#1989年1月20日
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2024年10月20日放送の「NHKスペシャル」で、同社の補償本部長が被害者の姉と電話で会話する内容が放送された。東山紀之社長に、故人となった被害者の墓参を要望する姉に、「何で東山がしなければいけないのか、分からない」「心の底からお詫びできない」などと返答。番組終了後から、インターネット上では批判が相次いでいた。 ■「誰が何を謝るんだというのが、分からない」 旧ジャニーズ事務所が、故ジャニー喜多川氏の性加害問題について記者会見を開いたのは2023年9月7日。その席で社長就任を発表した東山氏は、被害者に対して「法を超えて救済・補償が必要」と述べていた。 それから1年余り。「Nスペ」の補償本部長の話しぶ���には相当の温度差があった。 補償本部長と電話で話したのは、アイドルグループ「ジャニーズ」のメンバーだった中谷良さんの姉。中谷さん本人は故人となっている。1989年、ジャニー喜多川氏の性加害を告発する書籍を出したが、旧ジャニーズ事務所は事実と認めなかったという。 電話のやり取りで補償本部長は、謝罪を求める中谷さんの姉に、中谷さん自身が亡くなっているのを理由に「誰が何を謝るんだというのが、分からない」と返答。かつて中谷さんが告発本を書いたことを、会社が「痛めつけられたのは間違いない」とも発言した。 姉が、東山氏が中谷さんの墓前で謝罪するよう望むと、「何で東山がしなきゃならないのか」「心の底からお詫びできない」とまで口にした。 2分ほどのやり取りののち、本部長は東山氏と相談する旨を告げて電話を切った。
ジャニー喜多川の性加害「お詫びできない」 被害者家族に発言したSMILE-UP.補償本部長解任(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
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MEET YOUR HEROES: RICK HOWARD (Good case of IBS)
Rick Howardの長いキャリアの中において、彼は様々なことに関わっている―EMBのイノベーターであり、90年代のスーパー・チームの一員であり、そしてスケートシューズのパイオニアとして、最も重要なことは彼が「楽しむこと、友情そして創造性が他の何よりも大切である」と気づいた点である―特に冷酷なスケートボード・ビジネスにおいて。彼はサッカーボールをあなたの顔にぶつけ、あなたのシャツをトイレットペーパーに使う。しかしこれは1993年以来初となるThrasherのインタビューなのであります。ここにお集まりの皆様、カナダからやってきたRick Howardの登場です。 -Michael Burnett
-君はいわゆる「すべてのトリックを最初の6ヶ月で習得した」っていうSean Sheffeyタイプの一人だったのかな?
そうかもね。13歳で始めてスポンサーがついたのが16歳。これって早い「学習曲線」なのかな?オレらはただオーリーでなにか飛び越えたり、ジャンプランプやってたりして、その後ウォールライドが流行ったのかな?そんな感じだったよ。だから今あるトリックを身に着けていく状況じゃなかった。ハンドレールもまだ広まってなかったし。だから「学習曲線」で言えば全然緩やかな感じだったと思うよ。例えるなら「360サランラップ」対「今あるトリックすべて」みたいな感じじゃないかな。
-かなり早い時期にカルフォルニアに来たよね?初めてのカルフォルニアでの冒険はどんな感じだった?
その時のトリップが動画で残ってることに驚いてるんだ―友達の一人で一緒にスケートしながら育ったKevin Chan、それとこのトリップに一緒に行ったBen Chibber。Kevin は片手で持てるビデオカメラを持ってたんだ。オレらはグレイハウンドバスでサンフランシスコまで行った。なぜかっていうと、Sick Boys(1988年リリースのスケートビデオ)に出てきたスポット全部を回るって目的があったから。消火栓に縁石、あのビデオに出てた全部をね。オレらはスケートボードを持って聖地を回る観光客みたいなもんだった。 85年だったと思うけど、その時Mike(マイク・キャロル)に会ってるんだよね―直接ではないんだけど。笑っちゃうことに彼のミニランプを無断で滑ってたんだ。その後、ちゃんとした形で会うことになるんだけど、記憶だとオレらが勝手に自分のランプを滑ってるのを観てたんだ。彼は寝室の窓から見ていてムカついてる…。彼は��対そんなことないって言うけどMike独特の表情を知ってるよね?だから、ね…。
-当時、スポンサー契約っていうのは頭にあった?
あったね。そういう状況はローカルのパーク―Richmond Skate Ranchでも時々起きていたんだ。友達のPeter SullivanはSchmitt Stixから商品をもらってたり。Powellのチームが来たことがあって―たしかLanceとTony Hawkだったと思うけど、それって大事件で「ボーンズブリゲードが近所のパークに来たぞ!」ってことだから。結局、ローカルの何人かがPowellのライダーになった―Colinとその兄貴のCaseyのMckay兄弟とか。それを見てて「マジか。バンクーバーのキッズだよね。そんなことあるんだ」みたいに感じてたわけ。その後、自分でもBlockheadのDave Bergtholdからデッキをもらうようになった。それが人生を変えたよね。
-話をちょっと戻したいんだけど、Richmond Skate Ranchでの最高の思い出ってある?
すごいいっぱいあるよ。あの頃はむちゃくちゃ楽しかった。憶えてるのは地元に戻ってくるのが夜遅くになった日があって、たしか最終バスに乗り損ねたんだよね。その時期って、ちょうど皆がいろんなものを壊して回るのが流行りだした頃で―のちに彼らは自分たちをRed Dragonsって名乗りだすんだけど。で、その1人が小さな磁器の破片一つでどんな窓ガラスでも割ることができ���って発見したんだよね。それでスパークプラグから磁気の破片を取り出して、ちっちゃなスリングショットを持ってたやつが車の販売店の窓めがけて発射したんだ。窓ガラスが割れ落ちていくのを目にして!?ってなった。「マジかよ?バスもないのにオレらなにやってんだ?」ってなって、地元までほとんど走って逃げ帰ったんだ。あの頃は「悪ガキ行為」がたくさんあったね。誰かがセブンイレブンで「襲撃だ!」って叫ぶわけ、で20人ぐらいのキッズが菓子だったり宝くじを盗んだりとかね。のちに何人かはCrime Stoppersってテレビ番組に出たりしたよ。だから、ものすごく楽しかった時期。めちゃくちゃ忙しくやらかしてた頃だけど、楽しかった。
-どういう流れでBlockheadからプロになったの?
Daveにサンフランシスコの"Back to the City"プロ・コンテストに出る気ある?って言われて。めっちゃ緊張したね。Tony Hawkの後、Mark Gonzalesの前だった記憶なんだけど、出場前に裏で吐いちゃったんだ。「ダメ。できない」って感じ。憶えてるのがSheffeyがちょっとした安心する一言をくれて、「オーライ。もういいや。なんでもこい。戻ってスケートするだけだ」ってなったんだ。
-Blockheadからリリースされたデッキ「スカンクとルートビア」のグラフィックは、なにを意味してたの?
それはたぶん、オレがIBS(過敏性腸症候群)のすごく良い例だからじゃない。オナラがすごく出る。それが「スカンク」。で、たぶんよく「ルートビア」を飲んでたから、(グラフィックを担当した)Ron Lemenが使ったんだと思う。あのグラフィック、実際気に入ってるんだよね。
-君はある意味、IBS(過敏性腸症候群)で有名だよね。聞いたところではBlockheadのビデオでシミのついた短パンで滑ってるシーンがあるとか。
あるね、EGで。たしか「Splendid Eye Torture」(1989年リリースのスケートビデオ)でちょっとしたシミが映ってると思う。スクショで送れるよ。
-履いてたLimpies(90年代のアパレルブランド)に?
LimpiesだかT-Bagsにね。 嫁Meganとの最初のデートで―彼女は君にこの話した?当時、World Industriesに勤めていた彼女のことが好きになったんだ。普段から見かけていて、ある日デートすることになった。Redond Beachに遊びに行くことになってちょうどIBSがはじまって-クソしたくなったら「どこでする?ここでなにが起きる?!」ってなるだろ。で、車を停めた。この頃彼女はなんも知らなかったけど、オレはかなり焦ってた。「そうだ、ビーチまで下りていけばトイレがあるよな」って思いついた。だけど、トイレは閉まっててオレはシャツも靴下もない状態で戻っていった。トイレの脇で済ませてシャツと靴下をトイレットペーパー代わりに使ったよ。その姿を��見て「なにがあったの?」ってなってたけど、彼女はオレとの最初の夜を乗り越えたんだ。そこで思ったよ、「オッケー、彼女なら間違いない」って。
-90年代のEmbarcadero(EMB)のスケートシーンがどんな感じだったか説明してくれる?
それか。そうだな、最高の毎日だった、それは確実だね。当時Mikey(マイク・キャロル)の家に寝泊まりしてたから毎日あそこに滑りに行っていて―Henry Sanchezが新しいトリックをメイクしたりとか、なにかしら新しいことが起きてた。すごかったね。Kelch(ジェイムス・ケルチ)や皆があの場所をどうやって取り仕切っていたかも、振り返ってみるとすごかったなって思う。だから、彼らと一緒にスケートしてあの楽しい日々を送れたってことに感謝してる。あの場所が今みたいに有名になるなんてビックリだよ。後から聞くことになったんだけど、国中からスケーターが集まってきて、彼らを有名にしたトリックを「ザ・セブン」でやりだす前―その頃には俺はもうそこにはいなかったんだ。それは後の話だね。だから有名になる前の、ちょうどいい量のEmbarcaderoについての思い出がある。あそこは特別な場所だったんだ。
-君がPlan B結成を一番初めに知ったのはいつだった?
1989か90年の夏にヨーロッパのMünsterでコンテストがあったんだ。そこで、Danny(ダニー・ウェイ)が「見ろよ、これが始まるんだ」って、関係者のリストを見せてくれて、そこに俺の名前も候補として入ってたんだ。「え?うそでしょ。なんでこのリストに?」ってなったよ。Mikeyに(彼がこの件について)なにかしら関わっているのかどうか質問しないわけにはいかなかったね。間違いなく関わっていたと思うけど。
-あのビデオ(「Questionable」1992年)撮影時、新しいアプローチの作品になるのは君の中では明白だった?
そうだね、正解。H-Streetがすでにビデオをリリースしてた��、その内容は今まで見たことのないトリックの連続だったよね。Mike T(マイク・ターナスキー)の話からもその方向になるってわかってた。カメラの前で初めてメイクしたトリックも多かったよ。今になってみると「うわーめっちゃグラついてるしクオリティ低い」ってなるけど、今までやったことなかったり見たことのないトリックだったらその当時はクールだった。楽しかったよ。
-Matt Hensleyが(Plan Bの)最初のビデオで引退したことは良く知られてる話だね。
それからSal(サル・バービエ)が次だったよね?
-そうそう。当時、「わー、歳とってスケートしてたら自分の意志じゃなくてもリタイアさせられるのかも」みたいな感覚はあった?
うーん、あった。そういう雰囲気はかなり漂ってたね、もし君がその時23歳だったらそう思ったかも。なんていうか、クレージーな話だけど。その頃って「古いものはアウト、新しいものが正解」みたいな感じだったよね?そんな空気はたしかにあった。それがオレたちがGirlを設立したひとつのきっかけになってるかもしれない―(自分たちで会社を立ち上げれば)意志に反してリタイアすることないなって。おかしな時代だったね。
-Girlのチーム内でロゴについて反発はあった?
いや、記憶にないね。
-それとかブランドネーム自体?
Carrollがあの名前を思いついたんだ。反発があったって誰かから聞いたの?
-じゃなくて、個人的に気になってたんだ。19歳ぐらいのタフになろうとしている連中が「ロゴは女子トイレのマークにする」って言われたらどう思ったんだろうって。
だね。それってつまり、Carrollがどういう脳の使い方をするかってことだよね。人をおちょくるようなことが大好きなんだ。そう、だから反発はなかったよ。ロゴはもっと後にできたと思う。Mikeは「コンテストで『さあ、次は『女の子のためにスケートしている○○』ってアナウンスされたら笑えるよな」みたいな感じ(※通常、"skate for ~"の~にはスポンサー名がアナウンスされる)。彼はそう聞こえたらおもしろいよなって思ったんだ。特に長い間深く考えたネーミングじゃなかった。いろんなアホみたいなアイディアがあわさって、あの女子トイレマークがロゴになってツアーに出たんだ。
-GirlとChocolateって「スケート業界の老兵」にはどんな風に受け止められたの?
Girlをやり始めた頃はたくさんいる友だちを加えることができなかった。で、Girlが回りはじめた頃にChocolateをスタートさせた。だけど老兵には理解できないわけ。「こいつらなにやってんだ?また別の会社始めるだと?」みたいな感じ。で、老兵が集結するような感じでオレらを材木加工業者から締め出したんだよ。当時は2、3の業者しかスケートボードデッキを受注してくれなかった。Schmittはオレらのデッキを生産してくれたんだけど、老兵が彼に詰め寄ったんだ。「アン��がやつらを許すってことはスケートボーディングを滅茶苦茶にしてるってことなんだぞ」みたいな感じでね。Paul(ボール・シュミット)は協力的だったけど、周りに脅されたんだと思う。Fausto(ファウスト・ヴィテッロ)に出会った時ことを覚えてるんだけど、彼はとっても興奮してくれて支持してくれた。オレらのウィールを生産してくれるって言ってくれて、それからもいろんなアドバイスやヘルプをできる限りしてくれたんだ。素晴らしい人だよ。彼の協力には本当に感謝してる。なんだけど、そうオレらは家具メーカーのTaylor Dykemaにデッキを発注するしかなかったんだ。理由は君が言ったように老兵が「ダメだ。おまえら他のことやってろ」って態度だったから。まあだから、困惑したよね。
-ヤバいね。Spike(スパイク・ジョーンズ)とはどうやって繋がったの?
オレらはただバカやって遊んでただけだよ。なんていうか、彼は今でも大きくなった子どもで「遊ぶこと」が好きなんだ。探求するのが大好き。今でもなにかを学んでる、そういうところが好きだね。出会えてすごくラッキーだと思う。しっかりした人間だし、最高の一人。
-たぶん無計画に方向づけされたんだとは思うんだけど、今までにオフィスで働くことで自分自身のスケートキャリアを犠牲にしたって感じたことってある?
Mikeがその話したの?
-いや、これはオレ自身からの質問だよ。
その質問は興味深いな。Mikeと共有した経験だからね。そうだね、苦しい思いになることもあった。でも、「ノー」だね。オレらの仕事は、一緒に働いている皆の喜びの為だし、それってかけがえのないことだから。まあでも、なにかを成し遂げるには時間がかかるだろ。もちろんそういう出張だったり、時期は当然あったよ―「ああ、みんなとスケートできたのになあ。もったいないなあ」なんてね。でもね、聞いてほしんだけど、結局は正当な理由があるからなんだよね。だから、キャリアを犠牲にしているとは考えないようにしてる。そんな考えが出てくる時って不思議だよね―オレはオフィスに一晩中ってわけじゃないけど「いる」。それは「その分、時間が経過した」ってことになる。でも、振り返ってみても「スケートすることだけ頭にあって、(現在の)責任ある立場にいない」という選択をしていても不思議じゃないからね。うん、どうなってたんだろうね。
-DC(スケートシューズ会社)とスケートシューズのゲームに乗り出した時の話を聞かせて。
素晴らしかった。すべての工程に関わらなきゃなくて、それからオレが一足作ることになったんだけど、その当時のオレたちの好みにはまるのがなかったんだ。だから現行のシューズと違うものを作り出さなきゃならなかった。クレージーだったよ。最終的には家を一軒買えるぐらいの経済的恩恵に与れたと思う。はじめは、正直乗り気じゃなかったんだ。自分のモデルのスケートシューズを出すなんて「陳腐で安っぽい」って思ってたから。でも誰かに「やったほうが良い��」って言われて、実際にやった自分を褒めたいね。Huf(キース・ハフナゲル)やDanny(ダニー・ウェイ)のような一緒に旅行に行きたいと思う連中すべて、憧れていた全員と過ごすことができたから。楽しかったけど、次第に何人かは別の道を選ぶことになったんだ。
-GirlとChocolateには「90年代初めの重たい状況」から出てきたパイオニアたちであり仲間同士の「バイブス」があった。そこから君たちはオリジナルのクルーではないスケーターを加入させていったよね。それって難しいプロセスだった?
自然とそうなっていった感じなんだけどね。何人かは以前よりスケートしない時間が増えていったり、別の興味を追求しだして―まだコンテストが重要視されていて頃だよね、McCrank(リック・マクランク)とBrian Andersonの2人がどんな大会でも入賞してヤバいビデオパートを残してたんだ。何人かに「このMcCrankとかいうヤツ、聞いたことないな!」みたいに言われたことを憶えてる。彼の加入は何人かの機嫌を損ねることになったね。
-その時期って、君がTy Evans(フィルマー・ディレクター)と作品に取り組み始めたのと同じ頃でもあるよね。なにが君のスケーティングを「再点火」させたの?
オレたちがPlan Bから離脱した時には、みんなもう疲れ果ててたんだ。最終地点まで、かなりの激務だったからね。それからGirlをスタートしてからは「なんでもいいから撮る」みたいな感じで、ボロいカメラでお互いを撮影してた。「Goldfish」はかなり経費がかかったけど、楽しかった。だからいくつかビデオをを作って、何年か楽な感じで過ごしてた。その後、Mikeに火がついたのに気がついたんだ。「このビデオパートにトライする、マジでやる」みたいな感じで。で、それから彼らと一緒にスケートするようになって、うん、あれは特別な状況だったね。楽しかった。Tyと一緒に作ったビデオは驚異だね。言い訳ができないんだ―彼はどんなものも「スケート可能」な状態にしちゃうんだ。「照明を点けろ!」なんて言ってね。それがオレたちをハードにトライさせる状態に持っていったんだ。
-その時にいたキッズたち、P-Rod(ポール・ロドリゲス)、Biebel(ブランドン・ビーベル)やSherm(ジェレム・ロジャースのニックネーム)はどんな様子だった?実際の10代をツアー・バンに詰め込むのはどんな感じだったのかな?
あれはホント楽しかった。JeremeとPaulはヘッドフォンをシェアしたりしてたね。キッズ、若いやつらと一緒にいるのって、自分がバンでツアーしていた頃を思い出させてくれるんだ。Biebelはヤバかったね。最高の時間だった。彼とサクラメントで過ごした週末?最高だったね―川でただプカプカ浮かんでみたり、昼も夜もスケートもして。それとヤツのエネルギー。たぶん君も体験したことあるだろうけど、あのエネルギーには誰も勝てないね。
-00年代を通して、本当にヤバいくらい積み重ねられたチームライダーたちが出てくる重要なビデオを作って���てるよね。妥協しなければならない場面もあったと思うけど、チームライダーが去っていくベスト、またはワーストの状況ってどんな感じ?
なんていうか、家族みたいなものだから悲しいことではあるんだけど、場合による。初期はマジで今まで経験したことないもない最悪な出来事だった。実際の友達でもあったわけだから。いつどのタイミングでプロとしてデッキをリリースするべきかをチームライダーと話し合う、そういう立場になることにオレは同意してなかった。今はそんなことはないけど、スタートした頃は本当にラフな感じだったんだ。Mikeがいつも言うのは「くだらないことを言ったやつらが、少ない額で解雇されてきた」なんだ。誰かに去ってもらわなきゃならない場合、良い気分のはずないよ。オレらと一緒にやってきたこと以外に、彼ら自身の創造性を伸ばしたいとか何かを新しく始めたいとかであれば、それは別のシチュエーションになる。最悪なのは、その後の人生で繋がりや友情を失ってしまうことだよね。今まで仲良くしていた皆と、いまだに友達であり続けられているオレは幸運だなって思う。たとえば、New Yorkに行くならBrianがいるのを知ってるからいつも連絡するみたいに。すごいことだよ。この一連のできごとの最良の部分、それって「繋がり」なんだ。だから関係が悪化したときは悲しいし辛い。さらに、時には手に負えない状況もある。オレはただ単に、皆になにかをやるチャンスがあることが嬉しいよ。スケートボーディングには違う側面もあるよね。つまり、大金が流れ込んできたことで人生が一変した人たちもいるから。
-オレたちが2004年にKIng of the Road(Thrasherの名物企画)に行った時、オレはBrian Andersonがゲイであることを知ったんだ。だから君たちの間では共有されていた話題なんだと思う。それから数年後、彼は公にカミングアウトすることになる…。
その時点で知っていたかわからないな。
-ある人物から聞いたんだ。
了解���それってオレらがZeroに負けたとき?
-オレたちはいつもZeroに負けてるよ
知ってる。クソ、Jamie Thomas(ジャーミー・トーマス)め!オーケイ、そうだな、オレたちは他の機会で(その件について)話したことがある。オレたちはBrianと最高のカミングアウト・パーティーをすることになったからね。
-どんな感じだったの?
オレらはSpikeのパーティーにいて、近くに滞在してたBrianもやってきた。たしか最初Meg(嫁)と話してて、それからこう言ったんだ。「ヘイ、俺がゲイだって知らせておきたかったんだ」。これが笑えるんだけど、彼女から聞いたのは、その時振り返ってオレをみたらオレは誰かの肩に乗ってダンスしてたみたいで、彼が「次はRickに伝えてくる」ってなったんだって。でも彼が話してくれた時、すごく楽しかったのを覚えてる。裸になってプールに飛び込んだかって?オレたち最終的にHollywoodのいくつかのバーに流れ着いた。まあでも、楽しい夜だったよ。もっと友達があんな風にカミングアウトしてくれたらいいのにって思う。そしたらお祝いできるからね!楽しい時間だった。
-うん、なにしろ90年代初頭なんて「黄色いTシャツを着てスケートしたから」って理由で周りから追放されたからね。だからこの件に関して君たちに躊躇いがなかったのはクールだった。
でしょ?うん、たしかにそんな風潮だった。それか「適切じゃないズボンを履いてる」とか、そんなのでしょ?まさにね、あの時代はすごく偏見も派閥意識みたいなものも強かったよね。
-君が故意に、あるいはアクシデントで最悪に誰かを傷つけてしまった経験は?
Carrollに聞くべき話題。オレとしてはだんだん落ち着いてきたと思ってるんだけど、一番最近だと、あるツアーでのこと。空気の抜けたサッカーボールがあってさ、それをピント(※フットボールで両手で持ったボールを落として蹴る動作のこと)したら、それが完璧なカーブを描いて50ヤード先のMikeの顔面にヒットしたんだ。で、彼は今までみたことないぐらいキレた。終いには「こんなことがファッキン30年間あったんだぞ!」って叫んだんだ。それを聞いてさ、わかるかな?彼が言ってることは正しいんだ。オレはずっとこんな調子のバカなんだよ。たぶん彼には「いつ痛めつけられるかわからない状況への耐用年数」みたいのがあって、そこにプラスしたような感じ。Mikeの「ちょっかいを出された場合の耐用年数」を越えちゃったんだね。
-自分で自分を痛めつけた経験は?もしかして間違った薬で、あるいは正しい薬を大量に摂取して有害な影響が出たことってある?
うわ。落ち着かない気分にさせる質問だな!まあでも、あるよ。本当に若い頃、たしか14か15の時に間違って大量のアシッドをキメちゃったんだ。いつ素面に戻るかわからなくなって怖かったね。数日後、医者のところというか病院に行ったんだ。その医者には「うーん、大丈夫でしょう。温か��ミルクを飲んで安静にしてください」って言われた。その後再診を受けたら「言いたくはないのですが、あなたと同じことをして元に戻れなかった人たちもいます」って言うんだ。おそらくそれが今のオレである原因。良い気分じゃなかったね。たしか3、4日間ぶっ飛んでいたと思う。あれはクールじゃなかったね。
-Girlのビデオに出てくるスキット(寸劇)で好きなのはどれ?
Owen Wilson(俳優)があのセリフを練習して現れた時は、度肝を抜かれたよ。その時初めて「Hard Out」って業界用語を知った。たとえば、「Owenは20分でHard Outしなくてはならない」みたいな感じ。彼はあれを1、2回で撮り終えたんだ。Meza(Aaron Meza ディレクター・プロデューサー)があのセリフを書きだして「この男、どうやってこんなにスケーターみたいに喋れるようになったんだ?」って昂奮してたよ。彼の最初の演技を見てオレらは抑えきれなかったね、大爆笑。まあでも、Spikeとの仕事はいつでも楽しいんだ。スキットをやるだけでも彼とふざけまわってるのは楽しいからね。実を言うと今、ちょうどLakai用にもスキットを撮り終えたところ。口ひげとカツラをつける時はいつだって楽しい日になるんだ♠
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2023小橋共作誕生日絵、元ネタの多さとわかる人の少なさ。ちょっとだけ書いておきますね。
単独のポスター
「ひきちぎる」「ふりたてる」「みせつける」「よみがえる」の光の当たり方は蘇って今、最高値のドンデコルテが陽の目を浴びるのだ❗️という……
ピンクいスクーター
「チェリー」小橋さんの愛車。後ろの張り紙は第二回単独で展示されてたチェリーの紹介文章。他にも展示の要素が多々あり。
星の照明
小橋さんの誕生日、6/17はタロットだと「星」だから。
ハイリアの盾
なんだかんだオカリナだったりBOWだったりちゃんとゼル伝やってるイメージがあるから。ゲーム配信とかしてくれてもいいのにー!と思っています。ドンデコルテ唯一のゲーム配信はこばしがんばるラジオ(公式雑談)のゼルダ回のみ。
ミートソース
小橋共作さんが1番プッシュしてるお料理要素、それはミートソース。皿と机、ついでに床の敷物は知りうる限りで実際に小橋共作さんが使っているものをベースに書いています。
切手シリーズ予備知識
ドンデコルテの結成日 2019年11月20日
結成を意識した時のネクタイの名は「覚悟」
渡辺さん誕生日 1985年8月2日
小橋さん誕生日 1989年6月17日
豆知識
ドンデコルテの綴りは「DONDECOLLETE」であると言いまくってるのは私。実は、これだと正規の仏語読みはドゥコレット。ドゥと読ませないための点をeの上にうつ。eだけだとゥになる、エと基本読まないから、読ませるためにアクセント。ドンデコルテと読ませるなら「Dondécolleté」となる。諸説あり。
切手シリーズ W-1
ドンデコルテのオタクの謎文化「略称W」今や銀次のGかもしれないと思う気持ちもあるけどつかみは渡辺だしなと日々考えています。
切手シリーズ K-1
ドンデコルテのオタクの謎文化「略称K」いいデフォルメ。わかりにくいですが、実は小橋さんがムキムキというのを少し表したかったので胸張ってます。
切手シリーズ たばこ
渡辺さんはキャメル、ピース、キャプテンブラック。小橋さんはアメスピのターコイズ(詳細はwikiに書いています)。色面構成したくてこの構図。
切手シリーズ 靴
ドンデコルテといえば、「靴」なのかなと思い制作。それぞれの立ち方、雰囲気を構図に落とし込めてて秀逸。渡辺さんの靴磨きインスタライブのおかげで誰よりも舞台靴に詳しい人間になっています。
切手シリーズ 伝承
記録に残したい、歴史に残るような面白さなんですよという雰囲気で描いています。いい感じに小橋さんのもつ南国感をちょっと斜めから表現できてて感動。ドンデコルテに必要なのはドンデコルテを伝える(布教する)人、そんなことから伝承という言葉を選んでいます。
切手シリーズ 夜
イメージは「朝焼けも夕焼けもないんだ」です。舞台の姿ではないから立ち位置は逆を想定し、片方は何かに気づき、それ��紫煙で返事を返すような、そんな距離感が出てれば嬉しいです。実は背中合わせの構図でも全然いいので解釈は自由。
小橋のきゅうくらりん素材
コント「傘」
シチュエーションコントで披露され優勝し、七月のJimbochoグランプリ総合7位だったネタ。画面構成ぢからが誰よりも鋭く、それがネタの中に滲んでる渡辺さんのセンスの良さ、美的感覚が大好き!構図が上手い。
<i>✨なかむらしゅん✨</i>
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現在の静岡県藤枝市出身。 自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決確定後、再審第一審にて無罪判決)などの冤罪事件を生む温床ともなった[1]。 あらゆる手段を用いて被疑者を拷問し、自白を強要させるなどしたことから「昭和の拷問王」、「冤罪王」と称されている[1]。 紅林はさまざまな拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず部下に指示を出していた。また、二俣事件における山崎兵八の書籍においては真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。 上記4事件のうち島田事件を除く3事件が一審・二審の有罪判決の後に無罪となり、島田事件も最高裁での死刑判決確定後の再審で無罪が確定した。幸浦事件・二俣事件の有罪判決破棄差し戻しの時点で御殿場警察署次席警部の地位にあった紅林は、非難を浴びた静岡県警上層部によって吉原警察署駅前派出所へ左遷された。しかも交通巡視員待遇という実質的な二階級降任だった。 紅林は世間や警察内部から非難され精神的に疲弊しきっていたが、1963年(昭和38年)7月に幸浦事件の被告人に対する無罪判決が確定したことにより、気力が尽きて警察を退職。同年9月16日に脳出血により藤枝市志太の自宅で死去[2]。55歳没。 紅林の捜査法 前述の通り、紅林は拷問による尋問・自白の強要・自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者だった。また、アリバイが出てきそうになった場合は犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者が推理マニアであることや被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画が上映されていることなどの傍証を積み重ねる手法でアリバイを否定しようとした。 これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ、これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし『妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)』として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑があるほか、主犯とされた男性は拷問によるためか持病(てんかん)の悪化により僅か34歳で上告中に死亡した。 紅林の捜査法に見られるような強制・拷問または脅迫によるなど任意性に疑いのある供述調書は、刑事訴訟法第322条第1項および第319条第1項により証拠とすることができない。小島事件では実際に紅林の捜査法に最高裁の判断が下された。この最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場へ戻ってくるたびに赤チン(局所殺菌剤)を塗るなど治療を受けていたという証言などを認定し被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについて疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された供述調書の任意性を否定し被告人に有罪を言い渡した原判決を破棄差戻しとした(後に無罪確定)[3]。 主な時系列 1942年正月、静岡県警察部浜松署署員らの記念写真。 左端に当時磐田警察署所属の刑事、紅林巡査部長 1938年(昭和13年)8月22日、2人の女性が殺害される(浜松連続殺人事件の犯人が最初に犯した犯罪) 1941年(昭和16年)8月18日、1人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件) 1941年(昭和16年)8月19日深夜、3人が殺害される。(浜松連続殺人事件) 1941年(昭和16年)9月27日、犯人の兄、姉、両親、兄の妻とその子供の計5人が殺害される(浜松連続殺人事件) 1942年(昭和17年)8月25日、4人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件) 1942年(昭和17年)10月22日、浜松連続殺人事件の犯人が逮捕される。 1944年(昭和19年)2月23日、静岡地裁浜松支部は浜松連続殺人事件の被告人に死刑判決。被告人は上告。 1944年(昭和19年)6月19日、大審院は浜松連続殺人事件の被告人の上告を棄却、死刑が確定。 1944年(昭和19年)7月24日、浜松連続殺人事件の死刑囚(元被告人)の死刑執行。 1948年(昭和23年)11月29日、幸浦事件発生 1950年(昭和25年)1月6日、二俣事件発生 1950年(昭和25年)3月12日、二俣事件で容疑者の少年1人を強盗殺人罪で起訴 1950年(昭和25年)4月27日、幸浦事件で被告人4人に有罪判決(3人死刑、1人は懲役1年) 1950年(昭和25年)5月10日、小島事件発生 1950年(昭和25年)7月20日、小島事件で1人が起訴される 1950年(昭和25年)12月27日、静岡地裁は二俣事件の被告人の少年に死刑判決。少年側は控訴。 1951年(昭和26年)9月29日、二俣事件で東京高裁は控訴を棄却。少年側は上告。清瀬一郎が弁護人になる。 1951年(昭和26年)5月8日、幸浦事件で東京高裁が被告人側の控訴を退ける 1952年(昭和27年)2月18日、小島事件で静岡地裁は被告人に無期懲役判決。担当弁護士が西ヶ谷徹から海野普吉になる。(西ヶ谷は元検察官だったが、紅林のような警察官に危機感を抱いて、後に検察官に復職している) 1953年(昭和28年)11月27日、二俣事件で最高裁は原判決を破棄。 1954年(昭和29年)3月10日、島田事件発生 1956年(昭和31年)9月13日、小島事件で東京高裁は控訴棄却。 1956年(昭和31年)9月20日、二俣事件で静岡地裁は無罪判決。検察は控訴。 1957年(昭和32年)2月14日、幸浦事件で最高裁は審議を東京高裁に差し戻す。 1957年(昭和32年)10月26日、二俣事件で東京高裁は控訴を棄却。検察は上告を断念し、元少年の無罪が確定。 1958年(昭和33年)5月23日、島田事件で静岡地裁は被告人に死刑判決。 1958年(昭和33年)6月13日、小島事件で最高裁が東京高裁へ差し戻す。 1959年(昭和34年)12月2日、小島事件で東京高裁が無罪判決。検察は上告せずに確定。紅林は『週刊文春』への特別手記で小島事件の弁護士海野普吉、二俣事件と幸浦事件の弁護士である清瀬一郎を名指しで批判。(小島事件#その後を参照) 1959年(昭和34年)2月28日、幸浦事件で東京高裁が被告人4人全員に無罪判決。 1960年(昭和35年)2月17日、島田事件で東京高裁は控訴を棄却。 1960年(昭和35年)12月5日、島田事件で最高裁は上告を棄却し、被告人の死刑判決が確定。 1963年(昭和38年)7月9日、幸浦事件で最高裁が検察の上告を棄却。4人の無罪確定。紅林が警察を辞職。 1963年(昭和38年)9月16日、紅林が死去。 1986年(昭和61年)5月30日、島田事件で東京高裁は死刑囚の再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻し。 1989年(平成元年)1月31日、島田事件で静岡地裁は死刑囚に無罪判決を言い渡した。元死刑囚は同日中に釈放され、その後検察が控訴を断念したため無罪が確定。 脚注 [脚注の使い方] ^ a b “静岡県警が生んだ《昭和の拷問王》の呪縛に終止符か…再審判決「袴田事件」が突き付けた冤罪大国・日本の「司法のいい加減さ」”. 現代ビジネス (2024年9月26日). 2024年9月26日閲覧。 ^ 朝日新聞 1963年9月17日、14面。 ^ 最判昭和33年6月13日刑集12巻9号2009頁 参考文献 佐藤友之、真壁旲『冤罪の戦後史』図書出版社、1981年。ISBN 4809981916。 浜松事件での紅林の功績は偽りのもので、実際は当時の県警刑事課長の怪我の功名によるものだったとある。その後、紅林はしくじって免職しかけるが、浜松事件解決の「功労者」として後継の刑事課長によって県警に引き上げられたという。以上は二俣事件で被告人側の証人になった元刑事の南部清松の談である。南部は島田事件でも冤罪を証明する活動をしている。 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。ISBN 4808940035。 管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』洋泉社、2016年。ISBN 9784800307453。 浜松事件と二俣事件を中心に紅林の経歴を多数の資料に基づいて記述しており、伝記的事実から人物像を浮かび上がらせている。
紅林麻雄 - Wikipedia
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在留資格「永住者」を有する外国人が、生活保護法に基づく生活保護の申請をしたところ、大分市福祉事務所長から申請を却下する旨の処分を受けたとして、却下処分の取消し等を求めた事件について、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は、2014年7月18日、これを認めた福岡高等裁判所の判決(福岡高判平成23年11月15日判タ1377号104頁)を破棄し、外国人は生活保護法に基づく生活保護の受給権を有しないとの判断を示した。 最高裁判決は、背景も含めて検討すると、生活保護法、行政事件訴訟法の解釈にとどまらず、日本における外国人の権利を考えるうえで重要な示唆を与えるものであるが、判決に至る経緯に関する正確な知識と一定の法的なリテラシーがないとやや理解に難しい面がある。筆者は、本稿を書くにあたり、インターネット上の判決に対する反応を少しながめてみたが、生活保護受給者、外国人に対する根強い偏見も手伝ってのことか、不正確なとらえ方をする向きも少なくないようである。そこで、以下、この判決の背景、ロジック、判決によって明らかになった課題について、できるだけわかりやすく解説を試みよう。 争点の所在 「処分の取消しの訴え」(行政事件訴訟法3条2項)にいう「処分その他の公権力の行使」について、判例は、公権力の主体である国または公共団体が行う行為のすべてを指すものではなく、「その行為によって、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」をいうとしている(最判昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。 したがって、行政庁に対して諾否の応答を求めて「申請」をした場合であっても、それが法律上の権利ではない場合は、「申請」は任意の行政措置を求める趣旨に過ぎず、これに対する行政庁の応答も処分としての性格を持たない。そこで本件では、外国人に対する生活保護制度の適用について、法律上の根拠の有無が問題となった。 踏まえておくべき前提知識 それでは、戦後の生活保護制度は、外国人に対して、法律上どのような態度をとってきたのであろうか。簡単にその歴史を振り返ってみることとする。 1946年に成立した旧生活保護法は、「生活の保護を要する状態にある者」の生活を、国が差別的な取り扱いをなすことなく平等に保護すると規定し(同法1条)、その適用対象を日本国民に限定していなかった。しかし、生存権(憲法25条)を保障した日本国憲法の成立を経て、1950年に施行された現行生活保護法は、憲法25条の理念に基き、国が生活に困窮する「すべての国民」に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障し、自立を助長することを目的とする旨定め(同法1条。さらに2条も参照)、生活保護受給者の範囲を日本国籍者に限定した。 ところが、新法施行直後に、「放置することが社会的人道的にみても妥当でなく他の救済の途が全くない場合に限り」外国人を保護の対象として差し支えない旨の通知がされる(昭和25年6月18日社乙92号)。さらに1954年5月8日、���生省から各都道府県知事に宛てて、外国人は生活保護法の適用対象ではないとしつつも、生活に困窮する外国人に対しては日本国民に準じて必要と認める保護を行い、その手続については不服申立の制度を除きおおむね日本国民と同様の手続によるものとする通知が発せられた(「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」昭和29年社発第382号厚生省社会局長通知。以下「昭和29年通知」という)。 昭和29年通知は、「当分の間」とあるとおり、サンフランシスコ講和条約を機に法務省民事局長が出した通達(「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達)による旧植民地出身者の国籍剥奪を背景に、在日コリアンを中心とする多くの在留外国人が差別と貧困に苦しんでいたことに対する応急措置であった。しかし以後、予定されていたはずの抜本的な改正はされないまま、現在までこの通知に基づいて外国人に対する生活保護の措置が行われている。 1976年、世界人権宣言を発展させた「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(以下「社会権規約」という)」と「市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「自由権規約」という)」」が発効すると、日本でも民間レベルでこれらの規約の批准を求める声があがった。 日本政府はこうした声におされるようにして、1979年にいずれの条約も批准した。社会権規約2条2項には、規約に規定する権利について「国民的若しくは社会的出身」によるいかなる差別もなしに行使されることを保障する旨の条項があり、公共住宅関係法の運用に存在していた国籍制限を撤廃させるなど国内法制に少なからぬインパクトを与えた。また、批准に際して、保護の対象を日本国民に限定していた生活保護法も、同規約9条が「社会保険その他の社会保障」について、11条が「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準」「生活条件の不断の改善」について、いずれも「すべての者」の権利を認めていることとの関係が問われた。 当時の国会審議で、政府委員は、規約9条に関して、社会保障について外国人を差別してはならないという趣旨の回答をしたうえで、生活保護法と9条、さらに11条との関係については、昭和29年通知を根拠に、支給される保護の内容、保護の方法は、すべての点で国民の場合と同じ仕組みで保障されている(したがって社会権規約には必ずしも反しない)と答弁した。 さらに、支給内容が同一であっても、権利として構成されておらず、不服申立の制度を欠く点が、社会権規約の精神に反しないかという質問に対しては、「人権規約の……精神面に着目いたしますると、そういう法の方向に沿った御検討を願いたい」(外務省委員)「外国人に対しましても……実態的な面につきましては、いさ��かもその待遇につきまして変わるところがないかと思うわけでございますが、確かに形式的にはいま御指摘の問題があろうかと思います。今後とも、十分に検討をしてまいりたいと思います。」(厚生省委員)と答えている(第87回国会参議院外務委員会会議録13号・1979年5月28日)。 1975年4月、ベトナム戦争の終結にともなって大量のベトナム人が国外へと避難した。当初日本は、避難民に対して一時的な在留しか認めなかったが、こうした排他的な態度は内外から強い批判を浴び、1978年には、日本定住を認めるように方針を転換する。こうした流れの中で、日本は1981年に「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という)」に加入するのだが、「締約国は、合法的にその領域内に滞在する難民に対し、公的扶助及び公的援助に関し、自国民に与える待遇と同一の待遇を与える」と定める同条約23条と、社会保障関連法中の受給資格を日本国民に限定する、いわゆる国籍条項の関係が問題となった。 結果として、国民年金法や児童手当3法に規定されていた国籍条項は削除されたのに対して、生活保護法の改正は見送られたのだが、国会審議において、政府委員は以下のように答弁している(第94回国会法務委員会、外務委員会、社会労働委員会連合審査会会議録1号・1981年5月27日)。 「生活保護につきましては、昭和25年の制度発足以来、実質的に内外人同じ取り扱いで生活保護を実施いたしてきているわけでございます。去る国際人権規約、今回の難民条約、これにつきましても行政措置、予算上内国民と同様の待遇をいたしてきておるということで、条約批准に全く支障がないというふうに考えておる次第でございます」 「すでにもう昭和20年代に、外国人に対する生活保護の適用ということで明確に通知をいたしております。かつまた、予算も保護費ということで、国内の一般国民と同じ予算で保護費の中で処置をいたしておるわけで、特にそれを改める必要はないわけでございますが、こういった難民条約の批准等に絡めまして、一層その趣旨の徹底を図るという意味での通知、指導等はいたしたいと考えておるところでございます」 1989年、バブル経済に伴う人手不足を吸引力とするアジア諸国からの出稼ぎ労働者の増大等、日本社会における外国人のプレゼンスの増大を背景に「出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という)が改正され(施行は翌90年)、現行法へ引き継がれる在留資格制度の基礎が作られた。さらに1991年には「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が施行され、在日コリアンを中心とする旧植民地出身者とその子孫について、新たに制定された「特別永住者」としての地位が保障された。 このような状況のなかで、1991年10月25日、厚生省社会局保護課企画法令係長の口頭指示により、生活保護の対象になる外国人が、入管法別表第2に掲げられた者(「永住者」、「定住者」、「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」)に限定された(以下「平成2年口答指示」という)。この指示は、高度な専門知識を有する者としておおむね一定以上の収入をともなう仕事に就くことが在留の条件とされている別表1に該当する外国人について、自立助長を旨とする生活保護の対象に含めないこと、さらに非正規(不法)滞在者を生活保護の対象から除外すること(昭和29年通知は外国人の範囲に特に限定をくわえておらず、通知後に作成された問答事例によると、外国人登録をしていない外国人が退去強制手続に付された場合であっても仮放免許可証による住所の認定に基づき保護を実施することとされていた。昭和57年1月4日社保第1号による改正参照)を意図していた。 厚生労働省による2012年度被保護者調査によると、日本の国籍を有しない被保護世帯数は1ヶ月平均で45,855世帯、被保護実人員のそれは74,736人(ただし相当数の日本国籍者が含まれている)とされている。 福岡高裁と最高裁~それぞれのロジック 以上の前提知識は、歴史的事実であり、福岡高裁、最高裁ともその認識に異なるところはない。それではどうして二つの裁判所で異なる結論が導かれたのであろうか。 福岡高裁は、生活保護法が「少なくともその立法当時」は生活保護受給権者の範囲を日本国民に限定していたことを前提に、昭和29年通知以来、外国人に対する生活保護が日本国民とほぼ同様の基準、手続により認められてきたことを踏まえ、難民条約加入及びこれに伴う国会審議を契機として、一定の範囲の外国人に対し日本国民に準じた生活保護法上の待遇を与えることを立法府と行政府が是認し、これによって生活保護を受ける地位が法的に保護されるに至ったものと構成し、外国人も生活保護法の準用による法的保護の対象になると判断した。平成2年口頭指示の内容が、自立助長を旨とする生活保護法の趣旨に沿ったものであったことは、同法の準用を前提としたからこそであるとしたのである。 しかしながら、本来立法で解決すべき問題が、行政庁の通知や政府委員の国会における答弁、果ては担当係長の口頭指示で処理されることと「法律による行政の原理」の関係もさることながら、一連の経緯を、生活保護を受ける地位を生活護法に基づいて保障したと読むことはできるのだろうか。むしろそこからあきらかになるのは、立法による解決の必要性を認識しながらも、問題を先送りにし、時代により大きく変化する外国人の状況に、場当たり的に対応してきた姿ではなかったか。 かくして福岡高裁のロジックは最高裁を説得するところとはならなかった。最高裁は、現行の生活保護法が制定された後、現在に至るまでの間、保護の対象を一定の範囲の外国人に拡大するような法改正は行われておらず、保護の規定を外国人に準用する旨の法令も存在しないこと、昭和29年通知は、外国人に対し、生活保護法が適用されず、法律上の保護の対象とならないことを前提にしていることを指摘し、難民条約等に加入した際の経緯を勘案しても、外国人は生活保護法に基づく保護の対象とはならない、としたのである。 形式的には、最高裁の解釈に分があるのは認めざるを得ない。生活保護法が「国民」と規定し、昭和29年通知も外国人は保護の対象ではない旨明示している以上、法令の文言を字句通りに解釈すれば、外国人を生活保護法の保護対象として認める余地はないはずである。 しかしながら、福岡高裁が、「適用」ではなく「準用」、「法的権利」ではなく「法的保護」という語を用いてまで���このような解釈をした趣旨には注意を要する。日本は条約批准等を通じて「外国人に対する生活保護について一定範囲で国際法及び国内公法上の義務を負うことを認めた」(福岡高裁判決)にもかかわらず法改正を怠り続けてきた。現在、外国人に対する生活保護の実態は、日本人のそれに対するものと変わらず、いったん受給が開始された場合の指導・指示に従う義務や、これに従わない場合の保護の廃止(生活保護法27条、62条)、支給された保護費の返還(生活保護法63条)や不正受給に対する制裁(生活保護法78条、刑法246条)も日本人の場合と異ならない。社会的な認識として、支給する側の「権力性」を完全に否定することは困難で、現在の実務は、本来対等な私人間で行われる「贈与契約」(福岡高判の原審である大分地判平成22年10月18日参照)で説明しきれるものではない。 本件の原告(被上告人)は、1932年に日本で出生して以来、日本で教育を受け、日本で結婚し、日本で生活をしてきた女性である。国籍国である中国には一度も行ったことなく、中国語も知らない。そんな彼女が、義弟の暴力によって着の身着のままで自宅を追い出され、いわゆる社会的入院状態にあったことから、自立した生活を送るために生活保護を申請したのである。単に外国人であるというだけの理由で、彼女の生存権に関わる利益を法の保護の枠外におくことは、果たして妥当なのか。福岡高裁判決の不合理や矛盾を指摘することは、さほど困難な作業ではないが、現行生活保護法に、裁判所が苦しい解釈をしてまでも解決しなければならないと考える程の問題点が存在することも、また認識しなければならない。福岡高裁の判断について解釈の限界を超えると批判する者は、こうした現実をどう解決すべきかという問題に答えなければならないのである。 残された課題 最高裁判決により、外国人が生活保護法に基づく保護の対象ではないことは法律上確定した。しかしながら、生活保護法に基づかない行政措置として、外国人を日本人に準じて生活保護の対象としつつ、それを法律上の権利として扱わない現在の構成が、社会権規約2条2項、9条、11条、難民条約23条の規定に適合するか否かについては未だに決着がついていない[*1]。 [*1] なお、国民年金法の国籍条項削除については、自由権規約に関して、規約委員会から、不遡及であることが規約26条の差別禁止規定との関係で不十分であるとの指摘を受けている。「規約第 40 条に基づき締約国から提出された報告書の審査-国際人権(自由権)規約委員会の総括所見」パラグラフ30。 条約批准時の答弁からもあきらかなとおり、社会保障における外国人に対する差別が原則として禁止されること、少なくとも一定範囲の外国人に日本人と同様の生活保護を認めることが条約の要請で、これを剥奪することが条約違反にあたることは、条約批准当時から日本政府によっても認識されていた。しかしながら、支給内容が同等であっても、不服申立の手段がない点は、窓口における違法な生活保護申請拒否がめずらしくない現状では、決して見過ごすことのできない不利益である[*2]。 [*2] 生活保護開始申請の却下を違法とする近時の裁判例として東京高判平成24年7月18日平成23年(行コ)第399号、大阪地判平成25年4月19日平成22年(行ウ)��35号・平成22年(ワ)第3293号、大阪地判平成25年10月31日平成21年(行ウ)第194号など。なお今後外国人については非申請型義務付け訴訟を検討する余地はあろう。 国際人権条約の保障する社会権は、条約批准のみによって直ちに具体的な請求権となるものではなく、2条2項が規定する差別禁止規定が直ちに履行しなければならない即時的義務であるとしても[*3]、在留外国人には出生地、滞在期間の長短、在留資格の有無、日本における生活歴や家族的結合の有無、本国とのつながりまでさまざまな社会的・法的地位があり、いかなる範囲の外国人に生活保護を認めるのかは、立法に委ねなければならない要素が多い。法による保障がなき現状は、平成2年口頭指示がそうであったように、いかにそれが条約違反であったとしても、行政担当者の見解次第で享受していた利益が直ちに剥奪されかねない危険もはらむ。 [*3] 社会権規約委員会は、一般的意見3において「規約は漸進的実現を規定し、利用可能な資源の制限による制約を認めるが、即時の効果をもつさまざまな義務をも課している。……このうちのひとつは、……関連の権利が『差別なく行使される』ことを『保障することを約束する』ことである」とし、さらに一般的意見20でも「無差別は、規約の中でも、即時かつ分野横断的義務である」「国籍という事由は、規約上の権利へのアクセスを妨げるべきでない」としている。なお「開発途上にある国」にのみ、外国人に対する経済的権利の別扱いを認める2条3項も参照 最高裁判決によってあらわになったのは、条約批准等を通じ、外に向かって、あるいは国内の事情に通じない層に対しては、日本国民と外国人の平等原則を掲げながら、外国人が享受すべき生活上の利益を「権利」として構成することを拒み、あくまでも恩恵にとどめようとする、日本社会の姿である。最高裁判決は、問題を最終的に解決するものとはならなかった。わが国の政治部門、さらには社会が取り組むべき課題を示したのである。 (参考文献) 「賃金と社会保障」(旬報社)1561号、1562号掲載の各論文。 社会保障における国籍要件とヨーロッパ人権条約14条の差別禁止の関係については Gaygusuz.v. Austria, 16 September 1966, Reports 1996-Ⅳ 最高裁判決全文については http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/07/post-299.html
永住外国人生活保護訴訟最高裁判決を読む――あらわになった日本社会の姿/山口元一 - SYNODOS
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紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年〈明治41年〉 - 1963年〈昭和38年〉9月)は、日本の警察官。静岡県警察の元刑事。担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出した。 人物 現在の静岡県藤枝市出身。 自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決の後、再審が決定)などの冤罪事件を生む温床ともなった。 あらゆる手段を用いて被疑者を拷問し、自白を強要させるなどしたことから「拷問王」と称されている[要出典]。 紅林はさまざまな拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず部下に指示を出していた。また、二俣事件における山崎兵八の書籍においては真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。 上記4事件のうち島田事件を除く3事件が一審・二審の有罪判決の後に無罪となり、島田事件も最高裁での死刑判決確定後の再審で無罪が確定した。幸浦事件・二俣事件の有罪判決破棄差し戻しの時点で御殿場警察署次席警部の地位にあった紅林は、非難を浴びた静岡県警上層部によって吉原警察署駅前派出所へ左遷された。しかも交通巡視員待遇という実質的な二階級降任だった。 紅林は世間や警察内部から非難され精神的に疲弊しきっていたが、1963年(昭和38年)7月に幸浦事件の被告人に対する無罪判決が確定したことにより、気力が尽きて警察を退職。同年9月に脳出血により急死した。 紅林の捜査法 前述の通り、紅林は拷問による尋問・自白の強要・自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者だった。また、アリバイが出てきそうになった場合は犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者が推理マニアであることや被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画が上映されていることなどの傍証を積み重ねる手法でアリバイを否定しようとした。 これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ、これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし『妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)』として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑があるほか、主犯とされた男性は拷問によるためか持病(てんかん)の悪化により僅か34歳で上告中に死亡した。 紅林の捜査法に見られるような強制・拷問または脅迫によるなど任意性に疑いのある供述調書は、刑事訴訟法第322条第1項および第319条第1項により証拠とすることができない。小島事件では実際に紅林の捜査法に最高裁の判断が下された。この最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(局所殺菌剤)を塗るなど治療を受けていたという証言などを認定し被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについて疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された供述調書の任意性を否定し被告人に有罪を言い渡した原判決を破棄差戻しとした(後に無罪確定)[1]。 主な時系列 1938年(昭和13年)8月22日、2人の女性が殺害される(浜松連続殺人事件の犯人が最初に犯した犯罪) 1941年(昭和16年)8月18日、1人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件) 1941年(昭和16年)8月19日深夜、3人が殺害される。(浜松連続殺人事件) 1941年(昭和16年)9月27日、犯人の兄、姉、両親、兄の妻とその子供の計5人が殺害される(浜松連続殺人事件) 1942年(昭和17年)8月25日、4人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件) 1942年(昭和17年)10月22日、浜松連続殺人事件の犯人が逮捕される。 1944年(昭和19年)2月23日、静岡地裁浜松支部は浜松連続殺人事件の被告人に死刑判決。被告人は上告。 1944年(昭和19年)6月19日、大審院は浜松連続殺人事件の被告人の上告を棄却、死刑が確定。 1944年(昭和19年)7月24日、浜松連続殺人事件の死刑囚(元被告人)の死刑執行。 1948年(昭和23年)11月29日、幸浦事件発生 1950年(昭和25年)1月6日、二俣事件発生 1950年(昭和25年)3月12日、二俣事件で容疑者の少年1人を強盗殺人罪で起訴 1950年(昭和25年)4月27日、幸浦事件で被告人4人に有罪判決(3人死刑、1人は懲役1年) 1950年(昭和25年)5月10日、小島事件発生 1950年(昭和25年)7月20日、小島事件で1人が起訴される 1950年(昭和25年)12月27日、静岡地裁は二俣事件の被告人の少年に死刑判決。少年側は控訴。 1951年(昭和26年)9月29日、二俣事件で東京高裁は控訴を棄却。少年側は上告。清瀬一郎が弁護人になる。 1951年(昭和26年)5月8日、幸浦事件で東京高裁が被告人側の控訴を退ける 1952年(昭和27年)2月18日、小島事件で静岡地裁は被告人に無期懲役判決。担当弁護士が西ヶ谷徹から海野普吉になる。(西ヶ谷は元検察官だったが、紅林のような警察官に危機感を抱いて、後に検察官に復職している) 1953年(昭和28年)11月27日、二俣事件で最高裁は原判決を破棄。 1954年(昭和29年)3月10日、島田事件発生 1956年(昭和31年)9月13日、小島事件で東京高裁は控訴棄却。 1956年(昭和31年)9月20日、二俣事件で静岡地裁は無罪判決。検察は控訴。 1957年(昭和32年)2月14日、幸浦事件で最高裁は審議を東京高裁に差し戻す。 1957年(昭和32年)10月26日、二俣事件で東京高裁は控訴を棄却。検察は上告を断念し、元少年の無罪が確定。 1958年(昭和33年)5月23日、島田事件で静岡地裁は被告人に死刑判決。 1958年(昭和33年)6月13日、小島事件で最高裁が東京高裁へ差し戻す。 1959年(昭和34年)12月2日、小島事件で東京高裁が無罪判決。検察は上告せずに確定。紅林は『週刊文春』への特別手記で小島事件の弁護士海野普吉、二俣事件と幸浦事件の弁護士である清瀬一郎を名指しで批判。(小島事件#その後を参照) 1959年(昭和34年)2月28日、幸浦事件で東京高裁が被告人4人全員に無罪判決。 1960年(昭和35年)2月17日、島田事件で東京高裁は控訴を棄却。 1960年(昭和35年)12月5日、島田事件で最高裁は上告を棄却し、被告人の死刑判決が確定。 1963年(昭和38年)7月9日、幸浦事件で最高裁が検察の上告を棄却。4人の無罪確定。紅林が警察を辞職。 1963年(昭和38年)9月、紅林が死去。 1986年(昭和61年)5月30日、島田事件で東京高裁は死刑囚の再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻し。 1989年(平成元年)1月31日、島田事件で静岡地裁は死刑囚に無罪判決を言い渡した。元死刑囚は同日中に釈放され、その後検察が控訴を断念したため無罪が確定。 脚注 [脚注の使い方] ^ 最判昭和33年6月13日刑集12巻9号2009頁 参考文献 佐藤友之、真壁旲『冤罪の戦後史』図書出版社、1981年。ISBN 4809981916。 浜松事件での紅林の功績は偽りのもので、実際は当時の県警刑事課長の怪我の功名によるものだったとある。その後、紅林はしくじって免職しかけるが、浜松事件解決の「功労者」として後継の刑事課長によって県警に引き上げられたという。以上は二俣事件で被告人側の証人になった元刑事の南部清松の談である。南部は島田事件でも冤罪を証明する活動をしている。 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。ISBN 4808940035。 管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』洋泉社、2016年。ISBN 9784800307453。 浜松事件と二俣事件を中心に紅林の経歴を多数の資料に基づいて記述しており、伝記的事実から人物像を浮かび上がらせている。 関連項目 熊本典道 - 袴田事件の一審静岡地裁で死刑判決に関わった裁判官。良心の呵責から裁判官を依願退職し、事件の冤罪を訴えていた。 海野普吉 冤罪
紅林麻雄 - Wikipedia
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甘えが禁物だということは、社会人になっても折に触れて体感した。2014年には、そのことを痛感した。 2014年9月11日、朝日新聞は東京電力福島第一原発事故に関する「吉田調書報道」を取り消した。 朝日新聞は、政府事故調が福島第一原発の吉田昌郎所長を聴取した調書を入手。その内容をもとに、2014年5月20日に「所長命令に違反 原発撤退」という見出しで報じた。だが見出しが問題になった。当時の木村伊量社長は、取り消し理由を以下のように発表した。 「吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、『命令違反で撤退』という表現を使ったため、多くの東電社員の方々がその場から逃げ出したかのような印象を与える間違った記事になったと判断しました」 読者に与えた印象を理由に、記事を取り消すというのは前代未聞だ。取り消しは、ねつ造があった場合の措置だ。例えば朝日新聞は1989年、沖縄県西表島のサンゴが落書きで傷つけられたと報じたが、その記事を取り消した。朝日のカメラマンが自らサンゴを傷つけていた。 吉田調書報道取り消しの翌月、朝日新聞社内で役員たちによる説明会が開かれた。その2か月前に従軍慰安報道の検証を公表して以来、朝日へのバッシングは続いている。吉田調書報道での記事取り消しは、事態を一層悪化させた。朝日はどうなってしまうのか。会場の東京本社15階のレセプションルームには、約300人の社員たちが詰めかけた。 なぜ記事を取り消したのか。私は、新旧の編集担当役員、前ゼネラルマネジャー、前ゼネラルエディター、販売担当役員、社長室長の計6人にそれぞれ質問した。 どの幹部の回答も要領を得ない。再度6人全員に質問したが、それでも取り消し理由を説明できない。私は腹が立って言った。 「これだけエライ人が揃っていて、分からない、分からないと言われたら説明会を開く意味がない! 」 朝日新聞が逆風に晒されている中、社の上層部は保身を優先した。結局、そういうことだ。正体不明の世間の怒りを鎮めるため、記事の取り消しを「生贄」にしたのだ。こんな理不尽な話はない。 だが、かつては社内で風を切って歩いていた幹部たちはしょんぼりとしている。冷静になって考えると、この人たちに期待すること自体が甘えだということに思い至った。彼らがどんな肩書を持っていようと、職業人としての強さとは比例しない。 自分の理想を貫きたいならば、自分でやるしかない。1年半後に私は朝日新聞を退社した。
危険な甘え(104) | Tansa
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