#イエスは十二使徒をひき寄せ
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バビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
列王記下25・1-12
バビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
列王記
25・1ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。2都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。3その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、4都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。5カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離��去ってちりぢりになった。6王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。7彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。8第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。10また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。11民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。12この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。
答唱詩編
詩編137・1+2、3+4、答5+6
エルサレムよ、おまえを忘れるよりは、わたしの右手がなえたほうがよい。エルサレムを思わず、最上の喜びとしないなら、わたしは口がきけなくなったほうがよい。
詩編137
137・1バビロンの流れのほとりにすわり、 柳にたて琴をかけ、 2シオンをおもい、 すすり泣いた。
3わたしたちをとりこにしたものが、歌をもとめ、 しいたげる者がなぐさみに 「シオンの歌をうたえ」と命じた。 4異国の地にあって、どうして主の歌がうたえよう。
福音朗読
マタイ8・1-4
アレルヤ、アレルヤ。主は私たちの病を身に負い、わたしたちの苦しみを担ってくださる。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
そのとき、8・1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
聖ペトロ、聖パウロ使徒・前晩のミサ 聖人の��念
第一朗読
使徒言行録3・1-10
わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。
使徒たちの宣教
その日、3・1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
答唱詩編
詩編19・2+3、4+5
天は神の栄光を語り、大空はみ手のわざを告げる。
詩編19
19・2天は神の栄光を語り、 大空はみ手のわざを告げる。 3日は日にことばを語り継ぎ、 夜は夜に知識を伝える。
4ことばでもなく、話でもなく、 その声も聞こえないが、 その響きは地を覆い、その知らせは世界に及ぶ。 5神は天に太陽の幕屋をすえられた。
第ニ朗読
ガラテヤ1・11-20
わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
使徒パウロのガラテヤの教会ヘの手紙
1・11兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、17また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
福音朗読
ヨハネ21・15-19
アレルヤ、アレルヤ。あなたはいわお。この岩の上にわたしの教会を建てよう。地獄の門もこれに勝つことはできない。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
イエスは、弟子たちに御自身を表され、食事を共にされた。21・15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
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私たち一人一人が、もれなく、役割を持つ者に、と
(アブラハムの)しもべは、 主がこの旅の目的を かなえてくださるかどうかを 知ろうと、黙って彼女(リベカ)を 見ていた。創世記24:21
彼らが主を礼拝し、 断食していると、聖霊が告げた。 「さあ、バルナバとサウロを 私のために選び出しなさい。 わたしが前もって 二人に決めておいた仕事に 当たらせるために。」 そこで、彼らは断食して祈り、 二人の上に手を置いて出発させた。 使徒13:2~3
マルコ3:1~10(11、12) マルコ8:27~33(通読箇所) (ローズンゲン『日々の聖句』8/20;火)
―――― α&ω ――――
このしもべは、主人アブラハムから 一人息子イサクの妻を、その土地の女性ではなく 主人の親族の中から見つけてくるようにとの 命を受けて、アブラハムの弟ナホルのいる アラム・ナハライムへ向けて旅立ちました。 何の当てもないまま。
旅を続け、その町についたしもべは、 夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来るころ、 町の外の井戸のそばにらくだを伏させ、 神に祈って言いました。 「私の主人アブラハムの神よ。 どうか今日、私のために取り計らい、 私の主人アブラハムに恵みを施してください。 ご覧ください。私は泉のそばに立っています。 この町の人々の娘たちが、 水を汲みに出て来るでしょう。 私が娘に、 『どうか、あなたの水がめを傾けて、 私に飲ませてください』と言い、 その娘が、『お飲みください。 あなたのらくだにも水を飲ませましょう』 と言ったなら、その娘こそ、 あなたがあなたのしもべイサクのために 定めておられる人です。 このことで、あなたが 私の主人に恵みを施されたことを、 私が知ることができますように。」
そして、やって来た娘が、泉に下りて行き、 水がめを満たして上がって来た時、走って行き、 『どうか、あなたの水がめから、 水を少し飲ませてください』と言うと、 彼女は、『どうぞ、お飲みください』とすばやく その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。 水を飲ませ終わると、彼女は、 『あなたのらくだにも、飲み終わるまで、 水を汲みましょう』と言って、急いで水がめの水を 水ぶねにあけ、水を汲みに、 再び井戸まで走って行き、 すべてのらくだのために水を汲んだ。 このしもべは、【主】が自分の旅を 成功させてくださったかどうかを知ろうと、 黙って彼女を見つめていた、のですね。
シリアのアンティオキアの教会には、 ユダヤ人だけではなく、異邦人で イエスを救い主として受け入れた者たちも 集まっていました。 彼らが主を礼拝し、断食しているとき、 【聖である霊】と呼ばれる神が、 「さあ、わたしのために バルナバとサウロを聖別して、 わたしが召した働きに就かせなさい」 と言われたのですね。 そこで彼らは断食して祈り、 二人の上に手を置いてから、 宣教のために送り出しました。
ある安息日のこと、イエスは再び会堂に入られた。 そこに片手の萎えた人がいた。 人々は、イエスがこの人を安息日に直すかどうか、 じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。 「真ん中に立ちなさい。」 それから彼らに言われた。 「安息日に律法にかなっているのは、 善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。 いのちを救うことですか、 それとも殺すことですか。」
彼らは黙っていた。 イエスは怒って彼らを見まわし、 その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に、 「手を伸ばしなさい」と言われた。 彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。 パリサイ人たち出て行ってすぐに、 ヘロデ党の者たちと一緒に、 どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
それから、イエスは弟子たちとともに 湖のほうに退かれた。 すると、ガリラヤから出てきた 非常に大勢の人々がついて来た。 また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、 ヨルダンの川向うや、ツロ、シドンのあたりからも、 非常に大勢の人々が、 イエスが行っておられることを聞いて、 みもとにやって来た。 イエスが多くの人を癒されたので、 病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、 みもとに押し寄せてきた。 汚れた霊どもは、 イエスを見るたびに御前にひれ伏して 「あなたは神の子です」と叫んだ。 イエスはご自分のことを知らせないよう、 彼らを厳しく戒められた。(マルコ3:1~12)
さて、イエスは弟子たちと ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。 その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。 「人々はわたしをだれだと言っていますか。」 彼らは答えた。 「バプテスマのヨハネだと言っています。 エリヤだと言う人たちや、 預言者の一人だと言う人たちもいます。」 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 ペテロがイエスに答えた。 「あなたはキリストです。」 するとイエスは、自分のことを だれにも言わないように、彼らを戒められた。
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、 長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、 殺され、三日後によみがえらなければならないと、 弟子たちに教え始められた。
イエスはこのことをはっきりと話された。 するとペテロは、イエスをわきにお連れして、 いさめ始めた。 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、 ペテロを叱って言われた。 「下がれ、サタン。 あなたは神のことを思わないで、 人のことを思っている。」(マルコ8:27~33)
私たちの造り主である天の神、【主】は、 私たち一人一人に 役割を与えておられるというのですね。 アブラハムのしもべには、イサクの妻を探しに行かせ、 イスラエル12部族を造り出されるために用いて。 バルナバとサウロには、 地中海世界にイエスを伝える役目を与え、 そして、イエスご自身には、神の国を伝え、 病をいやし、悪霊を追い出して、 ご自身がメシア(キリスト)であることを実証し、 その、神の子、キリストが、 【父である神】の御心にしたがって、 十字架刑での死刑を受け、 三日後に新しい霊のからだに復活することで、 神の創造の目的から「的外れ」になっている、 すべての人間の〔生まれた時からの私〕という霊を 死刑が終わった者、死んだ者との手続きを 完了してくださり、 【聖である霊】と呼ばれる方が人間に来られ、 一人一人のうちに【父である神】の御思いを置き、 一人一人のうちに 【父である神】の御思いがあるようにし、 受け入れる者が【父である神】と 思いを一つにして生きる者に回復する役目を与えて。
私たちも、【聖である霊】と呼ばれる方が 心に置いてくださる、 【父である神】が私を通して、 今日しようと思われることを、今日していき、 今日の私の役目が果たされるように、と。 あのアブラハムのしもべのように、 黙って、神がどう働かれるかを見つめながら。
今日も。
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Bach - Cantata Jesus nahm zu sich die Zwölfe BWV 22 - Kuijken | Netherlands Bach Society
ヨハン・セバスチャン・バッハ (Johann Sebastian Bach)
カンタータ第22番 「イエスは十二使徒をひき寄せ」 BWV 22 BC,A
ミリアム・ファージンガー Miriam Feuersinger (ソプラノ)
ダミアン・ギヨン Damien Guillon (アルト)
ヴォルフラム・ラトケ Wolfram Lattke (テノール)
クリスティアン・イムラー Christian Immler (バス)
オランダ・バッハ協会 Netherlands Bach Society
シギスヴァルト・クイケン Sigiswald Kuijken (指揮&ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ)
#イエスは十二使徒をひき寄せ#バッハ#カンタータ#復活祭前第7日曜日#Bach#Miriam Feuersinger#ダミアン・��ヨン#Damien Guillon#ヴォルフラム・ラトケ#Wolfram Lattke#クリスティアン・イムラー#Christian Immler#Netherlands Bach Society#オランダ・バッハ協会#シギスヴァルト・クイケン#Sigiswald Kuijken#ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ
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わたしは信じた。それで、わたしは語った
使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、4・7わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
答唱詩編
詩編126・1+2、6+3
主とともに働くわれらは、主とともにその実りを味わう。
詩編126
126・1神が捕われびとをシオンにもどされたとき、 わたしたちは夢を見ている思いがした。 2わたしたちの顔がほほえみ��� 口には喜びの歌が浮かれた。
6種を手に涙を流して出て行く人は、 束をかかえ、喜びにあふれて帰ってくる。 3神はわたしたちに偉大なわざを行われ、 わたしたちは喜びにあふれた。
福音朗読
マタイ20・20-28
アレルヤ、アレルヤ。あなたがたを世から選んだのは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためである。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
20・20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
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『仏陀の鏡への道』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳
この痛快さはどこから来るのだろう。国家のイデオロギーや指導者の大局観などとは一切無縁。一人の青年の美しい女性に寄せるひたむきな愛が、成就されることもなく、そうとしか有り得なかった結果を引き出す爽快ともいえる空しさにあるのかもしれない。生粋のストリート・キッズが、大自然の要害に徒手空拳、よれよれのからだで挑む、向こう見ず極まりない冒険の成り行きが、なまじい世間を知った年寄りにはただ切なく眩しいのだ。
はじめてドン・ウィンズロウを読んだのは『フランキー・マシーンの冬』だった。作品や作家が好きになるのに理屈はいらない。肌合いというか肌理というか、何かがぴたりとはまったのだ。その次に読んだのが『ボビーZの気怠く優雅な人生』。これも気に入った。それから『犬の力』にはじまるメキシコ麻薬戦争の内幕を綴った実録小説風のシリーズを通して読んだ。
ただ、生来ひよわなたちで、いくらよく書けていても、あまりに暴力的な小説は苦手。ミステリは楽しい思いで読みたい、というのが勝手な本音。そんなとき、新作の『壊れた世界の者たちよ』に出会った。中篇集ということもあってか、出会った頃のウィンズロウの持ち味を思い出した。軽く洒落のめしたテイストだ。所収の一篇に、念願の英文学の教授になったニール・ケアリーが顔を出していた。はじめまして、ニール。
シリーズ物を読む時の常で、第一話の『ストリート・キッズ』から読みはじめた。頼れる親のいない少年が、親代わりになるジョー・グレアムに出会い、探偵術を教わり、やがて「朋友会」という組織の一員となり、人探しの下請け仕事を命じられる話は、まるでディケンズの『オリヴァー・ツイスト』。しかし、本作を読むと、『ストリート・キッズ』は序曲に過ぎなかったという気になる。それほどまでにスケール感がアップしている。
何しろ舞台は、雨のヨークシャーに始まり、花のサンフランシスコ、それから香港は九龍寨城(ウォールド・シティ)の魔窟、そして四川省の成都、最後は峨眉山の頂上へと至るのだ。仕事は姑娘に懸想して任地から失踪した米人の肥料研究者の目を覚まし、会社に戻るよう説得するだけのはずだった。ところが、ミイラ取りがミイラになり、李藍(リ・ラン)という中国人女性に一目惚れしてしまったのが運のつき。彼女を魔の手から救い出そうと単身、香港に飛んだのがまちがいのはじまりだった。
朋友会に仕事を依頼したのはCIAで、表立って動けない組織の猟犬となって、相手を駆り立てるのがニールの務めだった。ところが、何が何やら分からないままに命までねらわれた青年は、危険なことには近づかないというジョーの言いつけを忘れ、いくつもの思惑がからまり合った陰謀の網の中に飛び込んでしまったから、もういけない。九龍城の迷路の中に封じ込められ、自由を奪われ、阿片浸けにされては、グレアムたちにも手の施し様がなくなる。
ヒッピー文化も下り坂のサンフランシスコでの追いかけっこが第一部。香港の彌敦道(ネイザンロード)、ヴィクトリア・ピークといった観光名所でCIAのシムズや三合会や十四Kといった台湾、香港の組員たちとの命のやりとりを経て、九龍寨城に置き去りにされるまでが第二部。阿片浸けで正体を失った本人の知らぬ間に、舞台は第三部、中国の中西部、料理で有名な四川省に移る。李蘭の手で魔窟から救い出されたニールは中毒から回復するため療養生��を送っている。
巻��込まれ型ヒーローというのがある。自分はその気がないのに、いつの間にか事件の渦中にいるタイプの主人公を指すが、ニール・ケアリーがまさにそれだ。二十四歳という若さでは、いくら人間観察に長けていても、自分自身を統御できない。窮地に陥ったとき、ニールは、ジョー・グレアムの名を呼ぶ。するとどこからか救いの手が差し伸べられるのだが、今度ばかりは場所が悪い。いくら方々に顔がきいても、中国にはおいそれと手出しができない。
毛沢東による「大躍進」が、官僚の欺瞞を産み、人民は飢えた。中国の米びつと言われる四川省でも事は同じ。鄧小平の意を汲む省共産党書記、暁昔陽(シャオ・シーヤン)は、毛路線とは一線を画し、農地の私有化を進め、生産量を上げようと、娘の李蘭を使って化学肥料の研究者ロバートを秘かにアメリカから四川省に迎えようとしていた。中央に知れたら反革命の汚名を着せられ、処分を覚悟の行為だ。準備が整うまで、二人が香港に身を隠していたところにニールが現れ、CIAやら三合会、それに朋友会まで騒ぎ出し、計画が危うくなる。
自分の近くにいる党中央のスパイの目をそらし、計画を成就しようとする暁昔陽、それを阻止しようとする省共産党書記補佐、彭(ポン)、中国の二重スパイであることを隠すためニールや李蘭、ロバートを消したいCIAのシムズ、三者三様の想いが峨眉山という景勝地を舞台に闘いを繰り広げる。ニールとしては、ロバートの真意を確かめ、本人が望むなら自由にさせたい。ただし、そのロバートが隠れているのが標高三千メートル級の聖地峨眉山となると、高所恐怖症のニールにとっては苦行でしかない。
どこで、仕入れたのか知らないが、中国人民の苦難の歴史に対する理解、楽山大仏はじめ、中国の名所旧跡、そして何より、四川省という土地に広がる田畑、人々の様子など、見てきたように描き出すのがまるで映画。余談ながら、ニールの通訳を務める紹伍(ショー・ウー)との罵倒語のやりとりが楽しい。「決まり金玉(ファック・イエス)」は、ルビ振りで分かるが、あとの「くされちんこ」や「いかれぽこちん」の原文は何だったのか? 東江一紀の名訳が快調だ。
本好きは、ニールが大の活字中毒で、どこに行っても本屋とあれば中をのぞかなくては気が済まず、成都の本屋で自分の研究対象であるトバイアス・スモレット作『ロデリック・ランダム』と紹伍の愛する『ハックルベリー・フィンの冒険���を手に入れるところでニンマリ。その『ハックルベリー・フィンの冒険』が、最後に重要な役割を果たすところなど、ビブリオ・ミステリ・ファンには涙なくして読めない。そう、全篇これ軽いノリで語られるこの小説。時々鼻の奥がツーンとさせられる。世界はクソみたいなものだが、それを変えるのは、真っすぐな若者の行動でしかない。いつまでも読み継がれたい青春純情探偵小説である。
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【みことばシェア】 "二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。 第二のわざわいが過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。 第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」 すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し���神を礼拝して言った。 「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」 それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。すると稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降った。" "また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。 また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。 その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。 こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。 私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。 兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。 すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。 しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。 すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。 そして、竜は海辺の���の上に立った。" (ヨハネの黙示録 11章7-19節、12章1~18節) (中書島駅) https://www.instagram.com/p/COQ_qzggHQF/?igshid=184lvlgzc81i8
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憎しみの種を植える中国
憎しみの種を植える中国 加担する記者たちは責任を負う 米国人ジ��ーナリスト、マイケル・ヨン》 2017.02.25 産経新聞
アメリカ人のジャーナリストに、「あなたは中国政府を信じるか」と尋ねてみなさい。もし、答えがイエスであるなら、もうその人と何も話す必要はない。しかし、もし、答えがノーであるならば、次には「彼ら(中国政府)は、日本について真実を語っていると思うか」とたださなければならない。
中国は、死をもたらす情報戦争を主導している。第一の標的は日本。最終的な目標は米国だ。2年以上、私たちのチームは、中国が推し進める過激化プログラムが、日本を標的としたテロの発生につながるだろうと警鐘を鳴らしてきた。これらの警告が正しかったことは、小規模な攻撃が加えられたことなどから証明されている。
2015年11月には、過激な韓国人の男が靖国神社内で爆発物を起爆させた。男は韓国に逃亡したが、翌月、日本に戻ったところを逮捕された。
2013年には、別の韓国人の男が靖国神社に不法侵入し、建物にシンナーが入った缶を投げつけて取り押さえられた。これは2011年に中国籍の男が靖国神社の門に放火した事件を模倣したものとみられている。同じ男がその後、ソウルの日本大使館を襲撃し、逮捕された。しかし、男が靖国神社放火犯だとわかると、韓国当局は男の身柄引き渡しを拒否した。
さらに、2010年に日本大使殺害未遂事件を引き起こした韓国人の慰安婦活動家が、2015年には、米国のリッパート駐韓大使暗殺未遂事件を起こし、大使は刃物で顔を切りつけられて血まみれになった。
中国、韓国のメディアと両国政府が、日本を悪魔のように扱うことが多くなるにつれ、同様の事件が増え、それが当たり前のようになってきているのだ。
私は個人的に、この題材などについて中国、韓国、日本、タイ、台湾、フィリピン、オーストラリア、インドネシア、マレーシア、ミャンマー、そして米国の11カ国・地域で調査を行った。だが、反日感情を持つとプロパガンダ(政治宣伝)されているこれらの国のほとんどが、まったく逆の状況であった。たとえば、インドネシアでは、日本人は同国の独立のために戦ったとして、米国のアーリントン国立墓地に相当するインドネシアの墓地に埋葬されている。私と研究チームの仲間は実際、数千ものイスラム教徒が眠る墓地に、日本人がまず先に埋葬されているのを見た。
タイも、(日本人に対する)恨みを持った国であると喧伝されている。私は米国人だが、私のタイ人の家族は、休暇には日本に旅行する。タイ人たちは、日本人に対する恨みなどはない。彼らは、(日本人を)仲間だと思っている。市民の草の根レベルから政府まで、関��は良好である。
私の事務所近くのバン・カットには、日本兵を祀った大きな記念碑が学校の敷地内にある。もし、日本人が地域を破壊し尽そうとしたなら、タイ人たちは1万8000人もの日本兵士の記念碑を学校に建立するのを許すだろうか。タイのアピシット・ウェーチャチーワ元首相とバンコクで個人的に話す機会があり、靖国神社や慰安婦について、タイの立場について尋ねたが、答えは、何もないだった。
一握りの日本人たちは、第二次大戦の戦場だったバターンやカンチャナブリで戦争犯罪は行われなかったと、主張している。私たちはこれらの場所やほかの場所でも調査を行った。その結果、日本兵による戦争犯罪は事実であった。ただ、反日プロパガンダとは異なり、その問題について学んだほとんどの日本人は、証明された事実やほぼ確実な事実については痛恨の念を表明している。
しかしながら、日本人が慰安婦として40万人もの女性たちを性の奴隷として組織的に誘拐していたというプロパガンダは偽りだ。そうしたことは起きなかった。20年前、先ほどの誘拐された女性の数は20万人だったが、その前には2万人だった。このまま増え続けると、そのうち100万人になるだろう。誰も、慰安婦という名の合法的な売春制度が存在していたことを、議論しようとしているわけではないのだ。慰安婦制度は存在していた。そして、韓国にも、そのほかの国にも、いまなおそうしたものが存在している。
こうした慰安婦たちは、旧オランダ領のジャワ島でいくつか報告されているほか、私もミャンマーのカロゴン村で新たに3人の元慰安婦の女性を見つけた。97歳の生存者にも聞き取り調査も行った。しかしながら、ほとんどの女性たちは自ら奉仕していたと語った。ただ、朝鮮人のブローカーたちにだまされて、連れてこられたという女性たちもいた。
ある米国人の作家で、有力な雑誌のジャーナリストが、ソウルを旅して突然、慰安婦についての記事を発表した。彼の記事は、中国と韓国の視点を載せたものだった。私は彼に電話をして、どこから情報を得たのか尋ねた。
彼と、ほかのジャーナリストたちはツアーに招かれ、「説得力のある」展示をみせられたのだ。私も同じツアーに参加したが、時期が違った。詐欺であることは明らかだった。真摯な研究者はこうした罠には陥らない。しかし、ジャーナリストたちは、日々、誤った方向に報道を繰り返す。偽りのニュースは広がり、しばし、それを邪魔する者を破壊するのに十分な慣性を得るのである。
私は、丁重に彼が情報戦の渦中に踏み込んだことを知らせた。彼は、自らを守る姿勢に転じ、私がホロコーストを否定する者であると非難した。ホロコーストは実際にあった出来事だ。その証拠は動かしがたい。だが、日本とはまったく無関係なのである。彼は、反日勢力理想的な道具となった。情報の戦士たちは、キーボ��ドをたたくことで雄叫びをあげる。勝ち誇った叫び声なしに、情報戦はうまくいかないのだ。
ソウルでの3週間に及ぶ調査では、毎日のように、時には1日に数回、ソウルの日本大使館前の慰安婦像に足を運んだ。今から1年以上前のことだが、反日団体として知られる韓国挺身隊問題対策協議会の活動の一環として学生たちは、像のそばに24時間体制で寝泊まりしていた。カトリック教会の修道女たちもしばしば彼らとともに夜を徹して抗議行動を行うのだ。ソウルのカトリック教会は、公然とこうした政治的な憎悪が波及するのを助け、日本大使館前で毎週のように行われる抗議行動に参加している。ソウルにあるフランシスコ会修道院の入り口にまで、慰安婦像が設置されていた。
中国の南京では、大虐殺をテーマにした巨大な博物館に行った。建築費は、数千万ドルはかかっただろう。そこは、中国政府が支援してつくった、日本への憎しみを焚きつける場所のひとつであった。建物の前には、生徒たちで満員となったバスが次々到着し列をつくり、生徒たちは鮮やかな色の旗を持ったガイドに連れられてディズニーランドの水準にある博物館に入る。博物館の展示物は、忘れられないほどショッキングなものだ。1000点以上にも上る展示品は、スマホのカメラで撮影しやすいようにライトで照らされ、斬首している人形の写真撮影を勧めている。博物館は、まさに(情報戦争の)最前線の武器となっているのだ。
南京で様々な者たちによる戦争犯罪は起きた。日本人も部分的には責任を負っている。しかし、中国側が誇張するほどのものではない。日本は過ちに対する自責の念を表明したが、中国は決して自らの過ちを認めない。中国側は現在、30万人が殺害され、多くの女性がレイプされたと主張している。米国の反日ジャーナリストたちは、当時の犠牲者数は2万から3万人だとしている。中国側は決して明らかにはしないだが、犠牲者の多くは、中国国内で起きていた内戦に起因するものなのである。
現段階で最低限言えることは、▽南京において戦争犯罪は発生した▽犠牲者の数は、宣伝されている数より遙かに少ない▽中国人の軍人自身が多くの残忍な行為に関わっていた▽そして、現在、中国側はそれ(南京事件)を、国民が日本への憎悪を育むための肥料として使っている-という事実である。
米国のベストセラー作家、ローラ・ヒレンブランド氏が著書『アンブロークン』において、第二次大戦中の1944年、日本軍が北マリアナ諸島のテニアン島で、5000人の朝鮮人を皆殺しにしたと偽りの主張を二度もして、真っ黒なしみを残してしまった。私たちは、彼女の主張に反論した。そして、軽蔑され、さげすまれた。ヒレンブランド氏は、まだ生存している可能性がある人々たちに対して、戦争犯罪の疑いをかけたのだ。戦争犯罪に対する時効というものは存在していない。
ヒレンブランド氏が1944年に起きたと主張する虐殺のすぐ後に、米軍はテニアン島に侵攻し占領。その島から2つの原爆投下作戦を遂行した。私たちの調査チームは、朝鮮人たちが元気に生存していた証拠である米国の月間人口調査報告など多くの文書を見つけた。それらの中には、朝鮮人たちが日本を敗戦に導くため、666ドル35セントの寄付をしたとする文書も含まれている。
私たちは、ヒレンブランド氏が彼女の読者たちを欺いたことを証明した。最後に私は、ヒレンブランド氏、もしくは彼女の告発が正しいと証明できた最初の人物に対し、2万ドルを支払うと公表した。もし、その告発が真実であるなら、驚くほど簡単に証明できるはずだが、いまだ証明した者はいない。
もう一つの情報戦の舞台は、東京にある靖国神社だ。私を含む米国の退役軍人の多くがその聖なる地を参拝し、自分たちの祖先とかつて戦った日本人に敬意を示している。慰安婦や南京に焦点を当て憎悪を扇動することは、人々が靖国神社への参拝に対し、感情的に反応するよう仕向けているのだ。しかしながら、靖国神社を批判する者や抗議する活動家たちは、北京でガラスの下に横たわる、史上最悪の大量虐殺を行った毛沢東の蝋人形を中国が崇拝している、という皮肉を決して口にはしない。
靖国神社とアーリントン国立墓地を比較すると、アメリカ人の中にも反発する人が出てくる。彼らは、自分たちにとって都合のよい見識に合うように勝手に決めつける人か、靖国には戦犯たちが合祀されていると、反発するかのどちらかだ。しかし、アーリントンにも戦犯たちが埋葬されていると反論することはできる。私たちの内戦(南北戦争)で(合衆国に反旗を翻し、敗れた)南軍の軍人たちもアーリントンには眠る。彼らは、奴隷制度存続のために戦った。フィリピンでの暴動や、アメリカ大陸の原住民に対する扱いなど、ほとんどすべての戦争の戦犯たちがアーリントンには確かに埋葬されているのである。
ベトナム戦争中に起きたソンミ村での虐殺事件で、軍事法廷で処分を受けたコスター准将も、その一例である。コスター准将は、第二次大戦後に戦犯として処刑され、靖国神社に合祀された山下奉文大将とも比較される。コスター准将は、(米陸軍士官学校の敷地内につくられた)ウエスト・ポイント墓地(第18区画、G列、墓標番号084B)に埋葬された。果たして、米国人はベトナムの大統領からの不満表明を真剣に受け止めるだろうか。あるいは、政府高官がアーリントンかウエスト・ポイントの墓地に敬意を表したとして、何か問題が起こるだろうか。
米国で尊敬されている指導者のひとり、米軍人のカーチス・ルメイ大将は、こんな名言を残した。「も��、私たちが戦争に敗れれば、われわれはすべて戦犯として罰せられていただろう」
日本人の死生観は、ほかの多くの国の人たちとは異なっている。神道では、死んだ人はすべて平等になる。突如として、将軍も、個人の権利も、犯罪者も、聖人もなくなるのだ。すべての人は、ニュートラルなものとなるのだ。ロサンゼルスには、ほとんどの隊員が日系アメリカ人からなる第442連隊戦闘団の記念碑がある。第二次大戦中につくられた第442連隊戦闘団は、米国史上最も多くの勲章を受けた部隊となった。第442連隊戦闘団は、記念碑を有し、それは正真正銘、名誉ある場所なのである。第442連隊戦闘団の記念碑は、戦没した英雄たちの名が刻み込まれた大きな壁だ。だが、そこに階級は記されていない。彼らの魂は平等なのだ。これが日本人の価値観なのである。
靖国神社には、240万柱以上の英霊が祀られている。朝鮮人も、軍務で亡くなった動物たちも含まれている。その中には、14柱のA級戦犯も含まれている。中国人は、これをうまく使ってアメリカ人をだまし、韓国人をたきつけ刺激する。その一方で、中国人は、日本の残虐行為を批判しながら大虐殺を行った毛沢東を礼賛し続けている。だまされやすいアメリカ人は特に、この皮肉の意味を理解できないのだ。朝鮮人たちは、彼らが日本国民として、日本軍兵士や将校として戦った事実に目を背けたいようだ。ただし、アメリカ人捕虜たちを虐待した「日本の」憲兵隊の多くは、実は朝鮮人たちだった。しかし、こんな事実もほとんど語られない。
中国は、日本人が悪霊を呪文で呼び起こすために靖国神社に祈りを捧げていると宣伝することで、中国自身の犯罪から目をそらさせ、日米の関係に摩擦を起こすという一石二鳥の効果を得るのである。これはまるで、映画の筋書きのようである。
2016年12月29日、日本の防衛大臣が靖国神社を参拝した。予測されたように、米紙ワシントン・ポストは次のように伝えた。
「東京発-米国の真珠湾から先ほど帰国した日本の防衛大臣、稲田朋美氏が木曜日、戦犯たちを含む日本の戦没者を祀った東京にある神社を参拝した…稲田氏の参拝と、それに先立ち行われた別の閣僚による同神社への参拝は、日本に隣接する韓国と中国から非難を浴びた」-。
中国政府は、人々の心に憎しみを植え付け、過激化させることで、紛争が起こるように仕向けている。これは、マインド・ゲームどころの話ではない。人々が武器と化すのである。
中国が人々の心に植え付ける憎悪によって日本人が殺害されるのは、もはや時間の問題である。そして、中国が作り出す、日本で軍国化が進んでいるという神話は、もはや単なる予言ではなくなるだろう。だまされやすい記者たちは、そうした結果をもたらすことに責任を負う必要がある。
■ マイケル・ヨン 1964年、米国・フロリダ州ウィンターヘイブン生まれ。元グリーンベレー隊員だったが、90年代以降、独立した特派員として活動を開始。イラク戦争やアフガニスタン戦争の前線の真実を伝えたリポートが評価された。慰安婦問題では、米政府が3千万ドル(約35億6200万円)と7年の歳月をかけた調査で強制連行や性奴隷化を裏付ける証拠は発見できなかったと結論づけたIWG報告書をスクープした。
ヨン氏は「中国の謀略としての慰安婦問題」と題してジャーナリストの古森義久氏とも対談。その内容は発売中の正論3月号に掲載されている。
http://www.sankei.com/premium/…/170225/prm1702250023-n1.html
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【四月馬鹿企画】主宮慈愛へのインタビュー
※注意書き※
※…内容は非常に過激です(※閲覧非推奨)。
※…死にネタ、差別ネタ、宗教ネタがあり、暴言が多いです(※本当に閲覧注意)。
※…所々、四月一日要素があるかもしれません。
…では、どうぞ。
[[MORE]]
インタビュワー鈴木くん(以下鈴木): …皆様、こんにちは。インタビュワー鈴木です。本日は、主宮慈愛さんに、インタビューと称して、色々と御伺いしたいと思います。では、どうぞ。
主宮慈愛(以下主宮): …如何も。『寿命以外は完璧の女性(おんな)』と名高い主宮無慈悲です。
鈴木:本日は、宜しく御願いします。
主宮:ああ、そんなに畏まらなくて良いよ。君も気さくにやりなよ。かく言う私が最初から畏まって無いんだから。
※好物・嫁推し等
主宮:あり過ぎて困り過ぎる。
鈴木:それでも、真面目な所だけでも、御教え下さい。
主宮:思想で言うと、ショーペンハウアー、ニーチェ辺りのニヒリズム(虚無主義)ですね。
※白人種について
鈴木:古代アーリア人の系譜を継ぐ人間が、御嫌いなのですか?
主宮:…良いかい、君。白人、特定亜細亜人と言う生き物はね、『古代アーリア人系列人種侵入前の古代人』、同じく、『其の末裔流入前の先住民』、…そして、『日本人』とは根本的に違う。もっと、幼稚で、動物的で、���何しようも救いも無い人種だ。歴史と現実をよく見ろ。奴等に慈悲は要らない。
尚、拙作に於いて、所々、破滅の運命を迎える存在、或いは兎に角、軽蔑的、否定的に彼等彼女等が描かれて居るのは其う言う事情もあります。此の世界の平和と環境を、完全に破滅させる為に生きて居る様な存在だから。
※シューティングゲームについて
鈴木:シューティングゲームが大好きとの事ですが。
主宮:確かにそうかもしれませんが、端くれの半端者です。堂々と名乗れる身分ではありません。申し訳無い。
鈴木:個人的な定義があるとの事ですが。
主宮:そうですね。自分は、シューティングゲームと言う物は『戦争と真剣勝負を自分なりにこなして行く』事が、ゲームとして第一目的であり、第一必須条件なジャンルのゲームだと思っています。
現に、スペースインベーダー、ガレッガとかケツイがそうですね。
それ以外は何か違う。
鈴木:とても真摯なのですね?
主宮:いいえ、真摯なのはいつも自分以外の他人です。自分なんて何時も巫山戯てますよ。頭と心の中は、何時も虚無感塗れで、ニヒルにヘラヘラしてて、何も出来無くて……。
※格ゲーについて
鈴木:格ゲーについて、言いたい事は、沢山あるようですが。
主宮:ええ、あります。…と言うより、格ゲーとは、格闘し合う物であって、暴力を振るい合う物では無いと思っております。リュウ君やさくらちゃんと思想的に近いかもです。
だからこそ、シューティングキャラとか何ですか?格闘ゲームに遠距離攻撃手とかスナイパーとか要りますか?シューティングならシューティングでしろ。
可也前から言っておりますが、今時の格ゲーをおかしくしたのは、待ちキャラを更に改悪した様な性能のシューティングキャラ達だと思います。格闘ゲームなら、ちゃんと、格闘しろよ!カスボケェ!
※プロテスタント教会内部から見たキリスト教について
鈴木:キリスト教プロテスタント派の内部事情に、詳しい様ですね。
主宮:結構頻繁に通ってるからね。教会の信徒達がどの様にして、信仰に入ったかと言う経緯もよく分かる。矢張りか、非常に、祖父母が信徒だったので代々とか、其う言う家族繋がり、家繋がりが多いんです。…あとは、『駆け込み寺』需要。…家族やら一族やら地域、家のしきたりに虐られ、其のコミュニティーに疎外されたが故に、教会に来て入信する。
鈴木:割と、重い話ですね。
主宮:だけど、幾ら信仰があっても、現世で救われるとは限らない。…信仰は魂を救う事はあっても、肉体を救わない。キリスト教—特にプロテスタントは—『現世利益』を否定して居る。世俗宗教、若しくは、道教の様に、此の世の欲望を叶える為の祈り等論外だ。実際、「死後に貴方の魂は救済されるから、天寿を全うする迄、余裕を持って待て。」と言う人も居る。
あと���『呪術廻戦』は『呪いは呪いでしか祓えない』が基本ですけど……。
鈴木:『呪術凱旋』で矢鱈キリスト教ネタが多いのって其れ……。
主宮:由来っすね。『鬼滅のナイフ』とか他はただの作風的な癖。
※今の世の中は本当に酷い
鈴木:元々、貴方は厭世主義者なんですよね。
主宮:そうだね。世は只管憂いるものだよ。で、話は飛ぶけど、昔の日本は平和で良かったのに、何故、此うも、今の日本は酷いのか?…其れは、『白人・特定亜細亜人及び外国人の介入が酷いからである』とか言ってる国粋・人種差別主義的なブログを見掛けたのですが、確かに、「其うだよな」とは思う。今の世の中は逆に、寛容過ぎる。排除されるべき者が排除されない。
これでは、社会は、腐りに腐って行く。まるで自浄作用と言う物が無い。
鈴木:…言われて見れば、確かに。自浄作用と言う物自体は、多く言及されるのにですね。
主宮:どれだけ、排他的だの国粋主義者だの時代遅れだのと言われようと、構いません。ただ、左翼だけは許せない。此の社会を、こんなにも、可笑しくしたのは、左翼思想だ。これは確実だ。
※父方の祖父について
鈴木:貴方の父方の祖父は、可也凄い方と聞きましたが。
主宮:ええ、凄いですよ。将棋に関して、彼の地元の市で仏恥抜けで一番の実力だったり、それで、将棋の県大会に出場して、一回戦敗退だったり。…(胃癌の方は兎も角)胆嚢癌(可也末期)での五年内生存は非常に珍しいから、是非、大学病院で研究させてくれとか言われたり。…其れ位、強靭で超人的で『奇跡的な回復』を、医療の専門家に見せたそうなんですね。…ついでに言うと、ウチは癌の家系みたいですね。
鈴木:確かに凄いですね。
主宮:まぁ、あの祖父が、さっさと速い内に御亡くなりになって居てたら、私は、もっと長生き出来たでしょう。…ですが、早死に出来て光栄です。私達の一族は、あのロクデナシ祖父に、各々の人生を吸われ、更に其れを、あの爺を生存させる犠牲(コスト)として奪われて来ました。奴は子殺しであり孫殺しです。本当に、ロクなモンじゃないよ。丁度、親(其の爺にとって長男・子供とその嫁)より、年齢的にも早く死んだ早死にの孫が二人も居るのは、決して偶然なんかでは無いよ。当然ながら摂理だ。
※教養について
主宮:教養って何だろうね。人間を人間らしくする為のもの、徳を積み、人間性を高める為の物と言う人も居ますが、自分には、如何もよく分かりません。
鈴木:僕にもよく分かりませんが、其れでも、『圧倒的教養!』みたいな言葉に、其の手の自負と自慢の類には、辟易させられる所がありますね。いや、辟易��ます。…其の位しか、言えなくて、すみません。
主宮:確かに教養を鼻にかける人は嫌いですね。自分を含めてね。
鈴木:『自己嫌悪』って奴ですか?
主宮:如何なんだろうね?…人様から見たら、違うのかも。…其れに、私は、教養より、美貌より、人間は、兎に角、『謙虚さが大事!』だって日々感じる。
鈴木:矢張り、『謙虚さ』ですか。
主宮:むしろ、其れしか無いと思う。
鈴木:其れと、此れは僕のあてずっぽうですが、其れは、つまり、『莫迦程謙虚になれない』って事でしょうか?
主宮:多分ね。
※作者本人から見た拙作について
主宮:自分から見ても、あんまり良いモンじゃ無いよ。我ながら。読者からしても、死にネタだの救いの無い終わり方だので、癪に触る描写が多いし。ただ、自分では、出来の良いのを必死で作ろうとして居ますが。
鈴木:貴方の作品は、大抵、硬派で難解で、如何にも、小林秀雄的、ガレッガ的なものばかりだと言われておりますが。
主宮:自分から質を落として迄、万人受けする物を描きたく無いんで。『大衆ウケが良い奴』は、私は一番嫌いですね。
鈴木:次に、『あまり、拙作どころか、自身についての評を、聞かないのが、悩み』と聞きましたが。
主宮:別に良いんですよ。マジ、作者が如何だ此うだとか書かなくて良いし、感想とか送って来なくて良いんで。無理矢理絡もう、無理矢理関係を持とうとすると、頭可笑しくなりますし心病みますよ。此んな奴なぞと。
※顔が良い推しと美人のワイ
鈴木:直ぐに、『推しの顔が良い』と曰い出すオタクが大嫌いとの事ですが。
主宮:美しいと言う事と、良いと言う事は、其々根本的に違います。推しの、見た目の、顔の良さを求める奴は、推しの、中身を、人格を求めて無いって事だろうね。吐き気がします。
鈴木:美貌と言う物に、何かトラウマでも?
主宮:其うだよね。君も騙されない方が良いよ。此の世で一番大事なのは、心と神様と魂だろ?
鈴木:…『人間、中身が十割』説ですか。
主宮:そうだよ。それでも、何故か他人に、否定されるけど、美貌ってのは、ロクでも無いね。
鈴木:そうですか?
主宮:実際、ロクでも無いから、中身が苛烈で可笑しい美丈夫やら美人やらに騙されるのだ。本当に気を付けて、心と魂だけを見て欲しい。それに、私も結構、自身の美貌を鼻に掛けてる所ありますよ。…所々、鼻にかけてないとやってられない場面は多いので。美男子・美人の類を見慣れて居ない人に、沢山、会えば会う程、其う言う傾向は加速するね。…でも、色々と変な虫も寄ってくるモンでさ。
鈴木:変な虫?
主宮:其う、変な虫。非モテの男に訪れる先々でチヤホヤされたり、若くて綺麗な女の子が大好きなおばさんに会ったりする。キモデブの男にナンパされた事もある。…其れに、単発ガチャでSSRを引いた気取りの下心を持った男が嫌いで、整骨院行くのが嫌になった。整体中に、痛みに喘いだり、呼吸が乱れる���に、嬉しそうな顔する。あの手のは。此れに関しては、もしもワイがドブスだったら……と思わざるを得ないくらい惜しい。
鈴木:…は、はぁ……。
主宮:若くて綺麗な女の子が大好きなおばさんに関しても、トラウマ未満ですが、未だに怖いですがね。腰を凄く露骨に撫で撫でされたよ。其の間、尾骶骨の辺りが異様にゾクゾクしたの覚えてる。更に、男に其うされる(実は男から其うされた事は無いが)のとは、違う、背筋の凍り付き方だった。ゲイフォビア芽生え始めたの、あれが原因だと思う。差別はいけないんだけどさ。未だ理解出来る感性があればとも思う。
鈴木:……!
主宮:鈴木君、際どい話を御免よ。因みに、もっと幼い頃は、親も自慢の美少女さだったらしいぞ。確かに、親戚も矢鱈誇ってたな。あの頃の美少女振りを。
※ケルト十字について
鈴木:あなたのサイン及びイラストには、よくケルト十字が描かれておりますよね。
主宮:はい。一生を通じた癖です。そして、ケルト十字と言うのは、天動説的な太陽の動き、回転、二分点+二至点(Equinoxes+Soltices)を明らかに、表しています。これらをを繋ぎ合わせると十字になるのです。いわば、『太陽そのもの』なのです。それに、太陽信仰には、復活の信仰が憑き物でしょう。イエス・キリスト的な。霊魂が一度死んで、其の後、其の死から蘇る様を、太陽が沈み、昇る事に、例えたのです。聖ヨハネ祭は夏至ありきで、クリスマスは冬至ありき。更に、そこから派生した復活祭も、春分ありきでしょう。昔の人々が太陽を崇めていた遺志がそこにあるのです。つまり、ケルト十字は、未だ未だ素樸だった時代の、『古代信仰の名残』なのです。因みにですが、私は、『霊魂の復活』を信じています。
※古代太陽信仰について
主宮:更に強く書けば、ケルト十字が、ごく一部ながら、白人優越主義のシンボルとして使われていると言うのは、堪えます。太陽信仰と白人の間に、一体何の関係性があると言うのですか。一方で、元々、ハーケンクロイツは、太陽崇拝と関係あると言われているじゃないですか。そう言う、ゲルマン民族にも、太陽信仰と言う名の太陽に恋焦がれる感覚はあるのでしょう。元々、先祖が野蛮人だから、あんな歪んだ形で出て来るのでしょうね。良い加減にしろ。
※昔のTwitterで絡んで来たりした変な漫画家二人
鈴木:Twitterにて漫画家に絡まれた事が御有りのようですね。
主宮:…ええ。…『あの人』の場合は、絡まれた扱いされて良いのかね?…先生の作品は、滅茶苦茶熱心に読んでたのにね。…『あの人』には、昔、Twiiterでブロックされたね。ドリフターズ(+ヘルシング)小説を描いてた頃だったか。
鈴木:…ええ?それって、もしかして……?
主宮:ええ。もう御存知でしょうが。『Twitter芸人で有名なあの人』です。
…で、更に、変な漫画家も居た物でね。昔変な其れに絡まれた事がある。私のアカウントのツイートをRTとして来た上に、変な空リプ飛ばして来たな、彼奴。
鈴木:作品は御覧に?
主宮:ええ、早速、其奴の漫画読んで見たんですよ。1話読んだだけで、「うわっ、酷いなぁ」って。それ以外は読んでいません。先ず、『数学』と『伝統ある大衆食』を組み合わせるセンスが分からない。西洋哲学ならギリ分かるんですけど。こんな奴が急に絡んで来た途端、『嗚呼、此奴はホンモノだな』っと思いました。そんなに不愉快な基地外なら速攻で無視しろと。こんなのに、絡んで来るって事はお前も相当な基地外だぞ?と。まぁ、今、彼奴、普通に妻子持ちでリア充らしいですがね。氏ね。
※妹の話
鈴木:可也前に、妹さんに死なれていると聞きましたが。
主宮:ああ、妹ね。享年は10歳程度、死因は脳腫瘍です。フォーチュン クエスト、シェーラひめの冒険、犬夜叉とかが大好きでした。因みに、私の初キスは妹に奪われたんですよ。欧米の家族は家族同士でこうやって触れ合うんだって。口吸して来て。
鈴木:!!!!???!!!!
主宮:…本当ですって。
鈴木:…でも、それって……。
主宮:…今となっては良い思い出ですがね。あの子もう此の世に居ないし、あれの御蔭で妹の事を、私はずっとずっと強烈に覚えて居るし。人生万事斎王琢磨とはよく言ったもんですよ。あと、これ自体はありがちですけど、よくゲームのセーブデータ消されてました。序でに、関係無いですけど、従兄弟の家はよくうちのゲームを借りパクしてました。黄金の太陽GBA二作と魔界塔士を借りパクされた時は、本当に、腹が立ちましたね。
※続く
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マルコによる福音書 2-3章 | ゆるしと選び
スタート地点にお帰りなさい。今日は、私のお気に入りの話の一つ、マルコによる福音書2章を学びましょう。聖書の中で、イエスはいくつもの目立った主張をしていますー殺すには十分なほど。しかし、誰だって何でも主張することはできます。問題はーイエスにそれが証明できるかです。マルコ2章では、イエスはカペナウムのとある家で教え、みことばを語りだしておられます。2節:
「多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。」
つまり、大群衆がいて、イエスが彼らにみことばを語っておられるーこれこそ聖書です。イエスはいつも神のみことばに重きを置かれました。奇跡も起こされましたが、イエスはその奇跡をしるしと呼ばれました。しるしというものは何かを示すものです。その完璧な例が、今日のお話です。3節:
「すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風のものを寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」
ちょっと待ってください。巻き戻してみましょう。今イエスは、「あなたの罪はゆるされた」と言われたのですか?この男の人は、癒されるために来たのであって、ゆるしを求めて来たわけではありません。しかしイエスは知っているのです。人生には、罪とゆるしほど大きな問題はないということを。では、次に何が起こるか見てみましょう。ユダヤ人の律法学者が何人かいて、ショックを受けているようです。
「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。(マルコ 2:7)
最後の部分については、彼らは合っています。罪をゆるすと言えることは神の権威によるものです。もしそうでなかったら、これは神をけがすことですーとても重い罪です。イエスは彼らの考えを知って、質問を投げかけられました。9節:
「『中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。』」
私はこの質問が大好きです。考えてみて下さい。言うのはどちらの方が簡単でしょうか?「あなたの罪はゆるされた。」こちらの方が、誰にも見えないことなので言うのは簡単ですが、実行するのは大変です!神様だけが罪をゆるすのですから!でも、中風の人に言うには、「起きよ、床を取りあげて歩け。」ーこれは大きな賭けです。みんなが見ています。ですからイエスは10節で続けて言われます。
「『しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』と彼らに言い、中風の者にむかって、 『あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ』と言われた。 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚いた。」
ここで起きた奇跡は最高です。中風の人が歩くのですから!しかし、しるしを見逃さないでください。このしるしは、イエスの権威を示しています。イエスは、罪をゆるす神の権威を持っておられることを証明されました。そして、すぐ次の話でもう一度その権威を用いられます。13節で、イエスは海べで教えていて、取税人として働くレビをご覧になります。この時代、不誠実な取税人は、国に納める分より多く税金を集め、懐に入れて私腹を肥やしていたので、人々から罪人と軽蔑されていました。しかしそれでもイエスはレビに近づいて行かれました。
「『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」(2:14)
また同じ言葉、同じ招きが出てきました。しかしイエスがこの時招かれたのは罪人ーとても悪い人です。そしてレビは従ったのです!その上、レビがイエスとその弟子を夕食に招いた時、そこにはさらに多くの罪人たちがいました。当時のパリサイ派の人たちにとっては、これは特に理解し難いことでした。パリサイ派の人たちというのは、宗教的なー裁いたり、自分が一番正しいと思っている類のーリーダーだったのですが、これがどうにも理解できなかったのです。もしイエスが良いラビならば、
「『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(2:16)
17節は奥深いです。
「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」
このことを忘れないでください。イエスは罪人を選ばれたのです。レビは罪人でした。その友達も同じです。しかし、ちょうど医者が病気を治しに来るように、イエスはやって来て罪をゆる��、完全な状態に戻してくださるのですー彼らを義人とするために。義人とは、神にあって正しい人のことです。これは大切な言葉です。相手との関係が正しい状態にあって、あなたとの間を隔てるものは何も無い時の、あの気持ちを知っていますよね。そして、相手との関係が正しくなく、あなたが何かしでかしたために二人の間に壁ができた時のあの気持ちも、きっと知っていますよね。さて、私たちと神様の今の関係はここなのです。罪が、私たちを隔てています。私たちは間違いを犯してしまったのです。しかし、福音ー良い知らせーは、イエスが私たちをもう一度正しくするために来てくださったと告げています。イエスは罪をゆるし、私たちを義人と呼んでくださるのです。主が私たちに求められるのは信仰です。信仰によって義人となるのです。さらに素晴らしいことには、イエスは罪人を選び、正しくすると、神のお手伝いのため送り出し、遣わされるのです。3章では、イエスがご自分のところに12人を集められ、使徒に任命されるところを読みます。従った人は、1人ずつ送り出されて行きますーちょうど大使のように。その12人の中にはレビもいましたが、ただ名前はマタイに変わっています。イエスは罪人を選ばれ、ゆるされ、癒され、変えられ、そして今度は全ての人に福音を伝えるため、送り出されるのですー神はあなたを愛している、という福音を。驚きですね。そしてイエスは今日もそうしておられるのです。今日はマルコによる福音書2章と3章を読みましょう。時間があれば、「章全体を読む」をタップして、物語の全貌を見てみましょう。では4章でまたお会いしましょう。
ふりかえりと話し合いのために
宗教的なリーダーの人たちにとって、イエスが罪人たちと共におられることはなぜ受け入れがたかったのでしょうか。
イエスは2:17で深いことを語られました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これはあなたにとって何を意味するでしょうか。
ゆるすことは、あなたの人生でどのような役割を果たしましたか。あなたの物語を教えてください。
“この人に、『あなたの罪が赦されました』と言うのと、『起きて歩きなさい』と言うのと、どちらがやさしいですか。さあ、メシヤ(ヘブル語で、救い主)のわたしが罪を赦したという証拠を見せてあげましょう。」イエスは中風の男のほうに向き直り、「あなたはもうよくなりました。床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。
しかし、イエスはお答えになりました。「アビヤタルが大祭司のころ、ダビデ王とその家来たちが空腹でがまんできなかった時、神殿に入って、祭司以外が食べてはいけない特別のパンを食べたというのを、読んだことがないのですか。それもおきてに反することでしょうか。 数日後、イエスはカペナウムに戻られました。すると、イエス来訪のニュースはたちまち町中に伝わり、 人々が大ぜい集まって来ました。家は足の踏み場もないほどで、外まで人があふれています。その人たちに、イエスは神の教えを語られました。 その時、四人の人が、中風(脳出血などによる半身不随、手足のまひ等の症状)の男をかついで運んで来ました。 しかしあまりの人に、群衆をかき分けて中へ入ることもできません。そこで、屋根にのぼり、穴をあけると、そこから病人を寝���のまま、イエスの前へつり降ろしました。 必ず治してもらえると、堅く信じて疑わない彼らの信仰をごらんになって、イエスは中風の男に、「あなたの罪は赦されました」と言われました。 ところが、その場にいた何人かのユダヤ人の宗教的指導者たちの心中は、おだやかではありませんでした。 「なんだと! 今のは神を汚すことばだ。いったい自分をだれだと思っているのか。罪を赦すなんて、神にしかできないことなのに。」 イエスはすぐに、彼らが心の中で理屈をこねているのを見抜かれました。「どうして、そう思うのですか。
すると男は飛び起き、寝床をかかえ、あっけにとられている見物人を押し分けて、出て行ってしまいました。「こんなことは、見たこともない!」人々は口々に叫び、心から神を賛美しました。 イエスはまた湖畔に行き、集まって来た群衆にお教えになりました。 岸辺を歩いておられると、税金取立て所にアルパヨの子レビ(マタイ)が座っていました。「ついて来て、わたしの弟子になりなさい。」イエスの呼びかけに、レビはさっと立ち上がり、あとに従いました。 その夜、レビはイエスを夕食に招待しました。その席には、取税人仲間や、評判の悪い人たちも多く招かれていました。イエスに従う者には、こういう人々も多かったのです。 これを見たパリサイ派(特に律法を守ることに熱心なユダヤ教の一派)の律法学者は、弟子たちに詰め寄りました。「おまえたちの先生は、どうして、こんなどうしようもない連中といっしょに食事をするのか。」 彼らの非難に、イエスはこうお答えになりました。「丈夫な者に医者はいりません。病人こそ医者が必要なのです。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」 バプテスマのヨハネの弟子やパリサイ人たちは、断食のおきてを守っていました。ある時、彼らが来て、「どうして先生のお弟子さんたちは断食しないのですか」と問いただしました。 イエスは、こうお答えになりました。「花婿の友人は、披露宴の席で、ごちそうに手をつけなかったり、嘆き悲しんだりはしません。 しかし、やがて花婿が彼らから引き離される日が来ます。その時には断食するのです。 こう言えばわかるでしょう。水洗いしていない新しい布で、古い着物の継ぎ当てをしてごらんなさい。どうなりますか。当て布は縮んで着物を破り、穴はますます大きくなってしまうでしょう。 新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしません。そんなことをしたら、皮袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれ、どちらもだいなしでしょう。新しいぶどう酒には、新しい皮袋が必要なのです。」 ある安息日(神の定めた休息日)のこと、イエスと弟子たちは麦畑の中を歩いていました。すると、弟子たちが麦の穂を摘んで、食べ始めました。 これを見たパリサイ人たちは、「お弟子さんたちがあんなことをするなんて! 安息日に刈り入れをするのは違反なのをご存じのはずでしょう」と、イエスに抗議しました。
いいですか。安息日は人間のためにつくられたのであって、人間が安息日のためにつくられたのではありません。 メシヤ(救い主)のわたしには、安息日に何をしてよいかを決める権威もあるのです。」”
マルコの福音書 2:1-28 JCB
“一方、イエスと弟子たちは湖のほとりへ立���のきましたが、それでも、ガリラヤ全地、ユダヤ���エルサレム、イドマヤばかりか、ヨルダン川の向こう岸、さらにツロやシドンといった遠方からも、たくさんの群衆がやって来て、あとについて行きました。イエスの奇跡の評判が広まるにつれ、「ひと目でいいからイエス様を見たい」と、人々が押しかけたのです。
十二人の名前は次のとおりです。シモン〔イエスによって「ペテロ」と名づけられた〕、ヤコブとヨハネ〔ゼベダイの息子で、イエスから「雷の子」と呼ばれた〕、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、ヤコブ〔アルパヨの息子〕、タダイ、シモン〔「熱心党」という急進派のメンバー〕、イスカリオテのユダ〔後にイエスを裏切った男〕。 カペナウムで、イエスがまた会堂に入られると、そこに片手の不自由な男がいました。 その日は安息日だったので、イエスに敵対する者たちは、イエスの行動に目を光らせていました。この男の手を治しでもしたら、訴えてやろうと待ちかまえていたのです。 イエスはその男を呼び、会衆の前に立たせられました。 それから、敵対する者たちのほうを向いて言われました。「さあ、答えてください。安息日に良いことをするのと悪いことをするのと、どちらが正しいですか。安息日はいのちを救う日ですか、それとも殺す日ですか。」彼らは押し黙っていました。 イエスは、彼らの冷淡さ、頑固さを深く嘆き、怒りを込めて見回すと、その男に、「さあ、手を伸ばしてごらんなさい」と言われました。男がそのとおりにすると、男の手はたちどころに治ってしまいました。 おさまらないのはパリサイ人です。すぐ会堂を飛び出し、ヘロデ党(ヘロデ王を支持する政治的な一派)の者たちと、イエスを殺す計画を相談し始めました。
イエスは、群衆が岸辺に押し寄せても大丈夫なように、弟子たちに小舟を一そう用意させました。 その日、多くの病人が治されたと聞いて、病気の人たちがみな、何とかしてイエスにさわろうと詰めかけたからです。 また、悪霊につかれた人たちは、イエスの姿が目に入りさえすればその前にひれ伏して、「あなたは神の子です!」と叫ぶのでした。 イエスは彼らに、ご自分のことをだれにも口外してはいけないと、きびしく警告なさいました。 その後イエスは丘に登り、これまでに選んだ者たちを召集されました。みなが集まったところで、 十二人の者を特別に選び出されました。いつもそば近くに置き、彼らに福音(キリストによる救いの知らせ)を宣べ伝えさせたり、 悪霊を追い出させたりするためでした。
イエスが泊まっていた家に戻られると、群衆がまた集まって来ました。まもなく家の中は人でいっぱいになり、みなは食事をする暇もないほどでした。 イエスのことを身内の者たちが聞き、家に連れ戻そうとしました。「あの男は気がおかしくなっている」と言う人たちがいたからです。 また、エルサレムから来ていたユダヤ教の教師たちは、こんなふうにうわさしました。「やつは、悪霊の王ベルゼブル(サタン)に取りつかれているのだ。だから、手下の悪霊どもがやつの言うことを聞いて、おとなしく引き下がるのだ。」 イエスは、そんなことを言う人々をそばに呼び、だれもがわかるように、たとえを使って話されました。「どうして、サタンがサタンを追い出せるでしょうか。 内部で分かれ争っている国は、結局自滅してしまいます。 争い事や不和が絶えない家庭は、崩壊するだけで���。 サタンの場合も全く同じことです。内部で争っていたら、何もできないばかりか、生き残ることさえできません。 強い人の家に押し入って、その財産を盗み出すには、まずその強い人を縛り上げなければならないでしょう。悪霊を追い出すには、まずサタンを縛り上げなければならないのです。 これは大切なことですから、はっきり言います。人が犯す罪は、どんな罪でも赦してもらえます。たとえ、わたしの父を汚すことばでも。 しかし、聖霊を汚す罪だけは、決して赦されません。それは永遠の罪なのです。」 こう言われたのは、彼らが、イエスの奇跡を聖霊の力によるものだとは認めず、サタンの力によるのだと言っていたからです。 さて、イエスの母と弟たちが、教えを聞く人々でごった返す家に来て、イエスに話があるから出て来るようにと、ことづけました。 「お母様と弟さんたちが、お会いしたいと外でお待ちです」と言われて、 イエスはこうお答えになりました。「わたしの母や兄弟とは、いったいだれのことですか。」 それから、ぐるりと回りを見渡し、「この人たちこそわたしの母であり兄弟です。 だれでも、神のお心のままに歩む人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われました。”
マルコの福音書 3:1-35 JCB
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2つの時代を生きる私たち
フランシスコ以前と以後で教会は大きく変わりました。
フランシスコが教皇の座について4年になりますが、この4年のうちにバチカンはすっかり様変わりしました。
フランシスコの力量をもってすれば4年あれば十分と予測していた人がいましたが、そのとおりバチカンの劇変は成し遂げられました。
35年に及んだヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の時代のバチカンはもうそこにはありません。二人の教会の偉大な保護者が積み上げた財産はかけらも残っていない、と言っても過言ではありません。二千の教会の歴史上例を見ない変革者であるアルゼンチン人の教皇の手でそれは一掃されてしまいました。
サン・ピエトロの佇まいは変わりませんが、中の組織人事が劇的に変わりました。要職はみる間にフランシスコの色一色に染まりました。ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世が全幅の信頼を寄せた高官はいなくなりました。
バーク枢機卿がいなくなりました。サラ枢機卿がいなくなりました。二人の高官が異動を余儀なくされたのは、二人が教会の伝統的な教えに忠実な、その意味でヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世と同じ教会の保護者だったからでした。
ベネディクト16世も人事に強権を発動したことがありました。あるカトリック大学の教授がその地位が剥奪されました。理由は、その教授が教会の伝統的な教えに反する学説を主張しつづけていたからでした。
対照的に、フランシスコは教会の伝統的な教えを頑なに守る者を斥けます。伝統的な教えに固執する態度を「キリストと似ていない」「ファリサイ派のようだ」と非難します。変革を受け入れない者にいっさいの容赦がありません。
さらには、バチカンが主導する神学が変わりました。これはもう別の宗教になったのかと思うほどの信じがたい変化です。ヨハネ・パウロ2世が提唱し、偉大な神学者であるベネディクト16世から二千年の神学の歴史の集大成と評された「からだの神学」は、フランシスコの変革によってバチカンの表舞台から姿を消すことになりました。代わって、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世が声を限りに異端と叫びつづけた「解放の神学」が、今ではバチカンの正統な神学となりました。
言うならばフランシスコの変革は、「解放の神学」の実践にほかなりません。
避妊、女性司祭、姦淫の罪の状態にある者への拝領。これら、二人の前任者が妥協なく拒絶してきた事がらに「解放」の道が開かれようとしているのは明らかなようです。
教会の保護者が教会のリーダーだった時代が35年つづきました。
教会の変革者が教会のリーダーになって4年がたちました。
バチカン内部の変革にとどまりません。「世界」に対する教会の立ち位置がすっかり変わっていることにも注意が必要です。
「世界とともにある教会」 世の中の主要メディアを完全に味方につけているフランシスコの目指す教会のビジョンです。
「世界にNOと言う教会」 メディアを敵に回しながらヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世が示しつづけた教会の姿勢です。
フランシスコ革命ともいうべき変革の成果を、今フランシスコ自身がどう自己評価しているかはわかりません。ただ、大きな誤算が2つありました。
ひとつは、まさかのトランプ大統領の誕生、まさかのヒラリー落選です。大統領選挙戦の当初からフランシスコがトランプに敵対していたのは周知ですが、ヒラリーとフランシスコの二人は世界のリベラル化を押し進める両輪と目されていました。しかしヒラリーを欠いたことで、フランシスコが前面に押し出されるかっこうになりました。教会のリーダーは、リベラル陣営を代表する「世界」のリーダーになると同時に、コンサバティブ陣営からの批判の矢面に立たされることになりました。
もうひとつの誤算は、フランシスコの変革に対するバチカン内外での反発が顕著になったことです。改革路線は一筋縄ではありませんでした。世界はフランシスコの肩をもつのに、むしろ教会はフランシスコの足をひっぱります。
2015年秋に家族をテーマに話し合われた世界代表司教会議「シノド」の結語としてフランシスコが著した使徒的勧告「アモリス・レティティア」は、フランシスコ革命の白眉となるものでした。教義の一貫性よりも現場の司祭による「いつくしみ」をもった個々の判断が優先されることで、離婚し再婚した信徒への拝領の道が開かれることになりました。「アモリス・レティティア」に呼応して、ドイツの司教団は再婚者への拝領を可能とする新たな指針を発表しました。
こうして教会が一丸となって変革路線がすすめられたならフランシスコはさぞハッピーだったことでしょう。しかしそうは問屋が卸しませんでした。神の計画は計り知れません。
「アモリス〜」を疑問視する声はあまりにも強大で、ひとつ��事件を巻き���こすまでになりました。再婚者への拝領の禁止は教会の教えに照らして変更することは不可能であり、フランシスコの勧告にある曖昧さは教会に混乱をもたらすものであり、その中でも特に曖昧な部分を教導職として明確にしてほしい、という要望がバーク枢機卿をはじめとする4人の枢機卿の名でフランシスコ宛に公開質問状として提出されることになりました。
イエスかノーかの答えを求めた5つの質問からなるその「デュビア」に対し、フランシスコは完全に無視を決め込んでいます。高官による自らへの反論に対しては、公式に手紙のかたちで返答していたベネディクト16世とはまた対照的です。フランシスコは態度を硬化させ、4人の枢機卿のとったおこないは教会を去るに値すると非難します。
昨年11月の公開以来「デュビア」の波紋は大きくなるばかりです。4人の枢機卿に賛同し、その後「デュビア」支持を表明した枢機卿・司教は14名にのぼります。一方、「デュビア」への違和感、不快感を公にした枢機卿・司教は15名。フランシスコに圧力をかける側とフランシスコを擁護する側のせめぎ合いはこれからさらに白熱しそうです。
ことほどさように教会は、かつてない分裂状態にあります。
しかし、改革と混乱をもたらしたフランシスコの時代に、私たちは大いなる「時のしるし」を見出すことができるのではないでしょうか。
ヨハネ・パウロ2世はサン・ピエトロの地下の墓に眠り、退位したベネディクト16世は沈黙を貫いていますが、この期に及んでヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の時代が過去のものとなっていないことがいよいよ浮き彫りになった感があります。
「アモリス・レティティア」が議論を呼んだことで、改めて秘跡の意義が見直されるようになりました。結婚の危機が叫ばれる中で、「からだの神学」にはかつてない関心が寄せられるようになりました。
私たちはフランシスコの時代を生きているだけではありません。ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の時代を今、私たちは生きているのです。
改革と保護のあいだで2つの時代が錯綜しながら、教会は発展していくのでしょう。たんに世俗化をすすめるだけでなく、ただNOと言うだけでなく、教会は世界との新たな関係を切り開いていくことでしょう。
私たちがこの時代の証人になれることを、神に感謝。
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わたしは、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆を見た。
黙示録7・2-4、9-14
わたしは、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆を見た。
ヨハネの黙示
7・2わたしヨハネはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、10大声でこう叫んだ。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」 11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
13すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」14そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
答唱詩編
詩編24・1+2、3+4、5+6
門よ、とびらを開け、永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入る。
詩編24
24・1地とそこにあるもの、 世界とそこに住むものは神のもの。 2神は海に地の基をすえ、 水の上に固められた。
3だれが神の山に登れよう。 だれが聖所に立てよう。 4それは手に汚れなく、心の清いひと、 むなしいことに心を向けず、いつわりを口にしないひと。
5その人は神に祝福され、 救いの恵みを受ける。 6彼はヤコブの一族、 神を求め、その顔を慕う。
第二朗読
➀ヨハネ3・1-3
わたしたちは御子をありのままに見る
使徒ヨハネの手紙
愛する皆さん、3・1御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
福音朗読
マタイ5・1-12a
アレルヤ、アレルヤ。労苦して重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを回復させよう。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
そのとき、5・1イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。 3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
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神と富、どちらが主人?
主を愛する者たちよ、 悪を憎め。詩篇97:10
あなたがたは 神と富とに仕えることはできない。マタイ6:24
ルカ22:14~20 マタイ7:24~29(通読箇所) (ローズンゲン『日々の聖句』7/28;金)
―――― α&ω ――――
聖書が啓示している神、天の神、【主】、 「『わたしはある(I am)』という者」と 名乗られる方(出エジプト3:14)。
この方を愛する者、 この方の御思いが成ることを願う者は、 悪、この方と対立、対抗して、 自分の善悪の判断をこの方の善悪の判断よりも優先する 生き方を憎むのですね。
なぜなら、それが、すべての悪の根源なのですから。
ですからイエスは言われます。 「だれも二人の主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛することになるか、 一方を重んじて他方を軽んじることになります。 あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と。
イエスが十字架刑での処刑を受けられたのは、 過越しの祭りのときなのですね。
そして、過ぎ越しの祭りで、大祭司がエルサレム神殿で 羊を屠(ほふ)るその時刻にイエスは息を引き取られて。
過越しの祭りは、 昔、モーセの時代(紀元前1500年頃)、 エジプトで奴隷であったイスラエルの民が エジプトを脱出しようとする時、 これを阻止するエジプトの王ファラオは、 神がモーセを通して九つの災害をもってエジプトを打っても、 なお、心を頑(かたく)なにし、 イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。
そして、モーセに、 「私のところから出て行け。 私の顔を二度と見ないように気をつけろ。 おまえが私の顔を見たら、 その日、おまえは死ななければならない」と 最後通告を言い渡しました。
それで神である【主】は、エジプト中の長子、 王の長子から奴隷の長子、家畜の初子に至るまでを 打たれ、死ぬことを言い渡されました。
そして神は命じて言われました。 「その月(旧暦)の10日に、 家族ごとに、傷のない一歳の羊を取り分け、 14日まで、それをよく見守り、 14日の夕暮れにそれを屠(ほふ)る。 そして、その血を取り、羊を食べる家々の 二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
そして、その夜、その肉を食べる。 それを火で焼いて、 種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、 人から家畜に至るまで、 エジプトの地のすべての長子を打ち、 また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。 わたしは主である。
その血は、あなたがたのいる家の上で、 あなたがたのためにしるしとなる。 わたしはその血を見て、あなたのところを過ぎこす。 わたしがエジプトの地を打つとき、 滅ぼす者のわざわいは、 あなたがたに起こることはない。」(出エジプト10 :27~ 12: 13)
神は、イスラエルの民に、 この出エジプトの出来事を記念して、 毎年、過越しの祭りを行うよう命じられました。 イエスご在世当時、 家々で羊を屠ることはなかったのでしょうが、 その代表として、夕暮れ(午後3時頃)、 エルサレム神殿で、大祭司が羊を屠り、 それが完了するとラッパが吹き鳴らされたそうです。
イエスは、この過越しの食事を 一日前に行われたようです。
ルカは記します。
その時刻が来て、イエスは席に着かれ、 使徒たちも一緒に座った。 イエスは彼らに言われた。 「わたしは、苦しみを受ける前に、 あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを、 切に願っていました。
あなたがたに言います。 過越しが神の国において成就するまで、 わたしが過越しの食事をすることは、決してありません。」
そしてイエスは杯を取り、 感謝の祈りをささげてから言われた。 「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。 あなたがたに言います。 今から神の国が来るときまで、 わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは 決してありません。」
それからパンを取り、 感謝の祈りをささげた後これを裂き、 弟子たちに与えて言われた。 「これは、あなたがたのために与えられる、 わたしのからだです。 わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、杯��同じようにして言われた。 「この杯は、あなたがたのために流される、 わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:14~20)
このようにして、エレミヤ書に記され、 エゼキエル書に記されている 「新しい契約」が始まったのですね。
(エレミヤ31~34) 「見よ、その時代が来る——【主】のことば——。 そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、 新しい契約を結ぶ。 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようではない。 わたしは彼らの主であったのに、 彼らは私の契約を破った——【主】のことば——。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は こうである——【主】のことば——。 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。 彼らはもはや、それぞれ隣人に、 あるいはそれぞれ兄弟に、 「【主】を知れ」と言って教えることはない。 彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、 わたしを知るようになるからだ。——【主】のことば——。 わたしは彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪(「的外れ」)を 思い起こさないからだ。」
「わたしが きよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、 あなたがたはすべての汚(けが)れからきよくなる。 あなたがたに新しい心を与え、 あなたがたのうちに新しい霊を与える。 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、 あなたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、 わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを 守り行うようにする。」(エゼキエル36:25~27)
イエスは言われます。 「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、 それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた 賢い人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、 風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。 岩の上に土台が据えられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いて、 それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた 愚かな人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、 風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。 しかもその倒れ方はひどいものでした。」
イエスがこれらのことばを語り終えられると、 群衆はその教えに驚いた。 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、 権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:24~29)
イエスのことばを聞いてそのとおりを、 自分の力でやっていこうとする生き方は、 シナイ山以来の「古い契約」の生き方であり、 神を愛し、神と思いを一つにしていく生き方ではなく、 神の向こうを張って 自分の誇り、自分の誉れを求めていく生き方。
「神の一人のようになり、善悪を知る者」になっている 〔生まれたときからの私〕の善悪の判断を土台として 人生という家を建てている人、ということなのでしょうね。
この〔生まれたときからの私〕という私の霊から出て来た 善悪の判断は、 イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて 「死んだ者」から出て来た思いであることを認めて、 イエスの前に差し出しながら、 イエスを通して���てくださる 「わたしの霊」と言われる【聖である霊】と呼ばれる方が 心に置いてくださる【父である神】の思いによって生きる 「新しい契約」の生き方が、 「神の御思い」という岩盤を土台として 人生という家を建てる生き方なのでしょうね。 私たちも、この方を待ち望んで。
今日も。
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J.S. Bach - Cantata BWV 22 Jesus nahm zu sich die Zwölfe | 5 Chorale
ヨハン・セバスチャン・バッハ (Johann Sebastian Bach)
カンタータ第22番 「イエスは十二使徒をひき寄せ」 BWV 22 BC,A48
第5曲 コラール 「あなたの寛容によって私たちを死なせてください」”Ertöt uns durch dein Güte”
J.S.バッハ財団管弦楽団&合唱団 (J.S.Bach-Stiftung)
ルドルフ・ルッツ (Rudolf Lutz)
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主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください
創世記
その日、主は言われた。
18・20「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。21わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
22その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。23アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
26主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
27アブラハムは答えた。
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。
「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
29アブラハムは重ねて言った。
「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
30アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
31アブラハムは言った。
「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
32アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
33主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
答唱詩編
詩編138・1+2ab、4+5+7d、8
主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
詩編138
138・1神よ、わたしは心を尽くしてあなたに感謝し、 神の使いの前であなたをたたえる。 2abあなたの神殿に向かってひれ伏し、 いつくしみとまことのゆえにあなたに感謝をささげる。
4神よ、国々の王はあなたのことばを聞き、あなたをたたえる。 5彼らはあなたのわざを喜び歌う。 7d「神の栄光は偉大。」 神は右の手でわたしを救われる。
8神はわたしに約束されたことを、 すべて成しとげられる。 神よ、あなたのいつくしみは永遠。 造られたすべてのものを見捨てないでください。
第二朗読
コロサイ2・12-14
神はあなたがたをキリストと共に生かし、一切の罪を赦してくださった
使徒パウロのコロサイの教会への手紙
皆さん、あなたがたは、2・12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。13肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
福音朗読
ルカ11・1-13
アレルヤ、アレルヤ。神の子とする霊のうちにあって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶ。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
11・1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
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見よ、主なる神が助けてくださる。
イザヤ50・5-9a
見よ、主なる神が助けてくださる。
イザヤの預言
50・5主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。 6打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 7主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。 8わたしの正しさを認める方は近くいます。 誰がわたしと共に争ってくれるのかわれわれは共に立とう。 誰がわたしを訴えるのかわたしに向かって来るがよい。 9a見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。
答唱詩編
詩編116・1+2+3+4、5+6a+7b、8ab+9
荒れ地のかわき果てた土のように、神よ、わたしはあなたを慕う。
詩編116
116・1わたしは神を愛する。2神はわたしの声を聞き、 日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。 3死とその苦しみが迫り、苦悩の中にあったとき、 わたしは神の名を求めて叫んだ。4「神よ、わたしを助けてください。」
5神は恵みといつくしみに満ち、 わたしの神はあわれみ深い。 6a神は素朴な人の支え、 7b神は恵みを注いでくださった。
8ab神はわたしを死から救い、 足がつまずかないように支えられた。 9わたしは神の前を歩む、 神に生きる人々の中で。
第二朗読
ヤコブ2・14-18
わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
使徒ヤコブの手紙
2・14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
福音朗読
マルコ8・27-35
アレルヤ、アレルヤ。わたしには主の十字架のほかに誇るものはない。世はわたしにとって、わたしも世にとって十字架に付けられている。アレルヤ、アレルヤ。
マルコによる福音
そのとき、8・27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか��と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
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わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。
ヨシュア24・1-2a、15-17、18b
わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。
ヨシュア記
その日、24・1ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、2aヨシュアは民全員に告げた。
15「もし主に仕えたくないというならば、〔ユーフラテス〕川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
16民は答えた。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18bわたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
答唱詩編
詩編34・2+3、16+18、19+23
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
詩編34
34・2主をたたえよう、 明け暮れ賛美を口にして。 3主はわたしたちの口の誇り、 苦しむ時の心の喜び。
16主のまなざしは正しい人に、 耳は彼らの叫びに。 18主は正しい人の声を聞き、 悩みの中から救ってくださる。
19主はしいたげにあう者のそばにおられ、 失意の人を支え、 23主はそのしもべの魂をあがない、 より頼む人を滅びから救われる。
第二朗読
エフェソ5・21-32
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
皆さん、5・21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
福音朗読
ヨハネ6・60-69
アレルヤ、アレルヤ。主よ、あなたのことばは霊であり、いのちです。あなたは永遠の命のことばをもっておられる。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
そのとき、6・60弟子たちの多くの者はイエスの話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。63命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れ���行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
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