#ラクロ
Explore tagged Tumblr posts
Text
今日の名言 #恋愛
名言:
"恋を早く成長するには、筆をとるより口で言え。"
ラクロ 軍人・文学者
英訳
"To make love grow quickly, speak with your mouth rather than writing with a pen."
- Pierre Choderlos de Laclos
ギャル風
「恋はさ、手紙よりも直で言ったほうが育つっしょ?」
- ギャル風💕🥩
0 notes
Text
エルサレム賞受賞講演「小説とヨーロッパ」1985年
ミラン クンデラ
「
イスラエルで最も重要な文学賞が国際的な文学に贈られるのは、偶然の産物ではなく、長い伝統の賜物だと私は思います。実際、祖国から追放され、ナショナリズムの情熱から離された偉大なユダヤ人たちは、常に超国家的なヨーロッパ、つまり領土としてではなく文化としてのヨーロッパに並々ならぬ思いを抱いていました。もしユダヤ人たちが、ヨーロッパが悲劇的に彼らを失望させた後でさえも、ヨーロッパのコスモポリタニズムを信じ続けたとすれば、彼らの小さな祖国をようやく取り戻したイスラエルは、ヨーロッパの真の心臓であり、肉体の外側に位置する特異な心臓であると私には思えます。
エルサレムの名を冠し、偉大なる国際的ユダヤ人精神の証であるこの賞を、本日、深い感慨とともに受け取りました。私は小説家としてこの賞を受け取ります。私は作家(ライター)ではなく小説家(ノベリスト)と言いました。小説家とは、フローベールによりますと、その作品の背後に身を隠したいと思っている者のことです。作品の背後に身を隠すとは、公的人間の役を放棄するということです。昨今、これは容易なことではありません。わずかでも重要なことがあれば、マスメディアが耐え難いほどに目をぎらつかせているところへと足を踏み入れなければならなくなりますし、フローベールの教訓に反して、作品が作者のイメージの陰に隠れて消えてしまうことになります。誰も完全には逃れることのできないこのような状況において、フローベールの言葉は一種の警告のように私には思えます。つまり、小説家は公的人間の役を引き受けることで、自分の作品を危険にさらすことになるのです。作品が、その小説家の行為や声明、立場の表明などのたんなる附録とみなされてしまう危険があるのです。
さて、小説家は誰の代弁者でもないばかりか、彼自身の思想の代弁者ですらないとさえ言えます。トルストイが『アンナ カレーニナ』の第一稿を構想したとき、アンナは最も無愛想な女性であり、その悲劇的な結末はまったく当然のもので、正当なものでした。最終版はまったく異なっています。しかし私は、トルストイがその間に自分の道徳観を修正したとは思いません。むしろ、執筆の過程で、個人的な道徳的信念とは別の声に耳を傾けていたのだと言うべきだろうと思います。彼は、私が小説の知恵と呼びたいものに耳を傾けていたのです。真の小説家は皆、その超人間的な知恵に耳を傾けます。偉大な小説が常に作者よりも少し知的であるのはそのためなのです。自分の本よりも知的な小説家は、別の仕事に就くべきです。
しかしその知恵とは何でしょうか。小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。この格言に触発されて、私は好んでこんなことを想像します。つまり、ある日、フランソワ ラブレーは、神が笑うのを聞き、そうしてヨーロッパの最初の偉大な小説のアイデアが生まれたのだと。小説という芸術が神の笑い���こだまとして誕生したという考えは気に入っています。
でもなぜ神は考えている人間を見て笑うのでしょうか。なぜならそれは人間が考えても、真実は人間から逃げていってしまうからであり、複数の人間が考えれば、一方の考えは他方の考えとますますへだたってしまうからであり、そして最後に、人間は自分がそうであると考えるものでは決してないからです。
中世を脱出した人間の、この根本的状況が明らかになるのは、近代の黎明期です。ドン キホーテは考え、サンチョは考えました。そして世界の真実だけでなく、彼ら自身の真実さえも彼らから逃げていきました。ヨーロッパの最初の小説家たちは、人間のそのような新しい状況を見て取り、その上に新しい芸術、すなわち小説という芸術を築き上げたのです。
フランソワ ラブレーはたくさんの新語をつくり、それらはその後フランス語や他の言語でも使われるようになりましたが、そのうちの一つが忘れられてしまったのは非常に残念です。それは「アジェラスト」という言葉です。ギリシャ語に由来する語で、「笑わぬ者」「ユーモアのセンスのない者」の意味です。ラブレーはアジェラストを憎み、恐れていました。彼は、アジェラストたちからあまりに非道な扱いを受けたため、筆を折ってしまいそうになったと不満を漏らしています。
小説家とアジェラストの和解は不可能です。アジェラストたちは神が笑うのを聞いたことがなく、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えているはずであり、そして自分たちは自分たちがそうであると考えているものであると確信しています。しかし人間が個人となったのは、まさに真実の確信と他者の満場一致の同意を失うことによってなのです。小説は個人の想像上の楽園です。そこは、アンナもカレーニンも、誰も真実を持ってはいませんが、アンナもカレーニンも、誰もが理解される権利を持っています。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』第三之書で、ヨーロッパが初めて目にした偉大な小説の登場人物であるパニュルジュが、次の問いに苦しめられています。結婚すべきか否か。彼は医者、予知能力者、教授、詩人、哲学者に相談し、それぞれがヒポクラテス、アリストテレス、ホメロス、ヘラクレイトス、プラトンを引用します。しかし、この書全体を占めるこの膨大で博学な研究の末、
パニュルジュはいまだに結婚すべきかどうかわかりませんし、私たち読者もわかりません。しかしその一方で、私たちは、結婚すべきかどうかわからない人という、滑稽であると同時に本質的な状況を、あらゆる角度から探ったのです。
ラブレーの博学は、デカルトの博学とは別の意味を持っています。小説の知恵は哲学のそれとは違います。小説は理論的な精神ではなく、ユーモアの精神から生まれているのです。ヨーロッパの大きな失敗のひとつは、最もヨーロッパ的な芸術である小説を理解できなかったことです。その精神も、その偉大な知識と発見の数々も、その歴史��自律性も。神の笑いに触発された芸術は、そもそも、イデオロギー的な確信に奉仕するものではなく、それに反するものなのです。それは、ギリシャ神話のペネロペのように、神学者、哲学者、学識者たちがその日に織り上げたタペストリーを、夜毎に解くのです。
最近、十八世紀を悪しざまに言う習慣が定着してしまい、こんな決まり文句に到達するようにさえなりました。ロシアの全体主義の不幸は、ヨーロッパの、とりわけ啓蒙の世紀の無神論的合理主義、理性の万能に対する信仰の産物だというものです。私はヴォルテールを強制収容所の責任者とする人々と論争する資格があるとは感じませんが、次のように言う資格ならあると感じています。すなわち、十八世紀はただルソー、ヴォルテール、ドルバックの世紀ではなく、また(とりわけ、ではないにしても!)フィールディング、スターン、ゲーテ、ラクロの世紀でもあるのだ、と。
その時代の小説の中で 私が最も好きなのは、ローレンス スターンの『トリストラム シャンディ』です。不思議な小説です。スターンは、トリストラムが懐妊した夜の描写から小説を始めますが、その話をやっと始めたところで、別のアイデアが突然彼を惹きつけ、自由連想によってそのアイデアが別のアイデアを駆り立て、さらに逸話が続き、ひとつの脱線がまた次の逸話へとつながっていきます。そしてこの本の主人公であるトリストラムは、100ページものあいだ忘れ去られてしまうのです。この贅沢な小説の構成法は、形式的なゲームに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、芸術においては、形式は常に形式以上のものなのです。
どの小説も、好むと好まざるとにかかわらず、次の問いに何らかの答えを提示しています。すなわち、人間存在とは何か、その詩(ポエジー)はどこにあるのかという問いです。スターンの同時代人たち、たとえばフィールディングは、アクションと冒険の非凡な魅力を特に味わっていました。スターンの小説から感じられる答えは、まったく異なるものです。彼にとって詩とは、行為の中にあるのではなく、行為の中断の中にあるのです。おそらくここに、間接的な形ではあれ、小説と哲学のあいだの大いなる対話が始まったと言えます。十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない (nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。
自分の人生に何らかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明��い軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向かう狂おしい走行をますます速めることになります。
世界を出来事の因果的な連続に還元することに対抗して、スターンの小説は、その形式そのものによって、詩は行為の中にあるのではなく、行為が止まったところにあるのだと断言しています。それは原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあるのだと断言するのです。スターンの小説は、人間存在のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのです。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないままに、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。このように、ある時代の精神は、その芸術、特に小説を考慮することなく、その思想や理論的概念だけで判断することはできません。
十九世紀は機関車を発明しました。ヘーゲルは普遍的な歴史の精神そのものを把握したと確信していました。しかし、フローベールは愚かさを発見しました。私はあえて申しますが、これこそが、己の科学的理性をかくも誇りに思っていた世紀の最大の発見です。
もちろんフローベール以前にも、愚かさが存在することを疑う者はいませんでしたが、それは少し別なふうに理解され、単に知識の欠如や、教育によって正されうる欠陥だと見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚かさは人間の存在と切り離すことのできないものなのであり、それは哀れなエマが日々を過ごす間、愛の床から死の床にまでつきまとい、オメーとブールニジアンという二人の死神が、一種の葬送演説のように、くだらない話を延々と続けるのです。しかし、フローベールの愚かさについてのビジョンで最も衝撃的で最もスキャンダラスなことは次のこと、すなわち愚かさは、科学、技術、近代性の進歩に道を譲ることはなく、それどころか、進歩とともに愚かさもまた進歩する!ということなのです。
フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、周囲の人々が自分は利口で事情に通じていると見せようとして口にする紋切り型の決まり文句を収集し、それを元に、かの有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚かさとは無知ではなく、紋切り型に受け入れた考えの無思考を意味しているのだ、と。
フローベールのこの発見は、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりもずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像することはできても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピュータに入力され、マスメディアによって流布され、やがて一つの力となって、あらゆる独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代ヨーロッパ文化の本質そのものが窒息させられかねないのです。フローベールがエマ ボヴァリーを構想してから80年ほど後、私たちの世紀の1930年代に、もう一人の偉大な小説家ヘルマン ブロッホは、近代小説がいかに雄々しくキッチュの潮流と闘おうとも、結局はキッチュに圧倒されてしまうと書いています。「キッチュ」という言葉は、どんな犠牲を払ってでも最大多数の人々を喜ばせたいと願う人々の姿勢を言い表しています。喜ばせるためには、誰もが聞きたいと思っていることを確認し、受け入れられている紋切り型の考えに従わなければなりません。キッチュとは、受け入れられている紋切り型の考えの愚かさを、美と感情の言語に翻訳することです。それは、私たち自身を憐れみ、私たちが考え、感じていることの凡庸さに涙するように私たちを促します。
50年後の今日、ブロッホの言葉はさらに真実味を増しています。多くの人を喜ばせ、それによって多くの人の注目を集めなければならないマスメディアの美学は必然的にキッチュなものとなり、マスメディアが私たちの生活にますます浸透していくにつれ、キッチュは私たちの日常的な美学と道徳規範となりました。つい最近までは、モダニズムとは、紋切り型の考えやキッチュに対する不適合者の反乱を意味していました。今日、モダニティはマスメディアの巨大な力と融合し、そして、モダンであることとは、最新であること、適合すること、そして最も適合している人たちよりもさらに徹底的に適合することへの努力を意味します。モダニティはキッチュの服をまとったのです。
アジェラストたち、紋切り型に受け入れた考えの無思考、そしてキッチュ、これらは三つの頭をもった同じひとつの、神の笑いのこだまとして生まれた芸術の敵なのです。この芸術は、だれも真実の所有者ではなく、だれもが理解される権利をもっている、魅惑的な想像的空間を創出することができました。この寛容な想像的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれた、ヨーロッパのイメージそのものなのです。あるいは少なくとも、ヨーロッパに私たちが抱く夢なのです。それは何度も裏切られた夢ですが、それでも、小さなヨーロッパ大陸をはるかに越えて広がる友愛の中で、私たち全員を団結させるのに十分な強さを持っているのです。しかし私たちは、個人が尊重される世界は(小説の想像上の世界でも、現実のヨーロッパでも)、もろく朽ちやすいことを知っています。
地平線上には、私たちの一挙手一投足を見張っているアジェラストの軍隊が立っています。そして、まさにこの宣戦布告なき永久戦争の時代に、劇的で残酷な運命を背負ったこの街で、私は小説のことだけを語ろうと決心しました。これは私が深刻な問題を避けようとしているからではないことはお分かりいただけただろうと思います。
今日、ヨーロッパ文化が脅威にさらされているように見えるとしても、ヨーロッパ文化の最も貴重なもの、すなわち個人の尊重、個人それぞれの独自の思想、侵すことのできない私生活の権利、それらに対する内外からの脅威がヨーロッパ文化を覆っているのだとしても、ヨーロッパ精神の貴重なエッセンスは、宝箱の中に大切に保管されているように、小説の歴史の中に、小説の知恵の中にあると、私は信じています。
私がこの感謝のスピーチで称えたかったのは、その小説の知恵です。
でもそろそろやめ時ですね。
私が考えているの���見て、神様が笑うことを忘れていました。
」
Jerusalem Address: The Novel and Europe
A speech by Milan Kundera
https://medium.com/@mijolo/jerusalem-address-the-novel-and-europe-585bf2e7a848
0 notes
Photo
(読書する女たち 〔十八世紀フランス文学から〕 | 宇野木 めぐみ |本 | 通販 | Amazonから)
かつて“小説を読む女性は堕落している"とされていた! ◎男女ともに識字率が大きく上昇した十八世紀フランスでは、「女性が読書する」習慣も根づきつつあった。 ◎しかし知恵や理性のイメージが大きい「男性の読書」と対照的に、「女性の読書」は感情的・官能的な夢想を恣にする「小説」の読書として、好ましからざるイメージが大きく、「道徳��」と強く結びついていた。 ◎ルソー『新エロイーズ』、アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』、ラクロ『危険な関係』…などから、ほぼ家庭運営のみ意図されていた「女子教育」の黎明期の「女性読者」を軸に、十八世紀フランス文学の世界を描きだす。 ----- 序 読者のイメージ、イメージの読者 第一章 十八世紀フランス絵画における書物 第二章 文人たちの女子教育論と小説 第三章 小説の有害性と効用 第四章 小説における読書する女性たち 結論
2 notes
·
View notes
Text
ZMPが自動走行する電動車いす「RakuRo」の高齢ドライバー向けサブスクを今秋開始
ロボットや自動運転技術開発のZMPは8月18日、1人乗りロボ「RakuRo」(ラクロ)のサブスクリプション(定額乗り放題)サービスを今秋開始すると発表した。RakuRoは、自動運転機能を電動車いすに応用したことから公道を走行可能で、若者から高齢者まですべての人が便利に移動を楽しめる新しいパーソナルモビリティとしている。
同サービスの月額料金は、乗り放題で税込み1万円。または10分税込み370円の時間制料金となっている。今秋サービス開始を予定しており、同サービスの申し込み方法や最新情報は、「ロボタウン」ウェブサイトで告知を行う。
サービス提供地域は、東京都中央区佃の「大川端リバーシティ21」で、順次開始。RakuRoはマンションの地下駐車場に配置されており、利用したい場合はスマホアプリで事前に予約を行う。予約日時に利用者はRakuRoに乗り、QRコードをスキャンすることでロックが解除さ…
View On WordPress
0 notes
Text
映画『マイ・ビューティフル・ランドレット』
というわけで(どういうわけだ?)、スティーヴン・フリアーズ監督の映画『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985)を見ました。
コアな映画ファンにはよく知られた映画で、フランス留学中パリのシネクラブ(というのかな、要するにコアな映画ファンのためにマイナーな映画をとっかえひっかえ上演する映画館です)でしょっちゅうかかっていました。
ただ、移民問題と同性愛の問題を扱った映画というので、私はちょっと二の足を踏んでいました。社会問題を扱った映画……というか、そういうものを前面に押し出した映画はあまり好きではないからです。
スティーヴン・フリアーズという監督は知りませんでしたが、ラクロの『危険な関係』の映画化(1988)とか、コレットの『シェリ』の映画化『わたしの可愛い人〜シェリ』(2006)とか、イギリス人なのにフランスの文学作品を映画化しているのですね。
『危険な関係』は見ていないと思いますが、『シェリ』はなかなか良かったように思います。登場人物たちが英語で喋っているのは正直かなり違和感がありましたが、元高級娼婦のレアを演じたミシェル・ファイファーが実に魅力的でした。
てっきりダニエル・デイ=ルイスが主演だ���思っていたら、さにあらず。主役はオマールというパキスタン移民2世で、ダニエル・デイ=ルイスはその幼馴染というか恋人役でした。
オマールは父親の介護をしながら暮らしています。生活は楽ではなく、そのせいで大学もやめてしまいました。あるとき父親が羽振りのいい弟のナセルに息子を雇ってくれと頼みます。
オマールはナセルに気に入られてコインランドリー(ランドレット)の経営を任されます。一方、ナセルの親族であるサリムはオマールを麻薬の運び屋として使います。
ちょうどその頃、オマールは幼馴染のジョニー(ダニエル・デイ=ルイス)を偶然街で見かけます。オマールは不良たちがたむろするボロボロのランドリーを立て直すべく、ジョニーを店で雇います。
オマールはサリムに渡すはずの麻薬をちょろまかして、その金でコインランドリーを改装します。美しいコインランドリー、「ビューティフル・ランドレット」を作ったというわけです。
昔からそうだったのか、それとも再会後にそうなったのかはわかりませんが、オマールとジョニーは同性愛の関係を結びます。二人は昔から仲良しで、ジョニーはオマールの父親にもよくしてもらっていたのですが、ある日、仲間たちと移民排斥のデモに参加して、オマールやその父親を裏切ったということがわかってきます。
なるほど……なかなかいいじゃないですか。
物語の中心はオマールとジョニーの関係なのでしょうが、それ以外にもナセルとその愛人の話や、ナセルの娘タニアが親に反発して家を出る話や、オマールの父親(彼は今でこそダメ人間ですが、パキスタンにいた頃は左翼系のジャーナリストとして活躍していたそうです)とナセルの兄弟の物語や、移民を敵視する白人の不良グループと移民2世のオマールの仲間になったジョニーとの一触即発の関係など、様々なストーリーが交錯します。
ラスト近く、不良グループの一人をわざと車で轢いたサリムがコインランドリーの前で袋叩きにあい、それを止めようとしたジョニーもボコボコにされるというシーンと、ナセルがオマールの父親の元を訪れる兄弟の再会シーンと、オマールが親族の一人とビジネスの話をしているシーンがクロスカッティングで組み合わされる部分は見事だと思いました。
人種問題を扱っているせいでしょうか、ふとスパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』と似ているような気がしました。調べてみると、『ドゥ・ザ・ライト・シング』も1985年の作で、イギリスとアメリカである意味似通った映画が作られていたというのは、なかなか興味深いことです。
別な意味で印象的なところもありました。一つは、コインランドリーの新装開店の場面です。店の外では大勢の客が開店を待っています。そこへ叔父のナセルが愛人のレイチェルを連れてやってきて店に入り、外の客に見えるところでBGMのワルツに合わせてレイチェルと踊りキスをします。一方、店の奥ではオマールとジョニーが服を脱いで熱い抱擁を交わしています。
え? なぜ、いま? 大事な開店の日に客を待たせて一体何をしてるんですか?
ここ突っ込むとこなんですか? そうですよね?
もう一つはナセルの不倫を知ったナセルの妻が、愛人を呪う呪術を行うというところです。その呪術を行うと、呪われた相手の体には湿疹が出て、家では家具が飛び交うそうです。
いろいろあってその後、レイチェルはナセルの元を去る決意をするのですが、その際レイチェルはナセルに「あな���の奥さんは天才だわ。うちでは家具が勝手に飛んだり跳ねたりするし、おまけに……」といって、ブラウスを捲り上げ湿疹を見せます。
え? そ、そうなんだ……
ここって笑うところですよね? そうですよね?
そういう部分も含めてなかなかいい映画だったと思います。
なにより48時間のうちに28歳のダニエル・デイ=ルイスと62歳のダニエル・デイ=ルイスが見られたというのは、非常に面白い経験でした。そういうことができるというのも、映画というものの魅力のひとつなのかもしれません。
**********
『メフィスト』毎月1回1年間ロングラン
次回3月27日(金曜)の公演は昨今の事情に鑑みて中止にすることにいたしました。
ご予約くださいましたお客さま、楽しみにしておられたお客さま、本当に申し訳ありません。我々も断腸の思いです。
事態が終息し、4月には公演を再開できるようになることを祈っております。
0 notes
Photo
. 昨年読んだ本📖で一番面白かった(かなりフェティッシュ眼線)のはフランスの作家…元軍人ラクロが書いた『危険な関係』 . 映画化はもちろん、ドラマにもなっているし、舞台化もされている……しかもストレートプレイのみならず、ミュージカルもあるらしい👀‼️ . 1782年刊行のマリー・アントワネットも読んだと云われる、革命前フランスのベストセラー。男女2人を中心に、10名近くの人物がやり取りした手紙を時系列に並べた書簡集。その手紙✉️の数、175通‼️ 貰った手紙を同封して送ったり、書き写した手紙を送ら��たり……なんとも下品な貴族達の嗜み。 他人の密かな愉しみを覗き見しているような、意地悪な目線。 . コスチュームプレイが好きな人には本当にオススメです‼️ 580頁もの分量だけど退屈させない世界観✨18世紀の巴里にタイムスリップ🕰 . . ———————————————— . "Au tour du Monde" . . LES LIAISONS DANGEREUSES . . BOUQUINISTES CREAMCHEESE . ———————————————— . #lesliaisonsdangereuses #laclos #françoischoderlosdelaclos #marieantoinette #frenchliterature #littératurefrançaise #litteraturefrancaise #paris #bouquinistes #couturière #creamcheesecouture #creamcheese #creamcheesebaroque #bouquinistescreamcheese #autourdumonde #fashion #tshirts #tshirtsdesign #sweatshirts #hakusisha #海外文学 #読書 #読書記録 #ラクロ #危険な関係 #マリーアントワネット #白水社 #白水社エクスリブリス https://www.instagram.com/p/BxkDnv5hLxR/?igshid=1wfg12e9mphud
#lesliaisonsdangereuses#laclos#françoischoderlosdelaclos#marieantoinette#frenchliterature#littératurefrançaise#litteraturefrancaise#paris#bouquinistes#couturière#creamcheesecouture#creamcheese#creamcheesebaroque#bouquinistescreamcheese#autourdumonde#fashion#tshirts#tshirtsdesign#sweatshirts#hakusisha#海外文学#読書#読書記録#ラクロ#危険な関係#マリーアントワネット#白水社#白水社エクスリブリス
0 notes
Text
『読書する女たち 十八世紀フランス文学から』 宇野木めぐみ
前々からTwitterで見かけてて読もうか��うか考えてたのを今回読んでみることにした。
18世紀なので1700年代。BSでラッカムとthe society にいる若い女性たちとの会話(とある海賊は人を食べるんですって?本当?)を思い出した。この時ラッカムは、ゴシップ系の(扇情的で低俗な)新聞ではなく本を読めと言ったのだと思うんだけど、記憶違いかも知れない。
さて、この時代の字が読める女性にとって「『読書は、自由の、知の、ときには、公然たる快楽の場であったが、そのかわり概ね、秘密にされねばならなかった』もの(p4 『』内はElisabeth Badinnerからの引用)」で、男性の許可があってこそ出来たものなのだそうだ。何故かと言うとこの時代の医学的言説によると、過ぎた想像力は狂気を呼ぶから(p108)。現代的な考え方からしたら意味不明だが、この時代は本と言えば聖書だし、現実以外を想起させるようなものは絵画や口伝の物語や吟遊詩人とかの詩くらいだったんだろう(私が思いつく限り)から、小説のようなものでガッツリと自分とは違う人生やら生き方やら自分の生きてる世界とは全く違う世界を体験したら、狂気までは行かなくても、脳の切り替えが簡単に出来なくなっても仕方ないかなと思う。私も小説やドラマにどっぷりハマって他の作品を読んだり見たり出来なくなることあるもんね。
今ふと思ったんだが、この時代の識字率の低さは、第一に階級によって本を読む暇なんかなかったりするのと、第二に聖書以外、聖書の教えに準ずるもの以外知る必要がないと言うような考えがあったからではないだろうか。
さてさて、18世紀の女性の教養は、もっぱら子どもたちを教え育てるためものと考えられていたそうだ(p63)。日本の江戸時代と同じだね。そして読書は「徳育」のためのもので、息子には職業と栄光のために読ませ、娘には「気に入られること」のために読ませたそうだ(p79)。
『危険な関係』を書いたラクロは、世間に対して無知な若い女性は失敗を未然に防げるように小説を読めばいいと言っていたそうで(p102)。自分の本の内容と擁護するためなのかどうかは、この宇野木さんの本では言及されてませんが。この時代の小説家の意見としては、小説をお手本にする「理知的」な読書をして若い女性が自分の人生を棒にふらないようにすればいいと言うことでした。
『危険な関係』と『マノン・レスコー』を読みたくなった。この本に出ていた他の本も、読みたくなる時のこと���考えて、著者の分析をきちんとは読まなかった。『危険な関係』は10年以上前に挑戦して読めなかったんだが、いつか再チャレンジしてみようと思う。
1 note
·
View note
Text
松江戦に合わせスポーツ体験イベント いわきFCが11月7、8日
#歌舞伎 #中村松江 [福島民友新聞]サッカーのいわきFCは8日午後1時から、いわき市のいわきグリーンフィールドで行われるJFL第27節で松江シティFCと対戦する。試合に合わせて7、8の両日に同市の21世紀の森公園で行われる「いわきドリームチャレンジ2020」では、スポーツ体験や地元ゆかりの音楽団体などによるステージが開かれる。 7日は、福島レッドホープスの選手を招いた子ども向けの野球教室やヨガ教室を行う。8日は、ラグビーやラクロ ...
0 notes
Video
instagram
LIAISONS DANGEREUSES / LOS NINOS DEL PARQUE : SPAZIALE (12") . 良質な正規復刻業務が続くSpaziale Recordingsからまたまた強力な1枚が!ラクロの小説『危険な関係(Les Liaisons dangereuses)』よりネーミングされたエレクトロニック・ミュージック~ニューウェイヴ、インダストリアルの代表格Liaisons Dangereusesによる1981年の名曲が正規復刻!しかも今回はイタリアのStefano Ritteriが手掛けた新ヴァージョンをカップリング!オリジナルのカッコ良さはもはや説明不要ですが、意外とこの新ヴァージョンも新鮮で使えそう! . https://www.stradarecords.com/shop/item/23353/index.php . #liaisonddangeruses #spazialerecordings #stefanoritteri #remix #ebm #newwave #cosmic #garageclassic #electronic #funk #disco #housemusic #technomusic #12inch #dj #record #vinyl #vinyljunkie #recordcollection #stradarecords #recordshops #recordshop (Strada Records) https://www.instagram.com/p/B-l2YGMgeIr/?igshid=a9xajs97f816
#liaisonddangeruses#spazialerecordings#stefanoritteri#remix#ebm#newwave#cosmic#garageclassic#electronic#funk#disco#housemusic#technomusic#12inch#dj#record#vinyl#vinyljunkie#recordcollection#stradarecords#recordshops#recordshop
0 notes
Quote
『危険な関係』(きけんなかんけい、Les Liaisons dangereuses)は、1782年にフランスの作家コデルロス・ド・ラクロによって書かれた書簡体小説。18世紀後半のフランス貴族社会を舞台に、貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を往復書簡という形で活写した。 なお、ラクロの本職は職業軍人であり、恋の駆け引きの描写は本格的な(軍事的な意味での)心理戦の域にまで達していると評される。
危険な関係 - Wikipedia
1 note
·
View note
Text
ジェラール・フィリップ×ジャンヌ・モロー『危険な関係』4Kリマスター上映
映画『危険な関係』の4Kデジタルリマスター版が、3月24日から東京・YEBISU GARDEN CINEMAで公開される。
1959年に制作された映画『危険な関係』は、18世紀のフランスの作家コデルロス・ド・ラクロの原作をもとにしたもの。1960年代のフランス・パリ上流社会を舞台に、夫婦でありながらも互いの情事の成果を報告しあう奇妙な関係を続けるバルモンとジュリエットの駆け引きを描いてい�� Source: CINRA.NET
View On WordPress
0 notes
Text
玉木宏の裸は「見たことのない美しさ」!舞台共演・高橋恵子&千葉雄大が絶賛
コデルロス・ド・ラクロの書簡小説を原作とする舞台「危険な関係」の公開ゲネプロが10月7日、東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで行われ、出演の玉木宏、千葉雄大、高橋恵子が報道陣による囲み取材に応じた�� 原作は世界各国で設定を変更��何度も映画・舞台化されてきた傑作小説。18世紀末の仏パリ、華麗な社交界に君臨する未亡人のメルトゥイユ公爵夫人(鈴木京香)、希代のプレイボーイであるヴァルモン子 Source: エンタメのニュースまとめ
View On WordPress
0 notes
Text
RakuRo™(ラクロ)観光地向けソリューション【ZMP】
2020年3月9日 RakuRo™(ラクロ)観光地向けソリューション-観光地ならではの快適な移動や多言語でのスポット、グルメ案内などの課題を RakuRo™が低速モビリティ版『CASE』で解決します!- 株式 [...] http://dlvr.it/RRyYz6
0 notes
Text
成田空港で自動運転技術を活用したモビリティの実証実験を実施【ZMP】
2020年2月21日 自動運転モビリティ「RakuRo™(ラクロ)」 株式会社ZMP(代表取締役社長:谷口恒、以下、ZMP)、全日本空輸株式会社(代表取締役社長:平子裕志、以下、ANA)、成田国際空港 [...] http://dlvr.it/RRLTWc
0 notes
Text
RakuRo(ラクロ)でラクチン楽しく移動!!【ZMP】
2020年2月20日 RakuRo(ラクロ)でラクチン楽しく移動!!-公道(歩道)走行可能な“シェア”する自動運転一人乗りロボ、5月発売!- -介護福祉施設・観光地・商業施設・空港等向けに- 株式 [...] http://dlvr.it/RR7pld
0 notes