#八木崎公園_青空
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カモを見たあとで鴨を食べ損ねた
文学フリマ京都7に参加してきた。 感染症が始まる直前、最後の文フリの参加が文学フリマ京都だった。あの頃はまだ感染症が流行して三年もイベントに参加できなくなるなんて思っていなかった。 仲のいい友達とアフターを楽しんで、また普通に会えると思って別れたから、そのとき、ドトールみたいなチェーン店でゲームの話をしたことを鮮明に思い出そうとしても思い出せない。 去年9月、文フリ大阪に久しぶりに参加しているから、これが「復帰1発目!」というイベントではないのだけれど、去年は始発で出かけて大阪城公園で鳥を撮りまくってからの参加だったから、眠くて眠くて仕方がなくてほとんどイベントの記憶がない。 だから、記憶があるイベントとしては1発目。
ここでも書いたけど、前泊で参加した。 1日目は奈良・京都でずっとお話をしたいと思っていたひとたちに会った。一緒にイベント参加しようねって言いながら感染症でずっと無理だった人、感染症の蔓延しているさなか、出国まぎわに地元に来てくれて、鳥の写真を撮りながらおしゃべりしようと言いながら天気が悪すぎて、キャンプ場でスモアをつくったり、おしゃべりが楽しかった思い出をくれた人……。 「イベントに行けば会えた」人たちは、イベントに参加できなくなってしまうとなかなかあえなくなってしまって、地元の友達のようには気軽に「遊びに行けない」人なんだ、ということにびっくりした。 「誰かに会う」ということは、じつはとても困難だ。リモートで遠方のひととも気軽に会話できる、Twitterでは毎日のようにわちゃわちゃエアリプしている、でも「会う」というのは、いろんな要素と条件をクリアしていないとできないのだと言うことを、その要素と条件を簡略化してくれるのがイベントだったんだと思った。
文フリ当日の京都は曇りだった。 もう少し天気が回復すれば、オシドリで有名なところへ行こうと思っていたのだが、いつも使っているミラーレスではなく小さなコンデヂでは警戒心がつよく遠いところにいるオシドリは撮れない。 せっかく京都まで来たのに、とぶつぶついいながら、文フリ会場の近くを検索したら、平安神宮のお庭にカワセミが飛んでくるらしい。 カワセミとかべつにどこでも見られるのだが、せっかくカメラも持ってきたんだし、神宮のお庭という素敵な景観のカワセミとか撮れたらうれしいじゃないか!
ホテルでごろごろしているのをやめて、大急ぎで平安神宮へ向かった。 お庭は600円で入れた。曇天で、しかも早朝、お庭はほとんど人がいなくて、カワセミもいなかった。 でも池がたくさんあって、カルガモがたくさんいた。ようすがちがうカルガモを発見する。カルガモとマガモの交雑種(ハイブリッド)。「マルガモ」という俗称があることをそのときはしらなかったので、「カルマガモ」と名付けた。ずっと観察していると、カルマガモは自分のことをカルガモに分類しているらしく、カルガモたちと行動を共にしている。マガモの群もあったのだが近寄ろうとはしていなかった。
庭を巡り終えたあと、文フリの会場のみやこめっせへ。
すごく久しぶりだったのに、体って普通に動くものなんだね。前日に会った人に「自転車の乗り方は体が覚えているというけれど、三年前の自分がイベントセットを用意してくれていたし、やらなければならないことのために体が動く」と言っていたが、本当にそう。
設営本能
としか言えないものがわたしを動かしていく。宅配搬入の段ボールをさっさと持ってきて、机から椅子を下ろし敷布を敷き、段々ボールを組み立て、本を並べていく……まるで前世の記憶! 私ってこんなにできる女だったのか?! まあ前々日の支度のときに「京都 野鳥」「京都 野鳥��ポット」「鞍馬山 野鳥」とか調べまくっていてサークルチケットの存���を完全に忘れ去り、八束さんに「サークルチケット忘れてきたんですけど、持ってませんか」とDMをもらって(電車の中だった大和八木くらい)「サーーーーーーーークルチケット!!!!!」とその存在を思い出した。ちなみに八束さんはサークルチケットを忘れてきていなくて、ちゃんと持ってて、八束さんがサークルチケットをめぐんでくれた。だから前世からちょっと成仏しかけてたね……。
見本誌も提出し終えて、まったりしていると隣接の鹿紙路さんがやってくる。鹿紙さんとは感染症が蔓延してからもじつはいろいろ旅などしているので結構会ってる。とはいえ久しぶりに会えるのでうれしい。 鹿紙さんは会場ぎりぎりにやってきたが、颯爽と組み立てていく。 みんな体が覚えているのだ設営を……。(鹿紙さんはイベント結構参加してるからね)
イベントがはじまると、びっくりするくらい人がたくさん入ってきた。文フリ大阪もたくさん人が来ていた様な気がするけど、なにぶん始発で鳥(以下略)だったため、記憶がない。
今回は新刊『山梔の處女たち』を持ちこんでいた。初めての百合スペースだし……めちゃくちゃ緊張していたが、鹿紙さんが隣にいるのでしゃべりつづけて心を保った。 とはいえ、わたしは文フリのスペース内ではあまり接客はしない人間で、愛想のないやつだなあとたぶん思われているだろうと思う。 服を買いに行ったとき、自分に似合うものなのか・着られるものなのか、値段は支払えるものなのか、それはいろんな要素がせめぎ合った「選択」だろうと思うけれど、本選びもそうだろうと思う。 「本当に読みたい本だろうか」「読める本だろうか」という吟味をするとき、なるべくいろんな声(特につくっている人間の心情や期待など)を浴びたくはないとわたしは思うので、吟味する時間と立ち去りやすさを考えてそうしている。 まあ、接客をしなくても、愛想がなくても、立ち寄ってくれるというのは「いいなあ」という。 普段はひとに愛想を振りまいて、なんとかご機嫌を取って暮らしている人間だから、こうやって無愛想に座っていても「いい」空間はありがたい。新刊は持ち込みの三分の二、他の本も半分くらいは縁があったみたい。 無愛想でも、 見本誌を見て、表紙がとても素敵だったから、タイトルがよかった、前に読んだ本が面白かったから、おすすめしてくれる人がいたから。 本をえらんでくれる「理由」を話してくれるひとがときどきいて、そうすると小説ってひとりで書いて、ひとりで本にして、ひとりで売ってるわけじゃないんだなと思う。
イベントのあとは、鹿紙路さん、沙耶さん、らしさんと日本酒バーへ。 ほんとうはわたしも飲むつもりだったのだが、家のことが重なりすぎて後泊しないで帰ってきてほしいと言われて、酒は飲めなかった。 沙耶さんとウーロン茶を飲みながら、らしさんと鹿紙さんが日本酒を飲みまくっているのを眺め、鳥の話をたくさんした。 タメイーランドのこと、野鳥の会のこと、浜の鳥のこと、沙耶さんとゆっくり鳥の話をしたいと思っていたのでとてもいい時間を過ごせた。 近いうちに、一緒に鳥を撮りにいけたらいいなあと思っている。約束をした。 カモを見たあとで鴨を食べたいね~って話してたら鴨料理は売り切れていた。 カヤさんが教えてくれた「カモサブレ」を京都駅で買う。ますく堂さんがくれた「ハトサブレ」と見���べ・食べ比べをしようとおも��。
買い物も結構した。 買った本のリスト。 『LAZY MONDAY MORNING』あずみ(冬青) あずみさんの新作を読めるのがうれしい! 『イサド住み』オカワダアキナ(ザネリ) 「魔女の選択」を迷いながら書いていたとき、おかさんのこの本のあとがきにどれだけ救われたことか。本を読むのが楽しみで仕方ない。 『貝楼諸島へ』(犬と街灯) 柳川麻衣さん、紺堂カヤさん、オカワダアキナさん、佐々木海月さん、穂崎円さん、正井さんのお話が読みたくて買った。 『吸血鬼は青年を伴侶に選ぶ』きよにゃ(招福来猫) わたしのBLの教科書はきよにゃさんです!表紙がめちゃめちゃきれい~! 『百人のためのエンターテインメント~読書サロンにて『須永朝彦小説集』を読む~』ますく堂なまけもの叢書12(古書ますく堂) わたしがこの本を買うのに特別な理由を必要とするとお思い??購入は呼吸です。 『稲麻竹葦 第6号 神々との治療』 スクナヒコナが推し神です!!!!
本の他に、緑色のカモノハシのぬいぐるみを買った。 新しい仕事の机に飾ろうと思う。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港���注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編���竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱���袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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尋找真實的我
遠藤周作 集英社
遠藤周作 - 搜尋 (bing.com)
想見到 的 中國人
一個村落的小歷史
來說一個小小的村子的歷史。
幕末的事情。法國神父 普吉江 來到了 長崎。那時的幕府因為無法
抗拒諸外國的要求,和與美國為首等五國簽訂了友好通商條約,
長期抵制基督教崩塌了一角,承認了居留日本的信眾偏離了教義。
普吉江神父來到為外國人建造的教堂履任,然��他有一個秘密的
目的。那是他在 那霸 學習日本種種四年前的事情。有一個中國人
告訴他,被嚴禁的基督教其實有不少隱密的教徒。
怎麼樣都想找到,並接觸這些「隱密教徒」。他在街上問,小孩子
也問,可是一談到這一點,大家表情就黯淡了下來。
然而在 1865年春天,一群圍著這個罕見的異國教會參觀的日本人
中,有幾個百姓模樣的男女混了進來。其中一個女的問神父說 :
「 聖母瑪麗亞的神像在那裡呢 ?」
就這麼一個契機,神父知道他們是從長崎越過一個山頭的貧窮的
浦上村 的百姓,知道他們是自己尋求到基督教的村民。
從此,神父每到夜晚就越過山丘,去到 普上村 拜訪。教會長年的
沒有宣教師,他們的信仰有偏離基督教義的部份,神父教導他們,
以倉庫做教堂,舉行彌撒,也為他們洗禮。
這個秘密的傳教持續了一年,因為一點小事情為 長崎奉行所 知道
了,受到衝擊的奉行所,在六月的夜裡,包圍了浦上,並逮捕了
基督教徒的首謀。
小村落歷史的意義
受到嚴厲的調查,很多人拒絕棄教。浦上村的男女一一被投獄,並
受到酷刑。
種種經過之後,浦上村基督徒的處理,轉到了明治新政府,明治新
政府反彈諸外國公使的抗議為「干涉內政」,並且將這些男女老少
的信徒全體,分散至全國各地的監獄。
離開故鄉在異地的監獄,是這些浦上村人們痛苦的開始。各地的待遇
有差別,而受到的拷問、飢寒沒有不同。其中最有名的是 島津縣
津和野。今天津和野的年青人們,對浦上村農民的痛苦歷史,應該
都不知道吧。
【津和野の旅】江戸から明治にかけての和洋の文化が息づく城下町・島根県津和野への旅をVlogにしました|津和野カトリック教会|藩校養老館|太鼓谷稲成神社|津和野城跡|旧堀氏庭園|糧|旧畑迫病院 (youtube.com)
這些人們在監獄的六年之中,明治的日本全力的進行近代��。明治
四年十一月,以岩倉具視為大使,連同木戶孝允、伊藤博文等一行
四十八名,為了準備改訂屈辱的安政條約,經過歐洲去到美國,並且
受到格蘭總統的接見。
格蘭總統說 :「給我國人民帶來財富與幸福的原因 . . . . . . 就是不
剝奪出版自由,不束縛信仰的良心,不只國民,包括居留的外國人
的宗教,一切不設限制。」向岩昌一行演說表示,在日本應該停止
對浦上農民們對基督教信仰的禁制與迫害。
岩倉一行從美國政府的態度,深深感受到有必要向世界各國宣言,
為了修改條約、日本是個近代國家。隨著他們的請求,明治政府於
明治六年,解除了在日本禁制基督教的法令。並且讓被關押在全國
各地監獄的浦上村男女老少一千九百六十人,在事隔六年後回到了
故鄉。
農田荒蕪,家屋毀壞,他們拼命的重建了他們的家園,而且在貧困
之中,試著重建他們的教堂。女孩子們發揮愛心,學習護士,也他們
手中建造完成了浦上的大聖堂。
歲月流逝 ;曾經救助了浦上農民,助其信仰自由的美國與日本戰爭
開始了。昭和二十年八月,從美國飛來的飛機,就在浦上村上空投
了炸彈。炸彈閃光,爆炸。在農田耕作的浦上農民們,他們的家,
曾經在被釋放後所蓋成的大聖堂,在一瞬間破壞殆盡。
浦上是個小村落;如今僅只是被劃入長崎市邊緣的一個小區域。然而
每當我去到那裡,這個小小的地方在日本的近、現代史上卻是如此
的大,而且想到了這件有著深長意味的兩件事,不得不為即便是
社會正義與民主主義,在政治次元之中產生矛盾的結果,而為之
嘆息。並且想到生息在浦上的農民信徒們,在日本國民的信仰與
日美關係上所付出的犧牲。這就是這個小村落的歷史。
凱 薩 琳
春寒賜浴群星池
爆發
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風月句会
2024年4月21日
於:川崎市多摩市民館
坊城俊樹選 栗林圭魚選
坊城俊樹選 特選句
坊城俊樹選 特選句
メタセコイアむんずと掴む春の雲 三無 今日も来て舞ひを見せたる春の蝶 ます江 佐保姫を見送る空の雲白く 軽象 蒲公英の真白き絮は飛ばず揺れ ます江 一山をより高くみせ桐の花 斉 僧一人花韮咲かす露地に消ゆ 久子 牡丹の重たく崩れかけてをり 秋尚 桜蘂降って大地に横たはる 斉 春草の足裏くすぐる田圃道 経彦 観音の御手のやさしく著莪の花 芙佐子 ゆっくりと翅を広げて蝶生まる 斉
坊城俊樹選 並選句
新緑のメタセコイアや奥の池 幸風 枡形の山にとよもす青葉木菟 幸風 つま黃蝶探しあぐねてゆく山路 芙佐子 隠沼をゆさぶってをり昼蛙 亜栄子 仏燈の炎の容紫木蓮 経彦 翠巒の多摩の横山鳥曇 幸風 園一歩谷の底より朝蛙 芙佐子 若葉萌ゆメタセコイアの空狭め 亜栄子 桐の花天に咲き初む濃紫 三無 春の空形にならぬ雲の行く れい 森に降るものに紛れて無辜の蜂 千種 尻太の母の塔座す松の蕊 亜栄子 母の塔ゆったりと聴く蛙ごゑ 幸風 一点に拘り熊ん蜂唸る 秋尚 メタセコイア若葉を幹の貫ける 千種 春光を掴まんとして母子像 芙佐子 蔦若葉地軸のづれを右巻きに 久子 門入れば微かに香りくる花と ます江 翠巒の水辺に集ひ蛙の子 文英 隠沼に蛙��戦きりもなし 芙佐子 若楓日の斑の騒ぐ年尾句碑 三無 山里に色を添えたり緋毛氈 れい 年尾句碑背よりささやく著莪の花 久子 小さき手にたんぽぽの絮欠けてをり 秋尚 子の乱す水の光が蝌蚪隠す 千種 囀の高さに森のよみがえる 斉
栗林圭魚選 特選句
栗林圭魚選 特選句
新緑のメタセコイアや奥の池 幸風 僧一人花韮咲かす露地に消ゆ 久子 園一歩谷の底より朝蛙 芙佐子 蕨餅友の頬張る顔楽し れい 軽鴨の乱しゆきける蝌蚪の国 久子 桐の花天に咲き初む濃紫 三無 鶯に近づきたくて歩を進む 斉 小さき手にたんぽぽの絮欠けてをり 秋尚
栗林圭魚選 並選句
若楓木洩れ日透かす石の椅子 亜栄子 掌を膝にひろげ鶯聴きにける 久子 枡形の山にとよもす青葉木菟 幸風 空狭めメタセコイアの森若葉 三無 啼き声に止む鳴き声や森のどか 千種 牡丹の色美しと今にあり 文英 一山をより高くみせ桐の花 斉 佛燈の炎の容紫木蓮 経彦 翠巒の多摩の横山鳥曇 幸風 多摩晴れて蛙合戦興りけり 千種 牡丹の重たく崩れかけてをり 秋尚 若葉萌ゆメタセコイアの空狭め 亜栄子 SLに喜々と群がる遠足児 経彦 木洩れ日の濡れてゐるやう柿若葉 三無 やわらかに風をかはして若楓 秋尚 薄暑なる境内の歩の清清し 文英 観音の御手のやさしく著莪の花 芙佐子 年尾句碑著莪の明るさ忍ばるる ます江 園児らのS字の列を縫って蝶 経彦 一点に拘り熊ん蜂唸る 秋尚 子の指を器用に逃ぐるおたまじゃくし 三無 春光を掴まんとして母子像 芙佐子 ゆっくりと翅を広げて蝶生まる 斉 葉の影を薄く重ねて八重桜 秋尚 隠沼に蛙合戦きりもなし 芙佐子 若楓日の斑の騒ぐ年尾句碑 三無 枡形の空は朧や鳶の笛 経彦 大輪の牡丹風に頷きぬ 斉 里山の水揺るがせて蛙鳴けり 亜栄子
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「芸術実験旧喫茶ますみと甘木鉄道」②
空間との共鳴。朝倉という地域性。8名の作家のコラボレーション…鑑賞者により様々な捉え方が生まれるユニークな展覧会です。
会 期丨2024年3月2日〜17日
会 場丨①旧喫茶ますみ
朝倉市本町1186-16
②甘木鉄道甘木��
朝倉市甘木1320
入場料丨800円���
参加アーティスト
青栁隆之介 @pinojam_the_artist
冨永剛 @tomi_39saku
中園唯 @dreaming_offtone
中村公泰@kimiyasu_art
宮野英治 @eiji_miyano
MIRAI @miraizukunft
山口貴一 @yamaguchi.takakazu
岑國希 @blue.bone
グラフィックデザイン
#須藤史貴[anno lab]、宮垣貴宏
山口貴一作品画像 photo by 西山雄大
主催 芸術実験準備室
gallery cobaco @gallery_cobaco
協働 朝倉市
後援 あさくら観光協会
朝倉商工会議所
協賛(敬称略):株式会社 敬愛、株式会社 篠崎、原鶴温泉旅館協同組合
あさくら 税理士法人、阿さひ飴本舗菓蔵家、甘木観光ホテル甘木館、有限会社 甘木白蟻、甘鉄エージェンシー株式会社、株式会社 泉組、有限会社 チェック保険サービス、株式会社 手嶋組、天ぷら 七八、福岡銀行、Ponte クラシックギター教室、弁護士法人 松本・永野法律事務所、美奈宜神社、夢ごごち らくや
個人協賛(敬称略):草場啓子、行徳美千代、尾花洋子、鋤本禮子、国分恵美子 他
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[ 薫衣まとう ] . . . 薫衣草の絨毯広げられた、初夏の公園。 . . . ==================== 📸 2021.07 Yagisaki Park, Minamitsuru-gun, Yamanashi . Nikon D5300 💐🗻💐🗻💐🗻💐🗻💐 ==================== . . . #japan #yamanashi #kawaguchikoherbfestival #kawaguchikoherbfestival_yagisakipark #yagisakipark #yagisakipark_lavender #lavender #yagisakipark_mtfuji #yagisakipark_bluesky #山梨 #河口湖ハーブフェスティバル #河口湖ハーブフェスティバル_八木崎公園 #八木崎公園 #八木崎公園_ラベンダー #八木崎公園_薫衣草 #八木崎公園_クンイソウ #ラベンダー #八木崎公園_富士山 #八木崎公園_青空 #薫衣草かおる初夏 #fragrant_lavender #花色大地 #flower_colored_ground #此処より霊峰富嶽望む #the_place_to_view_mtfuji #adobephotoshoplightroom #nikond5300 #instagram #photo #photography (八木崎公園) https://www.instagram.com/p/CTNkCCgPfR0/?utm_medium=tumblr
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77回目の8月6日が来ました。 あの日、そしてその後の“ヒロシマ”を知ってもらうことが、核兵器廃絶への道につながることを信じたいのです。 2年前に書いた文章ですが、読んでいただければ嬉しいです。
胎内被爆者の綴り方
<はじめに> 長い間、私は不特定多数の人に被爆体験を語ることにとまどいを覚えておりました。胎内被曝のため、実際に被爆の被害・惨状を見たわけでもなく、肉親を失ったわけでもなく、私自身もこの年齢まで生��てこれた幸運もあり、大きな嘆きの人々に比べれば語る資格がないと思っていました。 しかし、ここ数年、特に日本政府は広島・長崎の被害の事実をなかったものかのように動き始め、核兵器禁止条約に対しても、日本の代表とは思えぬ動きで、私は不安でたまりません。 今まで、生協の平和行進や集会、そして募金に参加したことがあるくらいで、平和や反核に対する運動をほとんどしていません。平和公園での座り込み運動にも、心をよせてはいても、ただの傍観者でした。私が育った戦後、ついこの間までは多くの活動をする人がいて、私も黙っていてもよかったのです。ただ被爆者の会も高齢化で消滅解散する中で、何かしなければならないのではと思い始めていました。 そんな時、オーラルヒストリーを研究しておられる元TBSアナウンサーの久保田智子さんの講演を聞く機会がありました。私が記憶を語るとしたら客観的事実ではないかもという懸念をもっていたのですが、久保田さんは「その人が感じ考え思ったことをいっしょに述べること、主観的事実でいい」と言われました。「複雑でいい、矛盾していい、個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈するのだ」と。これは私を勇気づけました。 また、ピラミッドの一番上に直接被爆者がいて、その下にいろいろな人が階層的に存在し、それぞれに思うこと感じ考えることがある、それも大切だと。「ああ私の位置はヒエラルキーの二番目だ、それでも語っていいのだ」と強く励まされました。 それから1ヵ月後、ニューヨークの2020年NPT(核兵器不拡散条約)会議に広島生協の代表として行くことになった友人が、胎内被爆者の会が証言集を出す予定であることを教えてくれました。思い迷った末に、証言集に応募するしないにかかわらず、記憶がうすれる前に一度整理してみようかなとの思いに至りました。
<8月6日> 1946年1月24日生まれの私は、1945年8月6日原爆の炸裂したあの日、母の胎内にいました。予定より早く生まれたと聞いていますから、妊娠4ヵ月位ではなかったでしょうか。悪阻が激しく空襲警報がなっても「このまま死んでもいいから」と逃げるのが億劫だと言っていた母は、朝の洗たくものを干すため両手をあげた時、原爆の光を浴びたといいます。あっと思った時は、胸と腕に火傷をしたようですが、幸いにも「天ぷら油をぬったらいい」と教えてもらい、ケロイドにならずにすみました。借家��った家の前はごぼう畑が広がり、己斐駅がすぐ目の前に見渡せました。光線をさえぎるものは何もありません。爆心地から2.5kmとS42年(1967年)2月18日取得の被爆者手帳にはしるされています。 その時父は観音町の三菱重工の工場、爆心地から4kmの所で被爆。父がどのルートでどのように己斐まで帰ってきたのか全く知りません。9月に4才になる姉は、家の中の布団で寝ており、布団ごと部屋の端から端まで飛ばされていました。壁が少し崩れたくらいで、家は倒れずにすみ、姉も無事でした。 これらの話を父や母から直接聞いたという記憶はなく、どこでどのように知ったのでしょう。母が黒い雨にうたれ、髪の毛が抜け寝こんだこともどうして知ったのでしょう。それには一つの類推があります。
<近所の人々との思い出> 私が小学校低学年の頃住んでいた家はやはり己斐ですが、被爆した時とは違う近くの家です。家の前にも横にも40cm位の側溝に水が流れ、夏には青い露草の花が咲き蛍もとんでいました。暑い暑い8月6日の前後には、近所の人々が涼を求めて集まり、石垣に座って思い思いに語ります。クーラーも無い時代、手にはうちわがあります。冷蔵庫も氷で冷やす木の冷蔵庫です。家には西瓜が待っており、私たち子供は浴衣を着て、大人のまわりをうろちょろしています。そんな時大人の話が聞こえるともなく聞こえるのです。 「ようけえ逃げてきたのお」「おう、水あげりゃあえかったのう、どうせ死ぬんじゃったらのお」「Tさんの家は壊れたらしいのぉ」「下敷きになって男ん子が死んだんよ」「Nさんの奥さんは今年も日傘さして行きよっちゃったよ」「式典なんじゃろう。姉妹や親はえっとこ亡くなったって」 話が聞こえてくるうちにだんだん恐くなります。帰ってトイレに行くのも、夜寝るのも恐くなります。こんな会話の中で私の母の話も語られ、私が覚えたのだという気がします。 Nさんとは、私を実の娘と同じようにかわいがって、お風呂に入れて身体をごしごし洗ってくれたり、焼きリンゴを作ってごちそうしてくれたおばちゃんです。あの優しいおばちゃんが大きな悲しみを抱えておられたのに深く気づくのはずっと後です。このおばちゃんは小学生の女の子2人を残して腎臓病で、身体をパンパンにむくませて亡くなられました。きっと被爆の影響だったと今なら思いますが、当時小学生だった私は、おばちゃんの変わり様に恐ろしかっただけです。 あの夏の日々は、あらためて語り部と言わなくても、みんな思い思いに自然に語って、私たちに伝承されていたのだなあと改めて思います。
<己斐小学校でのこと> 伝承というと小学校の担任を1年から6年まで受け持ってもらったY先生のことが思われます。8月6日宝町の自宅から己斐小学校へ通勤した日のできごと。爆心地近くから相生橋、本川を通ってひたすら己斐へ歩く途中に見た被災の光景。川の中に浮かぶたくさんの人々、横たわる死者たち。その話を聞いた記憶がしっかり残っています。教壇に立って語る先生の息づかい。並ぶ生徒たちの机。写真のようにまぶたに残っています。先生はその日どのように自宅へ帰られたのでしょうか。全く知りません。Y先生はその後私たちが4年か5年生の頃、だから戦後10年くらいでしょうか、肝臓を悪くされ長く入院されたことがありました。きっとこれも原爆と関係があるに違いないと今は思います。 私の小学校は己斐小学校ですが、己斐はたくさんの被災者が流れ込んできて、小学校の校庭ではたくさん人を焼いたと言います。春秋に運動会があったのですが、グランド整理で土をならすと骨が出るというのをよく聞きました。私は直接拾ったことはないのですが恐くてたまりませんでした。それに春は校庭の桜が葉桜になる頃の運動会でしたから、毛虫がぞろぞろはい回ります。私は大の虫嫌い。二重に恐くて――。今と違って素足でかけっこですものね。
<ABCCの記憶> 私が唯一当事者として語れるのはABCC(現・放射線影響研究所)のことかもしれません。小学校低学年の時だったと思います。母と、あるいは近所の友と、そして級友と何回かABCCが近所まで迎えに来て出かけました。学校まで迎えに来たこともあります。黒塗りの大きなハイヤーが来るのですが、私はすぐ酔うので苦手です。行くと、全てがすんだあとクッキーやサンドイッチ、紅茶などをご馳走してくれるのです。異文化への興味や憧れのようなものがありました。けれども何しろアンパンやジャムパン育ちで偏食も多かった私は、なれないものを何とか口にし、帰りの車でまた気分が悪くなるのでした。 さて、ABCCの記憶で長く私が語れなかったことが一つ。検査に行くとズロース(パンツ)の上に白いスモックのようなものを1枚かぶるのですが、それを着てある部屋に一人連れて行かれます。大きな机、私には3m×4mぐらいにも思われましたが、その端に足をぶらんと下ろして、入口のドアに向かって不安そうに座っている自画像が脳裏に残って消えません。そして、立つように促されたのでしょうか。服を脱いでズロース1枚でテーブルに立ったと思うまもなく、大きな180cm位の白人男性がこれまた大きなカメラを抱えて10人近くどたどた��入って、テーブルの回りから、四方八方カメラのフラッシュをたきました。驚きと恥ずかしさと何があったかわからないのとで呆然としていたのでした。一番大きかったのはたぶん恥。何かいけないことのように思ったのでしょう。この話は帰りの母にも友にも誰にも話しませんでした。話せば自分一人の体験ではなかったことがわかったかもしれません。後に語れるようになり、友人夫妻にこの体験を話した時「つらい話をさせてしまった」と言われ、ああそうだったのかと納得したものです。映画のワンシーンのようなこの記憶は今後も決して消えることはないと思います。
<病気に思うこと> 私が生まれたのは、母の母・未亡人だった祖母のいた広島県北部の旧・山縣郡千代田町壬生です。大雪で2階の窓から出入りするような日だったということです。戦後の広島を避けてお産をしたのでしょう。私は乳を飲んでもすぐ吐き、胃の入口の調子が悪くて薬を飲んで治したといいますが、詳しいことはわかりません。その後10カ月位の時には百日咳の激しいのにかかり骨と皮になりました。母は父の実家の香川県高松市鬼無町にひきあげました。そこで祖父から「こんな子を連れて帰って」と非難されたことを相当うらめしく思ったようで、時々同じ話をしてくれました。父の家の事情もあり、結局両親と私たちはまた己斐に戻りました。 そこで成長して22才の大学卒業まで暮らすのですが、父も母も被爆者でしたが、特に母の身体が弱かった気がします。家事だけの人でしたが、一日中かかって掃除・洗たく・食事の支度をし、少し動くと休みながらという具合です。おまけに度の過ぎた清潔好きで、洗たくもハンカチを洗って次は上のもの、下着はその次、そのあとパンツ…といったくらいに丁寧でした。今思えば、それもこれも細菌におびえていた事情もあったかもしれません。私は母の身体の弱いのは偏食のせいと思っていましたが、ひょっとすると被爆の影響があったかもしれません。父は61才、母は57才で亡くなりました。二人とも脳内出血ですが、母は一度肺ガンということで、広島市のM病院で放射線治療を受けたこともあります。 私はよく熱を出し、決して強いとは言えず、身体も細く背も前から一・二・三を争うくらいのチビでした。それでも高校時代は皆勤賞をもらいました(授業中寝てばかりの子でしたが)。 それが結婚して1ヵ月ちょっとだったでしょうか。盲腸になり、夫も手術をしたこともあり夫の家族の中では名医と呼ばれていたN外科で手術をしました。なぜか2、3日眼が覚めず熱も出て、私が被爆者手帳で受診したからでしょうか、先生は慎重になられ結局1ヵ月入院しました。 また、二人目の子のお産の時���妊娠5ヵ月くらいから妊娠中毒症になりとうとう7ヵ月ころ入院。そして子供が9ヵ月に入った時母体がもたないということで早く生みました。お産がすめば蛋白尿がよくなるということでしたが、数値は4本プラスが2本プラスになっただけで入院がその後も続きました。家族を心配して泣き、食事もとれなくなり、そんな私を心配した先生が退院させてくれました。1年位かけて漢方薬をせんじて飲みながら治ることができました。この2回のトラブルで、人がスムーズにできることが上手にできないのは被爆と関係があるのかなあと思ったりしました。これが被爆者共通の心理かもしれません。
<家族の中で> 私が被爆者であるということを夫に初めて言ったのがいつかは覚えていません。当時は手帳取得が結婚にさわるという風評もあり、姉などは「いらない」とすぐにはとらなかったような気がします。私はそんな思いもなく所持していたのですが、夫が戦争の責任とか社会のものの見方などで、私よりはるかに反戦の意識が強かったので何も心配ありませんでした。広島・長崎の式典中継でも私より深く正座してみるような人で、これは幸いでした。 家庭の中で被爆体験を話せたこと。それを淡々と聞いてくれる家族がいたことはうれしいことです。 初孫が5才のころでしょうか。我が家には「原爆の図」「ひろしまのピカ」「ピカドン」(いずれも丸木位里・俊作)や原爆ドームの本など夫が集めた本がたくさんあります。それらを持って帰るほど興味をもち、「原爆ドームに行きたい」と親にねだるほどの孫娘。ホロコースト記念館にも何回か行き、私たち夫婦にもアンネの部屋を丁寧に教えてくれ、「ああこの子は平和の担い手に」と期待をこめて見守っていました。なにしろ8月15日生まれですから。そしてその孫に、佐々木禎子さんについてまとめたダイジェスト版の本を夫は作りました。それを読んだ孫は「禎子さんちは散髪屋さんだったんだね」と。夫はその一言に苦笑していました。2、3年もすると興味を失った孫娘が、いつの日かまた興味と関心を持ってくれれば幸いです。 孫娘が小学校1年生くらいの夏に遊びに来て、寝物語に被爆体験の話をしたところ「おばあちゃん(生きてて)よかったね」と言われ、私ははっとしたのを覚えています。「生きてて申しわけない」という被爆者のことばがよく言われます。私に明確にあるのではありませんが、いくらか私にも長生きへの申しわけなさみたいなものがあります。でも「よかったね」というのはありがたくかみしめたいと今では思っています。
<最後に> たまたま2020年3月15日付の中国新聞に、「被爆オリンピアン肉声現存・広島市出身36年出場故高田静雄氏」という見出しを見ました。その人は小学校時代の級友の父親です。また、米兵たちの被爆をほりおこし追悼してオバマ大統領にハグされた森重昭さんも級友のお兄さんです。佐々木禎子さんが白血病で亡くなられたころ入院した級友もいます。でも、私たちは戦後60年、還暦を迎えた同窓会でほんの少し被爆のことを話したことがあるくらいで、級友でも詳しいことはほとんど知りません。日々衰えていく記憶と、語りあう機会も減っていく中で、今回書き残してみたのはよかったように思います。記憶とは不思議なもので、自分流にゆがめているかもしれません。この主観的な記録がどのように伝えられていくのか少し楽しみです。長生きすれば「最後の被爆者」となる可能性もある人間の記録ですから。そのためにも両親からもっともっと話を聞いておきたかったです。
<さらに> この原稿のパソコン入力を娘がひきうけてくれました。彼女は幼い頃、原爆資料館のろう人形母子を見ておびえましたが、私と平和行進に参加したことや、大会で「青い空は青いままで子どもらに伝えたい。燃える八月の朝…」と歌ったことは覚えています。8月6日の式典で峠三吉の詩を子供代表が語ったのに感動して、東京から電話をかけてきたこともあります。彼女には彼女のヒロシマとの歴史が作られているのですね。いろいろな形でヒロシマが伝承され続け、子や孫・その先まで、この愚かなことがくり返されぬように祈ります。私の胸を今でもゆさぶる歌「原爆許すまじ」を心に銘じて。
(2020年4月記/上村洋子)
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作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,拍攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作為一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚起的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人原住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象:
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東京,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家��創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污染的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向發展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概會出現奇形怪狀的景象吧。 在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)山形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—大阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里得空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種元素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿傑(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽仁五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的���動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(弗朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出水面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性���像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
#松田政男#masao matsuda#landscape theory#風景論#fukeiron#足立正生#masao adachi#aka serial killer#a.k.a. serial killer#略称・連続射殺魔#谷川雁#寺山修司#shuji terayama#gan tanigawa
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褐色属性を嫌わないでくれ
※注意※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 1. 気持ちが悪い話をするので、オタクがニチャニチャしてるのが嫌いな方はブラウザバックしてね
2. この記事には"褐色"というワードが頻繁に出てくるよ 途中で「クソ記事つまらん、読む価値ねえ」と思ったら"褐色"が記事中に何回登場するか数えながら最後まで読んでみよう!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
無論こんなブログを書いている身なのでアニメに出てくる女の子が好きなんですよ 中でも特に好きな属性として褐色というのがあるのでちょっとキモ語りをば
褐色⊃黒ギャル 、褐色≠黒ギャル
淡麗な色白美少女に比べ褐色はそこまで人気の属性ではないのはわかってる...
ただひとつだけおっさんの小言を言わせてもらうと、黒ギャルだけが褐色じゃない
黒ギャルのイメージで褐色キャラといえばちょっと下品という誤解が若干ある気がする
むしろ褐色が性癖な人にも黒ギャル属性は苦手という人もいるくらい
褐色属性ってのは単に肌が少し浅黒いキャラを指すだけで、キャラの性格は作品でバラバラ
もちろんその中で黒ギャル属性が好きな人もいるけど、「褐色属性が好き」というのは一般に「このキャラが好き、更に褐色だからいいよね」という風な加点要素のことだと思ってる
そんなもんで、もし身近に「褐色が好きなんですよぉ~」という人がいたら安易に黒ギャルキャラを勧めないでやってほしい (というかむしろそんなキャラへの性癖を常日頃からオープンに話すのもどうかとは思うけど)
褐色属性、頭に浮かびますか?
褐色キャラの魅力を伝えるには皆さんがかつて見たアニメの褐色キャラを想像してもらうのが早いと思うんだけど
そもそも印象が強い黒ギャル以外で褐色キャラが思い浮かびますか...?
...
......
はい、そんなに出てこないよね それもそうで褐色キャラはわりと希少で「どんなキャラいたっけ」ってのがあると思うので...
イチオシ褐色キャラを並べさせてくれ!頼みます!! これをやりたいがために記事を書いてるんだよ!!
はい
じゃあ思いついた順にじゃんじゃん並べていきます
チョイ(たまこまーけっと)
たまこまーけっとに登場する南国から来た女の子。かわいい
けいおんのあずにゃんのそれと同系統の魅力がある、加えて褐色なので健康的で見ていて健康になる
阿波根うみこ(NEW GAME!)
プログラマ班の班長、主人公の青葉より年上のお姉さん。かわいい
2期から登場回数が増えてより魅力的なキャラになる。基本厳しいけどいい上司役という古き良きお姉さんスタイルのキャラクター
褐色!!!!丸眉!!!ほら、これが好きなんだろ!これが!!って感じが最高
ひびき(ダンベル何キロ持てる?)
この作品の主人公、筋トレを始めた無邪気な女の子。かわいい
この作品は全体的に露出が多くて、見ていて元気をもらえる。
ジャヒー(ジャヒー様はくじけない!)
タイトルの通り主人公、だいたいかわいそうな目にあっいる。かわいい
大人バージョンと子供バージョンの2形態あり、1作品で2度美味しいを味わえる。どちらもその肌が映えるような服装をしていてこの原作者から感じる並々ならぬ褐色愛が感じられる、いい
武本うるか(ぼくたちは勉強ができない)
シンプルなスポーティ元気っ子。かわいい
ハーレムものなのでひとりひとりはそこまで凝った属性をしていないからこそ、こういうスタンダードな褐色元気っ子いいよね
黒部夏美(先輩がうざい後輩の話)
大人な褐色お姉さん、おねショタのおね、かわいい
古き良き褐色金眼お姉さんなのに出たのは割りと最近、まさに温故知新
青沼ねいる(ワンダーエッグ・プライオリティ)
エリートでクーデレな女の子、かわいい
登場人物の中で一番女の子らしい格好してるくせに本人がクールぶろうとしているのがいい
ラルク(トップをねらえ2!)
トップをねらえ2の方に出てくるヒロイン、かわいい
だいたいノノとこの子がゴタゴタしてるせいであんまり明るい表情してる気がしないが、それはそれとしておでこがいい
長瀞(イジらないで、長瀞さん)
褐色でドSな後輩、かわいい
作品自体は主人公があまりに情けなさ過ぎて見てられなくなるが、それを補う長瀞さんの魅力でギリギリ見れたというものだった
でもどちらかというと黒ギャルに近い部類な気もする
遠井成美(はるかなレシーブ)
主人公ペアのライバルとなるクール系少女、かわいい
ビーチバレーを扱う作品上、必然的に露出が毎回多くなり健康的な褐色肌がたくさん見られる。同作品のかなたちゃんも褐色系でたいへん良い
ナディア(ふしぎの海のナディア)
海が似合う儚げかつわがままな女の子、かわいい
褐色の子と言ったらこの子だろうってくらい有名だが実際可愛い
ただ無人島編以降から以上にナディアのわがままが強くなってもはや暴君と化すので、ナディアというキャラを楽しみたいなら個人的にはノーチラス号編まででいいと思っている
夜一(BLEACH)
性癖破壊お姉さん、かわいい
褐色、紫髪、金眼、お姉さん...こんなキャラが夕方のアニメで流れたら少年たちの性癖はぐちゃぐちゃになっちまうよ...
黒猫からこのお姉さんに変身したときの衝撃はやっぱりスゴかった
夜一さんとソイフォンとのバトル好き
スレッタ(機動戦士ガンダム 水星の魔女)
褐色丸眉のニュービー、かわいい
つねにおどおどしているところとその容姿からネットでタヌキ扱いされている、めちゃカワ
ガンダムシリーズは全く見たことなかったが、スレッタに惹かれて見始めて無事ハマり今季の楽しみになっている
ネメシス(ToLoveるダークネス)
エッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ
ネメシスのせいで全部壊された。狂わされた。助けてくれ。
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近代日本の芸術家とその邸宅を設計した建築家
※以前の記事に不具合があった為、再掲。 建築家も芸術家の内ではあるが、 ここでは画家や作家の総称として使わせていただく。
先日鑑賞した東郷青児展では石本喜久二が、 また吉田博展では渡辺仁がその邸宅設計に携わっているのを知った。 このように有名建築家が芸術家の邸宅を手掛けた例は いったいどれくらいあるの��ろうか。ざっと調べたのが以下の通り。 ▼有名建築家が設計した芸術家の邸宅
太田喜二郎邸 藤井厚二設計 大正13 京都市上京区 アトリエは太田の設計で採光に拘った作り 東郷青児邸 石本喜久二設計 昭和6 世田谷区代沢 現存せず インターナショナルスタイルの「白い家」 吉田博邸 渡辺仁設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず ステンドグラスなどの内装は吉田もデザイン 三岸好太郎 山脇巌設計 昭和9 中野区上鷺宮 バウハウスに学んだ山脇のモダニズム建築は 近隣から「お豆腐の家」と呼ばれていた 安井曾太郎邸 山口文象設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず アトリエのみ 設計にあたり多くの注文があり苦心した様子 前田青邨邸 山口文象設計 昭和11 鎌倉市山ノ内 純和風建築 山奥の寺院の中にあり非公開だが現存する 林芙美子邸 山口文象設計 昭和16 淀橋区下落合 現・林芙美子記念館 数寄屋造の和風建築 林は新居建設の為に建築を学んだ 上村松園邸 西澤文隆設計(坂倉準三建築研究所) 昭和22 奈良市山陵町 現・唳禽荘(れいきんそう) 岡本太郎邸 坂倉準三設計 昭和28 港区南青山 現・岡本太郎記念館 岡本と坂倉はパリ留学中より親交があり、その後も協同 吉村益信邸 磯崎新設計 昭和32 新宿区百人町 住居兼アトリエ 前衛芸術集団「ネオダダ」の拠点となった 通称・新宿ホワイトハウス 現・Chim↑Pomアトリエ 東山魁夷邸 吉村順三設計 昭和28 千葉県市川市 東山の依頼に基づいた簡素な住居 猪熊弦一郎邸 吉村順三設計 昭和46 大田区田園調布 RC造3階建ての二世帯住宅 非公開 赤瀬川原平邸 藤森照信設計 平成9 町田市玉川学園 通称・ニラハウス 竣工時は屋根にニラがなびいていた その他、数多くの日本画家の邸宅・画室の設計に携わっているのが 吉田五十八で、近代数寄屋建築が日本画の制作環境に馴染み、 好まれていた事が伺える。 ▼吉田五十八が設計した邸宅・画室
鏑木清方邸 昭和7 牛込矢来町 旧居 現存せず 昭和29 鎌倉市雪ノ下 新居に五十八が設計した画室を再建 現・鏑木清方記念美術館 小林古径邸 昭和9 大田区南馬込 平成5解体 新潟県上越市に移築 現・小林古径記念美術館 川合玉堂邸 昭和11 新宿区牛込若宮町 現存せず 山川秀峰邸 昭和11 品川区下大崎 画室のみ 現存せず 昭和18 中郡二宮町 別邸 現・旧山川秀峰・方夫邸 山口蓬春邸 昭和14 世田谷区祖師谷 旧居 現存せず 昭和23 三浦郡葉山町一色 画室など増改築 現・山口蓬春記念館(改修は大江匡) 梅原龍三郎邸 昭和27 新宿区市谷加賀町 画室のみ 山梨県清春芸術村に移築 昭和33 同地に新居を建設 その後は不明 吉屋信子邸 昭和37 鎌倉市長谷 現・吉屋信子記念館
ご覧の通り芸術家と建築家の結び付きは強く、 古くはジョサイア・コンドルが河鍋暁斎に師事して日本画を学んでいるが、 もしもコンドルが暁斎邸を設計していたら…なんて想像するのも一興哉。 コンドルの例は兎も角、公共建築に於いては両者の協同も多い。 (例)丹下健三・黒川紀章・谷口吉郎 などの建築家と 岡本太郎・猪熊弦一郎・イサム・ノグチ などの芸術家
元々建築デザイナーも絵描きのうちで、図案や家具、 公共デザインを手掛ける建築家も少なくはないし、 たまたま創作のジャンルが異なっただけのことなのかもしれない。 モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエは優れた画家でもあった。 その一方で、芸術家が自ら建築設計してしまう例もある。 ▼芸術家が自ら建築設計
岡倉天心 明治38 北茨城市大津町五浦 観瀾亭と称する六角堂を設計 東日本大震災で起きた津波により消失 その後再建 橋本関雪 大正3 - 5 京都市左京区 自邸・画室・庭園を設計 現・白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪記念館 画室は存古楼(ぞんころう)と名付けられた 昭和6 - 7 持仏堂・茶室群を設計 庭園はその後も拡張される 横山大観 大正8 台東区池之端 自邸を設計 東京大空襲で消失 昭和29 同地に新居再建 内装も設計 現・横山大観記念館 旧宅及び庭園が国の史跡及び名勝に指定されている 坪内逍遥 大正9 熱海市水口町 自邸を設計 現・双柿舎(そうししゃ) 山元春挙 大正10 大津市中庄 琵琶湖畔に別邸を設計 現・記恩寺 蘆花浅水荘(きおんじ ろかせんすいそう) 安田靫彦 大正11 三島郡出雲崎町 良寛堂を設計 昭和3 中郡大磯町 自邸を設計 現存せず 昭和6 中郡大磯町 安田善次郎別邸(寿楽庵)庭園内 経蔵・持仏堂・平唐門等を設計 昭和9 伊豆市修善寺 新井旅館 天平大浴堂・花の棟・吉野の棟・観音堂を設計 朝倉文夫 昭和3 - 10 台東区谷中 自邸・アトリエを設計 8回に及ぶ増改築と7年の歳月を掛けて完成した 現・朝倉彫塑館 中庭と屋上庭園が国の名勝に指定されている 柳宗悦 昭和10 目黒区駒場 栃木の農家から長屋門を移築し自邸を設計 昭和11 民衆的工芸品展示の為、同地に日本民藝館を設計 河井寬次郎 昭和12 京都市東山区 自邸兼仕事場を設計 鐘溪窯と名付けた登り窯を付設 現・河井寬次郎記念館 川端龍子 昭和13 大田区中央 画室を設計 昭和23 - 29 同地に自邸を設計 増改築を経て完成 昭和35 伊豆市修善寺 新井旅館 改装工事監修・玄関を設計 昭和37 大田区中央 自作展示の為、龍子記念館を設計 堂本印象 昭和41 京都市北区 自作展示の為、堂本印象美術館を設計
芸術家の美意識が詰まった建築は、個性的でとても興味深い。 素材や意匠など細部に渡って拘りが見え、空間表現も巧みだ。 日本画家の巨匠である安田靫彦と川端龍子は自邸以外の設計も手掛けており 両者の建築コラボレーションが伊豆修善寺・新井旅館を改装する際に、 時を経て実現している。
20220108<加筆修正> 日本画家 橋本関雪・山元春挙を追加
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平地人的入山儀式
地圖、望遠鏡、噴燈、指北針、濾水器、瑞士刀、簡易急救包。
夜間穿的保暖羽絨外套、白天披的公發防風大衣、四套換洗衣物、雨衣、水袋、繩索、睡袋、個人帳篷。
還有無線電對講機、砍刀以及食物。
漫長的清單猶如以行列組合而成的詩句,堆疊出一趟艱辛的遠行,我把使用頻率低的物品往下層放,需要常拿出來的墊在上方,讓每一吋空間都能充分利用,五十五公升的登山背包給塞得鼓脹,邊緣都撐開到露出縫線了。
他們告訴我,要有心理準備,這趟與世隔絕的野人生活絕對不會輕鬆,深山特遣隊的重要目標是清查貴重林木、遏止盜伐盜獵,守護台灣山林的綠寶藏,走的都是沒有路的路,可不是去踏青郊遊。
我說我知道,我將之視為人生成就的挑戰,順便測試這幾個月來進步了多少。平日接受基礎山訓、野外求生、救援訓練、野炊露宿等等特遣常訓,為的就是學以致用的這一刻。
不過,當我驚覺背包總重高達十五公斤時,還是摸摸鼻子扔出兩套換洗衣物,攜帶個人帳篷的念頭也打消了,我決定和其他人一起餐風露宿,渡過不怕黑、不洗澡、不嫌髒的四夜五天,稍微減輕雙肩和背部的壓力。
據說背包重量維持在自身體重的三分之一最為適宜,然而這個數字因人而異,否則安大哥怎會用完全沒有人體工學專業可言、自行改製的L
型鐵質揹架,綁上那種菜販在用的藍紅尼龍袋,外加一條分散壓力的頭帶,便能扛上五十公斤的裝備健步如飛,還臉不紅、氣不喘的呢!
楊向陽也不遑多讓,他是我們的行動醫務室,除了個人基本配備,他還準備了充足的藥品,包括透氣膠帶、消毒水、O K 繃、胃腸藥、消炎止痛、感冒藥、生理食鹽水、止痛藥和被虎頭蜂叮咬的處方藥,加上公糧、五吋釘、鐵鎚和噴漆,應該也有四十公斤以上。
「五天後見囉!」開車載我們來的莊哥和陸姊揮手道別。
我們一行人全副武裝,佇立於產業道路的盡頭,凝望他們夫妻倆的車漸行漸遠,輪胎捲動的塵煙緩緩落定。
此時此際,站在文明世界和荒原野地的過渡地帶,森林與荊棘交織為背景,頗有一種悲壯淒涼的感觸。
接著,我們全體轉身一百八十度,面向登山口,一臉決絕肅穆。
來自鄒族的安大哥旋開新買的小米酒,以瓶蓋為杯,沉穩的動作把酒倒至半滿,手指沾酒灑地三次,意味祭祀山神祖靈。布農青年楊向陽則把小米粽子放在地上,與安大哥並肩而立,兩人口中念念有詞,各自以母語祈禱神靈保佑此趟任務平安。
平地人也有自己的入山儀式,老劉和宋子平默契十足地解開手中塑膠袋,取出事先在佛具店購買的金銀紙,再把自助餐店包來的便當打開,與金紙並排整齊,安放於樹根旁。老劉雙手合十,閉目垂頭低語:「我們是林務局的深山特遣隊,這次上山是為了清查貴重木,請土地山神保佑我們此行順利,平安歸來。」
宋子平也跟著拜了三拜,隨後掏出打火機準備燒金紙。
「要不要一起?」他抽出一疊遞給我。
「你們燒就好了,我沒有特別的宗教信仰。」我推辭道。
「沒有信神也可以拜啊,心誠則靈,有拜有保佑。」安大哥四平八穩的聲音傳來,彷彿一手掌握大局。
「我真的不用。」我以客氣的微笑婉拒他們的好意。
小時候家裡是有在拜拜的,母親早晚三柱清香從沒有少過,是到什麼時候停止這習慣的呢?我又是何時變成無神論者的呢?也許是從父親丟了性命。又或者更早些,早在母親認定,神明沒有回應她婚姻幸福的期待的那一刻。
水里工作站附近有一座「人倫榮民塔」,每逢春節、端午和中秋三節,林務局都會舉行團拜。望鄉那邊也有一間神社,亦是年年舉辦普渡盛事。類似這些公開場合,我通常都虛應故事做做樣子,自父親辭世後,神明在我心中的信用額度就歸零了。
當最後一頁金紙在火光中燃燒、扭曲變形、幻化為灰燼,我們撲滅餘火,然後收拾東西,呈一路縱隊,展開為期五日的長程跋涉。
由安大哥領頭,接著是宋子平、老劉和我,楊向陽殿後,公發的防風大衣是我們的隊服,成為某種標示,將我們未來的命運綁捆在一起。
論及特遣隊的領頭羊,安大哥當仁不讓,雖說事先都規劃好了路線,原則上盡可能循著水源向前,然而實際上,卻有可能遇到各式各樣的麻煩,需要方向感絕佳、經驗老到又判斷精準的老鳥帶路。
這一路上有可能臨時改道,高繞或者下切,或是溯溪渡河,或是攀走稜線,每一分每一秒都需要隨機應變。安大哥熟悉山林,對他而言,森林裡的危險就和公路上的標誌一樣清晰可見。
我們沿著林道走到沒路,安大哥以無線電回報座標、林班和海拔高度,接著,他拿出從不離身的砍刀,開闢出一條方便行走的路徑。
關於找路,放眼整個工作站,大概沒有人比安大哥更高明了吧。猶記得初踏入森林,我對於方位全然沒有概念,放眼望去四面八方都是綠樹,很容易迷失其中,只能勉強根據日照的方向猜測東邊和西邊。
我懷疑原住民自帶內建的G P S ,安大哥和楊向陽幾乎記得每一個走過的地方,對於該地有些什麼樹、樹林的疏密、樹型長得如何琅琅上口,甚至牢記地形山勢。彷彿腦裡建構了整座山脈的3 D 投影,還附帶清晰的座標,光是站在山中的一個小點,就能判斷身處的位置。
「專注於當下的環境,去認特別的東西,奇怪的樹,或者大石頭。」這句話是安大哥的金科玉律。
我一直想跟他偷學幾招,卻只有學到皮毛,可見我的感官還不夠靈敏。
他找路的時候會觀察地貌,選擇樹木比較密集的地方,並且以S 型的路線繞行,樹大表示草少好走,偌大的樹冠遮蔽了陽光,底下的蔓草自然難以生存。安大哥也會刻意避開遠看著只有生長芒草的山頭或坡地,因為那是無法植生的崩塌地或峭壁。
這天我學到的新功夫是「做記號」,只見安大哥踏著穩定的步伐,以不疾不徐的速率前進,每隔一段距離,就拿砍刀在途經的樹幹上做記號,幫助大家認路。做記號的方式是削去樹皮,大小約一個煙盒的尺寸。若回程打算走同樣的路線,則樹幹雙面各削一次,方能輕易辨認出來。
偶爾安大哥也以折樹枝取代削樹皮,尤其是轉彎的地方,他會把細枝折去一半,讓枝椏自然垂落,指出行進的方向,猶如一枚箭頭。
我瞄了我的G P S 一眼,果不其然,在山溝和樹林鬱閉處收訊很差。聽前輩說G P S 在森林裡的誤差值可能多達五十公尺,若是沒有警覺性,有可能愈走誤差愈大,等到發現時已是幾小時後的事,相差了好幾公里遠,白白浪費時間。
「小儀,還O K 嗎?」宋子平回頭關切地問:「男生和女生本來就體力有差,需要放慢速度就說一聲喔。」
「放慢速?那五天的行程是要走到一個禮拜嗎?」老劉咄咄逼人地問。
「沒問題啦,別把我當女生。」我說。
儘管腳下的土地崎嶇不平,有雜草、有石礫,我的腳程都還算跟得上。
我們趁著白天有光的時刻趕路,中午簡單吃過,安大哥宣布休息時間只有十分鐘,要大家盡快上完廁所、收拾行囊,準備繼續推進。
「知道了,那我去旁邊上一下。」我對夥伴們說。
「不要走遠,免得搞丟了。」安大哥說。
宋子平露出頑皮的神情:「一起去呀,不是說別把妳當女生?我們不能有性別歧視,所以要一起尿尿。」
「沒問題,乾脆就地解決好了嘛。」我頂了回去:「你們把眼睛閉起來。」
「妹妹啊,妳一個人上廁所,要我們四個眼睛閉起來?妳把眼睛閉起來不就好啦?」老劉說。
「好喔。」我好整以暇地動手開始解褲頭。
「等等,妳真的要脫?」他們呆若木雞,搞不清楚我在開玩笑,還是當真豁出去了。
就在我預備拉下褲子的剎那,四個男生咻地轉身,有志一同地背對我站立,我忍不住放聲大笑。
本文選自 鏡文學出版 《山神》一書。
森林裡很危險,請記得「專注於當下的環境,去認特別的東西,奇怪的樹,或者大石頭。」
此本《山神》是臺灣首部巡山員小說,講述一個大學畢業女孩不顧一切當上巡山員,一個人要管理約50座大安森林公園的山林面積、喝下水鹿洗澡坑裡的水、埋伏抓山老鼠,挑戰接連而來,即使吃盡苦頭,仍想知道當年父親來不及告訴她的事。 一起來揭露巡山員不為人知的護國任務吧!
◎書籍資訊:https://pse.is/3g5nty
◎延伸閱讀:森林警察的抓「山老鼠」之術
◎ 更多戶外資訊請見: 山林野趣粉絲團
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「芸術実験旧喫茶ますみと甘木鉄道」①
空間との共鳴。朝倉という地域性。8名の作家のコラボレーション…鑑賞者により様々な捉え方が生まれるユニークな展覧会。
会 期丨2024年3月2日〜17日
会 場丨①旧喫茶ますみ
朝倉市本町1186-16
②甘木鉄道甘木駅
朝倉市甘木1320
入場料丨800円
参加アーティスト
青栁隆之介 @pinojam_the_artist
冨永剛 @tomi_39saku
中園唯 @dreaming_offtone
中村公泰@kimiyasu_art
宮野英治 @eiji_miyano
MIRAI @miraizukunft
山口貴一 @yamaguchi.takakazu
岑國希 @blue.bone
グラフィックデザイン
#須藤史貴[anno lab]、宮垣貴宏
主催 芸術実験準備室
gallery cobaco @gallery_cobaco
協働 朝倉市
後援 あさくら観光協会
朝倉商工会議所
協賛(敬称略):株式会社 敬愛、株式会社 篠崎、原鶴温泉旅館協同組合
あさくら 税理士法人、阿さひ飴本舗菓蔵家、甘木観光ホテル甘木館、有限会社 甘木白蟻、甘鉄エージェンシー株式会社、株式会社 泉組、有限会社 チェック保険サービス、株式会社 手嶋組、天ぷら 七八、福岡銀行、Ponte クラシックギター教室、弁護士法人 松本・永野法律事務所、美奈宜神社、夢ごごち らくや
個人協賛(敬称略):草場啓子、行徳美千代、尾花洋子、鋤本禮子、国分恵美子 他
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍���ことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」
なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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#Repost @haiirohosororisu
・・・
☆ @larimar.peaceさんからバトンを受け取りました😊ありがとうございます❤️
何年か前に行った
河口湖南岸に広がる八木崎公園です。
昔のpicを探すのは楽しいですね💕💕💕
#2回目の青空バトン
#2回もいいのかな?
#Wind chimes
#ご迷惑でなかったらバトンを繋げて下さい
#コロナに負けるな
#青空パワーみんなに届け
#みんな頑張ろう
#風鈴
#青空バトン
#青空バトン繋がりました
#青空バトン受け取りました❤️
引用元: instagram @haiirohosororisu
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2020.3.22大学野球オープン戦 亜細亜大学グラウンド 亜細亜大学-NTT東日本 N東0004100000|5 亜大0000122001|6x ※延長10回~タイブレーク、継続打順無死1・2塁
[NTT東日本] ▼打撃成績 6上川畑 大悟(倉敷商業-日本大):5打数2安打 4丸山 雅史(星稜-国士舘大):2打数無安打 (H-3)二十八 貴大(岩国-中央大):3打数無安打 8向山 基生(法政二-法政大):5打数2安打 7桝澤 怜(八王子-亜細亜大):5打数3安打1打点(!) (1)末永 彰吾(筑陽学園-帝京大):0打席 D平塚 大賀(春日部共栄-明治大):1打数無安打 (H-D)越前 一樹(横浜-立正大):3打数2安打2打点(!) (H-7)長澤 壮徒(甲府工業-上武大):1打数無安打 3-5八田 夏(履正社-日本大):4打数2安打1打点 5-4朝田 光(高川学園-拓殖大):4打数1安打 2保坂 淳介(佐野日大-中央大):2打数1安打 (H-2)佐久本 一輝(興南-亜細亜大):1打数無安打 (2)髙橋 亮介(埼玉栄-駒澤大):1打数無安打 9村岡 勇樹(千葉経済大付-桜美林大):4打数1安打1打点 ▼投球成績 ①堀 誠(日本航空-立正大、右オーバースロー) └3回、37球、被安打2、与四死球0、4K、無失点 ②稲毛田 渉(帝京-仙台大、右オーバースロー) └1回、20球、被安打0、与四球1、0K、無失点 ③飯嶋 海斗(成田-東海大、左オーバースロー) └3回、59球、被安打5、与四球2、与死球2、2K、暴投1、5失点 ④佐々木 健(木造-富士大、左オーバースロー) └2回、26球、被安打0、与四球1、2K、無失点 ⑤末永 彰吾(筑陽学園-帝京大、右オーバースロー) └0回0/3、1球、被安打0、与四死球0、0K、1失点 ▼失策:2
[亜細亜大学] ▼打撃成績 6矢野 雅哉(育英):2打数無安打 4田中 幹也(東海大菅生):4打数2安打1打点 3虎谷 貴哉(星稜):3打数3安打2打点(!) 7伊藤 寛太(静清):2打数無安打 (5)大越 弘太郎(健大高崎):2打数1安打1打点 D野中 翔太(佐賀商業):3打数無安打 (H-D)平野 友都(佐賀商業):1打数無安打 8新中 楓基(崇徳):4打数1安打1盗塁 5黒川 貴章(新田):1打数無安打 (R-7)小野寺 大輝(健大高崎):2打数無安打 2草部 真秀(常総学院):2打数無安打 (2)小山 翔暉(東海大菅生):2打数1安打 9竹輪 涼介(秀岳館):3打数1安打1盗塁 ▼投球成績 ①青山 美夏人(横浜隼人、右オーバースロー) └4回、59球、被安打9、与四死球0、1K、4失点 ②井上 仁裕(育英、左オーバースロー) └2回、22球、被安打4、与四死球0、1K、1失点 ③高山 大河(神村学園、右オーバースロー) └1回2/3、23球、被安打0、与四球1、3K、無失点 ④岡留 英貴(沖縄尚学、右サイドスロー) └0回1/3、4球、被安打0、与四死球0、0K、無失点 ⑤田中 大成(八幡浜、右オーバースロー) └1回、11球、被安打1、与四死球0、2K、無失点 ⑥内間 拓馬(宜野座、右オーバースロー) └1回、17球、被安打0、与四球1、2K、無失点 ▼失策:0
※公式記録とは異なる場合があります
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一家一館
老闆就是最佳的說書人
來老街,先到第一站的湖口老街旅遊服務中心拿張導覽地圖,按著圖參觀老街上有特色的一家一館,有吃有玩有可以逛的店家,如老街客家美食的傳統米食,餐廳則有百年歲月、及位在天主堂側的瑪納風味餐廳等,瑪納除客家菜外還有曾獲新竹縣十大伴手禮的辣椒醬<希望醬作>,與餐廳相連的瑪納庭園茶館,則有擂茶DIY的體驗。三元宮前的老街藝品柑仔店, 店內有各式各樣的藝品及兒時零嘴,相鄰幾間的木醋達人由一群年輕創業,展售萃取自樹木的天然清潔用品,甚至陸續新開開的創意小店,時間充裕都很值得入內參觀。而出了老街過了高速公路涵洞不遠處的八角紅樓,是間近百年的兩樓巴洛克式磚造洋樓,再繼續往湖新路就是牛車驛站、漢卿步道與金獅步道,腳程好喜歡踏青的朋友,別錯過老街的歷史人文、有特色的故事館、自然步道與茶園景觀。
老湖口天主堂文化館
西方宗教建築是老街上最好的起點,沿著階梯拾級而上是典雅高聳入天的建築,站在木門前會有種寧靜之感,教堂的二樓紀錄了天主教在客庄大窩口的歷史軌跡,文化館的鎮館之寶,則是滿思謙神父編纂全世界第一部的英客字典,絕無僅有,祭台右側則懸掛著大約是在1965年前後的布製中文聖祭經文,以工整的書法字抄寫彌撒過程重要的祈禱文。
國揚琉璃藝術坊
李國揚館長是現任玻璃協會的理事長,來自台南白河,十幾歲時就對玻璃的吹製感興趣而來到新竹,剛開始他先從學徒做起,學會掌握矽砂在高溫下與不同金屬產生色澤變化的特性、吹拉鑄造等不同技法,後來嘗試不同造型主題,逐漸走出一條玻璃工藝的路。現在館內陳列各式的玻璃藝品,欣賞晶瑩剔透的作品,耐得住高溫的朋友,可以在現場觀摩作品由無到有的過程,親眼見一只長形玻璃棒,在李國揚手上很奇妙地變身為一隻栩栩如生的馬、鬱金香花束等。
木石花園
保有紅磚門樓的木石花園,有個非常熱情的館長鄭榮次,他是老湖口人,曾在新北市板橋當過三屆里長,即使頭髮花白,只要走到門邊就可以感受到他邀請入館的好客,不難想見他過去熱心助人的佳評,後方一草一木的栽培更顯見他對此地的熱愛;館內展示了他畢生的收藏品,包括許多世界各地的朋友交流餽贈,以致於館內的收藏品超過三萬件,在眾多的物件裡,最讓鄭榮次驕傲的是從事藝術創作的兒子打造的台北101大樓之牆面門神彩繪作品。
花語烘培工坊
精於義大利麵的劉宇軒,原來在竹北有家餐館,受金融風暴影響最終選擇結束生意,以精緻的西式糕點重新出發,不加水、香料等人工添加物的起司條口味獨到,與平實價位的提拉米蘇是店內的招牌餐點,有興趣來到這裡,記得選購之餘,也聽老闆分享他對於甜點無師自通的勤實努力。
香草花園
老街上最美的翠綠的草坪,就在香草花園,經營花園超過十二年的羅志堯,是道地的湖口老街人,離開原來室內設計工程,整理老家之後就以太太拿手的幾樣料理開門做生意,有了基礎後以供應西式套餐、飲品等服務;除了開店,羅志堯也利用閒暇空檔與在地文史工作進行訪談調查,旁邊的白色小木屋,是他不眠不休耗時一個月打造,屋內陳列著一張張斑駁歲月痕跡的老照片,是關於老街的前世今生,對大窩口歷史與老建築有興趣的朋友,不妨來這,聽羅志堯聊聊他兒時趣事。
台富行芋香餅
店內最道地的點心是芋頭餅,揀選在地新鮮芋頭削皮製成內餡,顏色看似不鮮豔?是因為糕點師傅黃偉鴻堅持不加香料、色素,他與糕點的淵源自小就開始,黃偉鴻成長在老字號的關西糖果工廠,為了製作薑糖,他打從國中開始就跟著阿婆在深夜起床,用杵臼來搗碎老薑;然而,黃偉鴻剛結婚時並不是做糕點,而是載著一卡車的園藝樹苗到處販售,直到一回種樹過程受傷,為了謀生他才回到最熟悉的老本行「傳統糕點與糖果」,也才有了店內招牌商品「月光餅和芋香餅」的誕生,至於薑母糖、麥芝果、花生糖、芋香酥片及客家仙草,也都是黃偉鴻與妻子親手製作。
��豆之味豆腐坊
黃學緯因為本身多年推廣有機農業及認證工作,在他的觀察中發現,黃豆的耕種是一種善待自然、環境永續的勞動實踐方式,所以他毅然決然投入豆製品的生產,摸索期間除了到日本琉球去觀摩之外,也參加台灣的「合樸農學市集」販售豆類製品,並在市集裡開設教學課程,一步步建立消費者對「豆之味」的認識與信任。現在只要到湖口老街,就能品嘗到黃學緯為大家準備的天然豆類製品。
小駐百貨
老街上的小駐百貨,大門門楣上有個老堂號「天祿堂」,店內的香粉香皂、陶瓷食器、玻璃容器、古早味玩具及糖果…應有盡有,每個懷舊小物,都像是很久以前就在架上、完好如初的陳設在老櫥櫃;經營小駐百貨的范振州來自新埔,他分享著家鄉的老街況味,聊著他在湖口老街找到相近的古老氛圍,於是,他辭去原來在科技廠的工作,選擇老街來實現夢想,這家復古懷舊百貨行就是他回歸家鄉的第一步。店內的食器、古早味的香粉香水及可循環使用的自然素材用具,是范店長推薦伴手禮的首選。
嶢品藝術
騎樓紅磚門柱旁復古味十足腳踏車,販賣的是芋泥、芋頭冰,一旁是店家嚴選的老街文創商品,門樓維持著老街建築式樣,每到假日人潮總是擠得滿滿,人手一盒的享用芋頭點心;「嶢品」是由黃騰嶢夫婦協力用心經營,一人負責空間與藝術創造,一人在美食發揮專長,他們在湖口老街一路從餐飲到生活美學藝術等不同型態的經營,累積十年經驗最後成功轉型為藝文空間,空間裡的藝術品與老物件在在呈現著生活的品味,即使不買館內陳列的藝術品或物品,也是個值得沉浸放空的好地方。
湖口風情
湖口風情原址的「復興戲院」是日治時期的郵便所,後來在1954年改建,主要是開放給當時的國軍裝甲部隊,連盛極一時的牛車順戲團、客家採茶戲班或雜耍賣藝都曾在此演出,後因部隊裡建了基地、捷豹兩間戲院分食客源,加上1960年的一場強颱將屋頂掀翻而歇業走入歷史;2008年起轉由「湖口風情」經營客家傳統美食,背後重要的推手是文物協會理事長的盧廷城與擔任大廚的太太,他從航空公司退休,協助太太共同經營,店內每道菜都是挑選新鮮食材料理,「客家獅子頭」還曾經在客家創意料理比賽得獎,開張至今,甚至有來自台北的客人每周按時來餐廳報到,六年如一日,是忠實的好主顧。歡迎來到老街上的「湖口風情」用餐,絕對可以品嘗到廚師用心的客家原味菜餚。
往新豐
湖口再往南是新豐,從竹塹地區的歷史發展來看新豐的紅毛港過去居舉足輕重的地位,舊名是���毛鄉的新豐,因為紅毛港而得名,它曾經是荷蘭、清末福建廣東移民的登陸點,現在成了觀察學習紅樹林生態重要據點之一,鳳坑村的姜屋聚落是北埔姜家渡海到台灣的落腳處,對於墾拓歷史、客家傳統件建築有興趣的訪客,來到新豐除了自然生態、鳳崎晚霞外,還可走訪香火鼎盛的池府王爺宮及中崙村的三元宮。
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