#カトリーン・マルサル
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1.新刊書籍/町田康(翻訳)『宇治拾遺物語』/河出書房新社/¥880【通信販売】 2.新刊書籍/カトリーン・キラス=マルサル『これまでの経済で無視されてきた数々のアイデアの話 : イノベーションとジェンダー』山本真麻(翻訳)/河出書房新社/¥2,310【通信販売】 3.新刊書籍/斎藤美奈子『挑発する少女小説』/河出書房新社/¥946【通信販売】 4.新刊書籍/王谷晶『カラダは私の何なんだ?』/河出書房新社/¥847【通信販売】 ※その他、河出書房新社の新刊書籍再入荷あり
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2023年8月29日に発売予定の翻訳書
8月29日(火)には21冊の翻訳書が発売予定です。
旧約聖書神学
K. シュミート/著 小友聡/監修 日髙貴士耶/翻訳
教文館
フランツ・シュテルンバルトの遍歴
ルートヴィヒ・ティーク/著 片山耕二郎/翻訳
国書刊行会
トゥルー・クライム・ストーリー
ジョセフ・ノックス/著 池田真紀子/翻訳
新潮社
虚無感について : 心理学と哲学への挑戦
ヴィクトール・フランクル/著 広岡義之/翻訳
青土社
王国と栄光 : オイコノミアと統治の神学的系譜学のために
ジョルジョ・アガンベン/著 高桑和巳/翻訳
青土社
星の航海術をもとめて : ホクレア号の33日
ウィル・クセルク/著 加藤晃生/翻訳
青土社
クィアなアメリカ史 : 再解釈のアメリカ史・2
マイケル・ブロンスキー/著 兼子歩/翻訳 坂下史子/翻訳 髙内悠貴/翻訳 土屋和代/翻訳
勁草書房
何か本当に重要なことがあるのか? : パーフィットの倫理学をめぐって
ピーター・シンガー/編集 森村進/翻訳 太田寿明/翻訳 三浦基生/翻訳 山本啓介/翻訳
勁草書房
重要なことについて 第3巻
デレク・パーフィット/著 森村進/翻訳
勁草書房
暗黒神話TRPG トレイル・オブ・クトゥルー 改訂版
ケネス・ハイト/著 安田均/監修 森瀬繚/監修 トレイル・オブ・クトゥルー翻訳チーム/翻訳
グループSNE
シラー戯曲傑作選 ドン・カルロス : スペイ��の王子
フリードリヒ・シラー/著 青木敦子/翻訳
��戯書房
シラー戯曲傑作選 メアリー・ステュアート
フリードリヒ・シラー/著 津﨑正行/翻訳
幻戯書房
CRISPR〈クリスパー〉ってなんだろう? : 14歳からわかる遺伝子編集の倫理
Yolanda Ridge/著 Alex Boersma/著 坪子理美/翻訳
化学同人
世界を翔ける翼 : 渡り鳥の壮大な旅
スコット・ワイデンソール/著 樋口広芳/監修 岩崎晋也/翻訳
化学同人
体に悪い,悪くない,ホントはどっち? : 体内に取り込む化学物質が気になったから論文1000本読んでみた
ジョージ・ザイダン/著 藤崎百合/翻訳
化学同人
裏切り者は誰だったのか : CIA対KGB諜報戦の闇
ハワード・ブラム/著 芝瑞紀/翻訳 高岡正人/翻訳
原書房
おばけって いるの?
エラ・ベイリー/イラスト 木坂涼/翻訳
光村教育図書
砂漠の林檎 : イスラエル短篇傑作選
サヴィヨン・リーブレヒト/著 ウーリー・オルレブ/著 母袋夏生/翻訳
河出書房新社
マルナータ 不幸を呼ぶ子
ベアトリーチェ・サルヴィオーニ/著 関口英子/翻訳
河出書房新社
これまでの経済で無視されてきた数々のアイデアの話 : イノベーションとジェンダー
カトリーン・キラス=マルサル/著 山本真麻/翻訳
河出書房新社
イラストでわかるやさしい化学
アリ・O・セゼル/著 東辻千枝子/翻訳
創元社
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2021年に読んだ本から印象に残ったものを何冊か
ピエール・クラストル 『国家をもたぬよう社会は努めてきた』
ノブレス・オブリージュという言葉の本当の意味は、首長が民に対して負債をもつということなのかもしれない。民が首長に負債を持ち貢納を納める国家において、支配と服従の関係が前提されるのとは反対に、国家を持たぬ社会では、民の代弁者でもある首長が、民に気前よく与え民を飢えさせないことが彼の義務で、その義務を果たさない首長は直ちに引きずりおろされる。そこで首長が命令せず、権力を持たないのは、それによって社会に分断を生じさせないためだった。アマゾンの部族のフィールドワークに基づく視点は革命的なまでに刺激に富む。
アーザル・ナフィーシー『テヘラン��ロリータを読む』
ロリータの本名ドロレスがスペイン語で苦痛を意味することの重い意味、ロリータの視点から小説を読む意味、それは、この書物を禁書にしておきながら、法定結婚年齢を18歳から9歳に引き下げ、少女との結婚になんの躊躇もないイスラム共和国で、ミサイルとミサイルの間にジェイムズを読み、アメリカに死をという喚声を聞きながらグレイトギャツビーを読む彼女たちこそ、切実に理解できるのだろう。文学が役に立たないなどと誰が言ったのか。彼女たちにとって文学こそがが生きるための糧、想像力という名の武器をもつ手段だったのではないだろうか。
ナディア・エル・ブガ『私はイスラム教徒でフェミニスト』
こういう本を待っていたかもしれない。差別されているといわれるにもかかわらず、モロッコ出身でフランスで性科学者として活躍する著者の生の声は力強く知性にあふれ、真の意味で宗教的。なぜスカーフをかぶるかの問に、他者の視線から身を守るためではなく、神と直に接するためだと言う著者は、大事にするように神から託された肉体なのだから、自分の体も他人の体もいとおしむ、そこが性的関係の出発点だという。男性本位の解釈で歪められてきたコーランの著者による再解釈は目からうろこ。イスラム化される以前のモロッコのベルベル人の自由な発想がそのような再解釈を可能にしたのかもしれない。
高橋たか子『装いせよ、わが魂よ』
肩書も職業も住処も捨てて赤裸になる、それが神の前で装うということだろうか。言葉のよく通じない異国の地で、住むべき場所を求め、ふと街角で耳にした旋律を求める波子の道程は垂直的で、あるときは教会の地下の暗闇の奥のオルガンに、あるときは雪に覆われた山の上の修道院に。だが、ひとりひとりの人間にキリストが内在するのならば、自らの内部にもまた存在するはずで、それなら住む場所さえ必要ないのかもしれない。最後のページで、野営地から野営地に、ふいと風に吹かれるようにしてうつろってゆく後ろ姿には、なにか霊的な輝きがさしていた。
高橋和巳『邪宗門』
国家権力にすり寄る既成宗教とは逆に、信仰を貫き汚濁の世を変えるために、負けるとわかっていてもあえて国家権力に翻す叛旗のもとに、死を肯定し死に急ぐ信徒たちの群像、泥水に浸かった城の破壊は、さながら中世フランスのカタリ派のモンセギュール落城を想起させる。ともすれば気味の悪い自己満足に陥りがちな新興宗教の内面を、千葉潔という、心に底知れぬ空洞をもった漂泊者の視点から冷ややかに描くことで、逆説的にその深さを剔抉した本書は、戦中戦後を描く汗牛充棟の書物のなかでも宗教と国家の確執を描き切った点で類を見ない作品と言える。
カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か』
たしかに、黙っていても夕食が出てくるのが当然と思っている人の思想など子どもの遊びのようなもので、思想の名に値しないだろう。自立して合理的で客観的な判断のできる個人を前提にした経済学が退屈なのは、それが男による男のための学問でしかなく、たとえば夕食係が夕食づくりをボイコットするだけで、たちまち崩れ去る脆い楼閣にすぎないからだ。たがいにケアしあい依存しあう、ときには気まぐれで非合理的な判断を下すこともある人間のための、「恐れや欲を食い物にするのではなく、それを克服するため」の新しい経済学が今必要とされている。
『ピエール・ルヴェルディ詩集』
シュルレアリスムの旗手という紋切り型で語られる詩人だが、通読後の印象は、むしろ孤高の神秘主義とでも形容したくなる。中年になってからカトリックの洗礼を受けて後半生を修道院で送り、エリュアールら盟友が政治的に参加する詩を書く大戦中も、世の中から隔絶して創作した彼の詩は、宗教的観念があからさまに表現されることはないものの、異質なイマージュの結合を通じて、超越的な何かを幻視する試みのように思える。特に「奇跡」「言葉が降りる」。前者はベタニアのラザロ、後者は聖霊降臨を連想した私の読みは間違っているだろうか。
チャールズ・ローゼン『古典派音楽の様式』
ブーレーズによるウェーベルン全集(一回目)でピアノを務めたことでも知られる著者の本を読むのはこれで4冊目だが、いつも思い出させてくれるのは音楽の知的な理解と感性的な聴取が両立すること、前者が後者の質をさらに高めてくれること。譜例を引用しての楽曲分析は専門用語も多いのに、退屈などころか、その曲を一層深く聴きたい気にさせてくれる。ベートーヴェ��のハンマークラヴィアソナタでの、三度音程が全楽章にわたってどれほど重要な役割を果たしているかのくだりは、推理小説のような面白さ。ハイドンのピアノトリオやモーツァルトの弦楽五重奏曲の分析も。曲名索引が充実しているので座右において事典的に使いたい。
匹田剛『これならわかる ロシア語文法』
良く書かれた文法書は一つの町あるいは一つの世界に似ていて、見知らぬ町に迷いこんだ私の手をとってやさしく導いてくれる、通りや店や人々の場所や名前を少しずつ覚えるにつれて、その町の輪郭が徐々に明らかになってゆく喜びは何ものにも代えがたい。同じ著者の初級者向けのを買ったが物足りず、上級までカバーした本書ではじめていくつもの疑問が氷解した。語学書に読了はありえず、無料アプリのDuolingoでの毎日の勉強で生じた疑問を辞典的に調べるだけなのだが、この本に出会えて心から感謝している。
川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』
四つの物語のなかで表題作がいちばん好き。解体の途中の隣家に夜中に忍び込んで、真っ暗闇のなかでかつての住人であった死者を想像するうちに、彼女と語り手の間にながれだすひそやかな魂の交流、いないはずなのにすぐそばにいるような感覚。孤独に不妊に悩む語り手と同じように、隣家の住人も、女友達との間に子どもを産みたいという不可能な希望とともに生きて死んでいったのだった。彼女たちの体にまとわりつく藤の花びらとベートーヴェンの32番のソナタの第二楽章は此岸と彼岸の架け橋かのように思える。静かに流れる水のような透明で静かな文体。
金石範『火山島 第三巻』
植民地時代の小学生のときに奉安殿に小便をひっかけて逮捕されたことのある李芳根は、今では資産家の跡継ぎの無為徒食、革命への参加を促されても腰は重い。かといって、反共勢力による革命の弾圧にも憤る。どちらにも肩入れしない曖昧な態度のままに、自宅の書斎で酒を飲むばかりの彼の視点から見た4・3蜂起は、双方の立場の限界と機能不全を明らかにした。日本による統治は終っても、その負の遺産はあちこちにくすぶり、差別され��島の怨恨は鬱積し、和解への摸索も頓挫する。数年後には朝鮮全土をまきこむことになる戦争の予兆。
川野芽生『Lilith』
藤棚が解体されると知らずに巣を作っている鳩のようなものなのかもしれない、私は。私を構成していたはずのものは消え失せ、ネジを巻こうとしても手首のどこにも竜頭がみつからない。ここは私の居場所ではない、ここではないどこかへ、しかしどこへ?ゆきどころはみつからない。世界という異郷では、人が人を恋するというのも奇習にしか思われない。油絵のほうがもしかして実在で、私はその絵を覆うガラスにつかのまうつる影あるいは夢のようなものだろうか。人ではなくて馬に生まれ変われば、蹄にかけたいものもいくつかはあるのだが。「みづからの竜頭みつからず 透きとほる爪にてつねりつづくる手頸」
#読書#川野芽生#高橋たか子#高橋和巳#匹田剛#カトリーン・マルサル#金石範#川上未映子#チャールズ・ローゼン#ピエール・ルヴェルディ#ピエール・クラストル#ナディア・エル・ブガ#アーザル・ナフィーシー
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『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 カトリーン・マルサル 著 高橋 璃子 訳 (河出書房新社)
すべての男は刮目して読むべし
プロローグ 経済と女性の話をしよう
アダム・スミスの食事を作ったのは誰か
ロビンソン・クルーソーはなぜ経済学のヒーローなのか
女性はどうして男性より収入が低いのか
経済成長の果実はどこに消えたのか
私たちは競争する自由が欲しかったのか
ウォール街はいつからカジノになったのか
金融市場は何を悪魔に差しだしたのか
経済人とはいったい誰だったのか
金の卵を産むガチョウを殺すのは誰か
ナイチンゲールはなぜお金の問題を語ったか
格差社会はどのように仕組まれてきたか
「自分への���資」は人間を何に変えるのか
個人主義は何を私たちの体から奪ったか
経済人はなぜ「女らしさ」に依存するのか
経済の神話にどうして女性が出てこないのか
私たちはどうすれば苦しみから解放されるのか
経済人にさよならを言おう
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米国の政治哲学者ウェンディ・ブラウンによると、新自由主義者はけっして市場を「自然な」ものだと考えていない。そうではなく、彼らは新自由主義のイデオロギーに合った現実を人の手でつくりだそうとしている。 一方で人はみな競争的だと言いながら、他方では競争をうながすためのインセンティブが欠かせないと言う。一方で人はみな金持ちになりたいのだと言いながら、他方では減税によって金持ちのメリットを宣伝する。 新自由主義は競争こそがあらゆる関係の根本にあると謳っているが、何もしなければ競争がなくなることを誰より知っているのも新自由主義者だ。だから政策を通じて競争を生み、なんとしても競争状態を維持しようとする。新自由主義が政府をなくしたいというイメージは大まちがいで、単に政府を都合よく操りたいだけだ。ドバイのような、新自由主義を推し進める政府が欲しいだけだ。 経済人ひとりでは思うように活動できないので、新自由主義は経済人を助ける制度をつくり、インセンティブを用意し、合理的で競争好きな個人に合った社会を推し進める。市場原理にもとづいた意思決定がなされるよう、あらゆる方面に手をまわす。 現実の人間は、つねに利益と競争のことを考えているわけではない。でも新自由主義はそういうビジョンを広め、制度化する。民営化を推し進め、教育から環境政策から看護や介護まで、あらゆる業界を市場原理で動かそうとしている。トマトを売るようにケアを売る社会、それが今の世界の向かおうとしている姿だ。市場のなかったところに政治の力で市場をつくり、何が何でも競争を維持していく。 (中略) 新自由主義は、政治を市場に従属させようとする立場だ。新自由主義者は政治を使って競争と合理性という社会規範を広め、経済を特定の方向に導いていく。小さな政府と言いながら、実際は政府の力を市場のためにめいっぱい使いたいだけだ。 新自由主義は金融・財政から家族や刑罰まであらゆる領域で、市場のニーズに役立つ政策を推し進める立場なのである。 (中略) 競争がなければ社会は成り立たない。それこそが新自由主義の基礎になる考え方だ、とフーコーは言う。個々の政策や理念はその派生物にすぎない。アダム・スミスは好感を自然なやりとりとして位置づけたが、新自由主義は積極的に競争をつくりださなければならないと考える。 ポイントは、競争が人為的なものだということだ。放っておくと市場に独占状態が生まれるので、政府はそこに介入して競争を保たなくてはならない。そして新自由主義は、市場そのものよりもむしろ、それを構成する人間に介入する。人を操ることで、市場を操ろうというわけだ。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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ケアが女性から自然に湧いてくる天然資源だというイメージほど非現実的なものはない。それなのに、私たちはそのイメージに固執する。そうしないと社会が回らないからだ。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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先進国のエリートたちは数字をやりくりして書類上の利益を出す作業に没頭していた。世の中がイノベーションを求めているときに、彼らは計算のトリックに夢中だった。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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フローレンス・ナイチンゲールは生涯を通じて看護師の待遇改善のために戦いつづけた。その事実を現代の私たちは忘れがちだ。お金のためか善意のためか、という二択は、私たちのジェンダー観と密接につながっている。
男性が利益のために働き、女性がそれを補完する。このイメージは私たちの心の奥底に染みついている。だから、お金とやさしさが一人の人間のなかに共存していることを、どこか受け入れがたいと感じてしまう。
保育園のお迎えや放射性廃棄物の受け入れが単なる利益の計算で動かないのと同様、ケアの仕事に従事する動機もそんなに簡単なものではない。女性がもともと献身的で、人類と社会のために自分を犠牲にするよう生まれついているわけではない。
献身とケアの象徴であるフローレンス・ナイチンゲールだって、けっして天使ではなかった。彼女は現実を生きていた。ケアが女性から自然に湧いてくる天然資源だというイメージほど非現実的なものはない。それなのに、私たちはそのイメージに固執する。そうしないと社会が回らないからだ。
私たちはナイチンゲールを、経済の幻想にうまく合うかたちに歪めてしまった。男性が必要とする女性のかたちに。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』
(カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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金の卵を産むガチョウを、私たちはしょっちゅう見誤る。 何か別のものだと思って、うっかり殺してしまう。 経済的要因が人を動かすと信じて経済的インセンティブを設定すれば、その経済的要因が他の動機をすべて押しつぶすことになりかねない。経済人がやってきて、良心も感情も文化的要因もぜんぶ壊してしまう。そして失ってしまってから、それが経済の営みを支える大事なものだったと気づくのだ。 市場原理は肝心なことを説明できない不器用な道具であるだけでなく、大事なものを殺す斧なのかもしれない。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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市場の精神状態が極端に悪くなると、市場に供物を捧げる必要が出てくる。大量のお金を注ぎ込むのだ。景気を刺激するために、政府も人々もどんどんお金を使わなくてはならない。高くつくやり方だが、ここでお金を出し渋れば考えるのも恐ろしいことになるだろう。消費とはすなわち、生贄なのだ。穢れのない、しかし穢れた血。美しく、おぞましく、神聖な捧げもの。 (中略) 経済学は数学を駆使したきわめて理性的な学問に見えるが、やっているのは結局、いかに市場の気分をよくするかということである。フィナンシャル・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルの紙面があらゆる感情の描写に彩られているのはそのためだ。 市場の感情を雄弁に語る一方で、私たちは人間に感情があることを忘れつつある。人はあたかも市場で売買される商品化、あるいは企業のように語られる。 〈自分を高く売ろう〉〈個人もブランディングが大事〉〈子どもは未来への投資〉〈自分のセールスポイントを見つけよう〉〈市場価値の高い人になりなさい〉〈精神的コストが大きすぎる〉〈彼女はもう賞味期限切れだね〉 人の気持ちをあらわす言葉が市場を描写し、市場の言葉が人の描写に使われる。経済は私たちになり、私たちは経済になる。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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独自のロジックをそなえた別世界で繰り広げられる、経済学のゲーム。あらゆる人間は経済人であり、経済をつかさどる無謬の意識が具現化してものである。すべては合理的に決定される。 経済の豊かさはどこか別の宇宙でつくられたのだろう。あなたの住宅ローンや会社の業績不振とは関係のないところで、それは起こったのだろう。どこか遠くで、価値のあるものは増えているようだ。謎めいたプロセスのなかで黄金が生まれ、消えていく。どうせ経済も市場も、私たちとは関係ないものなのだ。私たちが働き、生産し、工夫して生みだし、あるいは日々必要とするものなど、経済学のあずかり知るところではないのだ。 技術の変化はいつでも、市場を大きく転換させてきた。お金はどんどん抽象的になり――貝殻を経て金属を経て形のない債権を寄せ集めたものになり――多くの人が一攫千金を狙いはじめた。豊かになれる可能性は大きくふくらみ、リスクも大きくふくらんだ。 もっとも危険なのは、何のためのお金なのかを忘れてしまうことだ。 全世界の富を一瞬で売買できる高性能なシステムが開発されようと、どんなにエレガントな数式が私たちを誘惑しようと、経済の根本にあるものは変わらない。 それは人の身体だ。仕事をする身体、ケアを必要とする身体、別の身体を生みだす身体。生みだされ、老いて、死んでいく身体。性のある身体。人生のさまざまな局面で、誰かの助けを必要とする身体。 私たちの身体と、身体を支える社会だ。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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フェミニズムとは女性がパイの分け前にあずかろうということではなく、まったく新しいパイを焼くための運動だ、とグロリア・スタイネムは言った。でも、そう簡単にはいかなかった。私たちの社会がやってきたのは、せいぜい女性を加えてかき交ぜることだった。「なりたいものになれる」という見栄えのいいスローガンは、「あらゆる役割をこなすべきだ」と読み違えられてきた。「何だってできる」は「何でもやれ」にすり替えられてきた。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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ミュージカル映画で一世を風靡した伝説のダンスコンビ、ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアをご存じだろうか。女性のジンジャーは男性のフレッドとまったく同じ動きをこなした。ただし、後ろ向きで、足にはハイヒールを履いて。これが要するに、女性のやっていることだ。女性は男性と同じ役割をこなすことを求められるが、男性は必ずしもその逆を求められない。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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女性は今でも、経済人の世界への平等なアクセスを求めて戦っている。女は使えないと言われないために人よりがんばって働き、成果を上げる。だが同時に、家庭のこともきちんとできなければいけない。男性は仕事だけしていればいいのに、女性が同じことをするとダメな女だと言われるのだ。仕事と家庭のバランスは「女性の」問題とされ、その解決は女性に丸投げされる。もっと堂々とふるまいなさい、残業を減らしなさい、理解ある伴侶を見つけなさい、やることリストを工夫しなさい、生活をシンプルにしなさい、バッグの中身を捨てなさい、ヨガをやりなさい、時間をもっと管理しなさい――。 彼女の体はもはや生きた人間のものではなく、いつ妊娠するかわからない時限爆弾だ。昇進のために必死で働いているあいだも、カチカチと時は刻まれていく。 そして時がくると、彼女の本当の姿があらわになる。経済人ではない、女性の姿が。 子どもを宿したときから、それまでのやり方は��用しなくなる。公私を分けておくのはもう不可能だ。ふくらんだおなかを私生活の領域である家に置いてくることなどできない。私生活の一部を持って出勤し、またそれを持って家に帰る。それは自分の一部であり、自分自身なのだから。 いったいどうすればいいのか。経済人を前提にした職場は、そんなものを受け入れてくれない。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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フルタイムのキャリアは、フルタイムの家事労働がなければ回らない。現代の女性はフルタイムで働くべきだとされるが、フルタイムの家事担当を雇えるのは一握りの人だけだ。掃除婦の家を誰が掃除するのか?ベビーシッター自身の娘を誰が世話するのか?こうした疑問はただの揚げ足取りではなく、現実��解決しなくてはならない問題だ。
(中略) 家事や育児を誰かに頼むのが経済的なのは、その時給が雇い主の側の女性(人を雇わなかった場合に家事をするはずだった人)よりも大幅に低い場合だけだ。自分の給料よりも高い値段で家事を頼むのではわりに合わない。つまり家事労働の雇用は、雇う女性と雇われる女性の恒久的な格差を前提にしているのだ。 女性たちは有休の労働市場に参入し、お金を払って家事の負担を誰かにまかせるようになった。そうするしかないからだ。フルタイムで働くなら、毎朝家を出るときに家庭の問題をいったん忘れなくてはならない。さあ仕事モードになって、バリバリ働こう。一歩踏みだそう。でも、何に向かって? 労働市場は今でも、身体を持たず性差もない、孤独な利益追求型の個人を前提にしている。女性が働こうと思うなら、みずからそのような人間になるか、あるいは逆に自己犠牲を前面に押しだして等式のバランスをとるしかない。 そして多くの場合、決定権は本人ではなく周囲にある。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』 (カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年(原著2015年))
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