#Hanmugi Hat
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different-ywo · 4 years ago
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私の出会った《半麦ハット》|半麦ハットから
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Hanmugi Hat
文|白須寛規(建築家/designSU代表/摂南大学講師)
初出|『半麦ハットから』(2020、盆地Edition) LINK Contribution #02
モノと出会う
新しいものに出会ったとき反応は次の2つに大別される。経験や知識をもとにカテゴライズし何かにつなげて理解するか、そのものを具体的なまま記憶するか。経験や知識が増えるほど前者の割合が多くなってくるわけで、私も歳を重ねるごとにそうなってきている。板坂留五は、これでいうと後者のようにモノと出会い、建築へと組み立てていく人のように思った。それは意識してかしないでか、彼女の設計した《半麦ハット》を見てそんな風に感じた。
冷蔵庫の残り物
カテゴライズにはなんらかの抽象が必要となる。学校を見てそ��を「学校だ」と判別するのは、学校という抽象概念が頭に入っているからで、多少形が変わろうと大きさが変わろうと学校だとわかる、というのはビルディングタイプという抽象の強さを物語る。《半麦ハット》には、そのような抽象が見当たらない。用途としては店舗付き住居なのだが、倉庫のような山小屋のような海の家のような、なんとも言えない見た目で判別ができない。しかし「周辺の要素をサンプリングした」だけあって風景には溶け込んでいるように見える。まるで“冷蔵庫の残り物で作った料理”のような、なんだかよくわからないがいつもよく見ている食材でできていて、食べたことのあるような感じがして安心感がある。そのとき「なんだかよくわからない」ことはさほど重要ではなくなり、「うんうん、うまいうまい」とか言ってどんどん口に運んでしまう。《半麦ハット》も同様(というと語弊があるかもしれないが)に、それがなんなのかを理解しようとすることはさておき、どんどん味わうように見て回っていた。
判断の軸としての「抽象」
話を少し戻そう。「抽象」というのは理解するときの手助けにもなるが、一方でつくるときにも重要な役割を果たす。先ほどのビルディングタイプは、どんなプログラムでどんな部屋が必要かということがイメージとともにパッケージされているので、つくるときの方が本領を活気する。共有されたイメージは素材や部材の大きさの選定においても有効だ。また「学校」というイメージから離れて公園っぽくしよう」というコンセプトを立てた場合は、「公園」というイメージが判断基準となって、そこからプログラムや配置、素材の選定を進めることができる。それから、要求されるプログラムから離れて空間の質が判断基準になることもある。それはしばしばつくり手の審美眼や手癖が判断の基準になってつくられ、結果「○○さんぽい」という捉え方ができるような「作家性」を生むことになる。ビルディングタイプ、イメージ、作家性などの「抽象」は、建築をつくるときに無数に存在する判断において軸となって機能する。それは細部においてもそうで、床と壁の取り合い、取手の種類や位置、色、ありとあらゆる場面において僕らは判断の軸を探す。軸はある程度の束として認められる範囲に収まっていることが重要で、その束が細ければ細いほど作品性が高まる、というように理解している。
不安
《半麦ハット》にはそれが見当たらないのだ。判断基準がバラバラかといえばバラバラの様に見えるのだが、しかしそれが建物の在りようにマイナスに働いていない。それよりもこれをつくることを想像すると、何を頼りに判断したのかがわからないので、「不安」を感じるのだ。思い返してみると私たちは、というか私��、建築をつくる過程において「どうしようか」と悩み判断するとき何かの軸を探す。同時に、できた後の簡潔な説明を可能にするために、判断の軸を収束させるように出来上がるモノを寄せていく。それは共感可能性を生み建築がつくり手から開放されていくことにつながっていく、と思っている。《半麦ハット》を見ていると、そういう種類の共感可能性は、選択肢のひとつにすぎないと改めて気づかされる。もっというと、私が判断の軸を探すのは「説明をスマートにできなかったらどうしよう」という非常に個人的な不安から来ているのかもしれない。先ほど書いた「不安」というのはこれなのかもしれない。《半麦ハット》は判断の軸が見当たらない、先ほどそう書いた。板坂さんからは「サンプリング」という説明を受けたがそれはそれでイマイチしっくりこない。あの建築の判断の軸があるとすれば(ここからは想像の域を出ないのであるが)、それは彼女自身の「私が」「そのとき」「そこに居た」という事実なのだろう。
出会い直す
《半麦ハット》の印象として“バラバラ”というのは、箇所箇所において判断の基準が異なっているように見えるということもあるが、他方、素材がそれぞれ独立して存在しているようにも見える。様式や作家性、またはもっと単純に「細く見せたい」とか「線を消したい」と言った表現が読み取れない分、そこに存在しているモノそのものが際立って見えてくる。そしてそれらは、彼女がこの建築をつくる過程で「出会ったモノたち」なのだろうと想像する。サンプリングという過程は、周辺にあるものを採取してくるというよりは、見知ったモノたちを新たに出会い直して素材として迎え入れるという儀式なのではないだろうか。既になんらかのコンテクストの中に存在していたモノたちをコンテクストから剥ぎ取り素材として新しく出会い直す。それは彼女がそこに居たという事実によってのみ成立する刹那的な素材化の儀式なのだ。
調停役として
「出会い直す」という儀式は建設過程でも行われたと想像される。建築を作っていく過程において設計者はたくさんの素材たちが部材としてお互いに出会う過程に立ち会う。それは「納める」と言われる作業で、設計者は表現の精度を高めるためにそこに腐心する(と思っている)。彼女は、集まってきた部材たちをなんらかの抽象で囲い込むことなく直接的に出会わせている。型にはめてもらえない部材たちはぎこちなくお互いに譲り合い定着する。彼女はその過程に立会い調停役のように振る舞う。部材たちは“本来こうであるはず”や“すべき”というのを抜きにしたヒエラルキーのない出会い方を求められるのだ。
作家性
それが部材だけでなく構成や色、周囲との関係など、建築をつくるあらゆる要素において起こっている。バラバラなのだが、それら全てに共通するのは、彼女の「私が」「そのとき」「そこに居た」という事実なのだ。調停役のように振る舞う彼女の存在なくして全てはこうはならなかっただろう。趣向や手癖でなく、刹那的とも言えるその事実性が、裏返って強烈な作家性となってこの建築を覆っている。それが私の出会った《半麦ハット》だ。
うまい建築
途中、“冷蔵庫の残り物で作った料理”という誤解を生むような表現を使ってしまっているので、改めてここで述べておきたい。上記の表現は、料理に小慣れた人がササっとつくったようなものを指すので、どちらかというとその人の技巧的な部分に焦点を当てるときに使うが、私が言いたいのはそこではなくて、“なんだかよくわからないがいつもよく見ている食材でできていて、食べたことのあるような感じ”というモノ自体の印象の方である。そのなんだかよくわからない存在が、しかし安心感を持って受け取れる不思議さを表現したくて上記を使った次第である。そして体験してみた印象が“上手い”ではなく“美味い”と似た感覚だったこともここに記しておきたい。それから“なんだかよくわからない”ということも注視したい。《半麦ハット》がいい建築なのかそうでないのか私にはよくわからなかったが、私の知っている建築ではなかったことは確かだ。これからどのように批評され、位置付けられていくのかを注目したい。
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白須寛規(しらす・ひろのり) 建築家/designSU代表/摂南大学講師 主な作品、富士見台の家/並びの住宅など。
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初出となる『半麦ハットから』(2020、盆地Edition)は、VIRTUAL ART BOOK FAIR(盆地Editionブース)にて出展・販売しています。
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different-ywo · 4 years ago
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べつのなにかへ|半麦ハットから
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Hanmugi Hat
文|春口滉平(編集者、山をおりる)
初出|『半麦ハットから』(2020、盆地Edition)LINK Contribution #11
ここはどこだろう。目の前には木材でできた塀があって、向こうはすこし崖になっているみたいだ。崖の下には堤防があって、その先に海が広がっている。風が気持ちいい。 ぼくの皮膚は海に似ている。サイディングは1度に大量につくられていて、ぼくのと君のは同じものかもしれない。でも水平に置いてみてはじめて海に似ていると思った。 わたしには近くの電柱から線がつながれている。地球に飼われた宇宙船みたいだ。ここはどこだかわからないけれど、ここではないどこかに動けるのかな。行ってみたいところはとくにない。でも、わたしがわたしのままであるとは限らないので、わたしがわたしでなくなったら、ここもここではなくなるのかもしれない。��うなったらいいなと思う。ちょっと怖いけど。
ばらばらのジレンマ
私見だが、近年の建築意匠には「エレメントばらばら系」というジャンルがあるように思われる。ここでいうエレメントとは、柱や梁、屋根、あるいはボリュームの連なりなど、建築を構成する要素であり、全体ではなく部分を指している。この「エレメントばらばら系」は「エレメントまとまり系」と対比されていて、部分どうしが相互に作用して一定の関係性を持った場を構成する「エレメントまとまり系」の建築に対し、「エレメントばらばら系」の建築とは、エレメントがエレメント然としていて、つまりエレメントがばらばらになっていて、見知った関係性からずれた構成をした建築のことだ。 こうした「エレメントばらばら系」の建築には、次のような特徴がある。
1. 空間性を志向しない 2. 全体性を志向しない 3. 複雑性を許容する 4. エレメント同士の関係性に介入する
反対に、「エレメントまとまり系」についての特徴を「エレメントばらばら系」と対比して整理すると次のようになる。
a. 空間性を志向する b. 全体性を志向する c. 複雑な状態をあるひとつの状態へ構造化する d. 既存のエレメントの配置を守る
「エレメントまとまり系」は、特定の空間性や全体性を志向し、ひとつの状態へ構造化しようとするので、作者による「このようにしたい」という強い意志が働く。他方で、そのような単一の作者による意思をひとりよがりだとして、より他者に開かれた状態を目指そうとするのが「エレメントばらばら系」だと仮定できる。「ひとつ」を批判し、「全体」を批判し、ばらばらで複雑な状態を目指すのが「エレメントばらばら系」である。 しかし「エレメントばらばら系」の建築はしばしば、エレメントをばらばらにすることに腐心するあまり、エレメントをばらばらにすることが目的化しているような状況を生む。このような建築では、部分をばらばらに自立させることで「全体をひとつの表現ルールに統一しない」というアルゴリズムが発動するのだが、このアルゴリズムはじつは矛盾していて、「ひとつのルールにしないというひとつのルール」が敷かれていることになる。既存の規範から解放された自由な構成を目指したのにもかかわらず、そうした志向そのものが檻になってしまって、窮屈な状況を自ら用意してしまう──このような状況をここでは「ばらばらのジレンマ」と呼ぶことにする。
「ばらばらのジレンマ」は、批判していたはずの「ひとつ」や「全体」そのものに自らが転じてしまう現象である。固有の領域への「反 anti-」や「以後 post-」は、その対象となる領域に依存している。ポストモダニズムが近代の檻から抜け出せないのはそのためだ。「ばらばらのジレンマ」は固有の領域とその反/以後の領域とのはざまに発生する。私たちは、反/以後とはべつのしかたでの離脱、おそらくは、固有の領域を包含したままの離脱を目指さねばならない。
本稿は、「エレメントばらばら系」と「エレメントまとまり系」の二項対立を瓦解させ、反/以後とはべつのしかたで「ひとつ」から離脱する方法を、《半麦ハット》の読解をとおして検証するための試論、あるいは妄想である。
ばらばらとまとまり
《半麦ハット》は表現がばらばらだ。すくなくとも私にはそのように感じられた。空間性や全体性を志向せず、複雑な状況を���容し、エレメント同士の関係性について綿密に検討されている印象を持つ。 《半麦ハット》は、特定の表現に統一しようとしていない。目に見えるという次元では化粧材、下地材、構造材のヒエラルキーがない。巾木の高さが揃っていない。新しい素材の横にアンティーク素材が並んでいる。同じ素材でも塗料で塗られているものとそうでないものがある。 《半麦ハット》はまさしく「エレメントばらばら系」の必要条件を満たしているが、では《半麦ハット》は「エレメントばらばら系」かというと、そうとも思えない。どういうことか。
まず《半麦ハット》が「ばらばらのジレンマ」に陥っているかどうか考えてみよう。つまり《半麦ハット》は表現をばらばらにすることを目的化しているだろうか? 否である。なぜそう言い切れるかというと、《半麦ハット》には「エレメントばらばら系」の特徴だけでなく、「エレメントまとまり系」の特徴も見られるからだ。 《半麦ハット》の躯体は温室の転用で、水回りの機能が箱として入れ子になっているものの、全体は大きな一室空間になっている。外観も下屋のような屋根が付随しているだけで、ひとつの建物だという印象が強い。巾木の高さが揃っていないのは、床の高さが揃っていないだけで、GL(グラウンド・ライン)からの高さとしてはひとつのルールで処理されている。
《半麦ハット》には「エレメントばらばら系」と「エレメントまとまり系」が混在している。すでに「ばらばらのジレンマ」は解消されているのだ。ではなぜ、2つの体系が混在している状況をつくることが可能なのだろう。この問いに対して、次のような仮説を立てて、検証してみよう。 《半麦ハット》が2つの体系「エレメントばらばら系」「エレメントまとまり系」を混在させられるのは、エレメントがべつのなにかになるからである。
エレメントがべつのなにかになる
エレメントがべつのなにかになる。《半麦ハット》のエレメントは、そのただなかにあるのだ。 この2つの体系は、ともに事後的に操作、あるいは発見されていることに注意しよう。ひとつにまとまっているものをばらばらにする、ばらばらなものをばらばらなままにする、ばらばらなものをひとつにまとめる、ひとつにまとまっているものをまとまったままにする*1。ある既存の状態に対し、事後的に建築として操作/発見している。 《半麦ハット》のエレメントは、べつのなにかに変わろうとしている過程にある──ばらばらに/まとまりになろうとしている。私がさきほど《半麦ハット》のばらばら/まとまりの例としてあげた構成は、べつの時間、あるいはべつの人にとってはことなる感覚として現れているのかもしれない。ここには、設計時における決定が事後的に変化する可能性が散在している。
ところで、《半麦ハット》の設計者である板坂は、自らが記した《半麦ハット》についてのテキストが書かれた日付を気にしていた。オープンハウス時に配布されたハンドアウトにあるテキストには、「2019.10.12」とそれが記されたであろう日付が書かれている。同様に、大阪で開催された「Architects of the Year 2019」展に展示された《半麦ハット》のブースには、「本展覧会応募用紙にて」というただし書き付きで「2019.9.10」とある。 なぜ板坂は自らの言動の時間の前後関係を大事にしているのだろう。それは、ある時期に感じていたことがすこし時間が経つと変わっている、そのことに自覚的だったからではないだろうか。ここにも、ある決定、ある体感の、事後的に変化する可能性がかいまみえる。べつのなにかになる、そのただなかに流れている時間にこそ、板坂の力点がある。 また《半麦ハット》ではなにかがべつの用途に転用されることが多い。外壁用のサイディングが内部のカウンターに使われている、床に使われていたものと同じ石材がキッチンの壁面に使われている、そもそも住宅の構造フレームは農業用の温室の転用である……。ほかにもあるだろう。このことも、ものや状態が既存のまま固定されることなくつねに変化の可能性にさらされていることに、板坂が意識的であることの証左だと考えることができる。
2つの公共性
べつのなにかになる──それはエレメントだけなのだろうか? 《半麦ハット》は? 板坂は? べつのなにかになる──そもそもなにになるのだろう? エレメントがべつのなにかになったとき、それはエレメントなのだろうか? べつのなにかになる──《半麦ハット》には疑問が尽きない。私たちは、このようなつかみどころのないものに不気味さを感じる。なにになるかわからないものに、不安を感じる。 べつのなにかになる──このことで、《半麦ハット》のエレメントはばらばらになりつつもまとまっている。エレメント同士、あるいはまとまり同士は、それぞれに強い因果でむすばれているのではない。たまたまとなり合ったもの同士がその場で対応し、とりあえず、なにかしらの関係性をもつ。関係したとて、またいつかべつのなにかになってしまうのだから、毎回の関係に運命を感じない。
そのような抜き差しなる状況においてなお、《半麦ハット》はひとつの建築たり得ている。外からやってきた私たちが《半麦ハット》に不気味さを感じているあいだに、クライアントである板坂の両親はここに暮らし、豊かな生活を送っている。目に見えているものがばらばらになったりまとまったりするただなかで、なぜこのような状況が成立するのか──それは、《半麦ハット》には2つの公共性が取り巻いているからである。どういうことか? ここで、板坂のテキストに助けを借りてみよう。
先月竣工してからの間、家族として生活したり、内覧会を通してこの建築に接してきたが、この建築の意図が掴めずにいる。設計者本人なのにどうしてわからないのかというと、一般的に建築の意図が示している全体性に対する姿勢が、私の中から欠如しているからかもしれない。 その代わりに、部分同士が相対化される「構図」は常にあった。 ──板坂留五「展覧会に向けて」@ Architects of the Year 2019
設計者である板坂自身が「この建築の意図が掴めずにいる」、それは建築の「全体性」への意識が欠けているからである──このように読める。そして《半麦ハット》には、「全体性」のかわりに「構図」があるというのだ。ではその「構図」とはなにだろう?
ある部分の解決が、必ずしも他の部分の解決の方法と関係しているわけではない……どれかに比重が置かれるということによって、部分同士が相対化される「構図」が現れる。……〈半麦ハット〉において私は、淡路市東浦の構図を描いた。……それを見る誰かの視点は、〈半麦ハット〉を見ているようで、描かれた構図を通して街も同時に眺めている。〈半麦ハット〉を通して、設計者と施主をはじめとしたここを訪れる人がいつの間にか同じ側に立ち、この街を見ていた。 ──板坂留五「部分の相対化としての構図」内覧会ハンドアウト
本稿のことばを使えば、「全体性」とは「まとまり」に相当する。他方で「構図」は部分どうしが相対化されているのだから、そこに大きなまとまりはない。けれど相対としての関係を取りもっている。つまりこの「構図」のなかなら、目に見えているものがばらばらになったりまとまったりすることが許容されている。そして私が見た「構図」は「淡路市東浦の構図」なのだと板坂はいう。温室やサイディング、ペンキにいたるまで、淡路市東浦を構成しているもの(=エレメント)で《半麦ハット》が構成されているので、そのようにいわれても納得できる。私が見た「構図」、相対化されたエレメントは、淡路市東浦そのものだ。 先述した2つの公共性は、ともにこの「構図」に見ることができる。ひとつは「サンプリング」という行為によって生み出されている。板坂がサンプリングする構図は、その地域の名もなき建築家、建築教育を受けていない市井の人びとによってつくられている。そしてそれらはしばしば近くのホームセンターで買い揃えられている。あなたも、私も、淡路市東浦のホームセンターに行けば同じものを買える。先述の展覧会ではサイディングを含むいくつかのマテリアルのカタログが並んでいた。「見たことがある」という経験を介して、《半麦ハット》の構図の関わりしろの広さに公共性が生まれている。
〈私〉と公共性
私たちは、「反/以後」とはべつのしかたでの、固有の領域を包含したままの離脱を目指していたことを思い出そう。「エレメントばらばら系」は「エレメントまとまり系」から、あるいは近代的な「ひとつ」から離れることを目指していた。ところがその志向そのものが反転して単一のルールのように機能してしまい、「ばらばらのジレンマ」にからめとられてしまう。《半麦ハット》は、エレメントがべつのなにかになるという動き、時間に注目することで、「ばらばらのジレンマ」を解消していた。しかし、べつのなにかになるという状況は、なにになるかわからないという不安を駆りたてる。にもかかわらず、そこでクライアントは豊かな生活を送っている。 なにになるかわからないという不安と豊かな生活、この新たなジレンマを、《半麦ハット》の構図が生むふたつの公共性はすでに乗り越えている、というのがここでの仮説であり、そのうちのひとつは街のサンプリングをとおして相対化される「見たことがある」という経験によって生み出されていた。
さきほど引用した板坂のテキストをもういちど見てみよう。外からやってきた私たちが感じた不気味さと施主が過ごす豊かな生活は、だれもが「この街を見ていた」という一人称の視点の重なりによって同一視されている。もうひとつの公共性はここに発生している。 この2つめの公共性について、正直に告白すると、筆者はまだここから先の議論を構築できていない。なので状況の整理にとどまるが、いったんは次のように言い換えることができる。まず《半麦ハット》の設計者は板坂留五と西澤徹夫の2名である。板坂の修了制作がもとになっているので、主体は板坂になるのだろうけれど、作者としては2名に分裂している。そして《半麦ハット》ができるのだが、それは淡路市東浦の構図としてつくられているので、《半麦ハット》を経験する人たちはその建築をとおして総体としての街を見る。このとき、「設計者と施主をはじめとしたここを訪れる人がいつの間にか同じ側に立ち、この街を見てい」るという視点の重なりが起きている。このような「まなざしの複数性」には、ひとつめの多くの人びとが関わることができるという開かれた公共性とは別種の公共性が宿っていると思われる。 《半麦ハット》の構図の決定には、つねに板坂の身体性が寄り添っている。板坂は何度も現場に足を運び、工務店の職人と言葉をかわし、エレメントの関係性や施工について何度も検討している。他方で、全体を統一させるルールが存在しない(べつのなにかになる)ので、まとまりとしての個性がない。そして《半麦ハット》にまとまりとしての個性がないことと、設計者である板坂に個性がないことが、等価ではない。構成のところどころは個性的(ばらばら)なのだ。そこに板坂の個性が発揮されている。
《半麦ハット》の構図は板坂の身体性に依拠している、にもかかわらず個性がない。そして《半麦ハット》の構図をとおして、私たちは板坂と同じ〈私〉という地点に立つことができる──板坂になることができる。だから、《半麦ハット》の構図は板坂=私=あなたの身体性に依拠している。設計者が2名に分裂していたことを思い出す。 ここでの議論が建築を考える/つくるうえでどこまで有用か、そのことによってなにが生まれるのか、それはまだ私にはわからない。ただ、板坂は本稿での問いに感覚として気づいているのではないかと私は思っている。板坂が描く「多視点アクソメ」は、描かれたもの同士の関係を側面の開く向きによって表す図法だが、この図は同時に、現実にあるものと板坂との関係を示し、またさらに同時に、それらの関係を板坂以外の私たちと関係づける図としても機能しているように思われるからだ。 《半麦ハット》が示した公共性は、建築をとおして〈私〉の感覚をべつのなにかにつなげる、その回路を開いたように思えてならない。
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*1) ここではエレメントという解像度で検証しているが、たとえばマテリアル(素材)として考えたとしても同様だ。木材をそのまま使用する、木材に色を塗って使用する、サイディングをサイディングとして使用する、サイディングの小口だけ加工する、外壁用のサイディングを内装に使用する、などなど。建築とは、ものや状態を事後的に操作/発見する営みである。
春口滉平(はるぐち・こうへい) 編集者、山をおりる。1991年生まれ。建築と都市のメディア『山をおりる』『ちがう山をおりる』編集人。京都工芸繊維大学 KYOTO Design Lab エディトリアル・アシスタント。デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)企画スタッフを経て、2018年より『山をおりる』スタート。
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初出となる『半麦ハットから』(2020、盆地Edition)は、VIRTUAL ART BOOK FAIR(盆地Editionブース)にて出展・販売しています。
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