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『江戸の風』 p.33 「落語のリアリズム」(2018年7月18日 第1刷発行、dZERO)
立川談志
極端に言やね、もし俺があなたを一人前の落語家に、というよりも、落語がどうやら舞台でしゃべれるようにするとする。そうね、十日もあればいいよ。俺も十日で教えないと死刑になっちゃうと。意見が合うでしょ。できますよ。 十日もするとここへ出て、“ええー、一席お笑いを”って言うようになるよ。落語を好きでない奴でもできます。 そのぐらい「形式」というものは、演者にとって楽なもんです。形式は楽です。その形式とて下手な奴がいる。その形式が一番上手かったのが、私どもの知る中では三遊亭円生(六代目)です。今バカが二人で(七代目円生襲名に関して)揉めてるでしょう? 俺はどっちかと言えば鳳楽(三遊亭鳳楽)のほうがいい。もっと上手くなると思った。あいつは人間的にカッコいいしね、二枚目だしね、「江戸の風」が吹いてる奴ですよ、鳳楽って奴は。 落語の持つ本性というものを、どの辺へ持ってくるか。 落語の持つリアリズム。志の輔あたりはどう考えてるか。志らくあたりはどうするのか、どう解釈してるのか。そこまでいかないで、田舎っぺだから、ほかのことで忙しいかどうか知らないけど。 落語におけるリアリズム。本当にリアリズムを演っているだけでは落語にならない。そこに入れるセンス。センスの後に、そのセンスにつながるリアリズムを演者本人が持ってるか、それを生かせるか、というところが勝負だと思います。 お客さんはそこまでいかなくていいですよ。聴いて面白けりゃいい、笑ってりゃいいんです。つまらなきゃ、帰っちゃえばいいんです。それだけのものです。 “そこまで考えると、夜も寝られなくなっちゃう”って漫才がいたけど、現にそうなります。
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『三谷幸喜のありふれた生活14 いくさ上手』 〈特別対談〉これもまた「大河」の話 松村邦洋×三谷幸喜(2016年9月30日 第一刷発行、朝日新聞出版、p.249-250)
三谷 松村さんのお気に入りの大河は何ですか? 僕は「黄金の日々」(七八年)、「獅子の時代」(八〇年)が不動なんですけど。
松村 「草燃える」(七九年)ですねえ。
三谷 ああ、あれも良かったな。
松村 「草燃える」は悪人が主役を張るっていうのが、斬新でした。松平健さん演じる北条義時が、最初は絵に描いたような好青年だったのに、どんどん悪いやつになっていく。関東の豪族たちが源氏の嫡流を使ってクーデターを成功させて、うまく平家を滅ぼして天下をとったのに、その後は内なる争いを起こして、毎週のように御家人たちが死んでいった。
三谷 僕は、何でもなかった普通の人たちが、突然歴史の大舞台に立たされて、そしてあんなに仲の良かった奴らが、次第に敵対しあっていく、そんな話に惹かれるんです。そう思うと、「草燃える」と、「新選組!」ってちょっと似てるんですよ。
松村 ああ、たしかに、あの当時の関東の御家人たちと、新選組って、どこか共通するものがありますねえ。
三谷 もし僕がもう一度登板することがあったら、今度は鎌倉時代かな、と思ってるんですが、たぶんもう声は掛からないだろうな。他には?
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『仕事、三谷幸喜の』 1990年〜1994年 『ヴァンプ・ショウ』 p.78(平成13年5月25日 初版発行、角川文庫)
三谷幸喜
ラジオ番組で、僕が台本を書いて、第三舞台の俳優さんとうちの劇団の俳優でコント集みたいなものをやったんです。その時知り合った第三舞台の池田成志君に、吸血鬼ものをやりたいんだと言われて作ったホラー・コメディです。僕も役者として出演しました。今思うと、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』にちょっと似てるかな。もちろんこっちが先です。
大学の落語研究会の仲間で仲良し五人組がいて、そのうちの一人がポーランドに武者修行に行って、向こうで落語が通じるかを試すんです。ところが、その時吸血コウモリにかみつかれて、彼は吸血鬼になって戻ってくる。そいつのせいで、仲良し五人組がみんな吸血鬼になっていくんですけど、実は一人だけまだ吸血鬼になっていないやつがいる。そいつはみんなが吸血鬼になっちゃったので、自分も吸血鬼になっているふりをするんですが、いったいそれがいつバレるかという話です。あ、全然『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』には似てませんね……。
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『やつらを喋りたおせ! レニー・ブルース自伝』(藤本和子訳) 28 「世界はあるがままにある」 p.310-311 (1977年11月30日初版、晶文社)
レニー・ブルース
この世はただあるがままにあるのだ。「そうあるべきこと」など一度だって存在したことはないのだ。でも人々は「あるべき」姿に近づこうと努力する。でも、あるのは、ただあるがままのことばかり。
銅に刻まれた戦死者たちの名前。黒い花輪。花輪を支える馬鹿馬鹿しい緑色の棒。棒には染料がしたたりにじんで、私の伯父はいつも嘘ついて、赤いけしは買ったばかりだ、といった〔復員軍人が募金のために造花のけしを売る〕。
この世はある���うにあるだけだ。
だから、違法に避妊器具を買い、性病の予防以外の目的で故意にそれを使用する犯罪者たちの口にはされぬ告白については、統計が得られることは決してないだろう。
この世はあるようにあるだけだ。
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『決定版 私説コメディアン史』 10「さて、どうするコメディアン」 p.402-403 (2003年5月7日 第一刷発行、ちくま文庫)
澤田隆治
こうした漫才ブームの仕掛け人として私への取材が一年中続き、ブームを増幅させたのだ。さらに、同年六月に放送した『花王名人劇場』の芦屋雁之助主演『爆笑メルヘン 裸の大将放浪記』が大好評で、シリーズ化することがきまり、『花王名人劇場』が日曜夜九時の枠で生き残っていける企画の柱を二本立てることが出来たのだ。事実『花王名人劇場』は、このあと十一年続く番組になったのだが、私の中では、一年足らずで当り企画を持った幸運を喜ぶよりも、たった半年でコメディ企画をあきらめてしまった根気のなさを責める気持ちの方が強かったのだ。
漫才ブームは芸能界そのものを大きな渦に巻きこんで、やがて去っていったが、ブームの間に漫才という���能をメジャーにしただけでなく、『花王名人劇場』の十一年間に人気漫才コンビを数多く世に出した。
「裸の大将」シリーズは『花王名人劇場』が終ったあとも『花王ファミリースペシャル』とタイトルが変った枠でも制作を続け、八十三本で打ち止めた。
だが私の心残りは、ついにコメディ企画のヒットが出せなかったことであった。
『花王名人劇場』の十一年、漫才の笑いをとことん追求したのも私だったし、ヒューマンな笑いにあふれたドラマづくりを求めたのも私だったから、コメディにこだわることはないのだが、私がやりたかったのはコメディアンがつくり出す笑いだったのだ。
かつて人を笑わせるのがコメディアンの専売特許でなくなったのを嘆き、喜劇復活を願っての番組作りに精魂込めた私だったのに、あろうことか、私の制作するテレビ番組で、人を笑わせるのはコメディアンの専売特許でないことを決定づけてしまったのだ。この二十年ではっきりしたことは、コメディアンを志す若い人が少なくなったことである。
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人を笑わせるが故に、タレントの序列で低くみられるコメディアンというジャンルを、彼等がなぜわざわざ選んだかについては、一人一人にきいてみても、明確な返事はかえってこない。私自身のことを考えてみても、笑えなければ何の価値もないコメディづくりという難しいジャンルを、なぜいまだに選んでいるのか。これはもう理屈ではなく、笑わせることが好きだから、笑うことが好きだからというぐらいの理由しか考えつかないのである。損得を考えて選んだわけではないから、この仕事にむいていたというか、運命というより仕方ないのかもしれない。
澤田隆治
『決定版 私説コメディアン史』 10「さて、どうするコメディアン」 p.391 (2003年5月7日 第一刷発行、ちくま文庫)
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『心を揺さぶる語り方 人間国宝に話術を学ぶ』 参「「表現力」を高める準備と工夫」 p.86-87 (2007年8月10日 第一刷発行、NHK出版 生活人新書)
一龍斎貞水
『赤穂義士伝』は、芝居でもテレビの時代劇でも、赤穂浪士たちの側から見ている場合がほとんどですから、よく知らない人は、怨敵の吉良上野介というのは、ただの悪人だと思われているかも知れませんが、必ずしもそうじゃありません。吉良の地元である愛知県の吉良町というところへ行くと、吉良上野介は、善政を施した名君ということになっています。上野介が水害よけに築かせた「黄金堤」というのが、今でも残っている。
吉良家というのは、高家筆頭という、朝廷と幕府との橋渡しをする重い役に就いていました。
それでいて、石高が四千二百石しかない。
そうすると、まともにやっていたのでは、とてもじゃないが付き合う金が足らなくなるというので、浅野内匠頭のような勅使接待役になった大名に指導して、授業料をもらっていた。そういう慣習が、当時の暗黙の了解としてあったそうです。それを賄賂であるかのように断られたから上野介は怒った。そういう風に見ることもできます。
あるいは、こういう話もある。
播州赤穂は、今で言う兵庫県赤穂市、播磨灘に面する塩の産地です。「赤穂の塩」という言葉がありますが、昔も入浜式��田で、白くきれいな塩をつくることができた。
それに対して、吉良では、赤穂のような白い塩をつくることができなかった。そこで上野介が、その製法を聞きに行ったことがあるんです。ところが、「これは藩の財政のもとですから、お教えするわけには参りませぬ」と宜なく断られた。そういう因縁もある。
そんなことから語っていけば、吉良方から見る『忠臣蔵』もできるかも知れません。
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『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』 二部 一幕「マネと学び」 p.145 (2017年9月28日、KADOKAWA)
小松政夫
テレビでご一緒した方から、色々なことを学びました。
東八郎さんには「シリアスな芝居は誰でもできる。喜劇は難しい。舞台で髪を振り乱して、跳ね回って、パンツ一丁になって大汗かいて、最後にお客さんをホロリとさせる。それが喜劇だ」と教えられました。
こうした先輩方に接するうち、お客さんを笑わすだけの芝居は喜劇ではない、と思うようになりました。喜劇は「笑う劇」ではなく、「喜ぶ劇」と書くわけです。コントは喜劇を凝縮したものですから、芝居のできない人にできるものではない、とも思います。
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『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』 二部 一幕「マネと学び」 p.146-147 (2017年9月28日、KADOKAWA)
小松政夫
パロディというのも、本来は本物をきちんとこなせる人でなければこなせないもんなんです。
年寄りのよくやる、昔はすごかった、今の若者は云々、という話になってしまいますが、昔はきちんとしたパロディができる喜劇役者がいました。それこそ、本職の歌舞伎役者が真っ青になるぐらい本格的な隈取が自分でできるとか、踊りの所作を身につけているとか、こうした技術が無いと、コメディアンとはいわれなかったもんです。
たとえば、『忠臣蔵』の松の廊下の場面、憎たらしい吉良上野介になりきる。
「浅野殿は、イモじゃ、イモじゃ、イモ侍じゃ」
「おのれ」
「おお、斬るか?」
こういう芝居がきちんとできたうえで初めて、長袴を踏まれてずっこけるというパロディが活きるわけです。
今は、こういうパロディをなかなか目にすることができません。本物を知っている演者が少なくなったのでしょう。それに、お客さんのほうも分からない。それこそ昔は『国定忠治』や『ハムレット』のパロディをやると、客席には、よく知っているお客さんがいて、少しでも間違えると、「今の台詞は違うぞ」とヤジが飛んできたものです。
すべてやれるのがコメディアンです。歌も、タップダンスも、日舞も。芝居なら歌舞伎、新派、新国劇の名場面をよく知っている。そういう人でなければ務まらない。コメディアンの世界はそれだけ奥が深い。半世紀続けてきた僕も、まだ道半ば、生涯、登り続けても、頂上に到達できそうもない巨大な山のように感じています。
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『時代とフザケた男 エノケンからAKB48までを笑わせ続ける喜劇人』 プロローグ p.3-4 (2017年8月20日、扶桑社)
小松政夫
アタシは長い間ずーっと最前線で〝フザケた男〟だった。横浜トヨペットの「日本一面白いセールスマン」から植木等のオヤジの付き人兼運転手を経て『シャボン玉ホリデー』でデビュー。以来、テレビ・ラジオ・映画・舞台・CMと、ジャンルにこだわらず、二十世紀から二十一世紀の今まで、「小松政夫」として硬軟織り交ぜエキセントリックにフザケ続けてきた。いい歳のおっさんが「電線音頭」を踊って、「しらけ鳥音頭」を歌い、淀川長治のモノマネをして、「ニンドスハッカッカ、マー!」と小松の親分が奇声を上げる。日本人のフザケの尺度だった、ニッポンの大人はここまでフザケていいんだよ、これでいいんだよ、って思いながらフザケてたのかもしれない。そしてテレビだけにとどまらず、映画、舞台、数々のスターとフザケ続けてきた。コメディアンは歳をとるとシリアスになりがちだがアタシはアレがイヤでね、アレってなんだろうね? 一貫して〝アチャラカ〟でおフザケを忘れたくないんですよ。だってコメディアンは格好いいじゃないですか、と、アタシは思うわけです。
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山本進・稲田和浩・大友浩・中川桂 『落語の黄金時代』 第5章 「新作落語って面白かったですか?」 p.154-155 (2010年6月15日 第1刷発行、三省堂、第5章執筆:稲田和浩)
作家長屋の作家たち
その長屋の作家たちを紹介してみよう。
・玉川一郎(一九〇五〜七八) 東京出身。東京外語大学仏語科卒。ユーモア作家として活躍した。
・鈴木みちを(一九〇五〜八七) 演芸作家。落語の代表作に『お妾税』『想い出』『印鑑証明』『お説教お婆さん』『冥土の喧嘩』など。
・名和青郎 NHKテレビ「お笑い三人組」の作家として知られる。落語の代表作に『病気を楽しむ男』など。
・神津友好(一九二七〜) 長野県出身。上智大学新聞学科・法政大学英文学科卒。放送作家、演芸作家として活躍。「花王名人劇場」などの番組を手がける。著書に『笑伝林家三平』(新潮文庫)など。
・大野桂(一九三一〜二〇〇八) 東京出身。東京外国語大学英米語学科卒。昭和二九年、新作落語『空き巣の電話』が電電公��の電話三〇万台突破突破記念新作落語に、『旅行鞄』がNHKのコンクールに入選しデビュー。落語の代表作に『狭き門』『子なさせ地蔵』など。桂子・好江、てんや・わんや、玉川カルテットらに多数漫才の台本を書いている。著書に『河童の研究』(三一書房)。
・古城一兵(一九二四〜二〇〇三) 昭和三九年、新作落語『奥様ドライブ』がNHKのコンクールに入選しデビュー。五代目今輔、米丸、笑三らに新作を書く。代表作に『相合傘』『玄関の扉』など。時代の風俗をとり入れた団地落語、サラリーマン落語を多く創作した。
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『沢田・志村の「さあ、殺せ!」』 (2003年7月19日〜8月9日、Bunkamura シアターコクーン) 公演プログラム p.2
久世光彦 《彼方のコメディ・ジュリーズ》
もうずっと前の話になるが《薔薇の名前》という、ほんとうはとても難しい本が、日本で何故かベスト・セラーになったことがあった。キリスト教の神学の混乱の歴史に、十分な理解がなければわからない上に、アリストテレスの《詩学》には、現存する〈悲劇論〉と対��なる〈喜劇論〉が実はあったという、大胆な大嘘フィクションの上に成り立っているのだから、私などはとても歯が立たなかったが、とにかく〈悲劇〉と〈喜劇〉がバランスよく相対していないと、世の中は案配よく治まらないということだ。エーコーの《薔薇の名前》では、中世の禁欲的な神学が、人間の〈笑い〉を禁じ、抑圧しようと意図したことから、古い僧院の図書館で殺人事件が起きる。 ずいぶん小難しいイントロから始まってしまったが、私はかねてから、〈笑い〉がないと生きていけない性質の人間である。それも、かなり過激で、爆発的で、リアリティなんか糞食らえというほどの、いわゆる〈スラップ・スティック〉コメディが大好きだ。わが国ではこの〈スラップ・スティック〉のことを、〈ドタバタ〉とか〈アチャラカ〉とか訳して侮蔑する向きがあるが、私はそう呼ばれたところで、お客が笑い転げてくれるなら、ちっとも恥ずかしくも何ともない。むしろ名誉なことだと思う。──人間、笑わずに半年暮らしたら、気が変になる。 ここで勘違いして欲しくないのは、私がこの年齢になっても憧れているのは、よく訓練され、練り上げられたコメディであって、テレビで毎晩やっている〈身内ネタ〉や〈暴露ギャグ〉のことではない。練習に練習を重ねたものを、生の舞台で、なるべく〈アドリヴ〉のように見せかけるのが、この道の〈粋〉なのだ。──ここに〈同志〉が一人いる。ジュリーという、美しいコメディアンである。この人がこんなに〈笑い狂い〉とは、少し前まで知らなかった。私がこの人とした仕事は《悪魔のようなあいつ》とか《源氏物語》とかが主なもので、およそ〈アチャラカ〉とは縁遠かった。だから三年前に〈ドタバタ〉で再会したときは、嬉しかった。奇蹟に出会った気持だった。だから、こいつと腕を組んで、阿呆な道中をいけるところまでいきたいと思っている。 もう一人、阿呆の〈同志〉がいた。──志村けんというこの人は、顔はともかく、後ろ姿が可笑しいコメディアンである。後ろ姿でも、ちゃんと顔まで見えるのだ。ということは、たぶん切なくて哀しい人なのだろう。破壊的でありながら切なく、アナーキーに見えて哀しいのだ。稽古に入ってから、私はこの人のことを〈コメディアン〉というよりは、〈役者〉だと思うようになった。 こうした奇蹟的な〈同志〉たちと、〈笑い〉の修羅場を潜り抜け、〈笑い〉に命を賭けて、やがて私たちの芝居が《コメディ・フランセーズ》にあやかって、《コメディ・ジュリーズ》と呼ばれるようになったら、どんなに幸福なことだろう。
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小佐田定雄編 『青春の上方落語』 第一章 p.57-58 (2013年12月10日 第1刷発行、NHK出版新書)
笑福亭鶴瓶
弟弟子の(笑福亭)伯枝が『木津の勘助』というネタをやるんですね。講談の(旭堂)南左衛門から鶴光兄さんがつけてもろたネタみたいですね。けど、鶴光兄さんに「あれ、どんなネタですのん?」て聞くのもなんやなあと思うてたら、こないだ新幹線で向こうから「おはようさん」て、鶴光兄さんが来はって。ふだん会うたことないですよ。そんなとこで偶然出会うた。 「わー、兄さん、後で挨拶いきます」 「来んでえぇ」 「ちゃいますねん、兄さんに聞きたいことがあって。伯枝が『木津の勘助』をやりよんねんけど、どんなネタかぼくハッキリ知らんから、教えてもらおう思うて」 そしたら、その場でこうこうて教えてくれて、後から戻ってきはって、 「落語のことやったら、聞きたいことがあったらなんでも教えるから」 て、名刺渡してくれはったんです。ぼくが落語やってるということをほんとうにわかってくれはったから、向こうも本気になって、兄弟子としてそんなん言うてくれるんだなというのがよぉわかりました。ここまでやってきて、良かったと思いました。
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ユーモアは、ごく普通な笑いを生む心情でもあるが、その深いところでは自嘲、逃避、負け惜しみ、批判、抵抗、諦観などなど心理的に弱い自分を(たとえたった一人であっても)守る自衛的な営みであり、これはやはり屈折しながらも個人の尊厳に関わっている心理なのだ。そこから生まれた小さい笑いなのだ。そうであればこそ、これは個人の意識の確立とともに成長したのではないのか。後に述べることになるが、笑いを含んで、明らかにユーモアを感じさせる寓話を残したイソップは……イソップ物語として知られるものは奴隷の立場にありながら自己の知性を示している。イソップの時代はあまりに遠過ぎるが、ユーモア精神はどこか欧米の個人主義の確立や、抵抗運動、自己主張と深く、浅く関わっているような気がしてならない。
阿刀田高
『老いてこそユーモア』 第三章「日本人とユーモア」 p.134 (2019年1月30日 第1刷発行、幻冬舎新書)
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こうして、イギリス時代におけるヒッチのピーク期がやってきた。『三十九夜』『間諜最後の日』『サボタージュ』『第3逃亡者』『バルカン超特急』を、38年までの4年間に発表しているが、まったく充実しきっているという感じだ。この時期の作品群とアメリカでの作品群のどちらを評価するかは観る者の好みにもよるが、ヒッチ作品が、イギリスでの試行をへてアメリカで完結し��とみるのは間違いである。彼のスリラー芸術とエンターテイメント性はこの時期、すでにひとつの完成点に到達していたのである。
筈見有弘
筈見有弘責任編集 『本の映画館 ブック・シネマテーク② やっぱりサスペンスの神様! ヒッチコックを読む』 p.20 「ヒッチコックの歴史」 (1980年7月25日 第1刷発行、フィルムアート社)
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『囚人』は舞台では批評家受けもよく、興行的にも当たった本だったが、映画の題材としては疑問だから心配だった。いわば、シリアス・コメディとも笑えるドラマともいえるハイブリッドな芝居で、一九七〇年代のたいていの作家たちにとっては定番ではなかった。ユージン・オニールはドラマと悲劇を書いた。ジョージ・S・コーフマンはコメディを書いた。サミュエル・ベケットは苦悩と喪失を盛り込んだ辛辣なユーモアを書いた。一方、ウジェーヌ・イヨネスコは強い社会性のある観念的ファルスを書いた。テネシー・ウィリアムズは詩的悲劇を書きながら、皮肉なユーモアを忘れなかった。彼ら全員に共通しているのは、その仕事が名人芸だったということである。この人たちこそ、私が見習うべき偉人たちなのだ。問題はだ、私が彼ら全員を同時に、往々にして一つの芝居のなかで見習いたいということだ。私の芝居の妙な点は、芝居がおかしいときには本物のコメディであり、芝居がドラマティックなときには、深刻な葛藤に直面する市井の人々を扱っていたということだ。多くの劇評家にとって破天荒かつやや迷惑に思われたのは、私が同一の芝居のなかで両方をやってのけようとすることだった。彼らから見れば、私はコメディに誠実でもなければドラマに誠実でもないのだった。
ニール・サイモン
『第二幕 ニール・サイモン自伝2』(酒井洋子 訳) 2 「放浪者」 p.34 (2001年6月30日 初版発行、早川書房)
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おわかりのとおり、私は本当には映画に賭けていない。芝居の場合は、そのときの自分の立場、自分の人生に起きていることをその芝居に関わっている間に跡づけることができるが、映画作りはこれとはまったく違う体験である。本をわたせば後はしばしば監督任せにして、最低限の関わりしか持たないことが多い。だが、芝居となると、稽古場にほとんど毎日のように顔を出し、役者たちがシーンを通しながらいったい何をしているのだろうと私の方を見ているのを尻目にせっせと本を書いている。芝居は私の生命の血なのだ。一方、映画は私の職人芸なのである。
ニール・サイモン
『第二幕 ニール・サイモン自伝2』(酒井洋子 訳) 14 「劇作の営み」 p.131 (2001年6月30日 初版発行、早川書房)
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