#おきぶらインスタ映え
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お久しぶりです、青い月です。もうどのくらいぶりだろう、本当にお久しぶりです。
あれから色んなことがありました。ほんとうに、色んなことが。
前の投稿は4ヶ月前だったみたい。その頃から書いて言葉にしていただけあって、信じることに対する違和感は見過ごせなかったんだと思う。1年8ヶ月付き合った人と別れた。こんなに長く人と付き合ったのは初めてだった。付き合っていれば、今日で2年だった。大変だったけど、なんだかあっけなく終わってしまって、夏が急に秋になったのと同じように感じてしまう。ずっと私を夏みたいな人だって言ってくれていた。呪いになるかもしれないけど、ずっとあなたの夏に私がいたらいい、なんて思ってしまう。恋人にはもう成れないけど、愛しているし、愛していた。それは事実。希望を持たせることって変に地獄だから君には言わなかったけど、ちゃんと愛していたし、今でも愛している。君が幸せでいたらいいなって、ただそれだけを思う。
そんなことを言って、今は、薄情かもしれないけど、大好きで大好きな人がいる。六月の終わりから、夏がどんどん人を飲み込んでいくみたいに、彼も私を連れ去っていった。それが楽しくて、繋いでくれた手を握っていた。離さなかった。振り払ってもいいんだよって言われたけど、離さないでいた。手を繋いで連れて行ってくれる人って、こういう人なんだと思った。そう思うと、高校生の頃から書いていた。インスタのほとんど誰も見ていないアカウントに、「君が手を引いて遠くに連れて行ってくれ」って。たぶん、ずっと、誰かに手を引いてほしかった。彼は、どこまでも連れて行ってくれる。自分のことも自分で引っ張って、何もかも連れてばかりだった私を軽くしてくれる。彼といるのが心地よくて、昨日はふと泣いてしまいそうだったな。
彼と私は奥底が似ている気がしているから、私も彼の手を引きたいし、どこまでも連れて行きたいと思う。君が耐えられないときは私が抱きしめてあげる。方法は違くても、結局私たちの行き着くところは一緒だよ。
この2ヶ月、3ヶ月の間、彼とは色んなことをしたし、たくさんの時間を過ごした。なんだか彼といると、背負うものがない分私は羽を伸ばしすぎてしまって、忘れてしまうことや気付いていないことが増えた。それはいいことって言い切れるのか分からないけど、忘れちゃいけない、全部自分で覚えていなきゃいけないっていう強迫的な気持ちが軽くなったんだと思う。これまで生きてきて、自分は色んなことを覚えている方だと思っていたし覚えていたいと思っていたけど、彼は本当に色んなことを見ていて、気付いていて。彼の凄いところだと思うけれども、その分しんどいことも多いだろうなと思って、彼を抱きしめずにはいられないでいる。喧嘩し��時に、俺は逃げてるだけだって言ってたけど、一番世界を見ている君だからこそ、そういう言葉が出るんだろうなと思う。大丈夫。
初めて彼の家に行ったとき、アルバムを何個も見せてくれて、昔の話をしてくれたね。ベッドに横並びで腰をかけて、にこにこ優しく笑う君を見ていた。君はみんなに開示するタイプだと思うけど、「青ちゃんの背中が大きくて」、と笑ってくれたのをずっと覚えている。辛かった今までのことも日々考えている痛みも、話したいことはなんでも、教えてくれたらいいなと思う。
書いていなかったこともあって、彼について書いたら本当に尽きないのだけれど、彼が包んでくれると、本当に安心する。献身的なのは苦手だけれど、彼はしたいからって言ってくれる。一回彼の前で大泣きしたことがあるのだけれど、彼の愛が嬉しすぎて涙が出てしまった。普通とか言うべきじゃないのかもしれないけど、普通なら、幼い頃に父親から与えられる愛を、彼が教えてくれたと思った。彼が抱きしめてくれると、無性に守られているって感じて、ずっとこうして欲しかったんだと思った。守ってもらえなかった、守ってもらっていた実感がなかったから、ずっと自分で自分を守っていた。自分で自分を抱きしめていた。でもやっぱり埋められなかったその父性愛みたいなところを、君が教えてくれて、撫でてくれたんだと思う。涙が止まらなくて、抱きついたまま、大きな声で泣いた。びっくりしただろうな、でも、小さい声で一言だけ、辛かったねって、抱きしめさせてくれていた彼が、ずっと永遠のように私の中にいる。
昨日も彼と過ごした。すっかり秋で、爽やかだねって手を繋ぎながら言った。ぽかぽかした秋晴れを君と歩いて、この瞬間をずっと忘れたくないと思った。だから写真を撮った。2人で歩いている足元も映像にした。ローファーをおろして、赤い靴下を履いた。揺れるスカートの隙間からちらちらと赤色が見えて、これでよかったと思った。
アルバイトに行く彼を見送るとき、彼が「夫婦みたいだ」って言って、にこって笑ったのがなんか美しかった。彼の向こうにある窓が白く光っていて、彼が照らされていた。こんな風に、こんな瞬間を、何回も繰り返せたらいいと思う。
大学最後の記念にこの夏休みの集中講義を受講していて、今日は早起き。ベッドから離れるのには時間がかかったけど、窓からさす陽がまぶしくて暖かくて、目を瞑りながら浴びていた。早起きすると、気持ちがいい。こんな爽やかな日だからかな。今日はローファーの下にターコイズブルーの靴下を。国立科学博物館で買った、フタバスズキリュウの刺繍がついている。このまま彼と海にでも行きたい気分だ。手を引いて、海だよって走っていきたい。(2024-09-26)
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無題
平穏よりも胸のときめきをいちばんにしたら世界のぶあつい皮膚が一枚めくれたかのようになにもかもが歌い踊りかがやきはじめたのをいまでも覚えている。わたしは親が厳しくて外泊で��ないけれど、そのあいだに同級生の子たちはうつくしい島の海に��射する満月をみて、だれかと夜通しぴたりとからだをあわせて内緒話をするような、今にもぷつりと切れそうな糸のように細くて鋭い若さを世界の夢に浸らせている。感性を野放しにして、こどものころの感動をひとつずつ取り戻す時間がわたしにも必要だった。けれど思いどおりにいかないこともある、それも定めとおもって歯をぎゅっとくいしばる。わたしには必要だった。路上、白い廊下みたいに澄んだ朝霧をかんじる時間。薄いトップス。ズレた口紅。酔った勢いで入れ墨を彫ってしまう危うさ、煙ったクラブでなにもかんがえずに踊って、好きな男と寝て一限目をサボるとか、夜の街頭を走り抜け、くだらないことに時間とお金を費やすこと。「それだけじゃない、夜に遊ばなくても昼に釣りをしたりサッカーしたりそういう遊び方だってあるだろう。そっちのほうが幾分もまともだ」 おとうさんは夜遅くに帰ってきたわたしを叱りつけ、そう言った。わたしはけしてワルにあこがれているのではなくて、ただただ綺麗なものに飽きただけだった。わたしにとって祈りや信仰はさいしょから型があってそれに当て嵌めてハイ完成みたいなかわいいお菓子作りのようなものじゃなかった。自らを成り立たせるピースを集めた上でそれを食い尽くすくらいの覚悟や貪欲さがあなたにはある?わたしにはそれが足りなかった。昔も今も自分でうつくしい歌をつくれない。うつくしいものがたりをかけない。うつくしい絵を描けない。世の中にはフォロワーが万桁いる女子高生がいて、今、何千もの美術展が開催されていて、明日、いつかオリンピックに出るであろう少年がはじめてスケボーに乗るかもしれない。わたしには何もできないかもしれないけれど、彼らの生き様はわたしをわたしたらしめる微かなエッセンスとしてわたしに溶け込む。それを祈りという言葉で表象してはだめ?これからのことをかんがえると、ずっとどきどきする。目の前の光景が、訪れたことのない地の光が、風が、わたしを、わたしのからだを必要としてる気がする。世界中に張り巡らされた血管がわたしの心臓部にも繋がっているような心地。死ぬ5秒前ってどんな感覚なのかしらないけど、築き上げた塔が崩れてゆく感じなのかな、雪景色のような。
無題
朝起きたら腕に友達の噛み跡と身に覚えのない痣が3つくらいあった。耐え難い疲労がからだのあちこちにひっついて、入れ墨と化している。活字の海を、本をその背に背負えたらよかったのに、今のわたしを崖っぷちに引き止めているのはうつくしい言葉でもなくて、泥に塗れた重いカルマ。イヤホンの先から垂れ流れる音楽すらも風のように軽やかで自由なものではなくて、ねばねばした気持ちわるくてかなしいものに聴こえた。夏と、そのあつさと、その底知れぬ闇に街ゆくものすべてがこころのずっと奥の方で平伏している。昼過ぎにスクランブル交差点前の巨大スクリーンが薄青い空を泳いでいるようにみえたこと、街ゆく人の肌色が、シャボン玉のようにその熱を吸収して発光していたこと、ぜんぶなんか夢みたいにふわふわしているかんじがした。もうすぐでなつやすみなのに、大学入ってからそれまでもずーっと夏休みのような感じだったからあまりどきどきしない。みずみずしくずっと光っていたい。わたしもいつかデカい人間になりたい、いつかいつかいつかという文句ばかりが増えてゆくのを横目でみて、ぜんぶカサブタを剥がすように振り解いて拭ってくれる奇跡みたいな命、日々、音をどうしても期待してしまう。どうすればいいんだろーしにてーと思いながらまたあしたも友人と夜ご飯をたべにいく約束した。それでまた家に帰って、朝起きて虚無感に苛まされて、の繰り返しを大量の課題で中和する。薄暗い中でたべるごはんとか朝早起きして化粧をすることじゃない、今はなにもない海とか草原でなにも繕わずにその自然のデカさとか愛を仰向けになって享受するのがいちばんただしいきがする。たすけてと呼ぶには大袈裟すぎるし。わたしはわたしのことをぜったい見放さない、それだけで充分いっぱいすてきでしあわせで救いだということを今じゃなくてもいい何年もかけて真実にしていく、揺るがない愛に変えていきたい。
end
泣き出しそうに張り詰めた空気に鼻を啜る。世界の彩度が落ちて、ぶあつい服を着た街ゆく人たちが皆んなちっちゃな怪獣みたいにみえる。肌寒い。外はずっと灰色、モスグリーン、レモンみたいな匂い。大きな木が揺れて、木の葉の上に横たわっていた雨の滴が霧のように3秒間くらい降った。最近は毎日毎日やることが多くて、それをこなしているあいだに1日が終わる。3日連続で化粧を落とさずに寝てしまった。多くの人が電車にのっているときに外の景色に目をやらないのと同じ感覚で、わたしも生活の外側にひろがる微かな動きに鈍くなった。ずっと特別でありたかった、1番愛されたかった、そういった思春期的な熱望とどんどん疎遠になっていく自分に日々焦ったり安堵したりしている。だけど同時に、わたしの中をまだ生きている17歳のわたしがその��影をときどき覗かせる。期待させる。突拍子もなく走ったり、ゲラゲラ笑ったりする。些細なことで泣いたり、理不尽な世界に怒っている。良くも悪くも変わっていくのなら、これからの自分に期待をしたい。アルバイト先では後輩が6人くらいできて、みんなわたしよりも仕事ができる。わたしはもともと注意をされると衝動的に泣いてしまうところがあったし、シンプルに忘れっぽかった。あまりにも器用に仕事ができないので、ある日店長とそのことについて話し合ったら意識の問題と言われた。その1、人からのアドバイスに劣っている自分を見出してはだめ。その2、素直に人からの意見を受けとる。その3、自分のためでなくだれかのために働く。この3つを約束した。夜の繁華街で50歳の男性に飲みにいきませんかと声をかけられたり、あした授業にどんな服でいくかを考えながら化粧品を見に薬局に寄り道したり、腕に点々とのこる虫刺され痕をみて、それを残した蚊のことを考える。あした、図書館で借りた本の返却期限。わたしもちっちゃな怪獣になって寒さをまるごと食べてしまいたい、寒い日の、霞んだ光やクリアな淋しさ、果実のようにぎゅうぎゅうに酸っぱい気持ちを。
slow burning
大学一年生というよりも、高校四年生というような振る舞いをしているなあ、と自分のことを客観視する。新宿の横断歩道橋から行き交う人々を眺める。つい最近まで、委員会の同期の仲の良さにムラができていて、グループとかカーストとかそういう言葉が浮上してきてしまうほど揉めそうになっていた。それでも、それぞれが居心地の良い場所にしようと歩み寄っている。こういう、諦めによる愛想ではなくて心からの気持ちに胸を打たれる。明大前の飲み屋で酔っ払って「俺みんなのこと愛してるよ」と照れ笑いする先輩に、わたしたちみんな、キモいねーなんて言って茶化した。そのあと夜の大学で騒いでいたら警備員に注意された。机の下に10円玉を落としたのを拾わないで帰る。いつまでも赦されていたい、わたし、山猫のような女の子でいたかった。すぐ隣、肌すれすれにだれかの温もりを感じて弱さを誤魔化すのではなくて弱さを共鳴しあっていたい。「東京の人は生き急いでいる」なんて言葉があるけれど、わたしは美しい光景がそこに広がっていれば必ず立ち止まる人でありたい。仕事に遅れそう、とか、終電が、とかじゃない、好きな人たちのためだけに忙しくありたい。恋人は待ち合わせをするとき、「どこでおちあう?」と聞くのだけど、高2の頃、初めて会う日、それを「(恋に)落ち合う」と勝手に解釈し��死ぬほどどきどきしたのを思い出した。それからわたしも「どこで落ちあう?」と聞くようにしている。ドア窓の形に切り取られた青い影が電車のフロアに映って、がたんごとんという音に沿ってフィルム映画みたいに小刻みにうごいていた。池袋で新疆料理をたべて、お腹を下す。スペイン語の中間試験。木曜日、ほんとうは1限に英語の授業があったんだけど、財布を忘れたいせいで交通費が若干足りなくて新宿駅から乗り換え先の電車に乗れなかった。その旨をインスタのストーリーに載せたら、一度しか喋った事ない同じクラスの男の子から「抜け出していくわ、」とだけ連絡が来て、本当にきてくれた。クラスで唯一金髪で、派手で、いつも高そうな服を着ている。ピーナッツをぼりぼり食べながら、ダーツをする。わたしが2回勝って、可哀想だったからあとの1回は負けてあげた。それからは何も無かったかのように授業では一言も喋らない。お互い、目を合わせないふりをしているような、ふしぎな距離感を保つ。渋谷で5分1000円の手相占いをしたら、鎖みたいにいくつもの線が絡まっていますね、と言われた。意外と気にしいなんじゃないですか?「そうですね」と答える。駄菓子屋で1000円使い切ったほうが幸せになれそうだとおもった。電車の隣の線路にカラスが一羽いた。こんなに近くでみるのははじめてだ、と思って、じーっとみつめた。黒なのに黒じゃなくて、光を受けて渋いグリーンや紫っぽくみえる羽毛に目を見張る。なんか、空はどこまでも真っ青なのに光の細部だけ色があたたかい夕方前みたい。ふわっとなにかに気付いて、じーっとそれを見つめて、そこになにかが“視える”とぜんぶ途端にスローモーションになって、焦燥感や虚しさがたちあがってくる瞬間がある。からっぽなのにぎゅうぎゅうな感じ。AirPodsをケースにしまう音が体感的に5秒間くらい耳に残ったり、自分の息遣いにどきどきしたり、すれ違う男子高校生の会話声や、鳥が羽をはためかせる様子がクリアに輪郭が保ったまま空中を転がる。ガムを買って噛みながら、心のもやもやしたなにかを同時に小さく噛み砕いてゆく。光の洪水。家に帰ってパスタをたべたあと、お風呂で下の毛をつるつるにする。夕方終わりにお風呂に入るの、とても好きだなあと思う。コンタクトレンズを外さないまま、化粧も落とさずベッドへダイブする。瞼の裏に東京タワーの赤がたましいの塊みたいにまあるく光っている、はやく何もかも諦められる年齢になりたいと思う。
無題
なんかまじでわたしが疲弊していて悲観しているのか、世界が残酷なのかわからなくなってきた。脳科学の講義を受講したあと、テキトーに混雑した休日の街をあるいていたら皆んなの脳みそが透けて浮きでてきそうで気持ち悪くなった。地球4周分の神経線維。そう、どでかい爆弾が街ゆく人々の頭蓋骨に葬られている。ニューロンが軸索を介してつながってゆく、放出と受容を繰り返してみんな手を繋ぎあってゆく。セール中でバイトの雰囲気がぴりぴりしていて、みんな資本主義の豚みたいに働いていた。うつくしくないとおもったし、私も美しくなかった。結いた髪に、ぴたっとあげられた前髪。なにを思っているのかを書くのがずっと怖かった。もしかしたら私の感じているこの欲望はとても汚らわしいもので、それゆえにだれかを傷つけてしまうかもしれない。でも、言葉にしなければすぐにわすれてしまう感情に名前をあげなくなって、水をあげなくなって、そうしたら、じぶんの脳みその溝をうめていたみずみずしい苔までもがすっかり枯れきってしまって虚構を連ねるようになった。空洞に哀しみの音だけが響き渡る。友達はいるけど、私はその友達の1番になれない。恋人みたいな人はいるけど、私はその恋人の1番にはなれない。1番っていうのはほんとうの意味での1番、2番とか3番とかがいない1番。圧倒的な2人の世界の中でのフェアで高貴な1番。有名になりたかった。文章でも外見でも写真でもなんでもいい、だれにも敵わない羽根で世界を羽ばたいてみたかった。わたしを選ばないで、そこらへんのそれっぽくかわいい女の子を選ぶかっこいい男の子たちを信じられないでいる。外国に行ったらモテるよ^_^と投げかけられた言葉について何回も考えるけど、考えるたびにかなしくなる。でもね、神様はいるとおもうの。木漏れ日の首筋に、砂丘のしずけさに、広大な空の一枚下に、その温もりと永遠が芽吹いているのをしっている。そのたびに、わたしはこの世界に愛されていて、まだ19歳で、まだ何にでもなれて、そして世界を(気持ちがあふれてしまいそうなくらい)等身大で愛しているドラゴンみたいにかわいい女の子だとまじないを唱えるようにして心を強く保つ。アスファルトに散った桜が朽ちて、吐瀉物のようにグロテスクにぬるい光を浴びている。走り抜ける!だれかの憎悪の中に、疑念の中に、見下しの中に憧憬の眼差しを覚えながら。東京で灯される光の数だけ、アフリカの広原でつややかな花が咲けばいいのに。光の重さの分だけ、銃弾が軽くなればいいのに。帰り道、ひさしぶりにパンを買って帰った。
日記
弟がiPadのタッチペンを無くしたらしくて、それを聞いた母がすぐにAmazonで検索して新しいのを買った。こういうとき、ほんとうになんか小さなことだけれど、すごく心が愛にみちる。
大学の新校舎の建物のにおいが400人もの人が集まった���教室の縁をすべっていく。扉を開けた瞬間、目と目と目がわたしの顔を捉える。湿気漂うフロアにだれかがペンを落とす音、先生のマイクが吐息までもを拾って湿った熱を加速させる。「儚いって聞いて何を思い浮かべますか?蝶?蛍?蝉?トンボ?」 教授がそう聞くと、みんなのえらぶ選択肢がちょうど均等に分かれる。講義が終わるといつもすぐに帰るイケてる男の子が蛍を選んでいて、なおさらかっこよく見えた。わたし、インスタのフォロワーが490人いるんだけど、その人数って今見てるこの人たちよりももっともっと多いのかと思うとなんか心強いような息苦しいような、不思議な気持ちになるなーとぼんやり思った。君たちはぶっちゃけ勝ち組です、という先生がキモかった。海外の大学院に行きたい。わたしはもっともっと色々な人を知るべきだし、美しい景色にであうべきだし、貪欲に学ぶべきだとおもうから。聡明になって、お金を稼いで、将来だいすきなひとたちにたらふくご飯をたべさせてあげたい。お母さんとお父さんが育ててくれた、守ってくれたこの心の真ん中にそびえる愛情のかたまりを誰かに分け与えていきたい。でも、そうとも思うけど、逆にそれをこなごなにさせてくれる危険性や若さゆえの解放にも目が眩んでしまうの。「今しかできない」ってとてもずるい言葉だなあ。
19さい
19歳とかいちばん呪われていた1年だった。まだハタチじゃないけど、もうそうさせて、と思うくらいに、1年のあいだに10年分くらいの幸せと不幸せがぎゅうぎゅう詰めに、どっちがどっちかわからなくなるくらいに入り乱れててくるしくてさみしくて悲しかった。くるしかった。わたしと同じ純度で、等しく、あいしてほしい。あいされたい。
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菜の花がキラキラ
川沿いでキラキラ輝く菜の花。桜と同じく、今が見頃ですね。
京都府長岡京市の小畑川(おばたがわ)沿いに菜の花が咲いてて、だいぶ前から気になってました♪
この写真を撮ったのは、ガラシャ通りというところで…
京都府長岡京市馬場川原34番地あたりです。
JR長岡京駅の東口から徒歩7分程度のところで、JRの電車が通る景色も好きです。
川の水面に光が反射して、それを背景に咲く菜の花がとっても綺麗。
その綺麗な瞬間を撮りたくて、先日出かけました。
ここに来るのはかなり久しぶり。
小畑川の向こうには、JR長岡京駅、村田製作所本社、そのもっと向こうには勝竜寺城があります。
長岡京駅はむかし、神足(こうたり)駅という名前でした。
長岡京駅になってから、駅の周りがすごく綺麗になって、違う街になったみたいに見えましたね。
西口の駅前の道をまっすぐ行くと、どんつきに長岡天満宮があります。 色鮮やかなつつじが咲く中央通路が映える長岡天満宮。
最近インスタでも投稿が増えてきてますよ♪ 梅雨になると紫陽花に彩られる柳谷観音も有名ですね。 そして、秋はやっぱり光明寺が人気で、近くには長岡京で誕生したおかきブランド「小倉山荘」の本店、カフェがあります。
長岡京駅近くに勝竜寺城があり、長岡京ガラシャ祭りも有名ですね。
ざっくり説明すると、長岡京はそんな街です。
2023/04/01
23:05
カナリヤ響子
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カーセンサー5月号に載りました♪
今週から本屋やコンビニなどに並ぶのでしょうか? 中古車情報誌「カーセンサー」5月号に、EVデロリアンを紹介して頂きました。特集も「映画とクルマ」の回とあって、その関連で選ばれた気もします。久しぶりの媒体掲載ですので、皆さんも手にとってお読みください。
2月初めごろ、インスタで投稿を拝見したというカーセンサー編集部の方から、連載「達人の流儀」で紹介したいので、EVデロリアンのお話をお聞かせいただけないでしょうか、といった内容のメールが届きました。土日であれば時間が取れそうなので快諾し、17日の土曜に平和公園で待ち合わせしました。
取材そのものは、ゆっくりEVデロリアンの撮影がしたいとのことだったので、マリーナホップへ。駐車場で話をしながら、車体のあちこちを撮影されました。液晶インパネの受けも良かったのですが、もう搭載から8年。市販車も似た機能を搭載してきたので「設置当時は市販車に先駆けた、画期的な機能だったんですよ」と答えておきましたw メーン写真の撮影は「EVらしく充電する場面がいい」とのリクエストを受け、スーパーオートバックス広島観音新町店へ。パワーXの��電器前で撮ってもらう間にも、来客者から「10年前にイベントで見ました」と声をかけられる場面があり、楽しかったです。取材陣は「今日中に帰らないといけないので」と、とんぼ返り。どこも大変ですね。数日後に上がってきた原稿、簡潔で素晴らしかったです。どうもありがとうございました。見本誌も受け取りましたので、他の特集ページをこれから読んで楽しみます♪
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祝福とフィクション
28歳の誕生日、茉弥の結婚式だった。
半年以上前から悩みに悩み、ようやくレンタルまでこぎつけたパー���ィードレスが��愛くて嬉しい。パーティードレスを沢山着る人生にしたい。
駅で待ち合わせていたあづみが花束を抱えていたのを見て、しまった私も何か茉弥に用意すればよかったな、とちらりと頭が過った瞬間、お誕生日おめでとうとにっこり微笑まれて花束を渡される。思わず私の?と2回程聞いてしまった。
お花屋さんに花の選定からラッピングまで全部口出しという花束はとてもゴージャスでシックで、やっぱり花束って選ぶ人の性格が出るよなあとしみじみ思った。私が嫌いなかすみ草は抜いてもらって、大好きな菜の花は入れられなかったからと色とフォルムが似たお花をいれてくれた。彼女は好きだと言ったもの、嫌いだと言ったものを絶対に忘れないし、飲みの場での約束も忘れず叶えてくれる、律儀な女である。
駅から15分の道を当然のごとく歩く気になれず、平日なのに雨だからかずらりと並んだタクシー乗車列の最後尾に並ぶ。あづみのヘアセットがきれいにまとまっているのだけど初めて見る形の髪型をしていたので、個性的で可愛いねと言うと、前から見たスタイルはタイトで後ろは少し遊んだアップで見たことないけど奇抜では無い髪型にして欲しいと写真も持っていかずサロンでオーダーしたらしい。しかも初めて行くお店で。なんともチャレンジャー。
式場について、ウェルカムボードで初めて旦那さんの顔を見た。想像通りだの違うのだとやんや言っていたら、目の前を同じく式に招待されていた知人の理沙子が数人従えて通っていた。相変わらず嫌な雰囲気を携えて歩く女である。茉弥は理沙子ちゃんもあの時と比べて随分丸くなったからと言っていたけど、毛皮の羽織を着ているのをみて、丸ごと変わらずいけ好かない女のままだろうな、と思った。
カサブランカのにおいで埋め尽くされたチャペルにしずしずと入ってきたウェディングドレス姿の茉弥は、まるでウェディングドレスを着て生まれてきたのではないかと錯覚するほどよく似合っていた。私服だときわれても違和感がない。生まれながらにプリンセスなのだ。あづみは何度もハンカチで目を拭っていたけれど、私は対面に座っていた、新郎側ゲストの理沙子とその一味が誓いのキスで笑いをこらえていたのをみて一気に涙が引いた。おかげさまで親の勢いで泣いていたあづみに反して、私のハンカチは挙式開始から披露宴お開きまでカラカラに乾いていた。私の結婚式でもそれぐらい泣いてよね、とあづみには言っておいた。
メニューをみただけでも豪勢だとわかる料理は本当に美味しく、お金かかってんなーと身も���もないことを思った。久しぶりにお酒を飲んだらすぐ酔いが回り、酔い醒ましに違うお酒を飲む。式は終始和やかで、茉弥もとびきり可愛かった。歓談も多くてたくさん話したり写真を撮ったりできたし、正解の結婚式という感じがした。結婚式に正解も不正解もないだろうけど、正解の結婚式と聞いたら誰もが頭によぎるような結婚式。楽しかった。楽しかったのだ、確かに。親友と呼べる友人の結婚も嬉しいし、その結婚式に呼んでもらえたことも嬉しい。なのにずっと天井から俯瞰して見ているような気持ちだった。旦那さんベールダウン上手いなとか、メインテーブルガッツリあるタイプ久しぶりに見たなとか、そんなことばかり考えていた。
行きのタクシーで結婚欲のないあづみと、茉弥ちゃんの結婚式みたら結婚したくなるかななど話していて、結婚式はやっぱり素敵だなと実感したけど、自分がしたいかは別物だなと思う。
ちょうど1年前、元同期の間宮の式に参列した時は嗚咽が漏れるほど泣いた。それはあまりにも幸せな家庭で彼女が育ったということがありありと見えたから。眩しかった。自分の生まれ育った環境とのギャップに劣等感が煽られた。私は家族と仲が良くないからこんな結婚式はできない。家族に祝福してもらえない。だからこそ、嬉しそうに写真を撮るお父さんや、目頭をハンカチでしきりに抑えるお母さんを見て、胸の奥底が痛み、泣いた。今、たぶんあの時程私は家族というものに執着していない。茉弥はスーパーあったかい家庭でたいせつに育てられた子だと知っていて、実際にご両親も温かかったけれど、傷は痛まなかった。私はこの1年で随分癒えたのだと思う。色々と。
この先、誰の結婚式でも泣かないような気がしてきた。私は感受性が豊かで涙脆いと言われるのにだ。結婚式はなんというか私にとって身近じゃなくなりすぎた。友人の結婚式よりも、フィクションの小説や映画の方がずっとリアルで心が揺さぶられ涙が出る。
お見送りで茉弥からメイン装花の一部をもらった。花束を入れられるようなフラワーベースは生憎家には1つしかないので、帰り道、手頃なサイズのフラワーベースをFrancfrancで買って帰る。2つの花束を置くと部屋は一気に明るくなり、生花の瑞々しい香りで満ちている。これだけがリアル。この部屋が私の現実。
ところであづみが茉弥の式の様子をインスタに挙げたら、何人かの元クラスメイトから礼は私の事なんか言ってた?とか、礼とまだ連絡取れるかな、とあづみに連絡が来たらしい。礼に何かしてしまったなら謝りたいとまで。私はリアルなアカウントでSNSをしてないし、LINEもすぐブロックすると公言しているのでこういうことになるし、あづみには仲介役をやらせて申し訳ない。
でも。あれから5年も経ったのに、未だに自分が何をしたか分からないのなら、私に謝る権利などないということでしょう。好きな人にだけ数年ぶりにLINEを送って寝る。どうせ会うこともないだろうけど。
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韓国男性との結婚を真剣に検討されている日本人女性の方に韓国のいわゆる由緒正しいお家(本家と分家で分かれていて定期的に総会開く程)出身の私から同じ女性として事前に確認して欲しいと思うことは🥹 ①제사(祭祀/法事)の回数 :多い家だと年10回以上 ②兄弟柄 :長男だったら逃げてください ③ディンクス希望だったら婚前契約書を書くなど何らかの証拠を必ず残してください :結婚前は「あなたさえいれば子どもは要らないよ」と男前に言ってくるけど婚姻届出してからは義実家絡めて一変します(ガチ) ④男尊女卑 :特に釜山・大邱辺りだと男性と女性は同じテーブルで食事すらできません ちなみに④の例に挙げた釜山や大邱は、今居住している住所ではなく、実家や御先祖様のお墓、若しくは家紋に受け継がれてくる土地のある「本籍地」を意味します。 つまり、ソウルや済州に住んでても本籍地が釜山や大邱辺りだったらレッドライトです🙃 x.com/0825_0717/stat… ④の同じ卓で食事できないというのは「家族行事」の時です。 제사(法事)に限らず親の日、こどもの日、お盆、旧正月、キムジャン(キムチ作り)など韓国には親戚との集まりが無限にあるので、家の中で家族みんな集まる時に適用されます。 x.com/0825_0717/stat… :女性は女性同士集まってダイニングやキッチンの隅っこで食事させられますし、食事中も男性からのリクエスト(お茶やおかわりなど)があったらそっち優先です :調子の悪いお惣菜や冷めたご飯などは女性持ち ⑤結婚式に対して義実家の要望が多すぎる :まだ婚姻届出してない状態であれですよ…? ⑥未来の旦那さんが自分で爪切りできるか :信じられないと思いますが、今までお母さんにやってもらって自分では経験がなく、結婚してからは妻に手も足も爪を切ってもらう場合が意外と結構あります https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=2rvfgyp12W8 これ私も最初信じられなかったんですよ…。 信じたくなかったんですけど…一定数以上…存在してるらしいです🥹 x.com/0825_0717/stat… https://www.82cook.com/entiz/read.php?num=3589980 韓国の既婚女性向け匿名コミュニティーで「남편 발톱」や「남편 손톱」で検索したら理性的に理解したくない話がいっぱい出てきます🥹 ⑦お相手から先に共働き希望と強く主張してくる :ねじ���がった儒教とキリスト教の影響で韓国の男尊女卑は他の国では見られない特殊的な性質を持っているので、聞いてもいないのに勝手に共働きを説教してくる男性と結婚したら「お母さん・大黒柱・綺麗な奥さん」を同時に完璧にこなす妻を求められます ⑧母娘関係が良好でしたら未来の旦那さんに自然と自慢して反応を伺う :あなたが家族と仲良いのを見て、自分は何のアクションも起こさないくせに羨ましいとだけ言ったり、何故か少しご機嫌斜めになったり、冗談でも「結婚したらうちの母さんもよろしく」と言ってくるやつとは結婚を再考してください ⑨義実家の結納金又は結婚支援金 :少ない金額の場合、結婚式や住居などに色々口出してきたり、返答品選びなどに直系家族に限らず親戚まで連れてくるんだったら今すぐ逃げてください :金額が大きく、家も買ってもらえる場合、多くはお家のパスワードや合鍵が半強制的に姑の手に入ることになります ⑩彼の女兄弟が親御さんと絶縁している又はあまり喜んでくれず、嫉妬ではなく凄く複雑な顔をする :前者は特に未来の旦那さんが④で話した慶尚道出身だと、女性差別にうんざりした女兄弟が家族との縁を切っている可能性が高いです :女兄弟の話になると正確な理由を話さず「あいつなんか尖ってる」「昔からあいつだけ家族に馴染めなかった」などとりあえず女兄弟を責める発言をしたら即アウトです :彼の女兄弟さんがあなたに少し無愛想でありながらも優しくしてくれる、けど何故か結婚を喜んではくれない場合は絶対裏があります :勇気のある女兄弟さんだったらこっそりとカトクやインスタのDMであなたに家族のリアルを教えてあげるかも知れないです(このパターンだと命救われたもんなんで女兄弟さんの話は彼にせず安全に別れてください) 韓国男性と結婚する前に一回確認して欲しいところはざっくりこのくらいで、私はソウル生まれソウル育ちでありながらも本家所属だったので小学校を卒業するまでは年に何回も本籍地(慶尚道🙃)に行って종친회に参加させられました。 一人っ子の女の子だったので跡継ぎ問題で毎回騒がしかったです🥹 上記全てが当てはまるところってそもそも外国人との結婚を認められなさそうな気がしますが、韓国男性と結婚する方にとってはかなりの確率で1個以上当たる項目だと思うので書いてみました🥹 ドラマや映画では教えてくれない現実なので…。 ちなみに私の代からは本家の血を継いだ子が女の子しか生まれず、女の子でも家事などを強制されたりすることはありませんでした。 親バカだった自分の父親と叔父さんが裏で頑張ってくれてたし、勉強さえできて模範的な女の子をしてれば未成年のうちは女の役割から見��してもらえたからです。 しかし、子どもたちは女性の役割から逃れても、私の母親を含め家紋に嫁いだお嫁さんたちは実質召し使い状態でした。 ただ、私の実家は義家族や法事に限って非常に厳しかったので半分(①②④⑤⑨)だけ該当してますし、さすがにあれ全部該当したら都市伝説級かなとは思います(笑) 本籍地が首都圏辺りだと恐らくそこまで問題ないと思います! ただ제사と자녀 문제、맞벌이、결혼 준비など日本とはだいぶ異なってるので、隣国なのにこんなに違うのって驚愕しちゃうかも知れません🥹 参考までに翻訳機にかけた単語を 제사・・・祭祀/法事 자녀 문제・・・子供の問題 맞벌이・・・共働き 결혼 준비・・・結婚準備 補足すると、私は大学を卒業して社会人やってる20代です。 韓国内でもかなり保守的なお家ではありますが、私の友人(20代初~30代初)にこの話をしても特に驚かれることなく、盛り上がって自分ちの驚愕エピソードを語り合ったりするので同じ社会階層だったら割と共通点はあるかと。 あと、この話のどこから反日というコンテクストを読み取ったのか謎ですが、私の実家は植民地時代に御先祖様が日本名に改名したいわゆるバリバリ親日で、韓国の男尊女卑は親日・反日関係なく普通に実在することです。
Xユーザーの🙃過激パスニ🙃さん:
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8月11日(日)
一日中、実家に居た。洗面台の汚れと床にふわふわと落ちている猫の毛玉が気になり、掃除。祖母家の猫は大丈夫だけれど、実家猫に対しては何故か強くアレルギーが出てしまう。猫パワーが強過ぎるのか?目が痒いと何にもできない。朝、黒糖ロールパン1つ。昼、冷凍のドリアと赤ワイン?と梅酒が混ざってる異様に美味しい不思議なお酒(サッポロの『3種のポリフェノール赤梅酒』)夜はあったかい蕎麦を。日記を更新したり、企画を考えたりなどなど。思い返せば具体的に企画内容を決めたり、まとめたのはこの日だった。(『67号室の秘密』)実家の私の部屋は母の部屋になってしまっているけれど最近、無印良品のソファーベッドがこの部屋に導入されたことにより、昔の自分の部屋のように寝転びながら作業をすることができた。考え事をしたり、本を読んだり、文字を書くときは寝転ばないと集中できない。この部屋から全ての思考がスタートしていると言っても過言ではない。その時の感覚を思い出した。
8月12日(月)
朝、マフィンに卵とチーズを挟んで食べた。お昼は妹が作った焼うどん。銀色夏生の『偶然』を読了。知っている詩がいくつかあった。夏生さんの詩は緩急とリズムが良い。夕方から予定があり、父に駅まで送って貰った。父の凄いところは何があっても時間をきっちり守るところだなって思う。時間潰しのためにブックオフへ行き、夜ご飯はスープストック。グリーンカレーと台湾出汁なんちゃらと少なめご飯。スープが二つだとあっさりお腹がいっぱいになる。CCさくらを観た。ミッドランドのドーナツを初めて食べて感激。ふわふわでとても美味しい。次も絶対ドーナツを食べると心に決めた。寧ろ、ドーナツを食べるために映画を観ようかとすら思う。CCさくらは言わずもがな素晴らしい作品。新たな気づきをインスタに書いた。この日辺りからSNS無理だな症候群から解放されつつあり、積極的に投稿を始めた。インスタとの和解。兎も角、自分のことを見失うことがなければ悪い物ではないはず。
8月13日(火)
ノン氏とロイホ。キノコのパスタをセットで頼んだらお会計が2,400円になってしまって焦った。全くそんなつもりではなかった。1,100円になるのかと思っていたら、それがセットの値段だった。キノコのパスタはキノコのパスタの値段だったのだ。ロイホにしてはお得すぎると嬉々として注文してしまっただけに、寝耳に水って感じでショックをショックと捉える隙がなかった。いくらのジュレ、サラダ、オニオングラタン、スイートポテト、ドリンクバーのお茶や珈琲全部美味しかった。値段をもしも知っていたら食べられなかったということになる。そう考えると幸せだったんじゃないか?と思える。新しいイベントへ向けての話し合い。話が進み早速、現地の外観の下見。9月に予定が詰まっていた為、開催日は���うしても8月中が良くて、8月31日に決まった。ここまで短い準備期間で企画を組むのは初めて。通常であれば2ヶ月ほど前から始める。異例中の異例。どうなることやら。下見を終え、一休みをするためにロイヤルへ。ロイヤルからのロイヤルとボソッとノン氏が呟いて、妙にツボに入ってしまった。バニラアイスが暑くて疲れた身体によくしみた。
8月14日(水)
お墓参り。早朝だった為眠たくて仕方なかった。その後もずっと眠たくて、無理矢理外出。図書館に行ったら入り口のところで人がずらっと並んでいて、なんで?と思ったら、まだ営業前だった。図書館に入るために並ぶということを初めて経験した。人生何が起こるかわからない。図書館へ来たものの、借りていた本を全く読み終えられていなかった為、椅子に座ってしばらく読書。その間も眠たくて、うたた寝。集中できず返却。スガキヤへ。見慣れない『ワンタンラーメン』というものがあり、え?と思いながら注文。大きめのワンタンが5つくらいわんぱくに浮かんでいた。しれっと参入していたワンタンラーメン。今後果たして愛されていくのであろうか?ワンタンラーメンの行く末を案じている間に完食。そして、先日ゲットしたクーポンを使おうと思い、お目当てのドトールキッチンへ。かぼちゃのタルトと沖縄黒糖ラテ。ケーキセットにしたら結局クーポンは使えなかった。かぼちゃのタルトは常に美味しい。ほのかにりんごの味もする。何かでSaToAのメンバーのうちのお一人がドトールではかぼちゃタルトを食べるという話をしていた気がする。その話を知ってからSaToAのこともかぼちゃタルトのこともより好きになった。沖縄黒糖ラテはドトールの最高傑作だと思っている。これを超える癒しドリンクにはまだ出会えていない。というか、地名さえ入れば大体全て美味しそうだなと思う。ドトールを出たのち、再び図書館へ。今度は初めて行った図書館だった。小さいのであまり期待していなかったけれど、小さい分本を探しやすくてよかった。大きければいいってもんでもない。そこで、くどうれいんさんの本を見つけられてラッキーだった。読んでいく内に元気が出てきた。生活をちゃんとしたいという気持ちになり、バスを使わず歩いて帰宅。お盆ということで従姉の家族が大集結していた。私の分のお寿司と揚げ物と和菓子とケーキがずらっと並んでいて「誕生日みたい!」と思わず言ってしまった。従姉とは定期的に会うようになり、会話を交わす時間が増え、価値観が似ていることがわかり、数年分の気まずさが解消されつつある。良いことだなと思う。
8月15日(木)
もうすぐ手帳を書き終えてしまう。来年の手帳はどんなものにしようかなと考える時期になってきた。心配しなくとも時間はちゃんと流れていく。前の職場の給与が振り込まれ、お金の整理をしていたら節約意識が高まった。RECによる出費がかなり大きい。無駄に使えるお金なんてない中でいかに工夫して楽しむのかが重要。お金を生み出す仕組みも考えていきたい。まずは部屋の片付けと基本を大切に生きてみよう。
8月16日(金)
会場の下見と練習日。良い場所だったなと思う。駅近でこういう自由に使えるスペースがあってよかった。隈なく探すと見つかるものなんだな。恐らく今後もこちらでお世話になる予定。理想はやっぱり自分たちの場所を作ること。それに向けて面倒だなとか思うことから目を背けずに動いていきたいなと思った。暑くてどうしようもなくて、練習後すぐに帰宅。バスを待っている間にお土産で貰った『ふところ餅』を食べた。国産米粉使用ということでとてもおいしかった。空腹感に支配されずにバスを待つことができた。好みを熟知されているということはすごく嬉しいことだ。帰宅後、説明動画の編集を開始。夜遅くに就寝。
8月17日(土)
『67号室の秘密』の発表日。朝から説明動画の編集の続き。それからフライヤーと説明画像の編集。短い期間の中でロゴ作りを担当してくれたはんどまりくんには頭が上がらない。こんな無茶振りを引き受けてくれてどうもありがとうという気持ち。見た目の可愛さだけでなく、意味もしっかりと込められていて、イメージの共有がスムーズで毎回とても助かっている。ありがたや。改めて依頼してよかったなあと思う。開催日の場所の確保のために思い切って管理者の方に電話をしたら、向こうの尊敬語が移り、変な話し方になってしまった。つくづく電話が向いていないなあと思った。それでもなんとか場所をしっかり押さえることができて、無事にイベントの発表もすることができた。インスタ投稿をするために文章を書いていたら、活動を続けていく中で自分がふわっと思ってきたことがスルスルと言語化されていって書きながら、なるほどなってなった。手を動かすって大切だ。これは人間にしかできないことだなと思う。
8月18日(日)
お盆休み最終日。あっという間だ。悲しみに支配されないようにこの日記を書こうと思った。思い返せば随分と溜め込んでしまっていた。現実をうまく掴めない時、日記は書けなくなるものだ。今という時間を自分のものにするために私は日記を書くのだと思う。今回はPCからこうして文字を打っている。スマホではやはりどうしても集中力が途切れてしまう。PCだとあれも言いたかったんだ、これも言いたかったんだと言葉がうわんうわん溢れてくる。この自由を忘れずに労働に勤しみたいなと思う。数日間の空腹感の原因が解明され、毎月のことながら、ホルモンってのは厄介だなと思う。減量開始宣言をしたけれど、今回はゆるゆる長期的にやっていこうと思う。運動と食事と睡眠に対する考え方を丁寧にしていこう。あと、自分に対して健康的に接してみようと思う。スマホを枕元に持っていくのをやめるとか、水をたくさん飲むとか。そういう良いとされていることを一つ一つやってみよう。やってみないとやる気は起きない。わかっていてもできなかった。わかっていても、いなくても、まずはやってみよう。
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柴田元幸+トウヤマタケオ『思いを馳せる』
米カルフォルニア在住の絵本作家・イラストレーター、ジョン・クラッセン。クラッセンの絵本『ドクロ』『木に持ちあげられた家』(ともにスイッチ・パブリッシング)を中心に、翻訳家・柴田元幸の朗読と、音楽家・トウヤマタケオの音楽によるセッション『思いを馳せる』を、5月30日にtwililightで開催します。
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クラッセン作品の特徴は、ストーリーの多くを読者の想像力に委ねていることだと思います。描かれていないこと、書かれていないことに思いを馳せることで、それは、わたしの物語になる。
過去や未来、遠くの場所や人に心を向けることで、関係のないことなんてないと思える。
柴田さんの朗読とトウヤマさんの音楽によって、ご体感ください。
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柴田元幸+トウヤマタケオ『思いを馳せる』
日時:2024年5月30日(木)
開場:19時 開演:19時30分 終演:21時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28- 10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:2500円+1ドリンクオーダー
定員:20名さま
出演:柴田元幸(朗読)、トウヤマタケオ(音楽)
*定員に達したので、キャンセル待ちの受付になります。
件名を「柴田元幸+トウヤマタケオ『思いを馳せる』」として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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柴田元幸(しばた・もとゆき)
©️島袋里美
1954年生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者。 ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベック、スティーヴ・エリクソン、レベッカ・ブラウン、バリー・ユアグロー、トマス・ピンチョン、マーク・トウェイン、ジャック・ロンドンなど翻訳多数。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、『メイスン&ディクソン』で日本翻訳文化賞、また2017年に早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。 文芸誌『MONKEY』(スイッチ・パブリッシング)責任編集。
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トウヤマタケオ
音楽家
映像、舞台、ダンスへの楽曲提供や演奏など。 コロナ禍の2020年、自宅で一日一曲をアップする「音楽室シリーズ」をインスタグラムで100日続けた。 2021年 立春からペースを落として「音楽室シーズンII」 を再開。インスタとツイッターで配信中。 8年ぶり8枚目のソロアルバム「四辺は森として」(あたりはしんとして)を2021年7月21日にリリースした。
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アートの輪 シンゴ 【 機械仕掛けの人間 】《漫画、殺し屋1で、頭のおかしな、最強、双子のヤクザ兄弟から、腕を引きちぎられ、脳に、チップを、埋め込まれ、機械と、肉体を、ミックスした、歩くことも、横に、なることもできない、ただ、脳だけは、機械半分、脳半分だから、いたってまともな、状態の、機械仕掛けの人間》作品タイトルを、無題にした、理由は、あまりにも、過激だから、あえて、ふせていたんだよ。つまり、人類に、選択の、自由を与えてたんだよ。そしたら、お前らは、機械仕掛けの人間に、なる道を、見事、歩き出したんだよ。
イーロンマスク、つまり、こういう、Aiを、想像するから、頭で、考えたことが、否応なしに、良いことも、悪いことも、相手に、伝わってしまう、道へ、人類が、進むことに、なったんだよ。昨日、俺が、インスタに投稿したとおりに、なることに、なったんだよ。つまり、これも、人類が、作った、人類が、想像したことを、もとにした、神、仏からの、拷問なんだよ
こんなもの、作りだしたから、漫画【殺し屋1】の、あの、大男のように、機械仕掛けの、人間に、されるやつが、出てくることに、なるんよ。気づいてる人も、いると、思うが、神、仏の、拷問は、全て、人間が、作り出したものを、盛り込んだ、拷問、するんやからな。つまり、映画、ムカデ人間なんて、作らんかったら、ムカデ人間に、される、人類なんか、おらんかったのよ
物陰から😂顔半分😂出して😂じっと😂こっちを😂見つめてくる😂女の幽霊が😂怖してならんよ😂目を😂つぶった😂だけで😂そんなの、😂見えるんやから😂
聴きたい、曲も、みつからない。憂鬱な、そんな、朝。君の、大袈裟な、おはよお、で、変わってしまう、不思議。何故に❓僕のなかを、光らせる、鍵を、僕に、持たせたのか❓それを、ただ、知るためだけに、生きてみるのも、悪くもなーいーかもー。君ーじゃぁ、なーきゃ、ヤダよ。ほかーのぉ、誰かじゃ、ダメなんだよ。つまりは、君なんだよ。。。それなのに、そんな、あなたは、さも、救世主顔
さぁ、いよいよ、鳥🐦💬の、人類への、呪いが、はじまったよーー🤣🗯️ちなみに😂💬鳥🕊💬は、ねちっこくて、しつっこいよー😂💬バードストライクで、悪くもない、鳥🐦⬛💬たちを、呪ったり、するから、こんなことに、なるんよ🤣🗯️
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2024.1.6sat_tokyo
鳥の声で目が覚めた。ちゅんちゅんちゅん。こんな朝の起き方理想的すぎないかと思うのだが、朝、雀がめっちゃ庭に来る。ちゅんちゅんちゅん。
と言っても今は10時、正月の名残ということで昨日はわざと目覚ましをかけずに寝た。わざとじゃなく1月3日は目覚ましをかけ忘れて、新年最初のイベントには遅刻した。
昨日も朝から稼働した担当イベントの後に23時までコワーキングのラウンジでご飯も食べずに仕事した。えらい。帰ってから夜中に能登のニュースをずっと見てしまったので眠い。昨日は好きな人たちとたくさん話したし、���味に疲れて本当に体が動かないので、2度寝する。 11時にむくっと起きる。昨日水につけておいた小豆を炊く。大きい小豆のお汁粉大好き。いつも一応ちゃんと飾るお飾りも鏡餅も、なんだか気持ちが乗らなくてできなかったので、鏡餅用に買った餅を飾らないまま焼く。切り込みも入れたのに、ちくびみたいなお餅が焼けてしまった。おもろいな〜。
来週は甲府にも行くし(楽しみにしてた天然ラジウム増富温泉・不楼閣にいく!)、夜もずっと予定があるので、今日明日はいろんな仕事を終わらせておきたいので頑張る。
15時、また動けなくなって地面に横になる。布団は危険だからだめ。こんな日は結構珍しいのだが、頭が考えることでパンクしてるのも影響してる気がする。無理すぎる。目を瞑る。考えることがたくさんある。GAZAのこと、戦争のこと、能登半島のこと、自分のこと、家族のこと、仕事のこと、近い未来のこと。
こういう時は音楽も、映画も、色々を見るのがキャパオーバーで難しくなる。なので家で作業する時はずっと無音。だけど、写真だけはみたい気がしていて、写美で始まったホンマタカシさんと、 松蔭美術館の牛腸茂雄さんや瀧口修造さんの展示は見逃さずに行きたいとぼんやり思う。
身体は地面に垂直のまま、石川県輪島市の知人である漆工の桐本滉平くんのインスタのストーリーをチェックする。今回の地震で、代々守られてきた、明治時代に工房として建てられた自宅が全壊全焼したと投稿していた。リアルな景色に目を覆いたくなるけれど、ニュースでは得られない、桐本くんのまさに今を切り取っている投稿を見ながら、今できることを考える。といっても寄付くらいしかできないのかもしれない。でも、こうやって遠くでも想うことができること���情報が共有できる時代というのは、本当に希望も多くある。 桐本くんは元旦から今もずっと、輪島の未来や、会ったことのない誰かを救うために、全力で動いていて、避難所のこと、道のこと、今この瞬間のみんなが必要な情報をSNSで発信し続けている。きっと本当に多くの人がこの投稿に助けられている。
私の1/1の16時6分は、埼玉のおばあちゃんちで10数人の親戚一同で集まっている時だった。お寿司を食べて、ビンゴ大会の手前でこの地震が起きた。まずはじめに私の携帯が聞きたくない大きな音で鳴った。その30秒後くらいにみんなの携帯が鳴って、すぐ地震が起きた。自分の携帯にはYahooの災害アプリが入っていて、画面には36秒後に地震が起きますと書いてあった。たった30秒だけれど、みんなの携帯とは30秒の差があったのだった。親の携帯にもアプリを入れなければ。そのままテレビをつけて、地震の情報を流しながらみんなで過ごした。私はXを見ながら地震や津波の情報を集めまくる。石川県には大事な友達たちもいる。途中お母さんが、血圧が高めで眩暈がすると横になりに寝室に行ったが、私は変わらず画面に張り付けになっていて、横にいたいとこの旦那のわたるくんが「ニュースも気になるけど僕は寝室の方が心配だよ」と言ってくれて、まさに…と思って、寝室に様子を見に行った。気持ちを落ち着かせながらその場にはいたけれど、帰る前に寝てた身体を起こして、お母さんから渡された”幸せが訪れますように”と書かれた封筒には3万円とビール券が入っていて、北の国からの泥だらけの1万円札くらい使えねえよ…………………………。とか考えながら、帰宅する電車の中でいろんな気持ちになり小さくバレないように泣いてしまった。
地震のSNSのこと。尊敬する、信頼する人たちからの情報はなるべく信じたい。そうなのだけど、発信をすることについて、映画監督の枝さんが信憑性の話をしていて、シェアができない、というようなことをSNSに綴っていた。良心を騙すような、いろんな詐欺も起きていて、ちゃんと調べてから行動したいと思いつつ、今は瞬発力なのではと思ったり、寒い季節がやってくるよなあと、頭がごちゃごちゃする。寄付について考えているとき、わざわざの平田はる香さんが「被災地に感情移入しすぎて普段の生活を失わないように。寄付はできる範囲で継続的に。1万円を一回より千円を10回百円10回でも。長期間にわたって支援しよう」と書いていて、まさにそう、1回で満足しないで、何度でも、と頷いたり。でも、自分の暮らしもちゃんとしなくちゃとか、ぐるぐるする。
ガバッと起きて、下北沢ボーナストラックに向かう。自転車で10分ちょっと。ギャラリースペースではカレンダーマーケットが開催中で、友達や自分がお誘いした出店者さんがいるので、挨拶をしに。到着してすぐにミヤジが良いカレンダーを案内してくれておもろい。ビール飲んで、ゲラゲラしながら、出店中のヤマグチナナコちゃんと、SAITOEさんに阿部龍一ブースの良さを発表して満足する。阿部の作品や思考は本当に素晴らしい。
同施設内にあるキッチンスペースでは、今日は養生家の鈴ことさなえさんと、mizudoriのまみさんが出店していて、場所を管理しているりさPが、紹介したいと言って連れて行ってくれた。以前山梨の0-siteで開催されたイベントで、ちまきとホットワインを購入したことがあって、さらに昨年末にeatrip soilで開催のイベントでも見かけて気づいてくれていたらしく、その話もしつつ嬉しい再開。美味しい白味噌の雑煮と、出汁割り、おこぼれで微発泡の日本酒、出汁もご馳走になる。残り福。身体にあったお出汁や日本酒のことをお話しして、一息つく。ほっとする。今年一緒に何かやりたいな〜とお話する。嬉しい。
続けてラウンジで残って仕事をしようと思ったけど、真っ直ぐ帰宅する。帰り道、怒鳴りながら自転車を漕いでる人がいて、「こわ〜」と思いながら、私が動線を塞いだようになった瞬間に(絶対に悪くない)罵倒されてしまったが、心を無にして道を変えたら、矛先がなくなったからか、さらに大きな声で背中越しにまた罵倒された。さらに無になって大きく深呼吸して、「あの人にもあの人なりの理由があるのだ」とほんの少しだけ思考して、記憶装置から抹消した。毎日いろんな人がいろんなことを抱えて生きてる。
さっきお雑煮食べたので、夕飯は野菜だけのサラダにする。菜の花が美味しいよ〜。そのまま残った仕事をしながら、明日も担当のイベントがあるので早く寝なくちゃとお風呂に入ろうと思ったところ、建築集団 々の野崎将太さんが、インスタライブをしていたので開く。実際に野崎さんは地震が起きてすぐに被災地に向かっていて、現地で簡易トイレを作ったり、生のその日の様子をレポートしつつ、今何をするべきなのかを投稿に残していた。野崎さんとは1回しか会ったことがないけど、仲の良い友人たちが信頼している人で、場作りも含めて作る建築は本当にかっこいいなあと思う。人としても。今回はあやおさんという実際に被災をした方と話す機会を設けていて、報道やSNSで流れていることと、実際に体感したことの違いや、これから起こりえること、今実際に起きていることなどを話していた。現状、今は被災した家に侵入する盗難が多発しているらしく、家を守るために車中泊して見張っている人も多くいるという。被災地が渋滞になるから、ボランティアに来ないでくださいという投稿もよく見るけれど、実際緊急物資などは、一般の人が通れない大きな道を使っているので、現状実際には関係ないこと、スカスカの道もあること、言ってるようにすごく渋滞している道もあること、だけどそれは明日にはわからないこと、被災地には本当に若者がいないことなどを丁寧に話してくれた。これから雪深くなり、外に出れていた人が避難所の中だけで過ごすようになることでのストレスのことなど、本当に今起きていることを話してくれていた。
あと、桐本くんが、地震直後、楽天モバイルだけが使えたことや楽天のキャリアが一番先に避難所に到着して救われたことを書いていて、忘れないようにしようとか。災害メモ作らなきゃとか。色々また巡ってしまい整理する。野崎さんは、阪神淡路大震災の時の経験が、今回の行動にもつながっているというようなことを話していた。身近な友達のアグネスも阪神淡路を経験していて、出かけるときはコンセントを全て抜くと話していた。私は3.11の時も京都に住んでいたので、大きな地震は経験したことがない。
お風呂に入った後に、GAZAのことを発信してくれている波田野州平くんのストーリーもチェックする。自分じゃ拾えない情報を集めてくれて、ずっと発信してくれている。戦争も本当にやだよ。自分にできることも考えるけど、もうちょっと勉強をすることもしなくては。自分は無知すぎる。 (そういえば1/13-19まで下高井戸シネマで2019年作の「ガザ 素顔の日常」という映画が上映される!見なければ)
お正月に起きたいろんなこと、秋から続く悲しい出来事、全部ぜんぶ終わりますように。願うし、動きたいし、できること考えたい。でも、まずは自分が悲しくなって倒れないように、心のケアもしつつ。メディアからも距離をとることをちゃんとして、一人で考えないで、隣の誰かと話すこと。会話して安心すること、みんなが考えてることを知ること。何もできなくてもちゃんと想ってるだけでもいいと思う。あとテンション上がりすぎないように、ちょっと落ち着くこと。余裕が無くならないように、自分のことも考えること。深刻になりすぎないように日常を過ごすこと。この日記も、そういう安心の場になるといいなといつも思う。日常をみんなに綴ってもらえるというかけがえのないこと、を、続けたいです。
元旦から文章にしたくて、自分の番じゃないけど日記を書いてしまいました。こんなことを考えながら、1m以上ある立派な泥ごぼうを夜中に炊き、ホクホクのごぼうができたよ。うまいです。幸せ。明日は楽しみにしてる新年会もあるのです。みんなに会えるの嬉しい。おやすみなさい。
-プロフィール- 鷹取愛 東京 山ト波
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(昔の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱ��した熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。��丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み���なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと最近思う。自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分たちは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあげたほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいかなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど���夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。た��自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながら��良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいっ��り、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいた��とがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても���きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそ���は自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか���楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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大学のクラスメイトと3人で帰ってる時に、先輩にコムドット好きそうって言われて本当に傷ついた話をしたら、1人は最悪だね〜という反応だったのですが!!!!もう1人にもう嫌悪とか拾って傷つきに行ったり人を冷やかしたりするの俺にはできなくなったわ〜と言われました!!!!!!
はぁああ〜💢ですまじで!!!!!!!
これを言われてすかさず、だから山とか川とかの自然風景写真撮れるんだねー私には一生コンクリしか撮れないわーと言いましたムカついたので
これ言ってきた人(以下嫌悪マン)はいつも透明感を大切にして自然を撮って、人の作品にも積極的に意見しててその辺は良いと思うけど、人の作品に対して、嫌悪マンの言い方をすれば、嫌悪を拾ってくるので!!なんなんですか??💢となりました
嫌悪マンは毎日supremeやらstussyやらを着てウルフで髭生やしてるのに、なんでそんな女子大生みたいな格好なのに写真学科なの?と聞かれたこともあります!!ヘラヘラして消去法だと答えました!!!!私は総合型選抜という1番すごい入試方式で2番目に合格してるので嫌悪マンよりずっと上です!!!!消去法に負けてるぞ!!!!!!
スッキリしました
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嫌いなものと言えば…↓これはtumblerを始める前にインスタのサブ垢に殴り書きしたやつなのですが、書いてるうちにどんどんイライラ(太鼓みたい!)してきて入力の手が止まりませんでした!!全部に理由を書いていこうと思います!一旦一覧です!激長の予感…!!!
嫌いなもの→恋とか愛とかがなんだと言うツイートばかりしてるのに何人も元カレ元カノがいる奴、デブなのに足開いて電車で座る奴(男女問わず)、デブなのに電車で端の席座る奴(男女問わず)、思いっきり待機禁止と書いてあるところで電車待ちする奴ら(老若男女)、並んでる間に十分準備できるのに会計や受付時に慌てる奴、コムドット好きそうって言ってくる奴、人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア、TikTokのコメント欄、ネトフリやアマプラの勝手にOP・EDをスキップする機能、当たり屋、ピアスがゴールドシルバーバラバラな奴、ファンでもない有名人が亡くなった時にSNSで追悼する奴、犬系彼女、自称画伯、本名ベースの男みたいなあだ名でTwitterやってる女、ガルちゃんで例え話する奴、バズってるツイートの引リツで「これ嘘松ってわかっててみんな笑ってるん?」って書く奴、散歩、中肉中背のスキニーパンツ、ギャルが着るくすみカラー、理事長とアメフト問題をいまだにネタにする日大生、男尊女卑、ミスiDだけは自分の個性をわかってくれてると信じてる少し前のJロックしか効かない Twitter大好き女、小さい頃の写真をアイコンにして自分のコンプレックスをユーザーネームにしてる女、性犯罪者、感情の起伏を利用するだけでストーリーに面白みがないホラーや感動モノ、躁のときのあれだった笑、髪が長めでおとなしい男の人の髪をすぐ結びたがる女、男趣味が好きな女に対して無知呼ばわりしてくる男(カメラ時計車バイクスニーカー)、女が少しでも意見するとヒステリックと言ってくる男、整形否定派、ナンパやキャッチに返事する女、興味のない男に無視やブロックせずわざわざ返言する女
ー嫌いな理由ー
恋とか愛とかがなんだと言うツイートばかりしてるのに何人も元カレ元カノがいる奴
下手な奴が語るな黙ってろ
デブなのに足開いて電車で座る奴(男女問わず)
足開くだけでも最悪なのに太ってたら迷惑の域を越える
デブなのに電車で端の席座る奴(男女問わず)
端の席は痩せてて姿勢が良くないとその座席全体に影響を及ぼすため
思いっきり待機禁止と書いてあるところで電車待ちする奴ら(老若男女)
普通に日本人字読まなすぎじゃないですか??レジとか整列とか出入り口とか、字読めなくてもわかるように目印や絵までついててできないなら全員今の仕事クビで
並んでる間に十分準備できるのに会計や受付時に慌てる奴
普通に意味がわからない私ADHDだけど(全世界初公開、治療中)これなったことない 医者には衝動性がなく人目を気にしすぎるから出ない症状があると言われたのでその一部なのかも
コムドット好きそうって言ってくる奴
今日の話題のきっかけになったやつです そもそも、賛否分かれるものを好きそうと言ってくる神経がわからない 悪口なのだとしたらキモすぎる
人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア
お前らが今キテる、アツいと言っているものもいつかオーソドックスになるし、ダサいと一蹴してるものも昔はおしゃれでしたよ
TikTokのコメント欄
例え話や漫才、映画や再現VTRの切り抜きを本当のことだと信じて批判するガキ、老害見てらんねーよ コメントを開かないモード作ってくれー
ネトフリやアマプラの勝手にOP・EDをスキップする機能
見るんだわ 次回予告もエンドロールも前回のあらすじも
当たり屋
犯罪者 早く取り締まれクソ国が
ピアスがゴールドシルバーバラバラな奴
なぜ????靴が左右で違うのと同じだと思う
ファンでもない有名人が亡くなった時にSNSで追悼する奴
これでミュートした友達たくさんいる 他人がSNS、ましてやストーリーに投稿したところで何にもらならない 心の中でやってくれ
犬系彼女
てかののちとその彼氏 普通に顔が見てらんないしカップルでSNSをやることから理解ができない その中でも犬系は別格 ブロックしてもミュートしても転載が回ってきてこちらの身を守れない
自称画伯
何も面白くない
本名ベースの男みたいなあだ名でTwitterやってる女
これでロクな女見たことない 〇〇のすけ、〇〇太郎など 女に全振りしてないことをアピールするのが名前という一番女らしい行為
ガルちゃんで例え話する奴
いらない 主の質問疑問テーマに対する意見や共感しか求めてない ここは掲示板であって会話する場所ではない
バズってるツイートの引リツで「これ嘘松ってわかっててみんな笑ってるん?」って書く奴
なぜ?????????
散歩
歩くのが苦手、景色を楽しめない、無音が嫌いで音楽を聴くと動いてしまうため変な目で見られる、買い食いをしてしまう、そもそも目的のない行為は苦手
中肉中背のスキニーパンツ
脂肪がない人が着る前提で作られていますので
ギャルが着るくすみカラー
汚い
理事長とアメフト問題をいまだにネタにする日大生
2年生?の時のグループディスカッションでこの話をされて今まででトップレベルの怒りが込み上げて、その後口を開くことはなかった ちなみに今もたくさんいる この前クラスメイトがプレゼンのスライドに日大理事たちのコラ画像を使っていて教室から走り去りたくてしょうがなかった
男尊女卑
フェミニストなので 九州出身の女の子が無意識に家事をしていたり男をがばったりしているのを見て、一番の被害はこういうところにあると気づいて衝撃だった
ミスiDだけは自分の個性をわかってくれてると信じてる少し前のJロックしか効かない Twitter大好き女
明確にモデルがいますが ミスiDは個性も見てくれるだけであって基本はミスコンなのを忘れないでください それ以外はパタエモです
小さい頃の写真をアイコンにして自分のコンプレックスをユーザーネームにしてる女
これでロクな女みたことない だいたい遊んでるか、それを真似したいちっさい女 こういう奴はまず汚い声で笑って、その後悪気もなくヘラヘラしながら目を見て人に悪口を言う コムドットが好き
性犯罪者
男が想像する以上にいる 私も数えきれないほど痴漢やストーカーにあっていて、小さい頃は誘拐されかけたり路上で写真を撮られたりした 一番衝撃的だったのは自慰をした汚いオヤジに電車内で追いかけられてかけられそうになったこと
感情の起伏を利用するだけでストーリーに面白みがないホラーや感動モノ
最近まであまり映画を観てなかったのはこれ 明確にこの作品で映画から遠ざかったとかはないけど、嫌なものに当たりたくないから安全策で映画を観てなかった 最近観るチャレンジしてるのでおすすめあったら教えてくださいホラーとSF以外でお願いします
躁のときのあれだった笑
絶対躁鬱じゃないやつがSNSで言う
髪が長めでおとなしい男の人の髪をすぐ結びたがる女
言語化できないキモさで溢れています 自分に反抗しない人が好きだと言う点、自分ができて相手ができないことを強制的にやろうとする点、それが髪を結ぶとかいう女ならだいたいができることだと言う点、相手が男だという点 あと普通にそれを受け入れるキモい男 など
男趣味が好きな女に対して無知呼ばわりしてくる男(カメラ時計車バイクスニーカー)
実際、写真を撮るし時計の展示会に行ったりするのでよく遭遇する カメラ屋に行くとだいたいナメられるし、何もわからない前提で話してくるし、ただの客にお嬢ちゃんこんなの使えるの?と絡まれたこともある この前新宿で夜景撮影してたら、自称写真家にずっとロバートキャパの話をされて、無視してたのに15分くらい話し続けてて本当に恐怖を感じた 写真は上手く撮れた
女が少しでも意見するとヒステリックと言ってくる男
これずっと思ってます物心ついた頃には思ってましたほんとに ジャンダーに関する本をたまに読むのですが、脳の性差は世の中のイメージとはかなり異なることが最近の研究でわかってきてるそうですねー小さい頃に遊ぶもので変わってきたりもするらしい 人間って面白いねー
整形否定派
何がダメなのかわからない こんなこと言ったら私が不利になるだけだけど、整形がダメなら筋トレも勉強もダメだろ
ナンパやキャッチに返事する女
無視一択 下に続く
興味のない男に無視やブロックせずわざわざ返言する女
無視一択 上のやつもそうなんだけどさ、何にでもかまってあげちゃうの本当に良くないと思う ナンパとかキャッチは人と思わなくていいけど、好意を持たれたり都合よく遊ばれてたりするなら無視しかないでしょ 時間の無駄
大暴れ
クリスマスイブにこんなことしてすみません私は6年間毎朝礼拝をしたキリスト教中高出身だと言うのに
昨日ももクロのライブ行けて楽しかったーー!
今日はM-1だし明日は松枝とクリスマスパーティーするよー!みんなも来る???ピザとかケーキとかあるよん
では良いクリスマスをーーー!!!!!
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紹介や
コリーです。紹介します。
あろハム権左衛門
心の中に少年を宿している。突然キャッチボールを始めたりたまに壁に埋まったりしてる。オムニのときから思ってたけどダンスめちゃうま。オレンジのキャスパをオペ席から見れたのは良い思い出。背高いしなんかスポーツやってたんかなって思ってたら中高��化部らしい。
ゲネで指輪と間違えてイヤーカフはめようとしてたけどマイム超分かりやすいし芝居も貫禄あってすごい。掛け合いのシーンまじで気持ちいいんよ。
キャスパ自分が出ないところなのにバチクソかっけえ振付考えてくれたのほんまやばい。35期のキャスパはもう安泰ですね。
海泥波波美
なんやかんやで一番絡むことの多い奴の一人。この前の競馬楽しかったな。3連単当てるの脳溶けるな。どうやら新歓の頃はめちゃくちゃ絡みにくいと思われてたらしい。orz
アサギは自分がもう一人後輩に欲しいと言ってるけどもうこんな奇跡のバランスした人間は現れないと思う。
今回の役ではアサギの普段ない一面が垣間見えた気がする。
苔丸
いつも衣装で頼りにさせてもろてます。どんだけエグい衣装製作があろうと苔丸おるしなんとかなるやろと思ってしまう自分がいる。というか苔丸がいないと衣装斑が崩壊しそうな気がする。
今回みんなが見逃しがちな色んなところに気付いて教えてくれた印象。苔丸がいないとちゃうかが崩壊しますね。
キャスパわがまま聞いてくれてありがとう。マジで神です。
冊まいむ
初めての音響チーフ。がんばれ!コマ数の多さに苦しんでる。がんばれ!パソコンがぶっ壊れてめちゃくちゃ困ってた。がんばれ!パソコンがぶっ壊れるの辛いですよね。こりはもう3回初期化したよ。
キャパ的に結構心配してたけどそれを吹き飛ばすくらい役がハマってる。
がんばれみそか!負けるなみそか!
襟君
君がいないと生きていけません。いつも課題見せてくれてありがとうね。あなたは私の命の恩人です。今度奢ります。
とてもすごい筋肉をお持ちなのに照明仕込みはいつも卓に回るから吊り込みはあんまできないのは照明班七不思議の一つ。ポージング決めてるときのえりちゃんの笑顔がこりは大好きです。笑顔も筋肉も輝いてるよ。
ミル鍋
一度電チャリを貸してから何回か借りにやってきてる。ふはははは良いだろう電チャリは、もう普通のチャリには戻れまい。何度でも貸してやろう。
舞台とか本チラとか映像とかキャスパとかセンスが爆発してる。その他色々なところで奔走していてゆにほんまありがとうな😭となっている。芝居の感じとかもちゃうかで1番好きかもしれない。最近真面目なタイプの役が続いてたからもう一回霊Cみたいな役が見てみたい。
大福小餅
階段を無理矢理チャリで降りたらこふくも一緒にチャリで降りてた。一体なんてことをさせてしまったんだ。嗚呼
舞監でいっぱいいっぱいやろうにずっと稽古頑張ってて尊敬。そういえば秋公のときも朝早くから自主練してた気がする。でも時折めちゃくちゃ眠たそうにしている。無理はしないでください。
中森ダリア
オムニ仲間その1。本人の口から飛び出るエピソードに困惑する毎日です。すごい世界に生きてるねあんた...
1番ちゃうかで麻雀打ちたそうにしてたひらりさん、この前やっと打てました。数え役満アガってました。ちゃうか麻雀で初めて見たよ数え役満。
ひらりの今回の見せ場はまぁなんといってもアレですよね。楽しみにしてるぜ。
帝京魂
やれやれ系主人公。演技中に目が合うと目力が強すぎて笑ってしまう。あと口笛ずっと練習してる。最近やっと呪術を履修したこりの領域展開にいつも反応してくれる。
今回1番衣装が似合ってるのは彼。なんでそんな作業員感出てるん。なんか気付いたらいつもパンチ掃除してるし。役作りも完璧ですか。いつもコンちゃんは社会の荒波に揉まれた感の役やってるから今度は純粋無垢な役をやって欲しい。
しょこら
オムニ仲間その2。秋公の楽ステのアドリブほんますこ。あの後小一時間擦ってた。インスタで度々不憫な情報が流れてくる。ほんま災難やな...
今回の役はこらしょ史上一番のハマり役。最高の無量空処をかましたれ。
黒井白子
ちゃうかで1番最初に仲良くなったのは白子と言っても過言ではない。
今回は暇さえあれば稽古したり他の役者にアドバイスしたりしてずっと稽古場を回してた。流石に体力的にキツくないかと思ってたけど稽古終わりの彼から出てくる言葉は「幸せだあーー」どうやら新人でもその演劇サイボーグっぷりは健在のようです。
彼の異次元の存在感に乞うご期待。
鴨兎春
舞美ネキ!彼女にはネキの称号が似合いますよね。
マジでおもろいこの人。流石生粋の大阪市民、ただの豊中市民には辿り着けない領域にいる。それだけじゃなくて、タテカンバチくそかっけぇ。あと普段着もかっけぇ。おもろかっけぇ。
今回は初めてのでかい役なわけですが、舞台上でもかっこよく仕上がっております。
園堂香莉
我らが照明チーフ様。誰も彼女には逆らえません。秋公のときはひまわりだったけど今回はオペ席からみんなをひまわりにしてくれる。
あとキャスパ激エモい。神。照明チとキャスパ担当が同じだとあんなに素晴らしいものができるんですね。
個人的にはもっと役者して欲しい。あの綺麗な声は唯一無二だと思ってる。けどオペの技術もすごいんよな。でもオペ席に縛るのももったいないんよな。なんかいい方法ないですかね。
まろん
35期が誇るオペマスター。オペオペの実の能力者。新しいオペ概念を生み出して欲しい。外公のときの音響オペは神がかってた。
なんかバイオリン習ってるらしいですね。ガチでちゃうかでオーケストラできるんとちゃいますか。一回ガチ演奏見てみたい。
テキストを入力
想像の100倍フレンドリー。PVやべぇよカッコ良すぎんだろ。1ステ前なのに100周したわ。彼のおかげで35期のかっこよさにバフがかかってる。これから2年このクオリティの映像が見れる私達は本当に幸せ者です。
紫仏瑠唯
実はがっつり話したことはなかったりする。だけどめちゃくちゃ真面目でしっかり者なのは知ってる。オムニのときもその人間性が滲み出てるのがオペ席から見てて分かった。もっかい役者やってくれないかなぁ。待ってます。
近未来ミイラ
演出様ぁ!!!!もうね、彼すごいんですよ本当に。頭の中覗きたい。こりはこの脚本が今までで1番好きです。冗談抜きで。もっと自信持って欲しい。なんでそんなすぐヘラっちゃうの。まぁそんなところも好きなんですけれど���。みーらといえば小ボケのイメージをみんな持ってるかもしれないけど実はみーらのツッコミもめちゃくちゃ面白い。あのがなり声本当にクセになる。
みーらとここまで走れて本当によかったです。楽ステで泣かせてやるからな、覚悟しとけ。
新人が終わる音が聞こえてきますね。自分はかなりちゃうかに依存している自覚があるのですが、新人が終わるとしばらくはちゃうかがないわけです。寂しいですね。文字打ってたら余計に寂しくなってきました。どうやらこりは思ってた以上にちゃうかが大好きなようです。
寂しすぎて死なないように、脳裏に焼きつく強烈な思い出を作ってやろうと思います。
35期ってすげえんだぜ!VAMOS!
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2023/08/20
きょうが最終日の上野のマティス展、チケットを取りそびれて、会場も激混みで当日券も恵まれないだろうから、同じくきょうが最終日のアーティゾン美術館の抽象画展に行くことにした。が、来館する時間を指定しないといけなく、当初11:30までに行くつもりで予約したが、身体が重く身支度が捗らず、自宅のトイレの中で13:30までの予約に変更。電車を乗り継いで最寄りの東京駅へ。珍しく中央線で座れた。到着してお手洗いに行きたかったが、見当たらずそのままアーティゾンに入館。最初は同時代作品ごとの微細なタッチの違いに感動したが、そのあとはキャンバスに1色だけ塗っただけみたいなものが続き、まぁ面白いんだけど、これってどうやってして評価を受けるまでに至ったんやと考え出してしまってなんか疲れた。けど、楽しかった。模写禁止で撮影OKだったこともあり、スマホのカメラでパシャパシャしてる人が多くて、熱心やなと思いつつも気が散った。人が多くて疲れた。カタログも完売してたし、関連書籍の販売とかもなくて、結局ショップでなにも買わずに帰宅。早歩きで駅へ。日傘が裏返る。ビル風か。
新宿に戻り、紀伊國屋に行く。村上春樹ってそういえば、ドライブ・マイ・カーが入ってた短編集くらいしか読んだことなくて、この際読んでみようかなとふと思い立って、『風の歌を聴け』をひとまず買うことに。あと、パラパラめくって読めそうだった、川上未映子との対談本?も買った。そのあと、店内に町田康の特集コーナーがあり、文庫がずらっと並べられてたので、『くっすん大黒』を。最後に、今年は詩をよんでみようと思って、まずは田村隆一『腐敗性物質』にしてみた。文庫本4冊でざっと3000円はこえるなと思うといやになった。なんで紙切れで紙の束を買わなあかんねん。わけわからんなほんとに。もっと人と関わることにお金を使えばいいのに一人で楽しみこもることを促すような使い方。インスタ開くと中高の同級生が恋人とデートなり、地元のツレと草野球なりして週末を過ごしてるっつうのに、じぶんはこんなことしてる。レジの付近を右往左往しながらも、でも、手に取った4冊を買わないと思うことはなかった。買うのだろうけど、買ってしまうまえにそうしたかったのだと思う。あれやこれや言うよゆうが必要。帰る。満員電車。帰宅してすぐに米を炊いて、キーマカレーを作る。トマトを刻んで入れた。トマト分の水気を計算してなくて、シャビシャビ感はあったものの味は文句無し。これはひとに振る舞いたい。
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いつも週末に「生き延びた」と思う
二月末で退職することを伝えてから、職場の空気が悪くなった。 病状も目に見えて悪くなってしまい、出勤できない日もときどきある。医者に相談したところ「今すぐ休んだら」と言われる。 医者は、診断書と、傷病手当の書類は書いてくれるらしい。いつも二ヶ月に一度にしているが、今回は予約を早めに取る。
土曜日は高校時代の友人と出かける約束をしていた。 新刊『山梔の處女たち』の電子書籍の予約受付作業と、水星の魔女の配信をみて朝を過ごして友人が到着するのを待つ。
友人には、『山梔の處女たち』のカバーに写真を提供してくれたお礼に、毎シーズン通っているホテルのアフタヌーンティーとシュトレンを予約していた。 去年、小さいシュトレンを買ったら小さすぎたので、大きい方をえらんだらめちゃくちゃおおきくてびっくりした。 アフタヌーンティーは通いすぎて顔を覚えられているので「いつもありがとうございます」とすべてのスタッフのひとから言われてしまうという事態に見舞われ(いつも見舞われている)友人がおびえる。 おびえていたのは最初のほうだけで、かわいいクリスマス仕様の料理が運ばれてきたら夢中になって写真を撮影していた。
その後、地元の素敵なインスタ映えスポットへ行く。いつのまにか地元民は無料になっていた。ときどきナザールボンジュウが売っているのでショップを見て回るもナザールボンジュウは観測できず。 友人が撮ってくれたいい感じの写真を、たんぶらのアイコンにしてみた。 その後、イルミネーション、カレー屋さんへ。 写真をたくさん撮り、人生の岐路に立たされている自分の話などをする。 友人は、他者の可能性を信じることができる人で、その考え方にいつも助けられていた。次の転職先の話をしたときも、「ずっとすごいの知ってるから頑張れ」と励ましてくれた。 だれかの可能性を信じて、純粋に応援できるひとというのはなかなかいなくて、そういう稀有なひとが身近にいてくれることに救われている。わたしも、彼女の持てる可能性と、そして人生の選択を全力で支持して、応援していきたいと思う。
今日(日曜日)は野鳥の会の探鳥会。 地元の探鳥会で、今年最後なので来年の予定を立てる。 探鳥会では、32種の鳥を見る。はじめてチュウヒを見る。たまに歩くコースなのだが、チュウヒはトンビにしか見えなくて、もしかしたらいままでずっとトンビだと思いながらチュウヒを見ていたのかも知れないと思う。 会のおわりに食事にいく。うなぎ屋さんにいくということで、不安だったがエビフライ定食があったのでなんとかなった。 再来年(ほとんど一年後)だが、探鳥会の副リーダーをやることになった。自分がそんな立場になると思っていなかったのでいつもぼんやりと鳥を見たり鳥の写真を撮ったりしていたけれど、あと一年ある、リーダーや副リーダーがどんな仕事をしているかをちゃんと見て学んでおかなければならない。 『幻想生物保護官日記』という小説で、生物の観察会などを業務として行う職業を主人公に描いたが、物語のあとを追うような気がしている。そういえば、この小説をさいしょに書いていたころ、コウノトリが地元に飛来した。鳥と縁がずっと続いていく小説だ。
休日はアフタヌーンティーに行ったり、探鳥会に参加したり、それなりに活動ができているが、平日はてきめんにだめだ。体調がわるく、頭がぼーっとしている。 昨日友人に「それは病気とかじゃなくて労働環境が悪すぎるんだよ」と言われたりする。劣悪な環境の職場は、とりあえず今月でおさらばできる予定である。なんとか生き延びたいと思う。
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昨年10月期の連続テレビドラマ『セクシー田中さん』(日本テレビ系)で、原作者・芦原妃名子さんの意向に反し何度もプロットや脚本が改変されていたとされる問題。先月29日に芦原さんが亡くなって10日が経過した今月8日、原作漫画の出版元で芦原の原作代理人として日本テレビとの契約ややりとりの窓口だった小学館はコメントを発表。「ドラマ制作にあたってくださっていたスタッフの皆様には(編集部追記:芦原さんの)ご意向が伝わっていた状況は事実」と主張したが、同日には脚本を担当した相沢友子氏がInstagram上に、芦原さんが日本テレビ側に提示していた「必ず漫画に忠実にする」などの条件について、「私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました」と投稿。小学館側と脚本家の主張が180度、食い違っている。また、小学館は社員向け説明会で経緯などを社外に発信する予定はない旨を説明したとも報じられているが(7日付「Sponichi Annex」記事より)、今回、小学館が会社としてコメントを発表するかたちではなく、「第一コミック局 編集者一同」名義で出されたコメントを引用するかたちを取っている点にも疑問が寄せられている。 日本テレビは芦原さんの訃報に際し先月29日と30日に <2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております>(先月29日) <日本テレビとして、大変重く受け止めております。ドラマ『セクシー田中さん』は、日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう、切にお願い申し上げます>(先月30日) とするコメントを発表。小学館も30日に <先生の生前の多大なご功績に敬意と感謝を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生が遺された素晴らしい作品の数々が、これからも多くの皆様に読み続けられることを心から願っております> とのコメントを発表したが、以降、両社とも沈黙を守ってきた。 詳細な経緯の説明を求める声が高まるなか、今回発表されたコメントで「第一コミック局編集者一同」は <私たちにもっと出来たことはなかったか。個人に責任を負わせるのではなく、組織として今回の検証を引き続き行って参ります。そして今後の映像化において、原作者をお守りすることを第一として、ドラマ制作サイドと編集部の交渉の形を具体的に是正できる部分はないか、よりよい形を提案していきます> <プチコミック編集部が芦原妃名子先生に寄り添い、共にあったと信じてくださったこと、感謝に堪えません。その優しさに甘えず、これまで以上に漫画家の皆様に安心して作品を作っていただくため、私たちは対策を考え続けます> などと綴っている。これを受けて漫画家からは以下のように次々とSNSを通じて反応が寄せられている。 <おそらく現場判断で造反にも似た悲痛な叫びです。覚悟と誠意がこもっています。見えなかっただけで内部の現場や漫画家さん達は声を挙げていると思っていました>(『はじめの一歩』原作者の森川ジョージ氏) <原先生を想うプチコミック編集部皆さんの言葉を大事に受け取りたい。その上で、『守られるべき権利を守りたいと声を上げることに、勇気が必要な状況であってはならない。』この部分がこれからどう担保されるのかを見つめたいし考えたい>(『ちはやふる』原作者の末次由紀氏) <現場の編集さん達は諦めず闘っています。今年で40年目ですが、ここで描き続けていきたいと思っています>(『せいせいするほど、愛してる』原作者の北川みゆき氏) <皆様に読んで欲しいです。ちゃんと編集さんは動いていました。全て伝えていました 頑張る姿を見ています。芦原先生を守っていました。どうか、長いですが読んで下さい>(『18歳、新妻、不倫します。』原作者のわたなべ志穂氏) <昨日 直接 編集さんから『コミック局から別個にコメントを出します』ときいていたので、やっと出てくれて少しホッとしました。最後は涙が出ました>(『輝夜伝』原作者のさいとうちほ氏) その一方、SNS上では以下のように厳しい見方も出ている。 <経緯を全く書いてない> <説明が全くなし> <何を言いたいの?> <姑息さを感じる> このまま幕引きというのは許されない状況に 今回のコメントをめぐり多くの疑問が寄せられているのが、会社としてではなく、漫画誌「プチコミック」を担当する「第一コミック局編集者一同」名義で発表されている点だ。声明はまず「プチコミック」公式サイト上で公表され、小学館は会社の公式サイトで<芦原先生にご寄稿いただいていた『姉系プチコミック』が所属する小学館第一コミック局の声明がございます>と前置きしてそれを引用する形態を取っている。ちなみに同社は社員向け説明会で、経緯などを社外に発信する予定はない旨を説明しているが、今回のコメント発表後に同社は「Sponichi Annex」記事の取材に対し「方針は変わっていない」と回答しており、対外的に経緯を説明する予定はないとしている。テレビ局関係者はいう。 「日本テレビがこれ以上の対外発表をしない意向である以上、同局との関係から小学館だけが勝手に見解や経緯を発表することはできない。一方で社内の現場編集者たちからは、しっかり調査して結果を公表すべきという声が高まり、それを無理に押さえつけるとSNSなどを使って強行的な手段を取られかねないため、日本テレビと社内の両方へ配慮した結果としての妥協案といえる。もっとも、それはあくまで小学館の経営サイドの事情を優先したにすぎず、メディア業界全体に影響する大きな問題となって今なお、正式な調査も結果公表もしないというのは、出版業界を代表する大企業としては許されないだろう」 また、大手出版社関係者はいう。 「編集者の危機感や思いは伝わってくるものの、ただの『お気持ち』表明にとどまっている。『対策を考え続ける』と書かれているが、それはどこの出版社も常日頃から行っていることであり、それを改めて表明することに意味はない。重要なのは、一般的に企業の不祥事対応として行われているように、今回起きた事案について第三者委員会なりの形で期限を区切って調査を行い、それを公表することであり、日テレも同様だ。それをやると、日テレも小学館も過去数年間の原作ありのドラマについて遡って実態を調査したり、現在進行中の映像化案件にも影響がおよぶので、避けたいという事情は理解できるし、芦原さんのご遺族の意向も尊重する必要があるので、難しい面はあるだろう。ただ、もはやこのまま幕引きというのは許されない状況になっているのは誰の目にも明らかでは」 日本テレビ側にボールが投げられた 今回の問題では、芦原さんが提示していた条件が、きちんと日本テレビ側、さらには脚本家の相沢氏に伝えられていたのかどうかという点も焦点となっている。芦原さんは、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビ側に、必ず漫画に忠実にするという点や、ドラマの終盤の「あらすじ」やセリフは原作者が用意したものを原則変更しないで取り込むという点を求めていたとされる。これについて小学館はコメント内で、 <ドラマ制作にあたってくださっていたスタッフの皆様にはご意向が伝わっていた状況は事実> と説明。一方の相沢氏は8日にインスタに投稿した文章内で <芦原先生がブログに書かれていた経緯は、私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました。いったい何が事実なのか、何を信じればいいのか、どうしたらいいのか> <もし私が本当のことを知っていたら、という思いがずっと頭から離れません。あまりにも悲しいです。事実が分からない中、今私が言えるのはこれだけです> と説明。両社の主張は大きく食い違っている。テレビ局関係者はいう。 「もし小学館と脚本家の主張が事実であれば、日本テレビの制作サイドが脚本家に原作者の意向をきちんと伝えていなかったということになる。ここまで厳しい条件だと知らされれば引き受けてくれる脚本家が見つからない可能性や、脚本家が仕事を降りる可能性もあり、ドラマ制作現場の実態を考えると、制作スタッフが原作者の意向を脚本家に対して和らげて伝えていたということはあり得るだろう。原作者と脚本家の双方にそれぞれの意見を正確に伝えるべきというのは、原則論としてはもっともだが、そうすると揉めるリスクがあるのも事実。両社の間に入ってうまく調整するのが局の制作スタッフの重要な役割でもある」 日本テレビ関係者はいう。 「日本テレビとしては最終的には原作者の承諾を得た脚本に基づいて制作し放送しており、契約違反はないというスタンス。よって現時点では第三者委員会を設けて調査や結果の公表をする動きはないものの、小学館のコメント発表によってボールが日テレ側に投げられた格好になった。今後の世論やスポンサー企業の動向次第では、方針を転換してしかるべき対応を行うことになるかもしれない」 【これまでの経緯】 『セクシー田中さん』の制作にあたっては原作者の芦原さんは、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビ側に、必ず漫画に忠実にするという点や、ドラマの終盤の「あらすじ」やセリフは原作者が用意したものを原則変更しないで取り込むという点を求めていたとされる。芦原さんが1月にブログなどに投稿した文章によれば、何度も大幅に改変されたプロットや脚本が制作サイドから提出され、終盤の9〜10話も改変されていたため芦原さん自身が脚本を執筆したという。 問題が表面化したのは昨年12月の���とだった。脚本を担当する相沢友子さんは自身のInstagramアカウントで、 「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」 「今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」 と投稿。9話・10話の脚本は自身が担当していない旨を説明した。 これを受けさまざまな憶測が飛び交うなか、1月に芦原さんは自身のブログ上で経緯を説明。ドラマ化を承諾する条件として、制作サイドと以下の取り決めを交わしていたと明かした。 <ドラマ化するなら『必ず漫画に忠実に』。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく> <漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様『原作者があらすじからセリフまで』用意する。原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたい> 芦原さんは、これらの条件は<脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して大変失礼な条件>であると認識していたため、<この条件で本当に良いか>ということを原作漫画の発行元である小学館を通じて日本テレビに何度も確認した上でドラマ化に至ったという。 だが、実際に制作が進行すると毎回、原作を大きく改編したプロットや脚本が制作サイドから提出され、 <漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう> <個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される> といったことが繰り返された。そして1~8話の脚本については芦原さんが加筆修正を行い、9~10話の脚本は芦原さん自身が執筆し、制作サイドと専門家がその内容を整えるというかたちになったという。 (文=Business Journal編集部)
小学館「日テレに芦原さんの意向伝えた」、脚本家「初めて聞く」…日テレ沈黙 | ビジネスジャーナル
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