#しまなみ海道サイクリング
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.広島❁尾道 ❁広島の思い出2 チャリで行く尾道の旅✨ 本当に半日良く漕いだわってくらいお尻痛かったけど楽しかった尾道! タコ飯食べてコロッケ食べてソフトクリーム食べてはっさく大福! 最後は広島駅で牡蠣とラーメン🍜 いい思い出〜(-´∀`-) #瀬戸田 #尾道 #瀬戸田大将めしちどり #cafestagram #foodstagram #gourmet #カフェ好きな人と繋がりたい #尾道観光 #チャリ #しまなみ海道 #しまなみ海道サイクリング #広島グルメ #広島観光 https://www.instagram.com/p/CoR-PvBr5WH/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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【みやぎ仙南サイクルツーリズム推進セミナー2023】NPO法人シクロツーリズムしまなみの宇都宮一成さんを講師お迎えして、『サイクリストがやってくる!迎える地域が元気になる!自転車による観光地域づくりがもたらす可能性』と題して、令和5年3月4日(土)午後1時から午後3時まで、仙南芸術文化センター(えずこホール)平土間ホールを会場に講演会を開催します! 参加費は無料で、申込期限は2月26日(日)まで(定員になり次第終了)となっています。皆様、 ぜひご参加くださいませ♪ #宇都宮一成 #しまなみ海道サイクリング #シクロツーリズムしまなみ https://www.town.ogawara.miyagi.jp/5486.htm https://www.instagram.com/p/Coj1qu_vTk9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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尾道市因島 たくま商店
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ECCジュニア田村町教室、今期見ているのは
ゴールデンカムイ 地獄楽 鬼滅の刃 スキップとローファー ヴィンランド・サガ 王様ランキング 青のオーケストラ
の中村です。 推しの子、見た方が良いですか?
GWに心身ともにリフレッシュして、今週のレッスンも楽し��スタートしております。 やは��自転車再開できているのが、嬉しい限り🧡
子どもの頃、体育って好きでも嫌いでもないというか、むしろあまり記憶に残っていないというか。。。 多分、めちゃ楽しいこと、なかったんだろうなと思うのです。
そのまま大人になって、特に体を動かす事もなかった人間が、弱虫ペダルと出会い、自転車に出会い、身体を動かすことの楽しさ(自転車限定w)を知る事が出来たのは、本当にラッキー。 勿論、ガチ勢ではないので、趣味で気楽にブラブラしているだけですが、運動ってきっと精神的にも良い影響がたくさんあるんだろうな、と実感しています。
学校の体育でも、何かを競うとか、計測して上位を目指すとかだけではなく、ただただ身体を動かす事って楽しいよね~✨なんてことを目的にする時間も、多少あってもよいんじゃないの?と思っています。
・・・ん? 漫画読んでアニメ見てばっかりだろ!という突込み、大歓迎w
そうそう、GWは妹家族と一緒に、ドライブ🚗&サイクリング🚴♂️ 久しぶりにしまなみ海道をちょっとだけ走ってきました。
写真は、大三島で立ち寄った生樹の御門。 大山祇神社から、ちょっと歩いて行ったところにある楠の大樹です。 根元が2本に分かれていて、そこを通り抜ける事が出来ます。 奥の院への参拝にここをくぐっていたため、こんな名前がついたのだとか。
巨樹や巨石に、なんとなく神秘なものを感じるのは、日本だよな~といつも思いますが、感じるものは仕方ない(笑) 何があるわけでもないのに、その姿に圧倒されてドキドキするだけで、なんか憑物が落ちる感じです。
大山祇神社の近くですが、車では行けない場所。 神社周辺の駐車場に車を停めたら、歩きか自転車で行ってみてください。 こんな私でも、心が洗われる✨
愛媛側の3島を軽く走っただけですが、瀬戸内の美しい景色を見ながらのサイクリングはやはり最高でした👍 ちょっと行ったところに、世界でも有数のサイクリングルートがあるなんて、ありがたい😊 今回は日帰りでしたが、また泊まりも入れて走りに行きたいものです。
#今期のアニメ#何見てる#サイクリング#自転車は自由だ#しまなみ海道#大三島#生樹の御門#setouchigram#愛媛#ehime#ehimegram#英語#英会話#英会話教室#丸亀#多度津#ecc#ECCジュニア#田村町教室
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230307
引っ越してきて2週間と4日目。平日は家で1人のんびり過ごし、2人分の朝食と夕食を作る。休日はKと車で遠出。福岡で買った自転車を積んで熊本の天草へ行ってサイクリングしたり、福岡で買った山靴を慣らすため耶馬溪でちょっとした山道を歩いたりした。熊本では坂口恭平の展示も見た。どこも初めていくところばかり。首都圏以外の地方都市に馴染みがない私に取っては、福岡や熊本の中心街で東京の知らない街を散歩しているときと同じような感覚がしたり、中心地から少し離れた大通り沿いがやっぱりどこかで見たことのある典型的な地方都市の風景であることに驚きがあった。街の中に九州らしさのようなものがそこはかとなく薫っているのだろうと想像していたのだ。(東京の次に馴染みのある土地が沖縄だからこういう発想になるのかもしれない。)道路も建物の形も店も見慣れたものばかりで、気候も変わらないし、街並みは地形の感じられないように整備されている。聞こえてくる音も、たまに土地の言葉が耳につくくらい。もちろん多少は感じるが、土着の色がこれほどにも薄められているのか、と良い悪いはさておき「ふうんこんな感じね」と思った。いまどこにいるのかわからなくなるくらい土地から切り離された街並みが示すものは普遍性ではなく均質性で、どこもかしこも似てきているのだなとさみしく思った。初訪問、そして1、2日の短期間の滞在での感想はそんな感じ。国東や別府に戻って改めて思うのは、丸い半島に放射線状に伸びる谷筋に細長く続く田園風景や、山と海に挟まれた勾配のある温泉地といった独特な地形が比較的均一を志向しにくくしているということ。
今月は、来月からの生活の準備をしながら、少なくともこの先1年間はないであろう長期の非労働期間をなるべくゆっくり過ごそうと思う。あまり活発になりすぎると心身の何かが間に合わない気がして、と言いつつも半分はただだらけたいことへの言い訳ではあるのだけれど、東京から九州へ、学生から非学生へ、ひとりからふたりへ、未婚から既婚へのいくつものジャンプをできるだけ滑らかにするためにはのんびりと慣らす必要がある。今このぐうたらな中で、時間や無意識が重要な働きをしてくれているんです。
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【大島2日目】
翌日はレンタサイクル日和 朝食はスーパーで買ったパンとコーヒーで済ませて、海辺のサイクリングへしゅっぱーつ!
向こうに見えるのは利島みたい
晴れちゃ~いないけど爽やか、だけど風は強い
言い忘れたけど、サンセットパームラインっていう道ね
この赤禿ていうスポットを越えてからの一直線下り、サイコー
片道5kmの終点、野田浜 帰路はちょこっと遠回りして空港を覗いてから戻って12km
自転車を返してからお土産を買って、バスで元町港から岡田港へ移動 昼食はこの旅初めての地元料理で、べっこう寿司と明日葉天ぷら蕎麦
ビール飲みたかった そう言えばこの食堂で、初めて外国人観光客を目にした 少なくていいね、落ち着くわー
出航までの待ち時間、岡田港をブラブラ 夫がストリートピアノを弾くのを初めて見た
この日強風の中、三原山ヒルクライム大会という自転車競技が行われていた。 なんと前日のサンセットパームラインでは、自転車のロードレースが風雨にもかかわらず開催されていたらしい。 すごいわ、みんなよく来れたね。 どうりで町中や港にゴツくて高そうな自転車がいっぱいいるはずだ。 天気悪いから行きたくない、とぶーぶー渋ってた私がアホだった。
とは言え、今回行けなかった三原山、波浮港、椿花ガーデン、牧場、火山博物館(休館中)などは、またもし機会があれば行きたい。 地元料理もゆっくり食べたかったし、お酒とともに。
いや、今度は伊豆七島の他の島に行こーよ! と言ってみた��、「遠~い~」から嫌だそうだ。
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電動バイク⇄自転車。和歌山発の電動モビリティ #JapanMobilityShow | ギズモード・ジャパン
以下引用
こりゃあ都合がいい。 先日開催されていた「Japan Mobility Show Bizweek 2024」で見つけたのは、和歌山県のメーカーが作るこちらの乗り物。一見よくある電動モビリティに見えるけど、電動バイクと自転車の切り替えができる都合のいい乗り物なんです。
国内初。車両区分の切り替えが法的に認められている
glafitの「GFR-02」は、電動バイクと自転車の2つの車両区分を切り替えられる乗り物です。 このGFR-02を含むペダル付き原動機付自転車は、道路交通法上「原付」の扱い。電動バイクとして乗るためにナンバー登録やヘルメットの着用、車道の走行などが必須になります。
ただ、このGFR-02は道路交通法上、車両区分を変化させることができるモビリティとして、国内で初めて認められた電動バイク。というのも、オプションの「モビチェン®」で電動バイク⇄自転車の切り替えが可能に。このモビチェン®は、glafit独自の特許システム。glafitによると「切替えを認められる車両は警察庁で審査の上、認定されたもののみ」なのだとか。 GFR-02の車両区分の切り替えは、車両本体の電源をオフにしないとモビチェン®の操作ができなかったり、ながら走行では切替できなかったりと厳重。ただナンバーを覆うだけの仕組みではありません。これなら何かに怯えることなく堂々と活用できそう。
バッテリーがうまく隠れているからシュッとしている
車両を見ていてなんとなく都会的だなと思ったのが、コンパクトに畳めるところ。畳むと中心からパカっと折れる仕組み。しかも、バッテリーがこのフレームの中に仕込まれています。ここにバッテリーが入っているとは思えないほどスタイリッシュです。これだけコンパクトだと一人暮らしの玄関先にも収まりや��いでしょう。 ちなみにバッテリーの充電はもちろん家庭用コンセントでOK。2〜3時間でフル充電が完了します。「約34kmの距離を走行できる」とのことで、普段の通勤やお出かけはもちろん、ドライブの先に持っていってサイクリングにも使えそうです。 あと、こういった電動バイクの選択肢が増えてきたなかでこちらを選ぶ理由になると感じたのが、国内メーカーであること。海外製品の委託製造でもなければ輸入品でもない、和歌山の会社のオリジナル商品。買った後のことを考えると、国内メーカーであることは強い要素なのかなと思いました。
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レトロ21世紀シリーズ・昭和99年のサイクルトレイン
2024年6月
サイズ:216 x 148mm
画材:ミリペン、コピック、色鉛筆、水性カラーペン
和歌山を旅行した際、鉄道車両の中に自転車をそのまま持ち込んで移動することができる「サイクルトレイン」というサービスがあることを知りました。 JRの他に私鉄各社もサイクルトレインを運行しており、近年は南海電車でも臨時列車が運行されたそうですが、もしもこれがあのレトロな丸い行先板をつけたモスグリーンの電車だったらどうなるか、というコンセプトで描き��した。
(あくまで架空の世界なので、地名などは少し変えてあります)
「よう見てみ。お前のかぶっとるホークスの帽子と同じ、緑の電車がいっぱい止まっとるやろ」 「そうやなぁ。この電車で野球を見に行くん?」 「これは違うで。これは自転車でサイクリングする人らの乗る電車や。お前とお父ちゃんが乗るんは次の電車や」
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「しまなみ海道」に新スポット誕生!プロロードレースチームとコラボした世界最大級の温泉アヒルが登場【愛媛県・キスケ株式会社】 サイクリスト日本一の集まる温泉「喜助の湯」に
愛媛県松山市の総合エンターテイメント企業、キスケ株式会社は、2024年10月27日に開催される日本最大規模のサイクリング大会「サイクリングしまなみ2024」を記念して、4年連続でサイクリストが日本一集まる温泉として選ばれた「しまなみ温泉…
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『龍馬が通る!』
~明治維新と欧米化~
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
■坂本龍馬 - Wikipedia 1836年に坂本龍馬は、土佐藩下級武士の次男(末っ子)として生まれた。子供の頃の龍馬は泣き虫で、周りの友達によくからかわれていたそうな。
12歳の頃、龍馬は塾に通い���めたが、上士の同級生と喧嘩をして喧嘩両成敗という名目で父に塾をやめさせられた。その年に母が亡くなり龍馬は継母の伊与(いよ)に教育を受けた。
家族の中で龍馬と最も仲の良かった三歳年上の姉・乙女(とめ)と、よく二人で「ヨーロッパ」というあだ名を持つ“川島猪三郎”(いさぶろう)の家に遊びに行き、欧州の話を聞かされていたのだとか。
龍馬が姉の勧めで剣術を習い始めると、その天賦を早くも発揮し始めた。
1853(嘉永6)年に、龍馬は18歳より剣術を学ぶ為に江戸に留学。その時、偶然にもアメリカ合衆国より艦隊を率いたマシュー・ペリー提督の黒船が来航し、藩の命令で品川の警備を命じられた龍馬もそれを間近に見る機会があったのだ。
黒船のあまりの大きさに龍馬は慄きながら、同時に「日本の剣術では海外とは渡り合えない」と即座に覚り、龍馬は西洋式の技術を学ぶことを決意した。
江戸時代の町人は「江戸が最も文明の発達した国」と考えていた。しかし、この黒船来航により、西洋の文明が予想以上に進んでいると流石に気付くことになった。
ペリー提督が提出した開国の要求書は「漢文」「オランダ語」「英語」の三種類で書かれたもので、貿易で馴染みのある漢文とオランダ語に関しては解読できたが、当時の日本人にとって英語だけは見慣れない文字だったようだ。
ちなみに「オルゴール」はオランダ語(英語ではミュージック・ボックス)だが、これは鎖国時代もオランダから来る商船は受け入れていたため、江戸にオルゴールが持ち込まれた際そのままオランダ語で定着したもの。
また、鎖国の背景にはオランダが日本貿易を独占するため、スペインやポルトガル等の《カトリック教》の国が日本植民地化の意図を持っており、危険であることを徳川幕府に助言していた事情もあるようだ。
▲「キリスト教を信仰しない異教徒は野蛮」として先住民を大量虐殺を決行するスペイン軍
戦国時代の日本は「ヨーロッパ全土に匹敵する数の火縄銃までも保持する戦闘部族」という評判もあり、当時は太陽の沈まない国と呼ばれるほど世界各地を植民地支配していたスペインさえも、日本を警戒して侵攻までには至らなかったとされる。
そうして、今の幕府では日本を護れないと考えた龍馬は「打倒、江戸幕府」を掲げ奔走することになる。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。在郷中、日根野道場の師範代を務めながらも、絵師“河田小龍”宅を訪れて国際情勢について学び、海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる“近藤長次郎”や“長岡謙吉”らを紹介されている。
27歳で脱藩した後に幕臣・勝海舟を訪ね、海軍を作ってアジア諸国と連帯するという話を聞いた龍馬は、そのスケールの大きさに感激し、海舟の弟子となって神戸海軍操練所の創設の為に行動を起こした。
その後、1864年以降に何度か長崎を訪れ、慶応元年(1865年)に幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援��を得て、長崎の亀山に日本初の会社となる「亀山社中」が結成された。
ちなみに"西郷隆盛"の勧めにより日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本龍馬だが、その時の出来事をイラストも交えて手紙に書いて姉の乙女に送り続けたらしく、連絡がマメな龍馬の手紙は実に130通以上も残っているという。いやはや、驚愕である……。
ところで1841年にアメリカ合衆国を目指して航海中だった"ジョン万次郎"は、生まれて初めて世界地図を見た時に、世界における日本の小ささに驚いたという。
このように大きく広い世界の中の「小さな自分」に気付くことは、客観的に自己認識することに直結する。世界地図による世界認識の拡大=地理教育は、人々の視野を広げ、人を積極的な思考に変える力を持つのだろう。
ちなみに坂本龍馬の逸話として、初めて世界地図を見せられた���に「日本はどれだと思う?」と問われ「これが日本じゃろう!」とアメリカ大陸を指さしたという話がある。 黒船来航の前にペリーは琉球王国と交流し、江戸幕府の情報を収集しており、それにより江戸との開国交渉に至った。当時は鎖国していた江戸と異なり、琉球王国は長崎や神戸と同様に欧米・日本・中国・韓国・東南アジア等を相手に貿易を行う東洋経済の中枢だったのだとか。
ある日、坂本龍馬は「土佐の海が世界に通じていると思うと愉快ぜよ」と語ったという。
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欧米化について
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日本の近代化、つまり西洋化は「明治維新」より本格的に始まりました。
西洋化の手始めに、まずはヨーロッパ(特にドイツとイギリス)の言語、及び学問が片っ端から翻訳されましたが、現代の日本において馴染みのある「技術水準(technical level)」「概念(concept)」「哲学(philosophy)」「芸術(art)」「愛(love)」「変態(abnormal)」等の単語は、当時の日本語に該当する語彙がなく、この翻訳過程で新たに作られた語句でありました。
夏目漱石は英語、森鴎外はドイツ語の翻訳に貢献しました。
当初の日本では病院のカルテはドイツ医学に則り、ドイツ語で書かれていたのは有名でしょう。
たとえば「技芸」や「恋」等の単語は江戸時代の日本にもあったようですが、「芸術(art)」や「愛(love)」は本来の日本語にはなかった語彙なので、上辺だけは理解したふりをできたとしても、これらの概念や価値観が日本男児にとって根深く馴染まない根本的な理由が、遺伝子と文化的な要因にあると解釈できるのではないでしょうか。
明治維新以降、日本政府は先進国(白人の国々)の技術水準に比肩したいがために西洋化を推し進めてきましたが、「アキレスと亀」という詭弁があるように、追い続けるだけではどこまで行っても追い抜くことはできないと慮る次第であります。
medicine (西洋)医学 physics 物理学 philosophy 哲学 geography 地理学 psychology 心理学 economics 経済学 politics 政治学 mathematics 数学 chemistry 化学 biology 生物学 astronomy 天文学 ethics 倫理学 archeology 考古学 linguistics 言語学
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森鴎外
"森鴎外"は、夏目漱石と並び「明治の二大文豪」と称される作家です。ドイツ語の翻訳家としても活躍し、西洋文化を感じられる作品を手掛けました。
当時の日本社会や思想を客観的に描写した物語も多くあり、見識の広い森鷗外ならではといえます。
森鴎外がドイツ留学の実体験をもとに書いた日本人留学生とドイツ人女性の非恋『舞姫』は森鷗外の代表作です。
森鷗外の作品は古文で書かれたものが多く、さらに文中にフランス語やドイツ語が織り交ぜられるなど、格調高い文体が特徴。
西洋文化を取り入れた言葉や文体は、後の多くの作家に影響を与えました。
夏目漱石『吾輩は猫である』
日本の教員・小説家・英文学者"夏目漱石"の著書「吾輩は猫である」読了後、どうしても腑に落ちなかった点があります。
それは主人公の吾輩君が最後は酩酊して水瓶に落ちて溺死することに他なりません。
『吾輩は猫である』は、明治維新以降の急速に西洋化する日本を猫の視点から描いた風刺・滑稽噺ですが、それにしてもこの終わり方は死を美化する日本文化の象徴とも言えなくもありません。
また、私が二十代の頃に読んだドストエフスキーと比較して、日本文学はロシア文学より劣っているのではないかと落胆したこともありました。
しかしながら夏目漱石が三十代の頃に国費で英国留学したものの人種差別に遭い、己の醜さから鬱になり自室に引きこもっていたら、「外に出て自転車にでも乗ったらどうだ」と勧められて自転車に乗る猛特訓をしたのに、結局は乗れなかったという訳の分からない滑稽なエピソードを読んで、どうしても夏目漱石を嫌いになれず、吾輩君の死も無駄には思えなくなりました。
きっと吾輩君は読者諸君の心の中で生き続けているのである。
それはさておき、推奨されるがままに始めた自転車の猛特訓中に"英国紳士"から「チン・チン・チャイナマン!」と侮辱された夏目漱石も、日本に居た頃は自他共に認めるほど容姿がいい部類だとされながらも英国の街を歩いた際に「背の低くて醜い奴が歩いていると思ったら、硝子窓に映った自分の姿で落胆した」とのこと。
それでも"英国淑女"からは「ハンサム・ジャップ。ご一緒にサイクリングでもいかがかしら?」と誘われたので、「怒るべきか喜ぶべきか悩んだ」と悲痛な葛藤を手記に残していたそうな。
日本の英文学者で初めて英国に渡航した上で、有色人種に対する人種差別を体験した夏目漱石ですが、江戸時代末期に生まれた上役達には、このような人権にかかわる諸問題についての理解は当然ながら及ばなかったのだと慮る次第であります。
ちなみにスマホや腕時計もない明治以前の日本人にとって、例えば「2時集合」とは「大体2時~3時までの間に集合しよう」というウチナーのような寛容なニュアンスでしたが、鉄道の運用が開始されてから新聞などで大々的に「文明社会にとって時間の厳守は重要」と宣伝され、そうして現代の「5分前集合」が浸透したようです。
「おはよう」と「さようなら」の語源
「おはよう」の語源は、「今日もお早うございます」の略なのは有名です。
海外で最も有名な日本語の「さようなら」の語源は、「左様ならば、これにて御免」というお侍さまの別れの挨拶の略です。
今もなお、お侍さまの語感が残されるとは、まさに《武士道》の本場だからだといえるでしょう。
ちなみに"I Love You"を中国語で言うと、英文法と品詞の並びが一致する"我爱你"(ウォー・アイ・ニー)になるようですが、日本語だと“私はあなたを愛してる”と非常に多くの文字数を消耗するので140文字以内に収めるのも困難かと慮る次第です。
いずれにしても、中国の"爱"には心がありませんが、日本の"愛"には友がおりません。
ステレオタイプの欧米のように、"愛と友"に恵まれないものでしょうか……?
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「です」の変遷
◆江戸時代からあった助動詞「-でござる」「-でござります」は次第に「-でございます」に変化し、さらに明治時代に「-であります」から「-である」に縮まり、そうして現代の「-です」に落ち着きました。
一人称の「吾輩」は「私」のへりくだった言い方。 明治時代から活用され始めた「-である」は「-であります」の略。
つまり「吾輩は猫である」を現代風に書くと「わたくしめは猫であります」というへりくだった言葉使いということになります。
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芥川龍之介『あばばばば』
大正時代の文豪"芥川龍之介"著『あばばばば』という短編があります。この小説を読んで、情緒を感じて芥川龍之介を見直した思い出があります。
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ある日のこと、学生の保吉は行きつけの煙草屋に足を運びました。ところがいつもの店主の親父の姿はなく、代わりに若い女が店番をしていました。 不慣れなのか彼女は恥ずかし気な初々しい接客で、注文とは違う煙草を取り出して赤面してしまうほどでした。 その後いつ行っても彼女が店番でしたが、応対はつかえ、品物は間違え、時々赤い顔をされました。しかし、保吉はだんだん彼女に好意を感じたようです。といっても恋愛感情ではなく、いかにも人なれないところに気軽いなつかしみを感じたとのこと。 ところがある日から突然、彼女が姿をくらまします。わざわざ不愛想な店主の親父に行方を尋ねるわけにもいかず、その後は何事もなく過ごしました。 それからさらに歳月の流れた後、大学の授業(英語講演会)のあと煙草屋の前を通ると、両手に赤子を抱えた若い母親がいました。 「あばばばばばば、ばあ!」 現代でいうところの「いない、いない、ばあ!」の意です。 女は店の前を歩き、面白そうに赤子をあやしています。そうして保吉と目が合いました。保吉は赤面する彼女を想像しましたが、しかし彼女は澄ましたままでした。のみならず、揺り上げた赤子に目を移すと、人前も恥じずに繰り返し「あばばばば」とあやしたのです。 「女はもう『あの女』ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、恐ろしい『母』の一人である」
そういえば、子供の頃に常連だった個人サイトのチャットでよく「あばばばばば!」と書くお調子者がいましたが、元ネタが芥川龍之介だと気付くのに十数年ほどかかりました。
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作家を大きく分けると、毎回異なる性質の登場人物が多種多様な物語を繰り広げるシェイク・スピアタイプと、毎回同じような登場人物が同じような問題に直面して一つの題材を深く掘り下げて行くドストエフスキータイプに大別できるようです。
ドストエフスキー著 『カラマーゾフの兄弟』
『カラマーゾフの兄弟』◆あらすじ ある日の朝、修道院の見習い僧侶"アリョーシャ"(アレクセイのあだ名)のもとに、14歳の"リーズ"(リーザ)という車椅子の少女が訪れました。リーズはここ最近に病を患い車椅子に乗っていますが、修道院の長老から治療を受けて順調に快復に向かっていました。 アリョーシャは子守りとして、二年前にリーズと接したので久しぶりの再会でもありました。 再会 リーズは事実、ずっと悪戯に夢中だった。彼女はアリョーシャと顔を合わせた時から、彼が自分を見るとひどくどぎまぎし、なるべく目を合わせないようにしているのに気付いた。彼女はそれが面白くて、相手の視線をとらえようとじっと身構えていた。 するとアリョーシャは、自分にそそがれる視線に堪えきれなくなり、自分からふいにリーズにちらりと目をやると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼の方をまっすぐ視線を向けてくるのだった。 アリョーシャは、またどぎまぎして、ついにリーズからすっかり顔をそむけて修道院の長老のうしろに隠れた。しばらくして自分を見ているのか確かめると、彼女は車椅子から身を乗り出すようにして、こちらを振り返るのを一心に待ち受けているのがわかった。そうしてアリョーシャの視線をとらえるとまた大声で笑った。 それを見た長老がリーズを注意すると、彼女は顔を赤らめ、きらりと目を輝かせ、真面目な顔つきになった。そして今度は熱っぽい訴えをこめて、早口で話し始めた。 「どうしてアリョーシャはぜんぶ忘れちゃったの? 前は小さなあたしを抱っこしてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのに。だって、あたしに読み書きを教えてくれたのはアリョーシャよ。二年前にさようならをした時に、アリョーシャは『ぼくたちは永遠の友だちだよ。永遠の友だちだからね。ぜったいに忘れない���ら』って言ってくれたわ。なのにあの人、今になって急にあたしのこと怖がり出して。あたしがあなたのこと、取って食べちゃうとでも思ってるのかしら? どうしてそばに寄ってくれないの、どうしてお話してくれないの? どうしてうちに来たがらないのかしら」 リーズはこらえきれなくなって顔を手で覆うと、急にはげしく笑い出した。長老が話を聞き終えると優しさをこめて十字を切った。 すると今度は彼女がいきなり泣き崩れたのだった。 リーズの手紙 その日の夜に、アリョーシャが道中でリーズの母の使者から手渡された封筒を開くと、そこには「リーズ」と署名のある手紙が入っていた。 「アレクセイさま。誰にも内緒でこの手紙を書いています。ママにも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしもわかっているつもりです。でも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしはもう生きられないんです。このことはわたしたち二人以外は、その時期が来るまで誰にも知られてはいけません。でもわたしの気持ち、どうやってあなたにお伝えしたらいいでしょう? 便箋は赤くならないって言いますよね。でも本当を言うと、それって嘘なんです。便箋だって、わたしと本当に同じように赤くなるんです。 大好きなアリョーシャ、あなたを愛しています。小さい時から、ずっと好きでした。あなたが今とはまるで違っていたモスクワ時代から、ずっと好きでした。わたし、あなたを心の友って決めたんです。あなたと一緒になって、年を取って、一生を伴に終えると。もちろん、修道院から出ていただくことが条件ですわ。年齢のことを言うと、わたしたち、法律で許される時まで待ちましょう。それまでにわたしも必ずよくなって、ちゃんと歩けるようになるし、ダンスもできるようになります。そんなこと当然ですよね。これでわたしがずっと何を考えていたかおわかりになったでしょう。ただ一つだけ、わからないことがあります。この手紙を読んだら、あなたはわたしのことをどう思うのかしら。わたしはいつも笑ったり、ふざけてばかりいるんですもの。今朝もあなたを怒らせたでしょう。でも本当を言うと、こうしてペンを執る前に、わたし聖母さまの像にお祈りしたんです。そして今もお祈りをしながら、ほとんど泣き出しそうなんです。 わたしの秘密はもうあなたの手に握られてしまいました。明日おいでになった時、どんなふうにあなたにお目にかかったらよいか、わたしにはわかりません。アレクセイさま、わたしまた馬鹿みたいに自分が抑えられなくなって、今朝みたいにあなたを見つめるうちに、吹き出したりしたらどうしよう。だってあなたはわたしのことを、いやらしい冷やかし屋って思うでしょうし、この手紙だってまともには受け取ってくださらないでしょうから。ですからお願いがあるんです。もしこのわたしをかわいそうって思ってくださるなら、明日わたしの家にいらっしゃった時、どうかわたしの目をあまり見つめないでください。だってわたし、あなたと目が合ったらぜったいに笑い出してしまうし、おまけにあなたはあんなに長い服を着ているし……今でもそのことを���えると、体が冷たくなってしまうくらいなの。ですから家に入ってくる時は、わたしのことはしばらく見ないでくださいね。ママか窓の方を見てくださいね。 わたしとうとうラブレターを書いてしまいました。ああ、なんてことをしてしまったのかしら! アリョーシャ、どうか軽蔑しないでくださいね。何かひどく馬鹿なことをしてあなたを怒らせても、どうか許してくださいね。こうしてわたしの秘密はあなたに握られてしまったのです。わたしの評判は、もしかしたら永久に地に落ちてしまったのかもしれません。わたし、今日はずっと泣いてしまうでしょう。さようなら、次のおそろしい出会いまで。 P.S. アレクセイ、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに来てくださいね! リーズより」
あとがき
その後、アリョーシャとリーズがどうなったのかは、各自でドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を読むか、グーグル検索をしてご確認くださいませ。
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自己実現や己の幸の為もあれば、自己犠牲を冒してまで目的を成す為に時間・労力・生命を捧げる者も居ます。人は生まれた瞬間から死を迎えることが確定しています。どれほどの富や名声を得ても最期を迎えれば遺産相続者が居なければ「財産はすべて銀行の資産」となります。
誰もが"エジソン"並みの発明王である必要はないし、"レオナル・ド・ダヴィンチ"ほどの叡智が必要な訳でもありません。誰か一人が発見して突破口を拓けば後続が可能なのだと思います。
どこかには人々を導く為に生まれた者も居るのでしょう。
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
《和》の中に《個》はあるから、どちらか一方を尊重するべきか独断は出来ません。
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ECCジュニア田村町教室、ブタクサとセイタカアワダチソウは別物だということを、まあまあ最近知った中村です。
完全に、秋花粉の悪者だと思ってたわ。 ごめんね、セイタカアワダチソウ。 …まあ、要注意外来生物ではありますが。
さて、先日久し振りに今治に赴きました。 友と一緒に少しだけ、しまなみ海道を走ってきました。
自分はマイチャリ持参でしたが、友はレンタサイクルで、なんとママチャリを選択。 ちょっとした坂道もなんのその! 逞しすぎるだろ、と思っていたら、意外とレンタルママチャリで走っている人ともすれ違いました。
自転車ガチ勢じゃなくても、気軽にサイクリングできるようにしまなみ海道全体が設計されているってことですな。 いや、本当に、愛媛の道は走りやすいのです。
外国人のサイクリストとも、たくさんすれ違いました。 いや、むしろ外国の方の���が多かったくらい? いやー、私もいつか、違う国、走ってみたいものです。
しまなみの後、少し今治の街をぶらぶらしながら、今治城に行ってみました。 なかなか素敵なお城だったのですが、個人的に一番興味をそそられたのは、お堀。 日本三大水城の1つである今治城、その堀は海水を直接引き入れた構造になっています。 そのため、お堀の中に瀬戸内の魚たちが泳いでいるんですよ。 普通にチヌとかおるん、すげー。
んで、めっちゃ見ました、ボラ跳ね。 海沿いサイクリングしていると、時々見かけるのですが、ここの堀では、バッシバッシ跳ねとった。 まさかお城の堀で見ることができるなんて思っていなかったので、びっくり。 見たい方は、是非今治城へ。
ようやく秋らしい、良い気候になってきました。 読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋。 よく学び、よく食べ、よく動く。
健康に気を付けながら、まっとうに生きていきたい今日この頃です。
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2024.06 利尻観光
毎年恒例の利尻島。昨年の登���によりJALの夕方便であれば昼間登山→夕方飛行機で帰宅が可能であることが証明されてしまったので、今回もJALにて。ただし非常に面倒なのは、丘珠空港を使用しなければならないこと。
いつもお世話になっているゲストハウス。数日前に劇団ひとりが来ていたらしい痕跡を発見。びっくりして宿の人に問い合わせたら、「実は今日も泊まっているんですよ・・・・そっくりさんが(自称)」って言われて、あ~・・・・笑
0330起床、雨強く風強く、しかも寒い。6月にも入り最高気温11℃予報は、島民も異常な寒さだと言う。今回の装備では不適切のため、登山断念。山頂は体感氷点下だな。
ということで今日夕方まで観光することに。まずはこのゲストハウス名物の着ぐるみを着てのお見送り。自分は着なかったけど旗は振って一緒にお見送り。
その後は自転車でサイクリング。ゲストハウスにて一日3000円くらいでレンタル可能。もともとは宿から3合目登山口までの足として予約していた。電動のを借りたが非常に良い。島を1/3周してきた。
漁港にはヒトデがたくさん打ち上がっている。
サイクリングロードは気持ち良い、山が見えていればかなり良い景色になっていたはず。車道より非常に走りやすく、山登りしなくてもこれだけで結構楽しめると思う。
数年前にできたばかりのウイスキー蒸留所。なんでも、利尻島の気候が本場スコットランドとそっくりで熟成にいいんだとか。本日たまたま年に1度のイベントやるらしい、花火も上げるとか。ただし開始は14時くらいで、飛行機の時間が近いため参加は断念。
海岸
再びサイクリングロード、今度は正面が海
この時期はエゾカンゾウの見頃
嵐のように風が強い、向かい風で帰りの自転車が大変だった。
富士野園地は特にエゾカンゾウの群生が見られ圧巻。
食堂さとうにて海藻ラーメン1400円。爽やかな海藻の香り、強すぎず、塩味のスープと少し油の風味、やさしい海の風味。味楽よりこっちのほうが全然好き。
そしてお店をハシゴし隣の磯焼亭で昆布焼酎とウニ刺し(6000円;バフンウニのみ)。口の中に広がる、濃厚なコクと甘み豊潤。焼酎はお湯割り、水割りよりも昆布の香りと味が強く出る気がして・・・あと今日は寒いし。
今回はずっと天気悪い。また来年
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2024年おすすめ!国内で格安に楽しめる夏の旅行先!絶景とアクティビティ、美味しい食事を満喫しよう
夏の旅行を計画するとき、予算を抑えつつも素晴らしい体験を楽しみたいですよね。2024年の夏、国内旅行で格安に楽しめる観光地をご紹介します。絶景スポット、アクティビティ、そして美味しい食事が揃っている場所を選びました。 北海道・美瑛町:大自然の絶景とアクティビティ 北海道の美瑛町は、まさに自然の宝庫。美瑛の丘陵地帯は四季折々の景色が楽しめ、特に夏は色鮮やかな花々や青々とした丘が広がります。 青い池 ファーム富田 サイクリング 美瑛町の青い池は、その名の通り独特の青色に輝く美しい池です。周辺の木々が青く映り込むことで、幻想的な風景が生まれています。また、ファーム富田ではラベンダー畑が広がり、香りと色彩に癒されること間違いなしです。サイクリングも人気のアクティビティ。なだらかな丘を自転車で駆け巡りながら、景色を楽しむことができます。 広島県・尾道市:映画のような町並みと海の幸 広島県…
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台湾1周サイクリング
2024/06/05 - 2024/06/14 @台北~台北:約920km
登山の"ついで"、にしては相当ヘビーだし、なんならこっちの方がメインなんじゃないか、という感じもするけど…せっかくの機会だし、台湾1周サイクリングをすることにした。さすがに玉山登頂翌日の朝出発は乱暴だったかもしれない笑。睡眠時間足りてないし、足の疲労もある、その上自転車も組み立ててない。そんな状況でも、玉山から戻った夜は、やけにテンションが高かった。サイクリングが楽しみだったからだと思う。そんな風に感じたことは普段全くないから、なおさらそのままの勢いで出発してしまおう、と思ってしまった。
全部終わって振り返ってみると、やっぱりやってよかったと思う。1回目の退職記念にはキリマンジャロに登り、今回、2回目の退職を前に台湾1周のソロライド、10日間。5年近く勤めた仕事を振り返ったり、労ったり、次のステップに進む英期を養ったり、という意味で僕にはこれが必要だったんだと思う。贅沢ではあるけれど、(仕事を一切しない)長めの休みを取るのも久しぶりだし、職業柄、日常を離れて未知の風景を楽しむ、というのは大事なことだと感じる。幸い、体力とか装備、お金、といった大きなところの心配が不要だったことがハードルを大幅に下げてくれた。一見無謀とも思えるこのチャレンジも、実はそこまで大変なことではなかった。
真ん中に紐みたいな短い赤い軌跡が登山で歩いた距離・場所だから、台湾をかなり堪能したことが分かるな…。
1日目 (台北から新竹) 86km
6月4日、玉山下山後、夕方6時に台北着。そこから翌朝出発の準備を始める。自転車の組み立ては当然すんなりとはいかず、シンガポールからの移送中に前輪のシーラントがケース内で漏れまくっていた。慌ててシャワー室でスペアチューブを足して、なんとかタイヤが機能するように。結局、前輪はチューブあり、後輪はチューブなしの状態でスタートすることに。加えて、急遽買ったミニ空気入れが上手く使えず、40psiぐらいが限度だった。もうそれで���を打った。
泊まったホテル(Brother Hotel)が親切で、登山グッズの詰まったバイクケースを10日近くただで預かってくれるところだった (引き換えに計4泊滞在)。ホテルの部屋でバイクを組み立て、朝食、荷物を預けて、チェックアウトし、台湾でのライドスタート。ラッシュアワーを避けて、早めに出ようと思ったんだけど、いろいろもたついて、結局8時になってしまう。モロに交通量が多い時間帯。それでも幸い曇りだったし、バイクに異常もなく、無難にスタートできた。河原で記念写真を撮ろうにも、全然笑えない自分がいた。不安要素が多すぎたから、顔がひきつっちゃったんだと思う。台湾政府公認の1周路を辿るにしろ、道に迷わないかとか、事故の心配、荷物が気になったり、天気が心配だったり、ペース配分が分からなかったり、言葉が思った以上に通じなかったり、と最初の2日ぐらいは実はライドを心から楽しめていなかったかもしれない。とにかく細かいことで気が散っていた。
例えば、新しく買ったサドルバッグはこの時初めて取り付けて、僕のバイクと仕様が合わないことに気づく。がっちり固定できないうえに、たぶん荷物が重すぎた(か多すぎた)せいもあって、途中から徐々にずり落ちる事態に。つまり後輪にバッグが当たる最悪の状況。その上、台北出発から1時間も走らないうちに雨が降り始める…。雨対策も万全ではなかった。振り返ってみても、9日間のライドの中で、初日が本当にハードな日だった。右も左も分からないのに加え、結局、昼ぐらいから新竹のホテルに着くまでの数時間、ずっと強い雨に打たれながらの走行で、本当にやる気をくじかれた。ずっと濡れたままだったから、寒さにも襲われて、到着間際は顔が真っ白になっていた。夕方ホテルに着いたあとは、体を洗って、服類を乾燥へ。この先のライドが不安になる…。でも、長いマラソンなんだと理解して、気持ちを切り替えた。その日の失敗から学べばいい、ということでポジティブに捉える。サンダルが壊れ、急遽モールに買いに行ったことと、夕飯を食べただけの夜。
2日目 (新竹から鹿港) 131km
雨のライドがややトラウマになったけど、まあ進むしかない、ということで朝早くから準備開始。なるべくサドルバッグへの負荷を減らすように荷物を分散させて、濡れてもいいものはポケットに収納。レインコートは昨日に引き続き着てスタート。かなり改善。ただ、自転車をストレージにずっと放置したのは良く���かった。朝行くとチェーンにサビがつき始めてた。昨日のライド後に乾拭きせず、相当汚れていたのに、何もしなかったから。結局洗う術もないまま、とりあえず油をさして出発へ。2日目は長い海沿いのコース。事前情報では強い追い風、のはずだったのだけど、あまり風は強くない。途中からパラパラと雨が降り始め、また嫌な予感がよぎったけど、幸い快方へ。苑里で排骨酥麵の昼食後、午後には台湾で初めての太陽を見て、一気にテンションが上がった。晴れるだけで、こんなに嬉しくなれるとは…。ちなみにライド中は1時間半おきにコンビニ休憩・ランチ休憩を取ってた。イートインのできるコンビニはすごい重宝。お店に入る前にTシャツと短パンを重ね着して、それにサンダルに履き替えて、一応きれいさをアピール。おにぎり・パン、バナナ、ジュース類を補給して、ごみ捨て、トイレもさせてもらう。クレジットカードが使えるのも強い。自転車をガラス越しにチェックできるのもいい。台中を過ぎて、彰化市のバイクショップでクリーナーを購入、そして空気も入れてもらう。帰りがけにショップオーナーがエネルギージェルをサービスしてくれた。優しい。この日のライドが全日程中、一番長く、7時間ぐらい。さすがに集中力を維持するのは至難。鹿港という歴史のある街に到着。この宿はb&bスタイルのオシャレなところ(a day in Lukang)で、庭付き。そこでバイクの水洗いをして、チェーン諸々の洗浄ができたのはすごく良かった。ただその最中、蚊にものすごく刺されたのがのちのちまで辛いことに。
3日目 (鹿港から嘉義) 77km
この日はスーパーで買ったパンを食べてスタート。晴れ。正規のコースに合流するまで運河沿いを走行。最高に走りやすい道。お昼は斗南駅近くのバーガー屋さん。この日は一番短い距離を移動。雨の降る気配はほぼなく、この頃には天気予報のあてのならなさに気づく。梅雨の時期でもあり、雨とか雷雨が24時間・1週間連続で予想はされてはいたものの、結局晴れや曇りの場合もすごく多かった。この日以降は、レインジャケットはバイクのフレームに括り付けて、結局最後まで使わなかった。
ホテルには3時ぐらいには到着。お腹がすいて街の方まで歩いていくことに。その途上で再認識する台湾のスクーター・原付文化。これらのためのインフラがあるからこそ、自転車ロードの整備がさほど無理なくできるんだろうなと思った。車とは別の自転車専用レーンがほぼずっとあるから、危険性をほとんど感じずに走行できる。サイクリストにとっては最高な環境でしょう。"環島"の標識や、所々ブルーの線がひかれていて、道しるべとしてもかなり助かる。その反面、台湾は歩行者にはそこまで優しくない気がした。歩道がなかったり、物で塞がってたりという感じで、歩くのには向いてないように思った。
嘉義の街の中心に移動して、現金をおろして(鹿港ではカードがあまり使えなかったから…)、あとは、焼肉丼大盛り定食をぺろり。この旅中、カロリーの高いものをいっぱい飲み食いしてた。と同時に、清涼飲料水からの糖分の摂りすぎも若干気になって、途中麦茶に切り替えたりもしてた。ジェル類は一日に一つか二つの消費量。
4・5日目 (嘉義から高雄 + 休息日) 123km
台湾西側は平地の中の街や田園地帯を抜けたり、大きな川をこえたり、日本と同じアジアモンスーンの風景が展開されていく。シンガポールにいると分からない、農のある風景;特に稲のある風景というのは日本人の心象風景として心地よい。6月なのに穂が大きいのは亜熱帯地域ならではの特徴だと思った。2期作なのかな。あと、南部に行けば行くほど、果物の作付けも多く、ちょうど今はマンゴーの季節だった。ランチスポットでうまく止まれず、台南新幹線駅までいっきに行く。駅ビルの中に一風堂を見つけ、つい入ってしまった。自転車持ち込みは難しいかな、と思いきやちゃんと預かってくれた。
その後も新幹線と並走しながら、高雄に近づく。晴れた土曜の午後は交通量が多く、市内はやはりちょっと怖い。高雄中央公園の近くの宿で2泊。さすがに休憩日を設けたのは正解だった。足を休めたり、服を洗ったり、バイクメンテしたり、公園でボケーっとしたりする時間は必要だった。翌日曜日は港近くで、ドラゴンボートでのレースを見たり、あと港湾部の再開発地域を見て回っていた。古い倉庫群跡地をカフェやショップにリノベーションしているエリアは特に面白い。建築デザインも多様。大きな再開発エリアを巡るのにも、いろいろなモビリティがあるのも今風でとても参考になった。
6日目 (高雄から車城) 88km
朝は高雄にちょうど帰省中の元同僚と会って、朝食を一緒にした。一緒に写真を撮ると自分の日焼けが突出する。曇りや雨の日でも日焼け止めが大事なことを思い知る。ソロライドの中において、久々に長々と話ができたのは良かった笑。それにローカルの人が食べそうなものを大量に注文してくれて、しかも奢ってくれたからもう感謝しかない。スタートが10時過ぎ、ということで、ランチをスキップ。真っ直ぐで平な道をひたすら南下。走りやすいところはDHポジションで自転車をこいでた。断然楽。やはりトライバイクの強みはそこなんだけれども、でも出番は正直あまり無かった。今旅もロードバイクやグラベルバイクを勧められたけど、実際トライバイクでも全く問題なかった。ただ、トライアスロンバイクを旅仕様に使ったのは、むしろ罰当たりな感じがした。唯一良かったことは、池上という東部の街で突然少年が話しかけてくれて、「僕もトライアスロンやってます。同じスポーツをやる者同士、応援してます」、と言って、お菓子を1袋くれたこと。些細なことだけど、そんなことが一生の思い出になった。
車城まで来ると、山と海に囲まれたのどかな田舎、という感じが強くなって、宿もかなり広い。部屋の目の前には畑と山。何人か同じくサイクリストを見かけたのはこの辺りが多かったと思う。最南端まで行くルートもあるのだけど、僕は公式ルートを選択したことで、若干のショートカット。翌朝のヒルクライムに備えて、その晩はガッツリ羊鍋を食べて就寝。
7日目 (車城から台東) 117km
この日は序盤にヒルクライムがあってからの東海岸沿い(太平洋側)を北上するルート。”来てよかった”、と初めて思ったのはこの辺かもしれない。ここでしか味わえない景色を堪能できたから。
ヒルクライ��は500mぐらいのアップのようで、実はそれがどれほどのものなのか想像ができず、当初はかなりびくびくしてた。雨もパラパラと降る中だったから、かなり慎重で遅い登りだったけど、そこまで大変なものじゃなかった。むしろそのあとの長い下り坂が天国に感じられて、幅広��道路を一人占めしながら風をきって下れたことが最高だった。山エリアを抜けると、海岸沿いの道をずんずん北上。海を右手に、山を左手に見ながら、最高の景色を楽しむ。太平洋側は向かい風がきつい、という事前情報もあったけれど、そんなことはなかった。一部エリアで、進む道の先に、海と空が繋がってるように錯覚できる場所があって、まさに空に登っているような感覚をあじわえた。だけど、風をきって気持ちよく走っていた矢先に石(か何か)を後輪が踏んずけてしまい、大きな鈍い音がする。マーフィーの法則、じゃないけど、気分の良いときに限って、そういうアンラッキーなことが起きる。その直後は大丈夫そうだったけど、台東に着いて調べたら、やはりタイヤに穴が空いていた。シーラントのおかげで、全部の空気が抜けるところまでいかなかったよう。台東のホテルでは持っていた最後のスペアチューブを入れて修復。その後、ジャイアントのお店にタイヤを持って行って空気を満杯に入れる。空気入れは結局、台中、高雄、台東の3箇所で借りて補充したことになる。ジャイアントのお店を多用したけれど、どこもみんな親切。お昼は原住民の人たちが住んでいる地域のおしゃれなカフェで食べて(双亭院)、ホテルは台東の旧駅舎の目の前で、アートによる再開発エリア内だった。ここのホテルが唯一部屋に自転車を持ち込んでいいところで、ちょうどタイヤの修理をする必要があったから本当に助かった。
8日目 (台東から瑞穂) 100km
この日も快晴の中、景色を楽しむ最高のライドができた。米どころ、の池上ではご当地の池上弁当を食べて、のどかな田園地帯をゆっくり北上していく。夜は瑞穂という温泉街で、少し奮発して高い宿に泊まる。プライベート露天風呂で足の疲れを癒す。
9日目 (瑞穂から礁渓) 87km
瑞穂の宿で朝食をとってからさらに北の花蓮駅まで急ぐことに。というのも花蓮と宜蘭の間は、急峻で道路も狭く、トラックも多い、ということで公式ルートでも列車での輪行を勧めている区間。そのため、1時間に1本弱、という自転車をそのまま乗せられる列車に乗るために、ひとまず駅に向かう。この地域を襲った地震が起きてから1か月半ぐらいの時期だったけど、その爪痕を感じさせないくらいに日常を取り戻している印象。駅で1時間ぐらい待つ間にお弁当を食べて、その後、スムーズに乗車。僕以外にも数人自転車を載せている人たちがいたけど、みんな結構適当な感じで乗せてた。1時間ぐらいの乗車区間だったけど、窓からの景色は絶景だった。僕は羅東という駅で降りて、そこから礁渓という温泉町まで20kmぐらいさらに自転車で進むことに。山の近くの活気ある観光地、という印象かな。おしゃれな宿に泊まって、2日連続でプライベート温泉を楽しむ。ローシーズンということもあって、お客さんの数はまばら。でも質はすごく高いし、値段もそこまで高くない。
10日目 (礁渓から台北) 100km
ようやく最終日。この日まで無事に走行できたことに感謝。朝、礁渓の街をぶらぶらして、蘭陽博物館に立ち寄ってからのライドスタート。強いて言えば、この日はわりかし辛かった。トラックがとにかく多く通る海岸線の道はものすごく走りづらかったし、1時間ぐらいは雨に降られたこと、それから、台北近くのルートは自転車レーンがなかったり、交通量がとにかく多かったり、ルートが紛らわしかったりと、イライラすることが非常に多かった。疲れと焦りとゴールへの期待が全部混ざって、複雑な気分だった。それに2ヶ所トンネルを通るところがあったけど、(事前情報とは異なって)普通に車道の脇を走らされて、結構怖い思いもした。それでも、台北に近づくにつれて、旅の終わりに向けた高揚感が高まってきて、松山駅に着く頃はかなりの喜びだった。本来は0kmのモニュメントは出発時に立ち寄るべきなんだけど笑。その後、Brother Hotelに向かって3駅分、大通りをさらに進むことに。ホテルに着いた時もかなり感動した。行きはホテルを西に向かったのに、今回は東からたどり着いたわけだから。とにかく10日は長かったー。でも無事に帰ってこれたことが素直に嬉しかった。その日は、友人の友人の旦那さん、という方がご飯をご馳走してくれて、なおかつ車で市内をプチ観光案内してくれた。感謝。翌日はホテルの一角を借りてバイクパッキングをして、その翌日の早朝にシンガポールへの飛行機に乗ったとさ。
まとめ
たぶん台湾1周サイクリングは誰でもできると思う。(ある程度普段からサイクリングしている人は)体力的な心配はそこまでない気がした。走りやすいし、コンビニもたくさんある。むしろ、それだけの時間を確保できて、なおかつ、その時間をこういう体験に費やしたいか、の問題な気がする。事前にこのアイディアを思いついたときに、面白そう、と思ってしまったことがそもそもの発端で、取り憑かれたら最後、やるしかない。これをフィーチャーしたYouTuberさんの動画に触発された部分も大きい。以下2つ、すごく参考にした情報元を載せておく。
https://www.bikeexpress.com.tw/ja/2024/the-classic-9-day-cycling-around-taiwan-along-cycling-route-no-1-or-alternative-routes-jp/
https://discover-ride.com/taiwan1000km/
プラクティカルなことを言えば、僕の場合、荷物を長期間預かってくれるホテルを探すこと、サイクリストにフレンドリーなホテルを探すことが当初心配だった。今回の旅の経験からいえば、1泊1万円ぐらい(あるいはそれ以上)のところはかなりその辺の融通がきいたように思う。一般化はできないけど。一応、予約の際に、その旨を伝えておいた。全般的にホテルスタッフは優しくて、サービスも良かった。予約に失敗して、Refundできないだろうなー、という場合でも優しく対応してくれた。あとは、空気入れをどうするか問題に関しても、立ち寄った町の自転車屋さんで借りれば、問題なく走れる。
あと細かいことでいえば、中国語が少し話せたなら、もう少し楽しかったのかもしれない。英語と日本語が思いのほか通じず、例えば、同じサイクリストに話しかけられても、全く会話ができなかったり、おすすめの料理が分からなかったり、という場面も結構あった。次にまた台湾へ行く楽しみを取っておくことが出来た、と思えばいいのかなと。
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WAKKA / 大三島
わっかとは? WHAT IS “WAKKA”?
しまなみ海道のど真ん中、大三島のツーリズム総合施設です。サイクリングとしまなみ、 日本のポテンシャルを最大限に発揮できるよう、必要とされることを全て提供する事を追求します。
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