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あなたは本当に心の底から望んでいるのか、それとも、望む行為だけがしたいのか。もし目的を達成する行為によって自分やほかの人々に何かを見せつけたいのであれば、それは偽(いつわ)りの目的である。
[願望実現の法則]リアリティ・トランサーフィン2 ヴァジム・ゼランド 須貝正浩 訳 徳間書店
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忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかわりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめったになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかうことに終わるのが十中八、九である。常朝はこのことをよく知っていた。彼が人に忠告を与えることについての、この心こまかな配慮をよく見るがよい。
三島由紀夫 葉隠入門 新潮社
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人脈作りなんてやめちまえ! まずは、地元のビジネスイベントを「人脈作りのチャンス」と思うことをやめろ。そうではなくて、「人助けのチャンス」だと思うんだ。与えられる者ではなく、与える者になれ。自己中な考え方を改めろ。それは必ず自分のところに戻ってくる。ホントだぜ。 人助けをすれば、相手は必ず覚えていてくれる。そして、あんたのサービスが必要になったら、必ずあんたのところにやってくる。例えば、デザインが必要になったマーケティングマネージャーはどっちに電話すると思う? デザイナーAさんは、かつて名刺をくれて自分のスキルについてとうとうと語った。一方、デザイナーBさんは、その��ーケティングマネージャーのビジネスについて聞き、イベント後には興味がありそうな記事/先行事例/ウェブアプリケーションを連絡してきた。 俺だったら、Bさんに金を払うね。俺の会社では、自分たちに向いてない仕事をほかの会社やフリーランサーに委託してる。委託先は、過去に俺たちを助けてくれた人たちだ。突然押しかけてきて20分間セールストークを続けた(実話)やつには、連絡なんかするもんか。 だから、ビジネスを目的にしちゃいけない。相手を理解し、助けることを目的にするんだ。 Jeff Archibald(原文/訳:堀込泰三)
http://www.lifehacker.jp/2014/01/140125stopnetworking.html
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心は誰にも 見えないけれど 心ないやつは わかる 想いは誰にも 見えないけれど 思い上がりは わかる こだまでしょうか? いいえ のぞみです
作家・平山夢明さんがパーソナリティのラジオ番組 東京ガベージコレクション 2011年5月15日 放送分より
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とはいえ、スピードに関して本当に大切なことは、「どれだけ速くできるか?」ではなく「急いでどこを通るのか?」である。関係ないところを早送りしたところで、何の意味もない。的確な箇所を早送りすれば、たとえ、より良い映像が発見できずに目的地までたどり着いてしまったとしても、その時点でこの素材にたいする知識は一段と強化されているだろう。リニア・アクセス方式がもたらしてくれる、この利点はかなり大きいのだ。 ��かし、スピードと創造性の両立という問題の決定的要因はテクノロジーではないと私は思う。私たちはとどのつまり、人間の魂が支配する世界に生きているのだ。何を表現したいのか、どうやって表現したいのかということが一番大切なのである。180年前、バルザックはわずか二〇年間で八〇作品もの名作小説を書き上げているが、そのとき使った道具は羽ペン一本である。コンピュータ・ワープロの時代だというのに、今日、彼ほど名作を量産できる人物はいるだろうか? また、ジャン・ルノワールは一九三〇年代に、大ヒット映画『坊やに下剤を』を、企画から作品完成まですべてひっくるめて、わずか三週間で作り上げている。黒澤明も初期の頃には(監督と編集を自らこなし)、撮影終了のわずか二日後には、第一次編集を完成させていたという。 デジタル編集の利点について言うなら、「スピード」よりも「選択肢が増えた」部分をもっと強調するべきだろう。 P145〜P146
ウォルター・マーチ 「映画の瞬き ウォルター・マーチ 吉田俊太郎 訳 フィルムアート社」
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営業ノルマなしだから、 日本人は「これぐらいはがんばらないと」と考える 未来工業には営業ノルマがない。 ホウレンソウもないし、毎月1週間ズル休みしても同じ給料を支払う会社だから、営業成績がよくても悪くても、給料が変わることはない。これも、「社員のみんなを信頼しているよ」という私からのひとつのメッセージ。 それが伝われば、多くの社員たちはこう考えてくれるはずだ。 「それなら、もらっている給料分ぐらいは、がんばらないといけないな」 これが真面目な日本人の「義務」という考え方。どちらかといえば、アジア地域の農耕民族タイプの発想でもある。 目標は社員一人ひとりが考えるべきものだ。会社��社員に目標を与えるのは、子ども扱いしているのと同じである。 反対に、ほかの会社のように、「会社は社員を信用していないから、信用されたいなら、まず、これぐらいは売ってくれ」というノルマ主義になると、真面目な日本人は「常に考える」ことより、ノルマをこなすことの優先順位のほうがグ〜ンと高くなる。 会社や上司からの頭ごなしの「ノルマ」や「命令」は、それに対する「従属」や「依存心」を社員たちに高めてしまう。自発的に考えて行動する「常に考える」という未来イズムとは真逆の方向だ。 「いやはや、ノルマをこなすためには、いろいろ考えて創意工夫しなければいけないから、『常に考える』ようになるよ」と反論する人がいるが、それは「木を見て森を見ない」考え方。物事の上っ面しか見ていない。 そもそも、ノルマが前提で人間が考えつくことなど、たかが知れている。 私がこの本でも口を酸っぱくてくり返している「常に考える」とは、そんな上っ面の話ではない。 あるいは、「ノルマをクリアしないと、給料を下げるぞ」というスタンスで接すると、 「オレは別に給料が安くなってもいいから、ノルマなんて気にしない働き方を選ぶ」 という態度だってありうる。 これは「給料分ぐらいはがんばらないといけない」という義務とは正反対の、「給料は減らされてもいいから、その分、あまり働かない権利もあるぞ」という考え方。欧米に多い狩猟採集民族タイプの発想だ。ただの屁理屈といえなくもないが、ノルマ主義が会社側のへ理屈みたいなものだから、おあいこともいえる。 アメリカ人相手ならこれでいいのかもしれないが、未来工業は日本人の会社だから、やはり「義務」の考え方を刺激するほうが、人はより働いてくれるはずだ。 成果主義のコストもバカにならない たいていの人は、自分に従順な部下のほうがかわいい。 仕事はあまりできなくても、お中元やお歳暮にいつも贈り物をしてくる若手のほうが、気心が知れていると思いやすい。同時に、いくら仕事はできても、自分にはなつこうとしない若手は、どうも好きになれない。 程度の差はあっても、人間とはそういう生き物だ。 そんな人間が、人を公正に評価などできっこない。だから成果主義は、職場に必ずマイナスな感情を生み出す。マイナス効果の代償は数値化できないが、高くつくにちがいない。 それが私の考え方だから、ウチは成果主義を採用するつもりは金輪際ない。
山田昭男 「ホウレンソウ禁止で1日7時間15分しか働かないから仕事が面白くなる 山田昭男 未来工業代表取締役 東洋経済新報社」より
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マネー・コントロールが生死を決す ここで賭人(とにん)の器量を定める四要素を復習しておく。 第一の要素は、勝ち逃げできるか、できないか。 第二の要素は、受身ができるか、できないか。 第三の要素は、ツラを取れるか、とれないか。 この第三の要素については、 ──喧嘩(ゴロ)と博奕(ばくち)はツラを張れ。 などとその昔、日本の博徒は申しておった。下品ながらもなかなか正鵠(せいこく)を射た表現だ、とわたしは思う。 そして賭人の器量を決める第四の要素は、マネー・コントロールとなる。 わたしがマネー・コントロールと言った場合、それは「ギャンブル必勝法」に出てくる、一見「科学的」な机上(きじょう)の空論を指すのではない。 わたしは基本として、ギャンブルにおいて「科学」を信じない。それは、三十年にわたる経験から来ている。 「科学的」には説明し難い不思議な事象を、数多く経験した。それだけではなく、「科学的必勝法」を信じた連中の、無残な屍(しかばね)を無数に観察してきたのである。 振り向けば、風蕭々(しょうしょう)、死屍累々(ししるいるい)。 嫌になるほど、死屍累々。 なぜなのか? なんであんなに博奕に強かった奴らが、まるで5月の蜻蛉(かげろう)のように、ころころと死んでしまったのか? そしてわたしのような弱い者が生き残れたのか? 彼ら彼女らは「科学」を信じたからだ、とわたしは結論している。 勝敗確率がほぼ50パーセントのゲームで、そこからコミッションや控除を差っ引(ぴ)かれるのだから、「科学的」には博奕は負ける。 当たり前である。その自明のことを凌駕(りょうが)したとする「科学的必勝法」が登場する。それを信じて、人は死ぬ。 付け加えると、わたしは博奕において「科学」は信じないのだが、「非科学」はもっと信じない。 ──勝負の機微(きび)は、駒(こま)の上げ下げ。 賭場(とば)では、そう言われる。 駒って、チップのことだ。 賭金量を操作して、ゲームに構造的に組み込まれた控除(テラ=カスリ=ハウスが持つ確率の優位)やコミッションを凌いでいく。勝ち手には大きく張り、負け手には小さく張る。 これが、マネー・コントロールの要諦(ようてい)だ。 これ以外に博奕で勝つ方法は、あり得ない。 そんな当たり前のことを言うな。 どこかから、罵声(ばせい)が聞こえてくるようだ。 誹謗(ひぼう)、結構。讒謗(ざんぼう)、上等。中傷、罵倒(ばとう)、オール・ウエルカム。 なぜなら、賭場では、この当たり前のことがわかってない奴らが、きわめて多いのである。 では、どうすれば、勝ち手には大きく張り、負け手には小さく張れるようになるのか? 普遍性を持つそれを書けば、「必勝法」となってしまう。 だからわたしには、書けない。書けないというよりも、知らない、わからない。 各人が、さまざまな大変を経て、それを分析し納得する。つまり、体験の自覚化である。体験の自覚化こそが、じつは「思想」と呼ばれるものである。博奕ではそれぞれが、独自に自分に合った等身大の思想を編み出すしかないのだろうと思う。 生き残っている年季入りの博奕打ちって、思想家なのである。バカにしてはいけない。 普遍性を持つそれは書けないのだが、わたしという個の自覚化なら、書くことができる。 調子がいい時のわたしの打ち方は、自在だ。 博奕は流れである。波だ。小波もあれば、大波もある。ベタ凪(なぎ)の時だってあるだろう。流れを読む。潮を見極める。そして潮目を見切る。 あとはゆったりと小波に身をまかせる。虚勢を張らない。無理をしない。 運、勘、見(ケン)。 博奕で勝利するための必須事項だ。 B・J(ブラックジャック)などでは、ゲームの展開上、見(ベットを休むこと)がしづらいのだが、そういう時はミニマム・ベットで打たれる。打たれ、打たれ続けて、打たれ超す。 50ドルのベットで、五連敗しても十連敗してもかまわない。1000ドル・ベットを一本取れば、簡単に浮く。 それに、勝敗確率がほぼ50パーセントのゲームでは、十連敗したということは、次に十連勝する可能性を示唆しているのだ。常にポジティブ思考。勝負卓で落ち込んだら、待つのは地獄である。メンタル・コントロールを忘れてはならない。そしてそのメンタル・コントロールを可能にさせるのが、じつはマネー・コントロールなのである。 そりゃそうだ。100円負けたって屁(へ)とも思わないだろうが、100万円負けりゃ、ショックは大きい。 ああ、ああ、俺のロレックスが飛んでいく。 でも、勝負卓に張られたシミひとつないグリーンの羅紗(ラシャ)の下には、ロレックスが数百万個も埋まっているのである。フェラーリだって、六本木ヒルズだって埋まっている。あの小さな空間からは想像できないかもしれないが、それは事実だ。そう、信じる。 小波にはゆったりと身をまかせるのだが、大波が訪れたらカマシちゃる。 懼れ(おそれ)を忘れ、恐怖を振り切り、大賭金(おおだま)でブ��ブンいく。 結構じゃないのよ。やってやろうじゃないのさ。 ふと���に返ると、座前の卓上に、チップのスタックが築かれている。チップだけじゃなくて、かまぼこ(1万ドル以上の価値を持つ楕円形や長方形のチップ)まで置いてある。 大勝ちする時って、そんなものだ。 では、不調時には、どうするのか?
森巣博 「賭けるゆえに我あり 森巣博 徳間書店」より
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私たちは文化的に運の役割を否定するように条件づけられている。そのため、文学作品に触れるときにも、あるかどうかもわからないような「内なる原因」を見つけようとする。欧米の子どもたちは皆(おそらくロシアや中国の子どもたちも)、高校や大学の授業では「悲劇の主人公には性格的な欠点が存在する」という前提で古典を学ぶ。シェイクスピアの悲劇はもちろん、ドストエフスキーの小説やホメロスの叙事詩でも同じである。主人公はいつも性格の欠点ゆえに苦境に陥る。いつの時代でも教師や教授はこのことを執拗に強調し、子どもたちはその解釈を受け入れるか、受け入れずに落第するかという選択を迫られる。 ところが実際には、悲劇的な出来事の背後に性格的欠点など見つからない。そもそもホメロスやシェイクスピアがこんな馬鹿げた説に同意するかどうかも疑わしいものだ。『イリアス』で描かれている出来事の多くは「神の観業(みわざ)」によってもたらされる。言い換えれば、人間の力ではコントロールできない運・不運によるものなのだ。シェイクスピアの悲劇にしても同じことで、『ハムレット』は、主人公が自分と関係のない出来事のせいで苦境に立たされているところから始まり、手違いや勘違いの連鎖──流血をともなう愚かな失敗(blither of bloody blunders)──により登場人物が次々に死んでいくところで終わる。決して性格的欠点を主題にした物語ではなく、不運の物語である。 ��は、英文学者はなぜこのことを否定するのだろうか。最近、ウェスリアン大学文学部のフィリス・ローズ教授がニューヨーク・タイムズに興味深いコメントを寄せていた。彼女は「性格的欠点説」に必ずしも賛同しているわけではないが、学生たちにはそれが悲劇の必須要素だと教えているという。「もし物語の主人公たちに欠陥がなければ”意味“がなくなってしまうので悲劇になりません。単に不運の物語になってしまいます」 さらに彼女はこう付け加えている。「悲劇が不運の結果でないことを授業で学生たちに理解させるのは少し苦労します」。やはり学生たちは「性格的欠点説」を授業で教わっているのである。そして、大半の学生がこの考え方をそのまま受け入れているようである。 ローズ教授のコメントでもう一つ注目すべきは私たちが人生に”意味“を求めているという点で、このことも運の役割が執拗に否定される理由になっている。運には意味がないので、運の役割を認めると人生の意味が半減してしまうのである。 もし私が罪をおかして悲惨な結末を迎えたとして、その原因が自らの不徳や性格的欠点にあるとするなら、そのエピソードは何らかの教訓を残すはずだ。けれども、私がおとなしく道を歩いているときにトラックに轢かれたとしたら、得られる教訓は何もない。 人生とはそんなものだが、人生がすべて偶然の産物で何も意味が見いだせないとするなら、英文学者ならずとも多くの人が不快に感じるに違いない。しかし、自分の運をなんとかしたいと思うのなら、この事実から目をそらしてはいけない。 運を向上させる最初のステップは運の存在を認めること。これが「幸運のポジション」に立つための大前提である。
マックス・ギュンター 「運とつきあう マックス・ギュンター 九内麻希 訳 林康史 監訳 日経BP社」より
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ちょっと思い出してみて。時速一五〇〇キロで自転している惑星の上に自分が立っていることを その惑星は、秒速三〇キロで、ぼくらのパワーの源、太陽のまわりを回っている 太陽もあなたもぼくも目に見えるすべての星も、一日に一六〇万キロも動いている ��の川銀河と呼ぶ銀河系の渦巻きの外れで、一時間に六万五〇〇〇キロも動いているんだ。 天の川銀河には一〇〇〇億個の星があって、端から端まで一〇万光年の距離がある 真ん中あたりが膨らんでいて��万六〇〇〇光年の厚みがあるけど、地球の外側では三〇〇〇光年の厚さしかない 地球は中心から三万光年離れていて、二億年で一周する 天の川銀河は、このすてきな膨張している宇宙にある何百万、何十億という銀河の一つなんだ。 この宇宙は、ビューンと進めるすべての方向にどんどん膨張し続けている 宇宙は全速力、つまり分速一八〇〇万キロの光速で進んでいる。それが世の中で最速のスピードだ だから覚えておいて。もし自分がちっぽけで心もとなく感じたときは、自分の生まれたことの不思議を思い 宇宙のどこかに知的生命体がいると祈って。だって、バカはみんなこの地球にいるんだから。
モンティ・パイソンのギャラクシーソング(銀河の歌) 「現実を生きるサル空想を語るヒト 人間と動物をへだてる、たった2つの違い トーマス・ズデンドルフ 寺山朋子 訳」より孫引き
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いいですか、言葉にはね、その言葉が発せられると、観念を通じてその言葉の通りの影響がでてきてしまうという応用・作用力があるんですぜ。 ですから悲観的な言葉を発すれば、悲観的な影響が自分自身に返ってきてしまうんですよ。ちょうど池に石をポチャーンと落とすと、向こう岸にあたって波が返ってくるように。 言葉には人生を左右する力があるんです。この自覚こそが人生を勝利にみちびく最良の武器なんですよ。 たとえば病のときでも、あなた方は、やれ頭が痛いのケツが痛いのって、のべつ体の具合の悪いということをさかんにいってやしないかい。 こう言うと「痛いときに痛いって言って、なにが悪いんですか」なんて言う人がいますが、具合が悪いときに具合が悪いと言ったら、具合が悪いのが治りますか? 運命が悪いときでも「ああ、俺はなんてついてないんだ」って言ったら、運命がよくなりますか? 言ってよくなるなら、もうどんどん言いなさいよ。でもね、よくなりゃしないですよね。 ご参考までにお話ししておきましょう。あの東洋のネルソン(イギリスの海軍提督)とまで称賛(しょうさん)された東郷平八郎元帥(とうごうへいはちろうげんすい)(日露戦争の時、連合艦隊司令長官としてバルチック艦隊を破った海軍大将)、みなさんご存じでしょう。 元帥は、晩年(ばんねん)に喉頭癌(こうとうがん)に侵されてしまったんですが、喉頭癌というのは、とにかく普通の癌とちがって、食べるものはもとより、息ひとつするんだって、そりゃあ痛みの激しいものなんです。 そのため元帥もだいぶこれには悩(なや)まされたらしく、あるとき私に、 「天風先生、このできもんは、痛みのひどいものですが、いったい、どうしておればよいでごわすか」 とあの薩摩弁(さつまべん)でたずねてこられました。私は、相手が普通の人間ではないのですから極(きわ)めて単刀直入(たんとうちょくにゅう)に、 「その病(やまい)は痛いのが特徴です。ですから痛いと言っても、言わなくても、生きているかぎりは痛みます」 と率直に言ったんです。すると元帥は破顔一笑(はがんいっしょう)されて、 「痛むのがこの病の特徴でごわすか」 と言われ、なんとその後、亡(な)くなられるまで、一言も痛いと言われなかったそうです。医者が診察(しんさつ)したときも、 「お痛みですか」 「痛むのがこの病の特徴でごわす。しかし天風さんのお陰(かげ)で元気ごわす」 と笑顔でお答えになったそうです。そして、元帥は医者が思っていたより、ずっと長生きされましたよ。
中村天風 「君に成功を贈る 中村天風 日本経営合理化協会 出版局」より
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A selection from my series Our Night —- Ruxton Gas. Baltimore, MD 2014
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Deep South, Oxford, Mississippi, USA (2014)
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介助を「愛」で語らない 「愛」という実体はありません。「愛」とは、ある事象を周囲から観察した人が、その事象を抽象化して表現する言葉です。たとえば、夫を亡くした妻が泣いているのを見た人が、「ああ、あの女性は夫を愛していたんだね」と言ったとします。話した人の口にした「愛」という言葉の意味は、「夫を亡くした妻が泣いている」という事実を指しているに過ぎません。観察した事実に「愛」という言葉を貼りつけただけです。 テレビを見ていて勉強しない子どもの頭を、「勉強しなさい」と言って親がたたき、子どもが泣いたとしましょう。そばにいた人は子どもを慰め、「君の親は君のことを愛しているから、たたいてまで勉強させようとしたんだ」と言うかもしれません。しかし、そのときの「愛」は、「親が子どもをたたいた」という事実の理由づけでしかありません。 家族愛、人類愛、国に対する愛…… 、いろいろな「愛」がありますが、共通する定義は見つかりません。「愛」という言葉が出たときには、それは観察した事実に貼ったラベルだと考えると理解しやすくなります。 「愛」というものは結果につける言葉です。「愛」があるから、ある行動が行なわれるのではありません。家族愛があるから家族を大切にするのではありません。家族を大切にした事実を体験したときに、「家族愛があったね」と言うのです。親の愛があるから子どもを大事に育てるのではありません。親が大事に育てた人を見たときに「親の愛があったね」と言うのです。 「愛」が後づけの言葉であることを理解すると、介助を「愛」で語ることはできなくなります。「愛があるから介助する」とか「家族だから愛情豊かに介助しなければならない」と言うことはできないのです。逆に言うと、愛がなくても介助を丁寧にすることができます。アウェアネス介助では「愛」を理由にはしません。
澤口裕二 「アウェアネス介助論 上巻 解剖学・生理学と基礎的理解 シーニュ Signe 」より
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