation. It is a structural defect of game production. To resolve the problem, it is necessary to get the picture of each element of game creation at the same time. I have an ability to do that. I established a company SACNOTH and took up my position as CEO in order to produce a new horror RPG project, Koudelka. But unfortunately... Though I conceived a grand scheme to realize an innovative game system and visual expression, many old staffs from SQUARE were not able to accept real change without hesitation. I say that the person who will have no change is already dead. After termination of Koudelka project, I retired as CEO of SACNOTH. It was my choice. RB: As a composer how should music effect the game? As a developer how should the music effect the game? HK: A music composer wants to create a good tune with utter simplicity. But if you want to create a good game as a developer, it is not enough. Because good music does not necessarily fit a good game. The most important problem is adjustment of each of the elements. If the visual element exactly synchronizes with the musical element, a dramatic effect will be generated.. And I take it for granted that everybody wants to hear a good melody in the end. RB: What were your influences for Koudelka? HK: In the first instance, I designed all concepts and fundamental settings of the Koudelka's world. I gathered various graphic and text materials in London and Wales. I did character design, map design, event design, scenario writing, direction of computer graphics movie, direction of motion capture... I got involved with all of the integral parts of Koudelka except battle and game system. Especially, I had no influence in battle section. I still have a great regret. I wish I could have designed it. And a quick digression, I consulted many movies and books for Koudelka. A most impressive movie is The Name of the Rose (Jean Jacques Annaud 1986). I also read the original book which was written by Umberto Eco. It is a definitely masterpiece. If you want to know some origins of Koudelka's world, you may read Carnacki the Ghost Finder written by William Hope Hodgson and The Case of Charles Dexter Ward written by Howard Phillips Lovecraft. Many fantasy novels by Lord Dunsany (His his full name and title is Edward John Moreton Drax Plunkett 18th Lord Dunsany) are also important. If you want to know about visual origin of Koudelka, see photographs created by Bob Carlos Clarke and Jan Saudek and Holly Warburton. Those are extremely exciting works. RB: How did you manage to write, direct and compose the music for Koudelka? HK: Writing a scenario. Directing a CG movie. Composing a BGM. Each of those is no more than a single face of game creation. When I imagined the world of Koudelka, I figure graphic elements and story elements and sound elements all at once. Because, those are mingled with each other organically. So I think that It is rather easy to manage multiple affairs. RB: What was the easiest aspect of working on Koudelka? What was the hardest? HK: The easiest aspect is music composing. Because I can create a music by my lonesome. It makes me free and I feel comfort. Hardest aspect is behind-the-scenes maneuvering of power game in company organization. I am so tired to do that. Let's get something straight, I am not a buccaneer but rather a creator. All aspects about creation are really pleasant for me. RB: Why do you make music? Why do you make games? HK: Music composing is a natural behavior for me. Like breathing. I usually conceive a good melody and a harmony without suffering. So I have no reason to make music. I think that it is my vocation. Meanwhile, creating video game is not my vocation. It is my wish. I want to produce high quality entertainment in the future. When I write a story and a plot, I usually suffer by myself. Though it is very hard and thorny, I feel maximum accomplishment. RB: What inspires your melodies? HK: Many great works of famous composers and musicians inspire me. If I must respect only one person or group as a music composer(s), I will take Pink Floyd. RB: What are your hobbies and why? HK: Good question. Riding bicycles is my hobby. I also love my yellow Peugeot MTB made in France. I also have some fun playing with my cat. She is extremely pretty. RB: When did you begin working at Square? HK: I began work at Square in 1991. I was twenty seven years old. In those days, the production studio of Square was placed in Akasaka Tokyo. It was small and homey, different from now. I remember that Nobuo Uematsu and Kenji Ito interviewed me in their office. We talked about progressive rock music and famous guitar player Allan Holdsworth with each other. I created sound effects for Romancing Saga at the start of my career. A few of graphic staff worked with me to design a lot of novelty sounds. We worked hard in night and day. RB: How much freedom did you have making music at Square? HK: In a sense, I had perfect freedom. Because, the planning staff of Square put none of the assignments relevant to the menu of music work and schedule in my hand. Nobody explained to me about game detail which they were producing. I had to think and imagine what kind of music was needed for our game project. Changeover,changeover, and more changeover of specifications. It was difficult to foresee the final image of it. But I did. RB: What is favorite game that you worked on at Square and why? HK: May be Seiken Densetsu 2 (Secret of Mana). I think that it was a pretty good game except for the big BUG. The multi player system was extremely fresh and delightful. In the aspect of music, I was fully challenged in regard to sound expression using 8 voice PCM system of SNES hardware. Please see and hear the opening sequence of Seiken Densetsu 2. It is so simple but so lyrical, isn't it? I am really proud of my visual direction and music composition. RB: Did Nobuo Uematsu influence your work? HK: I think there is no influence from Nobuo Uematsu. I have never taken any lessons about composing game music. The style and the melody of my music are totally conceived by myself. Just the same, every staff composer at Square were free from influence of somebody else. Originality and personality were cheerished in our studio. It was the policy of Nobuo Uematsu. RB: What are the best and worst memories that you have of Square? HK: Hmmm... Best memory... it seems a trip to MANA island of Fiji republic. After a production of the game Secret of Mana, I and my friend decided to visit an island placed in South Pacific Ocean. We played skin diving everyday and watched some corals. Those were extremely beautiful. It looks like a blue heaven. I will never forget the view of the sunset from Mana's beaches. It is one of my treasures. By the way... Worst memory is a dissolution of the game team in which I was supposed to participate. I wanted to propose an innovative game system using music and sound effects. RB: Who is your favorite Square composer and why? HK: I recommend Jin Sakimoto (Hitoshi Sakimoto). His works are extremely dense. RB: One of our favorite soundtracks of yours is Soukaigi. The sound quality and styles are some the best for a game. HK: Soukaigi has many characters of sound. I designed it with different complex styles. House music meets real performance, fusion meets folk choirÖÖ It was an adventure for me. To tell you the truth, the style of music does not a matter. I don't dwell upon it. Though I put a high value on counterpoint it does not bind me. It is only a method. In the case of Soukaigi, I was mainly influenced by East European pops like Varttina. RB: Why did you leave Square? HK: I wanted to direct not only musical expression but also visual expression. And of course, I wanted to write a fine scenario which is different from existing one. I had felt a big complaint against those juvenile works. But unfortunately, I couldn't get a chance to take a part in those kind of production works in Square. I suffered terribly for a long time. After all is said, I left Square and established new company Sacnoth to achieve my idea. RB: Do you perform your music live? HK: If I have a chance to do that, I wish to play my music as a live performance. I didn't make an attempt to do that in Japan yet. Do you want to hear my music in front of your eyes, ya? RB: Who would you like to make music with? HK: Jin (Hitoshi) Sakimoto. Because, I could not collaborate with him on composing game music when we were hired together by Square. I respect him. Except for game music composer, I want to collaborate with Allan Holdsworth, a fusion guitar player. His music is a miracle. RB: How do you think game music compares to other genres of music? HK: I think that is similar to movie soundtracks. It is important to synchronize the music with visual element. It has an expressive purpose. If you want to create a game music, don't forget to construct it as an emotional device. RB: How will the next generation consoles allow you to express yourself as composer and game designer? HK: I feel a strong attraction to X-box and Game Cube. A big visual capability makes me hot. I have many ideas to display fascinating characters using real time computer graphics. They will sing and dance and talk with real emotion. Don't you want to play the Musical RPG on Network? I want to play it. RB: What would your advice be to people who: A. People who want to create game music. HK: Listen to as much music as you can. Don't confine yourself to your room. The genre of music is meaningless. If you want to find your treasure, you must challenge the common practice at any one time. B. People who want to create games. HK: Video games are not art. They are an entertainment. You must amuse your audience first instead of amusing yourself. I am always conscious of the feeling to accommodate someone with a fun service. Can you create a lot of gimmicks for the player? If you work so hard and push yourself enough, the day will come to collaborate in some way with me for sure. Let's think of a next game together. RB: What is in the future for Hiroki Kikuta? HK: I will be involved in some new game projects that are not directed by me. I will be a technical advisor. I will create computer graphics and sounds. But soon, I hope to form my studio and develop my own game project. So now I am looking for new investors around the globe. RocketBaby would like to thank Mr. Kikuta for chatting with us.
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