#くすかき奉加帳
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令和5年3月29(水) その2 -くすかき🍃 @kusukaki_dazaifu ・ いざ4日目の 「くすかき」へ 初日よりも 落葉していて 集められた葉っぱが 大きな山になりました 1000年生きた樟のもと 1000年続くことを 目指したプロジェクト 新しい若葉の芽吹きは 自分も新しくなるようで 気持ちのよい朝でした✨ 🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃 くすかきのうその餅 店頭では 4/1(土)-16(日) 限定販売いたします お取り置きもいたしますのでお電話ください😉 📞092-922-4058 落葉した葉っぱのそぼろを 松葉ほうきで掻くと 緑の若葉が現れます🍃 うその餅で くすかき体験ができます✨ ほうきあり1箱1780円(税込) 🍃松葉ほうきなし 1箱1280円(税込)です! 松葉ほうきにかぎりがあります🙇♀️ ・ ミニ梅守(くすかき印)も 期間中販売しております ・ くすかきは「くすかき奉加帳」という 寄付制度で運営されています 詳しくはコチラ👇 https://igayasu.com/ kusukaki/houga/ くすかき奉加帳のお礼の品として ・青梅餡の薄だね 「令和の翠(くすかき印)」 ・樟の葉を詰めた芳樟袋 ・樟脳を包んだ樟香舟 くすかきの終了後に 「樟と梅」という太宰府の春の香りが届けられます✨ 奉加帳へのご参加もどうぞよろしくお願いいたします🙇♀️✨ 梅園菓子処 営業時間 10:00-17:00 🟩店休日 4/3(月)10(月)、17(水)、24(月) TEL092-922-4058 FAX092-928-0383 住所:太宰府市宰府2-6-16 西鉄電車「太宰府駅」から徒歩1分 *参道に入って右側5軒目 *大きな看板が目印です ️*全国発送承ります #梅園菓子処 #太宰府梅園 #太宰府天満宮御用達 #うその餅 #ラムレーズン宝満山 #銘菓宝満山#よろつよ#裏千家#表千家#太宰府みやげ #太宰府和菓子#太宰府天満宮#ミニ梅守#うそ鳥#太宰府銘菓#博多人形#土うそ#郷土玩具#九州国立博物館#神戸智行展#くすかき#くすかき奉加帳#くすかきのうその餅 (梅園菓子処) https://www.instagram.com/p/CqX3L0Pv8Xg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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安倍晋三元首相の銃撃事件から1週間が過ぎた。母親が宗教団体に多額の寄付をしたことで家庭が破綻(はたん)し、恨みを持っていたという山上徹也容疑者(41)。その母親と同じ団体の元信者が、幼いころの山上容疑者の様子や、当時の母親の信仰心の強さについて語った。 「かわいらしい子だったのに、あんな事件を起こすなんて信じられません」 そう話すのは、旧統一教会(現、世界平和統一家庭連合)の元信者の女性だ。 「かわいらしい子」と表現したのは、安倍元首相を銃撃し、逮捕された山上容疑者のことだ。 この元信者の女性は、山上容疑者の母親が30年近く前から旧統一教会に傾倒し、多額の寄付をしていたことを覚えており、当初は旧統一教会側も母親を大事にしていた印象があったという。 「統一教会は、山上容疑者の母親が入信したときに家系図を書かせ、預金通帳も供養するからとチェックして、こと細かに事情を聴いて資産状況を知っていたからです。山上容疑者の祖父が亡くなると、相続人の一人が母親であることをすでに知っていたようです。お母さまに、山上容疑者の祖父が亡くなる前に大阪府内の家を売却させて、法外な2千万円を寄付させていました。その時は、統一教会の幹部もすごくうれしそうな表情で、『神の祝福がある』というような話を信者の前でしていました。お母さまも『祝福があるはず。とてもうれしい』と話していました」 そして、山上容疑者の祖父が死亡すると、母親はすぐに、経営していた奈良市内の建設会社の不動産も売却した。 「三つの物件で1億円近くを寄付されていました。また、祖父の会社のお金も出していたようです。お母さまは統一教会の狙い通り、ほとんどを寄付して、その結果破産しました」 山上容疑者の祖父が大阪府に所有していた家の不動産登記簿を調べると、1998年8月に売却されていた。周辺の不動産評価から、2千万円前後だったとみられる。そして2002年には破産しており、元信者の女性の証言と符合する。 女性によると、山上容疑者の母親は熱心な信者だったという。山上容疑者の父親が自殺し、祖母も早くして亡くなった。不幸が続き、母親の不安や悩みに旧統一教会が付け入ったという見方だ。 「山上容疑者本人を見たのは、お母さまに誘われてご自宅にうかがった時です。『長男(山上容疑者の兄)は体が弱くて大変なの。けどこの子は元気いっぱいです。私が(統一教会を)信仰しているおかげです』とうれしそうに語っていました。山上容疑者が高学年だったかな。あいさつもしっかりしていて、はきはきした感じで。あんな事件を起こすなんて夢にも……」 女性はそう振り返った。さらに、自宅内に置いてあった統一教会関連の商品を見て驚いたという。 「一��建てのご自宅には、統一教会のつぼだけで三つか四つはありました。他にも数珠、印鑑、多宝塔に、1冊何百万円という本などが山のように。時の宴ペンダント、ぶどうの実ペンダントなど1個何百万円もするようなものも並んでいました。私はお金に余裕がなく、活動で教団に尽くしてたので、(山上容疑者の家は)すごいお金持ちなんだなと思いました。お母さまは『統一教会の教えを守って、ご先祖様を供養したい』と話していました」 千葉県内の女性が旧統一教会に購入されられたという商品の一部(2008年撮影) 千葉県内の女性が旧統一教会に購入されられたという商品の一部(2008年撮影) そのころ、旧統一教会は霊感商法が社会問題化し、歌手の桜田淳子さんら著名人が韓国での合同結婚式に参加したことが、大きな騒ぎになった。 そのなかでも、旧統一教会は全国にある支部に毎月、「ノルマ」として寄付集めを競わせていたという。 「私の知る限りですが、支部には毎月、寄付の目標があります。例えば『今月は1千万円の寄付を目標に』と幹部が押し付けます。しかし簡単に達する金額ではありません。幹部は資産があるお母さまを頼るのです。それが幹部の出世につながる。お母さまは、最後、統一教会に言われて消費者金融にまで手を出して破産したと聞きました。それでも信仰を続けました。だけど統一教会は、お金がないと思ったのか冷たくしていました」 全国霊感商法対策弁護士連絡会の加納雄二弁護士は、 「統一教会の収入のうち、7割が日本からで、寄付、霊感商法、合同結婚式の参加費用関連などで占められているようです。寄付のノルマを課し、信者や支部の責任者としてはやしたて、より多くのカネを集めようとしていた。それは、統一教会がダミー会社を設立して、セミナーを開催し、高麗人参などの健康食品や家系図などを販売する手法とも同じです。ダミー会社が違法な販売で、刑事事件となり有罪判決となった例もある」 と説明する。 霊感商法で売られていた壷(1987年撮影) 霊感商法で売られていた壷(1987年撮影) 山上容疑者の母親は、統一教会の聖地とされる韓国・清平(ちょんぴょん)の教団施設で、40日間続けて行われる「HJ天宙天寶修錬苑」に何度も参加していたという。修行の内容は、ヨガやビデオの視聴、講座、祈とうなど。1回につき、渡航費を含めて100万円近くの費用がかかるそうだ。 元信者の女性が話す。 「修練会に行くというのは、修行のようなものです。多額のお金がかかり、40日と長いのでそう簡単に参加できません。信者が修行に行くというのは、支部の幹部にとっても統一教会本部へのアピールになります。お母さまは病気がちの長男を連れて親子で参加していたこともあります。『ご先祖様も安心され、長男の病気も治るはず』と言っていました」 一方で、元信者の女性は統一教会への不信感が募っていったという。 あまりに頻繁に寄付やつぼの購入などを要求され、出す人が優遇されて、出せない人は幹部からつるし上げられる。元信者の女性は、家族から「絶縁する」と言われ、周囲からの説得もあり、脱会を決意する。入信してから7、8年ほどした時だ。 「山上容疑者のお母さまからは『一緒に続けましょう』と何度も説得されました。私が脱会の決意をしたのはお母さまの破産も一つのきっかけでした。それまでお母さまを大事にしていた支部も、『金の切れ目が縁の切れ目』とばかりに、粗末に扱うようになりました。また、お母さまの親族が統一教会に入信していなかったことに幹部は『信仰が足りない』なとど叱責(しっせき)していました。今思えば、お母さまの親族が安定した仕事についておられたようで、統一教会はさらなる寄付がほしいと考えていたようです。幹部の言うことは絶対の統一教会。お母さまはいくら叱責されても、グッとこらえていました」 加納弁護士によれば、 「統一教会は、信者の家族、親族を入信させて親子何代と続けて、寄付させて、カネもうけの道具にする。そういう集金の構図をすでに完成させてします。だから、信者になると家族、親族を絶対に入信させようとするのです。ゆえに統一教会2世、3世が苦境に立たされている」 と指摘する。 高校時代の山上徹也容疑者。応援団員として活躍した=卒業アルバムから 高校時代の山上徹也容疑者。応援団員として活躍した=卒業アルバムから このように指摘される寄付について、世界平和統一家庭連合の広報部に問い合わせた。 ノルマのようなものがあったかどうかについては、 「ノルマはないです。2009年以前は、ノルマではないが、教会長によっては行き過ぎた献金指導がありました。その代表的な例として、『家土地売って、財布を置いていけ』というのもありました。教会長は罷免(ひめん)になりましたが、そういったことも含めて反省があり、09年にうちの法人の会長が謝罪し、離職しました。その後、コンプライアンス宣言をして、法令順守を掲げ、鋭意体制を見直しながら、より良い教会づくりに努力しています。今はそういったものはありません」 と回答した。韓国・清平の教団施設の件については、 「『清平40日修練会』といいます。修行の内容は、ヨガ、ビデオの視聴、講座、祈祷のほか、奉仕活動、原理講義の受講、奉読などです。コロナ禍になって、韓国では集団での集まりが規制されたので、この2年間くらいは日本からの参加者はいません。韓国でも修練会はストップしています。(山上容疑者の)母親が参加していたかどうかは把握していません。母親と連絡もとれていません。奈良家庭教会も、脅迫のような電話がかかってきたため封鎖しており、確認が難しい状況にあります」 と説明。参加費が100万円かかるという点については、 「渡航費も含めて100万円はかかりません。時期によっては渡航費が高くなりますが、修練会費だけでいえば、���食も含めておそらく40万円くらい���韓国のホームページでは修練会費は70万ウォンと記載があるので、今なら7万円程度です。正確には調べてみないとわかりません」 と話した。 また、信者の家族、親族を入信させて親子何代と続けて寄付させるという指摘については、 「信者の家族や親族、友人知人を入信させていくのは、氏族伝道といいます。かつては訪問伝道、街頭伝道が主流でしたが、09年以降は氏族伝道になりました。宗教法人なので一番大事なのは布教。信者が増えないと話にならない。信者が増えると、月々の『11条献金』(月収の十分の一程度の寄付)が増えます。人が増えると献金が増えて、教会の運営も盤石になります。とにかく布教が一番になります。09年以前も、家族や友人などへの伝道はやっていました。ただ、氏族伝道という言い方はしていなかったと思います」 と話した。 旧統一教会への恨みから安倍元首相を殺害するという前代未聞の事件。山上容疑者の犯行動機の背景が明らかになるには、旧統一教会との関係が最大のポイントになりそうだ。 (AERA dot.編集部・取材班)
【独自】旧統一教会の元信者の衝撃告白 私が見た「山上容疑者」と母親の「法外な献金」 | AERA dot. (アエラドット)
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すずめの御朱印帳
2023.06.05
あなたも『すずめの御朱印帳』と一緒に、日本中の神社仏閣を巡ってみませんか?
このアイテムは、ずっと“雀の御朱印帳”を探しておられた、あるフォロワーさんのリクエストで誕生しました!
稲の柄を背景に、表紙の中を所狭しと飛び回るすずめの絵柄は「豊穣」「自由」「健康」「喜び」をイメージしたものを採用。
絵柄に採用されている写真(稲、雀)は、スズメ写真家うえだこうじが撮影したもので、サイズは小さなバッグにも収まる使い勝手の良いものとしました。
数に限りがございますので��購入ご希望の方は、お早めにお手続きをお済ませください。 ご不明な点がございましたら、当ショップにお問い合わせください。
【詳細情報】
本体サイズ・重さ(約):横113mm・縦160mm・厚さ14mm・重さ160g
表紙加工:マットPP(表紙厚み3mm)
本文紙:奉書紙(白)
ページ数:24折(両面48面)蛇腹式
生産国:日本
※安心して持ち歩けるビニールカバー付き!
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目9箇所目 2021/6/27ー28
能「壇風」「田村」
水俣観音堂 《 糸魚川市水俣 》 水保観音堂の創建は不詳ですが泰澄大師が養老年間(717~724年)に開いたとも弘法大師空海が大同元年(806)に開いたとも云われています。
その後、坂上田村麻呂が当地を訪れた際、境内が整えられ寺院として草創したそうです。当時は吉祥院に属し、信仰を広げ最盛期には七堂伽藍を備た大寺院として周囲にも大きな影響力を持ちました。古くから神仏習合し隣接する日吉神社の祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により吉祥院が廃寺となり日吉神社と観音堂だけが残され現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。
水保観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門���ったことがわかっています。水俣観音堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、桁行5間、梁間5間、平入、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き、中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。
寺宝には大正12年(1923)に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳、身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となり住民からは「水保の観音さん」と呼ばれています。)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。 この仏像は、桜材の一木造りで、高さ1.548メートル。 平安時代中~後期(藤原時代)の作と推定されています。丸のみを横に用いて荒っぽく削る「鉈彫り」の技法で作られたものです。 この��法で彫られた例は新潟県には2例しかなく貴重な仏像です。 一般公開は33年に1回です。(平成16年8月27日~29日に一般公開されました)
又、水俣観音堂には鎌倉時代に後醍後天皇の倒幕に加担し佐渡に流され、本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が十一面観音の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝のもの思われる墓(五輪塔)もあります。毎年5月1日に行われる例大祭では日吉神社の神事の後、観音堂まで神輿渡御が行われ、さらに境内で神楽が奉納される神仏習合の名残が見られます。
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「備品管理クラウド」のアプリに貸出管理機能を追加 〜借りたい人が借りたいものを自分で選ぶ!スマートな貸出管理が可能に!〜
アストロラボ株式会社(所在地:東京都港区、 代表取締役:日下ヤスユキ、 ��下アストロラボhttps://www.astrolab.co.jp/)が提供する会社の備品・消耗品を、画像認識AIやAmazonビジネスとの連携でかんたんに台帳登録・管理できる「備品管理クラウド」に、この度、専用のスマートフォンアプリに貸出管理ができる機能を追加しました。 貸し出す人ではなく、借りたい人が借りたいモノを自ら備品管理クラウドで検索し貸出・返却業務を行うため備品管理担当者の手間を大幅に削減することができます。 例えば、「映像編集できるパソコン貸してください」と言われても、貸し出す方はそのスペックのパソコンを探すのが大変。 しかし、備品管理クラウドならスペック情報も自動登録されるので、スペックから必要なモノを利用したい人が自ら探すことが可能。借りたい人が借りたいものを指定するので、許可するだけ。 見つからないからまた買うということも減るので、無駄な出費を抑えられサスティナブルな活動にも繋がります。
■今回のリリースでできること 備品管理クラウドのスマートフォンアプリに「貸出管理機能」が追加されました。これにより、これまでブラウザのみで対応していた、貸出申請、承認、貸出開始、返却がスマートフォンアプリから行えるようになりました。 これまで備品の貸出を行う場合は、備品管理クラウドで借りたい備品を検索し、借りることができる備品を探す必要がありましたが、スマートフォンアプリではアイテムのQRコードを読み取って貸出申請・返却がかんたんにできるようになりました。
■QRコードから備品を借りる場合
1.QRコードを読み取る 専用アプリから読み取ります。 2.貸出申請 備品の使用期間、場所、使用者、を入力し管理者に申請します。 (承認が不要な場合は申請後、使用開始が可能)
3.貸出の承認 管理者が貸出申請を承認もしくは却下します。
4.使用開始 承認後、使用が開始できます。
5.返却 返却ボタンをタップするだけで完了。 ■「備品管理クラウド」とは 「備品管理クラウド」は、手軽に導入できる法人向け備品・資産管理クラウドサービスです。PC、タブレット、スマートフォンからWebブラウザーで使用でき、備品の登録をかんたんにするスマートフォンアプリも用意されています。 独自の製品情報マスターと、岡山大学の研究室と共同で開発した画像解析技術により、JANコードや製品ラベルを撮影すれば、かんたんに製品情報を登録することができます。 税務に必要な情報も合わせて一元管理でき、各種大手の会計ソフトとの連携で税務処理も簡素化できるのが特長です。 (備品管理クラウドサービスページ:https://www.astrolab.co.jp/bihinkanri/) <「備品管理クラウド」の主な機能> 1.スマートフォンやタブレットからかんたんにアイテム登録が可能 岡山大学の研究室と共同で開発した画像解析技術により、JANコードや製品ラベルをスマートフォンのカメラで撮影するだけで登録が完了。AIが画像を解析し、物品の名称やスペック情報なども自動で登録します。アイテムの登録とあわせて保証書やマニュアル、付属品も掲載できるので、別々に管理をする手間を減らせます。
2.備品を一発検索し、貸出・返却もかんたんに 総務担当者が貸出や返却の事務処理をする手間がなくなります。貸し出した物品を備品管理クラウド内で、誰が・いつから・何を持っているのかの確認も可能です。また、社員がスペックを確認しながら該当する機材を確認してスマートフォンから貸出申請をすることができます。あらかじめ貸出予定日や時間を申請しておくと該当の物品は確保されるため「使いたいときに物がない」といったことも防止できます。物品を持っている各担当者が棚卸をできる機能もあります。
3.QRコード付きの備品管理ラベルを発行できる キングジムのラベルライター「テプラ」と備品管理クラウドのスマートフォンアプリを連携することで、備品管理クラウドに登録したアイテム情報をもとに、備品管理ラベルを印刷することができます。 ラベルのQRコードをスマートフォンのカメラで読み取ると、備品の詳細情報のページに飛び、情報を確認できます。
4.固定資産情報も一元管理が可能 固定資産管理ソフトで管理していた情報を、備品管理クラウドに連携できます。固定資産の情報と物品の情報を一元管理できるため、購入時や減価償却の処理などの効率化が可能です。 <連携可能な固定資産管理ソフト> ・株式会社NTTデータ:税務申告ソフト「達人シリーズ」 ・株式会社OSK:ERP/基幹業務システム「SMILEシリーズ」 ・ピー・シー・エー株式会社:「PCA固定資産DX」 ・株式会社オービックビジネスコンサルタント:減価償却/固定資産管理システム「固定資産奉行」 ・応研株式会社:「大臣シリーズ」
5.「導入支援サービス」でかんたんに始められる ��入支援サービスとは「備品登録の人員を確保できない」「これまで使ってきたデータを引き継ぎたい」 など、導入時の課題を解決するためのサービスです。 QRコード付きの管理番号の発行や備品の登録を現地でサポートする「らくらく管理パック」と、 スプレッドシートで管理していたデータの移行作業を代行する「ひきつづき管理パック」を用意しています。
6.Amazonビジネスと連携 『備品管理クラウド』は国内唯一のAmazonと連携している備品管理ツールとなりました!Amazonビジネスで購入した物品の情報が自動で備品管理クラウドに取り込まれ、かんたんに登録できます。
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おはようございます☕🥐🎌 今日はいちだんと冷えるね❄ 昨日の大書き作業を経て、印刷物拡大コピーしてくるわ😂それに、通帳繰越対応ATMのある銀行行くからついでにアメノチハレウィンターミーティングのサイレントアピールしてくる😂 1月31日、青森いのちのネットワーク主催の講演会が藤崎町文化センターで開催されます。チラシのスクショごらんくださいませm(__)m ウィンターミーティングも2月25日の土曜日も忘れずに😂 今朝はメン募告知する〜😂 アメノチハレホームページ更新しました(実施事業、これからの予定、オープンカフェ12月4日開催分、2023アメノチハレウィンターミーティング追加いたしました) https://amenochihare-lgbts.jimdofree.com/ そら@傾聴ボラ始めました。こちらでも相談業務窓口です。以降よろしくお願いいたしますm(__)m https://instagram.com/so2ra93?igshid=YmMyMTA2M2Y= 12月10日の土曜日にInstagramライブ配信をやってきました🌈世界人権デーに合わせて制定された弘前市パートナーシップ宣誓制度施行のお祝い&夜間ライトアップの生配信😂ぶれまくりは勘弁してください😂 https://www.instagram.com/tv/Cl-uaQhgo9h/?igshid=YmMyMTA2M2Y= この週は生配信でカメラブレまくりだったので静止画撮影してまた、冬の弘前の魅力をうんちくとして語ろうと思います(やるかどうかはわからない) メンバー募集中(^-^) アメノチハレは秋から冬にかけてめっちゃイベントぶっこんでます(笑) アメノチハレ弘前レインボープライド with HEVENS✩CLUB(アメノチハレプライドパレード)来年度に向けてです アメノチハレウィンターミーティング(令和5年2月25日、土曜日、午後1時受付、ヒロロ3階多目的交流室で決定)などなど 来春からまたアメノチハレクリーンアップ(清掃奉仕活動と言うらしい) 他にもアメノチハレ企画でイベント、交流会をやりたいので企画段階から参画出来る中核メンバー募集中です(^-^)弘前市まちづくり1%システムも該当するためにも一緒にやりませんか?アイデア持ち寄ったら実行に移そうよ😄 無理なくですが、週一回?月一回でも定例会を開いてみんなで企画立てて決めてみんなの街そのものを元気にしたいです。小道具作りなんかもやりたい♂️♀️⚧️ 誰か一緒にアメノチハレやろうよ(もれなく役職付きそうな勢いなんですが無理なく楽しく笑って笑って活動しようよ) 条件は、無理なく参画出来る方(笑) 代表のじゅんちゃん絡み倒したい方(笑) 属性気にしない方🏳️🌈🏳️⚧️🏴☠️ ちなみに中核メンバーさんにはボランティアスタッフ公募で集った場合は、やはりまとめ役はお願いしたいなぁ🤗 弘前市民の方でしたら、役所関係(主に使用許可申請関係です)の活動も😁(難しくありません。書類は私が持っていく😂) まぁ、私を見かけたらお話しましょう🌈 合言葉は「アメノチハレ」やりたい❤️で😂 (川部駅) https://www.instagram.com/p/CnfqU6TBR8m/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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武井武雄 刊本作品リスト
※参照: Results – Advanced Search Objects – Museum of Fine Arts, Boston | Artist/Maker: Takei Takeo | DATE OLDER FIRST
※参照: 出品目録:所蔵作品展 「武井武雄 刊本作品の世界」(2021年6月22日-9月12日)PDF
※上記PDF目録を元にMFAの該当ページをリンク
※「技法・素材」の()は「原書に記載が無い」意味で記入
※「001 十二支絵本 1935 (一色凸版)」のみMFAには無い
※参照: Takeo Takei#Books_of_various_materials_(Kanpon) - Wikipedia
※参照: TAKEI Takeo : Kampon - Boston Book Company (web archive)
※可憐判No.を追記(一部自己解釈) 20220209
※「Keep reading」以下 139 lines
刊本No. タイトル 刊出年 技法・素材
001 十二支絵本 1935 (一色凸版)
002 雛祭絵本 1936 (凸版筆彩)
003 諸国絵馬集 1937 (二色凸版)
004 善悪読本 1938 (二色凸版)
005 童語帳 1939 (自刻木版可憐判1? )
006 畑の豆本 1940 (スクラッチ版)
007 本朝昔噺 1941 (合羽版)
008 十二時之書 1942 (石版)
009 伊曽保の絵本 1943 (アップリケ原色版)
010 風村三代記 1944 (伝承木版)
011 燈 1945 自刻木版
012 KOKESHI 1946 伝承木版
013 僕の哥留多 1946 自刻木版
014 お猫様 1947 (自刻木版 活版)
015 牡丹妖記 1948 木刻拓本摺
016 のえる之書 1949 自版糊染本
017 乞食の本 1950 自刻木版
018 聖AGNES之書 1951 木口木版
019 もりどんの話 1951 自刻木版(可憐判2)
020 あいそぽす・ふあぶら 1952 VARI-TYPE・木版
021 菊妖記 1953 レリーフ 拓本
022 秒間の符 1953 CHORD PRINT 條版
023 天竺の花 1953 陶版
024 ARIA 1954 層版・紙拓
025 折鶴物語 1955 瓦版
026 胡蝶散策 1955 三色凸版 胡蝶型
027 姫の尺牘 1955 友禅
028 霊長異聞 1956 WOVEN LABEL
029 第五の世界 1956 HELIOGRAVURE
030 誕生譜 1957 eau-forte
031 木魂の伝記 1957 寄せ木
032 極秘亭探訪 1958 cello-slide
033 六之助行状 1958 鑢孔版
034 雪の讃頌 1958 TANDEM PRINT
035 近くの世界 1958 原色版
036 太陽と孔雀 1959 蝕彩金工
037 えでんの異変 1959 Collotype
038 Sphère 1959 写真による詩集
039 かなりやABC 1959 グランド孔版
040 お化け退場 1959 Colour gravure
041 ストロ王 1960 STRAW MOSAIC
042 Q子の奇跡 1960 ドライポイント電鋳
043 七重と八重 1960 彫紙 漆摺
044 四十四番館 絵入物語 1960 (木版)
045 林檎と人間 1961 石膏版
046 神々の旗 1961 アルミ詩書
047 運のわるい男 1961 木刻乾拓摺
048 宇宙裁縫師 1961 伝承西洋木版
049 HAREM 1961 Applique
050 独楽が来た 1962 日本伝承木版
051 天国と地獄 1963 自刻木版(可憐判3)
052 卵から卵 1963 木綿型染
053 鬼の郷衛門 1963 Wonder view
054 紫の眼鏡 1963 自刻木版(可憐判4)
055 ラムラム王 童話 1964
056 真珠の池 1964 polystyrene paper edition
057 河童河太郎 1964 自刻木版(可憐判5)
058 新しい地球 1965 TOP-STEREO
059 人魚と嫦娥 1966 高岡螺鈿
060 Leoの魔法 1965 relief print
061 造物主失踪 1965 自刻木版
062 侏儒の饗宴 1966 ろうらっくす詩書
063 祈祷の書 1966 Sベランの本
064 二十世紀の虎 1966 自刻木版可憐判(6)
065 人生切手 1966 彫刻凹版
066 さもいや伝 1966 印伝
067 風・水・火・星 1966 Technamation
068 逆立勘九郎 1967 自刻木版可憐判 (7)
069 六つの窓 1967 Qper本
070 悪魔の旗 1967 EMBOSSOGRAPH MOSAIC
071 湖のひと 1967 Miracle tower
072 KAGEYA 1967 木口木版
073 鳩と奇術師 1967 静電印刷
074 笛を吹く城 1968 Sベランによるゴブラン織
075 けちな神様 1968 自刻木版可憐判 (8)
076 あるくJACK 1968 現代ガラス絵
077 眼球異聞 1969 RAINBOW PRINT
078 モスクワの月夜 1969 自刻木版可憐判 (9)
079 Л子の船出 1969 TRANCEART
080 迅四郎の窓 1969 APR・STAINED GLASS
081 世界は渦巻 1969 (凸版)
082 花園の気流 1970 植毛印刷
083 世界革命 1970 自刻木版可憐判 (10)
084 平和白書 1970 THERMOPRINTEX
085 女人禁制 1971 自刻木版可憐判11
086 天とは何か 1971 凸版可憐判 (12)
087 呂宋お菊 1972 拓摺
088 瓢箪作家 1972 COUPAGE
089 面倒無用党 1972 RELIEF
090 現代の神々 1972 伝承木版可憐判 (13)
091 虹を作る男 1972 自刻木版可憐判14
092 小萩抄 1973 折本上下二冊(凸版)
093 おかしな象の話 1973 (凸版)
094 高杉晋作 1973 (多色オフセット)
095 造物主御帰還 1973 自刻木版可憐判15
096 双青の夢 1974 自刻木版可憐判16
097 RomとRam 1974 皮革印刷
098 金色の森 1974 miniature d’or (金線印刷)
099 どん・きほうて 1974 coupage
100 雄鶏ルコック 1975 エンボス
101 小さな雪女 1975 賦形 SNOW VIEW
102 狗猴考 1975 自刻木版可憐判17
103 洗脳奉行 1975 四色凸版
104 天狗天八郎 1975 孔版
105 珍和名抄 1975 自刻木版可憐判18
106 半介の神様 1976 凸版
107 アイウエ王物語 1976 (オフセット 凸版)
108 ナイルの葦 1980 パピルス造本
109 王様の馬車と乞食の馬車 1976 自刻木版可憐判19
110 京之介と千草 EXLIBRIS 1977 (木版 凸版)
111 提灯の詩 1977 ヴィベール造本
112 鼡小僧下呂吉 1977 (凸版 孔版)
113 雷おさん 1977 自刻木版可憐判20
114 紺次とお丹 1977 SEALING PRINT
115 人生の門 1978 (凸版)
116 靉蘭の鯉 1978 剪紙 倪瑞良 (金箔)
117 ルイとカンナ 1978 puf-bord版
118 袖の下 1979 自刻木版可憐判21
119 エリアナ姫と蝶 1979 アルミナ磁器
120 花竜と狸 1979 (三色凸版)
121 車夫萬五郎 1979 (二色凸版)
122 珍竹林之命 1979 (二色凸版)
123 番傘奇譚 1979 Puf-bord版
124 可平と猫 1979 (二色凸版)
125 シンの魔法 1979 自刻木版可憐判22
126 べら棒物語 1980 賦形熱版
127 加藤清正 1980 (三色凸版)
128 百済の仙人 1981 (一色凸版)
129 裸女ネサイ 1980 自刻木版可憐判24
130 月から来た子 1981 凹式金線版
131 千手観音 1981 笹画仙(墨絵オフセット)
132 陶工栗衛門の妻 1981 自刻木版可憐判
133 風神と雷神 1982 蒲葉抄紙 (凸版)
134 赫夜姫後日譚 1982 (三色凸版)
135 釣鐘異聞 1982 彩雲紙 (凸版)
136 いそなげき 1982 STAMPING
137 ABC夜話 1982 可憐判 (自刻木版と凸版併用)
138 鳥遣いの乙女 1983 LASER光線CUT
139 天竺の鳥 1983 印度��紗 印度手漉紙 (二色凸版)
以上
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オコナイ in 野迫川村北今西
2020年1月2���撮影。 オコナイは、古くは寺院で行われていた修正会が民間に受容されたといわれる正月行事で、こちらの北今西では、各家庭から大きなお餅(タテモチ)が奉納され、成人の儀式と村の安全や豊作を祈ります。 奈良県指定無形民俗文化財。
▼動画 行事が詳しく紹介されています。ご興味あれば^^ https://www.youtube.com/watch?v=dotyH_ms9pk
寿楽院阿弥陀堂、ご本尊御開帳。
宝印カツギ 組入りの儀のあと、牛王宝印を持って堂内を3周回ります。 (昔は成人が回っていた?)
全員で般若心経読経
カズラ切り
切れた瞬間。 14mmのレンズで撮ってたのですが、破片がこの大きさ… たぶんレンズに当たった(笑)
鎌倉時代から続くといわれる「そよな」を歌う
おこなえば… おこなえば…
最後に奉納されたタテモチのセリ
お疲れさまでした^^ オコナイの中で加持された牛王宝印の護符を持って帰られます。
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『天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典』が9日、皇居前広場で行われた。シンガーソングライターのイルカ、俳優の片岡鶴太郎、高須クリニック・高須克弥
院長、声優の水樹奈々など各界の著名人が出席し、天皇陛下の御即位をお祝いするメッセージを寄せた。
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国民祭典のコンセプトは、新しい時代に向け陛下が常に祈念している世界平和、その根源となる「水」、人と人との「絆」。さらに、次世代を担う子どもたちの元気な姿を舞台上でダイナミックに表現し、会場の参加者全員が一体とな���て、国民とともに歩まれる陛下を寿ぎ、その凛々しい姿を国内外に発信する。
『国民祭典』は2部構成で、午後1時から第1部「奉祝まつり」として、皇居外苑と内堀通りにて奉祝パレード(郷土芸能、音楽隊)、奉祝神輿(みこし)などがスタート。午後5時10分からの第2部「祝賀式典」は二重橋前特設舞台および皇居前広場で催され、披露される奉祝曲は、作詞が岡田惠和氏、作曲が菅野よう子氏、ピアノは辻井伸行氏が務め、嵐が歌唱する。式典の司会は俳優の谷原章介とフリーアナウンサーの有働由美子が担当。また、歌舞伎役者の松本白鸚や女優の芦田愛菜がお祝いのメッセージを述べる。
■国民祭典出席者の「天皇陛下の御即位をお祝いするメッセージ」
・イルカ(シンガーソングライター)
陛下がお生まれになった時から存じ上げている私達の世代にとって「即位礼正殿の儀」は格別に感慨深い事でした。その歳月の中でお話をさせて頂いた「秋の園遊会」では「幼い頃から歌を聴かせて頂いていましたよ」と思いもかけぬ事を仰って頂き、今も嬉しく心に響いています。御即位の際のお言葉の中で「世界の平和」が大きく世界中に注目されました。これこそが陛下からの大切な御心と思い「令和」の未来を明るく感じています。
・片岡鶴太郎(俳優・画家)
この度は天皇陛下におかれましては御即位なられましたことを謹んで御祝い申し上げます。常に国家と国民の平和を御想いになられる温かい御言葉は我が国が今後更に飛躍する原動力となって居ります。ひとりの国民として心より感謝申し上げます。天皇皇后両陛下の御健勝と皇室の御繁栄を心より御祈り申し上げます。
・桂由美氏(全日本ブライダル協会会長)
御即位、心よりお慶び申し上げます。通訳を介さず各国要人と会話される両陛下の御姿に、これからの日本にとって最も重要と思われる国際協調に大きな力を及ぼされることと実感致しました。わたくしたち国民も、両陛下が我々の統合の象徴であることを誇りに思い、新しい令和の時代を真摯���築いてゆくことを誓いたいと思います。
・門田隆将(作家・ジャーナリスト)
即位礼正殿の儀で高御座の帳が開けられた瞬間の天皇陛下の穏やかで威厳に満ちた表情が瞼から離れない。平安絵巻さながらの束帯と十二単の皇族のお姿と併せ、国際社会が息を呑むシーンだった。“世界最古の長編小説”を持つ国の伝統の儀式。興亡をくり返し、国家が移り変わるのが世界の常識。しかし日本人は万世一系の天皇家を守り抜き、遂に“世界最古の国”に。まさに日本人の誇りの象徴である。皇室の弥栄を心から祈念致します。
・高須克弥氏(高須クリニック院長)
戦中戦後を生き抜き、戦後復興を担った世代を代表し、天皇陛下の御即位に対しお祝い奉ります。戦後の価値観の変容と思想の多様化に戸惑う我々に一つ心の不動の光明をお与え下さったのは天皇陛下であります。天皇陛下のもとで繁栄することが我らの喜びであります。天皇陛下弥栄。
・つのだ☆ひろ(音楽家)
天皇皇后両陛下、心よりお祝い申し上げます。我々国民の心の拠り所であるお二人の御姿は眩いばかりに輝く希望の朝日の如く、国民を照らし、人々の愛を繋ぐ光に他なりません。日本という国になくてはならぬ皇室の要として千代に八千代に栄え、国民を明るく照らすと共に国民とより深く堅い絆が築き上げられますようお祈り申し上げます。両陛下と皇室の弥栄を祈念し、萬歳、萬歳、萬歳を三唱致します。御目出度う御座います。
・鶴田真由(女優)
天皇陛下の御即位を謹んでお祝い申し上げます。天皇、皇后両陛下の御心のもと、国民一人一人がそれぞれの美しい花を咲かせられるようお祈り致しております。私も、芸能を通して人と世界を繋いでいけるよう、これからも精進してまいりたいと思います。
・野村萬(日本芸能実演家団体協議会会長)
陛下は、「即位の礼」に置かれまして、「上皇陛下がお示しになってきたことに深く思いを致し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と宣明なさいました。私達、伝統に身を置く者にとって、先の時代に築かれたことを受け継ぎ、更に歩みを進めることが何よりも大切であることを、新たなる思いをもって心に刻みつつ、令和の御代が、陛下のもと、弥栄ならんことを、心より祈念致します。
・百田尚樹(作家)
今上陛下の御即位は日本国民の喜びです。先般の御即位の儀におかれ、にわかに雨上がり、青空から皇居に明るい陽が差すとともに、東京上空に美しい大きな虹がかかったことは、まさに天の祝福であると同時に、陛下と日本国そして日本国民の未来を暗示させる慶事でもありました。どうか末永く国をお守りく
ださい。ここに臣民として、謹んでお祝いと感謝の言葉を申し上げます。 令和元年霜月吉日
・藤岡弘、(俳優)
天皇皇后両陛下の御即位、誠におめでとうございます。令和元年、厳かな伝統行事が行われ、日本国民として、共に素晴らしい時を迎えることができたことを、心より嬉しく喜ばしく、感動した次第でございます。世界に例のない、確固たる2000年以上続く、威厳と厳粛なる皇室の歴史。伝統を守り、国民の精神的支柱として、日本国民との深い絆を大事にされるお姿に、感動と、あらためて日本国民として、誇りを感じさせていただきました。皇室の弥栄を心より願う次第であります。心よりお祝い申し上げます。合掌
・林真理子(作家)
先日、即位の儀に参内するという光栄に浴しました。平安の世界そのままの儀式を拝見して、日本人であることの誇りと喜びを感じた人は多かったことでしょう。即位の日の私たちの感動と、両陛下への尊敬は、この国をさらに愛する心へとつながっていくはずです。新しい時代の新しい愛国心。それを考えながら、この令和という時代を迎えたいと思っています。
・水樹奈々(声優・歌手)
天皇陛下のご即位を謹んでお祝い申し上げます。祝賀式典にお招きいただき、大変うれしく、光栄に思います。知性と慈愛、国際感覚に満ち溢れておられる天皇皇后両陛下のお姿は、私たち世代の憧れです。私も国民の一人として、また日本のアニメーションや音楽文化に携わる一人として、この瞬間に立ち会うことで思いを新たにいたしました。令和が平和と発展の素晴らしい時代となることに期待を寄せるとともに、両陛下のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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ざこ八 1/2
「へえ、ごめん、こんにちは。桝屋《ますや》新兵衛さんのお宅は、こちらでございますか?」 「はい、どなたじゃな? 桝屋新兵衛はてまえじゃ。あけてはいりなはれ」 「へえ、ごめん……おお、おじさんで……ごきげんよろしゅうございます」 「はいはい、どなたじゃな? 年をとると、目がわるうてどもならん」 「へえ、おみわすれはごもっともで……町内におりましためがね屋の弟の鶴吉で……」 「なに? 鶴さんやて? そら、めずらしい人じゃ。さあ、まあ、かけなされ……これ、お茶を持っといで」 「どうぞおかまいなく……」 「いや、お茶は、わたしが飲みますのじゃ」 「ああ、さようで……」 「これ、めがねを持ってきとくれ。いや、もう、年をとるとあかんで、めがねがないと、どもならん……おお、こら、ほんまに鶴さんじゃ。ごきげんさん」 「��ひさしゅうございます。長らくごぶさたをいたしまして、いつもお達者で結構でございます」 「はいはい、いや、あなたもお達者で結構。長らくどこへいてなさった?」 「はい、東京へいっておりまして……」 「ああ、そうか、道理で、ことばがすっかりちごうてきたとおもいました。しかし、もう何年になるかえ?」 「へえ、町内をでましてから、ざっと十年になります」 「早いもんやなあ。十年にもなるか……そうして、東京は、どこにいてやったんや?」 「魚河岸におりまして……」 「ふーん、いさましいところやな。わたしもだいぶ前に東京へいったことがあるが、東京もずいぶんとかわりましたやろ?」 「へえ、ずいぶんとかわっております」 「そうやろな。わたしも、もう一ぺんいきたいとおもうてんねが、この年になったら、とてもあかん」 「この坊《ぼ》んは、おじさんの坊んで?」 「なにをいうのじゃ。これは、おまえさんの友だちの、せがれ新之助の子じゃ。いまな、三人孫ができて、これがいちばん兄じゃ。これ、おじさん、おいでやすといいなされ……はい、もう七つになります」 「そんなことは存じませいで、知っておりましたら、坊《ぼ》んになんぞ買うてまいりますに、これは、まずいものですが、手みやげのかわりで……」 「こりゃ気の毒な……さよか、いただきます。大きにありがとうさん……これ、おじさんに、いつも歌う唄を聞かしてあげ。あの、それ……なに? おじちゃん、大きな目をあいてるさかい、いややて? なにをいいくさる。鶴さん、孫が、あんたに唄を聞かすちゅうてます。目をつぶってやってください」 「へえ、坊んは唄がおじょうずで? そんなら、おじちゃん、目をつぶってますで、聞かしとくなされ」 「さあ、おじちゃんが、目をつぶってくださった。早よ歌い。なんやったいなあ。野毛のかいな、野毛の山からノーエかいな? …… 野毛の山からノーエ、鉄砲サイサイ、かついで小隊すすめ……」 「えらい坊んは、老《お》いくろしいお声で……」 「いまのはわたしじゃ、ははははは」 「ときに、あのお町内の糸屋さんは、ただいま通ってまいりましたら、お宅がころっとかわっておりましたが……」 「糸屋さんか。あのお宅はえらいご出世じゃ。いまは、横町《よこまち》へ地所を買うて、りっぱなご普請をなさって、ご家族も、上下《かみしも》かけて二十七、八人はござるそうじゃ。なんでも生糸相場で、ぎょうさんもうけなしたのじゃ」 「へえ、あの播磨《はりま》屋さんは?」 「播磨屋さんは、いま、心斎橋すじに店をだして、なかなか繁昌してござると聞いてます。それにひきかえ、あいかわらずつまらんのは、わたしとこじゃ」 「あほらしい。これだけの店を張ってござるのに……」 「あははは、わたしは、もう隠居して、店は新之助にすっかりゆずりましたが、あれは、あいかわらず、沈香も焚かず、屁もこかずで、ただ店を守ってるというだけじゃ、あははは」 「それに、あの角に、ざこ八という米屋さんがございましたが、あのお宅は?」 「ざこ八さんのお宅か? 気の毒につぶれました」 「えっ! あの四丁|界隈《かいわい》切っての金持といわれたざこ八さんがつぶれましたか……しかし、ざこ八さんは、あのようにかたいおかた、おばあさんは女のこと、ほかに娘さんひとり……まあ、ほかにつぶす者はないはず……いったい、ざこ八をつぶしたのはだれです?」 「ああ、めがね屋の弟むすこの鶴吉という人がつぶしたんや」 「おじさん、じょうだんを……なぶらないで……」 「いや、じょうだんでも、なぶりもしやせん。おまえさんがつぶしてやったんや」 「そら、真剣におっしゃるのですか?」 「そうじゃ」 「カア、プウ!」 「これ、畳の上へ土足であがってどうするんねん? これ、つばをはいたりして……」 「つばじゃねえや。痰《たん》だい。おう、もう一ぺんいってみろ。この唐変木《とうへんぼく》め。なにをぬかしやがるんだい。ふんふんと聞いてりゃ、いい気になって、おう、よくかんがえてみろ……十年前に東京へいって、いま帰ったばかりのこちとらが、どうしてざこ八のうちをつぶせるんでえ? おかしなことをぬかしやがると、上あごと下あごと持って、ぴいっとふたつに裂《さ》いて、はなかんじまうぞ」 「ちりがみみたいやな、まるで……あははは」 「なにがおかしいんだ?」 「これ、表へ立つな。喧嘩やない。すこし声の大きいはなしをしてるのじゃ。入り口の障子をしめときなされ。戸口へ人が立つ。これ、鶴さん、大きな声をだしなさんな。ご近所へみっともない」 「大きな声は地声だい」 「みんな、逃げいでもよろしい。鶴さん、もう、いうことは、それでしまいか? これ、ほかの者なら、いまのおまえさんの権幕《けんまく》で逃げるか知らんが、この桝屋新兵衛だけは、おどろかんのじゃ……おまえさんが、ざこ八をつぶしたというその因縁を説き聞かしてあげようか。おまえさんは、むかしからこの町内でのほめ者やった。若い者に似合わん、放蕩《ほうとう》もせず、よくはたらく、感心な者やと、だれひとり、おまえのことをわるういう者はなかった」 「おだてるない、この禿《はげ》ちゃびん」 「いや、おだてやせん。ほんまのはなしをしてますのじゃ。町内に極道《ごくどう》むすこがあると、おまえさんを手本として意見をするくらいじゃ。そのうちに、おまえさん、浄瑠璃の稽古屋入り。ああ、わるいとこへはいったなあ。あれが機会《どうき》で、わるい友だちでもできて、極道せなよいがなあとおもうたが、なかなか身をくずさず、あいかわらず商売をいっしょうけんめいにやりなさる。浮いたはなしも聞いたことがない。ところで、いまでもおまえはんはええ男や。まして、十年前はなかなかの美男子、町内の娘が、お前さんに、やいやいという。ざこ八の娘のおきぬさんも、一目おまえさんをみるなり惚れこんだのじゃ。ところが、ある日、町内に宴会があった。ほかの人とわかれて、この町内へ帰るのは、わたしとざこ八とふたりづれ、道でのはなしに、『ときに桝屋さん、うちの娘のおきぬに、だれぞええ養子がありましたらお世話ねがいます』とのはなし。わたしが、『めがね屋の鶴さんは?』と、おまえさんのことをいうたんじゃ。すると、『鶴さんなら町内でのほめ者《もん》、本人もかたい人やで結構、しかし、娘がなんというか、一度娘にはなしをしてみます』と、その晩はわかれて帰った。あくる日、ざこ八が、娘にはなしをしたら、自分が惚れた男、なんの不服があるものかいな、ふたつ返事で承知したので、さっそくわたしのうちへきて、はなしをすすめてくれとのたのみ。そこで、おまえとこの兄さんにはなしをした。ところが、おまえの兄さんはかたい人やで、『ざこ八さんとことは、身代《しんだい》がちがいます。つりあわぬは不縁のもと』といいなさるが、いや、そうやないと、いろいろはなしをすると、本人さえ承知したらということやで、わたしが、おまえさんにはなしをした。そのとき、おまえさんは、なんというた? 『おじさん、なにぶんよろしゅうおたのみします』と、いうたことをおぼえているやろな? よもやわすれはせんやろな? そこで、はなしがまとまって、結納《ゆいのう》までとりかわして、わたしが媒酌人《ばいしやくにん》で、吉日をえらんで、さて婚礼となった。当日、おまえさんのすがたがみえんが、風呂へでも行たのかいなあ、と、おもうてたが、九時、十時になっても帰ってきやせん。十二時、一時となってもすがたをみせん。とうとう夜のあけるまで、ざこ八とおまえさんとこのうちのあいだを、わたしは、なんべんいったり、きたりしたかわからん。あのときばかりは、足が棒のようになったで。ざこ八は怒る。『うちの養子は、桝屋さん、どうなったんだす?』と、きめつけられる。娘は娘で、『はじめての殿御にきらわれたのやで、死んでしまう』というし、わたしは、あのときほどこまったことはない。侍やったら、腹を切って申しわけをせんならん。『まあまあ、わたしがゆきとどかなかったんやさかいに』と、あやまって、あとで、なんとかはなしをつけると、一時はおさめた。そのはなしは、町内やとなり町までひろがったが、なんせい相手は、今|小町《こまち》といわれる娘だけ���って、養子になりたいという人はなんぼでもある。しかし、どれもこれもいややという。ところが、ある日、天王寺さんへ参詣して、一心寺のとこまでくると、そこに桶をかたげて通った小便汲みが、おまえさんに瓜ふたつというほどよう似た男や。それをみると、おきぬさんが、鶴さんによう似てるというので、あとをつけていくと、猪飼野《いかいの》の百姓で、相当なうちの次男じゃ。人をもってはなしをすると、先方もさっそく承知をして養子にきた。はじめのあいだは、おとなしかったが、そのうちに、わるい友だちができて、茶屋酒の味をおぼえた。おもしろうなった。きょうは難波新地、明日は北の新地、堀江、新町、松島と、金を湯水のようにつかうのじゃ。それがために、ざこ八は、それを苦にして、ころりと死ぬ。つづいて、かみさんもあとを追うというしまつ。養子は、両親が死んだので、あとはこわい者なし、日夜の放蕩三昧《ほうとうざんまい》。とうどううちから、なにからなにまで人手にわたってしまう。金がなくなった。ぼちぼち安ものを買う。病気がうつって梅毒がでる。できものは、から��一面にできる。うみがでるというありさま。しかたがないで、町内へ奉加帳をまわして金をあつめて、四国へ巡礼にやった。途中で死んでくれたらええものを、また、のこのこと帰ってきた。夫婦の情で、一晩寝たが、その病気をおきぬさんにうつしておいて、そのまま養子は死んだ。そのとき、葬式の費用《いりよう》をわたしがだした。まあ、死んでいた者はそれでいいが、かわいそうに、今小町といわれた評判娘のおきぬさんも、病気のためにあたまの毛がぬけて、ちゃぼのような、じつにみるかげもないありさま。いまは、磯家うらの奥の端で、二帖じきの納屋同然のところで、たたみというたらええけども、たたというたら、みのない、しんがでてる。着物《きもの》は、四季の着物を一ぺんに着てる。肩があわせで、背なかがひとえで、腰のとこがやぶれて、かたびらのつぎがあたって、すそが綿いれになってある。あのときに、おまえさえ養子にいてくれたら、ざこ八のうちはつぶれはせぬのじゃ。いわば、おまえさんがつぶしたも同然じゃ。これでも、つぶしたというのが無理か?」 「へえ……」 「わたしのいうのが無理か? えらそうに江戸っ子をつこうて、たんかを切って……江戸っ子をつかわずに、ちょっと、小づかいでもつかいなされ。どうや? ぐうとでもいうてみい」 「ぐう」 「そら、だれでもいえるわ」 「いや、ごもっともで……あのとき、わたしは、養子にやってもらうつもりでおりましたが、友だちの申しますには、『小糠《こぬか》三合あったら養子にいくなとのたとえの通り、身代《しんだい》をふやしたところで、先方はもとからあんねというし、また、なくしたら、養子がつこうたといわれるし、養子ほどつまらんものはない。おまえも男やないか、りっぱにかかをもろうたらどうや?』と、いわれましたので、急にいやになりまして、東京へとっ走りました。おじさん、どうですやろ? ものは相談ですが、わたしを、ざこ八さんの娘がいる磯家うらへ、養子にお世話ねがえますまいか?」 「おまえさんも、もの好きな人やなあ。以前とちごうて、美しいことはないぜ。さきもいうた通り、病気やで。毛もぬけとるし、ずいぶんとみにくいで」 「いや、そら承知です。病気はなおします。毛のぬけとるとこは、青菜と米を食わして、日あたりのええとこへかこいます」 「まるで、にわとりじゃがな」 「あなたに、さきほどからいわれてみますと、わたしに責任があるようにおもいますで、わたしが養子になって、以前のざこ八のようにいかいでも、せめて半分ぐらいにでもしてみたいとおもいますで」 「うん、よい心がけじゃ。鶴さん、そんなら、おきぬさんにはなしてくる」 と、はなしをいたしますと、なにしろ惚れた男やもの、いやもおうもない。 「こんなきたないとこでもよろしかったら……」 と、はなしができました。 「おじさん、ここに三百円ございますで、わたしが、店のひとつもだせるまで、おあずかりねがいます」 「はい、よろしい。たしかにおあずかりしました。あんたは、感心な人じゃ。生き馬の目をぬくという東京で、三百円の金をのこしてくるとはえらい人じゃ。それでは、鶴さん、ざこ八のうちをおこしてやっとくれ。たのみます」 これから、鶴さん、養子になって、はたらくの、はたらかんのて、夜の目��寝ずにはたらきます。朝はくらいうちからおきて、市中を歩いて、紙くずや縄ひろい。紙くずは、くず問屋へ売る。縄は、こまかく切って、左官へ壁のスサに売る。朝のうちは、とうふを売る。正午《ひる》に帰るなり、つけものとこぶまきを売りにいく。夕方には、「刺身」と、ひとまわりしてくる。帰ると、「うどんや、そばうーい」と、夜泣きうどんにでる。そのあいだには、「焼き栗、焼き栗、丹波の栗で、くりくりくり」と、季節のものを売る。夜の十二時ごろには帰ってきて寝るかとおもいますと、なかなか、めしをかきこむなり、町内の夜番にいく。真夜なかになりますと、出刃庖丁を持って強盗……は、おだやかじゃございませんが……いっしょうけんめいにはたらいて小金をのこしたので、桝屋さんをたのみまして、小さな米屋の店をひらきました。 商売は、なかなかうまいもので、勉強をいたしますのでよう売れます。そのうち、堂島の相場へ手をだしました。運がよい、三百円張ると、六百円になりました。六百円、もうひとつ張ると、千二百円になった。なにくそと張ると、二千四百円になった。買うと、どどっとあがる。あがったとこで売ると、さがる。さがったとこで、ぐっと買うと、あがる。売ると、さがる。買うと、あがるで、しばらくのあいだにうんと身代ができまして、前のざこ八よりは大きゅうなりました。そうなると、前の養子が売った地所を買いもどし、借家が建って住んでる人にも、わけをいうて、立ちのき料をだしてでてもらいました。そのあとへりっぱなうちを建て、以前は、蔵が三戸前のところを、五戸前にして、若い衆もたくさん置いて、自分といいますと、なかなか、大店のあるじというような顔もせず、若い者とおなじようにはたらいてます。 「横町の山田さんへすぐに五斗持っていき」 「竹内だす。一石持ってきとくなはれ。お昼に炊《た》くお米がおまへんね」 「へえ、まいどありがとさんで、すぐに持たしてやります。おい、竹内さんへ一石持っていき」
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インターネットからの脱出
2018/4/25発行 ZINE"霊界通信 2018 S/S Issue"収録 by gandi
Escape from the Internet
ぼくが初めてインターネットに触れたのは15年ほど前のことだ。ちょうど21世紀になりたてくらいの頃だろうか。当時出来たての情報カリキュラムの授業での出来事だ。少し起動に時間のかかる箱型の機械のスイッチを入れると、テレビ型のモニターの向こう側から世界中のあらゆる情報が飛び込んでくる。その斬新さに、ぼくは舌を巻いた。しかもその情報がすべて生々しい。なにかがテレビとは明らかに違う。 ぼくはテレビが嫌いな子供だった。今でこそ落ち着いてきたものだが、当時のテレビの演出はとにかく過剰で、ギラギラした悪趣味なセットの前で空疎な会話をする芸能人たちの姿にはとにかくウンザリするばかりだった。人の車を壁にぶつけて壊して喜ぶようなノリにも全くついていけなかったし、ディレクターの指示で拉致同然に、突然半年間も海外を旅させるような嗜好にも「こんなことが許されるのか」と子供ながらに怒りを覚えた(たとえそれが口裏合わせ済みのことだったとしてもだ)。そしてそれらの行動に何一つ意味はない。彼らの行動原理は「ノリ」だけで、洞察に基づいたものがない。徹底的に空疎なのだ。 空疎なテレビの世界の中でも、群を抜いて空疎だったのはひな壇の芸人たちだった。彼らは空疎さという一点において洗練されつくしていた。「なんでやねん」と投げられる言葉に、タイミングよく再生される乾いた観客の笑い声。「なんでやねん」。彼らが本当にそう思っているのか、かなり疑わしかった。「なんでだよ?」でもその「なぜ」を正面切って考えようとする人間は、そこには一人もいないように見えた。 (※もっとも、その空疎さこそなんでも重苦しく考えたがる彼らの前の世代への意図的反抗なのだと分かったのは、ずっと後になってからの話だ) しかしインターネットは違った。誰もが手作りの簡素なホームページを作り、それぞれが勝手なことを論じていた。そこには「なんでやねん」というツッコミを入れる人間はいない。それゆえ誇大妄想としか思えないことを100ページ以上に渡って、延々と書き連ねているような人も少なくなかった。誇大妄想。 テレビだったら芸人の「なんでやねん!」の一言でかき消されたに違いない。しかし人の誇大妄想の中には、社会を抜本的に変革してしまうような考えがしばしば含まれている。たとえば革命家。革命家は周囲の冷笑を意に介さず、空気も読まずに延々と妄想を深め続ける。すると次第に感化される賛同者が出てくる。保守派からすれば狂人に思えない賛同者たちが。 息苦しい日々の中で、ぼくはインターネットに光を見出した。 ぼくはテレビと同じくらい学校の雰囲気というものが嫌いだったが、それは教室がテレビの相似形のように見えたからだ。 端っこの席で、目立たないが誰も思いつかないようなことを考えているヤツの考えは、いつだって声がデカくてノリがすべての野球部の声にかき消される。その身も蓋もない事実に、ぼくはホトホトウンザリしていた。この構造はずっと変わらないに違いない。きっと大学でもそう。社会に出てもそう。死ぬまでそう。いつか全部叩き壊す。そうでなければ刺し違える。そんな風に自分に何度も言い聞かせなければ、グレてしまっていただろう一少年に、インターネットはこっそりナイフを渡してくれたのだ。ぼくは友人たちへ 「テレビよりインターネットの方が全然面白いぞ」と触れ回った。友人たちは興奮するぼくの話を、肯定するでも否定するでもなく聴いてくれた。インターネットが面白いということは少しずつ広まり始めていた。 率直に言って、ぼくはインターネットの「世界中の情報がリアルタイムで入ってくる」という側面は、そこまで重要ではないのではないかと思う。それは既存のメディアでも出来ていたことなのだ。インターネットの本当にクリティカルな点は「人間の生々しい声が、誰にも検閲されないまま聞ける/言える」という点にある。それも平等にだ。どんなに虐げられていた者にも、数千円のスマートフォンさえあれば平等にその機会はやってくる。
誰がジャンクな記事を量産しているのか
だから生々しい声が聞こえなくなったら、そこでぼくのインターネットへの関心は尽きる。聞いたこともないような考えや、社会によって巧妙に隠された呼び声を聞くために、ぼくらは本を読みネットを見る。決して誰かが仕込んだ一般論を聞くためじゃない。ぼくは「失敗しない生き方をするための十の方法」なんて記事を見かけるたびにいつもウンザリしているが、こういう記事は一体誰が書いているのだろう?全く失敗しなかった人だろうか。それとも派手に失敗した人だろうか。 あまりに不思議に思って周囲にこぼしていたら、知人の大学生が書いていた。同級生やサークルの仲間も結構な割合でやっているという。 バイト感覚で家計の足しにしているのだそうだ。 1文字0.1円。2000文字程度の記事を10個仕上げて2000円貰うんです、と彼は言う。プロのライターが最低1文字3円からということを踏まえると信じられない値崩れだ(もっとも最近はプロの現場でも1文字1円というケースが珍しくなくなったが)。 そんな金額ならスーパーでレジ打ちした方がずっと効率がいいように思えるのだが、仲間内のパーティに出席できたり、就活のときネットメディアに関わっていたことが有利に働いたりと、色々とメリットはあるらしい。「ちょっとした承認欲求や仲間内で意識の高さを演出するために、」 場合によっては損得度外視で引き受けることもあるという。 しっかり見ていれば分かることだが、中には高校生が書いているケースもある。記事の最後に「この記事を書いた人」というツイッターリンクが付いていて、そこに行くと高校生だということが分かる。 なるほどこれらの記事は(誰もがうすうす気づいてはいるだろうが)プロではなく文章の素人がタダ同然で書いているものなのだ。インターネットの記事が人に見てもらえるようにするには、内容よりもグーグルのロボットから高い評価を受けるためだけにとにかくコストを抑え、量産することが大事だ。そして言うまでもないことだが1文字0.1円では、一つ一つの記事に真剣に向き合う時間はない。 必然的にすでにインターネットに載っている文章をコピー&ペーストし、適当にリライトするという作業になる。もちろん直接取材や、図書館に行って原典を確認するなんてことはあり得ない(つまり、何かのきっかけで一度間違った情報がインターネットに掲載されると、永遠に誤情報がコピーされ続けるということになる)。著者は自分の考えを述べようにも、記事が問題としている内容に、真剣に向き合って考えているヒマはない。そもそも書かせている側が、著者に対して端から何も期待していないのだ。 こうした記事が、毎日数千、数万とインターネット上にアップされている。多くの場合は記事と見せかけた広告で、そうでなければ広告収入のために書かれたテキストだ。記事の書き方はこう。「ランキング形式のまとめ記事にしてください。まず1位と2位に、定番のA社とB社のアイスクリームを挙げます。そして3位くらいにクライアントさんのこの新作アイスクリームをランクイン��せてください。1位だと広告だって思われてしまうので、3位くらいがよいでしょう。4位以降は適当でいいです」。もちろん、ぼくは必ずしも広告が悪いと言っているわけではない。問題は企業が、あたかも主流的意見であるかのような記事もどきを、ジャンクのように量産することにある。 ぼくらは日々これらの量産されたジャンク記事に囲まれて生活している。好もうと好まざろうと、スマートフォンにニュースアプリやツイッターをインストールしている限り、絶対に目にすることになる。グーグルで何かを検索しても、個人のサイトやブログにたどり着くケースは今や稀だ。インターネットの笑ってしまうような(しかしひょっとすると社会を揺るがすかもしれない)誇大妄想は、十年の月日をかけて、当たり障りのない一般論を装った、どこかの企業広告へとすり替えられたのだ。 こうしたゴミのような広告の山から逃れたい人はひょっとするとインスタグラムのような、社会性とあまり関係のないメディアだけを見るようになるのかもしれない。インスタグラムはアカウントのジャンク化を恐れて、拡散機能をあえて弱めにするなどの対策をしているようだ。だが言ってしまえば、それは騒がしい広告記事から耳を塞いだだけのことで、決して生々しい声を取り戻したというわけではない。 そしてこうしたジャンクな記事は、恐らくあと五年もしないうちに人工知能が書くことになるだろう。人工知能なら、もっとうまくやるに違いない。ビッグデータから得た集合的無意識──当たり障りのない一般論や、何かのきっかけでセレブが発言した、流行の考え方──を、それらしい言葉でまとめて無限に生産するのだ。しかしそれは、あの、テレビや雑誌といった旧メディアが作っていた空疎な時間と、一体何が違うというのか。
メリークリスマス!と言えないアメリカ
ジャンクな記事が生まれる要因は他にもある。世界的なポリティカル・コレクトネスの流行だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)とは「 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと(Wikipedia)」とある。 ポリティカル・コレクトネスの観点からすると、たとえば「看護婦」という言い回しは男性がその職業につけないイメージを与える可能性があるので間違っており、男女ともにイメージすることができる「看護士」と言い換えるべきということになる。同様に「保母」は「保育士」とすべきだし、「肌色」は人種的配慮に欠けるので「ペールオレンジ」に言い換えるべきとするのがポリティカル・コレクトネスの考え方だ。 この考え方は確かにある程度まで間違っていないように思えるのだが、少し考えると行き過ぎは文化を破壊しかねないということが安易に想像つく。例えば「メリークリスマス」という言葉は、宗教的配慮に欠けるという観点からすでにアメリカでは 「ハッピーホリデイズ」と言い換えられている。 クリスマス飾りににキリスト像やマリア像などを持ち込むのもご法度だ。十字架なんて問題外。宗教色を一切葬り去らねば、イスラム教徒や仏教徒に失礼じゃないか、というわけだ。そのうちクリスマスに赤色を使うのもNGになるかもしれない。赤はキリストの血を表すからだ。 しかしそのようなものを果たしてぼくらはクリスマスと言えるのだろうか。これは「政治的な正しさ」を盾にした、キリスト教文化への破壊行為ではないのだろうか。なぜポリティカル・コレクトネスの人たちはこんなに偏屈な考え方をするのだろう?これではまるでポリティカル・コレクトネス原理主義だ。ポリティカル・コレクトネス教以外のあらゆる宗教は絶対に認めないという原理主義的一神教だ。 たとえあなたが仏教徒だっとしても、笑顔で「メリークリスマス!」と言えばよいではないか。実際日本人はずっとそうだったのだ。キリスト教の人たちが宗教的に大事にしている行事ならば、わざわざそれに目くじらを立てることはない。むしろ「楽しそうだからぼくらも参加させてほしいのだが、仏教徒なんだけど構わないかね?」と言うのが本当の寛容ではないだろうか。それとも一神教徒の人たちには、そういう考え方は難しいのだろうか。 しかしポリティカル・コレクトネスの人々はそうは考えない。頑固に公の場でメリークリスマス!ということを許さない。「そんなに偏狭な態度をとっていれば、かえって息苦しい社会になってしまわないだろうか」「むしろ反動が起こって事態はよっぽど悪くならないだろうか」などと考えていたら、案の定バックラッシュがやってきた。2016年のアメリカ大統領選の時にドナルド・トランプ現大統領が「自分が大統領になったら再びメリークリスマスと言えるようにする」と公約したのだ。大統領選の結果はご覧の通りだ。トランプ大統領は、メリークリスマス!すら堂々と言えなくなってしまった息苦しい社会に不満を持つ人たちの支持を得て当選したのだ。 言うまでもなく、本来あらゆる文化的伝統行事は民族性や宗教性と密接に関わりあっているのであって、そこから宗教色を徹底して排除しようとすれば、ただの無味乾燥で無秩序な騒ぎになってしまう。宗教や民族にまつわる文化的行事が、現代的価値観からすれば理不尽としか言いようのないものを含んでいるのは当然のことだ。伝統行事は、むしろ常にその時代の価値観と全面的には折り合わなかったからこそ、時代が変わったからといって廃止されることはなく、時代を超えてずっと尊敬され続けてきたのだ。それを現代人の価値観にそぐわないからと言って安易に排除をしようとするのは、今の時代の価値観が未来永劫続くと考える現代人の傲慢であり、次の世代への想像力の欠如ではないだろうか。 日本よりはるかに多民族・多文化社会であるアメリカでポリティカル・コレクトネスの考え方が発展したということはある程度理解できなくもない。あまりに価値観が多様過ぎて、「寛容」や「思いやり」でカバーできる範囲をとっくに超えているのだ。ある人々にとって帽子を被ることが礼装であり、またある人々にとって帽子を脱ぐことが礼装である社会では、ポリティカル・コレクトネスがなければ一方的に少数派が追いやられるばかりなのかもしれない。だが、日本は全く状況が違う。常に周囲と価値観を合わせたがり、少数派になることを恐れがちな日本人は、アメリカとは性格が逆で、少数派が自ら少数派であることを捨て、自発的に多数派になりたがる傾向がある。そのような価値観だから世界的にも類をみない寡民族・寡文化社会になってしまったのだ。 有り体に言えば、我々の社会は空気を読むことが大好きだということだ。互いに周囲の顔色を見回して、自分が人とズレてはいないか、誰かが変わった考え方をしていないか、絶えず監視し続ける。今のインターネットは、テレビのような旧メディアと変わらない。これはもはや「ムラ」社会だ。特異な考え方は、誇大妄想が広がる前に「ツッコミ」をして「修正」する。これをポリティカル・コレクトネスの考え方が加勢する。今時の言葉で言えば「炎上」というのかもしれない。そして最後には「まとめ」として「総括」されるのだ(なるほど「総括」とはどこかで聞いたような言葉だ!)。 「炎上」は一見、正しい意見が間違った意見を修正する、社会の自己浄化作用のように見えなくもない。しかしその一方で、特異な発想の芽を潰していると言える。この調子だとそのうちわざと「ボケ」る者が出てきて、毎度お約束のように「炎上」させるようになるかもしれない。人と違うことが怖い私たちは、そうやって永遠に続く終わりのない日常に「お祭り」というリズムを作るのだ。やがて「ボケ」と「ツッコミ」は、「なんでやねん!」(=なぜなのか)という言葉本来の意味を失い、次第に儀礼化していくことだろう。その裏で、本当に特異な考えをする人の声はどんどん見えなくなっていく。社会は変化することなく終わらない日常となり、まるであのバラエティ番組のように、空虚な戯れが延々と続いていくのだ。
本物の共産主義社会が到来する
更に悪いことに、こうしたインターネットの記事たちは各ユーザーに合わせ最適化され、そのユーザーが関心を持っていそうなことばかりをサジェストするように出来ている。例えばあなたがあるニュースアプリでLGBTについての記事を読んだとしよう。そのアプリは次からLGBTについての話題で一杯になるのだ。するとあなたは思う。「今、社会はLGBTに相当な関心を持っているに違いない」。こうしてそれぞれが勝手に「北朝鮮問題が」「仮想通貨が」「アイドルが」「ネコ画像が」社会的関心事の中心であると考え始めるのだ。自分でフォローする人を選べるSNSはもっとひどい。「反安倍政権の世論が盛り上がっている」ように見える人と「安倍政権の高支持率が続いている」ように見える人のタイムラインは永遠に交わることがない。一体なんでこんなことが起こるのだろう。 本来、インターネットというプラットフォームは、「インターネットエクスプローラー」という名前が示す通り、欲しい情報を自分から「探検」することによって手に得るというツールだった。インターネット全体の記事が少ないときは、確かにそれで機能していた。欲しい情報に達するためには色んなページを回らなければならなかったし、必ずしも耳に聞こえのよくない情報も触れなければならなかったからだ。まさにそれは山あり谷ありの探検のようだった。今はどうだろう?ネットには異常な量の記事が溢れかえっている。ぼくらはそれを、到底すべて読み切ることはできない。こんな状況では、誰も冒険などしたがらないだろう。探さなくても、自分にとって気持ちのいい(都合のいい)当たり障りのない情報にすぐ触れることが出来るのだから。 こうした理由から、インターネットの記事が爆発的に増加することに反比例して、ぼくらが新しい世界に触れる体力は日に日に減っていっているように思われる。誰も好き好んで不都合な意見を聞きに行ったりはしない。大量の記事が出回ってあれもこれも読まなければならない中で、誰かの言葉と真剣に向き合う時間も多くはないだろう。ぼくらは気付かぬうちに少しずつ心の体力を奪われているのであって、自分を肯定してくれる安全・安心な言葉だけを聞き続けるようになっている。 そしてそんな世界すらももうすぐ終わる。もうすぐ人工知能がぼくらを真綿にくるんで、いびつな現実を視界から追いやってくれるに違いないからだ。近い将来、ぼくらは全く違う価値観の人と話して不愉快になることも、ほとんどなくなるだろう。アルゴリズムが話の合わなそうなフォロワーを、初めからミュートしておいてくれるからだ。イラストや音楽の才能のなさに思い悩むこともない。内輪のコミュニティの住人、いわゆる「界隈」と呼ばれる人々が、あなたを先生、先生とどこまでもチヤホヤしてくれるからだ(もっともそのアカウントの「中の人」が本物の人間であるという保証はどこにもないのだが)。当然恋人ができないと思い悩む必要もない。本物の人間よりずっと美しいホログラムと恋愛をするのは、今や普通のことだからだ。しかもその恋人は、あなたの過去の発言をデータベース化しているから、絶対にあなたの嫌がることを言わず、あなたが喜ぶことしかしないのだ。 さらに言おう。恐らく近い将来、人間は一切の仕事もする必要がなくなる。人工知能が自己発展する農場や工場を作り、自動運転カーで勝手に出荷してくれるからだ(驚くべきことに、アメリカのGM社はすでにこのシステムを運用し始めているという)。レジも無人だからバイトもいらない。経営も人工知能がビッグデータに基づいてやるのが一番効率的だ。 機械に職を奪われ、失業率は上がるのに生産力も上がり続けるから、先進諸国はベーシックインカム導入を余儀なくされるだろう。なんのことはない、共産主義社会の到来だ。それも前世紀の不完全な共産主義ではなく、マルクスが予見した本物の共産主義だ。ほとんどのことを機械に任せ、人はクリエイティブな仕事、もとい「趣味」しかしなくなるのだ。そのクリエイティブな「趣味」だって、本当に行われるのかどうか随分怪しいように思える。全てが満たされた世界で、クリエイションをしようと思う人間なんて本当にいるのだろうか。 まるで夢物語だが、そういう世界は必ず来る。それも数十年以内に。その世界では人間にどこまでも優しくて都合の良いコンピューターという名の天使が、寿命が来るまでぼくらを甘やかし続けるのだ──まるで真綿で首を絞めるように。そんな世界では、特異な意見も、ラディカルな発想も必要ない。誰一人不満がないので、そもそも社会が変革する必要がない。 怒りも悲しみもなく、誰一人傷つかない世界。そこで天使のような、あるいは幽霊のようなホログラムが、残り少なくなった人間たちに奉仕している。人間は恋愛対象に何かと面倒な同じ人間よりも人工知能を選ぶようになり、人口もどんどん減ってゆくだろう。
"BLACK IS BEAUTIFUL."
建築家であるぼくの父はもう80を超えているのだが、生まれつきの難聴で、ぼくが幼いころから話がなかなか通じなかった。どのくらい聞こえないかというと、ちょうど携帯電話の着信音が聞こえない、というくらいだ。大きな声で向き合って話すと半分くらい伝わる。ハッキリ言うと、身体障害者だ。 しかし父は一度も自分を障害者だと認めなかった。確実に貰えるはずの障害手帳も障害年金も、絶対に受け取らなかった。破産して、収入がゼロになり、家族の食い扶持を繋げなくなった時でさえだ。「なに、誰だってハンディキャップの一つや二つあるんだ、それをいちいち騒ぎ立てるなんてみっともないことだ」それが父の口癖だった。そして父は自分を「ツンボ」であると自称していた。「ツンボ」は差別用語だからやめなさい、といくら母が言っても「ツンボがツンボで何が悪い!」と絶対に聞かないのだ。 父の発言は無茶苦茶だ。第一、本当に障碍で苦しんでいる人に対するシンパシーがない。それに「ツンボ」なんて言ったら、ポリティカル・コレクトネスの人々からは避難轟々だろう。 だが、一方で父は障碍者に対して全く差別的ではなかった。車椅子で困っている人がいれば助けたし、その一方で車椅子でも態度が悪ければその場で怒鳴り合いの大喧嘩していた。外国人に対してもそうだ。父には中国人の友達がたくさんいた。酒が入れば毎回、歴史問題の議論で怒鳴り合いになるくせに、ずっと仲良しだった。二、三か月すると、何事もなかったかのようにまた飲んでいるのだ(そうしてまた喧嘩になるのだが)。 父は女性に対しての考え方も、世代から考えれば相当リベラルだった。あれだけ父権的なくせに、結婚当初、父が食べるまで食事に手をつけようとしなかった母に対して「そんな下らないこと今すぐやめろ」と叱りつけたのだという。家族の風呂に入る順番についてもそうだ。ぼくが生まれてからはいつも父と母は喧嘩ばかりしていたが、よく考えれば父と母はずっと対等だった。父はいつだって対等な喧嘩相手が欲しかったのかもしれない。 当時はわからなかったが、父が「ツンボ」を自称していた理由が、今ならなんとなく分かるような気がする。父はきっと「ツンボ」を忌避するのではなく、自分が「ツンボ」を格好いいものにしてやる、と考えたのではないだろうか。 この考え方はマルコムXの言う「 Black is beautiful. 」に似ている。かの有名なアメリカ黒人公民権運動の活動家だ。マルコムは、黒人は白人と平等、とは言わなかった。そうではなくて「"黒"こそ美しい」と言ったのだ。 話によると、幼いころは「ツンボ」のことで相当ひどくイジメられたらしい。しかし父は社会に同情を買うような態度を取りたいとは思わなかった。思うに父は「ツンボ」である自分が圧倒的に凄い建築を作ることによって「ひょっとしてツンボだったからこそ、この人はすごい建築家になれたのではないか?」と、人に思わせるような、価値観の転倒を引き起こそうと企んだのではないだろうか。 ポリティカル・コレクトネスの人たちにとっては「ツンボ」は永遠に良くないものであって、忌避されることはあっても、凄いものとして日の目をみることは未来永劫ない。果たしてそれで問題は本当に解決したと言えるのだろうか。「ツンボ」な自分を「ツンボ」と断言する父のやり方は、テレビではもちろん流せないし、インターネットだったら炎上間違いなしだ。けれどもぼくは、ハッキリ言ってテレビよりも、今のインターネットよりも、父のやり方は圧倒的に「クールなやり方だ」と感じてしまう。
インターネットからの脱出
しかしこのような「クールなやり方」は決してインターネットでは出来ないだろう。 ぼくらは薄々気づき始めているが、インターネットにはそのシステム自体に欠陥がある。リンクシステムが、情報のシェアを容易にしすぎたため、一人ひとりが考えることを放棄し始めたのだ。このような社会では父やマルコムXのような革命家気質の強力な個人はお呼びではない。むしろ自分では考えず、薄い情報をまき散らし続けるような人間(インフルエンサー)が影響力を持つ。集団主義の時代だ。多数派はポリティカル・コレクトネス一神教を盾に、他のあらゆるマイノリティが、自分の力で立ち上がろうとする膝を折ろうとする。「『黒は美しい』なんて言わなくていいの、黒も白もなく、みんな平等なの」と。それは「ブラックの血が流れていることに誇りを持つな」と言っているに等しいということに、彼らは気づかない。その考えは、ぼくには、すべての人間を根無し草にしようとしているようにすら思える。そうしてこのように作られた一見当たり障りのない「正論」が、「拡散」機能によって無限に増殖してゆくのだ。 抵抗する方法がある。全てのリンクを一度切ってしまえばいい。インターネットには「罪」もあるが、それ以上の「功」がある。インターネットは個人の発信したいという欲望を爆発させ、流通経路を用意し、個人が本をつくるハードルを劇的に下げた。だったらもう一度紙の本にすればいい。紙の本にはRTもシェアもない。ただ、一対一の読者と書き手がいるだけだ。書き手は読者に差し迫ってくる。逃げ場はどこにもない。RTして他人に共感を求めることはできない。目の前の相手と一対一で対峙するしかない。もしも読んでいて、本当に思うところがあるならば、自分で、自分なりのやり方で発信するしかない。やり方は文章でも動画でも音楽でもなんでもいい、ただ自分だけの力で、やり遂げるしかない。 ぼくはアナタと一対一で話したいのだ。隣の誰かに「ねーどう思う?」なんて聞いてほしくない。ぼくは今、他ならぬアナタと話しているのだ。(了)
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気違宗中本山 不動山前進寺 縁起絵巻
当山は山号を不動山と称し、寺号を前進寺と、称します
名は体を現す、と申しますが、
「不動なるが故に前進す、前進するが故に不動なり」と云う
御教えを体現しております、有り難い山号寺号であります
古来より流されやすい世相に、竿を指してまいりましたら、
いつしか、世の中の方が変わり過ぎ、動かざること山の如きに変わらなかったのが、ワルカッタのか、ソウなのか、だが、しかし、其の故に前進していると言いましょうか、はたまた、世の中が変わってしまって、変わらないのは当山だけなので、不動だ、と言いましょうか、いや、まったく、世の中の三千億万劫、遅れている、と言いましょうか、はたまた、六千憶万兆由旬後方に居てると言いましょうか、遅れついでに、古来より、きちがい寺と親しまれ、参詣の善男善女悪男悪女が絶えることなく、参詣されておりますところで御座います。
また、
「我もまた、狂者と為りて、この国を破滅させん、この社会に仇を為さん」
「少なくとも精神医と看護婦看護士と心理職には落とし前を付けなん」と
狂之修行者の入山も後を絶ちません
一般には、山科のきちがい寺、きーさん寺、日ノ岡のだんだらさん、と親しまれております
口に
南無キーサン革命如来南無赤黄だんだら不動明王尊を唱え、
我が身の背足乃至裏足をもちて、
精神医療従事者の中段横三枚に廻蹴を加撃し、
心にキーサン革命バンザいクタバれ精神医、カチコンだろか、と意するは、
此れ即ち身口意三密の行、即身成鬼極楽往生の因たるべし
愚怒禿説
魔訶般若キーサン革命観世音菩薩気違経
狂鬼怨念普門品第百七
精神医加電撃患者頭蓋部
念彼観音力
電撃器段々壊
看護婦強制患者入保護室
看護士強制連行閉鎖病棟
念彼観音力
鉄格子段々壊
即得解脱
精神医勝手気儘増薬或勝手気儘減薬
念彼観音力
精神医段々壊
心理士強制患者心理試験
念彼観音力
心理士心理段々壊
看護婦強制四肢拘束
看護士強制五点張
念彼観音力
拘束帯段々壊
即得解脱
心理士強制国家試験変成公認心理師
念彼観音力
心理士加公認心理師諸共段々壊
精神医勝手気儘診断書或勝手気儘処方箋
念彼観音力
精神医段々壊
精神医勝手気儘診断発達障害無理矢理断薬
念彼観音力
発達障害段々壊
発達障害段々崩壊益々破壊強烈破滅
唱え奉る魔訶般若キーサン革命観世音菩薩気違経の功徳は
精神医療一切皆苦
精神福祉一切皆空
とぞ照見する所也
その故に後生の一大事をかけて
速やかに一念発起してカチコミを掛け奉り
即日即知
進者無間地獄
退者亦復無限地獄
六方四周一切悉尽無間地獄
とぞ、申したれ
然れば即ち
南無帰命刃十方無毛光キーサン革命如来と
念じ給いて世の中に仇を為さんとす行者
是れ即ち狂之行者狂変大菩薩とは、申すべきもの也
菩薩行の最たるも最
極楽往生即身成鬼決定入正定之聚とも釈せし者也
能々可在吟味事
あなかしこあなかしこ
金堂
御本尊本邦唯一の狂気阿修羅尊天を御本尊としてお祀りしております
本尊狂気阿修羅尊天
脇侍 餓鬼童子 畜生童子
魑魅魍魎神将 狂鬼羅刹尊天
左脇壇 南無帰命刃十方無毛光キーサン革命如来
右脇壇 南無帰命大憤怒カチコミ赤黄だんだら不動明王尊
僧堂 狂之修行者修行道場 主行易筋行
かち込み毘沙門尊天
目打金的蹴開身突屈身蹴転回連蹴三日月返刈足水月返押倒半月返掬首投
壇上占拠摩利支尊天
逆小手送小手切小手十字小手巻小手押小手切返投片胸落引胸落巻落
狂之行者狂変大菩薩
腕十字立合掌固逆天秤木葉返表投裏投閂内天秤下段返燕返巻打首投
瑠璃光殿
処方薬師如来
脇侍 減剤天 増薬神将 断薬天
電光菩薩 鉄格子菩薩 拘束菩薩
二尊堂
地蔵堂と観音堂の合体したる其の優美なるお姿は、本邦唯一、建築的にも類まれなものとして、世界遺産に登録されそうになりましたが、迷惑極まりないハナシだと、お断り申し上げた所で御座います
キーサン革命延命地蔵菩薩
キーサン革命観世音菩薩
二尊連合御真言 きーさん、かかか、かくめい、ばんざい、まっとれや、そわか
食堂 狂気七福神巡り番外札所なり
減財天
原罪天
五面大黒天
吉害吉祥天
観音堂 狂人三十三所観音霊場九番札所なり
キーサン革命千手千刃観世音菩薩
十一面怨恨観世音菩薩
壇上占拠罵倒観世音菩薩
五点張拘束観世音菩薩
不逞不埒観世音菩薩
就労継続支援B型不如意輪観世音菩薩
五大堂 怨敵退散調伏護摩を修す
本邦唯一の赤黄だんだら不動尊で御座います。
日ノ岡のだんだらさんと親しまれ、古来より善男善女悪男悪女の参詣が絶えることがありません、だんだら様の御利益は、全てを焼き尽くすがごとくの怒り、そして復讐心、地獄の劫火そのもので御座います
大憤怒狂鬼カチコミ赤黄だんだら不動明王尊
大威嚇明王尊
大不徳明王尊
大怠惰明王尊
降参是明王尊
開山九祖堂 開山 酒乱大師 洛陽東山の地にて電光、鉄格子、拘束菩薩を感得し給う 高祖 改革国師 伊予松山の地にて処方薬師如来を感得し給う 太祖 開放上人 山城宇治の地にて五点張拘束観世音菩薩を感得し給う 真祖 展開上人 土佐高知の地にて魑魅魍魎神将狂鬼羅刹尊天を感得し給う 激祖 撃怒和尚 信州駒ケ根の地にて革命延命地蔵菩薩を感得し給う
荒祖 暴発和尚 越後長岡の地にてかち込み毘沙門尊天を感得し給う 轟祖 劇刃和尚 洛陽日ノ岡の地にて狂気阿修羅尊天を感得し給う 中興 酒淫之行者 坂東山谷の地にて不逞不埒観世音菩薩を感得し給う
鬼祖 忿怒和尚 洛陽岩倉の地にてキーサン革命観世音菩薩を感得し給う
苦祖 凶刃軒狂鬼斎 信州伊那谷の地にてカチコミ不動明王尊を感得し給う
山内守護社
風塵雷神鬼神狂神社
気違大明神社 障害大権現社
山内塔頭寺院
精神病院 顛狂院 養老院
凶刃軒 狂鬼亭 幼稚園
東塔九重塔 苦渋塔とも反社会復帰根本大塔とも称セリ
西塔多呆塔 阿崩塔とも反発達障害多吠大塔とも称セリ
往時、二塔在りしも先年、公認心理師国家資格宗門徒並びに笠陽イツ発達門徒宗の焼打ちに合い焼亡せしも、現在、復興造塔のため全国勧進中也
頒布物 造塔勧進帳
「キーサン革命極意全七巻」「原則と基盤全三巻」
「発達障害笠批判全六巻」「ナンなのダ全十五巻」
当山の御利益 無し 但し 世の中に対する恨み怒りが増すこと疑い無し 守護社の御神徳 誤診得のみ
当山奉賛護持会のお願い
御浄財、御錠剤、御供物食物等のご寄付をお願いしております
詳しくは、前進寺友の会、やすらぎの里を支える会まで、ご連絡くださいませ
狂気苦渋苦年閏苦月吉日 凶刃軒狂鬼斎 愚怒禿心乱 謹表白
二〇一五年五月起稿 キーサン革命の鬼 えばっちより
ありがたやありがたや、ありがたきことでございます
友の会みんなの部屋の、亡くなったなかまたちの御遺影前祭壇にて
時たまに心中にて読経しておりますモノデスが
せっかくですので、みなさまへも、御披露させて頂きました
キーサン革命の鬼ことえばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
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「頼もう! 頼もう! 我ら宇国へと向かう旅の者、この関所を通して下さらぬか? 頼もう!」
「はて……、見た所、73式装甲車に90式戦車のようじゃが?」
「これは世を忍ぶ仮の姿。カムフラージュというものにございます。我はマルダー歩兵戦闘車、ここに控える強力は、レオパルド2A5であります。30年もアプデしないどこぞの田舎戦車ではありませぬ」
「ふむ……。しかしのう、外務省ロシアンスクールから、怪しげな戦車、一両たりとて通すことまかりならぬと御触れが回っておる」
「われら大義ある戦いに赴く途上にありまする。我が身の保身しか眼中にない外交官の戯れ言など」
「その志、誠にあっぱれである。お主がその脇に差したる巻物、もしや奉加帳の類いではあるまいか? せめてそこにある権威筋の名前など拙者が確認できれば……」
「あいすみませぬ。これは奉加帳ではなく、NATO諸国勧進帳にござりまする。物がものゆえ、これを誰かに見せることはできませぬ。しかし、拙者がこの場で読み上げることには問題ありませぬ」
「ほほう! それで良い。ぜひ読み聞かせてくれ」
「USA、ジャベリン、スティンガー、ハイマース……。ブリテン国、チャレンジャー、NLAW、SAS、SBS……。ポーランド、フルクラム、T-72……。ドイツ、ヘルメット。硬いヘルメット、信頼あるドイツ製の防弾ヘルメット! 最後にNATO準同盟国からも、ヘルメット(弾抜けるかも)、防弾チョッキ(絶対!濡らしちゃ駄目よ)、地雷探知機(根気と勇気だ!)の本邦大和の国と続きまする」
「うみゅ。お勤め大義である! 良かろう。宇国は遠いぞ。道中気を付けてな」
「ははっ! 寛大なる取り計らい、衷心よりの感謝を申し上げまする」
「うん?……、しばし、待たれよ。マルダー殿。こちらの番卒が、そのレオパルドの頭のかぶり物、74式車載銃ではあるまいか? と申しておる」
「そのようなことは……。そもそも7.62ミリ車載銃など世界中にありふれておりまする。何かの見間違いでありましょう。これはラインメタル社製MG3でござりまする」
「そうではなかろう! わしも総火演で見た記憶がある。このチープなガラクタ感、噂の住重製ではないか?」
「な、なんと! ぐぬぅ……。この痴れ者が! このわしを騙せても、富樫殿の眼力を欺けるとでも思ったかッ! あれほど他人様の持ち物に手を出すなと厳命したではないか! わしの顔に泥を塗りよって! ペシペシ! バシバシ! バスンバスン、ドキュンドキュン、ズドドドド! ヴィーン!(←RWS)、ズドーン! ズドーン! ドカーン!」
「あいや、待たれよ! マルダー殿。もうよい! もう良いでは無いか!」
「悲しゅうございます。このような荒くれ者を信じた自分が恨めしゅうございまする」
「もうよい……。レオ2殿、今宵はそのAPFSDS弾の傷が疼くであろう。この酒を持っていくが良い。酔いがその痛みを紛らわしてくれようぞ」
「なんというお情け!」
「さあ、先を急ぐが良い! ムネオ議員は一人では無いぞ。面従腹背で密かに宇国の敗北を願い、ロシアの勝利こそが、われらロシアンスクール復権のその日と画策する輩が、そこいら中に潜んでおる。この1年、毎週毎週支離滅裂なプーチン擁護を繰り広げた佐藤優や、田岡元帥が出没する週刊AERAにも気を付けるのじゃぞ? あれはクオリチィ・ペーパーの仮面を被った週刊誌界の東スポじゃ。宇国はあまりにも遠い」
(地べたに降りて膝を突く富樫左衛門、ここでレオ2の手を握り)
「キュウマル殿、どうかお達者で! 無事な旅を祈っておりますぞ……」
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【福井県謡曲古跡めぐり若狭/嶺南編】4箇所目 番外編その1 2021/3/18
弥美神社の能舞台
《福井県三方郡美浜町宮代》
神社名 彌美神社
境内社名 二十八所社、天満社
旧社格 県社
主な祭典
王ノ舞
大御幣押
特殊神饌
御祭神
室毘古王
建御雷神
天兒屋根命
布都主神
比咩大神
大山衹命
由 緒
『神社明細帳』に「由緒創立不詳、式内にして、又若狭国神階記に正五位耳明神とあり、社号 嘉禄2年(1226)以降28所宮ト称せし所、明治2年小濱藩廳より弥美神社ト復称せらる。同五年に郷社に列せらる。明治41年4月26日神饌幣帛供進神社に指定。大正14年1月8日に県社に列せられ、同年1月21日神饌幣帛供進の神社に指定済」と記している。
御祭神の室毘古王は、第九代開化天皇の皇子の日子坐王と沙本之闇見戸売との王で、若狭之耳の祖なりと古事記にみえ、亦、『神社私考』に「古この耳地を領れる耳別の氏人ありて、室毘古を祖神として祀れるにやあらむ」と延べている。
28所宮について、『弥美神社記』に「文武天皇の御宇大宝二年(702)壬寅春、日月両輪を始め奉り、天照大神国家守護の霊社二十八所の名影を、白幡に秘して耳の川辺帯て、深山の空地に天降らせ給い(中略)御敷地を宮代村と名付け候なり。伊勢大神宮、八幡、春日、丹生、平野、松尾、加茂、稲荷、大原、石上、大和、住吉、龍田、広瀬、梅宮、吉田、広田、祇園、天満、気比、熊野、金峯、白山、熱田、十禅師、上下、日吉、三輪大明神」と28所の神名が挙げられてある。由緒について、『神社私考』は、「(前略)いにしへ弥美神社、此処に在て衰へ給ひたりしを嘉禄(1225~27)に再興して今の社地に移し奉りて二十八所の神と称し、其旧趾にも小社を建て、地主の神と称へるなるべし」と推定している。弥美神社は、耳庄の総鎮守で、古くから領家、国主等の崇敬が篤く、社殿の改築補修、社領の寄進などがあった。例祭には、王ノ舞、獅子舞、浦安舞、乙女舞、ヨボの木の御幣などが奉納される。
「ミミ」の呼称とその意味の存する古称について、『福井県史(通史編1)』に、藤原京(649~710)跡出土木簡に「三方評耳五十戸」「三方評耳里」「美々里」と記したものがある。この「耳里」(耳五十戸・美々里)の里名は、平城宮(710-784)跡出土木簡に「若狭国三方郡耳郷中村里」や「三方郡弥美郷中村里」とかみえるように律令制下の郷里制においても郷名としてひきつづき認められていた。現在の美浜町耳川流域一帯に比定され、耳川東岸には式内社の弥美神社があり、北陸道の弥美駅も、この付近と考えられている。律令制下の郷名としては、ミミというのは若狭のものが全国唯一である。
神代巻の神名に忍穂耳尊・手研耳・神八井耳尊。第2代綏靖天皇の諡号神渟名川耳尊。また、王族の坂田耳子郎・豊聰耳皇子などに用いられているが、上蜘蛛大耳や耳垂・和泉陶津耳・但馬の前津耳・但馬の大耳・莵狭の耳垂などにみられるように、「耳」は姓の制より古くから人名や地名に付し、その他の豪族への敬称であったとされた。即ち、これらの地は、元来「ミカタのミミ」が居たところで、遠敷郡に式内社の若狭比古神社の祭神「比古」に劣らぬ古称で、耳川や弥美神社の呼び名も、その他名から生じたものとみられる。
若狭は、ヤマト朝廷の「御食国」として早くから聖塩を貢上しただけに、その首長と配下の民衆には特別の配慮をしたものと思われる。と述べている。
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預か��、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽���で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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