#とある親父の十柱戯
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ロブ=グリエの映画について
いつだった��ヌーヴォー・ロマンについて冊子を作ろうと思っているという話を友人から持ち掛けられて、それならロブ=グリエの映画なら観ているからと紹介文を書いたのだが、残念ながらその件はなくなってしまったらしい。せっかく書いた文章なので載せたい。
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『不滅の女』 "L'immortelle"(1963)
異国情緒溢れる音楽と叫び声から始まる、その時点で、なんだかこれからすごい映画が観られそうだ!と思わずにはいられない。メーキャップのはっきりとした、目力の強い女性(フランソワーズ・ブリヨン)が、まるで“死んでいる”かのように横たわっている。窓際でじっと外を眺める主人公(ジャック・ドニオル=ヴァルク)は終始、目に光がない。斜めの線が意識されたような完璧な構図と柱のように立っている人々。またその人々の視線を再現するようにゆっくりと横移動するカメラワーク。何度も同じようなシーンが差し込まれるように思えるが、すこしずつどこかが異なっている。ジャンプカットで物語はどんどん進んでいくが、時系列はめちゃくちゃで、今まで観ていたものはいったいなんだったんだろう…?と思わず頭を抱えてしまう。響く虫の鳴き声と、船のエンジンの連続音が不穏な雰囲気をかもしだす。“夢に見たトルコ”で起こしてしまった事故に憑りつかれ、妄想を続けるうちに、主人公は女性と自分を重ねてしまったようだ。終盤、窓にカメラが近づくシーンで、主人公の視線(主観)がはじめてカメラワークによってあらわされ、映画を観ている私たちも主人公と重なり、もうこの物語から引き返せなくなるのだ。
“夢に見たトルコ”…ボイスオーバー「夢に見たトルコで 異邦人のあなたはさまよう 偽の監獄や要塞に デタラメな物語 もう引き返せない 逃げようとしても偽の船しかない」
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『ヨーロッパ横断特急』 "Trans-Europ-Express"(1966)
題名の通り、ヨーロッパ横断特急に乗り込んだ一行は、同じく乗り込んでいたジャン=ルイ・トランティニャン(本人役)を主人公に、ノワールものの映画製作をしようと、脚本をレコーダーに録音している。あらすじはさておき(!)、こんな格好いい映画を作れるんなら、こういうのずっと作ってよ!と思ってしまうほどには、ロブ=グリエ節が他の作品より薄め(といっても拘束趣味は全開)である。前作の『不滅の女』の東方正教会やモスク、脚本した『去年マリエンバートで』での洋館のように、本作においてもそういった、ある種、荘厳なロケーションでのシーンはお得意であるものの、匿ってくれるギャルソン(ジェラール・パラプラ)の部屋の窓や、パリ東駅というロケーションは、少年らしさ(また少年たちの憧れる格好よさ)を感じられて楽しい。ラストのチャーミングさも必見。
以下余談ーー。
昔は一番つまんないよ~と思っていた作品であったものの今は一番面白いと思えて、当時ロブ=グリエの映画作品の物語の大半を、わけが分からないまま、だけれど映像のアバンギャルドさやエロティックな雰囲気を楽しんでいたものを改めて観て、しつこいくらいに趣味嗜好を提示され、こんなんばっかやな…と思っていた時に、本作はその"ロブ=グリエ節"が抑えられていて、より一層のこと面白く観たのだった。
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『嘘をつく男』 "L'homme qui ment"(1968)
同時期の日本には、勅使河原宏が阿部公房の小説を映画化したものがいくつかある。それらの音楽(ほぼ効果音といってもよい)は現代作曲家の武満徹が担当しており、非常に特徴的なものとなっているが、ロブ=グリエの作品の多くもミシェル・ファノという作曲家が担当していて、その音響効果が非常に絶大なものになっているという点で、勅使河原の作品たちを思い起こされた。また酒場のシーンで、客達がカメラ目線で次々と話す様子は、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を彷彿とさせ、常連の集まるただの酒場が裁判所にでもなったかのように、観ているこちらを緊張させる。そして女性をオブジェクトとしてしか扱わない、(ロブ=グリエの)大好きな目隠し遊びのシーンの長いこと長いこと…。
本作品は主人公(ジャン=ルイ・トランティニャン)の語りで映画が進んでいくので、他の作品よりも物語がわかりやすくはあるのだが、タイトル通り“噓をつく男”の語りであるので、わかったところで…という気持ちにはなってしまう。村の英雄ジャン・ロバン(Ivan Mistrík)の親友ボリス・ヴァリサだと彼は名乗るが、誰も信じちゃいないし、映画の途中でボリスの名の書かれた墓が写っていたり、知っているはずの医者に、初めましてと言ったりする始末。噓をつきながら多くを語るこの男が、結局のところ何者なのかはまったく明かされず、最初のシーンへ戻るこの無理矢理な円環構造に驚くだろう。
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『エデン、その後』 "L'Eden et après"(1971)
始まった瞬間から赤青白…とゴダールの『メイド・イン・USA』や、小津の『お早よう』のように、色彩による主張が眩しい。主人公のヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)のファッションが絶妙で、白シャツに黒のセーター、プリーツのミニスカートは赤を選びたくなりそうなところを青に。それと黒のロングブーツを履きこなしており、非常に可愛く参考にしたいのだが、ペイズリーのサテンワンピースは、それで街歩くの!?とびっくりするくらい短い。下着の赤い色にも、この作品の色のこだわりを感じるほどだ。そして、ギャルソンでさえも迷いそうな、モンドリアンルックで、幾何学的な雰囲気のカフェ、エデン。ヴィオレットたち演劇サークルはここをたまり場にしており、センセーショナルだが、ほぼお遊びのような演技をして暇をつぶしている。もしこんなお洒落な(可笑しな)コンセプトのカフェがあるのなら(襖みたいに壁が稼働したり、鏡張りだったり)、絶対にくつろげる雰囲気ではないので、演劇を試みるにはもってこいの場所だろうから、たまり場になるのもわかる。中盤の巨大工場のシーンも含め、観ているうちに『エデン、その後』“ごっこ”がしたくなっていく(!)。
一体、どこからどこまでが彼らの妄想で、演劇の設定で、“幻覚”なのか“現実”なのか、果たして謎の男Duchemin(ピエール・ジマー)の生死は?作中の「エデンとその客達がそう見せかけているのか」という言葉通り、あれさっきみたような…というシーンやモチーフが回収されていきラストに繋がる、ミステリー/ドラッグ/トリップムービー!
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『快楽の漸進的横滑り』 "Glissements progressifs du plaisir"(1974)
快楽の漸進的横滑り(ぜんしんてきよこすべり)。いちばん口に出して言いたい邦題。当時はこの邦題の意味の分からなさと単語そのものが魅力的で、早く観たくて仕方がなかったものの、年代の古い順に観るくせがあり、わざと後回しに、5作品目でやっと観たとき、初っ端からロブ=グリエの大好きなモチーフたちがたたみかけられ、興奮したのを覚えている。今回改めて観ると、その露骨さには思わず笑ってしまった。“主題は割れた瓶”だという始末。他の作品にも再三使用されている、登場人物たちがカメラ目線で正面を向き、首を横に振ったのち、また正面を向くといったようなカットの他に、本作には手による表現も追加されており、その点は目新しさを感じるし、アーティスティックな画面作りには、よっ!真骨頂!と言いたくなるが、正直なところ、こんなのレズビアンもの好きの変態の妄想じゃん…!とうんざりしてしまうこともしばしば。神父(ジャン・マルタン)が気持ち悪すぎて泣けてくる。ミシェル・ロンズデール(判事)の十八番とも言える呻き声(あるいは叫び声)をあげる長回しや、みんな大好きジャン=ルイ・トランティニャン(刑事)のどんな役でもこなしている様子は見もの。“類似・繰り返し・置き換え・模倣”、とロブ=グリエの手法が抜群にきいた官能アート作品が観たい気分のときにおすすめしたい。
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『危険な戯れ』 "Le Jeu avec le feu"(1975)
美しい娘カロリナ(アニセー・アルヴィナ)との近親相姦的妄想を繰り広げながら語る父や、娼館に来る様々な客の役をこなすフィリップ・ノワレの気持ち悪さたるや…!娘のみた、いくつかの悪夢の中の一つである、太った男に身体を洗われる夢、もはや恐怖である。出演女優たちは惜しげもなく服を脱いでいくのだが、それぞれの身体すべてがマネキン人形のように(腰から脚にかけてのラインや胸の大きさなどが)似通っていて、ロブ=グリエは、フェリーニのそれとはまったく違った美学で女性を見ていることが感じられる。
女たちの名前の書かれた寝室のドアを開けるたびに繰り広げられる、異色なプレイの数々には思わずカロリナもあんぐり。アニセー・アルヴィナのあの口元の緩さ加減はそれとして魅力的である。コメディタッチなシーンも多く楽しいし、広い館のたくさんのドアをすべて開けてみせてくれる、ゲーム脳的思考の持ち主(RPGではアイテム入手のために、部屋という部屋すべてを確認しないと気が済まないたち)には嬉しい映画。
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『囚われの美女』 "La Belle Captive"(1983)
ルネ・マグリットの同名作品『囚われの美女』を含む作品群に着想を得つつ、ロブ=グリエの好きなモチーフやテーマがたくさん組み込まれている本作品を観ていると、ロブ=グリエって本当にこういうの好きだね…!と思わざるを得ない。割れたガラスと赤い血(のような液体)や、拘束された女性が横たわる姿は必ずといっていいほど出てくる、もはやそれらを待ち望んでさえいる。
主人公のヴァルテル(ダニエル・メスギッシュ)が、聴く音楽といえば、シューベルトの『死と乙女』か“とらわれの女”だと言うのだが、劇中に流れている曲は弦楽四重奏曲第15番で、『死と乙女』と呼ばれている曲(弦楽四重奏曲第14番)とは異なるし、“とらわれの女”という曲も実在しない(弦楽四重奏曲第15番が“とらわれの女”と呼ばれているといった話も聞いたことがない)。また『囚われの女』といえばプルーストの『失われた時を求めて』の第5篇だが、これも劇中でプルーストの名前は出されるものの、この文学作品を映画化したというわけでもない。アケルマンにも『囚われの女』という作品(これはプルーストに関連する)があるが、この劇中でも、シューベルトの楽曲が使用される。こうして“囚われる”という言葉になんらかの様々な事柄を想起し、この物語にアプローチしていこうとする自分もロブ=グリエに“囚われ”てしまっていることには間違いない…。
毎度のことながら、ラストに向けて畳み掛けるように、幾重にもかさなった構造が明かされていくのだが、この題名の通り“囚われて”いるのは美女なのだろうか?とまたしても思考が止まらない。ロブ=グリエのフェティシズムに、心霊と夢と退廃的な世界観が足され、繰り返し挟み込まれる象徴的な映像にドキ!とさせられながら楽しめる作品だ。
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コロナウイルス拡散防止の緊急事態宣言発動以来、ボウリングの練習に行ってない。もう2ヵ月になる。そろそろボウリングも再始動する頃かな。 #とある親父の十柱戯 #ボウリング🎳 #ボウリング練習 #ボウリング好きな人と繋がりたい #ボウリング動画 #bowlingnight #bowlingtime #bowlingalley #bowlingparty #bowlinglife #bowlingshirt #bowlinggreen #bowling🎳#볼링#볼링공🎳 https://www.instagram.com/p/CBIixr8p1lA/?igshid=48x221x2o5nv
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--深海人形-- わくわく地獄ランド〜Mr.NicoNicoVideo.
※…Twitterの自アカウントより引用(※…一部、修正、改変、及び書き下ろしあり、)。
※…全体的に、軽率コラボネタ、死体ネタ、ユギオ厨ネタ、つよふわ系過激発言注意(※…そして、最後と言うか、後半の方は、※夢注意)。
ーー「愛?」 私はそいつにだまされて来たのだ、人間は人間を愛する事は出来ぬ、利用するだけ
ーー太宰治 生前の手帳より
…では、どうぞ(※Aiしてる詐欺)。
…了見君を妬んでる人達が、本当に忌み嫌って居るのは、『その容姿だけ(※…兎に角、見た目が美し過ぎる)』な気がする(※絨毯爆撃)。
…世のハムタロサァン!SSで好きなのは、タランチュラのとテロリスト集団のとソ連旅行のとタピオカ太郎のと異能力バトルロイヤルのとカマ���リの奴です(…���ケッ!!)
…『山田さん(とはむたろぉさぁん)達 』にとっては、『ヒト=艦(※…決闘者・デュエリスト、格闘屋、呪術師・呪詛師等の戦闘能力を持つ人類は軍艦・特設艦船扱いも含む 一般人は民間船扱い)』だから、割と妄想にも熱が入る(※獰猛なヒトの形をした艨艟)。
…ユギオVRは『特務艦船(※裏方仕事ほぼ専業)』扱いの方が多いけどね(※シスコン無学歴エリート兄貴、ゲノムおじさん、ミイラデッキおばさんとか)。
…一応書いとくけど、史実では、工作艦『明石』が、米軍によっての『最重要攻撃目標(※←…普通に意外でしょう?)』だったり、給料艦の『間宮』と『伊良湖』が撃沈された後、(※水兵生活最大の楽しみと娯楽が無くなったので)兵全体の士気が格段に下がったりするので(※直接は戦争に参加し無い裏方専業と言えども)、特務艦を侮る無かれ(※…銀英で言ったら、キャゼルヌが居なくなるのと同じだから)。
…今さぁww特務艦のプラモあるんだねww昔はそんなのあっても売れなかったのにねぇww如何してかしらww(敢えて言う)
…寺カス…?御前まともになり過ぎやろ…?(※…矢張り、世も末か?)
…『目で追うな…感じろ…気配を…ボールの息吹を…(◆A Act.2 20巻より)』は、やきう脳筋が(強く真摯に)自分なりの名言考えるとこうなるよな、の見本(※これぞやきう魂! 良いんじゃないでしょうか? ※…正直ついていけないけど……。ユギオ文スト系のノリに一番馴染んで居る影キャより以上です)。
蟹「…これが雪?…凄い!始めて見た!(※虫姫様並感)。」大先生&トマト「…これが実物の雪?!すごい!初めて見た!(※蟹に同じ)」タイツマン「…これは実物の雪…ちゃんと冷たいんだな…(※デジタルに慣らされすぎた弊害)。」※…御前等生まれて始めて過ぎでしょ(※…これだから今時の若いのは…並感)。
インチキBF使い「…雪で前が良く見えねぇ!(←※無粋 ※パルム並感)」
…氷の化石で出来た機巧(※クリストロン)。
…無☆職☆王とか、普通に嫌がるだろうな、雪降ったら(※チェーン付けろ)。
…DM・GXの時代に生きた人達にとっては、どんな���当たり前な事でも、5D’s以降の時代、次元になると、…中々、体験出来無い事ばっかりなんだろうなぁ……(※…そう思うと、割と今の日常が尊く感じられる)。
…DM・GXの時代は、『まだ地に足が付いて居た』時代だと感じる(※…5D’sは僅差でそうかもしれない)。
…ガレとバトラの、『自然と人間の関係についての感覚(時代柄と言うのもあるけど)』は、昔の宮崎アニメ(おもにナウシカ、ラピュタあたり)から来てる(日本人には良くあるけどね トライガンもそうだし)
…虫姫とガレの相性が良いのも、そこと強く関係があると思う(※…あと、IKD社長)
ウェイン兄弟「…確かに、ブルーノって人は、『WoF』派かもしれないけれど、僕は『此の赤いバイク』派なんで…(※…結局は、同じ穴の狢、現る)」
ウェイン兄弟「…蟹さんは僕が救う!(…君と戦うべき相手、それは僕だ!)」アンチノミー「…どうか元居た次元に帰って、どうぞ(迫真)。」
ウェイン兄弟「…色々と、ブルーノ&アンチノミー殿パロディで失礼する。(※冨岡さん並感)」クロウ「…おい待てェ、幾ら御前等兄弟とスキルと性格が似てるからって、ブルーノの立場を乗っ取ろうとするんじゃねぇ(※助平柱並)。」
ウェイン兄弟「…蟹さん達とは違う形で会いたかった(ry 」 無☆職☆王「…何と、いとも容易く行われるエゲツない歴史改修なんだ、これは!(※原作の感動が台無し)」
みみーちゃん「…姉さんは林檎6つ分の体じゅ……(※鬼滅二次由来ネタ)。」キテー「…み み ー(※カ ナ ヲ 並)。」
ウェイン兄弟「…呪霊特効の道具なら作れるんだけど?(…一応伝えるけど、兵器はもう作れないよ)」 伏黒「…元居た世界に、とっとと帰って下さい(まだ居るの?)」
ウェイン兄弟「…まだ、此の国、戦争してる?(※挨拶)。」光舟「…ねぇ、おじさん達、あの戦争はもう60年以上前に終わってるんだけど(←※まともに相手しない方が吉ダゾ)。」
Q.…ウェイン兄弟がウザいです(※匿名希望者より)。A.…なるべく、早い内に、ブッ殺して置く事を御勧めします(※真顔)。
ウェイン兄弟「…そのバイク……確か、『ユーセェマル(※齧歯類並舌っ足らず)』…って、言うんだったね…(※…実は、日本語も漢字も苦手)。」蟹「…船じゃねぇよ(※真顔)。」
女性読者「…このイケメン!萌えるわ!これ!!」
宮下あきらせんせ「…そう言う漫画(※男塾他宮下作品全部)じゃねぇからこれ!」
※…ええいっ!男塾は全般的に女性読者多すぎでしょ?!!(※い��それは北斗の拳も いちご味効果?)
…何をおっしゃいます? …私が、本当に、愛して居るのは、イエス様だけですよ!(※はぁと)
…まだあのアカウント(※@AZxel358の事)を、私に無断で覗きよる奴が居ったら、容赦無く祟り殺すからな?(※…良い加減、ツケは払えや?)。
…ウェイン兄弟、ライジング大神内の人達(※…流石に、ミヤモトさんを、初めとした、人外は除く)とかけっこしたら、普通にドベ(※確信)、
…疾走陸上駆動部隊〜Machinicle Chase.
「…友情を謳い、決闘(デュエル)で絆を深め合うのがそんなに高尚か。刺す(大悪党しか居ないと思ったとタイツマン)」…まぁ、何処ぞの社長は「…負けたら、自殺する(死ぬ気満々)」…と言って居たが(※例のあれシーンです)。
……タイツマン「…一つ、リボルバーは悪人です。二つ、その父親も悪人です。三つ、Aiも悪人です(※元ネタ:井伏さんは悪人です 太宰の遺書らしきメモより)。」
「…Ai?」俺は其奴に騙されて来たのだ、人間はAIを愛する事は出来ぬ、利用するだけだ(※太宰成分が入るとこうなる)
。
…月華新作出して〜!!SNK〜!!(※今でも海外で売れるから〜!)
…必死過ぎだね。VRがアニメアワードで8位取ったただけで騒いだり、隠れた駄作呼ばわりしてる奴。…君達が塩酸じゃなく、律儀にも塩を送って来たからそうなっただけじゃないのだろうか?(※自分で自分に、モノを見る目が無いと言う自覚が無いと、此のジャンルに限らず、度々、こうなる)
…文豪と言うのは、偉大な文学作品を世に送り出してきた人達の事では無く、偉大な文学作品と、真正面から、ただただ真摯に、向き合い続けてきた人達の事なのです。(※……似たような事は、前にも書きましたが)
…嬢ちゃん、一緒に死ねますか?(※歓迎するぜ!)
…此の、凄まじい迄の、絶不調な体調、ウェイン兄弟にも伝えるです(※夢女並の戯れ)。
…ユギオ最古参が長老扱いなら、ジャンプ黄金期、或いは、格ゲー全盛期リアルタイム世代以降は、骨と皮しかないミイラか、白骨化した遺棄死体では?(※名推理)。
…まっ、あの手の、生きてるを自称する死んだ屍おばさんなんて多いからな()
…『白骨化した遺棄死体』のくだりを読んで、『九相図』思い出した人〜〜!(※…割と居る〜〜!)
…むしろ、『白骨化した遺棄死体』では無く、最早、化石として、地中に遺された地球生物史の一部にも、石油等の化石燃料になる事も無く、…『ただ何も無く、完全に自然に帰った後』の方が、表現として的確やもしれぬ。(※…それ程、社会も其の人々を必要として居無いと言う事だろう、悲しくも)。
…「インプットが必要な時期なので、しばらくインプットして来ます」…と自身のブログに書き残した後日に、飛び降り自殺したフリゲ作者を私は知って居る。(※…確か、享年25歳くらいだった)
無☆職☆王「…あの様な袴姿でバイクに乗るとは莫迦か!(自分のバイクに袴で乗った蟹に対して)」アキさん「…じゃ、貴方は阿保ね(…ねぇ、アホラスさん)」
…聞いてるか?神運営(※何処のゲームのかは言わぬとこ)。> ttps://twitter.com/k_tash_n/status/1225765981596708865
…エンプラ騒動酷かったですねぇ……(※何処のエンプラかは言わない優しさ)。
…皆、割と気軽に蔑称で呼ぶけど、結局、愛されてるんだよね(…御分かりだと思うけど、愛されず、憎まれもしないのが、一番誰にも、其の存在を覚えられない)。
…穂村は、意外にも、割と情け無い男だ。…だが、そう言う、情け無い男の方がよっぽどモテるのだ。…それでも、おいそれと、モテない男が、即席的に、真似出来るものでもなかろう(※後半喪男ネタほんとすみません)。
…どうせなら、御互いに見知って居る人に殺されたいと思うのが、人間な訳ですよ(※流れた血にも温もり)。
五条先生(27)「若者から青春を奪うな(※←これ)」
…今日も一日。寿命を効率的に浪費出来たなぁ…(※…これから先の時代は、未曾有の地獄だらうなぁ…)。
…死にたきゃ一人で黙ってさっさと死ねよ。(←我が母の発言)
…特に、各々自分で、ちゃんと意識して宗教を決めて居ない限り、日本人は日本の神様の僕なのだろうか?(※余り話題にしてはいけないかもしれない事)
…「イエス様、神の僕になれ(…兎に角、神に隷属しなさい)』と教会に行く度に、言い聞かせられて来た人の発想なのは、自分で分かります(※…自称:目上に従い、こき使われ慣れても、そうなるかもしれませんが)。
…真逆、此処まで、『朝日新聞が堕落する』とは明治の人間は、誰も思わなかっただろう(今はただアサヒるだけが芸である…)。
※…以下、夢注意
…皆が皆、此の上にも増して、プレメに関して酷く、意気消沈して居るやうだったが、…別に『人生なぞ冥土に征く迄の暇潰し』としか考えて居無い筆者は言った。「…あのさぁ…、…二十歳で死ぬような奴に���達も学歴も要るか?!(中也並暴言)」…等と吐き捨てると、了見は筆者の腹を思いきり殴った(※無言の腹パン)。
…タイツマンに対して、中也みたいな暴言吐くの楽しいぞ(※…御前等もすると良いよ? タイツマン「刺す(太宰並 ※刺すは太宰が川端に送った言葉 」
…リボルバーとは、こちとら趣味が合うみたいなんで(※…彼奴は随分、生意気で温い銃器に関してはにわかの弟分みたいなものでしてな ※自称ミリオタ並イキリよう)。
…私が踏み付けにしてやっても良いんですがね?(※蟹を)。
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2月の各地句会報
平成31年2月の特選句
坊城坊城選
栗林圭魚選 岡田順子選
平成31年2月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
使はれぬ火鉢が廊を冷たくす 千種 文豪の寝台底冷えの容に 要 秋水書院入る隙間風も猫も 野衣 硝子戸の影やはらかく春を待つ 美紀 突き上ぐる霜にも乱れざる茅舎 光子 待春の旧家にありし神隠し 久 蘆花邸は迷路あうらの冷たさに はるか 木漏れ日としての冬日や愛子の間 淸流 妻に買ひし桐の小簞笥日脚伸ぶ 眞理子 茅屋の廊寒きオルガンの黙 要 躙り口ほどの鳥居や午祭 千種 針止めて懐中時計春を待つ 秋尚 オルガンはぷかぷか春を待つ一日 久 オルガンや文士の愛は儘冱てず 順子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月6日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
分校の下校のチャイム日脚伸ぶ 越堂 春禽として南縁の雀たち 越堂 女正月女の愚痴は目で答ふ 世詩明 十指まで悴む夜の静寂かな ただし 日野の土手足投げ座せば寒雀 輝一 雪道に獣の道の交差点 誠 春を呼ぶ水の音淡く渓流へ 幸只 春一番扉が軋む地蔵堂 信義
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月7日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
人会へば豪雪無きを挨拶に 喜代子 躪り口開ければ床に寒椿 由季子 盆梅の一輪遠く昼の月 都 寒明けし着けてみ���うか耳飾り 都 春めく灯隣家の厨遠く見ゆ 都 如月や女野に出ですぐ戻る 都
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
ちらほらと梅咲く丘の風匂ふ 俊子 冬草や薄日抱きゐる書店跡 都 初鏡病衣の前を整へて 幸子 バス停に鳩迷ひ込む霙かな 佐代子 たまにある春の停電母校訪ふ 幹也 春立つ日閼伽桶さげて父の墓 和子 椿落つ城の古井の被せ蓋へ 栄子 朝戸引く梅一輪の日向へと 悦子 足取りの弾んできしよ犬ふぐり 史子 一瓶に桜三景の秘伝活け 益恵 藤の実や子等姿なき遊園地 立子 二階より海見る暮し春を待つ すみ子 魚は氷に老漁夫は舟繕へる 美智子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
春の雪行きも帰りも女坂 亜栄子 寺領ひつそり枝垂れ紅梅ひつそりと 文英 撞く銅鑼の音裏返る春の雪 三無 一塩のさより銀光残しをり ゆう子 猪口ぐいと鱵の握り海の青 三無 風吠ゆる振りむく背ナに椿落つ 美枝子 落椿寺苑の黙のゆるみたる 亜栄子 庭苔にのりてしばらく春の雪 三無 母逝きて空き家を照らす寒の月 多美女 回廊に合図の様に紅椿 教子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
盆梅のあらはなる根の逞しく あき子 茅葺きの影積み重ね春寒し 秋尚 早春の園に水音鳥の声 怜 病むやうな薄ら日の径春寒し 三無 野のいろに水音に春来てをりぬ 三無 盆梅や小さき宇宙を大胆に あき子 黒土の畑を蓋って繁縷かな エイ子 せせらぎの音を抱へて猫柳 三無 臘梅の香りふんだん土手包み せつこ 寄り添ひて語り合ふかに福寿草 秋尚
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月12日 萩花鳥句会
雪消しの雨ひたすらに葉を叩く 小勇 つまづきて朝茶で火傷春浅し 祐子 新しき藁の敷かれて牡丹の芽 孝士 鬼遣らひ鬼はパパだと泣き笑ひ 美恵子 あれ怪人銀輪駆って白マスク 健雄 床の間へ置くランドセル春を待つ 圭三 草青む畑に弥生土器の片 克弘
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平成31年2月17日 伊藤柏翠俳句記念館如月抄 坊城俊樹選 特選句
風花に手を差し伸べてゐる女 雪 見てゐか見られてゐるか寒鴉 雪 凍星に我が吐く息の短かさよ 雪 風花や��りの道の仏達 ただし 恋猫の爪研ぐ音に目覚めけり ただし 白梅のふふむに応へゐる鳥語 かづを 寒牡丹上野に古りし塔一つ 越堂 月の夜を幻の如風花す 越堂
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
生臭き風の幽かに春炉燃ゆ 炳子 百年の音を潜めて雛の家 佑天 尖塔より魔女の誘ひ春きざす 眞理子 鶴首へ白椿紅椿かな 慶月 春寒や幹の顰める公孫樹 圭魚 藁葺の火色冷たき猟名残 炳子
栗林圭魚選 特選句
西向けば羅針盤めく春の鯉 俊樹 生臭き風の幽かに春炉燃ゆ 炳子 二ン月や細き亀裂の薬医門 炳子 百年の音を潜めて雛の家 佑天 火を囲む煙の背ナにある余寒 斉 まだ固き日を金縷梅の眩しめり 斉 梅が香をたしかむやうに風の止み 悠紀子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月20日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
川風に唇重き余寒かな 越堂 春寒や自販機押せば迷ふ音 世詩明 立春の耳朶やはらかにイヤリング 世詩明 またも逢ふ最終バスの冬帽子 令子 百年の友より今し冬牡丹 淳子 下萌にかくれてをりし小石かな 千代子 羅針盤狂ほしく揺れ春立ちぬ 数幸 寺壁の詞と吾の間に淡き雪 数幸 梅冷の雨の鎮めてゐる城址 松陰 海鼠てふ得体の知れざるものを箸 雪 寒鴉我を一瞥したつもり 雪 刀折れ矢尽きし如く冬籠 雪
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月21日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
カーテンの裾ちとはだけ庭は春 一涓 偕老に大雪晴といふ四恩 一涓 斃れたる父語るかの火吹き竹 一涓 福助と居並ぶ猫や春隣 一涓 草萌の色重ね行く大地かな 信子 春泥や飛び越えるには大きすぎ 信子 世を敵に廻せる如く懐手 雪 一瞥と云ふ表情も寒鴉 雪 俳諧の鬼の館とて豆撒かず 越堂 雛飾る柱時計の音たしか 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月24日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句
落つるべきところに落ちぬ藪椿 公世 春光や狛は巻毛を巻きなほす 野衣 ひと息に絞め殺したき春ショール 公世 早熟な紅は昏みし藪椿 順子 飛行機の薄く剥ぎゆく春の空 野衣 あたたかな大鳥居かな指の跡 和子 紅梅の献饌として香るかな 政江 西へ曵く飛行機雲や卒業す 光子 啓蟄の地を打ち止め大鳥居 野衣 親指を握るかたちの余寒かな 和子
栗林圭魚選 特選句
春禽の過る一瞬荒野たり 炳子 芽吹くものありて御霊の鎮もれり 佑天 観梅の根付の鈴の鳴りにけり 光子 初蝶来白きビルより白き風 梓渕 土の��渡れば潜む初音かな 炳子 池の泥塗し微睡む春の鯉 久子 引鴨の水音高く戯れり 悠紀子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月27日 九州花鳥会 しろうお句会 坊城俊樹選 特選句
潮調子見極め白魚漁師かな 光子 神おはすかに梢先の春動く 阿佐美 人の世に大罪いくつ白魚汲む 寿美香
岡田順子選 特選句
漁小屋のひとつ余寒の室見川 由紀子 犬ふぐりかたへ特急列車過ぐ 美穂 春浅き川に日がなの番屋守 由紀子 飯店の灯に跳ねしろうをまじまじと 久美子 白魚簗吾が編みたると漁師かな 光子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月28日 九州花鳥会 定例句会
坊城俊樹選 特選句
水仙や火除地蔵の首傾ぐ 山脇順子 語れども噛み合はぬまま目刺焼く 桂 一条の囀に神さぶる枝 岡田順子 薄氷を清瀬へ流す日矢の音 かおり 水飴の水脈引く瀬戸の冬夕焼 勝利 郵便ポストの赤くなる春の宵 朝子 金縷梅の咲くや散るやと縮れをり 志津子 魚籠叩き身悶ゆるしろうを透きて 睦子 揚雲雀青天井を突き抜けて さえこ 落椿蕊に温みを宿しまま かおり 鳥語にも錆びの滲みし白椿 佐和 白魚へ百代の水脈迸る 岡田順子 金縷梅や蒼穹の空黄ばむほど 阿佐美
岡田順子選 特選句
まんさくや昼森閑と裏宰府 美穂 金縷梅の咲くや散るやと縮れをり 志津子 豊壌の御鷹屋敷へ春の雨 かおり 海苔粗朶に潮さす音や終列車 千代 まんさくや渓を渡れば村の塾 朝子 神鶏の春呼ぶ声や絵馬の鳴る ひとみ 夜明くれば忽然と出づ春の山 桂 西陲の館に愁ふ踏絵板 ちぐさ オルガンの重たきペダル紀元節 寿美香 折枝戸の色は飴色蝶生まる 寿美香
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年1月10日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
美しく目覚め初夢おぼろなる 越堂 鴇色に雪の白山昏れ残る 越堂 雪椿哀しきまでに赤きかな 越堂 炬燵守りなんでもや守り婆達者 越堂 朝露を硯に落とし筆始め ただし 鬼の宮仏の宮も初詣 ただし 改めて父似母似の初鏡 清女
(順不同 特選句のみ掲載)
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さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
左義長の炎を一歩退きて浴び 紀子 白山の稜は白日雪蔵し 登美子 婆二人笑み手をつなぎ伊勢参 みえこ 撒く豆の波を造りて弾け落つ あけみ 色のなき北陸の地も日脚伸ぶ 紀子 入院の鞄重たし春一番 実加 半生は刹那と思ふ春隣 実加 寒波襲来黒光りして日本海 令子
(順不同 特選句のみ掲載)
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芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ビロードの艶ふめく花穂猫柳 孝子 雛段に飾りし桃を地に育て よみ子 もの忘れゑのころやなぎなつかしき 寛子 冬着積み介護の部屋となりにけり 由紀子 街灯の光の渦の雪しまく 由紀子
(順不同 特選句のみ掲載)
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自伝 2017.03.15
僕の夢は、小説を書いて、さしあたり、まず紙の本として出版することです。要するに「物語」を作ることです。それだけだったはずなのに、現在、様々なものに絡め取られていってることに気がついた。それは結局は「自己と他者」の問題に尽きると思いますが、その苦悩が大きすぎるので、その隙間を埋めるために文章を書きます。しかし、いざ文章を書き始めると、「何のために」書いているのかという疑念に苛まれることになった。しかし、「何のために」など、考え始めても、無駄なことでした。とにかく今は足早に、簡潔に、書いておかねばならない。僕は一部の生活歴を他人に見せていないと、不可視の他人の影によって絶えず自分が暗くされてしまうと思うのです。だから、真っ黒に自分が潰されてしまう前に、少しでも安住する場所にたどり着こうと思います。ここで、今、思い出しました。僕の現在住んでいる実家は、河川区域で、近くに堤防があります。そこには、市特有の桜の木が等間隔に植えてあります。19歳の冬、大雪が降りました。裸の、毛細血管のようになったその桜の木の枝々に、真っ白な雪が覆いかぶさり、電灯に照らされて、とても眩しく、幻想的でした。道路は鉛筆で塗ったみたいに光っていました。僕は音楽を聴きながら犬の散歩をしていました。僕はその真っ白な光景に、思わず嗟嘆しました。そして言葉を漏らしました。「なんて、素晴らしい光景なんだ。しかし、僕以外、誰も見ていない!」そして、ある文章を書きました。「真っ黒」というさっきの言葉によって、その記憶が引き出されたので、まずそれを記載してから、ちょっとした自伝を、中学生一年生の時分から書こうと思います。
「雪」2014.冬
実家との距離もさほど離れていない同じ市内のアパートで僕は独り住まいをしていた。その一室で、僕は薄茶色をしたモッズコートを着て、白い長方形の机に面した椅子に座っていた。部屋の中が、厳寒だとしても、エアコンをしょっちゅう付けていると、電気代もままならないので、コートを着て寒さを耐えるのであった。窓の外を見ると、雲が垂れ込めていて、雪がすぐそこまで来ているかのような空模様だった。アパートの外の住宅地は、忘れ去られたように静かで、ひっそりと呼吸をしている貝のようであった。玄関を出て、向かいには農地があり、横には家々が並んでいた。とある住宅の庭には、植木がたくさん備わっており、裸体になり蛇行した木の枝には、コゲラが何匹か止まっており、教室で生徒たちが粛然と机に向かって文字を書いている時に聞こえてくる「コッコッコッ」という音を鳴らしていた。ヒヨドリやカラス、スズメの鳴き声も周囲で賑わっていた。その鳥たち以外で聞こえてくる音といったら、飛行機雲を発生させながら飛んでいる飛行機の音だけだった。時折、夕方の郵便配達のバイクが住宅地を駆け回る音が聞こえた。僕は自分の内的な変化には非常に敏感になっていた。だが、やはり何も起きなかった。
次の日、僕は日雇いのバイトに行った。業務内容は、倉庫内での仕分、梱包の作業と記載されていた。倉庫の中は、雨の日の午後みたいに、完全に静かだった。僕は、結束機を使って、商品を梱包し、品種ごとにまとめる作業を繰り返した。しゃがんだ際に、靴の汚れがコートにつき、僕は憂鬱とした気分になった。他人の生活は恐怖だ、と思った。ましては見知らぬ人の人生など。僕は帰りに、ローソンで本を立ち読みした。なぜか肉体的な不能感が気分を覆っていた。
大雪警報が出た。関東は明け方まで続くそうだ。積雪10センチ、16年ぶり。街の人は、風雪の対策に追われていた。スリップ事故多発。23区は20センチ。 この雪は僕を奮い立たせた。混乱させた。いらいらさせた。今は19時過ぎ。窓の外では、風が吹き荒れている。救急車の音が聞こえる。この雪の影響での事故だろうか。空はこんな時間だというのに、黒が一つも見当たらず、見渡す限り、完全に真っ白だった。外は新品の純白のタオルで覆われたみたいになっていた。僕はいささか緊張していなければならない。寒さなど、もう気にかけない熱を持っていた。まるで発狂しそうな白だと思った。 「この今の思い、光景をどう表現したらいいのか」と、僕は悩んでいた。雪よ、決して止んでくれるな、と。だが、この肌触りを感じている自分から離れ、別のものを通して自分を見ると、自分は一体なにをしているんだ、この奮い立てられる自分とはなんなんだ、という深い疑念を抱かずにはいられなかった。やがて、僕は父と母に迎えられたが、それを拒んだ。そうすると、やがて買い物に誘われ、それもまた同じように跳ね返すと、父親がアパートの玄関の前まで来た。父は「何か食べ物買いに連れて行くよ」と言ったが、僕は「いや、いいよ」と言った。「雪の中で、車で、面白いよ」と言って来た。最後の言葉に呼び込まれ、僕は「それじゃあ、行くよ」と言った。父が運転する白い軽自動車に乗った。タイヤはスリップに備え、スタッドレスに交換してあった。車体が前��し、窓から外を見た。僕は、外がこんなことになっているとは知らずに、神々しい光景に目を奪われた。(外が!)と僕は興奮しながら胸中で叫んだ。 創造することと、感受することは、ともに一番深いところでは、まさに美的な「領域」に根を下ろしていて、切断することは原則上できない、創造も感受も、共通の根である「見ること」から出ているとオスカー・ベッカーは言った。 この発熱は、多分、僕が何かを創造しようとするものとして、美的なものが僕の心を掴んだから、起きたものらしかった。そうでない人が、この光景を見やったとしてもここまで熱狂的になる人はいないんじゃないか。僕はただただ取り憑かれてしまった。そして、外に降りたら何かがある。外に出ずにはいられないと思い、強迫的に僕は外に出た。 驚嘆した。膝が隠れるくらいまで、雪に埋まりながら、息を弾ませながら前へ進んだ。なにも考えずに。というより、考えることができなかったために、無心でただ前に進んだ。僕は片手に大学ノートを持っていた。ノートに絶えずその時の心象風景のようなものをメモをした。今の自分を記録したい、と強く思った。でないと、自分が崩れ、吹き飛ばされ、死んでしまうと思った。今見ているものにできるだけ僕は接近し、それを表現したいと思った。それ以外のことは考えることは不可能だった。不安はこの街のどこかですっぽり雪に覆われたみたいに今は出てこなかった。いや、不安だからこの行動なのかもしれない。僕は強迫的に尖った銀色のシャープペンシルをノートの上で躍らせた。傘なんてさそうとは思わず、食べ物を買ってアパートに帰って来た時には、全身が雪まみれで、玄関とつながっている台所も雪まみれになった。外を歩いているとき、人は見当たらなかった。いや、多少いたかもしれない。二人組が家に帰る時に前を歩いていて、僕がそれを走って追い越したこと。薬局の入り口あたりで雪かきをしている人がいたのと、あと、数人傘をさしている人がいたのと、黒い車がコンビニの駐車場から出ようとしているのと、近くのレストランで食事をしている人を思い出すことができた。でも、車通りは少なく、いつもとは明らかに違った。雪は本当に白くて、足で踏んだら全身がどこまでも下に落っこちてしまいそうな雪だった。ベランダの外は雪の川みたいになっていた。僕はアホだ。そして、空虚だ。やっていることがわからない。僕はどんな理由で、こうなったのか、なにが原因でこうなったのか。
数日後、また雪が降った。先週に降った大雪の後で、世間はもううんざりというふうだった。 今冬で三度目くらいの雪である。それでも楽しんでいる人々と、積雪などの対策に追われ、憂鬱そうな人々と二様であろう。僕はどちらでもない。僕はわからない。ただ、考えようとしないだけかもしれない。窓の外で、激しく降る細かい雪や、葉や木の枝についている白い雪や、牢固として建っている住宅や、その囲いや、曇った白い空などを眺めても、僕は、何か感られているようで、感じられないような不安が起こり、動揺させたが、この三度目の雪に対して、感興など全く起こらなかった。 14時過ぎ。湿った道路を車が時々走る音と、洗濯物を乾かしているエアコンの発している音と、アパートの上の階の屋根から、つたって落ちてくる小さな滴が僕のベランダの手すりを叩く音が少し間を置いて聞こえた。 乱雑した物象の影がある机で、僕は今静かに物書きをしている。何かを書こうとしても、僕の意識は絶えず、不明瞭で、そこから出てくる言葉も弱々しい稚拙なものであった。だが、過去から僕が引きずって来た強い信念は、この雪も溶かした。だからこそ、僕は、それがあるからこそ、誰にも邪魔されず、一人だ。今こうして、この場所で僕は色々なことを反芻しながら、考える。迷い犬が主人の家を探すように。僕は道をさまよい歩くだけである。だが、その道というのも、果たして、本当に道であるか、疑わずにはいられない。今、僕はあることを閃いた。これは本当に僕の言葉なのかと。何か赤裸々ではないのではないか。今、鳥の声が聞こえた。巨大なムカつきのようなものが、僕を捉えた。文章にしてみると、それが僕のもの、僕の言葉なのかどうか、なぜか文章に勢いが感じられない!雪は降り続いた。雪を見る僕は醜いものだった。雪は綺麗だった。僕の身体は汚かった。深い宵闇から湧いて出てきた糧を、僕は眺めていた。
雪の降ったある夜だった。僕は髪の毛を両手で掻き乱すような調子で、ひどく沈鬱していた。一編の小説を書こうと、頭を凝らすのだが、思うようにうまくいかないのだ。明日、日雇いのバイトに行くかどうか悩んでいた。そして、日雇いに行くことを決定した自分を想像してみると、何か急にうら寂しい気分になった。雪は降っていなかった。空気は凍てるように冷たく、空は一点も白がなく、真っ黒だった。星々がくっきりと輝いて見えた。僕は結局明日、日雇いのバイトに行くことにした。そして、そのことによって、今日僕はご飯を食べに、実家に行こうという気になった。僕は自転車で数日ぶりに実家に帰った。家に着くと、僕は自分が、遠くにいるような、どっかで道に迷っているような感じを覚えた。
僕は犬の散歩をした。僕の実家の東側のすぐそばには川が流れており、遊歩道や、堤防が整備されていた。寒風が身を縮こませ、無意識のうちに肩に力が入り、猫背になった。堤防に入る道を歩いていると、前方にある電灯が、静かな光を皓皓と放ち、道行きの風景に明暗をつけているのが感じられた。地面は凍て、鉛筆の芯でなぞったように光っていた。だんだん歩き進んで、堤防に入ると、目覚ましい、突き抜けるような、美しい、捉えどころのない光景が目の前に広がった。この堤防の上には、O桜という、この市特有の桜が等間隔で並んでいた。O桜というのは、1954年に、この市の西岸を流れる川に沿った丘陵地で発見された、十月桜の突然変異らしく、花弁は10枚ほどで、ソメイヨシノが開花するより先に満開を迎え、八重咲きが咲くまでの息継ぎに咲く、中継的な、��重な桜らしかった。春になると、その花は、春爛漫といった感じで、どの人間も魅了した。よく、この桜を見に、観光にまでやってくる人もいるということだった。しかし、現在はこの桜の木も裸になってしまっており、アナーキーな枝々がむき出しになっていた。枝には白い雪が乗っかっていた。草が生えて、緑の部分は雪で覆われ、電灯の眩しい光に照らし出されて、白が一層際立っていた。先に進むと、小学校があり、昇降口のそばにある道標の巨大な榎からしんしんと雪が地面に落ちていた。そして辺りは寒い冬の夜半に寝床で人知れず眠りに落ちていこうとする自意識のように静かだった。
僕は迷いに満ちた表情を浮かべていた。「どうしたらいいだろう」僕はこの風景の異様さにとてつもなく魅了されながらも、この風景から自分が隔絶されているのを感じた。恍惚の中の観照の中で、自分が棒立ちになっていて、取り残されて行くのを感じた。怖くなった。なぜか不安につかまれて、僕を空虚な気分にさせた。僕は足跡が付いていない雪を見て、誰もここを通っていないのだと思った。僕は足跡をつけた。誰もいない!こんなに美しい光景の中で僕は一人きりだ!そして…。僕は焦り、犬の散歩を早々に切り上げ、またノートとシャーペンを持って、戻ってきた。直感的に感じた美を、そのままにとどめておくことは自分自身を腐らせ、死に至らしめることだった。やっぱり誰もいない。僕はその時、心の中で起こった心象を、細々と、またノートに書いていった。僕は実家に帰ってきてよかったと思った。そのおかげで今この光景を僕は見れている。それは僕が一人生活の中で熱望していた飛躍のようなものであった。その飛躍の一点こそ…。だが、「なんのために?」という言葉がふと頭によぎった時、急に自分を底知れない孤独の方に向かわせた。そして、僕は「早く家に帰ろう」と思い、来たときとは違う早さで、家まで早歩きで駆けて行った。頭がうつむいていた。川にうつっている光や、影が、何か漠然とした不自然さのようなものを思わせ、おぞましい気分にさせた。家に着いた。また以前の僕に戻った。思考が元に戻った。
【2007年 12歳】
中学一年生
一学期の授業日数が71回で、欠席日数は0回でした。しかし、二学期は83回で、欠席日数は27回。なぜ欠席がこんなにできたのかと言うと、学校教育法にある「出席停止」を適応されたからです。 「出席停止の基本的な要件は、「性行不良」であることと、「他の児童生徒の教育の妨げがある」と認められることの2つ」と文部科学省のHPをみると書いてあります。僕が、こう見なされたのは、ある事件がきっかけでした。「コンセントにシャーペンの芯を突っ込む」という一種の遊びを友達にやらされていたのです。自発的にやろうと思ったわけではなく、僕はやりたくなかったのですが、当時遊んでいた不良の友人にその行為��促され、僕は関係性を保っていたいがために、本能的に、理科の授業の際に初めてやりました。そして、後日、友達が同じ行為をした際に、ショートした時に過電流が流れ、学校のブレーカーが落ちたらしく、英語の女性の先生がやっていた人物に気づいたらしく、僕も含め、やっていた生徒全員呼び出されました。他の人は指導されただけでしたが、僕だけが「出席停止」になりました。なぜというと、僕は中学一年生の中で、初めて保護者を呼ぶことになった生徒らしいです。これは21歳の時に、学年主任に会った際にそう告げられました。そのきっかけは小学校が同じだった生徒と、小学校からの延長線上で、戯れていた際、謝って怪我させてしまったからでした。それから僕は、気づいたら問題児というレッテルを貼られて来ました。当時、人一倍目立ちたがりで、他人から気に入られたい、疎外されるのを恐れていた僕は、学校で「問題」が起きると、自分が主体となってその問題を起こしたのではないが、なぜかその問題の中に必ず僕がいて、指導されるという感じでした。例えば、バドミントン部の部活動の県大会の際、クラスメイトの一人がお金を見せびらかしてきたので、「そいつのお金を盗んでやろうぜ」と万引きをけっこうやっていた友達が僕に言い出すと、それに嫌でも同調してしまうという感じで、僕は従っていました。そして、当時僕は勉強もできず、読書もまるでしなかったため「言葉」というものをまるで持っていませんでした。そのため先生と話しをする時でも、言葉がうまく出てこず、会話が破綻し、目も合わせることができず、絶えずうつむいているような感じが多かったとのことです。そのため、「心の中に何か抱いているものがあるのではないか」と外部から判断され、専門機関などに見てもらってからでないと、学校に来てはならないということになりました。僕はその対処にものすごく不服でした。そして、僕は「学校」というものを拒絶していくようになりました。やがて学校に来てもいいという処置をとられましたが、三学期は52回あったが、欠席日数は52回。一回も学校に行くことができませんでした。母も父も僕のことを「性行不良」だと見なし、無理やり学校に行かせようと家を追い出したこともありましたが、僕は行くことができずに、自転車を押しながらとぼとぼ家に帰って行き、寝ました。学校に行っていないときは、寝てることが多かったように思います。両親も児童相談所や、青少年相談室などに相談に行き、僕のことを考え、いろいろ奔走してくれましたが、僕は当時、内心誰も信じることができなくなっていました。これが僕の心的外傷になっていると思っています。本来は206回なのであるが、79回休み。計127日出席した。
この時に体験した詳細な出来事は、どうしてもまだ深く自分の心に沈殿していて、吐き出すことができていないので、別で物語にした文章を書いており、いずれ形にして必ず発表します。
【2008年 13歳】
中学二年生
ずっと学校には行けず、家に閉じこもる日々でした。友人とは��ぶこともありました。その友達の一人(以下K)が保有していたカルチャーの影響もあり、よく一人でアニメを見ていました。深夜アニメなどをよく見て、声優の名前などを逐一覚えていくようになりました。CLANNADというアニメにはまり、精神的支柱になっていました。冬休みを目の前にした12月1日から学校に行けるようになりました。小学校から一緒だったそのKが自宅まで迎えに来てくれたのです。「子供は理解してくれる人が一人でもいれば、持ちこたえる」と言いますが、彼はまさにそういう存在でした。なぜか、当時、僕ではない誰かが学校でCLANNADを話題にしていたらどうしようと、恐れていました。学校に行けるようになりましたが、僕は一年生の時とはまるで変わり、落ち着き払っていました。人の目を気にして、よく髪の毛をいじっていました。
学校に行けるようになってから数日だったある日のことでした。Kと一緒に帰り、帰宅後、モンスターハンターというゲームを一緒にプレイしようとしていたのだが、学校に行っていない、不良(この言葉をあまり使いたくないですが)ら三人に絡まれました。僕にコンセントにシャーペンの芯を突っ込めと言って来た人もいました。学校の出口にある橋の前で自転車で待っており、連れられて、人気のない雑木林のような場所へ行ったら、だんだんと暴行を加えられました。不良の一人は「関羽だー!」と言いながらコーンバーを振り回したり、タバコをふかしたりしていました。一緒にいたKはその時、ちょっと蹴られた程度でしたが、僕は「俺の悪口を言っただろ」と執拗に言われ、「言っていない」と言うと、「友達から聞いた」と言われ、ボコボコに殴られました。逃げようと走りましたが、逃げられませんでした。そこで、「明日、3万持ってくれば、あと一発で勘弁してやる。だが3万円持ってこないんだとしたら、おまえを気のすむまでこのまま殴り続ける」と言うようなことを言われ、早く解放されたかったし、殴られるのが耐えられないと思った僕は3万円持っていくと約束しました。そして一発頬を思いっきり殴られ、彼らは去って行きました。最後に言い放った言葉は「いい勉強になったろ」でした。帰り、ドロドロのジャージを洗濯機の中に入れ、家族には何があったか告げられず、ただ、不安に満たされながら音楽を聴きました。そして3万円を親の財布からこっそり盗み、少し遅れたことを電話口で詫びながら、彼らの元に向かった。「ごめん、少し遅れてしまって」と伝えると「いいよ、ちゃんと来たから」と言った。その金で、Xboxを買うという話でした。彼らは安穏とした調子で話しながら家の中に入って行った。
【2009年 14歳】
中学三年生。
一学期の初め頃は学校に通っていました。朝の読書時間の時に読む本を買わなければならず、なんとなく書店で見つけた「ひぐらしのなく頃に 語咄し編」を買いました。その作品は見たことがないですが、自分の中でその作品に付与されていたイメージに、なんとなく魅惑されるものがあったのだと思います。そして、その本を、朝の読書時間の際にカバーをつけた状態で読んでいました。Kが「何を読んでいるんだ」と近づいてきて、見せると��若干驚きと笑いを交えた声調でこう言いました。「裏切ったな」僕は、その反応を見たかったのだと思いました。Kが見たことのない作品を見ることで、自分の新しいポジションをKに見せつけ、彼との差異をつけたいのだと思いました。やがて「ひぐらし」のアニメを見て、耽溺しました。何層もの編からなるその奥深い物語にとてつもなく魅了されてしまった。当時グロテスクだというイメージしか持ってなかったKは、「なんで笑っていられるの」とキャラクターのイラストをみて、言いました。「ああ、こいつは知らないんだな」と全編通して見た僕は、少し誇らしげな気持ちになりました。人物が極限にまで疑心暗鬼に陥っている姿が、本当に身近に感じられました。友人と学校で会話していても常にひぐらしのアニメの一場面が想起されたりしました。ひぐらしの人物に自己投影することで、救いを得ていたと思います。僕はひぐらしのキャラクターになっていました。やがて僕が興味を惹かれていった精神病の世界にも影響を与えていると思います。
やがて、その「ひぐらし」という作品が、最初、同人という媒体を通して発表されたことを知りました。コミックマーケットで100円程度で売り出していたことを知り、非常に驚いてしまいました。そこで、僕にもできるかもしれないという安心感のようなものが生まれました。それが、僕が「創作しようという気概が明確に生まれた原点」です。Youtubeでひぐらしの作者の制作現場の動画を見たりし、思いが募っていきました。竜騎士07という作者はその動画で、こう言っていました。
「みんな胸の中に創りたい何かはあるんですよ。でもどうすればそれを形にできるか、その方法をみんな知らないだけなんですよ。なにも作品ってのは、商業、会社から発売されているじゃない?個人がたどたどしい手つきでもいいから、こうやってものにして、発表するっていう、そういう場がここにはあるわけなんですよね」
それを聞いて、非常に勇気を与えられました。制作者の現場を垣間見ることで、新たなヴィジョンを掴むことができた。そして、当時の僕はその「ひぐらし」と同じ表現形式のサウンドノベルというものを作ろうと思いました。学校での体育の時間に、僕は友人に将来サウンドノベルが作りたいんだという展望を話したりしました。「だから音楽担当してよ」と誘いかけたりしました。だが、その欲求だけが充満するばかりで、ステップを踏み出すことはできませんでした。なにをすればわからないから、とりあえず、アイデアなどを携帯電話のeメールのboxに溜め込んだり、同人ゲームなどに詳しい同級生に、サウンドノベルを制作するツールを教えてもらったりしましたが、作品を書くことはどうしてもできませんでした。やがて周りは高校受験になりました。僕は母親に促され、母親の同級生である勉強を教えてくれるという人の家に通うことになりました。
【2010年 15歳】
偏差値40程度の県立の同じ高校を二回受験するが、不合格でした。落ちたことに激しい落胆を感じましたが、しかし、どん底に落ちる、ということが、なぜか、自分という存在を���立たせてくれるような感じも覚えたように思えます。感傷癖のようなものが根付いていたのだと思います。その年、進学を諦めました。家で創作のためのアイデアを考えつつ、だらだらと過ごした。この年、ニコニコ生放送というものに出会い、自分のコメントがリアルタイムで読まれるということに、大きな衝撃を受けました。奈須きのこの「DDD」という作品に出会い、大きな影響を受けました。といっても、僕は読書が全くできなかっので、作品は読んでません。外面的に惹かれるものがありました。ただ、空の境界などのアニメを見たりはしていました。その当時、自分の作品を作りたいために、いろんな作品のあらすじや、Wikipediaなどの登場人物などを探るというのをよくしていて、DDDも一つの資料として見ていました。
「感染者の精神だけでなく肉体をも変貌させる奇病・アゴニスト異常症患者――俗に言う「悪魔憑き」が蔓延る世界。 左腕を失った男・石杖所在と、漆黒の義手義足を纏い、天蓋付きのベッドで微睡む迦遼海江の二人が繰り広げる奇妙な「悪魔払い」の様子を追う」
というDDDの「悪魔憑き」という奇想なアイディアに触れ、そこから派生して、「狼憑き」というものに至り、僕は「悪魔憑き」ではなく、「狼憑き」を作品のモチーフにしようとしました。
そこで、「狼憑き」について、Wikipediaでは「狼男」だが、色々探っていくうちに一つの文献に当たった。それが、「狼憑きと魔女17世紀フランスの悪魔学論争」という書物でした。それをアマゾンで600円くらいで注文した。初めてアマゾンというサービスを利用しました。
この本の商品説明の内容が魅力的に思えた。
「狼に変身し、野原を駆け巡り、動物をむさぼり食ったと告白する男。特殊な薬を体に塗りこみ、魂だけが分離して魔女集会に参加していた女。彼らの体験談は真実か、それとも悪魔の謀略による幻覚なのか。「狼憑き」「変身」、「魔女の脱魂」の問題を巡って肉体と魂の不可分、神と悪魔の関係をも含み、近世の悪魔学者の間で、キリスト教世界観を揺るがす激しく危険な論争がくりひろげられた」
これを軸にして、物語が書きたいと思いました。当時、「乙一」を意識していた。彼は16歳時に「夏と花火と私の死体」という小説を執筆し、17歳の時に、第6回ジャンプ小説大賞を受賞して小説家の登竜門を通過し、デビューしている。そして、僕は、15歳で執筆し、乙一よりも早くデビューしたら、すごいんじゃないかと漠然と考えるが、結局、小説の参考資料として買ったこの文献も読むことができず、単なる精神的な拠り所みたいな形となり、作品自体は全く書けずに終わりました。読んでも、本文が全く理解できなかった。
「神の神聖を汚す事。 悪魔��は神のような事は出来ない。 幻覚によってしか起こりえない。 摂理。すべては神の配慮によって起こっている。狼への変身はない。 恩寵、神や君主の愛やめぐみ。 覚醒時に人が聞いたり読んだり見たりしたこと、ひどく怖れていること、熱望していることは、とかく眠っているときに見る。 膏薬。悟性。霊物。権威。空疎。悪魔。魔女」など、作品に活かせそうな文章中の断片を携帯電話にメモし、これを作品に持ち込もうとしたが、メモするだけにとどまった。
訳者のあらすじを見ると、問題について一口に語られており、この文章に僕は大いに衝撃を受けました。
「魔女の脱魂とは何か? 狼男の変身とは? 二ノーの時代のことばで言えば「理性をそなえた、神の被造物としての人間の魂」を、現代人のなじんだことばをつかえば「人間の自己同一性を脅かす破壊的な力に身を委ねること」、と一口に言ってしまっては、乱暴だろうか。278」
ここで「自己同一性」という言葉に偶然に出会い、その言葉を調べると英語で、「アイデンティティ」と言い、「自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念」ということを知った。定義を見ても、よくわからなかったが、自分の中で漠然とした問題意識が芽生えた瞬間だった。
(自分とは何か)
そこで、インターネットなどでアイデンティティというものについて入念に調べたりした。早朝のアルバイトをしている時も「人間の同一性を脅かす破壊的な力に身を委ねること」の文言の意味についてしばらく考えてた。それを中心のテーゼとして小説として形にできないかと考えて、心を踊らせていました。 やがて図書館で「アイデンティティの心理学」という本を借りてくることになる。だが、読書が苦手だった僕は、その新書をパラパラとめくることしかできなかった。その本を、ちゃんとそれなりの高校に行き、堅実な手段を取っている一人の男友達に見せると、「これ、大学生が読む本だよ」と言われ、僕は「そんなことないだろう」と思ったが、結局読まなかった。当時、「うみねこのなく頃に」という作品にハマっていたので、ミステリー的な側面で、参考にしようとしていたアガサ・クリスティのミステリー小説「そして誰もいなくなった」も借りたが、それも読まず返却することになった。物語という壮大な、先鋭化されたものを頭の中に絶えず思い浮かべていた。だが、頭の中に浮上してくる物語のイメージは大概が安っぽい物語のように思われ、悩んでいました。
【2011年 16歳】
宇都宮にある、作文と面接だけで入学できる「国際TBC高等専修学校」に入学するが、行く意味がわからず、ゴールデンウィーク明けに学校に行かなくなり、やがて退学。6月からスーパーの早朝品出し(6時半〜10時)までのバイトを始める。この時間帯を選んだ理由は知り合いなどに姿を見られなくないからだっ���。初めて、給料をもらうという体験をし、生活が娯楽に進むようになりました。塗装済み完成品の���ンダムのプラモデルを買ったり、友達とやる遊戯王カードを買ったり、PS3を購入し、ダークソウルをプレイしたり、そんなことをしていた。創作については考えない日はなかったが、今は少し休止期間という感じで、時熟を待つことにしようと考えていたように思う。
【2012年 17歳】
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が、CLANNADなどの作品に影響を与えていることで、前から気になっていた。9月頃、何となく市内の図書館で借りた、その小説の分厚い単行本を、約1ヶ月ほどかけて読破し、広大な物語と、些々たる描写に、凄まじい衝撃を受けた。「どうしてこんなことが思いつくんだろう」と思った。本を読まなければという潜在的な危機感を抱いていて、借りた本だと思いますが、読んだらだんだん物語に魅了され、止まらなくなりました。そして、小説を読み切ったという事実が、読書に対する自信に結びついた。そこから購入して放置してあった「十角館の殺人」というミステリー小説を読破し、面白く、さらに「虐殺器官」など、小説を読むことができるようになってきました。その読書の過程で、以前読むことができなかった「アイデンティティの心理学」という一般書に回帰し、2012年最後の読書として、これも読み終えることができた。
冬に、ニコニコ生放送にて、「こぐまちゃん」という主にゲームを配信する人物に出会い、彼の音楽の趣味嗜好に大いに触発され、インディーズバンドなどをよく聴くようになり、こぐまちゃんが流していた、Good Dog Happy Menの「Bit by Bit」が入っているCDをヤフオクで落札した。そのCDを出品していたBURGER NUDSがバンドの中で一番好きだという方に他にもオススメのCDを聞き、挙げてくれた大量のCDをすべて、給料で購入した。この時影響を受けたバンドは、「ART-SCHOOL」「ナンバーガール」などだった。「Serph」「no.9」などのエレクトロニカや、「rega」などのポストロックも聴くようになった。また、彼は一人暮らしという環境の中で、たまにお酒を飲みながら配信をしており、その自由奔放な佇まいにもこの時、漠然とした憧れを抱いたと思う。
【2013年 18歳】
そこから僕は、主に家族共用の一室しかない六畳の部屋にある薄汚いブラウンのソファーに座りながら、三島由紀夫の金閣寺を読み、それから、シェイクスピアのハムレット 、リア王 、オセローを読んだ。だんだんと文学に傾倒していった。最初は読むのが楽しくもあり、苦しくもあった。なので、とにかく「異邦人」や「変身」などの薄っぺらい本を選んでいたが、やがて長編も読まないと、と思い読めるようになった。ヘッセの車輪の下を読み、あらすじから想像できた結末とは、全く違うもので、一種のミステリー小説のどんでん返しを受けたみたいに、めちゃくちゃに、打ちのめされた。
僕は「アイデンティティ」というものに非常に執着していました。ネットで調べていく過程で、ティエムさんのブログのこの記事に出会い、ロナルド・D・レインという精神科医を知り、人間の中には「真の自己」 と、自己を保持し「構え」なんとか生きている、にせの自己体系に隷属した、「にせの自己」があることを知りました。僕はこの記事を非常に興味深く読み、これは小説に活かせるのではないかと思いワクワクした。だが、世界が二つあるという、どうしても「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の残響が自分の中にあり、そのような構成にイメージが傾きがちで、揺らいでいた。
やがて、レインの著書を直接読んでみようという気になり、「ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究」を4月に注文し、学術書だったが、なんとか読み終えることができた。挿入されている分裂病者が記した詩的な文章にものすごく衝撃を受けた。また、「自己」というものについて仔細に考察している本は初めてでした。それから、「経験の政治学」「好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび」「自己と他者」「狂気と家族」「結ぼれ」と、約半年くらいで読み進めた。「家族の政治学」「生の事実」と「わが半生」は、この時には読まず、21歳の頃、学生寮に居た際に、勉強に悩んでいた時、またレインに回帰しようと思いたち、手をつけることになった。「家族の政治学」は、「唯一可能な終末は、全善玉が全悪玉を殺し、また全悪玉が全善玉を殺した時でしょう 188」というような、破壊的かつ創造的な文章が全体を覆っており、さらにレインの今までの著書の総決算的な位置にあるということで、今までのレインの著書の中で一番好きなものになった。
「好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび」という本の訳者あとがきに記載されていた
私は精神医学にかんしてはまったくの素人です。したがって、無責任にも反精神医学のお先棒をかつごうなどと思っているわけではありません。ただ、学生時代にジョルジュ・デュアメルの『ルイ・サラヴァンの生涯と冒険』を愛読して以来、文学作品を理解するにはいくらかでも精神医学の知識を持っているほうがよいと考えてきました。エリ・ヴィーゼルやアンナ・ラングフュスのような、極限状況を経験したユダヤ人作家の作品を知るに及んで、自己同一性の問題を精神医学との関連において考察する必要を痛感するにいたりました。
という言葉を読み、作品を作るにあたって、やはり精神医学の視点も持っていた方がいいと、この時、強く感じるようになった。
このレインの「自己と他者」という本で、ドストエフスキーの作品の考察がなされており、そこから罪と罰に手をつけた。そして同著で引用されていたサルトルの存在と無の文庫本の一巻を読み、人間は絶えず「演技」をしているんだということを知り、衝撃を受けました。
ここにいるキャフェのボーイを考えてみよう。 彼の敏捷できびきびした身ぶりは、いささか正確すぎるし、いささかす��しこすぎる。彼はいささか敏捷すぎる足どりでお客の方へやってくる。彼はいささか慇懃すぎるくらいお辞儀をする。彼の声や眼は、客の注文に対するいささか注意のあふれすぎた関心を表わしている。 しばらくして、彼は戻ってくる。彼はその歩きかたのなかで、何かしらロボットのようなぎこちない几帳面さをまねようとしながら、軽業師のような身軽さでお盆をはこんでくる。お盆はたえず不安定な、均衡を失った状態になるが、ボーイはそのつど腕と手をかるく動かして、たえずお盆の均衡を回復する。彼のあらゆる行為は、われわれにはまるで遊戯のように見える。 彼は自分の運動を、たがいに働きあって回転するメカニズムのように、つぎからつぎへと結びあわせようとして、一心になっている。彼の表情や声までぷメカニズムのように思われる。彼は事物の持つ非情な迅速さと敏捷さを自己に与える。彼は演じている。彼は戯れている。しかしいったい何を演じているのであろうか?それを理解するには、別に長くボーイを観察必要はない。 彼はキャフェのボーイであることを演じているのである。
存在と無
またこの頃に読んだ、キェルケゴールの「死に至る病」には高熱が出るほどの打撃を受け、僕はその時両親が使用していた寝室に横になり熱にうなされながらも携帯電話に本についてのメモを書いたのを覚えています。
初夏、罪と罰を読んでる頃、僕は痛烈に一人暮らしをしたいと思うようになった。夜、常夜灯にしてこれから眠ろうとしているソファーでの意識の中で、一瞬にしてそういった決意が自分の中に巻き起こった。僕の家は非常に小体で、みすぼらしかった。僕が普段生活できるスペースは、二階にある六畳の部屋の一室しかなく、もう一つある部屋は母、父、妹の寝室だった。一階は台所、風呂、トイレなど以外、叔父と叔母のスペースになっていた。僕は、いつも家族共用のソファーで眠っていた。真ん中にはテーブルがあった。テーブルを挟んだ壁際にはテレビがあった。家族が朝起きてくると、僕の眠っている肉体のあるそのソファーの縁に誰かが尻を乗っけて、テレビを見ながらテーブルでご飯を食ったりする。僕はそれが非常に嫌で嫌で仕方がなかった。精神の負担になった。ヴァージニア・ウルフという女性作家の有名なセリフの「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」ではないけど、いや、僕は男性だけど、やはりものを書くには自分の部屋があった方がいいと思うようになった。
「これはまた思いきって汚ない部屋だねえ、ロージャ、まるで墓穴みたいだよ」とプリへーリヤ・アレクサンドロヴナは重苦しい沈黙を破って、だしぬけに言った。「おまえがこんな気欝症にかかったのも、半分はきっとこの部屋のせいだよ」「部屋?……」と彼はぼんやり答えた。「うん、部屋もかなり影響してますね……ぼくはそれも考えました……しかし、あなたは知らんでしょうが、お母さん、あなたはいまおそろしいことを言ったんですよ」と彼は不意に、異様なうす笑いをうかべて、つけ加えた。」
罪と罰 上巻 工藤 精一郎訳 402
こういう言葉にも一種の示唆のようなものを感じた。
そこで、僕は、資金を集めるために、グランドホテルの皿洗いの面接をするも、落ちた。面接の時間までそのホテルの入り口付近にあるベンチに座りながら罪と罰の下巻の冒頭を読み、ラスコーリニコフと、スヴィドリガイロフの対話のシーン、亡霊の話を読んで、夢中になっていたのをよく覚えている。〈亡霊はいわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である 21〉
また、男友達が働いていたコンビニで働かせてもらうことになったが、研修の際に自分がその場所ににいることが「ありえない」という感じがしてならなかった。やがて、仕事中に散漫な気分がよく起きるようになり、やめてしまった。
二軒の、浅い緑色をした、家賃が3万円の、築年数がだいぶ経った二階建てのアパートを僕はネットで見つけ、一階が空いているということで、見学をさせてもらうことにした。外観こそ古かったけれど、部屋の中は入居前にほどんど張替えをしてクリーニングされていたこともあり、新築みたいに綺麗だった。間取りは1Kで、8•5畳と部屋も不自由のない広さだった。僕はそこに住みたいと切望した。だが、僕の手元には5万円ほどの金額しかなく、入居するには16万円の初期費用が必要だった。それと、必要最低限の家具代も必要だった。「机、椅子、ベッド、本棚、デスク、電子レンジ、洗濯機、冷蔵庫、食器…」最低でも20万は必要だった。
部屋があと一部屋しか空いていなく、誰かに住まれてしまう前に、早く確定させる必要があった。焦燥感が募った。とにかく働いてお金を揃えることが、喫緊の課題だった。女性の不動産屋さんと物件を見学した際に僕は、あまりに焦っていたので、「もし誰かに住まわれてしまった場合、誰かに出て行ってもらわなくてはいけませんね?」とおかしな質問をした。「それはどういうことでしょうか?」と相手は言った。「もし僕が住む前に部屋が埋まってしまったら、部屋が空くまで、住むことができないという意味です」「そうですね。部屋が空くまでは…」「どのくらいで部屋は埋まりますか?」などという会話をした。僕は、月6万円の稼ぎしかなかったので、バイトを増やす必要を感じた。日雇いのバイトは何度かやっていたが、それを入れても約一ヶ月くらいしか短縮にはならないと思い、とにかそこに住めなくては意味がないと思い、葛藤を生んだ。月6万円の今の稼ぎのままだと、7月25日に、7万、8月25日に13万、9月25日 19万。やっと、10月に一人暮らしができる。「早くても4ヶ月後だね。それまで頑張るしかない」と思ったが、性急さを消すことができず、金額の相談を両親に相談したら、実家に住んでいる叔父に相談してみたら、とのことだったので、僕は叔父に一人暮らしをする旨を相談し、16万円必要だということを話すと、難なく聞き入れてくれて、16万円をその場で貸してくれた。その時僕はかなりの抵抗はあったが、16万円を受け取り、必ず返すからと約束をした。そして、親と不動産屋に行き、契約し、鍵をもらい、9月から、一人暮らしを始めた。そして、やはり稼ぎが足りないので、昼から近くのラーメン屋で働くが、苦痛だった。業務は、主に客が食べた食器を流しに運び、食器洗いをやっていた。餃子作りには失敗し、食器洗いの他には、卵の殻を剥くことや、玉ねぎの皮を剥くことなどが多かった。豚骨の出汁を取るための骨の肉の部分を手で直接取る作業があり、僕はその手で目に触れたら失明するのではないかと思い恐れた。バイトから帰ってきたら腰につけていた汚れたエプロンを毎回のように、他の衣服とは別に洗濯機で洗わなければならなくなった。僕はたい��ん神経質になっていた。やがて、店主に呼び出され「もうちょっと早く仕事をこなしてもらわないと困る」と叱られ、3ヶ月あまりでやめてしまった。
2013.10.04 日記
この光景をおれはしらない いまみている光景をおれはしらない 言葉もしらない いま発している言葉もしらない おれはおれをしらない おれはおれが分からないからしらない 考えることをおれはしらない 考えている脳をおれはしらない 過去をおれはしらない いまおもいおこす過去をおれはしらない 未来をしらない 明日をおれはしらない いまもしらない いまをしらないをおれはしらない しらないをおれはしらない しらないをおれはしらないをしらない しらないをおれはしらないをしらないをおれはしらない しらないをおれはしらないをしらないをおれはしらないをおれはしらない」
ラーメン屋以外には、ピザーラでデリバリーをやったが、バイクで転倒してしまい、それきり行かなくなってしまった。それから他のアルバイトはせず、早朝のバイトだけで生活するようになった。この時、レインの本で言及されていたパウル・ティリッヒという人が書いた「生きる勇気」という本を読み、漠然とだが、勇気を与えられました。
【2014年 19歳】
朝の7時くらいに、バイトをしている中、ズボンにあるバイブが鳴り、珍しいな、と思い見てみると、中学の頃からの同級生である、同じ県で事務の仕事をしている女性から「家どこだっけ」と突然連絡が来た。疑問に思い、「なんで」と返すと、「一人暮らし大変そうだから差し入れでも」と来て、少し嬉しかったが、差し入れに来ず、うやむやになったまま数ヶ月が経ち、2月の下旬にアパートに僕の方から呼ぶことになった。彼女は仕事帰りに来ることになった。その時、男友達が3人僕のアパートに集まっていた。やがてその女性が近くのコンビニに着いたというので、僕は迎えに行った。そのとき雨が降っていたので傘を持って出た。その人は事務服だった。僕はその時女性に対しての自信が皆無に近かったので、接し方が全くわからず、動揺していたが、それが悟られないように自然になろうとした。コンビニを出ると、相手が傘を持ってないので相合傘をしながらアパートに向かうことになったが、空気が凍りついていた。
部屋に招いても、とくに雰囲気が良いわけでもなく時間が過ぎて行った。仕事の話になり、突然に、僕の男友達の一人が「〇〇(僕)も雇ってやりなよ」というようなことを、その女性に言った。そしたら「今工事部が空いてる」と言った。僕は「本当に?」と彼女に言って、その瞬間本気でその職場に入ろうという気持ちにさせられてしまった。梲が上がらない日々を打破する契機にも思えた。そしてそこに文学的な意味での価値も感じ取ってい���ことは確かだった。やがて、その女性が帰るという時に、僕は駐車してある車まで送って行ったほうがいいのかわからず、結果一人で帰すことになった。僕はそれを友達にも指摘され、後悔し、送ってあげればよかったと思った。精神的な凍傷を受けた。
早速、僕はその職場の応募要項などを見てみた。だが条件の一つに「高卒以上」と書いてあり、僕は非常に落胆した。そこで画策し、高卒認定試験を考えたが、もし取ったとしても、「高卒」に満たないことを知った。ということは、その職場に入るには、高校に入学してから、あと3年間の時間を要した。今年度の試験(2014)は、もう締め切ってあり、受けられないし、受けられたとしても勉強を全くしていないので、受かる自信がなかった。僕は熱望と果てしない失望に陥ったが、発熱したような状態は治らず、来年度の試験を受けて、2018年に高校を卒業し、高卒の資格を得てから、新卒でその職場に行こうと考えた。
その頃の日記の一部 「見た瞬間諦観がとらえた。慰めてほしいが、それをされたところで、わたしはもっとも泣きたい気持ちになるだろう。外部的な何かによって、わたしは殺される。22時。感傷に浸ることはできない」
2014.03.02
読むことも危険だし、書くことも危険だ。何もかも危険だ。どうやら僕は恋をしているらしい。今の問題は、今までの生活を破壊し、前に進むことだ。今までの自分は矮小化された自分だった。でもまたその中にいる。だが今までの自分は大切だし、僕が信じてた自分だ。僕は小説家になりたい。そして小説を書こうと孤軍奮闘してた。人生の意味を考えながら、昨日「雪」という随筆を書いて気づいた。これは書くのが難しいと。真実を書こうとするが、僕には足りない。常に疑念を抱いている。今日は早朝のアルバイトが6日振りに休みで、朝の6時頃寝床に入り、12時間以上眠り、18時過ぎに寝床から出た。 僕は僕自身の中にある問題のため、行動することができない。その問題とは、実存的な問題で、今これを書くことも問題として経験される。一人の女性に恋をした。その人が働いている会社に入りたい。でも条件を見ると、高卒以上と記されている。僕はこれらの問題をクリアしなくてはならぬだろう。時間、失われた時間。友達もみんな僕の相談に乗ってくれるような人物ばかりである。ああ、僕はやる。僕は今大いなる問題の中にいる。 深夜1時40分。ダイエット方法について調べる。アルバムを見た。痩せたいと思った。自炊をするか。もう何もかもダメだ。この日記を将来見よう。食生活が、栄養がとれていない。
2014.03.02
「今までやってきたことのすべてを放棄し、未来でそれを回収する」 この部屋のもの、全てを放棄して、新しい場所に向かって、またこれらのものを見たとき、わたしはこれらのものに愛を感じられるだろうか。 自分を制限していたようだ。
2014.03.03
なにをやっても虚無感しか起きない。11時45分。お昼を食べる。外はとても天気がよく陽が当たっている。生活の中では、彼女の姿が揺曳していた。
・
この時、マニュアル免許も応募要項に必須と書かれていたので、免許だけは取っておこうと思った。合宿のHPを見て、父方の叔父が、「免許取る気になったらいつでも言って」というようなことを思い出し、甘えきった自分に苛立ちを覚えながら、叔父にもたれかかるように電話し、お金をいただきに、横浜まで行った。その時、30万円をいただいた。4月2日にさくら市にある、自動教習所に宇都宮からバスで行き、21日に卒検に合格し、帰ってきた。帰ってきた時には、アパートが母親によって綺麗に掃除されており、幸福感を覚えた。コンビニですら歩いて10分くらいの距離にある僻地の四人部屋の宿泊施設の中では、地獄のような無味乾燥さがあった。そして、合宿から帰ったきたら、すぐさま、またどうにもならないような日々に帰っていった。
2014.05.15
来年から高校が始まる。あともう約1年後。それまでの間が耐え難く感じる。それまでの間、なにをするべきか悩んでいる。 いまやろうとしてるのは漢字検定で級の取得をすること。そのための勉強をしている。 しかし、自分が今まで長い間、他の人がやっていた勉強をしていなかったのがやはり一番いけないのだが、どう勉強したらいいのかイマイチわからない。勉強。 あと僕は働き口を探すことも考えるべきなのではないか、ということが最近頭に浮かんできた。 なんせ一人暮らしであるから、今のままでは、経済的にきついし、実家が近いので最終的に困苦欠乏は抑えられはするが、それでは如何せん身が安心できない。親に頼るようでは!そんな自分には鞭を打つ精神でないと…。
2014.05.24
「ゴドーを待ちながら」を読了。すべての文学の根源は、劇にあると思った。そして、その劇の根源とはまさに日常そのもの!今この瞬間だって劇になる! ずっと部屋に引きこもっていたとしても、それが劇なんだ。劇とはまさに想像すること!日常の些細な断片を、汲みし、反芻し、味を醸し出すこと! 毎日同じことの繰り返しで辟易したとしても、それが劇だと思えば、なんて楽しい、素晴らしいんだ!日常生活のなにもかもが、劇になる!この世はカーニバル!
2014.05.29
今日はいつものようにアルバイトから帰ってきて、薬局で烏龍茶とチーズスティックアイスを買って、家に着くと、洗濯機を回し、テレビをつけ、アイスを食べ、それから少し15分ほど横になろうと思って寝床に伏した。それからドン・キホーテを読み進めたが、話が現実離れしすぎていて、活字を見ているうちにだんだん眠気に襲われて、また12時過ぎくらいから15時頃までたっぷり3時間も寝てしまった。最近こういう日が続いている。眠りたくて、つい寝すぎてしまう。その代わりに深夜遅くまで起きている。今は1時55分。 寝床から起きると、少し迷った挙句、冷蔵庫にあったサラダのパスタを食べ、それから何をしたろう。またドン・キホーテを読んだか。意識が判然としていなかったのか、よく思い出せない。夕方18時20分くらいになると、やっと外に出た。ん、今思い出した。漢字検定の問題集を二つほど進めたんだった。 外に出て、図書館に「文章」についての本を探しに行って、結局見つからなかった。朝日新聞を読んだ。本に圧倒された。 やはり僕はもっと本を読むべきだと思った。頭の中で駄弁を弄しているだけではいけない。それからデパートの文房具売り場にノートを買いに行き、本を見て回っていると、「日本語検定」の本があって、めくったりしてみた。資格。 そして、夕飯を買って、食べた。出かけている時に考えていたことを実行しようとパソコンを開いた。その前に自慰をした。 そのパソコンで何をしようとしていたのかというと、これから「やるべきこと」を深謀遠慮するために、いろいろとパソコンで調べようと思っていたのだ。 それで今日、ある計画を立てることができた。それは「論理エンジン」という教材を買うために、お金を貯めることだ。それは13万円くらいする。パソコンでいろんな資格を調べているうちに、前から気になっていた「論理文章検定」をやってみたい、と思うようになった。「論理的」というものに、惹かれるものがあった。頭の中でぴったりしているような感覚。論理を学んで、この曖昧模糊とした場所から抜け出したい。そこで、僕は明日から早速バイトを見つけるために、行動をしようと思う。 「人並み以上のことをしなければ、人に優ることはできないのだぞ byドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
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僕の、恋の感情だが、進行する日々の中で、だんだんと、完全に消えていった。恋をしているという妄想をしていただけだったのかもしれないと思うようになった。そして、僕はひとまず教材のために、労働者派遣会社から、紹介のあった倉庫のピッキングのバイトに応募し、そこでアルバイトをすることになった。6時半から10時までは、スーパーの早朝品出しをし、11時半に支店の前の送迎バスに乗り、お昼前に着いて、午後から19時くらいまでピッキングした。商品の名称と数が記載されている用紙を受け取り、飲料や、食品をカートに積んで、目的の場所に運ぶだけという淡々とした作業をひたすらこなした。だが、僕はそこにいる人々や、仕事に嫌気がさしていた。「短大で失敗して、ここにきたんだ」と言う人や、40代で出会いがないと言いながら結婚もせず、労働者派遣会社の日雇いから正社員になることを少し考えながら休憩の時間に毎回缶コーヒーを買い、娯楽のことについて語ってくる人など、そこにいる人たちと同じになりたくなかった。僕はきちんとした目的志向を持った上でここに来ているんだということを示したかった。
僕はその頃から、大学に行きたいと考えるようになった。朝のバイトと、そのピッキングのバイトの合間に図書館に通っていた。よく本のカバーのそでの部分を見ると、「〇〇大学卒業」と書かれてるのが頻繁に見受けられ、漠然とだが、本を書くには大学で勉学していた方が役立つのではないか、と思うようになった。今の環境とは対照的なアカデミックな世界に身を投じたいと思った。閉鎖的で、外界との接触がない自分を痛烈に感じていたので、大学という共同体に属することが、魅力的に思え、コントラストを感じるようになった。そして、将来、研究職に就いて、論文を読み書きし、翻訳書ではなく原文のまま書物を読んだり、そのために英語を習熟したいと思うようになり、これからどうすれば良いかアドバイスを受けようと、ネットで質問すると、「中1英語をひとつひとつわかりやすく。」という教材をおすすめされ、その教材を買い、少しづつ進めた。
早朝のバイトの最中に僕は時間を見つけては、頻繁にトイレの個室に行き、英単語のアプリなどをやるようになった。僕が頻繁に仕事中に消えるので、やがて、同じコーナーで働いていた叔母さんに怪しまれるようになり、店長に密かに僕のことを報告されていた。そして僕は副店長に呼び出され、食品の品出しから、鮮魚の部門に移動になり、そこで商品の値下げをしたり、アジのたたきなどを詰めて、陳列したり、包丁でワカメを細かく切ったり��る作業をした。
ある日、倉庫のバイトの最中に、荷送りのトラック付近にあった高い段差のそばにあったカゴ台車に野菜ジュースを、積んでいたのだが、その台車を移動させる際に、誤って、地面に落下させてしまい、商品を大量にダメにしてしまった。多量の液体が地面に流れ出た。そこで、僕はそのことを受け入れることができなかった。倉庫の責任者と揉めることになり、放心状態になりながら逃げ出した。そして、同じ労働派遣会社からここにきていた若い男に「おい、なに逃げてんだよ。働かせてもらってんだぞ。わかってねえのか」と言いながら、いきり立ちながら、思いっきり僕の服を掴んで、引き戻そうとしてきた。僕はなくなく従い、また責任者のところに話をつけに行った。僕は苛立ち、自分の持っていた鉛筆で、商品の段ボールを乱暴に刺し、歩いて泣きながらアパートまで帰った。僕はその野菜ジュースの代金を支払わさせられるのではないか、とひたすら怯え、そこから逃れることしか考えていなかった。結果、労働派遣会社が野菜ジュースの破損した金額を支払ってくれることになり、僕はその仕事場にはもう行ってはいけないという待遇になった。
やがて、僕がバイトをする動機であった買おうと思っていた高価な教材がヤフオクで安く手に入ることを知り、購入し、アパートでその「論理エンジン」を進めた。僕は当時のその時のめまぐるしい心境を明確に思い出すことができないのだが、焦燥感のようなものを感じていた。ある日、僕は絵を勉強したいと思い、東京の表参道にある絵画教室に行くはずで、東京に来ていたのであるが、「絵なんて学んでいる場合ではない」という思いが突然に起きて、その日に四谷学院と、河合塾に直接足を運んだ。そこで、大学で勉強したいと考えている旨を相談した。そして僕はその日、「高卒認定試験」という手段をとることに決めた。僕はその日まで「高校に3年間行く」という手段を取ろうと考えていた。高卒認定試験で、大学に行くことが、便宜的であると感じたし、高校という「共同体」に属すことが何より肝要だと考えたから。だが、予備校などに実際見学に行って見ると、大学に行きたいという気持ちが先行することになった。絶えず未来に流れていく自分に今の自分が押しつぶされそうになった。
僕は地元にある塾にも相談した。そこでは、通信制高校で単位を取りながら、塾で、大学受験に向けての勉強をするのがいいとのことだった。中学基礎から高校基礎までを2016年の夏に完成させ、2017年から大学受験勉強をする方向性がいいと言われたが、僕は遠い話だと思い、そこには通わず、9月に、近所の「多読多聴」という独自のコンセプトを導入した英語塾に入った。高校生のクラスに入れられたが、全く基礎ができておらず、be動詞もわからなければ、簡単な単語もわからなかった。まず自分が何がわからないのかもわかっていなかった。そして、中学生のクラスに混じって、4ヶ月間程度教わった。だんだん英語塾だけだと不安になり、他の教科も含め、包括的に見てもらえる環境を望み、12月から家庭教師をつけることにするも、馬が合わず、やめてしまった。
【2015年 20歳】
1月から京都大学法学部卒の人間が一人で経営している塾に通うが、満足に講義をしてもらえず、教材も渡されず、デスクトップパソコンを売って手に入れた7万円を先払いした状態だったが、やめさせて欲しいと、返金して欲しいと頼んだ。しかし、相手が悪辣で、7万円を返金されることは叶わず、結果退塾した。
それから僕は地元にある総合塾に見学に行った。母親とも会わせ、非常に温和な性質な先生で、親身に相談などに乗ってくれ、パーソナルな背景も理解してくれそうだったので、そこに通うことにした。そこでは、今やっているバイトを辞めて、実家に帰った方がいいと助言された。バイトと勉強を両立させると中途半端になるという話だった。
やがて、僕は3年以上続けた早朝バイトを辞めた。そして経済的な側面から、2015年の1月いっぱいで、一人暮らしを辞め、実家に帰った。だが、自分の部屋がなく、静かに勉強するスペースも全くなかったので、最初は、焦慮に駆られながらファミレスに行って勉強していたりしたが、やがて、台所の冷蔵庫と食器棚の間にあるスペースを空けてくれて、そこに机を設置して、その薄暗い場所で勉強をした。
だが、その塾でもウマが合わないと思うようになった。やがて、「地元から出た場所にある塾」を志向し、4月の終わりに退塾し、今度はネットで受講できる、前衛的に思えた「偏差値30からの早慶圧勝の個別指導塾」という文言で宣伝していた塾に、5月に入った。そして、田町の慶應義塾大学の向かいにある独自の理論で指導を行っている塾を見学し、そこにも通ってみたくなった。僕はどうすればいいかしばらく悩み、入塾金など諸々の莫大な金額に、家族にも相談することができずに頭を抱えた。
【田町の塾】(英語) (東京・三田) ・月48回 【全額 432,200円(税込み)】 ・140,400円×3回 1回目 5月7日までに【140,400円】 2回目 6月7日までに【140,400円】 3回目 7月7日までに【140,400円】
【ネット受講できる塾】(英語、日本史、国語、小論文) (東京・三田) ・5月~2月入試まで 【全額 651,240円(税込み)】 ・入塾金 【21,600円】 授業料2か月分 【144,720円】 =【166,320円(税込み)】 ・毎月4日支払い 【月額 72,360円(税込み)】 1回目 6月4日に72,360円 引き落とし ・塾二箇所合わせた全ての金額 【1,083,240円(税込み)】 +ネット受講できる塾から指示のあった参考書代 +交通費【年間約53,280円】 5月02日 借りている金額【320,000円】
という現実に当たった。僕は下記の誓約書を家族に渡し、どうにか通わせてもらえないかどうかと訴えた。
「この度、お金を借りるにあたって、その金額が、どれだけ重みを持っているか、どれだけ稼 ぐのが大変かということを私は意識した。 本当は容易に借りられることがないそのお金、手に入るべきでないそのお金を借りるにあたり、 私は、今後、一生涯にわたり、下記に記したことを、厳守することを誓う。 1.まず、お金が本当に必要な事態に直面したとき、お金を借りることが最善の方法でないことを最大に自覚する。 2.そして、人間として、第一にやるべきことは自分で働き、稼ぐことだということを、今後の鉄則とする。 3.借りたお金は、絶対に無駄にせず、絶対に、将来返すことを約束する。一端の社会人に なることを誓う。 4.また、今後、お金は借りないことを約束し、絶対に履行することを誓う。「お金は借りられるという、甘えを許さない」 5.未来永劫、この恩を忘れずに、生きることを誓う。家のことを 進んで手伝う。 6.もし受験に失敗しても、今度は、一人の力で、精力的にやり続ける。その根拠は、この 九ヶ月間で、一人で勉強するための基礎力を完璧につけるからである。 もし、またほかの予備校に行きたいと言ったら、まったく成長していないという証拠である。 勉強で 大切なのは、自分の頭で考えることであると、意識しながら勉学に励む。 7.自己責任が原則であることを心に留め、迷惑をかけない。 8.心配をかけないようにする。常に状況を報告する。 9.本当に大切なことを常に考え、行動する。 10.決めたことは、絶対に初志貫徹する。右往左往しない。」
そして僕は、また叔父から金額を拝借できないかと働きかけ、まず始める際に必要な金額を借りることができた。
だが両方とも、数ヶ月後、これまた中途半端にやめてしまった。僕は勉強をするというより、勉強法に時間を費やしているという感じだった。受験に集中できないことに悩み、今度は抜本的な問題を発見するために、新宿の「心の杜」という心療内科・精神科に一回行ってみたり、地元のカイロプラクティックに行き、骨が悪いから脳に酸素が行き届かず、障害がある��ではないかと思い、昭島まで「骨の歪み」を見るためにレントゲンを撮りに行ったりした。だが、矯正をするにも金がかかるので諦めた。
やがて、7月の終わり頃から池袋にある世界史専門塾に12月頃まで通うことになった。そこは「世界史「を」教える」のではなく、「世界史「で」教える」というようなコンセプトの元でやっている塾で、時事問題や、社会構造などが知れて面白かったが、勉強は苦痛だった。僕よりはるかに勉強のできる現役の高校生と席を並べて一緒に勉強をするのは苦痛でしかなかった。
8月に一緒の家で生活していた母方の叔母が死に、10月に父方の叔父が死んだ。普段叔母は叔父と一階の八畳の和室で生活しており、寝るときは隣の寝室で寝ていた。10月の終わり頃、なぜか今まで両親と妹が使っていた寝室を僕の部屋にと、勝手に開けてくれることになり、両親は普段叔母たちの生活していた和室で寝ることになり、妹は二階にある二部屋のうち、一部屋で寝ることになり、そちらは妹の部屋のようになった。僕は一室使えるようになったが、最初の頃は抵抗があった。
大学受験が近くなってくると、僕は今年の大学受験を諦めようと思うようになった。壊滅的に勉強ができていなかった。どうしようか悩み、周りの人たちと相対的に見て、僕は三田文学新人賞をとり、慶應義塾大学のSFCに、AO入試で入る道がいいのではないかと思った。小説を書き、応募し、最終候補者に選ばれれば、出願資格の条件が得られたし、自分の進みたい道と符合するのでそうしようと考えた。だが悩んでいた。そのことを世界史専門塾の慶應義塾大学に通っていたスタッフに相談すると、「とりあえず今年大学入ったらいいじゃん。なんで牡蠣って食べれるんだと思う?それは牡蠣が安全だってみんなが判断したから、「安全」だっていう前提が個人に生じて食べれるんだよ。みんな偏差値が高い大学に行きたいと思ってるけど、それはみんなが「安全」だと思ってるからだよ」というような話をされ、僕は納得したが、まだ悩んでいた。
僕は、漠然と東京のどこかに住んで、広尾にある東京都立図書館に通うことを考えていたりした。大学図書館を除いて、蔵書数が国会図書館に続いて第二位だし、実際行ってみて雰囲気が良かったから。シェアハウスに住むことを考え、荻窪にあるシェアハウスに見学に行ったりした。また、ビジネスに手を出そうと考え、自分の時間を売ることのできる「タイムチケット」というサービスで「せどり教えます」という、会社を起こした人物に直接会ってみた。そして一緒に働かないかと一回誘われるが、僕があまりにも右顧左眄であり、中途半端なので、断られ、やがてまた自分の世界に戻って行った。
2015.12.22
現在、東京都立図書館の二階に来ている。たまたま目に入った本「軍隊教育と国民教育」 なんか面白そう。 でだ。私が思うこと。私は本に圧倒されている。読むべき本しかない。 それをなぜ今まで読まなかった。読むべき本をなぜ読まなかった。こんなにも知識欲を満たしてくれる本がたくさんあるじゃないか。おい。 なぜか、手遅れ感が、焦りが、私を非常に不快にさせる。 私は今こんなんだ。ちくしょう。なんでもいいから、とにかく事に当た らねば。自分が消失してしまう前に。まず、立ち位置を把握することが一番重要だ。なぜなら、過去、現在、未来の連関の中で自分をみるべきだからだ。でないと、どこを進んでいるのかすらわからなくなる!
【2016年 21歳】
1月、岸田秀が講師をしていたということで知って、以前から何回か訪問していた和光大学のHPにたどり着き、表現学部総合文化学科という学部のページの文章を何気なく閲覧していると、教員紹介が語っていた言葉に興味が惹かれた。そこを受けてみようという気になり、出願することになった。母親の友人から同盟学寮というものを紹介され、そこに応募することにした。
その頃、以前相談したこともある、松葉謙さんという教師と兼業で今の相談業をやってきたが、カウンセラーとして独立した人物に影響を受け、僕も彼に倣って、「社会福祉士」という資格を得るべく、「日本福祉大学」に資料を取り寄せ、出願して、無事合格し、和光大学と並行して勉強しようとするも、二重学籍になってしまうことを知り、それがバレてしまうことを恐れ、また経済的な側面も考え、入学を取りやめた。
和光大学に受かった。そして、同盟学寮に、必要な履歴書と、必要ではないが、絶対に受かりたいという思いで個人的に書いた下記の文章を同封し、募集要項に記載されていた住所に書類を発送した。
「同盟学寮様へ 私の決意と、目標。 私は、同盟学寮様にどうしても在籍したいと思っています。 その志望理由、これから同盟学寮でなにがしたいのか。同盟学寮様はお望みではないかもしれませんが、私の「意思」をどうしても伝えておきたいとの思いで、文面にて書き表そうと思いました。 私は今年21歳になります。今年2月1日に和光大学表現学部総合文化学科の試験を受け、無事に受かりました。ここに行く理由は社会の上部構造である「文化」またそ の文化に影響を与えている「経済」を横断的かつ総合的に学べることと、情報発信するための「表現」の三つを学べると思ったからです。 私は夢が二つあります。 まず一つ目が、「小説家」になることです。なぜかというと、14歳の時に偉大なる 「作品」に触れたことで、創造欲が掻き立てられたからでした。 今まで、私は殻にこもり、読書をしたり、小説を書こうと、文字通り、呻吟していました。 しかし、そうやって独学して、だんだんと本を読んでいく中で、世の中には様々な 「表現」や、「視点」が存在していることを知り、私はもっと、人と関わり、議論 し、視野を広げたいと常々考えるようになりました。 「内」から「外」への転換が起こってきたのです。今までは、他人から本質を規定 されて、自分を矮小化されることを恐れ、「一人でやるんだ」という思いからどう しても離れることができずにいました。自分の関心を内へと、向け続けてきました。 しかし、それ自体がまさに矮小化された自分だと気付きました。重要なのは、自分の関心を外に向け、発信していくことだと気付きました。 「もっと人と関わり、話し、感化し合う」べきだと思いました。 大学受験の勉強をする中で、私はたくさんの人間と出会いました。その中で、勉強も大切だけど、社会人としての素養を身につけることの大切さをひしひしと感じました。 すべては、コミュニケーションから始まる。本当にそう思いました。大学受験の入学試験だって、教授とのコミュニケーション、小説家だって読者とのコミュニケーションです。 自分に執着し、(仏教でいう「我執」)コミュニケーションを閉ざしていては何も発展しない。今までの生活の中で、体感的に、そう思うことができました。全ては 「共感」という一語に集約されなきゃ意味がないと思いました。 同盟学寮では、ホームページにもある通り、共同生活や、行事など、人間形成や、 適応性涵養を育む上で非常に、最適だと思います。同盟学寮での仲間たちとの関わ りの中で、様々なことに「気付き」自分に「活かす」ことができます。 これほど有用で、幸せなことは私にはありません。「同盟する」ことの大切さをこれから学んでいこうと考えています。 もう一つの夢ですが、 「社会福祉士」の資格をとり「児童養護施設」などで、困窮している人々の「自立を支援」することです。 社会には困っている人が沢山おり、人間は社会という脈略の中で生きています。 様々な情報や、広告などが溢れる世の中で、見えない作用によって、人々は行動しています。偽の厳粛さが社会全体を覆っていると感じています。そういったことをきちんと「社会学」や「実践知」できちんと学び「対象化」し、理解して、本当に困っている人を支援したいです。さらに東京行くことの意味について。 私は現在栃木県〇〇市というところに住んでいます。そして、私は東京に住まなければならないと考えています。 それはなぜかというと、本が読めるからです。私が現在住んでいる栃木県〇〇市の図書館では蔵書率が多くありません。これは税収も関係してると思います。例えば、ある時、宮台真司さんという社会学者の著書で勉強したいと思ったのですが、 30冊は超えているだろう著書の中で、近場の図書館には、1冊程度しかありません でした。アマゾンというショッピングサイトで見てみると、1200円程度。東京では即日すぐ図書館で読めてしまうものが、地方だとどうしても、現在は買うという選択肢しかないのです。そして、多くの著書に触れられないので、それが盲点になってしまい、知識に「穴」ができてしまいます。 男性寮がある千石付近だと、文京区立図書館があり、ここでは貸し出しができます。さらに蔵書率が多い、広尾の東京都立中央図書館、永田町の国会図書館まで約30分程度。大学付属図書館もありますから、本を読む環境が随分と整っています。 私は、年間約1000冊、4年間で4000冊は確実に読みたいと思っています。さらには都内には大型書店、また中古書店が非常に充実しています。1年で1000冊となる と、365日のうち、270日は1日3冊、95日は1日に2冊という計算になります。東 京はそれを達成するための、インフラがあります。同盟学寮を勉学するための「拠点」として利用していこうと考えています。 また、最後に「経済的自立」ということが一番重要であることについて。 今までの20年間、私は両親に多大なる負担を強いてきたと思うので、��れからは経 済的自立ができるよう、親に迷惑をかけないよう、考え、行動していきます。同盟学寮に通いつつ、古野伊之助様を見習い、「勉学」と「仕事」を頑張ってこなしていきます。3万円と、定期代の1万2000円。合計42000円は4年間、必ず自身が出し続けることを、誓います。 「お金」と「不安」は何をするにもついてまわるものだと思います。だから、私はそれを乗り越えられるよう、「お金を稼ぐ方法論」をきちんと身に付けたいと思います。 最後に、私はこれからは何よりも積極的に行動していきます。そうでなきゃ、この人生はやってはいけません。 この文章をお読みになってくださり、ありがとうございます。拙い文章を長々と、 本当に、失礼いたしました。
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その頃僕は、スカイプの通話、チャット相手を探せる「スカイプちゃんねる」という電子掲示板で、とある女性(以下Eちゃん)に出会った。コンタクトを承認され、1時間くらい通話した。その人とツイッターをフォローし合い、関係が良好であると意識した時には、もう彼女から離れたくないと思うようになった。そのひとに気に入られようと、考えていた。
2016.02.17
15時からの、寮の面接に向かった。社会学入門という本を購入し、後ろめたくなり、面接終わったら働くから!と僕は胸中で言った。鏡で映った自分の顔は乳液でテカテカしていて気持ちが悪かった。口元がこんもりしていて醜い。また腐ったようなコートを着た。眼鏡がない、スマホのポータブル充電器がない!と焦った。電車の中で、大学に向かう途中の小田急線から見える風景を想像した。海。江ノ島。楽しいのではないか、と若干気持ちが高揚した。これから日本はどうなっていくんだろう。
12時くらいだった。東京駅近のビルにて。ビジネスマンやサラリーマン、外国人。なんというか、すべての人間が高級品のように見えた。僕もこんな場所で、1個980円もするハンバーガーを頬張ってみたい。神秘を感じた。一人一人に何をやっている人なのか、尋ねたいと思った。お金を稼ぐことができていたら、今なんか食べれて、経験ができ、視野が広がったかもしれない。こう言う時に金があれば…。自分の時間を創ること。現代という時間の枠組みの中に、意味もなく急かされている自分ではなく、それに迎合しない、新たな自分を作るんだ。そのためには、自分を表現するための「メディア」が必要だと思った。何より大切なのは、文章と、写真だ。デュルケムの比較社会学を読んだが、圧迫感がある意識の中で、よくわからなかった。
「初めまして電話では」と東京駅で会釈し合うスーツを着た三人の男を見かけた。一見全く違う人間に思えた。笑っていたが、一体何をする人なのだろうか。気になった。これからどこに行くんだろう。東京駅舎という場所を初めて知た。おお!僕の時間のこの平行線上に他人の時間がある。そこにある不自然であると思えるもの、他人にとっては自明のことであり、僕にとっては自明でないもの。そのギャップが不思議なものである。ある人にとっては「自然」であり、ある人にとっては「不自然」なもの。僕はそれを埋める何かが書きたいと思った。地下街に行った。多くの人間は機械的だ。僕は人間だ。それを思い知らせてやるんだ!というフレーズが突然頭に浮かんだ。
14時、僕は寮で行う面接の暗記をした。日比谷公園だった。僕は叔父のことを思いだしていた。ガンで四ヶ月前に死んだ。もう戻らない叔父の時間。僕は過去に、ホテルオークラで行われた藤原正彦講演会を見に行き、それが終わって、この日比谷公園を歩いていた。その日、講演会の後で叔父に会う約束をしていた。「今、日比谷公園のそばを歩いてるよ。今から横浜駅に向かうね」と電話した。もう、会えないんだなと思った。
Eちゃんからスカイプでメッセージがきた。
「のいちゃん」
この時、僕は「のい」という名前をもらった。僕のスカイプの名前は「野井豆」だった。
「暇なぬ?」と送ったら、「暇なぬ」ときた。僕は面接で緊張していたので、考えもなしに「こわいしぬ」と送ってしまった。「どうして」と来たので、「しぬ」と言ったら「ねえ、やだ。どうしたの」と来たから「今面接に来ているんだ」と言った。そしたら「頑張ったで賞あげるから大丈夫だよ頑張ろう」と来て、なんて優しいのだろうと思った。面接の前に通話をしてもいいか聞くと、いいとのことだったので通話をかけた。面白い自分を見せたくて、ビルの付近にいた清掃員をビデオにしながら追跡したら笑っていた。僕は、大学生という設定だったので、見栄で、寮の面接とは言わなかった。ただ、面接とだけ言った。足元をビデオで写して��まったら、「すごい。ちゃんとした服着てる」と言われた。
16時に面接が終わり、緊張のあまり、放心状態になっていた。本屋があったので、そこで本を読むことにした。多くの本を読まなくてはならない。僕は知らなければならないと思った。頭が痛くなった。 今の自分を最適化したいと思った。本屋から出た。僕はどこに行くべきか。誰か教えて欲しい!西新橋の「猫雑貨の店エブリー」という場所を通りすがりに一瞥すると、猫の顔が入ったふわふわしたパジャマみたいな服を見つけた。写真を撮り、彼女に送ってあげたいと思ったがスルーした。ナポリタンの店を通りかかった。彼女と行きたいと思った。そして、僕は結局雑貨屋に引き返し、その服の写真を撮り、彼女に送った。この日、Eちゃんとラインを交換した。
その次の日、入学金と前期の納入分の78万円を母親から渡された。苦しかった。僕は顔を気にしていた。本当に彼女が欲しくなった。
小説が書きたいと思う日々だった。中学一年生の頃の心的外傷の話を描いた小説を書き上げようと絶えず構想を練り、とりあえず読書を重ねる日々だった。僕は、「あ」と思い、母親のスマホから連絡先を探し出し、中学生一年の頃の担任であった男性と、学年主任だった女性と、一人ずつコメダ珈琲で会って話をする約束をつけた。小説に厚みを持たせるために、僕は当時の中学の頃の僕自身の話などを聞いた。だがこの時「分かり合えない」という感情が生じた。
3月の上旬、これから大学という、社会的な共同体に属そうとする予期的な何かに従って、僕は服を買いに行きたいから、見に行こうと友達に誘った。そして、宇都宮のインターパークに行き、服を見たが、結果見ただけにとどまり、その後友人と居酒屋に入った。楽しくて、飲み放題で僕はつい飲み過ぎてしまい、またタバコも吸いまくり、極度に酩酊してしまった。二軒目に着いた時には、もう意識が朦朧としていた。僕はカバンをどざっとテー���ルの上に置くと、その音が他人の迷惑になったみたいで、「おい、うるせーよ」といきなり他人に怒鳴られた。僕は友達に迷惑をかけてしまったという思いが急激にせり上がって来て、自罰的になり、衝動で、「もう友達じゃないんだな!」と言って、店のフォークを自分の左手の小指の部分に思いっきり突き刺した。それから僕はどうやら泡を吹いて倒れたらしく、友人に担がれ、外の道路に運ばれた。やがて、意識が戻ったが、僕は異常酩酊し、暴れ回り、やがて両親と警察が来た。汚い言葉を散々辺りに撒き散らした僕は、保護室に運ばれた。やがて、深夜の3時頃親が迎えに来てくれて、僕はフードで顔を隠し、その後しばらく家族にも顔も見せられなかった。僕は音楽を聴いて、獣のようになりながら日々を過ごした。
やがて、男の抱く最も強烈な感情が、心に溢れ出た。僕はEちゃんのいる中部地方まで、突発的に電車で会いに行くことにした。「会いに行く」とラインで送ると、「テスト勉強があるから会えない」というようなことを言われ、あと心配そうだったが、僕はもう普通電車に乗っていた。とりあえず僕は遠くに行くことを考えていた。なぜかその時、ビニール袋に聖書だけ入れていた。終電を迎え、始発の電車に乗るために、コンビニで聖書を読んだり、書き物をしたりして、朝を迎えた。
僕とEちゃんはその日会い、街をとりあえずぶらついた。女の子と二人で会うことは新鮮だった。そして、「彼女になって」と言ったら、少しだけ頷いた。付き合うことになった。
同盟学寮の結果を待っていた。 当日、はやくして!決めるのはおれじゃない!と絶えず焦っていた。そして、電話すると、不合格なのを知った。合格しているだろうと思っていたので、僕はぶん殴られたような気持ちになった。事件を起こし、「排除の空気に唾を吐け」という新書に登場した造田博のように、僕も何か事件を起こし、一冊の本になってしまうのか、という思いが瞬間的に僕をとらえた。全身が震えた。同盟学寮という属性にぼくはじぶんを縫い付けたかった。早くここから出たい。常に外に変形されている自分を意識した。父がただいまというが返事もしなかった。父は二階に上がってきて、雨の中、洗濯物を混み、階段の上に置いてあった僕が使用した食器を片付けた。
僕は急いで、インターネットで別の寮を探すことになった。その流れで、国分寺にあるとある学生寮を発見し、青息吐息で連絡をし、面接をした。そして、面接中に合格であることを告げられ、一安心した。寮には、3000冊もの蔵書があるということで、僕はそれを実際見て見ると、そこに入りたいという気持ちが募った。それと、メンター制度というものがあり、「メンターとは、「助言者、師匠、教育者、後見人」という意味で、仕事やキャリアの手本となり、あなたの味方になってくれる人です。 経験豊富なメンターに、継続的な支援を受けることを��メンタリング」といいます」と記載されており、興味を持った。
寮に入る前日の夜、母から「〇〇なら可愛がってもらえるだろうから。ニコニコしてんだど。ニコニコしてれば、誰かが近寄ってきてくれっから。わかったか?悪い人に連れてかれないように」と言われた。そして、入寮する日が来た。一睡もできなかった。強烈な眠気と、全身の痛みでぶっ倒れそうな意識だった。荷物が関節に当たって痛かった。今日いつ寝れるかわからないし、ベッドのカバー買わないといけないだろうし、どこで買うのかもわからんし、枕持ってくの荷物になるから持ってないから、枕も買わないといけないだろうし、たくさんの人間と会わなきゃならないし、頭使いそうだな…とごちゃごちゃした思いが頭の中で起こっていた。寮の最寄り駅に着くと、僕はこれから適応しなければならない未知の環境が怖くて仕方なかった。コンビニのトイレで息をつくと、寮に向かった。
寮は二人部屋だった。最初は自身の積極性の欠如と、孤独感で、心がうろうろしていたが、だんだんと馴染んでくるようになった。同室の人と会話し、その人は早稲田大学の文化構想学部に通っている三年生で、僕より一つ年下だった。僕が小説家になりたいということを話すと、「俺、編集者とか知り合いにいるよ」などと言われ、僕は興味を惹かれた。「今日みたいなこといくらでも話しますよ」「ありがとうございます。ぼく興味しかないんで、いろいろ教えてほしいです。啓蒙になるんで」「いえいえ」というような会話をした。
大学の健康診断の日、 僕はまだ親の庇護下にある、と思った。待ち時間、皆スマホをいじっていて、堂々と下ネタを言い、うるさく話すものもあり、雰囲気が明らかに幼稚で、僕は鼻持ちならなくなった。ツイッターで出会ったとある哲学好きの読書家は、今頃本を読んでいるんだろうなあと思い、僕はなにをしているんだろう、と思った。寮に向かう帰りの電車の中、親の行為を小さい子供は見ている。窓に向かって子供が「宇宙船みたいのが見える!」と陽気な声で言った。すると、スマホをいじりながら母親が「なんだろーね」と言った。子供は「ね」と言った。
寮のイベントで花見が行われた。新入寮生歓迎会の一環でもあるようだった。僕は自己紹介をした。入寮する前、僕は寮生のいるラインのグループに入ったのだが、その頃のサムネイルがgroup_inouのイルカくんの画像で、名前もイルカだったので、本名ではなくそちらのインパクトの方が大きく、僕は気付いたら、ほとんどの寮生からなぜか「イルカさん」と呼ばれることになった。近くの公園に青のレジャーシートを引き、酒や寮生の出身地の名産物などが振る舞われ、楽しい雰囲気だった。同性の寮生の人間が声をかけて来てくれて、その人は法政大学に通っているとのことで、初めは筑波大学を受けて、筑波大生の寮に入ろうと思っていたらしいが、落ちたので、ここに来たらしかった。その人の父は、NHKで働いていて、教育熱心であり、その人が寮に入るという選択をした際、「お前の人生で初めて予想できなかったことだった」と言ったらしかった。また、農工大の同性の人とも話し、海外へ行った際の、たくさんの経験を話してくれた。いろんな差異を見せられ、自分の今までの生活があまりにも閉鎖的で、また愚かなことに思えた。
次の日、入学式だった。母と一緒に行く予定だった。雨が降っていた。僕は、入学式なんてどうでもいい。受付登録もどうでもいいと思った。大学の最寄駅に着いた。僕は僕自身が一番気になっていた。自意識の問題がその日を占領していた。9時45分。10時から入学式は始まる。あと15分だった。母を待たずに僕は歩いて大学に向かったが、遅れてしまうと思った。遅れたところで構やしない!誰も生徒らしい人がいない。私は入学式を、なんかの講演会に参加するみたいにしか感じていなかった。会場に着くと、他の学生はスーツを着ているものが大半だったが、僕は私服だった。
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やがて、日々が進行し、その日々は無味乾燥だった。大学で過ごす日々は苦痛でしかなかった。生協で野菜サンドを買い食べ終えると、大学図書館のAV室に入った。本来なら許可を得ないと入ってはいけない場所なのだが、誰もいない場所で、ひとまず静かに、本を読み、落ち着きたかった。「一人なんだから、一人にならなければならない」という思いに取り憑かれていた。ぼくは浅薄な人間だと思った。気持ちが絶えずくさくさした。腕時計が邪魔だと思い、身体からはずした。ぼくが最近思うのは、病的なほどに、頭が悪いということだ。というより、常になにかにとらわれていて、思考が極度に制限されている。簡単な算数の問題すら解けないのではなかろうか。文化人類学の授業のオリエンテーションの時に、飛行機の音が聞こえた。その飛行機の正体が気になった。教授に聞こうかと思った。それと同時にぼくは意識した。 旧態依然としている自分。すなわち考えてしまうから行動ができない。ぼくは思った。まず、自分の正体が気になった。小説を書きあげて、自分自身を確立した自分が気になった。それができないと、うまく外界と繋がれない。そういうことを考えた。でもそれは愚かなことであり、どんなに周りから秀でていようが、立派な人間だと認識されていようが、業績を残していようが、それは、それは、今とは関係ないことだ。なぜぼくは物怖じしてしまうのだろうか。臆病と思慮深さは違う。ぼくは臆病だ。臆病とは苦しみである。《今、外界と繋がれない》塞がれた空間の中で、僕は在る。「利用手続きはお済みですか?ここは、ビデオを見る場所なので、パソコンをお使いになる場合は閲覧室でお願いいたします」と図書館の人間に言われた。「即座に可及的速やかに向かいます」と僕は言った。時間割を見た。 批評入門、情報基礎科学、現代の出版、現代社会と労働、近現代の文学、メディア論、映像と現代社会。芸術の基礎理論。取りたい授業を選ぶことに疲れていた。何を選べばいいのか、どれに行くのが最善なのか判断することに疲れていた。とにかくやることが見えていない。なぜだ。思いつきました。小説!小説さえあれば!
正式に大学の授業が初まった。だいたい10日ほど経った。なんのための講義なのか判別がつかない。 今日は、記号学、西洋の演劇、詩の講義を受けた。記号学の授業は、ソシュール。記号学、ベースにあるのは言語学。本に書いてあることを先生がしゃべっているだけだった。退屈極まりなかった。本の方が情報量は多いのだし、なんのための講義なのかわからない。そして単位を落としたら、卒業できない仕組みになっている。「エルンスト・カッシーラーは、人間は、物理的な宇宙だけでなく、シンボルの宇宙に住んでいると言ったんです」などと単調と話された。ウィリアム・ギブソンの書いた戯曲が映画化された「奇跡の人」というヘレン・ケラーを描いた映画を見て、 それを見せられる前に「言葉というものがどんなものであるか、みなさんは考えたこともないと思いますが……」と言われ、少し腹が立った。そんな風に一蹴されるとは心外だった。ぼくは言葉について考えたことはあるし、カバンには、メルロ=ポンティの書物が入っていた。これを教授に見せてやりたくなった。授業終わりに、今日の講義の感想をコメントペーパーを書かされた。「言葉がなかったら、カオスが訪れる。アヴェロンの野生児のように、狂気に陥るでしょう。なぜなら、人間と動物を分かつものは言葉だからです」みたいなことを、昨日読んだ文庫本の記憶を頼りに書いた。 教授の機械的な話し方に嫌悪感を覚えた。
詩の講義は、Bruce Springsteenの「Born in the U.S.A.」を聞いて、それについて考察するというものだった。何が面白いのかわからない。共同体と一体化。というよりね、ぼくは一つの大学に属したくないのだよ。自由ではなかった。その教授の言葉に依存している空間が僕は嫌だった。知識の伝達ならば、本を読めば事足りる。大学生は内発性を持つことが難しいんじゃないかと思った。大学は、逆にそれを「制度」で破壊する場所だ。デヴィッド・クーパーのいう「偽りの受動性」。僕は欲望の正直さを正直に欲している。力強さ。イデエ。それを欲しているから、だから生きられる。すべての人間の骨を砕いてやる。明日は児童心理学の授業があった。発達心理学に興味があるので、聴くつもりではあるが、気が向かない。 僕は講義という形式に向いていないと思われる。夜は執筆にあてよう。寝れないときは読書だ。
次の日、朝起きられず、児童心理学の講義には出なかった。やがて、僕は大学に行かなくなった。
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僕は、Eちゃんの父と母は離婚しており、母子家庭であることを知った。兄と母と彼女の三人暮らしであるとのことだった。彼女には新幹線で、月に一回のペースで会いに行っていた。しかし、僕自身の問題が絶えず付きまとって離れないでいた。大学や、経済面、小説に対する苦悩があった。僕は、だんだんと、Eちゃんが精神を病んでいることを知っていくようになった。生活歴についても話された。病院にも通院していることや、薬を過剰摂取するODという行為もしているらしいということを知った。そして、どうすれば、彼女を、そのような状態から、具体的には、希死念慮などから救ってあげられるだろうか、と思った。ロックされたような状況から。「大学について母に相談したら、お金がないと言われ、飲み物をこぼしてしまうような不安定な彼女」を、どうやったら。Eちゃんのツイートを見ると「つらい」というツイートが散見されるようになった。周囲は新生活が始まっているのに自分はなにをしているんだろう、という意識に苛まれているらしかった。「助けてはるしにゃん」というつぶやきが見られ、ここで僕は、はるしにゃんという自死した人物を知った。
僕が彼女に対して��きることは、まず、僕の小説を書き上げ、光明の糸口を見出すことだと思った。しかし、本当のところ小説を書くのが辛く、どうしたらいいかわからなかった。学生寮では、メンター制度により、月に1回メンター会というものが開かれ、ディスカッションみ��いなものが行われた。その一人のメンターの人経由で、僕はある男性の臨床心理士と知り合いになり、その人は大学の講師もしており、新座にある大学まで足を運び、その方と直接会って、話をした。そして、自分が現状で抱いている感情、不安感や、強迫観念などについて軽く話すと、カウンセリングをするには、「投薬」がまず必要だと言われた。そして薬をもらってからじゃないと落ち着いて話ができないと言われ、まず薬をもらってこようと、国分寺にある心療内科に行くも、「まず安全な環境を確保しなさい。そのために実家に帰りなさい。薬は出せない」と突き放すように言われ、僕は金を払わず外に出た。
吉祥寺にあるネカフェのバイト、creativeboxというGIFアニメーションを紹介する文章を執筆するインターンに応募し、面接をするも両方落ちた。やがて、豪徳寺にある編集学校イシスのインターンに応募し、面接に行くが、遅れてしまった。そして、入り口が開いていたので、僕は勝手に入ってしまうと、「社会人としての礼儀がなっていない、もう面接はできない」と言われ、僕は、ひどく落胆し、その編集学校の入り口のすぐそばにある駐車場付近の電柱に寄りかかって道路に座りながら、Eちゃんに慰めを求めて、「しんどい」などというメッセージを送るも、突き放されたような返事をされ、僕はただ暗闇の中にいた。そこでたまたま通りかかった人間が声をかけてきて、「どうしたの、そんなとこにいたら危ないよ!」と言われたので、僕は「死ぬんで。心配しないでください」というようなことをとっさに言ってしまった。内心誰かが話しかけてくれたことが嬉しかったが、その人は「ああ、そうなの」というようなことを言うと、去って行ってしまった。駐車場から出て来た車に左足の上を踏まれるも、痛みさえ覚えなかった。僕はEちゃんに謝り、通話しようと告げるも、「今はしんどいからできない」と言われ、僕は鬱屈した思いに満たされた。
やがて、警察官が来て、まさか。と思ったら、僕にいきなり寄って来て、「死にたい」という発言をしたかどうか執拗に聞かれ、「僕はそんなこと言ってないですよ」と言っても、挙動がおかしいと思われ、荷物などを調べられ、もう帰してくれそうになかったので、「死にたいと言ったことは認めるが、僕は大丈夫です」と言うと、「いや、君ねえ死にたいなんて、それは言っちゃダメだよ!」と強く言われ、パトカーで警察署に運ばれた。「死にたいと言ったのは虚言です」と警察署にて、紙に書かされ、僕は署名した。「なんでこれを嘘にしなければいけないのだろう」と思った。それと、「しんどい時、しんどいと言えないのは苦しい」と痛切に感じた。この時点で、僕は彼女に対して、本当の気持ちを言うのが怖くなり、言えなくなった。もう僕はEちゃんをも傷つけてしまった。見捨てられるのが怖かった。引受人として、電車で、豪徳寺まで両親が迎えに来てくれた。終電で国分寺の寮に向かい、両親を寮にあったゲストルームに寝かせ、3時か4時くらいに両親は寮を出て言った。僕は後ろめたい気持ちに満たされた。
その頃、僕は初めてODした。その頃、以前スカイプちゃんねるで知り合いになった女性(以下Rちゃん)に、「ブロン」というのを勧められ、水で64錠飲んだ。何かを踏み越えてしまった感じがして僕は怖かった。寮の部屋の机で、world’s end girlfriendの曲を聴きながら目をつぶって眠らずにいた。レスタミンでもODしてみた。あと、フリースペースにあったよくわからん薬を全部飲んだり、同部屋の人のパブロンをこっそり20錠とか勝手に飲んだりしていた。そのような状態で日々が過ぎていった。
やがてまたもう一度、Eちゃんと会う機会がやってきた。僕は新幹線で彼女の元に向かい、そして、遊んだ。そして遊び終わり、Eちゃんと離れた瞬間、僕は彼女のすべてがわからなくなった。彼女は霧の中に入って行ってしまった。何もかもがわからなくなった。一人の意識になり、いつもの自分に戻った。いつものはねつける自分に。彼女がここにいないというだけで、急に彼女は別人になっていった。Eちゃんはもう僕の日常の経過の中にはいなかった。ただ僕は、彼女のことを考えると、苦しみに陥った。変われない自分に、とにかく苛立ちを覚えた。何も変わらず、変えることができなかった。ただ、刹那的だった。僕たちは、時間と空間を共有している場所で数時間お互いの周波を合わせて続けていた。僕たちは、マスクの下をお互い見せらせなかったように、すべてを見せ合うことなどできなかった。共通の経過を形作っていた。僕たちは時を共に得ていた、だが、やがて死んだ。Eちゃんがいなくなってしまった瞬間、その周波が感じられなくなった。そして、ある変化が生じてきた。僕と別れた後、Eちゃんのお母さんが犬の散歩ついでに彼女をバス停にまで迎えにきてくれるらしかった。そのとき、僕は彼女には到達不可能だが、Eちゃんのお母さんは彼女に対して到達可能な範囲にいることを思った。それが羨ましかった。僕は一人になった。この「場所」で、Eちゃんに接近したいという表象を絶えず持ち続けたとしても、無意味ではないか、と思った。
僕は逃げる日々を送った。自分自身に幻滅し、新しい何かを絶えず求めていた。そこで僕に影響を与えたのは、Eちゃんが口に出していた「はるしにゃん」と、Rちゃんだった。はるしにゃんという人は、ドラッグというものをやっているらしかった。そこで、僕はそういう変性意識状態に身を委ね、意識を変えたいと思うようになった。RちゃんからLSDという幻覚剤を知らされ、スティーブ・ジョブズも使っていたことを知り驚いた。その流れでサイケデリックドラッグなどに興味を持った。だがほとんどのものが違法になっており、日本ではできないことを知った。市販のものでやるしかないと思った。ある日、レスタミンでODをしたら、僕はふと「死」の恐怖に苛まれ、同室の人が使用している机に置いてある時計を見ると、それが絶えずパチパチと点滅し、その背後にあった白い壁には幻覚が見えた。何もかも怖くなり、食べようと思っていた、スーパーで買ってきたお赤飯でさえ、怖くなった。やがて、日々「自分が死んだらなくなる」ことだけを考えるようになり、耐えられず、数日間実家に帰った。その頃、直感的に「自分なんてない」といった鮮明とした意識にぶつかる日々だった。
僕は大学図書館で読んでいた本(なんていう本か忘れた)に、長くつ下のピッピというものが出てきて、その著者は「世界一つよい女の子ピッピ」に影響を受けたようだったので、Eちゃんに少し勇気を持ってもらえるのではないかと思い、ピッピ三部作送ったりすることしかできなかった。
僕の部屋は乱雑を極め、同室の人からは「ストレス?」と言われる始末だった。僕はただ落ち着いて勉強したくなった。とりあえず、落ち着きたかった。
2016.06.20
僕は、「執筆 部屋」と、なんとなく、google画像検索した。整理された部屋を、羨望的なまなざしで見た。最適化された環境に惹かれた。すると同時に 「空間デザイン」を勉強したくなった。しかし、何も知らないので、果たして、お金を稼ぐことを考える上で、有用性はあるのだろうかなど考えてみた。 とりあえず、そういう事情を確かめるために、東京デザインプレックス研究所という専門学校のHPを見た。個別カウンセリングというのがあったので、即座に応募してみることにした。 父親のことが頭に浮かんだ。父は建築家である。私がもし空間デザインをやるとなったら繋がれる部分があるのではないかと思った。共同で何かが作れたりするのではないかということ。 環境造形学園…などいろいろあった。安部公房について書かれたとあるサイトを以前閲覧した時に、「空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった」と書かれており、空間というものが小説を思考すためのアイテムのように機能すれば喜ばしいと思った。そして、空間デザインをするなら、図面などを書かねばならない。パースやスケッチなどを。そういう描くという実践が自分の創造の幅を広げるのではないか、と漠然とながら思った。
それから、うつ伏せになり、枕を顎の下につけた状態で、ハイデガー入門を読んでいた。ハイデガー的存在論を理解したくて。それが、小説につながると思ったから。というのは、個人の承認が、ハイデガー的存在論を理解することによって初めて行われると書かれていたからだ。 まあ、存在と時間という本物に早く入らなくてはなるまい。 充実感と記号。 起きたのは、12時30分頃であった。寝ているとき、股間が硬直していた。何かやらかしたのではないかという気がする。同室の人に、醜い部分を見られたのではない か。そんな気がする。どんな夢かは覚えていないが、夢も見た気がする。東京のデザインの学校から、「今日の17時で承っております」という旨の連絡がきた。しかし、僕は「明後日にしてください」という連絡をした。私は今焦燥感にさらされていた。起きた。起きたということは何かをしなくてはならない。その何かが、 並列した複数の選択肢と、それを能率的に処理しなくてはならないという観念が、私に焦燥をもたらす。私は今から、代金を支払ってこよう。そして、買い物もし��う。何を買うんだっけ。そして、本も読まなくては。今日は大学図書館にはいかない。しかし、 借りたい本はあるなあ。というより、「借りなければならない」本が。あ、講義。今日は、総合文化オムニバスかという講義があり、もしかしたら有意義な講義かもしれないという思いが 頭をよぎった。しかし、つまらないだろう、どうせ意味ないよ。と自己弁護するように、頭の中でつぶやいた。どんな講義であるか、私は、確認もしない。 顔を洗った。共同の洗面所の床をビショビショにした。滑って転びそうになった。誰か転んだら大変だという考えが浮かびはしたが、僕は床を拭かなかった。めんどくさいから。その床を拭くという行為が、私にとって「生産的」ではないと思ったから。二義的な問題だから。私は自己中心的な人間である。今すぐ部屋に入り、「整理」と「出力」に時間をかけなければならぬ。それに他人は関係ない。 「人に迷惑をかけているか否か」は、本人が決める事柄ではない。その場に居合わせた「他者」が決めることなのである。情報・消費社会は、こうした基本的な「他者」 感覚を、なし崩し的に解体させてきた。そして「他者」をその目で見ていながら、見えていない未熟な「自己愛型」の青少年が、確実に増えてきている。と「文化変容の中の子供」という本に書いてあった。 お金。私は働いていないのだから、あまりお金は使えない。なのに、不満なのか?私は自分で家賃、定期代を支払うべきである。のに、それができていない。それは、よくないことだ。だから、よくないことをしている私は、それに見合った生活をするべきである。
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やがて、Eちゃんから別れを告げられた。僕は存在を足先から頭のてっぺんまで揺さぶられた。そして脳に絶えず浮かぶ「怒り」の心象を殺していった。憎しみと寂寥感のようなものが募る日々だった。
空間デザインのカウンセリングを終えた。一年制のクラスに入学すれば、本来なら30万円程度かかる事前授業が無料で用意されていることを伝えられ、それは7月の下旬から始まるとのことだった。僕はもう大学ではな���、専門学校に行き、就職し、デザイナーという仕事を軸にして、収入を得ながら、小説を書くのがいいのではないかと思うようになった。早く身を固めないと破滅だと思った。身を固めるとは、生活の基盤を作ること、経済的に自立することだ。2017年の4月から本格的な学習が始まり、全部で、1274400円かかるとのことだった。頭金の304400円を22日までに支払う必要があり、もちろん、そんなものは自分で調達できるわけもなく、親に相談した。「大学四年間行くよりも断然安いから」と言った。すると、「あんたねえ、大学卒業するつもりで入ったんじゃないの?そんなコロコロ変わってどうするの」みたいなことを言われて「いやいや勉強するために入ったんだから。勉強は一人でできると判断したんだよ」と言った。
一年制のクラスに入るには面接をする必要があるらしく、僕はひとまず面接に臨むことにした。
大学というのは、資源であり、資源は、実質化・有効化しなければならないものであると言われる。実質化とは、大学の勉強の目的、役割を明確にすること。そして、有効化とは、それを可能にすること。学生は、自分自身の未来を策定し、リスクを軽減することを強いられる。そして、ほとんどの学生にとって、「卒業する」ということが目的になっているのだとすれば、必要な単位を履修しなければならないから、「戦略として、彼らは単位を取るための授業をいかにスムーズかつ確実に履修していくかということを中心とした時間割作成を行おうとする(ポストモラトリアム時代の若者たち 46pの一部表現拝借)」これが、まず大学入学の際にしなければならない履修登録だ。そして、だからこそ「楽単」という言葉も生まれてくる。単位を取得しなければ卒業できない。できるだけ取りやすい単位の授業を選択しようとする人もたくさんいた。馬鹿みたい。必修の授業もある。僕は必修の授業を休んでいた時、「〇〇さん。ずっとプロゼミの無断欠席が続いていますが、どうしましたか。プロゼミは、必修科目で単位を取得しないと、卒業できません。きちんと出席してください」とメールで言われたことがある。僕は返事もしなかった。そんなものに出て、なんの意味があるのさ。
大学に入った時、僕の目的は「小説を書く」という一点だけになった。なぜなら大学を資源としてみたとき、その資源が実質化・有効化されなければならない場所は「卒業」ではなく、僕の場合「小説」でしかなかったから。そして、僕がやらなければならないこととしたのは、まず、23万冊も蔵書のある大学図書館である本を読みまくるということだった。友達をつくる?なにが友達だくそったれ。大学というものに帰属意識は全くなく、むしろ嫌悪感を抱きつつあった。その大学の内部で友達をつくるのが、ひどく滑稽に思えた。結果、大学に友達が一人もいなかった。その際、「積極性が全て」ということで、自分を正当化した。積極的に話しかけることをすれば、他校の人だって、友達になれるんだから。要するに僕がやらねばならぬこと。まずは、対外的に有利な自己を創るということ。それが自分というものの価値であった。つまり、それは「小説」。僕はそれを持っていなければならない!意識させられた。私はそれがめちゃくちゃ下手くそである。多くの人にとっては、単位を取り、卒業することが目的化しているように思えた。が、僕にとってはまず「小説を書き上げる」ということが喫緊の課題であり、その強烈な目的意識がまずあり、見識を増やすという意味において、大学に入ったのだ。講義というのはいささか冗漫すぎた。毎回90分と決まっており、その時間は拘束される。それが嫌だった。そして、僕は煩わされたくなかった。レポートや、テスト、などに。そんなものになんの意味もない!
2016.07.15
専門学校の面接だった。
僕は小説家を目指していることを会話の流れで話した。すると、 「すごく失礼な話をすると、世の中、表現をできる職業に就いてる人はほんの一握りです。そうじゃない、なかなか表現できない人の方が多いんですね。商空間デザインっていうのは、小説家みたいに、自由じゃないです。クライアントもいるし、予算もあるし、スケジュールもあるし、安全の事も考えなくてはならないし、省エネのこと、売り上げの事、いろんなことを考えなくてはならない。つまり、自分が作りたいものを作れるわけじゃないんです。商空間だったら、ビジネスとして成功できる空間を作らなくてならない。ただ、表現する部分があるのは確かです。真ん中くらいが、デザイナーの仕事って思ってもらえば…云々」ということを話された。そして、「人って二番目にやりたい仕事が相性がいいって言いますからね。知ってます?一番目にやりたいことって言うのは、思い入れが強すぎて独りよがりになったりとか、周りが見えていなかったりとかするんですね。職業の遺伝みたいなのがあって、父親が建築系だと、そういうDNAみたいなものがあるかもしれないですね。だったら、もしかしたら空間系ってのが合ってるかもしれないですね。空間系の仕事をやりながら、四十歳くらいで小説の賞とってもいいじゃないですか?いっぱいいますよね」と言われた。僕は侮辱された気がして、思いっきり罵ってやりたくなった。頭に血が上り、やるせない思いだった。四十歳で賞を取る?それほどまでに苦痛な人生はなかった。想像するだけで、下水道の匂いを嗅いだときのように、吐き気を感じた。
「好きな空間とか何かあります?」と聞かれ、僕は沈黙し、十秒くらい間を置いてから、 「スターバックスとかですかね」と答えた。 「どこの?」 「国分寺にあるスタバです」 「どの辺が良かったんですか?」 「外の席で談笑していたりとか、いいなって思ったんですよね。あとは…」また十秒くらい間を置いてから「空間とか出てこないんですよね…、僕が好きな空間は、青があって、水槽があって、アクアリウムとかですかね」と言った。 「外出していない理由はなんですか?」 「読書などをしているんですよね」 「小説を書くために読書してるんでしょ?デザインするんだったら、行けばいいっていうレベルじゃないのよ。もっと細かく見ないと。ディティールまで。何席あって、どこに換気扇があって、どこに照明が配置されていて、とか。戻って来ても、図面も書けないですよそれじゃあ。現物を見てきたって、それではプロになれない。それじゃあ空間系、建築系の人たちに失礼ですよ。それぞれ夢を持ってみんな努力をしているから」と言われた。
後日、大学とは別の環境が気になり、中島義道さんの哲学塾に行くが、自分の顔が投げ出された空間で、僕はどうしたらいいかわからなかった。終わると、夜の笹塚の十号坂商店街をぶらついた。これから空間デザインをするのだから、自分が行ったところのない場所に積極的に赴き、建物の造りなどを見ておかなければならないと思った。カフェ、ガレット、カレー屋などの料理店などのお店を外から覗き、何かを得ようとした。絶えず「戻って来て図面も書けないですよ」が頭の中で反響していた。図面を書くこと…を意識していた。
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僕はこの頃から、寮から出て、実家にまた住むということを思うようになっていた。それは、いつも実存的な気分として体験された。例えば、セブンイレブンでもつ鍋を500円で買ってきて食べたとしても、それは親の金であり、経済的な負担であるため、実家に帰る必要があるという属性になっていた。とりあえずこのころの僕は全く落ち着ける場所を持っていなかった。僕はやがて、実家に帰ることを決断した。
やがて、空間デザインの授業の見積もり有効期限が来た。両親に相談し、頭金の30万円を支払ってもらった。その時、僕はもう別の学校に行くことはしない。これで絶対に最後にしますと約束をした。
2016.07.26 日記
10時30分頃起床。 朝起きて豆乳を飲んだら、腐っていてドロドロしていた。酸化していた。トイレに吐き出すと、その吐き出した肌色の液体が便器にたまっていき、異様な匂いを放った。得体の知れない不愉快さがこみ上げてきた。 身体に影響があるのでは��と思い調べてみたが、大丈夫そうだった。 本をラックの上に積む作業をする。疑念が湧いてきた。寮の方がいいのではないか。家だと余計に強迫観念みたいなものにさらされないか。 実家に帰ることにより、埋没してしまう何かがあるような気がしてい る。 ベルクソンの「記憶と生」を購入した。ミンミンゼミが鳴いている。 さあ、勉強するんだ。勉強せねばならぬことは山ほどある。 「赤と黒」を読もう。 本を読むことに集中したいんだ。これは、寮にいて、そう思ったこと だ。本なら寮にいても読める。じゃあ他に理由があるんだろう。行動を規定しているのは、ほぼ無意識であり、複合的なものだ。今はわかるわけがない。ただ、僕は活字に憧れている。 実家に帰ったら「それだけ」になる。 本を読むことの必要性を感じるけど、「それだけ」になったら?いけないんじゃないか。 僕の欠点は、「実存的な気分」によって何もかも決めてしまうということだ。分析ができない。ただ、その時の裁量で決めてしまう。それは不満から起こるのだろうと思う。 相部屋のやつがうるさい!音楽を流している。いや、いいのだ。まずは、実家に帰り、働けるようになったら、また戻ってきて働けばいいんだから。 好きなものを増やすこと。
父から「セブンイレブンに着いた」と連絡がある。「今行く!」と返事をした。 「物質と記憶」を購入した。これは僕の逃げ場所であり、居場所である。 部屋の整理をしよう。 「意識に直接与えられたものについての試論」を読んで、 なぜ、ベルクソンはこれを書いたのかと思った。それは、何もしないのが嫌だったからではないか。 ただ、それだけのことではないか、と思った。
父親と二人でセブンイレブンの前で待っている。晩飯は餃子らしい。ル・クレジオの本の二冊分の代金を支払った。父親はトマトジュース、私は野菜ジュースを飲んだ。会話はない。今「空間デザインの専門学校」について話すこともできるだろうが、なぜか、言い出さない。言いたくないのだ。空間デザインなんて、やりたいのだろうか?
大泉から、東京外環自動車道、東北自動車道、それから久喜に出た。手にはマンスフィールド短編集があった。読んではない。読むのが申し訳ない感じがしたから。「家は生活の宝箱でなければならない」というのがラジオから聞こえた。
実家に着いた時、すぐさま帰ってきてよかったと思った。これで集中できるのではないか。言語化するのが難しい。リルケは、「汝のいるところに場所が生じる」と言ったが、この空間には心地よい他者が感じられたような気がした。ラックを設置し、ゲームセンターでとったフィギュアを置いた。こう、モノを置けるというのは、実に楽しみである。その純粋な楽しみを感じれないほど、僕は窮屈していた。 その、窮屈さからは、何も生まれないということだ。 ただ、焦るばかりで、余裕がないのだ。空間において人は思考する。その空間が脅かすものであってはならない。 窮屈さを感じてしまうこと。それを感じさせないように、生活を改善すること。さっき本で読んだ。ホッブズは「学問の目的は人類の進歩と、生活の改善」だと言った。ニュアンスが全く違うけれど、とにかく生活の改善をすることは何よりも先に行われなければならぬことだ。 発動。つまり、ストレス。反応。 ストレスを感じていない人は、それを回避する術を知っているのではなく、ただ、知らないだけなのだ。どんなことにストレスを感じるかは、 育ってきた環境とかによって全く違うものになると思うんだ。ただ、そういう人間は、モノに対しても感じるモノが違うのだ。煩わしいとは思わないのだ。 僕はものをとにかく後ろに追いやり、必要なものだけを前に持ってくるという生活をしなくてはならない。見てはならないのだ。物を見るから、発動するのだ。
母親の足を揉んだ。 不安になってきた。 不安にならないための方法論を見つけるための学問。 どうやるんですか?余裕がないと学問はできない。 焦燥にかられ、朽ち果てる一人の青年を書かなければならない。 ものすごい勢いで下に落ちていく。ここで比喩。ツバメ…? ZAZEN BOYS の「六階の少女」を聴く。 焦る。死ぬる思いだ。どうかしてしまいそう。 だって、だって、誰もいないんだから。 誰もいないんだ僕には。 今、この瞬間において、誰もいない。 それが不安であり、しかしながら、それが起爆剤だ。 この思いも誰にも伝わることはないんだな、と思うと、今、この瞬間も誰にも伝わっていないと思うと、ああ、なんと、苦しいことか。 自分を打ち出さなくてはならないと思う。だからこそ、だからこそ、��は本を読む。「それに近しい」本を。ああ、ああ、ああ。今を表現しようと思ったら、私はどうすればいいのかなあ。 ZAZEN BOYSの「すとーりーず(live) 」を聴いてもう無理だ、と思う。 ああ、ああ、噴き出る。夕食の時に飲んだ赤ワインを飲み干す。 考える。どう自分を表出していったらいいか。顔が痒い。やはり、アルコールのせいか。 もうすぐ寝ようと思うが、絶望的な気分になろうと思えば、今すぐになれるようなきがする、本当に際どいところにいるような気がする。 だって、僕はお金を稼ぐことができていないんだぜ?そう、1円もだ。 罪悪感と焦燥感についての小説。 音楽を聴いて溶かす。番線ができる。それが人々の首を絞めるところを想像する。カラオケで歌っているところを想像する。ああ、ああ、ああ、カラオケに行きたくなった。歌いたい。アニメを見て少し楽しい気分になった。楽しいこと考えようよ。今までの自分はそうではなく、ただ、暗いままに生きてきた。が、これからは頭を入れ替えて、面白くあるために、すべて。
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7月31日から空間デザインの事前授業が始まった。事前授業の内容はIllustratorやPhotoshopなどのソフトの習熟、グラフィックデザインの基礎だった。学校は渋谷の道玄坂を登っていってその途中にありわかりやすかった。だが9月20日にまた僕はこの学校を辞退することになる。この時の感情を記述することは今も困難なように思われる。決断したにもかかわらず、僕はまたやめた。本当に申し訳ないと思い、抑圧して来た。なぜやめたのか、まず僕はそのソフトの習熟が、4月から本格的に始まる授業に繋がっているように思えなかった。そのことについて相談すると、「グラフィックの重要性が理解できていないとするなら、どうして〇〇さんと同じ4月~の空間のクラスの人が他にも5名、現在グラフィックの授業を受けているのか?どうして、事前学習でグラフィックなのか、説明しますね。
・就活に必要なポートフォリオ作成のスキル向上のため ・グラフィックソフトの授業をスムーズに受けていただくため。 ・デザインの考え方を養っていただくため。 ・大人に揉まれて、社会人の仲間入りをしてもらうため。
そんな目的を持っています。〇〇さんの場合は、助走です。ポスター、広告、パッケージなどを作成するために受講をしている訳ではありません。4月~の授業をスムーズに、学習し、知識を詰めて行き、就職に向かう上で、集団の中に入り学習するという行動に慣れてもらう。そんな目的で受講してもらっています」と連絡が来た。
僕はモヤモヤした気分になったが、授業に出ることをとりあえずやっていた。だが、ある日、僕は授業の休憩の際に、突如学校を抜け出した。授業についていかれず、ソフトが展開されているパソコンのモニターの前で授業中に僕は「ペドロ・パラモ」を堂々と読んでいた。先生は僕のこの行為に気づいているだろうが、話しかけてこない。だが、先生が近くに来たら、パソコンのマウスに手をつけ、ぽちぽち作業をしているふりする。だが、こんなのは実に無駄なことだ!という思いがせり上がって来た。帰りたい。僕はもう授業についていかれないし、何より僕は読書がしたいという思いに支配されていた。
「なんのために」
僕は「気分が悪い」など一切告げず、無言で学校を出て、渋谷の薬局で、コンタックSTを買った。幻覚が見たいと思った。やがて、国分寺に着くと、水を買い、駅周辺にあるビルの入り口で誰にもバレないように錠剤を取り出して12錠飲んだ。一錠落としてしまったが、コンビニで洗って飲んだ。寮に泊まろうと思い、寮に戻ってきたら、寮生が「お、おかえり、久しぶりですね」とか言うから、笑いたくもないのに笑いながら、「ああ久しぶりですね」と言った。さらに「髪伸びましたね」とか言うから、笑いたくもないのに笑いながら、「ああ伸びました」って言った。部屋に入ったら真っ暗で、同室の人はいなかった。荷物をドサッと地面に置いた。靴下が雨の中歩いてきたので、濡れている。このまま同室の人帰ってこなければいいのだが。 すぐさま冷房をつけた。僕の使っていたベッドの横や、下にはお菓子がたくさん置いてあった。寮の入り口の玄関には冷蔵庫などが複数置いてあり、荷物がたくさんあった。全部売り払って俺の金にしたいものだ、と思った。騒がしい声がする。よくも、まあ!うるさいなあ。素面でよく声を荒げられるよなあ。あんなに。寮に戻ってきたが、やはり実家でないと今の俺には無理だなと思った。この機会が常に与えられている状況。 情報を持っている他人がすぐそばにいて、話そうと思えばいくらでも話せるが、 僕が話しやすくすることが条件だが。幻覚が来るのを待ったが、見れなかった。
やがて、空間デザインの学校にやめる旨を伝え、話しをつけるために、学校にまた行った。30万円を支払ったのだが、いくらか返金してくれることになり、僕は少し安心した。
そして、僕のその時の思いは、群像の新人賞に10月31日の締め切りまでに小説を書き上げて、送ることに向けられていた。僕は構成力がなく、膨大な文章を書くには書けるがそれを一つにまとめ上げるということがどうにも難しかった。結果、送ることができず、僕は自分に対して激しく���望した。それから、僕自身がまたロックされたような日々に陥っていった。
9月いっぱいで大学の前期の授業も終わるので、後期の授業料を納入しなければいけなくなった。僕は図書館という資源だけ利用することにし、ひとまず休学の申請をすることにし、75,000円を支払った。
僕はまた回帰しようとした。勉強に。読書メーターというサービスを利用している人間の凄まじい読書量に、圧倒された。もっと僕も本を読まなければならないと思うようになった。やがて、原点に帰ろうという気になり、R.D.レインに回帰し、大学の図書館に2時間かけて行き、反精神医学などについての本を借りてきて読む日々を送った。そして、「足りない」と思い、精神病理学などを体系的に勉強したいと思うようになった。
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12月1日に、唯一興味があった「思想と表現」という主に文学者や、思想家などを紹介する講義を聞きに大学に行くと、授業の後に、とある男の学生がその教授が以前に出版した新書にサインを求めていた。だが教授が「ガタリ買いなよ。そっちにサインするから」みたいなことをその学生に言っていた。その教授が、最近ガタリの本を出していることを知り、興味が湧いた。講義にもしきりにフェリックス・ガタリという名を出していた。ガタリを最初に知ったのは、ちょうど2016年の2月頃に見た、R.D.レインのwikipediaに記載されていた、「反精神医学などの運動は、『アンチ・オイディプス』などを書いたフェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズなどにも影響を与えた」という文章からだった。そして、11月に読んだ「精神病理学とは何だろうか」という本で、ジャン・ウリの名前を知り、興味を持った制度論的精神療法にガタリも携わったことを知り、勉強してみたくなった。それと、ガタリというと、すぐにドゥルーズと結び付けられ、ドゥルーズの方が過剰に持ち上げられているというか、そんなような気がしたので、一層ガタリについての柔軟な入門書ということで興味が湧いた。そして、今まで聴講していた大学教授がまさかガタリのような人物についての本を出しているとは、と驚きを感じ、何かの縁を感じた。
現在、2017年の3月15日。今月いっぱいで、大学をどうするか決定しなくてはならない。多分、退学する予定でいる。どうせ、図書館しか用途はないんだから。休学費まで支払い、さらに交通費までかけ、時間も、バスや、歩きなどを含め、往復で5時間以上も必要になる。それは支障がある気がする。来年には大阪に行きたいと考えている。向こうには僕の大阪文学学校というものがあり…さらに関東の実家から距離もだいぶ離れていて、知らない世界がある気がする。また気分を入れ替えて、生活を始められるのではないか…。だが果たして僕は「学校」というものに馴染めない体質なのではないかと思えてならない。向こうでも仮に文学学校というものに、入学したはいいものの、またやめることになるのではないか。何があれば世の中うまく生きていけるだろう。しかし、まずは、これから僕は小説の執筆に本格的に着手してはいかねばならないと思う。中学時代に体験した「学校」でのことについて。まずそれを最後まで書ききり、形にし、「学校」というものに自分が抱いている感情の清算をしなければならない。破壊しなければならない。
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先年、とある二つの一軒家にて二人の男女の遺体が見つかつたと云ふ。一方は県中央部の騒々しい住宅街にて、他方は県境近傍ののどやかな湖畔沿いにて、前者は男の家、後者は女の家、二人は夫婦でありながら既に別居状態、こゝ数年間は交流すら途絶えてゐ、知人の少ない女はもとより、男の方も仕事場の同僚に拠れば、めつきり夫人の噂を聞くことは無く、前々から変はつた人だとは思はれてゐたが、矢張りこゝ数年間は殊におかしく、気狂いのやうに意味の分からぬ戯言(たはごと)を云つて、突然息を荒げ出すことが珍しくは無かつたのださうである。司法解剖の結果から両者共に服毒自殺との判断が為され、静粛な葬儀の後、早々に、夫の方は夫の親族の眠る墓地へ、妻の方は其の母親の傍に埋葬され、今となりては地下にて眠る。死んで尚離れ〴〵になりしまゝ、如何があらむとは思へるが、残されし遺書の何方にも、さう願ふ旨が記述されてゐるとの事。幸ひ男の御両親に話を伺ふ機会に拝見した所、我々夫婦にとつて最も良い埋葬法とは、互ひを切り離し、声の聞こえ無いやうに、目の届か無いやうに、何処にゐるのかさへ分から無いやうに、存在を悟られ無いやうに地下へ埋めることのやうに思へる。願はくば此の身を其の地へ、妻の身を彼の地へ葬り給へ。心安く還りなむと柔らかな筆跡で綴られてをり、その後に、されども我妻が安らかに眠れるやう、無いとは思ふが意見の相違がある場合は譲る事にすとあり、凡そ埋葬先までは示し合はせられてゐなかつたと考へらる。交流こそ無けれども、夫婦揃つて同じ考へに至るは愛の為せる偶然か。伺つた先々に於いても、互ひの凹凸の見事に嵌つた、付け込む隙の無い夫婦でありはしたけれども死に際まで共にするとはと偲び〳〵此の事件を語る。蓋し読者の中には妻の愛など疾うに無くなつてゐると考ふる者が居ようが、当時の日記から、夫の気が狂うてからも思ひ続けてゐた事は事実にてある。けふもまた好みのけしやうをし、いつものやうにほこり一つないよう家ぢうをそうじゝ、いつものやうにふたり分のれうりを朝晩つくり、いつ連絡があつてもいゝやうに受話口の前にたゝずみ、いつたずねられてもいゝやうにゑ顔をたやさず、いつ求められてもいゝやうに体を清め、写真をながめてはため息をつく日々にたえきれなくなつてゐるやうな気さへする、向かうにあるなくなることのないみそ汁にすら思ふことおほしと記してある事から、生木を裂く心地にあつたゞらうと思はる、浅はかな推測は差し控へるべし。事実、十五もの歳の差のある夫婦なり。其れ程の歳の差なれば、例には行き違ふ日も出来るべき、理解し合へぬ事もあるべきなめれど、先達て友人の伝を辿り、男の上司に当たる大学教授の端本幸希氏に話を伺ふに、寧ろ、話してゐる内に何方と喋つてゐるのか分から無くなるまで、似通つた夫婦であつたと、又、余り似過ぎてゐるのでおつかない感じがしたとも仰る。彼の変はり者として名高い端本氏だに此のやうな印象を持たるゝのであるから、両者の差異は単に生殖器の違ひでしか無い。何故其処まで似通うてゐたか、思ふに、女側が擦り寄うてゐたからでは無いか、其れすら勝手な想像ではあれども、見初められた時分、未だ少女とも云ふべき年齢であつた事実を考慮するに、憧れにも似た心地を抱きて、知らず識らず男の考へに染まりつゝあつたのでは無いか。而して己に残つた己が別居後に開花する事も無く、正確には開花する前に、終には果敢無くなつてしまはれたのでは無いか。其の可能性があつたからこそ、男は遺書に、無いとは思ふが意見の相違があ���た場合はと書いたのでは無いか。死人に口無しと云ふには少々違ひはあれど、今となりては聞くことも出来ず、矢張り想像するしかあらず。斯と云つて安易に推測するべきで無い特殊な夫婦事情に、件の事件に纏ひ付く不思議な香りの原因があるとの事、本物語は事件の解明を目的とした文章では無い事と共に此処に記す。
とばかり陽を見るのも難(むつか)しき夏の頃、同好の士が云ふに、新聞記事の隅に興味を惹くべき内容が載つてゐるとあり、大学図書館を訪れたのが、深入りをする端緒となつたのであるが、凡そ一年(ひとゝせ)の月日を経て男の家を尋ぬれば、青紅葉の美しく生え渡る季節にて、庭には大きな木陰が出来、家の壁、隣家との境には何とも知らぬ蔓草が蔓延り、入る前より耐えられぬ心地となる。周囲の家々、地域柄を思ふと、尚更哀れに感じらる。三階建ての、黒緋(くろあけ)に似る濃い色の洋なる邸宅に加えて、日本家屋めく小さな離れあり、蔓、草、共に避けるが如く其処には生えぬ事から、此の離れが男の部屋だと察す。思ひきや其の佇まいは未だに人が住んでゐるやうで、母屋も蔓に覆はれてゐるのみで、見える壁、窓、屋根、塀、柱、どれも雨の跡すら無く、察するに単に手入れを怠つた結果か。子を失くした親は廃人のやうにて早々に発つ。扠、女の家に赴いてみれば、湖畔のほゞ湿地帯に位置するために、虫の飛び交ひが酷く、加えて木の生い茂りも酷ければ、道と云ふ道、家と云ふ家、店と云ふ店から断絶され、地平面となる湖のみ目の前に見える、侘しい日本家屋なり。蔓は伸びぬものゝ此方には竹が、皮を足元に散らしながら息苦しいまでに生ゆ。春先まで親縁の者が住み込みで遺品の整理に当たつてゐたと云ひ〳〵、筍を処理せず、其れ切り来客すら途絶えて久しいと見える、あらはに毀ち散らされ、破れ〳〵に成つた障子の隙間から中の気色を覗くに、粛として乱雑、未(いま)だ二十歳代の娘とは思へぬ程、古代の家財道具が立ち並び、褥一つ取りても平らか且つ不揃いの布に縫はれ、落つる書籍は並(な)べて茶色に染み付き、唯一の電子機器である電子風琴(オルガン)に至りては、骨董品とも云へる型にあり、女の暮らしの非情だつた事が察せらる。彼女はね、生まれる前からものすごく貧乏だつたのだよと同好の士が云ふ。事に凡そ三十年前、未(ま)だ産声すら上げられぬ頃、母親の胎内に其の種を撒きし男が絶えてしまはれた事から始まつた一家の凋落に、気づけば自身は見窄らしく、幼年期より耐へ忍ぶ事多く、汚げな身形をはひ隠しがちに、常に孤独、後年の口癖に、捨てゝも見放してはくれるなとあるは、幼き心の傷の名残だと解釈するが良からう、特徴の一つである卑屈な性格も此の時点で早くも醸成される事になる。尚、父没前の生活は定かで無い。ある者に問へば豊かな生活を送つてゐたと、別の者に聞けば買ふ物も買へぬ日々を送つてゐたと云ひ、全くの不明瞭であるが、後の母親の言動から状況は良からじ。甲斐無き人にありはしたけれど、家を譲らばこの身も、と。対照に、男の家は今よりも一層富み栄え、地元紙に拠れば、時を同じくして頂点に達すとあり、話題に上げるには未(ま)だ早いにしも、何故男が此の卑しいばかりの女に惚れたのか、抑々見る事はおろか、知る事さへ叶はぬ身の丈の違ひのみならず、既に行末も定つてゐるやうな女童の後見をするには見目悪く、事実、残された写真を見るに、美麗とも可憐とも決して形容出来ぬ其の姿は、田舎者特有の晴れぼつた顔立ちに、汚げにねぢくる髪、痩せて甚く細うなりし肢体を持ち合はせ、褒める所無く見ゆるものから、同時に、眉の甚く優しげに垂るゝ様、手付き口付きのいとつゝましやかなる様から、儚い愛嬌を感ぜられもし、世の中に良くあるやうに、斯くある少女こそ美しげに育つと見抜いてゐたのか、其れとも何者にも染まらぬ無垢な少女に変態的な欲望を抱いたのか、其れとも己とは全く趣を異にする少女に不思議な魅力を感じたのか、本人以外の口をして語るべきにあらず。湖の先に綺羅びやかに消えて行く太陽まことに美し。頑な親に捨てられ、恨みも無く独り小石を用いて遊ぶ様を、引き込まれるがまゝ湖畔沿いに佇みながらたゞ思ふ。
出会ひは唐突であつたと云ふ。時、女十二、男二十七の秋。家の様子は今と然程変はりは無かつたと云ふ。理由は定かで無けれども、酷く気を病む事があり、紅葉の名所として名にし負ふ彼の地に静養中、湖の周りを歩(あり)いてゐる内、一軒の寂れた家の屋根が見えて来、此のやうな家は今の今まであつたかと驚いて赴いてみれば、無人の如く静まり返りてゐたと云ふ。無常な心地に包まれて立ち止まつてゐると、後ろから呼ぶ声す。どちらさまでいらつしやりますかと思ひの外稚い女の声なれば、再び驚いて、振り返つて其の姿を見ゆ。残念ながら誰も其の時の様子を見た者は居らぬし、結局推測するしか無いが、女の日記帳に、なぜ、どうして、などの言葉が立ち並ぶ事から、実際に口に出した言葉もさうであつたかと思はれる。互ひに見つめ合ひながら、湖のさゞめくを聞くとは我が想像に過ぎず。後に、運命とは斯くある事を云ふのだよ、君のは全くもつて平凡で詰まら無いと惚気ける程の出会ひ、両者共に親煩ければ、静養中は密かに立ち寄りて見つゝ、種々の施しを与え、契を結び、時には遥か遠くにまで連れ出し愛づ。都会に帰りて後、暫し間を開けて逢ふ。以降、半月に一度程度の頻度で逢つてゐたとは友人の証言だが、男がありつる家に訪れる事は最早無く、一方的に女を呼び寄せては前段の離れに閉ぢ込めてしまひ、況して独り暮らし得る住処であれば、家の者すら気づきもせず。やう〳〵訝しんでみれば、酷く口上手な男に、唯一秘密を覗きける猫をして丸め込まるゝに、あの日本家屋めいた離れの中で何が起きてゐたのかは全く不明である。防音処置された一室に、幼少期より慣れ親しむ電子風琴(オルガン)あり。習はせてゐたとは男の証言にて、取り繕うた言葉には違ひはあらねども、而して女の母に嗅ぎ付けられる契機となつた事実を顧みるに、事実、事実にてありけるべし。二つの風琴(オルガン)とは二人の母の物である。読者は此の共通点、如何が思へるか。並べて世の例に漏れず、姦通の有無を疑はるゝにあたりて共に首を振らざりしを、行為に及んでゐたと解するは尤もであり、結果、其の後(ご)数年の時を隔てる宿命となるが、否定するも肯定するも、如何ともし難いやうに思へてならず、虚実をもつて引き裂かれし思ひの程、如何があらむ。男の体には火傷の痕がある。まだ幼き時、過ぎたる悪戯の一貫として火の燃え盛る焼却炉に体を押し付けらるゝに、左半身は臀部から腰、右半身に至りては肩甲骨近く且つ右腕の根を焼き焦がし、溶けた衣服が皮と肉と一体となりて泣き叫ぶが、多くは醜い瘢痕として残り、心をすら蝕みてある様にてあれば決して人に見せず、たゞ女のみ甚く心を痛めて、なぜまだこれが私にもない。なぜ彼ばかりなのか。おかしい。この世は壊れている。と思ふ事から、男の生肌を彼の離れの一室で見たは事実、然れども性交を行つてゐた事実には関係あらず、先にも云ふやう常識の通じぬ夫婦にて、例へ互ひに息を切らしながら抱き合うてゐたとしても、安易に決めつける事無かれ、事実はより捻くれるに、我々夫婦には夜の営みなど必要ない、たゞそこに居てくれさへしたらよい。抑々考へて見給へ、僅か十二歳の少女と体を混じらはせるなど強姦に相当するではないか、そんなこと、貞操観念の堅い我と彼女がするとでも思ふのかね、と語るのすら意味を持つ。後の段にて詳しく述べる。火傷の傷跡、女の心に強く残りて夜離(よが)れの日々を送るうちにも、辛きことを嘆く。此の時男の飼ひし猫が死ぬに合はせて、唯一の友人である佐伯苗香氏を事故で失ひて、予てより燻つてゐた過ぎたる悪戯を受けるが、如何に除け者にしやうとも、如何に暴力を振るはうとも笑つて済ます、又は、親より受け継がれし強情な気質を以て反逆をす、結果、心の傷となりて残るを、当時の人物の云ふ、感謝すると云ひ微笑む仕草、再び薄汚く成り行く身形なれば、時を待たずして収まる。一方の男、再び気を病みて療養との事だが、静養地に湖の沿岸を指定するは、爽やかに移ろひて行く景色のみならず、密かに女の様子をはひ隠れ見るためであるとは、夜な〳〵彷徨ひ歩(あり)いて日の上ると共に帰る行動からも、彼はそんなに辛さうにしてゐなかつたといふ端本氏の証言からも容易に理解出来る。昔人に擬へて忍び〳〵に会ひ、遣戸を引き開けて同じ月を見、時には静かな声にて歌をすら詠んでゐたと知る者は云ふ〳〵。然と思はせて実際には堂々と会うてゐたやうだが、一体誰が知つてゐやう。
端本氏の評価に拠れば物事を整理、整頓し、尚且つ其れを公の場で伝ふ能力に長けてゐたとあるを、狡猾に用いて女の教育を承りて、会ふ事を許されて後、例の屋敷に日々引き入れて教へるを、矢張り人の聞こえが程々に悪うて、家の者は当時の彼らには嫌と云ふ程困らされました。お二人ともご主人様のお言葉をお聞きになりませんから、間に立つ私がいつも被害を被つてをりました。中でも特に頭を悩ませたのは、女様の通ふ学校の先生が御出でになつた時でせうか、注意喚起をしたいとおつしやりましたが、男様は帰つてもらへと一言。もちろん引き下がりなどしませんので、しばし往来してゐると、不機嫌におなりなされた男様に、お前は云ふ事が聞けんのかと云はれ〳〵、恥を知れとも云はれ〳〵、泣く〳〵ご主人様に訴へますと、今度はあの子も色々あるからとおつしゃつて相手にしてくれません。困り果てゝかの離れに三度伺ひますと、蛻の殻のやうになつてゐまして、言訳を致しますのにどれほどの時間がかゝつた事やら、あの時ほどこの家を離れやうとしたことはありません、と語るを聞くついでに、仕事を取られし恨みも聞く。時に女、十四歳となりて既に真似事でもなく男の妻として身の回りの世話を行ひしに、部屋の清掃をすら行ふ。でなければ彼の部屋は紙くずで埋め尽くされてしまふ、私がやらなければ誰がやると云ふのか、特に雨の日は朝に行つたとしても床が見えぬ程騒然とするから、かさの増えた湖に足を取られつゝも、あの屋敷へと向かはねばならない、と義務感に駆られてゐたと云ふが、此の紙屑なるものは男の用いた計算用紙であつたことが察せられる。端本氏の云ふには、世の成り立ちを希求する学問の中でも殊更に計算量の多き分野に属し、等号の次、等号を書くまでに紙一枚、二枚を隔てるは大抵の事、時には作用の構成に半年を掛く、気力集中力を持たねば力尽く、床を紙で埋めども自然な事、男は深夜にかけても計算を行ふ、臥す間に女が片付ける。まことや女に学問を教ふに、いよ〳〵交際を公言するやうになりなば、嘗ての同僚福井大貴氏曰く、あいつは俺と同じくらゐ理解力がいゝ、なまじ完璧な馬鹿よりはあのくらゐあつてくれた方が助かる、と誇りを持つて云ふものを、されど伝へ聞くに、女は然こそ賢くは無し。当然の事、此れまで本を読むことも出来なければ、学ばうともせず、耳につく事其のまゝに過ごしければ、感覚が育たぬ。机に向うのさへ厭ふやうであれば、救ひやうもなし。世に良く云ふ、一年の勉学のみをして大学の地を踏む物語は夢物語にもならず。そも人のやり方を真似して、己の体質に合はぬ方法をし続けて何になる、全ては世の人の言葉を全て忘れる事から始まるとは男の言葉であるが、全く持つて其の通り、思慮も無く著名の人を信頼するは白痴のする業なり。女幸運にして幸ひに、傍に仕へて感覚を養ふと共に教へを受け、甚く努力をして次なる段階へと駒を進め、男は其れをも大なる声を以て福井氏などに云ひ放ちて暫し疎遠となるが、此の無学な女を才(かど)ありと言い張りしが災ひとなりて、教師と生徒の淫らな関係を訝しめらるゝに、女の傍ら痛きを強いして春の時分、桜の咲き乱るゝ丘陵地帯にて花見を行ふに引き連れて、姿を公に晒して、見目形など前評判と少々違ひければ、幾許か物足りなく感じるものゝ、元はあの地の生まれにしては華奢で愛らしく、話し掛けば押しも引きもせ���至極上品に笑ひ、男の傍から離れぬを、時が経ちて場に慣るゝにやあらむ、話してゐる傍(はた)から口を挟み、思ひ浮かんだ疑問質問意見を率直に述べる、果たして誰と似通ふかなと思へば男であり、彼の端本氏の云ふ、話してゐる内に何方と喋つてゐるのか分から無くなるとは此の事、福井氏も又同様の事を思うて、この界隈はその方が都合がいゝことが多いのだけど、あの歳にして物怖ぢをしないのは逆にこちらの方が恐ろしくも感じると云ひ〳〵、あんなに言動が逸脱してゐる彼と対等に渡り会へるのは彼女だけだつただらうと思ふ、似た者夫婦だつたよとも云ふ、華奢で愛らしい女の様子、如何に見たいと思うてももうをらぬ。花見は春の凪にて穏やかに進み、紛れ込んだ一輪の花に、男も女も皆挙つて湧き上がつたとぞ。
扠、花見の際、福井氏は女の姿を一目見て大層驚いたと云ふ。此の方、男の良き古き友なれば種々の内証事を教へるに、断じて漏らしてはいけないと云ひて変はつた趣味を持つ事も語り、写真文章其の他を我に見せる、皆女に似る女性の写真なり。此れは彼かと同好の士が尋ぬるに驚いて今一度見れば、顎の形、肩の盛り方、手首の尺骨、指の関節、出ぬ尻など、どれも男性の特色を滲ませてありはするものから、目元口元頬鼻のみ見えれば矢張り女其の物の顔とのみ見ゆ。同好の士のさらに云ふ。彼は女装癖を持つてゐたのだよ、と。福井氏に拠れば元々女装癖自体は凡そ少年時代から行つてゐ、其の筋の催物にも屡々足を運んでゐたやうであるが、二十台後半、詰り女と会ひし時より隠れた趣味とは最早云へぬ程打ち込み、日常に於いさへ何処か色気を発するやうになつてゐたと云ふ。召し物も然る事ながら、髪の毛も鬘を被らぬやう長くし、手入れを怠らず。振り向けば匂ひ満つ。体を痩せに痩せさせ、骨の太きを取り繕ひ、逆に胸に至りては、何をしけるにか、詰め物をせでやはらかに丘を為す。書く文字をすらたをやかなるを、目付き口調から其の姿は強く美しき女性にて、男は元より女にも云ひ寄らるゝ事多し、或る時暴漢に襲はれ声も届かぬ室内にて衣服をひん剥かれしに、男と思はず両性具有と思はれ、暴漢の股座萎える事無く突き抜けさうになりて以来、少々隠るやうなるけれども艶やかな魅力消えること無し。たゞ何故己の女に姿を寄せてゐたのか。福井氏の写真に映る男は何れも将来妻となる者とほゞ合致、二人で写るもあれば、同じ顔をして笑ふ。昔、例の離れ屋に入らせてもらつたことがあるんだが、あの中ではあの子の服を着ていたみたいだと福井氏の云ひしが、同好の士、女もまた男物を着て、外を練り歩く。見給へ、背丈さへ揃へば男と同じだらうと、或る写真を指差すを、よう考へれば、性交の有無の一件も自ずと理解されやう。男も変態であれば、女も変態である。惟ふに変態とは体を重ねて欲を満たさず、遥かに尊い悟りの中で性の喜びを感ず。理解出来ぬならば、己に眠る真(まこと)の性癖を目醒してゐざるに過ぎず。奇しくも互ひに似通ふ変態なれば、服を取り替へ化粧をし、並々ならぬ衝動を抱ふるがまゝに、女は女となりし男の姿を、男は男となりし女の姿を、互ひに眺めるのみ、性交は無し、あらば男は女の物を、女は男の物を取りて手淫するまで、接吻だになかりけるべし。時を経て、俄に愛する者に近づきつゝある自身の姿も又、格別なるべし。福井氏は男の秘密を知る者にて、入れ代はり立ち代はり、日毎に互ひの姿を真似して恰も振り子の如く性別を入れ替へる二人と共に永平寺へ訪ねるに当たりて、ぱら〳〵と海苔の懸つた、五目飯(ちらし)の下等にはあらぬが、鮨を食ふとて暖簾を潜りて腰を下ろすに、色違ひの着物だつものを着なし、髪の長さは同じにて、同じ化粧、同じ装飾、同じ仕草、同じ気色、夕闇の小暗き店内、声すらも真似て話をするは真に恐ろしき有様、されど其れこそが彼の夫婦の性癖なれば、時折目を血走らせて熱き息を苦しげにつぐ。柿葉鮨のほのかな匂ひに、鯖の脂の旨味、酢飯の滑らかな口当たりなど、何も感じず。店の者に如何為されたと憂へらるれど、茶を飲みて取り繕ひ、共に席を立ちて厠へ向いて、返つてくれば同じ笑顔にて、此の俺の耳元の艶めかしいのが美しいと女の耳を舐りながら、此の私の鎖骨の隆々としたのが美しいと男の首を舐る、魚籠の中に鮮魚(あざらけき)は採れてゐたか。採れず、代はりに蚰蜒(げじ)の大��るが入る。ならば刺身にして食はせよ、俺も食へ。其れは天照大御(おほん)神の悪み給ふ事、斯く口賢しき書は神風にて沈む。古も斯くやは人の惑ひけむ、などゝ語り合ひしが耐へられず、先に店から出たものゝ宿にても斯くあるを、次の日になれば睦まじい男女となつて、精進料理を細やかに食す。流石に仏様の御前では煩悩を直隠(ひたかく)しにして跪く事にしたか。けふは男の姿にて、同じ器の同じ料理を同じ分量だけ箸に取りて、同じ時に口へ運ぶ。互ひに美男ではあるが、却りて無気味な心地に包まるれば、其れ切り二人を置いて逸早(いちはや)く大阪へ帰り、後の事は想像もしたく無いと嘆く。尚、当然の如く、二人の間に子供は居ない。要らぬ。此の俺に子供など、邪魔になるだけである。少しはまともな思考をしたらどうかねと子をなす事を勧めた者を邪険に扱うたが、過去に孕ませた女の子と屡々人目を偲んで会ひ、養育費教育費其の他諸々を生涯に渡つて援助し続けたとあるは、自分の妻以上の高待遇故、未だ以て理解出来ぬ事である。
純潔を守り通す事がどれ程の意味を持つかは二人にしか分からぬが、結婚すらも厭ひて、女が学業を収めるが変はらぬ生活をし続け、約二年の時を経て叔母をして云ふ、神に仕う奉る巫女となれと、首を振りて肯定するに、先の叔母の仕る神社なれば疾く巫女となり、疾くしろたへの小袖に色鮮やかな緋袴を着なして生業と為す。時に女、二十歳となりてあざやかに育つ。髪を結ひ、朝靄の幽かに広がる中を悠々と歩く様、口寄せの時代を彷彿と、恰も神との戯れをなし得るが如し、由々しき思ひさへす、背筋が冷えに冷え入りて、汗が止まらぬ、あの有様では物の怪をも飼ひ慣らせるめり、物恐ろしとは叔母なる者の云ふ事、甥が初めてあの者を連れて来た時分、大して可愛くも無いと率直に思ひはしたが、あのやうな艶めかしい美女の様相を呈するやうになつてゐたとは。仕事ぶりも悪くは無ければ愛想も程々に良く、度々近所の子どもたちに神社での���法を教へてゐたと云ふを聞くに、其の微笑ましき様子を絵にでも書きたいと思ふものを、更に聞けば、此の時神社に移り住んでゐたと云ひて、男との交流も途絶えがちに雑務、神主の補佐に打ち込み、夫はどうしたと聞けども、彼は忙しい身ですのでと答えるのみで要領を得ず。寧ろ同じく神に仕う奉る同僚の巫女と共に、未婚女性としての悩み愚痴を云ひ合ひ笑ひ合ふ日々を過ぐす。或る時、或る者云ふ、其れ程愛しき女に男居らぬは奇し。居るべきなりと。女大いに恥じらいて云ふ、凡そ十年前より思い染める者ありと。嘸(さぞ)かし酷く妬まれ、酷く羨ましがられたであらう。巫女の仕事は力を伴ふ仕事にて、辛くも苦しくもあらめ。されど神社に仕る人々、皆良き人なれば、此の時ばかりは女も頭を悩ませず充実してゐたと、叔母なる者は云ふ。此れらは恐らく男の計らひであつたゞらう。男も又女の自慢をせざりければ、一体どうした、到頭(たうとう)逃げられたかと云はれども否と答ふのみにて、上司同僚には口を閉ざすが、酒の席にて酔の廻りし時、直属の生徒に対して、俺は俺に世の中といふものを知つて欲しかつた、俺は俺以外の人間を何も知らぬ。それでは対応にならぬと珍らかに落ち着け払ふ声にて云ひ、其れから女がありし湖畔の家に帰るまで、身を案じ続けてゐたと云ふ。巫女装束を艶やかに着なす女の姿いとたをやかに、噂を聞きつければ己も買うて髪を結ひ、眉を剃うた其の姿、姿は見ねども瓜二つであつたとは、云ふべきにもあらず。夫婦の離別は斯く始まるが、男の祖父亡くなりし時、女の母、予てより病を患ひければ、雪のはら〳〵と降り積もる師走十五日、愈々(いよ〳〵)面は黄に、肌黒く痩せ、古き衾(ふすま)のうへに悶え臥すやうなる。粥を作りて与へるが口の先にて舌を以(も)て吐く。水を飲めども息苦しきに噎(む)す。女の身にて子を一人成人にまで養はゞ、斯くの如くなりけるか、痩せ衰へたる指にて箪笥の元、衣類に高く埋もれたる山を指す。親族は無し。女が近寄りて山を掻き分ければ、鴛鴦、鶴、鶴亀の描かれし三枚の風呂敷なり。共に白髪の生ゆるまで、叶はぬ願ひを娘に託して戌の中刻に、遂に絶え果てぬ。身は冷え〴〵と、相貌も疎ましく変はり行く程、たゞ其の胸に抱きて、暗う物怖ぢせざるを得ぬ家の中、男も来て共に悲嘆に暮れる。明朝、湯を沸かすとて厨に立つ。此の程、誤つて薬缶を足の甲に落とし、流れ出た熱湯に女は重大な火傷を負ひて、家の中を這ひずり回り、凍てつく湖の水にて足を冷やすを、醜い痕となりて其の後数ヶ月間、靴すらも履けず。以前読みし小説に、狼狽の餘りの所爲でもないその夜春琴は全く氣を失ひ、翌朝に至つて正氣付いたが燒け爛れた皮膚が乾き着るまでに二箇月以上を要した中々の重傷だつたのである。などゝいふ一節があつたが、此の女の場合は治癒までに一ヶ月も要せず、何を以て数ヶ月も生足で土を踏みしめてゐたのか、佐助のやうに師と同じ傷痕をして同じ世界に住む悦びを感じたのか、もう語れる者は居ないが、あゝ、待ち遠であつた、時間が問題だつたのだ、私にも漸くあの醜い瘢痕が出来上がる喜び、最早云ひ様もないと歓喜に湧き上がれば、跪きて、否、時間とは無意味である、我は毎日、時間を空間にし、時間を空間と共に回転させ、尺度をも変へる者である、かうなるのは当然の事、と、ほの白い脚、其処にへばり付く瘡蓋に愛ほしく口付けす。己も背中の瘢痕を曝け出し、足首の肉を食み出せば、云はれずとも口を大きく開け、ぬら〳〵と濡れし舌で舐む。此の一件を以て巫女の職を辞し、二人は契りを交はす。されど男は例の離れ屋敷にて、女は例の湖畔を望む家にて住む。男の女装癖は此の時が頂点だつたと見える、性転換こそせざるものゝ生きる全ての時に於いて女物の服を着、毎朝化粧に時間をかけ、厠へ行けば鏡の前にて小一時間佇み、遠出をすれば男を誑かす、如何に変人の多い界隈と云へども其の佇まいは限りなく異質、時には講義中、股間を膨らませ、俺が、俺が、俺が、俺が居る、俺が居ると声を荒げて、棟から飛び降りるが如く階段を駆け下りて居なくなる事すら少なくなく、言動の著しさが原因となりて謹慎を受けるに、女から譲り受けし巫女装束にて舞を踊る。女も又、男物の衣服を着、嘗ての職場へと足を運んでゐたさうだが誰も気づかず、其の事実を以て夜な〳〵淫猥な声を発しゝが原因となつて捕まへらる。然れども男は女への愛を忘れず、女は男への愛を忘れず。如何なる時も女の身を案ず。如何なる時も二人分の酒飯の設けをす。けれども見ることは最早あらず。死の決意は婚約から三年後の事なり。男の手記には、限界だの一言。女の日記には、限界だの一言。最後の最後、毒を貰ひ受けるに当りて偶然の再開を果たすが、言葉も交はさず。冒頭部に戻る。両者の遺言に沿うて男は三親等乃至四親等の親族のみ、女は嘗ての同僚の内数人のみを招いて同人数とし、厳かな葬送を行いて骸を遠く離れた地へと葬り、弔ふ人はまばらにてあるが、向い合ふ二人の墓の気色、恰も空の上にては一つの雲となるが如し。尚、毒を譲つた者が何者であるか、其れは我が興味の範疇外にて関係者各位の尽力に期待する事にす。
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日の出の王国 1
街には相当な数の先時代の遺品がある。 先時代というのはこの地方独特の言葉で、要するに日本と合併する前の王国時代のことを言う。とはいっても現在の住民の多くは外から引っ越してきた人間だし、みんな身近にあるちょっとしょぼい観光資源として、あるいは面白い文化の僅かな生き残りとしてしか「王国」を認識してはいなかった。私もそうだ。
私は高校を卒業した年に家を出てこの街へ移り住んだ。ここはかつて王城があったところで、その入り組んだ石積みの跡地を改造してできた有名な美大があったからだ。 それから四年が経った。高校の同期たちが各々就いた職に慣れて頭角を現し始めたり、あるいは大学を卒業した後のステップについて計画したりするような時期に入った。一方で私は日々を変わりなく過ごしていた。つまり、大半を寝て過ごした。
私が入居した部屋は美大の領域内にあって、曰く五十年前に建築科の有象無象によって建てられた一棟だそうだ。たまに部屋を出て、昭和の香りを色濃く残した廊下に立ってみると、陽の光に炙られて羽根のような埃がたくさん舞っていた。しかし埃には違いないので、私は決まってひどい鼻水を出した。
共同玄関を出て正面の砂利道を下っていく。ゆるやかにカーブする坂道で、すぐ左手にはこんもりした森が迫っていた。その森から向こうは一段と高い丘になっていて、ぼろぼろになった石垣が奥の方に見え隠れしていた。やがて反対の右側に開けた駐輪場が出てくる。といっても、土を均して固めただけの広場だから、個々人で用心していないと自転車はすぐに行方不明になる。私は居並ぶ銀輪の中から自分の愛車を見つけ出して、駐輪場の端の木にぐるぐる巻きつけたチェーンを外した。
私は自転車に乗って坂道を走り降りた。前髪を空気の塊が撫でる。湿気を含み始めた六月の末の風だった。かつて城内の自然浄水池だった沼を過ぎて、第二グラウンドや工学試験場、新寮の団地、畑、南東食堂の裏を抜けていった。だんだん城跡の裾野に近付いて、標高は低くなっていく。外縁部にあるものほど美大の拡大に伴って増えていったものだから、景色も段々洗練された小綺麗なものに変わる。グラフィックデザイン学科の真新しいピロティを錆びた愛車で駆け抜けるのは、何度繰り返しても爽快だった。 芋くさい万年寝学生の面目躍如といったところである。これが誇りだ。 私は美大の敷地を出、揚々と街へ向かった。
○
自転車を公共駐輪場に停め、東大通りの路面電車に乗った。この街には南北に二本の太い道路が走っていて、これはそのうちの片方。電車を通した上に車だって六車線入れるような、この辺では一番の栄えた場所だ。路面はクリームやレンガ色の石畳。もうだいぶ経年劣化で傷んできているが、これも先時代の遺品の一つだそうだ。
東通りの左右には洒落た商店やアパートが並び、もっとずっと南下して駅の方まで行けば百貨店や高いビルもにょきにょき生えている。しかし今日の目的はその途中にあった。 路面電車はいくつめかの駅に停車した。私はお金を払い、電車を降りた。道路を渡ってすぐ目の前には、博物館がある。
東通りの中心部に建っている博物館で、石造りの瀟洒な三階建てになっている。中庭やレストランも備えた、なかなか侮れないところだ。静謐で雰囲気も良く、何となく頭が冴える気がするので私は気に入っていた。冴えた結果実際の制作に繋がったことはないが。 ここのところ足が離れていたが、何となしに久しぶりに訪れてみた。信号を待って道路を渡り、正面玄関の方へ。歩道の街路樹で、ずいぶんと気の早いセミが一匹だけ鳴いていた。
ロビーに入るとそこは大きな吹き抜けになっていて、床はつるつるしていた。心なしか、外より空気がひんやりしている。私は入口のすぐ横に設けられているカウンターでチケットを買い、一階の常設展エリアに向かった。二階の特別展は展示品の入れ替えのために停止していて、お客の入りが少なく、広さの割に閑散としていた。
常設展では、やはりというか、かつてここにあった王国の展示が大半を占めていた。王国と言っても、お茶会やダンスパーティーを開いたり、派手なドレスに身を包んで豪奢を競い合うような華やかなものじゃない。王宮は石と木と土で、服は綿と羽毛とたまに絹で、食べ物は私と何ら変わらない野菜や肉や魚でできていた。
千年ぐらい前から王国はあったようだ。それが百年ほど前に吸収合併のような形で日本の一部になり、消えていった。当時の国際情勢とか財政とか、そういったものが関係していたらしい。やがて慎ましやかな王家はもっと慎ましくなり、今では影も形も見かけない。この街へ引っ越して来れば何か耳にするかもと思っていたけれど、情報網に接続するスキルの不足で何にも分からない。いつかインターネットで調べた時、まだ一族の末裔がこの辺りに住んでいるとかいったことは出てきた気がする。
王国の遺産は博物館の中にもちゃんと根を下ろしていて、整然としたガラスケースの中に、掛け軸のような絵や、漆で塗られた道具、演奏の難しそうな楽器が並んでいた。 私は中庭に面した列柱の廊下を通り過ぎ、博物館の一番奥まで行った。そこでは専用の部屋が一つあてがわれて、かつて王宮で用いられていた物品が置いてあった。赤や金で刺繍された着物に、祭礼に使う不思議な杖。かなりサイズの大きな石像や、かつて宮殿の一部だった柱もあって、そういうものたちはケースには入らずに剥き出しのままになっていた。
私は解説を殆ど読まないから、それらがいつどんな風に、誰によって使われたものなのか、全然知らなかった。知らないままが良かったのだ。素敵なものはいつもどこか不思議な風味を帯びていて、それはちょっとした憂いだったり、くすみだったり、ゆがみだったりする。未知のものを未知のままにしておくことは、そうした憂いとかくすみを美しく見せる。気に入った小説ほど、作家の名を見てはならないのだ。
高校の修学旅行で沖縄へ行った時に、資料館を見た。そこも、ここと似たような雰囲気を持っていた。用途も名前も知らない道具たち。かつての琉球王国も、ここにあった王国と同じような結末を迎えている。
部屋の中央には、王宮から移設したという玉座も設置されていた。真紅と濃黄を基調として、きらきら光る糸で刺繍が縫い付けられていた。点々とほつれや何かの染みがあったり、色褪せたりしている。 台座の部分が高く、もうちょっと伸ばしたらプールで監視員もできると思う。ただでさえ展示のための台にも乗っているので、座面や背もたれは目線よりも上にあった。
これは流石に、王さまの使ったものだろうなと思った。一族の名前は何と言ったか、ネットで検索した時に見たような気がする。でも、積極的に思い出すことはしないでおいた。
私は林のような展示品の列から抜け出して、玉座の方へするりと歩んだ。背もたれ側だったので、半周回って正面へ移動する。そうして���っているかつての王さまの姿を思い浮かべてみようと、顔を上げた。すると、誰かが座っていた。誰かというか、少年が。 少年と目が合った。 「あ」 彼はばつの悪そうな顔をした。私の卓越した想像力が遂にリアルな像を結んだのかと疑ったが、そうではなさそうだ。彼はひょいと玉座から飛び降りると、私の方を向いて「これは、見なかったことに」と言った。
「いや、ちょっと待って」 そのまま去ろうとした彼を引き止めて、私は半袖の裾をつまんだ。つまんだつもりで引き止めきれずに指から抜けていったのはご愛敬だ。親指と人差し指で人一人の動きを静止できると思うなよ。それでも彼は律儀に立ち止まってくれた。訝しげにこちらを伺うような目つきを投げかけている。訝しむのはこっちだっつの。 「何してたの」 喉が思ったより緊張していて、まるで詰問するような話し方になってしまった。少し失敗したと思うが、仕方がない。「座っても、いいやつだったっけ」
彼は少し様子を見るように黙っていたが、すぐに口を開いた。 「いや、そんなことはないと思いますよ。展示品には触れないように書いてあるし」 少し低めの、しかしよく通る声だった。彼は学生服を着ていた。それも、街の端の方にある私立高校のものだ。肩の青い意匠が独特で見間違えようがなかった。お堅い感じの校風で、偏差値も高いので名前はよく聞く。
「学校帰り、です、か? どうして座っていたの」 初対面なのだし、敬語の方が良いのだろうか。先程の意図せず尖ってしまった口調もリカバーしたい。普段脊髄で生きている私は脳を使ったので舌を噛んだ。 「あれは俺の椅子ですから。でも、確かに今は博物館が所有しているものだから、こっそりとやっていました」 見つかったけど。と、彼は肩を竦めた。 「きみの椅子?」 「そう、俺の」 軽く頷いて、彼は悪戯っぽく笑った。「俺は王族ですから」
○
私は変わった話が大好きだ。不思議な体験談、とんでもない大法螺、うますぎる話、それから時には怪談。初めて自分の部屋にインターネットを引いた時、日がな一日机の前で掲示板やブログを読み漁った。止めておけばいいのに、洒落にならないほど怖い話を読んでしまって夜に布団で震えたこともあった。
図書館へ通って歴史上の逸話を探したりもした。美大に住み始めてからは、ふあふあ敷地内を彷徨っているだけで妙な話題には事欠かなかった。おかしなことをしでかしていない人間はいなかったからだ。夜な夜な座禅を組んで股間に花火を指して燃やしている先輩の話、数年間撮影し続けているとされる中央階段の定点カメラの話。誠に変わっていれば変わっているほどめでたいもので、私とてあやかろうとアルビノのヘビの皮を集めて寮の廊下に干したところ、隣の住人に燃やされてしまった。展開として面白すぎたので、百点満点の出来事だった。
今日、私は新たな変わった話を見つけた。平日の博物館で玉座に座る高校生。しかも自称王族。これを逃したらダメな気がする。私の魂が「面白そうな話には飛びつけ」と踊り狂っていた。しからば飛びつくのである。
「ケーキセット、ふたつで」 逃げようとする彼を必死で引っ掴み、ロビーを挟んで反対側の隅にあるミュージアムカフェへと連れ込んだ。ここは入館料を支払わなくても食事だけで利用をすることができ、展示ブースよりは人で賑わっていた。
「俺はお暇したいんだけどなあ」 「そう言わず、ちょっとだけ。奢るから」 「そういう問題じゃないんだけど」 やがて注文したものが運ばれてきて、紅茶とケーキとが机の上に置かれた。私はチョコレートケーキにして、彼はチーズケーキを選んだ。私は紅茶にだばだばとミルクを注ぎ、オレンジ色の液体が白と混ざっていくのを観察した。
「何をそんなに聞きたいんです」 彼はじっとりとした目で私を見つめ、紅茶には何も入れずに口をつけて啜った。「俺は何も面白い話はしないよ」 「さっきの話をしてほしいの。椅子の。あれはきみのだって。どういうこと?」 私は更に角砂糖を三つ追加して紅茶をぐるぐるとかき混ぜた。
「そのままの意味だってば」 「あれって本当なの」 「さあ、それはどうでしょう」 「あんまりそういうことばっかり言うと、監視員さんにさっきの所業言いつけてやる」 「うわ、最悪だな」 彼は苦い顔をし、もう一度紅茶を啜ってティーカップを置いた。滑らかで美しい所作だった。
「俺はここの王族で、まあ近々祖父から位を継ぐだろうってことになりました。最近はそれで色々と立て込んでいたので、つい出来心が起きて、たまには座り心地ぐらい確かめてもいいだろうと」 「何だそれ。継ぐって何、王位? きみはもしかして、VIP?」 「違います。もう併合の時に王統は廃絶しているので。勝手に身内でやってるだけですよ、今は」
彼はティーポットから紅茶を注ぎ足し、カップのハンドルをつまんで持ち上げ、香りを嗅ぐように目を閉じた。 「話は以上。これで満足ですか?」 「すごい」 私はケーキを精密に二等分し、半分をフォークで刺して一気に食べた。 「それが本当だったら、きみは物凄い有名人ってことになるね。王様の一族ってことは、あれ、名字は何だっけ。調べたら出てくるかな」 「忘れてるならそのままにしてください。調べなくていい、俺も教えな��」 「意地悪」
彼は聞こえないふりをし、涼しい顔で紅茶を啜ってケーキを食べた。 「それから、俺の言うことを信用しないことです。俺は嘘しか言わない」 「いや、いや。でも、きみの顔は見たことある気がしてきたもの。ニュースか何かに出たんじゃない?」 「気のせいではないですか」 「そんなことはないと思う」
記憶とよく照合しようとして、じっとりと顔を睨みつけたところ、彼はそっぽを向いてしまった。窓から入ってくる午後の日差しが彼の瞳を複雑に光らせていた。その時にやっと気が付いたのだが、彼は鮮やかな青色の目をしていた。
○
二人して注文のケーキセットを食べ終えたあと、支払いに関して戦闘が発生した。「連れ込んだのはこちらなのだから」と私は全額持とうとした。それに対し、彼は「よく分からない人から受け取るケーキはありません」と財布を展開した。
「私はこんなんでも二十二です。高校生に払わせるやつがあるか」と抵抗すると、彼も「ならこちらこそ、庶民から施される謂れはない」と呼応した。しょうむない応酬の末、「献上って言葉があるじゃない」と叫ぶ私の脇を巧みにすり抜けた彼がレジに伝票を叩きつけて「別々で」と宣言してしまったので、私は敗北した。
カフェを後にし、私たちは博物館の廊下に出た。相変わらず人影はまばらだ。 「ここにはよく来るの?」 私が尋ねると、彼はつやつやの黒髪を揺らして振り返った。少し考えるような間の後、「いいえ」と返事があった。 「たまたま?」 「そうです、本当にたまたま。来ないと言えば嘘ですが、年に一度来るか来ないか……」 「ふうん、残念。ここに来たらまた会えるかと思ったのに」 「ぞっとしませんねえ。俺は見せ物じゃないよ」 「ねえ、連絡先とか交換しない?」 「お断りします」 「けち!」
私はせっせと悪態をつき、彼は素知らぬふうで歩き続けた。廊下を渡ってロビーへと戻る途中、ここは自分の曽祖父が在位していた時に建てられた日本の総督府を使っているだの、この階段で併合の視察に訪れた首相が転んだだの、そんな話をした。 「また信じるなとか意地の悪いことを言うのでしょう」 「よく分かりましたね。俺を信じてはいけないですよ」 彼はそのままロビーを出て、博物館を後にしようとした。さすがにいつまでも引き留めることは無理なので、せめてメールだけでもとしつこく頼み込んだ。 「やめておきます」
彼は石の階段を下り、足早に歩き始めた。私も慌てて着いていく。広い歩道の街路樹で、まだあの気の早いセミが鳴いていた。 「本当に、どうしても、だめでしょーか」 私は後ろから肩越しに話しかけた。惜しくはあったけれど、もう一度断られたら、いい加減退散するつもりだった。すると彼は立ち止まって、すっと息を吸った。
「一つだけ本当のことを教えてあげましょう」 そうして不敵に笑むと、「俺は陸上部」と一言残して弾けたように走り出した。反射的に足が動きかけたが、私は反スポーツ精神にかけては一家言あるので、すぐに思い留まった。かつて我が美大の一角にあるテニスコートを数十人で占拠、桃の苗木を植えて義兄弟の契りを結んだこともある。私に運動は向かないと、私はよく知っている。
それに実際彼は素早く、もう人か車の陰に隠れて見えなくなっていた。 彼に関する手掛かりは何ら残らなかった。王さまの家を一族郎党検索し尽くしたら何か分かるかもしれない。真偽も含めて。高校に探しに行けばまた出くわすかもしれない。彼や、彼の友人に。
しかし、分からないならそれで良いと思った。たぶん私が、本人のいないところでこれ以上情報を探し回ることは無いだろう。未知のものは未知のまま愛でるのが正しいやり方だ。今日はなんだか不思議な出来事があった。 それ��百点満点だ。
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第32回 『千葉市動物園』
千葉モノレールは世界一
動物公園にはモノレールで行きました。モノレールは千葉駅からとても便利で、動物公園のほかにも千葉港周辺の娯楽施設や、特別史跡・加曾利貝塚など周辺の名跡につながり利用できます。そして懸垂型モノレールとして営業距離が世界最長なのだそうです。
静かに到着したモノレールの室内に入れば、休日といえどもゆったり座れて、林立するビルや緑の公園やスポーツセンターなどが建ち並ぶ市内を俯瞰して、気分は上々です。
さて動物公園の駅に着くと、太い柱には愉し気な動物のマンガが描かれ、動物公園へと誘います。入場ゲートが陸橋でつながっていて、子どもたちをいらっしゃいと招いています。
入口には、子供向けイラスト看板で本日のイベントスケジュールが掲示されていました。門をくぐって右に行けば野鳥が観察できる大池へつながる道になります。緑豊かな大池の周辺は、夏でも涼しい風が木陰に心地よく、ベンチに座ってしばらく飛んでくる大小のトリたちを観察してみるのも一興です。
ところでこの動物公園の開園は1985年4月で、現在(2017年)哺乳類59種、鳥類61種など計130種、1400点ほどいます。広さは約34ヘクタール、上野動物園の約2.4倍もあり、大きい樹木がたくさん枝葉を広げていて、小雨なら木の下で雨宿りできそうです。
悲し気な顔をしたモンキーさん
左手のだらだら坂を100mほど上って、まずモンキーゾーンに行きましょう。
はじめにサル山が見えてきます。ニホンザルがたくさん遊んでいます。柵の下は深い谷になっていて、サル山の外には出られません。どこの動物園にもありますが、少しずつ異なった形をしていて、サルたちが生き生きと活動している姿を見せてくれます。
山の隅っこでは、2匹のサルが対面して深刻そうに話でもしているようすに見えて、まさに類人猿の名のとおり親しいものを感じさせます。
サル山の向かいに小さな池があり手摺りが設えてあり、真っ黒なフクロテナガザルが遊んでいました。脚よりも手のほうが倍ほど長くて力強いのは、樹から樹へと移動するため必需なのでしょう。発達してみごとな腕で、用不用説がリアリティをもって思いだされます。
やがてもう1匹がどこかから出てきて、仲よくしばらく戯れていました。じっとそんな様を見ていると心が和んできます。
樹木が生い茂る道のなかを行くと、モンキー舎が連なっています。
サルの仲間、ラングール・アビシニアコロブス・エリマキキツネザル・ジェフロイクモザル・パタスザル・マンドリル・クロザル・フサオマキザル・ブラッザグェノンなどのオリが並んでいました。樹上性のサルと地上性サルとそれぞれの生活習慣に合わせて、高さや広さを変えて展示施設が造られています。
そこを抜けると、大きなオリの高いところでこちらを向いて悲しげな顔を見せているオランウータンがいました。しばらくたたずんで見ていましたが、
「そうか、つがいでないから、つまらなくて、哀し気な顔になるんだな」
ヒトもサルも生きものたちはみな群れで生きていなければ、活き活きとした表情にはなれないのだと彼の顔を見上げて、わかった気になりました。
その対面のオリにはゴリラが、暑さを避けるように遠い岩陰に隠れていました。離れて仲よく並んでいるのは夫婦なのでしょうか。少し離れているからオス同士なのでしょうか。
身近に触れあえる動物園も
動物公園のなかに区切られて子ども動物園があります。ヤギさんやヒツジさん、カメさんやロバ・ウシ・カピバラさんやペンギンさんがいて、ごく近くで触れ合えます。お父さんが子どもたちと手をつないで柵のなかに入ってきました。動物たちも慣れているようで、そばに近寄っても半ば無視しているようです。
ペンギンコーナーではちょうど餌やりの時間で、係りのお姉さんがペンギンの種類や習性など説明しながら、生きのいい魚のエサを与えていました。
円い池の周りの手摺りにつかまって子どもたちが集まっています。初めて本物のペンギンを目にしたうえ、係りのお姉さんとフンボルトペンギンが親しげなようすを、興味ぶかげにじっと聴いたリ、熱心にしばらく眺めたりしていました。
また別のオリをのぞいてみると、カラスが柵に留まっています。子ウマが興味深げにそばに近寄って見つめていました。馴れているのかカラスは驚きもせず、まだ子ウマも幼いからか、なんでも珍しいのでしょう。弱肉強食の世界に生きる動物たちの交歓するようすはほのぼのとして、なかなか見る機会はありません。
この向かいには「ふれあい動物の里」があって、有料ですが、小さい子馬ポニーなどに乗馬することもできるそうです。
レッドパンダ「風太くん」で有名になった動物園
子どもたちと別れてすぐのところに、人気者のレッドパンダがいます。千葉市動物公園といえば、すぐ思い浮かべるのがレッドパンダ「風太くん」でしょう。2005年に後ろ足2本でしばらく垂直に立って、日本全国の人気者になったからです。
はじめはその姿を地方紙に載せたところ、反響が大きく全国紙から問い合わせが殺到して超有名パンダくんになったのです。すると、よこはまズーラシアのレッドパンダ「デール」くんや佐世保市の今の九十九島森きららにいた「海」くんが立って数歩歩くと噂が立って、有名になったと小耳にはさみました。
レッドパンダの寿命はほぼ10年程度だから、今日のレッドパンダは風太くんの子どもか孫か、とてもかわいいパンダでした。草原に下りたりハウスに上ったり、たえまなく行ったり来たり一時もじっとしていなくて、写真に撮るのがたいへんでした。
ところでジャイアントパンダが有名になるまえは、レッサーパンダが「パンダ」と呼ばれていたのに、区別するため大きいパンダを「ジャイアントパンダ」あるいは単に「パンダ」と呼び、小さい(レッサー)パンダと呼ばれるようになったそうです。
ただし、英語のレッサーには劣ったという意があり、蔑称の臭いがあるのでレッドパンダ(赤パンダ)と呼ぶような傾向にあります。かわいい顔をしていろいろ楽しませてくれるのだから、レッドパンダと呼びましょうね!
さて次は家畜の原種ゾーンに足を延ばしました。トナカイもいました。そのとなりに珍しい動物でアメリカバイソンというウシの仲間がいました。いかつい格好をしていますが、親子仲よしです。アメリカからカナダにかけて広く生息していました。
このオスの名はターバン、メスはヒートと命名されて、とても仲好しだそうです。この4月に子ども(メス、ラテと命名)が生まれました。飼育員の報告によれば、 生後10日で母乳のほかに母親をまねて青草を食べていたそうです。2~3年で成獣になります。
バイソンのオスはだいたい350cm、肩高180cm、体重900kgにもなり、メスは一回り小さいですが体重約500kgにも成長します。
ヒトが食肉や服や靴・テントなどに毛皮を利用したり、娯楽狩猟したりして、白人移入前の北米大陸には6000万頭いたのが、1890年ころには1000頭に激減したそうです。そこで保護の動きがおこり、1970年ころには約30000頭まで回復しました。
2頭のライオン「トウヤ」くんと「アレン」くん
若いライオンが多摩動物公園と群馬サファリパークから来園しました。来園してまだ日が浅いが、新しいライオン舎を作ってもらってご機嫌のようです。
2010年多摩動物公園生まれで「トウヤ」と名付けられました。広い戸外に出て暑い夏も苦にしないようですが、だいたいじっとして寝そべって一日を過ごしています。体のよごれは水浴びするのではなく、砂浴びで清潔を保つのです。
アレンくんは2013年5月生まれで、人の手で育てられているせいか人なつこく物怖じしない性格だそうです。ガラス展示場の室内にいて、階段のうえでゆったり目をつぶっていつも寝そべっています。1日18時間は寝ているそうで、タテガミがふさふさしていてハンサムボーイです。百獣の王と呼ぶ貫録もそろそろついてきました。
ところで、ライオンの食事は日に1度、馬肉3.5kgと鳥頭2.5kgも食べ、週に2日は絶食して健康管理するそうです。飼育員さんは糞尿を清掃するのも仕事ですが、それを調べて健康状態をチェックするのが大事なことだそうです。
そしてライオンが起きて動く姿を見るには、朝の開園すぐか、閉園まぎわの寝床に帰るころがチャンスだそうです。走る姿も見たいけどね。
お尻のほう半分が白い毛がはえたブタかカバの子のような動物が、小さな池で泳いでいるのが見えます。歩いているのか遊んでいるのか定かではないが、珍獣です。
そう、バクです。マレーバクです。バクにも、アメリカバク、ベアードバク、ヤマバク、マレーバクといろいろあります。
お尻が白いのはマレーバクです。マレーシア・スマトラやタイなどに野生していて、今や1000頭まで減ってしまっているそうです。夜行性の動物で、尻の部分が白いのは捕食者(トラ・ヒョウなど)から身を守るためといわれていますが、詳しくは判っていません。
日本では室町時代から悪夢を食う珍獣「獏」として馴染まれてきましたが、バクと「獏」とが同じものかどうか判然としていません。
母子でしばらく一緒に生活していますが、基本的には単独で行動し、草食性で子供を1匹ずつしか生まず、寿命は30年ほどですからなかなか増えません。あまり鳴きもしないが、ユーモラスな姿をしていてかわいらしいです。
広場の向こうの長い水槽のなかには
緑の小高い山を左手に見ながら水系ゾーンの地下通路に足を運ぶと、アシカが泳いでいます。ガラス張りを通してみると、手前に来ればその大きさが実感でき、泳ぐスピードが目にもとまらないほど速いです。ぱっと来てすうっと向こうの方へ消えていってしまいます。時速30kmの速さです。
アシカを眺めながら通路を歩いていくと、もっと小さい同じような形のものが泳いでいます。よく見るとペンギンでした。このペンギンは南アフリカに生息するケープペンギンです。みごとに楽しそうに仲間と群れあったり、ひとりで自由に泳いでいたりします。速いように見えますが、スピードは時速10~20kmでアシカより多少遅いようです。
地下通路を抜けだして階段をのぼり上から、よちよち歩いているペンギンを眺めるのも、なかなかおもしろいものです。同じペンギンが水中をスマートに泳ぐ姿と、石の上をたいへんそうに歩く姿のギャップが、ユーモラスに感じられるからでしょう。
柵のなかに大きなトリがいます。見ているあいだしばらくまったく動きません。じつに奇妙なほど大きなくちばしをしています。ハシビロコウという中央アフリカのコウノトリの仲間です。この大きな木靴のようなくちばしをカタカタ鳴らして求愛行動をします。
じっと水の中に立って、魚やカエルや爬虫類が上がってくる瞬間を狙って、この大きなくちばしで捉えて食べるそうです。まさに珍鳥で、こっちを向くかなとしばらく眺めていましたが、ぜんぜん向いてくれません。しびれを切らして、小高い青い山に向かいました。
緑の小山の向うにのびのび遊ぶトリやウシや
緑の小高い山が目に清々しく、トリやツノを生やした白い生きものが遊んでいます。この山には一緒にダチョウがいて、お互い素知らぬ顔でぶらぶらしています。
ツノを生やしたものは、シロオリックスと掲示板にあります。ゆったりと歩いてウシ科の動物です、オスもメスも双方ツノを生やしているそうです。数頭が仲よく群れていました。アフリカ原産で、乾燥地帯に住んでいて2~3か月も水を飲まなくても耐えられるそうですが、悲しいことに野生種はすでに絶滅してしまったそうです。動物園で見るしかない貴重な生きものです。
小山のうえに2羽ゆったりたたずんでいるトリが見えます。少し遠くてよく見えないから、望遠でよく見ると、頭に冠のようなものをつけています。ホオジロカンムリヅルというアフリカ東南部から来た、ウガンダの国鳥でした。
この白い頬が、恋をするとき赤く染まるそうです。どんな風な色ぐあいに染まるか、ぜひ見てみたいですね!
というわけで、ぐるっと動物公園を回ってみました。取り上げなかった珍しい動物もたくさんいます。今日はここまでで、また来るからね!
(磯辺 太郎)
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涼風に鳴る幽かの怪―壱
リン―― 鈴の音が聞こえる。何処からだろう……。鈴なんて、この部屋には無かった筈なのに。見慣れぬ嫁入り道具に、着古した袴が何処か懐かしさを感じさせた。 「――ま、ちゃん……」 ……何て? 「た――ちゃん……」 どこかで。 「たま、ちゃん……」 「――え?」 私を、呼んだのは、誰。 薄らと開いた視界の向こうには見慣れぬ明るい朝の景色が広がっている。滲み一つない天井に、ふかふかとした布団が自分の身体を護る母体の様に感じて違和が胸を過ぎる。 いや、違う。これは何時もと変わりない『朝』の筈なのだ。 使い古した枕に頭を埋め、畳みの目を眺め数える。嗅ぎ慣れた香りが心を落ち着かせる。妙に懐かしさを感じる夢が、頭の中を渦巻いていた。 ……何の夢だったのだろうか。あれは、何処かで体験した事のあるような――何処かで聞いた事がある声だったのだろうか。 たまちゃんと、そう呼んでいた名前には覚えがある。 覚えが――ある……? 小さな欠伸を漏らしながら小鳥の囀りを茫と聞き続ける。 水を掛けられたかのような感覚ですくりと起きあがった『たま子』は「懐かしいわ」とぽつりと呟いた。 長い髪を結わえながら、布団の上から立ち上がった彼女は纏わり付いた寝間着をさっと脱ぐ。何時までもこの格好では義母が頭ごなしに叱る事を彼女はよく理解していたからだ。 「もう朝ですね、起きてらっしゃる?」 はぁい、と間延びする声を返して彼女は朝餉の用意の為に板張りの廊下を走る。義母の事など、どうでも良いがたま子にとっては腹を空かせた愛おしい旦那様の方が一大事なのだから。 年若くして良縁に恵まれ嫁いだ彼女は頬をぺちんと叩く。やる気を漲らせる様に淑女にはあるまじき「よしっ」と発した声は若草香る女学校の頃に教師達に叱られた仕草だが、嫁いだ後も抜ける事が無い。 「たま子さん!」 叱るような声に慌てて走る『たま子』は小さな息を付いた。 毎日は代わり映えしない。 数年前にはお上の神人なる方が死去し、『明治』から『大正』に改められた年号が何処かくすぐったい。年号が変わると言うのは重大な動乱だ。その波に乗じてか世間では様々な革命や騒動が起こっている。それでも安寧なる生活が送れるのは女学校で習った内閣制度や政治制度を制定した英雄達��お陰であろうか。もしも、英雄たちがいなければたま子だって今の旦那様とは出会えていなかった――かもしれないのだから。 浪漫を語るのは女学生ならばお手のもの。それこそ殿方に見初められる経験をしたならば、それに拍車がかかるのも仕方がないというものだ。 「ふふん」 鼻を鳴らし誰へとでもなく勝ち誇ったたま子は朝餉の用意を中途半端に済ませた義母へ何と声を掛けようかと考えながらゆっくりと廊下を進む。 ちりん―― 『また』だ、と。感じたのは夢の中でも聞いた音だったから。 懐かしい夢だ。旦那様に見初められ、女学校を去る際に、親友に手渡した風鈴。そして、その会話。 嫁入り後に幾度か交わした手紙も何時しか途絶えてしまった。人の記憶が箪笥に例えられるならその奥深くに仕舞いこんでいた思い出とでも言えば随分とを感じられる。 「八重ちゃん……」 鈴の音は、その名前は、懐かしい音色を孕んでいる。 訝しげな表情を浮かべながら洗い場へと降りて行くたま子の背に彼女の『旦那様』は「いかがなすった」と可笑しそうに笑ってみせた。 珍しく朝寝坊をした嫁が訝しげな表情をしているのだから、気にも止めるというものだ。からからと笑う旦那君にたま子はむっと唇を尖らせて「あのねえ」と振り仰いだ。 「鈴の音が聞こえるのですわ」 「鈴? 風鈴などないけれどね」 首を傾げる彼へとたま子は小さく頷く。 また可笑しな事を言って気を引いたと笑う旦那君にたま子は拗ねた様な顔をして背を向ける。 たま子は勝気で明るい娘だ。成金の娘や財閥の令嬢と違い、脊髄反射で動き考える少女だったのだから、旦那君が可笑しなことを言うのは気を引く為だと笑うのだって致し方が無い。 「酷い御方ですこと」 「母さんが居るからと、そう肩肘を張らないでおくれよ、たま。そんな気難しい顔をして、鈴の音が聞こえただなんて……夢の続きを見ている様な顔をしているよ」 肩を竦め、御名答ですことと小さく返す彼女に旦那君はからからと更に笑った。年の数は幾分か離れている。だからこそ、幼さを感じさせるたま子の仕草を旦那君は気に入っていたし、旦那君は童話を��る嫁が己との対話の為に作り話をしていると考えたのだろう。 「夢で見たのです。嘘ではないですよ」 「嘘でないと」 はて、と首を傾げる彼へと記憶をなぞる様にたま子は語る。 嫁入り前に親友とした会話がありありと思い出される。 あの時、彼女に手渡したのは――鈴だったのではないだろうか。己の後ろに何時も隠れていた可愛い小さな『八重ちゃん』。病がちで女学校を休んでいた彼女の健康を祈って手渡した風鈴の音に似ている気がする。そう言えば、彼女は―― 「……悪い夢ですこと」 ふるりと首を振ったたま子に青年は「そうかね」と椅子へどかりと腰掛けて興味深そうに呟いた。 たま子の思い出は何処までも美しいものだった。 『たまちゃん』 結った髪が風に揺れている。秘密の場所と咳込む彼女の手を引いて、二人きりの場所へと走って行った。 『ねえ、たまちゃん』 記憶を辿って、たま子は静かに眸を伏せる。 風鈴。そんな季節になったのだろうか――夏の気配を存分に孕んだ空を見上げてたま子は小さな溜め息を付く。 風鈴……。軒先に風鈴を飾る家は少なくない。この家には飾って居ないはずなのに、どうしてこうも近く聞こえるのだろうか……――。 ちりん―― (風鈴ね、きっと――……) ふる、と首を振る。違和感が首を擡げたまま存在している事に『脊髄反射』で動く彼女はどうしても抑えられぬ衝動を我慢する様にうずうずと身体を動かした。 あの時、彼女と話した内容はよくよく覚えている。 白い肌に、良く映える臙脂色の召し物は結婚式には伺えないからとわざわざ誂えたものを着てきたのだと言っていた。 秘密の場所で、向かい合って二人きり。臙脂色に包まれた彼女は何処までも高尚な存在に見えて――眩しかった。 『結婚するのよ』 ゆっくりと、その言葉を彼女へと告げた。 知っていますと頷く友人は切なげに笑って手にした花束を差し出してきた。両の掌に抱えきれない大輪は百合の花――令嬢が選んだ一番に愛おしい華なのだという。 『たまちゃん……』 呼び声に、小さな咳と瞬きが今も鼓膜や網膜に張り付いている。頬に張り付いた髪に、涙の意味が分からなくてたま子は小さく首を振った。一緒に居られないと手を伸ばし、抱きしめた華奢な身体は微かに震えていた事を覚えている。 『たまちゃん、幸せになってね』 『ええ。わたし、幸せになる為に結婚するのよ』 きっと、彼女は幸せになれない―― 心のどこかで知っていたのかもしれない。老い先短い彼女と共に在る己に優越感を感じていたのかもしれないし、その短い生で誰かを思いやる彼女の高尚さにお得意の浪漫を感じていたのかもしれない。 『わたし――……たまちゃんみたいになりたかった』 八重ちゃん、と唇の端から漏れだした声に旦那様は首を傾げる。そうだ、八重子ちゃん。彼女は今、どうしているだろうか。 ゆっくりと炊事場から歩きだし、玄関先へと歩を向ける。 電報を実家に飛ばせば彼女の事は解るだろうか。 八重ちゃん。八重ちゃん――かわいい、私の親友。 ちりん―――― 「そうだわ、風鈴……わたし、お渡ししたの」 「たま子?」 背に走った寒気にたま子は大げさな程に身震いを一つ。気付いてはいけない事に気付いたと顔を覆った。血の気が引いて行く感覚に、ふらつく足が縺れて畳みへとへたり込む。 「大丈夫かい?」 「風鈴、風鈴だわ! きっと、そうよ。そう違いないわ」 玄関先へ向かう足は震えて立てやしない。彼女の言葉に首を傾げた旦那君は「幽霊でも出たのかい」と冗句のように投げかけた。丑三つ時ですらない、ましてや早朝のこんな時間に幽霊などと余りに可笑しな話ではないか。 「冗談はお止しになって」と小さく笑ったたま子の胸に感じた妙な違和は『八重ちゃん』のその後を嫌な程に連想させた。旦那様は冗句の心算で発したのかもしれない。 死を想起させた病に罹った親友が生きているという証左もない――『風鈴』『幽霊』 もしかして……。 「ふふ、幽霊かしら? 風鈴のお化けなんて風流ね。貴方が怖がらせるからつい足が縺れてしまったわ」 「ああ、きみはそんなに怖がりだったかな? 虫だって平気で殺せてしまうだろうに」 小さく笑った旦那様にほっと胸を撫で降ろしてたま子は午後の予定を考えた。確かめよう。彼女の事を。 ちりん、と聞こえたその音色の意味を。彼女は、今―― 蝉の鳴き声が煩わしい。暦を数えて春を終えて、夏へと変化する頃に、怪談話はいくつも増えてくる。居間からは幽霊の話を交わす男女の楽し気な声が聞こえてきた。 買い出しに言ってくると告げた言葉に返事はなかったが、彼女は気にするそぶりもなく玄関へと足を向ける。 残暑だというのに求愛を口にする蝉たちのせいで耳から暑さが倍増されていく。開け放った玄関の向こう側は青々と茂った葉が妙に鬱蒼として見えた。 「お化けなんて家に居て堪るものですか」 拗ねた様に呟く彼女は玄関先の下駄に目もくれず洋物のブーツへと足を通す。履き潰すと決めていたのに、まだ使えるのだから英国からの流通品は中々に勝手が良い。慣れない紐を縛って、小さく頷く彼女は結わえた髪を確かめてから「よしっ」と気合を込めた。 「直らないものね」 先生から言われても、と付け加えたのは口癖の様になった『よし』の気合の入れ方。 幽霊が居るから陰陽師を呼びましょうと絵巻物で読んだ嘘に頼るのも、性質の悪い除霊師に頼むのも莫迦らしい。 そもそも、彼らに依頼するのは大金を叩いて自己満足を満たすだけではないだろうか。解っているのだ。記憶の中にあるその姿が、『幽霊』の正体だと――その正体を知っていて、知らない振りをしているのだから。 だから、彼女は『風鈴の幽霊』とそれを呼んだ。 ちりん―― 聞こえるその音に「いやね」ともごもごと口の中で呟いた彼女の視線はぴたりと柱へと向けられる。空き家になった軒に張り付けられた古びた紙切れは幼い子供の悪戯にも見えた。 「西洋インクだわ……」 何処かの商家の坊ちゃんの落書きであろうか。 滲んだ文字が読み取り辛いが、愛らしさも感じる文字の一つ一つを読み取ることが出来る気がする。じつと目を凝らした彼女はその文字を口にしながらゆっくりと読み上げた。 『ゴイライ オウケシマス ネコサガシ カラ ユウレイタイジ マデ』 なんともまあ、胡散臭い広告だ。 訝しげな表情で広告から目を離さない彼女の背後で女学生たちがくすくすとささめきあって笑っている。 「探偵様の広告はまだ張ってありますのね」 「本当。御依頼あるのかしらん」 巷では話題になるのだろうか。暇潰しや話題に作りには丁度良いのかもしれない――こんな西洋の高価なモノを使用した悪戯などそうそうお目に書かれない。 しかし『探偵様』。高価な紙にこの様に書いて帝都に張り巡らせるだけの財力があるならば、相当に頼りがいがあるのではないだろうか。もしくは、成金の道楽か。 女学生の噂の的となる位に胡散臭いのならば昼下がりの暇潰し程度でも良い。『お暇な探偵様』ならば困り顔で少女が尋ねれば相談位には乗ってくれるだろう。もしも凄腕であれど、仕事に困っていれば格安で引き受けてくれる可能性だってある……。 何より、探偵が幽霊退治をすると明言しているのだ。 霊能力者でもないくせに、ともごもごと呟きながら彼女は広告を剥ぎ取り描かれた住所と地図を辿り往く。 和洋の入り交じった街の中は、見慣れぬ物も沢山あった。 日本も随分と侵食されたものだと父達は口々に言っていたなと薄く記憶に残っている。馬車が走り、汽車が往く。三越にぞろりと集まる人波に目もくれず――否、誰の目にも止まらず、彼女は人気のない西洋の住宅の並ぶ丁番を目指した。 急ぎ足なブーツの踵を行き交う人の群れに取られてごろん、と大きく転ぶ。鼻先を擦り、肘に出来た傷口に痛いと不平を述べる彼女へと差し伸ばされる手は無い。知らん顔で歩く紳士に「酷い方」と彼女は悪態をつきながら立ち上がる彼女に帝都の風は冷たい。 よく、帝都は様変わりしたと言う人が居る。西洋の人間は和の心を持たず、素知らぬ女が転んだ所で助けることもないのだろう。これが、『帝都が様変わりした』『冷たい』とでも言うことなのだろうか。 文句を漏らしながらもゆっくりと立ち上がり、身震いを一つしながら足を向けたのは煉瓦に覆われた西洋街。帝都の街並みなんかより、もっと豪奢なその群れは、異国の情景の様だと彼女は息を飲んだ。 「……違う国の様だわ」 余りに見慣れぬ『帝都』 田舎町とは違い、明治期に完成した日本鉄道の巨大な駅。皇居の正面に出来上がった東京駅はとても美しい建築美だ。西洋の煉瓦作りの住居と比べ、祖国はまだまだ土と木で出来た『おんぼろ』ばかり。戯洋風建築だとか女学校では言っていた気がする――が、そんなこと忘れてしまった。 「凄い、おうちだわ……」 詳しい事までは知らないし、学問など軒並み役に立たないが、これはまるで西洋の強国へと紛れこんでしまったみたいではなかろうか。一度、紳士が講師としてやって来た時に、「英国の建築は実に素晴らしい」と褒め称えていた気がする。 素晴らしいの言葉に尽きるが、純和風の国で育った彼女にとって、この場所は居心地が悪い。 煉瓦の『西洋街』をそろりそろりと抜ける彼女は広告の地図を幾度も見直した。帝都の外れの空き家の軒先へと広告を張り付ける『なんとも奇天烈愉快な胡散臭い探偵』のイメージと掛け離れた豪華絢爛な街並みは庶民にとっては政府のお役人たちでなければそうそう足を踏み入れない場所でしかない。 「こういうの、横濱や長崎にあると聞いた事があるわ……」 ぶつぶつと呟きながら、彼女はゆっくりと地図から手を離す。そうだ、きっとこの洋館の群れを抜けた先に郊外の寂れたお屋敷がある筈だ。そうして、そこで探偵がボロを纏って待って――待っては、いない。 「……嗚呼」 思わず一歩、後ずさった。 これでは『道楽探偵』だろう。格段の安さで受けて貰うなんて夢のまた夢。成金か財閥の坊ちゃまや嬢が道楽の為に、適当に張った広告だったのだろう。 『脊髄反射で動くのはやめなさい』とはよく言ったものだ。 まさしくその通り――ここで幽霊退治など……。 「……貴殿、何を突っ立っている」 「は、はひっ」 眩暈を起こし、ぐらぐらと揺れた彼女の肩を『がしり』と掴んだ大きな掌は、少女を混乱させるに容易かった。 まるでの様に首を動かして振りむいた彼女を見下ろした青年は「何をしていると聞いた」と無愛想な表情で苛立ちと露わにしている。 齢にして三十が近いだろうか。ぴしりと襟を締めた陸軍の軍服は見慣れぬもので。日ノ本で神人へと誓いを立てた軍人様の問い掛けに少女は首をふるふると幾度も振った。 怯え、答える事の出来ぬ様子の少女にどうしたものかと青年将校は頬を掻く。短くしっかりとっと尾の得られた黒髪から彼の誠実さを伺えるが――そう言ってはいられない。西洋街に出入りすると言う事は、ここは何処かの『要人』の家なのだろう。そして、彼はそれを護る守衛とでも言った所か。 「……あ、あの��…」 ぽつり、と零した言葉に耳を傾ける様に青年は「ふん」と小さく呟く。 「わ、私……広告を、見て、えっと」 「広告? ああ……狐塚の奴、広告を張ったのか」 『狐塚』 聞き慣れない言葉に首を傾げた少女へと青年将校はどうしたものとかと首を捻る。先程まで感じさせていた威圧感は何処か遠くへ飛んで行ってしまったかのように――幼い子供が悪戯を失敗したかのような表情を見せている。 「あ、あの」 ぽそりと呟く様に声をかけた彼女へと青年将校は鋭い眼光で射ぬく様に視線を動かして「なんだ」と口の中で言った。 正しく言えば『もごもご』と呟いた――のだろう。 軍人にしては可笑しな素振りだと茫と考える。そもそも、彼女は女学生の様な幼い風貌をしているのだ。そんな彼女に遠慮の一つをして見せる等、軍人としてあるまじき態度ではなかろうか。 (軍人さんというのは、案外お優しいものね……) 彼の顔をまじまじと見つめれば、鋭い眼光は煩わしいと言わんばかりにぎょろぎょろと動いている。 「なんだ、と聞いた」 「ん、ええと、い、依頼が――あの、依頼がしたくって……」 依頼、と。 その響きを幾度も繰り返す青年将校に少女は怯えきった表情で「だ、だめですか」と小さく呟く。 胸中では広告を出しておいてと憤って居ても、相手は武具を持った軍人だ。余りに勝手なことは出来ない。 「名前は」 「え、た、たま」 「では、たま。どんな依頼に来たんだ」 青年将校の態度は一貫して冷たい物だ。『たま』は要人護衛の任に就いた彼が曲者であるかを判断すべく質問しているのだと勝手な認識をしていた。 そう認識してしまう程の豪邸なのだ。財閥や成金、華族の住居だと言われても納得してしまうし、それこそ政府の要人の別宅だと言われても頷ける。 ああ、来なければ良かったと彼女の胸の中を駆け巡る後悔の念など知らずに青年将校は依頼の内容を教えろと苛立った様子でたまを見下ろしているではないか。 「う、あの、幽霊が……幽霊退治をしてくださると聞いて、お、お願いに来たの、です」 風鈴の幽霊――到底信じては貰えない事だろう。 幽霊を退治すると広告に書いてあるから来たと付け加えて視線をあちらこちらへと揺れ動かしたたまは青年将校の困り顔に肩を竦める。 「幽霊退治……ね。ああ、喜びそうな話だが――止めておいた方がいい。ここの主は、」 関わらない方がいい、と。 青年将校が告げた声に子供の明るい声音が被さった。 「お客さんなのかい?」 先程まで閉じられていた屋敷の扉が僅かに開いている。声の主は部屋の奥へと引っ込んでしまったのだろうか。その姿や影は無い。 頭を抱えた青年将校は「たま」と立ち竦んだ少女を手招いて扉へと手を掛けた。彼の困り顔は本当に情けなさを感じさせるものだ。まるで子供に手を焼いている様な――そんな、青年将校らしからぬ表情をして。 「どうやら狐塚はお前に興味を持った様だ。……どうなっても知らんがな」 狐塚と言うのは先程の声の主のことなのだろうか。 声からして年の頃はまだ若い。それこそ学生だと言われても納得してしまいそうな、柔らかな童の声。大層な悪戯っ子なのか、それとも手もつけられない財閥の坊ちゃまなのか――どちらにせよ、たまにとって『不運』であることには違いないと青年将校は念を押す様に付け加える。 「あ、え、」 「入れ。元より、招かれなくとも入るつもりだったろう」 「あ――……はい。あの、お、お名前は」 「ああ、俺は八月朔日 正治。 それでこの屋敷の主人は狐塚――狐塚 緋桐。 これは経験則から物を言うのだが、最初に忠告しておく。 あいつに関わると碌な事が無いからな。……まあ、もう遅いんだろうが」
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【インタビュー】フランスの国立劇場で日本語一人芝居を上演
三島景太(SPAC俳優)・平野暁人(通訳・翻訳)インタビュー 『磐谷和泉の栄光と倦怠』のリモージュ公演を終えて
聞き手・構成:片山 幹生(WLスタッフ)
〔平野暁人氏(��)、三島景太氏(右)。2017年1月21日(土)@静岡芸術劇場カフェ・シンデレラ。写真撮影:片山幹生〕
【フランスの国立劇場での単独公演への道のり】
2016年12月、フランスの中央部にある都市、リモージュの国立演劇センター(ユニオン劇場)でSPAC俳優の三島景太の一人芝居『磐谷和泉の栄光と倦怠』が上演された。異国の地の劇場に単身で乗り込み、公演を行うなんて見上げた心意気ではないか!こうした活動はがぜん応援したくなるのが人情というものだ。しかし果敢な挑戦ではあるけれども、フランスの地方都市の劇場で、無名の日本人俳優が日本語(フランス語字幕)で一人芝居を演じたところでそれがどれほどの注目を集めるだろう、とも正直思っていた。ところがこの公演が大成功を収めたのだから痛快だ。フランスを代表するメディア情報誌『テレラマ』の12/5号に劇評が掲載されたのを皮切りに、私が確認した限り、6媒体がこの公演を劇評で取り上げ、いずれも激賞していたのだ。この作品は2014年春に『ジャン×Keitaの隊長退屈男』のタイトルで、SPAC(静岡県立舞台芸術センター)が主催するふじのくに⇄せかい演劇祭で初演されたものだ。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
初演こそSPACの演劇祭での上演だったが、この作品はSPACの主導で制作されたわけでなく、昨年のリモージュでの公演もSPACは関わっていない。作者・演出家のジャン・ランベール=ヴィルド(リモージュ国立演劇センター芸術監督)が、静岡で目にした三島景太の劇的身体にほれ込み、彼が17歳のときに書いたフランス語の戯曲を三島が演じるために大幅に書き換えた。平野暁人はジャンに見込まれ、翻訳・通訳だけでなく、作品の制作まで全面的に引き受けることになった。この三人の情熱によってこの作品の公演は可能になったのである。2014年の静岡、16年のリモージュでの公演を終え、彼らはこの作品をさらに別の場所で上演することを計画でいる。インタビューでは公演実現までの道のりで、三島と平野がフランス人演劇人とどのような共同作業を行い、一つのチームとしてどのように信頼関係を育んできたのかを聞いた。
【01:偶然のチャンスを逃がさない】
片山:この作品は一人芝居ですが、俳優の三島景太さん、作・演出のジャン・ランベール=ヴィルドさん、そして翻訳・通訳の平野暁人さんの三人四脚で作品を作っていったのですか?
平野:三人ではなく、五人のチームで作った作品ですね。三島、ジャン、僕以外に、アシスタントのアリシア、それから音響のクリストフが、このクリエーションの核になっています。
片山:作品の初演は2014年春のふじのくに⇄せかい演劇祭ですね。それ以前にランベール=ヴィルドとSPACの間で関わりはあったのですか?
平野:ジャンがSPACで最初に上演したのは、2011年8月の『スガンさんのやぎ』という親子向けの作品でした。この作品はSPAC以外でも北九州芸術劇場と鳥取の鳥の劇場でも公演がありました。これがジャンとSPACの最初の関わりになります。
三島:ジャンがフランスで作った作品をそのまま持ってきたもので、これもイタリア人の女性俳優による一人芝居でした。
片山:ジャンが三島さんのことを知ったのはいつだったのですか?
三島:この『スガンさんのやぎ』の公演の一年前の2010年秋にジャンが静岡芸術劇場に下見に来たのです。その時に僕は今井朋彦さん演出の『わが町』に出演していました。この『わが町』のときは、今井さんの演出が好きにやらせてくれたので、それまで長年やってきたスズキ・メソッドをベースにして、人形ぶりのような動きで激しく動き回って演じてみたんです。ジャンはそのときの僕の脚の動きを見て「この役者で昔書いたあの一人芝居をリクリエーションしてみたい!」と思ったそうです。
片山:劇評でこの作品は17歳のときにジャンが書いた作品だとあったのですが、その後、十数年間、この作品が上演されることはなかったのですか?
平野:そうなんですよ。十数年上演されることがなかった作品で、ジャンの大叔父さんでかつて第一次世界大戦にも従軍したフランス兵をモデルに書かれた一人芝居だったのに、三島さんの脚の動きを見て、突然、やりたくなったっていうんです。本当にドラマチックだと思います。その後、三島さんのほうにはSPACを通じてすぐにアプローチがあったんですよね?
三島:うん、そうだった。
平野:それからわずか数ヶ月後の2011年2月に『スガンさんのやぎ』の公演の準備のためジャンが再来日しました。僕はこの作品のナレーション録音の通訳として仕事に入ることになりました。その時にジャンが僕の仕事ぶりを買ってくれて、意気投合というか、半ば口説き落とされた感じですかね。「実は今後、これこれこういう一人芝居をミシマという俳優で上演しようと思っているんだけれども、ぜひ一緒にやってくれないか?」と。その流れで急きょ三島さんにもお会いすることになりまして。
三島:2011年2月は、僕はSPACでの仕事がなくて、東京でSPACとは別の芝居の公演をやっていたんです。ジャンのこのときの日本滞在は二、三日だけだったのですが、彼が空いている日時にちょうど僕も空いていて。本当に偶然のタイミングで東京で会うことができたのです。そのときにはじめてジャンと平野くんに僕は会いました。
片山:三島さんにはSPACを通じて連絡が入ったのですか?
三島:宮城聰さんから「ジャンが三島くんの動きに興味を持ったと言っていたよ」という話は聞いていたし、SPAC文芸部の横山義志さんからは、「ジャンが昔やった作品を三島くんとやりたいと言っていたよ」と聞きました。それで僕はこれは大きなチャンスだと思って、横山さんに「俺もこの話は絶対実現させたい。ジャンとの連絡をとってくれ」と頼んでいました。
片山:でもこの時点では一人芝居だということさえ知らなかったわけですよね?
三島:どんな作品だか全く知りませんでした(笑)。でも向こうが興味を持ってくれるのだったら、是非やりたいからと横山さんからジャンに伝えてもらったのです。それで2月に会ったときにはじめて台本を渡されました。
平野:2月に再来日したときに、ジャンはなにがなんでもこの作品を三島さんで上演するつもりで、台本の粗訳を既に用意していました。なにしろ思いついたら片っ端からどんどん進めていく人なので。三島さんを見初めた、自分はやると決めた、自分はフランスの劇場の芸術監督なので最低でもそこでの上演は可能なはずだ。できるところからとにかくやっていく。それでその粗訳のチェックをしてほしいと頼まれたのです。僕は当初、何度も断りました。人様が心血を注いで上げた仕事をパラパラと流し読みしてコメントするというのは本来、著しく敬意を欠いた、プロとしてあるまじき行為ですから。ところがジャンは先ほどもお話しした通り、一旦こうと決めたら意地でも退かない人。仕方なく僕のほうが折れ、その場で読んでみたところ、いろいろ問題があり、それを指摘しました。すると「ぜひ君が翻訳をやってくれ」と頼みこまれて。どうしてもというので、単なる翻訳のピンチヒッターとしてではなく、この先も一貫して責任ある立場でこのクリエーションに関わらせてもらえるなら、という条件を提示しました。するとジャンは僕の目の前でやおらiPhoneを取り出し、フランスへ電話をかけて制作主任(=ジャンの妻)を呼び出すと、「もしもし、我らがファミリーに新しい仲間を迎えることに決めたよ。今後、日本に関する事業展開はすべて彼とやっていくから」と。あっけにとられましたが、それ以上に感激し、高揚したのをよく覚えています。
【02:日仏の文化ギャップのすり合わせ作業】
片山:地方の劇場の公演であれだけ多くの劇評が出るということは、ジャンはフランスではすでに高い評価を得ている演出家なのでしょうか?
平野:ジャンは34歳くらいでカーンの公立劇場の芸術監督になっていて、これはとても若いです。しかも彼はフランスの国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)の出身ではないんですね。高卒でそのまま演劇の道に入ったかんじで、フランスではきわめて稀なケースといえます。僕は僕で博士課程ではアルジェリア戦争史を専攻していたまったくの門外漢なので、ジャンに「そもそも僕は演劇の研究なんかしたことない人間なんだよ、それでもいいの?」と言ったら、ジャンは「そんなの僕もしたことないさ」という返事で。ちなみにレユニオン島の出身です。生まれ育ちはレユニオンで、高校を出てから劇場などでバイトしながらお金をためて、確かパリで仲間と一緒に廃屋のようなところを借りて、自分たちで手直ししながらアンダーグラウンドで活動をはじめたと聞いた気がします。いわば雑草育ちの成り上がりですね。フランスの演劇人としては極めてユニークなキャリアの持ち主ですが、かなり早い段階でパリのシャイヨー国立劇場に招かれて作品を作っていますので、いわゆるエリートではないのだけれど、かなり若くから実績を積んできた人だといえます。
片山:翻訳にあたって、彼からリクエストはありましたか?
平野:翻訳と翻案の線引きですね。もともとはフランス軍人が主人公で第一次世界大戦の塹壕戦の話なのですが、それが日本人で第二次世界大戦になっている。骨格が大幅に変わるわけです。ジャンは、いかにも「西洋人がオリエンタリズムでやってみました」みたいにはしたくないと言っていました。かん違いしてわびさびにあこがれてとか、サムライやチャンバラとかに染まっているようには絶対したくないということで、丁寧に取材・調査していました。僕もそういう残念なフランス人には辟易していたので、ジャンの姿勢にとても好感をもちました。
片山:仏語版と日本語版の一番大きな違いは、第一次世界大戦が第二次世界大戦になったことみたいですが、他の状況設定については、あまり変更はなかったのでしょうか?
平野:あとは「神」の問題ですね。キリスト教的な発想を日本語版ではどうするのかという問題がありました。日本人兵士の話なので、キリスト教の一神教的世界観はあり得ない。ある程度は天皇であるとか、神道と仏教の混交など、日本的宗教観に寄せていかなければ説得力を持たない。この点についてはジャンと相当議論を重ねました
片山:このすり合わせで、フランス人であるジャンが持っている日本観とこちらの認識とのずれが問題になったりしませんでしたか?
平野:ジャンは勉強家で知識がありますし、他者や異文化に対する敬意もしっかり持っている人ですから、こちらが丁寧に説明すると「なるほど、それはきっとそうなんだろう」という受け取り方をしてくれました。「あなたがたはそう言うけれど、フランス人はこう思っているからこちらに合わせてほしい」というのはない人です。
片山:彼がレユニオン出身というのと、そういった相対化できる視点というのは関係あるかもしれませんね。
平野:そうですね。あの人は、いわゆる六角形のフランスについても距離のある人です。海外県、すなわち旧植民地であるレユニオンで育ったからこそ距離をとってフランスを見られる。それと同時に、レユニオン出身であるからこそ、フランスで活動するにあたっては、正統性を担保するというか、文学や哲学などのヨーロッパの教養の正統や根幹的部分は大事にしていますね。そこを押さえていないと軽んじられるというのがあるのかな。
片山:ジャンからは演出にあたってどのような要求がありましたか?
三島:最初は色んな映像を見せられました。外国の監督が撮った日本の軍人の映像とか、あとはフランスに行く前にこの作品を見ておいてくれというのがいくつかあって、それが市川崑監督の『ビルマの竪琴』と『野火』、それから小林正樹監督の『人間の条件』。
片山:演技のレファレンス資料としては、指定された映画の映像がベースだったのですね?
三島:それはもちろん、かなり参考にしました。この場面はあの映画のあの感じでという風に指示があって。「これで本当にいいのかな?」と思いながら、自分なりに考えてやったことを提示しました。お互いの誤解の中から、コミュニケーションが積み重なって、それが表現になっているように感じました。
【03:独立した個人のプロジェクトとして作品制作を始める】
片山:2010年の秋に三島さんを見て、それから2011年の2月にはもうこの作品を三島さんで再演することを決めていたんですね。でも初演は2014年春なので、それからかなり時間がたっていますね? 実際の稽古はSPACの公演が決まってからはじまったのですか?
��島:いえ、2012年の12月に、当時ジャンが芸術監督をやっていたカーンに呼ばれて、クリエーションしました。2週間で作ってしまう感じ。
平野:この時点ではSPACでは公演の話は全然出ていなくて。公演の可否については宮城さんも保留だったのですが、われわれはそういう状況のなかで実現に向けてできることを進めていきました。
三島:きっかけはSPACだったのですが、SPACとの契約ではなく、僕個人の活動としてこの作品の制作を行うというかたちで、作品を作っていったのです。平野さんもSPACとの契約ではなく、僕とジャンとの独立した仕事としてこの作品に関わることになりました。
平野:SPACの制作ではなかったので、稽古場をお借りするのもそう簡単ではなく、ジャンが当時、芸術監督をやっていたカーンの劇場が制作を丸抱えする形でのスタートでした。それでカーンにわれわれを呼んで、航空券、滞在費、ギャラもカーンの劇場が持つ。ジャンは男気のある人なので、自分がやると決めたら責任もって引き受ける、親分肌の人なんです。そこで2週間稽古を行いました。
片山:2012年の12月にカーンで2週間のクリエーションをやって、そこで試演会をやったのですか?
三島: 12月に劇場関係者の人に通し稽古は見せました。このときは美術はなしです。セリフも完全に覚えるのではなくて、台本を譜面台みたいなものに置いてそれを見ながら動くという感じでした。その一年後の2013年12月に美術も作り、字幕も出すかたちで、カーンでプレ公演を行いました。カーンの劇場からちょっと離れた場所にある稽古場のような場所です。その時点には2014年春のSPACふじのくに⇆せかい演劇祭で上演されることは決定していました。日本初演が決まっているなかでのフランス稽古というつもりで僕は行ったのですが、実際には稽古は一週間だけで、残りの一週間はほとんど色んな人に見せるプレ公演というという感じでした。
【04:ふじのくに⇄世界演劇祭での初演】
片山:ふじのくに世界演劇祭での公演はどういう風に決まったのですか?
三島:当初は春フェスでの上演ではなくて、SPAC俳優の自主企画公演、《ピアノと朗読》みたいな感じの延長線でできればいいなと僕は考えていました。そういう形でなら上演できるように思ったのです。ところがジャンが直接宮城さんに上演を売り込んだんです。ものすごく熱心に。メールはもちろん、仕事やバカンスで日本に来たとき、少しでも時間があると静岡にすっ飛んできて、「三島と創る芝居をSPACで上演させてくれ」と宮城さんに直談判したんです。しまいには「やってくれないと噛みつく」とか宮城さんに言ったそうです(笑)。宮城さんは最初はニコニコしながらいなしていたのですが、ジャンのその熱意は我々の作品の《SPACでの上演》という方向に宮城さんを動かしたのです。まさか芸術祭のプログラムとして上演されるとは僕は思っていなくて、芸術祭での上演が決まったときはものすごいプレッシャーを感じました。
片山:私が演劇祭での初演時にこの作品を見に行かなかったのはあのタイトルが実は引っかかったからなんですよ。フランス人の勘違いジャポニスムが盛り込まれた作品かなと思ってしまったのです。
平野:そうですか。あのタイトルは宮城さんの提案なのですが、我々としては演劇祭というこれ以上ない場を用意していただけた以上、あとはお任せしようと。ジャンは「宮城さんがやると言ってくれたんだから、細かいことはぜんぶ任せる」みたいな任侠の人のようなところがある人なんです。日本語のタイトルは『旗本退屈男』のもじりになっていて、実際にそれで興味を持って観に来てくださった観客の方も多かったと思います。
片山:静岡での初演の反応、感触はどうでした?
三島:正直、初日の舞台が終わるまでは、自分でもこの作品が日本人の観客にどう受け止められるか本当に不安でした。「こういうのもありだけれど……」という保留つきの反応が多いのではとか。
片山:静岡の前にやったカーンの試演会での反応はどうだったのですか?
三島:カーンでは評判がすごくよかったんです。ただ見に来ていたのはほぼ関係者だったので、一般の観客のフラットな評価というふうには受け取れませんでした。
片山:それでは日本での初演のときはかなり緊張されましたか?
三島:ものすごく緊張しましたね。終わって照明が消えたあと、ぱらぱらと拍手があるくらいかなと思っていたのですが、初日の舞台が終わってカーテンコールのときの拍手が、予想していたよりも熱狂的で、手ごたえを感じました。本番前の通し稽古を見に来てくれたSPACの人たちもいたのですが、一人芝居だったのでとりわけ感想を言うと僕が影響を受けると思って気をつかっていたみたいで。「がんばって」ぐらいで、感想については宮城さんも含め誰も一切何も言わなかったのです。
片山:平野さんも初日、当然劇場にいらしたと思うのですが、「やった!」という手ごたえはありましたか?
平野:実はあまりよく覚えてないんですよ(笑)。僕は上演中も字幕オペをやっていたんですが、これがかなり大変で。終演後はすぐにアフタートークの通訳をやらなくてはならなかったし。感慨とかお客さんの反応をうかがう余裕がなかったんですね。でも手前みそではありますが、宮城さんが翻訳をとてもほめてくださって。「これは平野君でなければできない仕事だったんでないか」と後からわざわざメールをいただきました。一方で非常に詩的なテクストだったので、耳で聞くだけでは理解しにくい箇所があるのではないかという懸念が稽古の段階から取沙汰されており、それについての具体的かつ有意義なご指摘もいただきました。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【06:制作チームの信頼関係】
片山:2014年春のSPACでの公演以降は、昨年末、2016年12月のリモージュでの公演まで、この作品の公演はなかったのですね? 「いったいどうなったのだろう?」と不安になったりしませんでしたか?
三島:ジャンは「いずれフランスで必ずやるから」と言っていたので、いつか上演の機会はあるだろうと思っていました。焦りは全くなかったですね。僕はこの作品は自分のライフワークとしてやることになる作品と考えています。長いスパンで上演を続けて、そのときどきの経験でゆっくり育てていく作品にしたいと思っていますので。
平野:その間にジャンはカーンの劇場からリモージュの劇場に移籍しました。われわれがなぜこんなに安心してこの作品に取り組んでいけるかと言うと、ジャンは本当に言ったことを全部やる男なんですよ。「リモージュには劇場だけでなく、俳優養成の学校がある。自分はそろそろ次代の俳優を育成することも考えていかなければならないと思っている。だから絶対リモージュに行くんだ」、と彼は前から言っていました。で、そのとおり移ったんですね。個々のプロジェクトから自分の進路まで、有言実行の人なんですよ。2014年にSPACでやって、当初はその翌年にフランスでやると言っていたんですけど、それがだめになっても、ジャンがやると言っているんだから、どうせいずれフランスでやるんだ、という気持ちでわれわれは待っていました。
片山:リモージュでの公演決定の連絡があったのはいつ頃だったのですか?
三島:2015年の秋ですね。ちょうど僕はSPACで『王国、空を飛ぶ』の稽古をやっていたときでした。『王国』のときは筋肉トレーニングをハードにやっていた時期で体がサイズアップしていたので、それを来年に向けて体を絞っていかなければならないなと思ったのを覚えています。
片山:フランスでの公演の場合、契約はどのように行ったのですか?
平野:この作品に関してはSPACを通しての契約ではなく、僕は翻訳、通訳、字幕オペのほか、契約手続きを含め、制作業務全般を行いました。スケジュール調整から航空券の購入、出演料、映像や写真の整理、稽古日を含めた日当の問い合わせなど全てです。またこの作品では、私は翻案で大きく関与したので、僕とジャンの共作になっています。権利を完全に二等分にしようとジャンの方から率先して提案してくれたのです。著作権使用料も僕はいただいています。こういう部分でジャンは本当に信頼できる人間なんですよね。ファミリーになったら駆け引きとかいっさいしない。ちょっとマフィアっぽいというか。もちろん外とはいろいろ交渉するんですよ。でも身内になったら何でもざっくばらんに言えるし、絶対に嘘はつかない。
三島:出演料、交通費、滞在費などすべてリモージュの劇場の負担でした。
片山:向こうでのクリエーション期間中はどこに滞在していたのですか?
三島:劇場から歩いて15分くらいのところにあるアパルトマンに滞在しました。
平野:公演の稽古の前にまず2週間、演劇学校での授業というのがあって。この演劇学校での授業と公演のセットで招かれたんです。前半2週間は授業、後半2週間は公演というかたちです。
片山:授業プログラムを考えて渡仏したわけですね。
三島:SPACでやっている俳優訓練法を柱にごく大ざっぱにプログラムをイメージしていま��た。2週間のワークショップの講師をやるのは僕にとっては初めての経験でした。現場で生徒たちの状態を見てから具体的にどうしようか決めました。
片山:最後に作品を上演したりしたのですか?
三島:俳優訓練法だけだと間が持たないかなと思って、後半の一週間は作品を作ろうかなと思って戯曲も用意していたのですが。実際には作品を作る時間はなかったです。一日6時間で2週間、月から金で10日間なのでけっこう時間があると思っていたのですが。
片山:フランスの俳優志望の生徒たちは、頭でっかちでフィジカル面で弱い人が多いと聞いたことがあるのですが、どうでしたか?
三島:いやフィジカルができていないなんてことはなかったです。リモージュの生徒たちはすごく優秀でした。ただ同じようなことを僕も聞いていたので、行く前は日本の高校演劇みたいな感じなのかなと思っていたのですが、とんでもなかったです。
平野:補足しますと、校長であるジャン自身がものすごく俳優の身体性に重きを置く人なんです。彼が三島さんにほれ込んだ最大の理由は、それこそ三島さんがフランス人俳優が持っていない身体性を持っている点で、逆に言うと三島さんがこれだけほれ込まれたのはジャンからするとフランス人俳優の身体に不満があったからですね。そういうこともあって、彼がリモージュに移って最初に選んだ生徒たちの選考においては、身体性を重視したそうです。500人からの応募があったと聞いています。
片山:現地ではコミュニケーションのギャップみたいなことはなかったですか?
三島:ないですね。コミュニケーションに対しては皆無。最初は言っていることがうまく伝われないとかあるんではないかと思ったのですが、そんなことはまったくなくて。ちょっと説明したら本当に本質的なところにたどり着く。あ、これできるんだったら、これもやろうという感じで、どんどん進んでいきました。思っている以上に何もかもがスムーズでしたね。
平野:学校だけでなく、2012年のジャンとの付き合い以来、われわれのあいだでコミュニケーションの行き違いみたいなことはまったくなかったです。ジャンの演出の面でも、スタッフとのコミュニケーション、劇場スタッフの受け入れ態勢にも。アシスタントもいつも身を粉にして働いていつも機嫌がいいし。ジャンはそういう環境づくりに長けているんですよね。気持ちよく仕事ができない人とは仕事はしない。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【07:リモージュ公演の様子】
片山:今回は公演のための稽古は現地でどれくらい行ったのですか?
三島:リモージュでの稽古期間は4日間だけでした。そのうちジャンがいたのが2日だけ(笑)。それも一日中やるわけではなくて、「疲れているだろうから2時入りでいいよ」みたいな。 稽古の初日にいきなり頭から最後までやりました。この初日稽古には演劇学校の生徒たちが見に来てくれました。
片山:日本でも相当な段階まで準備していたのですか?
三島:2014年にやったことを踏まえて、セリフだけはしゃべり込むだけしゃべり込んでいこうと思っていて、リモージュ行きの三か月前から準備していました。ノルマを決めて一日に何回、最初から最後までセリフを間違えずにしゃべるとか。本能に叩き込むという感じでなければだめだと思って。それでセリフは完璧に入れて向こうに行ったのです。しかしセリフ以外は全部忘れていました。でも音がかかった瞬間に、体の記憶というのは根深くて、その感じにすっと戻れた。
片山:リモージュ版では2014年のSPAC版からの変更点はありましたか?
三島:SPAC版では4面囲みだったのが、3面囲みになりました。これが大きい変更点ですね。日本の公演では真ん中に櫓にあって、客席が4面でした。背中まで見られていたのです。リモージュ公演では字幕をつけなくてはならないので、3面になりました。櫓は盆踊りの櫓がモデルなので、食卓テーブル二つ分くらいの広さです。
片山:日本の歌曲も作品で使ったようですが、これはジャンからそういうリクエストがあったのですか?
平野:一緒に調べました。例えば学校の愛唱歌で誰でも知っている曲とか、少し神秘的なものとか。一緒に探してYoutubeで聞かせてという感じで。
片山:今回、私が確認しただけでも劇評が6本ありました。これは異例なことだと思うのです。地方の劇場での公演で6本、しかも好意的でかなり熱い内容の劇評が多かった。向こうの観客の反応も熱狂的でしたか?
平野:お客様の反応は本当によかったですね。
片山:リモージュ公演のほうがむしろ日本での初演より緊張はなかったのですか?
三島:リモージュでの公演は、日本での初日ほどセンシティブというかナイーブ、不安になることはあまりなかった。体の状態が多少万全とは言えないところがあったので、最後まで同じ状態でいけるかなというのはありましたが、これはまあ普通によくあることなので。
片山:劇場のキャパはどれくらいだったのですか?
三島:150人くらいです。
平野:舞台上舞台の特設だったので、それくらいになりました。本来の座席数は400くらいです。
片山:今回の成功のカギは? やる前から「いけるぞ」という感じはあったのですか?
三島:僕はフランスに関しては大丈夫だと思っていました。カーンでやったときの感触からいって。
平野:カギはやはり三島さんの身体ですね。
片山:フランスの観客からすると非常に特異で印象的な身体性だったのですね?
平野:本当にそれはそうだと思います。90分という長時間、一人で舞台にたち、膨大な詩的なテクストを語る。字幕が観客にとってストレスになるかと思ったら、「いや、大丈夫。途中からそんなに読もうと思わなくなった(笑)。あの人を見ていればいいから、そんなに字幕が読めないストレスはない」といったことを言われました。書き手としては複雑かもしれないし、せっかく長台詞覚えた三島さんも気の毒だし、ついでに字幕をせっせと出している僕もちょっとだけ悲しいですけれど(笑)、それだけ三島さんの身体の存在感があったということだと思います。
三島:僕としては、ことばによって自分の身体が持っている潜在的な感覚を解放するという感じです。自分が何かをコントロールしているというよりは、言葉を発した時に体のなかに起こっていることにあらがわないでやっているだけなんです。それがいいのかもしれない。ジャンの演出自体、俳優の作為みたいなことを一切やらない。自然に出てきたもの自体をどう見せるかという感じなので。
片山:再演の予定はありますか?
平野:いろいろと話は出ていて固まりつつあるのですが、今の段階ではまだちょっと言えない状況ですね。フランスでも再演を目指していますが、まずは日本での再演を狙っています。
【プロフィール】 三島景太 1967年生。福岡県福岡市出身。水戸芸術館ACM劇場専属俳優を経て、1997年のSPAC創立時より所属。宮城聰、鈴木忠志、イ・ユンテク、竹内登志子、オマール・ポラス、原田一樹、今井朋彦、小野寺修二等、様々な演出家の作品に出演。国内外40都市以上での公演経験を誇る名優。主な主演作品『ロビンソンとクルーソー』『ドン・ファン』『ドン・キホーテ』など。
平野暁人 東京都出身。翻訳家、通訳(フランス語、イタリア語)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。戯曲翻訳としてはパスカル・ランベール『愛のおわり』、モーリス・メーテルリンク『盲点たち』他多数。訳書にカトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)他。演劇における日仏共同事業の仲介者として、青年団やSPACをはじめ、ジュヌビリエ国立演劇センター、リムーザン国立演劇センターなど国内外に複数の拠点を置き活動を続ける。
ジャン・ランベール=ヴィルド Jean Lambert-wild 劇作家・演出家。1972年、アフリカ・アジア・ヨーロッパの文化が混在するレユニオン島(フランス海外県、マダガスカル島の東方)生まれ。その特異な風土で培われた詩的想像力と、舞台技術に関する豊富な知識に支えられた魔術的演出術が高く評価され、2007年にノルマンディー国立演劇センター(コメディ・ド・カーン)、2015年よりリムーザン国立演劇センター(ユニオン劇場)の芸術監督、ユニオン・アカデミー、リムーザン国立演劇学校の校長。公式ウェブページ(英語):http://www.lambert-wild.com/en
【参考リンク】 ・ 『磐谷和泉の栄光と倦怠(ジャン×Keitaの隊長退屈男)』舞台映像抜粋Splendeur et lassitude du capitaine Iwatani Isumi:https://youtu.be/x4dNBJw87nQ ・ ユニオン劇場アカデミーでの三島景太ワークショップ Stage « Méthode Susuki » dirigé par Keita Mishima : http://academietheatrelimoges.fr/stage-methode-susuki/ ・ ユニオン劇場『磐谷和泉の栄光と倦怠』公演ページ:http://www.theatre-union.fr/fr/spectacle/splendeur-et-lassitude-du-capitaine-iwatani-izumi
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