#おもしろ同人誌バザール
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11/3「おもしろ同人誌バザール」スペースNo「も23」
2024年11月3日「おもしろ同人誌バザール」スペースNo,「も23」(ベルサール神保町3階)です!遊びに来てね!
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Work
★Award
2024
「東武スペーシアX 運行開始1周年記念『東武スペーシア X のある風景』フォトコンテスト」(東武百貨店 池袋店)
2023
「地方民鉄フォトコンテスト2022 みんてつ賞」(日本民営鉄道協会)
2022
フジフイルム スクエア・東京ミッドタウン「“PHOTO IS”想いをつなぐ。あなたが主役な写真展 2022」(富士フイルム)
「#よこかな×#海まちさんぽ Instagram投稿キャンペーン」入賞(横浜市金沢区)
2021
フジフイルム スクエア・東京ミッドタウン「“PHOTO IS”想いをつなぐ。50000人の写真展」(富士フイルム)
2020
河口湖美術館「第21回富士山写真大賞 番外編」
2019
東京都美術館「第23回総合写真展 入選」(公益��団法人 国際文化カレッジ)
世田谷線カレンダー「世田谷線写真コンテスト」(NPO法人まちこらぼ)
鉄道博物館「“PHOTO IS”想いをつなぐ。50000人の写真展」(富士フイルム)
フジフイルム スクエア・東京ミッドタウン「“PHOTO IS”想いをつなぐ。50000人の写真展」(富士フイルム)
新宿ヒルトピア アートスクエア「1000人の写真展「わたしのこの一枚」」(東京写真月間2019実行委員会)
2018
東京都美術館「第22回総合写真展 優秀賞」(公益財団法人 国際文化カレッジ)
鉄道博物館「“PHOTO IS”想いをつなぐ。50000人の写真展」(富士フイルム)
相鉄湘南台駅「相鉄20000系デビュー記念写真展」(相模鉄道株式会社)
Circle name:復刻館 -Fukokukan-
★Joining event(*Doujinshi event)
*Doujinshi - self-published books
2025
3/15(土) 旅チケット10(申請中)
2/16(日) COMITIA151(申請中)
2024
12/30(月) コミックマーケット105 ハ-19b
12/29(日) おもしろ同人誌バザール大崎・冬(申請中)
12/1(日) 文学フリマ東京39 I-63
11/17(日) COMITIA150 ち11b
11/3(日) おもしろ同人誌バザール も-38
8/18(日) COMITIA149 け15b
8/12(月) コミックマーケット104 ノ27a
8/11(日) おもしろ同人誌バザール大崎(スパンキーエリア)
5/26(日) COMITIA148 Q30b
4/28(日) COMIC1☆24 K42b
3/3(日) サンシャインクリエイション F18b
2023
12/31(日) コミックマーケット103 ア23a
12/3(日) COMITIA146 E52a
8/13(日) コミックマーケット102 Y28B
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ホテルでNHKニュースを見てたら、佳子様が南米ペルーを訪問されてマチュピチュ遺跡を見学される&戦前に南米に渡った日本人移民の方とお会いされたというニュースが流れてきて、相手の方が移民一世のお婆さんで泣きそうになってる。104歳…そっか、まだ日本を知ってる方がご存命なんだ…。
Xユーザーの道民の人(廃墟・ひなびた風景)@11/3おもしろ同人誌バザール神保町→11/5北ティアさん
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【コミケ参加します】
★8/13のコミケに参加します。場所は「東5ホール ピ-48a」
★8/12 大崎おもしろ同人誌バザール
★8/19 浦和パルコZINEフェスティバル
参加します。
新刊の『公園遊具vol.10 多摩川住宅』ほか屋上遊園地の本を販売します。
また、コミケに新刊相模原市の写真集『さがみっぱら1 』が間に合いませんので、ブースに来ていただいた方にネットショップ先行予約が出来るようにしますので、是非お越しください。
#公園遊具 #屋上 #レトロ #屋上遊園地 #公園 #park #contemporaryart #相模原 #相模原市 #コミケ #コミックマーケット102 #おもしろ同人誌バザール #浦和パルコ #PARCO #浦和パルコZINEフェスティバル
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「おもバザハンズ横浜」出品します
9/6(水)-10/4(水)の期間、ハンズ横浜店で「おもバザハンズ横浜」が開催されます。情報系同人誌の即売会「おもしろ同人誌バザール」のハンズ店舗での委託販売形式のイベントになります。 こちらに参加いたします。
当方は炭鉱遺産・廃墟本『北の炭山(ヤマ)の骸』1作品を出品いたします。弊サークルではおなじみの作品ですが、予てから巡ってきた北海道の炭鉱跡とその歴史についてまとめ綴った紀行形式の作品です。
本州(首都圏)での販売ということで、北海道外の方にも炭鉱など産業系廃墟・遺産、その歴史などご興味ありましたらぜひ、お手にしていただけたらと思います。
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昨日は神保町でやっていたおもしろ同人誌バザールを覗いてきた いつもチェックしている所からは台湾カステラのレシピ本 この会場に来る前に江東区付近の川辺を歩いてきたのでつい目に入ったボートの本 そしてもう一つ 「東京妄想グルメガイド」 これは新鮮な発見だった。 この場所にこんな名物があればいいなってのを具現化しているという、なかなかの逸品 #おもバザ #おもしろ同人誌バザール (ベルサール神保町) https://www.instagram.com/p/Ckn9s8dS6V8/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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「バグは夜更け過ぎに仕様へと変わるだろう再現ない後任いない」の季節が来た。
しゅどい先生@12/30-31おもしろ同人誌バザール大崎さんのツイート
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RT @mo_himo: 新しい同人即売会様式、一周まわって懐かしさを覚えるのはなぜなのか… #おもしろ同人誌バザール https://t.co/ivDkfoq30D
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド��中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推��されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走��盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を��いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダ��ジリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北��大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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ちょっと前の飲みネタ。ベルサール神保町でおもしろ同人誌バザールに参加した帰り、水道橋の台湾料理店「台北」。でご飯.ていうか飲み。
夕方の中途半端な時間でそれほど空腹ではなかったはずなのだが、お通しに出てきたエビたっぷりのった中華風の冷奴にすっかり心奪われてしまった。
台湾ソーセージ。スタンダードうま〜!
魯肉飯。おしゃれすぎないのが良い。
小籠包。これもシンプル美味い。黒酢をつけて食べる。
牛肉麺。肉がすごく硬派。
ホタテ貝柱の入った揚げ団子みたいなの…だったかな。
もうかなり満腹で頑張って食べたんだけど,でもうまかった
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コミックマーケット104 月曜日ノ27a
今年も夏のコミックマーケット(夏コミ)の当選が決まりました。
サークル名:復刻館
配置:8/12 月曜日ノ27a
※一部商品、価格調整のため値上げしていますのでご了承ください。
新刊案内
HOMMAGE No.6 ドラえもん電車
500円/B5サイズ/24p
2023 年12 月1 日、藤子・F ・不二雄の生誕90 周年を記念して、ドラえもん電車を中心に紹介する。
東急8500系写真集 2020系がいない日常
1500円/B5サイズ/36p
2013~2015年の東急8500系の写真を掲載。毎朝の始業光景から、偶然な一枚、そして四季と8500系。沿線住人にとっては懐かしい光景、それ以外の方も見たことがない鉄道のシーンを見てみませんか?
そのほか、HOMMAGEバックナンバーや東急8500系(第一弾)など過去作も販売予定。一部再発行を行わない作品もあるため、購入はお早めに!
また新刊は通信販売でも展開予定ですので、コミックマーケットに行けない方はこちらもチェックしてみてください。
通信販売:メロンブックス/フロマージュブックス
8月イベント参加予定一覧
8/11(土) おもしろ同人誌バザール大崎
8/18(日) COMITIA149 け15b
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ホテルでNHKニュースを見てたら、佳子様が南米ペルーを訪問されてマチュピチュ遺跡を見学される&戦前に南米に渡った日本人移民の方とお会いされたというニュースが流れてきて、相手の方が移民一世のお婆さんで泣きそうになってる。104歳…そっか、まだ日本を知ってる方がご存命なんだ…。
Xユーザーの道民の人(廃墟・ひなびた風景)@11/3おもしろ同人誌バザール神保町→11/5北ティアさん
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【コミケ参加します】
★8/13のコミケに参加します。場所は「東5ホール ピ-48a」
★8/12 大崎おもしろ同人誌バザール
★8/19 浦和パルコZINEフェスティバル
参加します。
新刊の『公園遊具vol.10 多摩川住宅』ほか屋上遊園地の本を販売します。
また、コミケに新刊相模原市の写真集『さがみっぱら1 』が間に合いませんので、ブースに来ていただいた方にネットショップ先行予約が出来るようにしますので、是非お越しください。
#公園遊具 #屋上 #レトロ #屋上遊園地 #公園 #park #contemporaryart #相模原 #相模原市 #コミケ #コミックマーケット102 #おもしろ同人誌バザール #浦和パルコ #PARCO #浦和パルコZINEフェスティバル
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@Ton_beri(みなせ★11/1おもしろ同人誌バザール 2F「しー9」)
たまに書いているんだけど、回転寿司の代用魚を
「1日だけ、本物の名前で売ります!」
と言って売ったら宣伝になりそうだよね。
例
サーモン→ニジマス
マグロ→ホソカツオ
ねぎトロ→赤マンボウ+油脂
エンガワ→オヒョウ
アワビ→ロコ貝 https://twitter.com/michiko_no8/status/1315597786604171266
Twitter for iPhoneから
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【2019年末東京紀行③ 新宿市谷墓参編】 一夜、渋谷を堪能した翌日は1日ゆっくりと、母親宅の片づけでもするかという予定であったが、この間断捨離したばかりだからよい、大掃除もせずともよいという。そんな事よりも墓参りに連れていけと言い出した。寒いし、混んでいるし、面倒だしいったい誰の墓参りにいくのだ、とよく考えたら父親のであった。まことに罰当たりな事で恐縮だ、天国で父も怒っているに違いない。面倒なのは変わらないが、こればかりは仕方ない、行ってみよう。といっても急ぐ旅ではない。たかだか20Kmの道のりで高速道路を使うのも業腹だ。東京なんて狭い狭い。 甲州街道で新宿に出る。十二社、なんて地名はなくなって久しいのだろうが、なんとなく使ってしまうのは、単に私が古い人間だからだろう。大ガードを越え明治通りに入る。新宿文化センター前の道は都電の線路だった、なんて思い出話から火がついて、懐かしの街並み巡りが始まる。そのまま突き進んで余丁町へ。曙橋へ抜ける道が拡幅されて、抜弁天が抜弁天ではなくなってしまった。フジテレビはどっちだ、若松町のプラモ屋はなんて名前だったかとか。 寄り道しつつ、わが家の菩提寺に到着。東京らしく狭く小さな墓所〜あまりの小ささに家内が仰天した〜を掃除してやり、花を供え線香を手向ける。墓誌に昭和51年建立とあるから、両親が40歳の時に作ったものだ。その前は木製の塔婆だけがあり、腐って倒れていたのを数十年ぶりに訪れた田舎の叔父(私からすれば大叔父)に見咎められ、致し方なく50万だか60万だかを工面してよう���く建てたのだ。なんて裏話が登場する。 その後は父、兄二人、私が卒業した小学校や、すぐそばにある中学校を巡る。ここは◯◯ちゃんの家で、ここのおばあちゃんとうちのおばあちゃんは友だち同士で、一時は叔母を養女に出す、なんて話があったとか、ここは✖️✖️くんのお父さんが仕事で借りていた家だったけど、あそこのうちは堅気じゃなかった。なんでもようが、よく覚えているねぇ。同級生のおれはすっかり忘れてしまっていたよ。それにしても狭い、道もクネクネとクランクしている。こんなところを飛び回っていたのだから、私も相当サイズが小さかったのだろうなぁ。 飯田橋から九段下に抜け、靖国神社を横目に市ヶ谷駅、曙橋から外苑東通りを曲がり、神宮外苑へ。昭和50年くらいまで開催されていた絵画館前のイベントのことや、東京バザールのポテトフライの話をしながら、青山を抜けて帰途へつく。腹がへった、あそこへ連れていけ。という指示がでた。以前食べにいったのが気に入ったらしく、また行きたいという。あそこは高いんだよなぁ、と思いつつ言いなりになってやるなんて、とてもよい息子である。 調布市「神戸屋レストラン 調布ヶ丘店」 場所 東京都調布市調布ケ丘2-15-1 マンション ビリアベルデ1階 電話 042-490-7801 駐車場 あり パン屋の神戸屋が手がけているレストランだ。こちらの美味しいパンが食べ放題、という太っ腹な店だ。 「牛いちぼ肉のタリアータ フランボワーズソース」1815円 いちぼ肉とは牛のお尻のほっぺたにあたる部位で、表面は色がつく程度に焼き、フランボワーズ(ラズベリー)の酸っぱいソースをかけたもの。とにかく柔らかい。脂身が甘い、ラズベリーの酸味とよくあって味わいが深くなる。美味い美味い美味い。 帰宅して一晩とまって長野へ。 母もまだまだ元気だが、80を超えたばーさんに変わりはない。近くにいないので、あまり手を出してやれないのがもどかしい。まぁ仕方のない事でもある。年に数回しか出来ないが、こうやって相手をしてやろう。 #東京 #調布 #ランチ #lunch #神戸屋 #レストラン #restaurant #イチボ #牛肉 #フランボワーズ #ステーキ #パン #食べ放題 #コーヒー #coffee #サラダ #salad #カフェ #cafe #インスタグルメアワード2019 #グルメな人と繋がりたい #グルメ好きな人と繋がりたい #食べるの好きな人と繋がりたい #飯 #飯スタグラム #麺スタグラム_japan #飯テロ #飯テログラム #좋아요_한국 #좋아요_일본 http://araralunch.work (神戸屋レストラン/調布ケ丘店) https://www.instagram.com/p/B6oN0wug9jI/?igshid=1wa9kjhlfr5w
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via @dalto
台風19号の1000hp以下の範囲のやばさ、NHKが一番わかりやすい…これは警戒しますわ… pic.twitter.com/z5O5zUJxEI
— dalto@次は11/3おもしろ同人誌バザール8 (@dalto) October 9, 2019
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