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#アレックス・R
tokyonow · 3 months
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(みとゆな、澤村光彩、柊太朗ら人気キャストが熱演!青春ショートドラマ『#ガシャ恋』6月28日より配信スタート – Tokyo Nowから)
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ryotarox · 2 months
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みんなが好きな「『百年の孤独』みたいな大河小説」ベスト10|秋永真琴
『楡家の人びと』北杜夫
『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン
『大地』パール・バック
『千年の愉楽』中上健次
『べっぴんぢごく』岩井志麻子
『笛吹川』深沢七郎
『ルーツ』アレックス・ヘイリー
『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー
『永遠の都』加賀乙彦
『警官の血』佐々木譲
『天冥の標』小川一水
『紀ノ川』有吉佐和子
- - - - - - - - - - - - - - - - 「響け!ユーフォニアム」も部活の年代記なのかも。
(順不同)
『ときめきトゥナイト』池野恋
『精霊たちの家』イザベル・アシェンデ
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
『炸裂志』エン・レンカ
『大聖堂』ケン・フォレット
『警察署長』スチュアート・ウッズ
『枯木灘』中上健次
『奇蹟』中上健次
『ワイルド・スワン』ユン・チアン
『邯鄲の島遥かなり』貫井徳郎
『平家物語』古川日出男/訳
『血脈』佐藤愛子
『源氏物語』紫式部
『奏で手のヌフレツン』酉島伝法
『俺の屍を越えてゆけ』桝田省治(ゲームデザイン)
『助左衛門四代記』有吉佐和子
『指輪物語』J・R・R・トールキン
『チグリスとユーフラテス』新井素子
『星へ行く船(他、コバルト文庫のシリーズ)』新井素子
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド
『火星夜想曲』イアン・マクドナルド
『黎明の王 白昼の女王』イアン・マクドナルド
『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ
『ジョイ・ラック・クラブ』エィミ・タン
『ウォーリアーズ』エリン・ハンター
『異形の愛』キャサリン・ダン
『王朝四代記』ククリット・プラモート
『ベルリン三部作(1919・1933・1945)』クラウス・コルドン
『六道ヶ辻シリーズ』栗本薫
『鳥の歌いまは絶え』ケイト・ウィルヘルム
『地下鉄道』���ルソン・ホワイトヘッド
『征途』佐藤大輔
『あすなろ坂』里中満智子
『ケインとアベル』ジェフリー・アーチャー
『ゲームの達人』シドニィ・シェルダン
『氷と炎の歌』ジョージ・R・R・マーティン
『エデンの東』ジョン・スタインベック
『グリークス』ジョン・バートン/ケネス・カヴァンダー(編)
『リーマン・トリロジー』ステファノ・マッシーニ
『雪の練習生』多和田葉子
『鯨』チョン・ミョングァン
『火の山-山猿記』津島佑子
『レオポルトシュタット』トム・ストッパード
『地の果て至上の時』中上健次
『岬』中上健次
『彼女はマリウポリからやってきた』ナターシャ・ヴォーディン
『九時半の玉突き』ハインリヒ・ベル
『土地』パク・キョンニ
『レ・ミゼラブル』ビクトル・ユゴー
『棺のない埋葬』 ファン・ファン
『楊家将演義』作者不明
『デューン砂の惑星』フランク・ハーバート
『ゴッドファーザー』フランシス・フォード・コッポラ監督
『北京から来た男』ヘニング・マンケル
『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』堀井雄二(ゲームデザイン)
『舟を編む』三浦しをん
『櫂』宮尾登美子
『孟夏の太陽』宮城谷昌光
『血族』山口瞳
『華麗なる一族』山崎豊子
『大奥』よしながふみ
『血脈 西武王国・堤兄弟の真実』レズリー・ダウナー
『シンセミア』阿部和重
『流離譚』安岡章太郎
『雲の都』加賀乙彦
『ロマンシングサ・ガ2』河津秋敏(ゲームデザイン)
『サガフロンティア2』河津秋敏(プロデューサー)
『颶風の王』河﨑秋子
『リア家の人々』橋本治
『アラビアの夜の種族』古川日出男
『聖家族』古川日出男
『白夜を旅する人々』三浦哲郎
『導きの星』小川一水
『地図と拳』小川哲
『機動戦士ガンダムAGE(小説版)』小太刀右京
『われ逝くもののごとく』森敦
『本格小説』水村美苗
『始まりの魔法使い』石之宮カント
『夜明け前』島崎藤村
『カムカム・エヴリバディ』藤本有紀(脚本)
『男樹』本宮ひろ志
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honyakusho · 2 months
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2024年8月7日に発売予定の翻訳書
8月7日(水)には9点の翻訳書が発売予定です。
Python機械学習クックブック 第2版
Kyle Gallatin Chris Albon/著 中田秀基/翻訳
オライリー・ジャパン
シンデレラ・バレリーナ レッスン後はひみつ!
グエナエル・バリュソー/著 清水玲奈/翻訳 森野眠子/イラスト
ポプラ社
運動学習・運動制御理論に基づくアジリティトレーニング
フラン・ボッシュ/著 谷川聡/監修・翻訳
大修館書店
完訳 ビーグル号航海記 上
チャールズ・R.ダーウィン/著 荒俣宏/翻訳
平凡社
新訳 モンテ・クリスト伯 2
アレクサンドル・デュマ/著 西永良成/翻訳
平凡社
世界を変えた100の小説[上]
コリン・ソルター/著 角敦子/翻訳
原書房
世界を変えた100の小説[下]
コリン・ソルター/著 角敦子/翻訳
原書房
バター・コーヒーの舞台裏
クレオ・コイル/著 小川敏子/翻訳
原書房
スパイと嘘
アレックス・ジョスキ/著 奥山真司/翻訳 峯村健司/解説
飛鳥新社
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benediktine · 5 years
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【アレックスをめぐる回想9】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30392060.html : https://archive.fo/8xDtR 2012/12/19(水) 午後 0:31
そのアレックスの歴史観でしたが、第二次世界大戦のことの話になりました。ドイツ嫌いのアレックスにドイツ人の親戚がいたことは、まずほとんどの人がご存じないでしょう。
アレックスとバートランド・ラッセルの「ナチズムの起源」の内容やアラン・ウッドとラッセルの内容を話していた時、ラッセルが「第一次世界大戦のあとの賠償金を戦勝国がドイツからとるにあたって、ドイツが未来永劫返しきれないようなシステムをつくりあげ、彼らがハイパーインフレにみまわれ、また自分たちの自信を徹底的にうちくだかれた。もし、戦勝国があそこまでドイツをいたぶらなければ、あそこまでのナショナリズムのナチスはあらわれなかっただろう」と言う見解を示しているのを私が話したところ、アレックスは、 「ワシもまったく同感だ。第一次世界大戦のときのドイツは、英国やフランス、オランダが持っていたような植民地を自分たちドイツも持ちたいと思ったのじゃろう。ワシの親類のオットーはよく地団太を踏んで『君達英国やフランスやオランダは、広大な植民地をもっている。どうしてそれと同じものを持とうとドイツがするのをいつも阻止しようとするのか」と言っておった。これは日本も同じだったのではないか?あの時代は世界は植民地の時代じゃった。19世紀まで鎖国をして江戸時代は数百年間、拡大政策をとらないできた日本ははじめて世界を見た。その時西欧列強はみんな植民地を持っていた。『なぜ我々がやってはいけないか?』と思ったんじゃろう。マンチュリアはロシアも狙っていた。日本はロシアに戦争で勝っていたし、そこへ出て行ったのだろう。悪いことをやっていたのは西欧諸国もみな同じだ。あの時、開国から数十年しか経っていなかった世界を良く知らない日本が悪いお手本をコピーしたのは、一方的に責めるわけにはいかない。その日本自身も、うかうかしていたら西欧列強の植民地になりかねなかったのだから。」
アレックスはそういう見解をもっており、さらに技術者というものは、いかなる政治体制のもとでも自らの仕事に没頭するものだ、と言って、日本の航空技術者のやりかたはすばらしかった、I respect that.とゼロ戦や隼に讃嘆を惜しみませんでした。実際、「ゼロのエンジンが見たい」というので彼を須田町にあった交通博物館まで連れて行ったこともありました。
TAROさんが英国から日本へ帰って来たときのこと、新宿の焼き鳥屋へ二人で行った時のことです。 「R&Fさんさぁ。オレはすごく気になってることがあるんだ。博士のとこにナチスのV2ロケットの模型があるじゃない。あれってナチスが作ったホンモノの模型なんじゃないかな?」 「そんなのあったかな?気がつかなかった。」 「このくらいの大きさでさ。あれって、博士の世代とか地位考えても、ドイツから戦後戦利品で流れたとしか思えないよね。あんなの作ってどっかが売り出したなんて話聞いたことないもん。今度聞いといてよ。」 TAROさんの仕事の背景を考えたら、聞けばおねだりをしたように思われるので、私に訊いて欲しかったのでしょう。さらにTさんは、 「博士ってどうして結婚しなかったのかな?恋人が戦争で死んだとかあったのかな?今度会ったら訊いてみてくださいよ。」 「何言ってんだ。そんなこと訊けねえよ。自分だって会うんだから訊いてみたらいいじゃないか。」 「いや、オレも訊けない。それが訊けるのはR&Fさんだけだよ。」 結局二人とも訊けませんでした。
ある時こんなことがありました。ある自動車関係者の集まりが行われて、泊りがけの宴会に私とアレックスは招待されたのです。もうドロドロの宴会で演歌が流れ、アレックスは耳を塞いでいました。その時、アレックスは宴会のあとに部屋割りが出たのですが、一番離れた部屋へぽつりと一人だけ割り当てられました。そのとき自動車会社の社員が独り者のアレックスを茶化してからかうようなことを廊下で5~6人でしていたのですが、きわめてセンシティヴなアレックスは日本語がわからないにもかかわらず、すべてがわかった。 「ワシが心臓が悪いのがわかっているのに一人だけ隔離したように泊めるというのは、あやつらはどういう了見だ。何を考えて誰がやったか、おおかたの見当はつくが。」 「いや、自分も一言ちょっと文句を言いに行きますが、Don't you worry.私が移動して同じ部屋に入ります。」
私はその抗議は、ある意味「意思表示」だったと思います。アレックスはあの巨大な屋敷で何十年も一人で住んでいたわけですから。
翌朝はしごくご満悦で。 「日本の山の中はじつにいい。タタミの部屋で目覚めるのも最高じゃな。時間があれば山の絵でも描きたいところじゃ。」 部屋風呂もシャワーがないから、朝は温泉でみじたくだ、とアレックスを温泉に連れてゆき朝風呂。 「これは贅沢なもんじゃ。日本人はたいへんめぐまれている。これはローマの皇帝もかなわない生活ではないのか?こういうことをやっていれば確実に寿命はのびるだろうな。」 たぶん、あれがアレックスの唯一の温泉体験だったのではないか?
彼はそれ以外にもたいへん仏教や東洋思想に興味を持っており、じつによく本を読んでいました。
「ホテルに英語版の仏教聖典がおいてあるじゃろう?あれをある時読んでみた。それがなかなかいいことが書いてある。」 彼にはよくその手の本を探してくるように頼まれました。ある時、ウイスキーを飲みつつ二人で孔子の最後の逸話を話していました。アレックスはしばしば「死」のことを語りました。 「なんというのかな、もう少し遠くまで、ワシの自転車をもって行っておきたいんじゃ。自分が逝ってしまったあとは、その自分の自転車だけが判断の対象になるわけだからな。」 彼が、「もうこれを永久保存版にしてもよい」と区切りをつけたのはパイロンでした。 「これは、もうエア・ルームに入れてよい。」
その孔子ですが、最期は弟子たちにかこまれて、彼らの手をとって、 「自分はよい一生を送ることが出来てたいへん幸福だ、しかもこうして友と弟子にかこまれ、手を握り何の不安もなくこの世を去ってゆくことが出来る。」 そういうような話を私は小林秀雄がどこかで対談していたのを読んでいて、うろおぼえでアレックスに話しました。孔子の死に方は悪くない、と。アレックスは感に堪えないようすで、 「う~~ん、じつにすばらしいな。ワシもこの世を去る時はそうありたいもんじゃ。」 実際、アレックスの死はそれに近いものであったようです。
回想、あと1話書こうと思います。
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benediktine · 5 years
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【アレックスをめぐる回想8】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30391359.html : https://archive.fo/qJQ0J 2012/12/19(水) 午前 3:59
アレックスは日本のものが非常に好きでした。食事から思想に至るまでたいへんな日本びいきだったことは記録されておいてよい。
カイセイにチューブを頼む件がうまく行って、さらにステンレスフレームの溶接がはずれたりしたとき、など、よく仁さんのところへ修理に持ち込まれていたことから、彼のところへ行ってみようという話しがでてきました。アレックスはしばし考え、 「うん。ワシは行かないほうがいい。かわりにディヴイッドを行かせよう。」 と私はディヴイッドと援護射撃のお礼かたがた行きました。そこで「自転車界のエジソン」と言われる彼が作った自転車をディヴイッドは興味深く見ていました。走行中ペダリングピッチを変えるのに、ステップモーターを仕込んだ、モーターでサドルが前後に動くレーサーなどを興味深くみていました。
帰りがけ、ウナギの美味い店があるので、ディヴイッドに、 「ウナギは好きか?」 と訊ねました。 「ウナギは大好きだ。英国でよく食べるよ。」 英国のウナギは輪切りのにこごりみたいなもので、どちらかというと「荒くれ男のスタミナ食」のような味にはこだわらない庶民的なものです。ディヴイッドは日本のウナギにいたく感心して、 「いやァ、これはすごく美味いな。英国のウナギのイメージをくつがえすね。」 と大盛りを完食でした。
宿に着くと、アレックスが 「どうだった?」 「面白かった。きさくな非常に興味深い人だったよ。帰りがけにR&Fのすすめでウナギを食べたんだが、それがすばらしく美味かった。」 「EEL??いや、ワシは蕎麦でいい。」
アレックスは健康にたいへん気を使っていて、私が以前「蕎麦は血圧をととのえ、血管の老化をとめ、長寿食だ」と言うのを聞いて以来、 「うむ。ワシの自転車を生きている間にすこしでも完成度を高めておかなければならんからな。もっと蕎麦を食べなければならん。」 蕎麦がお気に入りでした。実際私自身、乾麺の箱をおみやげに持って行っていました。アレックスは、 「これにトマトソースをかけてみたらイカンか?君はそういうのはnot acceptableだと思うか?」 「トマトも身体にいいですからねぇ。ただ味は保証できませんが。」 「実験してみる価値はあるな?そうは思わんか?」
そののち、「寺が見たい」と言い出したので、今度は高尾山へ連れて行きました。京王線のなかで、 「う~~~ん。ケィオーの車輌のサスペンションのほうがJRのものよりよくできている。キミは同意するか?」 などとご機嫌でした。高尾山のふもとで、私のお気に入りの蕎麦屋へ。ご満悦でした。 「ホテルの近くのヤーブとはまた違った蕎麦の味だがどちらも美味い。」 彼は分析好きで何かを積み上げるのが好きでした。ディヴイッドの「ウナギ」の件があってから、私は彼をウナギと蕎麦と両方美味い店へ連れて行ったことがあります。 「この味ならワシは受け入れられる。じつに美味い。つまり英国のウナギはやたらデカイが、調理法は日本に遠く及ばない。そういうことか?キミはこの説に賛同するか?日本の調理人を英国に連れて行ったらこの味は再現可能だろうか?」 こういう確認のとりかたがアレックスの論理思考だった気がします。
彼は高尾山の山門までの道を歩きましたが、あそこには「男坂」があります。 「アレックス。たいへんなら、スロープのほうから登れるよ。」 「R&F。この坂には何か意味はあるのか?」 「この階段を一段登るごとに、earthly mattersと悩みを振り落とし、澄んだmountain airのような気持ちになってお寺に着くのです。」 「ならば、ちょろまかしはイカン。こっちを登るぞ。ワシもmountain airを吸って今日は調子がいい。」 アレックスは登りはじめました。 「キミは先に行け。I am slow。」 しかし、階段は急なので、私はあとについて登りました。
高尾山の山門は芳しいヒノキの香りがします。アレックスは、あきずにくんくんにおいをかいで、 「これはすばらしい香りがする。この木はこんなに表にさらされていて香りが飛ばないのか。寺の入り口にじつにふさわしい。日本人の自然との共存の智慧には感服するほかない。」
あまり知られていませんが、アレックスの家の庭には18世紀に出来たFOLLYと呼ばれる、ギリシャの遺跡を模した、庭の建物があります。これは「古代ギリシャの遺跡が自分の敷地にあったらいいな」と昔の英国人が、作らせたもので、小さな神殿のようなものです。アレックスはそこへベンチを置き、お茶道具の一式を隠していました。 庭で散歩中。 「よし、お茶にしよう。」 と言い始め、館に戻るのかと思いきや、がさごそと缶を取り出し、お湯を沸かし、お茶を淹れ始めました。 「昔の日本の大名みたいですよ、これは。」 「ワハハ。そう思うか?じつは日本のお茶と庭の話を読んでそこからヒントを得たんじゃ。」
彼の親日ぶりはそれだけにとどまらず、歴史観も多くの日本人には意外に思われるような意見でした。
ある時、空力学の大家で、レーシングカーの理論家として知られているウイリアム・ミリケンとアレックスと私で飛行機の話になりました。ウイリアムはダグの父で、第二次世界大戦中はグラマンの設計を手伝っていました。アレックスはやはりアブロランカスターの爆撃機の設計をやっていました。私は私の「はとこ」の父親が中島飛行機で設計をやっていました。アレックスはその集まったメンバーの奇遇にいたく喜び、 「そういう面々とその末裔がこうして集まって酒を飲んでいる。平和と言うのはじつにいいもんじゃ。」 とゼロ戦などの話に花が咲きました。私の高校時代の恩師は、特攻隊で、出てゆく2日前に終戦になった人でした。その先生がいろいろと話してくれたこと、たとえば「耳への気圧変化ですぐ耳の空気が抜けない者は、検査ではじかれた。そういう人はキリモミや急降下で気を失うからだ」などというのを話すとアレックスはさらにごきげんで、ウイリアムと二人で、日本の航空機はまったくすばらしかった。スバルもニッサンもカワサキもみんなその末裔ではないか、と盛り上がっていました。
実際、BSMにはそうした航空機の着陸時の脚のねじれどめがフロントサスペンションに、「ゼロファイターへのオマージュ」として使われています。
そのあたりのことは「9」で詳しく書くつもりです。
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benediktine · 5 years
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【アレックスをめぐる回想5】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30382481.html : https://archive.fo/2YpXH 2012/12/16(日) 午前 2:08
私がはじめてアレックスのところに長期滞在したのは1998年のことでした。思い返せばその時がもっともストレスなく、楽しい時期でした。それはアレックスも同じだったようで、彼は別れ際に、 「君はスペースフレーム・モールトンの本は持っているか?」 と聞かれました。私はあまり商売がらみのスポークスマンになる気はなかったので、そのあたりの話題はだしませんでした。しかし、一応本は持ってはいました。 「ええ、持っていますよ。」 「しかし、それには署名は入っていないだろう?今回のお互いに楽しかった思い出の記念に進呈しよう。持っているほうの本は誰か君の友人にあげたまえ。」
あの時のアレックスは自転車の商売のことも、王立アカデミーのエンジニア、サー・アレキサンダーの立場とも無縁でした。
朝食は町の人が毎日つくりにきていました。私はケンブリッジの家とフランシスのことを思い出しました。オーク・パネルの部屋も朝食の香りも同じ。そこで長いリフェクトリー・テーブルの長いほうの端と端に英国式に座り(フランスでは長い二辺の中心に座る)、「リトル・ロード・ル・フォントルロィ」の世界でしたが、はたして、これほどの生活を維持するのにどれくらいの財力が必要なのか?私には見当もつきませんでした。
私がいたケンブリッジの家のガス代から考えて、ボイラーなどのガスだけでも月に10万円の桁なのではないか、という印象です。ケンブリッジの家ではキッチンにAGAのコークス・ストーブを置いて、コークスは1トン1万円ぐらいだったように思います。調理と暖房をそれでまかない、居間の暖炉は庭の木々の枝払いをしたものを燃し、居間は囲炉裏のようなにおいがした。ボイラーは最小限度に使用をひかえていました。それでもボイラーというのはけっこう燃料を使います。その家では「日本式の風呂桶のすぐわきにつける小型湯沸かし器」への変換を真剣に検討していました。
バッファローからきたダグが「これほどの家にたまに宿泊できるというだけでも、王侯貴族にも出来ない贅沢だ。報酬の数字のことなどはまったく忘れてしまう。」と言っていたのを思い出します。私はそういう生活にたいそうこころ惹かれたのですが、一方で『自転車によるエコロジーライフ』を考える自分が、たとえば、自転車の積めないルノーアルピーヌのA110に乗って、、、お屋敷に住む、というのは矛盾するように思えたのです。THE HALLはその庭のサイズでもよくケンブリッジの家に似ていましたが、性格は180度違っていた。かたや、じゃがいもや林檎の木、ブルーベリーやラズベリーが植えられ、雑然としていました。主は脳溢血をやって片足をひきずりながら、つなぎを着て農作業をしている。もう一方は庭師が入り、芝生があり、庭木がある。見慣れた楽園と思えた踏み込んだ園が、じつは違うものだった、そういう気がしたのは2000年を越えてからでした。
じつはアレックスは、その私のケンブリッジの恩人を知っていました。 「君はケンブリッジに戻るというが、むこうに泊まるところはあるのか?」 「ありますよ。かつてお世話になった恩人の家へ戻ります。」 「大学の教授か、関係者か?」 「自分の息子と同じ研究室で研究をしたいと思って、大学にラボラトリー・ウイングを寄贈したH教授をご存知ですか?その娘で哲学者バートランド・ラッセルの友人だった人です。」 「ああ、その名前、聞いたことがあるぞ。たしかあの教授は山岳事故で亡くなったんではないか?そうか、君はあそこにいたのか。」 英国の中小都市はひとつの村なのです。Everybody knows everybody.
そのアレックスは、昼とかお茶の時間には、突然、 「R&F,ちょっと町まで出かけよう。」 とクルマで出かけていました。あまり知られておりませんがアレックスには妹(姉??)がおりまして、背格好も顔も博士に良く似ていました。この妹さんは画家で占いもやるという人で、占いの本も出しています。アレックスとはたいへん仲が良く、日本でも時間さえあると、絵葉書を自分で水彩で描いて、その妹さんへ送っていました。
そこへハンチングをかぶって登場し、普通のキッチンでマグカップで紅茶を飲み、新聞を読みながら世間話をしている様子は、完全に一般世界に溶け込んだ好々爺で、私はあの時がもっとも「素顔」であったと思えてなりません。アレックスには重い「しがらみ」と「屋敷の維持の心労」があったように思うのです。
そのコラボレーション計画は一部でずいぶんと反発を買いました。アレックスはその当時かなり売れていたバーディー(BD-1)にやきもきしていて、それに対抗させるのにFフレームの現代版を持ってくる気でいました。ところがこれが紛争を起こしたのです。アレックスは「古いFフレームは過去だ。そういうものを直すようなことは好事家にまかせておけばいい」また、設計年度の古いFフレームの修復完了車輌を最新のBD-1と比較させたくないという気持ちもあったようです。エンジニアとしてのこの当然の態度はマニアやコレクターには理解されなかった。
一部に大メーカーがからんでくるのはモールトンの威光がさがると主張「コラボ計画をブッ壊してやる」と宣言している人たちもいて、重役会議に黒いシャツ、赤いネクタイ、革ジャンにサングラスであらわれ、 「英国で作ってるからいいんだよ。アンタ達みたいのが作れば、ダッさいものになるに決まってるんだ」 と言い放って席をけって帰ってゆく人もいたりしました。重役の一人が、 「あまり英国紳士の感じではありませんねぇ。彼にはプロジェクトから抜けてもらいましょう。」 内心「Oh,no !」という感じ、私一人に仕事の上でも経済的にもすべて重圧がかかることになりました。英国へ何回か呼び出された旅費はすべて自前、どこからも出ない。レイノルズのフレームチューブが手に入らなくなり、アレックスを福島のカイセイまで連れて行ったときのお車代、ガソリン代すら、それでご商売している方たちからは一文もでませんでした。あの時の「ブッ壊してやる」という人たちがいたことによるアレックスのdistressは深かった。その焦燥感があまりに良く見てとれたので、私は何か滞在中にしてあげようと思い、「今回の滞在中にビジネス以外に何がやっておきたいか?」と訊ねました。アレックスは「寺が見たい。どこか近くでいい」というのと「三島由紀夫の家が見たい」という2つをあげました。そこで馬込の三島邸にクルマで連れて行き、そのまま等々力不動尊へいって、下の川沿いを散策したのでした。運良く、その時は何かの縁日でぼんぼりがたくさんぶらさがっていて、それが日の暮れと共に灯りはじめました。 「This is romantic ! こんなすばらしい光景を現実に見れるとは思わなかった!」 といつまでも、そこを立ち去ろうとしませんでした。連れて行けて良かった。
しかし、私はこのコラボの車輌はよくできたと思います。『ダサいもの』にはならなかった。どうしてもクルマに積める分割可能な小径車が欲しいというのであれば、私にとっては忌まわしい記憶と結びついていますが、いまだにこれを推薦しています。
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benediktine · 5 years
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【アレックスをめぐる回想3】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30379482.html : https://archive.fo/Fsa2P 2012/12/14(金) 午後 11:59
これはアレックスがよく言っていた2つのことですが、「最終的にそれを誰がいくらで売ろうと買おうと気にしない」ということ、あともうひとつはバースやコヴェントリーの大学や学校で授業記録に残っていることですが、「最大の利益にもってゆくのがエンジニアリングとデザインの仕事だ。」というようなことを繰り返し語っています。1方で、無駄なこと、過剰なことはしない。不思議なことに世間ではアレックスのことをこの逆に考えています。
「本来、すぐれた設計にデザインやスタイリングは不要」と彼は繰り返し私に語っていました。
彼は自転車旅行者や選手ではありませんでした。アルチザンでもありません。自転車に乗り始めたのも中年期からです。彼はエンジニアなのです。F1レーシングカーのステアリングホイールに「味わい」や「美」が重要でないと言うのと同じように、彼の車輌も「理論」と「設計」がいのちなのです。
私は「機械的に、整理してすっきりとさせ、また整備性も、耐久性もあげておきたい」と考える。しかし、アレックスは割り切っておりました。
初期型のフレクシターのチューブの先端は竹のように斜めにそいでありました。私はどうもそれが、フォークが斜め荷重を受けてよじられたとき「いけない」ように思われたので、「ボルトを枕頭式にして、端を丸くして、貫通ボルトの径を太くしたほうが応力分散の上でもいい」と進言しました。アレックスは「そうすると重くなる。このままでよいのだ」と反対しましたが、しばらくののちに、私の言うとおりのやりかたにしたようです。
一部で、フレクシターのサスペンションがある一定の期間を使うと柔らかくなって腰が抜けてくる、と言われました。早い場合1年ほどで柔らかくなりました。そのことをアレックスに話した時、 「R&F,ではシマノのレバーの中のプラスチック製変速ラチェットが丸まって、初期性能が落ちてくるのは何キロぐらいからだと思う?」 「5000キロぐらいからくだりはじめるんじゃないですかね。はっきりとわかりませんが。その人の変速頻度にもよるでしょうし、キロ数では出ないと思います。」 「ならワシのフレクシターも5000キロもてば良い。そう思わんか?へたったらフレームをブラッドフォードへ送り返してもらえばいいだけだ。」
私はそこがひっかかったのです。あの時から10年ほどの現時点で、すでに「送り先はブラッドフォードでなく、ストラトフォードのパシュレーになっている」わけです。それを送り返すためにどのくらいの輸送費とエネルギーが使われるか考えたら、環境にはやさしくないということになる。
これは愛好家と製造者の埋まらないギャップでしょう。愛好家と言うのはだいたい理想主義的なところをもっている。そこをつかめるものが、マニアックなものになると言えるでしょう。
アレックスは大学の講義で、自分がためしに買ってみたシトローエンの2CVのファルゴネット(商業車のバン)の写真を出し、そのサスペンションが「あまりに複雑で、このあたりの部品がきわめて高価だ」と説明していました。これはけっこう私にはショックでして、シトローエン2CVのリンク式サスペンションはこれ以上は簡単に出来ないくらいシンプルです。2CV自体、ヨーロッパでもっとも安い自動車の一つでした。「あれが複雑?きわめて高価?」彼はじつはたいへんなコストカッターだったと言ってよいでしょう。
高級モールトンの価格からわかっている部品の価格を引いてゆくと、フレームとサスペンションで100万円弱という計算になります。チューブは径が細いほど使用材料が減るので、安くなります。バテッドが入らないプレーン管で径が20mmぐらいなら1mで数百円でしょう。だいたいロウ付け個所が14箇所ぐらいあるクロモリ・パイプ製リアキャリアが3万円ぐらいであることを思うと、そのすばらしいデザインでたいへんな付加価値がつくことになります。まさに天才的。日本のメーカーは学ぶところが多いと思います。
その「キモ」の部分は何と言ってもラバーサスペンションですが、これはヴェールに包まれている。かつて文化センターへアレックスが来て��演をやった時、ビルダーの仁さんがその部分はどうやって作るんですか?と質問したそうです。 「R&Fさん、博士なんて言ったと思います?ボクは感心しましたよ。」 「何ていったんです?」 「『樹から作る』、ってましたね。詩的じゃないですか。」
そうした「デザインで最大の利益」を生み出してゆく、その出来上がったもの、それ自体の価値以上を載せてゆく、それがこれからの製品作りで正しいのか?あるいは経済的成功を犠牲にして、傑作のみを少数製作して生き延びてゆく道を選ぶのか?これはじつに重大な議論でしょう。
アレックスはFフレームモールトンがたいへんな数売れた、と講演でさかんに語りましたが、クルマのほうのミニはあれほど見かけるのに、英国の街中でFフレーム・モールトンに出くわす確率はまずほとんどゼロといってよい。機械が捨てられずに後世に伝承されるというのはどういうことなのか?機械を使い続ける機械利用者のモーチベーションや愛着とは何なのか?考える毎日です。
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benediktine · 5 years
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【アレックスにまつわる回想2】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30376898.html : https://archive.fo/ysg2k 2012/12/14(金) 午前 3:10
アレックスのことを思い出すと、私にはなんとも複雑な感情がわきあがってきます。これは最初からそうでした。今でもなおそうなのです。
一言で言ってしまえば、「自転車のことを話さなければ、こんなに愉快な友人はいない」という印象なのです。自動車のことを話しても、鉄道のことを話しても、自然のことを話しても、環境問題や芸術関係の話をしても、じつに意気投合しました。ただし自転車のことになるとまったく噛み合わず、えんえんと議論になりました。彼は自転車のことになると人が変わったかのような気がしたのでした。とたんに「劇中の俳優と喋っているように感じた」というのが偽らざる私の気持ちです。
非常にしばしば、自転車と関係のない世界で我々が知り合っていたら、どんなによかっただろうと思ったものです。私も反論ばかりしたくないので、最初の頃はできるかぎり自転車の話題を避けていたほどです。
いま、フッと思い出せるのは、最初にあるところで彼の講演があったとき、聴衆のひとりが「貴方の自転車を使っている者ですが、小径車のため、山岳の下りでブレーキゴムがものすごく熱くなって、触れないくらいになるんですが、専用ブレーキを開発する予定はありますか?」との質問がありました。彼は答えて「小径ホイールは700Cより速く回転しているから、よりすばやく空冷されるはずだ。まったく問題はない。専用ブレーキの開発予定はない。はい、次、」
私は講演のあと近寄って行き、 「貴方は小径車の車輪は700Cより速く回っていると言いましたが、たしかにハブの部分は円周部分が短いために速く回っているでしょうが、リムの部分は小径車と700Cのレーサーが、同じ60kmの、飛行機で言う対地速度で走っていたら、タイヤと道路が裏表でくっついて回っている以上、リムの部分のブレーキシューに対する速度は同じ60kmでしょう?問題は、リムの円周が短いために、リム上の同じブレーキング・ポイントがより頻繁にブレーキシューのところに戻ってくるために冷える間がないためじゃありませんか。貴方はほんとうにそう考えているんですか?」 と誇張した英国英語で質問しました。彼は私の肩をたたき、 「Well done.よくわかったな。」 といって大きく笑ったのでした。私は、 「かつてマトハウザーがブレーキシューに空冷エンジンのフィンのようなものを付けて冷却効果をねらったものがありました。あれが効果的かもしれません。」 「そうか。調べさせてみよう。」
また、ある時、 「700Cとか26インチのホイールサイズのクラシカル・バイクはコーナーリング中にペダルが地面にぶつかると転倒するが、モールトン車は転倒しない。ペダルと地面で火花が飛ぶかもしれんが、前後にサスペンションがあるから、全体が浮き上がって転倒はしない。ここにもモールトン車がクラシカル・バイクより優れている明白な点がある。」 と言ってきました。
私は、 「I Wonder.どうですかね。ペダルを打った時にかかる力のベクトルの方向と、サスペンションの作動方向は違いますからね。実験はしましたか?」 「いや、もちろん純粋な理論じゃ。」 「そのような高価な車輌で実験をするキモの太さは私にはありませんね。」 「Quite so」 という具合。じつは、こういう議論をかわすというか、私のなかに湧き上がってくる反論を自制するのにたいへんなストレスを感じました。
たぶん、察するに、彼が自分の自転車を発表した時に、そうとう叩かれたせいで、自分の車輌を擁護するために過剰反応する部分があったのではないか?とも同情するのです。
アレックスがもうひとつ過激になることに、ドイツ車のことがありました。彼のドイツ車嫌いは徹底していました。ある時、高名なモーターカージャーナリストのポールが館へやってきたときのこと。私たちは事務所から二人でゆるい坂道を歩いて歩いており、わきを愛猫が前へ行ったり後ろに来たりしてついてきていました。そうすると、向こうにドイツ車が停まっていた。 「おお。ヤな車が停まっている。いったい誰じゃこんなところにこれを停めたのは。R&F、カメラをもっておるか?ワシの見解をはっきり示さないといかん。」 と親指を下に下げてスナップを1枚。中に入ると高齢の夫婦がいました。 「君か、表のあの車の持主は。こちらはR&F,こちらは古い友人のモーターカージャーナリストの友人のポールとその奥方じゃ。」 「いや、アレックス、あれは悪くないよ。客観的に見て実に良く出来ている。」 「ワシの家の前とか君にはそぐわないんじゃないか?ワシは説得されんぞ。」 という具合。
これは「ミニの誕生パーテイー」でもスピーチで、「ドイツ車は多かれ少なかれヒットラーの脳波を引き継いでおるように思われる」と過激発言。会場は爆笑の渦でしたが、ユーモアにくるんだかなりキツイものがありました。これは英国自動車産業の強い危機感と不安の裏返しかもしれません。
私はアレックスの誕生パーティーに、何か特別なものを、と考え、ドイツから私の彼女を呼び寄せて、音楽を贈ることにしました。それは彼の巨大な机の置いてある一階の部屋の欄間に、楽人の彫刻があったからでした。 「アレックス、ここで音楽を演奏したことはある?」 「いや、ワシが生まれてこのかたないな。」 「It is a shame. あそこに楽人の彫刻があるから、昔はここでは演奏が行われたのではないかな。」 そして、ドイツから友人を呼び寄せました。 「曲目はどうするの?」 「明るい曲想のもの、ハイドンとモーツアルトのものがいい。」
アレックスはごきげんでした。小コンサートの後、 「いやドイツの自動車はまったく我慢ができないくらい嫌だが、君たちもドイツの音楽もじつにすばらしい。」 「あはは、ドイツのクルマは本当にお嫌いなんですね。」 と私の彼女。 「キミはクルマの運転はするか?ヴォルクス・ワーゲンかな?」 話が危ない方向へ流れないように、私が横から、 「私の女神は女神のよさがわかるんです。彼女はシトローエンDS乗ってますよ。」 これはシャレで、英国の自動車通はシトローエンDSを「女神、Godess」と呼ぶのです。DSをフランス語読みにすると「デーエス」でgodessと韻を踏みます。またDSには女神アテナの名を冠した「パラス」と言うモデルがありましたから。 「父のですけど。」 「おおっ、ワンダフル!さすがはR&Fの友人じゃ。アレを選ぶ貴女の父上もじつに趣味がよい。」
じつは私の彼女、一時期、博士の大嫌いなドイツ車のCMのバックの音楽をやっていました。博士が「エンジンはやかましいし、ヘンなところに付いている、不必要に速い」と言った車輌。
アレックスは2回ほど、ドイツ車のリアエンジンが理にかなっていない理由を示すのに、 「イシゴニスはこうやってワシに見せてくれた、」 と消しゴムを紙でくるんで羽子板の羽のような形にして飛ばしてみせました。 「わかるかな?これがフロントエンジンフロントドライヴのイメージだ。」 私が、でも自分はルノーアルピーヌA110が嫌いではないと言うと、理解できないという顔をしていました。しかし、これは私の偽らざる本音でした。クーパーSとルノーアルピーヌA110の1300をどちらか、と言われたら私は迷わずアルピーヌにします。850と2CVとどちらか、と言われたら迷わず2CVを選ぶ。
アレックスの中で、私はフランス車というのは、じつに独特の位置を占めていたと思うのです。たぶんシトローエンのハイドロニューマチック・サスペンションがあらわれなければ、彼のハイドロラスティックは生まれなかったでしょう。また前後でそれを繋ぐ発想も、シトローエン2CVから引いてきている。これは彼自身が語っています。前後をメカニカルにつないでいたものを液体でつないでみる。
私は彼こそDSにもっとも乗りそうな人の気がしたのですが、シルヴァーシャドウを買った。そののちはベントレーを買っています。ここに多くの日本人が見逃して気がつかない、「強烈な自国製へのこだわり」があるのではないか。評価はしているんだけれど、誇りにかけて外国製は愛用しないという。シルヴァーシャドウはそのサスペンションに、シトローエンから特許を使用料を払って一部使っていますから、折衷案なのでしょう。
そのフランスに、じつはBUGATTIブガッティの設計した自転車と言うのが存在します。
これについて、アレックスはある自転車クラブからコメントを求められていました。彼のコメントはそっけないもので「ブガッティはトラスでの強度の出し方と理論を知らなかったのではないか?」というものでした。
このBUGATTIの自転車はやはり細いフレームチューブを多用した構造になっています。
私はブガッティほどの人がやるからには、なにか意図があったんだろうな、と繰り返し、それを見ていました。告白すると、私のバ��ケッタはそれを見ている時にひらめいたのです。
その意味でも、アレックス・モールトンというスフィンクスがいなかったら、今の私はないのです。
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benediktine · 5 years
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【アレックスにまつわる回想1】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30373754.html : https://archive.fo/lu711 2012/12/13(木) 午前 2:38
英国に入国する際、私は書類の職業欄に「バイシクル・ヒストリアン」(自転車歴史家)と「バイシクル・デザイナー」と書き込みます。そのことからも、さまざまな知られざるエピソードを書きとめておこうと思います。
彼の訃報を伝えるネットのニュースとかには、彼の業績や経歴を伝えるにあたって、必ず「ミニ」のサスペンションの設計者、という切り口から入っていますが、これは私はアレックス・モールトンという人間を大きく見誤る第一歩であると考えます。
それはなぜか?というと、アレックスは「インターナル・コンバスチョン・エンジン」つまり内燃機関を使うことに強烈な罪悪感をいだいていたということがあります。
意外なことに、この態度は最晩年に至っても変わらず、4年ほど前のコヴェントリーでのブガッテイに関する講義のなかで、 「ワシは若い頃、たいそう燃料を燃やし、何トンかもわからないくらい大量に二酸化炭素を排出し、乗り物を走らせ、それはずいぶん楽しい思いをしたもんじゃ。しかし、これからはそういうことは許されない。特に、このチャートを見てわかるとおり、1人の人間を、どのくらいの効率で移動させることができるかを考えた時、地上で走るなかでもっとも燃料効率が悪く、許されないのがモーターサイクルじゃ。スクーターやモペットはまだ許せる許容範囲だが、モーターサイクルはいかん。将来、この時代にそういうものにあえて乗っていたというような者は、その『知的怠惰・不道徳な耽溺』をせめられてもいたしかたないだろう。」 と言うようなことを語っています。
彼はそうした、楽しみのために内燃機関に頼りきる現代の生活様式に大きな疑問を持っていました。
彼と箱根へ行って、フェアレディZの父と言われる片山豊さんらとの会食をすませ東京へ戻ってくる時のことです(彼もまた未来の自動車のカタチに「ゴーカートのような極小のクルマ」の思想を持っていました)。高速の出口のところで、大型バイクがひとつ、またひとつとやってきました。アレックスはそれを眺めつつ、 「おお。ゼロファイターの子孫たちじゃ。ああ、またやってきた。ずいぶんいるな。ああいうものに乗って石油を大量に使い、二酸化炭素を出し、彼らは今日一日いったい何を学んだんじゃろう?」
ある時は伊豆で、車高をあげた巨大な改造4WDを見て、 「おおっ!なんて醜いんじゃ。これは最高に面白い。これほど醜悪な自動車は見たことがないぞ。絶対写真に撮っておかねばならん。R&F!走り去らないように写真を撮りたいって運転手に声を掛けてくれ。」 そう言いながら、満面の笑みをたたえながら、運転手に向かって自分のカメラを指差していました。
そういうアレックスでしたが、彼はかつてはどっぷり自動車の世界に浸っており、ロールス・ロイス・シルヴァーシャドウに彼の分割式自転車を積み、それをフランスまでドライヴして行って、現地でトランクから出して組み立て、自分がそれに乗って、秘書にロールスを運転させ、伴走させるような殿様サイクリングをしていました。ところがある時、現地の人に、その矛盾をなじられたのです。それを彼が恥じ入ったのは言うまでもありません。それ以後、彼は「ethical」であることを強烈に意識するようになったようです。
私はしばしば彼の運転で、BATH SPAの駅や、��RISTOLテンプル・ミーズの駅まで送ってもらいましたが、彼はいつもミニかメトロを引っ張り出してきて「これで充分じゃ。これはもともと自分用ではなかったんじゃ。Sの奴に買ってやったんだが、『こんなあざやかで見苦しい色は嫌だ』とぬかしおって、乗り込むことすら拒否したんじゃ。しかしこれは燃費もいい。ワシは気にいっている」と言っていました。ある時、ワィンディング・ロードのほうのルートを「サスペンションの比較をしてみせる」と言って、英国でよく「DOWNS」と表現される谷をゆく、急坂のつづらおりを走っていた時、後ろから警笛を鳴らして追い越して行くクルマがありました。彼はそういう自動車特有のメンタリティを「ROAD RAGE」と言って心底憎んでおりました。現実の自動車事故を起こしたら、それはコンピューターゲームのようにリセットしてみんな生き返って再開とはいかない、本当にゲーム・オーヴァーだ、そういう他人のいのちも自分自身のいのちも軽く扱う『耽溺』は、自らの人生も薄っぺらなものにする、というのが彼がよく言っていたことです。
彼はコヴェントリーの大学で「スクーターは許せる」と語っていましたが、私はじつはアレックスはスクーターがかなり好きだったのではないか?という印象を持っています。
アレックスの初期の自転車模型はスクーターそのものに見える。
また彼の速度記録挑戦車輌を、それより10年ほど前のVESPAのフルカウリングのレコード・ブレーカーを較べると驚くほど似ています。
実際、彼が自分の自転車に動力を付けようとしていたのを多くの方は御存知ないでしょう。ある時、 「R&F,ワシもいい歳になってきた。足腰も弱ってきているし、ブラッドフォードは坂道が多い。そこで、いよいよの時にはパワーアシストのことも考えておきたいんじゃ。なんとか都合をつけてどこかで専門的に、それらの現物の分解したところや図面などが見れないものだろうか?」 そういわれて、静岡にあるバイクメーカーの研究所(ここまで書いてしまったらばれてしまいますが)のアシスト・バイクの開発の中心人物を以前大阪で会ったことがあったので、アレックスを連れてゆき紹介しました。そのメーカーは開発中の車輌にまで試乗させてくれたのでした。アレックスは、 「予想を遥かに越える重さじゃ。あの重さではワシの細いフレームチューブは、自転車を倒したらひとたまりもない。」
帰り道に 「やはり、小型エンジンのローラーをフロント・タイヤに押し付ける『シンクレア・システム』のほうが向いているだろうか?R&F、ご苦労だが、ラジコン等の小型エンジンのカタログを集めてくれんか?」
残念ながら、この2つのモールトン、アシスト化の計画は日の目を見ませんでした。私はモールトン車にはスクーターと自転車の間を埋める、まだ世に現われていない新しい駆動エンジンを付けた、新分野の乗り物のカテゴリーの最終的なプランが存在したと私は考える。「自転車としての限界は彼が一番よくわかっていた」と思います。それを未来に、モーターサイクルが環境的に行き詰まった時、別のジャンルの乗りものとして、さらに枝分かれして育ってゆく可能性を持たせたかったのでしょう。彼はバランス感覚の悪い人や高齢者用に「四輪のリカンベント・モールトン」の図面も描いています。
静岡のその研究所を去って新幹線の駅を目指す途中、停留所のわきに、巨大なクスノキがありました。アレックスはじっとその樹を眺め、 「立派な樹だ。ヨーロッパでは見たことがない種類だが、何と言う樹か?」 「これはクスノキと言って、虫がつかないので、神社や侍が好んで植えた樹です。」 「どのくらい経っているのかな?」 「300年か?400年か?そのくらいでしょう。」 「人間に許された使える時間はあまりに短いな。」 私にはかえす言葉がありませんでした。
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benediktine · 5 years
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【We must live on.】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30396490.html : https://archive.fo/qTKJB 2012/12/21(金) 午前 3:15 この11日間は真夜中の国際電話にすっかり忙殺されました。なんだかぽっかりとした空虚感があります。なんだか何をやっても集中力が出ない。 「会うは別れの始まり」 昔、黒澤明の「7人の侍」を見たときに、「なんでつぎつぎにすごい人が死んでゆくのかな」と理不尽な感じがすごくしたのを覚えています。 しかし、いま自分が歳をとって見ると、世の中は理不尽なものだとの思いを深くします。 たぶん、7人の侍も、まったくの時代劇ではなく、黒澤監督のまわりで死んでいった、消えていった人たちを見た彼の実感だった気が強くする。人生ではなかなかすんなりときれいにはゆかない。 「こういう風にしたかった」という誰かの夢を知っていて、確たる文書も証拠となるものもなく、ただ記憶の中の、かわされた微かなニュアンスのなかにしか真実がない場合は少なくない。 そのおぼろげな記憶の中の夢、具象以前のイメージは誰が実現しなければならないのか? 推測でしかありませんが、アレックスも彼がなぜ突然かなりの間隔を置いてトラスをやりはじめたのか?これは普通に言われている以上に深い意味があると私は思います。英国の自動車産業はあの時期本当に行き詰まっていた。ものすごく高い失業率。どんぞこの不景気で新車開発もままならない。強まる排ガス規制、対衝突基準は厳しくなり彼のサスペンションを必要するほんとうに小さいクルマはつくれなくなる、Aピラーはどんどん太くなる、くわえて環境問題はいよいよ社会問題になる。 私の父は自動車狂でしたが、叔父もまた病に倒れたとき、「あにきも俺も自動車をつくるのが夢だった」と言うのを聞いて、どこか謎が解けた気がしました。しかし、自動車をつくるというのはなみたいていではありません。いまなお、ひとたび会社が外国に買い取られたら、新規に別の会社をたちあげるのはなみたいていではない。自転車の場合とはくらべものにならない。 多くの人が「未来環境を考えると自動車はこうあるべきだ」と考えていながら、そういう自動車は作れる環境にない。かつては世界的スポーツカーを作っていた人が超小型車、かつて日本にあったフライングフェザーの現代版をやりたいと思っても誰もやらせてくれない。ただ、過去の名声と過去のイメージの中で崇拝されて、過去の中に埋められてしまう。大資本商業・工業主義のなかでますますそういう傾向は強まっている。 私はアレックスのなかにはそういうフラストレーションと焦燥感があったように思えてならないのです。 自動車のメーカーの何人かはご記憶と思いますが、アレックスはニューミニとオリジナル・ミニの詳細な比較図面を持って来日し、人々に見せて歩いていました。ボデイは大きくなっているのに、中は狭くなっているとアレックスは主張して、「自動車をすこしづつ大きくして、馬力を上げ速くしてゆく開発の方向性でいいのか?」と。 人は「お城」と呼びましたが、税金の高い英国であの規模の屋敷を維持する苦労はなみたいていのことではないはず。 自由にふらふらしている私を見て、アレックスは、 「R&Fはたいへん裕福な資産家の息子に違いない。」 とある人に言ったそうですが、実態は、フレシュネスバーガーにお茶に入ろうか、専門の喫茶店に入ろうか悩んでいるくらいの庶民(笑)。 裕福な人には裕福な人の、庶民には庶民の苦労がある。 人は彼が「お城で作っていたから高級感が漂う垢抜けたものができた」と「お城」「お城」と言いますが、私は違うと思う。彼のどこかには「巨大な屋敷に住む人」を演じなければならない重圧感があったと思う。 彼は日本に来ると、むしろ高級なものを嫌っていました。 「夕食は何がいいか?」 と聞くと、 「高級なレストランや、天麩羅などの高級店はやめてくれ。」 と言って、普通の町の蕎麦屋や焼き魚に味噌汁などの定食を好んでいました。 「ミソ・スープは美味いな。これがわしの家でも年中食べられるといいんだが。」 そう言っていたので、半生のインスタントの味噌汁をもっていっていました。 ある時は、ご招待で有名な天麩羅屋へ行ったのですが、4分の1も手をつけず、 「Finish this.」 残さず食べろ、と招待した人に差し出したことを思い出します。そういう時にはまったくこどものようでしたが、彼はその時たいへんお腹がすいていた。待ち合わせの前にお腹がすいたといっていたのでたしかです。 彼は別に天麩羅が嫌いだったわけではありません。スツールしかない、背もたれのない椅子の蕎麦屋で、蕎麦と別に出てきた柚子を糸のように細かく切ったのをふりかけたかき揚げを、 「これは美味だ。」 といって、たいへんうまかった、と調理場の人にお礼を言いにいったりしていました。 高級なところから高級なものが出てくるわけではない。「すべてのものはこころからつくられる」。 「どうにかしないといけない気迫」これこそが別格のものをつくる秘訣だろうと思います。 We must live on. 補遺: けさ、トニー・ハドランドから連絡がありました。彼とは故ジョン・ピンカートンを軸とするつきあいと、アレックスを軸とするつきあいとの両方から良く知っています。サンビームやラレーの歴史の話でも本を彼が出す時にいろいろやりとりをしていました。 「アレックスの葬儀はすべては順調だった。しかし、こっちは雨また雨だ。」英国は涙雨のようです。トニーとは長年のつきあいですから、多くの湿った話はなしです。「ジム・ウッドバーンが来ていたよ。今年会ったのは3回目だ。BBCは僕とショーンのインタヴューをしていってラジオ4で放送した。あとは、そうだな、昼飯時の話題としては、『ポルシェのワイパーは水の中でも利く』とかそんな話ぐらいだったな」。トニーらしいクールジョークで、自動車にほとんど関心がないトニーからすると、自動車関係者が多かったようです。
【We must live on.】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30396490.html : https://archive.fo/qTKJB 2012/12/21(金) 午前 3:15
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