#二十四節気からの美容
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moderndays · 1 month ago
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Recommended Books 【京都・Kyoto】
&Premium特別編集 まだまだ知らない京都、街歩きガイド。 (MAGAZINE HOUSE MOOK) 雑誌 – 2024/8/6
マガジンハウス (編集)
雑誌「&Premium」発、人気の京都ガイド第5弾! 混雑する観光地から離れて、暮らす人だからこそ薦めたい15のエリアと8つのテーマ、全316軒を紹介します。 ■大和まこの京都さんぽ部 暮らすように歩く、京の街
【紹介エリア・テーマ】 静かに過ごす時間/七条通/四条南/御所南再訪/自分みやげ/叡電/現地系中華/老舗の味/賀茂川/河原町松原/栗の菓子/鹿ヶ谷通/アペロの時間/二条城南/東大路通/冷泉通/吉田&聖護院/壬生/整える/北野天満宮界隈/栗の菓子2/御所西再訪/京丹後
女人京都 ペーパーバック – 2022/9/28
酒井 順子 (著)
京都に通い続けるエッセイスト・酒井順子による、全く新しい視点から切り取った京都エッセイ&ガイド。 女性の生き方、古典、旅、文学など幅広く執筆活動を行う著者が、小野小町、紫式部、清少納言、日野富子、淀君、大田垣蓮月、上村松園など歴史上の女性たち43人の足跡をたどる旅に出た。
「京都の中でも、京都らしさを最も濃厚に抱いている存在は、名所旧跡でも食べ物でもなく、京都の『人』なのではないかと私は思い��す。(中略)京都の都会人の中には、今も、平安以来続く都会人らしさのしずくが、滴り続けているのです。」(「はじめに」より)
京都に暮らした女性たちの生き様を知ることは、現代の京都の人々、そして京都の街を知ること。 この本を片手に歩いてみると、平安時代の遺構がそのまま残っているところもあれば、貴族の屋敷が今は児童公園になっていたりすることにも気づく。京都の通りを上ル下ルし、西へ東へと歩き回り、時代を行ったり来たりして、新たな旅の提案を教えてくれる。 この本を読むと京都の歴史や文学がぐっと身近になること間違いなし。
京都散策に便利な地図付きです。
お茶の味 京都寺町 一保堂茶舖 (新潮文庫) 文庫 – 2020/5/28
渡辺 都 (著)
ゆったりと流れる時間、その時々で変化する風味、茶葉が持つ本来の美味しさ──お湯を沸かし、急須で淹れてこそ感じられるお茶の味わいがあります。江戸時代半ばから京都に店を構える老舗茶舗「一保堂」に嫁いで知った、代々が受け継ぎ伝えてきた知恵と経験、家族のこと、お店のいまと未来、出会いと発見に満ちた京都生活。お茶とともにある豊かな暮らしを綴った、心あたたまるエッセイ。
京都、パリ ―この美しくもイケズな街 単行本 – 2018/9/27
鹿島 茂 (著), 井上 章一 (著)
◎26万部『京都ぎらい』の井上章一氏、フランス文学界の重鎮である鹿島茂氏が、知られざる京都とパリの「表と裏の顔」を語り尽くす。たとえば、 ・日本には「怨霊」がいるが、フランスにはいない ・日本のお茶屋とパリの娼館は、管理システムが似ている ・パリの娼館は、スパイの温床だった ・日仏では、女性のどこに魅力を感じるか ・洛中の人にとっての「京都」はどこ? ・パリの人にとっての「パリ」はどこ? ・パリと京都の「汚れ」に対する意識の違い など、知っているようで知らなかった「京都とパリ」の秘密がわかる。
京都のおねだん (講談社現代新書 2419) 新書 – 2017/3/15
大野 裕之 (著)
お地蔵さんの貸出料は3000円、発売第一号の抹茶パフェは1080円、では舞妓さんとのお茶屋遊びは? 京都では値段が前もって知らされないこと���多く、往々にして不思議な「おねだん」設定に出くわす。京都を京都たらしめているゆえんともいえる、京都の 「おねだん」。それを知ることは、京都人の思考や人生観を知ることにつながるはず。京都歴二十余年、サントリー学芸賞受賞の気鋭の研究者が解読する、京都の秘密。
なぜこれがこんな高いのか、あんな安いのか、なんで無料なのか、そもそもあんなものになんでおねだんがつくのか―― 大学進学以来、京都住まい二十余年。往々にしてそんな局面に出くわした著者が、そんな「京都のおねだん」の秘密に迫る。 そもそも「おねだん」の表示がされていない料理屋さん、おねだん「上限なし」という貸しビデオ屋、お地蔵さんに生ずる「借用料」。 そして究極の謎、花街遊びにはいくらかかる?
京都人が何にどれだけ支払うのかという価値基準は、もしかしたら京都を京都たらしめているゆえんかもしれない。 京都の「おねだん」を知ることは、京都人の思考や人生観を知ることにつながるはず。 2015年サントリー学芸賞芸術・文学部門を受賞、気鋭のチャップリン研究者にして「京都人見習い」を自称する著者による、初エッセイ。
京都 ものがたりの道 単行本 – 2016/10/28
彬子女王 (著)
「京都という街は、タイムカプセルのようだ」と著者は言う。オフィス街の真ん中に聖徳太子創建と伝えられるお寺があったり、京都きっての繁華街に、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された地の石碑がひっそりと立っていたり。そこには人々の日常があり、みなが変わりない暮らしを続けている。そんな石碑になど目を留めない人もたくさんいるはずだ。 それでも著者は、そんな場所に出会う度に、タイムカプセルを開けたような気持ちになるのだという。幕末の争乱期の京都へ、平安遷都する以前の京都へ、近代化が急速に進んだ明治・大正時代の京都へ……。さまざまな時代の“時"のカケラが、街のそこかしこに埋まっている。この場所で徳川慶喜は何を思ったのだろう。平家全盛のころの六波羅は、どんな景色だったのだろう。安倍晴明はここで何を見たのだろう。その“時"のカケラは、一瞬の時間旅行へと誘ってくれる。 日本美術研究者として活動する著者が、京都の通り界隈にまつわる逸話から、神社仏閣の歴史、地元の人々の季節折々の暮らし、街歩きでの目のつけどころや楽しみどころ、京都人の気質までを生活者の視点から紹介する。さらに、自身のご家族のこと、京都府警と側衛の方たちとのやり取りなどの日常生活の一端を、親しみやすい文体でつづる。6年以上、著者が京都に暮らす中で感じ���経験した京都の魅力が存分に語られており、「京都」という街の奥深さと、「京都」の楽しみ方を知る手がかりとなる。 新聞連載の24作品に、書き下ろし3作品を加えて刊行。京都の街歩きに役立つ「ちょっと寄り道」情報や地図も掲載。
京都はんなり暮し〈新装版〉 (徳間文庫) 文庫 – 2015/9/4
澤田瞳子 (著)
京都の和菓子と一口で言っても、お餅屋・お菓子屋の違い、ご存知ですか? 京都生まれ京都育ち、気鋭の歴史時代作家がこっそり教える京都の姿。『枕草子』『平家物語』などの著名な書や、『鈴鹿家記』『古今名物御前菓子秘伝抄』などの貴重な資料を繙き、過去から現代における京都の奥深さを教えます。誰もが知る名所や祭事の他、地元に馴染む商店に根付く歴史は読んで愉しく、ためになる!
京の花街「輪違屋」物語 (PHP新書 477) 新書 – 2007/8/11
高橋 利樹 (著)
京都・島原といえば、かつて興隆をきわめた、日本でいちばん古い廓(ルビ:くるわ)。幕末の時代、新選組が闊歩したことでも有名である。その地でたった一軒、現在でも営業を続けるお茶屋が、輪違屋(ルビ:わちがいや)である。芸・教養・容姿のすべてにおいて極上の妓女(ルビ:ぎじよ)、太夫(ルビ:たゆう)を抱え、室町の公家文化に始まる三百年の伝統を脈々と受け継いできた。 古色なたたずまいを残す輪違屋の暖簾をくぐれば、古(ルビ:いにしえ)の美しい女たちの息づかいが聞こえてくる。太夫のくりひろげる絢爛な宴は、多くの客人たちを魅了し続けている。 本書では、輪違屋十代目当主が、幼き日々の思い出、太夫の歴史と文化、お座敷の話、跡継ぎとしての日常と想いを、京ことばを交えてつづる。あでやかでみやびな粋と艶の世界----これまでは語られることのなかった古都の姿が、ここにある。
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medickalmalpractice · 1 year ago
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあると��で、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、��のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の��合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知��ながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷���巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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hegotthesun · 3 months ago
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ポピュラー音楽の成り立ち:前篇
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音楽ジャンルを大まかに分類すると「クラシック音楽」とそれ以外の大衆音楽「ポピュラー音楽」に分けられます。
現代人にとって馴染み深いポップスやロックは、このポピュラー音楽に分類されます。
まず、ギターのアドリブ演奏を覚えるために教則本を開くと、ブルースの演奏スタイルとその歴史について書かれていることに気付くでしょう。
「創作落語」を作る前に「古典落語」を学ぶように、同人音楽を作る者も一般教養として音楽史を知っておいて損はないはずです。
ピタゴラス音律
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研究過程でモノコードを半分の長さにすると、同じ響きのさらに高い音程になることをピタゴラスは発見しました。これが「1オクターブの発見」です。音程は周波数(1秒間で何回振動するか)で決定されます。これをHz(ヘルツ)と呼びます。
A(ラ)=440Hzなら秒間440回振動する音。この回数が440Hzから2倍の880Hzになれば、1オクターブ高い音程になります。同じ要領で440Hzの1オクターブ下は220Hzになります。
これで1オクターブの原理は解明されましたが、次に12音律を導き出した方法を解説します。
ルート(根音)の2倍が1オクターブ上ということは、4倍は2オクターブ上の音程になります。さらにルートの3倍は、2倍と4倍の間の新たな音程が出現します。それを半分の周波数にして割り出されたのが、最も濁りの少ない和音となる「完全五度」です。
次に他の音程を導き出します。まずルートを1、1オクターブ上を2、2オクターブ上を4として、3(完全五度)を半分にすると1.5になります。
A:E = (1:1.5) x 2 = 2:3 新しい音の導き出し方 ①3倍にする ②1≦f≦2になるまで2で割る
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ピタゴラスは音同士の響きと相性にも気付きました。最初の計算から割り出された三つの音程で作れる〈ルートと五度の和音〉を「完全五度」と呼び、〈長2度と五度の和音〉を「完全四度」と呼びます。これが和音においてユニゾンの次点で濁りの少ない響きです。
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12音律においてルートから五度は+7の音になります。また、五度の+7は長2度です。これを繰り返し、順序を整列したのが五度圏です。
十二平均律
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▲北欧の民族音楽『ケルト音楽』
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現代の一般的な西洋音階における「十二平均律」とは、1オクターブ(周波数880Hz〈A4〉の2倍が1オクターブ上のA5〈1760Hz〉)を12等分にした音律。十二平均律では、1度(ユニゾン)と8度を除いて整数比率による純正な音程は得られない代わりに、ピタゴラス音律や中全音律で生じる誤差の大きな音程に妨げられることなく、全ての調で演奏が可能で、カラオケのように転調や移調が自由に行えます。
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弦楽器は弓で弾くことで真価を発揮できるのでしょう。
◇琵琶演奏|YouTube
東アジアで十二平均律が算出されたのは以外と早かったようです。明代後期の"朱載堉"(1536年 - 1611年)は、伝統的な十二律の求め方である三分損益法を否定し、1584年に『律学新説』の中で新しい方法「新法密率」を提唱しました。これが2の12乗根に基づく平均律の最初の算出例です。
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ヨーロッパで平均律を2の12乗根に基づいて最初に算出したのは"シモン・ステヴィン"(1548年 - 1620年)です。彼は未完成の手稿(1605年頃)でオクターブを10000:5000として平均律を記述。彼の平均律の理論値からの誤差は±0.43セント未満で、後に"マラン・メルセンヌ"(1588年 - 1648年)が1636年にオクターヴを2000000:1000000として平均律を記述しました。
「ドレミファソラシ」はフランス語の音階名ですが、英語では「CDEFGAB」、ドイツ語は「CDEFGH(ツェー・デー・エー・エフ・ゲー・アー・ハー)」、日本語では「ハニホヘトイロ」となります。
西洋音階の「教会旋法」は、1オクターブに7音(ドラミファソラシ)使用されますが、多くの民族音階は5音しか使用されません。例外的に古来に使用された音階は、8音以上が使用されることもありますが、音使いに気をつけないと不協和音が頻発してしまいます。
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代表的な日本音階に「ヨナ抜き音階」と「都節音階」があります。
ヨナ抜き音階:C D E G A (ドレミソラ) 都節音階:E F A B C (ミファラシド)
日本民謡や津軽三味線でも使用される「ヨナ抜き音階」は、海外のペンタトニック・スケールや中国音階と同じ音使いです。演歌歌手の美空ひばりは、演歌でよく使用される「ヨナ抜き音階」C調の構成音「ミソラ」にちなんで命名されたのでしょう。
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アメリカの国民的な民謡"アメイジング・グレイス"は、アイルランド民謡やスコットランド民謡を合わせて作られたか、あるいは19世紀に南部アメリカで作られたなど諸説があります。いずれにしても作曲者は不明のようです。
7=神の数字
キリスト教で7は神聖な数字とされます。
これは『旧約聖書』の「神は7日間で世界を創った」という記述と「1週間は7日間」であることからも区切りの良い特別な数字とされ、スロットも「スリーセブン(777)」が大当たりとなりました。
『グリム童話』でも7が頻出します。たとえば「7年間も悪魔の元で楽器演奏の修行を積み、芸人として宮廷で演奏を披露し、その後は気に入られて王宮に仕えた」という寓話もあります。
後述する伝説のブルースミュージシャン"ロバート・ジョンソン"の逸話として、「午前0時の十字路でギターを弾いていたら悪魔が���れて『お前にギターの腕と名声を与えよう。その代償として7年後にお前の魂をもらいに来る』と言われ、その取引に応じた」なんて話もありますが、これはいかにもアメリカ人らしいジョークだったのだと思います。
彼は悪魔の宣言通り、1938年に27歳で亡くなりました。
それから同じく27歳で亡くなる人気ポピュラー音楽ミュージシャンが数多く現れ、1994年にNirvanaのカート・コバーンが亡くなったのを契機に「The 27 Club」の概念が公衆の認識で定着しました。
日本における音楽ジャンル
主な日本の音楽ジャンルは、「演歌」「歌謡曲」「フォーク」「テクノポップ」「J-POP」「ロック」「ビジュアル系」「ヒップホップ」「アニソン」「ボカロ曲」「民謡」「雅楽」などが挙げられます。
このうち演歌と歌謡曲は「演歌/歌謡曲」として同一に扱われ、邦ロック・アニソン・ボカロ曲などもJ-POPに内包されると解釈される場合もあります。
日本における音楽のジャンル分類は未解明な部分が多く、イラストの細分化されたジャンルと異なり、特に分類上の細かな定義はありません。
ジャンルの概念をSNSに例えるとハッシュタグの役割を果たします。ユーザー側は気に入った作風を探しやすくなり、作る側も特定の客層に向けて作ることにより安定したアクセス数を得ることが出来ます。
また、同じジャンルで競合すれば、他者より良いものを作らないと埋もれてしまうので、全体の技術が向上し、さらに洗練されていきます。
当然ながら「カンブリア爆発」のごとく淘汰現象も起きるのですけども。
演歌の興り
◆史料:"Canzone" | YouTube 「カンツォーネ」は、イタリア語で「歌」を指す単語。または1880年代末から1920年代に普及したイタリアの歌謡曲を意味します。
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昭和時代の戦後まもなくして、ピアノやストリングス等のヨーロッパ楽器や西洋和声・コード進行に日本民謡のメロディを合わせる試みが始まりました。
そうして誕生したのが大衆音楽の「演歌」でした。
日本民謡
民謡「佐渡おけさ」は、コード進行のない所謂ワンコードの唄です。
演歌で使用される代表的な音階として「ヨナ抜き音階」などが有名ですが、これは西洋のコード進行に合わせるために用いられたもので、実は本来の日本民謡や童謡で使用された音階と異なる場合もありました。「かごめかごめ」のメロディを連想すると分かりやすいでしょうか。
さらにリズムの概念もきっちりと楽譜に書いて区切る西洋音楽と異なり、雅楽のように日本民謡も感覚に頼る部分もあったようです。
西洋和声が伝来する以前の日本和声について書くと、記事一本が書けそうなのでまたの機会にいたします。
「かごめかごめ」の意訳
かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ
日本で広く有名な童謡「かごめかごめ」の歌詞の内容は「一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちに、もう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れ��ている」という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表した唄とされます。
動物学者エドワード S モース
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明治時代にアメリカの動物学者エドワード・シルベスター・モース(以下、モース)は何度か来日し、日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介したことでも知られています。
モースは日本の文化について「日本の建築物や工芸品の中には欧米よりも細部にわたって芸術的にまで洗練されている面もある」と高評価する一方で「日本の音楽だけは世界で最も粗雑で理解しがたい」とも記しました。
「外国人の立場からいうと、この国民は所謂『音楽に対する耳』を持っていないらしい。彼らの音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声のないことは確かである。彼らはすべて同音で歌う。彼らは音楽上の声音を持っていず、我国のバンジョーやギターに似た楽器(三味線)や、琵琶にあわせて歌う時、奇怪きわまる軋り声や、うなり声を立てる」
船頭の歌う不気味な歌や、ギーギー鳴らされる楽器の音に頭を悩ましながらも、琴の演奏を披露された時は「ずっと調律(チューニング)をしていて、なかなか演奏が始まらないと思ったら、それが本番だった」というエピソードも。
当時の欧米はワーグナーやシューベルト、リストやチャイコフスキーなどの錚々たるメンツによるクラシック音楽の全盛期で、そんな時代に和声の伴わない民族音楽を聴かせたところで、致し方ない反応だったのかもしれません。
日本のヴァイオリニスト"葉加瀬太郎"氏も「若い頃はクラシック以外は音楽じゃないと思ってました」と、TV番組『ライオンのごきげんよう』で語ったそうな。
また、モースが講義で日本の大学生に西洋音楽を紹介した際は「西洋人がなぜ音を不自然に区切り譜面化するのか理解されなかった」と記しています。
◆マトリョシカ - ハチ|YouTube ◆おもてやん - 熊本民謡|YouTube
たとえ時代が変わっても、普遍的な打楽器の使い方や抑揚感の溢れる唄、強引な転調と展開が変わっていないことに感嘆の念を隠しきれません。
こうして欧米のご意見に弱い明治政府が、「雅楽」や「民謡」などの伝統音楽を日本の教育から排除したのは語るまでもありません。
「君が代」の編曲
『君が代』の作曲は幕末から明治前期の雅楽演奏者だった林廣守。編曲はドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルト。明治時代はまだ西洋和声・音楽理論の専門家がいなかったので、ドイツ人の音楽家によってオーケストラ編曲がなされました。
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冒頭をC長調と仮定すると、長9度の音から旋律が始まります。この音使いは戦場のメリークリスマスや千本桜のサビ、ビートルズのイエスタデイの歌い出しでも聴けます。
途中のルートが半音階で動く箇所は、G長調として捉えると「D#dim - Em」というコード進行とも解釈できます。
このルートの半音階の動き(#Ⅴdim7 - Ⅵm7)は、昨今のアニソンやボカロ曲のサビでも頻繁に聴けるでしょう。
また、筆者がその昔にブログで取り上げたFountains of WayneのStacy's Momのサビでも聴けます。
日本人はこの長9度のメロディとdimコードを好み、特にサビの部分で使用する傾向が多く見受けられます。
* * * * * * *
ロックンロールの興り
ポピュラー音楽におけるロック史は、100年以上前にアメリカ南部の黒人奴隷が、労働の苦しさを紛らわすために始めた音楽ジャンル「ブルース(憂鬱)」と「ゴスペル(賛美歌)」を発案したところから始まります。
広く一般的に有名な音楽ジャンルのロックンロールとジャズは、このブルースから派生したジャンルです。
最初期のブルースはアコースティックギターによる弾き語りが主で、1930年代の有名なブルースミュージシャンにロバート・ジョンソンがいます。
当時アコースティックギターを用いてブルーノートを含むリードの演奏は斬新でした。
白人の中流階級は、学園生活を通して恋愛を経験するので、後のビートルズよろしくラブソングが多くなりましたが、一方の黒人奴隷は学業もなく労働から始まるので、歌詞の内容は「酒と女と仕事、それらにまつわるトラブル」になりました。
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ブルースでは「ブルーノート」と呼ばれる特殊な音階が使用されます。これは現代の日本でも馬と鹿や春泥棒などのポップスで聴く機会が多いでしょう。
アフリカには類稀なるリズム感だけではなく、ピアノの白鍵と黒鍵の間の音、つまり半音のさらに半音(4分の1=クォーター)を歌い分ける部族もいました。
それがリードギターの基本的なテクニックのクォーターチョーキングに応用されたのかも知れません。
ロックンロールの興りは、1950年代に黒人ギタリストのチャック・ベリーや、黒人ピアニストのリトル・リチャードが、既存のブルースのテンポを上げ、8ビートで弾き、シャウトして大衆娯楽・エンターテイメントとして昇華させたところから始まりました。
元々白人のダンスミュージックは舞踏会のワルツくらいしかなく、このロックンロールは未だかつてない爽快な音楽として歓迎されました。
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のダンスパーティーで、マーティがチャック・ベリーの代表曲"Johny B. Goode"を演奏する場面は印象的です。
1950年代後半に白人ロックンローラーのエルヴィス・プレスリーがそれらを取り入れ、世界に飛び火して日本でもロカビリーとして認知されました。
ジャズはアメリカ南部ニューオーリンズの黒人コミュニティーで誕生した音楽ジャンルで、1950年代頃までは最も親しまれたポピュラー音楽です。
ちなみに日本で最初にジャズが渡来したのは神戸とのこと。長崎や神戸は沖縄と並び徳川幕府の鎖国時代からも、ヨーロッパとの貿易により経済的な発展をとげていました。
音楽教育の開始
19世紀頃より、白人の父親と黒人の母親の間に生まれた子供に、白人の中流階級と同等の教育を施す試みが行われ始めました。
この有色人種に教育を施す試みの中で「楽譜の読み方」や「ピアノの演奏」を子供たちに教えたところ、方法論を覚えるだけではなく、白人とは異なる演奏スタイルを編み出したのです。
こうして1897年頃よりラグタイムというジャンルが生まれました。
これは最初期の黒人によるピアノ演奏��、多くの白人の演奏とは反対に、表拍ではなく裏拍を強調し、黒鍵を中心にシンコペーションを多用して演奏するのが特徴です。上記のブルースやラグタイムが発展して、ジャズに昇華しました。
Ⅰ△7 - Ⅱm7 - Ⅲm7 ~ Ⅶm7(♭5)
ジャズ界隈では移調しても応用できるように、コードはローマ数字で記載されることが多くなります。
クラシックは譜面通りに演奏されます。余計なアドリブはアンサンブルで不協和音を生むので原則禁止。いかに音と音の重なり(和声)が綺麗に響くかを追求されたのもクラシック音楽でしょう。
一方のジャズは、コード進行とテーマとなるフレーズ以外はアドリブ演奏になります。なのでライブで同じ演奏は二度と聴けません。もちろん曲のテンポや小節数=演奏時間も毎回変わります。
例外として、ラジオの生放送でジャズを放送する時は、きっちりと白人が五線譜に曲を写したようです。BPMや小節数=演奏時間はあらかじめ決めないと、生放送に乗せられないからです。
ジャズの和声は不協和音で構築されたテンションコードが多用されます。クラシック音楽で無意味な不協和音は忌避されますが、ジャズやブルース、ロックンロールなどのブラックミュージックでは、この濁った響きがお洒落さや不良っぽさを演出してくれる大切な要素になります。
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▲アメリカの作曲編曲家・プロデューサー・マルチ楽器演奏家"ショーン・マーティン"氏の演奏!
コード進行の仕組み
『クラシック音楽』は対位法でメロディに対して別の度数のメロディを重ねる「ハーモニー(和声)」で曲が展開しますが、ジャズを始めポップスなどの『ポピュラー音楽』は「コード進行」で曲が展開します。
このコード進行、及びコード譜を発案したのはアメリカのジェリー・ロール・モートン(1885 - 1941)といわれます。そこから推測するに1900年代からコード譜は誕生したようです。
彼はクレオール系(フランス領ルイジアナ時代の移住者を先祖に持つ全ての人種、及び異人種間の混血の人々)のアメリカ人でした。元々ギターを弾こうとしたものの挫折し、ピアニストに転向したようです。
当時は有色人種が良質な音楽教育を受けることは困難でした。
そんな最中でも、楽譜を読むことが困難な同胞の演奏家のために、簡易な譜面の記載方法としてコード譜が発案されました。そうして仲間と共に曲を演奏して稼いだのです。
本来クラシック音楽は、貴族による宮廷内の演奏会なので、チケット代もなく無償で公演されるものでした。
つまり「本格的な音楽の有償・商業化」が始まったのはブルース以降の時代とされます。
コード進行による音楽の制作は、クラシック和声と比較すると簡易で、専門的な音楽理論の知識が少なくても音楽を迅速に量産できます。そうして音楽の産業化もなされました。
現代のポップスやロックの過半数がこのコード進行によって組み立てられています。
ビートルズの登場
■"Lady Madonna" | YouTube
60年代の英国ロックを代表するビートルズのジョン・レノンはリズムギター兼ボーカルで、ポール・マッカートニーは左利きのベースボーカルでした。
主にビートルズ時代の代表曲(イエスタデイ、レットイットビー、ヘイ・ジュード等々)はポール・マッカートニーの作曲が多く、ジョン・レノンはソロデビュー以降の思想的な作詞が評価されました。
ジョンの作詞が大きく変わった原因は、フォークブームの先駆者ボブ・ディラン���「君たちの歌には思想がない」と言われたことが始まりだったのだとか。
ビートルズがデビューする直前は、エルヴィス・プレスリーを始め、多くの米国人男性は前髪を上げる髪型が主流でした。
それにならってビートルズもアメリカ風の革ジャン&リーゼント姿でデビューする予定でしたが、事務所の意向で前髪を伸ばしたマッシュルームヘアーと英国のモッズファッション(スーツスタイル)の衣装に急遽変更されました。
ビートルズの曲は当時としては斬新だった転調の「同主調転調」という手法を効果的に使用しており、現在もJ-POPやアニソンに継承され、頻繁に耳にできます。
A - B - E - B | A - B - C - D Ⅳ - Ⅴ - Ⅰ - Ⅴ | Ⅳ - Ⅴ - ♭Ⅵ - ♭Ⅶ 『けいおん!』主題歌のコード進行
この軽快なサビのコード進行は、メジャーコードのみで構成されます。
このように長調において♭Ⅵや♭Ⅶなどの短調で使用されるコードを用いると、上述の"Lady Madonna"のようなふしぎな高揚感を得られるのです。
Hello, Goodbye
■"Hello, Goodbye"|YouTube ポール・マッカートニーにとって原点回帰だというシンプルなコード進行の楽曲。
1967年の夏にビートルズはインドで合宿生活を送りました。
特にリードギターのジョージ・ハリスンはインド哲学の《仏教》に心酔したようです。
ところがインド滞在中にビートルズのデビュー以前からのマネージャーであるブライアン・エ��スタインの訃報を聞き、バンドの運営はポール・マッカートニーに委ねられました。
いずれにせよバンドとして4人は岐路に立たされ、それがビートルズの中期の終わり、バンド後期・崩壊期の始まりになりました。
"Hello, Goodbye"は底抜けに明るい楽曲ですが、そんな暗く混沌とした背景の中で誕生した曲です。
The Beatles - "Hello, Goodbye" Lyrics [Verse 1] You say yes, I say no 君がはいと言って、私はいいえと言う You say stop and I say go go go, oh no 君は止まろうと云うけど 私は行こうと言った [Chorus] You say goodbye and I say hello 君がさようならと云って 私はハローと言う Hello, hello ハロー、ハロー I don't know why you say goodbye, I say hello 私は知らない 君がなぜさようならと云うのか 私はハローと言う Hello, hello ハロー、ハロー I don't know why you say goodbye, I say Hello [Verse 2] I say high, you say low 私は高いと言い、君は低いと云う You say why and I say I don't know, oh no 君は「なぜ」と云って 私は「知らない」と言う [Bridge] Why do you say goodbye? どうして君は さようならと云うのだろう
中学英語のみで構成されたような非常にシンプルな押し問答風の歌詞ですが、ポール・マッカートニーは取材で"Hello, Goodbye"についてこう語りました。
「この曲は『すべて(everything)』と『何もない(nothing)』ことについて歌ったんだ。黒があれば白がなければならない」
これはポールの形而上学に対しての挑戦でした。
西欧の哲学では「no」や「nothing」に通じる概念は厭われる傾向があったそうです。
中世の《キリスト教》の中で「0」はローマ法王が使用を禁止していた時期もあります。
西欧の思想に「0の概念」を持ち込んだのはインド数学であるように、西欧が東洋思想と出会う瞬間がここに隠されています。
ポールはジョージ・ハリスンのようにインド哲学《仏教》に深く浸った訳ではありませんが、それでもポールもまた東洋思想に「出逢った」事実は完全に否定できないのでしょう。
ポールは「everything」と「nothing」は対義ではなく、同時に存在することを悟ったのだと慮ります。
出会いの数だけ別れがある、という常套句は何かの比喩ではなく、読んで字の如くそのままの意味で、別れのない出会いはこの世に存在しません。
鼓動と呼吸が始まってから一時もそれを止めずに僕がここに居るのは、誰かと逢うためなのかも知れないとか、ふとそんなことを思ったりもします。
ビートルズの成した世界初
《ビートルズ》は英国のアイドルでもありましたが、実験音楽家の側面もあり、レコーディング業界において多くの偉業をなしとげました。
・共同での作曲
ポップスとロックンロールを融合した所謂ポップロックバンドの先駆けとなった《ビートルズ》の曲の多くは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの二人により共作されました。
Aメロのロックンロール調の部分はジョン・レノンが作り、Bメロ~サビの歌謡曲&ポップス調の部分はポール・マッカートニーが作った曲が多いようです。
・サビから始まる曲
サビから開始する曲は"Can't Buy Me Love"が起源とされます。
先にオチを聴かせる手法ですが、昨今ではアニソンの常套手段になりました。
・異なるコードを同時に鳴らしてテンションコードを構成
"A Hard Day's Night"のイントロで聴けます。
ギター担当が二人いるからできた技なのでしょう。
・メロディーベース
当時のロックのベースは、基本的にルートと5度しか演奏されませんでしたが、ポールはカウンターメロディなどの《クラシック音楽》で使用される技法をエレキベースに取り入れました。
邦ロックは、ギターバッキング以上に"ジャコ・パストリアス"のごとくベースが縦横無尽に動いて主張しますが、それはポール・マッカートニーの演奏スタイルが発端となって定着したものとも考えられます。
ベースラインの構築には指板と音楽理論の深い理解が必要なので、日本人はギターよりもベース演奏の方が親和性が高いと思われます。
・ギターとベースのオクターブユニゾン
◆"Day Tripper" | YouTube
上述の通り、当時のロックベースはルートと5度しか弾かなかったので、それとは一線を画すふしぎな演奏でした。
これが60年代末にレッド・ツェッペリンなどのハードロックにおけるギターリフとベースのユニゾン奏法に発展しました。
・ギターのフィードバック奏法
◆"I Feel Fine" | YouTube
フィードバック奏法を世界で初めて録音したのは《ビートルズ》とされます。これはニルヴァーナのカート・コバーンが多用した奏法でもあります。
・ドラムのダウンチューニング
◆"Come Together" | YouTube
ジョン・レノン曰く、この曲で使われる「ドラムのダウンチューニング」は後にメタルの常套手段になったとのこと。
60年代末のイギリスで生まれたハードロックは、黒人音楽のブルースとロックンロールを白人流にアグレッシブなサウンドにしたジャンルです。
「HR/HM」という表記もあるようにハードロックとヘヴィメタルに明確な分類はありませんが、ニュアンスとしては70年代前半の英国で誕生したヘヴィメタルはハードロックに手を加えて"Crazy Train"のようにポップス調のアイオニアン・スケールを取り入れたり、80年代にスウェーデン人ギタリスト"イングヴェイ・マルムスティーン"のようにクラシカルなメロディック・マイナースケールなどを取り入れたものという解釈もあります。
・フレーズのコピー&ペースト
◆"Tomorrow Never Knows" | YouTube
この曲のベースラインは当時としては異例のコピー&ペーストで複製されました。
アナログ環境のコピペは、フィルムをハサミで切ってテープで繋ぎ合わせる手間の掛かる作業でした。映像編集の基本的な手法でしたが、それが音楽編集に応用されたわけです。
これも後のダブやクラブミュージックでは基本的な技法になりました。
・シャッフルビートと8ビートの混合ドラムパターン
この混合ドラムは"Lady Madonna"で聴けます。
ステレオ左は「シャッフルビート」、右は「8ビート」という二つの異なるビートのドラムが違和感なく調和されていることに驚きです。
今日では作詞作曲・演奏歌唱はバンドの自作自演という設定なのは当然ですが、《ビートルズ》が現れる以前は「作曲は作曲家」「作詞は作詞家」「楽器演奏は演奏家」「歌唱は歌手」というニコ動のような分担作業が当たり前でした。
筆者は世代的に《ビートルズ》を音楽史の資料としてしか聴けませんが、確かに《ビートルズ》活動以前と以降では邦楽の体系が大きく異なると存じ上げています。
ポール・マッカートニーはB型で、ジョン・レノンはO型。どういう訳か、邦楽でもミスチルやバンプオブチキン、アジカンやOfficial髭男dism、ブルーハーツの甲本ヒロトやスガシカオ、さらに米須玄師など、日本で活躍する作詞者の多くがO型の傾向が見受けられます。
これは何の因果か解せませんが、ジョン・レノンと同じO型の方が、大衆の共感できる作詞に向いているのかも知れませんね。
ちなみにヴィジュアル系は、なぜか日本で最も少ないAB型が多いのだとか。
以上、問題提起をしたまま解決せずに終わるフランス映画のごとく、この話題についても唐突に終わりたいと思います。
>ポピュラー音楽の成り立ち:後篇(準備中)
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bearbench-3bun4 · 4 months ago
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「虚無への供物」中井英夫 2261
第二章
26算術の問題01
久生と、亜利夫と藍ちゃんの推理比べというところでしょうか。 大丈夫でしょうか?
橙二郎さんはガスで���されたんだから、犯人が残していった凶器はあのガスストーブだと、 やっと藍ちゃんが答えます。 まあ、間違ってはいませんね。
あのガスストーブは書庫に取り付けてあったもので、犯人はそれを取り外して書斎に持ち込んだとしか思えない。 それは、紅司の死んだ時、書斎ではガスのカランはゴムのキャップが冠せてあって、橙二郎は、ガスは危ないから電気ストーブだけ使っていた。 それなのに、橙二郎が死んだときには、書庫のカランのほうにゴムキャップがかぶせてあって電気ストーブはそっちにあり、反対に書斎の方にガスストーブが付けられていた。
この、電気ストーブですけど、 昭和初期に松下電器製作所(現パナソニック)が反射式電気ストーブというのを販売しています。 さすが、松下幸之助さんでね。 ただ、戦前の話ですから、戦況が進み鉄の放出などあったこと考えると、別の製品なのかも知れません。 これを指しているのかどうかは分かりませんが、まあ、当然ながら、電気ストーブはあったということになります。
つまり、橙二郎がガスストーブを使うことはないとはずだから殺人だということを藍ちゃんは言いたいのでしょうね。 藍ちゃんは、蒼司にも確認にしているみたいですが、橙二郎がしたことに決まっている。と、怒られます。 怒るほどのことですかね?
亜利夫は、二階に上がることが出来る人物はいないので、共犯説を考えているみたいです。 共犯はできれば考えたくないですね。
久生たちは、亜利夫たちの例のメモ用紙を見ながら話ます。
亜利夫は、何とか自分以外の犯人を探そうとしているみたいですね。
八田皓吉が犯人だとすると、二時半ちょうどに鳴った電話のベルが二階にいる共犯者の合図で、 電話のベルは機会的な操作で八田皓吉が鳴らしたというのです。
久生は、完全否定です。 確かに、共犯者がいるなら、合図なんかなくても犯行を行うことは可能でしょうね。
前日の親族会議で急に蒼司さんが目白の家を橙二郎さんに明け渡すというので大急ぎで殺しちゃったなんてのは、 動機にならないだろといいますが、まったくです。 これが動機なんてありえません。
久生は、過去帳から、 橙二郎は、光太郎氏の亡くなる前から出入りしていたようだが、どういう縁故かは分からない、 もしかしたら、朱美さんの取り巻きの一人かもしれない。といいます。
結局、 牟礼田の帰国を待って再度集まることにします。 牟礼田が予言した殺人事件だったことが改めて示されます。
パリを発ったエールフランスが二月十八日金曜の夜に牟礼田俊夫を羽田へ運び返す前日、氷沼家にとっては何ともやりきれない事件がおきます。
ちなみに、パリ空港を出��。途中ベイルート、カラチ、サイゴンの3都市を経由した「南回り」の飛行時間は38時間30分、フライト所要時間は約50時間だそうです。 水曜日にパリを発って金曜につくんですね。 飛行機の旅も大変ですね。
父系家族の最後の生き残り祖父光太郎の妹で高齢を保っていた綾女が、 戸塚の老人ホーム聖母の園で九十余名の老女たちとともに無残な焼死をとげることになります。
新聞の報道では、 出火は十七日の午前四時半で、異様な爆発音と同時に建物火に包まれ老女が亡くなることになります。 横浜市警の捜査一課と戸塚署とが合同で設けた特捜本部の調べでは放火の疑いはなく、出火の原因は“かいろの灰の不始末”ということでした。 ちょうど二十年前に光太郎が函館大火にあったが思い出されて運命を感じています。
ただ、ここには、不可解な事実がありました。 当時の新聞では一切報道されなかったのですが、聖母の園の死人が一人だけ多いというのです。 つまりこの老人ホームにいないはずの人が焼死していることになるのです。
これが、この節のタイトルですね。 算術の問題です。
つまりそこで焼け死んだ死体の数と全収容人員から生き残った人数をひいた数とは同じになるのはずなのです。
それがどうしても合わないというのです。 一つ多い焼死体。 面白くなってきました。
つづく
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villa-chitose · 7 months ago
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ベッド施術となっております。(ベッドサイズは85センチと幅広のベッドを使用しておりますので、腕が落ちたり、シビれたりもせず安心して施術を受けることができます。) 女性セラピストのみになりますが、ベッド上に乗ってからの施術になりますので、男性のお客様でも、『力が足りない』ということなく施術可能です。(力加減は、施術前のカルテ記入欄にご記載ください。)タイ古式マッサージは、あらゆるマッサージの中でも「ストレッチが爽快で気持ちいいマッサージ」と言われています。 タイ古式マッサージの手法は・・・指圧、整体、矯正、ストレッチングと豊富です 特に「二人で行うヨガ」とも形容される様々な形のストレッチは、他のマッサージにない特徴的な手法といえます。
2500年もの歴史があるタイ古式マッサージの特徴 体に流れているエネルギーライン(タイ語で「セン」と呼びます)を刺激することです。センを刺激するとリンパや血液の流れが良くなります。 すると、各器官の働きが正常化し、体の疲れや歪みがやわらいだり、免疫力が高まったりするのです。 このようにして人を健康へと導いていくのが、東洋医学から由来しているタイ古式マッサージの考え方です。
全身施術による身体へのアプローチ タイ古式マッサージには、体の歪みを元に戻していく目的もあります。 その結果、血管や神経の圧迫を軽くし、筋肉痛、筋肉疲労、関節痛、血行障害、むくみ、腰痛、神経痛等にアプローチできます。 肩凝り、腰痛、骨盤矯正、四十肩、五十肩、生理不順や各部位の筋肉疲労等にご利用くださいませ。
バリ式リンパマッサージ
ベッド施術となっております。(ベッドサイズは85センチと幅広のベッドを使用しておりますので、腕が落ちたり、シビれたりもせず安心して施術を受けることができます。) 女性セラピストのみになりますが、ベッド上に乗ってからの施術になりますので、男性のお客様でも、『力が足りない』ということなく施術可能です。(力加減は、施術前のカルテ記入欄にご記載ください。) バリ式リンパマッサージはバリ島で代表的なマッサージです。その歴史は古く17世紀のジャワの王室で、元々は女性の美を保つために行われていた施術です。王族から庶民へ受け継がれて、島から島へ、または村から村へときた広まっていったマッサージです。バリ島では今でも民間療法の一つとして考えられています。
手技、技法 施術はすべてオイルを使い、オールハンドで手のひらと指を使います。 ゆっくりしっかりと圧をかけながらリンパの流れに沿って押していき汗がじんわり出るまで身体をほぐし、疲れやコリを取り除いていきます。リンパの流れを整えるので、疲労回復はもちろん、くすみやむくみを取り除き美容面での効果も絶大です。自律神経のバランスを整え全身の代謝機能に働きかけ、脂肪燃焼、疲労回復を促します。
バリニーズならではの特徴 バリニーズ最大の特徴である「圧」を用い、頭からつま先まで全身のコリや疲れを揉みほぐします。通常のアロママッサージでかける圧は3キロですが、バリ式リンパマッサージは身体の全体重を使い20キロほどの「圧」をかけて行います。この「圧」により、体の深部のコリや疲れをほぐしリンパも流します。 バリニーズ独特のテクニックである「圧」、圧を伝える「手の平の使い方」、途切れることのない「手技」、これら3つのオールハンド技術を用いたマッサージは、まさにハンドヒーリングを全身で実感でき、身体も心もリラックス状態に導くメニューです。疲労回復はもちろん、痩身や美肌にも効果的なバリ式のオイルマッサージを是非お試しください。
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スタッフ セラピスト
カンヤ
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タイ古式マッサージの総本山チェンマイ式とワットポー式のライセンス取得者。 本格的なタイマッサージが受けられます。 ワットポーをはじめ、つぼ、マッサージ、ストレッチ等様々な資格を取得している凄腕の持ち主。 日本在住は長いので、日本語もペラペラで、性格も明るく、優しい女性です。
得意なこと 料理、お店出せるレベルです。
趣味・マイブーム 温泉
二川 歩実
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趣味は美味しいものを食べることでマイブームはハーブ蒸しです😌✨
2024年2月下旬デビュー予定の新人です!
接客業が大好きです。
初めは慣れないこともあると思いますが、持ち前の優しさと思いやりで頑張りますので温かく見守って頂ければ幸いです。
得意なこと 水泳
趣味・マイブーム 趣味は美味しいものを食べることでマイブームはハーブ蒸しです
アジアン リラクゼーション マッサージ villa千歳店について
当店は、お客様に至福のひとときを提供するために、様々な種類のマッサージやリラクゼーションサービスをご用意しています。お客様の心身の健康とリフレッシュをサポートすることをモットーに、専門的な技術と温かいおもてなしで、癒しの空間を提供しています。
当店では、伝統的なもみほぐしマッサージをはじめ、リンパマッサージ、ヘッドマッサージ、タイ古式マッサージ、足つぼマッサージ、ふくらはぎマッサージ、足裏マッサージ、そしてオイルマッサージなど、さまざまな施術がご利用いただけます。これらのマッサージは、日常のストレスや疲労を解消し、心身のバランスを取り戻すお手伝いをいたします。
お近くのマッサージ店として、地元の皆様にリラックスしていただける空間を提供しております。施術を通じて、お客様が穏やかな心地に包まれ、日々の疲れやストレスを解放できるよう心がけています。リラックスした雰囲気の中で、お客様が自分自身と向き合い、心身ともにリフレッシュできる場をご提供いたします。
当店の施術者は、プロのトレーニングを受けた経験豊富なスタッフで構成されています。お客様の状態や希望に合わせ、最適な施術プランをご提案いたします。また、安心してご利用いただくために清潔かつ快適な施術環境を整え、お客様一人ひとりに寄り添ったサービスを提供しております。
お客様の満足度向上を常に追求し、リピーターの方々にもご愛顧いただけるよう、真心と技術を込めた施術を心がけています。お客様の健康と幸福を支えるお手伝いができることを誇りに思い、心からの癒しをお届けするために日々努力しております。何かご質問やご要望がございましたら、お気軽にお知らせください。心よりお待ちしております。
マッサージ
マッサージは、皮膚に求心的に施術することにより主に静脈系血液循環の改善やリンパ循環の改善を目的にした手技療法。マッサージは、フランスで生まれた手技療法(仏: Massage、マサージュ)を指すが、同様の効果を得られるものとしてタイ式や朝鮮式のマッサージ(アンマ(안마)と呼ばれるものは除く)も便宜的に「マッサージ」と呼ばれる。現在の日本では、治療目的で反復継続の意思をもって行うには国家資格であるあん摩マッサージ指圧師免許が必要であるが、現実のマッサージ業者は無資格が多数である。
概説 マッサージはヨーロッパ発祥の手技療法である。マッサージは厳密には指先などの末梢部から心臓に向かって施術を行う(按摩の施術はその逆となる)。マッサージには静脈やリンパの滞りを改善しその流れを促進する効果がある。
スポーツ・運動時前後には、筋肉緊張をほぐしたりするためにマッサージが用いられる。他にマッサージによる(適度な)刺激などにより、緊張の緩和をもたらし、筋肉痛を和らげる、排便を促す、気分が和らぎ眠りを誘う、等がある。
マッサージは通常医療の場でも(リハビリテーション等々)、代替医療の場でも、様々な健康増進目的で個々人が自分自身に行う形(セルフマッサージ)でも行われている。
マッサージはギリシャ語のマッシー(揉む)、ラテン語の手、アラビア語のマス(押す)、ヘブライ語の触るが語源とされる。近世以降、科学的にマッサージが手技療法として医学的に応用する価値があると提唱したのはフランスのアンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré)であった。マッサージはヨーロッパに発生したものではあるが、手技療法は命を守るための本能的な行為であり、古代インドのYogavade、古代中国の導引按蹻(自己体操法、按摩法)、トンガ諸島のtoogi-toogi、サンドウィッチ諸島のlomi-lomiなど世界各地に手技療法はみられる。
西洋 歴史 古代ギリシャの医師であったヒポクラテスは医学を志す者に対してマッサージ技術の習得を奨励していた。
先述のように、16世紀になりフランスのアンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré)が科学的にマッサージが手技療法として医学的に応用する価値があると提唱した。その後、19世紀にかけて解剖学や生理学の進歩とともに、スウェーデンでの治療体操法、オランダでのマッサージ研究、ドイツやオーストリアでのマッサージの施術効果などによってマッサージ療法は医療として確立されることになった。
スウェーデンマッサージ スウェーデンでは、19世紀にスウェーデン体操の創始者でもあるペール・ヘンリック・リング(英語版)によって医療とマッサージを一つにしたシステムが作られ、このマッサージはスウェーデンマッサージと呼ばれるようになった。
スウェーデンマッサージはヨーロッパの古典的マッサージに比べて、深部の筋などの組織へのアプローチを重視し、少量のオイルやクリームを使う特徴がある。スウェーデンマッサージは、富裕層を対象とする贅沢なものとみられていたが、医療領域、スポーツ領域、美容領域にも普及してきている。米国ではスウェーデンマッサージが手技療法の主流の一つになっている。
タクティールマッサージ スウェーデンでは皮膚に軽い刺激を与えることで接触受容体を活性化し、それが痛覚受容体よりも早く脳に信号が送られることで痛みが軽減されるタクティールマッサージも開発された。タクティールマッサージには体全体に安心感をもたらすオキシトシンの分泌を促す効果があり、不安等にも効果があるとされ、認知症へのケアなど医療・福祉現場で積極的に取り入れられるようになっている。タクティールマッサージは医療機関や高齢者福祉施設のほか保育所などでも導入されており、各地で認定タクティールケア師がケアを行っている。特に認知症の患者のケアでは認知症の周辺症状の緩和効果がみられ、高齢者の精神状態が改善され不穏行動も少なくなることで、ケアワーカーの負担も減ったと報告されている。
日本 歴史 日本においては元々按摩(あんま)が用いられてきた。
明治時代、軍医である橋本乗晃がフランスのマッサージを視察し、研究した。その後、日本にマッサージを医療法の一つとして導入された。
現在の「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ日本においてマッサージを業として行うことはできない、とされている。
法令 厚生労働省見解のマッサージの定義 看護師に関して、マッサージは臨地実習において看護学生が安楽確保の技術として、教員や看護師の助言・指導により学生が単独で実施できるものとして検討会で出され、看護師の基礎教育の中で行うことが望ましいとされている。
法律での定義はされていないが、無資格者マッサージ施術で「エーワン」(経��者は、あん摩マッサージ指圧師の有資格者)を摘発するにあたり、厚生労働省はマッサージの定義を「体重をかけ、対象者が痛みを感じる強さで行う行為」と回答している。
また厚生労働省(旧厚生省)は、無免許あん摩師の取り締まりの疑義紹介とあん摩マッサージの定義について下記の通り公文書にて回答している。
法第一条に規定するあん摩とは、人体についての病的状態の除去又は疲労の回復という生理的効果の実現を目的として行なわれ、かつ、その効果を生ずることが可能な、もむ、おす、たたく、摩擦するなどの行為の総称である。 — 昭和38年1月9日医発第8-2号(抜粋) 特定の揉む、叩く等の行為が、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年法律第217号)第1条のあん摩マッサージ指圧に該当するか否かについては、当該行為の具体的な態様から総合的に判断されるものである。 御照会の事例については、その行為の強度、時間等によっては、同条のあん摩マッサージ指圧に該当する場合もあると考えられるが、御照会の内容だけでは判断できない。 しかし、施術者の体重をかけて対象者が痛みを感じるほどの相当程度の強さをもって行うなど、あん摩マッサージ指圧師が行わなければ、人体に危害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある行為については、同条のあん摩マッサージ指圧に該当するので、無資格者がこれを業として行っている場合には、厳正な対応を行うようお願いする。 また、同条のあん摩マッサージ指圧が行われていない施術において、「マッサージ」と広告することについては、あん摩マッサージ指圧師でなければ行えないあん摩マッサージ指圧が行われていると一般人が誤認するおそれがあり、公衆衛生上も看過できないものであるので、このような広告を行わないよう指導されたい。 — 「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に関する疑義照会について(回答) 平成15年11月18日 医政医発第1118001号 判例上の定義 清水簡易裁判所/判決/昭和34年(ろ)50号(下級裁判所刑事裁判例集1巻10号2144頁)においては次のように判示している。
第一、あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法(以下単に法と略称する。)の第一条にいう「あん摩」とは、慰安また���医療補助の目的をもって、身体を摩さつし、押し、もみ、またはたたく等の行為と解すべきところ、前掲各証拠によると被告人の本件各所為は、いずれも右あん摩に該当するものであること明らかであるから、この点に関する被告人の主張は採用できない。 保険適用 マッサージ治療は医師が認めた場合に限り健康保険の適用がある。はじめて治療を受ける場合には医師の同意書または診断書が必要で、以後3か月ごとに医師の再同意が必要となる。
また、保険適用の対象は筋麻痺や関節拘縮などの症状がみられる場合のみに限られる。
法的な問題点 施術免許無資格者問題 「無資格マッサージ士問題」も参照 名称の如何に関わらずマッサージを業とできる者は、医師以外では「あん摩マッサージ指圧師」の有資格者のみである。
第一条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。 第十二条  何人も、第一条に掲げるものを除く外、医業類似行為を業としてはならない。ただし、柔道整復を業とする場合については、柔道整復師法 (昭和四十五年法律第十九号)の定めるところによる。 — あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律 しかし、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律には、「あん摩」や「マッサージ」の行為・方法の定義がされていない為、職業選択の自由もあり「整体」や「整足」「リラクゼーション」などの看板を掲げ、無資格でマッサージ類似行為をする者が後を絶たず、また、柔道整復師による保険を利用した激安マッサージも問題になっている。
施術名称問題 上記で注意が必要なのは、厚生労働省通達によると施術行為自体で違法とはならずとも、あん摩・マッサージ・指圧を標榜して類似行為を行えば「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」の違反となる見解を示している。
第七条 あん摩業、マツサージ業、指圧業、はり業若しくはきゆう業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。 一 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所 二 第一条に規定する業務の種類 三 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項 四 施術日又は施術時間 五 その他厚生労働大臣が指定する事項 ② 前項第一号乃至第三号に掲げる事項について広告をする場合にも、その内容は、施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたつてはならない。 — あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律
リフレクソロジー
リフレクソロジー(英: reflexology)または反射療法(はんしゃりょうほう)とは、主に足の裏(手の平などを含む場合もある)の特定部位を押せば体の特定部位に変化が起こるという疑似科学の考えに基づき、疲労の改善などをはかる代替療法である。語源は、reflex(反射)と-ology(学や論の意味を表す名詞を作る接尾辞)を合わせた造語であるとの説が有力。「リフレ」と短縮して呼ばれることもある。日本での普及初期にはフットケアとも呼ばれていた。
リフレクソロジーを行う人はリフレクソロジスト(英: reflexologist)または反射療法士と呼ばれる民間療法士であり、他人���対して治療目的の施術をすることはできない。
タイ古式マッサージ
タイ古式マッサージ(タイこしきマッサージ、通称: Nuat phaen boran、タイ語: นวดแผนไทย)は、タイ伝統の一種のマッサージであり、指圧による揉み動作だけでなく四肢を曲げ伸ばすストレッチを含んでいる。「古式」とあるが、西洋近代医学を取り入れたアレンジも行われており、宮廷に伝承されたものにはストレッチの技法はない。
「Nuat phaen boran」を正確に翻訳すると古式マッサージないし伝統的マッサージであるが、現在、タイマッサージ、古式マッサージ、伝統的なタイのマッサージ、タイのヨーガマッサージ、タイの古典のマッサージ、タイの整体、受動的ヨーガ、あるいは支援つきヨーガとしても知られている。
本来タイ式医療(英語版)の一部であり、長い伝統医療、宮廷医療としての歴史がある。1990年代にスパにおける健康法・美容法として行われるようになった。現在知られるものは、1980年頃を境として、タイ政府の後ろ盾を得ながら復興・構築してきたタイ式医療の一分野、タイの無形文化遺産であり、観光文化のひとつと目されている。近年では、タイ以外の国々でも健康法やリラクセーションとして親しまれている。
タイ式マッサージは本来タイ伝統医療の一部であるが、タイの伝統医療はインドで成立した仏教医学やアーユルヴェーダの影響を受けていると考えられ、伝統的な体液理論を特徴としている。被術者はマッサージのコースの間に多くのヨーガと同じ体位をさせられるのが特徴である。シャーマニズムやアニミズムとも深く関わっており、本来ボーンナイフを使った荒療治や聖水を使った徐霊や薬草学等と組みあわせた古式総合医学として認知するべきであるが、マッサージ手技のみクローズアップされ現在に至る。こういったトータルで施術できる人は、タイ本国でも減ってきている。達人と呼ばれる人は麻痺などの治療も行っているが、現在それらのノウハウも廃れてきている。
この独自のマッサージ施術法のルーツは、およそ2500年前にさかのぼると考えられている。タイではシバカゴーマラバット「Javika Kumar Baccha」として知られるブッダの主治医によって、タイに導入されたと信じられている。仏教の伝来と共に伝来し、タイの寺院で発展した。
宮廷でも医療の一環として行われた。アユタヤ朝時代の文献「ナラーイ王の薬方」には、マッサージが宮廷で治療法として用いられたことが記録されている。宮廷の中にはマッサージ師という職位があり、比較的高い地位であった。1887年には王立シリラート病院が開設され、宮廷医療と栄養近代医療が併用されたが、1915年にタイの伝統医療による治療・教育が禁止され、医療の現場では行われなくなった。1970年代WHO(世界保健機関)は、1978年の「アルマ・アタ宣言」でプライマリ・ヘルス・ケアという保健医療政策の理念とその目指すべき方向性を示し、宣言ではプライマリ・ヘルス・ケアに必要であるならば伝統的治療者の力も利用すること、といったことが述べられ各国の伝統医療復興に大きな影響を与えた。タイでも伝統医療復興運動がおこり、タイ政府は自国の伝統医療を再びその中に取り込み始め、1980年代から始まった「タイ・マッサージ復興プロジェクト」、1990年の「タイ式医療の制度化」で医療に復活した。
また。早稲田大学スポーツ科学学術院の小木曽航平は、1970年代後半から1980年代前半にかけて、タイ古式マッサージに注目した外国人がタイの学校に学びに来るようになり、この流れもグローバル化に寄与していると指摘している。政府の再編成によって、タイ式マッサージは「タイ式医療」を構成する一分野として体系化されていった。小木曽は、「政府によるタイ・マッサージの体系化は知識における2つの領野に分けて行われたと考えることが可能である。1つは医学的正当性を構築するための知識であり、もう1つは歴史的正統性を構築するための知識であ��」と述べている。政府の再編成で医療としての価値と文化としての価値を高めたタイ古式マッサージは、それによって経済的価値をも高めた。1992年にタイで初めてスパが開かれて以来、スパはタイの代表的な観光地となり、現在ではタイ政府が推し進めるヘルスツーリズムの中核的な観光資源となっている。また観光体験としても人気がある。飯田淳子、田辺繁治は、タイ古式マッサージを含むタイ式医療は、近代医療への懐疑から始まった“代替”として脚光をあびたにもかかわらず、結局は権力の主体である政府の保健医療政策に組み込まれ、医療化されたものとして捉えている。
主にそのスタイルによって、大きく2つの流派に分けられている。タイの公衆衛生省は「宮廷式」と「民間式」に分けて考えており、宮廷式は指圧を中心としたマッサージであり、民間式はストレッチをよく用いるマッサージとして区別されている。また南北で分ける考え方もあり、南部式スタイル(俗にバンコクスタイルと呼ばれる)では指圧療法が強調されるのに対して、北部式スタイル(俗にチェンマイスタイルと呼ばれる)にはストレッチ動作が多い。ワット・ポー伝統医学校(ワット・ポー・トラディショナル・メディカル・スクール:WTS)のスタイルでは、指圧の他に、患者の腕を伸ばしたり、腰を捻ったりするストレッチの要素が含まれている。観光客向けの店や日本の店ではワット・ポー式のタイ・マッサージを行っていることが多いため、タイ古式マッサージとはストレッチの技法を使うものだと思われがちだが、宮廷に伝承されるマッサージにはこうしたストレッチの技法は存在しない。小木曽航平は、ストレッチの技法は比較的後年になってから付け加えられたもので、この改変はワット・ポー伝統医学校が中心となって行ったとされていると述べている。マッサージの近代化にあたって、西洋現代医学的見地から汎用性が高くかつ大多数の人が運用するにあたり安全なものに再構築した影響が考えられる。
現在よく見られるタイ古式マッサージは次のとおりである。マッサージ被術者は着替えた後、マットレスの上に横たわる。マッサージ施術者は手と前腕を使って強固なリズミカルな圧力を被術者の体のほとんどすべての部分にかかるように押す。一般にマッサージは体の「SEN」(と呼ばれるエネルギーライン)に従う。ある動作では、施術者の脚と足は被術者の体あるいは手足を固定させるために使われ、またある動作では、手で体を固定しながら足でマッサージをする。 通常オイルは用いられないが、時々被術者の体を暖め静めるために熱いハーブの包帯が使われる。一般にタイのマッサージのフルコースは2時間あるいはそれ以上続く。フルコースには、手指、足指、耳などを引っ張り、指関節をほぐし、被術者の背中を踏み、回転する動きなどで被術者の背中を弓なりに曲げることを含む。マッサージに標準的な手順とリズムがある。被施術者は仰向けになり、足の施術から始まる。施術者は呼吸の速さで被施術者を圧迫していくことが理想とされる。
大きい集団マッサージでは、大部屋に10人以上の被術者が入れられ、施術者たちが集団で一斉にマッサージ手順を行うこともある。
タイ古式マッサージの広がり タイ古式マッサージは、タイのスパ産業の中心となっている。2006時点でタイ保健省が認定するセラピストは約4万人、そのうちスパ部門のセラピストとして認定されているのは約1万人、さらにタイ古式マッサージの資格取得者・経験者が2万人程度いるといわれるタイ国外でも人気となっている。
タイではタイ古式マッサージの学校が開かれており、国内外の生徒が学んでいる。たとえば、外国人に認知度の高い学校として、現在タイ伝統医療の象徴として人々に認識されている仏教寺院ワット・ポーと深いつながりをもつワット・ポー伝統医学校がある。1957年に設立され、おおよそ1970年代後半から1980年代前半にかけて外国人も学ぶようになり、近年ではワット・ポー伝統医学校の生徒の8割は外国人である。
マッサージの学校には、タイの教育省から認可されている学校もそうではない学校もあるが、認可を受けていない学校でも口コミやインターネットで評判が高まり、ある程度の生徒を集めているものもある。タイ古式マッサージを習得した外国人の中には、帰国してタイ・マッサージ学校を開き、オリジナルの教科書を出版する者もいた。たとえばアメリカ人のアンソニー・ジェームスはで1984年にワット・ポー伝統医学校で学び、ITTA (the International Thai Therapist Association) を組織し教育プログラムの開発を行っており、アショカナンダの異名で有名なドイツ人のハラルド・ブルスは「サンシャイン・ネットワーク(The Sunshine Network)」という組織を立ち上げている。小木曽は、外国人が組織する学校やその教育プログラムでは、マッサージだけではなく、ヨーガ、太極拳、レイキ、アーユルヴェーダなどの他の健康法をも学習内容に含むことが少なくないと指摘している。日本でも施術を受けられるサロンや学べる教室が増加している。タイの学校と連携した資格ビジネスも隆盛している。
日本とタイは、2004年2月よりEPAの交渉を開始し、2005年9月の大筋合意を経て2007年11月に発効した。この中でタイ人介護福祉士、スパ・セラピストの受け入れが協議されており、2015年09月時点で協議継続中である。
千歳市
千歳市(ちとせし)は、北海道に位置する日本の市であり、千歳空港が所在することでも知られています。以下は、千歳市に関する簡単な紹介です。
千歳市は、北海道中央部に位置し、市内には美しい自然環境が広がっています。主要な特徴として以下が挙げられます。
千歳空港: 千歳市には、新千歳空港(通称:千歳空港)があり、国内外からの航空便が発着します。観光やビジネスの玄関口として機能しており、観光客にとってもアクセスが良いエリアとなっています。
自然と観光地: 千歳市周辺には美しい自然が広がり、四季折々の風景が楽しめます。特に、千歳川や支流の清流、自然公園が訪れる人々を魅了しています。
観光スポット: 千歳市には観光スポットも点在しており、千歳市歴史民俗資料館や美術館、公園などが訪れる人々に楽しいひと時を提供しています。
食文化: 北海道ならではの新鮮で美味しい食材が豊富で、千歳市でも地元の食文化が楽しめます。観光地や市内のレストランで、新鮮な海産物や地元の特産品を味わうことができます。
千歳市 概要
千歳市(ちとせし)は、北海道に位置する都市で、「北海道の空の玄関口」とも称されることがあります。市内には新千歳空港があり、国内線の東京(羽田)—札幌(新千歳)間ではかつて世界一の乗降客数を誇り、国際線と合わせた年間の乗降客数は約2,000万人に達しています。この便利な立地から、市内は工業団地が集積し、交通アクセスが良好です。
千歳市の特徴的な点として、以下の要素が挙げられます。
交通インフラ: 新千歳空港を中心に、高速道路(道央自動車道・道東自動車道)や港(苫小牧港)が至近距離にあります。札幌市中心部までのアクセスも良好で、車でおおよそ1時間(高速道路利用)、鉄道で約30分から40分(特急・快速列車利用)で到達できます。
自衛隊基地: 千歳市には陸上自衛隊第7師団と航空自衛隊第2航空団の基地や演習場があり、約8,700人の隊員が駐屯しています。この存在が市の人口構成にも影響を与え、若年層の流入が見られ、千歳市は北海道一若い街として知られています。
歴史的背景: 千歳市の名前の由来はアイヌ語で「大きい・窪み・川」を意味する「シコッペッ」に由来し、地域には千歳神社や支笏湖があります。支笏湖一帯には美しい自然が広がり、観光スポットとしても人気です。
支笏川の歴史: 千歳市を流れる千歳川は、石狩平野の中心部に位置し、太平洋からウトナイ湖、美々川を遡って分水嶺を越え、千歳川から石狩川を経て日本海へ至る「シコツ越え」のルートが存在します。この地には、1658年に志古津弁天小社が造営され、1805年には「鶴は千年、亀は万年」の故事に因んで「支笏川」を「千歳川」と改名した歴史があります。
地理と自然環境: 千歳市は東西に広がり、面積は594.5 km²。西部は山岳地帯で支笏洞爺国立公園に指定されています。市街地は標高15 m前後の低地に広がり、千歳飛行場周辺には日��国内で最も低い標高25 m前後の分水嶺があります。豊かで清澄な水資源も豊富で、支笏湖の水は「名水百選」に認定されています。
気候: 千歳市の気候は太平洋と日本海の気象影響を受ける分岐点にあり、寒冷な冬と涼しい夏が特徴です。冬季の最低気温は-25.4℃まで下がることもありますが、比較的晴れることが多く、雪が少ないことが空港立地に適しているとされています。
人口: 平成27年国勢調査によると、千歳市の人口は95,664人で、世帯数は40,614世帯。札幌市に次ぐ北海道内第2位の人口増加数を記録し、2011年8月時点では北海道内で10番目の人口規模を有していました。
これらの要素から千歳市は、交通の要所として発展し、歴史や自然と共に住みやすい都市となっています。
千歳市の歴史
古代から江戸時代: 千歳は、札幌の低地帯と勇払原野の間��広がり、太平洋と日本海を結ぶ交通の要所として重要視されていました。この地域はアイヌと和人が交流する場として栄え、16の場所(シコツ十六場所)が存在し、江戸時代にはユウフツ場所に組み込まれ、千歳川会所が設けられました。1660年(万治3年)の『福山秘府』において初めて「シコツ」の地名が登場し、その後の記述には「志古津」(シコツ)として言及されています。
近世から明治時代: 1644年(正保元年)には、『正保御国絵図』にシコツ越えが描かれ、1658年(万治元年)には志古津弁天堂が建立されました。1805年(文化2年)には、羽太正養(箱館奉行)が「シコツ」を「千歳」と改名しました。1869年(明治2年)に北海道に11国86郡が設置され、千歳は胆振国千歳郡となりました。その後、1873年(明治6年)には札幌本道(後の国道36号)が開通し、千歳に開拓使駅逓所が設置され、1880年(明治13年)には千歳郡千歳村外五ヶ村戸長役場が開庁されました。
近代: 1888年(明治21年)には市制が施行され、千歳市としての歴史が始まりました。1934年(昭和9年)には千歳飛行場が完成し、その後の発展に大きな影響を与えました。1958年(昭和33年)には市制が施行され、千歳市としての歴史が始まりました。この時期に千歳国際空港が開港指定を受け、航空の発展が地域経済に寄与しました。1988年(昭和63年)には新千歳空港が開港し、24時間運用が開始されました。1998年(平成10年)には千歳科学技術大学が開学し、地域の教育・研究拠点としての役割を果たしています。2010年(平成22年)には新千歳空港国際線旅客ターミナルビルが供用開始され、交通の要所としての地位を一層確立しています。
現代: 千歳市は、航空交通、教育・研究機関、地域経済など、多岐にわたる分野で発展を遂げています。2017年(平成29年)には北海道千歳リハビリテーション大学が開学し、医療・福祉分野においても進化が見られます。地域の観光資源も開発が進み、観光拠点としても注目を集めています。これらの歴史的な出来事や変遷を通じて、千歳市は過去から現在に至るまで、その発展と変化を遂げてきたことが伺えます。
千歳市の政治
千歳市の政治、行政、市長・町長、戸長などの歴史を紹介します。
歴代首長:
初代 石山専蔵 – 1880年(明治13年)3月1日
2代 秦一明 – 1880年(明治13年)10月25日
臨時代理 石山専蔵 – 1884年(明治17年)
3代 太尾長祥 – 1884年(明治17年)11月22日
4代 下宮良平 – 1886年(明治19年)3月2日
5代 三木勉 – 1887年(明治20年)6月1日
6代 常葉隆久 – 1892年(明治25年)2月8日
7代 増川兵蔵 – 1893年(明治26年)6月13日
8代 岩田秀雅 – 1897年(明治30年)5月20日
明治30年7月、漁村・島松村分村
9代 橘莞爾 – 1898年(明治31年)7月29日
明治32年8月北海道区制、一・二級町村制
10代 岩田外喜男 – 1902年(明治35年)4月20日
11代 福士武美 – 1903年(明治36年)4月10日
12代 中川種次郎 – 1903年(明治37年)4月20日
13代 深田猪七郎 – 1903年(明治37年)6月1日
14代 国谷清之助 – 1911年(明治45年)5月27日
15代 川村隆吾 – 1913年(大正2年)12月24日
16代 間山俊助 – 1914年(大正3年)5月30日
歴代村長:
初代 間山俊助 – 1915年(大正4年)4月1日
2代 山田旦 – 1916年(大正5年)6月30日
3代 後藤彌次郎 – 1918年(大正7年)12月10日
4代 山田旦 – 1923年(大正12年)1月31日
5代 川合新三郎 – 1925年(大正14年)3月24日
6代 鹿目徳親 – 1930年(昭和5年)1月23日
7代 清水良作 – 1932年(昭和7年)9月21日
8代 畠山定吉 – 1936年(昭和11年)1月30日
臨時代理 1939年(昭和14年)4月1日
職務管掌 高橋綱三郎 – 1939年(昭和14年)7月15日
9代 岡本幸信 – 1939年(昭和14年)10月14日
歴代町長:
初代 岡本幸信 – 1942年(昭和17年)5月1日
臨時代理 舛田岩雄 – 1946年(昭和21年)11月7日
臨時代理 中川種次郎 – 1946年(昭和21年)12月21日
2代 山崎友吉 – 1947年(昭和22年)4月15日
歴代市長:
初代 山崎友吉 – 1958年(昭和33年)7月1日〜1959年(昭和34年)4月29日
2代 米田忠雄 – 1959年(昭和34年)4月30日〜1975年(昭和50年)3月22日
3代 東峰元次 – 1975年(昭和50年)4月27日〜1987年(昭和62年)4月26日
4代 梅沢健三 – 1987年(昭和62年)4月27日〜1991年(平成3年)4月26日
5代 東川孝 – 1991年(平成3年)4月27日〜2003年(平成15年)4月26日
6代 山口幸太郎 – 2003年(平成15年)4月27日〜2023年(令和5年)4月26日
7代 横田隆一 – 2023年(令和5年)4月27日〜現職(通算1期)
基地対策:
千歳市は特定防衛施設関連市に指定され、特定防衛施設周辺整備調整交付金を活用して生活環境の整備に取り組んでいます。終戦後の千歳市では、連合国軍最高司令官総司令部の進駐や保安隊の創設により、基地関連者が市内に居住し、歓楽街が発展しました。これに伴う社会問題も発生し、売春や麻薬法、外為法に関連する問題が発生しました。1953年時点では、九州方面から来た約1300人の売春婦が営業活動を行っていました。この問題に対処するため、日米合同委員会風紀部会が設置され、基地外での風紀の乱れ対策が検討されました。第一騎兵隊の撤退により、1954年から急速に社会問題は収束していきました。
市民憲章・都市宣言:
千歳市は市民憲章と都市宣言を制定しており、それに基づいて市民は共に協力し、千歳市をより良い場所にすることを誓っています。市民憲章は、仕事に励み、明るく、若々しいまちをつくり、自然を愛し、季節に親しみ、快適で楽しいまちをつくるなど、様々な価値観が盛り込まれています。
議会:
千歳市の市議会は25名の議員で構成され、議長は佐々木雅宏氏が務めています。会派は自民党、公明党、立憲民主党、日本共産党、無所属などが存在し、市政の運営や課題解決に取り組んでいます。
財政:
千歳市は2016年から行政改革を進め、財政の健全化に努めています。予算の総額は686.5億円で、一般会計、特別会計、企業会計に分かれています。財政力指数や経常収支比率など、財政の健全性を示すさまざまな指標が存在しています。
以上が千歳市の政治や行政の概要です。
千歳市の国家機関
自衛隊:
千歳市には陸上自衛隊の東千歳駐屯地および北千歳駐屯地、航空自衛隊の千歳基地が存在します。陸上自衛隊第7師団は北部方面隊に所属し、機甲師団として戦車を主体とした重戦力を有しています。東千歳駐屯地には第7師団司令部や各種支援部隊が、北千歳駐屯地には第1特科団本部や野戦砲部隊が配置されています。航空自衛隊千歳基地は北部航空方面隊に属する第2航空団が展開しており、戦闘機や政府専用機を運用しています。千歳管制隊は千歳飛行場や新千歳空港周辺の航空交通管制業務を担当しています。
行政機関:
千歳市にはさまざまな官公庁が存在しています。法務省には北海少年院があり、財務省には函館税関千歳税関支署が所属しています。また、出入国在留管理庁の札幌出入国在留管理局千歳苫小牧出張所も千歳市内にあります。厚生労働省には千歳公共職業安定所(ハローワーク千歳)が、農林水産省には横浜植物防疫所札幌支所新千歳空港出張所や動物検疫所北海道出張所が所在しています。林野庁北海道森林管理局も千歳市内に石狩森林管理署、千歳森林事務所、支笏森林事務所を有しています。
国土交通省:
札幌開発建設部
千歳川河川事務所
千歳道路事務所
千歳空港建設事業所
新千歳空港事務所(東京航空局)
気象庁:
札幌管区気象台
新千歳航空測候所
海上保安庁:
第一管区海上保安本部千歳航空基地
環境省:
北海道地方環境事務所支笏湖自然保護官事務所
防衛省:
北海道防衛局千歳防衛事務所
陸上自衛隊北部方面隊
第7師団司令部
東千歳駐屯地
北千歳駐屯地
航空自衛隊航空総隊北部航空方面隊
第2航空団司令部
第3高射群
千歳基地
防衛装備庁千歳試験場
独立行政法人・特殊法人等:
水産研究・教育機構北海道区水産研究所千歳さけます事業所
日本放送協会札幌放送局千歳支局
このように、千歳市は様々な国家機関や官公庁、自衛隊関連の施設が集積している地域です。
千歳市の施設
警察:
千歳市には北海道札幌方面千歳警察署があり、市内各地に交番や駐在所が配置されています。交番には駅前交番、新富交番、本町交番、住吉交番、向陽台交番などが含まれ、地域の治安維持や市民への安全対策を担当しています。また、支笏湖駐在所や泉郷駐在所など、市内各地に駐在所が存在しています。さらに、空港警備派出所が新千歳空港での警備を担当しています。
消防:
千歳市には千歳市消防本部があり、市内には消防署や出張所が配置されています。富丘出張所、向陽台出張所、西出張所、支笏湖温泉出張所などが、地域ごとに消防活動を担当しています。2017年には千歳市消防総合庁舎が建設され、消防活動の中心となっています。
医療:
千歳市にはいくつかの主要な病院があります。いずみ会北星病院、尾谷病院、向陽台病院、資生会千歳病院、市立千歳市民病院、千歳桂病院、千歳第一病院、千歳豊友会病院などが市内に位置しており、市民の医療ニーズに応えています。
郵便局:
千歳市内には千歳郵便局があり、これが集配局となっています。東部地区を除く全域の郵便物はここで取り扱われており、東部地区は三川郵便局が集配を担当しています。
公共施設:
千歳市休日夜間急病センター
千歳市総合福祉センター・千歳市総合保健センター
千歳市グリーンベルト地下駐車場
千歳市防災学習交流施設
千歳市公設地方卸売市場
千歳市営牧場・育成畜舎
千歳市支笏湖ヒメマスふ化場
千歳市葬斎場
千歳市廃棄物焼却処理施設
千歳市廃棄物再資源化施設
文化施設:
千歳市民文化センター(北ガス文化ホール)
千歳市民ギャラリー
千歳市青少年会館
千歳市立千歳公民館
千歳市立図書館
千歳市埋蔵文化財センター
運動施設:
千歳市スポーツセンター(ダイナックス アリーナ)
千歳市民球場
青葉球場
青葉陸上競技場
青葉公園ラグビー場
青葉公園スケート場
千歳市温水プール
千歳市開基記念総合武道館
ゴルフ場:
ザ・ノースカントリーゴルフクラブ
ちとせインターゴルフクラブ
シャムロックカントリー倶楽部
千歳カントリークラブ
新千歳カントリークラブ
グレート札幌カントリー倶楽部
千歳市は様々な施設が整備されており、市民の生活や様々なニーズに対応しています。
千歳市の対外関係
千歳市の対外関係において、姉妹都市や提携都市が存在します。
海外の姉妹都市:
アンカレッジ(アメリカ合衆国 アラスカ州)
姉妹都市提携日���1969年(昭和44年)4月21日
コングスベルグ(ノルウェー王国 ブスケルー県)
姉妹都市提携日:1988年(昭和63年)8月31日
長春市(中華人民共和国 吉林省)
姉妹都市提携日:2004年(平成16年)10月11日
国内の姉妹都市:
指宿市(九州地方 鹿児島県)
姉妹都市提携日:1994年(平成6年)4月15日
これらの提携や姉妹都市関係は、文化交流や経済的な連携を促進し、国際的な協力関係を築く一翼を担っています。
千歳市の経済
千歳市の経済は多岐にわたり、産業構成は第一次産業が2.7%、第二次産業が17.9%、第三次産業が73.5%となっています。事業所の中では、宿泊・飲食サービス業と運輸・郵便業が高い割合を占め、製造業の従業員数の構成比が高いのが特徴です。この傾向は、支笏湖などの観光地の存在、新千歳空港の利用による宿泊需要、若年層による飲食需要、比較的大規模な工場が多く立地していることに起因しています。
千歳市は農業基盤整備を背景に農業分野でも進化しており、小麦、てん菜、大豆などの大規模経営と近代化が進んでいます。水産業ではサケ・サクラマスのふ化・放流事業や、支笏湖でのヒメマスのふ化事業が行われ、地域経済に貢献しています。
工業分野では、250を超える企業が立地する工業団地が形成され、製造品出荷額は北海道内で第4位に位置しています。千歳市の工業団地には、千歳第1工業団地から千歳臨空工業団地、千歳サイエンスパーク、千歳美々ワールドなどがあり、地域の発展に寄与しています。
商業分野では、新千歳空港周辺には空港ターミナルビルや大規模なアウトレットモールがあり、北海道内外からの幅広い集客を誇っています。商店街も6つの組合連合会と1つの振興会により形成され、地域経済を支えています。
また、金融機関や物流施設、多様なスーパーマーケット、商業施設が充実しており、千歳市は豊かな経済基盤を築いています。
さらに、千歳市は組合や協同組合を通じて地域社会と連携し、農業、漁業、環境整備、自動車整備などの分野で協力体制を築いています。例えば、JA道央や北海道農業共済組合をはじめとした組合が、地域の農産物や畜産物の生産・流通において重要な役割を果たしています。
商業においては、新千歳空港を拠点とするショッピングセンターやアウトレットモールが、地域経済をけん引しています。イオン北海道やアークスグループをはじめとした大手スーパーマーケットが進出し、多様な商品を提供しています。物流面では、ヤマト運輸、佐川急便、日本通運、北海道福山通運などが千歳市に拠点を構え、円滑な商品輸送が行われています。
金融機関も多岐にわたり、北洋銀行、北海道銀行、信用金庫、労働金庫、JAバンク北海道などが市内に支店を構え、地域住民や事業者に金融サービスを提供しています。
総合的に見て、千歳市は農業、工業、商業、金融、物流などの分野でバランス良く発展し、地域経済において重要な拠点となっています。
続いて、千歳市は地域社会において文化・教育施設も充実しています。千歳市民文化センターや千歳市立図書館、スポーツセンター、市民球場、武道館などが市内に存在し、市民の様々な文化・スポーツ活動をサポートしています。これらの施設は、市民の交流や地域への貢献を促進しており、市内外から多くの人々が集まります。
また、千歳市は姉妹都市や提携都市との交流も積極的に行っています。アメリカ合衆国のアンカレッジ、ノルウェーのコングスベルグ、中国の長春市など、国際的な交流が市の発展に寄与しています。国内では鹿児島県の指宿市との姉妹都市提携があり、地域間の友好関係を深めています。
さらに、千歳市は観光地としても知られており、支笏湖や新千歳空港などが観光スポットとして人気を集めています。これらの観光地が地域経済においても一定の役割を果たしており、地元産品や観光資源を活かした産業も育まれています。
総じて、千歳市は多岐にわたる産業や施設を有し、地域社会全体の発展に寄与している状況です。
また、千歳市の経済の中で重要な役割を果たしているのが農業や漁業、そして工業です。農業では大規模経営や近代化が進み、小麦、てん菜、大豆などが栽培されています。水産業ではサケ・サクラマスのふ化・放流事業が行われ、地域の漁業を支えています。支笏湖ではヒメマスのふ化事業も展開されており、地域資源を有効活用した取り組みが行われています。
工業分野では、千歳市内には様々な工業団地が存在し、企業の立地が進んでいます。製造業の出荷額は北海道内で高い位置にあり、工業の発展が地域経済に寄与しています。特に新千歳空港周辺にはロジスティクスセンターやサイエンスパークが整備され、物流や研究開発の拠点として機能しています。
商業面では、新千歳空港を中心にショッピングセンターやアウトレットモールがあり、地域経済においても商業が重要な位置を占めています。これにより、地域外からの観光客や利用者が増加し、地元の事業者にとっても新たなビジネスチャンスが生まれています。
総じて、千歳市は多様な産業が連携し、地域社会全体が持続的な発展を遂げている都市と言えます。
千歳市の情報・通信
千歳市は多岐にわたる産業活動や地域施設が集まり、その構造はさまざまな要素から成り立っています。
経済の視点から見ると、千歳市の産業構成は第一次産業が2.7%、第二次産業が17.9%、第三次産業が73.5%となっています。特に宿泊・飲食サービス業や運輸・郵便業が顕著で、製造業も大きな従業員数を抱えています。これは観光地である支笏湖や新千歳空港の影響、そして市内には比較的大規模な工場が存在することが影響しているとされています。
農業では、農業基盤整備を背景にし、小麦、てん菜、大豆などの大規模経営が進んでいます。水産業ではサケ・サクラマスのふ化・放流事業や支笏湖でのヒメマスのふ化事業が行われ、地域の水産業を支えています。工業分野では工業団地や千歳臨空工業団地などに多くの企業が進出し、製造品の出荷額は北海道内で第4位となる規模を有しています。
商業施設としては、新千歳空港の空港ターミナルビルやアウトレットモールがあり、地域の中心的な商業拠点となっています。また、商店街も複数存在し、地域経済に貢献しています。
教育施設としては、公立千歳科学技術大学をはじめ、高等学校や中学校、小学校が整備されており、地域の教育環境も整っています。さらに、保育所や幼稚園も充実しており、地域の子育て環境が整っています。
情報通信分野では、新聞社や電力会社、ガス会社、水道局などが存在し、地域の生活基盤を支えています。マスメディアも新聞社や地域情報誌があり、地域の情報発信に貢献しています。
情報通信分野では、地元の新聞社やメディアが地域の情報を提供しています。新聞社としては、苫小牧民報社千歳支局、北海道新聞社千歳支局、朝日新聞北海道支社千歳支局、読売新聞北海道支社千歳通信部、毎日新聞北海道支社千歳通信部などが挙げられます。これらのメディアは地域の出来事や情報を報じ、住民に様々な情報を提供しています。
生活基盤としては、電力は北海道電力千歳支社、ガスは北海道ガス(北ガス)千歳支店が担当しており、上下水道は千歳市水道局が管理しています。また、日本海さけ・ます増殖事業協会なども地域の生活基盤に関与しています。
教育面では、公立千歳科学技術大学や各種学校が存在し、地域の学術・教育水準向上に寄与しています。公立千歳科学技術大学は特に科学技術分���において高い水準の教育を提供しています。
地域の生活インフラを支える金融機関としては、北洋銀行、北海道銀行、苫小牧信用金庫、北海道信用金庫、北門信用金庫、北央信用組合、北海道労働金庫、JAバンク北海道(JA道央)などが挙げられます。これらの金融機関は地域の経済活動を支え、住民に金融サービスを提供しています。
続いて、千歳市のマスメディアに加え、地域経済や教育・生活基盤などの側面に焦点を当てて説明してみました。何か特定の情報が必要でしたら、お知らせください。
また、千歳市の教育機関についても簡単に紹介いたしました。公立千歳科学技術大学が地域において高等教育の中心的存在となっており、地元の学生に科学技術分野での学びの機会を提供しています。他にも私立の北海道千歳リハビリテーション大学や日本航空専門学校千歳キャンパスなども地域において教育の充実に寄与しています。
地元の学校としては、千歳市内には幼稚園から高等学校まで様々な学校が存在しています。高等学校では、道立の北海道千歳高等学校や北海道千歳北陽高等学校が地域の学生に教育を提供しています。中学校や小学校も市立のものが複数あり、地域全体で幅広い教育環境が整備されています。
生活に密着した施設として、千歳市内には様々な保育施設や幼稚園があります。市立の認定こども園や私立の認可保育所、認定こども園千歳春日保育園、ありんこ保育室、こだま保育園、さくら保育園、千歳速算学校などが、地域の子どもたちの教育・保育を担当しています。
また、事業所内保育や夜間保育所、認可外保育施設も存在し、働く親たちの支援にも貢献しています。例えば、ダイナックスこどもくらぶやたんぽぽ夜間保育園、キッズハウス オハナ、ちびっこランド千歳園などが、柔軟かつ多様な保育サービスを提供しています。
千歳市の交通
交通面では、千歳市は新千歳空港を中心にさまざまなアクセス手段が整っています。以下にその概要を述べます。
新千歳空港: 新千歳空港は、国内線と国際線に対応した2つのターミナルビルを備えています。この空港は2本の並行滑走路を有し、その南半分と千歳飛行場の東側滑走路南端が苫小牧市にまたがっています。
鉄道: JR北海道が主に運行しており、千歳市内には���歳線が通っています。主要な駅としては、千歳駅や南千歳駅があり、特急列車が頻繁に停車しています。ただし、市内東部には駅は存在していません。
バス: 市内外へのバスアクセスも充実しており、北海道中央バスや千歳相互観光バス、あつまバスなどが運行されています。新千歳空港と市内を結ぶバスも利用されています。
タクシー: 市内ではタクシーも利用可能で、小型車と中型車があり、初乗り上限運賃はそれぞれ550円と570円です。
道路: 主要な高速道路としては、道央自動車道が新千歳空港ICから千歳ICを結び、千歳恵庭JCTで道東自動車道に接続しています。国道や道道も整備されており、交通の利便性が高い地域です。
これらの交通手段が結ぶことで、千歳市は観光やビジネス、物流など多岐にわたる分野でアクティブな都市となっています。
都市間バス: 都市間バスも新千歳空港と市内を結ぶ便があり、北海道中央バスやニセコバス、北都交通、帯運観光、旭川電気軌道、網走バス、道南バスなどが運行しています。
道路: 道路面では、国道36号、国道234号、国道274号、国道276号、国道337号、国道453号などが市内を縦横に結んでいます。また、各種道道も整備されており、市内各地へのアクセスが便利です。千歳恵庭JCTを中心に、道央自動車道や道東自動車道などが交わり、効率的な移動が可能です。
道の駅: 千歳市には、2016年にオープンした「道の駅サーモンパーク千歳」があります。地元の特産品や観光情報を提供する拠点として観光客に人気です。
交通面でのアクセス環境が整っていることから、千歳市は観光拠点や物流の中心地として発展しています。地域内外からのアクセスが容易なため、多様なニーズに対応した発展が期待されます。
空港: 新千歳空港は、市内南部に位置しています。国内線、国際線ともに利用され、交通の玄関口として機能しています。近隣には観光施設やショッピングモールもあり、観光客や出張者に便利な施設が揃っています。
鉄道: 鉄道面では、JR北海道の千歳線が市内を走り、千歳駅や南千歳駅、新千歳空港駅などが存在します。これらの駅を利用することで、市内各地や札幌市、苫小牧市などへのアクセスが可能です。
バス: 市内交通としては、北海道中央バスや千歳相互観光バス、あつまバスなどが路線バスを運行しており、市内の主要なエリアを結んでいます。都市間バスも新千歳空港と市内を結ぶ便があり、北海道中央バスやニセコバス、北都交通、帯運観光、旭川電気軌道、網走バス、道南バスなどが運行しています。
タクシー: 市内では各種タクシーサービスが展開されており、金星自動車、北都交通、千歳交通、ゆたか交通、道央交通、千歳昭和交通、札幌エムケイなどが利用可能です。
道路: 道路面では、高速道路として道央自動車道が整備され、新千歳空港ICから千歳ICを経由して千歳恵庭JCTへとつながっています。また、国道36号、国道234号、国道274号、国道276号、国道337号、国道453号などが市内を縦横に結び、効率的な移動が可能です。
道の駅: 千歳市には、2016年にオープンした「道の駅サーモンパーク千歳」があります。地元の特産品や観光情報を提供する拠点として観光客に人気です。
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0 notes
u-wolf-kansou · 10 months ago
Text
不可逆怪異をあなたと2/古宮九時
感想です。前回から一年も経ったんですか? 早すぎませんか?
こちらは古宮先生作品であるUnnamed Memoryとその続編であるafter the end、Babelなどのシリーズを読んでいるものの感想です。ネタバレなどはご容赦ください。
ーーーーーーーーーーーー
〇、血汐事件
血汐事件の裏、一妃ちゃ���視点での描写。
夢見さんとの別れがしんどい。そしてその別れと出逢いの繰り返しを受け入れている一妃ちゃんもしんどい。
『ああ──あと少しだったのに』
↑普通に怖いです。よくあるけど一番怖いよね。
一、境縄
読めないんだけど「けいじょう」かな。
普通に縄と戦うのおもしろいです。あいかわらず蒼汰くんはあまり動じてなくて読者もそこまで恐怖を感じなくて済んでるのでは?
その後転校先で黒墨雨さんと会い、挨拶を済ませる蒼汰くん。監徒の人たちが多いというのは少しいいことか、巻き込まれる前兆か。
異郷の話は気になっていたので一妃ちゃんが話してくれて良かった。もっと知りたいことはたくさんありますが。巻頭口絵だけ見ちゃったけどそこが薄ピンク〜紫なのと、表紙がピンクっぽいのは何か関係あるのかな。
「それ学校の感想なの?」
↑二回言った。
俺がちゃんと俺であるうちに結果を出したい。地柱のことも、一妃のことも。
↑いろんなことに責任感がある蒼汰くん、推せます。まぁやはり花乃ちゃんは大事なんだけど、その大事な物の中に一妃ちゃんも含まれていそうだなということがわかる一文、好きです。
二、連絡網
自由な校風、いい。でも蒼汰くん宿題はやって欲しい。家族二人にも言われていただろ、、、宿題やっとけば理解しやすいんだからテスト勉強も復習で済むことが多いんだぞ。
隣の席の山上くんから唐突に地柱だよねって言われるの笑う。予測変換で出てこなかった地柱がようやく出てくるようになりました。ありがてぇ。
「学校に通いたい地柱さまなんだろうな、くらい」
↑は結構軽すぎるのでは? 山上くん大丈夫? でも蒼汰くんにとっては居心地良さそう。
薄緑の鹿、現物見たい。ちゃんと力を込められる蒼汰くん流石です。そして、白線がこのタイミングで出てくるの、踏んだり蹴ったりだけど二人とも冷静さを失わずに対処してるのがすごい。
やっぱり人外描写が上手い。一妃ちゃん、『話が通じるかどうか』じゃなくて『友達か違うか』で見てるっての、すごい腑に落ちた。
黄昏から夜へとページがめくられていく時間。
↑この表現すごく好きです。
こわいよ家電〜!そんな機能ないよ〜!読谷紀子さんは誰なの〜!?
三、相談箱
禁忌破り普通によくないですよね。でもこうやってクラス内カーストがあるとなかなか難しい。床辻市民は怪異という同じ敵(?)があるんだからそこは協力して欲しい。
……読谷紀子さん?
墨染雨さん、ちゃんとおにぎり食べてちゃんと白線対策教えてくれるのいい。このおにぎり古宮先生好きなんだなきっと。このまえご飯の上に乗っけて食べたりはしたけど今度やってみます。
墨染雨さんからの一妃ちゃんは人間ではない、人の心がないということの忠告、よくわかるし一巻で出てきた人の心がない描写は怖かったです。だけどそれを受け入れて家族と言い切る蒼汰くん、推せる。
連絡網、怖すぎ。
四、彼岸渡し
せっかく穏やかな気持ちで過ごせるようになってた花乃ちゃん、連絡網でまた怯える生活になってしまったの心が痛すぎる。
人の在り方を愛でるまなざし、人が家族同然に動物を愛するのときっと似ているという描写、まさにそうなんだろうけどその愛に救われている花乃ちゃんの安らぎはきっと本物だから、二人には一緒にいて欲しいと思う。
途中でおばあちゃんが出てきて禁忌破りが中断されたの、良かったねとは思うけど結局みんな昏睡状態なのよくないな?
色々説明してくれる墨染雨さん。ずっとリーフレットの話してる。大事なことを隠した広告は良くないですな。今回のように何も知らない相性の悪い住人が入ってきちゃう。
というわけで市役所燃えました! え?
そして読谷紀子さんも確保される。実体あるんか、、、話はどんどんすすんでいきます。
五、捧げもの
どうやら読谷紀子さんは本人だということがわかる。花乃ちゃん実は的を得た発言なのでは?
邪魔になるタイミングで夏宮さんがやってくる。怪異じゃないんかい。まぁ人外ではありますが。
ここの挿絵の一妃ちゃんめっちゃかわいくないですか? 二色先生本当に絵が上手い。夏宮さんは俯瞰で立ち絵しかも地面もあって、後ろにコマが二つってなかなかやらないでしょ。空間の取り方が神。ほんとにすきです。
六、追憶
地柱として生きてきた墨染雨さんの読谷紀子さんへの想い、それは一言で言えば愛じゃないですか……うっ
夏宮さんついてきてくれるんか〜相変わらず話し合いで解決しようとする蒼汰くん好き。
七、回帰
墨染雨さんの所突入! 緑に光ってるって草だったんかい。草。
人外になってもなお人を愛する心を持ち、読谷紀子さんを助けようとする墨染雨さん、すき。
グレーティアさんと墨染雨さんの気まずいやりとりについて蒼汰くんが責任感じるの全然違うんだけどいい人だなぁとは思う。そこまで責任感じなくていい。
紀子さんの記憶もどってよかった!!! なんだけど、やっぱり白線の内側に居たのかな。異郷の情景のようなものが少し出てきた感じする。
八、開門
加護……?
手に空いた穴絆創膏つけておけば塞がるかな!?本当に言ってるの!?!?!?こわ
風呂で寝るな! それは失神だ!
一妃ちゃんが急に来て大変!ってなるのかわいいんだけどそのあとが不穏。作り直されたとかやめてよ……おねがいだから。
見逃した白線大丈夫? とは思ってたけどやっぱり伏線だったか、、、やだ〜
え、紀子さん自身も送り込まれたってのに気づいているのか。ちょっと待ってバッドエンドしか見えないんですが。
二人で終わらせようとしてたのに邪魔しないでくださいよ!!!国なんて最近できたばかりのものでしょう!!!!!!!!!ばか!
九、加護
加護をつけていたのは意味なかったのかなと思っていたらまさかのそれでこちらに侵攻してくるアンカーとしての機能を果たせるようになったって皮肉すぎる。ほんとなに? 人の心ありますか?
一妃ちゃんのお姉ちゃん、双華っていうんですね、名前綺麗。超怖いけど。ピンク色のゼリーにはなりたくない、、、
一妃ちゃんが蒼汰くんの近くにいるってことを悟らせてしまったって責任感じてるけど何でもかんでも背負い込みすぎやねん!!!
ぼろぼろになりながらも奮闘して蒼汰くんたちを逃がしてくれた墨染雨さん、ほんとに……ほんとに……
十、侵攻
一妃ちゃんが持ってる性質がすごく独裁者っぽいのうわ〜ってかんじ。
珍しく二人を巻き込んでしまったって落ち込んでいる一妃ちゃんに対する蒼汰くんと花乃ちゃんの返答、すごくいい。それに対する一妃ちゃんの反応も。ああ〜。
「人が自分の力でできてる限りは手出ししない方がいいんだよ。じゃないと在り方が曲がっちゃうでしょ」
↑は古宮先生作品に割と共通する考え方だと思う。ティナーシャちゃんもよくこういうこと言うよね。
「一緒にいる時は助けるし、離れていても力になる。相手を尊重する。理解に努める。それが及ばなくても、粗末には扱わない。」
ずんとくる言葉。
挿絵、ああああああああ!!!
約束した、したな!?ちゃんと戻ってくるからな三人で!!!!!!!
十一、拒絶
一妃ちゃんと双華さんの相容れない性質。うーん。気になってたんですけど、姉が2で妹が1なのはなんでなんですかね? 実は双子で先に生まれた子を姉とするが名前はあとにする風習とかある?
石灯籠の辺りを通ったのはなんだろ八尺様みたいなやつ? 双華さんが怪異と遭遇してんの笑うな。
メンタルで攻撃していく蒼汰くん。相変わらず強い。
ついにメンタル強化だけじゃなくて物理で殴り始めた。やっぱり力isパワー。
棒状にしちゃったら本当にキャンディだろ、可愛いってこと
↑の流れずっと笑ってました。このままシリアスに戻れなかったらどうしようと思って読んでた。
翅かっこいい〜!
十一、羽化
一妃ちゃんがこちらの世界に来てからの話、この一節がとても好き。自分と共に生きる娘たちを愛した一妃ちゃんの愛が伝わってくる。
花乃ちゃんの電話……。
裏返して彼岸にしちゃうの本当すごい。加月くん天才じゃない?
夢見さん、、、、、、
【境縄】、この世とあの世……此岸と彼岸の境界を動かすもの。
↑答え ↓一、境縄の記述
【境縄とは■■と■■の■界を動かすものであり、すみやかに送り返さねばならない】
ここで出てくんの天才ですよね! まさか伏線にしてるとは思ってなかった。無駄がない。本当に。
「なんで……ひとりで、出て行ったの?」
この言葉に姉妹としての何かがあるような気がして胸がキュウっとなりました。
そうして彼女は、長い遊びの終わりを宣言する……からの花乃ちゃん……わぁ
「わたしは、その世界を見てみたい。そこで生きてみたい」
↑本当にしんどいんだけど、でもそれがお互いにとって適任というかしたいこと、やりたいこと、いたい環境なので、頷くしかない。
「俺は、花乃がやってみたいっていうならそれを尊重する」
↑ここでこれを思い出すんですよ。 「一緒にいる時は助けるし、離れていても力になる。相手を尊重する。理解に努める。それが及ばなくても、粗末には扱わない」
ハァー……家族
花乃ちゃん美しすぎます、二色先生は神。
「わたしを選んでくれてありがとう。すごく幸せだった。ずっとずっと愛してる」
「お兄ちゃんが、わたしのお兄ちゃんでよかった」
花乃ちゃんのまっすぐな愛の言葉、1回目は大混乱してたけど2回目読んで……うう
ワァン
十三、思い出
語ることはないでしょう。
感想
これは家族の話だ。在り方が変わっても、どこにいても、尊重し思いやり気にかける。そして時には愛していると伝える。
誰かを尊重するってとっても難しいことだと思います。どんなに仲が良くて信頼していてもどこかしらで甘えが出てしまう。そんな甘えをよしとしてくれる関係もあるでしょう、しかし寄りかかりすぎると寄りかかられ続けた人は壊れてしまうかもしれない。それは尊重していると言えるか? と。
お互い自立した人間がその人の自己を尊重し否定せず、されどきっと噛み合わない意見を擦り合わせて時には譲り合って生きていくこと、そういう関係性を構築できる人間でありたいなと常々思います。
主人公の蒼汰くんは特に意識をしなくてもそういうことができてしまうキャラクターで、特に責任感が強すぎる。どこ歩いてても困ってる人に声をかけてしまう、そんなひと。
妹の花乃ちゃんはわからないものが怖くて、怯えていても、芯が強くて優しい子。自分を支えてくれた、救ってくれた二人を心底愛していて、力になりたいと思ってる。
そして一妃ちゃんはたくさんの共に生きた娘たちとすごして、そのどれもを愛して。そして蒼汰くんと花乃ちゃん二人のことも愛した、人の心がわからなそうに見えるけれど、自分なりに愛を注いでいる愛情深い人外。
この三人が家族でいること、お互いを尊重し、理解しようとしたこと。その尊さに心からの拍手を送りたい。
【不可逆怪異をあなたと 2】 この本はただのホラーではない。お互いを尊重し愛し合う、家族の話だ。
この物語に出会わせてくれた古宮先生、素晴らしいイラストで世界を広げてくれた二色先生。このコンビのお話をぜひまたど���かで読めたら嬉しいです。大好きな作品になりました! 本当にありがとうございました!
P.S.
メロブ特典の9、怖かったですよ普通に。ヒュッてなりました。いろんなところに分散させてるのかと思ったらあの一点だけだし、目について離れないように場所も考えてあるんだろうなとは思いますけど。あれをみた瞬間からその後の文字列が頭の中に入らなくなりました。ゲマ特典の7も今頃家に届いているでしょう。こわ。
届いたらまた追記します。
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irieseitaiin · 2 years ago
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病院で治らない頭の痛みや重さは、寝違えが原因で起こることが多いです。首に強い炎症が起きることで神経や血管を圧迫することで起きる頭痛は、早期の治療で症状の悪化を防止したり早期改善が可能です。
首の炎症が強く起きている状態では、カイロプラテックや強いマッサージなどで悪化してしまう可能性が高いので整骨院や治療院選びにも注意が必要です。
緊張性頭痛、片頭痛に限らず身体の痛みの放置は、四十肩やテニス肘などの合併症状を引き起こす危険性があります。お早めに入江鍼灸整体院へご相談ください。
頭痛は、一般的に片頭痛(ヘン頭痛・偏頭痛)とも呼ばれることがあります。が筋肉の緊張が原因であったり、痛みの場所だけでは原因が判断しにくいことが多いです。
後頭部に感じる痛みを頭痛と表現される方も多いです。前頭部や後頭部の頭痛は首の頭板状筋という筋肉に炎症が広がり起きることが多いです。改善には鍼灸治療がお勧めです。
特に病院や整骨院で治りにくい頭痛は、首の筋肉の異常緊張が原因である可能性が高く、首の筋肉の緊張は適切な治療を受けることで改善です。
当院では肩こり腰痛の根本改善はもちろん、自律神経失調症・不眠症・四十肩・五十肩・めまい・ストレートネック症候群のご相談も受けております。
美容鍼に関する質問など、なんでもお気軽にお問い合わせください。
当院は、岡山県の倉敷市にある治療院です。
国道二号線・水島臨海鉄道沿いなので岡山市や玉野市、倉敷市玉島や児島、茶屋町や西中新田、倉敷市中島や西阿知からも通いやすいです。
入江鍼灸整体院
住所 : 岡山県倉敷市西富井636-96(店舗裏に駐車場あり)
電話予約 : 086-465-8583
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propus-magazine · 2 years ago
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@mimipiacere @amore.universe #腸脳デトックス でおなじみの、杉浦三恵子様へオリジナルのノートブックを納品させて頂きました♥️ シックなデザインはオシャレそのもの♪ さすがのセンスには脱帽です🎉 気になる方は是非 @mimipiacere をチェックしてください! 杉浦様の著書 #二十四節気からの美容 #命の先にある美容 こちらもまだの方は是非ご一読くださいー😆 #美容 #インナービューティー #腸活 #おうちごはん #脳内ヒーリング #ハートビューティー®︎講座 #アモーレユニバース®︎ #プローパス #propus #specialorder #onlyone #detox #healthcare #book #originalbook #japan https://www.instagram.com/p/Cjz22DWrL7a/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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milkteabonbon · 3 years ago
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2022.4
4/1
今日は新月。アファメーションをしようね。私は私だけのものです。
4/2
すぐに色落ちする髪質なので2ヶ月開くともうキンキンになっちまう彩村、やっと美容院に行きました。ラベンダーベージュにしてもろたヨ〜。次回は梅雨入り前なのでトリートメントかストレートをやるとパヤパヤ毛がおさまると聞き、そりゃあやるしかないなあと思った。
4/3
お花見に行こう!と早起きしてコーヒー淹れて玄関開けたら雨。なんということでしょう……と二人でおうちで朝ごはん。こんなときでもパンオショコラはおいしい。
4/4
いちごの季節なのでフルーツサンド。マスカルポーネを買うのを忘れて生クリームのみで作ったらちょっと軽すぎたかも。台湾パイナップルが特売だったので久しぶりに捌いてみるなどした。
4/5
スカートは柄物しか穿きません。テンションが上がるからです。故にクローゼットは花柄で満ち溢れているのですが、うっかり柄物トップスを着てしまった日にゃ「どれが一番控えめなスカートなのか……」と色とりどりの布の前で悩むことになります。チェック×花柄も可愛いよね!
4/6
クレンジングを変えてから肌がみるみる改善される。うれしい。生え際の吹き出物が消えるしあごのざらつきも消えるし魔法のような油です。高いけど!
4/7
事務所にいたくないので昼休みは外をひたすらぶらついている。近くに公園でもあれば良いのですが。前の勤め先は川や公園がすぐそばにあったのでしょっちゅうベンチでお弁当を食べていたのを思い出す。さすがに雨の日は誰もいないだろうと思ったら意外とサラリーマンが雨の当たらない木蔭に座っていたり。お気持ちわかります。
4/8
ラベンダーの図案はおおかた決まる。その次は何にしようかしら。おそらく秋頃のレッスンになるので、秋っぽい植物……。グラス系かなあ?  いつか十二月分を刺してぐるっと並べたい。
4/9
お花見にドライブしてたら妙見山に辿り着いたり一庫ダムを回ったり道の駅でジェラートを食べたりした。風が吹くたびに桜が散って、猛吹雪のなかでくるくると桜のダンスを踊りました。やっぱり私は散り際の桜が好きです。
4/10
アイスコーヒーの日々が到来。今まで家で挽いていたのですがアイスに関してはお店で挽いてもらったほうがおいしいな……。ドリップしているとブロックアイスがぱちぱち鳴いて、季節の変わり目を実感しますね。
4/11
ラナンキュラスラックス アリアドネが開花中。ぴかぴかの花びら!年々花数が増えていて嬉しい限り。球根の醍醐味ですね。今年は葉が枯れるまでちゃんとお世話して球根を太らせるぞ!
4/12
北海道展の垂れ幕が見えたのでふらふらと誘い込まれたところ三方六を発見し素早く買った。大好物なのです。バームクーヘンにホワイトチョコレートがかかっていて、冷凍庫にちょっと入れてパリッとさせるのが好き。最近始めたあすけんというヘルスケアアプリに怒られたけど四切れくらい食べました。
4/13
注射を打たれ、ベッドに横たわっているとにわかにグラグラと揺れ。いつもの目眩かと思ったら本当に地震だった。さらに具合が悪くなりました。踏んだり蹴ったり。
4/14
三回目ともなれば身体の方も慣れて来とるやろ!と思いきや37.9度ですか。なるほどね。寝ます。
4/15
アクアアレゴリアのポップアップショップの前を通りかかったら販売員さんがムエットを渡してくれました。ペラグラニータだって。爽やかで良い香り。
4/16
健康診断で視力の低下を指摘されたので眼鏡屋さんに行く。と、特に問題ない結果が出てしまった。店員さんによるとその日によって視力は変わってくるのでたまたま悪い日に検査されたのでしょうとのこと。でもちゃっかり新しい眼鏡を買いましたとさ。ベージュ系で肌馴染みが良くてお気に入り。
4/17
ネイルの塗り替え。いつもジェルミーワンでぱぱっと塗っています。透け感が好きなのでシアーカラーが多い。自分で気軽にジェルネイルができる時代ってすごいなあ。クリアルビーにピンクダストを重ねて血色感のある爪にしたよ。
4/18
チップドモヘアを手に入れたので大きい子の型紙を書いた。お腹がぽてっとした子です。あともうひとつクラシックタイプな子と小さい糸ジョイントの子を作りたいのよね。なかなか狙った生地が手に入らない世の中……。
4/19
薔薇がぐんぐん水を吸うので水やりが追いつかないほど!今年は蕾がたくさんで嬉しい。もう四年目だったかな?手を掛けた分応えてくれる植物。
4/20
雨がざんざんと降る。手持ちの傘は柄が曲がってるわサビのシミがついてるわ(そりゃ十年近く使ってればそうなる)という出来なのでそろそろ買い替えたい!
4/21
アイスコーヒーには肌寒い朝でした。初夏の入り口に立っているね。ベランダの緑がきらきらしている。
4/22
まだまだあすけんを続けています。毎日鉄分とカルシウムが足りない……。レバーと牛乳を摂れば良いのか?高得点を取れている人はどうやっているんだろう。あすけんゼミを開いてほしい。
4/23
ラナンキュラスを切ったりエバーフレッシュの散髪をしたり薔薇の水やりをしたりしました。エバーフレッシュちゃんは窓ガラスを突き破る勢いで生長している。買った頃は膝下丈だったんですよ。今は2m超えの大木です。
4/24
実家から筍が届いたので筍ご飯を炊きました。口がかゆい!おいしい!と言いながら食べました。その後廃品回収に出すソファと箪笥をひいひい言いながら外まで運び、ご褒美と称してハーゲンダッツを食べるなど。
4/25
ワイヤレスイヤホンが届きました。通勤革命だ!ついでにSpotifyプレミアムにも登録。楽しく仕事に行けて良いです。
4/26
春の嵐に薔薇の鉢を倒されてしまいました@夜。もう手の施しようがないので朝を待つしかありません。祈りながら寝ます。
4/27
恐々ベランダを覗いてみたら、植木鉢の下敷きになったラレーヌビクトリアの枝がポッキリいっていて半泣き。若い苗なのでどうにかシュートを出してほしい。
4/28
明日から大型連休と浮かれながら仕事をしていたら夕方からえらく忙しくなり、残業を決め込んでしまいました。でもすっきりした気持ちで休みに入れるので良し!帰り道に百貨店に寄って大きいクレンジングオイルと草餅を買いました。
4/29
連休初日から大���。前回の反省を活かして薔薇の倒れ対策をした。ベランダの床がピカピカになるほど雨が降りました。雨後にお花の被害チェックをしていたらアメージンググレイの蕾が綻んでいるのを発見!綺麗な灰紫色でうっとり。まだまだ蕾が上がってきそう。初めてポピーを育てたので不安だったけどちゃんと咲いてくれて良かったな。
4/30
フレンチトースト食べてテディベア教室へ。三つ型紙を作りました。今回は難易度高め。もひとつ大きい子の型紙作りたい。お教室に行くと仲間の皆さんが色んな子を作っているので刺激になります。
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ari0921 · 4 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)5月5日(水曜日)
   通巻第6897号 
 中国、北朝鮮、そしてイランは頭痛の種
  米国、イランと核合意復帰の下交渉が水面下で続く
**************************
 米国がイラン制裁の一部を解除するという報道があった。
 イラン国営メディアが5月2日に報じたもので、「拘束している収監者を4人ずつ交換し、米制裁によって関係国が支払いを凍結しているイラン資産70億ドル(約7700億円)を引き渡すことで合意した」となんだか陽動作戦、攪乱情報のようだった。
 米政府は即座にこの報道を否定した。
バイデン政権はオバマ政権時代の2015年にイランとの間で締結し、トランプが無効を宣言した「核合意」交渉の再開を意図し、水面下で交渉を続けてきた。
 イランはトランプ前米政権の経済制裁解除を求めているが、「イランが核合意の逸脱行為をやめるのが先決だ」と米国は前提となる原則を曲げず、交渉は行き詰まっている。ロシアと中国は「米国が先に制裁を解除すべき」とし、イランを積極的に支援している。
 四月下旬にイスラエルは米国に外交使節団を派遣した。なかでもモサッドのコーエン長官がバイデン大統領と会談したことは既報の通り。
 帰国後、会談の内容は明らかにされていないが、イラン核合意復帰のバイデン路線には変更がなく説得は不首尾に終わったようだ。
 その直前、イスラエルのガンツ国防相(前統幕議長)はエルサレムを訪問したオースティン米国防長官と会談している。二人はイランへの対応で「協調」を確認したというが、ガンツは「米国がイラン核合意に復帰する場合、イスラエルの安全が守られるように」と婉曲な表現ながら、重ねて警告した。
 会談後の記者会見で、ガンツ国防相は「米国はイランだけでなくあらゆる行動における完全なパートナー」とし、「イランとのいかなる合意も世界と米国の利益を確保するよう、そしてわが国周辺地域における軍事競争を阻止しイスラエルを守るため、米国の同盟国と緊密に行動する」と述べた。
 
 イランは「イスラエルを殲滅せよ」と絶叫してテロリストを支援している国である。そのために核兵器開発に余念がないのだ。
 イラン革命防衛隊は「イラン革命」で政権を掌握して以来、パーレビ下の国防軍幹部5000名を含む、反体制派を三万人前後を粛清し、そればかりか同性愛者も処刑し、外国人記者も拘束してきた全体主義国家である。
 この点では北朝鮮と同じ体質だが、異なるとすればイランは資源輸出国であることだ。この石油のために、インドも中国も韓国もイランの内政には立ち入らない。
 中国は一日100万バーレルをイランから輸入している。
 ▲イラン各地のモスクはじつに美しいが、人々の心は冷え切っている
 筆者は1990年代にイラン各地を十日間ほど旅行した経験がある。モスクの美しさ、バザールの賑わい、水タバコ、ガラス美術館で中国が自慢する唐三彩の原形が、ペルシァ
にあることに気がついた。ペルシャ絨毯は日本の販売価格の三分の一ほどだった。
 旅行していた気がついたのは、人々の目が猜疑心の所為か輝きを失っていること。政治向きの会話を絶対にしないこと。随所にある喜捨箱に誰もお金をいれないこと等だった。
 狂信的宗教指導者に吸い上げられる資金となる真似はしないのだ。また革命防衛隊というのは文革時代の中国の紅衛兵的な尖兵であり、かれらがイラン経済の利権をほぼ掌握してしまったことに絶望を漂わせていた。
 空港では中国の軍人が大勢乗っていて我が物顔に振る舞っていたことも鮮烈な印象だった。
 米国のシンクタンクFDD(民主主義防衛財団)に拠れば、イランはテロリスト組織や危険な政権に年間160億ドルもの支援資金を提供していると報告している。シリアのアサド政権に150億ドルという巨額。レバノンのヒズボラに7億ドル強、イラクのシーアは民兵に1億5000万ドル、パレスチナのイスラミック・ジハードに1億ドル、イエーメンのフーシに数千万ドル。くわえてイラン国内にテロリストの「安全地帯」を提供している。
 ところが、3月27日、中国はイランとの間に「25年間に及ぶ両国の包括的協力協定」に署名した。
 テヘランを訪問していた王毅然外相は、ザリフ外相、ロウハニ大統領と会談し、交換条件は「一帯一路」へのイランの参加だった。中国は5G通信システム構築などでイランに総額4000億ドル(約44兆円)相当を投資し、その見返りに向こう25年間、原油を廉価で輸入する。また両国は軍事協力を推進してきたが、ドローンなど軍事面の関係強化を謳った。
 イラン訪問の三日前、3月23日に王毅外相は、訪中したラブロフ(ロシア外相)と名勝地・桂林で会談し、念入りな打ち合わせを済ませていた。物騒な国々が、舞台裏で複雑怪奇な動きを続けている。
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monqu1y · 4 years ago
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国を繁栄させる四つの道具  国を治めるうえで一番大切な事と具体的な方法を考えるための逸話
 市営住宅集会所へ講演会を聞きに行った。  演題は「 兵法書 ( へいほうしょ ) を読んで『生き方』を考える」。内容の要点は次の通りだった。   韓非 ( かんぴ ) は、今から2300年ほど前に生まれた 韓 ( かん ) の貴族。隣国 秦 ( しん ) の圧迫に苦しむ祖国を救うために兵法書を書いた。韓王様は、その兵法書に興味を示さなかったが、隣国 秦 ( しん ) の王様 政 ( せい ) (後の 始皇帝 ( しこうてい ) )は、兵法書に書かれている内容に感動していた…兵法書に書かれている方法で富国強兵を実現し、戦国の乱世を終わらせることができると思ったから。   秦 ( しん ) に 韓 ( かん ) を自国の一部にしようとする動きが有ったので、 政 ( せい ) を説得して 韓 ( かん ) を 秦 ( しん ) とは別の[国]として認めてもらうために、 韓非 ( かんぴ ) は 秦 ( しん ) に行かされた。   政 ( せい ) が 韓非 ( かんぴ ) を信頼して大臣に任命したら自分は大臣を 辞 ( や ) めさせられると考えた 李斯 ( りし ) は、悪口を言いつけて 韓非 ( かんぴ ) を牢屋に入れさせるようにした。そして、 政 ( せい ) が考え直す前に 韓非 ( かんぴ ) を自殺させた。「 拷問 ( ごうもん ) で苦しむ前に毒を飲んだ方が楽」と親切心を 装 ( よそお ) いアドバイスする 振 ( ふ ) りをして…
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 韓非が書いた内容は、次の四つ。 1)国を豊かにし軍隊を強くするための四つの道具 2)国を滅ぼす五つの害虫 3)家来や家族の心を見抜くのに役立つ六つの 徴 ( きざし ) 4)家来や国民をコントロールするための七つの技術 [国を興すための道具]のうち主なものは、次の四つ。 1)[国の法律]を実行するための組織 2)[国の法律]:国民が行うべき事やしてはならない事を書いた文章 3) 布令 ( ふれい ) :[国の法律]を国民に知らせるための立て札など。「貧乏を無くす」「搾取階級を討つ」「差別を許さない」「弱者を救う」「自由と民主」などの ス ( ・ ) ロ ( ・ ) ー ( ・ ) ガ ( ・ ) ン ( ・ ) も、これの一種。 4) 信賞必罰 ( しんしょうひつばつ ) :富国強兵に役立つ行いをした者には必ず 褒美 ( ほうび ) を 与 ( あた ) え、[国の法律]に違反した者は必ず処罰するという[国の法律]の運用  以下は、韓非が書いた兵法の要旨 〖国を治めるうえで一番大切なこと〗  行うべき事としてはならない事を法律で決めて、国民に法律を守らせる。  王様が[法・術]を 駆使 ( くし ) して富国強兵を実現すれば、望みのもの全てを手に入れることができる。富国強兵の方策とは、法律や禁令を明らかにし、計略をよく心得ることである。法律が明らかであれば、国内に事変が起こっても混乱することなく、計略が当を得ておれば、国外で戦死したり捕虜になったりする恐れもなくなる。  いつの時代でも、徳のある人が采配をふるって民衆がそれを見習うことで一国が治まるとは限らない。腹が減っているとき目の前に米をみつければ人目を避けて盗り、貧しいとき目の前に金塊をみつければこっそり盗む人間が多い今、仁徳だけでは国を治められない。  私利私欲の許されない国家運営の場面において、チェックや監視がしっかり行われなければ、社会は乱れ政治は腐敗して、国が滅亡に向かう。  昔の秦国では、だれも国法を守らず、仲間うちの 掟 ( おきて ) を勝手に作ったり、好き勝手に行動していたので、国は乱れ、軍隊は弱く、王様はバカにされていた。  大臣に任命された 商鞅 ( しょうおう ) は、王様に、国法をキチンと決めて皆に守らせる方法を 提案 ( ていあん ) した。  五軒組と十軒組をつくって、国民に密告させあい、連帯責任をとらせる。   詩経 ( しきょう ) や 書経 ( しょきょう ) などの書物は焼き捨て、法令を明示する。  大臣の請願を聞き入れず、国のために働く者を大切にする。  当時、秦の国民は、罪を犯してもうまく逃れ、功績もないのに 讃 ( たた ) えられる古い 習 ( なら ) わしに慣れきっていたので、新しい法が出ても軽視して守ろうとしなかった。しかし、新法を犯す者に必ず重罰を加え、密告者に 褒美 ( ほうび ) を取らせるようにしたら、密告と受刑者が増えた。  新法に反対する世論が盛り上がったが、王様も 商鞅 ( しょうおう ) も、構わず、新法を適用して犯罪者を取り締まった。  その結果、犯罪は減り、国は良く治まり、軍隊は強く、国土は広く、王様の 権威 ( けんい ) は高くなった。  また、 商鞅 ( しょうおう ) は、商工業よりも農業を大事にすべきだと 提言 ( ていげん ) した。  国民が家を離れて仕官を求めることを禁止し、事あるときに兵役をつとめる農民を表彰する。   魏 ( ぎ ) の 昭 ( しょう ) 王は、自分で政務を手がけてみたくなった。  そこで、 孟嘗君 ( もうしょうくん ) に言った。  「ひとつ自分で政務をやってみたいが」。  「政務を手がけられるのでしたら、まず法律を勉強 為 ( な ) さることです」。  昭王は法律の本を読みだしたが、いくらも読みすすまないうちに、眠ってしまった。  そして、「私には法律の勉強はできない」と 嘆 ( なげ ) いた。  王様は、権力のカナメをおさえていればよい。家来にまかせておけばよいことまで自分でやろうとするのでは、眠くなるのは当然だ。  「どうも法というのは、うまく使えない」と、 韓 ( かん ) の 昭 ( しょう ) 王が大臣の 申不害 ( しんふがい ) に愚痴をこぼした。  「法は、功績によって賞を与え、能力に応じて官を授けることです。あなたは法を定めておきながら、身近の者の請願を聞き入れていらっしゃる。それでうまくいかないのです」。  「なるほど、これで法の使い方がわかった。もう誰の請願も聞き入れないぞ」。  ある日、申不害が 従兄 ( いとこ ) の仕官を願い出た。  「おまえは、そうは教えなかったはずだ。願いを入れて教えを捨てたものだろうか。それとも、願いを断ったものだろうか…」。  申不害は謝って引き下がった。  市場に出かけようとする母親に子どもがついてきて泣いた。母親は「家にお帰りなさい。お母さんもすぐ帰ってあなたのために豚のごちそうを作るからね」と言って子供をなだめた。  母親が市場から帰ると、父親が豚を殺そうとしていた。母親は父親を止めながら、「あれはただあの子に冗談を言っただけのことですから」と言った。  父親は、「子供は冗談だと思っていないぞ。子供には冗談が分からないのだ。だいたい子供というものは、両親からいろいろなことを学ぶもの、両親の言うことにちゃんと従うものだ。今もし子供をだますようなことをすれば、それは子供に人をだますことを教えることになる。第一、母親が子供をだませば、子供は母親を信用しなくなる。それでは子供に教育なんぞできやしないではないか」と言い、豚を煮た。 〖国法を守らせるための条件整備〗   斉 ( せい ) の 桓 ( かん ) 公がお忍びで民間を視察したときのこと。   鹿門稷 ( ろくもんしょく ) という男がいたが、彼は七十になっても妻がなかった。  桓公がお供の 管仲 ( かんちゅう ) に聞いた。  「しもじもには、年寄りになっても妻を持てない男がいるものだろうか」。  「��ざいます。鹿門稷という男は、七十だというのにまだ妻がありません」。  「どうしたら妻を持たせることができるだろうか」。  「こういう言葉があります。王様が財産を作りすぎると、しもじもの暮らしは貧しくなる。宮中にひとりで寝る女がいると、しもじもには老いて妻なき男が出る」と。  「わかった」と、言って、桓公は、まだ手をつけていない宮中の女を、みな嫁に出した。  それから次のような命令を出した。  「男は二十で嫁をとること。女は十五で嫁にいくこと」。  こうして、宮中には、ひとり寝の寂しさを歎く女はいなくなり、民間には妻のない男がいなくなった。  何の準備もなしに命令だけ出しても守られるはずがない。 〖信賞必罰〗  母の幼子に対する愛情は、何よりも深い。しかし幼子が良くない行いをするようならば、先生につかせて修養をさせるし、悪い病気にかかるならば、医者にみせて治療をしてもらう。もし先生につかなければ刑罰を受けることにもなりかねず、医者に見せなければ死んでしまうかもしれない。母がいくら我が子を愛しても、愛情などは、刑罰から、また死から救うのに役に立たない。つまり子供を無事に育てるものは、愛ではないのである。子と母とを結ぶ絆は愛である。また君臣関係を結ぶものは計算尽くである。母でさえ愛を以って家庭を無事に存続させることができないのに、どうして王様が愛などと言うもので国家を保持することができようか。  仁者は恵み深く、気前よく財産をばらまいてしまう。暴者は心が強くて動かされず、簡単に罰を与えてしまう。慈しみの心が深いと、厳しく罰することができず、気前が良いと、人に与えることを好み、心が強いと、臣下どもに対して憎しみの心が現れ、簡単に罰を与えると、むやみに人を死刑にしてしまう。その結果、厳しく罰することができなければ、罪を多めに見ることが多くなり、人に与えることを好めば、功績の無い物にまで恩賞を与えてしまう。また、憎しみの心が現れれば、下々の者はおかみを怨むようになり、むやみに人を死刑に処したならば、民衆は謀反を起こそうとする。  だから、仁者が王様の位につくと、下々の者は好き勝手に振る舞い、軽々しく法律に違反して、お上に対して一時の幸福をむさぼることを望むのである。また暴人が王様の位につくと、法律は気まぐれで王様と臣下の仲は不和になり、民衆は怨んで謀反の心を生じる。そこで私は、仁者にしても暴人にしても、ともに国を滅ぼすものだと主張するのである。  親や近所の者や先生がいかに怒り、責め、教え 諭 ( さと ) しても、少しも改めようとしない子供でも、法律を以て悪人を摘発する巡査が来たら、恐くなって変節し、良い子になる。  民衆は愛情に対しては図に乗ってつけあがり、 威嚇 ( おどし ) にはおとなしく従うのだ。  政治を知らない者は、「刑罰を重くすると、国民を傷つける。刑罰を軽くしても悪事を予防できるのに、どうして重くする必要があるのか。」と言うが、軽い刑で悪事をしない者は、重い場合にも当然悪事に手を出さない。  重刑は、悪人にはプラスになるところが小さく、お上が下す罰は大、民はわずかの利益のために大きな罪を犯すことはしない。  軽い刑は、悪人が得る利益は大きく、お上の下す罰は小、民は利益を目当てにその罪を見くびるから、悪事は防ぎようがない。  20㍍の城壁を、身軽な者でも越すことができないのは、そそり立ってけわしいから。黄金30㌕が道に落ちていても拾う者が居ないのは、必ず罰を受けるからだ。  高山で羊を飼えるのは、山がけわしくないから。2㍍の布が道に落ちていれば拾う者が居るのは、罰を受けるとは限らないからだ。  功績のあった者に必ず賞を与えて 讃 ( たた ) え、犯罪者は手心を加えず罰して不名誉に 晒 ( さら ) せば、能力のある者もない者も全力をつくすだろう。   荊南 ( けいなん ) 地方にある 麗水 ( れいすい ) という川には 金 ( きん ) が出る。金を採ることは法令できびしく禁止されており、捕まれば衆人の前で 磔 ( はりつけ ) の刑に処せられる。処刑された死体はおびただしい数にのぼり、川の流れをせき止めるほどになったが、金を採る者は、あとを絶たなかった。衆人の前で 磔 ( はりつけ ) にされるほど重い刑罰はないのに、それでも金を採る者がいるのは、絶対捕まるとは限らないからだ。  「お前に天下をやる。その代わり、お前の命はもらう」と言われたとする。それでも天下をもらうという馬鹿者はいないだろう。天下をもらうほど大きな利益はないのに、それをもらう者がいないのは、必ず殺される、とわかっているからだ。  魏が 武 ( ぶ ) 王のとき、 呉起 ( ごき ) は 西河 ( せいか ) の長官となった。  国境近くに 在 ( あ ) る敵国 秦 ( しん ) の小さな 砦 ( とりで ) が農民に害を及ぼしていた。といってそれを除くためにわざわざ軍隊を集めるのは大げさすぎる。  考えた末、車のかじ棒を一本、北門の外に立てかけ、布令を出した。「このかじ棒を南門まで運んだ者には、上等の土地と上等の屋敷をとらせる」と。  布令を信じかねて運ぶ者がいなかったが、あるとき、それを運んだ者が出てきた。すかさず、布令どおりの賞を与え、今度は一 石 ( こく ) の赤豆を東門の外に置いて、布令を出した。「この赤豆を西門まで運んだ者には、前と同じほうびをとらせる」と。人々は先を争って運んだ。  そこで呉起は布令を出した。「明日、砦を攻めるが、一番乗りした者には、 大夫 ( たいふ ) の地位を与え、上等の土地と上等の屋敷をとらせる」と。人々は先を争って砦に攻め込み、あっという間にこれを占領してしまった。 〖国益と私利〗  王様が国民の利己的行為を許せば、国の利益は害される。  王様が賞罰を加える対象と、国民が名誉・不名誉とする対象は、 往々 ( おうおう ) にして 一致 ( いっち ) しない。  功績をあげて爵位を与えられた者が世間では評価されなかったり、農業に 励 ( はげ ) んだ者が賞を与えられても農業はつまらない仕事と思われたりする。  その一方で、招請に応じない者を排斥しても、彼らが俗世を超越するものとして尊敬されることがある。世間の評判を気にして、自分で働かずに衣食を得る「有能者」や、戦功をあげずに高位にのぼる「賢人」を横行させれば、国土の荒廃と兵力の弱体化をまねく。  学問によって世を乱す儒者を赦してはならない。  大臣が魚好きであることを知った国中の者たちが、争って魚を買い求め、彼に献上してきたが彼は受け取らなかった。弟が理由を聞くと、大臣は「魚が好きだからこそ受け取らない。献上される魚を受け取って判断に影響し、法を曲げれば、大臣を辞めさせられる。献上される魚を受け取らず、大臣を辞めさせられなければ、安心して自分の力で魚を得ることができる」と答えた。   楚 ( そ ) の国の正直者が、羊を盗んだ自分の父を、 令尹 ( れいいん ) 大臣に訴え出たが、令尹はこの正直者をつかまえて死刑を宣告した。王様に忠義だてして親不孝の罪を犯したものとして断罪したのだ。令尹が、父親を訴え出た息子を罰してからというもの、 楚 ( そ ) の国では罪人を訴え出る者がいなくなった。   魯 ( ろ ) の国が戦ったとき、三度出陣して三度とも逃げ帰った男がいた。どうして逃げてばかりいるのかと孔子が尋ねると、男は答えた。「わたくしには老いた父があります。わたくしが死んでしまったら、養う者がおりません」。その孝行ぶりに感心して、孔子は彼の位をあげてやった。孔子が、敗走した兵士の位を上げてからというもの、魯の国民は敗走を恥としなくなった。  「仁義」を身につけた者を信頼して登用したり、学問を修めた者が先生と呼ばれて名声が得るような風潮を許せば、国は乱れて王様の地位がおびやかされるようになる。  国を富ます農業や敵を防ぐ兵士にたよりながら、同時に飾りたてた儒者の服装を喜ぶのは、チグハグな行動だ。国法を敬わずお上をおそれない遊侠、刺客のたぐいを養うのも、チグハグな行動だ。チグハグな行動をしていたら、働く者が勤めをおろそかにし、働かず学問する者が日ましに多くなる。そして、世の中が乱れる。   宋 ( そう ) の 崇門 ( すうもん ) の町で、あまりに真剣に親の喪に服したため、ひどくやせ衰えてしまった者がいた。親を思う心が深いからだとして、お 上 ( かみ ) は彼を官吏にとりたてた。  次の年には、喪に服したため身体をこわして死ぬ者が、十人以上も出た。子が親の喪に服すのは、肉親の愛情に発することだが、それすらも、恩賞によってこのように奨励できる。  家来が王様につくすことにおいては、恩賞による効果が大きいはずだ。  昔、 蒼頡 ( そうけつ ) は、文字を創るにあたって輪になった形の「ム」によって「私」を表し、それに反するという意味の「ハ」を加えて「公」という字にした。公私が相反することは、既に蒼頡が知っていた。未だに公私の利害が一致すると思うは無知の 極致 ( きょくち ) 。 〖国法と人情〗  良く治まってる国は、国法が人情に通じており、国を治める道理にかなっている。  小さな悪事は、村人に連帯責任を負わせ、相互監視させる。禁令で自分に連座するものがあれば、村人は監視せざるをえない。監視する者が多ければ、悪者は悪事を謀れない。  ウナギは蛇に似ており、蚕はいわゆる毛虫に似ている。人は蛇を見ると、びっくりし、毛虫を見ると身の毛もよだつ。だのに、夫人は平気な顔をして、蚕を摘み上げ、漁師はウナギをわしづかみにする。利益があるとなると、人が嫌うことなどは忘れてしまって、みんなあの孟墳のような勇士となる。  だれでも自分の知らない物事には警戒するが、よく知ってい��物事には進んで為そうとするものだ。なぜならそうすることが自分にとって得になることが容易に推察できるだからだ。   子綽 ( ししゃく ) は、「左手で四角を画きながら右手で丸を画くことはできない。肉でアリを追っても集まるだけだ。魚でハエを追っても群がるだけだ」と言った。道理に逆らった行為は、うまくいくはずがない。 《禁止と奨励、賞と罰、その原則を逆にしたら、どんな神業をもってしても、政治はできない。条件を与えながら進ませないのは、乱の起こる元である》。 〖損得感情の働きを知る〗  人は幼児期に親に 疎 ( おろそ ) かにされると成長して親をうらむ。成人となった子供が老いた両親を 粗略 ( ぞんざい ) に養うと親は怒って子供を責める。本来、子と親の仲は、利益を度外視したきわめて親密な関係であるはずなのに、相手をうらんだり非難したりするのは相手が自分に報いてくれるという打算があるからだ。得すると思えば仲よくなり、損すると思えば、親子の間にもうらみの気持ちが生じる。  君臣関係では、肉親関係以上に打算が働く。まっとうなやり方で身の安全が保障されるならば、臣下はそれなりに力を尽くして主人に仕えるだろうが、そうでなければ私利私欲に走り、上に取り入ろうとする。王様は、何が得で、何が損なのかをはっきり天下に示したうえで、役立つ臣下に官爵を与え、臣下はそれに対して己の知力を提供するようにしなければならない。  カラスを飼いならすには、まず羽を切る。羽を切られてしまえば、カラスは人間に餌をもらうほかない。どうしたって馴れないわけにはいかないのだ。  [法・術]に 長 ( た ) けた王様の家来飼育法も、これと同じだ。  ポイントは、 俸禄 ( ほうろく ) に頼らざるを得ず、与えられた職に務めるほかないように仕向けることだ。家来は 否 ( いや ) も応もなく服従するだろう。 〖王業の基礎〗  王様が家来を評価するとき、世間の評判に惑わされて、成果を確かめなければ、口先ばかり達者で実際の役に立たない者が増える。昔の聖人を 讃 ( たた ) え「仁義」を口にする者が朝廷にあふれれば、実力と実行力を兼ね備えた人材は世に 埋 ( うず ) もれ、国力が 衰 ( おとろ ) えていくことになる。   商子 ( しょうし ) 、 管子 ( かんし ) といった政治書を読む人々は多くても、内容を活用する人は少なく、農業の議論はしても実際に 鋤 ( すき ) を手にして耕作する者が少なければ、国は貧しくなる。   孫子 ( そんし ) 、 呉子 ( ごし ) といった兵法書を備えていても、実際に 鎧 ( よろい ) 兜 ( かぶと ) をまとって戦う者が少なければ、軍隊は弱くなる。  [法・術]に 長 ( た ) けた王様は、無用な議論が国力を弱めることを知っており、実用にのみ価値を認める。そうすれば、国民はそれに従い、国力は充実していく。  田畑で働く骨の折れる仕事に国民が従事するのは、富を手にすることができるからだ。  戦で死ぬ危険があっても国民が兵役につくのは、高い身分を求めるからだ。  学問や言論を修めれば畑仕事で骨を折らなくても富が手に入り、戦で死ぬ危険を 冒 ( おか ) さなくても高い身分が得られるとしたら、誰が骨を折ったり危険を冒すだろうか。頭を使う者が多くなれば、法の権威は失われ、力を尽くす者が少なくなれば、国は貧しくなる。  [法・術]に 長 ( た ) けた王様が治める国に書物は無用、[法]が[教え]なのだ。  聖人の言葉も無用、官吏が先生なのだ。遊侠の私的武力も無用、国の戦で敵を斬ることが勇気なのだ。  国民は、法にはずれた言論を 為 ( な ) さず、働くときは実績をあげるように働き、勇気は戦で発揮する。このように王業の基礎をかため���ば、太平の世に国は富み、戦となれば強い軍隊が国を護る。 ⦅亡国五害[韓非]に続く⦆
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cuttercourier · 4 years ago
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の���にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈���があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横���幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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hitodenashi · 4 years ago
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28/海に屍と濡羽菊
(SILENTにおける全てのネタバレが存在します)
(2021年7月某日の話)
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 きっとそれが黒い大輪の菊に見えたのは、炎天下で首裏が焼かれる感覚と、足首が波に冷やされる感覚が起こした倒錯のせいなのだ。
 波音にのって、生ぬるい潮風が鼻先を撫でる。七月の海辺、日差しは朝だというのに既に強い。これが浜辺いっぱいにうざったい椰子の群れでもずらりと並んでとかいるのであれば影ができて話が別なのだろうが、本土の海岸でそんな植生は見たことがない。精々がシュロ、或いはマングローブ。それがあるにしても亜熱帯の地域だけ。こんな東海の片田舎の海辺にそんな耐塩制植物の群れが生えているわけもなく、よって首筋は陽に晒された結果じわじわと焼かれている。  七月、朝の日差し。生えかけの入道雲が山並みに沿って起き上がっている。  フィールドワークは私の日課だ。本業と言ってもいい。海洋生物群の調査、兼磯釣り、兼浜辺散策。SILENTからの任務が特にない週、そのうちの数度はフィールドワークに出かける。部屋に閉じこもって研究するのも良い――特にクソみたいに暑い日は――が、自分の分野は実地でのデータを得ないとまずはじまらない。釣りや磯漁りは趣味のようなものだが、得られないものがないわけではない。魚はおいしい。自分で捌いて食べるものはもっと。  ���からその日磯に向かったのは偶然であり、運命だった。竿先の糸をのんびり垂らしているのにも飽きて、ぶらぶらと向かった先の潮だまりはすでにぬるくなっていた。岩場いっぱいに磯の匂いがじらじらと立ち上り、鼻の奥に潮を塗り付けてくる。  岩礁を二、三歩海側に跳ねるように歩いたところで、波打ち際になにか黒いものが打ち上げられているのが見えた。大輪の花のような黒い何か。  それはちょうど岩礁に乗り上げたような格好で岩に引っかかっており、波が何度か柔らかくさらって行こうと泡を投げかけていたけれど、黒い大きな花弁はふわふわと濁った泡の網の間にゆれるばかりだった。  一抱えもあるそれをぱっと見て、私はそれを海中に落ちた菊のようだと思った。細長く薄い花弁は濃い青の上に艶をもって浮かんでおり、波に揺れてふわふわと佇んでいた。  岩のふちには近づきすぎず、タモ網を伸ばしてそのかたまりを慎重に掬いあげると、確かな肉の重さが手の平に伝わってきて目を見ひらいた。やがてそれが大輪の花などではないことに気が付いた。それは、大きなカラスの亡骸だった。 「……なんで、海なんかに」  水を含んだ体を網から外して、抱きあげた。その拍子に翼がだらりと垂れ下がり、屍はいやに大きく見えた。  死んでしばらく経っているのか、からだは硬直が解けて僅かに柔らかかった。炎天下の潮水に晒されていたせいか微かに肉が生ぬるい。羽は潮水にもまれたのか一部があちこち変な方向にねじれ、痛んでいた。  頭部の形はあまり見慣れないもので、くちばしの形はハシブトガラスやハシボソガラスにしては整っている。在来種でないことは一目で解った。喉の羽毛が逆巻いており、濡れたせいでいっそうオパールのような七色に艶めいていた。彼は、ワタリガラスだろうと思う。北国の鳥であることはたしかで、どうしてこんな真夏の、よりにもよって辺境の海辺なんかに。  私は思わず周辺を見渡した。カラスの群れはどこにもいない。ざあんと波が岩場にうちつける音ばかり轟いている。沖合からミャウミャウとウミネコの声がした。背後を仰げば遠くに鳶の影が見えた。黒い翼は、案の定どこにも飛んではいない。  羽織ったパーカーが濡れるのも構わず、私は反射的にその��骸を抱いていた。胸元はすでに水を吸い、じっとりと布がよれている。濡れた肌に海風が吹き付けてようやく私は亡骸の冷たさを感じた。翼の形が崩れてしまわないよう、慎重に彼の翼を折りたたんで抱きなおした。  若い個体のようだった。堕ちてしまったにしては外傷はなく、きれいな体をしている。岩礁に打ち上げられたときに擦れてしまったのかくちばしの端だけが少し欠けていた。瞼はぴっちりと閉じられて開かない。潮だまりで水浴びをしようとして、波にさらわれてしまったのだろうか。こんなところで、一羽きり、誰もいないところで。  日はじりじりと首を焼いている。太陽は中天に近づくにつれいよいよ勢いを増していた。ワタリガラスからは、まだ死臭がしなかった。  私は汐で痛んだ体を抱きかかえて車に戻った。急いでトランクからクーラーボックスを取り出すと、黒い遺骸をタオルと防水シートでくるみ、氷の内側に埋めるようにしてから蓋をした。内径90センチのクーラーボックスは彼の尾羽を折らないぎりぎりの大きさだった。それから磯に戻って、バケツの中に入ったイサキ二匹をしぶしぶ海に放流した。銀のうろこがやがて海底に沈んで見えなくなったところで、車のエンジンを掛けに戻る。時刻は九時四十分を指していた。普段家に帰るにしては、あまりにも早すぎる時間だった。
 家に着いてまず行ったことは着替えることでもシャワーを浴びることでもなく、亡骸の洗浄だった。石鹸水を含ませたタオルで綺麗に全体をぬぐう。全身潮びたしなので、羽の隙間や翼の関節、足のつけねまで塩を取り除くように丹念に手入れした。  このとき微かに腐敗が始まったようで、肉の解けるにおいが作業場に籠り始めていた。過剰に冷やした暗室はばかみたいに涼しくて、私の乾いた足には砂がまだまとわりついたままだった。  翼を開いたり閉じたりしながら、写真を撮り、記録を付ける。体長79センチ、翼開長150センチ、オス、年齢不明だが二歳程度、くちばしに微細な欠け。  同定にさほど時間はかからなかった。確かに彼はワタリガラスだった。紙面にCorvus coraxと走り書いて、まじまじと閉じた瞳を覗き込んだ。東海の沿岸部にワタリガラスが飛来したことはもしかしたらどこかを探れば履歴が残っているのかもしれないけれど、私は一例だって知らない。不勉強を嘆くべきなのだろうか、それともこのようなイレギュラーに知識なしで遭遇したことを僥倖と思うべきなのだろうか。  慣れない夏の、冬のそれとはまったく様相の違うぎらつく太陽の下、ふらふらと一羽(ひとり)でこんなところまで翼をはためかせて飛んでいたのであろうことを思うと、私は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。唐突に両の肺が痛んだ。  石膏粉をはたくと、まるで埃をかぶったように姿がみすぼらしくなる。水気をとってから一度粉を落とし、今度はまんべんなく駆虫粉をまぶす。潮ざらしになっているからそこまで虫はついていないと思うけれど、野生種はダニなどに食われやすいので丁寧に殺虫をする。毛の流れに逆らって粉をはたくと、時折やわらかな灰色の羽毛がふわりと抜けて私の鼻先をくすぐっていった。  粉をきれいに払ってから、体を台の上で仰向けにする。私はその広い胸にゆっくりとメスを埋めた。正中線に沿う腹と胸をつなぐ場所に羽毛の無い部分がある。肌は柔らかな灰青色をしており、つぷ、と刃先を飲み込んだ。  腹部を切り開いて、こんどは首と両肩に向かって皮を剥いでいく。腹膜と皮下脂肪の間の腱を切るようにしてメスを少しずつ滑らせていく。皮が剥がれた裏側にミョウバンを刷り込みながら、肉の塊と皮を丁寧に分離させる。  かるく私の身長ほどはある両翼は大きく、肩の骨もそれに見あって立派だった。骨を折らないように慎重な手つきで関節を根元から抜く。くちばしの真下まで慎重に切れ目を入れ、頸椎と食道を分離させる。思っている以上に綺麗に骨が抜けたので、骨格標本も作れるかもしれないとふと思い立った。喉の羽毛は切り開かれてもなお逆巻いて、玉虫色の渦のようにきらきらと光っている。ただ、きれいだった。  白い脂肪を掻き出しながら、ゆっくりと背側を剥いていく。首と胸を繋ぐ筋を切り落とし、服を脱がせるようにして皮を裏返した。私は彼を暴いている。  内側の肉たちは思っているより静かだった。腹膜の内側でころりところげるのに時折どきっとするけれど、それらは存外おとなしく、じっと皮が分離していくのを見つめていた。腐敗のせいで肉は少しだけ酸っぱいにおいがした。夏は足がはやい。もう少しはやく見つけてあげればよかった。それでも潮溜まりより、ずっと腹膜は冷たかった。  私は無言で皮を剥ぐ。やがて油脂腺の油でメスがどろどろになった。尾羽の付け根を切る。綺麗な濡羽色をしている。一つだったからだと内臓が分離していく。  弾力のある腹膜ごと内臓を左手でそっと支えると、指の腹が肉に埋もれて脂肪で濡れた。人の肉もこれくらい柔いのだろうか? 無心で皮を剥ぐ。やがて直腸を総排泄孔の手前で切断する。鉗子で先端を抑え、静かに抜け殻から肉を引き抜く。アルミトレイの上に乗せられた体内は、羊膜が破れていないままの胎児にも似ていた。腹膜を透かして素嚢が見えている。胸でようやく抱きかかえられるほどの大きさだから、人間の嬰児よりは少し大きかった。  まだ翼と脚と頭の肉が残っている。肩口から皮を裏返しながら肉を削ぎ、慎重に骨を抜いてはホウ酸の粉をはたく。代わりに針金の骨を入れて翼を固定する。  学術用の剥製にしたほうが楽なことは解っているが、立派な体なのだから本剥製にしたかった。腿の肉を掻き出して骨を抜く。上体に再度手をのばす。キジやサギにくらべ、首が短いカラスは頭骨を剥ぐのがやりやすい。首を裏返す。賢い頭蓋が剥き出しになり、隙間から脳が見えた。  眼窩にピンセットを差し込んで視神経ごとちいさな丸い眼球をずるりと抜き出す。黒曜石のような、小さくて綺麗な黒い色だった。あらかた顔まわりの筋肉を削ぎ終えたら、最後に脳を掻き出す。針に通した糸でまんべんなく、こそげとるようにさらう。  剥製を作るとき、頭骨だけは皮の内側に遺しておくことになる。余った肉を削いでいく。ミョウバンとホウ酸粉を丹念に塗りつけて、脂肪を慎重に削いで、最後に骨を拭って除肉は終わる。  抜いた骨たちは別のトレイに置き、皮を乾かしながら一度休憩をとった。午前中から作成を始めたのに、すでに日暮れに近い時間になっている。集中が切れたせいか唐突に異様なほど空腹を感じた。台所にいくと、妹が作りっぱなしのサンドイッチが冷蔵庫に放置されていたので勝手にいただく。クリームチーズが塗ったくられていることだけはとりあえずわかった。やはり不味い。おそらくあいつは料理の才能がないのだろうと結論をつけて、胃にパンを落とすことだけを考え、口元をぬぐった。皿を洗ってから作業部屋に戻る。  皮が変に縮まないうちに形を整えなければならなかった。翼などの一部を除いて内容物をあらいざらい引き抜かれたからだは二次元のように平らだ。骨の代わりに針金を、脂肪の代わりにわたを、臓器と筋肉の代わりに綿(めん)を入れ、生前の容貌を再現していく。そこに魂が宿らないことは知っていても、還ってこないことはわかっていても、可能な限り精巧なすがたを作り上げたかった。生きていたということを遺したかった。  そんなこと誰に頼まれ��わけでもないのに。  そうやって作業に没頭し続けて数時間、すでにとっぷりと日が暮れ切った夜半にようやく剥製の全体が整った。切り開いた場所を簡単に縫合して、形が崩れないようにガラス棚の中へ保管しておく。  そこで初めて息をついて、ガラスの向こうに閉じ込められた濡羽色のきれいなからだを眺めた。死体とは思えないほど美しいそれは、しかしどうしたって死んでいた。からっぽのからだ。からっぽののうみそ。動かないつばさ。欠けたくちばし。  飛んでいるときの姿を知らない私にとって、その翼がどうやって風を切るのか、瞳はどう海を映したのか、止まり木をどうしならせるのか、梢と尾羽の擦れあう音がどんな高さなのか、それらのうち一つきりさえわかることはなかった。  私は彼を知らない。死体はもう鳴き声の一つも上げない。  恐る恐る手を伸ばして、くちばしの先から根元までをそっと撫でた。なめらかなくちばしは、しかし欠けた部分だけがざらついていた。あごの付け根を軽くさすって、そっと手を離した。ガラス戸を閉める静かな音が濃い潮の匂いに染まる部屋のなかに響いて消えた。私はアルミトレーの上に放り込まれた骨々を溶液に漬け込んで、部屋の電気を消す。
 彼の剥製を教授に譲ることにしたのは、研究室で暇を持てあまして��ソコンを抱えながら遠心分離機とにらめっこしていたときに教授が構われたがりそうに話しかけてきたことが発端だった。会話の中で駿河湾の話になって、不意にこの間ワタリガラスが飛来していたことを思い出したのでそれをいうと、彼はひどく興味津々にその話題に首をつっこんできた。 「飛来、って言っても、拾ったのは死骸ですよ」 「どちらにしても珍しいことには変わりないよ。剥製にできるほど状態がよかったということでもあるし」 「トキやらなんやらだったら生息域のマーキングに使えますけど、ワタリガラスですよ。北海道にでも行けば冬場死ぬほどいる」 「はは、謙遜するなあ。そういう珍しいものを珍しいと理解して、適切に判断、処理できることを褒めているんだから、素直に受け取れば良いのに。とても珍しいことだよ、私も直に見たかった」  謙遜なんていわれても、私はみつけただけであってここまで飛んできたのは彼自身である。僅かな空しさを感じて私は返答に困り、「はあ」とだけ零してまた遠心分離機の液晶パネルを見た。残り時間はまだ二分もある。この後もう一回遠心分離をかけないといけない。パソコンの画面と液晶パネルを無産的に交互に見てから、ぼんやり口を開いた。 「差し上げましょうか、剥製。気になるのなら」 「え、良いのかい」 「別に……。それに作ったのはいいですけど、家にあったって、管理しきれないですし。本剥製に仕立てちゃいましたけどそれでいいのなら」  どうします。と聞くまでもなく、彼の返答は「勿論」だった。研究室に飾ってくれるのであれば、虫に食われることも、腐敗してカビだらけになることも懸念しなくていい。四角いガラスケースの中で、作り物の止まり木に掴まってはばたく直前の格好をしながら、朽ちるまで永遠の沈黙を貫いていることができる彼のことを想像すると、安堵の隙間にどこか血の匂いのする溜め息が滲んだ。  教授は別れ際に、私に向かってこう言った。「そもそも、君がしっかり作り上げる本剥製自体珍しいから、それがよほどきれいな個体だったのだろうなと気になったのは否定しないよ」と。
 その日家に帰ってから瞳に埋め込むための石を取り寄せることにした。実のところ、本剥製はまだ完成させていなかった。けれど他人に渡すのであれば面倒臭くとも仕上げをしなければならない。私は剥製職人ではないが時間をかければそれなりのものは作製できる。性格ゆえに、作りきる根気が滅多に出ないだけであって。  やることを整理する。まずパーツが届く間に、ポーズを整えて、縫合をしっかりして、毛並みをもう一度整えて。そうやって手を尽くして、ガラス越しに見る誰の目にも君が凜々しく見えるように。  だからこそ二も三もなく、彼の眼窩にぴったりな黒い瞳を探すつもりだったのだけれど、どうしてかふいに私の無意識が抵抗して、勝手に動作の主導権を握った。腕は勝手に、月色の丸い石のページを表示させていた。  数秒、その画面を見て固まる。まぶたの閉じないくぼみに嵌められた良く晴れた夜半の空のようなそれを脳裏で一瞬再生してしまい、引き攣るように笑って無理に頭を振った。濡羽に金の目。その文字列が、文字列以外のイメージに行きつかないよう強制的に思考の根をシャットアウトして、私はページを反射的に閉じる。その後は余計なことを何も考えず、黒曜石を選択してカートに入れるだけだった。だって、黒いワタリガラスに金色の目を持つ個体なんていない。 「きれいっつったって、そう見えてるのは多分、見てんのが自分だからですよ、教授」  誰に聞かせるわけでもない独白は部屋の中に溶かして、チェアをリクライニングぎりぎりまで傾ぐ。背もたれはギィ、と音をたてて軋む。LEDの柔らかな白色が、いたいくらいに眩しくて顔を覆った。エアコンの風が虫の声のように静かに空気をふるわせている。  夜の窓辺に、青白いシルエットのワタリガラスの骨格標本が静かに佇んでいる。肉と皮の一切を剥奪され、頭部さえもすっかり喪われたそれは、もはや私に何も語りかける言葉もなく、ただじっともう二度と手が届かない空を、ガラス窓越しに見上げるばかりだった。
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sonezaki13 · 4 years ago
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※サークル内企画「自分の過去作品をリメイクしよう!」で書いた作品です。
高2の時の作品「しとしと降る雨のリズム」のリメイクです。オリジナル版は下にあります。
中途半端なモブキャラF①
 今日もくだらないお遊びに付き合わされている。私はモブキャラとしてこのお遊びに参加している。決して直接手を下していなくても、自分も参加者なのだろうとは思っている。私はこのお遊びの構成物の一部なんだ。だって、止めることもなく「それ」が日常の一部として存在しているのを受け入れているんだから。
 外でしとしとと雨が降っていて教室の中がじっとりとしている。陰湿で陰鬱な空気が。低気圧で頭が重い。
 エミの机が廊下で横たわっている。続けて椅子や鞄も運び出されてきている。くすくすという笑い声。チサトは腰巾着みたいな女子どもに指示を出して動かしていた。この時だってそうだった。笑いながらエミの物を廊下に放り出しているのは子分たちで、チサトはそれを眺めて微笑んでいる。余裕ぶった笑顔だ。元々すらっとした美人なので、こんな状況でなかったら素直に見とれていたかもしれない。加虐嗜好なんだろうか。残酷趣味なんだろうか。家のパソコンで調べた昔の猟奇殺人事件たちを思い出す。人の皮で服を作るとか、そういタイプのおかしな人なのかも。そもそも、そうでもなければ、こんなことはしないか。
 見て見ぬ振りをするクラスメイト。チサトたちと目を合わせないように、友達と会話したり、読書に集中しているふりをする。モブキャラたちは皆気付いている。エミが何をされているか理解している。でも気付かないふりをしている。私もそのうちの一人だ。じろじろ見れば文句を言われる。ひょっとしたら、自分がエミの立場になるかもしれないとでも思っているんだろう。クラ��メイトたちからすれば、チサトがいじめる理由も、エミがいじめられる理由も皆目見当がつかないのだから。理由が分からないほど怖い物はない。いつ巻き込まれるか分からない。関係ありませんよ、と顔に書いて過ごしている。関係ないんだから見過ごすのは仕方ない。
「あっ、ゴミちゃんじゃん! トイレ長かったね! うんこ?」
 戻ってきたエミの姿を見つけたチサトの子分Aが言った。今日は次が移動教室だから少し早めに戻ってきたらしい。げらげらとチサトの取り巻きたちが笑う。エミは休み時間、別棟のトイレに避難している。チサトたちにバレないように場所を変えながらそこで本を読んで過ごしているのだ。
「別に……」
 エミは身を強ばらせて俯いたままもごもごと言った。その様子に何がおかしいのかチサトの子分たちはどっと笑う。笑いの沸点が低すぎじゃん。幸せそうで何より。良かったね。
 窓に丸い水滴がぼつぼつ、ぼつぼつと広がっていく。外は暗い。重い曇天が灰色を押し広げる。
 廊下に散らばった教科書にエミが手をかける。蛍光灯が明るい。私はそれを横目で眺める。目の前に開いている本の文字はただの背景と化している。きっと皆そうだ。チサトたちとエミの様子に最大限集中をしているはずなのに、微塵もそんなことがないふりをしている。関係ない。仕方ない。
「ゴミちゃん三組に入らないでね。ほら、ゴミちゃんの席ここにあるから。用もないのに他のクラス勝手に入っちゃダメだよ」
 ゴミちゃんというのはチサトたちがエミにつけたあだ名だ。「ゴミとエミって似ててかわいいよね。かわいいもの同士が合わさったらもっとかわいくなっちゃうね」と、チサトがわざとらしく言い出したのがきっかけだったと思う。エミはその発言を受けた子分Dに「もっとかわいくなっちゃったね」とゴミ箱の中身を頭からぶちまけられていた。
 エミは無言で教科書やノートを机の中に戻していく。ぼつぼつ、ぼつぼつ、と窓に雨粒が打ち付けられる。空から雨粒が投身自殺。べちゃ。潰れて死ぬ。屍が窓に貼りついている。
 中身を戻しきると、少し迷った様子で鞄に手をかけ、エミがおろおろと周囲の様子を伺う。その様子をチサトの子分たちが真似をして、笑い転げている。こんなことで楽しめるなんて本当に幸せそうだ。人生楽しそうで何よりです。羨ましくはない。
 鞄を抱えたエミは教室へ入ろうとする。妨害されることを見越して一番軽そうな荷物を選んだのだろ��。
「ゴミちゃん。教室間違ってるよ」
 チサトが言った。無表情。笑っている取り巻きたちとは異なり浅賀はもう笑うのをやめていた。
 エミはぶんぶんと首を横に振った。切りそろえられた髪の毛が制服の肩をこすっている。
「違うよ」
 さも当然だという様子でチサトが言う。エミはもう反応するのをやめて教室の中へと一歩を踏み出した。
「違うって言ってるよね」
 その言葉と同時にエミは転んだ。チサトがエミの脚を蹴ったのだ。ごん、と鈍い音がした。痛そうだ。抱きしめた鞄が少しクッションになっていれば良いなと思った。
 グズグズと雨が降る。教室の蛍光灯が明るい。リノリウムの床を不健康に光らせている。べちゃべちゃと窓が叩かれる。
 チサトはいつもエミに直接的な暴力を奮う。物を隠したり、落書きをしたりするのはいつも子分たちだった。チサトの暴力は容赦がない。子分たちがたまにエミを小突いたり蹴ったりするのと違って躊躇いがない。そのうち殺すんじゃないかと怖くなる。そんなことはないだろうけど。多分。
「違うって言ってるよね」
 同じ台詞をそっくりそのまま機械のように繰り返しながらチサトがエミの前髪を引っ張って頭を起こした。子分たちも黙った。教室がしんと静まり返る。誰もがチサトとエミに注目しているのは明らかだった。しかしモブキャラたちは誰も止めやしない。あの圧倒的な暴力が怖いからだ。悪に立ち向かうような崇高な思想を持ち合わせたガキは少なくともここにはいない。
 教室の窓の外で風景に斜線を入れるように雨が降る。風景が切り刻まれて霞んでいく。まるで外の世界なんてないみたいだ。
 エミの顔にも何の表情も浮かんでいなかった。チサトとエミの表情はそっくりだった。恐怖も悲しみも苛立ちもない顔だった。人形のように床をじっと見つめている。何も感じないように心を閉じて防御しているのだろうか。
「間違えたあんたのせいだから。ほら」
 前髪を何度もぐいぐいと引っ張られてエミは立ち上がった。調教中の動物みたいだ。そしてそのままリードで引っ張るかのように前髪を引っ張ってエミを廊下の椅子の所へ連れて行って着席させた。教室内に緊張感が走る。誰も逆らうことができない。逆らっても敵わないことが分かっている。誰も勝算のない相手に飛び込んでいけるほどバカにはなれにない。それくらいの分別は付いている。ここで刃向かって何になる。ヒーローになれない。モブキャラしかいない。モブキャラはザコなのでチサトに圧倒的な暴力を奮われて終わるだけ。デメリットしかない。それならただエミだけが傷付いていれば良い。というか、エミは傷付いたとか辛いとか悲しいとかなんて一言も言ってないので、ひょっとしたら傷付いていない可能性もある。価値観を押しつけるのは傲慢だ。世はダイバーシティの時代だって社会の教科書にも書いていたじゃないか。
 エミは無表情で傷と落書きだらけの机を見つめながらじっと座っている。ぐずぐずと雨の音が響く。雨粒が音を吸収するせいか、嫌にしんとしている。チサトの頬が少し緩んだ。
 そこでようやくチサトの子分たちが再びどっと笑った。教室のざわめきもじわじわと戻っていく。日常が戻る。良かった良かった。チサトたちは廊下の座席で座るエミを笑いながら教室を後にした。子分の何人かはケータイで撮影をしてきゃっきゃとはしゃいでいた。仲間内でメーリスにでも回すんだろう。チサトたちのざわめきが遠のいてから、教室にいたクラスメイトたちもそろそろと出て行く。皆エミを見ないように、俯いたり、あさっての方向を向いたりしている。うっかり見てしまったモブはまるで見ちゃいけないものでも見たかのように慌てて目をそらす。いや、見ちゃいけないものだ。このクラスにおいて、エミはそういう存在だ。
 私も遅れて教科書と筆記用具を持って教室を出る。エミは糸が切れた人形みたいに着席してじっとしている。通りすがり様に横目で見ると、エミは微かに震えていた。時折声が漏れる。泣いている。泣いている顔を見ないよう、慌てて私も目をそらした。これで良い。仕方ないのだ。これが一番すばらしい選択肢じゃないことは分かっているけど、ハイリスクなことなんかせずに一番マシな、安全な選択肢を選ぶことに意味がある。私たちは日々選択している。チサトとエミを見過ごすことを選択している。別に関係ない。関係する必要がない。
 じっとりとした空気が重い。湿った空気が絡みつく。雨のせいだ。
 エミは優しい子だ。だからこんなことになってしまった。私は優しくない。ただそれだけの違い。
「やめてください。嫌がってるじゃないですか」
 見ず知らずの男の子にエミは刃向かった。まただ、と思った。
 幼稚園の頃からエミはそうだ。弱い者いじめをしている子を見れば注意しにいく。町中で困ってそうな人がいれば声をかけるし、ポイ捨てしている大人を見ても注意する。今までいじめられなかったのも、事件に巻き込まれなかったのも奇跡だ。平和すぎた。人助けをしてお礼状が小学校に来たことも一度じゃない。
 エミのこの性分が生まれつきなのか、家庭環境のせいなのかは分からない。きっとどちらのせいでもあるのだろう。もう覚えていないけれど、母曰く、タコ公園で私が転んだところに、エミが心配して駆け寄ってきたのが出会いだったらしい。その時エミはまだ三歳だった。三つ子の魂百までと言うがまさにそれ。まぁまだ十四だけど。家庭環境だってエミを形作るには十分すぎるように思う。エミのおじさんは有名な書家で、おばさんは専業主婦だ。遊びに行くと手作りのおいしいお菓子を出してくれる。お人好しの塊のような人だった。正義感の強さはおじさんに似てるような気もする。いかにも両親に愛されて、清く正しく育ってますって感じ。
「何やってるんですか。警察呼びますよ」
 エミがさらに大きな声を出し、携帯電話を開いた。
 目の前の少年たちは顔を見合わせて去っていった。思いの外ザコだったのでラッキーだった。見たところ、華奢な奴らではあったけど、少なくとも私達よりはデカかった。たぶん力も強い。自分より図体のデカい奴らによくやるな、と思った。関わらない方が良い。関係ない。危ないじゃん。私は彼らに顔を見られないようにさっと木陰に隠れた。エミの視界からも、チサトの視界からも隠れた。こそこそと「私は知りません。関係ありません」という顔をして過ごすのは得意だ。
「いつものことだから。私が悪いの」
 制服の襟元がはだけたチサトが力なく言った。頬に涙の跡が残っている。口の端が切れたようで血が滲んでいる。
「チサトは悪くないよ」
 エミがチサトのシャツのボタンをしめている。地面に転がっているブレザーをパタパタと振って砂を落とす。
「警察行こう」
「やめて」
 血をハンカチで拭うエミの手を振り払って、チサトは絶望した顔をしていた。顔色も悪い。学校ではあんなに強気なのに。クラスの人気者なのに。明るく���元気な模範的な子なのに。見てはいけないものを見てしまった気がして、私はますます縮こまった。ここにはいない方が良い。これはヤバい。私は関係ない。関わらない方が良い。
「なんで」
「友達とお兄ちゃんだから。平気なの。これは遊びなの。何ともないから。いつものことだから」
 必死の様子で言い訳がましくチサトが懇願する。本当にヤバい。これはエミが遭遇したことのない悪だ。まだ戦えない。まだ子供の私たちには無理だ。どうせ何もできない。さっさと白旗を揚げて逃げ出した方が良い。エミに伝えたかったがチサトから離れる気がないようで、私は懸命に見ないように、そのくせ会話だけは好奇心剥き出しで耳を傾けていた。モブキャラなので、背景の一部らしく息を潜めた。
「だったら尚更やめさせないと」
「大丈夫って言ってるでしょ」
 声から一呼吸空けて、遠のいていく足音が聞こえた。おそるおそる出てきてみると、しりもちをついたエミが一人取り残されていた。どうせチサトに突き飛ばされでもしたんだろう。
「あんなの絶対大丈夫じゃないよ」
 拒絶されたのにまだエミはチサトの心配をしていた。私はエミの手を引いて立ち上がらせた。スカートのブリーツに入った砂をぱんぱんと払ってやる。
 せっかくのエミとの楽しい時間にとんだ邪魔が入ってしまった。黄色ブドウ球菌の事件で潰れた雪印の工場にわくわくしながら二人で忍び込んだのに。割れた窓から差し込む光が綺麗だった。本当だったら人がたくさんいたはずの場所がガランとしているのはどこか心が躍った。面白い。工場の人たちにとってはそれどころじゃないだろうけど、私達は工場の人たちから見れば多分モブだし関係ないので純粋に楽しめた。ぽっかりと広がる空間で手を広げて走ってみたりした。足音がやたらと響くから無駄に走り回った。コンビニで写ルンですでも買えば良かったなんて二人で後悔したくらいだ。不良かお化けかホームレスには会うかもしれないとは話してたけど、まさかこんな現場に遭遇するなんて。
 でも、都合の悪いことは見なければ存在していないのと同じなので大丈夫だ。
 私は何も見ていなかった。息を殺して、嵐が過ぎ去るのを待っていた。でもエミはそんな私を一切馬鹿にしない。卑怯な私をエミは責めない。心のどこかでは軽蔑してるんじゃないかと何度思っていても、人懐っこい笑顔で「ユイちゃん」と追いかけてくる彼女を見るとそんな疑いは吹き飛んでしまう。だから、それさえあれば私は満足だった。クソみたいな自分のことも忘れて、へらへらのうのうと生きることができた。
 しかし、この次の日からエミの地獄は始まってしまったのだ。
 エミがゴミ箱を漁っている。
「ホームレスのモノマネ上手すぎ」
 チサトがエミの後ろに立ってにっこりと微笑んだ。子分たちはくすくすと笑っている。エミの髪の毛に絡みついた埃は子分たちの仕業だ。ひそひそと何人かが話しているかと思ったら、追加で別のゴミ箱を持ってきて中身をエミにかけた。少しよろけただけで、無言でゴミ箱を漁り続けている。
「やば。めっちゃ熱心じゃん」
 追加のゴミ箱をぶちまけた子分Bが言って、群れがまたどっと笑った。嘲笑とゴミを浴びながらも、エミはそっとゴミ箱の中から何かを見つけ、取り出した。
「ご飯でも見つけたのかな。良かったねー。すごいねー 。私にも見せて」
 わざとらしい猫撫で声でチサトがエミの手元を覗き込んだ。エミが慌てて手を引っ込めようとしたのを押さえつけ、手の中のものを取り上げた。
「返して」
 エミが小さく呟いた。ひねり上げられた手が痛そうだ。私はまた本を読んでいる。私は教室の端で本を読むモブキャラFらへんの立ち位置だ。ダレンシャンの五巻をずっと読んでいる。全然読み終わらない。話どこまで進んだっけ。
「きたねークマ」
 チサトが取り上げた物を見て、子分たちが囃したてた。チサトの手の中には見覚えのあるクマのマスコットがあった。エミの誕生石を模したネックレスを付けた小さなテディベア。ちゃんと手足と首も動く。ダイエーの中に入ってる雑貨屋さんでお揃いで買ったあのクマだ。
「クマさん、ゴミちゃんのこと嫌いだからゴミ箱の中に隠れてたのにね。可哀想」
 そんなわけあるかよ。アホか。何も知らないくせに。死ね。何も知らないくせにバカにすんなよ。絶対そんなのありえるわけないだろ。
 でも、私は読書に集中しているモブキャラFなので、じっと本を見ている。本の角の向こうの教室の光景を見ている。私は読書しているだけだ。そういう役割だ。関係ないし。背景だし。
「お願い。返して」
 もう一度エミが頼んだ。懇願するような口調。こんな奴にへりくだる必要なんてないのに。エミの方がずっとずっとすごいのに。エミが可哀想だ。いや、クマごときで何をいったい同情してるんだ。落ち着け。どうせ関係ないんだから。何思ったって仕方ない。ムカつくだけ無駄だ。モブの怒りに意味なんてない。
「ゴミちゃんのところに帰るくらいなら死んだ方がマシだっ��さ」
 チサトはマスコットをぽとり、と床に落とし、すかさず踏みつけた。ぐしゃり、とクマの関節があらぬ方向に曲がる。元々可動式のマスコットだから大丈夫だ。ちゃんと戻る。布だし。平気平気。そんなので壊れたりしない。何の権利があってそんなことするのか知らないけどさ。悲しいことじゃない。だからエミ、そんな悲しい顔をしないで。大丈夫だから。
 モブキャラの気持ちは所詮背景なので、伝わらないし伝える必要もない。関係ない奴の関係ない戯言に何の意味があるんだろう。
 私はお揃いで付けていたマスコットを私は外して制鞄の内ポケットに隠している。だって関係ないし。モブはモブらしくすべきだ。被害は少ない方が良い。エミが殴られ、虐げられ、ボロボロになっていようが私は関係ない。はいはいそうです。どうせ��ズですよ。せこいモブですよ。自分が嫌な奴なことくらい自分が一番よく知っている。一番近くでずっと見てるんだから当たり前じゃん。しかもいつもいつも正義感溢れるエミの隣にいたんだから。比較対照が優秀すぎる。私の嫌な奴っぷりがまぶしいほどに輝いてしまう。
 チサトの上履きから踏まれたクマの腕がはみ出している。エミはそっとその腕を摘まむ。
「死にたがってるんだから死なせたげなよ。生きてたって良いことないし。可哀想」
 自分に言ってるんだろうな。チサトは。あの子本当は死にたいんだろうなぁ。死ねば良いのに、と何となく思った。あの日の絶望したチサトを思い出す。あそこで死んでれば良かったのに。
 足を離されて、するりとクマがエミの手に戻ったのも束の間、クマは再び踏みつけられた。エミの細い指が赤い上靴に踏みつけられる。
 また教室の空気が凍り付く。モブキャラたちは動揺を隠しきれない。ザコはザコらしくただビビっている。マジでチサトはあの時死んでおくべきだったと思う。犯されて死ね。
 エミの口から音が漏れた。
 痛い時の悲鳴は、キャーとか、ひーとかではなく、音だ。声じゃない。悲鳴を上げるのは大抵モブの役目だ。モブはモブらしくぴーぴー泣いてビビってるのが丁度良い。モブAからCらへんが明らかに怖がっている。半泣きだ。
「急に手、出したら危ないでしょ」
 言いながら、チサトは足に力をますますこめていく。エミの顔が苦痛に歪み、濁った呻きがずるずると漏れてくる。エミはチサトの足を除けようと空いた手を伸ばした。
「ゴミのくせに汚い手で触んなよ。死ね」
 チサトも踏みつけていない方の足でエミの顔を蹴った。高身長のチサトの全体重がエミの指にかかる。彼女はスレンダーだが、さすがに指で女子中学生を支えられる人はそうそういないだろう。教室が微かにざわめく。エミの顔が赤くなっている。「やばいでしょ」と囁きが聞こえる。エミが乾いた濁音を出した。なんか最近のチサトは必死だな。無様だ。前はもっとスマートだった。いや、そもそもいじめにスマートとかあんのか。何だろう。これ。現実じゃないかも。私はまだ雪印の廃工場でくるくる回ってるエミを見ている。チサトなんかいなかった。私は何も見てない。エミだって見ていない。会ってない。だから関係ない。何してるんだろう私。いや、本を読んでいるのだ。ダレンシャンの五巻を読んでいる。だから関係ない。エミに何かあったんだろうか。何もない。何も知らない。何も分からない。だから関係ない。
 エミの目に涙が浮かぶ。
「また泣いてるんですけどー。きっしょ」
 子分が空元気な声をあげた。それを封切りにまた他の子分たちも騒ぎ出す。いつものパターン。ワンパターン。他にバリエーション無いんですか。ガキじゃん。つまんないよそれ。
「泣くとか卑怯じゃん。泣いて許してもらおうと思ってんのきしょすぎ」
「いちいち泣きすぎ。ガイジじゃん」
「泣き顔きんもー。ゴリラかよ」
 わざとひょうきんにエミの泣き顔の物真似ををして笑い出した。エミの泣き顔をケータイで撮る子たちもいる。何でもないような、今までもずっとそうだったふりをして、生きている。私だけじゃない。私だけが嫌な奴なんじゃない。モブって大体そういう立ち回りなんだ。狡いのは皆同じだ。明らかな異変に気付いているのに、ただ大人しく受け入れている。関係のないふりをして、どうしようもないふりをして、ただ嵐が過ぎるのを待っている。
 エミは私が自分のクマを隠していることに、とっくに気付いているだろう。まるで恥ずかしいものみたいに。あたかも汚いものみたいに。
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hirusoratamago · 5 years ago
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【QN】ある館の惨劇
 片田舎で依頼をこなした、その帰り道。  この辺りはまだ地方領主が収めている地域で、領主同士の小競り合いが頻発していた。  それに巻き込まれた領民はいい迷惑だ。慎ましくも回っていた経済が滞り、領主の無茶な要求が食糧さえも減らしていく。  珍しくタイミングの悪い時に依頼を受けてしまったと、パティリッタは浮かない顔で森深い峠を貫く旧道を歩いていた。
「捨てるわけにもなぁ」  革の背負い袋の中には、不足した報酬を補うためにと差し出されたパンとチーズ、干し肉、野菜が詰まっている。  肩にのしかかる重さは見過ごせないほどで、おかげで空を飛べない。  ただでさえ食糧事情の悪い中で用意してもらった報酬だから断りきれなかったし、食べるものを捨てていくというのは農家の娘としては絶対に取れない選択肢だ。  村に滞在し続ければ領主の争いに巻き込まれかねないし、結局考えた末に、しばらく歩いてリーンを目指すことに決めた。  2,3日この食料を消費しつつ過ごせば、この"荷物"も軽くなるだろうという見立てだ。
 この道はもう、殆ど利用されていないようだ。  雑草が生い茂り、嘗ての道は荒れ果てている。  鳥の声がした。同じ空を羽ばたく者として大抵の鳥の声は聞き分けられるはずなのに、その声は記憶にない。 「うげっ」  思わず空を仰げば、黒く分厚い雨雲が広がり始めているのが見えた。  その速度は早く、近いうちにとんでもない雨が降ってくるのが肌でわかった。
「うわ、うわ! 待って待って待って」  小雨から土砂降りに変わるまで、どれほどの時間もなかったはずだ。  慌てて雨具を身に着けたところでこの勢いでは気休めにもならない。  次の宿場まではまだ随分と距離がある。何処か雨宿りできる場所を探すべきだと判断した。  曲がりなりにも街道として使われていた道だ、何かしら建物はあるはずだと周囲を見渡してみると、木々の合間に一軒の館を見つけることができた。  泥濘み始めた地面をせっせと走り、館の玄関口に転がり込む。すっかり濡れ鼠になった衣服が纏わり付いて気持ちが悪い。
 改めて館を眺めてみた。立派な作りをしている。前庭も手入れが行き届いていて美しい。  だが、それが却って不審さを増していた。
 ――こんな場所に、こんな館は不釣り合いだ、と。思わずはいられなかったのだ。
 獅子を模したドアノッカーを掴み、館の住人に来客を知らせるべく扉に打ち付けた。  しばらく待ってみるが、応答はない。 「どなたかいらっしゃいませんかー!?」  もう一度ノッカーで扉を叩いて、今度は声も上げて見たが、やはり同じだった。  雨脚は弱まるところを知らず、こうして玄関口に居るだけでも雨粒が背中を叩きつけている。  季節は晩秋、雨の冷たさに身が震えてきた。  無作法だとはわかっていたが、このままここで雨に晒され続けるのも耐えられない。思い切って、ドアを開けようとしてみた。 「……あれ」  ドアは、引くだけでいとも簡単に開いた。  こうなると、無作法を働く範囲も思わず広がってしまうというものだ。  とりあえず中に入り、玄関ホールで家人が気づいてくれるのを待とうと考えた。
 館の中へ足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。背負い袋を床におろし、一息ついた。  玄関ホールはやけに薄暗い。扉を締めてしまえばいきなり夜になってしまったかのようだ。 「……?」  暗闇に目が慣れるにつれ、ホールの中央に何かが転がっていることに気づいた。 「えっ」  それが人間だと気づくのに、少し時間が必要だった。 「ちょっ、大丈夫で――」  慌てて声をかけて跪き命の有無を確かめようとする。 「ひっ」  すぐに答えは出た。あまりにもわかりやすい証拠が揃っていたためだ。    その人間には、首が無かった。   服装からして、この館のメイドだろう。悪臭を考えるに、この死体は腐りかけだ。  切断された首は辺りには見当たらない。  玄関扉に向かってうつ伏せに倒れ、背中には大きく切り裂かれた痕。  何かから逃げようとして、背中を一撃。それで死んだか、その後続く首の切断で死んだか、考えても意味がない。  喉まで出かかった悲鳴をなんとか我慢して、立ち上がる。本能が"ここに居ては危険だ"と警鐘を鳴らしていた。  逃げると決めるのに一瞬で十分だった。踵を返し、扉に手をかけようとした。
 ――何かが、脚を掴んだ。    咄嗟に振り向き、そして。 「――んぎやゃあぁあぁぁぁあぁぁぁああぁッッッ!!!???」  パティリッタは今度こそあらん限りの絶叫をホールに響かせた。
「ふざっ、ふざけっ、離せこのっ!!!」  脚を掴んだ何か、首のないメイドの死体の手を思い切り蹴りつけて慌てて距離をとった。弓矢を構える。  全力で弦を引き絞り、意味があるかはわからないが心臓に向けて矢を立て続けに三本撃ち込んだ。  幸いにもそれで相手は動きを止めて、また糸の切れた人形のように倒れ伏す。
 死んだ相手を殺したと言っていいものか、そもそも本当に完全に死んだのか、そんな物を確認する余裕はなかった。  雨宿りの代金が己の命など冗談ではない。報酬の食糧などどうでもいい。大雨の中飛ぶのだって覚悟した。  玄関扉に手をかけ、開こうとする。 「な、なんでぇ!?」  扉が開かない。  よく見れば、扉と床にまたがるように魔法陣が浮かび上がっているのに気づいた。魔術的な仕組みで自動的な施錠をされてしまったらしい。  思い切り体当りした。びくともしない。  鍵をこじ開けようとした。だがそもそも、鍵穴や閂が見当たらない。 「開ーけーてー! 出ーしーてー!! いやだー!!! ふざけんなー!!!」  泣きたいやら怒りたいやら、よくわからない感情に任せて扉を攻撃し続けるが、傷一つつかなかった。 「ぜぇ、えぇ……くそぅ……」  息切れを起こしてへたり込んだ。疲労感が高ぶる感情を鎮めて行く中、理解する。  どうにかしてこの魔法陣を解除しない限り、絶対に出られない。
「考えろ考えろ……。逃げるために何をすればいいか……、整���して……」  どんなに絶望的な状況に陥っても、絶対に諦めない性分であることに今回も感謝する。  こういう状況は初めてではない。今回も乗り切れる、なんとかなるはずだと言い聞かせた。  改めて魔法陣を確認した。これが脱出を妨げる原因なのだ。何かを読み取り、解錠の足がかりを見つけなければならない。  指でなぞり、浮かんでいる呪文を一つずつ精査した。 「銀……。匙……。……鳥」  魔術知識なんてない自分には、この三文字を読み取るので精一杯だった。  だが、少なくとも手がかりは得た。
 立ち上がり、もう一度ホールを見渡した。  首なしメイドの死体はもう動かない。後は、館の奥に続く通路が一本見えるだけ。 「あー……やだやだやだ……!!」  悪態をつきながら足を進めると、左右に伸びる廊下に出た。  花瓶に活けられた花はまだ甘い香りを放っているが、それ以上に充満��た腐臭が鼻孔を刺す。  目の前には扉が一つ。まずは、この扉の先から調べることにした。
 扉の先は、どうやら食堂のようだった。  食卓である長机が真ん中に置いてあり、左の壁には大きな絵画。向こう側には火の入っていない暖炉。部屋の隅に置かれた立派な柱時計。  生き物の気配は感じられず、静寂の中に時計のカチコチという音だけがやけに響いている。  まず、絵画に目が行った。油絵だ。  幸せそうに微笑む壮年の男女、小さな男の子。その足元でじゃれつく子犬の絵。  この館の住民なのだろうと察しが付いた。そしてもう、誰も生きてはいないのだろう。   続いて、食卓に残ったスープ皿に目をやった。 「うえぇぇっ……!」  内容物はとっくに腐って異臭を放っている。しかし異様なのは、その具材だ。  それはどう見ても人の指だった。  視界に入れないように視線を咄嗟に床に移すと、そこで何かが輝いたように見えた。 「……これ!」  そこに落ちていたのは、銀のスプーンだ。    銀の匙。もしかすると、これがあの魔法陣の解錠の鍵になるのではないかと頬を緩めた。  しかし、丹念に調べてみるとこのスプーンは外れであることがわかり、肩を落とす。  持ち手に描かれた細工は花の絵柄だったのだ。 「……待てよ」  ここが食堂ということは、すぐ近くには調理場が設けられているはずだ。  ならば、そこを探せば目的の物が見つかるかもしれない。  スプーンは手持ちに加えて、逸る気持ちを抑えられずに調理場へと足を運んだ。
 予想通り、食堂を抜けた先の廊下の目の前に調理場への扉があった。 「うわっ! ……最悪っ」  扉を開けて中へ入れば無数のハエが出迎える。食糧が腐っているのだろう。  鍋もいくつか竈に並んでいるが、とても覗いてみる気にはなれない。  それより、入り口すぐに設置された食器棚だ。開いてみれば、やはりそこには銀製の食器が収められていた。  些か不用心な気もするが、厳重に保管されていたら探索も面倒になっていたに違いない。防犯意識の低いこの館の住人に感謝しながら棚を漁った。 「……あった!」  銀のスプーンが一つだけ見つかった。だが、これも外れのようだ。  意匠は星を象っている。思わず投げ捨てそうになったが、堪えた。  まだ何処かに落ちていないかと探してみるが、見つからない。 「うん……?」  代わりに、メモの切れ端を見つけることができた。
 "朝食は8時半。   10時にはお茶を。   昼食・夕食は事前に予定を伺っておく。
  毎日3時、お坊ちゃんにおやつをお出しすること。"
 使用人のメモ書きらしい。特に注意して見るべきところはなさそうだった。  ため息一つついて、メモを放り出す。まだ、探索は続けなければならないようだ。  廊下に出て、並んだ扉を数えると2つある。  一番可能性のある調理場が期待はずれだった以上、虱潰しに探す必要があった。
 最も近い扉を開いて入ると、小部屋に最低限の生活用品が詰め込まれた場所に出た。  クローゼットを開けば男物の服が並んでいる。下男の部屋らしい。  特に発見もなく、次の扉へと手をかけた。こちらもやはり使用人の部屋らしいと推察ができた。  小物などを見る限り、ここは女性が使っていたらしい。  あの、首なしメイドだろうか。 「っ……!」  部屋には死臭が漂っていた。出どころはすぐにわかる。クローゼットの中からだ。 「うあー……!」  心底開きたくない。だが、あの中に求めるものが眠っている可能性を否定できない。 「くそー!!」  思わずしゃがみこんで感情の波に揺さぶられること数分、覚悟を決めて、クローゼットに手をかけた。 「――っ」  中から飛び出してきたのは、首のない死体。
 ――やはり動いている!
「だぁぁぁーーーっ!!!」  もう大声を上げないとやってられなかった。  即座に距離を取り、やたらめったら矢を撃ち込んだ。倒れ伏しても追撃した。  都合7本の矢を叩き込んだところで、死体の様子を確認する。動かない。  矢を回収し、それからクローゼットの中身を乱暴に改めた。女物の服しか見つからなかった。    徒労である。クローゼットの扉を乱暴に閉めると、部屋を飛び出した。  すぐ傍には上り階段が設けられていた。何かを引きずりながら上り下りした痕が残っている。 「……先にあっちにしよ」  最終的に2階も調べる羽目になりそうだが、危険が少なそうな箇所から回りたいのは誰だって同じだと思った。  食堂前の廊下を横切り、反対側へと抜ける。  獣臭さが充満した廊下だ。それに何か、動く気配がする。  選択を誤った気がするが、2階に上がったところで同じだと思い直した。    まずは目の前の扉を開く。  調度品が整った部屋だが、使用された形跡は少ない。おそらくここは客室だ。  不審な点もなく、内側から鍵もかけられる。必要であれば躰を休めることができそうだが、ありえないと首を横に振った。  こんな化け物だらけの屋敷で一寝入りなど、正気の沙汰ではない。  すぐに踵を返して廊下に戻り、更に先を調べようとした時だった。
 ――扉を激しく打ち開き、どろどろに腐った肉体を引きずりながら犬が飛び出してきた!   「ひぇあぁぁぁーーーっ!!!???」  素っ頓狂な悲鳴を上げつつも、躰は反射的に矢を番えた。  しかし放った矢がゾンビ犬を外れ、廊下の向こう側へと消えていく。 「ちょっ!? えぇぇぇぇっ!!!」  二の矢を番える暇もなく、ゾンビ犬が飛びかかる。  慌てて横に飛び退いて、距離を取ろうと走るもすぐに追いつかれた。  人間のゾンビはあれだけ鈍いのに、犬はどうして生前と変わらぬすばしっこさを保っているのか、考えたところで答えは出ないし意味がない。  大事なのは、距離を取れないこの相手にどう矢を撃ち込むかだ。 「ほわぁー!?」  幸い攻撃は読みやすく、当たることはないだろう。ならば、と足を止め、パティリッタはゾンビ犬が飛びかかるのを待つ。 「っ! これでっ!!」  予想通り、当たりもしない飛びかかりを華麗に躱したその振り向きざま、矢を放った。  放たれた矢がゾンビ犬を捉え、床へ縫い付ける。後はこっちのものだ。 「……いよっし!」  動かなくなるまで矢を撃ち込み、目論見がうまく行ったとパティリッタはぴょんと飛び跳ねてみせた。    ゾンビ犬が飛び出してきた部屋を調べてみる。  獣臭の充満した部屋のベッドの上には、首輪が一つ落ちていた。 「……ラシー、ド……うーん、ということは……」  あのゾンビ犬は、この館の飼い犬か。絵画に描かれていたあの子犬なのだろう。  思わず感傷に浸りかけて、我に返った。
 廊下に残った扉は一つ。最後の扉の先は、納戸のようだ。  いくつか薬が置いてあっただけで、めぼしい成果は無かった。  こうなると、やはり2階を探索するしかない。 「なんでスプーン探すのにこんなに歩きまわらなきゃいけないんだぁ……」
 慎重に階段を登り、2階へ足を踏み入れた。  まずは今まで通り、手近な扉から開いて入る。ここは書斎のようだった。  暗闇に目が慣れた今、書斎机に何かが座っているのにすぐ気づいた。  本来頭があるべき場所に何もないことも。  服装を見るに、この館の主人だろう。この死体も動き出すかもしれないと警戒して近づいてみるが、その気配は無かった。 「うげぇ……」  その理由も判明した。この死体は異常に損壊している。  指もなく、全身至るところが切り裂かれてズタズタだ。明確な悪意、殺意を持っていなければこうはならない。 「ほんっともう、やだ。なんでこんなことに……」  この屋敷に潜んでいるかもしれない化け物は、殺して首を刈るだけではなく、このようななぶり殺しも行う残忍な存在なのだと強く認識した。  部屋を探索してみると、机の上にはルドが散らばっていた。これは、頂いておいた。  更に本棚には、この館の主人の日記帳が収められていた。中身を検める。
 その中身は、父親としての苦悩が綴られていた。  息子が不死者の呪いに侵され、異形の化け物と化したこと。  殺すのは簡単だが、その決断ができなかったこと。  自身の妻も気が触れてしまったのかもしれないこと。  更に読み進めていけば、気になる記述があった。 「結界は……入り口のあれですよね。ここ、地下室があるの……?」  この館には地下室がある。その座敷牢に異形の化け物と化した息子を幽閉したらしい。  しかし、それらしい入り口は今までの探索で見つかってはいない。別に、探す必要がなければそれでいいのだが。 「最悪なのはそのまま地下室探索コースですよねぇ……。絶対やだ」    書斎を後にし、次の扉に手をかけてみたが鍵がかかっていた。 「ひょわぁぁぁっ!?」  仕方なく廊下の端にある扉へ向かおうとしたところ、足元を何かが駆け抜けた。  なんのことはないただのネズミだったのだが、今のパティリッタにとっては全てが恐怖だ。 「あーもー! もー! くそー!」  悪態をつきながら扉を開く。小さな寝台、散らばった玩具が目に入る。  ここは子供部屋のようだ。日記の内容を考えるに、化け物になる前は息子が使用していたのだろう。  めぼしいものは見当たらない。おもちゃ箱の中に小さなピアノが入っているぐらいで、後はボロボロだ。  ピアノは、まだ音が出そうだった。 「……待てよ……」  弾いたところで何があるわけでもないと考えたが、思い直す。  本当に些細な思いつきだった。それこそただの洒落で、馬鹿げた話だと自分でも思うほどのものだ。
 3つ、音を鳴らした。この館で飼われていた犬の名を弾いた。 「うわ……マジですか」  ピアノの背面が開き、何かが床に落ちた。それは小さな鍵だった。 「我ながら馬鹿な事考えたなぁと思ったのに……。これ、さっきの部屋に……」  ��の予想は当たった。鍵のかかっていた扉に、鍵は合致したのだ。
 その部屋はダブルベッドが中央に置かれていた。この館の夫妻の寝室だろう。  ベッドの上に、人が横たわっている。今まで見てきた光景を鑑みるに、その人物、いや、死体がどうなっているかはすぐにわかった。  当然首はない。服装から察するに、この死体はこの館の夫人だ。  しかし、今まで見てきたどの死体よりも状態がいい。躰は全くの無傷だ。  その理由はなんとなく察した。化け物となってもなお息子に愛情を注いだ母親を、おそらく息子は最も苦しませずに殺害したのだ。  逆に館の主人は、幽閉した恨みをぶつけたのだろう。 「……まだ、いるんだろうなぁ」  あれだけ大騒ぎしながらの探索でその化け物に出会っていないのは奇跡的でもあるが、この先、確実に出会う予感がしていた。  スプーンは、見つかっていないのだ。残された探索領域は一つ。地下室しかない。    もう少し部屋を探索していると、クローゼットの横にメモが落ちていた。  食材の種類や文量が細かく記載されており、どうやらお菓子のレシピらしいことがわかる。 「あれ……?」  よく見ると、メモの端に殴り書きがしてあった。 「夫の友人の建築家にお願いし、『5分前』に独りでに開くようにして頂いた……?」  これは恐らく、地下室の開閉のことだと思い当たる。 「……そうだ、子供のおやつの時間だ。このメモの内容からしてそうとしか思えません」  では、5分前とは。 「おやつの時間は……そうか。わかりましたよ……!」  地下室の謎は解けた。パティリッタは、急ぎ食堂へと向かう。
「5分前……鍵は、この時計……!」  食堂の隅に据え付けられた時計の前に戻ってきたパティリッタは、その時計の針を弄り始めた。 「おやつは3時……その、5分前……!」  2時55分。時計の針を指し示す。 「ぴぃっ!?」  背後で物音がして、心臓が縮み上がった。  慌てて振り向けば、食堂の床石のタイルが持ち上がり、地下への階段が姿を現していた。  なんとも形容しがたい異様な空気が肌を刺す。  恐らくこの先が、この屋敷で最も危険な場所だ。本当にどうしてこの館に足を踏み入れたのか、後悔の念が強まる。 「…���行くしか無い……あぁ……いやだぁ……! 行くしか無いぃ……」  しばらく泣きべそをかいて階段の前で立ち尽くした。これが夢であったらどんなにいいか。  ひんやりとした空気も、腐臭も、時計の針の音も、全てが現実だと思い知らせてくる。  涙を拭いながら、階段を降りていく。
 降りた先は、石造りの通路だった。  異様な雰囲気に包まれた通路は、激しい寒気すら覚える。躰が雨に濡れたからではない。
 ――死を間近に感じた悪寒。
 一歩一歩、少しずつ歩みを進めた。通路の端までなんとかやってきた。そこには、鉄格子があった。 「……! うぅぅ~……!!」  また泣きそうになった。鉄格子は、飴細工のように捻じ曲げられいた。    破壊されたそれをくぐり、牢の中へ入る。 「~~~っ!!!」  その中の光景を見て思わず地団駄を踏んだ。  棚に首が、並んでいる。誰のものか考えなくともわかる。  合計4つ、この館の人間の犠牲者全員分だ。  調べられそうなのはその首が置かれた棚ぐらいしかない。    一つ目は男性の首だ。必死に恐怖に耐えているかのような表情を作っていた。これは、下男だろう。  二つ目も男性の首だ。苦痛に歪みきった表情は、死ぬまでにさぞ手酷い仕打ちを受けたに違いなかった。これがこの館の主人か。  三つ目は女性の首だ。閉じた瞳から涙の跡が残っている。夫人の首だろう。  四つ目も女性の首。絶望に沈みきった表情。メイドのものだろう。 「……これ……」  メイドの髪の毛に何かが絡んでいる。銀色に光るそれをゆっくりと引き抜いた。  鳥の意匠が施された銀のスプーン。 「こ、これだぁ……!!」  これこそが魔法陣を解錠する鍵だと、懐にしまい込んでパティリッタは表情を明るくした。  しかしそれも、一瞬で恐怖に変わる。    ――何かが、階段を降りてきている。   「あぁ……」  それが何か、もうとっくに知っていた。逃げ場は、無かった。弓を構えた。 「なんで、こういう目にばっかりあうんだろうなぁ……」  粘着質な足音を立てながら、その異形は姿を現した。  "元々は"人間だったのであろう、しかし体中の筋肉は出鱈目に隆起し、顔があったであろう部分は崩れ、悪夢というものが具現化すればおおよそこのようなものになるのではないかと思わせた。  理性の光など見当たらない。穴という穴から液体を垂れ流し、うつろな瞳でこちらを見ている。  ゆっくりと、近づいてくる。 「……くそぉ……」  歯の根が合わずがたがたと音を立てる中、辛うじて声を絞り出す。 「死んで……たまるかぁ……!!」  先手必勝とばかりに矢を射掛けた。顔らしき部分にあっさりと突き刺さる。  それでも歩みは止まらない。続けて矢を放つ。まだ止まらない。  接近を許したところで、全力で脇を走り抜けた。異形の伸ばした手は空を切る。  対処さえ間違えなければ勝てるはず。そう信じて異形を射抜き続けた。
「ふ、不死身とか言うんじゃないでしょうねぇ!? ふざけんな反則でしょぉ!?」    ――死なない。    今まで見てきたゾンビとは格が違う。10本は矢を突き立てたはずなのに、異形は未だに動いている。 「し、死なない化け物なんているもんですか! なんとかなる! なんとかなるんだぁっ!! こっちくんなーっ!!!」  矢が尽きたら。そんな事を考えたら戦えなくなる。  パティリッタは無心で矢を射掛け続けた。頭が急所であろうことを信じて、そこへ矢を突き立て続けた。 「くそぅっ! くそぅっ!」  5本、4本。 「止まれー! 止まれほんとに止まれー!」  3本、2本。 「頼むからー! 死にたくないからー!!」  1本。 「あああぁぁぁぁっ!!!」  0。  最後の矢が、異形の頭部に突き刺さった。    ――動きが、止まった。
「あ、あぁ……?」  頭部がハリネズミの様相を呈した異形が倒れ伏す。 「あぁぁぁもう嫌だぁぁぁ!!!」  死んだわけではない。既に躰が再生を始めていた。しかし、逃げる隙は生まれた。  すぐにねじ曲がった鉄格子をくぐり抜けて階上へ飛び出し、一目散に入り口へ駆ける。  後ろからうめき声が迫ってくる。猶予はない。 「ぎゃああああもう来たあああぁぁぁぁ!!!」  玄関ホールへたどり着いたと同時に、後ろの扉をぶち破って再び異形が現れる。  無秩序に膨張を続けた躰は、もはや人間であった名残を残していない。  異形が歪な腕を、伸ばしてくる。 「スプーンスプーン! はやくはやくはやくぅ!!!」  もう手持ちのスプーンから鍵を選ぶ余裕すらない。3本纏めて取り出して扉に叩きつけた。  肩を、異形の手が叩く。 「うぅぅぐぅぅぅ~ッッッ!!!」  もう涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだった。  後ろを振り返れば死ぬ。もうパティリッタは目の前の扉を睨みつけるばかりだ。  叩きつけたスプーンの内1本が輝き、魔法陣が共鳴する。 「ぎゃー! あー!! わーっ!! あ゛ーーーッッッ!!!」  かちゃり、と音がした。  と同時に、パティリッタは全く意味を成さない叫び声を上げながら思い切り扉を押し開いて外へと転がり出た。
 いつしか雨は止んでいた。  雲間から覗いた夕日が、躰に纏わり付いた忌まわしい物を取り払っていく。 「あ、あぁ……」  西日が屋敷の中へと差し込み、異形を照らした。異形の躰から紫紺の煙が上がる。  もがき苦しみながら、それでもなお近づいてくる。走って逃げたいが、遂に腰が抜けてしまった。  ぬかるんだ地面を必死の思いで這いずって距離を取りながら、どうかこれで異形が死ぬようにと女神に祈った。
 異形の躰が崩れていく。その躰が完全に崩れる間際。 「……あ……」    ――パティリッタは、確かに無邪気に笑う少年の姿を見た。    翌日、パティリッタは宿場につくなり官憲にことのあらましを説明した。  館は役人の手によって検められ、あれこれと詮議を受ける羽目になった。  事情聴取の名目で留置所に三日間放り込まれたが、あの屋敷に閉じ込められた時を思えば何百倍もマシだった。  館の住人は、縁のあった司祭によって弔われるらしい。  それが何かの救いになるのか、パティリッタにとってはもはやどうでも良かった。  ただ、最後に幻視したあの少年の無邪気な笑顔を思い出せば、きっと救われるのだろうとは考えた。 「……帰りましょう、リーンに。あたしの日常に……」
「……もう、懲り懲りだぁー!!」  リーンへの帰途は、晴れ渡っていた。
 ――ある館の、惨劇。
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