#米海軍横須賀基地
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損���ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが���界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「���まった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え���佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はす��に爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を���掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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2024/10/6 11:00:06現在のニュース
70代男性が1.4億円の詐欺被害 投資サイトに誘導され 北海道(毎日新聞, 2024/10/6 10:57:04) 私が思う日本:なぜ日本ではEVが普及しないのか 商機は中国メーカーに | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/6 10:51:57) <書評>『カルトと対決する国 なぜ、フランスで統一教会対策ができたのか、できるのか』広岡裕児 著:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/10/6 10:48:23) 「中国は台湾の祖国になりえない」 頼総統が演説、「双十節」を前に(朝日新聞, 2024/10/6 10:42:46) 中朝首脳、関係の発展・深化に言及 国交樹立75周年で祝電を交換(朝日新聞, 2024/10/6 10:42:46) 在日米軍、全軍人に基地外での未明の飲酒禁止命令…横須賀「どぶ板通り」のバーは客激減([B!]読売新聞, 2024/10/6 10:42:05) 短期決戦の衆院選に選管悲鳴 過去の啓発動画、活用も 神奈川(毎日新聞, 2024/10/6 10:35:20)
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日本が アメリカの植民地になった日です ♪
1945年9月2日9時から東京湾横須賀沖のアメリカ海軍の戦艦ミズーリ甲板上で 「降伏文章」に調印した
日本政府代表は 「重光 葵 外相・梅津 美治郎 陸軍参謀総長」でした
これからの若者は
1 アメリカ基地権 2 アメリカ指揮権 3 日米合同委員会 4 最高裁(砂川判決)
を無くして アメリカから独立して欲しい (無理だろうな !)
私のyoutube (4,400本) も見てね ♪
お願いよ ♪
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590 名前:水先案名無い人 (ワッチョイ 8b76-Ffk1)[sage] 投稿日:2024/03/20(水) 19:34:53.13 ID:1Ld9uBjR0
57 渡る世間は名無しばかり sage 2024/02/09(金) 00:21:21.95 LY5yeIBp
空母って落ちたらなんメートルくらいあるんや
189 渡る世間は名無しばかり sage 2024/02/09(金) 00:21:49.99 Y6qxLDhD
>>.57
落ちたら普通に死ぬ高さ
91 渡る世間は名無しばかり 2024/02/09(金) 00:21:29.35 o2KqtVWM
あれ相当な高さだろ
369 渡る世間は名無しばかり sage 2024/02/09(金) 00:22:49.81 kfc63cbO
>>.91
たしか30m以上あるはず
落ちた海兵隊が死ぬ事故があったはず
591 名前:水先案名無い人 (ワントンキン MMd3-fs+q)[] 投稿日:2024/03/20(水) 20:10:56.23 ID:85mXtPGYM [2/2]
>>590
2021年に米海軍横須賀基地の空母ドックに停泊中の英海軍の空母"HMS Queen Elizabeth"を
撮った写真だけど、
R08って書かれた艦橋の手前の一番縁(へり)の部分に人がいるからそれから高さ割り出すといいかも
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米海軍横須賀基地、一般開放に2万3千人 原子力空母レーガンの艦内見学も | カナロコ by 神奈川新聞
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-1065599.html
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05月25日 19時14分
神奈川県のアメリカ海軍横須賀基地に配備されている原子力空母の複数の乗組員が、薬物の使用や取引きに関与した疑いがあるとして、海軍の犯罪捜査局の捜査を受けていることが分かりました。 在日アメリカ海軍司令部によりますと、アメリカ海軍横須賀基地に配備されている原子力空母「ロナルド・レーガン」の複数の乗組員が、違法な薬物の所持と使用、それに取引きをしていた疑いがあり、アメリカ海軍犯罪捜査局が捜査しているということです。 関わった乗組員の人数や、薬物を使用したり取引きをしたりしたとされる時期や場所などについては明らかにしていません。 在日アメリカ海軍司令部は「現在捜査中の件について具体的なコメントは控えるが、この捜査を真剣に受け止めている」としています。
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桜林美佐の「美佐日記」(209)
在日米海軍中尉の交通事故、その後
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、209回目となりま
す。
本格的な春の訪れを感じるようになりました。送
別会のシーズンでもあり、私は米国に帰る友達、英
国に行く友達それぞれと会う時間がありました。
最近、気づいたのは、いわゆる女子会とかママ友
会みたいな集まりとみられる女性たちが昼からワイ
ンやビールを飲んでいる姿が多いということです。
で、私もそうしたところに参加することがあると、
他の人がみんな当たり前のようにアルコールを注文
することにちょっと驚きます。
他のテーブルを見ると、確かに女子会みんな飲ん
でいる・・・。
私自身はランチミーティング的な感覚しかなく、そ
もそもその後に片付けなくてはならない仕事が残っ
ていたりしますので、長くなりそうなら途中で退席
することになりますが、こういう世界があるんだな
ーと、つい女性グループの昼飲みをまじまじと観察
してしまっています。
ご興味ある方は、平日の昼時に女子好みのお店に
行ってみて下さい。そのようなグループを必ず発見
できることでしょう(ただし、これを発見しても何
の収穫にもなりませんが)。
さて、以前、加藤さんのメルマガでも心配されて
いた在日米海軍の士官が交通事故を起こし85歳の
女性と54歳の男性の日本人2人が死亡した事故に
関して、動きが活発になってきています。
この事故は2021年、当時、横須賀基地に所属
していたリッジ・アルコニス中尉が家族と共に富士
登山をした後に、車を運転して帰る途中で居眠りと
みられる事故を起こしたものです。アルコニス中尉
の家族は「高山病によって意識を失った」と主張し
ています。
禁固3年が言い渡された後に控訴したものの、高
裁判決でも「居眠り運転」という一審判決が支持さ
れました。
家族らは、アルコニス中尉は逮捕されて3週間以上
独房に入れられたために、容疑を晴らしたかもしれ
ない診察を受ける機会を与えられなかったと主張し
ています。
また、同家族は被害者の遺族に100万ドル(約1
億3500万円)以上の慰謝料を払ったとも言って
います。
アルコニス中尉はモルモン教徒で、日本でも宣教
活動をしていたと言います。彼がキリスト教ではな
いということも、この事案が米国全体の感情問題に
まではまだ拡大しておらず、今のところ、一部にと
どまっている要因なのではないかと私は想像してい
ます(日本人は宗教の違いが分からないかもしれま
せんが)。
モルモン教は酒を飲まないため、飲酒運転の疑い
は全くないですが、確かコーヒーやコーラ、お茶も
飲まないはずですので、奥さんと子ども3人を連れ
て富士山に登った帰りの運転は、やはり無理があっ
たと思われます。
この判決を不当として、ユタ州のマイク・リー議
員はアルコニス中尉の米国への送還を求め「トマホ
ークの日本への売却もやめるべきだ」と訴えていま
す。また日米地位協定は日本優位すぎるとも怒りを
あらわにしています。
ユタ州と言えば人口の68%がモルモン教であり、
マイク・リー議員自身もそのようですので、同氏が
立ち上がるのは自然な流れなのだと思います。ただ、
日米同盟をやり玉にあげられていることは、今まさ
に中国を睨んだ両国の防衛協力が最重要である時だ
けに懸念されるところです。
この事件に関しては、ウォールストリートジャー
ナル紙やヘリテージ財団なども日本の司法に対する
不信感やアルコニス中尉の米国への返還が必要だと
表明しています。
アルコニス中尉の妻や協力者たちは「彼を家に帰
して」という署名を集め、カマラ・ハリス副大統領
と面会し、2月7日にはバイデン大統領にも直接訴
えています。
先述のマイク・リー議員はツイッターなどで岸田
首相への批判を強めており、以前ここでも書いた在
日米軍基地のシビリアンに対する医療問題も引き合
いに出し地位協定の不備を訴えています。
日米の外務当局者は頻繁な協議の場を持っている
と聞きますので、おそらく私が心配するまでもなく
話し合いを進めているのだろうとは思いますが、日
本の司法をくつがえすようなことになれば政権にと
って重大な痛手になるでしょうし、一方で、このま
ま米国内の日本への不信感が広がるようなことにな
れば日米関係、特に今、急がれる安全保障体制構築
に影響を及ぼしかねません。
とにかく、日本としては先延ばしにせずに、早期の
円満解決を願うばかりです。
今週も最後まで読んで頂きありがとうございまし
た!皆様にとって素晴らしい1週間となりますよう
に!
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神奈川県逗子市で昨年7月、米海軍横須賀基地所属のクリーガー・ダニエル米兵(30)=傷害罪で在宅起訴=から無差別に体当たりされて重軽傷を負い、精神的苦痛や後遺症が生じたとして、20~50代の男女4人が計約2100万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が6日、横浜地裁(藤沢孝彦裁判長)であり、米兵側は請求棄却を求めた。顔面骨折などの重傷を負い、9カ月治療した横浜市の女性(59)は意見陳述で「死ぬかと思うほどの恐怖を味わった。仕事帰りに普通に歩いていただけなのに。一生忘れることはできない」と声を詰まらせた。米兵側は出廷しなかった。訴状によると、4人は昨年7月9日夜、逗子海岸から駅方向に歩いていた際、突然背後から次々に突き飛ばされるなどの暴行を受けたとしている。神奈川県警は昨年10月、傷害容疑で米兵を書類送検。米兵は公判前整理手続きが続いており、初公判の期日は決まっていない。
米兵の無差別体当たりで顔面骨折の女性「死ぬかと恐怖」 損賠訴訟で口頭弁論 - 産経ニュース
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#横須賀市観光協会 #日米親善ベース歴史ツアー に参加して #米海軍横須賀基地 に潜入 日本では #米軍基地 内でしか食べられない #Popeyes でランチ 日本初寄港となる #ズムウォルト級ミサイル駆逐艦 もいた #DDG1000 #USSZumwalt #USNAVY #UnitedStatesFleetActivitiesYokosuka (U.S. Naval Base Yokosuka, Japan) https://www.instagram.com/p/CjLE8-jrFzP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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昨日は 日本が アメリカの植民地になった日です ♪
1945年9月2日9時から東京湾横須賀沖のアメリカ海軍の戦艦ミズーリ甲板上で 「降伏文章」に調印した
日本政府代表は 「重光 葵 外相・梅津 美治郎 陸軍参謀総長」でした
これからの若者は
1 アメリカ基地権 2 アメリカ指揮権 3 日米合同委員会 4 最高裁(砂川判決)
を無くして アメリカから独立して欲しい (無理だろうな !)
私のyoutube (4,034本) も見てね ♪
お願いよ ♪
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海上自衛隊のサマーフェスタ行って米軍のフレンドシップデーイベントへ参加🇯🇵🇺🇸すっごく暑かったけど楽しかった!艦船にもヘリにも陸の車にも乗れて良い体験したなぁ〜☺️夕方からは米軍基地に行ってクリスタル・ケイのライブ観たー!ピザを食べたかったけど列が長くて断念😢最後には花火をみて最高だった❤️10年ぶりくらいに日焼けしてヒリヒリしてるけど満足💓#横須賀 #海上自衛隊 #米海軍横須賀基地 #ヨコスカサマーフェスタ #フレンドシップデー (at 海上自衛隊横須賀地方総監部)
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横須賀と言えば、軍港巡り。この日は、空母ドナルドレーガン、陸上自衛隊のヘリコプター🚁まで 😲 米海軍基地、海自の基地が並ぶ港は、イージス艦、潜水艦が揃い踏み。45分の遊覧船の案内人💁♂️さんの軽快なトークも楽しいです❗️ #マップトラベル #神奈川 #横須賀 #横須賀グルメ #横須賀ランチ #横須賀観光 #どぶ板通り #どぶ板食堂perry #どぶ板fuji #どぶ板通り商店街 #米軍基地 #アメリカ #navy #ネイビーバーガー #海軍カレー #よこすか軍港めぐり #yokosuka軍港めぐり #yokosuka #usnavy #ドナルドレーガン #空母 #遊覧船 #軍港クルーズ #軍港めぐり #軍港めぐりクルーズ #軍港ツアー #イージス艦 #drydocks (YOKOSUKA軍港めぐり) https://www.instagram.com/p/B5AcCP3nLNk/?igshid=pstrenqod9ov
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