#五番町
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boydswan · 1 year ago
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奥田瑛二 || 五番町夕霧楼 (1980)
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andquietrollsthedawn · 1 year ago
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A House in the Quarter (Tomotaka Tasaka, 1963)
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kyokocanary777 · 3 months ago
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スーパー銭湯が好きだ
昨日は、ここの記事を更新した後、夜行バスに乗って横浜へと向かいました。
横浜駅に着いたのは、朝6時。
そこから、相鉄線に乗って上星川(かみほしかわ)駅に向かい、駅近くのスーパー銭湯に行きました♨️
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満天の湯というところ♨️
ここ↓
朝6時からあいてるのですよー。
先日知りました😀
保土ヶ谷区にあります。
横浜駅から電車で移動すると、すぐ着く!
初めて、上星川に行きました。
相鉄線に乗ったのも初めてのはず。
そして、お風呂の種類が多い!
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アメニティも、かなり充実してました❤️
入り口が素敵で✨
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宿場町?のイメージなのかなと思います。
保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)は、東海道五十三次の4番目の宿場ですから🎵
戸塚に住んでたので、よく耳にしたことあります。
保土ヶ谷は戸塚の隣です。
箱根駅伝で映るところあたりですね。
入り口付近のセットが素敵で、何枚も撮ってしまいました📱
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横浜に行かれた時には、是非♨️💖
昔から、こういう感じのスーパー銭湯や銭湯が好きな私です。
有名な温泉は、なぜかあんまり好きではありません。
料理がおいしいとかもあるけど、、、周りに何もなかったりするし
いつもつまんないです。。。
お金を使ってまで行きたいとは、あまり思わなくて。
都��のスパとかの方がいいです。施設内にいろいろあって便利だし。
お風呂の種類が多いから、それがいいですね〜〜
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wankohouse · 3 months ago
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最後の光勝寺五大尊蘇民祭・2020年
五大尊蘇民祭はコロナ���再開されずに終わった。2020年が最後になってしまった。この時には誰も予想していなかっただろうが。
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以上2020年五大尊蘇民祭
一番上は多分『御福銭まき』です
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撮影データなし
御福銭まきのシーンやと思う
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五大尊蘇民祭 2012.01.29 /11:42  「祭り☆フォト」より
五大尊蘇民祭継続断念 担い手不足 830年の歴史に幕 【花巻】 2023年12月28日付 
花巻市石鳥谷町五大堂の光勝寺に伝わる祭りで、厳冬期に行われる「五大尊蘇民祭」が、高齢化や担い手不足などから、2024年以降行わないことになった。市や市教委を含む関係者にも今後の開催を見送る通知を出した。830年以上の歴史があるとされる祭りが途絶えることとなった。
2021年からコロナで中止していて、再開されずに終った。最終は2020年だった事になる。
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bearbench-img · 6 months ago
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ニッサカジュク
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日坂宿(にっさかしゅく)は、東海道五十三次の31番目の宿場町で、現在の静岡県掛川市に位置していました。日坂宿は、掛川宿と浜松宿の間にあり、東海道の中でも重要な宿場町の1つでした。日坂峠の麓にあり、旅人や荷物を運ぶ馬のために「助坂」と呼ばれる坂道が設けられていました。この助坂は、急な日坂峠を避けて通れるように���備されたもので、旅人たちにとってはありがたい存在でした。
手抜きイラスト集
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simamamoru · 10 months ago
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戦闘服の男たちNo.0
現職自衛官の告白体験手記
「遠くで突撃喇叭が」
原題「遠くでラッパが」
作  島 守
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新隊員の便所はノリだらけ
 朝五時、起床まであと一時間である。いやあ、変な夢を見たるんだなと思って、ギンギンになっているセガレに手をのばすと、ああ、やっちゃった。まったくしょうのない奴だぜ、昨日センズリかいたばっかりだろうが!
畜生!今起きると、となりのベッドの奴が目をさましてカッコ悪いし、しょうがネーな、起床で戦闘服に着替える時にでも一緒に履きかえるか。
 それにしても新隊員は外出が制限されてるせいで、夜なんかとても遊びに行けないし、極度に欲求不満の日々が読いている。
雄臭い野郎を見るだけならここは本当にいい所だけれど、それ以上のことはちと不可能。けっきょく、夜、誰もいないトイレにはいってシコシコ激しくセンズリをカクしかないのだ。風呂で見たガッチリしたオアニイさんや、カワユイ隊員たちがチラチラ浮かんできたりする。
 でも終わってみると、やっぱりむなしいな。なんか小便とたいしてかわりないみたいで。それでもけっこうさかんなようすで、この間も班長から、
「新隊員の便所はノリだらけでたまらん!」
なんて怒られてしまった。マア、ノリは冗談としても、エロマンガのちぎれたのや、ビニ本なんかが時々モロ、トイレにおきっぱなしになってたりする。金があれば普通の隊員はトルコにでも行くんだろうけど、そこはまだペイペイ���新隊員、月給は少ないし、貯金はしろとうるさいし、とてもとても…
 それでも、あけっぴろげな男だけの世界。
「これからセンズリ行くゾー」
と、エロ本片手に走って行く奴もいる。
 そんでもって自分もけっきょくその日のタ方、バラしてしまうのだった。
「昨日の夜、爆発しちまったでェー」
「いやー、エッチだなあ。勝見二士がいないからじゃないのォー」
 前期の教育隊から一緒に来た北村二士にいうと、思わぬ返事が返ってきた。まいったなあ。
「このヤロォー、勝見と俺はそんなに深い仲でネェゾ!」
「エへへへ、でも勝見二士は、島二士のダッチワイフだったんじゃないのォー」
 まったく北村の野郎、口のへらない奴だ。
まっ、べつに勝見二土はダッチワイフだなんてのは冗談だからいいけど、でも俺は、やっぱりドッキン!そう、あいつはいい奴だったもんな。この俺に、男と男が精神的に強く結ばれることがどんなに素晴らしいことか数えてくれたから・・・•・・ネ。
 それは3ヶ月前
 桜のつぼみがまだ硬い三月の下旬、俺は陸上自衛隊のある駐屯地に入隊した。出身県の関係で他の県の出身者より四日ほど遅い入隊だった。勝見二士とはこの時に初めて出会ったのである。
〈三月某日〉
 なかなかできてる奴
今日から俺の自衛隊員としての生活が始まる。まわりの環境は、想像していたのとそれほど変りはない。でも一部屋四十人というのは多すぎるようだ。
 それから自衛隊ではバディという仕組があって、二段ベッドの上下でペアを組み、訓練面や私生活でいくそうだ。
 俺のバディは勝見次郎。ガタイが良くてイモの煮っ転がしみたいな顔をした奴だが、なかなか性格はよさそうだ。
 この時はまだバディの重要さなんか知るよしもなかった。
 勝見二士は俺より年下だが、四日も早く入していただけあってちょっと先輩気取りで、ベッドのとり方から戦闘服のネームの縫い物まで俺に協力してやってくれた。早くもリードされっぱなし。それでもけっして悪い顔をしないで黙々と手伝ってくれる彼を見て、
「なかなかできてる奴だワイ」
と内心思ったものである。
<四月某日>
ビニ本でぬいて来い
 入隊式も終わり、訓練も徐々に本格的になってきた。銃こそまだ持たされていないが、戦闘服を着て半長靴をはいて走り回るさまは、一人前の兵隊さん・・・・・なんちゃって。
 そんな時、体育の時間に勝見の野郎がすっころんでけがをした。運動神経いいくせにまったくそそっかしい奴だ。おかげ��その晩、俺がヨーチン片手に手当てしてやる。 
 両足おさえつけて、ヨーチンをぬるさまはSの気分。ムフフフと不敵に笑って、「グチェッ!」とぬってやる。勝見の奴たまりかねて、「ギャアー!」
 苦痛にゆがんだ顔って、ちょっとエロチックやなアー。
 
 四月にはいっても外出は下旬にならないとできない。新隊員とはつらいもんである。ああ、自衛隊には自由なんてない!これでは縛られるのが好きなMじゃなきゃ向かないんじゃないだろうか。そんなわけで貴重な休みも隊舎のベッドでゴロゴロ、これじゃ夜寝られるワケがない。
 消燈もとっくに過ぎた十二時半、なんとなく昼間寝すぎたので寝つけない。緑色の毛布の中でごそっと寝返りを打つと、上のベッドでもごそっと寝返りを打ったようだ。安物のベッドがグラッとくる。これじゃセンズリかいてようもんなら、片っぽのベッドの奴は地震かと思って起きちまうだろうななんて思ってると、
「オイ、島さん寝たかい?」
と、勝見が小さな声で話しかけてきた。
「なーんか、こうムラムラして寝られネェんだョオ」
と俺。すると、
「島さん、最近やってないんでしょ、アレを」
「まっ、まあな」
と、二人はムクッとベッドから起き上がて話を始めた。まったく目がさえてしかたいない。すると、その時へやの戸があいて、だれかがはいってきた。なんと班付(つまり上官)の上田士長である。よーく見ると、片手にビニ本を持っている。
「お前ら、まだ起きとるんか」
「エエ、寝られないんですヨ」
と勝見二士。すると上田士長、恥ずかし気もなく片手でもってるビニ本二冊を差し出すと、
「これでちょっとぬいてこい、そうすればバッチリ寝られるゾ。俺も抜いて来た」
 思わず俺と見、顔を見合わせてニヤリ、もちろん俺はあんまりビニ本には興味はないが、そこはノンケの顔をしていなければならないのがツライところ。
 ともかく、俺と勝見の二人はビニ本片手に仲よくトイレに直行。そこで二人は同じ個室に••••••てなわけにはいかなくって別々の目室に。ハイ、でも、ガマン!
「オッ、スケニ本だぜ、もうビンピンだァ」
「タマンネニナー。でもあんまりおっきな声だすなァ、不寝番がびっくりして飛んでくるゾォー」
 なんてことを話しながら、お互いに実況中継をし合う。洋式トイレなのですわってカケるのでらくなのだ。となりの個室からのすっとんきょうな声がとだえた。奴も本気になってきたようだ。こっちがたまんなくなるようなあえぎ声が聞こえてくる。思わず俺の手の動きも早くなる……。
 すると、突然奴の声、
「ウッ!ウッーウ」
 畜生、俺より早く終わりやがったな。
奴の家は海辺の町で���師をやっている。中学、高校と、よくアルバイトを兼ねて家の手伝いをしたそうだ。そのためか潮で鍛えられた体は浅黒く、区隊で誰にもまけないくらいの逞しさを持っている。そんな奴から海の話を聞くのが俺も好きで、いろいろと聞いたものだった。サザエの採り方なんか、実に詳しく話をしてくれたもんだった。
<5月某日>
好きになったのかな?
 知らないというのは恐ろしい。いつものように勝見二土から海の話を聞いていた俺は、なにげなく聞いてしまった。
「じゃ、なんで家の仕事を継がなかったんだい?」
「親父が許してくれなかったんだよ」
「どーして?」
「・・・・・・兄貴が海で死んだからさ••・・生きてれば二十七歳さ。よく晴れてベタなぎの海にもぐったきり、サザエ採りにネ、兄貴、上がってこなかった」
 淡々と話し続ける奴は、やっぱりいつもと違っていた。
「やっぱり親は親なんだな。二人も海で死なせたくはないんだろうな。いくら俺がねばってもだめだった。今の俺なんて、丘に上がったカッパさ・・・・・・・」
と、彼は言う。いやいや、丘に上がったカッパなんてとんでもない。奴の体力は区隊のトップをいつも争っている。俺だって気力じや負けないつもりだが、やっぱり体力検定だとかではっきり数字に出されると、どうも一歩も二歩もゆずってしまう。
「漁仲間の人から最近よく言われるんだ、兄貴に似てるって」
 彼はこう最後に明るく付け加えた。なんか、この話を聞いているうちに、自分が奴に引かれていることに気がついてきた。なんとなく奴のことを、俺は他の班員とは違う目で見ているということに・・・・・・。
 俺、奴のこと好きになったのかな?
まだ五月の下旬だというのに、真夏のような暑さが続く。そんな太陽の下での戦闘訓練は、まだ自衛官として一人前の体力を持ち合わせてない俺たちには、とてもキツイ。 
 たかが4.3kgの小銃が自分の体じゅうの汗を吸いまくる。気がつくと小銃から滴がしたたるほどに汗でぬれている。 
 地面だってこんな間近に見つめることなんてあったろうか。地にふせた俺の目の前にあるのは、青々とした草が高々と繁っている姿と、小さな虫たちの世界だった。
 一瞬、自分が虫けらになったような気がする。ふと隣を見ると、3メートルほど離れて奴がこっちを見てニヤリとした。埃にまみれた顔から白い歯がチラリとのぞく。ほんの数秒の間の静けさが何時間にも感じる。
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 すると突然、頭上で班長の大声が響く!
「目標、前方の敵!」
「突撃!前へ!」
 銃をかまえると全力で走りだす。核の時代にこんなことが役に立つのだろうか、もうバカになるしかないな。班長の号令が頭の中を素通りして直接手足に伝ってゆく。俺も奴も、そして愛すべき仲間たちも、死ぬ時はみんな一緒・・・・・なんだろうな。
<六月某日>
レイプごっこ
 3ヶ月の前期教育も大詰めをむかえてきた。今月の末には、俺も奴もバラバラになって全国の部隊のどこかの駐屯地に配属されることになるだろう。なんか、そう思うと、とてもせつない。でも、俺と奴は違う道をたどらなければならない。希望も適性も違うから。だからあと数週間、思いっきり悔いのないようにガンバッテいく。それが今の俺たちには一番なの
だ。
 営内近は1班12名前後いる。学校の教室の約2倍ほどの大きさの部屋に、実に40人の隊員が詰め込まれ、2段ベッドで毎日の訓練生活を送っている。もちろん性格もさまざまであるが、そんな隊員たちが40人も一つの部屋にいる姿は、なんとも壮観で異様でもある。しかも全員、スポーツ刈りか坊頭で、体格もこの六月ごろになると個人差こそあれ、すっかり逞しくなってくる。
 その中にはやっぱり俺以外にも、男が好きな奴がいるらしい。時々どっかからか、〇〇二土と二士が二人でトイレにはいって行くのを見たなんて話を耳にすることがある。
 うまいことやってるなあなんて思うけど、やっぱり毎日寝起きしている仲間の前ではなかなか、そんなことできるワケがない。それでもよく俺たち二人は皆の前で冗談を飛ばし合う。
「オッ、いいケツしてんなあー、たまんねえぜ!」
「バーカ、今夜はもう予約ズミダヨ」
「ベッドあんまりゆらしてこわすなヨ。下で俺が寝られネェからヨ」
「じゃペーパー貸してやっから、センズリでもかいてきな!」
 なんてやり合ってると、周りの仲間も悪乗りしてきて、なにがなんだかわからないうちにレイプごっこ(つまり解剖というやつ)が始まったりする。どんなバカ力の持ち主でも二十人ぐらいにせめられたんじゃ手も足もでない。アッというまにスッポンポン。一回やられるとくせになるみたいで、次の獲物をさかす。でも気がつくと、一番必死でやってるのは俺みたい。
<六月中旬某日>
こみ上げてくるような話
 今日から前期教育で最初で最後の野営(泊まりがけの野外訓練)が始まった。
 午前中に寝泊まりするテントを設営する。
 午後からは小銃手用の掩体(一種の個人用の隠れ穴…ここに隠れて首と銃だけ出して、敵を狙う)を掘った。
 1グループ6人で3時間ほどで仕上げなければいけない。
 もっぱら俺は現場監督のように地面に穴を掘る設計図を引く。そして奴は、パワーショベルのようなバカカで他の仲間四人とともに穴を掘る。もちろんきっかり時間内に仕上がった。
 野営で俺たちが使うテントは、二人用の小さなもので、朝起きてみると足が外に出ていた、なんてことがしょっちゅうある。もちろん奴、勝見二士と一緒である。
一日めの夜は夜間訓練もあり、ビールも一本入ったので、二人はろくに話しもしないで寝てしまった。
 二日の夜、目が冴えて眠れない。久しぶりに奴と俺はいろんな話しをした。酔うと滑舌になる勝見。入隊する前の事や、これからのこと、もちろん女の話しだって出てくる。俺は当然聞き手に回るわけだが、それでも奴は初体験の話や、彼女にふられてしまったことを、こっちが感心するほど克明に話してくれた。
なんかこみ上げてくるようなものも感じるけれど、それは明日の厳しい訓練にとかして流してしまおう。
 三日めは、昼間の行軍が災いして床についたら、またまた、あっという間に寝てしまった。それでも就寝前、点呼に来る班長が、
「お前ら、あんまりいちゃつくなよ!」
「いやーあ、昨日なんて島さんが寝かしてくれないんスよ。まいったなあ」
なーんて冗談も飛ばしてくれて、言葉の中だけど、楽しませてくれた。
<前期教育終了7日前>
愛すべきパワーショベル
 今日は最後の体育だ。項目はなんと苦手の障害走。外見に似合わず(?)体力のちと足りない俺には恐怖の時間である。だが、今回はなんと二人でペアになってやれというのである。当然勝見二土と組むことになる。よし、やるぞ!
 隊長の合図でスタートし、戦闘服姿で障害物を切りぬけていく。高さニメートルの垂直の壁あり、幅一・五メートルの溝あり、まったくとんでもないコースだ。やっぱり勝見の奴は早い。確実に障害をこなしてゆく。時々日に焼けた顔でこっちをふり向く。そうだ、奴がいるから今俺は、三カ月間ここまで��たんだ、汗と埃は今、大きなエネルギーと変わって俺たちに吸い込まれてゆく。奴が好きだ、そう、心の中で叫んでやる、
「好きだ」と。
 ふと気がつくと、目の前にロープが下がっていた。最後の難関のロープ登りである。畜生!俺が最も苦手とするやつだ。それでも登らなければならない。一段階一段階と手足を使って登るのだが、なかなか上へ進まない。
 畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くに・・。すると、そ畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くのに…。
 すると、その時である。足をなにか、すごい力で下からさ押れた。グーッと上に上がる。フ、フックに手が届いた。やったあ!思わず下を見る。そう、俺の足の下には勝見のこぶしがあった。奴は満身の力で、俺を下から押し上げてくれたのである。
この野郎!お前はやっぱりパワーショベルなんだなあ。
<前期教育終了6日前>
 自衛隊部隊はラッパの音と共に、毎朝8時に国旗掲揚、夕方5時に国旗降納がある。
 俺の前に整列している奴の後ろ姿の敬礼を見るのもあと数回しかない。教育終了後に別の部隊に進む事に決まったからだ。
 日に焼けたうなじを目に対み込んでおこうと思う。毎日、一緒に行く食事も別れが近いせいか会話が少なくなったような気がする。
 そろそろ身辺の整理を始める。ダンボールに荷物をつめる時、背中に後ろで見ている奴の視線がやけに気になる。
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<前期教育終了4日前>
 パンツの隙間から半立ちのものが…
 教育打ち上げの研修旅行で、ある山奥の温泉に行った。
 やはり百名近い短髪の青年集団というのは一般の人々に奇異に見えるようで、必ず「お仕事は何ですか」なんて聞かれる。もちろん醜態をさらす飲み会に制服なんて着ていくワケがないから、わからないのは無理もない。
「皆さんお若いですネ。今年入社したのですか?」
「ハアー、そうです」
「いい体している人ばかりですけど、どんな仕事ですか」
「まあー(モゴモゴモゴ)」
「ガードマンかなんかですか?」
「似たようなもんですネ」
と、��っこうおもしろがって遠回しに話をするんだけど、後ろから当然、
「島二土!」
なんて階級で呼ばれるもんだから、わけ知りの人にはバレちゃう。そしてその夜ー。
 バカ騒ぎのうちに飲み会も終わり、各班ごとにひっそりと部屋に集まって二次会が始まる。ビールの本数が増えるに従って、歌が出る。かわるがわる歌う員の歌声をバックにして、俺も奴も仲間たちも、この三カ月間の訓練をいろいろ思い出していた。苦しかったことしか浮かんでこない。
でも、俺たちはその中で同期愛ということを学んだ。
 いつのまにかみんな寝てしまっていた。もう外は白みかかっている。
 突然、俺の寝ている毛布に奴が割り込んできた。肌がふれ合う。奴の匂いがする。すぐいびきかく。でも、なんとなく手が出せない。チラリと下を見る。パンツのすき間から、奴の半立ちしたものが見える。そういえば、いつか俺も言われたっけなあ。
「島さん、立ったチンポぐらいしまって寝てろよナ。思わずさわりたくなるだろが!」 
 奴が不寝番をやっていた時見られてしまったようだ。まったく助平な奴だと思った。でも俺のほうが助平だったりして。
「俺、眠ってる時って何されてもわかんねえんだよなあ」
と奴がカマをかけてくる。
「バーカ、もうやっちゃったヨ。でも1万円のダッチワイフのほうが気持ちよかったぜ」
と俺。してやられたというような奴の顔。
 そんなこと思い出しながらいいチャンスの中、俺も寝てしまった。
<前期教育終了日>
 再会をめざして頑張ろう
 とうとう、今日という日が来てしまった。
 俺も奴も違う部隊へ行ってしまう。場所も離れているので、顔も見られなくなるかもしれない。両手で握手をして別れた。
 遠くでいラッパが鳴っている。戻は出なかったが、心で泣いてしまった。ありがとう、リスの目をしたパワーショベル、勝見次郎よ。日に洗けて埃にまみれながら走り続けた道を、ふり返りながら前を行く。奴だから、今日まで.....。
そして今…
 新隊員後期教育が���まって1ヶ月半。前期教育から一緒に教育を受けている北村二士が手紙を見せてくれた。勝見二士と同じ部隊に行った高田二士からだった。
<あ、そうそう、この間の手紙に島さんが夢精したって書いてあったネ。あの文、勝見二士に見せたら、「まいったなあー」って口ではいってたけど、ニヤニヤしてたぜ。島さんに会いたいって伝えといてくれとのこと>
 俺も奴に会いたい。こんど会うのはいつのことだろうか。
「士、別れて三日を経たるは刮目して待つべし」
お互い、目をみはる再会をめざして頑張ろうじゃないか。人は出合いと別れを通じて成長するのだから。
 そして後日談…2024年
 題名「遠くで突撃喇叭が」は第二書房が付けた題名。
 原題は「遠くでラッパが」である。今どき戦闘訓練で突撃喇叭なぞ吹かない。この時代の薔薇族には戦記物を書ける文字通り百戦���磨の先輩がたくさんいたから仕方ないが、俺の指したラッパの音は毎日部隊で鳴らされる国旗掲揚、国旗降納のラッパである。
 勝見二士(仮称)は俺が見込んだとおり自衛隊員募集パンフレットの表紙を飾った。
残念ながら2任期(4年)で退職。
再会は果たせなかかった…親父の後を継いで海に出たそうだ。
新隊員当時の写真。小説に出てくる面々。
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 その他の隊員と再会したのは地下鉄サリン事件。不幸な事件であったが、それぞれが一線で任務についていた頼もしさを感じた。
 もちろん俺も新隊員の教育をする先任陸曹になった。
 その後俺も2等陸曹で依願退職。約15年の自衛隊生活を終了。鳶職となり予備自衛官で約10年、1曹まで務めた。
 2024年現在、自衛隊に残った同期たちは全て定年退官している。
 俺を薔薇族、さぶに引っ張ってくれた木村べん氏も他界された。
 読んでもらって分かる通り、肉体関係は無くとも男同士の愛情はある事への感動を自衛隊で得ることができた。
 職務上死の覚悟を要求される世界。
 その感動をセックス描写のない小説でも構わないからと木村べん氏に書いてみないかと言われて作ったのがこの作品。
 べん氏に銃を持つ手ではイラストは描けなくなると言われて、好きなメカ画も共同で作品表紙等で書かせていただいた。もちろん最初で最後。ben &tetsuは勉&(鳶)徹って言うこと。
 文中漢数字が多いのは縦書きの影響。
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「遠くで突撃喇叭が」掲載誌表紙
もう一つ参考にしてさせていただいた本。
1974年芥川賞受賞作品「草のつるぎ」
実はエロ度こちらの方が数段上。戦闘訓練の打ち上げで全員でセンズリこくシーンがある。実話だからノーカットなんだろう。
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oldkwaidan · 2 months ago
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狸の道塞ぎ
 享保の初めのことである。  佐渡の下戸御番所に寺田弥三郎という役人がいた。  その日、勤めを終えた彼は、夜勤の者に業務を引き継ぎ、暮六つ半頃に御番所を出た。  五から七間ほど行くと、裏町通りの小路に差しかかるのだが、そのあたりで突然、弥三郎は何かに閊えてそれ以上進めなくなった。  しかし、周囲は右も左も判らないほど真っ暗なので、何が道を塞いでいるのかまったく見えない。  右横や左横に移動してみたが、どうにも進むことができない。  弥三郎はしばらくその場に佇み、心を静めてから再び歩き始めた。  しかし、やはり何かに閊えて進めない。 「これは狸の悪戯だな。ならば目にもの見せてくれる」  刀を抜いて切り払うと少し手応えがあった。  途端に周囲が明るくなったので、見上げると空は星明りである。  そこであらためて歩き始めると、今度は進むことができた。
 弥三郎は住まいではなく、大津屋小右衛門という問屋に向かった。  問屋の明るい燈火が見えたので、門から中に入って燈火の下に行った。  刀を抜いて透かして見ると、切っ先に少し血がついている。  この感じだと、相手はほんのかすり傷だな、と弥三郎は判断した。  仕留められなかったか、と思っていると、小右衛門はじめ店の者が集まってきた。 「な、なんで、かか刀をお抜きになってるんですか」  皆は震え慄く。 「ああ、気にせんでくれ。実はこんなことがあってな」  弥三郎は皆��先ほどのことを説明すると、別れを告げて店を出た。  帰途、先ほどの場所を通ったが、遮られずに宿舎に辿り着けたという。
 ちょうどその頃、一つの噂が流れていた。  柴町の医師・窪田松慶が二ツ岩の団三郎狸に呼ばれ、刀傷を負った狸を治療をした、というものである。  団三郎といえば下戸村を本拠地にする佐渡の狸の総大将である。  治療を受けた狸というのは寺田弥三郎が斬った奴に違いない。  話を聞いた者は皆そう言い合ったという。
 (『佐渡怪談藻塩草』 「寺田何某怪異に逢ふ事」)
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jujirou · 1 month ago
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おはようございます。
福岡県福岡市は快晴です。
昨日は全国陶磁器フェアin福岡の搬入日。
予定通りにフェリーは新門司港フェリーターミナルに着岸し、その後一般道にて福岡へ移動…
途中から九州で初めての雪降りに遭遇し、少し驚きましたが、川連に比べると雨降りの様な雪で、タイヤもスタッドレスなので、普通通りに福岡まで巡航⁉︎でしたが、アチコチで渋滞…
宿に荷下ろし後からは会場入りし、車からの荷下ろしやら、ブース設営を行い、お昼過ぎからは商品の並べ方を行いましたが、前夜フェリーでの隣の方やら様々なイビキで、何だかとても寝不足気味でしたが、予定通りに搬入終了。
 
そして間も無く本日20日(木・祝)〜24日(月)までの五日間、福岡県福岡市博多区有ります、マリンメッセ福岡A館にて、全国陶磁器フェアin福岡が開催されます。
一年に一度の福岡でのこの機会に是非、川連の軽くて優しい手触りの器達を、見て触れて感じて頂けましたら幸いです。
名 称: 第25全国陶磁器フェアin福岡2025
開催期間 ���令和7年3月20日(木・祝)~ 3月24日(月) 5日間
開催時間 :10時~17時  ※最終入場は終了の30分前まで
開催場所 :マリンメッセ福岡 A館  福岡市博多区沖浜町7-1
当店ブース番号 :  C – 05  (別紙会場図をご参照下さい)
今回の展示会でも、良いご縁が有ります様に。
そして皆様にとって今日も、良い祝日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
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ari0921 · 16 days ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)4月15日(火曜日)
      通巻第8739号
 嘗て台湾総督府で安全保障担当補佐官と話し合ったときの鋭い指摘
  「日本は外交政策を考えなくていいね。あるのは追随政策だけだから」
*************************
 
 李登輝総統の時代、アジア・オープン・フォ-ラムで何回かお目にかかったが、任期を終えられて淡水にシンクタンクを設立された。そこにも数回は訪問し、李登輝総統から話を聞いた。後藤新平賞授賞式に東京にこられたときも楽屋で会った。
いつも「日本は一体、何をしているのか。あの武士道精神はどこへ行ったのか」とおしかりである。
 台北のご自宅は狭い応接室、大渓にあった別荘は質素なつくり、ただし地下の蔵書はぎっしりと数万冊の書籍で埋まり、図書館のようだった。三割ほどが日本語だった。李登輝総統は日本語の達人でもあった。
 嘗て台湾総督府で陣水扁総統の安全保障担当補佐官と話し合ったとき、彼が言った
 「日本は外交政策を考えなくていいね。あるのは追随政策だけだから」。この箇所を「フォーリンポリシーではなくフォローイングポリシーだ」と、揶揄するように補佐官は流暢な英語で言った。
当該補佐官は台湾のメディアで健筆を振るっていた司馬文武である。
 戦後八十年、日本は自主的な外交を展開したか?
 ナショナリズムの発火は東京五輪だった。日本人に自信を回復させる契機となったが、昭和40年の日本はまだまだ各地に戦争の残骸がのこり、交通は渋滞し、学校はすし詰めだった。吉田茂は独立を回復した機会に憲法を変えるべきだったが、かれはむしろ憲法を口実に朝鮮戦争への出兵を拒否した。
 佐藤栄作の沖縄返還は日本の繊維産業の抜本的縮小などと引き換えだった。核は持ち込まれた。密使だった若泉敬は必死の決意で舞台の裏方を務めた。
一昨年、筆者は福井県鯖江市郊外に建立された若泉の墓に詣でた。丸い地球儀をかたちどった特注墓である。
 日本は独自の外交を実践できない。ところが米国はときおり方針を転換すると、チャンスが訪れる。ソ連と敵対関係から雪解けになるや、日本はシベリア開発、樺太ガス開発でロシアと協同できた。イランとは原油輸入で密接な関係があったが、米国のイラン制裁によりイラン原油の輸入が困難となった。アラブの商人らは足下を見る。日本は高い原油を交わされ続けてきた。
 核武装はがんじがらめの監視体制、つまり核拡散防止条約という不条理によって事実上禁止されている。アメリカ人には復讐権という強迫観念があり、日本が核武装すると、かならず二発お見舞いされるという恐怖感がある。だから日本に核を持たせないのだ。
 ▼ドル基軸体制は日本が根底を支えている
 日本のフォローイングポリシーとは「赤字を支えるために米国債を買え」「金利を据え置け」「為替レートを変えるから従え」となる。不動産不況に直面するや日本にロックフェラーセンターを買えと要請し、高値で買わされ、後日安値で買い戻された。
 リーマンショックでは三菱銀行と野村證券が、リーマンなどへの出資救済を要請された。三菱は90億ドルの巨額を投じてモルガンスタンレーに出資した。野村證券はリーマンのアジア、欧州部門を2億5000万ドルで買収し、8000人従業員も引き受けた。この巨額の決定は米国からの電話一本、わずか一晩で決定にいたった。
日頃の日本では稟議審議が長引き即断ができないシステムなのに、これはどうしたことだろうと誰もが訝しんだ。
 戦争を勝手に仕掛けながら、後始末は日本の番である。カンボジア北爆で密林にもナパーム弾や枯れ葉作戦。ところがカンボジア戦後復興を任され、地雷を撤去したのは日本だった。
犠牲者がふたり。そればかりかカンボジア平和会議は東京で開催しろと言われ、丸ごと日本の負担となった。その後のカンボジア支援は日本が世界一である。ところが政治的にカンボジアは中国経済圏にある。
 湾岸戦争では尻ぬぐいの機雷掃海をやらされた。その日本に対して、自らが苦況に陥るとスーパー301条とか年次改革要求とか、ようするに日本はアメリカのATM、米国債の最大の債権者である日本がアメリカ経済を支えている。金兌換からペトロダラー体制で維持されているドル基軸体制は日本が根底を支えているといっても過言ではないだろう。
 
 アメリカがけしかけて始めたウクライナ戦争とて日本は無関係なのに1兆7000万円の負担金が廻ってきた。
 日本は果たして独立した外交政策をとれるか? 
独自の経済主権を発揮して金利、通貨、為替政策をとれるのか? と問えば永田町ばかりか日銀、財務省の腰抜け達に期待できると考える人はよほどの善人だろう。
(余滴)追随とは「隋」に従うことであり、聖徳太子の遣隋使以後、シナの制度、文化をまねたという意味だから、現代語では「追随」より「追米」がふさわしい。
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ak0gare · 24 days ago
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0402 訪問先 ・botanical cafe(カフェ 蹴上) ・そうげんカフェ(カフェ 一乗寺) ・KAeruCAFE(カフェ 清水五条) ・食堂ルインズ(ビストロ 京都河原町) まずい感じに童貞の京大の博士3年とカフェでお茶して、夜ぼやっとした気持ちで河原町を歩いていたらナンパされたのでふーんと思ってルインズを指定した。早急にわたしがやれない人間だと悟ったのかひらきなおっていろんな女遊びの武勇伝を教えてくれた。遊び人の男大っ嫌いだから(多分同族嫌悪)、こういうことないと接することもないので色々勉強になった。顔綺麗で中高からずっと陽キャという出自で、なんで35にもなって遊び回ってるのか聞いたら「性欲もあるけど承認欲求先行かなぁ」とのことだった。わたしと同じだなと思った。きっと根深いコンプレックスがどっかにあるんだろう、と思っ��が、それを聞き出してしまうと寝てみたくなってしまう可能性があったのでライン交わさずに別れた。 お酒飲む人でたまにいる「飲んでるとすぐお腹いっぱいになるんだよね」がしょうもなくて大嫌い。わたしはお腹が空いていたので帰り道にうどん買って食べた。 0403 机から「いま高松にいません。それから、恋人がいて、話したら嫌がられてしまったので会えません」と2日遅れで返信があった。どん、と内側から心臓を押されたみたいだった。そっか。いままでがへんだったのだな。わたしから別れを切り出して終わった関係なのに、その後も関係性を保とうとして、それは友情と懸念に由来するもので本当に一切合切下心を含まないものだったけど、そんなの関係ない。机と未来を分かちている相手にとっては。 去年会った別れが後味の悪いものでなくて本当によかった。もう2度と会わないのかもしれない。それでも、「もう連絡しないけど、作家になったらなんらかの形で祝ってほしい」と送った。「うん 応援しています それまで元気で」と返ってきて、夜、帰りの自転車に跨りながら泣いてしまった。 わたしは夢を人間関係の人質に利用しているのかもしれない、と思ったら、情けなくなった。自分が本物ではないような、気持ちの揺らぎがあった。 机と付き合い始めて半年経った春に、片平キャンパスを自転車の二人乗りしながら夜桜を見て回ったことがある。窓辺に置かれた柑橘を見ているみたいに、いまでも胸がぎゅっと嘶くような、そういう種類の思い出。思い出すまでもないほど、大事だった。けれどそれはわたし自身を抱きしめていることと同義だと、何年も前から、知っていた。 0404 訪問先 ・カフェコチ(カフェ 京都市役所) ・カレー専門店ビィヤント(カレー屋 丸太町) ・MOVIX(映画館 三条) コチが京都で一番好きなカフェかもしれない。間を空けてしまったけれど来られてよかった。次はパテ、その次はクレープ食べよう。 人と会う約束がない日だったので「ネムルバカ」を見た。夜の、誰も隣に座らない、すかすかの映画館で過ごす時間がすきだ。
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yutakayagai · 7 months ago
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金曜日になり、浅草では三社祭が始まった。ニュースでは雷門周辺で数多の観光客が一目見ようとあちこちから集まり、賑わっていた。一方、信也はこの日も仕事だったので帰りは通常通りだった。ところが、編集部に務める若い部下から飲みに行きましょうと誘われたのだ。行き先は銀座。大学進学を機に上京してきたが、信也はこれまで数えるくらいしか銀座には来たことがなかった。買い物だったら新宿、飲みに行くなら上野だった。裕美がたまに香織やその他のアシスタントを連れて訪れているが、夫婦としてはなかった。
最初に来店したのは有楽町の「Nビヤホール」だった。そこから銀座七丁目に繰り出し、最終的には「西五番街」の路地に入ったところにあるバー「R」だった。その頃には何人かはすでに解散していたが、信也と二人の部下が店に入った。昔、太宰治や坂口安吾などの文豪が出入りしていたバーとして名高く、いつか「銀座」を特集にしようと部下の一人が提案した。信也は「グレンフィディック」と「ゴールデンフィズ」を注文したが、チャージ代だけで八百五十円と聞き、びっくりした。部下たちは、
「銀座で千円切るチャージなんて、未だ安いですよ」
と言った。いやいや、上野だったらたらふく飲めるし食べられるわと、信也は恐らく二度目はないだろうなと内心思った。
そもそも、背広だってようやく日本橋馬喰町の紳士洋品店「S」で買ったのに、たかが飲み食いの為に金は出せないと言うのが本音だった。たまに、今編集している雑誌「S」を眺めているとこんな、京都とか温泉とか、ただですら明日食べる食料すらない家庭もあるのにリッチな特集ばかり取り上げて意味があるのかなと疑問に思うことがある。銀座なんて、今ではインバウンドの波に乗り過ぎて昔の様な高級なイメージは皆無だ。そもそも、銀座の複合ビルに百円ショップができた時点で終わったと彼は思っていた。
時計台の針が午後十時を回っていた。部下とは銀座駅の入口で別れたが、信也は何か淋しさを感じた。嗚呼、そう言えば新橋の���くにゲイバーがあったなァ…。今日はちょうどスーツ着用が大歓迎だったなと、彼は再び複合ビル「G」の前を通り、新橋方面に向かって行った。
ゲイバー「T」は、銀座の並木通りを抜けて首都高速道路の高架橋を越えた路地にあった。タブレットでゲイ関係の総合サイトを見て知り、更に「ツイッター」でアカウントがありフォローしたのだ。
店の中に入ると、賑やかな雰囲気だった。カラオケがあり、テーブルには老いも若きも仲良く話をしている様だった。マスターと思しき店員に、
「あら、ウチのお店は初めて? 何飲む?」
と聞いてきた。信也はカンパリソーダを飲むことにした。スーツ着用大歓迎ではあるが、最近はスラックスにポロシャツも社内では可と言う企業もあり、キッチリ着こなしている者はいない。嗚呼、自分はおじさんになったのかなと、内心嘆いた。
そんな中、ネクタイを外した状態で周囲を見渡しながら信也の隣に一人座ってきた。よく見てみると真純だった。彼は満面の笑みで、
「あれぇ〜、もしかしたらあの時の!?」
と言った。信也も、
「あぁ、先日はどうも!」
と気付いた。
真純は信也の身体に密着し、時折片腕を背部に伸ばしながら内腿にも手指を忍ばせ、撫で回した。かなり上機嫌で、一緒にカラオケをやろうとも誘ってきた。信也は真純が見た目のわりにはミーハーな感じがあることに驚き、恐らく酔っているせいもあるのか、スキンシップが多かった。マスターは、
「あら、知り合いなの?」
と聞いた。真純は、
「ちょっとね…」
と、ニヤリと顔を緩ませながら言った。
結局、信也は完全に真純のペースに流されてしまった。クローズは午前一時だったが、とっくに終電はなくなっていた。それでも真純はスキップしながら信也の手を握り、はしゃいでいた。五十歳は過ぎているだろうが、もしヤングが見たら「変なおじさん」だろうな…。二人は中央通りをひたすら歩いて行った。
意外と、東京は電車や地下鉄が多いので距離がある様に見えるが、駅と駅との間隔は狭い。地方ではバス停の感覚である。上野駅まで来た時、真純は人気ない路地に信也を連れて行き、ビルとビルの影に隠れながら接吻した。頬を寄せ、信也のぬくもりを感じながら、
「偶然と偶然が重なって…離したくない」
とため息をついた。微かに柑橘系のオードトワレが匂い、信也は真純が愛おしくなった。彼の方から今度は接吻し、舌と舌を絡ませた。とめどなく唾液が噴き出し、なんてスケベなンだと信也は興奮した。下半身の奥底に潜む、所謂「Gスポット」がうずくのを感じ、彼は尻の筋肉をキュッと��めた。一物が硬くなり、勢いよくビキニとスラックスを突き出した。嗚呼、欲しい…。真純も同じ反応を示していた。あッ、近くにハッテンサウナのホテルがあるじゃないか。このままベッドインしてイッちゃいたい…。二人は身体を密着させながらハッテンサウナのホテルにチェックインし、部屋に入った。服を脱ぎ捨て、ビキニ姿でベッドに身を投げ、欲情のままに二人は抱擁と接吻を繰り返した。時折、真純は信也の腋下に顔をうずめ、
「し、信ちゃぁぁぁぁん…」
と声を上げた。
ビキニが床の上に重なり合う。信也はいきり勃った己の肉棒を真純の下半身の穴に挿れた。ラヴオイルにまみれた彼の谷間が、とてつもなく卑猥に見えた。腰を突き上げ、また引きながら信也は真純を犯した。真純は、
「イイ、イイッ! もっと突いて!」
とすすり泣いた。彼も自分の一物を弄び、片手を先走り汁で汚した。
オルガズムは信也の方が早かった。真純の肉体の中に彼は愛液を「ぶち込んだ」。
「あッ、あん!」
一突きをすると、信也は両眼をつぶった。こんな感覚、恐らく裕美と寝た時以来だ。嗚呼、クセになりそう…。彼は何か達成感の様なものを感じた。一方、真純も充血した肉棒を信也の方に向け、愛液を跳ばした。
「あぁぁぁぁん!」
真純は顔を紅潮させながら声を上げた。もはや頭の中は空っぽな様だった。信也は真純をもっと歓ばせたい衝動に駆られた。下腹部に跳ばされた彼の愛液を片手で拭い、その手で彼の萎えた一物の先端を「こねくり回した」。
「いやッ! いやッ! 苛めないで!」
と声を上げつつも再び勃ち始めた。彼は包茎だからか、包皮が剥けた先端は敏感な様だった。腰をくねつかせ、時折上下させながら彼はすすり泣き、尿の様なものを出した。これが「潮吹き」かと、信也は思った。快感に酔い痴れた真純は彼に抱きつき、
「愛してる! 大好き! 一生離さない!」
と訴えた。
時計の針は午前二時を回っていた。信也は、両腕から離そうとしない真純に抱かれながら肉体の諸部分を弄られた。特に、乳房はシャツが触れるだけでピクッと反応するほど敏感になっていた。次第に、オトコの身体の方が繊細にできていると思う様になっていった。信也は接吻が好きだった。何度も真純と唇を重ね、その度にいったん萎えた一物が硬直した。真純は、
「す、すごい! 信ちゃん、元気!」
と、彼は信也の下半身を舌と唇で弄んだ。何かのサイトで見たことがあるが、オトコの下半身はオンナより敏感だという。恐らく、子孫を遺す為に生殖器がそうできているのだろう。もし雑誌の特集にできれば面白いだろうが、信也が編集を手掛けているものは定年を迎えて生活自体にゆとりがある世代に読者が多かった。「性生活」の性の字もないよなと、彼は��った。
結局、二人はようやく午前四時頃に疲れ果てて眠った。目覚めたのは午前八時だった。シャワーを浴び、床に散乱した下着や服を拾って着ながら、信也は三社祭を観に行くと話した。すると、真純は嬉しそうに、
「へぇ〜、じゃあ、明日の夕方に来てよ!」
とマッチの一箱を渡した。そのマッチ箱には、
「浅草『Z』」
と書かれていた。ゲイバーらしかった。
信也は真純から詳細を聞き、
「解った。午後八時ね」
と承諾した。
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andquietrollsthedawn · 1 year ago
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A House in the Quarter (Tomotaka Tasaka, 1963)
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yasumitani · 5 months ago
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♪ローゼンローゼン 相鉄ローゼンで見つけたこのスナック菓子、大変美味しゅうございました。まとめ買いしてもいいが、持ち帰るのに嵩ばる……。
Vマークブランド(主に関東民鉄系スーパー共同ブランド)商品ゆえ、宮城県では入手不能!!ぐぬぬぬ。
いちばん近いのは東武ストアか……?なぬ!!栃木県には店舗ないだと!!最北は東武動物公園か?
……ん?Vマーク取扱店の一番下にあるこの『よこまちストア』って何?
なんと!青森県八戸なら取扱いあるかも!?
でもそっちも遠い!!
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wankohouse · 15 days ago
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国府宮 儺追神事 はだか祭
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国府宮 儺追神事(はだか祭)
七年会(下之一色町・南陽町)名古屋市中川区下之一色町・名古屋市港区南陽町 前厄の 『七年会』 、本厄の 『六年会』 、後厄の 『五年会』 が2町合同の儺追笹を奉納する。
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早朝から始動。例年一番乗。
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myonbl · 8 days ago
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2025年4月22日(火)
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今年の松尾祭・還幸祭(おいで)は4月20日(日)、当日は見に行けなかったので、朝の家事が一段落してから御旅所へお詣りした。境内にはテキ屋のお兄さん達があれこれ作業をしている。本殿に向かって右側の建物に、松尾七社のうち四基の神輿と一基の唐櫃が鎮座している。私の住まう地区は<櫟谷社>、少し小ぶりなのは町の規模(=経済力)が小さいことを反映しているのだろう。22年前に転居した年にいきなり町内会長となり、祭の先頭を紋付き袴姿で歩かされたのも忘れられない想い出だ。
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5時30分起床。
洗濯開始。
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朝食を頂く。
洗濯物を干す。
可燃ゴミ、30L*2。
8時20分、彼女が自転車で出勤、訪問1件。
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9時、コレモで買物、お昼はうどんに決める。
YouTubeを渉猟、大原千鶴さんの薄口醤油シリーズを発見、これはあれこれ使えそうだ。
西七条御旅所へ、どこかの保育園の子供達が遊びに来ていた。
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戻ると、保健協議会から<献血>のチラシとポスター、すぐに各組長宅に届けに回る。
戻ると、彼女も仕事終わりで買物済ませて戻っていた。
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お昼はうどん、大原千鶴さんのレシピ、なかなか良い感じだ。
彼女を職場まで送る。
6/22(日)の<月刊笑福亭たま>のチケットを予約する。
西村歯科の予約は15時30分、10分前に入るとすぐに呼んでくれた。いつも通りのチェック&クリーニング、特に問題はなく次回は5/27(火)となった。
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帰路に<露の五郎襲名披露公演事務局>からメッセージ、予約していたチケットの連絡にホッとする。
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今夜の夕飯、大原千鶴さんのレシピを参考にした鶏ムネ肉のバター醤油・コウケンテツ師匠のキャベツのナムル・白ご飯.comのピリ辛コンニャク、レタスとトマト。
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録画番組視聴、落語研究会から春風亭一之輔の「柳田格之進」、サゲはつけていないが気持ちの良い終わり方だ。
片付け・入浴・・・のはずが、気がつけば布団の中だった。
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さすがに歯医者に行く日は、歩数が伸びる。
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hachikenyakaiwai · 1 year ago
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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