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#10 OUTBREAK and ALIVE~リリースツアーの追憶
6/23・24とリリースツアーで関東に行ってきた。 ツアーの途中で、ダムダム団のドラマー鈴木さんがブログのことを話してくれたのもあって、久しぶりに更新しようと���い至った。 ツアーを振り返りつつ、少し長めに書こうと思う。 今回はSKYとして東京に行ったのは18年ぶりだった。 最初に行ったのは2000年5月の下北沢。 その後も渋谷や高円寺含め、ハイエースで何度も東京に行ったけど、最後に行ったのが2006年だったと思う。 つまり今のメンバーでは初の東京ツアー。 今のメンバーで活動し始めて15年目になるけど、活動が止まったこともあった。 2016年3月、3年の活動休止を経て再び動き始めて、2019年に4thアルバムをリリースしたあたりから、また東京に行きたいなという思いはあった。 でもお金と時間の都合をつけて東京に行くことのハードルが高すぎて、もう少し活動に勢いがついてから具体的に考えてみようと思っていたら、コロナの波が押し寄せた。 その後は東京どころか、近県もツアーを控えるムードがシーンに蔓延していって、地元でのライブの継続自体も危ぶまれる時期もあった。 ツアーの計画が具体的に動く兆しはなかったものの、これだと言える作品ができたら、それを持って必ず東京に行きたいとはずっと思っていた。 その後、コロナ禍真っただ中の2021年6月に5thアルバムをリリースしたものの、細々とライブを続けるしかなくて、アルバムを売ること自体もなかなか苦労する状況だった。 ツアーの話が出るようなこともなく、ライブ以上に作品づくりに目が向いていった。 5thアルバムが完成する少し前から、3部作の構想が出始めていたこともあって、より次の作品への意識が強くなっていたのもある。 2022年はこれまでで一番曲を書いた。 新しい曲がどんどんできていく勢いに助けられ、ライブの頻度も徐々に増えていった。 次のレコーディングの予定がぼんやりと決まり始めていた2022年6月、数年ぶりに大阪緑橋の戦国大統領でライブをした。 この日はいろんな要素が組み合わさって、とにかくよいライブになった。 これから新しいストーリーが始まるのを予感させるには十分なきっかけになった。 梅雨が明けてから始まったレコーディングは、すこぶる好調に進んだ。 コロナ禍は終息することなくくすぶってはいたものの、ライブハウスが息を吹き返し始めてきた時期でもあった。 ツアーやイベントなども徐々に復活の兆しを見せる中、ずっと心にしまっていた東京ツアーへの思いが再燃し始めた。 夏の終わりにはアルバムのリリース時期を決めた。 そこに向かってレコーディングを進めていくことで、リリース後にどんな動きをとるべきかについても少しずつ考えるようになっていった。 アルバムの制作が快調に進んでいることも手伝って���リリースパーティーの構想も膨らんだ。 そしてそこにとどまらず、ついに東京ツアーのことを具体的に考え始めた。 とはいえ、10数年も間が空いた状況で、かつて訪れたライブハウスとの繋がりはすっかりなくなってしまっていた。 それでもやっぱり下北沢への思いが強く、ネットで下北沢のライブハウスの情報を集め始めた。 インターネットは便利で、かつてツアーで東京を訪れていた頃よりはいろんな情報が簡単に手に入ったけど、やっぱり実状というか、どんなライブハウスなのかが実感としてわからなかった。 音、雰囲気、におい、人、そこに集うバンド。 地元のライブハウスで当たり前に感じているリアルがつかめない。 東京の友達に聞いてみたりもしたけど、選択肢が多いだけになかなか的が絞れない。 この時点では東京のバンドとのコネクションもほぼなかった。 具体的な調整が進まない中、戦国大統領のスタッフさんからの連絡で、11月のライブで東京のバンドと共演することを知った。 どんなバンドなのかなと気になって動画を検索してみると、突き刺さるようにカッコいい映像と出会った。 新しい曲のミュージックビデオで、若いトリオのバンドとは思えないほど骨太でハードなサウンドに驚いた。 本当にこのバンドと演れるのかな?同名の別バンドじゃないよな? 心配になってすぐに戦国大統領に確認した。 どうも彼らで間違いないらしい。 楽しみで仕方なかった。 迎えた2022年11月5日。 東京からleroyを迎え、戦国大統領でライブをした。 戦国のサウンドシステムで体感した彼らのライブはとにかく気持ちよかった。 終始ご機嫌で、本当によく飲んだ。 leroyのメンバーともいろいろ話した。 でもあまりにご機嫌で、具体的にツアーのことを話したりはしなかった。 数日後、あらためて東京でのライブの日程のイメージを自分の中で整えた。 4月にアルバムをリリースして、5月にレコーディングをしている大阪のライブハウス火影でリリースパーティー、そして6月に東京にツアーに行こうと決めた。 そのイメージを持って、leroyのギターボーカル戸澤くんに連絡をとった。 5月のリリーパーティーに出てほしいということと、6月に東京に行く相談に乗ってほしいことを伝えた。 ともに前向きに考えてくれると返事してくれた。 その後、いろいろとライブハウスをあたってくれて、実現可能性のある5つに絞って具体的な条件を整理してくれた。 土日を前提にあたってもらっていたものの、どこのハコも週末はなかなか厳しい条件だった。 その後紆余曲折あって、最終的に四谷アウトブレイクに6月23日の金曜日に行く形で調整してもらった。 雲をつかむような話だと思っていたところからついに東京でのライブが決まった。 感謝しかなかった。 この時点で、leroyは5月のリリースパーティーにも出てくれることが決まっていた。 その後は、場所がバンドとの出会いを導いてくれた。 1月にライブを観に行って出会ったダムダム団、2月に共演したTHE OGIKIZ、leroyから紹介してもらったSoberBrownと、四谷アウトブレイクを軸に、あっという間にラインナップも決まった。 実は共演者を考え始めた時期に、別の出会いがあった。 遡ること20数年前、たまたま京都で共演したマグネットコーティングという千葉のバンドがいた。 パンクの枠に収まりきらないグルーヴィーなトリオで、すぐに仲良くなってまた共演しようと話したものの、その後ライブを見る機会はあったけど再度の共演はできずじまいだった。 彼らはもう解散してしまったとは聞いていたけど、ひょっとしたらまた違うバンドをやってたりするかもしれない。 なんとなくそう思って、ネットやSNS上を調べていったら、なんとギターボーカルだった名倉くんが、新しくmogriiというバンドをやっていることがTwitterでわかった。 SNSやネットのこういうところは本当に素晴らしい。 すぐにバンドの音源に辿り着き、彼の歌声を聴くことができた。 確か仕事の昼休みに散歩しながら聞いたと思う。 かっこよかったし、素敵だったし、何よりめちゃくちゃ嬉しかった。 名倉くんのアカウントをフォローしたら、ほどなくフォローバックがあったので、すぐに東京で共演できないかとDMを送った。 ちょっと熱い思いが滲みすぎていたDMだったかもしれないけど、すぐに返事があった。 彼も時を越えての連絡を喜んでくれたものの、仕事の関係で週末に都内に出るのは難しいということだった。 その仕事がライブハウス柏ALIVEのブッキングだった。 そしてやり取りする中で、柏に来てくれたらうちのライブハウスで共演するブッキングをするよと言ってくれた。 2daysになる想定はしてなかったので、すぐにSKYのメンバーに相談した。 3人ともスケジュールの調整はなんとかすると言ってくれた。 すぐに柏にも行く!と返事をした。 こうして東京・千葉のリリースツアーが決まった。 結果的にアウトブレイクのライブはレコ発東京編という形でやらせてもらうことになり、フライヤーやポスターもデザインさせてもらった。 並行してアルバム制作は佳境となり、とにかく忙しい日々を過ごしたものの、リリースとレコ発とツアーが楽しみで仕方なかった。 ギリギリまで交通手段や宿の手配もしてなかったけど、4人で相談してレンタカーで行くこと、民泊を活用して4人で寝泊まりすることを決めた。 ツアーは楽しみではあったものの、不安もあった。 18年前は32歳だった自分も。来月には50歳になる。 体力的な不安だけでなく、久しぶりの遠方へのツアーへの不安もあった。 同じように車で東京に移動して、2日連続でいつもどおりのパフォーマンスができるのか? 初めてのライブハウスで、自分たちの音が出せるのか? 東京のお客さんの心に響く音が鳴らせるのか? でもレンタカーを借りて、メンバーを順番に迎えに行き、最後のメンバーを拾ってから高速道路に入った時には、そんな不安も消えてなくなっていた。 その後も高速をひた走り、心沸き立つ状態で横浜のてっちゃんの実家に前乗りした。
翌日は昼頃までゆっくりさせてもらってくるまで移動、アメ横に立ち寄ってから四谷を目指した。 そして四谷アウトブレイクに到着。 何度も連絡を取った店長“代理”の立花さんと会って、握手を交わした。 緊張感をはるかに超える高揚感。 結実の舞台は、とにかく最高の一言。 四谷アウトブレイクは想像してた通り、最高の空間だった。 ここからは本当にあっという間。 初めて観るSoberBrownに心をわしづかみにされ、 2月以来のTHE OGIKIZの熱に溶けそうになり、 1月以来のダムダム団の圧にはじき返されながら笑い続け、 先月観たのにそこを超えてくるleroyに鼓舞された。 そしてSKYはアンコールまでやらせてもらって、全部出し切った。 たくさんの人にアルバムを買ってもらった。 遅くまで飲ませてもらって、後ろ髪を引かれつつお店を後にした。 手配した近くの宿で一泊して、翌朝は浅草寺に立ち寄ってから柏へ移動�� 無事柏ALIVEに到着して車を停めると、こちらに歩いてくる人が。 名倉くん! 声を上げて歩み寄り、ガッチリと握手した。 うれしくて仕方がなかった。 この日もここからはあっという間。 トッパーのmogriiでは名倉くんの歌に泣きそうになり、 naan destroying the bellyの変幻自在の音にワクワクし、 private conceptの心地よいグルーヴに酔いしれてから、 SKYは4番手で昨夜の余韻をまとってのびのびとやらせてもらいました。 ラストのheritのヘビィなビートにさらに体を揺らしてライブは終了。 ライブ後は名倉くんの計らいで、出演者のエフェクターボードを並べて愛でながらみんなで飲むという最高の打ち上げが。 この日も遅い時間まで楽しませてもらい、必ずまた一緒にやろう!と言葉を交わして、またもや後ろ髪を引かれながら宿へ。 部屋に入っても余韻がすごすぎてなかなか寝れず、2時頃までいろいろ話してた。 次の日は早めに起きて、帰路に就いた。 レンタカーを返して家に着いたら、千葉を出てから10時間たっていた。 もちろん疲れていないと言ったらうそになるけど、行ってよかった、やってよかったという気持ちが大きすぎるのと、見られた景色や出会えた人達が尊すぎるのと、念願の東京ツアーを終えた満足感が半端なくありすぎて、これまで以上に先を見つめている自分がいるのに気が付いた。 あらためて、自ら動くこと、そして縁をつなぐことの大切さを感じることができたツアーだった。
四谷アウトブレイクの立花さんは、フライヤーの裏面にコメントをお願いした際、こんな言葉を綴ってくれた。 つまり「縁」ですよね。 思え��leroyとボクの縁も四谷が始まりで。 3年前、秋元康プロデュースのアイドルバンドが四谷に出演する際、 当時の店長によりleroyとボクのバンドが謎にブッキングされたのが最初でした。 縁が縁を呼び【祭り】となって結実した今回。 間違いなく良い夜が立ち昇るはずです。 今思えば、この人予言者かよ!と思うほどのコメント! 今回お世話になったライブハウスの皆さん、 出演してくれたバンドの皆さん、 そしてライブハウスに足を運んでくれた皆さん、 本当にありがとうございました。 SKYの4人だけではやれないことが、みんなのおかげで実現できたと思います。 おかげでこれからも止まらず、歩いて行けます。 これからも変わらず丁寧に、届けていきたい。
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#9 一段上ったから見える景色
新しいアルバムのリリースパーティーが、昨日無事終わった。 来てくれた皆さん、出演してくれたバンド、フードを提供してくれたZushiくん、そして火影のスタッフの皆さん、本当にありがとう。 予想を超える大盛況だっただけでなく、最初から最後までポジティブな空気がフロア中に溢れてた。 ライブをやったりライブを観たり、何度も足を運んでいる火影が、なんだかいつもと違う場所のようにも感じられて、不思議な感覚だった。 とにかくもう、サイコーな時間を堪能させてもらった。 前回の記事にも書いたけど、SKYとして企画を打ったのは本当に久しぶり。 数年前に大阪メインで活動し始めてからは初めての企画だった。 過去にもライブハウス企画や野外イベントなんかも何度かやってきたけど、ここまで盛況に終わったことはなかったと思う。 実際、続かなかった企画がほとんどで、ときには結構な赤字のイベントもあった。 ただ、集客的にうまくいかなかったイベントが無駄だった、意味がなかったとは思っていない。 そう思えるようになったのには、実はきっかけがある。 20年以上前、大阪の服部緑地公園の野外音楽堂でイベントを企画した。 睡眠時間を削って準備したのに当日の集客はまばらで赤字、結果2年しか続かなかったし、その後ドラマーが脱退するに至ったこともあって、精神的なダメージが大きかった。 もがいてももがいても、前に進まない感じがもどかしかった。 今思えば、もっとやり方もあっただろうし、もっといろんな人を頼ればよかった思うけど、何でも自分でやって盛り上がりをつくりたいという思いが、今以上に強かったんだと思う。 ただ盛り上がるどころか、疲れと赤字だけが残った。 塞ぎこんでたある日、フライヤーに掲載していたアドレスに一通のメールをもらった。 イベントにカップルで足を運んでくれたという知らないお客さんからだった。 イベントの感想とともに、このイベントに足を運んだことがきっかけの一つとなって、結婚することになったと書かれていた。 どうしてもお礼が言いたくてと、わざわざメールをくれた。 このとき、本当にイベントをやってよかったなと心から思った。 同時に、自分の目に見えるものだけが結果じゃないよと教えてもらった気がした。 そんなエピソードは後にも先にもそのときだけにはなるけど、それ以来、もし大赤字でもお客さんが少なくても、やらなきゃよかったと思うことはなくなった。 とはいえ、SKY として活動を続けていくためには赤字を繰り返すわけにもいかないし、せっかくなら多くの人に届けたいと思って準備しているので、目に見える結果も大切にはしたい。 今回は、来てくれるみんなと一緒にイベントをつくっていきたいという強い思いを携えて準備を続けてきた。 それだけに、昨日の景色は本当に嬉しかった。 「大変なことを乗り越えて一段上がった先には、今まで見たことない風景が広がっている。」 昔、バンドがうまくいっていなかった時期に友達がかけてくれた言葉。 もちろん体を壊してまで続けなきゃいけないことじゃないと付け加えてはくれたけど、悩んでいる自分の背中を押してくれた。 あのとき、バンドを辞めてたら辞めてたで、また違う景色が広がっていたんだとは思う。 でも昨日の景色は、SKYというバンドを続けてきたから見れた景色だと思う。 それをみんなと一緒に見れたことが、嬉しい。 まだまだ新しい景色を見たい。
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#8 どんな器に盛りつけて、どんなタイミングで出すのか
アルバムリリースからあっという間に2週間が過ぎた。 そして火影でのリリースパーティーまで2週間を切った。 これまでもアルバムをリリースするたびにレコ発ライブと称して、火影や戦国大統領でライブをやらせてもらったけど、今回は久しぶりに、本当に久しぶりにSKYがラインナップを考える自主イベントのような形でやらせてもらう。 そこに至るには、いろんなきっかけがあった。 思い返せば2022年は本当によくライブハウスに足を運んだ。 家庭や仕事の都合、そして大阪から結構離れたところに住んでるということもあって、これまでなかなかマメに顔を出せなかったライブハウスに通うきっかけになったのは戦国歌舞伎寿司だった。 最初に興味を持ったのは、2021年の秋頃に見た衣笠キンパラスのツイート。 なんでもライブハウスでお寿司と極上のバンドを一緒に楽しむというパンチの効いたイベントだそうで、フードカウンターの中で歌舞伎メイクの男性が寿司を握っている姿を写真で見たとき、かっこいいバンドを観たときに笑いが止まらなくなるのと同じ感情がわいた。 とにかく1回、この目で見てお寿司を食べたい。 そう思いながら年を越して、歌舞伎メイクの彼のアカウントをフォローし、2月の戦国歌舞伎寿司に遊びに行くことを決めた。 その後、主催者として出演者モチーフのイラストを掲載しながら何度も歌舞伎寿司の告知を繰り返す彼のツイートを見て、何とも言えないシンパシーを感じた。 彼のルーツを語ったかっこいいツイートを目にして応援のコメントをつけたら、すぐにお礼のDMをもらった。 それがきっかけで少しやり取りしたら、なんとこちらが歌舞伎寿司に足を運ぶ前に、SKYのライブに遊びに来てくれた。 2022年2月の火影。 フットワークの軽さに驚くとともに、現場に足を運んでくれたのが嬉しかった。 その後、歌舞伎寿司に遊びに行ったのをきっかけに戦国大統領にもよく顔を出すようになっていった。 SKYでもまた出演させてもらうようになり、9月には戦国歌舞伎寿司出演を果たした。 これまでは年に数回程度しか足を運べていなかったライブハウスに、2022年は気が付けば60回以上遊びに行っていた。 繋がりや積み重ね、強烈な初期衝動、そしてライブハウスへの愛など、様々なエッセンスがそこかしこに溢れているのがライブハウスなんだなとあらためて気づかされた。 そして見に行くだけでなく、一緒に演る中でも新しい出会いがたくさんあった。 昨年末になんとなくリリースパーティーのことを考え始めたとき、自分が得た感動や新しい繋がりを回収して結実させるというか、自分たちなりのアウトプットにできるような���ベントがやりたいなと思うようになっていた。 火影の佐野さんとリリースパーティーの相談する中で、SKY企画としてイベントをやらせてもらうことになった。 イベントの内容や出演してもらうバンドを考え始めたとき、何とも言えないワクワク感を感じた。 それは、友達を家に招いて料理をふるまう前に、どんなメニューにしようかを考えるときの高揚感にとても近かった。 自分が感動した味、自分が心躍らされた食材、そしてその組み合わせ。 それをどんな器に盛りつけて、どんなタイミングで出すのか。 内容を考えていくことがとにかく楽しかった。 ただ、心躍らされたバンドが多すぎて、絞るのは本当に苦労したけど、これからもライブやイベントをやればいいと前向きに割り切って、なんとか今回のメニューを書き出した。 3月に衝撃を受けて何度もライブに通ったGYAKUSO、 8月に心も体も踊らされたNORTHManNose、 9月にメンバーみんなで心を鷲掴みにされたエチュバリア、 11月に戦国大統領で出会い意気投合した東京のleroy、 そして、これまで一番たくさん共演してきた盟友バビロンブレイカーズ。 さらに歌舞伎寿司ことZushiくんがフード出店者として加わってくれた。 自分にとってもSKYにとっても、最高のパーティーになる。 もちろん、あなたにとっても。
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#7 LONG TiME NO SEE
ついに本日、SKYの6枚目のアルバム「LONG TiME NO SEE」が発売された。 作品が形になるのは、何枚目になってもとにかく嬉しい。 一人でも多くの人に聴いてもらいたい。 アルバム制作に至った経緯やレコーディングのことはこれまでも書いてきたので、今回はアルバムのジャケットのことを書こうと思う。 今回で6枚目のアルバムになるけど、これまでのジャケットはほぼ自分が手掛けている。 元々写真やデザインが好きで、フライヤーなんかもほとんど自作しているので、特にバンド内で他に頼もうという話が出ることもなく今に至っている。 ただ、どうしても自分の好みのデザインに偏りがちになるので、少し趣向を変えてみたいなと思うこともあるけど、今回は三部作の最後の作品ということもあって、自分で作るつもりにしていた。 そもそもサブスクで聴く人にとっては、アルバムのジャケットは単なるアイコンでしかないかもしれないけど、CD全盛の90年代からバンドをやってきて、物理的な作品も提供する自分たちにとって本の装丁のようなもので、作品を構成する大切な要素の一つだと思っている。 そこも含めた作品づくりに取り組めるのは、単純にとても嬉しい。 とはいえ、毎回結構な苦労を伴う作業であることは間違いない。 ある程度作品の全体像が見えてこないとアートワークのイメージがつくれないし、全体像が見えてくるのは大概レコーディング大詰めの時期と重なっている。 さらにミックスダウンやマスタリングといった音源の仕上げ作業のタイミングと合わせてジャケットや歌詞カード、盤面のデザインを仕上げて入稿することになるので、期限が近付くにつれ追い詰められることが多い。 ただ今回は、作品のビジョンをある程度掲げてアルバム制作に入っていたことや、火影で録ったことが伝わる作品にしたいという思いがあったこともあって、比較的スムーズにデザインのイメージが膨らんだ。 きっかけは、昨年の夏に作ったライブのフライヤーだった。 これまで火影で撮ってもらったライブ写真をモチーフに作ろうと写真データを物色していた時に、足元を撮ってもらった写真を見つけた。 火影のステージとわかるほの赤い絨毯の上に立つ黒のコンバース。 ヴォーカルかみやんの足元を切り取ったその写真は、そこが火影であるのがわかるだけでなく、ライブハウスが放つ独特の空気感が滲んでいた。 フライヤーに使ってみたところ、あまりにその出来が良かったので、これをもう少しアレンジした形でジャケットデザインにしようと決めた。 90年代っぽい雰囲気をまとわせたいと思い、いろんなジャケットデザインを物色していく中で、コントラスト調整やトリミングを繰り返し試した。 そこにいろんなフォントを並べてみて、文字色の調整を経て良いバランスのラフデザインが完成した。 早速バンド練習の時に持参してメンバーに見てもらった。 かみやんから「TIME」の「I」を小文字にできないかと提案があった。 その後、同じフォントで小文字にして共有したら、 「iの上の点を□じゃなくて○にできへんかな」 と言われた。 この小文字の「i」は「人」のイメージで、人がジャケットの世界に紛れ込んでしまったというコンセプトの提案だったらしい。 いわゆるピクトグラムのようなイメージの「i」だった。 図形で作成した「i」を重ね、紛れ込んだ感を出すために微妙に色を変えた。 ���リントアウトされたデザインを見て、そこに血が通ったのを感じた。 盤面にはレコ発ライブのフライヤーデザインを落とし込み、歌詞カードには90年代のとある作品のオマージュという形でレコーディング写真を散りばめた。 サブスク全盛のこの時代だからこそ、手に取ってニヤリとできる「モノ」であることにこだわった作品が出来上がった。 実際手にした今、相当ニヤニヤしている。
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#6 階段マイク
2022年2月、メンバー4人であらためて音無さんに会いに行った。 火影で録音したいという思いと、この場所でどういう録音にトライしたいかという簡単なイメージを各メンバーから伝えた。 バンドが鳴らしている音はよくわかっているので、とにかく一回やってみましょうと言ってくれた。 好奇心と期待が膨らんでいくのを感じた。 まずはテストレコーディングということで、4月に1曲だけ録音した。 ライブハウスという新たなレコーディング環境に少し戸惑いながら臨んだこの録音体験が、大きな可能性を感じさせてくれ流ことになった。 その要素の一つが、「階段マイク」だ。 録音環境を変えるにあたってこだわりたかったことの一つがドラムの録音だった。 できればスタジオのデッドな環境(音があまり響かない環境)ではなく、少し部屋の鳴りが感じられるような音で録りたいなと思っていた。 その相談に対する音無さんの答えが「階段マイク」。 ドラムセットを録音している火影のフロアから扉一枚挟んだ、地下2階のバーに下る階段室にマイクを置いて、フロアから漏れるドラムの音を拾う。 ドラムの近くに立てたマイクで拾った音に、この階段マイクで録った音を少し混ぜることで、大きな空間で録ったように聴こえるという。 想定外の手法に歓喜するとともに、そのギミックにワクワクした。 実際にミックスされた曲を聴いて、特にドラムの音のすばらしさに驚いたのを覚えている。 火影でレコーディングすることを決めて、本当に良かった。 アルバムのレコーディングは8月から始まった。 ライブハウスでのレコーディングにもすぐに慣れ、思ったことを積極的に口にしてくれる音無さんの助けもあって、これまで以上に凝縮された録り音になった。 録音したのは少し古い曲から、つい最近完成した曲までいろいろあったけど、自分たちのスタンスが最後までブレなかったこともあって、統一感のある仕上がりになった。 ライブを繰り返してきたこの場所で、ライブ感のあるバンドサウンドを録音する。 ライブの音響担当がエンジニアを担当してくれたことによる功績は大きい。 実はこのアルバムは、三部作の最後の作品になっている。 4枚目のアルバムのタイトルを「THE LONG GOODBYE」にして、5枚目のタイトルを考えていたかみやんから、「6枚目までを”LONG”三部作にしよう」と提案があった。 5枚目の「LONG WAY HOME」に続く6枚目のタイトルは「LONG TIME NO SEE」。 さよならを告げてそこをあとにし、しばらくして遠い道のりをかけてそこに戻る。 ��して戻ると、「久しぶり」と声をかけるというストーリー。 それぞれをコンセプトアルバムにしている訳ではないものの、特に最後を締めくくる今回のアルバムには、少なからずの思い入れがあった。 SKYのこれまでの経験が滲む、今しかつくれないアルバムにしたい。 そういう思いは当然持っていたけど、サウンドも含め、自分たちのルーツである90年代の音楽が感じられる作品にしたいという思いもあった。 SKYを結成した頃、そしてその前身として自分たちの好きなバンドの曲をコピーしていた1990年代の音楽シーンは、まさにクロスオーバーの時代だった。 それぞれが面白いと思う要素を持ち寄って、誰も鳴らしていない音を鳴らしていこうというSKYのコンセプトは、その時代に生まれたものだ。 回顧主義ということではなく、その初期衝動をあらためて強く意識した楽曲制作を進めたことで、ルーツと今の時代感が混在する他にない作品に仕上がっていった。 そういう意味では、バック・トゥ・ルーツなアルバムになったと思う。 ついに2週間後には、「LONG TIME NO SEE」がリリースされる。 新たなストーリーの始まりだ。
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#5 HOKAGE
12年ぶりとなる4枚目のアルバム「THE LONG GOODBYE」のレコーディングが一段落した2018年11月の終わり頃、FIVE NO RISKのライブを観に火影に足を運んだ。 天井がそこまで高くないコンパクトな空間は、長年ハードな音が鳴らされてきたことがわかる独特の雰囲気があった。 アンプやドラムセットが置いてあるフロアの角には年季の入った絨毯が敷かれていて、段差はないもののそこがステージであることがわかった。 ほどなく始まったステージの音は激しい中にも鋭いエッジが感じられ、距離感もあってかバンドの熱量がダイレクトに伝わるのを感じた。 何より、フロア全体を使って展開されるパフォーマンスにただただ圧倒された。 ライブ後、汗まみれのボーカル鉄平君に声をかけると、そのままブッキングマネージャーの佐野さんに紹介してくれた。 アルバムラフミックスのCDRを手渡し、ここでライブをやりたい旨を伝えると、一度ライブを見せてほしいと言われ、早速年明けにやらせてもらうことになった。 1月に初めてステージに立ったときは不思議と緊張はあまりなく、リラックスして演奏できた。 今思えば、自分の音や他のメンバーの音が聞きやすい環境を短いリハーサルの時間の中でしっかりと作ってもらえていたんだと思う。 アルバム発売直前の木曜日で、その後何度も共演することになる衣笠キンパラスともこの日に出会った。(彼らは木曜日しかライブができないとあとで知った。) この日のライブを経て、6月にあらためてリリースパーティーをやらせてもらった。 火影では、その後も何度もステージに立たせてもらった。 新型コロナウイルスの影響でライブの本数が減り始めた頃も、火影にだけはコンスタントに出演させてもらった。 そんな中で印象的だったのは、音響スタッフの音無さんが、毎回丁寧にコミュニケーションしながらステージの音を作ってくれたこと。 これまで、同じライブハウスでコンスタントに演らせてもらうこともあまりなかったし、音響担当のスタッフとここまで近い距離でステージの音を作っていった経験がなかったこともあって、回を重ねるごとにさらに演奏しやすくなっていくのを実感できた。 そして何度もステージに立たせてもらう中で、このライブハウスに捧げる曲ができた。 タイトルはそのまま「火影」。 火影のフラットなフロアに爆音で響き渡るのをイメージしてつくった。 その後何度もライブで演奏する曲になって、もちろん火影でも何度も演った。 この曲は次のアルバム「LONG WAY HOME」に収録された。 5枚目となるこのアルバムは、前回と同じスタジオで、同じエンジニアと制作した。 ライブを続けながら録音���繰り返して作り上げたカラフルなアルバムだった。 収録曲の中には、他にもライブハウスをイメージして作った曲が2曲あったけど、ライブハウスの名前をタイトルにした曲は「火影」だけだった。 5thアルバムをリリースした2021年夏以降は、すぐに次のアルバムの話が出ていたこともあって、とにかく曲をたくさん作った。 毎日のようにアイデアをストックし、スタジオに持って行ってはみんなで音を出した。 ときにはストックした断片をメンバーに聴いてもらい、反応が良かったものを形にしていったりもした。 火影でのライブを繰り返しながら曲を作り続けていく中で、次のアルバムを火影で録音してみるのはどうだろう?という思いが浮かんだ。 音無さんがレコーディングをやっていることは知っていたし、衣笠キンパラスのファーストアルバムやFIVE NO RISKのライブ盤も火影で録音したと聞いた。 何より、一度レコーディング環境を変えてみたいという思いがあった。 今の自分たちの音を形づくってくれたこの場所をフィールドにして次回作を録音する。 それはもはや、必然のように感じられた。 (つづく)
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#4 リバース
2015年の秋を過ぎても、春に顔を合わせたことが引っかかっていた。 この状況で、バンドについて何も言い出せずにいる2人。 その姿が、最初にドラマーが抜けたときの自分と重なっていた。 2人ともバンドを続けたいに決まっている。 今度は自分が2人に「続けよう」と声をかける番だと思った。 その年の暮れに、思い立ってかみやんに会いに行った。 突然の申し出にもかかわらず時間をつくってくれて、近くの喫茶店��1時間ほど話した。 他愛もない互いの近況報告から、ほどなくバンドの話になった。 「とにかく閉塞感を感じていた。またライブがやりたい」と絞り出すように伝えてくれた。 じゃあやろう、やらなきゃなと言ったと思う。 この流れで、てっちゃんとも何度か会って話した。 堰を切るように、ライブや録音、いろんなことをやりたいと嬉しそうに話してくれた。 その頃、一時帰国する中山くんとも連絡がついて、会うことになった。 すでに新たなメンバーを見つけて活動続けているものと思い込んでいて、バンドが止まっていたと聞くととにかく驚いた。 帰国を待って4人で活動を再開することには二つ返事でOKをくれた。 2016年4月17日。 中山くんから任期満了を前に再度一時帰国するとの連絡をもらい、スタジオを押さえた。 3年ぶりに、狭い部屋に4人が集まった。 機材をセッティングするメンバーの姿が懐かしかった。 音を出した瞬間、涙が出た。 3人も顔をくしゃくしゃにして喜びながら泣いた。 スタジオを早めに切り上げて、酒を飲みながらこれからのことをいろいろ話した。 今のSKYの音が新たに生まれた(Rebirth)日。 この日は、4人にとって忘れられない大切な日になった。 その後は、月1回程度の練習を1年ほど続け、2017年秋に久しぶりにライブをやった。 スローペースでライブを続けていく中で、新機軸になる新しい曲も生まれ、久しぶりにレコーディングの話があがったりもした。 そんな中、久しぶりにライブを観に来てくれた友達が、こんな言葉をかけてくれた。 「一回、もっと音のデカいライブハウスでやった方がいい」 新しい動きを求めていたこともあって、お願いしてすぐに繋いでもらった。 大阪緑橋にある戦国大統領は、かっこいい音を求める人たちが夜な夜な集うディープなアングラシーンの象徴のような空間。 そしてとにかく音がデカかった。 戦国に繋いでくれた友達のバンドAQATUKI、その日のイベント主催だったバビロンブレイカーズ、ほかにもかっこいいバンドが音を響かせた。 SKYも少し緊張しながらも、その空間に身を任せて自分たちの音を鳴らした。 2018年6月9日。 この日、戦国にいた人から新たな繋がりがいくつも生まれた。 この日偶然SKYのライブを観てくれて、その場でレコーディングを担当してもらうことが決まったエンジニアの豊田さんには、その後、アルバムを2枚続けて録音してもらうことになった。 FIVE NO RISKの鉄平くんとも、この日に出会った。 ライブを観てもらった後、曲作りのことや活動のことをいろいろ話す中で、 「戦国もサイコーなんですけど、心斎橋に僕らがよくやってる火影ってとこがあって、そこもめっちゃいいハコですよ」と教えてくれた。 このときはまだ、火影に足を踏み入れたこともなかった。 (つづく)
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#3 このまま溶けてなくなるかもしれない
結成から10年、ドラマーが抜けるたびにメンバーを探してきたけど、ネットを介してメンバーを募集するのは初めてだった。 名もないバンドの音源を聴いて、手を挙げてくれる人が果たしているのか? その心配をよそに、SKYの曲を聴いて感銘を受け、加入したいと連絡をくれたのが、年齢が一回り下のジャズドラマー、中山くんだった。 一回り下と聞いて、最初に連想したのはジョン・フルシアンテ。 RED HOT CHILI PEPPERSの初代ギタリストがオーバードーズで死亡したのち、弱冠24歳で電撃加入したギタリストも、他のメンバーとは一回り歳が離れていた。 これは面白いことになったなと思った。 数日後には集まって、一緒に音を出した。 左右の手をクロスさせないオープンハンドのフォームで器用にドラムを奏でながら、緊張した面持ちで必死にセッションにくらいついてきた。 今日初めて会った人間がSKYの音をリスペクトして汗をかきながらドラムを叩いている。 もうそれだけで、一緒にバンドをやっていくには十分すぎた。 そのあと電車がなくなるまで酒を酌み交わし、4人でSKYを続けていくことになった。 4人で活動を重ねていく中で、個人的には結婚という大きな出来事もあった。 メンバーも祝福してくれて、パーティーでは中山くんに司会を、てっちゃんにDJを、かみやんに乾杯の音頭をそれぞれ担ってもらった。 結婚がSKYの活動を制約するようなこともなく、妻にも応援されながら活動を続けた。 友達とのイベント共催やツアーを経て、4人の音がしっかり鳴らせるようになってきた頃、突然舞い込んできたのが中山くんの海外赴任の話だった。 仕事で3年間日本を離れないといけない。 中山くん��「他にドラマーを探してくれても」と言ってくれたけど、せっかくこうして出会えたメンバーの代わりを探すという発想は持てなかった。 とにかく3人でやれることをやって待つことにして、一旦は中山くんを見送った。 とはいえ、具体的に何をやるかは決められていなかった。 ちょうど第一子の誕生と仕事の忙しさが重なって、新たな方向を目指してバンドの舵を取る余裕がない状況だったのだ。 それでも何とかなるだろうと、高をくくっていたのがまずかった。 一緒に音を出すどころか、メンバーと会って話すことがどんどんなくなっていった。 今のようにラインや録音データ共有アプリなど、直接会うことを補ってくれるツールがない時代では、時間がないというシンプルな理由でメンバーとの繋がりが希薄になっていくのはあっという間だった。 一緒に音を鳴らせないまま、ただただ時間だけが過ぎていった。 結局、かみやんとてっちゃんとは2年近く顔を合わせなかった。元々、人との関係が自然になくなっていくということが大��いだった。 ましてや「続けていく」と決めてやってきたバンドがなくなっていくというのは自分にとって受け入れがたいことだった。 その思いとは裏腹に、忙殺されながらどうすることもできない日々が続いていく。 その後、久しぶりに顔を合わせることになった友達の結婚式でも、お互い何を話したらいいのかわからなかった。 炎天下のアイスクリームのように、このまま溶けてなくなってしまうかもしれない。 そんなことをぼんやりと考える日々が続いた。 2015年、中山くんがいなくなってから2年目の夏が過ぎていった。 (つづく)
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#2 DRUMLESS ROCK FREESTYLE
突然のドラマーの脱退で混乱する中、どうにか続けていきたいとメンバーに伝えてみたものの、 「けんちゃんがSKYを『続けていきたい』のはわかってたよ。 でも、今聞��たいのは『続ける』かどうかっていうこと。 それを聞きたい。」 そう言われて戸惑った。 そうだったのか。続けていきたいってことがようやくわかったと思ったけど、それは2人にはわかってたのか。 とはいえ、今日伝えようと思って用意してきたのは「続けていきたい」ってこと。 結局その日はまた解散して、もう少し時間をもらうことになった。 そして再度集まったとき、こう伝えた。 「自分もSKYをやっていく、『続けていく』ことにした」 ギターのてっちゃんはガッツポーズで喜んでくれた。 ボーカルのかみやんは顔をほころばせて、安堵した様子だった。 正直この時に、2人と同じだけの強い決意を持ててたかどうかわからないけど、こうして残された3人でSKYを続けていくことになった。 その後は、すでに決まってたライブを友達のサポートを得て続けることから始めた。 そのうちの一人がメンバーとして加入してくれて、4年ほど活動が続いたけど、その後2006年には抜けてしまった。 再度ドラマーが抜けたあとも、制作途中だったアルバムをサポートドラマーを迎えて完成させたり、友達を招いてセッションをしたりと積極的に動き続けた。 この間、2名のメンバーが短期的にサポートしてくれて、ライブもやった。 そして2008年にはまた、ドラマー不在の状態になった。 このときは、最初にドラマーが抜けた時のような焦りや迷いはなかった。 最初にドラマーが抜けたときに、「やっていく、続けていく」と伝えていたこともあって、ドラマーがいないならいないで、この3人でSKYの音を鳴らせばいい、3人で曲を作ってライブをやろう、そう思った。 この頃、弾き語りをしている友達のサポートでベースを弾く機会が何度かあり、アコースティックでライブできる良い場所に巡り合っていたのはラッキーだった。 神戸北野にあるHAPPY LAURAは、20人ほどで満席になるライブバー。 ほの暗い店内にはアコースティックギターが飾られ、長年使いこまれたカウンターには多くの人を迎え入れ続けた年輪が感じられる。 何度か足を運んだけど、バンドのアンサンブルを活かしたアコースティックライブというのはあまりなかったので、SKYでそれをやればお客さんたちにもきっと喜んでもらえると思った。 お店に相談して「DRUMLESS ROCK FREESTYLE」というイベントを数回重ねた。 ドラムがいないことを逆手にとって、小さな空間に自分たちの楽曲を縦横無尽に響かせる。 お店のおかげもあって毎回楽しくやらせてもらい、バンドとしてライブをやってる充実感を得続けることができた。 とはいえ、3人での活動と並行してドラマーは探していた。 その頃はTwitterはまだなかったけど、SNSを活用したメンバー募集も当たり前になって来ていた頃だったので、そこでも発信することにした。 そしてそこで、その後一番長く一緒に活動を続けていくことになるドラマーと出会うことになる。 (つづく)
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#1 聞きたかったのはそれじゃないよ
今年、2023年7月で50歳を迎える。 そして1998年から続けてきたバンド「SKY」は今年で25年目。 気が付けば、同じバンドを人生の半分続けてきたことになる。 4人編成のメンバーはドラマー以外変わらず、現ドラマーも加入して15年目となった。 そしてこの春には、通算6枚目となる新たなアルバムをリリースする。 この節目に、これまでのことや今やっていること、そしてこれからやりたいことなんかを残る形で書いておきたいと思った。 昨年からTwitterを積極的に利用して、そこでもいろんなことは発信してきたけど、共有の即時性というメリットを体感する一方で、文字数が限られ、せっかく書いた内容が流れ過ぎてしまうツールであることに限界も感じていた。 そこで今さらではあるが、tumblrを使ってブログとしてストックすることにした。 ただ、音楽は音楽として伝わってほしいから、曲の補足説明はしないでおこうと思う。 これからリリースするアルバムを軸に、これまでのこと、これからのことを自分なりに綴っていきたい。 SKYでの活動の中で自分が感じてきたことや、続けてきた中にある様々なストーリーを、支えてくれる人たちと分かち合えたら嬉しい。 タイトルの「LONG TIME NO SEE」はリリース予定のアルバムのタイトルにあやかった。 日本語で言うと「久しぶり」という意味になる。 久しぶりにいろんなことを振り返るのとあわせて、久しぶりに会った友達に 「今はこんなことやってるよ」 と伝えられるような内容にしたい。
記念すべき第1回では、「なぜ自分がSKYというバンドを25年目まで続けてこられたのか?」を、初期のエピソードから紐解いてみたいと思う。 SKYを結成したのは1998年の暮れ。 自分たちの好きなバンドの曲を持ち寄って神戸三宮でストリートライブをやったのが原点。 その後、縁あってライブをやったりアルバムをつくったりしながら活動を積み重ねていったけど、なかなか活動が思うようにい���ないところからくる焦燥感もあったと思う。 そんな中、2002年の正月にドラマーから抜けると連絡があった。 ほどなく残りの3人で集まって話をしたけど、正直どうしたらいいかわからなかった。 自分以外の2人は、メンバーが抜けようとSKYは続けていくとはっきり言った。 自分の考えを整理するのに少し時間をもらいたいとお願いして、その日は帰った。 時間を空けても特に明確な答えが出ることはなかった。 それでもこれまでやってきたことも踏まえると、やっぱりこのバンドを続けていきたいと思った。 その後、あらためて話したいと2人に声をかけて、ファミレスに集まった。 「時間をもらって自分なりに考えたけど、オレもこのバンドを、SKYを続けてきたい。」 そんな感じで伝えたと思う。 でも返ってきた言葉はこうだった。 「それは知ってる。SKYをやっていきたいってことは。 でも待ってたのは、今日聞きたかったのはそれじゃないよ。」 (つづく)
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