#部分ストレート
Explore tagged Tumblr posts
Text
キングダムハーツの一作目は私自身が深く関わった作品です。「ディズニーにとっても画期的かつ実験的プロジェクトだとおもいます。大げさかもしれませんが、ディズニー史に残るプロジェクトになるんじゃないかな」というこインタビューのコメントが、第一作目が発売される時にファミ通のインタビューに掲載されています。 当時、私はディズニーに在籍しており、日本を含むアジアのゲーム部門を見ていましたが、このプロジェクトが一番記憶に残りかつ成功したプロジェクトとなりました。ディズニーサイドのプロデューサーを務めたわけですが、この作品、幾つもの奇跡が重なり大ヒットに繋がり、ファミ通に引用されたコメントがあながち外れていなかった事になりました。今だから言える、キングダムハーツ一作目の舞台裏を、ディズニーの中での様子や、ビジネス面にスポットを当てながら今から振り返って見たいと思います 私がディズニーに入った時、米国のメンバーから実験的なプロジェクトが動いているという事は聞いていました。ただ、全くディズニー社内でオーソライズはされておらず、実験をしているという名目でした。ところが、私がディズニーにはいってしばらくたっても、契約は存在せずに、実験のはずが現場ではどんどん開発を始めていきます。スクエアエニックス(以降スクエニ)では開発ディレクターの野村哲也氏の想いがあり、非常に前のめりに開発を続けたいという意志が固く、一方で、ディズニーはイエスともノーとも言わないで、頑張りましょうという曖昧な返事を繰り返していました。先ずは、何とかプロジェクトをオフィシャルにしなくてはいけません。 そもそも、『キングダムハーツProject』は、承認を得るには大きな問題がたくさん含まれていました。それは内容に関するクリエイティブのチャレンジが原因となっています。普通のライセンス契約は、すでにあるイメージを利用して商品��作るもの、ゲームのライセンスもすでにある映画やキャラクターの世界観を使ったゲーム制作がそのベースとなっていました。ところが、キングダムハーツは例外事項のオンパレードでした。 ・米国の外で、少なくとも日本では、全く新たな世界観を持ったディズニーのライセンスが認められた事はなかった。 ・当時、まだ3D のミッキーのモデルが公に存在していなかった。 ・ディズニーの違った世界観、例えばターザンとピノキオとミッキーを一つの作品の中に入れる事ができるのはディズニーランドだけであった。 皆さんも想像できると思うのですが、ディズニーという会社は非常にアメリカ的な会社です。アメリカ、ハリウッドが中心で、ここで作られたクリエイティブを日本を含めた世界に流すのがビジネスモデルです。ある意味、ハリウッドのクリエイティブを頂点にライセンスのビジネスモデルが完成されているのです。ディズニーの財産は、ディズニーの世界観である事が徹底されていて、ディズニーの世界観を守るため、とても細かいライセンスのガイドラインが設けられ、世界にその指示が渡っていました。ブランドを守るグループの力は強く、社内での隠語でPolice(警察)と呼ぶ人もいました。
日本においてのライセンスグループは、ミッキーの新しいイラスト一枚を米国に認めてもらうために四苦八苦するのが実情でした。その様な状況で、上の様な問題?を持ったゲームが認められるはずがないというのが社内の空気だったのです。
皆さん、ご存知ですか?ミッキーの耳はいつでも正面を向いている事を。2Dイラストのミッキーはたとえ横を向いている時でも、その耳はまん丸で正面を向いているのです。それが3Dになったらどうするんだ、そもそも3Dのミッキーなんて米国が認めないし、他の膨大なキャラクターの3Dデータ、個々のアニメーションデータをどう承認してもらうのだというのです。
日本のディズニーでは、日本初のジャパンクリエイティブ作品を是非押して行こうと言う掛け声はあったものの、ディズニーの日本のベテラン社員の方が、「事が大きくならないうちにダメならダメと言ってあげるのがクライアントに対する本当のサービスだよ」という忠告をしてくれました。
当時のディズニーゲーム部門のプレジデントはディズニーストアの店員からのし上がって行った女性でした。とてもガッツがあり、野心があり社内政治的にも一目置かれており、彼女もこのプロジェクトにかけていました。ディズニーでは、業績だけでなく、新たなプロパティ、クリエイティブを生み出せるという事が、高い評価となるからです。プロジェクトは挑戦的でクリエイティブだし、部門トップもやりたいと言う事で、そういう意味では、ゲーム部門には米国も含めて何とかこのプロジェクトを通したいと気持ちが行き渡っていました。
日本のディズニーブランドグループのアドバイスは当然NGです。ただ、あまりに彼等の評価基準から��、かけ外れすぎているので、あえて判断出来ないと言うのが、彼らの立場でした。米国では常にブランドとゲーム部門の交渉が行われていましたが、私も良く呼び出されました。ついていた事に、タイミングは悪くありませんでした。
当時のディズニーのブランド部門のトップの悩みは、ディズニーのキャラクターが女性にしか受けず、対象年齢も下がりすぎており、何か新しい動きが欲しいと思っていたのです。話してみると、ブランドのトップの人はディズニーの世界観のエッジがなくなって行くのを危惧していたのです。当時の私は、前職がセガの(コンスーマー)開発のトップでしたので、クリエイティブの匂いを感じてくれたのでしょう、非常に長い時間ディズニーのブランド論やキャラクターの見せ方について語り合いました。如何にビデオゲームという舞台が、当時のディズニーにかけているお客さんに上手くアピールしうるメディアであるかといった話もしました。
先方は、ミッキーが最初に出て来た時には少しやんちゃな部分があったのに、今はお利口さんすぎてエッジがなくなっていると言う事も正直に話してくれるのです。ある意味、それにどう答えるのかもテストであったと思うのですが、ディズニーのブランドをどうしたらあげていけるのかというアイデアや考え方も私なりの意見を述べました。セガの時代に、ソニックの再生プロジェクトに関わっていたのも役立ちました。また、ブランドトップの彼には、時々途中経過を流したり、事前にちょっとした事を相談する様にしました。いわゆる、根回しをして信頼を得る作戦を取ったのです(これが出来たのは、当然、絶対的に当時のスクエアの制作能力が高かった事が挙げられます。最初に彼らの作ったいくつかのキャラクターの3Dデータ、アニメーションの審査の時に、ディズニーのスタジオの人たちがその品質に驚いた程でした)。
ディズニーにとって、当時ゲーム部門は主流の部門ではありませんでした。あくまで、映画、テレビ、パークがメディアの中心で、ゲームはライセンス部門の一部でした。(因みに今では、ゲームとインターネット部門が一つになり、ディズニーの独立部署かつ戦略部署と位置づけされています。) ディズニーがあまり強くない領域であまり強くないターゲット層に向けて、他人のお金で(スクエア)実験的な施策を打つのは会社に取っても悪くないと言う空気になっていきました。しかも品質は高く、ゲームで定評のあるパートナーなのです。ただ、それでもブランドグループもなかなかオフィシャルにGOを出しません。 我々にとってもう一つの追い風は、当時他国が落ち込んでいる中、日本のディズニーが全体で絶好調だった事です。東京ディズニーランドに加えディズニーシーがまさにオープン準備中でしたし、i-modeへの対応でモバイル部門も立ち上がっていました。ライセンス部門も他国が落ち込んでいる中好調を維持し、ジブリ作品のビデオ流通も当たっていました。
そこで、長年ディズニーでCEO(当時)として君臨をしていたアイズナー氏が、久しぶりに日本を訪問する事になったのです。この時の彼への権力の集中は凄まじく、彼の日本出張時に、何や感やで米国から100人以上の人が同時に日本にやって来ました。この様な中、日本での活動報告をアイズナー氏にする事になり、私もプレゼンをする事になったのです。
我々ゲーム部門の目的は、何とか此処で『キングダムハーツ』をオフィシャルにすることでした。数日かけて、ゲーム部門社長やディズニージャパン社長とプレゼン内容を相談し、当日に挑みました。アイズナー氏は流石にちょっと尊大とも言えるくらい威厳があり、カジュアルなセッティングにもかかわらず、場には緊張感が走ります。ストレートで厳しい質問もどんどん投げかけます。
私の順番になり、ゲーム業界の様子やいくつかのプロジェクトを説明したあと、『キングダムハーツ』の説明をはじめます。このプロジェクトが如何にクオリティが高くディズニーにメリットがあるか自分が説明するのを、横からゲーム部門社長が援護説明を入れます。とても助かったのは、アイズナー氏の内容に関する質問に対し、ブランドのトップが如何にディズニーのブランドにとってメリットがあるか援護射撃をしてくれたことです。
アイズナー氏は気軽に、「おー、そうか。頑張ってくれ」と励ましの言葉をくれましたが、この時が本当に『キングダムハーツ』がオフィシャルにディズニー内でGOになった瞬間でした。プレゼンが終わった後には、皆が祝福の握手に来てくれて、ブランドトップは祝福のハグまでしてくれました。この時まで、中立だった人たちがサポートに回ったのです。
何で、こんなに大袈裟なのかと思うのですが、ディズニーのクリエイティブに対する想いと、当時の組織の膠着が重なり合ったことが背景となっているのでしょう。あの時、アイズナー氏がちょっとでもネガティブな事を言っていたら、あのプロジェクトは飛んでいたかもしれません。
余談となりますが、当時一応、ブランドのトップは創始者ディズニーの甥 Roy Disney だったのですが、彼は保守的な立場の人でしたが、アイズナー氏との折り合いは悪く、彼は会議には出ていませんでした。彼がいたらここも一悶着あったかもしれません。
これは、言ってしまえば社内ポリティクスの苦労話です。そこには、普遍的な事もあるし、ある意味ディズニーという特殊な問題もあるでしょう。普遍的なことを言えば、どんな会社も形は違えどもなんらかの根回し、プロトコルがあるのだということです。よく、アメリカの会社には根回しがないという言葉を聞きますが、少なくともディズニーには全くその言葉は当てはまりません。ただ、日本の根回しとは少し違った感じはします。有力者にとにかく頭を下げてお願いするというよりは、一応こういう正義と言うか正しい気持ちとそこに伴うコミットメントが込められているかという説得はついていました。まあ、サプライズをビジネスマンは好まないという意味では同じなのかもしれません。ま���、どんな企業もトップが傲慢になりすぎると、決めるプロセスで苦労するというのも普遍的かもしれません。
ディズニーの特殊な面で言うと、クリエイティブに対する考え方、決め方、こだわりもこの件を通じてよく理解出来ました。あると��ろではビジネスを追求しているのですが、クリエイティブに対して尊敬しなければいけないとする問題意識は共有されています。ライセンスのガイドラインの作り方、ビジネスの作り方も見事なものです。コンテンツやIPをビジネスにする仕組みを積み上げているのです。
現在、日本ではサンリオが非常に上手いグローバルライセンス展開をしていますが、一方で集英社プロパティを中心に勿体無いコンテンツが沢山あります。世間で、ジャパンクールとはいうものの、その広がりを見せている様には思いませんが、コンテンツやライセンスのプロデュース、事業化能力をあげることも、コンテンツ、IPビジネスにおいてクリエイティブにも劣ることなく必要なことであるということはディズニーから学べるところです。
では、このライセンス商品を、ディズニーとしてどうプロデュースし盛り上げたかという施策を紹介します。ひとつが音楽に関する取引と、もう一つがプロモーション施策です。音楽に関して言うと、スクエアのクリエイターでディレクターを務めた野村哲也さんは、出来れば当時人気絶頂であった宇多田ヒカルさんを起用したいと言って来ました。ディズニーのゲームライセンスの契約で(とんでもない)社内ルールは、基本ディズニー作品に使われた曲はディズニーのものになるというものでした。
凄いアーティストと組んでゲームを作るという発想が、もともとなかったのです。ディズニーのリーガルと宇多田ヒカルさんの事務所、レコード会社と交渉しますが、此処でディズニーマジックが起こります。宇多田ヒカルさんがディズニーの大ファンで世界的に曲が広まるのであればと嬉しいと、日本語と英語版の楽曲提供を基本合意してくれたのです。然も、ディズニーの条件である、音楽のパブリッシング窓口がディズニーとなる事も納得してくれたのです。
キングダムハーツの主題歌「光」は、テクニカルには、宇多田ヒカルさん初の海外版になっているのです。ちょっと、蛇足ですが、この「光」という素晴らしい曲ですが、出来上がるのに時間がかかりました。丁度、彼女の病気と結婚の時期とかぶってしまったのです。この曲が素晴らしいものであったにもかかわらず、プロモーションビデオがとても地味な(失礼)出来になっているのは、病気が大きく影響していた様です。この曲は発売以来3週連続のオリコン1位を獲得します。人気絶頂だった宇多田ヒカルさんの曲とゲームのプロモーションを上手くリンクさせる下地が出来上がったのです。
私は、『キングダムハーツ』の問題として(今でこそとても当たり前に自然に見えているかもしれませんが)、スクエニのキャラクターとディズニーのキャラクターが並んだ時の違和感を感じていました。これを払拭するには、その世界観をあまり見せないか(ミステリーにして口コミに頼る)か、目一杯メディア露出をするかだとおもいました。前者は何もしないに等しいことなので、せっかくディズニーも絡んだ大型作品なのでどう露出するか考えました。スクエニに広告費露出を頼もうにも、先方は開発費が予算を大幅に越えており、その枠にも限界があることはわ��っていました。
ディズニーには、新しい映画を世間に出すときに、他の企業と組んでプロモーションをするというco-promotion という仕組みが出来上がっていました。例えば、トイストーリーの映画封切に合わせて、マクドナルドがハッピーセットを出してその告知をメディア広告(主にテレビ)するという類のものです。ゲームではこのモデルを使ったことがないけれど、何とか出来ないものかということで、幾つも営業に回りました。その甲斐あって三井ホーム社、日清社そしてアサヒ飲料社とco-promotion 契約を結べました。
特に、アサヒ飲料社とはゲーム業界史上最大規模となるco-promotionが成立します。内容は、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーを対象に、キングダムハーツのボトルキャップとデザイン缶キャンペーンを実行し、さらに大々的にキングダムハーツのイメージと宇多田ヒカルさんの「光」を使い、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーをテレビ広告を中心としたメディア広告を展開するというものです。ブランドを二つに分けたのには実は裏の事情があります。ディズニーはグローバルにコカコーラ社とキャラクターライセンス契約をしていました。そのため、炭酸飲料についてはミッキーとその仲間たち、ディズニーでいうところのスタンダードキャラクターに関しては使えませんでした。そこで、どうしてもスタンダードキャラクターも使いたいアサヒ飲料社の要望に答えるべく、バイヤリスオレンジにスタンダードキャラクターをあてがい、本当に推したい三ツ矢サイダーにはその他のキャラクターをあてがうことにしたのです(ちなみにすべて『キングダムハーツ』に出ているキャラクターでないといけない)。
結果デザイン缶は10パターン作ることになります。こちらにとって結果的によかったのは、アサヒ飲料社が2つのメインブランドを推すキャンペーンになったためプロモーション規模が結果的に大きくなるおまけもついて来たのです。ここであえて追加すると、日本の他のディズニー部隊の協力は素晴らしいものでした。当然、コカコーラ社を担当している部門や当時のディズニージャパンの星野社長(現在ジブリ社長)の協力が無ければ到底出来ない内容でした。
このキャンペーン規模、テレビ広告の規模全国2500GRP以上という凄まじいものでした。どれくらいすごいかと言うと、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。以下SCE)とスクエニがキングダムハーツにかけた広告を足したものの倍近くあったのです。また、ボトルキャップとデザイン缶を併せた『キングダムハーツ』仕様のドリンクは3000万缶近く作られ、コンビニでも『キングダムハーツ』のイメージが一気にばらまかれました。
キャンペーンタイミングも奇跡的にピッタリ合わせることが出来、今から考えても信じられないくらい上手く連動が出来たと想います。ゲームとの相性バッチリのアサヒ飲料のテレビ広告(YouTubeで捜しましたが見つかりませんでした。残念)は、ゲームの発売1週間前から集中投下され、この広告が始まるや、コンビニでのゲーム予約が8倍に跳ねました。ゲームも初回発注から、週末を待たず追加発注がなされ、何と1週目にスーパーロボット大戦の発売があったにもかかわらず、1位を獲得、大ヒットダイトルヘと成長をして行きます。海外では、『キングダムハーツ』はファイナルファン���ジーを凌ぐビジネスとなっています。 当然、この『キングダムハーツ』に関しては、ゲームの力やクリエイターの執念、またパブリッシャーの努力が第一義的に成功の要因です。彼等の更なる努力により、キングダムハーツが10周年を迎え、さらに大きなIPに育っていることを本当に嬉しく思います。おめでとうございます。
56 notes
·
View notes
Text
親子丼
とうふにきゅうりとわさび
インスタントのお味噌汁にごぼう入れた
ストレートのめんつゆ使ったら半分も使ってなかった瓶全部使うことになった
稀釈できるめんつゆ開発してくれた技術に感謝、今後は稀釈めんつゆを買いたい
8 notes
·
View notes
Text
キニピと私6回目の逢瀬
回数も積み重なってきた6回目、前回5回目でお泊まり+前戯までは到達したものの、未だに肝心なことがハッキリしていない。そう、我々の関係性である。付き合っているのか、それともゆくゆくはセフレになるのか、それともただの気まぐれな行動だったのか。このことが気になってこの1週間まともに眠れなかった。
6回目の予定はこう。休日仕事を終えた私が、お休みのキニピの家に泊まりに行って、翌日アウトレットへ出かけるというもの。最初はアウトレットに行くという予定だけだったが、前日の予定がなくなり、追加でお泊まりをするのはどう?と提案が来た。とっっっっっっっっっっ��も嬉しかったんだけども、一つ懸念点があったのです。それは5回目終了後、6回目までに生理を終わらせておこう!と思いピルを休薬したものの、その生理が全然終わりそうにないということ。いくら悩んでも生理は終わらないし、時は刻一刻と進むばかり、私は意を決してキニピへ生理がぶり返している。生理中だけど気分と体調は変わりない。泊まりに行ってもいい?と確認 返答は体調を心配するものだった。嬉しい!と思いながら、お泊まりデート続行決定。
この先はお泊まりデートの実際のお話。職場から電車で1時間半かけて、キニピ宅の最寄り駅へ着いた。駅を降りてすぐに、大阪といえば!!なスーパーの赤々とした灯りが目に入った。その直後迎えに来てくれたキニピの車が目に入る。キニピの車に乗って家へ到着。ご飯作って待ってる。と言ってくれてはいたものの、出されたのはアヒージョと、パエリアとローストビーフ(ローストビーフのみお惣菜)おしゃれすぎてびっくり仰天。おしゃれご飯に似合わないキニピの部屋着をきた私。もちろんおいしかった。なんやかんやでベットに入って就寝と思いきや、またキニピの腕が私の胸元へ。そんなこんなで生理中だけど初めての性交渉。結果血まみれ。ちゃんとゴムはつけてましたが(彼が)そんなこんなでお泊まり中に3、4回致して、睡眠、ゴロゴロ、睡眠を繰り返した我々はアウトレットへ行くのを諦め、晩御飯を食べに外へ繰り出しました。いつもの回転寿司が君とならとっても美味しくて輝かしく見えました。その後食べに行ったフルーツパフェ、私以前、フルーツについて散々な文章を書いていたけれど、実はフルーツ大好きなんですよね。嫌いは好きの裏返しってやつですね。フルーツパフェと首から下だけ映った彼の写真はいまや宝物です。 いやはや、こんなことを言っている場合ではない、お泊まりの最中に何度かセックスしたものの、相性悪いからポイ捨て、なんて悲惨な未来を私は受け入れられそうもないので(これが現実になったら私は東京初期衝動しか聞けなくなる)今更ながら急ぎ早にキニピへ聞くことにした
「ねぇ、私達ってどういう関係ですか?」 (9つも年上なので聞きづらい質問をする時などに敬語になってしまう)
「え、付き合っていると思ってた」これが第一声
「え?付き合ってるの?いつから」「前回お泊まりした時、そんな話したよ。返事はなかったけど」「え?した?してないよ。え?いつ」「いや前回…まず付き合ってない子は家にあげないよ」「わかんないじゃん、セフレを家に上げ��人もいるし、都合のいい関係かもしれない。曖昧なはじまり方だと曖昧に終わるっていうじゃん…」「そうなの?」「うん…聞いたところによるとだけど…じゃあ、付き合ってくれるんですか?」「はい」「よろしくお願いします」こんな流れで正式に付き合うことが決定しました。(一語一句思い出すことができないけれど大体こんな内容)思い返せば前回「かなり年離れてるけど大丈夫?なんか雰囲気変わったね〜どうたしたの?付き合ったの?って言われるんじゃない?」とか言ってたなとは思ったが、年下をおちょくってるのか、想いを伝えているのか、非常に分かりづらく、もどかしさと不安でヒスりそうだったので、ロマンも雰囲気もクソもないけどストレートに聞いてしまいました。
今私に残っているのは散々寝たのにまだある眠気と、キニピと付き合えた安心感、幸福感と、久しぶりにセックスしてできた会陰の裂傷(股裂けて痛い)です。今までたくさんの人と付き合ってきたというキニピ、私たちの関係が終わってしまったその時、この日のことはもちろん、私の存在ごと綺麗さっぱり忘れてしまいそうだから、私だけはこの三日間の出来事を、今、今日の気持ちを赤裸々に記録しておきたいと思います。
10 notes
·
View notes
Text
かりもの
朝から同居人の機嫌が悪いようなのでそっと家を出た。大きな物音をたて、何かに悪態をついていた。私に苛ついて物に当たっているのか、何か別のものに怒っているのか分からない。男性は、自分が思っているより女性に怖がられていることを知らないと思う。
最近彼は、自信が無いらしい。もう俺に飽きたんでしょ、とかあなたから見て俺にもう魅力は無いよね、とかよく言うようになった。私にとって彼は「生活の一部」になった。私は無理のない範囲内でテンションを調整して彼と接する。誰かと暮らすってそうなるのが自然だと思った。私は私の気持ちを責められたくない。恋愛を結婚までの行程に組み込む常識がいつか無くなって欲しいと思った。
昨日付で二年半勤めた会社を退職した。休職からストレートで退職だったので、事務所に出向かずメッセージ上で挨拶を済ませた。次の仕事はまだ決まっていない。面接は何社か受けた。面接官の態度がいつも癪にさわった。私ごときの人間が書類通過する会社だから、面接官とて人としてのレベルは私と大差ないだろうにやたら高圧的に見えた。
終わりたいこと、終わらせたいこと、逃げ出したいもの、捨て置きたいもの。誰も傷付いてはいけない世の中で、私はつらさを吐露できなくなってしまった。私のつらさで傷付くひとがいるらしい。誰かを傷付けると、私が損をするらしい。ずっと苦しいままでいる。
25 notes
·
View notes
Text
mes possibilites aujourd'hui. 今日のわたしの可能性。 人形のリペアをする。 庭の様子を見てまわる。 カーディガンの続きを編む。 ��� 昨夜から朝にかけて うっすらと まさかの雪が積もっていたけど、 午後にはもう溶けていた。 そういうところが、やっぱり 春なのかしら。 昨日から進めていた 人形のリペア、 今日はシャンプーと ペレット入れ替えオペ(!)。 結果から言うと、オペは成功、 シャンプーは 思ったようにはならなかったけど 髪の部分のツヤは少し戻ったかな。 櫛が通るようになったのはよかった。 おそらく長年の埃やら日焼けやら 海沿いならではの 塩気を含んだ湿気なども 影響しているのかもしれない。 確か最初はストレートの おかっぱだったはずだけど、 ナチュラルなパーマヘアになった、と いうことにしよう。 庭だよりもぼちぼち 書かないといけないし…と 晴れ間に庭に出て あれこれ観察。 昨夏が厳しかったから だめかなぁ、と言っていた チオノドクサ、ひょっとしたら 発芽したかも。 よかった、生きてた。 シクラメンも2つめが咲いた。 うれしみの種は いつもそこここに あるもんだ。
8 notes
·
View notes
Text
祈り
2024.11.11
・
この部分はうまくいかなかったように感じるけど
じゃあ、どうすれば良かったのか?
・
と思うことがあって
その日以降祈っていたことがあったのですが
昨日の礼拝の中で答えを受けることができて
すぐさまメモってしまいました。
・
祈っていたから
その答えに気づけたと思うのですが、
祈るべきことを後回しにしてしまっていることも
結構あることにも気づいていて🤫
・
答えを受けられないかも、とか
思った答えじゃないかも、とか
理由はさまざま。
・
もっとストレートに
神様に向かって祈れたらいいのに、と思う。
その願いから求めていこう。
・
(写真:夕暮れを撮りたかったけど、
うまく撮れず。)
4 notes
·
View notes
Quote
全般的に食材原価が上がり、飲食業界は商品設計の見直しを迫られていますが、焼肉は素材そのものを提供するため、なかなか他の要素で原価をコントロールすることが難しい業態です。 他の飲食業であれば、例えば付け合わせの野菜を変更したり、コースの内容を変えたりしてある程度の対応が出来ますが、焼肉はそう簡単にはいきません。価格を維持するために肉の質を落としたり量を減らすと、それがストレートに客に伝わってしまうのです。 こうなると従来のやり方では利益が残らないのは明らか。家賃などは動かせませんから、人件費など食材以外の部分を圧縮していくこととなりますが、それにも限界があります。 ��とはコースなど原価コントロールがしやすかったり、高利益な商品の開発、さらにタレなどの物販やEC展開など、営業以外の売り上げなども考えていく必要がありますが、なかなか個人経営ともなるとリソースが割けないのが現実でしょう。
「焼肉店」の倒産、前年から倍増 年間で過去最多を更新 輸入牛肉に加え野菜の高騰も打撃、値上げ進まず小規模店で苦戦(帝国データバンク) - Yahoo!ニュース
2 notes
·
View notes
Text
2キャラともご依頼で作成したキャラになります。
掲載許可をありがとうございました!
むっちむち肉感のキャラと、すらっとした少女体型(胸はある!)キャラでがらっと違う風体がめっちゃ楽しかったです。
ご依頼内容も吸血鬼と女神なんて正反対のテーマで、別々の方からのご依頼なのに偶然てすごいなぁとびっくりしてました。
衣装も白ベースと黒ベース、服の影付けも、目の塗りも柔らかブラシ、硬めブラシで塗り分けして全部対極にしてます。特に髪はくるくるウェービー具合とストレートの毛先流線がすごくお気に入りなので思わず掲載のお願いをしてしまいました。
たたたたのしかった…!脳汁でました。
楽しいモチーフのご依頼ありがとうございました~!
どうでもいい原神の話
キィニチ武器ゲットだぜ!基礎攻撃力が高いのは良いとして会心が11%ちょいなので、やっぱり元素反応系の効果がメインですよね…。聖遺物、会心・草元素・攻撃力・攻撃力・HPより、攻撃力を一つ会心ダメにしたほうが良さそうです。なんちゃら砲が倍率頭おかしいので会心ダメ盛ったほうが火力出るなと今更気が付きました。そんな時に限って会心ダメが全然落ちないまま早2週間。寝る前に聖遺物拾いに行って気が付いたら寝落ちしている日々です。黒曜の秘典+素ステ会心60%あれば確定で全弾会心!まだ聖遺物2つレベル0ですが、なんちゃら砲1発38000出るのが気持ち良いです。それを踏まえてもヌヴィのが強くて笑っちゃう。もう全部おまえでええやんけ。正直紀行★4武器でも全然OKだと思います。いやでもモチ武器は見た目が略
ついでに雷電様の方���やけっぱちで回してお迎えしました。原神リリース4年めにして初雷電さま!ワーイ!私は石器時代を生きてます。
最近はヒョウしっぽのぎゃるぎゃるしいけしからんホットパンツの娘、シロネンかシネロンか毎回間違える娘が出ません。
ヌヴィレットが遠距離近距離全部強くてもう全部お前で以下同文(水元素生物以外)という現環境で、ヌヴィ+フリーナ+カズハ+シロネンでボスが秒で溶けると聞いたのでそれをやりたいのです。ヌヴィの最大遠距離あたりはシロネンの効果切れるっぽいので付かず離れずビームを打ち続けるお仕事。
どのみちフリーナちゃん持ってないので復刻待ちなんですけど。あとヌヴィのモチ武器取っておけば良かったなってめっっっっっちゃ後悔しているのでそちらも復刻待ちつつ…。
オロルンだかオルロンだか(こっちも覚えられない)くんも見た目すごく好きなんですけど、性格がなんというか、原神のキャラではじめてこの人と性格合わないな?てびっくりした子なんで複雑です。今後イメージ良くなるフォローが入るのかな?兎にも角にもおばあちゃんが心配してる、的な流れにめっぽう弱いので可哀想で。
ばあばと共闘させたいので確保したいのはしたい!
あと炎神さま絶対ぶっこわれで来るはずなので今から石の確保頑張ります…まずはぎゃるこちゃんからフンフン!!
3 notes
·
View notes
Text
2024.08.14 (Wed)
早起きしてバスに乗りHay Market駅へ。事前にネット予約していたチケットを受け取り、はじめてのスコットレイルに乗車。日本でいう特急列車的な感じでした。前日の晩スーパーで拵えた1ポンドのドーナツとスタバのコーヒーを持って、車窓からどんどん緑が増えていくさまを眺める。
1時間でDunblane駅に到着。バス乗り継ぎまで40分あったので、駅近くの大型テスコへ。 (テスコは大きさ別に4種類あるらしい。街中にあるテスコエクスプレスから、テスコメトロ、テスコスーパーストア、テスコエクストラ。でも今調べたら他にもあった :0) 前日晩にドライヤーを誤って使ったせいで変換プラグを死亡させてたので、ずっと日本プラグに適合するやつがないかを見てた。
40分後、Stage Coachというスコットランドの遠距離走行バスに乗る。チケットは事前に予約済み。QRついてるのに結局スキャンされなかった(夜行バスもそうだったな)あれはなんなんだろう? 目的地はCrieffという街。Dunblaneも小さな駅だったけれど、バスが進むにつれどんどん景色がのどかになっていく。大量の羊や牛が草原でチルしてるのをたくさん見た。そして約1時間後、Crieff到着。ここも閑静でこじんまりとした街。たむろしていると工事のおじさんから「なんでこんなとこまで来た?」と珍しがって話しかけられる。
バス停から更に歩いて30分移動。道中に公園があったので遊具で遊ぶ。赤ちゃんはみんなかわいいけど、ヨーロッパの赤ちゃんってレベチでかわいい。途中迷い込んだ道は等々力みたいな渓谷だった。
そしてはるばる到着したのは、最終目的地であるグレンタレット蒸留所。スコットランドに来た理由の一つは、ウイスキー蒸留所にいきたかったから (恋人がウイスキーにハマってる) 本当はスペイサイドやアイラ島まで行ければよかったのだけど、時間が足りなかったのでここにした。グレンタレットは日本であまりメジャーな銘柄ではないが、スコットランド最古の由緒ある蒸留所らしい。宿泊先から約3時間で到着し、蒸留所ツアースタート。蒸留所内は撮影禁止だったが、どでかいポットスティルを生で見て、木製の樽で熟成させている部屋はお醤油みたいな麹みたいな良い香りがした。そしてグレンタレットには伝説の猫タウザーがいたらしく、ネズミの捕獲数でギネスに載ってるらしい (捕獲後彼自身が食べたらしいけど、尻尾だけ残すので尻尾の数を数えてギネス認定されたらしい :0) 嘘みたいな本当の話。
最後にウイスキーのテイスティング。自分はピートが効いてるほうが好みかな、と思いつつ、普段ストレートでウイスキー飲まないからテイスティングだけで結構なダメージを喰らう… ツアーだけで2種類飲ませてもらったのに、事前に追加のテイスティングも予約していたので(滅多に来れないので予約しよう、となった記憶だが我々以外に誰もいなかった xD) 結局すべて飲みきれず、小瓶に入れて持ち帰るオチ。場違いくらいの素敵なバーで、ウイスキーたくさん出てきて嬉しいはずなのに、2人して「飲めないよね…」って小声で言い合う日本人があまりにもダサすぎて、「私たちアルコール強くないので…」って思わず店員さんに言ってしまった(じゃあ何でオーダーしたのだ?と思われてそうでまた草ですね)
小瓶を携えて蒸留所を出発。ノリ���寄り道することになり、スターリングというスコットランドの古都を経由して帰ることに。バスに揺られて1時間で到着。スターリングはエディンバラよりも更にこじんまりとした街だが、とてものどかで美しいところ。到着後smokeysというバーガー屋さんで遅めのお昼。変換プラグを購入し、スーパーで水を買ってたらまさかの日本人の方に遭遇。スターリング大学に留学しているのだとか。ロンドンやパリで会うのとはわけが違うので少し感動(相手も嬉しそうだったのでよかった)
せっかくなのでスターリング城へ。しかし思ったよりも急な坂で険しい道、連日2万歩歩いていた疲労困憊の体を引きずりながら、何度も引き返そうと思いながら頂上に到着。こんなに人いたの?ってくらい人がたくさんいて、何より最高にチルなスポットで気持ちよかった。こういうのって写真で全然伝わらないので載せないが、頑張って登ってよかった。
この時点で19時。すっかり疲れたので帰宅してもよかったけれど、スコットランド最後の夜なのでエディンバラ市内のパブへ行くことに。スターリングからエディンバラのウェーブリー駅まではスコットレイルで1時間。スコティッシュパブでビールとfish&chipsをいただく。
夜のエディンバラはまたまた綺麗で、この度を通して自分はすっかりスコットランドのファンになりまし��� (元々映画で気になってたのもある) エディンバラはとっても美しく歴史のある街、パリやロンドンと比べて華やかさは少ないのかもしれないが、コンパクトだからこそ見渡す限り常に歴史の色香がただようので、本当にずっと浮かれていた。また来れたらいいな。次はグラスゴーにも行ってみたい。1日大移動してよかった :)
2 notes
·
View notes
Text
いまの世の中の風潮的にこういう言い方をすると色々と問題になってしまうのかもしれないけれど、僕は昔から女性が苦手で、いや、苦手というか怖い存在と言った方が良いかな。フェミニズム云々とかではなく、対峙したときに生き物として畏怖の念を抱いているというか、純粋にかなわないと思ってしまう。これは男女という性別には関係のない話やけど、人って打算的やし残酷でしょう。たまたま僕はこれまでの人生でそういう女性と多く出会ってきたから、ある種のトラウマになっているのかもしれない。文筆家OBATA LEOはそんな僕が素直に話ができる数少ない女性のひとりで、彼女が自主制作しているZINEを読んだとき、年齢や性別に関係なく、この人とはもっと話がしたいと思った。だから今回のインタビューで彼女の素顔に少しでも迫っていけたら嬉しいし、それによって僕自身がトラウマを克服できたら最高!
〔土井〕 そんな訳でLEOちゃん、今日はよろしくお願いします。あなたの素顔に迫りたいということで、いきなりで申し訳ないんやけど、LEOちゃんはメイクは念入りにする?それともスッピンでも平気な人?
{LEO〕畏怖の念というの、当たり前かもしれませんが自分はあまりピンとこず、それはさておき、話したいというのはとても嬉しいお言葉です。土井さんに対する自分の思いは話し出すと長くなるのでここでは割愛しますね(笑)。インタビューの最初の質問って、文章の書き出しと同じでその後の流れを決める置き石のようなものですが、無駄のない場所に置きはったなという感想です(笑)。メイク、友達や知り合いや初対面の人と会う日、休みを満喫するぞって日は絶対めっちゃします。でも誰とも会う予定ない日は日焼け止めすらせず出かけてますね……。本にも書いたんですけど、メイクって自分にとっては、したくてやってると言い切れるわけでもなければ、したくないのに嫌々やってるとも言い切れるわけでもない、微妙な行為で。川上未映子の『乳と卵』という作品で、豊胸手術について、「それは社会に思い込まされてるんや」という意見と「自分がしたいからするんや」という意見が対立して決着がつかない、という場面があります。自分もフェミニズムというものを知ったとき、そういうジレンマに陥って、なんなら「社会に思い込まされてることを全て取り除いて真の欲望を見つけたいと思う」みたいな文章まで書いたんですけど、今となってはそんなことは不可能やしあまり意味もないのかもと思ってます。
〔土井〕うーむ、良いね、出だしからヒリヒリとした緊張感があるわ、前回の小野ちん(moanyusky)のときとはえらい違いや(笑)。そう、でもやっぱりメイクって自分のなかでは割と重要で、メイクは女性だけに限った話ではないとはいえ、やっぱり男性でメイクをする人はまだまだ少数やし、僕らおっさん連中のほとんどがむき出しの顔面を晒して生活してしているのに対して、女性の多くはメイクで日々、自分の顔を変化させることができる。メスで皮膚を傷つけることなく、その日の気分で変身できるというのは、なかなかにショッキングなことで。『乳と卵』は僕も大好きやし、未だに川上未映子の最高傑作やと思ってる。あそこで描かれる能動的か受動的かという問題、実はタラウマラのご近所さんで実際に豊胸手術をした主婦の方がいて、その人は旦那が胸が大きい方が好きなんだろうと思って実際にやってみたら実は旦那の好みはそうではなかったと知って、めちゃくちゃ後悔してはった。旦那を喜ばせたいという自発的な想いが発端とはいうものの、その背後には無意識に旦那の好みに寄せていくという受け身な態度が窺い知れる。しかもそれが思い込みやったとなれば更に話がややこしくなる。ほんま人間はどこまで能動的に振る舞えるんやろうね、甚だ疑問やわ。そう言えば『乳と卵』のなかに巻子と緑子という親子が互いに自分の頭で玉子を割ってドロドロになる描写があったやん。あれって卵子を破棄したいという願望の現れやと思うねんけど、LEOちゃんの最新作『目下茫洋』のなかにも子宮を爆弾に例えて「それを運び続けることが、すなわち生きることになっている」という強烈な表現があってゲロ吐きそうになってん(賛辞)けど、それ以外の箇所も含めてあきらかに前作『ROLLER SKATE PARK』とは異質の内容になってると思う。前作から今作に至るまでの期間に何か心境の変化のようなものがあったの?
〔LEO〕なるほど!!いわれてみればストレートな比喩やのに、卵の場面でその解釈を思いつきませんでした……!殻が割れるというのが、二人の心の殻が割れるってことを暗示してるんかなぁと思ってました。あとはその卵を体にぶつけて割るという非日常的である意味馬鹿らしい行為を共有することで、関係も変わったんかなぁとか。そもそも、あの話でもなんで巻子が豊胸手術をしたいかっていうのは謎なんですよね。他の人とその話をする機会があったときに聞いた意見で妙に納得したのは、豊胸手術をすれば全てが上手くいくという願いみたいなものがあったんじゃないかというので、それは実際の土井さんのご近所さんの話を聞いて、改めて重ね合わせてしまいした。旦那さんを喜ばせるためには、豊胸手術をする以外の形もあったはずやのに、それが選ばれたという事実について、考え込んでしまいます。ZINEの内容としては、『目下茫洋』の原稿を書き始めたのは、『ROLLER SKATE PARK』と同じタイミングで2022年の9月です。でも最後の最後まで完成しきらず、また最初に出す作品で「女性の書き手」というイメージをつけたくなかったので、別の機会に回すことにしました。一年経って、やっと踏ん切りがついたので、今回出したというような感じです。なので、心境の変化は特にないですね。それどころか、2022年の9月に書きはじめるときにも、2020年とかもっと前に書いた別の原稿を原型にしたので、むしろ『ROLLER SKATE PARK』の方が異質な内容といえるのかもしれません(笑)。
〔土井〕そうなんや!あの2冊は同時期に書かれたものなんや!それはびっくり!あれをがっちゃんこして1冊にしないところがニクいね(笑)。でも「女性の書き手というイメージをつけたくない」という気持ちはわかる気がする。社会そのものが「女性」というイメージを操作する機械やとしたら「女性」の書き手にとってはこのことほど煩わしくて鬱陶しいものはないよね。機械についてはドゥルーズの言葉を引くしかないけど「一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を���産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である」っていう、何回読んでもきちんと理解できないドゥルーズなりの概念があって、さっきの能動的か受動的かという話に戻るけど、要するに手を取り合ったかと思えば手を離すということをひたすらに繰り返すってことやんな(違ってたらすみません!)。『ROLLER SKATE PARK』が流れを発する機械やとしたら『目下茫洋』は、この発せられた流れを切断する機械やという感じかな。でもあれは確かにぶった斬りにきてるよね(笑)。そもそもLEOちゃんが「能動的」に文章を書きはじめた、あるいはそれをzineにしようと思ったきっかけは何なの?
〔LEO〕機械の例えはほんまにそうですね……。操作できないレッテルを貼られた箱のなかに勝手に分類されるときの無力さは筆舌に尽くし難いものがありますね。ドゥルーズのその文、帰り道で何回も考えてみたけど難しい(笑)。能動と受動に関しては、自分も全然答え出てないです。「能動的に」文章を書きはじめたきっかけやZINEにしようと思ったきっかけもいまいちはっきりとはしてなくて。文章は小学2年生くらいに挿絵つきの物語を書きはじめて、3年生くらいのときに大学ノート一冊分くらいの勧善懲悪的な物語を書いてたのは憶えてます。子供向けの賞にも応募したことあったような。中学生のときは音楽の感想を書くブログに熱中してて、高校生のときは今もたまに更新してるはてなブログで書いたり、掌編を書きかけては筆を投げたりしてました(笑)。大学に入ってからも、気づいたらtumblerやGoogleドキュメントやノートに文章を書いてて、なんか書こうと思って書くよりは気づいたら書いてる(書かないとやってられない)って感じで、それこそわりと受動的な部分や習慣の部分が多いと思います。ZINEは大学に入る前から出してみたいと思ってたんですが、なかなか��とまった文章を書けずにいて、最後のひと押しをしてくださったのは他ならぬ土井さんです!
〔土井〕え、ほんまに!なんにせよLEOちゃんの文章が世に出るきっかけになれたんやったら、素直に嬉しいわ。それにしても小学校低学年から物語を書いてたというのはすごいな。僕は二十歳のときが最初で、司馬遼太郎の『燃えよ剣』をまんまギャングの抗争に置き換えた内容で(笑)。いま思い返してみてもほんまに恥ずかしい!でもその恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はなかったなぁとは思う。そういう意味でも勧善懲悪の物語を経た、いまのLEOちゃんが書いた小説を読んでみたいな。エッセイや日記はもちろん素晴らしいけど、僕はやっぱり根本的に「嘘」が好きやから、あなたの「嘘」つまり小説が読んでみたい。そう言えばLEOちゃんとはじめて会ったときに別役実の『ベケットといじめ』という本をオススメしてくれたやん。後に僕がイジメ体験者であることを知って、めっちゃ気にしてくれてて、ええ子やなって思ってん(笑)。あの本のなかで中野富士見中学で起きた「葬式ごっこ事件」を題材に、自殺した被害者も含めてあそこに関わった全員が何らかの役割を演じていたという指摘があったけど、いまでいう同調圧力、それかやっぱりドゥルーズの機械云々がふたたび頭をよぎる。まさにLEOちゃんの言う「箱のなかに勝手に分類される」感じで、そういうのは決して珍しいことじゃない。むしろいまを生きる者みんなが何かしらの役柄を演じてると言えなくもないし、ちょっとゾッとするよね。そう言えばLEOちゃんは『ベケットといじめ』の解説を書いていた宮沢章夫さんの演劇に役者として関わったことがあるんやろ?そのときのこと詳しく教えてほしいな。
〔LEO〕いや〜話したことに対してこんな熱量で返してもらえるのに「インタビュー」って、改めてすごいです(笑)。初めに書いたのがギャングの抗争やったんや、面白い!「その恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はない」ってほんまに間違いないですね。まぁ自分はまだ青二才なので、今も恥を塗り重ねてる最中ですけれども(笑)。小説、実はまさに一昨日書きはじめたところです。今回2作目のZINEを出してみて、いわゆるエッセイの形では今自分が書きたいことを表現するには限界があるなと感じて。それで、題材は現実からとるにしても、嘘の物語を書いてみようと思いました。「ベケットといじめ」のその指摘は本当にぞっとするところですよね。個々の人間の強い意志や悪意じゃなくて、場の雰囲気が人々に演じさせ、死にまで追いやるという。演劇については、当時はあまりピンとこなかったというのが正直なところでした。でも今の話でいうと、ちょうど先生の演劇に出る前に、友人が主宰してる劇団のワークショップで「目の前の相手を馬鹿にする」という演技をしたときに、普段とは違う強い言葉や嘲りの語調が自分の上に現れてきたのはびっくりしました。「役を演じる」というのは、それほど力のある怖い行為なんやと思います。「ゴドーを待ちな��ら」では、少年の役だったんですが、「わざと演じようとしなくていい」と言われていたので、演じるという感覚はあまりなかったし、思わず感情移入するような話でもないので、台詞をどんな風に言うべきか迷ってました。ご期待に沿えず申し訳ないのですが、実は当時の稽古のことよりも、帰ったらなんか焦りながら新書を読んでたことの方をよく憶えてます(笑)。当時はわかりやすく言葉の形で手に入るもの(知識)だけが価値あるものやと思ってて。小説という表現や、役者の人が身体に蓄えてきたものの豊かさとかに、全然思い及んでなかったです。教授としての宮沢章夫に5年も習ってやっと、価値あるものは世界のどこにでも遍在してるんやということに気づけました(笑)。先生は、街をフィールドワークさせたり、好きなものについてプレゼンさせたり、昔の映像を見せたり音楽を聴かせたりと、いわゆる「学問」的なアプローチではない授業をやっていました。それを勘違いして「楽単(単位をとりやすい楽な授業)」として舐めた態度で授業を受けてる学生も多かったですが、実際のところ受け身でも何かが身につくように親切に教えてくれるわけではなくて、街をフィールドワークする授業では、自分で実際に歩くことでしか見つけられない視点を得てきたかというところを厳しく見ていました。印象的だったのは、ただ通行人が新宿の駅前を歩いてるだけの映像を3分間くらい見せたあとに、先生ひとりが「面白いよねぇ」と笑っていたことで、このニュアンス伝わるかわかりませんが、この人は皆に全然見えてないものが見えるんやなと(笑)。
〔土井〕めちゃくちゃ興味深い話がいっぱいなだれ込んできた(笑)!LEOちゃんの小説、それはヤバい、楽しみすぎる。日記専門店「日記屋 月日」でディレクターをしている蟹の親子さんともよくこの話をするねんけど、やっぱり僕らは「ほんまもんの嘘」を肯定できなくなったら終わりやと思うねん。いまはどちらかと言えば「嘘」は「フェイク」と貶されて、「ほんま」は「リアル」だと厚遇される。僕はどうしてもそういう価値観とは相性が悪い。本来フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の「語り」はあると思うねん。せやから「あの登場人物のモデルは誰ですか?」とか聞かれても返答に困ってしまう(笑)。「目の前の相手を馬鹿にする」ワークショップの話もめっちゃおもろいな。そこでLEOちゃんの脳みそに降りてきた罵詈雑言の数々……どんな感じやったんやろ、想像でけへん(笑)。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーもまさに同じような境地に立ったんとちゃうかな?ふとしたきっかけで自分のなかの底なしの悪意に気がついてしまうことはある。たまたまレジャーはそこから戻ってこれなくなったのかもしれへん。僕は『ダークナイト』が大好きなんやけど、何が凄いってジョーカーが自身の口が裂けた原因を語る場面で、あるときは「親父のせいでこうなった」と言い、また別のあるときは「妻のせいでこうなった」とか言うねん。めちゃくちゃ怖いやん。しかも最後まで明確な根拠が提示されないままに映画は終わる。「何らかの要因があって、こうなった」というのは、あらゆる物語にとって逃れ難きテンプレートやと思うけど、ジョーカーにはそれがない。すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る。笑い飯の漫才にも優しいおばあちゃんが自分の畑の土から出てきたモグラをスコップで叩き殺す、みたいなネタ(哲夫が披露した「すべらない話」かもしれない)があったような気がするねんけど、ああいうのが一番怖い(笑)。ある種の物語に依存している人たちは何でもかんでも原因があって結果が生ずることを求めるけど、実際は人間ってそんなにわかりやすいものでもないやん。恨みとかなくても笑いながら人を刺す奴も絶対おるで。例えば自分の作品でいうと『JAGUAR』の終盤で前後の脈絡なく唐突に「常温でも冬場なら五日、夏場なら二日は日持ちしますよ」みたいな語りが出てくるねんけど、あれはほんまに自分でもわけがわからない(笑)。なんのこっちゃさっぱりやで。でも日常生活においては別に珍しいことでもなく、普通に歩いていても突然色んな言葉や考えが降って湧いては消えていくやろ。だからあのまま残してん。なんかLEOちゃんの話を聞いていると、宮沢章夫さんは講義や演劇を通じて学生たちにそういうことを伝えたかったんちゃうかなぁって思うわ。そうそう、あとあなたを見ていていつもハッとするのが印象的なファッション。すごく似合っているし、魅力的やと思うねんけど、あの独特のファッションは自分なりに考えがあってのことなん?
〔LEO〕「フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の『語り』はある」っていうの、ほんまにそうですね。小説のなかは独自のルールで動いてる一個の世界で、どんなに現実��ぽい見た目してても現実ではないから、それを現実の物差しで測ってリアルか否かを問うのはなんか違うなと思います。その映画は知らなかったんですが、毎回別の説明するのめっちゃ怖いですね(笑)。宮沢先生は演劇も笑いもいわゆる「不条理」な感じなので、近いと思います。因果関係については、小説書きはじめてみてもう早速ぶつかってる壁です。いや、読んでる側のときはなんでもかんでも因果関係で解明しようとする読みはつまらんのちゃうかと思ってました。例えば、夏目漱石の「こころ」でなんで先生やKが死んだのか?みたいな問いって、物事の因果関係の層で片付く問題じゃないと思ってて、仮にあれが個別の具体的な人間に抽象的な概念を象徴させてる話なんやとしたら、そこで出来事だけ追って説明しようとするのってナンセンスやんと思ったり。でもいざ書こうとしてみると、なかなか因果関係から逃れるのって難しいですね。「すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る」っていう土井さんの捉え方は、もしかしたら他者の捉え方を反映してるのかなって思いました。tumblerの記事とか読ませてもらってても、勝手に合理的な説明を作って納得しようとしたりするよりかは、他人は他人でわからんもんやって大前提がある気がして、清々しいなと思います。ひとが皆、自分が理解できるような形で自分の行動の意図を説明してくれるわけじゃないですもんね。ファッションは自分なりに気を遣ってるところではあります。顔が地味やから、せめて服だけでも派手にしよう、みたいな(笑)。でもZINEでも書いたみたいに、本来の自分を「粉飾」してる感覚で、つい服を買ってしまうけど、常に微妙な引っかかりがある。真剣に服が好きな人とは対立する価値観やと思うんですけど、服(やメイク)って所詮は見た目のところでしかなくて、本当に大事なものは精神のところにあるんやとも思ってて。だから、いつか坊主にして毎日同じ黒のシンプルな上下を着るみたいな日々を送れたらなとも思うんですけど、なかなか踏ん切りがつかないでいます。
〔土井〕嫌や!LEOちゃんが坊主の黒服は何でか知らんけど嫌や(笑)、ってこれも勝手な理想の押しつけやねんなぁ。ほんますんません。うちの奥さんもたまに「坊主にしたい」とか言うときがあって「嫌や」って言うたら「自分は私が嫌やって言うてもタトゥー彫ってるやん」って怒られる(笑)。人間って自分勝手やな。ファッションに関連した話で、今年の8月に大阪の音楽イベントに出演した韓国のDJ SODAさんが性被害を受けた事件があったやん。DJ SODAさんの身体に故意的に触れた奴が「あかんことをした」というのは大前提にして、僕はあのDJ SODAさんのファッションやセックスアピールと誤解されても仕方がないようなジェスチャーがとても怖い。彼女は「私は服を選ぶ時、自己満足で着たい服を着ているし、どの服を着れば自分が綺麗に見えるかをよく知っているし、その服を着る事で自分の自信になる」と言うていたけど、やっぱりそれを目の当たりにすることによって気まず��を抱える人間や、性的に興奮してしまう人間がいることも頭の片隅に置いとかないとあかんと思う。もっと言えば、彼女が派手なメイクや衣装で自身のスタイルの良さを際立たせれば際立たせるほどに、別のタイプの女性に劣等感を抱かせはしないか?僕はやっぱり筋骨隆々な男を見るのが苦手で、なんとなく目を背けてしまう。でも街中には肉体美をこれみよがしに見せつける看板を掲げたジムがどんどんできて、筋肉バカが量産される、あっ、さすがに言い過ぎた(笑)。これは僕の偏見に満ちた感想なんやけど、男女問わずキラキラした連中って、すぐに群れるし、意識的であるにせよそうでないにせよ他を排除しようとするやん。あいつイケてない、キモいとか言って。DJ SODAさんたちのようなポップアイコンの無自覚な言動が世の中に優劣の基準を植え付けて、新たな弱者を生んでるような気がしてならへん。まぁ、だからって胸を触る行為が許される訳ないし、そんな奴はどつかれたらええねん、とは思うけど(笑)。とにかく一般的に言われる強者、弱者という区分には違和感しかなくて、それは常に変動するものやし、それぞれの局面によっても変わってくる問題やからね。スーパー銭湯やホテルが刺青やタトゥーを禁止にしてるところが多いけど、僕は仕方のないことやと思う。入浴のわずかな時間に刺青だらけの奴の人間性なんか知ったこっちゃないし、ほんまは優しくて良い奴やねんとか言われても、見た目には威圧感しかないから。LEOちゃんは同性の立場からDJ SODAさんのことはどう捉えてる?
(LEO〕そうですね……。それほど詳しくないですが、現代らしい出来事やなとは思ってて、自分のなかでもいろんな考えが交差してます。DJ SODAさん個人に対して思うことは特にないですが、その人に限らず、自分を綺麗に見せたいという欲望や見た目を通して自信を得るというあり方を正々堂々と公言する風潮には違和感を感じますね。それは必ずしも社会の大多数が肯定すべき「潔白」で「正しい」価値観ではないはずです。そもそも「美しさ」は必ず「醜さ」を前提としていて、美しくあろうとすることは、他者よりも優位の場所にいたいという薄汚い欲望が剥き出しになってるあり方だと思うので。土井さんの言うように、実際にそういうものを見て、性的な興奮や気まずさを感じる人も居るわけですし、決して手放しにいいね!ってなるようなものではないと思います。と言ってみて、自分が服を買うときに感じる後ろめたさの理由がさらに明確になりました笑 つまり、自分もアプローチは違えどDJ SODAさんなんですよね。ただ自分としては、自己満足でやってるというのを、「自分が好きで能動的に選んでる」という意味で捉えてるので、他者にどう思われるか・どう扱われるかというところまで受け入れなあかんとは思っています。いや正味なところ腹がチラッと見えるような服を着てるからって腹触られたらキレてしまいます��でも腹を見せる服を着ることで自分は何を表現しようとしてるのか?って考えたら、ほんまに後ろめたい汚れた答えしか出てきません。「腹を見せるのは自分のスタイルが良いのを誇示したいから」→「スタイルの良し悪しは自分の努力で決まったわけではない」→「ほとんどただの遺伝要因にすぎない要素を自分のものかのように誇示してるのはさすがにダサすぎる」→「でもこの服を着ると自分の気分も上がるし」→「その『気分の上がり』は詰まるところ優越感だよな」→「いやでも実際これを着ていくと評判もいい」→「その『評判』に何の価値がある?」…みたいな問答を繰り返しながら、結局のところ快楽に溺れてる情けない人間です。そういう「屈託」(グレーゾーン)の部分をどんどん取り払って、ポジティブを装っていくような風潮があまり良いとは思えないですね。お風呂のタトゥーは少し違う部分もあるけど、威圧感を感じてしまう他者がいるという点では似てますね。
〔土井〕そうやなぁ、タトゥーも含めてファッションってほんまに難しいよね。そこにはやっぱり今回の僕らの話の裏テーマ的にもなってる能動的か受動的かという話と切り離せない問題やと思うし、そこには確実に実在しない何者かによる「まなざし」がべったりと貼り付いてる。ちなみにほんまの余談なんやけど、いまや作業着も私服もまったく同じで毎日同じ服装しかせえへん僕も、実は服飾専門学校に通ってた時期があって、結局なんぼやってもまつり縫いができへんくて早々に中退してん。ほんまこれどうでもええ話やったわ(笑)。とにかく今回のインタビューで気がついたことがあって、LEOちゃんのなかにも男性性があるし、僕のなかにも女性性があるということ。それが順繰り自分でも気がつかないうちに小刻みに切り替えが行われてるんちゃうかな。だから自分の行動や考えにも常に違和感がつきまとう。さっきようやくその結論にたどり着いた自分はもはやいまの自分ではないから、どうやってその結論に至ったのか、いまとなっては到底わかわからない、みたいな(笑)。その果てなき違和感に決着をつける術が僕の場合は小説なのかもしれへん。決着というか、違和感を違和感のまま提示できる裏ワザのようなもんかな。生きてたら矛盾だらけやけど、その矛盾をそのまま置いてみたり、別の角度から眺めてみたり、転がしてみたり、味見してみたりできるのが小説やな。さっきのファッションに関するLEOちゃんの問答なんて、すでにめちゃくちゃ小説的やと思うねん。小説って何も起承転結があって、ある地点で発生した問題を最終地点に送り届けて解決することが目的ではなくて、語りそのものの躍動こそが本来の醍醐味やと思うから。俗にいう解決しない物語は、独りよがりな問答から始まる。だからやっぱり僕はこれからあなたが書き上げるであろう「嘘」が楽しみで仕方ない。今回は色々と突っ込んだ話ができてほんまに楽しかった。そもそも関東から関西に戻って来たばかりで仕事も執筆活動も大変な��きに時間を割いてくれてありがとう。そんなわけで最後の質問、いまのLEOちゃんの最大の楽しみは何ですか?それが聞きたい。過日Gerald MitchellのDJで踊るあなたはめちゃくちゃ楽しそうやった!
〔LEO〕なるほど……面白いです。自分のことだからって自分で全て把握してるわけでもないんでしょうね。自分(私)は把握できてると思い込んでたけど、それこそ小説を書きはじめてから深層心理を掘り返すような作業に早速飲まれてて、全然把握できてないことを思い知らされました(笑)。小説って面白いですね。いまは書き急がず、もっといろんなものを読んでみようと思ってます。最大の楽しみ!確かに音楽を聴くのはとても好きですが、最大と言われるととても難しい(笑)。若干ズレてて恐縮ですが、布団でまどろんでるときと良い夢をみてるときが一番幸せですかね。最後こんなんですみません、こちらこそ貴重な機会をほんまにありがとうございました。今後は自分が土井さんを個人的に質問攻めにさせてください。この長いインタビューを読んでくださった方もありがとうございました!
7 notes
·
View notes
Text
2024.03.13(水)
100%勇気!10000%やる気!10%元気!(労働残り2)
結局前回の日から空いちゃった。なぜってケータイを会社に忘れたからである。書きたいことも流れてしまって、今なんか書きたいなと思えたから書いている。
最近気づいたのだけど、やりたいことを今すぐにやれないとやる気のピークが過ぎて、そのままやりたいことが流れ去ってしまうのがわたしらしい。やる気の継続性がない。ただ、やらなきゃいけないことはよく知っていて、わりと優先度も分かっていて、それでもやりたくないとやらない。そういう時はもっとやりたくないことを強制されてるときにやる。そういうことで、労働中に新生活に必要な家電と寝具を調べて購入したり、忘れてた歯医者の予約などをした。(基本的に多動で、何かやってるときに違うことを出されると、そちらに注意や興味が削がれちゃう。どーしよ)
この前、某夜学バーで『蓮と刀』という作品の講義を聞いた。橋本治さんは『「わからない」という方法』という本だけしか知らないし、なんならそれも前半しか読み終えてないけど、わたしが小さい頃ぶち当たって納得しないままやってたことに対して触れていて、あー!そうそう!なんかこの人わたしのこと分かってくれてる!?と思ったのを覚えている。それくらいの知識で観に行った(そんなのでも良いと書いてあったから)。
メモもしてないので言葉とかニュアンスがぐちゃぐちゃのふわふわだけど、講義中に「みんなホモになれ!」なんて言葉が何度も飛び出した。もちろん本の中で出てるから講義にも出るわけだけど、まだ同性愛への差別がすごい時代だろうに、そんなストレートな言い回しできるのはすごいなと思う。今の時代ならそこだけネット記事とかに取り上げられて、本来言いたかったことは少しも触れられずに、「橋本はパヨク」とか「ホモセックス推奨おじさん」とか言われちゃうんだろうな。
どんな本か言われたらすごくむずかしいけど、「本当に自由になるためになるには。今の不自由さについてやそうなってしまった背景から読み解いて、解決までを指し示した本」だと、わたしは感じた。
どきりとしたのが、「『おとうさんがこわい」と言い出せないまま大人になった男がおじさん」という言���。「おじさん」というのがなぜ偉そうなの��は、年を取るだけで権力を得られることに気付かずに精神は子どものままだから、みたいなことも書かれていて、そうそう!と頷いていたら、急に耳の後ろあたりをぷちっと針に刺された気がした。
それを「お母さん」に置き換えたら、わたしもおじさんになってしまうのだ。
今年で33になるのだけど、まだお母さんが怖い。わたしに関することで体裁が悪いことだと自分のことでもないのにヒステリックに詰められるのだ。
「あんたはもっと賢いと思ってた」「お母さんに惨めな思いさせる気?」 「むかし〜〜したのが馬鹿みたい」
などなど、大抵のトラウマはお母さんから与えられた。これだけだと毒親と思われてしまうから、そうでないことを話しておくと。やってみたいと言った習い事はさせてくれたし、それの送り迎えをして、朝早くからパート行って朝夜のご飯を用意し、それをずっと続けていた。いま思えば、お母さんも忙しくて大変でつらくて苦しかったんだった。そりゃあ習い事と学校以外じゃ遊んでばかりで、ろくに話もせずご飯が済んだらすぐ遊びに戻って家事の手伝いをまったくしないんだから、そりゃあ腹も立っただろう。その鬱憤が晴らすタイミングが必要で、それがほんとに叱らなきゃいけないときか、こっちの不手際を責めれるときだったんだろうなあ。
わたしにとって、お母さんは権力だった。
手伝いをしようとすれば「どんくさい」「要領が悪い」と指摘され、テストで90点だったら何で一問だけ間違えたのかと指摘され。怒られまいと、「それ本当は知ってたのに勘違いした」と本当にそうなので言えば「言い訳するな」「何で確認しなかったのか」と怒られ、また要領について掘り返されて怒られる。
100点を取ると、褒められるでもなく「よーし」だった。それなのでテストは90点がボーダーで、それ以下は馬鹿だと思っていた。100点を取らないと認められないと思っていた。塾も通ってたし、その上で学校の授業も宿題も真面目にやってたから、そんなに苦労はしてないのだけれど。この積み重ねでカンペキの反対はダメ、0か100かの二進法価値観になったのは否めない。自分でもできるのに、なぜできないのだと思ってしまう節がある。
もう少し褒めてもらっていたら。小さい頃は今よりも思ったことをうまく言えないし、あまりお母さんと会話をした記憶がない。どんなひとなのかよく知らず、褒められるより怒られてばかりなので、お母さん=怖い・絶対という城ができてしまった。弟の方がわたしよりも弱くて泣き虫で、わたしまで何かあったらお母さんは嫌だろうな、とうまく甘えられないのもあった。いま思えば、わたしがお母さんを知ろうとしないのも良くなかった。
高校になってから、わたしの中でお母さんの権威がハリボテだったと分かって怯えたりすることはなくなったし、そこそこ対等に話せるようになった。だけど、お母さんにとってわたしは子どもで不完全で、親は子より上にいなきゃいけないと思っている。そういう態度が抜けないから、お母さんに話さなきゃいけないことが話せないままでいる。
お母さん、わたしは遂に仕事を辞めたよ。お母さん、わたしは最近一人暮らしに戻ったよ。あんだけ反対されたのに。
どうせゴールデンウイークに実家に帰らないといけないので、その時に言うつもりだ。
お父さんに怖いと言えずに育った男がおじさんなら、お母さんに怖いと言えずに育ったわたしはおばさんだろうか。
不安や恐怖に対して、立ち向かうではなく逃げ続けて、その向こうに行けば何かあるかもしれないのに。
お母さん、わたしはあなたのことが怖かった。今でも怖い。あなたは不安から逃れるために労働をしている。その労働を嫌だと、辞めたいと思っているのに、見えない不安が怖くて頼まれてもないのに指定時間より早く準備をし、指定時間にタイムカードを切る。なんて勤勉な労働者でしょう。
お母さん、それを続けても不安はなくならないよ。それで幸せならばそれでいい、それを続ければいい。なのに、わたしが「普通の社会人」から外れると惨めになったり嫌な気分になるのは、お母さんが満たされていないからだ。それをわたしのせいにしないでくれ。お母さんは災害なんかが起こると「こうして屋根があってご飯が食べられるだけ、ありがたいよね」というでしょう。ありがたがるのなら、本気でありがたがれ。幸せになれよ。自分を安く見積もるなよ。自分の人生を歩んでくれよ。
昨日かな、会社で後輩に話しかけたら「中尾さん、最近ウキウキしてますよね」と言われた。そりゃあ有給が2ヶ月も消化できるのだし、毎朝8時に起きて日付をまたぐかのスレスレの時間に帰る生活も終わるのだ。
新しいことがたくさん始まる。
正直なところ、見切り発車なところも多いし、把握してないことも多い。辞めてしばらく経って、やべー!!!と思うことは間違いない。でも考えられるときに考えたらいいし、頼れるひとにうまく頼ればなんとか大丈夫だと思う。
トラブルは予測するに越したことはないが、起きるかどうかも分からないトラブルに怯えて立ちすくむなんて、そんな馬鹿なことはもうしたくない。
言い訳なんてしてる暇はない。怖いことだらけだけど、やるしかない。
これからは全部の責任を自分で負うのだ。そうして、わたしはわたしを幸せにすんのだ。
4 notes
·
View notes
Text
Sorey and Mikleo at the core of Zestiria
長谷 人間と天族の共存を象徴するのがあの2人の絆なので、どういう決着にするかはいろんなアイデアが出ましたね。
HASE: Since the bond between the two symbolizes the coexistence of humans and seraphim, there were many ideas on how to put a conclusion to their story.
Those two.
I know I have talked a lot about Sorey and Mikleo, but at the same time, I feel like I haven’t talked enough about them yet. It is certainly one of the relationships that is often talked about in the fandom, but for how much they’ve been brought up, there is surprisingly not much effort to actually analyze what makes them work in the context of Zestiria.
I would like to begin this with bringing up the core themes or ideas underlying Zestiria as a story: the specific genre name, “Passion will light up the world” (“情熱が世界を照らす”), and “Legends will someday become ‘Hope’” (“伝承はいつしか「希望」になる”). I want to keep these in mind when talking about Zestiria as a whole.
The idea of “passion” being the heart of Zestiria actually came up when the creators wanted to incorporate the “passion” of Sakamoto Ryouma, a Japanese historical figure, a low-ranking samurai in the late Edo period, as revealed by the director, Hase Yuuta, and producer, Baba Hideo. They were enamored by the fact that he was a low-ranking samurai, yet through his deeds, managed to indirectly change Japan. It was his passion and love for Japan that exactly made him think that Japan could not remain the way it was. Then, intertwining in various ways with people in various positions, the world moved on. He didn’t try to move the world, but the results of his actions moved and changed the world.
Elements from Sakamoto Ryouma’s life and personal figure can then be found in various aspects of Zestiria. We do things because we want to do it, not because we have to do it, yet both of those things are important, so how can we realize both of them without sacrificing one or the other? Sakamoto Ryouma also left his small hometown, out to the vast world. The part where he originally did not want to change Japan, but ended up changing Japan while he was pursuing his own dream. The part where Sakamoto Ryouma was thought to be able to see things “differently” from others who had lived in the same era, as well, like how Sorey is able to see the seraphim.
長谷 坂本龍馬の要素を全部スレイに持たせることはできないので、実は一部をミクリオが持っていたりします。あまりにも感情的な行動をするとユーザーさんとの気持ちがかけ離れてしまうおそれがあるので、スレイは意外と冷静で落ち着きがあります。むしろ、クールに見えるミクリオのほうが感情的ですね。
HASE: It is not possible for Sorey to have all the elements of Sakamoto Ryouma, so actually, Mikleo has some of them. Sorey is surprisingly calm and composed, as too much emotional behavior could lead to a disconnect with the player’s feelings. If anything, Mikleo, who seems cool, is the more emotional one.
Which might seem familiar, since the head writer also said the same thing, and I see this quote being thrown around a lot anyway:
山本 [...]そういう意味ではおとなしい主人公に見えるかもしれませんが、熱い思いはちゃんと持っていて、叫んだりノリや勢いだけで解決しようとはしないキャラクターにしたんです。代わりに、ミクリオをストレートに感情表現するキャラクターにして、2人で1人の主人公のような言動をとるように工夫しました。
YAMAMOTO: [...] In that sense, [Sorey] may seem like a calm protagonist, but he has passionate feelings, yet does not try to solve problems by shouting or just going with his spirit or momentum. Instead, we made Mikleo a character who expresses his emotions in a straightforward manner, so that the two of them act and speak as if they are one protagonist.
So they were concerned about Sorey being too unrelatable if he is fully modeled after Sakamoto Ryouma, who seems like someone bigger than life when you look at him throughout the history, as such, they divide the elements inspired by the figure into two characters, Sorey and Mikleo. This is because despite the fantastical framework they worked with on Zestiria, they also wanted to convey that the legends also lived in us all. That the characters that lived through those legends, were also just like us. That point is important.
――どのキャラクターも強い個性をもっていますね。 山本 シナリオチームには「物事でドラマを描くのではなく、キャラクターの心情を繋げていくドラマを作ろう」という大きなテーマがありました。勢いだけで動くのではなく、互いを思いやる部分やそのときの心情によってキャラクターからどういう言葉が出てくるのか、というのをリアルかつていねいに描こうと。なので、その言動から、スレイたちが何を考えているのかを読み取っていただけるとありがたいです。
――Every character has a strong personality. YAMAMOTO: The scenario team had a major theme, “Rather than a drama based on certain things, let’s create a drama that connects the emotions of the characters.” We do not want the characters to only act because of the momentum, but to realistically and carefully depict what kind of words the characters would say depending on their emotions and how they care for one another at the time.
――ストーリーを作るにあたって、特に苦労した部分がありましたら教えてください。 山本 やはりその心情ドラマが非常に難しくて、何度も修正しました。RPGとしては目的を提示したり、これはこういうことですよ、と書くほうが楽なんですね。事件でストーリーを繋げていくという。ただ、今回はそれよりもキャラクターの性格との整合性を重視して何度も書き直しました。セリフの収録でも、役者さんにキャラクターの細かい心情を大切にして録ってもらったので、後半になると役者さんのほうから「このセリフってこのキャラクターだと言い方が違うんじゃないですか?」という意見も出てきました。「じゃあ先に行こうぜ」と言うのか、それとも「ここにいてもしかたないよね」という語りかけにするのか、といったちょっとしたニュアンスの違いなのですが、そういうセリフひとつでもキャラクターらしさを重視していました。
――Please tell us if there were any particular challenges in creating the story. YAMAMOTO: That emotional drama was very difficult, after all, that I had to revise it many times. As an RPG, it is easier to present a goal, and write based on “this is what it is all about.” Something like connecting the story beats with certain incidents. This time, however, I rewrote it many times, focusing more on consistency with the characters’ personalities. In the recording of the dialogue, we asked the voice actors to record their lines with the importance of the detailed feelings of their characters, and in the latter half of the production, the voice actors instead would suggest, “This line would be said differently by this character, wouldn’t it?” It may be a small difference in nuance, such as whether to say, “Let’s go ahead then!” or “I don’t think we should stay here,” and even in such a single line, we focused on the character’s personality.
I know it seems like I’m not getting anywhere with this, but bear with me. So we have both Sorey and Mikleo sharing parts of Sakamoto Ryouma, but what I personally find interesting is that Sorey takes the parts of Ryouma that are more “legendary” about him (e.g. he brought upon a huge change without meaning to, he was believed to have seen something invisible that couldn’t be seen by his contemporaries) and Mikleo takes the parts of him that are more mundane (e.g. that he was full of emotions, very expressive). On the outset, Sorey as a human is regular-looking, and Mikleo, as a seraphim, has ephemeral, otherworldly qualities to his appearance... but even in the game, Sorey is the one depicted as being a child of miracles, the only human amongst the seraphim, someone who keeps going against all odds, the one Shepherd with a special end to his journey, and Mikleo is “merely” a young seraph who doesn’t even know a lot of things about his kin.
(Just like how we see things through Sorey’s eyes, and how he learns from the various humans he met and parted with along the way; when it comes to how seraphim work, we usually learn about it because Mikleo, the youngest seraph he is, is curious enough to ask about it from his seniors. You can see it in the skits in-game.)
伝承はいつしか「希望」になる
Legends will someday become “Hope”
I’ve talked about in detail how Zestiria is hugely inspired by Shinto, and, subsequently, places a great importance on legends and history just like Shinto as a religion. The catchphrase of the game nicely illustrates this. However, one thing I’d also like to point out is that it’s easy not to think too deeply into “legend” as an English word, we tend to take words for granted after all. I don’t know if what I’m saying is making any sense, but Zestiria is a work that chooses its words very carefully and you’re supposed to read between the lines.
In the Japanese word for “legends”, “伝承”, lie implications that might not be immediately obvious to people who can’t read Japanese: that legends are transmitted, imparted, handed down (伝える), and that legends are received, taken in, accepted (承ける). There is a give-and-take relationship here, it’s not a one-way road.
The epilogue in the novel, focusing on Mikleo like in the game, emphasized more on this:
永遠に流れる時の中で、人の一生はまるで一瞬の光だ。けれど、語り継がれ、受け継がれた意志は長い時を超える。伝え続けたいと思い続ける限り。
遺跡もまた、語り続ける意志だと青年は考えていた。時を超え、未来へ伝えたい思いを形に残し、いつか受け止めてくれる人を待つ。
いつまでも、いつまでも。
その意志を余すことなく受け止めたい青年は、ひとりでここを再訪したのだ。
In the time that flows eternally, a human’s life is like an instant flash. However, the will that gets handed down and inherited transcends the long time. As long as we want to pass it on.
The young man believed that ruins are also a will that can continue to get passed on. Transcending time, leaving behind a shape of thoughts that they want to convey to the future, waiting for the right person to accept them someday.
Always and forever.
The young man, wanting to take in [to accept] all of this will thoroughly, revisited this place alone by himself.
Humans and seraphim are fundamentally different beings: time flows differently for both, humans accept external changes, seraphim stay the way they are due to their nature as incarnations of the purest hearts. To Mikleo, whose passage of time is comparatively stationary, seeing Sorey, a human, who keeps changing (growing; maturing) just makes their fundamental differences even more obvious, so of course it gives him complicated feelings on the whole matter.
Just before, they were the same height, then Sorey grew even taller than he was, as highlighted in the manga. However, the Sorey that has lived up until now, still lives on inside Mikleo anyway. After all, they’d been together all their lives up until then.
…陪神になってスレイと同じ使命を感じてなんとなくあの時僕を拒んだ理由がわかった
導師の使命も世界も知らないただイズチにいた頃のままの僕らをスレイは残しておきたかった
…As I became a Sub Lord and feel the same calling as Sorey, somehow I understood why he refused me to become one at the time.
Sorey wanted that that part of us, that didn’t know of the Shepherd’s calling nor of the world, just staying the way we were in Elysia, to still remain.
But Sorey’s core―the reason for why he is who he is―it’s Mikleo, the one who has come to share his dream and time, who has it. To Mikleo, a seraph who will continue to be for a very long time as an untainted and unchanging heart, Sorey entrusts his dream. So that after this journey ends, he can walk with himself again.
Sorey, the childhood friend who holds the dream of seeing a world where humans and seraphim could coexist, won’t go anywhere, as long as Mikleo is there, even if Sorey changes. Even Sorey, the one who carries on the Shepherd’s burden, isn’t going anywhere, because that will is carried on to the next generations, by Rose and the succeeding Shepherds.
Speaking of Rose, I think her role in the story as Sorey’s foil will highlight Sorey and Mikleo’s relationship even more (this is not saying that Sorey and Rose’s relationship is any less important, just that it’s a different form of relationship). Even from the character design perspective, Sorey’s gold/orange (the image color that is used for him in both the World Guidance and the manga) and Mikleo’s teal are complementary colors, their eye colors (green and purple) are also complementary colors, and they share the color blue as well, whereas Sorey’s blue and white contrasts Rose’s red and black. I believe this is deliberate, as deliberate as Rose and Lailah sharing the color red yet contrasting black and white, because from the information that has been revealed, Fujishima and Inomata as the veterans of the series were asked first to design two humans and two seraphim respectively, based on their styles, and that their characters would be the main focus of the work.
(Which I also believe is the basis for why it is Sorey [Fujishima] and Mikleo [Inomata], Lailah [Inomata] and Rose [Fujishima] in the night before final battle scene, a scene that has held importance in the entire Tales of series.)
Also, I want you to pay close attention to the key visual for Zestiria above. I will also bring this up again:
右手は身・体の、左手は霊・心の在処
The right-hand side is where the physical body is, while the left-hand side is where the spiritual heart is.
To his left, Mikleo, the Sub Lord, and to his right, Rose, the Squire. Lailah, the Prime Lord, on the far back, evoking that distant feel of the mystical, of the legendary, in the same center as him, the Shepherd. Sorey and Rose actually have a lot in common that are easy to miss... they both grew up with seraphim, sort of, and it cultivated in their pure hearts and high resonance. They’re both humans. But it is with Mikleo, the one who’s decidedly different kin from him, that he has complementary relationship with.
Maybe Zestiria wants us to focus more on their similarities, than their differences, when it comes to Sorey and Mikleo. However, humans don’t grow if they only hear what they want to hear; they have to be challenged, and besides, if you’re going to step into the world out there, there are many kinds of people, people with different views and approaches from you. This is what is needed for Sorey to meaningfully grow. So despite the similarities, Rose is the one human who Sorey knows, outside from himself, that lives with a seraph yet rejects them vehemently at first. That each of them has their own role, to give life and to take life.
This is getting more and more about Rose instead, but I promise I have a point to make here. Besides, it was also Mikleo that managed to convince her to join, for Sorey’s sake.
MIKLEO: We seraphim are indeed Sorey’s friends. MIKLEO: And yet we cannot say for sure if Sorey sees and hears the same things we do. ROSE: Because he's... the only human out of all of you? MIKLEO: Yes. Sorey has no human compatriots who can truly understand the burden he bears as the Shepherd. ROSE: You want... me... to join him. MIKLEO: It's ultimately your call.
Pay attention on the camera positioning, on how Mikleo is on the left on the screen talking to Rose on the right of the screen. It’s not enough for Sorey as a character who has been surrounded by seraphim his whole life, to just be surrounded by a party of seraphim, yet it was Mikleo who first realized this instead of Sorey himself. Also, it wasn’t just in the way he didn’t force her to join Sorey, but the way he was also so gentle in his word choice, even telling her that it was okay for her to be scared of him.
This is why I like how the English trailer dubbed Mikleo as Sorey’s “voice of reason.” Sorey isn’t exactly unreasonable himself, but I think this fits nicely with the designation that in the end, Mikleo chooses to act as the “spiritual heart” to Sorey’s “physical body.” I deliberately use the word “choose” here, because, just as it was Sorey’s choice to be the Shepherd, it was also Mikleo’s choice to fight alongside him.
天族とは誰かの想い、誰かの祈りから生まれた露な<人の心>そのもの。
執行者の名を持つ天族は、その心の最も純粋な形として生まれた化身。
Seraphim are born from someone’s thoughts, someone’s prayers; they are the very bare “hearts of humans” themselves.
Seraphim bearing the name “Enforcer” are incarnations born as the purest form of those hearts.
It was implied that Mikleo, the seraph, was born from the thoughts of Michael that were paradoxically both his hope and his despair. And I’m sorry for repeating myself here, but these pages of the manga really spelled it out (I have an entire post on Sorey, Mikleo, and Growth here and here):
SOREY: …I never… want to forget this pain… SOREY: It’s exactly because I felt pain that I was able to continue this journey. SOREY: We’re grieving, suffering because of the reality across this world… and that’s why we are able to rise up for hope. ROSE: ! SOREY: Many feelings even beyond that I had never known before were shining through! That being case, we— MIKLEO: (Humans accept [receive] something, and with that, they change their way of being.)
SOREY: We’re not afraid to go down this road!! MIKLEO: (With time, you grow taller. With your calling, you don the mantle. If you, with all that, are willing to accept the pain that tries to dye you…) MIKLEO: (Then I, the seraph that resides within you, as the thought that you are who you are, will draw the bow together with you.)
(Another neat detail is how on the first page above, the paneling positions Mikleo on the left and Rose on the right.)
So Mikleo was born as Michael’s hope and despair, but decides he will act as the thought that Sorey is who Sorey is. The left to his right. The spiritual to his physical. The seraph to his human.
Choice indicates agency here. I will always remind people that Zenrus has never raised both Sorey and Mikleo to be the Shepherd and his Sub Lord, even though Muse did suggest that idea to him when he took them in. No, they came to accept these roles themselves. The one thing they learned from Zenrus was the dream of coexistence between humans and seraphim, basically the core idea of Zestiria itself.
And their bond is conceived to symbolize the possibilities of that coexistence.
(Speaking of Muse, I want to bring up that there are only two story-related weapons in the game (as in, weapons used/obtained through story and not by loot): the first is Lailah’s Sacred Blade, used by Sorey when fighting the hellions during the Sacred Blade Festival, and the second one is Muse’s Staff, used by Mikleo. I feel these weapons nicely represent Sorey’s connection to the seraphim and Mikleo’s connection to humans outside of each other.)
If such seraph and human—heart and body could exist together, if the physical body could not lose sight of its own heart, could listen carefully to its voice, and could feel its presence, then humans should be able to live the way they want to live, without being tainted. Sorey, who has lived with the seraphim, is that proof.
I won’t let you carry this by yourself.
They share their passion together, they share their inherited will together; for that, they share the burden needed to get there. Personally, despite what I might seem like, I’m actually detached when it comes to liking characters... I don’t really care about the characters individually themselves, and this might make me seem like I don’t care about them personally, but it’s more like that to me, characters cannot be divorced from the narrative and context they’re supposed to work under. Sorey and Mikleo are obviously intended to be the symbols representing what humans and seraphim (the right and the left, the physical and the spiritual, the body and the heart) can do for one another, and legends are full of those symbols. Their unspoken, unseen bond, often described as something like tacit understanding/heart-to-heart communion (以心伝心) also contributes to that feel of seeing something transcendental you often find in legends and folktales, because even words are not necessary anymore, it’s shown in every step they take for themselves and for each other.
Yet at the same time they’re also depicted just as boys. They can get to be happy over the smallest things, they get into heated arguments, they tease each other, they get worried about each other, they don’t want to lose to each other... they are so normal, despite what I’ve said about them before. They’re both symbols and realized characters that I can relate to on a more personal level, and there is multiple facets to both their characters and relationship. I think that’s the best way to show what living in harmony with the world, with the history, with everything that has been there all along without us immediately realizing it, means. They really are there to embody the themes and messages of Zestiria together.
MIKLEO: Both iris gems and ruins are just fragments of the past. What’s important is what you get out of them. MIKLEO: “Because history is the architect of our hearts.” SOREY: Whoa, Mikleo! That was a sweet quote! MIKLEO: You think so? I’m planning to put it in the book I write one day. EDNA: Well, aren’t you full of surprises. MIKLEO: I mean, don’t you think it'd be a waste not to pass on our tale to future generations?
Yes, the details and nitty-gritty are important, but above everything, it’s the bigger picture. What you get out of them. And what I get from them is that hope is not created but inherited. Their journey, their tale not only carries on the hope from the previous generations, but to the next generations as well.
This tale begins with them and ends with them. It is their tale after all.
27 notes
·
View notes
Text
『マール王国の人形姫 25th ANNIVERSARY COLLECTION』開発責任者からコメントをもらったっス🎵
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この「マール王国の人形姫」シリーズは、弊社のほかのタイトルのお客様アンケートで今でも感想をいただくことがあり、長くお客様に愛されているタイトルだとは知ってはいましたが、日本一ソフトウェアにいながら今回のプロジェクトに関わるまではプレイしたことがありませんでした。
実際に「マール王国の人形姫」をプレイしてみて思ったのは、ストーリの中でメインで描かれる人の優しさと対比する、非道な行いに対しての答えが描写されていないシーンが多いことです。
そのため、自分であればどう思うだろうか、どう行動するだろうか、不親切な行動をしていないだろうかと自分を見つめ直す機会が多くありました。
ゲームとしては、ミュージカルシーンをはじめ、デモシーンでキャラクターがコミカルに活き活きと表現されているのが楽しく、どのキャラクターたちも短い登場時間であっても強烈なイン���クトを残してくれ愛らしく感じました。
今のゲームと比較すると、「25年」の時を感じる部分もあるタイトルではありますが、この「マール王国の人形姫」のストーリーは、ストレートに伝わりやすく、楽しく、すごく思い出に残る体験ができるだろうと思います。
当時プレイしていただいた方も、もうゲームから離れた方もいらっしゃるかもしれませんが、改めてこのマール王国の世界に触れてみていただければ幸いです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[Machine Translation]
I received a comment from the person in charge of development for "Marl Kingdom Doll Princess 25th ANNIVERSARY COLLECTION" 🎵
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
We still receive feedback about the "Marl Kingdom Doll Princess" series in customer surveys for our other titles, and I knew it was a title that had long been loved by customers, but even though I was still at Nippon Ichi Software, I had never played it until I was involved in this project.
After actually playing "Marl Kingdom's Doll Princess," I noticed that there were many scenes in which the answers to the cruel acts were not given, which contrasted with the kindness of the people that was mainly portrayed in the story.
This gave me many opportunities to reflect on myself and ask myself how I would think, how I would act, and whether I might have behaved unkindly.
As a game, it was fun to see the characters portrayed in a comical and lively way in the musical and demo scenes, and each character left a strong impact despite their short appearances and felt endearing.
Compared to games today, there are some parts of the title that make you feel the 25 years that have passed, but the story of "Marl Kingdom's Doll Princess" is easy to understand, fun, and I think it will provide you with a truly memorable experience.
Some of you may have played the game back then, and some may have already moved on from it, but we hope you'll take the opportunity to experience the world of Marl Kingdom once again.
2 notes
·
View notes
Text
今日のプラ板工作
今作ってる軽便電車は車体強度を維持するため戸袋窓を作りたくない。なのでドアを外吊りにすることにしたんですが、ただでさえ車体幅が狭い軽便電車(今回は幅2150mm)で外吊りドアの厚みを入れたら収容力が壊滅的になっちまう
だもんで上下のドアエンジンが入る部分をすぼめた「<>」型の断面にすることに。そのための内張を切り出していたんだけど片側4枚作った時点で力尽きました
中央のはみ出しなんて1mmしかないのに何でこんなに苦労しなけりゃいけないんだ…ってなっておりますが仕方ないですね。ストレートな側面にして有効幅1900mmにはしたくないですさすがに
それにしても作っていてものすごく小さな電車(実車にすると全長10.5mしかないです。三岐鉄道北勢線モ260の2/3)ですが、猫屋線の車両と合わせると大型の部類に入るんですよね…
4 notes
·
View notes
Text
6/10
なんかもうちょっと高頻度で更新できるかなとか思ってたけど、案外パソコンを開くのがめんどくさくて間が空いてしまった。最近MacBook Airを買い直して新しめのやつにしたんだけど、打鍵感がとても好みで、今ワクワクしながら書いてます。
今日は私のメンタル的なことについて整理するために文章を書いています。
まず最初に結論からいうと、私は「躁鬱的っぽい」なにからしいです。要するに、「躁鬱」という診断が降りるほどではないけど、そういう傾向があるよね的な。多分気分障害と呼ばれるやつ。関係ないけど、去年の夏、留学先で一緒に行っていた後輩がその診断をもらっていたので、すごく親近感がある。
これの症状がいつからあるのかと言われると厳密にはわからないけど、確実に高校生の頃にはあった。そもそも1日の中でもかなり気分のムラがある方だったし、駅のホームに立って何が辛いということもないのに線路に吸い込まれるような気持ちになる時もあったし。今と違うのは、「躁」っぽい時期が比較的長かったことで、「基本的には元気でたまに凹む人」程度の認識でしかなかった。凹むというのも、数ヶ月真っ当に生き続けて疲れが溜まってきた時期とかだったので、1日学校を休んで息抜きをすれば元気になれたし。
最近のはもうそんな日々が愛おしく思えるくらいに可愛くないし、愛し方が分からない。3月末にダムが決壊して以降、常時うっすら「死にたいなー」が存在していて、思考に隙間ができて何も考えてない時があると頭にこだまする。それが時折抑えきれなくなって「生きてたくない!」「死ぬしかない!」「殺してくれ〜」になる。←この時に本当はもらっている抗不安薬を飲むべきなんだけど、自分のこういう不安を理由を解決せずに薬で抑えるのも不安で、結局一緒に1日過ごしたりしている。この前友人とも話したけど、コンテンツに狂ってる私も苦しんでる私も全部私で、それを薬で抑えて、全ての情緒を殺されている状態で淡々と日々を生きるのって、怖いし辛い。ちなみに毎日飲むお薬はちゃんと飲んでいるけど、情緒を殺されているのに「死にて〜」は消えないし、躁的なのは抑え込まれてるのに抑うつは健在で、ボケカス。
この症状の大きな要因の一つは自分の将来に対する不安である。ストレートに社会人になった知人たちが働き始めるのを見て、「本当の社会不適合者は私だけなんだ」と絶望し、社会不適合者はこの社会じゃ生きていけないことを実感し、これまた絶望した。みんなが乗り越えられることを私は乗り越えられなかった。大学受験は、周りに「頑張れなかった」と言ってる友人も多い中、私は頑張れたのに。就活という一点において、頑張れない子になっちゃった。だから、社会から脱落しちゃった。就活という一点だけなのに。それまで頑張って生きてきた人生が、就活の失敗によって完全に否定されて、社会不適合者としての烙印を押されてしまった。だから「死ぬしかない!」なのである。「死にたい」というよりそうするほかないから、私が適合できないこの社会から逃げるために、死ぬしかない。それが根本の問題である。一旦大学院に進学することを決めたが(入試に成功すればだが)、それでもその先には就活があって、いずれ、ね。他にも単純に日々が忙しすぎて疲れ果てているというのも原因だと思われる。
メンタルクリニックに、4月の上旬に行き始めて、結局周りの反応もあって、行くのをやめることにしたんだけども、全てを否定してくる医者だったなと思い出して思う。「将来への漠然とした不安があって…」という話をした時には「将来のことを考えるからダメなんですよ」と言われたし「死ななければならないと感じていて」と話した時には「死んでも楽になれないですよ!」と言われた。それは本当なのかもしれないけど、私が言ったことを受け止めることもせずに、捨てられているようで、そりゃ私のメンタルも良くならないわけだと思う。考えちゃダメと言われても、そうできないから私はここにいてるわけで…。死んでも楽になれないとしても、生きてるのが苦しかったら逃げるためには死ぬしかなくて…。次行くところは、もう少し、せめて私の言葉を一回受け止めてくれるといいな。
3 notes
·
View notes
Quote
大阪高検は6月25日、元大阪地検でトップの検事正をつとめた弁護士・北川健太郎容疑者(64)を準強制性交等の疑いで逮捕したと発表した。関西司法界隈の顔とも言える元上司の犯行に、検察は対応に追われている。 「大阪高検は1枚のペーパーを大阪司法記者クラブに配布しました。北川容疑者の名前、生年月日、職業、罪名などが書かれただけの簡素な紙です。レクはなく、各社の個別対応に高検のナンバー2が応じるのみ。準強制性交等という重大な事件ながら、詳細はもちろん、発生日時すら分からない。 のちに被害者は当時の女性部下だということが判明しましたが、その被害者の性別すら『プライバシー』を理由に答えないという有り様でした。検察官は辞めても、ヤメ検弁護士として、界隈で関わりを続けます。元上司のスキャンダルを組織として少しでも隠そうとしていると疑われても仕方がない広報対応でした」(司法担当記者) 北川容疑者は1985年に任官。大阪・兵庫など関西地方の地検を中心に現場でのキャリアを重ね、大阪地検特捜部にも在籍した。那覇地検検事正などの管理職を経て、最高検刑事部長として全国の重大事件の捜査指揮をした後、2018年2月~2019年11月まで大阪地検の検事正を勤めていた。 「容疑者は定年まで時間を残して退官しました。大阪の検事正は、全国の高検検事長などのように、天皇陛下の認証を直接受ける認証官のテンパイポストにもかかわらず辞めたので、2019年当時はさまざまな憶測が飛び交いました。表向きは『家族のため』ということでしたが、人知れず、今回の事件のことが一部の幹部の間では共有されていたんです。 とはいえ、世間からすると華々しい経歴なので、弁護士としてコンプラ関係などの仕事は引く手あまたで、相当な収入があったはずです」(同) 「グレーな案件は無理せず不起訴に」 超エリート検事は一体何をしたのか。検察関係者が明かす。 「事件は検事正の在職期間中なので5年ほど前です。同僚を含めて飲み会をした後、北川さんと被害者の女性部下は2人で飲み直しました。さらに2人は北川さんの官舎に向かい、かなり酒に酔っており抵抗できない状態の部下を襲った疑いが持たれています。 逮捕までこれほどの時間がかかったのは、おそらく示談決裂とか、メディアが察知し始めたといったことが背景にあったのだと思います。 また、北川さんも熟知していたであろう、性犯罪の立件の難しさもあったかと思います。密室の犯行で直接証拠はなく、被害を訴えたであろう部下も酒に酔っていて供述の信用性などに問題がある。北川さんは手堅く事件を処理することで有名でした。裏を返せば、グレーな案件は無理せずに不起訴にする。こういったことも分かっているので手を出したのではないかと訝しんでしまいます」 もともと身内のほか、最も付き合いの濃い記者との距離感も問題視されていたという。 「北川さんは女好きとして有名でした。まさかこのようなことまでするとは思いませんでしたが、飲み会での女性記者へのボディタッチなど周囲では不安視する声があった。また男性記者には『風俗店に行って、その内容を教えてくれたらネタをやる』といったことを言ったりと、ストレートに言えば、私生活は『下品』なところがある検察官でした」(前出の司法担当記者)
【関西検察の神】北川健太郎弁護士(64)が酒に酔った部下を…準強制性交等容疑で逮捕「男性記者に風俗店“取材”を勧め、女性記者にボディタッチ」「北川さんは性犯罪にも熟知しており立件されないと踏んでやったのでは」|NEWSポストセブン
3 notes
·
View notes