#淡路島と喰らえ
Explore tagged Tumblr posts
Quote
東京都新宿区に本拠を置く飲食店経営の「株式会社エフ・エフ・アルファ」は、11月27日付で東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請したことが明らかになりました。 2010年に設立の同社は、2023年11月10日付で破産手続の開始決定を受けた人材派遣業の「株式会社プラスアルファ」(東京都渋谷区)と「マックスアルファ株式会社」(東京都立川市)の関係会社で、「淡路島と喰らえ 銀座コリドー店」「島の恵みと喰らえ 匠 三軒茶屋」「島の恵み だしや 渋谷宮益坂店」「薬膳レストラン10ZEN 青山店」「ワーキングホリデー・コネクション 原宿」の屋号で和食やカフェなど直営店を5店舗展開するほか、全国でフランチャイズ店を展開するなど事業を拡大していました。 しかし、積極的な事業拡大に伴い資金需要が旺盛だった一方、新型コロナウイルス感染症の影響により閉店や時短営業を余儀なくされるなど事業環境が悪化しました。また、関係会社の「プラスアルファ」「マックスアルファ」において派遣人員への給与未払いが発生し経営破綻したことで、資金の後ろ盾を失うなど資金繰りが逼迫したため、自力での再建を断念し今回の措置に至ったようです。 負債総額は約18億7900万円の見通しです。
飲食店経営「エフ・エフ・アルファ」が民事再生、負債18億円 国内倒産 - 不景気.com
1 note
·
View note
Text
ゴールウィークも終わり。
楽しいことはすぐ終わる。
高知県四万十市中村にブラブラ
貝塚市水間町 新築 リフォーム坂口建設
2ヶ月先くらいの予定ができると、まだまだ先かと思っていても、ほんまあっという間にやってくる。
そしてそれが楽しいことなら、一瞬で過ぎ去っていく。
。。。
2日間のリフレッシュ!
朝早くて朝起きて家を出る。
淡路島を通過し四国に上陸!
そそくさと徳島県と香川県に別れを告げて、お目当ての四万十市へ。
狙うは本命、初鰹!!
というものの、まずは今年の秋に来る予定の久礼市場の下見がてらに昼食休憩!
どえらい人だわ!
四国には何度となく来ている。
子供が小さい頃は毎年夏になると、四国に来ては四万十川や徳島の海部川で川遊びをして 帰りに阿波踊りを見て帰るのがお盆のルーティーン。
そうすると友達達に、四国って連休にめちゃくちゃ混んでるん違う?
と聞かれる。
確かに時間帯によっては垂水や神戸あたりで混むこともありますが、
四国は穴場!
上陸すれば超スイスイ!
おじいちゃんの軽トラに遭遇しないかぎり(^_^;)
というのも、わたくしの個人的な見解を述べると、
高知県の面積は日本の中でも18位と広いのですが、県民数は45位と70万人にとどかない、堺市の人口よりも少ないんですね。
なので、人口密度が大阪とは全く違う。
空気が新鮮w
大阪府の人口は日本でも3番目に多いのに、面積の狭さワースト1位を香川県といつも争ってますね。
何とか関空などの埋め立て面積が増えたため、からくもブービー賞の46位。
そして人口が一番多い東京はというと、面積の狭さは45位のワースト3位。
以上のデーターからしまして、高知県は渋滞はないのです。
知らんけど。
と言っても観光名所に行くと突然人が溢れてるのも面白い。
それにしても
高知県熱いよ〜!!
最高!!
早速お昼に久礼でカツオの丼頂いて、
夕方中村に到着!
京都を模して作られたという中村は一条通などと街は碁盤の目のようにつくられています。
さっそく街に繰り出すと、繁華街は徒歩で回れる大きさなので観光客にも優しい。
しかしそんな中に330件のお店がひしめき合っていて、一度や二度では回りきれない。
わたくしは知人に紹介してもらったお店「わかまつ」で1軒目。
中村に来たならこれを食べる。
塩たたき!!
ポン酢���違いあっさり塩味でカツオの甘みがよくわかる。
そしてもちろん定番のポン酢のたたき、そして何よりもカツオの切り身の厚さ、
ほんと3センチはあるかなという分厚さ、マジでうましっ!
〆には、カツオとニンニクと大葉をまいた土佐巻はいくらでも食べれる。
また高知県にはカツオによく合う日本酒がたくさんある。
���分お腹の中でカツオ1本できあがるくらい、
なんてことを居酒屋のマスターに言うと、
「にいちゃん、あんまりカツオ食べ過ぎぎると、痛風になるがやき〜、気つけんといかんぜよ〜」
※すいません、エセ高知弁(^_^;)
えっ?痛風なるの??
早く言ってよ〜。
カツオとビール、あかんやつなんや。
痛風は経験ないけど、ハメ外したらあきませんね。
しかしどのお店に入っても、みなさんめちゃくちゃ優しくてね、こころやすく話をしてくれる。
女性の中村弁がまた可愛くてね。
中村ありがとうございました。
もちろん竜馬さんにもご挨拶に!!
「ありがとうございました。」
よし帰りましょうと、頭を上げると
どこからともなく竜馬さんの声が。
「土佐にきたら、あれも食べなかんぜよ!」
あれね、竜馬さんわかりました。
四万十川に吉野川、仁淀川と来れば川の幸。
宇宙エネルギーのウナギもね。
これで休み明けもバリバリ頑張ってお仕事できます。
四国さんのありがとうございました。
また秋に大きくなって帰ってきます。
戻りカズヤだね!!
お疲れ様でした。
五月病に負けるな!
頑張っていきましょ!!
貝塚市 岸和田市 泉佐野市 泉大津市 和泉市 泉南市 阪南市 熊取町 忠岡町 田尻町
天然素材スイス漆喰カルクオウォール
リボス自然塗料取扱店
0 notes
Photo
気軽に海鮮食べたいときに重宝してるお店🌟 この日は刺身盛り合わせに加えて鯛を半身ずつ塩焼きと煮付にしてもらって大満足❤️ #淡路島と喰らえ #銀座 #銀座グルメ #銀座コリドー街 #日本料理 #和食 #海鮮 #海鮮居酒屋 #刺身 #刺身盛り合わせ #鯛 #焼魚 #煮付け #japanesefood #seafood #rawfish #ginza (「淡路島と喰らえ」 銀座コリドー店) https://www.instagram.com/p/B0NF6t1DKh3/?igshid=1ecm0wyehjra1
0 notes
Text
海が迫る / 20201129
魚津の海沿いに引っ越して住んでいる 一階で本屋を経営している ある日大雨で、防波堤が決壊して、水が溢れているのを見る 一階にいたばあちゃんを読んで二階へ逃げるけれど、結局必要なもののために戻る 玄関の靴が水に浸かって浮いている 轟音
今朝見た夢を、起きてすぐにiPhoneのメモに書き込んでいた。
こう出来ることは珍しい。いつもは夢を見ても特段記録する意味を感じることができず、平日だったらアラームを止めてベッドを出て、お湯を沸かしている間にその夢は忘れていくし、休日だったら二度寝してその夢もまた二度と戻ってこない。
海が防波堤を越えて迫ってくるのは、大雨でもなく防波堤の決壊でもなく、それは津波だろうと後になって思ったけれど、夢の中の魚津の海は壊れた防波堤からその海水を道路に溢れさせていた。本屋の奥でお茶を飲みながらて仕事をしていたばあちゃんに大声で呼びかけて二階に連れて行ったけれど、私は結局一階へと戻った。 広い玄関に並べられた色とりどりの靴たちがプカプカと浮いているその映像がひときわ、忘れられずに頭に残っている。
白湯を飲みながら、イーユン・リーの『さすらう者たち』をようやく読み終える。中国の歴史に疎い私にはこの本は少々読み進めるのに難儀なこともあった。けれどここに書かれているのは、「歴史」ではなくて、常に渦中にいる人、市井の人々、その人々の、生活の記録とも言うべき、時には淡々として、時には不当な処刑に抗議し、時には愛する犬の喪失に悲しみ、時には恋をする、市井の人々の毎日だった。完全に文化大革命という歴史とこの物語を切り離すことはできないけれど、歴史は教科書の中に入り込んだ途端に別の生き物になってしまう。そこから市井の人々の生活はなきものにされてしまう。それを語るのが、そこを掬い上げるのが、作家の仕事であるのだろうと思った。フィクションとして語ることによって、私は当時を想像することができる。
それからレトルトのおかゆを食べて、13時から15時まで昼寝した。起きてもまだ空が青く明るかったことに安心した。
コートを羽織り、近所のお菓子屋さんに出かけた。パンプキンタルトとリンツァータルトを買い、紅茶を淹れてゆっくりと食べた。
それから今度は上間陽子氏による『海をあげる』を読み始めた。web連載の時にも読んでいたけれど、こうして本になって、美しい表紙画で、絶対に買って読みたいと思っていた本だった。この本を読むために、私は長らく積み上げていた本の何冊かを読了したのだった。『さすらう者たち』もまた、その一冊だった。
変わらず、声を出している。一人で歌をうたっている。自己満足で、自己愛に溢れた行為だと思う。 中島みゆきの「化粧」をうたった時、ふと、涙が滲んだ。
バカだね バカだね バカだね あたし 愛してほしいと 思ったなんて バカだね バカだね バカのくせに 愛してもらえるつもりでいたなんて
愛してほしいと思ったなんて、愛してもらえるつもりでいたなんて。 私は私の恋のことを考える。誰だって、できるなら愛されたいのではないの、愛してもらえると夢見るものではないの。私は私の恋のことを考える。恋なのかもわからない私の今を考える。だけどこの歌をうたって涙が滲むのは、私にもまた、この未来があり得ることを、わかっているからなのだろう。
これはコロナ禍が、去年のままではいられなくなった、何もかもが同じではなくなった、この圧倒的な変化が、私の気を変にしているだけなのかもしれない、私はただ、会って話せる、それだけの人を求めているに過ぎないのかもしれない。今年に何かを決めるのは、思うのは、その答えは全て一時の気の迷いに過ぎない、結局のところ全て間違っている、その諦念でもありそうであってほしいという思いは、消えない。
さっき、『海をあげる』を読み終えた。
この本を読んでくださる方に、私は私の絶望を託しました。だからあとに残ったのはただの海、どこまでも広がる青い海です。
しばらく膝に本を載せたまま、じっとしていた。また涙が滲んだ。私の津波は夢の中だけのものだった。私の���は防波堤を越えたりしないし土砂が投入されることもないしただ波の荒い、人を喰うことも厭わない日本海の片隅に過ぎない。私の海は私の海でしかなくて、この、差し出された沖縄の海を、私は、どうやって受け取っていいのかわからない。わからずにいる。ただ同じ、海の町で10代を過ごした身というだけ。それでも海が壊れゆくとき(どこの海であろうと)私は私の海を思うだろう。
0 notes
Text
3/1(日)ハブライブ!ラブライフ!岡山 有漢町
わー!!!!!!!!!いいいいい!!!!!!! ハブヒロシ主催の!!!やばいやばい!!ライブ!!またでるぞよ!! SUNSUNFES.とほぼメンバー同じwwww!!というか、これがあったから3/3みんなを淡路に呼んじゃった!!!って話ですねん!! 〈第5回ハブライブ!ラブライフ!&まのび堂1周年祭〉 東京から太鼓を叩き、岡山県高梁へ移り住んだハブヒロシが、様々なミュージシャンを呼び音楽を繰り広げる「ハブライブ!ラブライフ!」の第5回を行います。場所は、「茶やまのび堂」。お茶を追いかけ高梁へ辿り着き、高梁市川上町にオープンした「茶やまのび堂」も、この3月で1周年を迎えます。このおめでたい1周年を、ハブライブ!ラブライフ!で盛り上げます!祭だ!祭だ!! ということで、今回は、東京や淡路島から縁のミュージシャンをどど〜んと5組も贅沢におよびしました。日本中世界中を飛び回る個性豊かな方々。一気に観られるのはなかなかないと思います。 また、3月で協力隊卒業のハブヒロシ、卒業おめでとうライブ!ともなります。 是非、皆さまお誘い合わせの上、お越しください! お待ちしております!! (参加ボタンだけでは、ご予約完了となりません。メールやメッセージにてご連絡下さい。) 【出演アーティスト&タイムスケジュール】 ▶︎11:00〜 坪内敦 (アフリカで人類最古の文化を生きるブッシュマンとの出会いの報告!) ▶︎12:30〜 佐伯真有美 (淡路島の原住民、オニちゃん!fromあふりらんぽ) ▶︎14:00〜 横手アリサ (涙の歌姫のレコ発ライブ!サポートメンバーは青ヶ島の太鼓叩き荒井康太とウッドベース奏者の水谷浩章) ▶︎15:30 チェ・ジェチョル (韓国太鼓チャングの叩き踊りと言祝ぎ!) ▶︎17:00〜 馬喰町バンド (NHKシャキーンで話題沸騰中、ゼロから始める民俗音楽!) ▶︎18:30〜 ハブヒロシ with 有漢ちゃんぷるオーケストラ (幻の長蔵音頭で話題沸騰中、山里パンクバンド!) 【出店】 ・RE:BIRTH (カレー、スイーツ) ・tulenote(コーヒー、とんぺい焼き) ・tiru and patis curry shop(カレー・夕方から出店) ・まのび堂(猪肉丼、けんちん汁、お茶、アルコール) ・川上中学校の生徒さん考案『みそこんにゃくまん』も発売予定! 他 ※内容は、変更になる事もございます。ご了承ください。 【場所】 茶やまのび堂 岡山県高梁市川上町地頭1814 岡山県高梁市川上町に昨年3月��オープンしたお茶屋さん"まのび堂"。土地から生まれた在来種のお茶を発見し、育むお茶屋さん。 【日時】 2020年3月1日(日) open:10:00 start:11:00(〜19:00) 【料金】 前売り料金:2000円 当日料金:2500円 ※高校生以下無料 ※駐車場無料 ※受付後、入場退出は自由です。 (再入場の際は、受付にてチェックします) 【駐車場】 ・川上地域局駐車場 ・ペルソナ横 職員駐車場 【予約・お問い合わせ】 茶やまのび堂 メールアドレス:manobidou @gmail.com 電話:080 3896 6515 イベントページ:https://www.facebook.com/events/s/第5回ハフライフラフライフまのひ堂一周年祭/2520087121605614/
0 notes
Photo
魚の御膳 (「淡路島と喰らえ」新宿西口店) https://www.instagram.com/p/B6cKnuWATVu/?igshid=frgau95gviqn
0 notes
Quote
豊臣秀次の最期 豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。 秀次は何も言わず、袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」そう、涙ぐんで尋ねた。「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、どうしてその御命令を承知するでしょうか?」木喰上人はそう頼もしく答えた。 秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。 3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、これを知らされ戻り、3人と対面した。福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」福原が畏まって申し上げた「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに見せてやろう。」 そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。秀次は刀を鞘に収めると、「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで多く命を失うことになるとの懸念か��、今まで生きていたのだ。今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」 一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、3人の上使に対して抗議をした「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は止まなかった。ここで福島正則が進み出て「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」 そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。彼は付き従った人々を召して、「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」 そう涙を流した。そして3人の小姓たちに「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」 そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、秀次が手にかけて討った。 この時19歳。次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。 彼はこの時17歳。日本に隠れ��き美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。 誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」しかし「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。 この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。次に秀次は篠部淡路守を召して「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」淡路は畏まり、大いに悦んだ。「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、「ならば、腰の物を」と申し付けた。 篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。 哀れと言うにも余りあるではないか。そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。 木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。(石田軍記)
6 notes
·
View notes
Text
慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。 小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では最年長であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九二五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。 「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、彼は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。 しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説を書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。 これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の��度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。 小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。 小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。 先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者のコンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。 ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった。そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨ���トとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。 コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
集合���間の八時半がすぎたのに、係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を完了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。 三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。 その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。 これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。 それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「宝石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は、おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。 一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。 この小説は、次のように始まる。
妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。 ーーこら。 と怒鳴って猫を追つ払うことにした。 大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな感��であったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者から読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
日記には「黒と白の猫」を書き終わって、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。 突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。 それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。 「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。 自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係とは限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言える。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。 『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでいい江藤淳『成熟と��失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。 しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問題を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、最後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。 それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。 たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。 二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」 眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」 と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」 と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」 俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」 俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしいのに、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。 小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆっくりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に造り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。 小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。 だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
大寺さんは吃驚した。 例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。 ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。 ーーほんと、図々しいわね。 この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。��かし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さん」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然」としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対照的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。 「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。 その話を大寺さんはAから聞いた。 ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして…… ーーうん。 大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。 「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点に��んしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。 だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。 「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、 ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります? と訊いた。 ーーあれだ。 と大寺さんが教えてやると、 ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。 と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
最後の「吃驚」に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し��それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
6 notes
·
View notes
Link
0 notes
Photo
ゴールデンウィークに開催してる、JAPAN FOOD PARK in 日比谷公園で、、、 淡路島と喰らえの淡路牛のステーキ~淡路産新玉ねぎのネギ塩だれ🙂肉ダイニング 鉄重のバーニャガーリックハンバーグ🙂🙂和牛ホルモンやら中津の唐揚げやら肉巻ききりたんぽやら淡路島カレーやら😂😂😂 当たり前だけどお腹いっぱい🐙でもラーメン食べたかった🙌 . . . JAPAN FOOD PARK in 日比谷公園 2018年5月2日(水)~5月6日(日) 東京・日比谷公園 11:00~22:00 ※初日は16:00から 最終日は20:00終了 . . . #日比谷公園 #hibiya #日比谷ミッドタウン #肉 #和牛 #焼肉 #ハラミ #カレー #curry #ハンバーグ #唐揚げ #きりたんぽ #ゴールデンウイーク #おでかけ #飯テロ #ファインダー越しの私の世界 #休日 #holiday #tokyo #淡路島と喰らえ #比内や #鉄重 #元祖もつ鍋博多屋 #中津唐揚げ (日比谷公園)
#ハンバーグ#日比谷ミッドタウン#カレー#休日#鉄重#きりたんぽ#tokyo#唐揚げ#飯テロ#ゴールデンウイーク#日比谷公園#中津唐揚げ#ハラミ#hibiya#おでかけ#ファインダー越しの私の世界#和牛#holiday#比内や#焼肉#淡路島と喰らえ#元祖もつ鍋博多屋#肉#curry
0 notes
Photo
ランチィ~♪◝(●'꒩`●)◜♪ やっぱココが1番旨ぃわ❤️ ・ #新宿ランチ #cyunleyランチ #外食cyunley #お昼ごはん #会員カードで100円OFF #ねもいねもいねもい #cyunley なう(2017/11/06 12:23:50) (「淡路島と喰らえ」新宿西口店)
0 notes
Text
最近地震がまた よくおきてるような?
耐震補強補助金制度??
貝塚市木積ユニットバス設置工事
貝塚市水間 新築 リフォーム 坂口建設
我が国での 地震の発生回数は 大小いれると、年間1000件以上!
世界でも 第4位と有数の地震大国!
学生の頃 習ったフォッサマグナや中央構造線なんてものも 大昔の地震の爪痕で、それだけ���レートってのが 複雑に混じりあってる上にある国なんですね。
中央構造線の上には、豊川稲荷に伊勢神宮、高野山に 淡路島って 言い出すと話がそれる。
そんな 話ではないですね。
今日は地震の話!
以前から言ってますが、私のテリトリー の貝塚山手は 高齢化で 年配の方だけで住まわれてるお宅が急増!
そうなると 地震が心配になるんですね。
勿論 関西大震災のトラウマもあるのでしょう。
リフォームなんかでも よく最初にお伺いすると、必ず耐震の話になる。
先日も あるお客さんから 耐震の相談をいただき、お宅にお伺いしてきました。
以前より 、全国の市町村で 耐震補強の補助金がでています。
大阪府下でも 次の通りです
貝塚市でも 診断士の方に見てもらうのに 5万円かかるのですが、4,5万円の補助金がでたり。
その診断に対する改修するための 耐震設計をしてもらいます、その設計料に10万円。
そして 耐震補強工事にたいして、70万円。
とこれだけを見ると結構な金額だと思いますよね。
そうなると ついつい魚心に水心 。
(わかるわかる)
しかし 、今回のお客さんもそうなのですが、
築昭和30年の18坪の平屋の 耐震補強工事の見積りが
約700万円 !!(⊃ Д)⊃≡゚ ゚
そりゃ目でますよね。
そしていつもの セリフ!
「もう、ワシらいつ死ぬかわからんし、死んだら 後は誰も住めんへんからな~」
わかりますわかります(^_^;)
そして 診断結果に添付された写真に床下の写真を見て、カビだらけで このまま���いてたら腐って怖いというので、
畳をめくって 床下に入ってみると、多少のカビはみられるが
土間は乾燥してカッチカチ!
全くもって 材木も腐りもなく 白蟻のいてる気配もなく、風がソヨソヨ流れてる。
「おっちゃん、全然問題なし!!
大工はじめて何千とは言いませんが、かなりの家の床下を見てきました、それで言うと何の心配もありません」
屋根裏も 覗いて見たけど、普通に良き状態ですね。
なのに屋根も危ないから瓦の葺き替えまですると
1000万円越えのお見積!
耐震補強って、建て替えるのか?(^_^;)
確かに地震は怖い!
予測できないし、一瞬の出来事ですからね。
それにしても
地震より この見積りが怖い!
うちの世話になってる設計士さんと 話したことあります、
基本 診断士というのは 建築士の免許をもっている方が、講習を受けてその称号がもらえます。
ちなみにうちの設計士さんも 診断士もってます。
しかし なかなか皆さん やらないんです診断士を。
診断するのに それなりの設備も必要で、国からの補助金と言うことで かなりの書類やデータが手間を取るみたい(^_^;)
ということもあり、建築士のかたも なかなか手を出さないんです。
なので、もし依頼があると 委託になります。
それだけ特殊作業になるんですね、
するとわかりますよね、言葉選びますが、 コストが一気に上昇しますよね。
例えば 私がリフォームを依頼されて 壁をめくります、すると柱が腐ってますよね、
すると
「おばちゃん 柱の根元ちょっと腐ってるわ、そやからこれ交換して壁に合板貼って補強しとくわな。柱代と合板代とちょっと交換の手間だけみてよ」
となるのが、
「お客さん 柱が腐ってますよ、これは大変です、耐震工事をしておきましょう!( ロ_ロ)\」
(ちょっと悪意が感じられますね、すいません。)
すると
リフォーム代プラス 耐震補強工事!
となるんです、わかりますよね。
言葉選びます、コストが一気に上がります。
(゜O゜;
雨漏り診断に耐震診断に太陽光発電と、全て商売です。
補助金なんて お国は簡単にくれないです。
もらうためには その対価に見合うだけの 時間と知識とノウハウが必要なんです。
補助ですよ、先ほどの魚心に水心では無いですが全額負担なんて言ってませんからね。
申し訳ないですが、坂口建設には それに対応するだけの 何かがありません( ;∀;)
しかし、それをされてる会社は 情報を集め、診断、設計をし 補助金を申請するだけの書類を作るノウハウをもって ��工してお施主さんの不安を解消するというのは、素晴らしいと思います。
ただ、1つ疑問は、それで補強した次の日地震が来て 家が倒れたら、保証は無いですよね。(^_^;)
あくまでも 補強工事なのですから。
何が必要で何が最善か、じっくり考える必要がありますね。
もし地震が心配の方は お気軽にご相談くださいませ、私の持てる知識で 全力 アドバイスさせたいだたきます。
知人が 宮城の石巻と福島にいましてね、先月からの地震も気持ち悪いですよね、連絡したら大丈夫って言ってましたが。
若い頃 ほんと何にも思わなかったんですが、
日本って結構 地震に台風となかなかの災害大国なんですよね。
歳重ねると、やはり心配することが増えてきましてね。
高齢化で年配者が多いと言う日本は、それだけ様々な心配事が 増大してるってことなんですよね。
オカルトっぽく言うと
そんな心配事が集まってコロナなんかも 生んだんですかね?
うちの裏も そういえば、崖っぷちでしたわ(^_^;)
誰か耐震補強お願いします( ;∀;)
うっ、心配事数えてたら お腹減ってきたよ!
これ食べたい!
あかん 寝ろ!
また 明日食ぺよーっと!
おやすみなさい。
貝塚市 岸和田市 熊取町 泉佐野市 泉大津市 和泉市 泉南市 阪南市
天然素材スイス漆喰 カルクウォール
リボス自然健康塗料自然健康塗料取扱店
0 notes
Text
机の上からはじまる私的なプロジェクト/佐藤純也さんの制作
「 絵に向かって行き 隙間をすり抜けて見える絵の外側から、何かが立ち上がるのを見届けたいと思っています。」
( 佐藤純也/以下 s.j 「Fiction? - 絵画がひらく世界」 2002 図録より )
佐藤さんのアトリエを訪れてから2ヶ月が過ぎて、そのときのことを思い出しながら、いくつか佐藤さんへメールで質問をしながら、そして結局は新潟へ向かうまでに間に合わず、今は佐渡汽船の中で文を書いています。外に見える海と空と自分との間に窓ガラス1枚が境としてある当たり前の不思議の横で。
そういえば…2002年に一緒に参加したグループ展「Fiction?」(東京都現代美術館)のカタログを家の本棚から引っ張り出してきて、佐藤さんの仕事・制作を再び見直したりもしました。一度のインタビューだけでは佐藤さんの仕事は書ききれない…なんて思いながら、��こしずつカタログと昨年statmentsで観た作品と、アトリエで聞いた話やメモなどを思い出したり、メールの回答を読み直したりしていると…なるほど、なんとなくわかってきて感覚的には納得してはじめているところです。そしてやっぱり文字で説明しきれない一抹の不安もありながら。
佐藤さんは同い年。グループ展を担当した当時は美術館の学芸員だった平野千枝子さんと一緒にアトリエへおじゃますると、ちょっとした同窓会みたい。それは佐藤さんの人を和ませる雰囲気もあったかもしれません。snsのアイコンが何よりいいのだけれど、去年15年ぶりにギャラリーで再会したときは「和やかないいおじ……お兄さんになったなぁ」でした。作品や制作過程の話をうかがいながら、単純に好きな作家をあげてもらうとロバート・ラウシェンバーグがすぐ出てきて、その理由はほほえんでいるポートレートがすごくよかったから。「苦痛の果てじゃない制作」(s.j)。自分達と同時代に生きていた作家で美術を更新していく存在が苦痛の果てにいるわけではない、その顔。アーティストや芸術家というと、様々な問題を抱えて苦労しながら制作をつづける、早く亡くなる、そんな人が多いからかもしれない。長く続けてくると、そう亡くなっていった友人知人が身近にいたからかもしれない。もちろん苦痛やネガティブと捉えられること、社会の様々なひずみ、そこから Art が生まれたり受け皿となることは大切だと思う。けれども佐藤さんが求めたラウシェンバーグの在り方、そういう方向もたくさんあっていいはず。その想いにはどこか安堵した。
微笑んでいないけれど若い頃のラウシェンバーグ
話を遡って、なぜこのsadogaSHIMAのサイトで続けて作家のインタビューをしているかというと、秋冬は佐渡へ渡る機会がなかったのと、身近な世代の作家の話をきくことで私が数年前から患ってきたアート蜃気楼(と免疫疾患の持病。どちらも治りつつあるのですが)のリハビリみたいな作業として、まずは自分のためにしてきました。あと、一緒に始めてくれた梶井さんや上條さんが忙しすぎて書けなかったのもあり。自分のために話を聞いてみたい作家の言葉。それが現代アートの環境だけではなく、佐渡や他の地で出会った人、私が子育て中に出会った人、現代アートに興味がない方々や他のジャンルで活動されている方へ、すこしでもわかりやすく伝えられるといいなぁと。専門的に語るのは誰か他の方がきちんと書いてくれたら良いわけで、私の個人的な感想や主観になるのは仕方がないとして、風通しをよくしたい願いもあって続けてきました。
佐藤さんの作品は2002年のグループ展以降はなかなか観るタイミングがなく、昨年のstatmentsでのグループショウで久しぶりに拝見。当時の印象とだいぶ異なる仕事(制作)になっていて驚いて、どんな変遷を経てこの制作にたどり着いたのか、これまでの経過の話を聞いてみたくなって今回のアトリエ訪問につながった次第です。
それにしても10年以上の時間を経ているアトリエにはたくさんの作品がありました。去年の展示で気になったのはキャンバスを日焼けさせた絵でした。
外的な要因(s.j)
たくさん見せてもらった作品は、ある時期を境に絵のつくりを「自分」ではなく「外」に決めてもらう試みに変わってきているようでした。それは先に紹介した大槻さんの「震災のために制作していない」にもつながるのかもしれませんが、やはりあの出来事は人々の暮らしや意識、作家の制作まで大なり小なり影響を及ぼしているのだとこのインタビューを続けてきて感じます。それと、絵を描く人が概ね通ることなのかもしれません。前回紹介した木下さんもそうでした。一人の人間の主観でコントロールするイメージを絵にするのではない、別の絵の在り方を試みること。私が気になった日焼けの作品もその一環の試みの中にある。佐藤さんから返ってきた言葉。
日焼け
ひと夏の間、窓際に絵をかける。海に出て日焼けをして夏の思い出をつくるように、絵にひと夏の日差しを浴びさせる。水着のシルエットの形にキャンバスの一部を隠して、オイル(ペインティング)を塗って壁にかける。夏の終わりに壁から外してそこで制作の時間は終了。夏をすぎて日焼けの跡も薄く跡を消しかけた頃、過ごした時間はどこかにしまわれていた、そんな遠い記憶も思い返したり。周りの誰も私が海に行ったなんてことも忘れても、記憶の中に過ぎた夏の経験は私に残っている。 絵に使われる言葉で「絵肌」ってありますよね。そんなことも頭によぎったり。(s.j)
描くことを自分の気持ちや好み、イメージからではなく「外」「外部」「環境」に決めてもらう試みの作品は日焼け以外にもたくさんありました。水からお湯に沸騰するまで、沸騰したら絵を描くのをやめるシリーズや、ジャガイモを並べて数日間観察し、芽が出たら描くのをやめるシリーズ。絵の具をチューブからキャンバス上に出し切ったら描き終えるシリーズに、日が暮れる時間を一定観察して一番星がでた瞬間を描くシリーズ。これでもか!というぐらい、いつも何気なくある自然現象に身ではなく絵を委ねる。しかもひとつずつ検証的に何枚も。目前にあるたくさんの「外」に影響をうけた絵を見ながら、なんだかクラクラしてくるというか、絵ってなんだ?絵ができるとか、絵を描くことを改めて考え直す。イメージとは何?とも考え直す…なのかな。
十数年前のグループ展のカタログをまた見直す。あのときは感じ取れなかった佐藤さんの試み。絵の中だけで完結するのではなく、絵がキャンバスの上にあり、壁にかけられ、すこし離れて観る自分と身体の間…そのとりまく環境。自分と作品の間にある空気や距離、立っている位置や聞こえている音を意識しだすきっかけとしてキャンバスがあって、イメージがあって、またイメージの外を想像して…ということへ還っていくような。。。ぐるぐるめぐる。
佐渡島に来てから二日目の夜になりました。東京へ戻るまでに更新目標。話は飛んで、今日は佐渡島の南は小佐渡にある岩首集落の棚田を再訪しました。その棚田の保存に生を投じている大石さんという「じじい」さんにいろんな話をうかがったり里山を案内してもらいながら、どこかで佐藤さんの制作と照らし合わせたりもしていました。棚田の風景はとても綺麗です。そしてこのきれいな風景、目前にひろがる景色のみえない裏側には、里山の環境をなんとかまもってきた方々の何代にもつづく長い時間と労力と、社会、歴史や自然の変遷との対峙があります。風景とそれを見ている自分と、すぐ目にはみえてこない想像力を働かせないと分からないことごと。
棚田は斜面を活かして田んぼがつくられ、その風景をつくっています。斜面の上にはダムなどなく、田に水を張るには周りにある里山…落葉広葉樹林の土の下に貯えられる水が不可欠で、そのバランスを維持して成り立つ農業。その里山を守るには何百年ほど前からの時代の変化も影響していて、社会の様々な(ときに理不尽な)要請と折り合いをつけたり���選択を余儀なくされたりしてきた過程があります。いま棚田の上からみえるひとつの風景=「絵」までの間に、いまを生きている私の輪郭と、私の輪郭の外にある環境の制約の積み重なりのようなもの、それを感じとることと同じ感覚を佐藤さんの絵の試みを想ったときにふと体得できた気がします。
マクロ・ミクロ
全体と部分。0と1。樹木と山。個人と社会。惑星と宇宙。
間をたゆたうことで認識を揺れ動かす。 見えなさを抱える。 自分の背中を自分自身では見返すことができないこと。常に全てが見通せているような不遜さより、もしかしたら見過ごしていることがあると考えることは、より多くのことにたどり気づけるような手段な気がします。インターネットやデジタルな環境がもたらしたことに対して考えるすべとして。(s.j)
アトリエで見せてもらった中に、お金をモチーフにした制作がありました。ある時期、1日の終わりにお財布に残った小銭を裏キャンバスにトレース(転写)する。これもイメージを描くのではなく、必然的にその日のこった物としての「お金」が絵の状態を決めていく。
タイトル「cash flow」
貨幣としての形は同じだけれども細胞の新陳代謝のように、日々違うものが入り、流れ出ていく。
キャンバスの裏側に描かれているのは財布の中の表から見えない場所にあるというイメージです。 貨幣の本質はある種の概念であり、トレースされた輪郭に形を残した姿も概念的なイメージではないでしょうか。(s.j)
佐藤さんの試みてきた絵へのアプローチを見ていると、循環し流れつづける事象と、その間に媒介物のようにいる「私」が立ち現れてくる。この海や川をモチーフにした制作もそう。
海、川の循環。水分としては同じですけど場所が変わることで変化してゆく。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。鴨長明「方丈記」 鴨長明の生きた時代は戦乱と自然の厄災に見舞われた時でした。日常的に飛び込んでくるテロのニュース、頻繁に起こる自然災害、今起こっていることが遠く離れた時代ともシンクロしている。そんなことも頭の隅にあります。 (s.j)
物事がゆるやかに、ときに急激に変化すること。当たり前だと捉えていたことが当たり前でなくなったとき、他人の気持ちがわからなくなったとき。人は動揺したりショックを受けて、なかなか修復できずに時間はもどかしく過ぎていく。佐藤さんはその変化の隙間にある瞬間瞬間を、ショックをうけないようなことでも「なんで?」と問いを発して絵にしようとしている。その細やかな検証をすることで「分かり合えなさ」(s.j)が分かり合えるかもしれない可能性を求めて。絵を描くことは想い描くこと。見えていることから見えていないことまでを想像すること。机の上からはじまる一個人の試みは決して空論ではなく、分かり合えるかもしれないことを諦めない最初の一歩なのではないか。試みを続けていけば、切ない一瞬がくるかもしれないし、嬉しさを超える一瞬がくるのかもしれない。
小学生の頃に考古学者になりたいなと思っていました。具体的にどうその職業になるかとか、そんなことに及ぶまででなく、空を見上げて飛ぶ鳥に「あんな風に空を飛んでみたい」というぐらいの気持ちでしょうか。きっかけはハインリヒ・シュリーマンの偉人伝にいたく心動かされたことだったと覚えています。シュリーマンが子どもの頃に読んだホメロスの『イーリアス』の中にあるトロイア(トロイの木馬で有名な)の話を信じ、のちに発掘してその存在を確かめたというお話。気がついたら考古学から美術の道に歩みを変えていたわけですが、考古学者が昔に向かって時間を掘り進めていき、美術のこれからを作るということは未来に向かって掘り進めていくような作業かもしれません。ベクトルは違えど共にまだ今ここに見えていないものを見つけようとすることでは同じような気もします。(s.j)
佐渡島からの帰りのフェリー。あと少し。アトリエで佐藤さんの最近の制作は?とたずねると、出て来たのは木箱。フタを開けるとSNSアカウントの動物アイコンをモチーフに描かれた、たくさんの小さな立方体。積み木のようにコンパクトに並んでいる。
人間が作ってきた膨大なモノたちは地表の隅々までに点在し、それは幾多の出来事や時間の経過があったとしても「どうしようもなく世の中に残っていく」のではないだろうか。そう考えた時にまた「イメージを取り戻す」ことが出来ると思うようになりました。いま進行しているシリーズの一つはこの時代のポートレートを描きたいというのがまずあって、そこから展開しています。人が持つ人間性は人ではないもの「動物」に投影されることはままあり。また、動物化する人間という視点でもあります。互いの言葉を聞き合えない居心地の悪さが目につくこのご時世ということも含めて。( s.j )
「分かり合えなさ」 これまでインタビューと称して話をしてきて、いろんな方々から何度か聞いたことがある。分かり合えない。自分以外の人と。好きな人と。どうしても苦手な人と。親と。子どもと。近所の人と。遠くの人と。好みが違う人と。。。分かり合えなくていいじゃない。わかってくれる人、同じような感覚の人たち同士とうまくやっていけば。そう思う。そう思うけれど。それでよければ世界は穏やかなはずなのに。なんでこんなにも不安で、争って、未来がみえなくなるような状況になっているのだろうか。佐藤さんが描いたSNSの動物アカウントが寄せ集められてパカっと蓋を閉められ、一つの箱のなかに収納される。動物はそれぞれの(人によってつくられた)イメージを身にまとい、ほかの動物と群れをなすことはない。絵本にでてくる動物のように、とりやサル、たぬきにキツネ、ゾウやきりんが話したり遊んだりすることもない。現実ではほとんど弱肉強食の世界で、食うか、喰われるか。それは自然なことではあるけれど、動物のように住み分けされたSNSのアカウントは人間で、本来なら分かり合えるはず、という願いがあるのか違うのか。つぶやきは断面。断片。それだけで判断するのは難しい。SNSの使い方もそれぞれに異なる。佐藤さんが蓋を閉めた木箱へ、これからも淡々と採集されていくアカウントの動物イメージは仲良く箱に収まれるのか。そんなことを想う。
新潟から東京に戻ってきた。バスに乗るまで新潟で出会った人たちと喋っていたのが嘘のような、早朝の人もまばらな新宿駅。佐渡や新潟で再会した人、初めて会った人たちとの会話を昨日見た夢のように思い出す。それは旅先で日常ではないから、いつもは距離があるから、あんなふうに短い時間でもいろいろ話し合えたりするのかもしれない。もしかしたら最初で最後かもしれない切なさもあるから話せるのかもしれない。でも、日常だって本当はそうなんじゃないの。毎日がずっと続いても、日々、何かは少しずつ変化している。ジャガイモの芽がのびたり、昼が夜に変わったり、水から湯気へ変わったりするように、一人の身体のなかでも血管や筋肉が衰えたり、病の芽が大きくなったりしている。昨日会った人が明日倒れ���かもしれない。それは自分でもあるかもしれない。
調和ということを人は想定するけれど、現実は不均衡で、非対称的なバランスに世界は満ち溢れている。調和を希求しつつ、そこにはたどり着くことの難しさ、その逡巡や葛藤のはざまに、人間的な営みがあるように思えます。(s.j)
この数年、自分の住む場所以外の地へ少しずつ通った。といっても数えるほどしか訪れていないけれど、それでも余所者として入っていくと見えてくることもある。その地に住まう方々の日常と関係性。そこへ余所者は無責任に何も言えることはないし何もできない。私はただ絵描きとして、心に焼き付いた風景は絵として残ってほしいと願う。いいなと思う言葉やまなざしをもつ人にはまた会いに行きたい。時々だから成り立つもので都合がいいかもしれないけれど、可能性を開いておくには時にちゃらんぽらんのほうがいい気もする。かえって自分の日常でも同じだけれど、すべての人とうまくやっていくのは難しい。人の感情、記憶、考え方…絡み合って毎日は続いていく。思い通りにはならない他人の感情。自分の感情も。事実はどちらにも正しく折り合わない。そのまま年月が過ぎたり、大人数になると手はつけがたい。話合えない。仕方がないですむこともあれば争いにもなる。人間的な営み。調和できなさ。良くも悪くも動く感情。
キャンバスを日光で日焼けさせ、物理的な事実を定着させる。裏キャンバスへその日の財布に残った事実=小銭をトレースして刻印する。湯気が沸騰する瞬間、ジャガイモの芽がでる瞬間=事実で絵を描き終える………感情ではなくひたすらに事象を観察して絵を委ねたのは、目に見えない人々の感情に左右されるのではなく、できるだけ客観的な出来事を捉えることで未来を豊かにするための手がかりを知るためだったのかもしれない。絵を描く人はたぶん間にいる。絵を描くことは間にいるのだと思う。イメージと絵の間。想像と現実、過去と未来の間。後ろと前、空間と時間、次元の間。分かり合えなさと、分かり合えたらいいのに、の間。
東京に戻ってきてバタバタと休みなしの連日。忙しくさせられている。そこか��抜け出せないから分かりあう機会も減るよね、なんて思いながら最後に佐藤さんのハチドリの制作を。ネジはすこしずつ緩むけど「いつまでもルーキー」と笑っていたさとじゅんさん。そう、悲観していたら細胞や生は縮んでしまう。ラウシェンバーグのように美術を更新しつづけてほしい。
生まれる前、死後。その間にある生としての時間。(s.j)
ハチドリの制作
キャンバスを袋のように形をつくっている作品です。キャンバスにはハチドリのシルエットがきり抜かれています。切り取られた形の奥にはキャンバスの裏側、絵の裏が見えます。ちなみにハチドリは日本にはいなくて、南米などに生息している、名前の通りハチのように小さい鳥のことです。 ペイントされている色は日の沈む手前の空の色で、夕刻から夜に移り変わる瞬間のような時間を色に置き換えています。 なんでハチドリなのか?由来としてはある映画をきっかけとしてその形を選んでいます。それはアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「21グラム」という映画で、その映画についての詳細は見てもらうとしまして(笑)。そのタイトルの21グラムの由来となっているのが人間が死んだときに21グラムの体重が軽くなる。それでその軽くなった21グラムが人間の魂の質量なんだという。 私たちの前にある生。私たちの後に続く生。今ここにある私たちの生きる時間は暮れ行く前の間に刻々と色をかえる夕暮れの時間にも似ているのではないでしょうか。(s.j)
佐藤純也
1977年宮城県生まれ 。2000年多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。主な展覧会に 2002「MOTアニュアルFiction?―絵画が開く世界」(東京都現代美術館/東京・2002)、「ten」(青山|目黒/東京・2010)、「VOCA展 2011」(上野の森美術館/東京・2011)、2015 「The Wanderer」( Museum of Contemporary Art/ブカレスト、ルーマニア・2014)、「Artist Recommendation vol.2 路傍の絵画」(アートラボはしもと/神奈川・2015)、「 After the summertime」 (statements/東京・2016)、「Spring Fever」(駒込倉庫/東京・2017)
0 notes
Text
往きは6時間、帰りは30分、まぁ久しぶりに友とゆっくりと会話が出来たから良かったと思う!
2017年5月20日(土)21日(日)今日は高校1年生からの親友で、鉄鋼商社を経営する日世通商株式会社の平野が、高知県室戸市で経営する海洋深層水を使った温浴施設の指定管理業者を引く受けたそうで、明日がリニュアルオープン式典なので来て欲しいと、朝の6時に迎えに来ました。平野は、いつの間にかベンツを購入している! (クソッ!ライバル心が燃える!)
仕事で知り合った友人を神戸で拾い、明石大橋を渡り、淡路南PAで休憩がてら朝食をとりました。淡路玉ねぎ天ぷらうどんを注文すると、何と弊社で取り扱っている「わらじ天」がのっている!天ぷらではなく魚のすり身揚げの方で、かなりのボリュームです。
そのあと徳島県を通り、宍喰温泉道の駅で休憩、そして約6時間かけて室戸市内へ。日本で初めて採掘した室戸海洋深層水の採水場へ到着しました。驚いたのは、いつの間にか化粧品から調味料、アイスクリーム等、色んな製品が開発されていました。元々平野の紹介で、海洋深層水マリンゴールドと言うミネラルウォーターを販売して欲しいと相談を受け、その時は、業務提携している酒類問屋さんを紹介し、わんまいるのカタログにも取り扱い、当時凄く販売しました。その後は各地域で次々に海洋深層水が採水され、室戸だけでも赤穂化成などの大手が参入し、競争激化で海洋水ブームが終わりましたが、最近では12年も持つと言うことから、保存水や化粧品、牡蠣を洗う水や、魚の臭みを取るのにいけすで使用される等、幅広く使われ出しています。
健康にも良いというので、県の取り組みで「シレスト室戸」と名付けられる温浴施設が建設され、地元の高齢者の方々に親しまれています。 僕も試しに入浴しました。海洋深層水の入浴は初めてです。遊泳禁止なので、水中ウォーキングや水流のマツサージを楽しみ、足の張りもすっかり取れました!スゲェ気持ち良い!近ければ、毎日でも通いたいほどです。殺菌作用があるので、体にもお肌にも凄く良いと思います。本格的なサウナもあり、3時間も入浴しました。平野は心配なのか3回も見に来ました。
平野は、食事にもこだわり地元食材を使った料理を提供したいと、「健康とグルメとビューティフル」をコンセプトに、指定管理業者に名乗りを上げました。調理指導に元高知新阪急ホテル総料理長岡崎シェフを迎え、前夜祭のレセプションをその夜に行いました。さすが新阪急ホテル料理長だけあって美味しい!サメのしゃぶしゃぶに、とこぶしのスライスしたマリネは珍味!
翌日の式典には、元防衛大臣中谷氏や参議委員や県庁や市庁産業振興課職員さんなど、大勢の来賓が参加しました。高知県では知らない人がいない歌手のう~みさんも応援に駆けつけ歌を披露!地元ではお祝いにはかかせられない餅まきも行われ、大勢の地元の人が参加!縁起が良いという事なので、行政の人も必死に餅を拾っていました!これにはびっくり!
帰りは高知空港まで1時間30分を送迎していただきました。空港で鰹のたたきを購入し、宅急便で千葉の娘に送り、そのまま伊丹空港へ。プロペラ機だと約30分で到着しました!・・・往きと帰りと大違い!・・・
0 notes
Text
友達100人できるかな〜?♫
こんにちは、わーちゃんです。
3月からB&C Gakubuchiの現場作業を初めて1ヶ月が経過し、多くの仲間にお手伝いしてもらいながら少しずつ前進しております!
こんなたくさんのGakubuchi仲間ができましたーーー\(^o^)/
現場入り前から、地図作りから始まりました!
倉敷『バルビゾン』から佐賀からありがとうーーー! アクセスはGakubuchiが続く限りゲストさんを助けてくれます\(^o^)/
瀬戸内海・佐島『汐見の家』からありがとうーーー! 素敵な地図はこれから何万人の人へ伝えていきますーーー\(^o^)/
和水町『スナフキンズ』、徳島、広島、黒川、長野からありがとうーーー! みんな、メダルGETーーー\(^o^)/
黒川温泉、小値賀島からありがとうーーー! 地味な作業でもとっても楽しくできた\(^o^)/
広島から(すでに師匠レベル!)、 いつもご指導ありがとうございますーーー!
東京、高千穂からありがとうーーー! 床の平行取るの大変だけど、本当賑やか楽しかった\(^o^)/
熊本からありがとうーーー! 次の便までに時間があれば、また待っているね\(^o^)/
淡路島、徳島、奈良、秋田、広島からありがとうーーー! お花見楽しかった♫ そして、近くの豚足弁当が最高に美味しかったねーーー\(^o^)/
福岡、佐賀、兵庫、広島、倉敷、そして! 岐阜『岐てん』からおすぎさん講師ありがとうございますーーー! シャワーブースができた時は感動的でした\(^o^)/
東京、広島、岡山、屋久島『屋久島ユース、屋久島サウスビレッジ』からありがとうーーー!初めてのパテレンジャー\(^o^)/
関西の2人がいる時は賑やかだったーーー\(^o^)/
能古島からありがとうございますーーー! (私、半目ーーー笑。) 差し入れも美味しかったーーー\(^o^)/
倉敷『有隣庵』からありがとうーーー! 福岡(地元)のご当地のカップ麺やらパンやら食べたいと思った\(^o^)/
大分・竹田から、隣が実家!?からありがとうーーー! 奇跡的に!Gakubuchiのお隣さんが実家の義息子さん\(^o^)/ めっちゃ、奇跡に感動!これから、イベントも楽しみだな〜
▼▼▼ ゴールデン漆喰ウィーク ▼▼▼ \真剣にお手伝い、募集中!/
B&C Gakubuchiのお手伝いも儚くも(笑)あと1ヶ月半しかありません! お手伝いを福岡満喫ツアーに!DIYを学ぶGOODチャーーーンス! 愛を込めてアテンドいたします♡ オープン準備お手伝い(1日~OK!)
『阿蘇び心太宰府店』に宿泊の場合
*事前に希望日程をお知らせください! *”阿蘇び心太宰府店”に宿泊の方は太宰府店から往復送迎(無料) *夜は縁会あり!詳細は→コチラ お手伝い頂ける方⇒ホームページのメール Facebookメッセージよりお問い合わせ下さい!
0 notes
Text
11月12月の各地句会報
平成28年11月12月の特選句
坊城俊樹選
栗林圭魚選 栗林眞知子選 岡田順子選
平成28年11月24日
みどりや花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
冬支度らし杣人の筵干し 雪子
豪邸の裏に広がる枯野かな 輝一
そぼ降れるおでん屋台に夜が来る 雪子
紫に日野山霽れて神無月 松陰
裸木になるまで風に身を任せ 世詩明
冬虹や大佐渡小佐渡ど真中 洋子
湯豆腐や床に風神雷神図 越堂
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月1日
県民会館花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
散ることを忘れし赤き枯葉かな 茂子
灯台に灯の入り鰤の海荒るる 龍聲
切り貼りも見苦しからず煤払ひ 英子
裸木の網目の中の観世音 天空
洋菓子と和菓子が卓に納め句座 清女
きまぐれな北国しぐれきりもなや 龍聲
五六粒時雨落して去りし雲 雪
冬ざれや瓦は石の天守閣 千代子
つんつんと背中押さるる師走かな 和子
時雨雲黒く動かぬ城下町 清女
祖も馴染む古楼点らず冬怒濤 英子
荒縄で括られ雨の残り菊 秋野風
枯れ果てゝ影も形もなき蓮田 越堂
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月3日
枡形句会
栗林圭魚選 特選句
シャンプーを厳選しても木の葉髪 教子
微笑みを残し初冬の朝に逝き 和代
目立たぬも佳香を纏ひ枇杷の花 瑞枝
辛夷の芽冬日に応ふ銀の艶 文英
草虱つけて赤信号を待つ 三無
着ぶくれを拾ふ電車の軋みをり 清子
枇杷の花弾けて光り風となる 多美女
寄せ鍋の夜をよく喋りよく笑ひ 白陶
寄せ鍋の小部屋の湯気に包まるる 白陶
交番に赤き灯一つ年の暮 三無
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月3日
零の会
坊城俊樹選 特選句
清正の井に傷の無き冬紅葉 あおい
賑やかな正中に手袋ひとつ ラズリ
菊紋のひとひらごとの冬日向 耿子
花嫁へ天照る冬日なりしかな 順子
ことのほか白木の鳥居へと冬日 八之助
人ゐなくなりぬ冬天蒼すぎて 千種
前列は南蛮の人冬手水 佑天
猟犬の恍惚として股ぐらへ 伊豫
ふくらめる木の鳥居より神還る 小鳥
新しき鳥居の香る年用意 はるか
花婿の鼻筋美しく寒禽へ 慶月
チェロ担ぎ都心の朝を息白く 彰子
金箔となり神宮の木の葉舞ふ 千種
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月5日
鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
磴上り社殿に映ゆる冬紅葉 俊子
駅裏は小さき枯野列車待つ 都
蝦夷からの冬至南瓜を待つてをり 幸子
なんとなく冬めく朝や上洛す 幹也
箒目のたちたる寺苑花八ッ手 和子
冬晴のラジオを高く畑の人 栄子
疼痛の脈を託ちて冬籠 逸子
極月のくすり屋に売る絵らふそく 悦子
眩しくて背を冬日に献上す 史子
枯蓮や八ッ橋渡る風の声 益恵
片時雨下校の子らに虹を見せ 立子
杖の歩に二百歩数へ冬の坂 すみ子
菊枯るゝ山家の雨を冥加とし 美智子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月6日
さくら花鳥句会
栗林眞知子選 特選句
さばき方夫に教へるずわい蟹 実加
背伸びする猫縁側に冬日和 紀子
冬支度僧の総出や永平寺 令子
雪吊りの整然として古城園 令子
雪吊の男仕事の凛として みえこ
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月8日
三日の月句会
坊城俊樹選 特選句
み仏とある安らぎに着ぶくるる 牧羊
山々は人とかかはりなく眠る 牧羊
着ぶくれて患者溜に親子連れ 柏葉
稜線の木立透かして眠る山 末草
列を成し落葉小径を行く園児 喜代子
小春日や九頭竜おだやかな流れ 牧羊
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月9日
芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
大寺の茶筅供養も年の暮 よみ子
錦絵の木々を残して山眠る 久美子
荒縄でくくりし根深ほほかぶり 孝子
鰤起し一寸先はなまり色 寛子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月12日
武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
数多なる生き物育て山眠る みす枝
白山の主峰の雪は天のもの 世詩明
冬ざれの丘に二つの相聞碑 越堂
噴煙に空くぐもりて落葉焚き 信子
冬晴や犬の茶碗の干してあり 昭女
冬ざるゝ卍が辻も寺町も 芳子
遠山の色に急かるる冬支度 信子
一竿に大根干されシャツ干され 清女
一喝の闇の深さの雪起し 八重
ストーブの口を開ければ火の声す 昭女
無音の地包む歩みの冴返る 八重
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月12日
なかみち句会
冬帝や富士くつきりと叔母の逝く 迪子
鳰いつも予想外なる位置へ浮き 秋尚
鳰の湖哀し観音腕椀げて 和魚
水底の日輪求めかいつぶり 有有
湯豆腐の湯気に躍るを見逃さず ます江
暮れ残る湖の一隅鳰の影 怜
湯豆腐の崩れし角を掬ひけり 秋尚
冬帝や木立の背筋ぴんと伸ぶ 秋尚
冬帝や往診急ぐ医師も老い 美貴
湯豆腐や八坂神社に先づ詣で 和魚
平成28年12月13日
萩花鳥句会
卓上にポインセチアとカレンダー 牛子
一つづつ点る島の灯日短 小勇
冬帝にカルスト台地抱かれて 祐子
息白しゼッケン二百八十番 孝士
おでん喰ぶ好きなネタへと手をのばし 七重
短日やチェックインより露天風呂 美恵子
コンビニのおでんの風情文化なし 健雄
ランナーももてなす人も息白し 吉之
お早うに色のありけり息白し 晴子
おでんの種いろいろ替しやもめかな 圭三
諸事万端妻に任せて納め句座 克弘
平成28年12月15日
花鳥さざれ会
坊城俊樹選 特選句
贋物のサンタクロースあちこちに 和子
年の瀬の女の持てる釘と槌 清女
山眠る尼僧の寺の手水鉢 天空
野水仙きる断崖の命綱 越堂
朝の日に霜の草々鏤ばめて 松陰
山眠る古代石棺展示して 匠
霜囲したる暗さの中の鉢 松陰
裸木の銀杏大樹の下に寺 龍聲
朝霜の精舎潤ひ至りけり 松陰
笹の葉に霜の光の朝かな 松陰
うつすらと霜の衣の石仏 秋野風
お精舎の霊気に寒さありにけり 松陰
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月17日
伊藤柏翠俳句記念館師走抄
坊城俊樹選 特選句
十二月八十五歳が乗る脚立 清女
神鈴や八百年の神迎へ 一仁
趣味一つ捨てたる妻の師走かな ただし
雪吊をして老松の威の新た 文子
手あぶりも煙管も父の遺品なる 英美子
喧嘩して仲直りして年暮れる やす香
冬帝の足音もなく来たる越 かづを
銀杏散る風に色ある並木道 スヱ子
海坂の雲間抜けゆく雁の列 スヱ子
着ぶくれて何か侘しき胸の中 冨美
裸木となりて青空広くせり 冨美
着膨れに見立て確かな老医かな 世詩明
冬晴れや青き空もて青き水 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月17日
��月句会
坊城俊樹選 特選句
しやぼん玉青女に触れてこはれけり 千種
縄文の焚火の照らす弥生顔 三無
焼芋の香や森奥の獣らへ 慶月
鴉舞ふ聖樹灯るを待つやうに 眞知子
庭池は氷り名主は何処へと 眞知子
着膨れが恐々とマシュマロを焼く 佑天
炉話や鳥と獣と魚を添へ 鯨
(順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句
冬の雲池面うごかす風少し 久子
武蔵野を覆ひ尽して冬日和 慶月
尉と化し生れし森へと榾還る 眞理子
焼藷を頰ばる多摩の日溢れて ゆう子
水涸れて鴉さびしき声放つ ゆう子
切り張りの多き障子や午後に入る 幸子
噴水の止みて枯野に包まるる 俊樹
初氷なれば触れもし崩しもし 眞知子
人声のして寒林の奥静か 三無
初氷日向の形に溶けてゆく 三無
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月21日
鯖江花鳥師走抄
坊城俊樹選 特選句
炉煙に染む曲屋の由来書 越堂
界隈の虫を虜に花八ツ手 越堂
マフラーに顔を埋めてペダル漕ぐ 昭子
柚子風呂の柚子お手玉に数へ唄 信子
憚りもなく磐座を冬の蝶 一涓
寒紅の言ふには易きことばかり 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月21日
福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
裸木の夜明けの星を頂きて 牧羊
億年の化石の里や山眠る 嘉子
法螺貝を大きく鳴らし山眠る 嘉子
着脹れに男遠のく夜の妻 世詩明
構へしは観音堂の大雁木 千代子
ほつそりと著ぶくれらしくなけれども 雪子
又一人焚火に寄りて愚痴こぼす 雪子
熊眠る山は錦の影残し 啓子
着ぶくれてとみかうみ見る齢かな 茂子
眠れども生きぬく山として親し 松陰
山茶屋の灯り一つに山眠る 松陰
何事と飛び出してゆく熊騒ぎ 松陰
鴨飛来して鴨池の形なす 雪
引き際を考へてをりちやんちやんこ 雪
着膨れて人の八方より来たる 龍聲
水仙の崖の七浦七曲り 龍聲
逆光の海光あらく野水仙 龍聲
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月22日
みどりや花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
枯芝に黒装束の男佇つ 秋野風
凍蝶にきのふの日和なくなりし ただし
大杉の倒れしまゝに山眠る 雪子
遥か来て鴨九頭竜に陣を敷く かずを
目を細め解脱顔なる日向ぼこ 越堂
泣面の女を想ふ冬の空 清風
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月22日
九州花鳥会
坊城俊樹選 特選句
ひよつとこの顔して焚火熾こしをり 睦子
磯の香のひたひた寄する浜焚火 阿佐美
子供らの焚火の臭ひ持ち帰る 阿佐美
寒垢離や帰山の僧の痩せ姿 洋子
とつぷりと背の昏れてゐし焚火かな 阿佐美
語り部を囲む少女ら冬帽子 喜和
向かう家の婿殿お洒落漱石忌 富子
川いくついざ帰りなん都鳥 久美子
焚火して段畑に日の落ちかかる 洋子
焚火跡人の気配のほのとあり 久美子
小春日や竹屑膨れゆく凧屋 志津子
いつまでも漢ら囲む浜焚火 阿佐美
焚火して祭礼近き氏子達 久美子
ポインセチアチャイムの廻る夜の正時 郁子
冬日向帰郷はるかに通事墓 志津子
矢のごとく窓袈裟懸けに冬鷗 千代
帰り花忘れ上手な母なりき 喜和
文字の無き先住民の夕焚火 喜和
後手に背中炙れる焚火かな 順子
母許に急げば帰路の日短し 孝子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年12月25日
花鳥月例会
坊城俊樹選 特選句
岬より来たるだみ声大根売る 和子
何もなきにあらず冬天蒼くして 千種
忍び寄る青女やパール博士の碑 律子
淡き黄のうろくづ召され冬帝へ 鯨
交番に二人の距離や年の果 和子
昭和から続く足跡水涸れて 鯨
神池の北を枕に冬の鯉 千種
枯蓮に突慳貪な水面かな 梓渕
荷を引きて荷にすれ違ふ年の暮 和子
体内を巡らせ寒の鯉沈む 小鳥
(順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句
岬より来たるだみ声大根売る 和子
水底を浮彫にして水涸るる 小鳥
行く年やまつすぐ伸ぶる石畳 和子
内濠の雲のまにまに涸るる水 伊豫
咳ひとつ文学館を轟かす 鯨
ジョンレノン聴くも一人のクリスマス て津子
大枯木ぼんやりとした日を摑み 秋尚
いくだびも神鏡過る影師走 眞知子
荷を引きて荷にすれ違ふ年の暮 和子
色硝子天日あふれ降誕祭 いづみ
(順不同 特選句のみ掲載)
0 notes