“The water is alive. Once you dive in, it will immediately bare its fangs and attack. But there’s nothing to fear. Don’t resist the water.” 🦈🐬🐋🐧🦋
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鮫柄学園水泳部
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一
『こんなの愛だなんて、認めない』
遠くから、ふっと芝居がかった女の声が耳に飛び込んできて、触れていた凛が動きを止めた。いや、遙も。遙もだった。あまりに同時のことで、どちらが先に声に気を取られたのかすぐにわからなくなった。
声がしたのは、つけっぱなしの、テレビからだった。
教習所の帰りに二人で夕飯を食べて、岩鳶の家に帰ってきてからしばらく、壁にもたれるようにしてお互いの頬や、唇や、鼻筋や、その気配で遊んでいた凛が、遙とほとんど同時に顔を逸らし、自ら光るテレビの画面を見つめた。遙が気を取られたのはあまりに一瞬だったので、すぐに目の前の少し汗ばんだ筋張った首筋にふたたび引き寄せられる。
遙の家に、凛が来ていた。
今更ながら、どうしてこんなことになっているのだろうとは、思う。だが筋張った首筋に唇を押しつけるとすぐにどうでもよくなった。
二人で自動車教習所に通い始めたのは、少し前のこと。仮免の試験を受けられるのは十八歳の誕生日から。凛が逆算して教習所に通い始めたとき、なぜか一緒に行かないかと誘われた。
遙はそのころ、真琴もクラスメイトも皆、受験に向けて忙しく、スポッと穴に落ちたみたいな気分でいた。気が向いたら自力で出られる心地よい空白めいた場所で、しばらく一人で過ごすつもりだったのに、ふっと気がつくと隣に凛がいた。昔からそうしていたみたいに凛が隣にいた。
そして何度か教習所の帰りに、週末に、凛が家に来た。セックスをした。
今日も、一緒に遙の家に帰ってきて、風呂に入って、テレビを見ていたら、自然とそういう流れになった。遙も凛で遊びたくなった。頬を引っ張り、首筋に唇をつけた。唇を甘く噛む。水の味がする。まだ湿ったままの髪を噛んだ。
だが、凛に触れていた間にすっと他人の声が入ってきた。
苛立ちと言うよりも不思議な気持ちでそれを見つめた。
テレビの画面では、どこかで見たことがある若い女優が、母親役と思われる女にそう言い放ったところだった。いつの間にかさっきまで見ていたどうでもいい情報番組は終わり、ドラマが始まっていたらしい。
『あたしは認めない。これが愛だというのなら、あたしはいらない』
俯きがちに、泣きじゃくる女を、凛とただ眺めた。
視線は画面に据えたまま、凛が尋ねてきた。
「……ハル、このドラマ見たいのか?」
「いや。テレビ消すか」
遙は立ち上がってテレビを消し、ついでに電気も消してしまった。目が慣れないせいで一瞬、何も見えない。戻ろうとすると、思ったよりも凛は近い場所にいて、足を引っかけてしまった。
「痛っ。蹴るなよ、ハル」
「凛の足が長いのが悪い」
「……そう褒められると悪い気はしねえな」
嬉しそうな声だ。暗闇から手を引かれた。ぱちっと音がして手首を掴まれる。膝をついた先はふたたび凛のすぐそばだった。あたたかい、気配がする。目が慣れてくる。暗くなった視界の端で、消したばかりのテレビが、余韻を残すようにうすぼんやりと光って見える。
ふたたび闇雲に引き寄せられ、キスされた。唇に息がかかる。今度は凛の顔がちゃんと見えた。
自ら光を放つように明るい色をした凛の瞳が見えた。そしてそれが少し、からかうように笑う。目が細められた。
「……こんなの愛だなんて、認めない」
芝居がかった凛の声。凛が笑う。薄く開いた唇の赤は見えない。
凛が軽く言う。テレビの中の台詞を真似てみただけだ。全部が冗談だ、って言うみたいに凛が笑う。
だが、遙はその言葉でなんとなくわかってしまった。どうしてお互いに、その声が耳に飛び込んできたのか。
——こんなの愛だなんて、認めない。
そして認めるとか、認めないとか、そんなことが、お互いに心のどこかでずっと気にかかっていたからなのだ。
二
遙はコーチと兼業で泳がせてもらっている大学を出、車で家路についた。変わらない岩鳶の家を目指す。
どこかでスーパーに寄らないと。今日の夜は何を食べようか……と考えたが、来週は大学の水泳部に帯同するから、あまり買いだめはできそうもない。まあ、だが、何をするにしても一人暮らしなので気楽なものだ。
国道をしばし走り、途中のスーパーの駐車場に車を停める。しばらく肉を食べていないな、と思ったので豚肉を買った。あと日持ちする卵と。魚は確かまだ冷凍室に入っている。白菜も近所の人から貰ったものがある、とピーマンとにんじんと片栗粉と牛乳を買った。
店を出る時に唐突に、「七瀬さん!」と子連れの妙齢の女性に声を掛けられた。「がんばってくださいね!」と言われた。これでは同級生か、ただの応援の人かわからない。だが、遙は一度深く頭を下げた。
後部座席に袋を投げ込んで助手席に座り、エンジンをかけたところで、もうすぐ食器用洗剤がなくなることを思い出したが、戻るのも面倒だ。そのまま遙はサイドブレーキを下げて車を動かした。
どこまでも、見慣れた田園風景が広がっている。空はどこまでも続く曇天だ。風は強い。遠くの山が、まだ新緑の残るまだら模様で、春の名残を残していた。桜は終わっていたが、田植えの準備か、畑には人が出ている。
��はまだ見えないが、駅を通り過ぎ、このまままっすぐ行けば海が見えるところまできた。
信号を一つ、過ぎたところだった。
パッと視界に入ってくる男の後姿があった。
大きな紙袋を持った、細身のグレイスーツの男が歩いている。後ろ姿だけなのに、雰囲気のせいなのか、歩き方のせいなのか、こんな場所で見かけるにはあまりに異質で、思わず通りすがりに見てしまった。
——あ、と声が出た。
咄嗟の自分の目が信用できない。
こんなところにいるはずがない。
横顔で、その雰囲気で。そう思ったが、たぶん見間違いだ。そのままアクセルを踏もうと思ったが、どうしても一瞬の感覚を流すことができない。
遙は一秒、二秒、心の中で逡巡してから、車を路肩に寄せて止めた。ウィンカーを出してハンドルを握ったまま後ろを確認する。
まっすぐに、だがゆったりと歩いてくる男が見えた。
近づいてくる。車を停めた遙に気づく様子もなく、海からの風を浴びながら、男が近づいてくる。表情まではよく見えない。
だが、こんなところにいないはずの男がいる。
それはもう、間違いがない。
「凛」
声が出た。遙はもはや疑いようもない人の名前を無意識に口に出していた。
窓を開け、助手席に身を乗り出すようにして声を出す。
迷いはなかった。今は、迷ってもいい関係であるような気がするが、声を出した瞬間は、何も迷わなかった。
「凛!!」
近づいてくる凛は、物思いにふけるようにぼんやりしていた。その表情が、遙を見つけた瞬間にふっと崩れた。豆腐を千切って味噌汁に入れた気分だ。そんなことを思った。脆い、としか言えないその変化を、遙は何も言えずにずっと見守ってしまった。
凛は呼ばれた声に小さく口を開き、誰だ、という警戒心を覗かせ、遙だ、と気づいて、驚いて、おそらく気まずくて、驚いて、たぶん少し安堵して、驚いて、驚いて、ぼろぼろと何かが剥がれ落ちるようにゆっくりと崩れていった。
そして、それから、少しだけその表情を取り繕った男が車に近づいてきた。開いた車の窓からこちらを覗き込む。
「ハル」
「どこ行くんだ? 乗ってくか?」
「…………海でも、見ようかと」
「帰ってたんだな」
気まずそうに窓枠に手をかけた男に、遙もどこから何を尋ねていいのかわからなくなる。「じゃあ、乗っていけ」とロックを外すと、凛は一瞬逡巡を見せたもののやがてドアに手をかけた。
海風のせいか、他に理由があるのか、凛の鼻の頭と目の周りが赤かった。凛は助手席に収まり、大きな荷物を膝の上に抱える。
「凛、泣いてたのか?」
もう少しオブラートに包もうと思ったのに全然だめだった。二言目にそう尋ねると、凛が拗ねたように唇を尖らせた。
「泣いてねー……。いや、最中はさすがにうるっとしたけどよ。それは普通だろ? あ、いや、今日は鮫柄の後輩の結婚式だったんだ。ハル、お前、名前言って覚えてるかなあ」
そう言って口にした名前は、覚えているような覚えてないようなやつで、ただ黙っていると「その反応、ハルっぽい」と静かに言われた。怒られはしなかった。
だが、なるほど。今日は大安吉日の土曜日。凛が抱えている巨大な袋は引き出物か。
だが、それにしても終わりの時間が早い。まだ夕暮れまでも間がある時間で、遙はほんの少しだけ春の名残を残す浅い色をした木々を眺めた。
「二次会、行かなかったのか?」
「そこからかよ。いや、出席出した時は今日中に飛行機に乗るつもりだったから……。予定変わったんだけどな。二次会、飛び込み参加でもよかったんだけど、まあ、ちょっとな。先輩がでかい面してもな。実家にも顔を出したいし」
「そうか。凛は有名人だしな」
「それはお前もだろ?」
横目で笑われた。自分で言っておきながら「有名人」の定義がわからない。五輪のメダリストを有名人というのなら、確かに有名人かもしれないが。それだけで一生食えるかというと、怪しいものだ。
二度出たオリンピック。取れたメダルは三つ。それはただ、これから正しく生きなければいけないという枷にも近い。
車でゆっくりと坂を下る。傾きだした太陽が、目を刺すようだ。
「……ハル、元気だったか?」
「ああ」
——凛と会うのは半年振りだった。
三十の坂を越え、自分の体と相談することが増えた。一年前には足首の手術もした。
その足首の怪我の経過が芳しくなく、バランスを取っていた膝にもがたがきた。春の大会には出なかったから、凛と会うのも久しぶりだ。
もともとは怪我はそこまで多くないほうだったが、最近は違う。毎朝起きてストレッチをしながら、体に尋ねる。腰はいつも通り。腕、肩甲骨、首、動く。膝、今日はまし。毎日がその確認の繰り返しだ。
それだけを繰り返しながら、東京で競泳をすることに限界を感じ、地元の大学から声を掛けられていたこともあり、去年、コーチ兼業の取り決めで地元に戻った。少し距離はあるが、岩鳶の家からも通勤圏内だ。おかげで、精神的にはだいぶ安定した。
凛も、競泳を続けているが、十年前と全く同じというわけじゃない気がする。どういうスタンスで泳いでるのか逐一話すほど近い関係ではなくなってしまったが、それくらいはわかる。華やかな容姿のせいか競泳選手としてテレビに出ることも多い凛は、忙しくオーストラリアと東京を行ったり来たりしている。五年前だったら出なかっただろう。
……自然と、会う機会は減った。
半年振りもになるわけだ。
車はほどなく海岸線を走る道へと辿り着き、すぐに遙は海辺の駐車場に車を停めた。
迷いなくドアを開けて車を降りる凛と一緒に遙も外に出た。「じゃあな」とこのまま帰る気にもならなかったのだ。ついてくる遙に、凛は何も言わなかった。砂を踏み、砂で埋もれそうになっているコンクリートの階段を下りる。踏み込むたびに埋まる靴に、凛のきれいに磨かれた靴がどんどん白くなっていく。遙も靴の中に入り込んでくる砂だけが不快だった。だが、海と凛の姿を見ていると心が凪いでくる。
夕暮れが近づいている気配はするが、まだ昼の範疇だ。夏でも冬でもない海辺には、遠くに地元の子どもたちと家族連れがいるだけで、誰もいなかった。風だけが強い。波の音と、防砂林と背の高い草が一斉に音を立てていた。声を張らないと届きそうもない。
海はきれいだった。白波に、透明度を増す夏の気配だけがする。小さな船が港に向かって戻っていく。
凛の隣に立って、凛越しに日の光を眺めた。凛は変わったようで変わっていないな、と思う。姿勢の良い姿にぱっと視線を奪われる。どこにいても凛だけは見間違えない。歩道を歩く凛を、どうしたって見つけてしまったみたいに。
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沖をゆく青い舟
※大昔に出した本の、短編を中途半端に再録です。
夏合宿の前に、一日だけ実家に戻った。
母が物置をひっくり返して大騒動をしているので何かと思えば、遺品の整理をしているのだと言う。
「来年はお父さんの十三回忌でしょう?久しぶりに、色々片付けようかと思って」
そう言いながらも、母が何一つ父に関わるものを捨てる気が無いのを知っている。七回忌の時もそうだったからだ。
仕舞い込まれていたものを取り出しては並べ、天日に干して、また元通りに収める。
各種大会で取ったメダルや額入りの賞状。トロフィー。くたびれた皮のジャケットやジーンズ、ぼろぼろのスニーカー。色あせた大漁旗。古びたランタン。
とりとのめのない、父を思い起こさせる物ものたち。
それらは、普段は目のつかないところに収められているけれど、その物ものたちの存在を忘れることは決してない。母は特にそうだろう。普段の食事や、居間で和んでい る時、ふとした会話の端々に、父の存在を滲ませる。父がいたこと、父が今はもうこの世にはいないこと、そのどちらも当たり前にしている。母はそんな話し方をする人だ った。
「このTシャツなんか、もうあんたにぴったりじゃない?」
時代を感じさせるスポーツメーカーのTシャツを、背中にあてがわれる。靴を脱ぎ終わらないうちから、母が玄関に飛んできてそんなことを言うのだ。
江は、居間にテーブルにアルバムを広げて、色あせた写真を眺めていた。
「いっつも思うんだけど、私もお兄ちゃんも、ちっともお父さんに似てないのよね。花ちゃんのとこは、みんなお父さんに似てるのよ。娘は父に似るって言うけどうちは違 うわね。全部、お母さんに寄っちゃったみたい」
などと、一人で何やら分析している。
そこへ母が戻ってきて「ほら、このTシャツよ。みんなで海へ出かけた時に着てたのよ」と手にしていたTシャツとアルバムの写真を交互に見ながら言う。どちらも見比 べてみた江が、ほんとだ、と感激する。
以前は、このやり取りを見ているのが苦痛だった。二人が、父の話を和気あいあいとする中に、うまく混ざることができなかった。父の写真を持ち歩きながらも、本当は 写真の中の父と目を合わせるのはこわかった。母に会えば、父の思い出や存在に嫌でも向き合わなければならなくなる。あからさまに避けていたわけではないけれど、あれ これと理由を付けて帰らなかったのは事実だ。
それなのに母は、いつも子ども部屋を出て行ったままにしておいてくれた。小学生の時に使っていた机も椅子も本棚も洋服箪笥も。そう広くもない平屋住まいなのだから 、ほとんど帰らない息子の部屋を物置にするぐらいのことをしても誰も咎めやしないのに。
荷物を自分の部屋に置いて居間に戻った。
アルバムを熱心に覗き込んでいる姉妹みたいな二人に自分も加わる。
どれどれ、と覗き込むと、
「お兄ちゃんは見ないで。この頃の私、太っててやだ」
と江がアルバムの左上のあたりを手のひらで覆い隠した。写真は見えなかったが、指の間から書きこまれた文字だけはなんとか読めた。日付からして、江が二歳、凛が三 歳の頃の写真が収められたページのようだ。
「お前、食っては寝てばっかだったもんな」
「そうね、江はおっとりしていてまったく手がかからなかったわ。おやつをあげればご機嫌で、あとはすやすや寝てたもの。お兄ちゃんがちょこまか動いて忙しかった分、 助かったものよ」
「そうだっけ」
おやつを食べかけたまま寝こける江の姿は記憶にあるのに、自分がどうだったかなんて、まるで覚えていない。
「そうよ。走り回るあんたをおっかけて、ご飯を食べさせるの大変だったんだから。一時もじっとしてなかったのよ」
ふうん、と頷きながら、するりとアルバムに置かれた江の手をスライドさせる。
「あっ、お兄ちゃんだめったら」
露わになった写真に写っていたのは、浜辺に佇む家族の姿だった。祖母の家があるあの町の海岸かもしれない。母に抱えられた江はベビービスケットを頬張っている。腕 はふくふくとしていて、顔はハムスターの頬袋のようにまるい。とてもかわいらしい赤ん坊だと思うのに、江は顔を真っ赤にして「見ないでよ」と憤慨している。
同じく写真に写っている自分はというと、父の肩にまるで荷袋のように抱えられて笑っている。浅黒く日焼けした父も笑っている。こうして顔が並んでいるところを見れ ば、つくりは多少違うけれど笑い方は似ている気がする。
「これ、お父さんが外海に出る前に撮った写真ね」
「全然覚えてないわ」
「おれも」
「まだ小さかったもんね。外に出れば一ヶ月は戻れないから、大変だったのよ。お父さんが」
「大変って?」
「離れてる間にあんたたちに忘れられちゃうんじゃないかって、不安がるのよ。お見送りの時はいっつもさめざめと泣いてたわ」
お父さんかわいい、と江が小さく噴き出した。
中にはいくつか風景写真もあった。眺めているうちに、見覚えのある海岸線が写っているものを見つけた。
「これは、おとうさんの船で島まで渡った時のものね」
「あ、ほんとだ」
母と江がそろって覗き込んで来る。小さいながらも、父は自分の船を持っていた。青い船体に赤い縁取りの漁船。普段は大型漁船の乗組員として沖合や外洋に出ていたが 、禁漁で船が出せない期間は、よく自分の船に乗せて近海に連れ出してくれたものだ。小島を渡って、釣りをしたり、磯で生き物を探したりした。
小学生の時も、オーストラリアにいる時も、父を思わない日は無かった。けれどそれは、こうして思い出に浸るようなものとは少し違っていた。自分が何のために泳ぐの か、今なぜここにいるのかを確かめるための座標のようなものだった。そこに、感傷はあるようで無かった。感傷を背負い込む余裕すらなかったのだ。
「今度、江も凛もここに合宿に行くんでしょ?」
「うん」
「まさか、またあのコーチに船出してもらうのか?」
「いいじゃない!結構楽しいよ」
「お父さんが生きていたら、喜んで船を出してくれたでしょうねえ」
ゆっくりと母が言った。
昨年の夏、あれほどの問題を起こしたのに、鮫柄高校水泳部と岩鳶高校水泳部は頻繁に合同練習を行い、大会前は対抗試合を行うほど親交が深まった。
許してくれる人間もいればそうではない人間もいる。部内には、凛に対して風当たりの強い部員も当然いる。岩鳶高校と交流を持つことをよく思わない部員もいる。そん な中でも、御子柴部長は率先して岩鳶高校を自校へ招待したし、自分たちも岩鳶へ遠征した。今春から後を引き継いだ新しい部長が今回の合同夏合宿を持ちかけたのも、O Bの意見を取り入れたからだ。
彼の言動というよりも人柄が、凛が水泳部に居座ることを不快に思う部員たちの意識を変えていった。
「だって、江くんと会える絶好の機会じゃないかあ」
などと茶化してはいたが、彼がどれだけ気を遣い、部内の雰囲気を良好に保つために力を割いてくれたのか、側で見ていた凛には痛いほどよく分かる。
自分にできることと言ったら、泳ぐことしかなかった。御子柴の厚意に甘えるばかりでは、何も示せない。ひたすら、どんな時も、誰よりも真剣に泳いで見せた。泳ぐこ との他には、先輩に礼を尽し、後輩を支えた。それは部員として当たり前のことばかりだったが、その当たり前を一心にやり通すこと。それが素直にうれしくもあった。
六月末、島へ渡り、例年通り屋内プールを貸し切っての合宿が始まった。昨年と異なるのは、岩鳶高校と合同だという点だ。
合宿の中日は、午前中のみオフタイムとなり自由行動が与えられた。五日間のうち、四日間は泳ぎっぱなし。合宿後はすぐに県大会に向けて最終調整に入る。ではここぞ とばかりに休もう、ではなく、遊ぼう、と考えるのは、まさに渚らしかった。
「ねえねえ、凛ちゃん。明日のお休み、みんなで海で遊ぼうよ」
合宿二日目、専門種目の練習の最中、隣のコースに並��渚がのん気に話しかけてきた。そういう話は後にしろ、とたしなめても、彼はにこにこしながらなおも言った。
「絶対行こうよ。おもしろい景色、見せてあげるから!怜ちゃんが!」
そんなことを大声で言うので、やや離れたところでフォームのチェックをしてもらっていた怜がぎょっとしていた。
渚の言う「おもしろい景色」とは、まさにおもしろい景色だった。
「お前、なんだそのナリは」
晴天の下、焼け付く白砂の上に降り立った怜を見て、凛は顔をしかめた。
「し、仕方ないでしょう。これがないと、ぼくは海へ出ちゃいけないって、真琴先輩が…」
しどろもどろな怜の腰、両方の上腕にはヘルパーが取り付けられ、腕には浮き輪を抱えている。浮き輪はピンクの水玉模様。先日、江が押入れから取り出して合宿用の荷 物の中に加えているのを確かに見た。まさか、怜のためのものだったとは。
「おもしろいでしょ?怜ちゃんてば、去年色々やらかして大変だったんだから、まあしょうがないよね」
何をやらかしたかについては、大体聞いている。夜の海に出て溺れかけたらしい。一歩間違えれば大変なことになっていた危険な行為だ。だからと言って、これはあんま りだろう。
「お前、ほんとに水泳部員かよ」
「どこからどう見ても、水泳部員です!昨日見ましたか、ぼくの美しいバッタを!」
「あ?全然なってねえ。せっかく俺がじきじきに教えてやってるのに、もうちょっとましになったらどうだ」
「知識・理論の習得と実践の間には時間差があるものです。だから昨日あなたに教わったことはですね…」
「もうまた始まった!バッタの話になると長いんだからやめて、二人とも!」
そうして三人で波打ち際で騒いでいると、
「まあまあ、三人とも、とりあえず泳ごうよ」
やわらかい声がすんなりと差し込まれた。真琴がにこにこしながら海を指差す。
「ハル、待ちきれずにもう行っちゃったよ」
見れば、遙が波打ち際から遠く離れた場所をすいすいと気持ちよさそうに泳いでいた。
「なんて美しい…海で泳ぐ姿は、本当にイルカや人魚のようですね」
怜がうっとりした顔をしていた。男のくせになんつう比喩だ、と毒づきたくなるが、あながち外れてもいない。
「僕もあんな風に海で泳ぎたいものです」
怜が唯一泳げるのはバッタのみで、他の泳法は壊滅的にだめなのだそうだ。一年をかけて少しずつ特訓してきたが、どうしても上達しない。合同練習で会えばバッタの練 習しかしないので、遙と同じく「ぼくはバッタしか泳ぎません」というスタンスなのかと思っていたが、違うらしい。
「鮫柄の皆さんにカナヅチがばれてしまうのも時間の問題です」
「いや、ばれてるよ、怜ちゃん」
「怜…残念ながら」
渚と真琴がそろって悲しげな顔を作った。
「諦めんなよ。練習しろ」
とりあえず励ましておくことにすると、怜は「でも…」と暗い顔で俯いてしまった。その背中を渚が押して、「そうそう、練習しよう!」と無理やり水辺へと引っ張って 行く。
「さあ、特訓だ!松岡教室開講~!」
「いやです!今はオフです!」
「秘密の特訓をして、みんなを驚かせたくないの?」
「それは…」
「いいから来いよ、怜」
腰が引けているその手を取ると、怜は恐る恐る波に足を浸けた。
「やさしくしてください…」などと、目を潤ませ、怯えた小鹿のように言うので、笑いをこらえるのがやっとだった。
「たぶん大丈夫だろうけど」と言いつつ遙を一人で泳がせておくのが心配になったらしい真琴は、遙の後を追って沖へと泳いで行った。遙の姿はもう小さな点にしか見えな いくらい遠のいていた。一人で遠泳でもするつもりなのだろうか。
そういえば、遙とは昨日も今日もろくに言葉を交わしていないことに気付いた。練習中は専門種目が違うのでウオーミングアップやリレーの練習の時ぐらいしか接点がな い。オフだからと浜辺に集まった今朝は、黙々と一人で体をほぐしていた。
小島まで泳いで渡るつもりなら自分も行きたい。前もって伝えておけばよかったな、と思った。別に、必ず遙と一緒でなければならない理由ではないのだけど。
胸のあたりまでの深さのところで、怜の特訓が始まった。
潜ることは抵抗なくできるというので、とりあえずヘルパーを外して自分の体だけで楽に浮く練習から始めた。だるま浮きだの大の字浮きだの初心者向きの手ほどきは散々 やって来たことらしいのだが、それすら怪しいのだと言う。
「海水は水より浮力があるからな。少しは浮くんじゃねえの」
本当は波のないプールの方が断然初心者には向いているし、浮力が問題ではないと思われた。けれど、慰めにそう言ってみると、���は「なるほど」と素直にうなずいてい た。なんだかすっかりその気のようだ。
怜はすう、と大きく息を吸って水に潜った。だるま浮きから水面近くに浮いて来たところでじわじわと手足を伸ばす。水面下10cmあたりのところで怜の体がゆらゆら と揺れる。
「わあ、海水マジック!浮いてるよ怜ちゃん!プールの時よりもずっと!」
渚が歓喜して大げさに拍手する。とても浮いているうちには入らないような気がするのだが。
次、バタ足を付けてみろよ、と指示を出すと、怜は恐る恐る水を蹴った。ぱちゃぱちゃとバタ足を数回繰り返したところでその体がずぶずぶと沈んでいく。
「おいおい」
掌を掬い上げて浮力を助ける。ぶはあ、と怜が苦しげに息を吐いて体を起こした。
「はあ…途中まではいい感じだったんですが」
「うんうん、進んでたよ」
「潜水艦みたいにな。もう一度やってみろ」
再度バタ足にチャレンジする怜に「もうちょっと顎を引け」と伝えると、すぐに言われたとおりにしてみせた。怜は理屈っぽいところがあるが、素直だ。力を伸ばすのに はそれは大切な要素だ。
顎を引いた分だけ浮力を得て、わずかなりとも浮きやすくなるはずだ。しかし、怜の場合は逆効果だった。頭の方から斜めに沈んでいく。まさに、潜水艦のごとくだ。
「わあ、頭から沈んでいく人、初めて見たあ」
渚の遠慮のないコメントに笑ってはいけないのに、こらえきれずに小さく噴き出してしまった。
「ちょっと!笑わないでください!ひどいです!」
びしょびしょに濡れた髪を振り乱して怜が喚く。
「わりい…いや、ちょっとした衝撃映像だったから」
「動画、とっとけばよかったね!」
渚と二人で笑い合っていると、怜はもう泣きそうな顔をしていた。
「しょうがねえよ。体質だ」
怜の肩に軽く手を置いて慰めた。
「体質?」
「お前、陸上やってたんだろ?」
「はい」
「筋肉質で体脂肪が少ない上に、骨が太くて重いんじゃねえの。ついでに頭も」
「怜ちゃん、頭いいもんね。脳みそ重いんだね」
「なるほど…」
「もうどうしようもなく浮くようにできてねーんだよ。そういうやつ、たまにいるぜ」
「そうなんですか?僕だけじゃなく?」
凛はしっかりと頷いて見せた。
「極端に痩せた人はもちろん、筋肉をがちがちに鍛えた人も当然浮きにくいよな」
「物理の法則からするとその通りですね。僕の体は、そもそも水に浮くようにできていない…」
しょんぼりと肩を落とす怜を、渚が心配そうに覗き込む。
「怜ちゃん…楽に浮けるようになりたかったら、脂肪を蓄えるしかないね。ドカ食い、付き合うよ」
「いや、脂肪は付きすぎると水泳にとっては邪魔なものです」
「そうだっけ?」
「ようはバランスだな」
「カロリー、体脂肪率、筋肉の質…僕の体にとってのこれらの黄金律を導き出さなければ…!」
怜はかけてもいない眼鏡のツルを押し上げる身振りをして、ぶつぶつとつぶやき始めた。
「ま、でもバッタが泳げりゃいいんじゃね?」
あまり思いつめるのもどうかと心配になったのでそう軽い調子で言うと、怜は切実そうに訴えた。
「あなたまで皆さんと同じことを。ここまで焚きつけておいて」
「だってよ、ここまでとは思わなかったからな」
「ひどいです。僕だって、みなさんと同じように泳げるようになりたい」
顔をくしゃりと崩す怜を見ていると、ふと幼いころを思い出した。こんな風に、父と海で泳ぐ練習をした覚えがある。海育ちは、潜るのは得意だが、わざわざフォームを 整えて浮いたり泳いだりはしない。潜って魚を捕ったり、磯で生き物をいじって遊んだりするのがほとんどだった。だから、幼稚園のプールでいざ泳いでみて、ショックだ った。潜水したままプールの床底を進む凛に、友だちが「それ泳ぐのと違うんじゃない」と言ったのだ。スイミングスクールに通っている同じ年の子どもが、それなりに様 になったクロールを披露してくれた。水の中にいるのなんて息を吸うように当たり前にできるのに、あんな風に泳ぎ進む、ということがどうやったらできるのかわからなか った。
しょげかえる凛を見かねて、父が特訓してくれた。当時は祖母の家の隣の長屋に住んでいて、目の前は海だった。幼稚園から帰ってすぐに海へ駆け出して行って、ひたす ら泳いだ。「がんばれ」と両手を広げる父まで、辿り着こうと必死で水を掻いた。毎日練習を繰り返して泳げるようになったとき、父はうれしそうに笑っていた。
もうずっと昔のことが鮮明に思い出されて、懐かしさで胸がいっぱいになった。
だからなのか、肩を落とす怜に思わず言っていた。
「わかった。とことん付き合ってやるから、がんばれよ」
怜が顔を上げて、その目を輝かせた。ええもう遊ぼうよお、と渚が後ろに倒れ込みながらぼやいた。
それから小一時間練習して、休憩に入った。
怜は、沈みがちではあったが、バタ足で10mほど進めるようになった。クロールのストロークはもとより様になっていたので、特に言うことは無かった。推進力はある のだから、ブレスでなるべく浮力とスピードを落とさないようにすれば、それなりに泳げそうだった。あくまでも、それなりにだったが。
三人で丸太のように木陰に転がり、ほてった肌を冷ました。
「感動です…ぼくでも何となく形になりました」
「怜ちゃん、感動したよぼくも!」
わざわざ凛を挟んで、渚と怜が会話する。凛は浮き輪を枕にして、二人のやり取りを聞いた。
「渚くんは、途中から変な顔をして僕を笑わせようとしていたでしょう!手伝っているのか邪魔しているのかわかりません!」
「心外だなあ。リラックスさせようと思ってやったんだよ。緊張したら体が硬くなるでしょ?怜ちゃんぷかぷか作戦の一つだったのに!」
「そ、そうだったんですか」
「なんてね」
渚はそう言うや、跳び起きて海へと駆けだして行った。怜からの反論を見越していたのか、見事な逃げっぷりだった。
「ぼくも、向こうの島まで行って来るねー!」
ぶんぶんと手を振り、あっという間に波間に消えて行った。
「あの人は、いつもああなんです」
「楽しそうだな」
「疲れます」
それには頷くしかない。
「あなたも、泳ぎに行かなくていいんですか?」
「ああ、いいんだよ。ちょっと、疲れも溜まってるし」
「…すみません。オフなのに疲れさせてしまって」
怜が顔を曇らせる。
「いや、お前のせいじゃねえよ。ついオーバーユースしちまうから、オフの日はなるべく休めってコーチに言われてんだよ」
本当は島まで遠泳できるならしてみたかったが、心残りになるほどでもなかった。ひんやりとした木陰の砂の上に転がって、潮風を受けていると、とても気持ちがいい。瞼 の裏に枝葉をすり抜けてきた光が差して、まだらにかぎろった。
「あなたが、ぼくに泳ぎ方を教えてくれるのは、昨年のことを気にしているからですか?」
まるで独り言のような小さな呟きが耳に届いて、凛は瞼を起こした。
怜が生真面目な顔でこちらを見ていた。
「なんだよ急に」
「すみません、確かめておきたくて」
怜が言っているのは、昨年の地方大会のことに違いなかった。彼を差し置いて、岩鳶高校の選手としてリレーに出た。彼らの厚意に乗っかって、大事な試合をふいにして しまった。得ることの方が大きかったけれど、負い目を感じないわけがない。しかし、負い目があるから怜に泳ぎを教えているのではない。それははっきりと、違うと言え る。
「あなたがいつまでも、ぼくに負い目を感じる必要はありません。ぼくが決め、あなたたちが選んだ。それだけのことです。そりゃあ、問題になりましたが、いつまでも引 きずっていても…」
「待て待て、怜」
怜の言葉をやんわりと止めて、上半身を起こした。乾いた白い砂の粒が、はらはらと肌の上を滑って落ちる。怜も体を起こして凛と向き合った。きちんと居住まいを正す ところが、怜の真面目で誠実なところだ。
「負い目って言われるとどうかと思うけど、それは一生無くならない。失くせって言われても無理だ。そういうもんなんだ。でも、罪滅ぼしのために、お前に泳ぎを教えて んじゃねえよ」
「ではなぜですか」
面と向かって問われると、答えざるを得ない空気が漂う。凛はがしがしと後ろ頭を掻いた。
「お前が一生懸命だからだ」
「一生懸命?」
「一生懸命練習しているやつがいたら、手伝いたくなるだろ。そういうもんだ」
「敵に塩を送ることになっても?」
「一人前なこと言うな、お前」
「だって、そうでしょう」
凛は口端を上げた。自然に笑みが湧いた。
「一にも二にも努力努力っていうけどよ。努力すらできないやつだって、ごまんといるんだよな。努力する才能ってやつも必要だ。お前にはそれがある。それは…すごいこ となんだ。そういうやつを、俺は尊敬してる」
「尊敬、ですか」
怜がしみじみと噛みしめるように言った。
「あんだけ見事な潜水艦だったのに、さっきの特訓では一度も音を上げなかったしな。俺だったら三分で逃げ出してる」
潜水艦って言わないでください、と怜はむっとした顔を作った。けれど、すぐにそれを解いて微笑んだ。
「ぼく、とても楽しみなんです。今度は、ぼくもあなたたちと一緒に泳げる。いつだってこうして楽しく泳ごうと思えば泳げるけど。試合で泳ぐのは、特別な気がします」
「確かにな」
「緊張もするけれど、わくわくします」
わくわくします。それはいい言葉だった。長らく自分が見失っていた感情に近い気がした。
「あなたは勝ち負け以外の何があるんだって、言っていましたが」
「どうしたって、勝ち負けはあるんだぜ」
「知っています。でも、ぼくはわくわくするんです。勝つかどうかもわからない。勝ったらどんな感情を抱くのか。負けたらどんな自分が出て来るのか。それは理論では計 り知れない。そういう未知なる気配が、おもしろいと思えるようになったんです」
「俺もそう思う」
「わくわくしますか」
「ああ、する」
「一緒ですね」
怜がふわりとはにかむ。隙だらけのあどけない顔をするので、思わずその頭をわしわしと撫でまわしてしまった。
「なんだよお前。ガキみたいな顔しやがって」
「だって」
怜は泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにした。
「僕にも、皆さんと同じ景色が見られるんじゃないかって、今、すごく思えたから」
「そうかよ。楽しみにしてろよな」
「はい」
「怜、ありがとな」
「はい…えっ?」
まさか礼を言われるとは思っていなかったらしい怜は、戸惑っていた。妙に照れくさくなってしまって、そんな怜を置いて弾みをつけて立ち上がった。
「やっぱ泳ぐかあ。あいつら、どこまで行ったんだ?」
木陰から一歩踏み出ると、目が眩むほどの強い日差しに、何度か瞬きをした。
そこへ「せんぱあーい!」と似鳥の甲高い声が聞こえてきた。防風林の向こうから駆けて来る姿があった。
「自主練終わりました!ぼくも仲間に入れてください!」
そういえば、似鳥も海水浴に行きたいと言っていた。わざわざ断ってくるところが彼らしい。
「愛ちゃんさん、自主練をしていたんですね。見習わなければ」
「お前も自主練みたいなもんだろ」
似鳥はあっという間に、なだからかな浜を駆け下ってきた。
「御子柴ぶちょ…あ、元部長が差し入れにいらしてましたよ」
「暇なのか?あの人」
「そんなこと言ったら泣いちゃいますよ。ちゃんと後であいさつしてくださいね」
「わかってるよ」
怜を連れ出して沖まで行くか、と相談しているところに、今度は「おにいちゃーん!」と江の声が届いた。
見れば、ビニール袋を提げた両手をがさがさと振っている。言わずもがなのアピール。
「手伝います」という後輩たちを置いて、パーカーを羽織ると江のもとへ浜を駆けのぼった。怜は真琴の言いつけ通りの完全防備で、似鳥に浮き輪ごと曳航されて沖へと 出て行った。
「のんびりしてたのに、ごめんね」と江は詫びつつも、しっかり凛に重い荷物を譲り渡した。買い出しのために顧問に車を出してもらおうとしていたら、鮫柄の顧問から呼 び出しがかかってしまったらしい。
「ったく、買い出しくらいあいつらにさせろ。それか、マネ増やせ」
「そうね、マネも増やしたいなあ。時々、花ちゃんが手伝ってくれるんだけどね」
麦わら帽子をちょんと被りなおした江が、それにしても暑いねえ、とのんびり言う。
岩鳶高校が宿にしている民宿は、浜からそれほど遠くない。ビーチサンダルで砂利を踏みながら、江と並んで歩いた。太陽はますます高く、縮んだ濃い影が、舗装された 白い道に焼き付いてしまいそうだった。
「あ、ねえ、お兄ちゃん、見て」
江が白い腕を伸ばし、海のかなたを指した。
「あの船、お父さんの船に似てるね」
見れば、はるか沖を行く船たちの姿が、ぽつぽつとあった。マッチ箱ほどの小さな船影の中に、確かに、父の船と似ているものがあった。青い船体に、白い縁取りの漁船 だ。青い船は、白波を立てて水平線を滑るように進んでいく。やがてその姿は、小島の向こうに消えて見えなくなった。
二人で船を見送ったあと、わたしね、と江が言った。
「一つ、思い出したことがあるの」
「何を?」
「お兄ちゃん、お父さんが死んじゃったあと、よく海に出かけて行ってたでしょ?ひとりで」
「そうだったか?」
「そうだったよ。お母さんが、夜にな���ても戻らないって、すごく心配してたの。あの時、お兄ちゃんは、何をしに行ってたのかなあって」
「海に行くのは、いつものことだっただろ」
「そうなんだけど。お父さんが死んだあとのことよ。毎日、毎日、お兄ちゃんが帰って来ないって、お母さんが玄関の前でうろうろしてた。それを見て、わたしはすごく不 安だったことを思い出したの」
突然、遠い昔の話を出されて困惑してしまう。確かに、父が亡くなったあと、毎晩のように浜辺へ通っていた覚えがある。けれど、何のためにそうしていたのか、よく思 い出せない。
「でもね、お兄ちゃんは、ちゃんと帰って来た。お兄ちゃんが海から家に帰って来たら、ああ、よかったあ、ていつも思うの。待つことしかできなくて、とっても不安だっ たけど、ああよかった、お兄ちゃんは、どこへも行かずにちゃんと帰って来てくれて、って安心するの。そういう記憶」
沖をじっと見つめていた江が、また歩き始めた。歩調を合わせてゆっくり歩いた。
「お父さんが死んだとき、私はまだ小さかったから記憶はおぼろげなんだけど、最近は、よく思い出すんだ。お父さんが死んだ時の、お母さんの顔とか、海に出て行ったお 兄ちゃんが庭に放りだした自転車とか、お父さんの大きな手とか、声の感じとか、色々、ごちゃまぜに」
「そうか」
「なんでかな、今まで忘れてたわけじゃないんだよ。毎日、仏壇にお線香上げるし、お花の水も換えるし、お祈りもする。けど、そういう決まったことのように亡くなった 人のことを思うんじゃなくて、勝手に湧いてくるの。ふとした時に、お父さんの気配みたいなものが」
それは、凛にもわかるような気がした。さっきだって、怜に泳ぎ方を教えながら、それを感じたばかりだからだ。もう形を持たないはずの父が本当にそこにいるかのよう な感覚。五感のどこかに残っている父の記憶のかけらが、不意に集まって形作るような。
「海にいるからかな」
「そうかもな」
「お兄ちゃんが、お父さんの話をするようになったからかもしれないよ」
「どっちだよ」
「どっちもよ」
江がそう言うのなら、そうなのだろう。
並んで歩きながら、沖を行く船の姿を探した。けれど、もうあの青い船の姿は見えなかった。その名残のように、小さな白波がいくつもいくつも、生まれては消えた。太 陽の高度はますます上がり、水面に踊る光の粒がまばゆく目を刺した。
江を送り届けて海岸に戻ると、遙がぽつんと遊歩道に立っていた。もう海から上がっていたらしい。
江から、あと小一時間ほどしたら宿に戻って食事を摂り、午後からの練習に備えて休むように言ってほしい、と頼まれていた。それを伝えようと軽く手を振ると、遙はふ い、と顔を背けて再び浜へ下りて行ってしまった。なんだよ、とつい零したくなるような態度だ。迎えに来てくれていたわけではないのは分かっていたが、あまりにも素っ 気ない。まあ彼としては珍しくもない振る舞いなので、まあいいかとすぐに思い直した。
真琴や渚たちも沖から戻っていた。彼らは屋根付きの休憩所で水分補給をしていた。
「怜がちょっと泳げるようになってたから、俺、感動しちゃったよ」
真琴が声を弾ませて言う。怜はその隣ですっかり得意げな顔だ。
「浮く練習なら深いところがいいって愛ちゃんさんが言うから、やってみたんです。そしたらできました」
「へえ、やるじゃねえか」
「はい。…しかしまあ、愛ちゃんさんがすごく怖くて。ヘルパーも浮き輪も容赦なく外してしまうし」
「愛ちゃん、スパルタだったよ!」
渚の隣で、似鳥は恐縮したように肩をすくめた。
「凛先輩ほどじゃありませんよう」
「いや、おれよりお前の方がえげつない練習メニュー考えるよな。この合宿のメニューだってさ、一年が、青ざめちまってたもんな」
「え、そうですかあ?ぼく、もしかして、後輩にびびられてますか?」
似鳥が困惑顔で腕に縋り付いてくる。いや、それはない、とすぐに否定しておく。童顔な彼は、どうかすると後輩に舐められてしまいがちだが、面倒見が一番いいのでよ く頼られている。
「似鳥、俺たちはそろそろ戻るか」
「もうですか?」
「午後連の前にミーティングと、OBに挨拶があるんだろ?」
「そうですね…。もうちょっと、皆さんと泳ぎたかったですけど」
「え~、愛ちゃんも凛ちゃんも行っちゃうの?」
似鳥の縋った腕とは反対の腕に、渚がぶら下がる。重い。
「しょうがねえだろ。OB様は、大事にしておかねえとな」
残念がる似鳥を促して、荷物の整理をしていると、それまでベンチの隅にしゃがんでいた遙が、急に立ち上がった。もの言いたげにこちらを見るので、「なんだよ」と思 わず言ってしまう。そのくらい、視線が重い。何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。
「なんか言いたいことあるなら言えよ、ハル」
「別に」
何もない、と遙はまたそっぽを向く。明らかに何もないわけがない態度だったが、もう放っておくことにした。
「お前らもぼちぼち戻れよ。江が、メシ作ってるって」
ちえ、バカンスは終わりかあ、と渚は盛大にこぼし、真琴は部長らしく「手伝いに戻ろっか」とお開きのひと声を発した。まるでそれを待っていたかのように、ぷしゅ、 と空気の抜ける音がした。遙が水玉模様の浮き輪の空気を抜く音だった。無言のまま、ぎゅうぎゅうと体重をかけて押しつぶしている。むっと口を結んでいるところを見る と、やはりご機嫌ななめらしい。
ほんと、よくわかんねえやつ。
手伝うよ、と真琴が遙に歩み寄る。その様を見ているのがなんとなく癪で、凛は「帰るぞ」と似鳥を連れて宿に向かって歩き始めた。
明け方の白砂は、潮を含んで重かった。
少し足を取られながらも、波打ち際を流すようにゆっくりと走った。連日の猛練習の疲れは残っているが、だらだらと眠るよりも、こうして体を動かしている方がすっき りする。
夜の間に渡って来たらしい雲が、東の空から羽を広げるようにたなびいている。それを、水平線に覗いた朝日がうっすらと赤く染めている。波も、同じ色に染まっている 。
朝日の中を行く船があった。まばゆい光の中にあって、色はわからない。
ゆるやかな海岸線の中ほどで、凛は足を止めた。上がった息を鎮めながら、沖合に目を凝らした。
なぜ、父が亡くなった後、毎日海へ出かけたのか。
昨日、江にたずねられたことを改めて考えているうちに、あることを思い出した。昨夜、眠りに落ちる前に、ふとおぼろげな記憶の中から浮かび上がってきた。
父は、凛が五歳の時に亡くなった。夏の終わりの大時化で、船と共に沈んでしまった。船そのものも、遺体も上がらなかった。何日も捜索が続き、母は毎日、港に通った。 何かしら知らせが来るのを待ち続けたけれど、ついに父は戻らなかった。船長を含めた十数人が行方不明のまま、捜索は打ち切られてしまった。だから今も、墓の下に父の 骨は無い。墓石や仏壇に手を合わせる時、どこか空虚な気がするのは、そのせいかもしれなかった。
飛行機に乗って世界中のどこへでも行けるし、ロケットに乗って月へも行けるのに、たった沖合3kmのところに沈んだ船を見つけることができないなんて、おかしな話だ 。捜索を打ち切って、浜から上がって来るゴムボートを眺めながら、そんなことを思っていた。
父が戻らないことを凛と江に告げる母は、やつれて生気を失ったような顔をしていたが、どこかほっとしているようでもあった。何か一つの区切りを迎えなければ、母は限 界だったのだろうと思う。毎晩、祖母に縋り付いて泣いているのを、凛は知っていた。江と一緒に仏間の布団に寝かされ、小さくなって眠る振りをしながら、母の細い嗚咽 を聞いた。母は、泣いて泣いて泣き伏すうちに、いつか細い煙になって消えてしまうんじゃないかと心配だった。朝になると、母は気丈に振る舞っていたので、その不安は 消えるのだけど、夜になって母のすすり泣きが聞こえてくると、家全体が薄いカーテンの中に包まれて、そこだけが悲しみに浸かっているような気がした。
捜索が打ち切られた数日後、形ばかりの葬儀が行われた。遺体の上がらなかった何世帯が一緒に弔いをすることになり、白い服を着た大人たちに連なって、海沿いを延々と 歩いた。波は嘘のように穏やかだった。岬で読経を上げる時、持たされた線香の煙がまっすぐに天へ昇っていったのをよく覚えている。
葬儀が終わると、生活のすべてがもとに戻り始めた。母には笑顔が戻った。友だちと外で遊び、お腹が空いたらつまみ食いをした。江は勝手に歌を作って歌い、ちょっと 転んだだけで泣いた。いつもと同じ毎日だった。
けれどもそれは、凛にとっては、大きく波に揺り動かされて、遠くへ投げ出されてしまったかのように強引で、拭いようのない違和感に満ちていた。誰もかれも、日常の 続きを演じているような奇妙さがあった。
四十九日が済むと、海辺の家を離れて、平屋のアパートを借りてそこで三人で暮らすことになった。父の船は、知り合いに引き取ってもらうことになった。新しい家も、 父の船が人の手に渡ってしまうことも、嫌だった。けれど、決まったことなのよ、と母に泣きそうな顔をされると、何も言えなかった。
引越しをする少し前から、毎日海へ通うことになった。
行き慣れた海岸は、潮が引くと、磯を渡って沖まで行くことができた。ごつごつとした岩場を歩き、磯の終わるところまで足を運ぶと、そこに座り込んで海を眺めて過ご した。
せり出した磯は、ずいぶん海の深いところまで伸びていて、水面から覗き込んでも海底は見えない。もっと小さい頃は、一人では行くなと言われていた場所だった。磯か ら足を滑らせれば、足の着かない深みにはまって危険だからと。
しかし、磯の岩場には、釣り人もいたし、浜辺には船の修理をする近所の大人の姿もあったので、凛は構わず出かけた。
手にはランタンを提げて行った。父が納屋で網を繕う時に、手元を照らすためにいつも使っていた、電池式のランタンだ。凛は、暗くなるとそれを灯して、いつまでも磯 にいた。
父が戻らないことは、幼心にもわかっていた。これから、父のいない生活を送らねばならないことも。
もう二度と、あの青い船に乗せてもらえないこと。泳ぐのが上達しても、大げさなくらい喜んで、頭を撫でてもらえないこと。大きな広い背中に抱き付いて、一緒に泳ぐ こと。朝霧の中を、船で進む父に手を振ること。お帰りなさい、と迎えること。そんなことは、もう、ないのだとわかっていた。
わかっていたけれど、誰も父を探そうとしてくれないことが、誰もが当たり前の顔をして日常に戻ってしまうことが、悔しかった。かなしかった。
海へ通い続けたのは、ぶつけどころのない感情を、なんとか収めようとしていたからなのかもしれない。海はただそこにあるだけで、凛に何も返さない。何を投げても、 すべてを吸い込み、飲み込み、秘密のままにしてくれる。父を飲み込んだ海なのに、憎いとか恨めしいとか、そんな感情は浮かばなかった。むしろ、誰よりも、そばにいて くれている気がしていたのだ。
ある風の強い日だった。その日も、いつものように海へ出かけた。波は荒く、岩にぶつかっては白い泡になって弾けていた。大きな雨雲の船団が、どんどん湧いては風に 押し流されていた。空は、黒い雲と青い晴れ間のまだら模様で、それを移す海も同じ模様をしていた。
嵐の日と、その次の日には海へ行くなと言われていた。嵐の後には、いろんなものが流れ着くからだ。投棄されたごみならよくあることだが、時に死体が流れ着くことが ある。入り組んだ海岸線が、潮の吹き溜まりを作っていたのだ。
父と海に出かけた時に、一度だけ水死体が岩場の端に引っかかっているのを見つけたことがあった、凛は離れているように言われたので、遠目にしか見えなかったが、白 くてふくふくとした塊を、父や漁協の仲間が引き上げていた。あとで父は、凛に諭すように言った。
「嵐の後の海には、こわいものがいる。海に引きずり込まれるかもしれないから、近寄ってはいけない」と。
あの時の教えを忘れたわけではなかったけれど、凛は横風に煽られながら磯の際を歩いた。いかにも子どもらしい発想だ。本当に見つけたとして、どうしていいのか何も わかっていなかったというのに。
雨雲の隙間から、光が差していた。波に洗われて、日に照らされた岩肌は、滑らかに光っていた。海面にはスポットライトのようにまるく光が差し込み、まるで南海のよ うにエメラルドグリーンに透き通って見えた。雨上がりの海の景色の美しさにすっかり心を奪われた。深い深い海の底に、何かもっと美しい景色や生き物がいるのではない か。凛は、父を探すのも忘れて、磯の際に手と膝をつき、夢中で覗き込んだ。きらきらと光のかぎろう碧が美しくて、ため息が漏れた。鼻先が海面に付くかつかないかとい うところで、びゅう、と背中から風が吹いた。ど、と勢いよく押されて、体が前に倒れ込んだ。あぶない、と気付いた時には遅かった。頭から海に落ちてしまう。海にはこ わいものがいる。引きずり込まれるかもしれない。近寄ってはいけない。あれほど言われていたのに。恐怖に体の自由を奪われて、抗えないまま海へ落ちてしまう寸前、後 ろから、ぐい、と強く腕を引っぱられた。
「危ない���」
と声がした。
慌てて振り返ってみたが、誰もいなかった。ただ、小雨に濡れて黒々とした岩場が広がっているだけだった。
少し遅れて、心臓がばくばく鳴り始めた。
たった今、海に引きずり込まれそうになったこと。それを誰かが助けてくれたこと。その誰かの姿は、どこにも見当たらないこと。
なにか、今、不思議なことが起きたのだ。
凛は泣きそうになりながら、家へ駆け戻った。とにかく、怖かったのが一番。次には、懐かしいようなうれしいような気持ちでいっぱいだった。
危ないよ、という声が、父の声のように思われたからだ。
不思議な出来事は、その一度きりだった。二度と海が不思議な光を放つこともなかったし、助けてくれた声の主と出合うこともなかった。
海辺の家を離れて、母と江と三人で暮らし始めると、そんなことがあったことすら忘れていた。
あれはなんだったのだろうと思う。海面が光って見えたのは見間違いかもしれないし、引きずり込まれそうになったと感じたのは、ただの風のせいだったのかもしれない 。本当はあの時、通りすがりの釣り人がいて、海に落ちそうになっている子どもに声をかけただけかもしれない。
とにかく、奇妙な体験だった。海では不思議なことが起こるものだと感覚で知っている。言い伝えや昔話も多くあり、それを聞いて育つからだ。でも、自分の体験したこ とをどう片付ければいいのか、わからない。
今は、朝日を浴びて美しいばかりの海は、暗くて深い水底を隠し持っている。この海は、父の命を飲み込んだあの海とつながっている。このどこかに、今も父がいるのだ 。
「凛」
不意に声をかけられて、身をすくめる。
気づけば、足元を波にさらわれていた。慌てて、波打ち際から離れる。
「そのままで泳ぐつもりだったのか?」
遙だった。凛と同じようにロードワークに出ていたのか、汗ばんだTシャツが肌に貼り付いていた。
返事ができずにいる凛を、遙は不審そうに見ている。
「いや、泳がねえよ」
首を振ってこたえると、遙の視線が凛の足元に落ちた。
「濡れちまった」
波に浸かってぐっしょりと重くなったランニングシューズを脱いで、裸足になった。砂の付いたかかとを波で洗う。
「どこまで走るんだ?」
気を取り直すようにたずねると、遙は「岬の方まで」と答えた。答えたものの、凛の顔をじっと見つめたまま走り出そうとしない。
昨日は、午後練になってもろくに口を利かなかったからか、どこか気まずい。
「何を見ていたんだ」
遙が言った。
「何って…海しかないだろ」
凛の答えに納得したようではなかったけれど、遙は海を向いた。
「お前も、真琴みたいに海がこわいのか」
「そんなわけねえだろ。俺は海育ちだぞ」
「そうか。真琴みたいな顔をしてた」
相変わらず言葉足らずで要領を得ないやりとりだったが、どうやら心配してくれているらしい。
遠くから霧笛が響いた。大きなタンカーが沖へ向けて港を出て行く。
「船が…あっちの方に、船がいたから、見てた。それだけだ」
そう付け足すみたいに言うと、遙は船の姿を探して、沖合に目を凝らした。潮風にあおられて、彼のまっすぐな黒髪がさらさらと揺れた。遙の目は、「本当にそうか?」 と不思議そうにしていた。遙の目は雄弁だ。誤魔化さずに本当のことを言わなければならないような、そんな気がしてくる。だから、というだけではないけれど、凛はほと んど独り言をつぶやくみたいに、小さく言った。
「船、見てたらさ。俺、思い出したことがあんだよ。昔のことなんだけどさ」
遙を見ると、彼はまだ遥かな沖合に目を向けていた。凛の話を聞いているようでもあるし、波音や風の音に耳を澄ましているようでもあった。
「親父が死んだあと、毎日海に行ったんだ。何をするのでもなかったんだけど。ランタンなんか提げてさ。暗くなるまで海にいた。それで…嵐が来た次の日にも海に行った らさ、おかしなことがあったんだ」
遙がこちらを見ないことをいいことに、一方的に語った。昨夜ふと蘇った、海での不思議な出来事の記憶を。
遙にこんなことを話しても仕方がない。誰かに聞いてほしかったわけでもない。でも、船の姿を探しているような遙の横顔を見ていると、ほろりと漏れだしてしまったの だ。
彼にとってはどうでもいい話。きっと聞いたからといって、何をどうしようとも思わないだろう。
そういう気楽さがもどかしい時もあれば、救われることもあることを知っている。
「あれは、一体なんだったんだろうな」
話終えると、心の中も随分片付いていた。昔のことだから、記憶はおぼろげだし、端から消えていくように心もとない。事実とは異なるところもきっとあるのだろう。
けれど、あの時、海に落ちそうになった自分を助けてくれたのは父だったと思いたがっている自分がいる。
どうしようもない、独りよがりの感傷かもしれないけれど。
「俺も、見たことがある」
遙がふと口を開いたのは、いくらか時を置いてからだった。ごくごく小さく呟くので、凛が語ったことへ返されたものだとはすぐに気が付かなかった。
「見たって、なにを?」
たずねると、遙は、「海が光るのを」と言った。
「一人で遊んでいる時に。海が、とても美しい碧色をしていて、水底まで透けそうだった。子どもの頃の話だ。あの頃はまだばあちゃんが生きていて、話したら、近づくな って言われた」
「どうしてだ」
遙は少しだけ横目でこちらを見て、すぐにまた海へと視線を戻した。
「死は、時々美しい姿で扉を開くんだって言ってた。小さかったから、よくわからなかったけど」
「そんなの…迷信かなんかだろ」
「そうかもな」
でも、と遙は言い添えた。
「お前の親父さんだったかもな」
不意に父の話に繋がって、けれども相変わらずタイミングはちぐはぐで、理解するのにひと呼吸、必要だった。けれど、遙が言おうとしていることは分かった。凛の気持 ちを汲んで、そう言ってくれたことも。
あの海での不思議な体験は、幼かったので、本当はどうだったかわからない。けれど、それでいいのだと思えた。父が、海に落ちそうになった凛を助けてくれた。そう思 いたければ思えばいい。遙のまっすぐな言葉が、不確かだった記憶をすとりと凛の中に収めてくれる気がした。
「…んじゃあ、そういうことにする」
素直にうなずくと、遙はちらりと意外そうな顔をした。朝の美しい海を前に、わざわざ意地を張る必要もない。
凛は頬をゆるめて、遙かに向かって言った。
「あっちまで走るつもりだったんだろ。行って来いよ」
「お前は?」
「俺は、足、こんなだし。散歩でもして戻るわ」
「じゃあ、俺も散歩する」
一緒に波打ち際を歩き出しながら凛は言った。
「ハル、お前、昨日はなんで怒ってたんだよ」
「べつに、怒ってない」
遙が小さな波をぱしゃりと蹴り上げる。その態度が、すでに、なのだが。
「いーや、むすっとしただ���。言いたいことがあんなら言えよ」
「べつにない」
「べつにって言うのやめろ」
「べつにって言っちゃいけない決まりなんかないだろ、べつに」
ついさっきまで、たどたどしくも心がつながったような、そんな気がしていたのに、もういつもの言い合いが始まってしまった。陸に上がると大概そうなってしまう。
はあ、とわざとらしく長いため息をついて見せると、遙はやや口を尖らせて、ぼそりと言った。
「…島に、行きたかったのに」
「行っただろ、真琴たちと」
「いや、行ってない。泳いだけど、すぐに引き返した」
「行けばよかったじゃねえか」
そんなに行きたい島があったのだろうか。
「お前も、連れて行きたかったのに」
※このあと、二人で海辺を散歩して、微妙ななんだかそわそわする雰囲気に雰囲気になって、宿の手前で、みんなに会う前にハルちゃんが不意打ちでチューをかまして・・・みたいな展開でした。中途半端な再録ですみません・・・
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Free! 七瀬遙は、かつては同学年の橘真琴やライバルの松岡凛や下級生の葉月渚と同じスイミングクラブに通っていた。しかし、凛はオーストラリアに水泳留学してしまい、さらにクラブが閉鎖してからは、高校に水泳部がないこともあって、水にこだわりつつも泳ぐことをせず、無気力に暮らしていた。しかし、同じ岩鳶高校に入学してきた渚から閉鎖されたスイミングクラブが取り壊されることを聞き、かつて凛の「大人になったら掘り起こそう」という提案でクラブの裏庭にタイムカプセルとして埋めた遙・凛・真琴・渚のチームがリレーで獲得した優勝トロフィーを掘り起こすことになり、凛を除いた3人で深夜に施設内へ入り込む。そこでオーストラリアにいると思われていた松岡凛と数年ぶりの再会を果たすが、昔とは違い凛は3人に非友好的な態度になっていた。凛は留学から戻っており、水泳の強豪校・鮫柄学園に編入していたことを知った遙達3人は、今度は鮫柄学園に忍び込むのだった。 放送時間 TOKYO MX 2013年7月3日 - 水曜 24:30 - 25:00 テレビ愛知 2013年7月3日 - 水曜 26:05 - 26:35 朝日放送 2013年7月3日 - 水曜 26:43 - 27:13 BS11 2013年7月7日 - 日曜 24:00 - 24:30 ニコニコ動画 2013年7月8日 - 月曜 22:00 - 22:30 ABC動画倶楽部 2013年7月8日 - 月曜 22:00 - 22:30 AT-X 2013年7月10日 - 水曜 22:00 - 22:30 アニマックス 2013年8月20日 - 火曜 22:00 - 22:30 キャスト 七瀬 遙(ななせ はるか) 島崎信長 橘 真琴(たちばな まこと) 鈴木達央 松岡 凛(まつおか りん) 宮野真守 葉月 渚(はづき なぎさ) 代永翼 竜ヶ崎 怜(りゅうがざき れい) 平川大輔 松岡 江(まつおか ごう) 渡辺明乃 天方美帆(あまかた みほ) 雪��五月 御子柴清十郎 津田健次郎 似鳥愛一郎 宮田幸季 笹部吾朗 家中宏
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