#D・H・ロレンス
Explore tagged Tumblr posts
Text
今日の名言 #恋愛
名言:
"男女間の友情はそれが本源的な感情である限り不可能です。"
D・H・ロレンス 作家
英訳
"Friendship between a man and a woman is impossible when it is rooted in fundamental feelings."
- D.H. Lawrence
ギャル風
「男と女が友達とかムリっしょ!マジで恋愛感情あるならさ。」
- ギャル風💕🥩
0 notes
Text
バートランド・ラッセルの言葉366_画像版 n.2743j (May 5, 2024)
私は既に,不当に(必要以上に)理性の奴隷になっていると非難されるのに馴れていた。そうして,彼(D. H. ロレンス)は私に活気を与える一服の不合理を与えてくれるかも知れないと考えた。事実,私は一定の刺激を彼から受けた。また,彼を知らずに書いた本の出来よりも,彼からの猛烈な非難にもかかわらず書いた本の出来の方がより良かったと思う。しかしこれは,(言うまでもなく) 彼の思想の中に,何か良いものがあったと言っているのではない。
I was already accustomed to being accused of undue slavery to reason, and I thought perhaps that he (D. H. Lawrence) could give me a vivifying dose of unreason. I did in fact acquire a certain stimulus from him, and I think the book that I wrote in spite of his blasts of denunciation was better than it would have been if I had not known him. But this is not to say that there was anything good in his ideas.. Source: Bertrand Russell: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968 More info.:https://russell-j.com/beginner/AB21-150.HTM <寸言> ラッセルが生涯で最も愛した女性(の一人)であるオットリン・モレル夫人(第6代ポートランド公爵の妹)の勧めもあり、ラッセルは D. H. ロレンスと、短期間(1915年1月頃から1916年3月まで)ですが、深いつきあいをしました。一致点は、第一次世界大戦に反対ということだけでした。ラッセルはロレンスの思想に良い点はほとんどないと考えていましたが「自分にない強さ」があることにひかれたと言っています。しかし、結局、共通点や共感できる点がほとんどないということで、喧嘩別れのような形で交際は終了しました。 二人の交際について詳しく知りたい方は次の論文を参照してください。 柴田多賀治「D. H. ロレンスとバートランド・ラッセル」 https://russell-j.com/cool/SIBATA.HTM
0 notes
Text
映画『裏窓』と『パラダイン夫人の恋』
非常に有名な映画で見たような気になっているけれど、実際には見たことのない映画というのがいくつかあります。先日見た『セヴン』もそうですが、ヒッチコック監督の『裏窓』(1954)もそういう映画です。
その『裏窓』がNHK. BSの「お昼の洋画劇場」(と勝手に命名)で放映されていたので、いい機会だと思って見てみました。
『裏窓』は「〇〇が選ぶ映画オールタイムベスト100」に名前を連ねるような映画ですが、実際に見てみると……
これ、つまんなくないですか?
足を骨折した報道写真家が自宅療���中、他にすることがないので向かいのアパートを覗いているうちに殺人事件に巻き込まれる話だというのは知っていました。
というか、そういう設定、つまり主人公がのぞきをしているという状況が私はあまり好きではないのでそれまで見なかったわけですが、それはともかく、その設定が全てであるような映画で、ひねりもなければ意外性もない映画でした。
意外性があるとすれば、それは主人公の写真家(ジェームズ・スチュワート)が上流階級の女性(グレース・ケリー)を恋人にしていることでしょうか。グレース・ケリーは非常に積極的で毎晩ジェームズ・スチュワートのアパートに通い、終盤では豪華なネグリジェまで持ち込んで「ここに泊まる」と言いますが、ジェームズ・スチュワートは彼女と結婚する気はないようです。
そんなことってありますかね。いや、あってもおかしくないとは思いますが、男にとって随分都合のいい関係だなと思ってしまいました。
もう一つ意外だったのは、向かいのアパートに住む中年のセールスマンが妻を殺したのではないかというジェームズ・スチュワートの疑いをグレース・ケリーとジェームズ・スチュワートの世話をしている看護婦がいともやすやす信じ、ジェームズ・スチュワートの手足となって働くことです。
でもそれ以外はーーラスト近くで足を骨折して動けないジェームズ・スチュワートが犯人に襲われる部分も含めてーー全て想定の範囲内で、ジェームズ・スチュワートが暗闇でストロボをたいて犯人に「反撃」するというのは正直、失笑ものでした(一瞬目がくらむかもしれませんが、「攻撃」になっていません)。
私自身はきっとどこかでひねってくるだろうと予想して、「ひょっとするとジェームズ・スチュワートの戦友の刑事が真犯人では?」などと思いましたが、全くそんなことはありませんでした(刑事はジェームズ・スチュワートの部屋でブランデーを飲む際、ワイシャツにこぼしてしまいます。私はきっと何かの伏線だろうと思っていましたが、そんなこともありませんでした)。
技術的にはジェームズ・スチュワートのアパートとそこから見える風景に場面を限定したという工夫があるのでしょうが、それもどうということはありませんでした。
うーん、どうしてこの映画がそんなに高い評価を受けるんだろう……不満が残る映画だったので口直し(?)にU-Nextで同じヒッチコック監督の『パラダイン夫人の恋』(1947)を見ましたが……これも全くダメな映画でした。
私は題名からD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋』のような物語だと思っていましたが、さにあらずーー法廷劇です。
物語はアリダ・ヴァリ演じるパラダイン夫人が盲目の夫を毒殺した容疑で逮捕されるところから始まります。グレゴリー・ペック演じるキーンなる男が彼女の弁護につくのですが、キーンは怪しくも美しい(映画内で���strangely beautifulと言っていました)夫人に惹かれているようで、キーンの妻ゲイは気が気でありません。
パラダイン夫人/キーン/キーンの妻ゲイの三角関係とパラダイン夫人の裁判が物語の二つの柱であるわけですが、どれほど美人でも弁護士が自分のクライアントに恋をするなんてことがあるんですかね。
いや、あってもいいし、あるんだろうと思いますが、それだときちんと弁護ができないんじゃないかと心配になってしまいます。
キーンはパラダイン夫人を無罪にするために、パラダイン氏の付き人であったアンドレ・ラトゥールという男に嫌疑を向けようとします。しかし、パラダイン夫人は絶対にそれはやめてくれと言います。
え? なぜ?
パラダイン夫人とアンドレは恋仲なの?
誰でもそう思いますよね。実際キーンもそう思いますが、パラダイン夫人はそれについては何も答えません。
[この辺りからネタバレになります。未見の方はご注意を]
とはいえ他にいい方法もないので、キーンは法廷でアンドレを証人として喚問し、彼に疑いを向けます。
裁判最終日、キーンはパラダイン夫人本人を証人台にあげます。喚問の途中、アンドレが自殺したという一報が入ります。
するとパラダイン夫人は涙を流し、アンドレを愛していた、彼と一緒になるために夫を毒殺したと告白します。
え? そうなの?
しかし……それでは意外性も何もあったものではありません。「そのまんまやんけ」と突っ込みたくなります。ビリー・ワイルダー監督の名作法廷映画『情婦』(『検察側の証人』)とはえらい違いです。
事件にもパラダイン夫人にも絶望したキーンはそのまま法廷を去っていきます(気持ちはわかりますが、弁護士が途中で弁護を放棄していいもんですか)。
そのあと打ちひしがれたキーンを妻のゲイが慰め励ます場面があり、一応ハッピーエンドですが、うーん、どうでもいいや。
私はヒッチコックを高く評価しています(というか映画ファンでヒッチコックが嫌いな人はいないでしょう)。『サイコ』と『鳥』は映画史に残る名作だと思っています(『鳥』の特撮は今見るとチャチですが、それは重要ではありません)。
『北北西に進路をとれ』も『白い恐怖』も素晴らしい映画だと思っています。
でも、『裏窓』と『パラダイン夫人の恋』は何のひねりもない駄作と言わざるを得ません。
それとも映画に意外性を求める私がいけないんでしょうか。
追記: アリダ・ヴァリはイタリア・フランス・アメリカをまたにかけ、キャロル・リード監督の『第三の男』(米)やルキノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』(伊)やアンリ・コルビ監督の『かくも長き不在』(仏)に出演した名女優ですが、顔が怖いというか、いかつい感じがして、私自身は美人と思ったことがありません。 「際物」というつもりはありませんが、ダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』(伊)にも出演してましたね。あ、同じアルジェント監督の『インフェルノ』(伊)にも出てたんだ(もちろんだからどうというつもりはありません。グレゴリー・ペックも『オーメン』に出演していますから)。 不思議な女優です。
追記2: 『裏窓』のひねり方についてーー私自身は主人公の戦友の刑事が犯人だというひねり方を予想してはずれましたが、それ以外にも例えば事件は覗きをしている主人公を酷い目に遭わせるために向かいのアパートの夫婦が仕組んだ狂言だったとか、殺人は起こっておらず全ては主人公の妄想だった、しかしその騒動のおかげで向かいのアパートに住んでいる孤独なオールドミスが自殺を思いとどまったとかいう結末もありえたと思います。 まあ、それがハリウッドのプロデューサーを満足させたかどうかはまた別の問題ですが、そちらの方が「粋」だったと思います。
0 notes
Text
2023/05/04
BGM: Flipper's Guitar - Big Bad Bingo
日々、職場に行きそこで求められた仕事をこなす。そうして日々は過ぎる。今日昼休み、何も読む気になれずぼんやりしていた時にふと「なんだか毎日同じことの繰り返しだな……」と思ってしまった。もちろん厳密に言えば細部は違うのだけれど、概ねやっていることと言えば同じようなもので決まりきった時間に職場に行き、顔なじみの同僚の方と決まりきった作業をこなしているというものだ。だがしかしそんな反復の日々を過ごす中で時間は確実に過ぎていき、季節も確実に変化しているのだ。そしてチャック・パラニューク『ファイト・クラブ』的に言えば、私の人生の持ち時間もどんどんゼロに近づいているのだから恐ろしくなる。こんな人生でいいのだろうか、と思う。いや、不満があるというわけではない。どうしてもこの状況に耐えられなくなったら、過去の自分なら酒に溺れて潰れていたと思うのだけれど今なら友だちと相談して状況を変えるなりこの仕事を辞めるなりしてなんとか状況を変えることを試みる。そうして状況を打破して、新しい人生を生きる。だが今はそうはしない。
そう思ってみると、この日記を書き始めたこともそうした状況の閉塞感を打破する試みと言ってもいいのかもしれない。前々から書いているが、なんらデカい野心も何もなくただ友だちと私の生活ぶりを分かち合いたいと思ったから書き始めたこの日記……だが、そうして日記を書くという作業をこなし自分の中を覗き込むと見えてくるものがある。今日、ふと10年ほど前に友だちから「もうそんな仕事辞めてしまったら?」と言われたことを思い出した。ああ、あの友だちはどうしているだろうか。私は結局そう言われても仕事は辞めずに続けてしまったのだけれど、その過程で死の手前まで行き着いてしまった。つらい人生だった。ひたすら車谷長吉の本にかじりついたりして……その後断酒を成功させて、今の生活を手に入れたのだった。日々、少しずつ状況は変化しそのような大きな変化へと私を導いているのを感じる。焦ることはないと自分に言い聞かせる。焦らないで、「凡事徹底」の心意気で日々を生きる。
今日は谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』を買った。そして読み始めるも頭に入らない。疲れているのだ……完全にこうしたエッチな作品に関心が向いている。今日も朝にジューン・ラブジョイさんのブルマ画像を見て興奮したりして、鼻血さえ出してしまい自分のテイストが子どもの頃から歪んでいることを思い知る。谷崎潤一郎はその性欲・情動を傑作として昇華したのだけれど、私はそんなデカい作品を書くことなんてできないからこの日記を書くのが精一杯だ。高校生の頃、村上春樹『ノルウェイの森』で描かれているレズビアンの描写に興奮したりしたっけ。何度強調しても足りないが、私はドがつく変態だと自分のことを自覚している。だが、それをあからさまにして「人間は皆変態なんだ」「性こそ人間が直視するべき根源的問題だ」と居直るのも違うと思っている。バランスを取れないものか、と考えている。欲望に振り回されるのが悲しい人間の性なのかもしれない。だが、その弱さをことさらに誇示して人を困らせたくない。
大学では英文学を学んだのだけれど、D・H・ロレンスを読んだことがないのを思い出した。『チャタレイ夫人の恋人』『息子と恋人』を読んでみようか……福田和也言うところの「ろくでなし」の営為として、つまりなんら高尚な営みとしてではなく「堕ちた」人たちの苦しみやあがきの産物としてこれまで自分は文学作品と親しんできた。私自身、『新世紀エヴァンゲリオン』的に言えば「ぬか喜びと自己嫌悪」の繰り返しで生きてきたようなものだ。それが人生なのかもしれない。ああ、過去に世捨て人を気取って物質的生活・世俗的生活から遠ざかって生きたいと思ったっけ。とかくこの世はくだらない、と。そんなことを考えることで性の欲動や妄想に振り回される自分から逃げたかったのだった。今は、どこに行っても自分はこの情欲や情動から逃げられないことを自覚している。たとえソロー『森の生活』を気取って森の中に行こうがどこへ行こうが、だ。自分が自分である限り自分は苦しむ。ならばその因果な自分の性を引き受けて、自分の人生に責任を負うしかないのかな、とも思う。「闇を見つめなさい ずっと眠らずに それこそが希望だと 気づく日が来るまで」(b-flower)。
1 note
·
View note
Text
『チャタレー夫人の恋人』 D・H・ロレンス 木村政則 訳
三島の『夏子の冒険』で復讐に目を輝かせ猟銃を持つ青年を読んで以来この本が気になってて、『モーリス』のアレックも気になったし、この本と『モーリス』とを比較したいと思ったりもして読むことにした。光文社古典新訳。
高校生だったか大学生の頃に、新潮文庫版で読んで記憶はある。まだ完訳ではなかった。
1926年から書き始められ、三稿目が完成品で1928年に出来たそうだ。ウィキで簡単に調べたら『モーリス』は1913−1914年の間に書かれていてフォスターの生前には発表されないようになってたし、書かれてすぐは限られた人々しか読めなかったのだけど、やはり森番との恋愛だからロレンスが『モーリス』の内容を聞き知ったかもと考える人はある様子。しかし、この件に関しては何も証明されていないとのこと。
解説で、この作品は階級問題に関してより言及されてるとあって、そこに注目しながら読んだ。そうだったよ。
クリフォード・��ャタレイは貴族ではなくジェントリー階級にいる大地主。
結婚したコニーは、父親がサーに叙勲された家族の出。
クリフォードは自分より少し下の階級の女性と結婚したんだ。で、このクリフォードの性格が酷いの。体に障害を持つようになってしまったからああなったのではなくて、元々が独善的な奴なんだと思う。階級差別区別するし、妻は夫の所有物と思ってるみたいだし。
最初の方で、クリフォードはコニーがいないと迷子になったように感じるとあった。そして、結婚前は、姉のエマが自分がクリフォードと一緒に小説を書くのだと考えていたとあった。クリフォードは女性の支えなしには生きられないタイプの男なのだろう。性的には元々淡白なようでもある。
コニーはクリフォードには温かい心がないと感じている。そしてクリフォードを言葉の人、人工な人だと疎ましく思う。そこへ、森番のメラーズ。坑夫の息子だが勉強が出来て軍人となり中尉までになり、地方の方言だけでなく上流階級の話し方も出来る。メラーズは階級を乗り越えて中尉になり、階級が作る「秩序」を壊した。言葉遣いでも上流階級の英語と方言を操って両方を行き来する。
クリフォードはセックスは卑俗で、奔放な性生活は下層階級のものと考えてるきらいがある。教養はセックスと相入れないと。そして上層階級には教養がある、と。領地にある炭鉱からもっと利益をあげられるようにとクリフォードはドイツ語の文献を読み漁る。実際、利益を上げる。クリフォードはコニーを崇拝するけれど肉体的接触は一切ない。
そのせいなのか何なのかコニーはやつれてしまう。こんな事ってあるのかねぇ?性生活がないための心気症?コニーの父親は発展家で、娘に貞淑を求めてない。結婚前にそういう恋人もあったし、クリフォードと結婚した後に愛人もあった。この愛人がアイルランド人で、早漏なの(これって差別意識なのか???と私には不愉快だった)。このアイルランド人との関係に愛情はなく、いわばコニーの性欲処理だったみたい。
で、メラーズと関係するようになって、すぐにではないけれどコニーは男性主導で絶頂を感じられるようになる。メラーズが絶頂に関する持論を語るところがあるのだが、女性が、男性が終わった後に一人で動いてするのは醜悪だと言う。これは嫌な考え方だと思った。
あとメラーズは金のために働いて疲れ切ってオス、メスの本能が損なわれて性を謳歌出来ないのは間違ってると言う。
コニーとメラーズがなんだかんだ言いながら楽しんでるのがクリフォードの領地内ってのが何とも物悲しかった。
さて、終盤、クリフォードが今でいうところの幼児プレイを介護人のボルトン夫人とする件で、作者、性的能力のない男は大人ではないと考えてるのだろうか、そうだとしたらどえらい男根主義者だ。時代が違うのだから(100年前の本だもん。女性に参政権が与えられてまだ10年しか経ってないときの作品だもん。しゃーないっちゃあしゃーない)。
読んで良かったと思う。あれこれ考えられたし、この森番は窓から侵入しない事が確認できたし。『モーリス』を再読する前に、『ワイルドフェル・ホールの住人』を先に読もう。これのドラマ版でルパートは放蕩貴族役なのだが、窓から無断で入るシーンがあるんだよね。原作にもあるのか確かめたいし、ブロンテ姉妹の作品だしで読んでみることにする。
あと、
「・・脳がないのは馬鹿。心がないのは陰険。肝がないのは軟弱。そして、男として野生的な本能に欠けるやつは、玉なし。つまり、飼いならされているわけさ」(p408)
の「飼いならされている」の英語が何なのか気になったので、図書館から原書を借りて後でチェックする。一応アップしておこう。
"You say a man's got no brain, when he's a fool: and no heart, when he's mean; and no stomach when he's a funker. And when he's got none of that spunky wild bit of a man in him, you say he's got no balls. When he's sort of tame."
でした。tame、そうだよな。
そうそう、クリフォードの友達で軍人になって人がいて、この人、女性が好きでないと言ったりしてるんだけど、この時代の独身主義者ってやつなんだろうな。
1 note
·
View note
Text
『昏い水』マーガレット・ドラブル
老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる挿話は、人物の内省やさりげない日常の断片であったり過去の回想であったりと様々だが、ひとまずは老いを主題にしていると言っていいだろう。
とうに七十の坂を越えながら、見知らぬ他人と何時間も一緒に過ごすのが苦痛という理由で、一人プジョーを駆ってイングランド中を駆け巡るフランが出会うのは、老人がその大半。迫りくる死期、弱りつつある身体能力、病からくる痛みと向き合いながらも、それぞれが自分の流儀で日々を生きる姿を、英国流のヒューモアと辛辣な人間観察によって、リアルに生き生きと浮かび上がらせる。
フランが住んでいるのは高層住宅。エレベーターがよく止まるので階段を上り下りしなければならない。少し躁じゃないのかと息子が思うくらい、常に動き回っていないといられない性格なのだ。仕事に出ていないときは、別れた夫で今はほとんどベッドに寝たままの元医師クロードのところにタッパーに詰めた手料理を届けたり、友人のテリーサやジョゼフィーンを訪ねたりと日々忙しく暮らしている。
老歴史家のサー・ベネットとその世話をしているアイヴァーが暮らすのは、北西アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島のひとつランサローテ島。クリストファーの妻セイ��は、この島でテレビ番組の取材中に突然倒れ、急逝したばかりだ。その時親身に世話を焼いてくれたのが、ベネットとアイヴァーの二人だった。事後の処理も兼ねて、島を訪れたクリストファーはベネットの住む「スエルテ荘」に厄介になっている。
社会的には中流にあたる階層の人々が多く、話題に上るのは文学や歴史、美術、音楽で、それもかなり突っ込んだ内容。たとえば、寝たきりのクロードの楽しみがマリア・カラスを聴くことだと言われれば、特にオペラ好きでなくても分かるかもしれないが、中皮腫を病んで体力が衰え、本棚の上の画集を取ることが難しくなったテリーサの兄が、ヤコポ・ダ・ポントルモの専門家と紹介されて、その絵が思い浮かばなければ、愉しみも半減してしまう。
フランのもう一人の友人ジョゼフィーンはケンブリッジのアテナ館に住む英文学研究者で今も週に一度成人学級を担当している。その研究テーマは「死んだ妻のまだ生きている姉妹」というものだ。週に一度木曜の夜に酒を飲む相手が同じ研究者仲間のオーウェンで、ケンブリッジのリーヴィス一派である。このオーウェンとベネットは旧知の仲というように、イングランドとカナリア諸島は、この他にもいくつもの線で繋がっている。
特にこれといった出来事が起きるわけではない。いちばんそれらしいのが、雨の中、湿地帯にある老人施設を訪れたフランが冠水した道路で立ち往生する場面なのだから推して知るべし。やむを得ず近くに住む娘の家に泊まることにしたフランは、地球環境を専門にしている娘の異常気象観測プログラムで、カナリア諸島の海底火山の活動が活発化していることを知り、息子にメールを送る。その頃クリストファーはベネットが倒れて、窮地に陥っているアイヴァーに寄り添っていた。
ベネットとアイヴァーは長いつきあいだが、同性婚をしているわけではない。ベネットが腰の骨を折ったことによって一時的に正気を失っていることがアイヴァーの苦境の原因だ。実質的には家族でも法的には他人である。もしものことがあれば、この異国の地で住む場所を失ってしまうことになる。陽光にあふれ空気の乾燥したカナリア諸島の暮らしを捨てて、じめじめしたイングランドに帰る気のしないアイヴァーは、今まで封印してきたベネットの遺言を読もうと決意する。
大した事件は起きないが、ベネットはただ転んだだけで正気を失うし、テリーサも書棚の踏み台から足を滑らせたのが原因で死期を早める。老人にとってはちょっとしたことが命取りなのだ。七十をこえてもバリバリ現役のフランやジョゼフィーンだが、フランは運転はできても電気系統には疎い。ジョゼフィーンヌにしてもDVDの取り扱いがよく分からない。そうした小さなことが老人を生きづらくさせている。彼女らよりは少し若い自分にも身につまされることは多い。
難民問題や民族独立といった政治的な課題から、同性愛者の抱える不安、老人問題といった身近な話題まで、多彩な話題を多くの人物に振ることで、ストーリーらしきもののない身辺小説的な話に立体的な構造を持たせることに成功している。女性の髪形や服装、化粧といったディテールを微細に描き分けることで、人物の個性を際立たせることの巧みさはいうまでもない。フランお手製の料理はイギリスの食事がまずいという先入観を打ち破るものだし、ワインやアブサンといったアルコール類への目配りも利いていて読む愉しさに尽きない。
エピグラフに引いたD・H・ロレンスやW・B・イェーツをはじめとする作家や詩人への言及もたくさんあるので、英文学愛好家には何かと読みどころが多い。何より個性あふれる人物が魅力的で、個人的には寝たきりの身でありながら美貌のジンバヴウェ人介護士を口説くことに成功する食えないオヤジのクロードに親しみを覚えた。飲み食いだけでなく、知的な会話や活動を含め、老いを描いているのに少しも枯れを感じさせない。これは国民性の違いだろうか。
日常会話の中にシェイクスピアやギリシャの古典、ベケットの戯曲、イェーツやロレンスの引用が頻繁に出てくるのは文芸評論家でもある作家ゆえかもしれないが、体が動かなくなるにつれ、人との交流は会話が中心になる。その際に、どれだけの引き出しを持ち、互いに相手ができるかが大事になる。医者通いや我が子の愚痴が共通の話題では悲しすぎる。我が身を振り返っても、文学の話のできる友人は身近にはいない。残り少ない人生を楽しく語り合える友を持つフランやジョゼフィーンが羨ましく思えた。
0 notes
Text
Gould's Book Arcade
シドニーの街を歩いていて、古本屋に遭遇することはめったにない。東京に暮らしていた頃は、仕事帰りに早稲田通りの古書店街でたらたら道草するのが習慣だったので、古本屋の絶対数が少ないのは寂しい。でも、数が少ない分、いまも営業を続けている古本屋には強烈な個性をもった店が少なくない。店の歴史、店主の経歴、そこに集まる人びとの層などに注目すると、シドニーの知られざる文化史の一面がかいまみえる。今回ご紹介するのはGould's Book Arcade、シドニー大学のキャンパスに程近い場所に店をかまえるシドニー最大の古本屋だ。
シドニー大学のキャンパスを出て、ニュータウン方面にむかってキング・ストリートを歩いていくと、レインボー・フラッグのかかったカフェやらアジア食材店の並びにGould's Book Arcadeがみえる。倉庫のようなぶっきらぼうな佇まい。店の入り口には、音楽やアート関連のイベントの大型ポスターが貼られ、手前にはアナルコ・サンジカリストのグループが作成した手書きの冊子、難民問題のデモのフラ���ヤー、先住民の権利擁護団体のチラシなどが置いてあり、その雰囲気はかつての大学の学生会館を思わせる。早稲田通りの古本屋と較べると店内は格段に広い。でも、ちょっと体格のいい人にとっては通路の幅がかなり狭く、身体を斜めにして本棚のあいだをカニ歩きしなければならない。人もまばらな平日の店内では、皆、黙々と本を物色している。
1988年開業のGould's Book Arcadeの特色はなんといってもその品揃えの専門性(マニアックさ)にある。大量の雑多なジャンルの書籍、雑誌、グラフィック・ノベル、DVDにまじって、オーストラリアの労働運動はもちろんのこと、世界中の労働問題にかんする希少本、絶版になった書籍がずらりと並ぶ。その圧倒的なラインアップは、退職した大学教授の個人研究室にあった蔵書をそのまま引き継いだかのようだ。そのほかにも、オーストラリア内外のさまざまな社会問題を扱った、図書館以外ではみかけない珍しい本を手に入れることができるシドニーで唯一の場所である。
ニュータウン通の友人に聞いてみると、店名にあるとおり、ここは有名な労働党員で活動家のボブ・グールド(Bob Gould, 1937 – 2011)という人物が経営していたことで知られる伝説的な古本屋なのだそうだ。1980年代から90年代にかけてニュータウンに住んでいたというその友人は、近所の中華料理屋で時たまグールド氏をみかけたことがあるらしい。体格のよい大男で、ぶしつけにみつめるような特徴あるまなざしの持ち主だったという。たしかにインターネットを検索すると、大量の本に囲まれ、少し気難しそうな目つきでこちらを凝視するグールド氏の写真が出てくる。2011年に店内の事故で亡くなり、それ以後は妻と娘が店を切り盛りしているとのこと。
世界各国で反体制的な政治運動が同時多発的に起こった1960年代、ヴェトナムに軍を送っていたオーストラリアでも大規模な反戦運動が巻き起こった。トロツキスト・グループのメンバーだったボブ・グールドは、このヴェトナム反戦運動で中心的な役割をつとめ、活動家として知られるようになった。1グールドはニュータウンの店舗以外にも、全部で12件の書店を経営したが(現在も営業を続けているのはGould's Book Arcadeのみ)、なかでも政治活動の仲間だったパーシー兄弟と共同で、1967年にGoulburn通りに開店したThird World Bookshopは、シドニーにおけるアングラ・カルチャーの伝説的な拠点として今なお語り継がれている。
ヴェトナム・アクション・キャンペーンの委員長をつとめ、オーストラリアにおけるヴェトナム反戦運動の急先鋒であったグールドの店Third World Bookshopは、カウンター・カルチャーに共鳴する若者たちのたまり場となった。店��集まる若者の多くは、グールド自身のような筋金入りのマルクス主義者というよりは、新左翼的な思想やライフスタイルに共感している人たちだった。〈ヴェトナム反戦〉というキーワードが、活動家、知識人、ボヘミアン、アーティスト、サイケデリック・ロックのレコードを物色にくる若者たちといったさまざまな人間をこの古書店に引き寄せ、多様な人びとの交流がうまれたのだった。在りし日の店を知る人物は、次のように回想する。
当時、生まれつつあった若者たちのカウンター・カルチャーに、ボブはすこし批判的なようだったけれど、彼は僕たちを受け入れ、僕たちの愚かな考えを正しい方向に導いてくれた……まぁ、彼の考える正しい方向に、ってことだけど。議論を好み、恐ろしく知的で、ときに騒がしくて熱狂的、強い季節風のようなパワーをもっていて、目立つ人物だったと記憶している……彼はいつだってそこにいて、つねに体制の中枢を吹き飛ばそうとしていた。2
グールドの店のもう一つの重要な理念は〈反検閲〉だった。1901年以降のオーストラリアでは、国外から輸入される出版物に対する検閲が実施されていた。3他国でも出版規制や裁判に発展した悪名高い作品——ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』、D・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』、ナボコフ『ロリータ』など——はもちろんのこと、ダニエル・デフォー『モル・フランダース』、ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』、オルダス・ハクスリー 『すばらしい新世界』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』を含む、5000点もの作品が「冒涜的で下品、わいせつ」な作品として輸入禁止書物のリストに加えられていたほか、雑誌『プレイボーイ』から女性団体が作成した避妊に関するパンフレットにいたるまで、性に関する言及のあるものは片端から取り締まりの対象になった。このような州政府による検閲は1970年代まで続いたという。
Third World Bookshopは検閲と闘う姿勢を貫き、ニュー・サウス・ウェールズ州で販売を禁じられていた書物、合衆国の地下出版のアングラ新聞やアンダーグラウンド・コミックの類を販売していたため、たびたび警察と衝突することになった。4よく知られているのはフィリップ・ロスの小説を販売したかどで警察の捜査が入った事件(1970年)だ。小説Portnoy’s Complaint(日本語題『ポートノイの不満』)は母親との屈折した関係や性的欲求に悩まされるユダヤ系アメリカ人の若者が、精神分析医を相手に繰り広げるモノローグを中心に展開される物語で、赤裸々な性描写を含み、1969年に出版されるとフィリップ・ロスを一躍有名にした。当局は、この作品��オーストラリアの読者にふさわしくない「わいせつ」で「不道徳」な書物として禁じ、作品についての書評までも検閲の対象とした。オーストラリア・ペンギンブックスはこれに抵抗し、この作品を地域的に出版する権利を得て販売に漕ぎつけたところ、Third World Bookshopを含む、複数の書店に警察が立ち入り、作品は押収された。
ネット古書店の存在が普及した現在、キング・ストリートにあるGould's Book Arcadeの売り上げもオンラインによるものが大半を占めるというが、5それでも店内を物色していると、労働問題の関連本を探しにきたという学生の声が聞こえてきたりすることもある。グールドは終生、労働党員を貫き、あくまで労働党内部から党右派の政策に異議を唱えるというスタンスをとったことが知られているが、その思想を反映しているのだろうか、難民問題、民営化問題、帝国主義的戦争、教育問題、先住民の権利を扱った本にはやはり多くのスペースが割り当てられている。ただ、Third World Bookshopの時代を思わせるアングラ・カルチャーにまつわる品物を店内で見かけることはあまりない。そのことについては少し寂しい気もするが、この古書店の存在そのものがシドニー・アングラ・カルチャーの時代の記憶を伝えつづけていると言えるだろう。
注
1活動家としてのプロフィールについてはMciloy& Boyleを参照した。
2 Graysonからの引用。
3豪における検閲についてはNile and Turner 134, Jones 137, Meachamを参照した。
4 Third World Bookshopと検閲についてはGrayson, Meachamを参照した。文中で言及したフィリップ・ロスの作品の事例のほかにも、オーブリー・ビアズリーの裸体画やミケランジェロのダビデ像をプリントしたポスターを販売したかどで警察の捜査が入ったこともある(Mudie 224)。
5 Stevensonを参照。
参考文献
Russ Grayson, “Farewell, Bob, and Thanks for a Life that touched so many,” Pacific Edge, June 19, 2011. 〈http://pacific-edge.info/2011/06/gould/〉
Sarah (Serje) Jones, "Australia: Literature.” Derek Jones, ed. Censorship: A World Encyclopedia. 137-138.
Richard Nile and Rea Turner, “Australia.” Derek Jones, ed. Censorship: A World Encyclopedia. 131-136.
Jim Mciloy & Peter Boyle, “Vale Bob Gould: 1937-2011,” Green Left Weekly, May 24, 2011. 〈https://www.greenleft.org.au/content/vale-bob-gould-1937-2011〉
Steve Meacham, “The filth and the fury,” Sydney Morning Herald, Feb 6, 2004.
〈http://www.smh.com.au/articles/2004/02/05/1075854000716.html〉
Peter Mudie, Ubu Films: Sydney Underground Movies, 1965-1970. Sydney: UNSW Press, 1997.
Andrew Stevenson, “Novel character who knows every trick in the book.” Sydney Morning Herald, Mar 26, 2011.
〈http://www.smh.com.au/nsw/novel-character-who-knows-every-trick-in-the-book-20110325-1c9yn.html〉
0 notes
Text
『洋酒マメ天国 29巻 NUDEのカクテル』
洋酒マメ天国の29巻は「NUDEのカクテル」と題して、稲村隆正、秋山庄太郎、中村正也、細江英公、篠山紀信によるスタイリッシュなヌード写真が手のひらサイズで楽しめる。序文は澁澤龍彦。そこで澁澤も触れているけれど、発行された昭和43年当時はまだ、裸体の芸術表現はいかがわしさとのせめぎ合いが避けられなかった。だからか、ヌード写真の間には村山槐多、アンドレ・ブルトン、D・H・ロレンスらの詩が添えられている。手のひらサイズの背徳感。
0 notes
Photo
伊藤整著
『裁判(下)』
旺文社、旺文社文庫
1 note
·
View note
Photo
伊藤整著
『裁判(上)』
旺文社、旺文社文庫
1 note
·
View note