#インテリジェンスヒストリー
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江崎道朗著『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)
日本版「ヴェノナ文書」が明らかにした戦前の日本外務省のインテリジェンス能力
コロナウイルス禍による外出自粛で、家にいる時間が増えた人たちにおすすめしたい本を紹介する。今回は、評論家の江崎道朗氏の最新刊『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)である。
本書は、日本の外務省アメリカ局が昭和16年に上梓した極秘文書「米国共産党調書」を読み解いたインテリジェンス・ヒストリーだ。 江崎氏はこの調書について、「ルーズヴェルト政権下でソ連・コミンテルン、米国共産党のスパイがどの程度大掛かりな秘密工作を繰り広げていたのか。その全体像を提示しているのがこの『米国共産党調書』だ。ある意味、『ヴェノナ文書』に匹敵するぐらい、衝撃的な内容がここには記されている。」と述べている。 この調書には、コミンテルンが米国共産党を操り、ハリウッドやマスコミから労働組合、教会、農家、ユダヤ人、黒人まであらゆるコミュニティで反日世論を煽った手口を、日本外務省が細部に至るまで把握していたことが描かれていた。 この本を読めば、戦前の日本のインテリジェンス、特に調査・分析能力は優れていたことが分かるだろう。本書から「はじめに」の文章を紹介したい。
インテリジェンス・ヒストリーという新しい学問
「我��はなぜ、中国共産党政府の軍事台頭に苦しまなければならないのか。我々はなぜ、北朝鮮の核に苦しまなければならないのか。こうした共産主義国家がアジアに誕生したのも、元はと言えば民主党のF・D・ルーズヴェルト大統領が一九四五年二月のヤルタ会談でスターリンと秘密協定を結んだことに端を発している。よってルーズヴェルトの責任を追及することが、米国の対アジア外交を立て直す上で必要なのだ」 米国の「草の根保守」のリーダーであった、世界的に著名な評論家・作家のフィリス・シュラフリー女史は二〇〇六年八月、私のインタビューにこう答えた。 この発言の背後には、以下のような問いかけが含まれている。 ○ 現在、東アジアでは中国の軍事的台頭や北朝鮮の核問題が起こっているが、そもそもなぜ、このようなことになってしまったのか、その原因を探っておかないと、再び同じ失敗を繰り返すのではないか。 ○ 中国共産党政府と北朝鮮が誕生したのは第二次世界大戦の後であった。戦前、我々米国は、アジアの平和を乱しているのは「軍国主義国家」の日本であり、日本を倒せばアジアは平和になると信じた。だが、実際はそうならなかったのはなぜなのか。 ○ 言い換えれば、今、中国共産党と北朝鮮がアジアの平和を乱しているが、軍事的に中国と北朝鮮を倒せば、アジアに平和が本当に訪れるのか。 ○ 少なくとも第二次世界大戦で日本を倒せば、アジアは平和になるという見通しは間違いだった。その見通しを立てた当時の米国政府、F・D・ルーズヴェルト民主党政権の見通しは間違いであった。では、ルーズヴェルト政権はなぜ見通しを間違えたのか。 ○ 第二次世界大戦におけるルーズヴェルト政権の対アジア政策を振り返ると、ルーズヴェルト政権は、ソ連に対して好意的であり、一九四五年二月のヤルタ会談においてソ連が戦後、アジアに進出することを容認した。その結果、ソ連の支援によって中国大陸に中国共産党政権が誕生し、朝鮮半島には北朝鮮が生まれた。 ○ では、なぜルーズヴェルト政権は、ソ連に好意的であったのか。当時、ルーズヴェルト政権とソ連との関係はどのようなものであったのか。 このような疑問を抱いて、第二次世界大戦とルーズヴェルト政権、そしてソ連とソ連に主導された国際共産主義運動との関係を検証しようとする動きが米国には存在している。 読者の中には、「ソ連という国はもうなくなったはずでは」「国際共産主義運動とはどういうものか」と、疑問を抱かれる方も少なくないかもしれない。 確かにソ連は一九九一年に崩壊し、現在のロシアになった。ソ連の崩壊とともに共産主義は過去のものになったと日本では言われてきている。 だが、アジアでは、中国、北朝鮮、ベトナムなど、共産党が政権を握っている共産主義国家が今なお現存している。よって共産主義の脅威はまだ続いている。少なくとも同盟国アメリカの中では、そう考えている人が少なくない。 「なぜ第二次世界大戦当時、ルーズヴェルト政権は共産主義を掲げるソ連に好意的だったのか」 この疑問に答える機密文書が、ソ連の崩壊後、次々に公開されるようになった。 一九八九年、東西冷戦のシンボルともいうべきドイツのベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は次々と共産主義国から自由主義国へと変わった。ソ連も一九九一年に崩壊し、共産主義体制を放棄し、ロシアとなった。 このソ連の崩壊に呼応するかのように世界各国は、情報公開を始めた。第二次世界大戦当時の、いわゆる外交、特に秘密活動に関する機密文書を情報公開するようになったのだ。 ロシアは、ソ連・コミンテルンによる対外「秘密」工作に関する機密文書(いわゆる「リッツキドニー文書」)を公開した。この公開によって、ソ連・コミンテルンが世界各国に工作員を送り込み、それぞれの国のマスコミや対外政策に大きな影響を与えていたことが立証されるようになったのだ。 一九一七年に起きたロシア革命によって、ソ連という共産主義国家が登場した。このソ連は世界「共産」革命を目指して一九一九年にコミンテルンという世界の共産主義者ネットワークを構築し、各国に対する秘密工作を仕掛けた。世界各国のマスコミ、労働組合、政府、軍の中にスパイ、工作員を送り込み、秘密裏にその国の世論に影響を与え、対象国の政治を操ろうとしたのだ。 そしてこの秘密工作に呼応して世界各地に共産党が創設され、第二次世界大戦ののち、東欧や中欧、中国、北朝鮮、ベトナムなどに「共産主義国家」が誕生した。その「秘密」工作は秘密のベールに包まれていたが、その実態を示す機密文書を一九九二年にロシア政府自身が公開したのである。 「ああ、やっぱりソ連とコミンテルンが世界各国にスパイ、工作員を送り込み、他国の政治を操ろうとしていたのは事実だったのか」 ソ連に警戒を抱いていた保守系の学者、政治家は、自らの疑念は正しかったと確信を抱き、「ソ連はそんな秘密工作などしていない」と弁護していた、サヨク、リベラル派の学者、政治家は沈黙した。 ロシア政府の情報公開を契機に、米国の国家安全保障局(NSA)も一九九五年、戦前から戦中にかけて在米のソ連のスパイとソ連本国との秘密通信を傍受し、それを解読した「ヴェノナ文書」を公開した。その結果、戦前、日本を追い詰めた米国のルーズヴェルト民主党政権内部に、ソ連のスパイ、工作員が多数潜り込み、米国の対外政策に大きな影響を与えていたことが立証されつつある。 立証されつつあると表現しているのは、公開された機密文書は膨大であり、その研究はまだ始まったばかりだからだ。 誤解しないでほしいのは、第二次世界大戦当時、米国がソ連と連携しようとしたこと自体が問題だったと批判しているわけではない。 第二次世界大戦の後半、ナチス・ドイツを打倒するため、米国はソ連を同盟国として扱うようになった。敵の敵は味方なのだ。共産主義には賛同するつもりはないが、目の前の敵、ナチス・ドイツを倒すために、ソ連と組むしか選択肢はなかった。 問題は、戦後処理なのだ。ルーズヴェルト政権は、ソ連のスターリンと組んで国際連合を創設し、戦後の国際秩序を構築しようとした。その交渉過程の中で一九四五年二月、ヤルタ会談においてルーズヴェルト大統領はこともあろうに東欧とアジアの一部をソ連の影響下に置くことを容認した。このヤルタの密約の��いで終戦間際、アジアにソ連軍が進出し、中国共産党政権と北朝鮮が樹立されたわけだ。 ���なぜルーズヴェルト大統領は、ソ連のアジア進出、アジアの共産化を容認したのか。それは、ルーズヴェルト民主党政権の内部に、ソ連・コミンテルンのスパイ、工作員が暗躍していたからではないのか」 多くの機密文書が公開され、研究が進んだことで、こうした疑問が米国の国際政治、歴史、外交の専門家たちの間で浮上してきているのだ。 ソ連・コミンテルンは、相手の政府やマスコミ、労働組合などにスパイや工作員を送り込み、背後からその国を操る秘密工作を重視してきた。この秘密工作を専門用語で「影響力工作」という。 残念ながら工作員、スパイなどというと、ハリウッドのスパイ映画を思い出すのか、日本ではまともな学問として扱ってもらえない。しかし欧米諸国では、国際政治学、外交史の一分野としてこのスパイ、工作員による秘密工作が国際政治に与える影響について考察する学問が成立している。「情報史学(インテリジェンス・ヒストリー)」という。 こうした学問分野の存在を教えて下さった京都大学の中西輝政名誉教授によれば、一九九〇年代以降、欧米の主要大学で次々と情報史やインテリジェンスの学部・学科あるいは専攻コースが設けられ、ソ連・コミンテルンの対外工作についての研究も進んでいる。 この動きは英語圏にとどまらず、オランダ、スペイン、フランス、ドイツ、イタリアなどにも広がっている。
共産主義の脅威は終わっていない
中西輝政先生らの懸命な訴えにもかかわらず、残念ながら日本のアカデミズムの大勢は、こうした新しい動きを無視している。 後述するが、インテリジェンス・ヒストリーという学問に取り組むとなると、必然的に共産主義の問題を避けて通るわけにはいかなくなる。ところが日本の大学、それも国際政治や近現代史においては今も、共産主義の問題を批判的に扱うと白い目で見られ、出世できなくなってしまう恐れがあるのだ。 こうした現状を変え、 なんとしても世界のインテリジェンス・ヒストリーの動向を日本に紹介したい。そう考えて二〇一七年、『日本は誰と戦ったのか―コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ』(KKベストセラーズ)を上梓した。この本は、著名な政治学者であるM・スタントン・エヴァンズと、インテリジェンス・ヒストリーの第一人者であるハーバート・ロマースタインによる共著Stalin’s Secret Agents(スターリンの秘密工作員・未邦訳)を踏まえたものだ。 エヴァンズらが書いた原著は、日米戦争を始めたのは日本であったとしても、その背後で日米を戦争へと追い込んだのが実はソ連・コミンテルンの工作員と、その協力者たちであったことを指摘している。しかも彼ら工作員と協力者たちは、日米の早期停戦を妨害し、ソ連の対日参戦とアジアの共産化をもたらそうとしていたのだ。 日本からすれば、先の大戦で戦ったのは米国だったが、その米国を背後で操っていたのはソ連だった、ということになる。 しかも、このようなインテリジェンス・ヒストリーの議論を踏まえて国際政治を考える政治指導者が現れた。二〇一六年の米国大統領選挙で当選した共和党のドナルド・トランプ現大統領だ。
共産主義の犠牲者を悼むトランプ大統領
トランプ大統領はロシア革命から百年にあたる二〇一七年十一月七日、この日を「共産主義犠牲者の国民的記念日(National Day for the Victims of Communism)」とするとして、ホワイトハウスの公式サイトにおいて、次のような声明を公表した。 《本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボル���ェビキ革命から百周年を記念するものです。 ボルシェビキ革命は、ソビエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。 前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は一億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。 このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。 今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。 彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します》(邦訳はドナルド・トランプNEWSによる) 日本のマスコミが黙殺した、この声明のポイントは四つある。 第一に、ロシア革命百周年に際して、改めて共産主義の問題点を強調したことだ。その背景には、米国で現在、共産主義に共鳴し、自由主義、民主主義を敵視する風潮がサヨク・リベラル側の間で強まっていることがある。 第二に、二十世紀において最大の犠牲者を生んだのは戦争ではなく、共産主義であったことを指摘したことだ。 第三に、共産主義の脅威は現在進行形であることを指摘したことだ。日本では東西冷戦の終了と共に、共産主義の脅威はなくなったかのような「誤解」が振り撒かれた。だがトランプ大統領は、共産主義とその変形である全体主義の脅威が北朝鮮、そして中国において現在進行形であることを理解している、極めて珍しい指導者なのだ。米中貿易戦争の背景には、共産主義に対するトランプ大統領のこのような見解がある。 そのうえで第四に、アメリカ・ファーストを掲げ、国益を第一に考えるが、共産主義・全体主義と戦う同盟国と連携し、「世界の」自由を守る方針を貫くと表明したことだ。
ソ連・共産主義体制の戦争責任を追及する欧州議会
この「共産主義体制��断固戦う」と宣言したトランプ大統領と全く同じ趣旨の決議を採択したのが、ヨーロッパの欧州議会だ。 第二次世界大戦で戦勝国となったソ連は戦後、ナチス・ドイツを打ち破った「正義」の側だと見なされてきた。 だが冷戦終結後、旧東側諸国の民主化が進むに伴い、旧ソ連、共産主義体制の戦争犯罪の実態が知られるようになっていく。バルト三国、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどの旧共産圏の国々が戦時中のソ連の戦争犯罪、そして戦後のソ連と共産党の秘密警察による人権弾圧の実態を告発する戦争博物館を次々に建設しているのだ。 その影響を受けて、「ソ連・共産主義の戦争責任、人権弾圧を正面から取り上げるべきだ」という議論がヨーロッパで起こっていて、ヨーロッパの政治をも揺り動かしている。 例えば、第二次世界大戦勃発八十年にあたる二〇一九年九月十九日、欧州連合(EU)の一組織である欧州議会が、次のような「欧州の未来に向けた欧州の記憶の重要性に関する決議(European Parliament resolution of 19 September 2019 on the importance of European remembrance for the future of Europe)」を採択している。 《第二次世界大戦は前例のないレベルの人的苦痛と欧州諸国の占領とをその後数十年にわたってもたらしたが、今年はその勃発から八十周年にあたる。 八十年前の八月二十三日、共産主義のソ連とナチス・ドイツがモロトフ・リッベントロップ協定と呼ばれる不可侵条約を締結し、その秘密議定書で欧州とこれら二つの全体主義体制に挟まれた独立諸国の領土とを分割して、彼らの権益圏内に組み込み、第二次世界大戦勃発への道を開いた》 ソ連は第二次世界大戦を始めた「侵略国家」ではないか。そのソ連を「正義」の側に位置付けた「ニュルンベルク裁判」は間違いだとして、事実上、戦勝国史観を修正しているのだ。 実際、ソ連は第二次世界大戦中、ヨーロッパ各国を侵略・占領した。決議はこう指摘する。 《ポーランド共和国はまずヒトラーに、また二週間後にはスターリンに侵略されて独立を奪われ、ポーランド国民にとって前例のない悲劇となった。 共産主義のソ連は一九三九年十一月三十日にフィンランドに対して侵略戦争を開始し、一九四〇年六月にはルーマニアの一部を占領・併合して一切返還せず、独立共和国たるリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した》 ソ連の侵略は戦後も続いた。戦時中にソ連に占領されたポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)では、知識人の処刑、地元住民に対する略奪・暴行などが横行した。 しかも第二次世界大戦後、ソ連に占領されたこれらの国々では、ソ連の武力を背景に共産党政権が樹立され、ソ連の衛星国にされた。だが冷戦終結後も、ソ連と国際共産主義の責任は追及されてこなかった。よってこう指摘する。 《��チスの犯罪はニュルンベルク裁判で審査され罰せられたものの、スターリニズムや他の独裁体制の犯罪への認識を高め、教訓的評価を行い、法的調査を行う喫緊の必要性が依然としてある》 ソ連もまた悪質な全体主義国家であり、その責任が追及されてこなかったことは間違いだったと、欧州議会は認めたのだ。そしてソ連を「正義」の側と見なした戦勝国史観を見直し、旧ソ連と共産主義体制の責任を追及せよ。こう欧州議会は提案しているのである。
日本版「ヴェノナ文書」の存在
実はこのソ連・国際共産主義の秘密工作の実態を当時から徹底的に調べ、その脅威と懸命に戦った国がある。国際連盟の常任理事国であったわが日本だ。 コミンテルンが創設された翌年の一九二〇年、日本は警察行政全般を取り仕切る内務省警保局のなかに「外事課」を新設し、国際共産主義の秘密工作の調査を開始した。一九二一年二月には、内外のインテリジェンスに関する調査報告雑誌『外事警察報』を創刊する。 内務省警保局と連携して外務省もソ連・コミンテルンの対外「秘密工作」を調査し、素晴らしい報告書を次々と作成している。 その代表作が本書で紹介している『米国共産党調書』である(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10070014000、米国共産党調書/1941年(米一_25)(外務省外交史料館)」)。 ルーズヴェルト政権下でソ連・コミンテルン、米国共産党のスパイがどの程度大掛かりな秘密工作を繰り広げていたのか。その全体像を提示しているのがこの『米国共産党調書』だ。ある意味、「ヴェノナ文書」に匹敵するぐらい、衝撃的な内容がここには記されている。 あの外務省が、コミンテルンや米国共産党に関する詳しい調査報告書を作成していたと聞いて驚く人もいるかもしれない。しかもその内容たるや、スパイ映画顔負けのディープな世界が描かれている。 「戦前の日本外務省や内務省もなかなかやるではないか」という感想を持つ人もいれば、「これは本当に日本外務省が作成した報告書なのか」と絶句する人もいるだろう。 どちらの感想を持つにせよ本書を読めば、戦前の日本のインテリジェンス、特に調査・分析能力は優れていたことが分かるはずだ。 同時に、その調査・分析を、戦前の日本政府と軍首脳は十分に生かせなかったこともまた指摘しておかなければならない。対外インテリジェンス機関がいくら優秀であったとしても、その情報・分析を政治の側が生かそうとしなければ、それは役に立たないのだ。 近年、日本も対外インテリジェンス機関を創設しようという声を聞くが、いくら優秀な調査・分析ができるようになったところで、政治家の側がそれを使いこなす大局観、能力がなければ宝の持ち腐れになってしまう。その意味で、政治家のインテリジェンス活用能力をいかに高めるのか、という課題も問われなければならない。 本書を通じて戦後、ほとんど顧みられなかった戦前の我が国の対外インテリジェンスに対する関心が高まり、日本の機密文書を踏まえた「インテリジェンス・ヒストリー」が発展していくことを心より願っている。 江崎道朗(えざき・みちお) 評論家、拓殖大学大学院客員教授。1962(昭和37)年東京都生まれ。九州大学卒業後、月刊誌編集、団体職員、国会議員政策スタッフを�� めたのち、現職。安全保障、インテリジェンス���近現代史などに幅広い知見を有する。論壇誌への寄稿多数。2019年第20回正論新風賞受賞 。最新刊は『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)。
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身体のメンテナンス前に、、やはり、情報史学、触れてみたい。 #japan #book #donut #情報史学 #インテリジェンスヒストリー (ミスタードーナツ) https://www.instagram.com/p/CXpOkEfvWEz/?utm_medium=tumblr
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【7月24日配信】江崎道朗のネットブリーフィング「安倍内閣倒閣メディア・スクラムと戦う一番簡単な方法は~インテリジェンスヒストリーの重要性」おざ…より抜粋
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ルーズヴェルト大統領、四つの大罪 文/江崎 道朗 米大統領人気ランキング上位のルーズヴェルト大統領の実態とは……。驚きの真実をあぶり出す、インテリジェンスヒストリー! 『日本は誰と戦ったのか』 を上梓した江崎道郎氏が日米開戦の新たな事実を語ります。 ところが、共和党、特に共和党を支持する保守派から見たルーズヴェルト大統領は英雄どころか、憲法で定められた民主主義の原則を踏みにじった、とんでもない政治家です。 第一に、ジョージ・ワシントン初代大統領が三期目の立候補を辞退したことを慣例として、合衆国大統領の任期は二期までとする「二期退職の伝統(The Two Terms Tradition)」をルーズヴェルトが破ったことへの批判があります。 二期退職の伝統は、合衆国憲法の条文にはありませんでしたが、憲法というものは、条文、つまり憲法典に何が書いてあるかということと同時に、慣例と運用も重要です。 二期退職の伝統は、権力の集中・独占と濫用を抑制する手段として長く受け入れられてきたものでした。 ちなみに、ルーズヴェルトの三選・四選は第二次世界大戦と重なっていたという事情もあって、憲法上の問題はないとされましたが、戦後すぐに連邦議会で大統領三選を禁じる憲法修正二十二条が可決されています。「条文で禁じられていないのだから建国以来の伝統を破ってもいいのだ」というルーズヴェルトのような暴走を封じるために、はっきり条文で多選を禁じるようになったのです。 第二に、大恐慌後の不況脱出のためと銘打ったニューディール政策が、民間の経済活動に政府が介入して統制する社会主義的な政策だったことです。 ルーズヴェルトは経済を立て直すという名目のもと、「ニューディール(新規まき直し)」と称して、テネシー川流域開発公社、民間資源保存局、公共事業促進局などの機関を作り、生産・供給の統制、価格調整など、社会主義的な政策を次々と打ち出していきました。また、大規模公共事業を起こして大量の失業者を雇用しました。 これらの政策に伴って連邦政府機関は肥大、つまり官僚が急増し、人数が増えたリベラル派の官僚たちの権限も大きくなりました。 第三に、外交政策の失敗です。 大統領一期目の最初の年にソ連を国家承認し、第二次世界大戦に参戦してからは同盟国としてソ連に膨大な援助を与えて肥え太らせました。中国では中国国民党の蔣介石(しょうかいせき)政権から中国共産党の毛沢東(もうたくとう)支援に乗り換えて、戦後のソ連と中国共産党の台頭を招きました。 しかもそのような外交を行うにあたって、連邦議会を無視し、国務省すら通さない密室外交の手法も使われました。その最たるものが、一九四五年、ソ連領のヤルタで行われた、英米ソ三か国首脳によるヤルタ会談です。ヤルタ会談でソ連は東欧諸国を手に入れ、おびただしい人々が鉄のカーテンの向こうで圧政と暴力に苦しむことになりました。 また、ルーズヴェルトがヤルタ会談で署名したアジア協定は、ソ連がほぼノーコストで中国大陸・南樺太(からふと)・千島列島を手にすることを認めたものでしたが、連邦議会の承認を得ることなく秘密裏に締結され、国民に��一切知らされませんでした。これは、民主主義国家の基本原則を踏みにじる行為です。今なら、「大統領による独裁政治を許すな」と抗議デモが起こってもおかしくないほどの暴挙でした。 このヤルタ密約の存在とその内容が明らかになったのは終戦の翌年のことです。 第二次世界大戦で、アメリカは軍事的には勝ちました。ヨーロッパではナチス・ドイツを降伏させ、アジアでは大日本帝国を倒しました。 しかし、ヨーロッパの半分はソ連の勢力圏になり、アジアでは共産主義の嵐が吹き荒れて、平和を取り戻すどころか朝鮮戦争とベトナム戦争でさんざん苦戦させられる羽目になっていたのです。 朝鮮戦争もベトナム戦争も、��二次世界大戦の結果、満洲・中国・北朝鮮がそっくりソ連のスターリンの手に落ちたからこそ起きた戦争です。 前述したように、アメリカのアジア政策は、強い日本がアジアを安定させるとする「ストロング・ジャパン派」と、日本を抑え込み、弱らせることでアジアが平和になるとする「ウィーク・ジャパン派」が対立していました。 ルーズヴェルトは「日本を押さえつけて弱くすればアジアは平和になる」ウィーク・ジャパン政策を押し進めました。徹底した対日強硬策で日本に圧力を加え、ついには戦争で降伏させました。 この政策が正しかったのならアジアは平和になったはずですが、実際にはアジアでは共産主義の圧政が広がり、戦争も続発したのですから、「ルーズヴェルトの外交政策は誤っていた」と批判されるのは当然でしょう。 第四に、ルーズヴェルトが作り出したニューディール連合という政治勢力による、言論の自由や学問の自由の圧殺と歴史の捻じ曲げです。 ルーズヴェルトの長期政権の間に、リベラル派官僚が強大な権限を持つようになり、労働組合員の数が急増しました。これらの勢力とリベラル派のマスコミが結びついた巨大な政治勢力を「ニューディール連合」と言います。 このニューディール連合が、ルーズヴェルト政権以来、戦後に至るまで、アメリカの政治・アカデミズム・マスメディアを牛耳っていて、ルーズヴェルトへの批判をタブー視してきたのです。 簡単に言えば、保守派の立場からルーズヴェルト大統領を批判する学者は大学では出世できず、マスコミにも登場させてもらえず、ルーズヴェルト批判の原稿は新聞でも掲載されませんでした。 日本の大学やメディアが左傾化しているとよく言われますが、アメリカの学界とメディアの左傾化は日本より激しいと言えます。 ルーズヴェルト民主党政権の間に構築されたサヨク的なニューディール連合が官界や学界やメディアをがっちりと押さえ込んでしまった結果、戦後のアメリカの新聞には産経新聞にあたるものすらないのが実態です。 『ワシントン・タイムズ』という保守系の新聞があることはありますが、影響力はそれほど大きくありません。テレビも同様の偏向ぶりで、たとえばCNNは保守派からは「コミュニスト・ニュース・ネットワーク(共産主義者のニュース・ネットワーク)」と揶揄されています。 アメリカ人に聞く歴代大統領の人気ランキングのような調査では、ルーズヴェルトが常に上位三位に入る高評価を保ってきた一方で、チャールズ・ビーアド博士という歴史学会会長を務めたほどの重鎮の���史学者でさえ、ルーズヴェルトを批判する『ルーズヴェルトの責任』(前掲)を書いたために、ビーアド自身だけでなく家族までが酷い迫害を受けたと言われています。
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江崎道朗先生の寄稿よりシェア 「リメンバー・パールハーバー」は変遷している 真珠湾攻撃は日本のだまし討ちではない? 驚きの真実をあぶり出す、インテリジェンスヒストリー! 『日本は誰と戦ったのか』 を上梓した江崎道朗氏が日米開戦の新たな事実を語ります。 歴史見直しが始まっている! 歴史というものは、新資料の公開や研究の進展によって次々と見直されていきます。 たとえば、日米戦争の発端となったパールハーバー、つまり真珠湾攻撃がその代表です。一九四一年十二月、日本軍が真珠湾攻撃をした当時、それはアメリカにとって「卑劣なだまし討ち」でした。 ところが、その後、アメリカの著名な歴史学者チャールズ・ビーアド博士が一九四八年に『ルーズベルトの責任』(邦訳は藤原書店、二〇一一年)を書き、大意、次のようなルーズヴェルト謀略論が登場します。 「時のルーズヴェルト大統領は暗号傍受により、日本軍による真珠湾攻撃を知っていたのに、対日参戦に踏み切るため、わざと日本軍攻撃のことをハワイの米軍司令官に知らせなかった」 その後もアメリカでは真珠湾攻撃について議論が続いてきました。 平行して一九六二年、ハワイの真珠湾では、真珠湾攻撃によって撃沈された戦艦アリゾナの近くにアリゾナ記念館が建てられ、真珠湾攻撃で亡くなった方々を慰霊するとともに、一九八〇年にはアメリカ合衆国国立公園局によってビジター・センターが建てられ、真珠湾攻撃に関する歴史展示館が併設されました。 真珠湾攻撃五十年にあたる一九九一年十二月七日、このアリゾナ記念館ビジター・センターにおいて、ジョージ・W・ブッシュ大統領が参加して記念式典が開催されました。 この式典開催にあたって大きな議論が行われました。 式典の名称を「真珠湾攻撃(Pearl Harbor attack)五十年式典」とするか、それとも「真珠湾五十年式典」とするのか、ということです。問題になったのは、「攻撃(attack)」という言葉です。 日本はソ連を相手にした冷戦において同盟国だ。その日本を非難するかのような式典の名称はどうなのか。特にハワイにおいては日系人たちが多数活躍しており、日本を敵視するような式典は控えるべきだろう。 今回で五十年も経ったことだし、この際、「攻撃」という言葉は外して、日本の「だまし討ち」を批判するのではなく、いついかなるとき、外国から攻撃をされるかもしれない。そのことを念頭に国防の重要性を理解する記念式典にその趣旨を変更すべきだ。 ──そんな議論が行われたのです。 結果として、式典の名称からは「攻撃」という言葉は削られました。そしてブッシュ大統領の記念演説も国防の重要性を強調するものでした。私もこの式典に参加し、その経緯を取材しましたが、アリゾナ記念館の関係者はこう述べていました。 「同盟国の日本をいつまでも批判するのは得策ではないのだ。それに真珠湾攻撃の当時はわからなかった歴史的な経緯も判明してきていて、真珠湾攻撃を『日本軍による卑劣なだまし討ち』と非難するのも適当ではない。ただし、真珠湾攻撃を受けた当時の軍人たちが生きているうちは、真珠湾攻撃に関する『神話』、つまり日本軍による卑劣なだまし討ちという評価を変えることは難しいだろう」 この発言には、三つのポイントがあります。 第一に、歴史の評価は、政治的な関係によって変わっていくということです。アメリカからすれば、日本は同盟国、大事な友好国です。その同盟国を批判する歴史観は打ち出しにくいと言っているのです。 昔は仲が悪く、その人のことを悪く言っていたが、今は友人なので、悪口は言わないようにしている、ということです。確信的な反日派を別にすれば、アメリカの大半は、仲良くなれば、その歴史観を変更してくれる、実に「友人」を大事にする国なのです。 第二に、そもそもアメリカの歴史学者たちが批判しているように、真珠湾攻撃は日本軍による卑劣なだまし討ちなどという簡単なものではありません。真珠湾攻撃に至るまでに日米両国の間では激しいやり取りがあり、戦争が起こるのは不可避であったと考えられるようになったのです。そうした歴史研究の成果をさすがに無視することはできないと考えるアメリカ人が増えてきているということです。 第三に、アメリカは軍人の国で、退役軍人たちの政治的影響力は絶大です。そのため、真珠湾攻撃を受けた当時の軍人たちが生きている間は、表立って歴史を見直すことはできない、ということです。これは言い換えれば、第二次世界大戦当時の軍人たちがいなくなれば、歴史の見直しが進んでいく、ということでもあります。。 真珠湾攻撃から七十六年後、真珠湾五十年式典から二十六年が経った二〇一七年九月、久しぶりに私は、ハワイのアリゾナ記念館を訪問しました。アリゾナ記念館ビジター・センターの展示の担当者から説明を聞きながら、歴史展示も見学したのですが、目を引いたのは、その入り口に飾られていた一枚の解説板でした。そこには、こう記されていたのです(著者の私訳)。 「迫りくる危機」アジアで対立が起きつつある。旧世界の秩序が変わりつつある。アメリカ合衆国と日本という二つの新興大国が、世界を舞台に主導的役割を取ろうと台頭してくる。両国ともに国益を推進しようとする。両国ともに戦争を避けることを望んでいる。両国が一連の行動をとり、それが真珠湾でぶつかることになる。 真珠湾攻撃は、日米両国がそれぞれの国益を追求した結果起こったものであるとして、日本を「侵略国」であると決めつけた東京裁判史観を事実上、否定しているのです。 このビジター・センターを管理しているのは歴(れっき)としたアメリカの政府機関です。 正式には、アメリカ合衆国国立公園局と言って、この公園局が専門家に委嘱して展示内容を決定しています。担当者は「できるだけ史実に沿って歴史的な事実を描こうとしている」と説明してくれました。 日本人が知らないだけで、アメリカではさまざまなレベルで、「真珠湾攻撃=卑劣なだまし討ち」説や東京裁判史観が見直されているのです。ハワイには、在日米軍を含むアジア太平洋地域を管轄するアメリカ太平洋軍司令部があります。 この太平洋軍司令部の情報将校だった方々とも、分厚いステーキを食べながら、いろいろと話をしました。そこで、アリゾナ記念館の展示について話をしたら、日米戦争が両国の国益の���突であったというのは当然の話であり、何か問題があるのかという顔をされました。 戦後も七十年が過ぎ、当時はわからなかった経緯も知られるようになるにつれ、アメリカでは、日米戦争についての評価も自ずと変わってきているのです。
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