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憂鬱な気分に出会ったら
“それらは音楽とは到底言えない。楽しくない音。それが知らない間に自分の心を乱している。”
外からの刺激を抑えてみる、というやり方。
“この、紅茶+ショートブレッド+ウイスキー、の組み合わせは家で気分良く酔えるためにたどり着いた一つの結論だ。”
「逃げる」という行為もまた人生の一部。しっかりと準備をととえて酔う周到さが好き。
個々人であるであろう「憂鬱解消レシピ」を知りたい。
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「当事者ミュージアム」という発想
『自分史研究倶楽部(サークル)』をやるぞ!と決めてしばらく経つが、ずっと考えてても「うーん」と唸り続けている。
「わたし」は何をやりたいかということと、自分を語る「当事者」とそれを聞いた「聞き手としての当事者」の三者の関係性がうまく噛み合わない感覚がある。
すでにSNSやブログなどで自分の語りをしている当事者に再度十項目に当てはめて語り直してもらうのが二度手間というか面倒かけさせちゃうんですよね。当事者の言葉、考えをそのまま皆に見てもらえればそれでいいわけで、語りなおししない状態で見てもらえる、その仕組みさえあればいいなと感じてきて(もちろん研究していくわけだから語りなおし自体はあっていいんだけど)。
そのまま見てもらえて、それが集ってきて、創作者としても居られるし閲覧者としても、となる空間…って考えてたらそれって美術館や博物館なんじゃないかって思えてきて。
当事者ミュージアム。そんな感じでまとめらるかな?
孤立してしまっている人の言葉。つらい経験、生きづらさ、困りごと、特性を抱えている自分の思い。それらにどう向き合ったか、実験や対処の方法を述べた物語。
そういったものを安心して展示できる空間づくり。また個別に、みんなで語りあえる関係性も出来る場。
そういった収集、プロデュース、聞き手としての自分、という像が浮かんだ。
作品は作り手のものだから、いろんな意見や感想があっても作品自体は作者のもので誰が作り替えることも出来ない。また作品化することで作者自身もあらたな気づきがある(まさに当事者研究における「外在化」だ)。
自分のつらい経験や「死にたい」なんて思い、他の人には話せないって思って口をつぐむことが多いけどこうやって作品化して眺めることは、責任を問うことでもなければ悔い改める行為とも違う。
「収集・展示」「創作」「鑑賞」という流れは先の三者をうまくまとめられるやり方ではないかと、そういう予感を今は持っている。
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自分の気持ちを公開することの意味
https://twitter.com/myxx_erika/status/1221087464292356097?s=21
炎上したことでこの方のことを知りました。
彼女この後のツイートで「その後来た世間からの反応を想像出来なかったことにとても後悔している」「無断転載を心苦しく思う」と説明し、同業者やファンの気持ちを裏切るような意図での発言でないことをきちんと説明されていました。
彼女の発言は「大変だよね、がんばって」と応援してくれる人へたちの、助けや救い、そしておそらく懺悔を含めた気持ちの吐露であり表現だったと思います。と同時に公開をすることで彼女の苦しみの元凶でもある世間からの(セクハラ的・あげ足とりな)反応をする人たちへの元へも届き、さらなるつらい返信をも呼び寄せました。
なぜそうなったのか。
既存のSNSの多くは自分の気持ちを伝えたい人それぞれに伝えたいことそのままに、ということがシステム的には十分にできていないと感じます。フォローを外したりブロックをするなど色々と策はありますが基本的には「つながれないデメリットよりつながることのメリット」の方がいいでしょ、ってことでそこは各々が工夫してなんとかしてね、という状況です。
そのメリットとは「潜在的な味方に届く」だけでなく、意図や気持ちを考えず自分の気持ちだけで突撃してくるような相手に届けることで「社会を、環境を変える」ことも可能だからです。
狭い自助会のように同じ属性で慰め合うだけだと、まぁ絶望からの救いになるしその利点はとても大きいけど、元気が戻ってきていざ外に出るとなると「何も変わってないよね」の残念感もあるんですよね。じゃあ元気になってきた時「自分が取り組める次のステップは?」と考えると「自分の経験や語りで誰かを救う、そしてそれがまた自分への救いにつながる」という循環をも作ろう、ということになります。
だからといって初めからみんなが傷つくのを覚悟をもってネット上に自分の気持ちを書け、というわけではありません。それはあまりに危険なことです。
まずは自分で考えること、次に気軽に話せるような、もしくはネット上の相手のように利害の及ばないくらいの関係性の相手に伝えること。本当に伝えたい相手(それはおおむね自分を苦しめる元凶の相手であるのですが)へ最終的に届ける際の「段階的な開示」を促す効果があります。
「親から虐待を受けている」ということを直接親に言えないから苦しんでいる。身近な友人や先生に言うことも憚られる。
そこでネットでつぶやく。共感してくれる人とつながることで語ることの練習になったり、それ自体が気持ちを整理し落ち着ける効果もある。「そんなのは甘え」「親から養ってもらってる身だろ」「わたしは我慢した」なんていう言葉をいってくる相手に見られてしまう危険性もあるから、最初は鍵付きのつぶやきだったりごくごく狭い範囲内でのやりとりで済ましておく。
公開するという選択を選んだ時、それは自分の問題だけでなくみんなの問題としてに変化していきます。
「誰かに自分の気持ちを伝えたい」「自分と同じような気持ちを抱えている人に伝えたい、できれば勇気づけたい」そういった気持ちが含まれているということを汲み取る、そういう風につながるのがネットの、SNSの描く理想の未来図ではないでしょうか。
残念だけど今のところはシステム側でそれを完璧にやっていくのは不可能で、だからこそ使う人間の側で今できる仕組みや考え方を共有する。そういうやり方や術をすでにいろんな人が考えている。
わたしがネット上で、リアルの場で、『自分史研究倶楽部』を行うのもそういった意図もあってのことです。
「ここでみんなに語ることで、自分を苦しめているような相手にも届くかもしれない」
「丁寧なやりとりをすることでその人が変わり、その人の周りのわたしと同じように苦しんでいる人の助けになるかもしれない」
そういった「誰かの助けになるかもしれない自分」という存在が、巡って自分にも還ってくる。自分の中の治癒者が、自分も癒してくれる。
ただ先ほども書いたように段階を踏んでの、自分の状態を踏まえての公開であり、十分注意してやる必要がある。ここをシステム側が完璧にやってくれればいいのだが…そんなのは遠い先の未来、もしくは決してこない理想郷なのかもしれないのですが…。
彼女が件のツイートを書くと決めたのも、勢いで書いたのもありつつの、もはや言わずにはいられないくらいの限界だったのかもしれません。
思わず語った本音や弱さ、苦しさというのはなかなか他人には伝わらない。だからお互いリプライでやりとりをし、さらに長い言葉を積み重ねてなんとか伝えようと、聞き取ろうとする、お互いの理解と尊重がある者同士ならば。
実際はそこまでの時間や労力をさくのはシンドいし、言いたいことだけ言ってむかついて終わりになることの方が多いでしょう。
完全に理解し合うこと、共感し合うことはとても難しい。ほとんど不可能といってもいいくらい。だって相手は「自分」ではないのだから。
だからこそ伝えたい、わかってほしい、知りたいという欲望に価値がある。
そこに努力を惜しまなず「自分のために、他者のため」にという気持ちが叶う場所を、方法を、模索していきたいと思っています。
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「心配される自分」という存在〜平手友梨奈の欅坂46脱退に寄せて
欅坂46について書きたいと思う。
この記事を読んで、ひどく共感した部分がある。
↓
【欅坂46 平手友梨奈の脱退についての個人的な感想 - オトニッチ-音楽の情報.com-】
“本人が楽しみながらアイドルとしてステージに立っていてくれればそれで良い。ファンは最も笑顔になれる瞬間は、それを観れた瞬間だと思うから。
でも2017年以降は平手友梨奈のパフォーマンスでは、自分は元気をもらえず笑顔にもなれいことは多かった。心配になることの方が多かった。無理しているのかと思うこともあった。”
本文内の“アーティストとしての表現力”云々に関してはわたしはそうは思わないけど、確かにすごく心配しているからこそ一生懸命パフォーマンスしている姿を見て、「ちゃんと最後まで出来たね!えらいね!」という感覚が増幅されていた部分もあったと思う。
欅坂46というグループを初期から見てきて、サイマジョ以降すぐ「このグループは誰か一人でも抜けたら存続できない、即解散するんじゃないか」ってくらい結束が固くて。それが不協和音ですごく「死に急いでる感」としてまで感じられるほどに増幅されて。ずっと「今できる最高の��フォーマンスをしていつでも解散してしまいそうな不安」を抱えながら見ていた。
その姿があまりに輝いていて、苦しんでいる彼女たちの姿を見ながらもそれを嬉しく思ってしまうイヤな共犯関係を結ばされている気持ちになったこともあった。そう感じて以来あまりすべてを追いかける気にもならなくなった。テレビでのパフォーマンスをタイミングが合えば見る程度になっていった。
平手が抜けても、TAKAHIRO先生が振り付けを担当する限りこの世界観を踏襲していく気がする。だからその世界観を継げるのはずっと鈴本だと思っていたから、彼女も抜けるというのが自分としてはショックだった。彼女のパフォーマンスはいつも力強くて頼りがいがあったし、でも平手と同様感情を失うような顔をよく見るようになってそれも寂しかった。
今後誰がセンターとなって欅を引っ張っていくのかはまだわからないが、少なくとも平手や鈴本に関しては心配することが(魅せられることが)できなくなったので、大きな喪失感というのは確かにあった。
【心配される自分という存在】
欅に関して書いていたのだが、この「心配される存在であることの自分」ということに関して思うことがあったので書いてみる。
つらさや悩みをもった人たちの話を多く聞いているのだが、そこでよく聞くフレーズがある。「他人に心配かけている自分はダメだ、生きている価値がない」というものだ。
当人にとっては本当にそう思っているし、心配をかけない存在でありたいと思うこと自体は良いことだしそうなれたらいいよね、と純粋に思う。
ただ「心配をかける存在である今の自分」というものも今まさに存在してるわけで、そういう今や過去にいた自分というものも認めてあげる、肯定してあげる…っていう言い方も上から目線なんだよね。前の記事にも書いたけど良い悪い、認める認めないじゃなくてただ「居る」んだよ…っていうのを感じて欲しいし、こちらもそう思っているんだと伝わるといいなと思う(そのための努力と場が必要になる)。
心配しながら欅坂を応援している時それはそれで楽しかったし、魅せられていたのは間違いないし。そりゃ本人たちは心配をかけずに純粋にただ楽しんで欲しいという思いはあるだろうけど、でもその期間、その当時も間違いないくあなたたちは「欅坂46」だったわけで、それはファンと一緒に歩んだ確かな軌跡(人生)なんだよね。それを周りの人間はきちんと伝えることが必要だし、だからこそ頑張れる。先ほど書いたイヤな共犯関係ではなく、まぎれもない「存在していい、居てもいい」と伝え合える共犯関係がそこにはあったのだから。
心配する、されるというのは能動と受動の関係だけど、これもやっぱり中動的な言葉だと思う。能動受動の関係性はやっぱり「責任」や「立場」を強く浮き上がらせる。「心配する、されるわたしという場」がただあって、本人や周りを含めた環境がその心配を作り上げている。心配をかけているわたしが悪いんですという思考だけじゃなく、心配をかけるようにされているわたしというものを意識する、そのためにお互いが対話をする、そういうことが大事になってくる。
心配をかけさせられながら見ている欅坂と共にすごすのは確かに寂しい気持ちもあったし自分が傷つかぬよう興味のないフリをしていたこともあったけど、その中でしか生まれない喜びもうれしさもちゃんとあったんだよね。
そこをちゃんと伝えていかないとお互いの絆は本当に潰えてしまうから。
今までも、これからも、魅せたい、魅せられたい。そういう場をお互いが作りあげ、楽しんでいきたい。人生を。
【お知らせ】
『自分史研究倶楽部』をやっていきます。
いろいろな「自分」についてみんなで語り合いたいと思います。
「わたしは居てもいいんだ」と思える場にしたいです。
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自分は(生きて)居てもいい、と思えることがまずは大事じゃないかと考える。
深夜だし、勢いで言いたいこと書いちゃうぞー。
生きる上でなにが一番つらいかって『「生きなきゃいけない」と思うこと』だと思うんです。
どんなに自己肯定感が低くても、意志がなくても責任を負わなくても、なにかを成し遂げなくても、人は生きてていいんです。存在していいんです。
だけど「〇〇しなくちゃならない」って思うから(思わざるを得ないから)、しんどくなるんです。
コーチングは伴走すること、カウンセリングは自分を助けられるのは自分なんだと気づくこと、ケアとは傷つけないこと、傾聴はただ聴くこと。他人が、なにかが自分を変える、変えてくれることはない、自分がそう望まない限りは。だからまずは「今の自分のままで居られること」が大事なんです。
だけどこのままの自分じゃいられないから、なんとかしようともがくから、苦しむ。
お金を稼がないと暮らしていけない、自己肯定感がないとダメ、人としての(男として女として大人として親として子供としての)責任をはたさないといけない。
ただ居る、存在しているだけではダメなんだと自分や周りのプレッシャーがかかる。
わたしが、他者のつらい話を聞いたり当事者研究会やったりしててだいたい最終的に相手に対して思うことって「あなたはあなたのままで、そのままで(生きて)居られたらいいのにね」っていうことです。「なんとかしよう、変えよう」っていう考えの押し付けはお互いけっこうキツくなるからヤダ(前向きなことを考えられる段階まで回復してたら有効なんですけどね)。
カウンセリングや自助会に行って「別になにがどう変わったわけではないんだけど楽になった」という感覚は「今の自分でも生きてていいんだな」っていう認識に包まれたからなんじゃないかと思うんです。
だからこれからやっていきたいと思っている「自分史研究倶楽部」も、あえて目標を掲げるならメンバーの一人一人が「自分は(生きて)居てもいいんだ」って自然に思えることであり、あえて「〇〇させる、しなきゃならない」ことにならないよう、気をつけてやっていきたいと思います(実践して周りを、環境を変えることが大事と前に書いたんだけどそれも自分は居てもいいと思えるようになるため、そこから互いへの円環的なつながりが生じてると思う)。
でもやっぱり、「ただ居ること」は難しい。
だから「あなたは居てもいいんだよ」という言葉はなかなか心身に響かない。「居るのはつらいよ」の方にしみじみとした共感を持てるんだと思います。
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「甘え」や「弱さ」を表現できない
それゆえ限界を超えると爆発する、という自分の困りごとを前記事で書いたのですが。
書いてみて「そうなってしまう背景」を自分なりにいくつか思いついたので書いてみます。
・限界を超えるまで気づかない体質だから。
日々の一つ一つのストレス?イライラ?は気にならないんだよね。ある日限界が来て爆発すると思ってたんだけど���単に体調が悪い(疲れている)日に爆発していることが多い気がする。普段貯水池に水が溜まってて全然余裕なんだけど体調が悪くなると水位はそのままでも突然貯水池自体が小さくな��というエクストリームな変化が起きて水があふれだす、みたいな。
・「〇〇してくれないとイヤだ」「〇〇やってくれるとうれしい」みたいな感情表現自体を嫌悪している
嫌悪がありつつの、憧れや畏敬の念を抱いているんですよ。ストレートに感情や要求を言える人スゲェなって思う。自分にはできないことをできる人に惹かれるというか、だから今までも付き合ってきた人はこういう人が多く、自分と同じように溜め込むタイプの人とはうまくいかなかった。
うらやましい、憧れている、って言ってる時点で「自分には出来ない」ってあきらめているんですよね。そこができるようになるには…っていう思いで自分なりに取り組んでいることもあって…長くなるので、また今度話しますね。
・爆発自体が自己表現になっている。
爆発っていうのは壁を殴ったり自分を叩いたりうずくまって動けなくなってしまったり、です。ぶっちゃけこれをやってる時って気持ちいいんですわ。前に「そばにいる人に見せることで伝えている」って書きましたけど、自分の安寧を保つために必要な自己表現でもあるなって思ったんです。なんかもう、やるとスッキリするんならやっちゃえよって思うんですが「そばにいる人に見せることで心配をさせてしまう」ことに相手への申し訳なさや、やってる最中に自分を卑下してしまう(すごく死にたくなる)のでそうも言ってられないのかな、と。
なんかうまく対処できたらな、とは思うのですが長年染みついた身体の癖っていうのは簡単には変わらないもんです。
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一人自分史研究。「わかってもらえず、助けてと言えず爆発する」
前回も書いたように『自分史研究倶楽部』というのを作りました。今回は実際にわたしの困りごとを使ってその書き方を提示しようと思います。
いやあ、こうやって自分の弱さを白日のもとにさらすというのはしんどいし勇気がいることだなって改めて気づきます。秘匿性のある限定された集まりで語ったことはあったんだけど、そのときも「話さなければならない役割」があったから話せたんであってそうじゃなかったら、もっと大勢の人がいたらできなかったんだろうなって思います。今回���「倶楽部創設者としての役割」があるから書けるんであって、自分の弱さを語ることが自分にとってそもそも相当ハードルの高い行為である…今回あげたテーマがまさにそれなんだけど…ってことに気づきます。 …はぁ、これってなんとかなる(解決できる)ものなんだろうか…? では実際に書いたものをお見せしますね。ちなみに昨日書いた十項目ももう少しわかりやすく書きなおしましたので、そちらも載っけておきますね。
【ワークシート】
①自己紹介。呼ばれたい名前、挨拶、体調など。
②研究テーマ。いま抱えている困りごと、苦労、気になる自分の特徴・クセ。具体的に書くと同時に、安全性を考慮して初心者の仲間が扱えるくらいの範囲のものをあげる。「やっぱり言わなきゃよかった」と後悔しないためにも。相手を研究すると他者研究になるので困っている自分を研究する。この部分だけで他者とわかちあったり自己紹介として使えるので、大いに活用して欲しい。
③苦労のエピソード。テーマに関する出来事が起きた時間や場所、そのときの身体的感覚、気持ちなどを1〜3個書く。「もっとも古い/新しいエピソード」「もっとも印象的なエピソード」など。その時その瞬間のことを具体性を持って書く。
④苦労のパターン。ここから⑥までは誰かと二人で共同で書き出していくのがいいでしょう。一人だとよく煮詰まるし行きづまる。複数のエピソードを比較したときに反復性を持って繰り返されている共通部分を書いていきます。
⑤苦労の年表。過去から書き出していく。最近の傾向と思ったことも実は同様のパターンが別の他者に対しても昔繰り返されていたことに気づくことができる。具体的に「あのときこうだった」という語りが出てこない、抵抗感があるときには、「もしかしたら何か過去に遡りたくない、傷つきの体験を抱えているかもしれない」と推察し、無理に書き出そうとするのはやめておく。年表が描けない状態は永続的なものではなく、そのような「時間」が存在するのだ、という認識も重要。
⑥個人的要因/社会的要因。社会と個人の両方の「変わるべき部分/変えられない部分」「責任が発生する部分」を根気強く探っていく。この部分は最近わたしもハマった『中動態の世界』とおおいにリンクしていると感じる。
⑦仲間のコメント。メンバーとのやり取り。経験の共有、自分助けの共有(自分が似た経験をした時どう対処したか)、質問(手紙のように)のうち当てはまるもののみ限定で受け取る。
⑧実験計画。自分で考えたことや仲間からのコメントから、今後日常で実践できそうなことを書く。ハードルが低く、具体的な行動を考えてみる。
⑨実験報告。日常生活で試した結果を記入。失敗も貴重なデータ。
⑩クロージング。ここまでやり切った人に、ぜひ称賛の言葉をかけて欲しい。また過去の傷を思い出した人には「今、ここ」の感覚を取り戻させることも大事である。
【わたしの一人自分史研究】
①ハンドルネームのとおり純さん(すみさん)と呼んでください。
②自分の中でたまっていく「我慢」を小出しにすることができません。他人に「助けて」と言えません。やがてたまりすぎて限界が来ると「爆発してしまう」という困りごとを抱えています。
③具体的なエピソードを二つあげます。「一番最初に爆発したエピソード」と「それがもっとも嫌な形で現れたとき」のことを。一番最初は大学受験で追い詰められた時で、「もうダメだぁ!」と頭の中で叫んで机の下にもぐって号泣したんですよね。パニックというか。そして人生で最初の「身体が動かなくなる」状態に。それ以来自分の中で限界が来ると脳が爆発して体が硬直してしまう。この限界に来るまでに小出しにしたり誰かに相談するということができないんですよ。今でもそのクセは続いていて、限界までためてためて、けっきょく吐き出さざるを得ないので壁を殴ったり自分を叩いたりします。自分を叩くのは自らを罰するという意味合いよりも身体感覚を取り戻すためにやっている面が大きいです。
④普段からずっと溜め込み続けているので、爆発するタイミングはホントにもう「限界だ!」ってなったときです。気付いたのですが、今現在において爆発する時ってきまって同居人の彼女が居る時です。一人だとそこまで劇場的に出ないんですよね。だからきっと「こんなに苦しんでいる自分を見てほしい、気づいてほしい」という想いがあるんだと思います。身近な人や仕事仲間、彼女本人にもっと早くから相談できればいいであろうというのは重々承知してるつもりなのですが、相談することで「他人に迷惑がかかる」「自分の弱さを見せて押し付けてしまう」というブレーキがかかってそれができません。「どうやったらそういう自分の不満やいらだちを吐き出すことができるか」ということにもつながることだと思います。
⑤最初に出たのが書いたように大学受験の時で、その時もそばに母がいたはずです。「親の期待に応えなければ」というプレッシャーが相当強かったはずです。今も爆発する時は彼女がいて、そういえば常々「自分が一番甘えられる人」がそばにいるときになっている気がします。
⑥個人的要因は「変にプライドが高い」からだと思うんですよね。社会的要因…あえていえば「男だから、いい大人なんだから我慢しなきゃならない」っていう気持ちはあります。また「支え手」という立場なんだから他人に弱音を言ったりしてはいけないという抑制が強く働いています。でもけっきょくは爆発しちゃうんだから、だったらそうなる前に吐き出したほうが自分にとっても周りにとってもいいはずなんです。それもよくわかっているのに、できない。自分の弱さを吐ける環境や関係性がほしいな、と思っていますので、こうした「自分史研究倶楽部」のような当事者の会を開催したり参加したりしてるのですが、そこでは「ファシリテーターという立場として率先して弱さを吐き出す��風になっているせいか、どうにも「演じてる」感がするんですよね。なんなんだろう?甘えたいだけなのかな?
⑦なにか「自分の場合はこうですね」とか「わたしはこうしてます」「これってどういうこと?」などのコメントや質問があるとうれしいです。
⑧と⑨過去にあるワークショップに参加したときに気づいたことがありまして。それは「身体性」と「書くこと」を融合した取り組みで、最初にけっこうみんなで身体をほぐしたり預けたりして自分を思いっきり解放して、その後で枠組みや制約から解放された感覚で執筆するというものでした。。そこで気づいたのは私は普段からすごく身体を閉じ込めているというか殻に覆わせているな、ということでした。他人に身体を預けることができない。自分で支えようとするし、預ける時も「相手が待っているから自分の役割として」預けることができても自発的に全てを任せる、なんてことがホントできないんですよね。それ以来身体もメンタルも「ゆるませる、預ける、解放させる」とういのを意識的にやるようにしています。とはいうもののそれに気づいて運動したりリラックスを心がけたり、こうした当事者会をやったりしても自分のなかの「小出しにする」ことはちっともできていません。これだけ意識づけしててもできなんですよね。だから今でも同じことをくりかえしているんですが。
⑩まずは例としてザックリと書いてみたんですが、これだけでもけっこう気づきがありましたね。今まで何度となく自分でも他所でも取り上げたテーマだったんですが、今回初めて気づいた箇所は「甘えたいんじゃないか」ってことです。甘えるという言葉自体も口に出したら情けないことだと思っていたので今まで一切使ってこなかったんですが、あえてこの場で出したいと思います。「弱さの情報公開」します。自分の欲している「甘え」とはなんなのか、「頼る」や「依存」とは違うのか。その辺のことも考えてみたいと思います。たぶん、「自分のことをわかってほしい」って感覚だと思うんだけど…
なんか、こんな「甘えたい」みたいなことを(Twitterで)言うとボコられそうですが⑦にもあるとおり、相手のテーマに言及する時メンバー同士では説得や説教、アドバイス(自分はこうしたから、こう思ったからあなたもこうしたら?)ではなく経験の共有、自分助けの共有、質問のやりとりを行います。言いっぱなし、聞きっぱなしの精神で相手を尊重する態度を守っていただきたい、そういう安全性のある場にしたい(プラットフォームをどう構築するかも考えていきたい)ので、どうぞ興味のあるかたはやっていただいたり一緒に考えていけたらいいと思います。そして「倶楽部のメンバーになりたい!」という方も増やしていきたいと思います。
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『自分史研究倶楽部』というものを作ります(noteに)
noteというサイトでやっていく予定です(Tumblrは日記として、決め事の裏に潜む自分の不安や未確定な部分を吐き出す場所として続けていきます。あともちろん皆さんのことを知るためにもね)。
ようは当事者研究のオンライン版です。
当事者研究についていはこちらなどを参考にしてください。
↓
当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良) | 当事者研究ネットワーク
メインでやることは当事者研究で行わていれる「十項目を書き出し」「それを自分のブログなりSNSに貼り付けて」「それについてメンバー同士で語り合う」だけです。
この十項目というのも『当事者研究をはじめよう』内にある「当事者研究ワークシート」をそのまま抜き出しただけなので、特にオリジナリティがあるわけではありません。この項目を無理のないよう書き出して(必ず全てをこなさなければいけないわけではありません)、開示するだけです。
この項目それぞれの意味合いとか注意すべきこととか、どんな効果があるとかそれらも追々書いていきます。
当事者研究とは仲間と分かち合いながら自分を研究し、そこで発見したことを日常生活において実践していく営みです。すでにブログやSNSで自分の困りごとや起きたことの振り返りをやっている方も多いと思います。Tumblrで日記を書いている方の中にはそういった意味合いでやっている方が多いと思います。こういった形で【一人自分史研究】が行われます。誰かと二人で語り合いながら考えたり発見したりするのを【二人自分史研究】、そして複数で実際にリアルで、もしくはオンライン上で集まってのやりとりが【グループ自分史研究】となります。
当事者研究における「仲間との分かち合い」「日常生活における実践」を大切にしていきたいと思います。
【当事者研究の理念】
・弱さの情報公開
・自分自身で、ともに
・初心対等
・自分の苦労をみんなの苦労に
・自分を助ける、仲間を助ける
・言葉を変える、振る舞いを変える
・研究は頭でしない、身体でする
・経験は宝
・“人”と“こと(問題)”を分ける
・主観・反転・“非”常識
・“笑い”の力、ユーモアの大切さ
・“見つめる”から“眺める”へ
・“治す”よりも“活かす”
・いつでも、どこでも、いつまでも
・前向きな無力さ
「仲間との分かち合い」
「日常生活における実践」
【当事者研究が対象とする自分とは】
一つ目は、自分の感じ方、行動の癖やパターンなど、「時間を超えて変わらない、一人の私として共通している自分」。自分の変えられない部分については周囲の環境の変化を提案していく。
二つ目は、「時間とともに変わり続けているが、一人の私として連続している自分」。個別のエピソードを一度きりの出来事と捉えた上で、それらを連ねた自分史を編み上げ、その全体的な文脈に個々のエピソードを位置づけることで、各々の意味を��っていく。
【一人で書き出す十項目(⑦は共同作業)】
①自己紹介。呼ばれたい名前、挨拶、体調など。
②研究テーマ。いま抱えている困りごと、苦労、気になる自分の特徴・クセ。具体性の観点から。初心者の仲間が扱える範囲。安全性の観点、後悔しないテーマ設定。相手を研究すると他者研究になるので困っている自分を研究する。
③苦労のエピソード。「一回性のエピソード」を1〜3個。
④苦労のパターン。交換。複数のエピソードを比較したときに反復性を持って繰り返されている共通部分。
⑤苦労の年表。起きた時からだけでなく過去から書き出していく。実は同様のパターンが別の他者に対しても繰り返されていたことに気づく。
具体的に「あのときこうだった」という語りが出てこない抵抗感があるときには、「もしかしたら何か過去に遡りたくない、傷つきの体験を抱えているかもしれない」と推察し、無理に聞き出そうとするのはやめておく。年表が描けない状態は永続的なものではなく、そのような「時間」が存在するのだ、という認識も重要。
⑥個人的要因/社会的要因。
⑦仲間からコメントをもらい、記す。経験の共有、自分助けの共有、質問(手紙のように)のうち当てはまるもののみ限定で受け付ける。
⑧実験計画。自分で記入、周囲と共有。
⑨実験報告。日常生活で試した結果を記入。「失敗も貴重なデータ」
⑩クロージング。
次の記事では実際にわたし自身の十項目を書いて公開したいと思います。
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やせたいは、孤立を引き起こす
“能動態はたしかにあったのですが、これが中動態と呼ばれる態と対立していたんです。ではそれはどういう対立かというと、「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという対立です。動詞が名指している過程が僕の外で終わるときには能動態を使って、僕がその過程の場所になっていたり、僕の中でその過程が進む場合には中動態を使う。
たとえば、“I want it”って言ったら「僕はこれを欲しい」ですから能動態を使いますよね。だから僕らは“I want it”を能動的なものと捉えます。でも、そうでしょうか。これは僕の中で「何かを欲する」という過程が起きているということです。僕が能動的に何かを欲しているというより、僕の中で何かを欲するということが起こっている。これをかつては中動態で説明していたのです。実際にギリシア語では、“I want”に相当する表現「ブーロマイ」は中動態です”
第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
���やせたいは能動的な想いか?】
普通に考えたら能動だろう。自分らしく、自分のために。とくにダイエット系の宣伝はやせたいと思う「あなた」の意志を、気持ちを刺激してくる。
受動ではないですよね…と言いたいところだけどたくさんの広告や着たい洋服、他人の眼差しがあるとそれらからやせろと命令されて「やせさせられている」という表現がしっくりくるんじゃないかとも思える時がある。
でも多くの人は「自分で」やせたいと思ってる人が大半だろう。
で、先の引用にもあるようにやせたいは「わたしの中で何かが起こっている」状態です。中動態としてとらえられるものを能動(受動)でとらえている場合、それは「意志」を発生させるためであり、意志の発生するところには「責任」が生まれてきます。
“自分の行為にさまざまな原因があるというのは、ちょっと考えればわかることです。一つの行為が何か一つの原因によって決定されているというのがあまりにも単純な考えであるというのはおわかりいただけると思います。けれども、意志の概念はこれを単純化してしまうのです。行為は多くの原因によって多元的に決定されているはずなのに、たった一つの原因、意志という原因によって一元的に決定されていると、僕らにそう思わせてしまう。
意志とは何ものにも影響されていない、純粋に自発的なものだと僕らは思い込んでいます。しかし、純粋に自発的なものが人間の心の中にあるはずがありません。心は過去とつながっているし、周辺から常に影響を受け続けている。スピノザはそのことを指摘したわけです。ところが、僕らの使っている能動と受動に支配された言語によって、この少し考えればわかることがわからなくなってしまっているのではないか。”
やせたいという気持ちの中には、とてもたくさんの想いが込められています。
認められたい、大切にされたい、愛されたい、幸せになりたい。かまってほしい、心配されたい、安心したい。自分で自分を肯定したい。自分で自分の人生を切り開きたい。
これらを一人でやり切ることって、大変じゃない?
何もかも自分の意志、責任ととらえる。それは良い面もありますけど孤立を引き起こす手段でもあるんですよね。
やせたいと思っている人はやせる情報以外、自分の体重や栄養素などの数字を第一に考え、それ以外のものはすべて「誘惑」に見えちゃうんですよね。わたしは自分でこんなにもやせようと決意してるのに、どうして友達は、ケーキはその意志を否定してくるのか、って。
友達はあなたを心配しているからであり、ケーキはあなたに食べてもらうために存在してるから。そういう世界とのつながりをなんとか閉じようとする。
それはとてもさびしいことだ。キチンとダイエットして健康的に見える人は、むしろ他者や世界に対してのつながりを深め大事にしているように見えるからこそ魅力的に映る。
他者(世界)とのつながりをとらえなおすことで自分を楽にする。それが中動態の世界を取り入れる、感じることの意味の一つでもあると思います。
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中動態と演技
再度考える、自分がしたいこと。
本日もここ最近どハマりしている「中動態」について書きます。
何でこんなに中動態に興奮しているかというと、この考え方が「自分がなにをしたいか」と同時に「誰に対して」「どうやって」を答えてくれているから、ハマっているんだと思う。
中動態を考えることは能動/受動の世界だけでなく能動/中動/受動のあり方を考え、ひいては「意志」「責任」「主体」といったことを考えることにつながり、それは多くの生きづらさやしんどさ、障害や欲望を抱えている人たちへの何かしらの「ヒント」「助け」「安心」につながるものだと感じている。
わたしは今「傾聴」をとおしてそういった人たちと時間を共にする機会を得ている。そこではただ居る、だったり聞くことが重要視されている。そこで尊重や信頼が生まれることで初めて人は今いる場所(多くは暗闇だ)を認識し、初めて一歩だけ前へ、一日だけ生きていけるのだ。
そういった「今いる場所、今あるがままを尊重する」ためにも、そして「次の一歩を踏み出すきっかけ」としてもこの中動態は役立つと感じている。
意志や自己責任にがんじがらめにされている人が中動態という世界に触れ、自分を少しでも自由にすることができたなら、あらためて世界とのつながり方を模索し始められるのではないかと思う。
【中動態と演じること】
その次の一歩にも役立つと書いたが、わたしはそれは「演じる」に通じているような気がしている。
じっさい「生きづらさ」を語り合っていると「〇〇という役割を演じる」ということが己の生きづらさの原因になっていることもあれば解決につながるものにもなっているという発言に多く出会う。
「友達」や「親と子」「上司と部下」「先生と生徒」「男や女」といったものを演じていれば必然的に社会や他者にたいする役割というものがつきまとい、それが己の役に立つこともあればそれによって苦しめられることもある。そして一人が演じるキャラというのは無数に変化していく。「友達だから〇〇しなければならない」と「〇〇してはいけない」の間で、そういった役割の中での難しさを中動態的な態度でとらえなおすことは一つの助けになるだろう。
じっさい中動態と演劇、演技についての記事も多く見られるので、わたしは演劇・演技についてはとんと無縁なの詳しい人に教えてもらいながら「演じる」ことについても学んでいきたいと思う。
演劇における中動態の世界――演じるという態|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
当事者研究会に参加しているとテーマについて話している人=研究者=演者で、それを聞いている人=発表を聞いている人=観客という感覚をよく味わう。円になってとりかこむ座り方は舞台のようで、だれもが演者であり観客になる。昨日の記事に書いたように会をすることでアップデートされるの��観客(環境)の方であり、世界が変われば当事者にも当然影響はあり、そういう意味で当事者研究は当事者運動にもなる。自助会として自分たちの中だけで閉じるものとはそこが違う。
そして当事者研究会のやり方である外在化をする(ホワイトボードやワークシートに書き出す、困りごとを自分からとりだしてみる)のも演者として本人と距離を置いてみる(自分というキャラを再発見する)ことに近い感覚だと思うので、そういういう意味でも演じる、演劇と見立てるのはわかりやすいかもしれない。
リアルで演じている「自分」というものをみんなでとらえなおす場、という言い方はやさしい気がする。そしてそこは中動態的空間であり、責任や役割というものから自由になって、演者と観客という両方の立場で楽しめる空間なのではないだろうか。
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昨日に引き続き、自分がなにをしたいかとなにをしたかを思うまま書く
まずはしたこと。
摂食障害の子とやりとししてて。
かまってほしい、注目されたい。そこからの「心配されたい」というのがその子の拒食の帰結であり今生きていくのに必要なことになっているというのがわかってきて。
そこでつい言っちゃった(コメントした)んですよね。「心配されたい状態でいるのはつらいと思いますあなたが安心した状態でいれたらわたしはうれしいです」みたいなことを。
うーん、これは相手の今いる場から動かそうとした発言だな、って。拒食することで心配される、それが今の本人の安心であり居場所認定しているなら動かすこと=アドバイス、説得であって、まずはそういう場所にいるんだね、ということを認める(相手を受け入れる)ということをしなければいけなかったなって。もちろん「周りに心配かけてたらダメだよね」みたいなことは毛頭言うつもりはなかったけど、「今のあなたは安心を得られてないですよね」っていう今の相手を否定してしまうような言い方はなかったな、と。たとえそれがそうだったとしても、わたし(周り)が言うんじゃなくて本人が気づいて、言うことが大事だから。
自分の中の「困った人を何とかしてあげたい」癖がまた出てしまったなぁ、って反省しました。
相手をそのままで居させる、っていうことは本当に難しい。受け止め、受容、尊重をされないうちにアドバイスや説得、変化を促すのってできないし、逆にされてもしんどいんですよね。
【当事者研究的態度で作られたサイト(場)づくりがしたいってことかなあ…?】
昨日のTumblrでも書いた「中動態」の話がめっっちゃ刺さったのでいろいろとネットで記事を読んだり動画見たりしてました。
動画で解説してくれてるのはわかりやすくていい! 興味のある方はこちらをどうぞ。
↓
哲学対話 PARA SHIF パラシフ [中動態] - YouTube
んで、そういえばこの國分さんと当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎先生が対談してたのを思い出して引っ張り出してきた。
臨床心理学増刊第9号―みんなの当事者研究 (臨床心理学増刊 第 9号) | 熊谷 晋一郎 |本 | 通販 | Amazon
「当事者研究」自体についての説明はいろいろとネットにもあります。こちらとか。
↓
「生きづらさ」がマジョリティとなる時代にー熊谷晋一郎さんが語る当事者研究の可能性|LITALICO研究所|note
あらためて、当事者研究の作法を使いながら、自分のやりたいことを考えてみた。
“國分 認知行動療法ではまさしく能動/受動の図式の中にあって、話す側だけが変わる。ところが当事者研究では、みんなで順に話すことによって集合知が更新されていくという中動態的な過程が発生している。「研究している人」よりむしろ「研究成果を聞いている人」のほうが変わっていくというのもそのためでしょう”
“熊谷 いわゆるカウンセリングとは違って、当事者研究では「研究している人を元気にしなければならない」という目的を持っていないですし、むしろ持っていないからこそ元気になるようなところがある(笑)。ただ研究をしていて、互いに「知り合いたい」という思いに支えられていることが、自ずから変革をもたらすとうのは不思議です”
『みんなの当事者研究』P20,P21より
そうなんだよな〜。先の摂食障害の子とのやりとりでも、自分の中の「元気にしなければならない」欲がうっすらと顔を出してしまったから…もちろんそういう思いは必ずあるし、大事な部分なんだけど関係性…信頼関係とか、安全性とか、そういった諸々も関わってくるから難しいんだよね。
安全性や信頼性がある場で、自分を語った人(その回での研究している人)をわたしが取り上げて、周りの読む人たちが変化をする(語った人を直接的に元気にするような流れに誘導しない)ことがしたい、できたらな、と思ったわけですよ。
例えばですけど摂食障害の人のブログや言葉を集めたもの、もしくは対話した記事を決められた場(サイト)に載せて、それをメンバーでチャット形式で話し合う(もしくは全部チャット上ですます)、もしくは各々のプラットフォームで書いて順にやりとりをする、そういったことができるサイトづくり…ってことかなぁ…?
まあそれは実際当事者研究として実際のリアルであちこちで開催されてますし、わたし自身もリアルでやってきたんですよね。でもそれらの内容は発表してないし「まきこみ」現象を起こして継続的に続いてるのって限られてくるんですよね。マジョリティの紐帯の難しさというか。
でも巷にあふれた「やせたい」っていう気持ちだってすごく深刻でつらい悩みになるし、そこから摂食障害や身体や精神への影響がでるところまでいくわけだから、それらを抱えた自分とうまく付き合える方法や仲間を得るというのはやって損はない、ていうかあっていい、いやいや「そんな場がただある」というだけでもだいぶ心強いんじゃないかと思うんだよね。
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自分が何をしていきたいかを考える。
前にTumblrでリンクを貼ったnoteに書いたけど、当事者性と支援者性のつなぎ役、聞き手としての自分を想像するし、そこが好きで目指したいんだけど具体的にどう展開していくかとなると迷い中なので、こうなったら迷っている心ごとここで書ききってみたいと思う。
前回の記事で書いたように磯野真穂さんの『ダイエット幻想』を読んだのを機に摂食障害やそれに付随する自己肯定感・承認欲求の話に関してやりとりをしている。
「Yay!」という若者系のつぶやきアプリで「ダイエット幻想研究倶楽部」というサークルを作る。インスタにも同様に自分のアカウントを作ってハッシュタグ摂食障害やダイエットで読みにいったりコメントをしたりする。
ここでまず気づいたのは「ダイエット」や「摂食障害」と属性を一括りにできる部分と、そこから漏れる個々人の声に耳を傾けること両方の大切さだった。
ダイエット幻想で「やせたいと思ったきっかけは?」というアンケートで6割強が「比較」と答え、それについてインスタに書いたのですが。
インスタ
さらに残った4割弱の人たちの声、ここに触れることも同様に大事であると感じています。
一人一人の、過食拒食やダイエットの…いわば「心の表現方法」はみんな違くて。それはきっと自傷だったり「誰にも言えない」といったいろんな出かたがあって。もちろん比較から始まった人たちもそこで感じるものはその人自身のものであり、決して簡単に一般化できるものではなくって。
あらためて、一人一人、一つ一つに目を向けることが大事なんだなって思う。
【欲望形成とそれを支援する場づくり】
どうやったらそういった一つ一つに向き合えるだろうか、聴けるだろうかという方法、というか形はまだ分からなくて。
Tumblrにもたくさんの素晴らしい言葉をつづる人たちがたくさんいて、とりあげたい、すくいとりたいとは思うのですがコメント書いたりリブログしたりって、それで終わりなんですよね。
そこからの続き…対話?がしたいんですよね。いろんな記事…想いを自分のサイトに載せて紹介していくスタイルとかがいいのかな、とも思ったのですがそれって「自分の土俵に持ってくる」感じがして、場所を変えられたらせっかくそこにあったものが失われそうというか、また別のものになってしまいそうで。あと勝手に相手のものを奪う、みたいな感じにもなりそうだし。自分の書いたのものが別サイトで好き勝手に話されてたらイヤだなと思うんですよ。もちろん許可をとりにいったとして、それでも「移動した変化」はある。
もっと中立的な場で、みんなでやる感じがいいんだけどな。
そこで最近読んだある記事なんですが。
第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
この全4回の記事にとても感銘を受けましてね。國分さんや斎藤さんの話をとてもわかりやすく読めるのでなるほど!と腑におちたのですが。
この中で語、れる「欲望形成支援」というのが「やせたい」や「死にたい」といった言葉に関わる際に役立つ言葉だなと思っていて。そのへんのこともこれから書いていきたいと思うのですが、まずはどういう場を作るかというのに参考になるお話をされてまして。
“では具体的に、意思がない人をどうやって支援するか。「ない」っていうと語弊がありますけど、今までさんざん否定され続けてきた人が、いまさら「何がしたいんですか」と聞かれて答えようがないわけですよね。なので、そういう人にもう一回欲望を回復してもらうためには、まず安心と安全な環境をつくって、「自分の言いたいことは何を言ってもかまわない」という状況をつくるところから始めないといけない。だから、今のご質問に具体的なアドバイスで言うとすれば、まず「安心して自分の言いたいことが言える環境をつくってほしい」ですね。”
ということで、そういう「安心して言いたいことが言える場」が作りたいんだと気づきました。
この記事の先でも「対話は一対一より複数対複数の方がいい」みたいな話もされてて、できればみんなで語り合えるような方式がいいんですよね。
それこそまさに「当事者研究会」なんですが、わたしはじっさいにそういった場を現実で何度も開いてきてたので、結局それをオンライン、web上でもやっていくことなのかなぁ、と思い至ったわけなんです。
うーん、どういう形にしたらいいんだろう。
まずは一対一のつながりを地道に作っていって…そこからみんなで読めるようにする、みんなに向けて書いてもらう、という形なのだろうか…?
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『ダイエット幻想』研究倶楽部
磯野真穂さんの『ダイエット幻想』を読んだらダイエットに関する気持ちや本音を否定されず話し合える場が欲しくなったので、色々やっていきたいと思います。
ダイエットのことだけでなくそれに付随する「摂食障害」「承認欲求」「愛されたい気持ち」「さみしさ」「つながり」なども自由に語り合えたらと思います。
この本の特色として「やせたい気持ちを研究する、向き合う」があります。わたしは生きづらさや弱さといった本音を語り合える場を作りたいと考えているので、しばらくはこの本をもとにダイエットを通じた気持ちをメインにしていこうと思います。
【興味を持ったきっかけ】
この辺に興味を持ったきっかけというのが、最近じっさいにダイエットに苦慮する子の話を聞く機会があったこと、インスタの「死にたい」のハッシュタグが使えなくなって代わりに同様に多く目についた「摂食障害」の記事を目にしていたこと、あと『ダイエット幻想』作者である磯野真穂さんと記者の水野梓さんのイベントを読んだことでした。
わたしが『ダイエット幻想』を買うきっかけにもなったイベントの詳細は水野さんのnoteに詳しいです。こちらをお読みいただけるとこの本がダイエットのことだけでなく、そこに付随する多くの事象に触れられていることがわかりますのでぜひご覧ください。この記事の一番下にリンクがあります。
【どこでこの場を展開していくのか】
ダイエットや「愛される」に関する承認欲求での苦しさを抱えている多くは若い女性なので、まずはインスタで摂食障害やダイエットのタグを中心に、あとはひま部の後進であるYay!アプリ(まだ正式verじゃないので様子見ですが)でのサークル活動を通してやっていこうと思います。活動方向的なものはnoteでやって、Tumblrは気楽な日記的な立ち位置なのでこのような舞台裏的なことな雑多な思考を吐き出していけたらと思います。そう考えると全部「純-すみ-」アカウントなんだけど一応棲み分けができてる感じかな。しばらくはそんな感じでやっていこうと思います。
興味ある方は応援よろしくです。
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新年の目標は「いきる」こと
『Poemy』という日常の詩的な瞬間を書いてシェアするSNSがあったのでダウンロードしてみた。いろいろあるね。
つながり方だけでなく「なにを表現するか」「どういう自分でいるか」をいろいろと変えてみるというのもうまく生きていくための模索みたいで楽しい。本当の自分、素の自分を一個に限定してそれをわかってもらおうとするのはけっこうしんどいことだ。
いろんなSNSや自分や関係性や場所の中で楽に居続けるようになれたら、そこはもう「居場所」なんじゃないかな。
そしてあらゆる物事はそのままの状態でいるということがとても難しい。死への変化は絶えず訪れ、保つための努力が必要になってくる。
死を選択した瞬間、運命づけられたときからわたしたちは生きるをし続けなければならない。これもまた大変なことだなぁと思う。
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