#イロリ
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イロリさんはTwitterを使っています: 「https://t.co/uGnsqnb6Ww」 / Twitter
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イロリ
囲炉裏(いろり)は、日本の伝統的な暖房器具および調理器具の一種です。一般的に、家屋の床の一部をくぼませ、そこに鍋や釜などをかけるための鉄鉤(かぎ)を吊るした構造をしています。主に暖をとるための熱源として利用されます。中央の炉に火をおこし、その周りに家族や来客が集まって、暖をとったり、料理をしたりします。煙は天井に設置された煙出しから屋外に排出されます。調理器具としても使用されます。鍋や釜をかけて煮炊きをしたり、魚や肉を焼いたりすることができます。また、囲炉裏の上に設置された鉄鉤からは、お湯やお茶を沸かすためのやかんが吊るされています。
手抜きイラスト集
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【iroriアプリ】 . 今週も沢山のご来店ありがとうございました。 第3月、火曜日は連休です。 . ご予約はiroriアプリからして下さい。 アプリがない方は App StoreかGoogle play storeからダウンロードして下さい。 . アプリで予約一杯でも お電話で予約取れる時もあります。 . 特にカラーのみのお客様は アプリで予約取れない日でも お電話☎️下さい! 予約取れる日も多いので! . よろしくお願いします。 . . . . #島根#松江#出雲#米子#美容院#美容室#サロン#ヘアサロン#ヘアー#ヘアーカラー#ヘアースタイル#hair#haircolor#hairstyle#スナップ#写真#irori#イロリ #出雲美容室#ヘアセット#ヘアアレンジ (irori) https://www.instagram.com/p/ByzprUsH-e2/?igshid=1k6w1nrw06d9z
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砥部焼千山窯といろいろ展 5/1〜5/29 民陶で知られる伝統的な砥部焼の作風の千山窯さんのほか、様々な砥部焼作家さんの作品が並びます。 つるんと輝く質感が気持ち良く、かつてのイメージよりずっと軽やかな器も豊富です😊 使い勝手の良い作りが多く、手に取るたびにお料理が思い浮かぶようです。 ぜひ5月中に一度、お出かけくださいませ。 #銀座で砥部焼 #砥部焼 #和食器 #千山窯 #大西陶芸 #一夢工房 #イロリ工房 #陶房遊 #studioecco https://www.instagram.com/p/Cc7wsFhPoo5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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マジか! (イロリ村 89画廊) https://www.instagram.com/p/CVzOyxuvQh0/?utm_medium=tumblr
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2020/02/04
【節分の日に】
今年こそは!自分で巻き寿司を作るんだ!
と意気込んだものの、仕事が終わって帰るまでに、
「一人じゃけん、作るのたいそいだろぉ。帰りに寿司とりこいだぁ。」
と、ついでに私の分まで巻いていただいて、巻き寿司をおすそ分けいただいた節分の日。
今年もやっぱりいただいて。自分以外の人が作ってくださる料理のうれしさを感じる節分の日。
薄暗い家に帰ると、玄関先にあれ?鍋と巻き寿司がポツンと。
このお鍋は、あのご近所さんだ。そばごめのお汁に巻き寿司一本。
これもまたうれしいおすそ分けをいただいて。
なので、毎年自分で作ったことがなくて、全く料理の腕は上達しないけれど、いただいたお寿司をいただきながら、中に入っている具を観察して、次回自分が作るための勉強は忘れずに。
「ほんけ、昔からの人はの、畑にあるほうれん草やニンジン、高野豆腐や椎茸を甘かろうに炊いたんを入れて、わぁでこっさえた大根のつけもん、卵入れての。そこ豆(落花生)を潰したんに砂糖混ぜたんを一緒に巻き込んで作りよるの。」
基本は、今畑や家にあるつけもんを使って、作るんだそう。さすが木頭。自給率高めの巻き寿司。
そして、寿司と一緒にいただいた、立春1日前にいただいた、小さい春の味。
「今年っちゃぬくいけんのぉ。山行ったらもう、フキノトウ出とったけん、蕗味噌こっさえたわだ。ちょっと早い春の味じゃのぉ。」
毎年いただく、地域の方の手作りの蕗味噌。蕗がよく香って、まろやかな蕗味噌。実は、毎年のお楽しみの一つ。今年は早めにやってきた。
フキノトウを刻んで油で炒めて、火にかけたまま、味噌を入れて、生卵を落として、混ぜるだけ。ふわっと香るフキノトウの匂いが、小さな春を感じさせてくれます。
木頭の節分は、どんなだったんだろうと、私の木頭のバイブルである本を開くと、こう書いてありました。
『夕方焼きくさしと言ってイワシとヒイラギの葉を割竹にはさみ家の入り口に立てた。家���門にはケンドかカゴをおいた。これは鬼のこぬまじないでした。晩には豆をまき”鬼は外、福は内”と唱えた。豆をイロリで焼いて白く焼ければ晴、黒く焼ければ雨トイう天気予報を売らない習慣があった。(天気うらないでは正月から十二月まで、豆を十二個とって正月二月と順次にイロリの熱い灰の中で焼いて黒くなった月は雨の日が多い。また、塩r区なれば晴れの日が多い日でもあると言われていた。)』(ふるさとを探ねて その三 年中行事より)
木頭の節分は、昔からこうやって、玄関先に鬼を寄せ付けない飾り付けをして、その年の天気の予報までしていたんだそうです。
今年も、早速たくさんの福をいただいて、いただいてした、節分でした。
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今回再確認したが、今期廃盤のユニフレームのイロリ再販希望。再販希望の人はシェアしてくださいな。 #神戸 #キャンプ #outdoor #kobe #camp #アウトドア #焚き火 #イロリ #ユニフレーム #uniflame
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このあいだ初めて行った和泉ブルワリーのタップスタンド、Beer Celler Tokyo。駅からほどよく歩いた住宅街の中なのでご近所だという常連さんばかり、そんな中に混ぜてもらい楽しくお話しして飲んできました。
スペイン人オススメの雪女とエクリプティックのビールをお買い上げ、その足でイロリへ向かい試飲会(笑)また行きたいな〜!
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オセロメー
1 俺��生まれた国では太陽は生贄を求める神様で、その下にはすべてが平等だった。朝も昼も夜も誰かが殺されて、棄てられた体をなおも太陽は照らし続けた。この国に来たころ、殺人が夜に起きるのが新鮮だった。この国の太陽は俺の生まれた国より遥かに弱々しいのに人を守る神として空にある。太陽が殺しに秩序をもたらすなんて。スギモトが雨と泥と人間の何かを浴びて重たそうな体で帰ってきたとき、俺はそんなことを思い出した。 ソファの前に立ったスギモトが手を伸ばしてくる。俺は寝そべったままわざとらしく眼前に両の掌を掲げた。降参のポーズだ。 「なあに?」 「クルマのキー出せ。捨てに行くから」
何をさ。まあ死体か。そうだよな。スギモトの体から蜂蜜みたいに粘度のある怒りが滴り落ちて、床にどす黒いしみが広がっていく。幾度となく目にしたこの暗さに俺の心は怯えて縮む。外の雨はずっと強くなるばかりだ。太陽はもう、弱い人間を守らない。ソファから立ち上がり膝を押さえて上半身を支える。そうしないと立ち上がれなかった。心はどんなに怯えていても体は平気なふりをしなければならない。そうして心と体を力づくで剥がすことを繰り返して、俺の心と体はもうぴったりひとつには戻れなくなっている。 「俺も行くよ」スギモトからぼとぼとぼとぼとぼとぼと怒りが落ちる。「来なくていい」俺はつとめて、いつも通りに聞こえるようゆっくり喋る。「人ひとり捨てるのって結構大変よ。道具とかも準備しなきゃいけないし。準備は俺がやっとくからスギモトは着替えてきな」 何か言いたげなスギモトの背中を見送ってからキッチンに向かう。お湯を沸かしてコーヒーをドリップする。いつもより丁寧にケトルから湯を線にして垂らす。しっかり蒸らして泡が中央に盛り上がるようにゆっくり抽出する。最後まで抽出しきると雑味が出てしまうから、コーヒーが落ち切る前にドリッパーを外してタンブラーに移す。スギモトのために蜂蜜を垂らしてやった。 ついさっきまで人間だったものは玄関先に転がっていた。暗くて血と泥の区別がつかない。上半身はうつ伏せで、腹から下をよじるようにして下肢を投げ出していた。腰と肩はしっかりと張っていて頑健そうな体つきが見て取れる。久しぶりに見る死体はなんの変哲もなくむしろ五体満足で損傷も少なそうで、そんなことを考える俺の方が変わってしまったことを知る。傍に���り捨てられたスギモトのバイクが所在なさげに雨に打たれていた。 二往復してバイクと死体をガレージに運び、死体をビニールシートに包んだ。スコップと一緒に幌付きトラックの荷台に積み込む。死体は岩のように重く、力任せに放り投げるかたちになった。 そのまま室内に戻るとスギモトがうつむいてソファに腰掛けていた。 両手でスギモトの頬を挟んで、額と頬に落ちた髪を払う。目尻からこめかみに向かうきつ���カーブを撫でて、がらんどうの瞳を覗きこんだ。闇夜が窓の外でごうごうと鳴る。額を合わせるとスギモトの腕が俺の腰に回されて、俺たちはしばらくそうしていた。
2 年代物のクルマはキーを2、3度ひねらないとエンジンがかからない。それでも山の段々畑でビーツ栽培をやっているナガクラじいさんにもらった日本製の幌付きトラックを俺とスギモトはそれなりに大切に扱っていた。 入りの悪いラジオから甘い歌が流れ出す。 「なんで歌のネタって恋愛が多いんだろうね? 靴下が片方なくなる歌とか好きなもの食べすぎてゲロ吐いた歌とか泥まみれの愛犬を嘆く歌とかあってもいいと思わない?」俺は北へハンドルを切る。この辺の道は整備なんてされてないから、先代のボロいミニバンの時はケツが痛くてやってられなかった。 ややあって、スギモトはゆっくり答えた。「売れねえだろ普通に」弾力を感じるその声に、緊張の糸が少し緩む。俺は間違えずに物事を進められている。「リスの可愛さを讃える歌とかは売れるかも知れないじゃん」「いやニッチすぎ」「ふふ。あ、そこのタンブラーにコーヒー入ってるよ。熱いから気をつけて」「わりいな、もらう」 ふうふうと冷ましながらコーヒーをすするスギモトからはもう泥はこぼれていない。けれど夜より暗い怒りはまだ残っていた。あと少しだ。 道を囲む森林が背後に飛びすさってゆく。フロントガラスに当たる水量が減ってきて、俺はワイパーをローにした。山ーーアシリパちゃんたちは雨の山と呼ぶーーーの中腹にある車道にほど近い山小屋を目指す。かつてはニヘイのおっさんが使っていたが、奴が狩場を移してからは無人のままだ。わけもなくしけた気分の時に俺は時々ここで時間を潰す。 今の俺たちは北米の田舎に住む日系人ふたりにすぎないが、俺たちの生まれは麻薬の国だ。俺はクソガキ時代に強盗で収監されて以来脱走しては刑期が伸びるようなケチな悪党で、スギモトは中規模カル��ルの武闘派構成員だった。5年前の麻薬戦争で悪魔のような活躍を見せた男の名前は脛に傷持つ身なら誰もが知っている。エル・エニクス。不死身のスギモト。9割が死ぬような修羅場を何度も生き延び、RPGを打ちこまれても死ななかったとかジャガーの檻に入れられて素手で生き残ったとか、瀕死の重傷を負っても翌日には暴れ回っていたとか嘘か本当かわからない噂がまことしやかに流れていた。 俺たちは北米にあるという先住民の隠し金塊の噂を求めて行きあった。故郷に帰るという豪胆な女の子と3人で国境を越え、そこから縁があって長いこと一緒にいる。 雨は止んだが相変わらず月は出ない。タイヤが山道を噛む。文明のものが一才消え、視界はいよいよ森だけだ。左右にあるはずの森が膨らみ、俺たちを覆い尽くして飲み込もうとしているかのような錯覚に襲われる。 俺の不安がスギモトに伝わらないようにゆっくりと息を吐いた。スギモトをこっち側に引き戻すにどんな言葉を連ねればいいだろう。 「そういえば」 「ん」 「俺ねえ、スギモトと知り合う前“俺は不死身のスギモトの友達だ”つって寸尺詐欺はたらいたことあったよ」 「俺と会う前から俺に迷惑かけてたのかよ」 「あはは。ギャングに絡まれた時とか“俺は不死身のスギモトだ”ってハッタリかましたこともあったわあ。まあ信じてもらえなかったけど。その後しばらく俺の周りで不死身のスギモト名乗るの流行ったよ。何人かマジで行方不明になった」 「お前らほんとしょーもねえな」 パンツのポケットから飴を取り出して、「これで許してえ」と言ってスギモトの手に握らせた。一昨日買った飴は俺の体温で変形している。 スギモトは飴を口の中で転がしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。 「アシリパさんのとこに卵届けに行ったら」「うん」「帰りにさ、脱輪してるクルマがいたんだよ。キロランケの家と岩山の途中にさ、湿地になってるとこあるだろ。あそこで。オッサンがクルマから降りてぼーっとしてるから、声かけてスペアタイヤに交換するの手伝ってやって」「うん」「オッサン、すごい酒くさくて。タイヤ交換するまではよかったんだけど、帰ろうとしたらめちゃくちゃ絡んできて。銃とか出して。最初は俺のこと舐めてんだろとか、そんなだったんだけど」「うん」「すぐ拳銃振り回して俺はすげえんだ…去年は先住民の女を…その、暴行して、山に置いてきたって」 スギモトの言葉が激烈な熱を帯びて、体からどす黒いオーラがマグマのように吹き上がる。 言葉を選ぶ良心と、まがまがしい殺意。スギモトはそのふたつを矛盾したまま抱えた男だった。俺はただのゴミだがこいつはちょっと複雑だ。 「ああ、わかったよスギモト。後ろに乗ってるのはそのオッサンてわけね」
3
半年前、雪に覆われたこの山で死体がひとつ見つかった。アシリパちゃんの遠い親戚で、3人の子どもの母親だった。どこからか駆けてきて肺が凍り血を吐いて死んだ。生きているうちに暴行された跡があり、足跡は途中から雪崩に消されていた。 この居留地には警官が6人しかいない。それを知った時はどこにでも見捨てられた土地はあるもんだと妙に安心した。富める国アメリカにもこんな場所があるのなら俺らの生まれ故郷がゴミ溜めなのは当たり前だ。なんたってここは面積で約9000㎢、人口にして約30000人が暮らす土地なのだから。俺の知る警官は職務怠慢というわけではなかったがこの土地で起きる事件全てを解決するという意思はなかったし、誰も彼らにそれを期待していなかった。暴行犯は掘削所の警備員だとかピューマの毛皮を狙うハンターだとか、噂だけは膨らんだが証拠はひとつもなく解決には至っていない。 アシリパちゃんは奥歯を噛み締めて泣いていた。植物の染料で顔に文様を描くのが彼女らの弔いの正装らしく、涙と鼻水が染料を溶かして紫の雫になって彼女の足元に滴った。悲しみと何より地の底から湧き上がるような怒りが、その小さな体を突き破って今にも噴出しそうに見えたのをよく覚えている。 山小屋は道路から程近く、クルマを路肩に寄せて俺は荷物を、スギモトは死体を背負った。ぬかるむ獣道を踏みしめて5分ほど歩く。足を踏み出すたびに首にかけたライトが所在なげに揺れた。山小屋は俺以外にも時々誰かが来ているのか、中も外もあまり傷まずにそこにあった。 オイルランプに火を灯し、ささやかな暖炉に火をくべると室内とスギモトの姿が浮かび上がる。この小屋の暖炉は独特な形をしていて、ニヘイはこれをイロリと呼んでいた。 死体はビニールシートに包まれたまま玄関に転がされていた。 ポケットからもうふたつ飴を取り出す。スギモトが舌を出したのでその上に乗せてやる。 「ここを西にちょっと行ったところにさあ、電波塔の跡地あるじゃん。そこに埋めるつもりだけどいい? あの辺は拓かれてるしゴミなんかもそのままだから動物もハンターも来ないし。多少は雑に埋めても見つかることはないと思う。近くの沢に捨てて動物に食べてもらうのも考えたけど、もし誰かに見つかったらちょっと面倒なことになるかもなって」 どっちも中米では考えられない緩慢さだった。あそこでは死体はその辺にうち捨てられるか見せしめのため家族や仲間のもとに送られるか、バラバラにしたり酸で溶かし��り焼却したりして徹底的に隠滅されるかだ。 「そんなんでいいのか。もっと、バラバラにしたり酸で溶かしたり焼却炉に入れたりとか…」 「そういうカルテル流の発想はやめようスギモト。ここは文明の国アメリカなのよ!」 「でもいいのかよ、五体満足だと見つかったらすぐ身元わかるだろ。服もそのまま? 指紋も焼かないのか?」 「いいんだよ、相手はカルテルみたいなおっかねえ奴じゃないし、ここは警察も知っての通りだし。あの事件は結局地方警察の管轄になってるから別にFBIが来るわけでもないし。でも一応こいつアメリカ国籍持ってて白人だから、隠すだけはした方がいいと思うよ。うちまでバイクで連れてきたよね? 雨強かったから血痕残ってないからだろうからそれはラッキーだった」 「そっか…こんなことに付き合わせてわりい。でもお前がいてくれてよかった」 「俺、この歳にして死体処理童貞卒業だわ」 どこか安堵したような目でイロリの炎を眺めていたスギモトの表情が固まった。 「は?」「経験ないもん。刑務所とかで話聞いただけ」「ええ…お前家からここまで自信満々だったじゃん…騙された…」「いいじゃん。黙ってついてきたってことはお前もたいして考えてなかったってことでしょ」スギモトは釈然としない表情で飴を噛み砕いた。 念のため土に帰らなそうなものは別に処分することにした。と言ってもオッサンは大したものは持っておらず、小銭、ID、タバコ、大麻、ジッポ、指輪をひっぺがして袋に詰める。オッサンの元の顔は知らないが仰向かせたそれはもう原型をとどめていない。代わりに不死身のスギモトの凶暴さがべったりと張り付いていた。 「あ、これも」スギモトが尻のポケットからナイフと拳銃を取り出した。護身用に使われるようなシンプルでミニマムなタイプだ。「これ、このオッサンの」 「聞いてなかったけどさ、ケガとかしてねえよな?」 「ない。発砲されたけど当たんなかった」 スギモトは頭から爪先まで傷だらけで脳の一部こそないが、指も手足も目も耳も爪も歯も髪も眼球も揃っている。 拳銃とナイフも袋に突っ込む。がちゃがちゃとした袋の重さが心許なかった。
4 俺たちは黙って穴を掘った。土はたっぷりと雨を吸っていて重い。一度開墾された電波塔跡地はまだ木の根が張っておらず、それでも成人男性を埋める分を確保するのはなかなか重労働で、すぐに汗が全身から吹き出してシャツが全身にべったり貼り付いた。このオッサンは最後まで幸運だったなあと心底思う。ほぼ即死だったろうし自分を埋める穴を掘らされることもないまま死ねた。もし生まれがこの国じゃなかったら、生きたまま手足を切断されたり喉を裂かれてそこから舌を引き出されたり、切断した頭部で誰かがサッカーに興じている動画を家族に送られていたか��知れない。その上で家族も殺されて生き残った子どもはそのままカルテルやゲリラに誘拐されて数年後には立派な兵士になってたりとか。誘拐されなくても俺たちみたいな生まれならどうあれ似たような道を辿るだろうけど。 生まれが違うだけで死に様まで違う。あの町では人の命は0.01gのコカインから遥かに劣ったしこの居留地では女性それも少女ばかりが殺される。ここで先住民女性の失踪者に関する統計調査は存在しないんだそうだ。小熊みたいなハンターが言っていた。「この土地に運は存在しない。生き残るか、諦めるかだ」。彼もまた妹を喪っている。 俺はあまり考え込まない質であるのだが、今日はどうにも暗い思考から逃げきれない。吹っ切りたくて空を仰ぐとぬるく湿った風が吹いていた。フクロウのオスがメスを呼ぶ声が響く虚空も、威圧的なまでに重厚な針葉樹の葉も、蛇を踏まないように歩いてきた道も、全てが黒に近いグレーだった。俺より夜目のきくスギモトが働けとどやしてくる。 「穴掘ろうとか言うんじゃなかった〜ボウタロウみたく重りつけて水に沈める方式にすればよかった〜でもここ深い湖とかないんだもん〜」 「ごちゃごちゃ言ってないで手ぇ動かせ。ていうかお前の友達本当にろくなのいなくない?」 「そもそも俺がろくでもないんだから仕方ないでしょ」 「それも何とかしろ。そんでこれ以上変な人間に拐かされるんじゃねえぞ」 「………死んだ人間は?」 「なんて? 聞こえねえ」 「なんでもなあい」 どうにもやさしい目眩がする。
5. 住まいに戻る頃には空が白んでいた。朝霧を肺いっぱいに吸い込むと甘い心地がして、寝不足と重労働を課された心身が弛緩していく。 クルマをガレージに入れて、腹が減っていたのでキッチンに向かった。パンとコンビーフをスライスしてフライパンに乗せ、クレソンを適当にちぎる。パンに焼き色がついたらフライパンから上げてバターを塗った。コンビーフとレタス、クレソンを挟んだざっくりしたサンドイッチと、紅茶のカップをスギモトに渡してやる。慣れない重労働のせいで両手はマメだらけだ。 「なんか俺、昨日からお前に食い物もらってばっかり」 「俺のこと見直してくれてもいいのよ?」 「お前がもう少し穴掘り頑張ってくれたらな。八割俺が掘っただろ…ヒンナ」 パンの香ばしさが鼻腔へ抜けていく。塩気の強いコンビーフの脂とバターが口の中で溶け出して、ハイカロリー飯ならではの美味さが胸まで満たした。 「なーシライシ、今度トルティーヤでこれやってみようぜ。トウモロコシないから小麦だけど。野菜モリモリ入れて」 「いいねえ、ひよこ��入れてエンチラーダにしてもよくない?」 「��れ絶対ヒンナだわ。久しぶりにモヒート飲みてえ。アシリパさんも呼んで食べようぜ」 死体を埋めてシャワーも浴びず、メシを食って次のメシの話をする。昨晩から始まった意思が帰結した心地がした。スギモトから禍々しさはすっかり消えて、眠くはあっても機嫌は悪くなさそうだ。 窓の外に目をやる。彼方に、クルマを走らせていた時にはなかった稜線が浮かび上がっていた。太陽を背負った森は黒く木々の揺らぎだとか濃淡を描く緑��朝に隠されてしまって確認することができない。塗り潰された死体ももう見えない。 食べ終わるとスギモトは行儀悪くソファに丸まった。まあ眠いよな、俺も眠い。ブランケットをかけてやると目配せで誘われた。狭いソファに体をねじこむとぴたりと体が密着する。シャツ越しにスギモトの高めの体温が伝わってくる。まつげに縁取られた目は緩く閉じられていて、そうしていると歳よりもだいぶ幼く見える。顔中に走る傷跡はまるであらかじめの意匠で、そういう生き物のよう。 スギモトの背中に腕を回し人差し指と中指で背中を、とん、とん、と叩くと、俺の足先からも安堵が満ちてきた。 昨夜スギモトが帰ってきてから(殺しをしたと知ってから)守備よくことを運べる(死体を隠蔽できるかってことだ)か不安で仕方なかった。もしこれでスギモトが疑われることがあったら俺が自首しよう。証拠をいくらか残してきたし、この町にちゃんと根を下ろしてアシリパちゃんに信頼されてるスギモトと違って俺はいつもフラフラしているしそもそも不法入国者だし疑われる理由は十分だ。アメリカの刑務所がどんなところかは知らないが逃げ出す術はあるだろうし本国に送還されるならそれでもいい。そうしたら次はまたどこかに逃げる。どちらであれここには帰ってこれないが仕方ない。 そうなってもそうでなくても、スギモトにはしばらく街に出ないで欲しい。街にはとにかくたくさんの人間がいて聞くに堪えない蝗害のように飛び交っている。俺はスギモトにそんな言葉を聞かせたくなかった。先住民の女とタバコひと箱で遊んだ、と誰かが言えばモノなんて渡さなくてもカネをちらつかせれば尻尾を振ってついてくると誰かが笑う、とか。先日雪山で見つかった先住民の女には出稼ぎ労働者の間夫がいて、駆け落ちしようとしたところを捨てられてひとり山を彷徨って死んだらしい。とか。貧乏で子沢山な女の考えそうなことだ、あいつら母親のくせに見境がない、とか。このクソみたいな土地じゃ女と葉っぱしか楽しみがない、とか。 アシリパちゃんの親戚が山で死んだ冬。街のバーで聞き耳を立てる度に、俺の腹には男たちの虚栄と傲岸と驕りと侮蔑がひたひたと溜まっていった。何が本当で何が嘘かも知れないということは、誰も何に責任をとる必要がないということだ。そんな中でアシリパちゃんの親戚は死んでいった。たくさん夜にたくさんの女の子とたくさんの誰かが殺されている。気づけば旧友のような無力感が俺の隣に腰掛けていて、あの冬の俺は酒とタバコの量が増えた。それでもこの町を出なかったのはスギモトがいたからだ。 スギモトの首がゆるんで頬がソファの背もたれに落ちる。日差しを受ける額に額を寄せると雨とスギモトの匂いがした。 何も終わりはしない。この古い家中が、スギモトの寝息にあわせてゆっく引いたりしているように感じられる。 (自分だけで自分を知ることなんてできないんだよ誰も) いつかの季節にこいつに信頼をもらって俺はひしゃげてしまった。それまで無様ながら自分だけで成り立っていた心が、今はもうスギモトとアシリパちゃんがいなければ走れもしない。そんな風に変形して戻らない。 気持ち、恩、こころ。どれも正しいようでぴたりとは当てはまらない。こんな俺でも渡せるものをスギモトにあげたかった。
エピローグ その日は朝から雲が垂れ込めていて、それでいて静かな空の日だった。俺が玄関先で草をむしりながらタバコを吸っているとアシリパちゃんがひょっこりとやってきた。山の穴掘りでできたマメは俺の手のひらから消えつつある。 「どうしたの。スギモトはキロちゃんとこだよぉ」 「ペミカンを持ってきたんだ。スギモトが前にほしいと言っていたから。渡してくれ」 そう言って彼女は頑丈な葉の包みを差し出した。ドライフルーツや干し肉を動物の脂で固めた保存食は控えめに言って食欲を減退させられる見た目だが、鍋に入れるとそこそこ美味い。彼女と旅をしていた頃はよく食べた。山歩きで疲れ切った体には沁みる味わいだったことを思い出す。 少し背が伸びただろうか? どこかの国では男子三日会わざればナントカというらしいが、この年頃は女の子もみるみる変わる。これから男になるか女になるかが決まる、みたいな未分化なところがあったのに最近はぐっと少女っぽくなった。スギモトが趣味でつくっている花壇を眺め「どうせなら食べられるものを植えればいいのに」と言わんばかりに鼻白むのは相変わらずだったが。 アシリパちゃんを家に上げてミントティーとトルティーヤチップスでささやかにもてなす。スギモトが「モヒートに入れたいから少しだけ」と言って植えたミントは瞬く間に増殖し、最近の俺たちはこいつを消費することに意地になっていた。根こそぎむしったつもりでも気づけばどこかに芽を出している。「もう絶対地植えはしねえ」とスギモトが地を這うような声で唸っていた。不死身のスギモトと不死身のミント。身振り手振りを交えてそんな話をするとアシリパちゃんは歯を見せて笑った。彼女にも帰りに持たせてやろう。 「シライシの足はどうだ? こういう日は痛むだろう?」 「全然平気だよ、それ言うとスギモトがほんの少し優しくなるから言ってるだけだよーん」 左足をまっすぐに伸ばしたまま足の裏を天井に向けて膝を抱え、顔の横に寄せる。座りながらY字バランスをしている格好になり、「シライシ気持ち悪いっ」と彼女は顔を顰めた後また笑う。俺の脚の銃創はこんな薄曇りの日には思い出したように疼くのだ。 「次来るときは毛皮を持ってくる」 「はあい。高く売ってくるよ。ていうか俺暇だから取りにいこうか」 「お前が暇なのはいつもだろう。来たら狩りにつれてってやる」 午前の白い光がアシリパちゃんのふっくらした頬に当たり、光の粒子が産毛の上で踊っている。眩しいものを教えてくれる。 「お前たち、何かあったのか」 その頬と目に力を込めて、アシリパちゃんは恐らく今日いちばん言いたかったであろうことを切り出した。 「ええ、何かって、どんな」 「スギモトの様子がおかしいだろう」 「特に何も感じなかったけど。俺の前じゃふつーだよ。古傷でも痛むのかな?」 「何か考え込んでいる時がある」 「あいつそういうことあまり俺に話さないからなあ…」 倫理に反することより隠し事の方が罪が重い。そんな俺たちの関係からなるべく目を逸らして、考え込むふりをする。言外にこの話は甲斐がない、と滲ませるためにしばらく黙り込んだ。 アシリパちゃんはーーー諦めたわけでもないだろうがーーー緊張を解いてトルティーヤチップスのおかわりを要求してきた。「夕ご飯入らなくならない?」と尋ねると「誰にモノを言ってるんだ」と謎に上から目線で返された。 それからくだらない話を二、三してアシリパちゃんは席を立った。やっぱり背が伸びたような気がする。 ペミカンを入れてきた袋に乾燥ミントを詰めて返すと彼女は匂いを嗅いでちょっと変な顔をした。 そのまま、なんの予兆もなく俺は彼女に抱擁された。白いつむじが見えた。 「シライシくさい」 「クーーーーーン」 「ずっと言おうと思ってたけど、最近のスギモトを見てて特に強く感じたから、言う。シライシにも聞いてほしい。 アチャやフチにこうしてもらうと守られている心地がする。でもスギモトやお前に抱きしめられると、お前たちを守らなければ、といつも思うんだ。お前たちはフチより力がずっと強いけど、強いほど心もとないよ。抱きしめられたら腕を出して、私がその上から抱いてやる。寒さと怖さは外側からやってくるからな」 俺より遥かに年下の女の子に抱かれて、俺の腕は自分のがらくたみたいな腕を彼女の背に伸ばした。 俺はよく知っていた。年齢も性別もどこの誰かも関係ない。家族も恋人も相棒もつがいもいない俺には関係ない。誰から与えられる善意も悪意も等しく平等だ。俺のようなゴミ溜めに生まれて抗うことなくゴミになった人間とか、スギモトのように闘争して生き残った人間の、剥がされ続けた心と体はもう元には戻らなくても、次世代の彼女たちはそれを包むような世界を作ることができる。かもしれない。 「アシリパちゃんは新しい時代の女の子だねえ」 彼女は顔を上げて、にっこり頷いて見せた。 「送って��?」 「ひとりで帰れる」 少しも名残惜しくなさそうなその後ろ姿を、俺は満足して眺めた。またすぐに会えるし当然会う、と信じて疑っていない女の子の背中だったからだ。 雲から覗いた太陽が正しく神として、彼女の道行を照らしている。タバコに火をつけて、俺はその後ろ姿が見えなくなるまで戸口に立っていた。
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朝野やぐら@灼熱の卓球娘6巻12月4日発売さんのツイート: "1月1日は色埴 イロリの誕生日です。 燕女学園 初等部制服ver. 中学三年生なのに初等部時代の制服がぴったり。 #卓球娘 https://t.co/MLXxqdhEyU"
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インカ・イロリによる社会復帰を目指す中毒患者とともに廃棄された椅子をアップサイクルしたコレクション (dezeen) Yinka Ilori teams up with recovering addicts to create range of colourful chairs (dezeen)
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東京オシャレゲストハウス イロリ。 パック的旅。 外人ゲストが多くてもフレンドリーです。 今日は今から神社ツアー https://www.instagram.com/youherb_net/p/BwA-1_gBkX5/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1ljrn7pf98fmd
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なるほど (イロリ村 89画廊) https://www.instagram.com/p/COcL9PGnTXx/?igshid=jofpou4x91s3
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Rikyū Chanoyu Sho, Book 2 (Part 1): Tea Served in the Shoin¹; Bon-date and Chasen-kazari in the Same Setting.
◎ The Contents of the Second Book of the Rikyū Chanoyu Sho:
◦ Concerning the Seven Arrangements for the Shoin.
◦ Concerning Bon-date and Chasen-kazari for the Same.
◦ Concerning the Seven Arrangements for the Fukuro-dana.
◦ Concerning Bon-date and Koro-kazari for the Same.
◦ Concerning the Seven Arrangements for the Naga-ita when the Irori is Being Used.
◦ Concerning Bon-date and Chasen-kazari for the Same.
———————————————————————————————————
◦ Concerning Tea Served in the Shoin: there are Seven Arrangements [書院立之事 ・七莊有]².
[The writing reads: kama (釜)³; mizusashi tatami no ryō-kata mannaka ni oku nari (水さし疊ノ兩方真中ニおく也)⁴; chaire (茶入); mizusashi (水さし).]
1. This is the usual way that the [utensil mat is] arranged in the shoin.
After the mizu-koboshi is brought out, the take-wa is moved into its place [near to the ro] , the hishaku is rested on top, and then all bow together.
The futaoki should be placed within the same mat [as that on which the host is sitting]. Nevertheless, it is also possible to place it outside -- as is done in the case of the kakoi-tate⁵ -- without this being objectionable. The way to handle the hishaku is the same as when making tea with the mukō-irori, and [hot water] is dipped out in the same manner.
[The writing reads: kama (釜); hishaku mizusashi no ue ni oki nari (ひしやく水さしの上ニ置也)⁶; chaire (茶入).]
2. In this temae the chawan is brought out and temporarily placed on the left in the place [usually] occupied by the mizu-koboshi. The chaire is moved toward the right, as usual, [but] still beside the mizusashi. Then, after the chawan has been [placed] beside the chaire, the mizu-koboshi is brought out and [tea] is made.
[The writing reads: kama (釜); mizusashi no ue hishaku (水さしの上ひしやく)⁷; take-wa (竹◯)⁸; chaire (茶入).]
3. In this temae, first the chawan is brought out and placed temporarily in front of the chaire⁹, and the futaoki is relocated¹⁰. Then the chaire is [moved] beside the mizusashi¹¹, and after that, once the chawan has been [stood] beside the chaire, the mizu-koboshi is brought out and [tea] is made.
[The writing reads: kama (釜); mizusashi no ue ni hishaku (水さしの上ニひしやく)¹²; chaire (茶入).]
4. In this temae, after the chawan has been brought out, it is temporarily placed [on the left side of the utensil mat] as has been described before. Then the chaire is relocated [toward the right], and the chawan is [placed] beside it.
Then, after the mizu-koboshi has been brought out, the service [of tea] is done.
[The writing reads: kama (釜); mizusashi (水指); bon ni karamono-chaire oki-awaseru nari (盆ニ唐物茶入置合也)¹³.]
5. This is the way tea is served with a karamono[-chaire]. The chawan is brought out and placed beside the tray. Then the mizu-koboshi is brought out, the door to the katte is closed¹⁴; as usual, the hishaku rested on the take-wa.
After the bow, next -- and using both hands -- the tray is moved forward 3-sun¹⁵. Then the chaire is picked up and temporarily placed [on the mat] to the right of the tray. Then the chawan is moved to the front of the ro¹⁶. The fukusa is folded, and the tray is wiped, and then placed down in front of the mizusashi and slightly to the left, so that it overlaps [the mizusashi] by half. Then the fukuro is [removed] from the chaire. The chaire is held in the right hand, supported lightly by the left, and the chaire is then placed in the exact center of the tray. The chashaku is then wiped [with the fukusa] and placed on the left side of the tray, facing upward, [with the bowl-end] extending beyond the [far edge of the] lid [of the chaire], and centered [between the chaire and the rim]: the handle should project outward [beyond the front edge of the rim]¹⁷. The chasen should be stood 8-sun away, and on the far side of the handle of the hishaku¹⁸.
When it is time to [transfer the tea into the chawan from] the chaire, first the chaire is picked up with the right hand, then passed to the left hand. The lid of the chaire is taken off and placed on the tray, leaning against the [front] rim¹⁹. At this time the chashaku is taken up, and things proceed in the usual way²⁰.
And then again, [after] the tea is prepared, the chasen is immediately taken out with the left hand²¹, and placed in front of the mizu-koboshi. At the conclusion [of the temae], it is once again placed as in the beginning. Beyond this, the rest [of the temae] is as has been previously described.
When [the guests] request [to inspect] the tray, there is a ku-den [口傳] regarding how it is to be placed out for them²².
[The writing reads: kama (釜); mizusashi ue ni hishaku (水さし上にひしやく)²³; chashaku (ちや杓), chawan (茶◯ん), chaire (茶入)²⁴, chakin (茶巾).]
6. In this temae, the chaire is brought out [from the katte], and immediately placed next to the mizusashi. Then the chawan is moved beside the chaire.
After that, the koboshi is brought out, and [tea] is made.
[The writing reads: kama (釜); mizusashi no ue ni chasen ・chakin (水さしの上ニ茶筅 ・茶巾)²⁵; chawan no naka ni chaire ・chashaku (茶んの中に茶入 ・茶杓)²⁶.]
7. The way to serve [tea] is as has been suggested previously [in the Rikyū Chanoyu Sho].
This [arrangement] is chasen-kazari. The way to serve [tea] is as was described before²⁷.
_________________________
¹Shoin [書院].
In Rikyū's period, the shoin was considered to be a 4.5-mat room. The larger rooms (6- and 8-mat rooms) did not appear in this context* until the Edo period and later, and were derived from the large reception rooms found in daimyō residences.
In the above sketches, the arrangement of the mats during the furo season is shown on the left, while that when the ro is used is shown on the right. The location of the tokonoma depended on the orientation of the host's meibutsu scroll, and the guests' entrance was usually opposite the tokonoma.
Traditionally the shoin was covered with kōrai-tatami [高麗疊]†, as shown. That said, it is important to recognize that the 4.5-mat room did not have to be used as a shoin. When used in this way, the arrangement of the utensil mat is as Rikyū describes‡; and in this case the host rises and steps across the threshold when he enters the room; and after sitting down to close the door, he rises again, turns toward the utensil mat, and then sits down on its lower end and so proceeds toward the temae-za on his knees (at no time did either host or guests walk on the utensil mat during the gathering).
But the 4.5-mat room could also be used as if it were a small room**. In this case, the utensil mat was arranged as if it were a daime, apparently with the mizusashi placed on the right side of the mat and closer to the ro (rather than centered). When used in this way, the host did not stand in the room at all, but slid across the threshold of the sadō-guchi when entering and exiting. And moved on his knees onto the lower end of the utensil mat. __________ *Even in Rikyū's period tea was served in the large reception rooms. However, this was always from a daisu, and the tea was served as refreshment during formal audiences. This is very different from the topic that Rikyū is considering here -- which is a gathering hosted in the shoin.
†Kōrai-tatami [高麗疊], "Korean(-style) tatami" were edged with heri made of white cloth with a dark blue, green, or black pattern.
‡Here, and in the subsequent sections of this densho, where he deals with the fukuro-dana, naga-ita, some sort of mizusashi-dana, and the daisu. In the early days, some sort of tana (and usually an ō-dana [大棚], a tana that is wider than half the width of a tatami, such as the daisu, naga-ita, and fukuro-dana) was always used. The elimination of this piece of furniture dates from the end of Jōō's lifetime, and was a perhaps logical development to adapt the futatsu-kazari [二つ飾り] arrangement (where the furo is placed on a shiki-ita and the mizusashi beside it, directly on the mat) to the ro setting. Furthermore, when used as a shoin, the arrangement of the tokonoma could be more elaborate, if the host so desired.
**Traditionally, when the host used his 4.5-mat room in this way, the floor was covered with "ordinary" tatami -- tatami with black heri.
²Shoin-tate no koto ・ nana-kazari ari [書院立之事 ・七莊有].
According to the version of the text as published in the Sen no Rikyū Zen-shu, in the Nambō-ate no Densho, this title reads shoin-tate no koto kazari migi dōzen ni nana-kazari aru-koto [書院立の事餝 ・右同前ニ七餝有事]. The meaning is essentially the same.
³Kama [釜].
In the Nambō-ate no Densho, it says irori [イロリ], not kama [釜].
This is also the case with respect to the other entries in this section.
Note also that while a naka-bashira seems to be implied in the sketches (the black dot placed adjacent to the upper-left corner of the ro, in the first of the set of sketch, reproduced above), a naka-bashira and sode-kabe are definitely not present, since all of the temae in this section are taking place in the 4.5-mat room (where the utensil mat is a maru-jō).
This mark is not present in any or Rikyū's original sketches in the Nambō-ate no Densho (an example of the same arrangement is shown above), and so its incorporation into their sketches represents an error on the part of the publisher.
⁴Mizusashi tatami no ryō-kata mannaka ni oku nari [水さし疊ノ兩方真中ニおく也].
“The mizusashi should be placed in the very center of the tatami on both sides.”
This means that the mizusashi is centered on the half-mat, both between the left and right heri, and front and back on this half of the mat. This statement is not found in the Nambō-ate no Densho.
⁵Kakoi-tate no gotoku ni [かこい立のことくに].
This refers to chanoyu in a room with a daime-gamae (a sode-kabe is erected to enclose the upper end of the daime, and the ro is cut in the adjacent mat), not to the case where an enclosure of three-mats size is created at one end of a larger room by setting up folding screens on two sides.
⁶Hishaku mizusashi no ue ni oki nari [ひしやく水さしの上ニ置也].
“The hishaku is placed on top of the mizusashi.”
⁷Mizusashi no ue hishaku [水さしの上ひしやく].
“On top of the mizusashi [is] the hishaku.”
⁸Take-wa [竹◯].
The futaoki is placed near the mizusashi. The chaire, meanwhile, is placed on the left side of the mat. This is not especially clear from the sketch as shown here.
⁹Kari ni chaire no mae ni oki [かりに茶入の前におき].
The chaire, as mentioned above, is placed on the left side of the mat, centered between the left heri and the first yang-kane. The chawan is brought out and placed on the left side of the mat in the spot that will later be occupied by the koboshi. This is "in front of" the chaire.
¹⁰Futaoki naoshi [ふたおきなをし].
The futaoki (which is sitting in the spot that will shortly be occupied by the chawan) is picked up, and then placed beside the ro*, in the place it will occupy during the temae. Then the chaire is moved beside the mizusashi, and the chawan is placed to its left. __________ *Either on the same mat as the host is seated, or else on the kagi-jō [鍵疊] -- the mat in which the ro has been cut, according to the host's preference.
¹¹Sate chaire mizusashi [w]e tsuke [扨茶入水さしゑつけ].
The kana we [ゑ], which is pronounced "e," is used here for the more commonly employed he [へ]. Something occasionally encountered in Edo period documents. In the Nambō-ate no Densho, Rikyū wrote sate chaire mizusashi [h]e tsuke [扨茶入水さしへツケ].
¹²Mizusashi no ue ni hishaku [水さしの上ニひしやく].
“On top of the mizusashi [is] the hishaku.”
¹³Bon ni karamono-chaire oki-awaseru nari [盆ニ唐物茶入置合也].
“This is a karamono-chaire arranged on a tray.”
¹⁴Katte-guchi wo shime [勝手口をしめ].
Most of the narrative included in this entry is not found in the Nambō-ate no Densho. There appears to be an attempt to reconcile contemporary practices* with what the editors perceive to be Rikyū's way of doing this temae -- primarily by changing the order of certain parts of the temae†.
In the original work, Rikyū simply wrote: "this temae is the way to serve [tea] with a karamono[-chaire]. The chawan is brought out and placed beside the tray. The chawan is put in its usual place‡. Then the koboshi is brought out, and [tea] is made. The way to handle the karamono[-chaire] is the same as always**."
All of the additional material present in the Rikyū Chanoyu Sho was added by the editors, from unknown sources††. __________ *Which were, of course, the machi-shū way of doing the temae that had come into force with the ascent of Sōtan.
†Primarily changing the time when the host deals with the tray and the chaire, without any real understanding of how Rikyū actually did the temae. The narrative, consequently, is somewhat confusing to read.
‡Tsune no tokoro ni chawan no oki [常の所ニ茶碗のおき]. In other words, the chawan is placed immediately to the left of the tray, and so the relationship between it and the chaire is the same as if the tray were not present. This was the special feature of Rikyū's bon-date temae.
This deviated from the practice of bon-date as originally conceived by Jōō (the chaire-bon was created by Jōō; prior to him, only nagabon and the other large trays were used). However, the reason was because, while Rikyū's chaire-bon was just 2-sun larger than the chaire on all four sides (when placed together in front of the mizusashi, the separation between a small chawan and an ordinary chaire is 2-sun, thus the presence of Rikyū's tray does not change anything at all), Jōō's chaire-bon was derived from the nagabon used for gokushin tea, which was 3-sun 5-bu larger than the chaire on all four sides. Jōō's tray prohibited the chawan from being placed next to the chaire (the chawan was kept on the side of the mat, and later moved directly into its place in front of the host's knees where it would rest during the rest of the temae).
After Rikyū's death, the machi-shū attempted to efface all of his modifications, returning things to the way they had been done during Jōō's middle years (in other words, in the time before Rikyū's return from the continent -- when the majority of the initial changes to the practice of chanoyu were introduced). Since a majority of the chaire in use at that time only had the smaller trays that were selected according to Rikyū's formula, the smaller trays continued to be used, though with the temae conducted as if they were the larger trays. Most modern schools still follow this method today, and Rikyū's bon-date temae is almost unknown now.
**Karamono aishirai tsune-no-gotoku sōrō nari [唐物あいしらい常のごとく候也]. That is, the karamono-chaire is handled in the same way as it is always handled in any other setting (such as when the daisu is being used); in other words, bon-date is performed as is usually done at any other time.
While the handling of the chaire is not too different from the way an ordinary chaire is handled (certainly nowhere near as different as the modern schools generally teach), the host must be more careful in everything that has to do with the chaire. Also, the chaire is always picked up and put down using the right hand: this is the main point of difference.
††Or, more likely, unsourced contemporary usages.
¹⁵Sate bon wo ryo-te ni te mae [h]e san-sun bakari hiki-dashi [さて盆を両手にて前へ三寸はかり引出し].
Here confusion* starts to creep into the narrative. In Rikyū's temae, the chaire-bon was moved forward before the chawan was placed beside it. __________ *As a result of the repudiation of Rikyū's temae by the machi-shū, the precise mechanics had been lost.
The machi-shū temae usually proceeded in this way: the host brought the chawan out from the katte, and at this time closed the sadō-guchi. The chawan was left on the left side of the mat and, sitting so that he faced the mizusashi, the host moved the bon-chaire forward (as the text describes here). The chaire (in its shifuku) was lifted off of the tray and stood on the mat to one side. Then the host folded his fukusa and cleaned the tray. The fukusa was put down (on the mat) and the shifuku was removed from the chaire and placed on the mat in front of the host's knees, while the chaire remained in the hand. After picking up the fukusa, the chaire was cleaned, and then immediately placed on the tray (without the naked chaire having ever come into contact with the mat). Then the shifuku was smoothed out, and then placed to the left of the mizusashi. Then the host returned to the katte, and brought out the koboshi -- once again closing the sadō-guchi after entering the room. After adjusting his seat (so that he faced toward the ro), the host moved the chawan in front of his knees, and so proceeded with the temae more or less as usual.
The modern schools generally follow this formula today.
¹⁶Sate chawan no ro mae [h]e naoshi [さて茶碗のろ前へなをし].
Ro [ろ] means ro [爐], the irori. The chawan is moved from its former place in front of the mizusashi in front of the host's knees -- between him and the ro.
¹⁷Bon no hidari no kata no mannaka ni aonokete futa tsubuse-hodo e wo dashi-oku nari [盆の左の方の眞中にあをのけてふたつぶせ程ゑを出しをく也].
This is an extremely confusing sentence (albeit typical of the secrets-based chanoyu of the Edo period). The statement is referring to the placing of the chashaku on the tray:
- bon no hidari no kata no mannaka ni [盆の左の方の真中に]: refers to the left side of the tray, and centered between (the chaire and the rim*);
- aonokete [仰のけて]: (the chashaku) is rested (on the tray) so that it is facing upward;
- futa tsubuse-hodo [蓋潰せ程]: futa [蓋] refers to the lid of the chaire; tsubuse-hodo [潰せ程] means that (the scoop end of the chashaku) projects so far (onto the face of the tray) as to extend beyond the (far) edge (of the lid);
- e wo dashi-oku [柄を出し置く]: [w]e [ゑ] refers to e [柄], in other words, the handle (of the chashaku); dashi-oku [出し置く] means that it is placed so that it projects outward (beyond the front rim of the tray).
The first part of this statement (which reflects the contemporary Sōtan-style usage) derives from the fact that in the original version of the ro temae, the chashaku was placed on the left. However, Jōō's original temae was performed in a room where the guests were seated on the host's left (which was the original configuration); the rule actually has always been that the chashaku should be placed between the chaire and the chawan. Consequently, it should be set on the right side of the chaire in the present setting -- where the guests are seated on the host's right.
Confusion over which side of the chaire the chashaku should be placed when the chaire is resting on a tray (or some other sort of base) remains a feature of many modern schools' bon-date temae -- and can be traced back to this source.
As for the scoop-end of the chashaku, in gokushin tea, the bend in the bowl contacts the tray in line with the far edge of the foot of the chashaku, and the tip of the scoop is in line with the far side of the chaire†.
In the case of Rikyū's “Namida” chashaku [泪]‡ (shown above, on the right), which was made to be used with the chaire now known as the Rikyū enza katatsuki [利休圓座肩衝]**, the bend in the bowl contacts the face of the tray in line with the back side of the chaire, and the tip then extends beyond. __________ *This, at least, is the orthodox view. Some modern schools, however, hold that this phrase means that the chashaku is visually centered between the chaire and the left edge of the face of the tray (which would seem easier to do).
Since the chaire is, according to this narrative, immediately to the left of the first yang-kane, it is important that the chashaku not be placed on the next kane. In the gokushin arrangement, the chashaku is always to the right of the second yang-kane.
†This is why the nasu-chaire was preferred for gokushin tea. The farthest extent of the bulge is approximately the same height above the face of the tray as is the tip of the chashaku. Thus the relationship between the shape of the chashaku (the angle of the bend and the length of the scoop) are visually based.
‡The last chashaku that he made, for use at his last chanoyu immediately prior to his seppuku. After he finished his temae, he sent this chashaku to Furuta Sōshitsu, who gave it this name. Namida [泪] means "tears."
**The chaire is referred to as the nade-kata enza chaire [撫肩圓座] by Rikyū in his own records (it is not actually a katatsuki, since the shoulders slope downward and are rounded). The chaire was received from Hideyoshi, together with a 8-sun 6-bu tsuma-gure haneda-bon [爪紅羽田盆] -- a black-lacquered square tray with a red rim -- that had been made for this chaire by Jōō. Rikyū made a new tray that is 6-sun 6-bu square, and it was for this tray that the “Namida” chashaku was made.
¹⁸Chasen ha hishaku no e no hazure migi no kata hassun bakari nokete-oku nari [茶筅ハひしやくのゑのはつれ右のかた八寸はかりのけてをく也].
Migi no kata hassun bakari nokete-oku [茶筅ハひしやくのゑのはつれ右の方八寸ばかり退けて置く也] seems to mean 8-sun away from the host's right leg. 8-sun away from the handle of the hishaku would be impossibly far away.
¹⁹Chaire no futa wo tori, bon no uchi fuchi ni kake [茶入のふたを取、盆の内ふちニ掛].
Rikyū, in his various other densho, states that the lid should be placed flat on the face of the tray, between the spot occupied by the chaire and the base of the rim.
²⁰Sono toki chashaku wo tori [其時茶杓をとり].
Again, in his other writings, Rikyū states that the chashaku should be picked up first, then reheld with the last three fingers of the right hand. Then the chaire is picked up using the thumb and first finger of the right hand, and supported with the left hand.
Picking up the chashaku after placing the lid of the chaire on the tray follows from Sōtan's machi-shū method of performing bon-date.
Rikyū's temae is always uniform and consistent, and in so far as possible, it always remained the same. (Thus, since the chashaku has to be picked up first when it is resting on top of the chaire, which is the usual way in which tea is made, so it is picked up first even when it is resting on the tray next to the chaire.)
²¹Sate mata cha wo tataru chasen wo sugu ni hidari-no-te ni te toru [扨又茶を立たる茶筅をすぐに左の手にて取].
It appears that the editors were uncertain about what should be done here.
Cha wo tateru [茶を立てる] (not tataru [立たる]) means "when tea is prepared."
Chasen wo sugu ni hidari-no-te ni te toru [茶筅を直ぐに左の手にて取]: this is not only wrong, it is functionally impossible to do. The chasen is picked up with the right hand (it is only handled with the right hand) and placed on the left side of the host's body -- forward (as is written in the narrative) of the koboshi (from the host's perspective*). __________ *The chasen is aligned with the koboshi in parallel to the host's kane. It is approximately 2-sun away from the koboshi (measured from the widest expanse of the tines).
²²Bon no shomō dashi-yō nao-yue ni kuden kore-ari [盆の所望出しやう猶以口傳有之].
A ku-den [口傳] is some teaching that should be transmitted orally -- that is, the teacher initiates the student without writing the information down. Apparently the details of this matter were no longer known (or unavailable to the editors).
According to Rikyū's other densho, the tray should be placed out with the chaire resting on top of it*.
As for haiken, he wrote that the guests should come forward as a group and inspect the chaire in situ; and only the most experienced among them should touch the chaire, and the tray -- though holding them so that the others can see them as well.
When the chaire is separated from the tray, it should be placed on top of a fukusa (which, Rikyū says, the shōkyaku should ask to borrow from the host if he does not have one of his own). Some also say that the shōkyaku should use his folding fan to hold the lid of the chaire when it is removed (while others say that it should be placed on the heri of the mat on which he is seated†); but neither of these practices were sanctioned by Rikyū (who held that it is better to touch the chaire as little as possible -- inspeting the underside of the lid, for example, is not really necessary). At any rate, when the chaire has been moved to the fukusa, the tray is picked up and turned over (since the karamono trays were often inscribed on the bottom‡).
When the guests are finished, the chaire should be replaced on the tray, and these things should be left in exactly the same place -- and with the same orientation** -- as when the host put them out. __________ *In the Edo period there arose a deviant way to do this whereby the chaire was placed out, with the tray beside it. This was based on a machi-shū practice that has no basis in the orthodox teachings.
†Since, under no circumstances, should the heri ever be stepped on, it is considered cleaner than the rest of the mat.
‡They sometimes had the name of the lacquer artist scratched into the lacquer with the point of a pin, and sometimes also had an owner's mark (for example, a stylized plum-blossom mark consisting of five circles arranged around a sixth, as shown in a pair of sketches from the block-printed edition of Rikyū’s Bon-date no Densho, below -- the plum-blossom mark is on the right, while the left sketch shows the face and rim of the tray) as well.
The first imported Chinese trays and temmoku-dai seem to have been made for commercial use (by restaurants), and these marks indicated ownership. (The Chinese were always fond of catering, and these marks allowed the staff to separate the property of one shop from another when they returned to collect the empty dishes later.)
In Japan, the owner often inscribed his kaō in red lacquer on the bottom of the tray, and this could indicate ownership by some famous tea master of the past, thus the guests were always expected to inspect the bottom of the tray.
**In other words, the chaire should face toward the guests. The guests should not turn it -- or the tray -- around to face the host.
²³Mizusashi ue ni hishaku [水さし上にひしやく].
“On top of the mizusashi, the hishaku.”
²⁴Chaire [茶入].
This is a mistake. The word should be chasen [茶筅].
It appears that someone confused this with the chasen-kazari temae (which follows in the next entry).
In the Nambō-ate no Densho (the relevant sketch is shown above), only hishaku ue ni oki [柄杓上に置]* is marked on the sketch. Nothing is written by the chawan (which, however, clearly shows the chashaku and the chasen arranged inside it; the presence of the chakin is likewise implied).
Furthermore, the first sentence in the narrative (in the Rikyū Chanoyu Sho) states that the chaire is brought out (from the katte) to begin the temae. __________ *“The hishaku is placed on top.”
²⁵Mizusashi no ue ni chasen ・ chakin [水さしの上ニ茶筅 ・茶巾].
"On top of the mizusashi, the chasen [and] chakin."
²⁶Chawan no naka ni chaire ・ chashaku [茶んの中に茶入茶杓].
“Inside the chawan, the chaire [and] chashaku.”
Note that the sketch is wrong (the chashaku is shown on the right side of the chaire).
Rikyū's writing (in his sketch, above) reads: irori [イロリ]; chasen ・chakin [茶筌 ・茶巾]; chawan naka ni chaire ari [茶碗中ニ茶入有リ], chashaku [茶杓].
Here, in the corresponding sketch from the Nambō-ate no Densho, Rikyū illustrates the kazari as it should be arranged -- with the chashaku on the left side of the chaire, as always.
²⁷Tate-yō ha migi-dozen nari [たてやうハ右同前也].
“The way to serve [tea] is the same as on the right*.”
This sentence curiously repeats the first sentence in this entry: kono tate-yō migi mōshi sōrō tōri [此たてやう右申候通], which means "the way to serve [tea] in this [manner] is the same as has been suggested already." __________ *The words “on the right” means “as previously described (in this document).”
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村をあるいて年寄りたちばかりでなく、中年の人も若い人も一番関心の深いのは自分自身とその周囲の生活のこと、村の生活のことである。民俗的な事象を聞くことについて喜んで答えてくれる人は多いのだが、その人たちの本当の心は夜ふけてイロリの火を見ていて話のとぎれたあとに田畑の作柄のこと、世の中の景気のこと、歩いてきた過去のことなど、聞かれて答えるのではなくて、進んで語りたい多くのものを持っていることであった。人はそれぞれ自分の歴史を持っているのである。まずそういうものから掘りおこしていくこと、そして生きるというのはどういうことかを考える機会を、できるだけ多く持つようにしなければいけないと思った
(塩の道 宮本常一 解説より)
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