#足元向上委員会
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メキシコの首都のメキシコシティが今、歴史的な水不足に陥っている。記録的な暑さと長年の干ばつに加え、2023年6月にはエルニーニョ現象のせいで雨期が縮まり、2024年6月の時点で、ダムの容量は27%未満だ。夏が始まる中、2300万人が暮らす巨大都市は災害の瀬戸際に立たされている。 メキシコシティが受けている影響は、今のところ壊滅的だ。地元の水道局のデータを分析したところ、550以上の地区で水道水が止められたり、水圧が下げられたりしている。これらの節水措置により、住民は不定期で高額な給水車の水を、集められる限りの容器に溜めなければならない状況だ。 すぐにでも豪雨が降らなければ、メキシコシティのカツァマラ水道システムは6月下旬に、水の供給が止まる「デイゼロ(Day Zero)」に陥る恐れがある。それは、メキシコシティの4分の1にあたる地域で、これまで水不足を免れてきた地域も含めて水道が完全に干上がることを意味する。市内の水の約70%を供給している地下水は流れ続けるだろうが、その地下水も危機に瀕している。 「私たちは本当にひどい状況にあります」と、元国家水道委員会長で、野党のアドバイザーでもあり、メキシコシティの「デイゼロ」のデッドラインを広めるのに貢献したホセ・ルイス・ルエゲ氏は言う。「現時点で、私は奇跡が起こることに賭けています」 世界中で、気候変動が干ばつを悪化させ、無計画な開発や水道インフラの老朽化によってすでに打撃を受けている都市部を未曾有の状況に追い込んでいる。「デイゼロ」という考え方は、節水キャンペーンを加速させるために世界中で使われており、人々に危機感を持ってもらうのに役立つことが証明されている。 以下では、水不足に最も悩んでいるいくつかの都市が「デイゼロ」の恐怖とどのように向き合っているかを紹介しよう。 数百ドルの罰金も、ボゴタ コロンビア コロンビアの首都ボゴタでは、飲料水の3分の2以上を供給するチンガサダムの容量が17%という驚異的な低さまで落ち込んだため、2024年4月以降断水が続いている。800万人の人口を抱えるボゴタ市内各地で、月に3回水道が止められ、毎月の割当量を超過した世帯には数百ドルの罰金が科される。 「市全体が節水モードに入らなければいけません」と、カルロス・フェルナンド・ガラン市長は警告し、「パートナーと一緒にシャワーを浴びるか、家を出る予定がないならシャワーを浴びないように」と絶望的な状況を反映した公共広告を発表した。
「水道が枯れる日」が迫りくる世界の都市、メキシコシティほか | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
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Independently blue
感受性が豊かだとかいつも考えすぎだよの一言で自分のすべてを見透かしたかのようにわたしのことをとくべつ綺麗に表現してほしくなかった。というか、絶望や不安感や絶えない悲しみに美しさなんて微塵たりと存在しないと思っているのに、それを爽やかな笑顔を浮かべながら素敵だと言われてしまうと、わたしも捻くれた人間なのでより一層自分に対して惨めな想いばかりが募ってしまう。こんな調子だからいつになっても満たされないのだ。ずっと。自分で自分を縛り付けているような感覚に頭が痛くなる。何一つとして誇れるものを持ち合わせていないことに。家族や友人はたいせつだけれど彼らだってやっぱり一番大切なのは自分自身で、そういった意味では彼らもある種の寂しさを抱えているのかもしれないけど、それでも、と、ぐるぐる考えれば考えるほど自分だけが異様に変わっているように思えてきて耐えきれず泣いてしまう。
無題
世界はドラマによってうごかされていて、そのドラマによってわたしたちはうごかされている。と、高校演劇大会の審査員の演出家の方が言っていた。
ドラマの定義というのは最初に保たれていたバランスが何かをきっかけに崩壊して、そしてまたあたらしいバランスが構築される、というその繰り返しのことらしい。ここで大事なのはバランスが崩れたときに自分自身がいちばん衝撃を受けるであろう強くて鋭い一瞬のエネルギーの動きをしっかりと捉えて明確にするということ。そうすることではじめてハッ、となる瞬間がうまれる。ここでいうハッというのは新しい気付きのことで、これは今までは流れに流されていたものが急に堰き止めらたときに止むを得ず立ち止まり、改めて周りを観察し分析することで自分自身の置かれている立場を客観視できる、ということだと思う。バランスが崩れるということは何かが劇的に変わることを表していて、人間はそれに適応することに大体は切磋琢磨して多くの場合くるしくなったり悲しくなったりとネガティブな感情に追い込まれてしまうと思う。けれど演劇において、また人生においても同じことが言えるけれど、そこでは自らの感情に思うがまま身を委ねるのではなくてロジカルに思考をすることが大事になってくる。というのも、大きな衝動は複数の感情をより複雑に絡ませてしまい、そうするとまた今度はそれを解くことに必死になって小さなパニックが起きてしまうから。そうしてそのように自らを疲れさせないために情報量を極限まで少なくすると、はじめて人間はそこで現在進行形で起きている意外性というものに気がつく。そして大概この意外性、つまり思いがけない驚きや予想外の仕掛けというものは自分だけでなく他者にも影響を及ぼし、それがその審査員のいうハッ、という気付きに繋がるのかもしれない。
同情の有無にかかわらず人間への関心を失ったら演劇など出来ない、と審査員の方々が話すのを聞きながら、人生と演劇って似ているなあと改めて思った。自然であることと自然でないことはまったくもって違うけれど、実は紙一重なのかもしれない。
辛いことはたしかに尽きないけれど、そこでその辛い気持ちから自己防衛をするために自分自身を正当化し誰かを傷つけることは全くもってちがうし、それでは自分のかなしみはより加速する一方で、一向に幸せにはなれない。自信を持つ方法だとか辛い気持ちから脱却する方法だとかそういうことをつらつらと語る動画をたくさん見たら、元気が出た。今までにないほど散々汚い言葉を投げかけられて、ついこの間までもう自分には幸せになる価値なんてないのかもしれないとマイナス思考だったけれど、そんなことはない。幸せになりたい、という思いだけで充分だと思う。どんな運命もそれをよいものにしようと欲するならば、よい運命となる。ただ誰かを傷つけることで自分を正当化する人や人の心に深い爪痕を残そうとする人、自分自身を責めてしまう人や優しさや愛を素直に受け止められずに疑ってしまう人、いろいろな人がいるけれど、その人たちを責めることもまた全くちがうことなのかもしれないと思った。わたしは今までは悪いことをした人は絶対的に悪い、と一方的に思っていたけれど、そのうしろにはその人にしか分からない苦しみがあるのだろうし、それはその人自身によるものだけではなく環境によるものだという可能性だってある。冒頭で述べた、「バランスが崩れたときに自分自身がいちばん衝撃を受けるであろう強くて鋭い一瞬のうちのエネルギーの動き」というものを自分の根本にある愛やだれかから受け取る愛の不十分さゆえに消化できず、��のものでそれを補い上書きしつつ誤魔化すことで、彼らも彼らなりに自分と向き合うとしているのかもしれない。これはあくまで仮定だけれど、そう思うことでわたしも心が軽くなる。辛いとか、幸せとか、気にしなくなるほど愛に満ち足りた生活をしたい。ゆるしたい。自分が侵してしまった失敗や罪も、自分を傷つける人たちの言葉も、上手く物事をこなせない自分自身のことも、幸せでない過去のことも、ぜんぶゆるしてあげたい。号泣しながら鏡を見たら予想以上に顔がぐちゃぐちゃだったので綺麗だった、なんて微塵たりとも思わず、むしろそれを汚いと思ってしまったけれど、それをいつかあの頃の美しさに生かされていると言えるほどの愛を自分のために抱えて離したくない。
無題
丁寧に髪をとかすともう0時だった。ピピピというメロディとともにコンビニのドアは開かれて、わたしはそこで煙草を買おうかと思うけれどもやめる。憧れている女の子が新宿区の高校に通っていることを知って、落ち込んで舞い上がって、そうしてまた落ち込んだ。こんなにも近くで同じ景色を見ているのにわたしはどうしても彼女と同じ世界を生きることができない。等しい恐怖心ともどかしさを感じながら寂しさを分かち合いたかった。彼女がきれいだと思うものをわたしもきれいだと思いたいし、彼女が眠れない夜にはわたしも眠れずにいたい。となりで同じ蝉の鳴き声を聴いて、電車が過ぎ去ってゆくのをみて、風が、草はらを駆け抜けてゆくのをみた。けれどその一瞬のうちですら、たぶんわたしと彼女はきっとそれぞれ異なるひとのことを想って、それぞれ異なる色と匂いと温度と光をかんじている。わたしは彼女がかなしいと思うときにおなじようにかなしいと思えないのだ。それほどもどかしいことはないし、それほど愛おしいものもない。わたしの孤独はわたし一人だけで成立しているものではなくて、わたしの大切なひとたちがいてこそのものだと思うと、それだけで眠れなかった夜が嘘みたいに今度は眠りたくない夜になる。満たされていないからわたしは海をきれいだと思う��だろうし、なんの迷いも戸惑いもなく未来に眩さや希望やあたたかな愛を見出すことができるのだと思う。満足することを知らず、いつまでも世界のありとあらゆるところまでつねに感じていたい。うしなわれた光と温度と音が知らない地でまたあたらしくうまれるところを、ずっととおい国のちいさな街で暮らす少年の報われなかった恋を、インターネットの隅で未だに煌めきを失わず残ることばの数々を、千年前に生きていた十七歳の少女が今を生きるわたしのそれと同じ眼差しで、同じ場所で、同じ海を眺めている様子をみたかった。恐竜の鱗が光にてらされてかがやいているのもみたかった。この風は、まだ人間が人間じゃなかった頃に吹いていた風かもしれない。同級生のこととかたとえば自分の数年後のこととか明日の試験のこととか考えているうちに、きっとたぶんあっとういうまにわたしは��を重ねて死んでしまうから。あなたも。死は永遠に続く停止ではなくて、またあたらしい有限への始まりにしか過ぎないのかもしれない。昔の文章、はずかしすぎてマトモに読めなかった。一年前のわたしだったら全部削除していたかもしれない。だいたい、あなたにはなれないと分かっていながらあなたになりたいなんて思ってしまったわたしがわるかった。わたしは全然自分が思っているより幸せだし、あなただってきっとあなたが思っているより幸せなのだと思う。それにそうだねと言えないのなら、わたしが幸せにしにいくから泣かないで。
Fresh Flesh
苛々してばかりいる。排気ガスを吸い込んだ朝の光。どこまでもぬるい夏の風。孤独を拒絶する友人。数値化された感性。立ち並ぶビル群。声のでかい女。ぜ〜んぶ、ほんとにぜんぶ、まるで雷光のようにわたしの心の奥の奥の奥のほうをカッと照らすので、まぶしくてひたすらに鬱陶しい。だけど舌打ちも暴力も歯軋りも性に合うはずがないので、ただ血液だけが巡るその速度を速め、ああ、もうさ、どうしてこんなに世界って鮮やかなわけ?って、思った、昼。あらゆる音がさっきまで飲んでいたシュワシュワサイダーの泡みたいに空気中を弾ける。ぽつ、ぽつ。びゅうびゅう。ざあざあ。びたびた。ぱらぱら。すぐそこで揺れている深緑(ふかみどり)が泣いているみたい。小鳥や野良猫は雨の日どこで雨宿りをしているんだろうか。ショッキングイエローも、スモーキーピンクも、オーシャンブルーも、わたしたちはすべて黒い色の文字で表現できてしまうのに、心がぎゅうってなるあの感覚って、どんな言葉を選んでもなにかが違う。途中でこうじゃないって投げ出してしまう。どれだけ小説のページを繰っても、黒、黒、黒、そうして少し、余白。けれどそこにはそこにしかない風があって、匂いがあって、音があって、熱があって。先生の合図とともに重たい教科書を開いて、ハイライターで色をつける。まだあと二十分もある、って思うとき途方も無い気持ちなる。(おねがいだから一人にしてほしい、)と、一人なのに、そう思う。これからどうすればいいんだろう。どうなるんだろう。何をすればいいんだろう。何を守るべきで、何を捨てるべきなのか、わかったら、なんの迷いもなしに会いたい人たちの元へと駆けて行けるのに、わたしがいなくても彼らの生活は成立してしまう。その事実が毎日のようにわたしの胸をきつく締め付けるので、勉強さえ手につかない。夏の夜の闇に、重ねに重ねた不安を押しつぶされそうになって、怖くなって、ママが深く眠っているのを確認したあと、あたかも人が眠っているかのように部屋の布団を整えて、玄関のドアをゆっくり、すごくゆっくり開��た。レッドのマットリップと、ドット柄の上下パジャマのズボンと、上はダボダボのブルーのパーカー。午前零時。自転車のギアをいちばん重いのにして、全速力でペダルを漕ぐ。まだたくさんいる人々の話し声や車のエンジン音が瞬く間に遠のいていく中、車輪の回転する音だけが一定の大きさで響きわたる。往復およそ三百円の通学路と、京浜東北線。光が差し込むと肌が透けてみえる白いブラウスと、微かに香る柔軟剤のにおい。テスト前、教科書がパンパンに入ったリュックサックの重さと、かかとの磨り減ったローファーの鈍い光沢。小さな教室と、先生のつまらない冗談。どっと響きわたる笑い声の中に掻き消された不安定な思考。すべて、いつか、終わってしまうことがちっともさみしくないと思ってしまった。ゆるしてほしい。だって、いつだって死ぬことは生きることの一部。怖いモノなど無いと信じたいでしょ。
無題
上野で車に轢かれた鳩の死骸をみた。車窓に映る風の如く過ぎ去ってゆく光景はあらゆるモノの死の産物なのだと、いつか君が話していたのを思い出した。それに感化され涙を目に浮かべるわたしもまた、いずれ消えてしまう。雲ひとつない晴れた日に駅の出口で名前も顔も知らない人を待ちながら、点滅する青信号に早まる人々の足取りを目で追う。断ち切れた水道管の真横でカラスがゴミを漁っていた。彼も彼女もこの街ですらいつか朽ちてゆくのに、世界はなぜこうも美しく出来すぎているのだろうかとよく考える。降ってくる雨粒の鋭さに刺され出血することもなければ、太陽の光によって皮膚が火傷することもない。風の強さで眼球が吹き飛ぶこともなければ、鳥の鳴き声で鼓膜が破れることもない。そのやさしさがたまに鬱陶しくて鬱陶しくて、真夜中に布団に包まってひっきりなしに泣く。ああ、やってらんないなあと思いながら、チョコレートパフェを注文する。向かい席に座った顔見知りになって間もない女性が煙草を嗜む、その姿に恋心にも似たときめきを覚えた。文豪たちが綴ったうつくしい言葉が無数に散らばる図書館で、わたしと彼女は自分たちで編み出したくだらない戯れ言に花まるをつけた。いつか、という言葉が好きだ。いつか大丈夫になる。いつか幸せになる。いつか報われる。いつかわたしにも大切な人が出来る。いつか大人になる。いつか死ぬ。その果てに見え���景色があらゆるモノの死の産物だとしたら、わたしは毎日それらを瞼の裏に葬り、目を閉じて祈る。人生にリタイヤもバッドエンドもエンドロールもない。それよりも踊ってばかりの国のサイクリングロードを聴きながら、ドライブしよう?
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)7月9日(火曜日)
通巻第8323号
EU議会、オルバンとルペン集団が第三会派を形成
ヨーロッパでも「トランプ亜流」の政党が議席を躍進
*************************
7月8日早朝、オルバン・ハンガリー首相は北京を電撃的に訪問した。
ウクライナ和平へ向けてオルバンは7月2日にゼレンスキーと、5日にはクレムリンへ飛んでプーチンと、そして7日にはアゼルバイジャンで複数の政治指導者と会合を持ち、その足で北京へ飛んだ。
第一報はハンガリーのメディアで「首相はアジアの何処かの国へ向かった」。ついで中国が速報でオルバンと習近平の会談が緊急に行われたと報じた。習は五月にブタペストを訪問したばかりだ。習は「ウクライナ停戦を望む」とした。
欧州が中国に制裁をかす中、ハンガリーは飛び抜けて中国寄りである。またオルバンは中国のEV車「BYD」のハンガリー工場を歓迎し欧州全体の政治的空気に強く逆らってきた。
同時並行してオルバン主導の政治劇がEU議会で起きた
EU議会内で新会派「欧州愛国者グループ」の結成がなされたのである。汎欧州の各国の保守系政党の支持を集め、EU議会の承認を獲得した。EU加盟国それぞれの選挙で保守系の躍進をうけて、オルバンは六月から「ヨーロッパの愛国者」と呼ばれる、EU議会内に新会派を結成する意向を発表していた。
7月8日までに構成メンバーがまとまり、79議席を確保したので、EU議会の第三勢力となる。議長にはジョルダン・ベルゲラが就くことが発表された。ベルゲラはフランス「国民連合」の党首、ルペンが次代を託する政治家である。
オーストリアの「自由党」、チェコの元首相アンドレイ・バビシュ「不満市民行動(ANO)」等が最初から参画を表明しており、その後、5つの政党が参加した。オランダのウィルダース率いる自由党、ポルトガルの「チェガ」、スペインの「ヴォックス」などである。
アンドレ・ベンチュラ(チェガ党首)は「ポルトガルのトランプ」。大躍進をとげ連立政権の一員である。スペインの「ヴォックス」(VOX)は、カタルーニャ州の自治権剥奪、同性婚の廃止、保護貿易の重視、農村部や伝統的行事である闘牛の活性化など��唱え、いまやスペイン議会第三党となった。
デンマーク国民党は移民反対、非白人移民の国外追放、反イスラーム主義、ユーロ導入反対、トルコのEU加盟反対、グリーンランド独立とコソボの独立に反対の排外主義的主張が強い。
このデンマーク国民党と、フラームス・ベラング(ベルギーの保守政党)も加盟を発表し、ギリシアの「不満の声」党も参加した。またたくまに79議席となった。これは「7カ国から23人の議員以上の参加」という会派成立条件を満たした。
▼フランスの選挙結果を待っていた
欧州愛国者グループの正式結成が延びたのはフランスの選挙結果を待っていたからだ。
フランスは7月7日の第二回投票でルペンは議席数では第一党をのがしたが、得票率は37%で第一位である。議席数が確保できなかったのは第二党と第三党が連合して、ルペン勝利を阻んだからで、大統領選挙のシステムとまったく同様である。
しかしルペンは「勝利は延びただけだ」と意気揚々、記者会見で語った。
フランスの総選挙結果は以下の通り。
政党 獲得議席(増減) 得票率
~~~~ ~~~~~~~~~ ~~~~
NFP 188(+57) 26・3% (左翼)
ENS 161(▼76) 24・7% (マクロン与党)
RN 142(+53) 37・1 (ルペン)
LR 48(▼10) 6・2 (共和党)
他 38(▼21) 5・6
フランスのルペン「国民連合」、ならびにサルヴィーニ率いるイタリアの「同盟党」もこの新しい議会内会派「欧州の愛国者グループ」に加盟した。フランスは「欧州愛国者グループ」の最大派閥となって会派議長を兼ねる。
EU議会はややこしい仕組みとなっていて保守政党が一会派に勢揃いというわけにはいかず、イタリアのメローニの集団とポーランドの正義党などは別に「ECR」を形成、リベラルな会派「再生ヨーロッパ」と対抗してきた。
またドイツの「AfD(ドイツのための選択肢)」も別会派である。しかしEU議会の議論においては三つの保守会派が連携で、左様路線の暴走を阻止できることになる。
オルバン首相は、長年にわたってEU議会主流派を「ブリュッセルのエリートたち」と激しく非難してきた。
伝統的な家族の価値観を訴え、ウクライナ支援に反対してきた。これらの保守的な政党が集うわけだから議会戦戦術が奏功すれば、ファン・デン・ライアン委員長の再任を退けることも出来る。
欧州の左翼新聞はあいかわらず「極右のあつまり」と蔑視の視点から報じている。日本���メディアは主体性がないから、欧米の論調の複写機。本当に欧州で何が起きているかを知ることは難しいだろう。
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雑記。
最近やらなきゃいけないことがごちゃごちゃとあって、絶えることなく押し寄せてくるタスクに流されて、自分を取り巻く様々な人々のニーズや感情に応えて、そうしているうちに日常の中に自分を失っていることが、よくある。
自分の人生に、世界に、何が大切なことなのか、分かったつもりになっているだけで、しばし立ち止まって深呼吸をして熟考することをおろそかにしているうちに、嵐に煽られて大波に飲まれた小さな舟のように、あらゆるものと一緒に流され、ごちゃごちゃの破片にしがみついて、海を彷徨っているような、そんな気持ち。自分を失うということは。そういうことなんだなって思う。��こか島や陸にたどり着くことをひたすらに願っているけれど、足元はおぼつかず、行く宛もない海を漂流している。
ここ数週間で一気に、複数の人間関係のトラブルに襲われてしまって、心も身体もへとへとになっていたのが正直あって、けれどこれは、「今、起こってくれて本当によかった」とまさに思えるような出来事でもあったなと。全てのことには意味があるなんて浅はかなことを言うつもりはないけれど、これからも長い人生でこのような困難が襲ってくることが度々あるだろうから、そんな時、未来の自分がこれを読んで、過去の自分はこんな風に自分の弱さや欠点を受け入れて立ち上がったのだなと思い返せるようにここに記しておきます。
ぼくにとって、自分の自信となる基盤の一つに「友だち」というものがある。ぼくを支えてくれる友人、良いところも悪いところも受け入れ、認めてくれる友人、楽しい気分にさせてくれる友人、賢い助言をしてくれる友人。そういう人たちに支えられ、愛され、囲まれることで、自分は自分というものに価値があると思うようになれたし、孤独や怒りや悲しみを癒してもらえたし、自分は特別な存在だと感じることが出来た。逆に、そんな友人に頼りきってしまったことで、何とか生存ができた、かなり危うい自信や自己承認もそこにあったと思う。
もちろん友人だけではなくて、「そこまで仲良くないけれど遊んだり連絡を取ったりする友だち」もたくさんいた。ぼくのことを面白いと思い、寄ってくる人は後を絶えなかった。ひたすらに褒めちぎってくれる人もたくさんいた。そういう人のほとんどに対して、残念ながらぼくは興味を持てずにいたけれど。寄ってくる人があまりにも多すぎたし、またそういう人が「寄ってきやすい」雰囲気を自分は出していたんだと思う。今だって、好意を示してくれる人に対して、瞬時に判断して「ぼくはあなたには特に興味はありません」と面と向かっていうことは難しくてとてもできやしない。それは意地悪なことではないか、と思ってしまう。でも、境界線を引くことは自分や他人を傷つけないためにとても大事なことだし、その練習をすることは今からだって遅くはない。
人は他人に期待を寄せてしまう。好きでも、嫌いでも、「もっとこうして欲しい」という要望を持ってしまう。でもぼくたちは、そんな誰かの身勝手な要望には応えなくても良い。そんな義務はどこにもないし、応えなかったところで「意地悪」だとか「冷たい」だとか批判されるのはおかしな話だし、むしろそういう評価を一方的に与える人が納得いくような態度や反応を模索することは無駄だなと。ぼくたちに与えられた時間やエネルギーは限られていて、それを誰か自分の大切な人に使わずに、頭を悩ませてくるような人に使ってしまうのは実にもったいないことだと思う。
大好きなりんちゃんに「友だち関係って難しいよね。こちらから縁を切って、また切って。そんなことをつい最近何度かしてきてしまったような気がする」というメッセージを送ったのは、りんちゃん自身もまた、友人関係で悩んでいたからというのもあった。りんちゃんとその友人の関係はぼくにはよく分からない。りんちゃんからの話しか聞いてないから、何が真実かそうでないかは分からない。けれどわかっていることもある。それはりんちゃんが悩んでいたこと。そしてりんちゃんからは、これまでも何人かの友だちと、ケンカしたり、一方的に嫌われたり、友情が終わってしまったりというようなことがあり、不仲になってしまった経験があることを聞いていた。まさに今の自分と同じで。自分もまた、ケンカしたり、一方的に嫌われたり、一方的に嫌ったり、以前に感じていた友情が消えてしまったことを感じたり、お互いに少しずつ心の距離が離れたり、そういう経験をしてきたから、心の傷がどれほど深く、今もそれは時折痛むのだということを身をもって知っている。
りんちゃんはすぐに「あっちゃん、ご飯に行こう!」とメッセージをくれたので会いに行ってきた。会って話を重ねるときには、実際にはぼくが一方的に話すだけじゃなくて、りんちゃんの相槌が入ったり、共通の友達のはなしをしたり、りんちゃんの近況の話をしたり、話はあっちへ行ったり、こっちに行ったりもしたけれど、だからこそぼくは思い切りのんびり、自然の流れで、自分のペースで話したいことを話せた。そしてりんちゃんがこう伝えてくれた。
「俺たちの人生は一度きりで、あっちゃんには自分を幸せにすることにまずエネルギーを使うしかないよ!余っている時間や余力があれば、そこから他の人へ回していけば良い。好きな友だち、明るく楽しく話せる友だち、対等にインスピレーションを与え合える友だち、あっちゃんのエネルギーやパワーを吸い込んでやろうとして近づいてくる吸血鬼に割くべき時間やエネルギーなんてこれっぽちもないっていうこともう一度思い出して!」
最後はなぜか長くて熱いハグをしてくれて、帰りの電車に乗っているぼくにメッセージをくれた。
「今は困難の時期だけど、必ずすぐまた人生を楽しめるようになる時がくるよ。好ましくない状況が人生に暗い雲を落とさないよう、悲しみを手放して、愛をもって生きてね。俺があっちゃんを支えるから!」
彼は、人間関係のいざこざで精神的に参ってしまった人や困った人が、一体何を欲しているのか、すべてわかっていたのだと思う。そして、自分が経験してきたことの中でできるだけのことをしてあげようと思ったのだと思う。これがまず、ぼくが得た一つの答えだった。
好きな友だちといれば良い。愛してくれる友だちといれば良い。自分が困っているときにこそ、最も暖かで強い手を差し伸べてくれる友だちといれば良い。全員と友だちでいる必要はないし、友人は少なくても良い。最悪、ひとりだって良い。
同じ日に、ぼくがいつもインスピレーションを受けている方も、今のぼくにとってぴったりなことを話していた。
「自分自身との関係性を見つめ直す努力をしていく中で、大切なことは自分を信じること。自分の心や意図を信じること。自分を信じるときに、他の誰かが何を言おうが、他の誰かがどう解釈しようが、そんなことはどうでも良い。例えば自分��、心の底から素直な気持ちで、最も忠実に、愛をこめて、自分にできる最上な素敵なことをしたとして、それでも誰かが誤解したりしてしまうこともある。それが起こった時、わたしたちの”自分自身との関係性”が試される。
自分の自尊心や価値を、誰かの手に委ねさせてしまったり、他人の意見や視点を気にすることで、わたしたちが自分自身をどう考えるかにすら影響を与えさせてしまうことには、危険が潜んでいるとわたしは思う。もちろん、誰かが言うことの中に真実がある場合もあるけれども、単にその人たちがその人たちの世界の中で経験してることを投影しているだけかもしれない。それがどちらかであるかを決めるのは結局はわたしたち自身で、だからこそやはり、わたしたちはまず自分を信じなくてはならない。他の人たちが自分の気分を良くさせてくれたり、価値を認めてくれたり、大切だと言ってくれたり、発言権があると思わせてくれたりすることに頼らないやり方で、自分自身で自分を信じるべき。わたしたちそれぞれがそもそも発言権を持っているのだから。
他人に自分が自分自身をどう思ってるのかを左右されるくらいなら、わたしは孤独でいること、そして自分が自分と繋がっていることを選ぶ。わたしたちは自分自身のことを好きでいなくてはならない。自分のことをもし好きでさえいれば、もし誰かが来て”あなたって素敵ね!”と言ってきたり、または”世界で最も嫌な奴”と言ってきたりしても、どちらにせよそんなことはどうでも良いこと。自分が自分であることを知っているから。それが一番大事なことで、それがすべての原点。わたしはいつもその原点に返ってくる。」
また、このような投稿もしていた。
「わたしは様々な種類の悲しみの一つには友情の喪失がありました。その時は、わたしの心にはとても耐えられないほどのものだと思い込んでいました。今、振り返ってみると、それらすべてが起こったことにとても感謝しています。それらを経験することはわたしにとって重要なことだったのです。
わたしの自尊心はそれまでになかったほど低いものでした。不健全な友情関係から逃れる方法を教えてくれる��は誰もいません。もうとっくに断ち切らなければならなかった友情関係や恋愛関係があったのに、誰かを傷つけるのが怖くてそれをできずにいました。しかし結局は自分自身を、もはや自分が誰だか分からなくなってしまうほどに傷つけることになってしまいました。他の人のためにたくさんのスペースを空けてしまったせいで、自分自身へのスペースがなくなってしまったのです。自分自身を見失っていると感じました。自分が不安定だと感じました。
この過程の中で、自分の人生やスペースにいて欲しいと感じている人たちは皆、未来へ向かって歩んでいることに気づきました。自分をもっと信じて、自尊心を高めるよう、背中を押してもらったのです。このことによって、わたしの存在を認めてくれるような人々に対して、自分もより良い人間になれるのだと気づきました。
わたしが得た一番の教訓は、喪失は必ずしも悪いものではないということだと思います。それは時に必要なことでさえあります。わたしたちは一旦離れながら成長して、また仲が戻ったり、または別々に成長して、人生の全然違う方向へと辿り着いたりするのだと思います。しかし、誰かが自分の人生から去ることで、むしろ自分自身がもっと自分と強くつながり、もっと確かで、もっと自分になれることができるなんて、なんて美しいことなのでしょう。真実を告げるこの詩をどうか��ェアさせてください。
『今までに失ったすべてのものたちよ、わたしを自由にしてくれてありがとう』」
りんちゃんと話したり、手記を読んだりすることで、痛みや喪失を経験した方々の言葉に少しずつ自分の魂のけがを治す薬をもらったような気分になったし、ようやく自分の中で新しい道を拓けたような気がした。道というと何だかおおげさに感じるけれど!道というよりは、穴?息ができなかった容れ物の中でのたうち回ったり泣いたりしていたところに、ようやく小さな穴が開いて、新鮮な空気が流れ込んだような感覚。モヤモヤと悩んでいた頃にはさっぱり思いつかなかったような潔い気持ちが生まれて、瞬く間に心が強くなった。それは紛れもなく、自分で見つけた答えでもあり、その気持ちはまさに自分のもので、だからこそ自分が自分に再会したかのような気持ちになった。
人は、幸せになるために覚悟をしなければならないこともあるし、その覚悟の中には、あくまで自分にとっての視点で、不健全な関係性というものがあるとして、それを切り離さなくてはならない場合に、それを決意し、実行しなくてはならないという覚悟もあるということ。不健全というのは、有害という言葉でも表現できるけれど、「心地よい関係性」ではないもので、それは誰かが一方的に悪い人だとか害を与えてくるというようなことではなくて、理由は解明できないけれどなんとなくウマが合わなくなってしまったり、ケミストリーがうまいこと起きなかったり、一方の、または両方のテンションがなぜか下がってしまったり、片方がもう片方のエネルギーを搾取するような形の関係性になってしまったり、悪口や愚痴などでしか繋がることができないような仲になってしまったり、嫉妬で相手の幸せを素直に喜べなくなってしまったりなどの関係性で、最初から問題が明らかなものもあれば、時間が経つにつれて性質が変わってしまったり、くっきりと浮き上がったりするものもある。
大親友だった人が、そうでなくなってしまったり、意気投合した人が、実はそこまで気が合う人ではないということに気づいたり。そんな時、ぼくたちの心は失恋と同じくらい、またはそれ以上に傷ついてしまう。友情こそ永遠だと思っていたのに。あんなに楽しかったのに。あんなに心を許せたのに。なぜ変わってしまったのだろう。なぜ心通わすことができなくなってしまったのだろう。こんなことで許せなくなってしまうなんて、ぼくはなんて心が狭いのだろう。と、自分を責めたり、相手を責めたり。
でも、時を戻すことができないように、時間の経過と共に変質してしまった関係性を元に戻すことはできない。時代は変わるように、人間も変わるし、人間と人間の間に生まれる空気感や奇跡や魔法のようなものも変わってしまう。もし、その空気感が居心地の良いものでなくなったり、不健全なものになったりして、手放したいと思うものになってしまったなら、それは手放すべきで、それに対して怒ったり、恨んだり、憎んだり、申し訳ないと思ったり、嘆いたり、謝ったり、自己嫌悪に陥ったりする必要はないんだなと。自分を軽薄だとなじったり、人でなしだと落胆しなくても良い。ひとつの美しかった時代が終わっただけのことで、これからまた違う時代が始まろうとしているだけだから。
りんちゃんとも、いつかその友情関係が少しずつ変化していって、友達ではなくなってしまう日がくるかもしれない。今そばにいてくれる友だちとも心が離れてしまう日がくるかもしれない。でも、そんな時は昔の奇跡や魔法にすがらずに、頭を高く空に上げ、背筋を伸ばして歩き続けていきたいと思う。今あるこの友情や関係性が美しく、強く、ぼくを何百倍も輝かせ、愛に包み込み、幸福にしてくれたという事実は紛れもないものなのだから。それを失うことは、それが嘘だったことではない。それは確かにそこにあった。過去の幸福や喜びに思いを馳せ、懐かしさに身を浸すことは人間として生きる醍醐味だけど、精神的にやられそうになったら、自分たちが今一番優先しなければならないことを思い出そう。自分を幸せにすること。自分に素直に生きること。自分を大切にしてくれる人の言葉に耳を傾けること。それができれば過去も未来もどうにかなる。どうにかなるんだ。
自分の人生の中で、「友達」や「友人」によって自尊心を保ってきた期間の、なんと長かったことだろう。ぼくを良い気分にさせ、特別な気持ちにさせてくれて、ありがとう。でも、ぼくはその力を使わなくても良いほどに、自分を強く鍛えることができるようになったよ。誰かに褒められなくても、誰かに認められなくても、気持ちが弱ったりしないほどに自分を自分で信じられるようになった。誤解をおそれて自分の気持ちを伝えられなかったり、心の距離ができてしまうのを気にしたりするくらいなら、ぼくは孤独を感じたとしても自分に正直でありたい。そして今のぼくは、自分の持つエネルギーを然るべきところへ使いたいと感じています。
今まで本当にありがとう。
そして、お互いに自由になろう。
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P3 Club Book Shinjiro Aragaki short story scan and transcription.
料理天国、食べたら地獄
······ったく、 何で俺がこんなこと······」
「す、すいません荒垣先輩······っくしゅん!う~げほげほっ」
「ゆ、ゆかりちゃん、大丈夫?」
ここは、寮のゆかりの私室。ピンクのパジャマにカーディガンを羽織り、つらそうに咳き込むゆかりの背を、優しく風花がさすっている。体調不良を押してタルタロスに出撃し、ゆかりはすっかり風邪をこじらせていた。そんなゆかりのベッドの横には、同じく心配そうにたたずむ美鶴と、やや所在なげに立つ荒垣の姿があった。そして荒垣の手には、彼が言った “こんなこと” の成果である、温かそうな料理がトレイに乗って湯気を立てていた。どうやら、ゆかりを心配する美鶴に頼まれ、病人食の定番となる粥を作っきてくれたらしい。
「荒垣先輩って、優しいですよね」
「んな······っ!?ま、まあ、ただの気まぐれだ。気にすんな。さっさと食っちまえ」
風花の素直な言葉に、荒垣はそれだけ言ってぶっきらぼうにトレイを差し出す。
「 うう、ありがとうございます。はふ······」
ゆかりが、一見普通の粥に見えるその料理をスプーンですくい、ぱくりと口に入れた。
「どうだ?岳羽?」
熱くないか、ちゃんと飲み込めるかと、美鶴が母親のように心配げに声をかけるが、その目の前でゆかりの表情がみるみる蕩けた。
「ぅ美味しい~っ!何これ、どうやって作ったんですか? 信じらんないー!」
先ほどまでの苦しそうな様子はどこへやら、あっという間に元気を取り戻したゆかりが、凄い勢いで手と口を動かし、器の中身はさほど間を置かずに空になってしまっていた。
「どうやってつーか、ま······適当だな。普通の粥じゃ栄養が足りねえかと思って、中華風のミルク粥にしてみた」
あっさりと荒垣は言うが、じつはけっこう手間がかかったもの。ニンニク、生姜、ネギのみじん切りをゴマ油でじっくり炒め、米と具---拍子木に切ったニンジンと大根を投入して鶏ガラスープを注ぎ入れる。あとはフタをし、沸騰したら吹きこぼれないよう弱火でことこと30~40分。米が十分柔らかくなったところで、牛乳を入れて塩で味をととのえ、できあがったものがこちらにございます、という感じ。体の免疫力を高める、炭水化物や蛋白質、ビタミンA・B・Cに β カロチンを含む、まさに完璧なる病人食なのだ。
以前から、荒垣の料理はプロ並だと真田あたりが言っていたが、その現物を実際に口にしたゆかりは、想像以上の感動を味わっていた。ゆかりは素直に、その賞賛を口にする。
「適当なんてとんでもない!荒垣先輩、もう最高ですよ!尊敬します!」
「バカ野郎······なに恥ずかしいことを······」
「なーに謙遜してるんですか?食事は人間の基本ですよ。大切なことです。それをしっかりできる荒垣先輩は立派です!もう、他の男連中にも見習わせたいぐらいですよ。人として、料理のひとつもできなきゃ駄目だって、ね」
興奮気味で止まらないゆかりの演説に、そこで突然ストップがかかった。
「ちょーっと待ったぁ!」
「!?じゅ、順平?それに皆も?」
ゆかりの部屋の入り口に、順平を先頭にして寮生の面々、すなわちこの部屋にいなかった全員が集まっていた。順平の足元からはコロマルまでが顔を出している。
「何ごとよ、いったい?」
「いや、あんまりいい匂いなんでな、つい······」
正直に真田が言いかけるが、それを体ごと遮って順平がびしっと指を突きつける。
「ゆかりッチ······貴様はオレを怒らせた!」
「は、はぁ?」
「料理ができなきゃ人として駄目?料理がお上手な岳羽サマは、オレたちが人間じゃないとおっしゃるわけだよな?」
「い、いや、別にそこまでは······。そ、それに順平がまともに料理できないのは事実じゃん」
と、そこで順平は、ちっちっと指を横に振る。
「料理が “できない” と “やらない” は違うんだぜ、ゆかりッチ。それに、オレだけじゃねえぞ、お前が傷吻つけたのはな······」
くくっと、芝居の気まんまんで順平が涙をこらえるように両目を手で押さえた。その言葉に、ゆかりが周囲をあらためて見ると。 「あ」
ベッドの脇で美鶴と風花が、顔を伏せてどんよりと暗い空気をまとっていた。
「い、いや、あの。私······別にそういうつもりじゃ······せ、先輩?風花?」
「ゆえにっ!!」
ぐわっと伏せていた顔を上げ、順平は大いに 盛り上がって高らかに宣言した。
「貴様に料理勝負を挑むっ!!」
「はぁ?」
かくて、第一回巌戸台分寮クッキング王決定戦の開催が決定したのであった (どどーん)
「という訳で、本日の司会はわたくし、アイギスがお送りするであります。いかがでしょう、解説の天 田さん」
「······みなさん、ヒマですね」
「なるほど。では、審査委員長の荒垣さん」
「······ったく、 何で俺がこんなこと······」
順平が宣言した翌々日��ゆかりがすっかり体調を取り戻し、ちょうど日曜ということもあって、ついに料理対決が開催される運びとなった。おそらく仲間内でもっとも鋭敏な味覚を持つであろう荒垣を審査委員長とし、味覚がないアイギスは司会を勤めることになっている。天田も参加をうながされていたが、「なんで僕が料理なんか······小学生に何を期待してるんです?」と一蹴し、解説者の席についている。そして、残る全員が参加者兼審査員というわけだ。
当初、美鶴と風花は徹底的に拒否の構えを見せていたのだが、「お祭りみたいなもんだし」とか、「何ごとも経験だし」とかいう順平の甘言で徐々に態度を軟化させ、ついには「······にイイとこ見せるチャンスなんだけどなー」という、とある個人名を出しての決定的なひと言で、料理対決に参加するよう洗脳、もとい説得されてしまったのであった。
「では、いよいよ競技を開始するであります。最初はゆかりさんからお願いします」
「オッケー!見てなさいよ、順平!」
意気揚々とゆかりが持ってきた料理、それは本人の自信を裏切らない見事なできばえ。見た目からして美味しそうな、幕の内弁当である。卵焼き、焼き魚、かまぼこといった幕の内弁当定番のおかずに加え、小さなハンバーグやチーズチキンカツなど洋風のおかずも入っている。もちろんご飯は俵型に成型され、上にはパラパラと黒ゴマが振りかけられている。
「うん、なかなかやるじゃねえか」
卵焼きをひと口かじった荒垣の評価に、ゆかりがガッツポーズを決め、それに続いて他のメンバ ーも横から次々に箸を伸ばす。
「焼き魚は西京味噌漬けか······いい仕事だ」
「うわあ、このかまぼこの切り方、凝ってる」
「もう、優勝は岳羽で確定か?」
立て続けに上がる賞賛の声に、ちょっと照れたような誇らしいような顔でゆかりが言う。
「あ、でもね。今回は意外なライバルがいたっつーか······私も食べてみたいんだよね、 彼の」
そのゆかりの視線の先にいるのは、自己主張が足りない気味の現場リーダーの姿。だが、前髪で隠され半分しか見えない顔に、常にはない自信がかすかに滲んでいるような気もする。
「では、続いてお願いしましょう」
アイギスに促され、2番手の料理が運ばれる。
「おお······!」
それは、ちょっとしたレストランで出してもおかしくないアサリとトマトのパスタ、ボンゴレ・ロッソであった。さっそく審査委員長の荒垣が、フォーク一本で器用にパスタを巻きつけて、ぱくりと口に入れる。
「ちょっとパスタが柔らかいが、合格点だな」
「どれどれオレにも······おおっ、美味ぇ!」
「アサリとトマトって合うのねー」
意外といえば意外だが、幼い頃に両親を亡くしてひとり暮らし歴も長い彼は、料理の腕は決して���くないのである。ただ、あっさりした性格ゆえか、パスタや丼ものなど簡単に作れるものに限られるというのが弱点といえなくもない。
「で、次は誰だ?」
連続して出される美味い料理に、最初は苦い顔をしていた荒垣も、上機嫌になってきたようだ。やはり、楽しい食事は人を和ませる。もしかすると順平は単に、荒垣と他のメンバーとの間の距離を、少しでも縮めようとして料理対決を企画したのかもしれない。もし、そうだとしたら、その意図は十分に果たされつつあった。
だが。
そんな楽しい雰囲気は、あまり続かなかった。
「······なんだこりゃ?」
「え、えーっと、ラーメンっす」
「カップ麺じゃねえか」
荒垣の前にあるのは、お湯を入れて3分でできるカップ麺だった。ちなみにシーフード味。
「い、いやカップなんすけど!ちゃーんとオレなりの工夫があってですね。荒垣先輩のミルク粥にヒントを得て、牛乳で作ってますっ!」
荒垣がうげっという顔をする。残りの連中も、一様に嫌そうな顔を浮かべている。 「え?え?みんな何だよ?いや、マジ美味い
んだって!」
「たとえ美味くても······料理じゃねえだろ」
「順平さん、失格であります」
どこに置いていたか、アイギスが横にあった鐘をカーンと1回鳴らす。
「いいっ!?そ、そんなぁ······」
がっくりと肩を落とす順平。ただひとり、そのカップ麺をひと口すすった現場リーダーが、うんまあ不味くないよ、といった感じで順平の肩をぽんぽんと叩いていた。
「では、続いて美鶴さん、お願いします」
事態は、破滅に向かって加速していた。
「鴨肉のコンフェ、フォアグラとトリュフ添えだ。素材はすべてフランスから空輸させた」
胸を張って、 豪華な銀の皿を突き出す美鶴の顔には、しかしだらだらと汗が流れていた。皿の上の料理を凝視しつつ、荒垣が尋ねる。
「······鴨は、どれだ?」
「こ、これに決まってるだろう」
「この黒いのは?」
「と、トリュフだ」
「こっちの黒いのは?」
「フォアグラ······だと思う」
「んじゃ、こっちの黒いのは?」
「ええと······付け合せのポロ葱、か?」
聞かれても困る。
下を向いていた荒垣は、凶悪な光を目に宿らせつつ、美鶴に向かってぽつりと言った。
「全部、炭じゃねえか」
「ま、まあ多少火加減を間違えたかもしれないが、素材はいいんだ。食ってないと······」
「食えるかぁ!次だ次!」
世界の終わりのような顔をする美鶴を尻目に、アイギスが鳴らす鐘がかーんと響いた。
「俺は料理などあまりやったことがないからな。変なものを出すのも申し訳ないから、シンジの料理を真似させてもらうことにした」
続く真田の料理は、白濁したスープのようなものだった。どうやら、 荒垣が一昨日作ったミルク粥を参考に作ったらしい。
「順平も、どうせシンジの料理を参考にするならこうするべきだったな。まあ、俺も多少は���己流にアレンジさせてもらっているが」
既に勝ち誇った様子の真田に、荒垣も苦笑しつつ答える。
「��くっ、アキの料理か······そう簡単に俺の味が盗めるもんかよ」
「食べてみなければわからんだろ?」
「わかったわかった。じゃ、いただくぜ」
スプーンで粥をすくい、軽く冷ましてから口へと運ぶ。そして、刹那の間を置いて。
ぶぴゅる。
変な音と同時に、荒垣の鼻と口から白濁液が吹き出した。
「な、な、な、なんだこりゃあっ!!」
「牛乳よりも高蛋白で低カロリーなプロテイン粥だが······筋肉にはいいぞ?」
「食えるかあああああっ!!」
「最後に風花さん、どうぞ」
鐘を鳴らしつつ、 アイギスが淡々と言った。
---それから、5分後。この世のものとは思えない絶叫が、月光館学園巌戸台分寮から響き渡った。付近の住民の通報で、パトカーや救急車が出動したが、とくに事件性はないとのことで早々に引き上げたらしい。ただ、目撃者の証言によると、捜査員や救急救命士たちは一様に、口や腹を押さえていまにも嘔吐しそうな表情を浮かべていたとか。その日、どんな恐ろしいことがあったのか、口を開くものはいない。
「いいかお前らっ!料理の命は火加減!それと塩加減だ!いいな、順平!」
「う、ういっすっ!」
「あと常識だが、プロテインは料理に入れるなよ!わかったか、アキっ!!」
「あ、ああ、わかった」
「つか、山岸!なんでそこでタバスコとか入れるんだ!色を基準にして調味料足すんじゃねえ!味見しろ味見っ!」
「は、はいっ!」
料理対決の翌日。寮のキッチンでは突発料理教室が行なわれていた。こいつらの料理の腕を放置していたら、いずれ人死にが出る。事実、俺は死にかけたという荒垣の命令で、順平、真田、美鶴、風花に対し、マンツーマンで料理を教えることになったのだ。
「······ったく、何で俺がこんなこと······」
そうボヤきつつも、手取り足取り指導する荒垣の頑張りもあり、徐々に全員の料理は “食えなくはない” レベルへと上がっているようだ。
「おら、待て美鶴。焦げそうになったら、一度フライパンを火から降ろして······そうそう。落ち着いてやりゃあ大丈夫だ」
「りょ、了解した」
そんな荒垣の様子を横目で見て、風花はくすりと笑って言った。
「やっぱり、荒垣先輩って優しいですよね?」
その言葉が届いたかどうか定かではないが、荒垣は黙々と料理指導を続けていく。ただ、その横顔には、かすかに笑みが浮かんでいるような気がする。やがて、料理のいい匂いを嗅ぎつけてか、ゆかりたちが同じく笑顔でキッチンへと歩いてくるのが見えた。やはり、楽しい食事は人を和ませる。どうやら、今日の夕食も楽しいものになりそうだった。
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576:名無し:24/09/03(火) 14:07:29 ID:ob.96.L5 思春期入る中学生くらいの頃って、特有の男女対立みたいなのはありがちだと思う 女子「男子ふざけてないでまじめにやって!」 男子「真面目ぶって女子���ぜー!」 みたいな感じの、幼い時期特有の対立 俺が中3の時のクラスでもそういう雰囲気があったんだがみんなある程度弁えてて、 手は出さない、口喧嘩も言ってはいけないラインは踏み越えない、相手を怒らせはしても傷つけない、 みたいな制限はかかってた だけど男子側に一人だけ限度を弁えてないのがいて、女子より優位に立つためなら 傷つくことを平気で言う、机や椅子を蹴り飛ばす、黒板や教卓をデカい音を立つように殴る、女子に向かって物を投げるなど DV男の片鱗を見せていて、よく男子の代表面して女子と対立してたが、男子側からも引かれて一歩距離を置かれてた 行き過ぎな行為に担任が注意もしたが、当時の担任が若くて未婚の女性だったから、舐めて一切聞き入れなかった ある時事件が起きた 俺は詳しい現場を見てなかったんだが、昼休みにDV男子と同類の別クラスのやつがうちのクラスに集まってて、 クラス委員長の気の強い女子と喧嘩になってたらしい 俺は給食当番で教室を出ており戻ってきた頃には喧嘩の終盤だったので何きっかけかはわからないが、 DV男子とその仲間がクラスの男子たちからも遠巻きにされている中、長身のDV男子が下を俯いて肩を震わせる委員長を 見下ろし、罵倒して嘲笑って、取り巻きもニヤニヤしていた 委員長は言い返さず顔を伏せたまま教室を出ていったのを女子の何人かが追いかけ、残ったクラスの男女双方とも いくらなんでもやりすぎ、謝るべきとDV男子に意見していた だけどDV男子は意地悪く笑ってるだけで、むしろクラスから委員長を排除したと武勇伝のように語ってた 掃除の時間が終わっても授業が始まっても委員長は教室に戻ってこなくて、それが原因で喧嘩のことが 担任と学年主任にまで話があがった 学年主任はとても厳しい先生だったので、勉強ができずスポーツ推薦で進学予定だったDV男子の推薦を いじめを理由に取り消した それが決まった日の翌日、DV男子が父親を連れて教室に乗り込んできて朝礼中の担任に怒鳴り声をあげた その際黒板をガンガンなぐり教卓の足を蹴り、ジリジリと担任に迫り、女性の担任を見下す姿はDV男子と瓜二つだった すぐに隣のクラスの担任が駆けつけたが、女性だったので同じように威圧し話を聞かず、 異変に気づいた先生たちが警察呼んだり体育教師を呼んだりして、その間俺達は後ろの扉から教室外に避難させられ、 1時間目をほぼ潰す形でDV親子は連行されていった その日からDV男子は学校に来なくなって、保健室登校してた委員長がクラスに戻ってくるようになった
DV男子が高校進学したのかは知らないし興味もなかったが、その後コロナ禍前に校舎建て替えに際し タイムカプセル発掘のための同窓会があり、そこでDV男子と再会した 皆30代なので年相応の貫禄が出ていたし、結婚して子持ちも多かった だけどDV男子は年齢不詳、顔は確かに老けてるけど服装と言動が稚拙な感じでチグハグだった 明らかに女性たちから避けられてたので、仕方なく男性らでDV男子と話してたんだが、立派な女叩きに仕上がってた 自分の人生が狂ったのは委員長と担任と当時俺を一方的な悪者と決めた女共が原因だと恨んでいた 謹慎処分を受けて卒業式に出られなかったのも大袈裟に泣いて 俺がいるからクラスに行けないと言い張った委員長のせいだと言っていた でも当時を見てた俺からすると、卒業式にまで出られなかったのは明らかに教室に乗り込んできて警察沙汰にしたそいつと 父親が原因だし普段からDV男子の行動は目に余るものがあったうえ、全部見てた他の男性たちの話によると 委員長を傷つけたお仲間が人身御供のようにDV男子に罪をなすりつけたんだから 恨むならDV男子に全責任をなすりつけて逃げ切った男子たちと大事にした自分の父親と過去の愚かな行動であるべきだ 学生の頃のノリで周りの男性も一緒に女子への愚痴で盛り上がれると思ってたようだけど、 そんな思春期特有の異性との衝突は皆とっくに卒業して大人として異性にどう接すればいいか年相応に学んで 経験積んでるから、当時の幼さを恥はしてもその時のことをネタに女性たちを叩こうなんて考えもつかないわ
今年の夏に同級生と会った際にDV男子の話が一瞬出たんだけど、今でもネットで女叩きやってて呆れた 開示請求するって言われたらしくてどうしたら良い?って地元の弁護士事務所で働いてる人に相談があったみたいで 「どうしたらって、どうしようもないだろ」と愚痴ってたわ
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教室で小さく咲いていた君のこと
君の心が砕け散る音が聞こえる
中学を卒業して十五年が過ぎた三十歳の早春、同窓会の席で、俺は小南がすでに亡くなっていることを知った。
俺は焦って思わず死因を訊いてしまったけど、「さあ……病気?」「事故じゃない?」とみんな詳しく知らないようだった。担任だった先生にも尋ねてみたけど、逆に「あいつはもう亡くなったのか」と驚かれてしまった。
俺は伊原と御橋のすがたをとっさに探したけど、幹事によると、ふたりは来ていないとのことだった。
小南が、伊原と御橋にされたこと。そんなの、誰も憶えていないみたいだった。確かに、憶えていたって気分が悪いだけなのかもしれない。
けれど、俺は忘れていない。忘れられず、こんな歳にもなってしまった。
「ありがとう、舞島くん」
一番最後に小南に会った日、彼女はそう言って咲っていた。相変わらず、咲えるはずもないのに咲っていた。手当てもされない手首の傷が、震えていた。
「私の味方になってくれて、ありがとう──」
中学三年生になって、高校受験がストレスになってくる二学期の残暑、小南希子はそのはけ口のようにイジメを受けていた。クラスの人間はみんな抵抗しない小南を蔑んで、特に女子連中はイジメのリーダーの伊原姫奈に従っていた。
俺は正直イジメを苦々しく思っていたものの、割りこんで小南をかばう勇気も持てずにいた。
俺でもできること。先生に言えばいいのかな。でも、あの担任ってそもそも気づいてないのか? 普通気づくだろ。教室で殴る蹴るされてんだぞ。
じゃあ、ほかのクラスの先生に言うか? いや、そうしても結局担任の耳に入って、無視を決めこむかもしれない。先生なんて、役に立たない。
昼休み、弁当を食っていると、小南の弁当を取り上げた伊原が中身をゴミ箱に引っくり返した。教室では失笑が起こる。
笑いたくない。「やめろよ」って言いたい。
なのに、小南がそんなことをされても弱々しく咲っているから、俺も自己嫌悪にさいなまれながら、一緒に弁当を食う奴に混ざって笑う。
笑いたくないときに笑ってしまう。両親が離婚してから、俺はずっとそうだ。平気なふりで笑ってしまう。泣きたくても笑ってしまう。父親が家を出ていく別れ際、やっぱり俺が笑っていると、「お前は、かあさんみたいに人の機嫌に取ってばかりだな」と吐き捨てていった。
十月になって、受け持つ委員の後期を決めることになった。じゃんけんに勝って、どれも特にやりたくないなあ、と悩んだけど、早く決めないと後ろが並び始めたので、適当に図書委員に名前のマグネットを貼った。
図書委員はクラスからふたり出る。もうひとり誰だろ、と見守っていると、うつむきがちに俺の名前の隣にマグネットを貼った女子生徒の名前は、『小南』だった。
後日、学活が委員会に当てられて、俺は小南と並んで図書室に向かった。「何か、小南とは初めて話すな」と俺が緊張しながら言うと、「舞島くんだよね」と小南はやっぱり小さく咲った。名前を把握されていたのかと思うと、ますます小南へのイジメに何もできないでいるのが恥ずかしくなった。
図書委員は、同じクラスのペアで、昼休みと放課後に受付につくのが主な仕事だ��そこで貸し出しや返却の手続きをする。小南はてっきり、ひとりで仕事をさせられると思っていたらしい。初日の放課後、俺が少し遅れて図書室に来て、「遅くなってごめん」と隣の椅子に座ると、小南はぱちぱちとまばたきをした。
「何?」と俺が首をかしげると、「私と一緒なんて、サボるかと思った」と小南が言うので、「何でだよ」と俺は苦笑した。「一緒に頑張ろ」と笑みを作ると、小南はめずらしく嬉しそうに咲った。
図書室は静かに、が決まりだけど、俺と小南は抑えた声でいろんな話をした。イジメのことも話題に出た。「私が嫌だって言えないから」と小南は言った。
「嫌なのに、もう、嫌だって言うのも怖くなっちゃった」
俺はそんな話をする小南に、咲わなくていいよ、とせめて言いたかった。泣きたいなら泣けばいい。俺はそれを疎んだりしないし──
よく見つめてみると、小南は委員の仕事も教室での勉強も、まじめに頑張っている。伊原に宿題のページを破られたりしても、嫌な顔ひとつせず、宿題をやり直している。あんなにまじめに生きている子なのに、どうして彼女にいいことがないのか、俺には理不尽だった。
秋が深まって、冬服になった制服もなじんできた頃、放課後、小南が図書室の当番に顔を出さなかった。初めてのことではなくて、こういうとき、たいてい小南は伊原につかまっているのだ。
俺は小南が心配でそわそわしていたけど、ひとりなので当番を離れるわけにもいかない。結局十七時まで働いて、荷物が置きっぱなしの教室に向かった。
ドアを開けようをして、がたっとつくえがぶつかる音が教室から聞こえた。誰か残っているのか。もしかして小南──と、伊原たち? 明かりはついていないけど。
俺はおそるおそるドアに隙間を作って、月明かりが射す教室の光景に、目を開いた。
学ランの背中が見えた。紺のスカートをたくし上げられ、女子が白い脚を開かせられている。男子の乱暴な腰遣いで、それが無理やりの行為だと分かった。
「御橋ー、もっとレイプ感出して」
そんな声がして、教室のロッカーに伊原が座っているのに気づく。「こいつ、狭すぎんだけど」と御橋の声がして、伊原はけたけた笑うと「こんなイケメンに処女もらってもらえて幸せだねえ」とロッカーを降りてつくえに顔を伏せる女子の髪を引っ張って顔を上げさせた。
それは、間違いなく、小南で──
俺は息を飲みこんで後退った。
いや、違う。ドアを開けて。声を上げて。やめさせないと。手後れかもしれないけど。それでもせめて、助けないと。
そう思うのに、はっきりそう思っているのに、俺は身を返して階段を駆けおり、上履きのまま学校を飛び出した。
家には誰もいなくて、俺は部屋にこもると、膝を抱えて嗚咽と吐き気をこらえた。ひと晩じゅう、眠ることができなかった。
月光に映った小南は、ついに咲っていなくて、涙を流していた。男の俺には、どれだけの痛みなのか想像もつかない。でも、それはきっと、大切なものを引き裂くような──
翌日、俺は早めに登校して、置きっぱなしのつくえの中身と持ってきた教科書を入れ替えて、宿題をやった。小南は何もなかったように教室に来た。「あいつ、まだ学校来るんだね」という聞こえよがしの陰口に、やっぱり彼女は咲っていた。
しばらく、誰にも言えなかった。でも、あの光景は脳裏から消えるどころか、まざまざと焼きついている。誰も小南があんなことまでされているとは思っていない。ばれるのを待ってみたけど、誰も気づかない。図書委員で一緒に仕事をしていても、小南は相談してこない。
でも俺は知っている。知っているなら、俺がどうにかすべきなんじゃないか?
出口が欲しい。この鬱血する思考の出口が知りたい。
「あ……あの、……小南希子のことなんですけど」
俺がそう話しかけると、初老の男の担任は、眉を寄せて振り返ってきた。その顔で迷惑がっているのは察したが、俺はあの月明かりの元で行なわれていたことを担任に話した。担任は仏頂面のまま、「本人たちに確認してどうすべきか決めよう」と言った。
確認、って。「俺、ほんとに見たんです」と継ぎ足したけど、担任はまともに聞こうとせず教室を出ていった。
俺が突っ立っていると、「今の話ほんと?」という声がかかった。クラスメイトの女子だった。聞かれてた、と焦ったものの、ふと、ここで肯定してみんなに知れ渡ったら、担任も事なかれにできないかもしれないと思った。
俺はうなずき、「伊原が御橋に命令してやらせてた」と言った。するとさすがに彼女は「ひどい」と声を上げ、「何?」「どうしたの?」と彼女の友達が駆け寄ってくる。
そして、あっという間にクラスには、伊原の指示で小南が御橋に犯されていたという話が広がった。
「違うよ。伊原関係ねえし、小南が誘ってきたんだ」
しかし、御橋がそう言って伊原をかばうと、もともと伊原の言いなりで、ルックスのいい御橋のことも悪く思わない女子連中は、俺がひがんだ物言いをしたのだと、すぐに手のひらを返した。御橋と関係したということで、小南への風当たりはさらに強くなった。
レイプされたのに、それをひがまれて、責められて、ついに小南は学校に来なくなった。そして、俺もクラスのみんなが見ている前で、伊原と御橋に謝るよう担任に命じられた。
俺が謝りたいのはこんな奴らじゃない。
俺は、小南に謝らなきゃいけないのに──
冬が近づいてきて、受験がいよいよ騒々しくなる中で、俺はぼんやりしていた。三年生の委員活動は二学期で終了だ。それがなくなれば、本当に小南とつながり��なくなる。
そう思っていたら、図書室の先生が小南が借りたまま返却していない本があるので、手続きはいいから引き取りにいってくれないかと頼んできた。俺はもちろん請け合って、知る由もなかった小南の住所を手に入れることができた。
放課後、雨か雪でも降りそうなほど寒い中、小南の家を訪ねた。マンションのインターホンに出た小南の母親は、希子は誰にも会いたくないと言っていると面会を断ったが、俺の名前を伝えてみると小南が玄関から顔を覗かせた。
「……舞島くん」
「よ、よう」
小南は俺を見つめて、咲う。壊れそうだけど、咲ってしまっている。
「あ、あの──」
「私の家、知ってたの?」
「いや、えと、図書室で借りてた本あるだろ。それ、俺が返しとくからさ。持ってこいって先生に言われた、というか」
「……ああ。あの本。そうだね、返さないとって気になってた」
「持ってこれる?」
「うん。あ、中入って。寒いでしょ」
小南は俺を玄関先に通し、家の中に入っていった。俺は鼻水をすすって、風がないだけであったかいな、とか思う。
小南の家の匂いがして、それは彼女が隣に座ったときに感じた匂いに通じていた。小南の母親がちらりと顔を出して会釈して、俺も頭を下げる。
小南はすぐ戻ってきて、「はい」と本を俺にさしだした。その拍子に左手首の内側が見えたけど、気づかないふりをした。
「この本、おもしろかった?」
「うん」
「俺も読んでみようかな」
「舞島くん、いつもラノベしか読んでなかったけど」
「たまには文学っぽいのも読むよ」
「そっか。うん、おもしろいから読んでみて」
「おう」
俺は本をかばんに入れて、玄関の段差のせいで目線が変わらない小南を見た。小南は微笑んで、「あのね」と穏やかな声で言った。
「ん?」
「ありがとう」
「えっ」
「ありがとう、舞島くん」
「……何、」
「私の味方になってくれて、ありがとう」
小南を見つめた。その瞳を見つめているうちに、俺は泣きそうになってくる。
「そん、な……俺が、黙ってれば、」
「ううん。教室に行かない切っかけになったから、もういいの」
「でも、小南は悪くないのに、みんな」
「私がつらいのに咲ってたのが、悪かったから」
「悪くないよ」
「つらいって言えばいいのに、言えなかったから。舞島くんのおかげで、やっと言えたの。だから、ありがとう」
何で。傷つけたのに。俺は小南を傷つけたのに。なのに、どうして許してくれるんだよ。ありがとうなんて、そんな言葉──
俺には、言ってもらう資格はないのに。
その帰り道、俺はひとり、耐えきれずに泣き出してしまった。冷たい風が当たると、濡れた頬が引き裂かれるように痛かった。
俺は正しくあろうとした。でも、周りがぜんぜん正常じゃなかった。伊原も。御橋も。担任もクラスメイトも学校そのものが。おかしかった。
だから、俺も間違えてよかったのかもしれない。「俺は小南が好きだから、そばにいるよ」って……そんな、ひとりよがりかもしれない言葉を伝えていたら、もしかしたら──
同窓会から数日後、俺はどうしても小南の死の原因が気になり、十五年ぶりにあのマンションを訪ねた。引っ越してるかなあとも思ったが、そこには変わらず『小南』の表札があり、子供のはしゃぐ声がしていた。小南の母親は俺の名前を憶えていて、あのときのように小さく会釈すると、小南の死の経緯を話してくれた。
小南は結婚して妊娠したが、子宮がもろくて母体か子供かどちらかだと言われ、子供を生んで亡くなったのだそうだ。居間に通された俺は、泣きそうになりながら咲って、「小南は俺の初恋なんですよ」と言った。すると、小南の母親も、「あの子も舞島さんの話をよくしてくれたから、そうだったんでしょうね」と涙ぐみながら微笑んだ。
今は旦那も一緒にここに暮らしていて、幼い娘の面倒は祖父母で見ているという。���事だという旦那が帰ってくる前に、俺はその家をあとにした。
小南。最後は幸せだったんだよな。咲えたんだよな。
ああ、そうだといいな。
俺は弱くて何もできなかったけど、お前が心から咲った顔を見たいって、あの頃いつも、そう思ってたんだ。
薄暗い冬が終わり、空には春めいた柔らかい青さが広がり、桜もつぼみをつけはじめている。
FIN
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「ムーンナイトの裏側」を観た感想
※これはうまく纏まらないので、ツイートをほぼそのまま箇条書きで移します。
・マイノリティのレプリゼンテーション、メンタルヘルス、エジプトに纏わる考証/監修。それらの重要性について、じっくり時間を割いて、繰り返し様々な関係者が語る姿。すごくよかった。
・アーサーハロウという悪役の魅力と深みを語る上で、彼の思想は悪であること。そして、物語の核になる“赦し”について。
メイキングでも、はっきり言及されていること、安心する
・「レイラは男の添え物ではない」という言葉、からの彼女の感情/弱さについての言及も。
レイラというキャラクターを、都合のいい「強い女」にはしない、かつ癒し要員として安易に消費しない……という姿勢を改めて感じる。嬉しい。
・しかし、今回のムーンナイトのメイキング。
監督のモハメド・ディアブが繰り返し言及している……パートナーであり共同プロデューサーのサラ・ゴーヘルの言葉/対談とかも、がっつり見たかった聞きたかった………そこは残念だ
・あと、メイキング(アッセンブル)においても……3人目のジェイクは“ネタバレ”的な伏せ方(次回作がはっきり決まってないことも要因かな?)で終わってしまったこと。
製作陣のインタビューのように、解離性同一症(DID)のステレオタイプ描写についての言及や問題共有が……メイキング上ではされなかったことについても、残念だ
・ムーンナイトは傷(トラウマ)と向き合う話であるということ。そして「赦し」の話であるということ。改めて、メイキング観て、とても好きだなあと再確認した。
・コミックからの、3人に砕かれるコンスの描写が入ってたこと。
コンスという「支配者」「父」「神」からの卒業と反逆の物語が主題な続編を観てみたいし、そこにステレオタイプに寄らないジェイクの物語を見出したいので、めちゃくちゃ期待してしまう
・「コンスもマークの別側面かも?病棟こそ現実だった?」などの言及は……原作コミック内の一部描写への目配せと、��続編決まってない&現状MCU本流からは離れた作品」であるからこその可能性への言及なんだろうけど。
その設定も持ってこられたら、ドラマ/MCU版も批判的に観なきゃいけなくなるな、とは思っている。
別のインタビューでは「マーク達が気付いてないジェイクの家族/子どもがいるかも」という……コミックを踏まえた可能性の話なんかも、関係者が冗談混じりに言及しているみたいなので(ドラマ独自の設定から更にそれをやるのは、DIDに纏わる描写/こどもに纏わる描写を扇情的に消費する傾向が強まると思う、ので危ういなと思っている)
あれらはあくまで、ひとつの視点の共有であり、可能性の楽しみであり、コミックファンへの目配せじみた言及である……と思いたい
・先代のコンスの化身であるハロウの存在、レイラ含めた化身達の……圧倒的存在感によって「エジプト神話の神に見出されたという“妄想”に取り憑かれた“異常”な男」というコミック描写からは切り離されている。
その視点とその残酷さは、ドゥアトの病棟描写が引き受けた上で、(若干の曖昧さを残してはいるが)否定している……所が好きなんだよな。MCU版ムーンナイト。
・歴代の化身含めて、コンスは化身が持つ“怒り”に依存する/その拳に理由を与えるが故の“支配者”であり“父を名乗る者”であり“抑圧者”であり……という方向性であって欲しいな。MCU版におけるコンスとマークの“怒り”について。
・上で書いたことについてもう少し書くと、
「コンスを解離性同一症の憑依型側面としてもし扱うなら、レイラやハロウや他の化身達は?ヒーローのレプリゼンテーションの意味は?」となるし、
実在の精神疾患を題材にしながら「夢か現実かは鑑賞者次第」みたいな逃げ/放棄が、この作品でも繰り返されるのか?という。
(若干、鑑賞者の解釈に委ねているような曖昧さはあれども)↑のような放棄で終わらなかった、そのようにはならなかったことが、自分がMCU版ムーンナイトの好きなところなので。
あくまで作品内の一要素として、冥府ドゥアトの中にある可能性?/来世?/影?のひとつという提示のされ方で、あの病棟が出てきたこと。そこが安心したし、好きだなあと……ドラマ版ムーンナイト。
・病棟描写も、病院そのものを貶めない慎重なバランスで描かれていると思う。
アーサー・ハロウが医師として配置されていることで、彼の掲げる「矯正/統合/剪定」の暴力性が垣間見え……かつ最後はそこから抜け出すマークとスティーヴンが「世界の中、社会の中で生きる、共に在ることを選ぶ」というのが、大好きですね。MCUムーンナイト。
・以下は、メイキング鑑賞当時には書いていないことだけど。↑と絡めて書いておきたい(後ほど、個別で記事にしたいとも思う)
精神科の人口あたりの病床数が世界1位であり、世界中の精神病床の5分の1を日本がしめている事実。恣意的な拘禁拘束/強制入院/虐待や暴力が放置され繰り返され……それが“国策”として、政権の利権も関わり、延々と行われている国であるということ。世界の関連機関や国連人権理事会などから、何十年も是正/改善を要求/勧告されながら、デタラメな回答を繰り返し逃げ続けている最悪な国であるということ。
自分の経験含めて。日本という国からこの作品を消費していることを忘れてはいけない/そういった現実から切り離してこの作品を消費したくはないと、強く思うし。
病棟の拘束描写をエモいものとして扱ったり、“健全/統合”なるものを絶対視/当然とするような読み/エモい結末とするような消費とも、自分は距離を置きたい。
(Twitterに2022年6月に書いた感想の一部。抜粋/少し書き足したり整えたりしてまとめたもの。後から更に書き足したり他記事と繋げたりするかもです)
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Twitter上の感想ツイートまとめは↓
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7.15最低賃金上げろデモ
7.15最低賃金上げろデモ
光熱費・物価の高騰が続き、生活困難が広がっています。
高騰する物価・燃料費を背景に満足な食事ができない人が増え、フードバンクには長蛇の列ができています。低賃金労働者が増加し、長時間働く非正規労働者も増え、それにも関わらず貯蓄ができず、将来不安が広がっています。
この物価高騰下であるにも関わらず、給料や時給が十分に上がらず、実質賃金は低下しています。
一方、海外をみると同様に物価高騰が起きていますが、各国は賃金の引き上げ対策を講じています。アメリカのロサンゼルス市では昨年7月に時給15ドルから16.04ドル(約2,161 円)に引き上げられ、オーストラリアでは最低賃金が7月から8.7%引き上げられ時給23.23豪ドル(日本円で約2,230円)となりました。ドイツでも2024年から時給12.41ユーロ(約1,790円)、2025年から時給12.82ユーロ(約1,849円)に引き上げられることが決まっています。
しかし、日本では最低賃金が抜本的に引き上げられる様子がありません。正社員の賃金ですら、最低賃金付近の労働者が増加しています。特に重要な社会サービスを担う介護労働者や保育労働者などのエッセンシャルワーカーの多くが最低賃金レベルで働いています。
最低賃金はかつてのような家計補助的な労働に対する賃金設定とは異なる次元の社会的な影響をもつようになっており、最低賃金の動向は多くの労働者に影響するとともに、貧困や格差の広がりを食い止める役割を担う、そのような社会的位置付けに変化しています。また、最低賃金の地域間格差が広がっており、地方からの人口流失や地域経済の疲弊も問題となっています。
かつてなく最低賃金が重要なものとなっています。
7.15最低賃金上げろデモ実行委員会は、労働組合と市民とが潮流を超えた共同の取り組みで最低賃金の抜本的引き上げと全国一律・最低賃金1500円以上を求め声を上げます。
私たちは、もう、これ以上、生活を切り詰めることができません。これ以上、体を酷使して働くことができません。これ以上、我慢ができません。
最低賃金引き上げの大きな声を広げるために、7月15日、路上で声を上げます。
<7.15最低賃金上げろデモ実行委員会>
~参加団体~
AEQUITAS(エキタス)
全国労働組合連絡協議会(全労協)
最低賃金大幅引き上げキャンペーン委員会
東京春闘共闘会議
新宿アピールデモ実行委員会
全国労働組合総連合(全労連)
国民春闘共闘委員会
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ビッグモーターの話。
いろいろ突っ込みどころが多い事件やから解説していくで。
【ビッグモーターについて】
ビッグモーターは年商7000億円の中古車屋・整備屋や。
今の社長が一代で築き上げた会社で、上場してないからおそらく株式は兼重一族がほぼ全部持っとる、いわゆる同族オーナー企業やな。
年商7000億のオーナー企業は珍しいけどなくはないで。
日本だとオーナー企業で大きいのはサントリー、竹中工務店、森ビル、今治造船とかあるで。
事件の概要は「顧客から預かった車に意図的に傷をつけたりパンクさせたりして、保険屋に不正に金を請求してたのがバレた」っていう話やが、経緯をみていこうか。
【経緯】
2022年から、保険の不正請求問題が損保会社らの間で話題となり始めるが、表立って騒がれず終わる。
2023年7月、この問題が表面化。
問題を知ってまずブチ切れたのが東京海上日動。
自動車保険は、客(ドライバー)が車を壊したり事故する確率を統計学的に計算した上で払う保険料を決定してるんやが、ビッグモーターはズルして本来あるべき金額よりたくさん保険会社に保険金を請求してたんやから、東京海上は損をしたわけやな。
ビッグモーターが独自に特別調査委員会なるものを立ち上げて調査した結果でも保険修理の4割が不正請求やった。
本来、修理部門は壊れたところを直すのが仕事やのに、何故かビッグモーターでは修理部門も「1車あたり14万の収益を上げろ」と命令されてたんや。
収益が上がらんと降格させられたりクビになったりする謎ルールや。
だから意図的に車を破壊して修理費稼ぐしかなくなるのは自明やな。
【特別調査委員会と暴露】
特別調査委員会の調査報告書を保険会社に提出するときに報告書偽造してて、組織的関与を示唆する内容箇所を削除する徹底っぷりをキメた。
さらに国交省から聴取要請があったのに2週間ガン無視キメてたんやで。
しかし過去の被害にあった顧客が多すぎて「ビッグモーターにこんなことされた!」と次々にWebに暴露され、良心を持った社員によって、意図的にタイヤをパンクさせる技法を後輩に紹介する動画が流出したりしたんや。
クソみたいな社風やったわけやから、元社員だけじゃなく現役社員もビッグモーターを恨んでるやつ(=正義の心を持った人)がおったわけやな。
【社長の報酬返上の種明かし】
ビッグモーターは社長が1年間報酬を全額返上し、役員も3ヶ月間数十%返上するって発表した。
「やっと少しは反省したか」「そんなのじゃ足りない」などと大衆は思ったんや。
でもよく考えてくれ、この会社は100%オーナー企業や。
株をたぶん100%兼重ファミリーが持ってるんやから、会社は兼重社長のもんやろ。
給与を返上しても、会社に金が残るんやから、結局兼重社長のもんやねん。
社長が個人と会社2つ財布持ってるだけで、どっちに金を入れておくかの違いでしか無い。
つまり実質的に1円も返上なんてしてない、っていうか、役員にも給料返上させてるから、実は社長は収入はプラスなんよ。
凄いやろこの反省アピールしつつ社長だけ儲ける技術。
見破るまで3日かかったわ。
【損保ジャパンの関与】
ビッグモーターは車を売り修理をするだけではなく自動車保険も一緒に売るから、大手損害保険会社の代理店でもある。年間取扱200億円。
保険の売上金額も鬼の厳しさで、売上が達成できてないと罰金を払わされたりしてたらしいな。
まあ死ぬ気で保険を売ってくれる巨大代理店やから損保各社もヘコヘコするわけや。
しかし200億のうち120億円を損保ジャパンが占める。
日本では東京海上が損保業界首位なのに、ビッグモーターに限ると損保ジャパンがぶっちぎり1位。
不思議よな?
事件を知って、東京海上と三井住友海上は激おこやったんやが、損保ジャパンは当初この問題を「問題なし」と結論づけて有耶無耶にしようとしてたんやで。
本来なら保険金詐欺の被害を被ったはずの立場なのにおかしいやろ?解説しようか。
【損保ジャパンとビッグモーターの蜜月のからくり】
(1)(ビッグモーターから買った車かどうかに関わらず)損保ジャパンの保険加入者が事故を起こす
(2)損保ジャパンはビッグモーターに修理に行くように誘導する(「入庫紹介」と言う)
(3)ビッグモーターは客の車を追加で意図的に破壊する
(4)本来より高い金額を損保ジャパンに請求する。これだけだと損保ジャパンが損してるように見える。
(5)しかし入庫紹介1台あたり、ビッグモーターから損保ジャパンに5人自賠責保険客を紹介する約束がある
(6)自賠責保険は強制保険なので利益は出ないが、損保ジャパンは新規客とのコネクションを得る
(7)損保ジャパンは任意保険をその紹介客に売り込み新規客を取れる
(8)本来より高い保険金を払った当初の修理客は翌年以降の保険等級が悪化し、損保ジャパンに高い保険料を払い続ける
(9)トータルで考えると損保ジャパンは利益を得る
(10)損保ジャパンはビッグモーターに出向者も送り込んでいて、上記を知っていたと推定される
【株式会社武蔵野・小山昇との関係】
ビッグモーター全社員に配られている経営計画書なる社則手帳のようなものがあるが、毎朝の朝礼で「幸せだなあ!俺はツいてる!」と唱和するように促している。
この経営計画書は知床観光船沈没事件でも有名になった小山昇氏率いる株式会社武蔵野が経営コンサルティングで提供しているものと全く同じ雛形・デザインで出来ている。
・朝の謎の唱和
・罰ゲーム制度(ビッグモーター��いう罰金制度)
・生殺与奪権という単語
・環境整備点検なる本部スタッフによる店舗掃除点検の結果での頻繁な人事降格
これらは株式会社武蔵野の小山昇氏が提唱し経営コンサルティングで頻繁に持ち出しているもので、小山氏は自身の大きな取引先としてビッグモーターをロゴ入りで自社サイトで紹介しており、うまくいっているコンサル先としてもこれまで何度も紹介している。
これについては言及しているマスコミが全くいないのは気になる点ではある。関係があったのかどうかをぜひ報道されたい。
【副社長=社長の息子】
今回の不正を悪化させたのは社長の息子である副社長であるという報道もあるが、副社長が早稲田大学卒業後入社したのが日本興亜損保(=現在の損保ジャパン)や。
これは偶然かそうじゃないのか気になるわな。
その時のつながりが関係ないのか、副社長の入社前から蜜月関係があったのかは、これから明らかになっていく。
ビッグモーターに出向者を送り込んでたのは東京海上も三井住友海上もやし、2社も不正を知ってたのかどうかは気になるし、巨大広告主のビッグモーターの悪事を当初黙殺して報道しようとしなかったマスコミも糾弾されるべきではあるわな。
まあこれから誰もビッグモーターに車を持ち込まないやろし、彼らが販売する車も買わないやろし、民間車検場としての認定も国交省が取り消すやろうし、テレビCMも拒否しないとマスコミも叩かれるから宣伝もできんし、普通に考えてまともな営業ができんし潰れるやろな。
今後の流れはよく見ないといけないけど、大衆が巨大企業とマスコミを動かし不正を正すいい例になると思うで。
ちなみに損保ジャパンは旧・安田火災保険や。
バブル期に「ゴッホのひまわり」を58億円で買った会社や。
今も新宿のSOMPO美術館に常設展示されてるから見に行くとええわ。
入場料は1400円、新宿駅徒歩5分やで。
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アフガニスタンの山中に #墜落 した露小型機から120万ドル(約1億8000万円)が盗まれた疑いが浮上している。現地の独立系新聞ハシュトエソブが、地元情報筋の話として伝えた。 同紙によるとこの大金が盗まれた後、#タリバン 暫定政権のハッサン・アフンド副首相の命令で、墜落現場となったバダフシャン州で事件調査委員会が発足した。委員会は同州のタリバン情報機関長官が率いる。 インドのゴアから露モスクワに向かっていた小型機「ファルコン10」は1月21日に墜落した。医療用の引き揚げ便としてプライベートジェットをチャーターしたものだった。搭乗していた6人のうち、パイロット2人と医師2人は助かったが、乗客の実業家夫婦が死亡した。
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神奈川県の茅ケ崎市立小学校で5月、2年生の女子児童が学校内で複数の6年生の男子児童に下半身を触られる性的被害に遭い、保護者が学校側の対応に不信感を募らせている。学校側は被害を認識しながら、その後の学校行事で女児と加害者を鉢合わせさせるなど配慮に欠く対応を重ね、女児が心の傷を負う2次被害にも発展した。児童間の性的被害が表面化するケースは珍しく、性暴力問題に詳しい専門家は「学校現場が被害者保護だけでなく、加害者指導にも責任を持たなければ再犯する恐れがある」と指摘している。 女児の保護者によると、女児は休み時間に友人と学校の図書室にいたところ、6年生の男児3人が近づいてきて、服の上から下半身を複数回に渡って触わられたという。女児が友人とやりとりしたSNSを保護者が見て発覚。学校に連絡し、加害男児3人の保護者との話し合いの場が持たれた。2人は体に触ったことを認め、「女性の体に興味があった。以前も(他の女児に)いたずらしたことがある」と説明したという。 同市教育委員会は神奈川新聞社の取材に「複数の男児が女児の体に触れたことは事実だが、人数や体の部位は言えない」と回答した。また、保護者は茅ケ崎署にも被害を相談。ただ14歳未満の「触法少年」は刑法の定めで刑事罰に問われることはないという。 その後、6月に学校で津波被害を想定した避難訓練が行われ、2年生は上階の6年生の教室に教員の誘導で避難。女児は加害男児と同じ教室に連れて行かれ、男児の姿を見たことから体調が悪化。40度近い高熱を何度も繰り返して学校を欠席することが多くなり、医師からは心的外傷による急性ストレス障害と診断された。 女児は「暗くなると足元から手が伸びてくる気がする」と悪夢におびえ、学校では女性職員の付き添いなしで一人でトイレに行くこともできなくなった。しかし、担任の男性教諭から「トイレまで(加害者が)来るわけないだろ」などと言われ、心の傷を深くしたという。 さらに7月の夏休み前に女児が1人で呼ばれ、複数の教員が加害男児の「反省の言葉」を代読するのを聞かされた。事前に保護者にも市教委にも相談なく行われ、女児は「(男児らに)もう関わりたくない」と再び恐怖心を抱いたという。 市教委は取材に対し、「学校側が良かれと思ってやったことが結果的に女児を傷付けてしまった。学校側の対応に度重なって配慮が足りていなかった」と釈明した。一方、保護者は「学校側は自分たちの保身ばかり。性的被害がどれだけ心を傷付ける重い事件なのか向き合い、調査や他の保護者への公表など再発防止の姿勢を見せてほしい」と訴えている。
茅ケ崎の市立小学校 複数男児が女児の下半身触る 学校の配慮欠く対応で2次被害に発展(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース
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(昔の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている���バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと最近思う。自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分たちは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあげたほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながら���ランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えない���ころのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラ���瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいかなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。ただ自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり��まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。��うん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、���れをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかし��なってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声が��こえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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反撃能力保有と日米同盟現代化 麗澤大学客員教授 江崎道朗
麗澤大学客員教授・江崎道朗氏
劇的に変わる安全保障政策
第2次安倍晋三政権以降、日本の安全保障政策は劇的に変わってきている。
「戦争の放棄」を掲げた現行憲法のもと、日本の防衛政策の基本方針は長らく「国連中心主義」と「対米依存」だった。1957(昭和32)年に閣議決定された「国防の基本方針」は《国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する》が、《外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する》というものであった。いざとなれば国連と米国に守ってもらおう、と考えてきたわけだ。
この国連中心主義と対米依存の防衛方針を変えたのが安倍元首相だった。中国、ロシア、北朝鮮の軍事的脅威を見据えて第2次安倍政権は2013年、日本独自の国家安全保障戦略を初めて策定し、《我が国の能力・役割の強化・拡大》、次いで《日米同盟の強化》《国際社会の平和と安定のためのパートナーとの外交・安全保障協力の強化》などを打ち出した。
注目点は3つだ。第1に国連に頼るのはやめたことだ。第2にいざとなれば米国に守ってもらおうではなく《我が国の能力・役割の強化・拡大》を最初に掲げたことだ。第3に米国以外の国とも安全保障協力を強化する方針を明記したことだ。中国などに対抗するためには米国以外の同志国も増やす必要があるという判断からだ。この方針のもと英国、豪州と部隊間協力円滑化協定を締結した。
自分の国は自分で守る
岸田文雄政権はこの安倍路線をさらに拡大・強化した。昨年12月、国家安全保障戦略を改定し、《我が国を守る第一義的な責任は我が国にある》と明記することで、自分の国は自分で守る方針をより明確に打ち出した。
そのうえで5年間で43兆円の防衛予算をつぎ込んで、《我が国自体への侵攻を我が国が主たる責任をもって阻止・排除し得る能力》を保有するという国家防衛戦略を策定した。《これは相手にとって軍事的手段では我が国侵攻の目標を達成できず、生じる損害というコストに見合わないと認識させ得るだけの能力を我が国が持つこと》を目指すということだ。そのために専守防衛を掲げつつ、《反撃能力の保有》に踏み切った。
この《反撃能力の保有》は、日米同盟の在り方を大きく変えざるを得ない。何しろこれまで日本は専守防衛の立場から相手国への攻撃能力は保有せず、いざというときは米国に反撃してもらうことにしてきた。この「日本は盾、米国は矛」という日米の役割分担は、日本が反撃能力を保有することで変わらざるを得ないのだ。
では、どのように変えていくのか。今年1月、日米安全保障協議委員会(2+2)は共同発表を行い、日米同盟を「現代化」するとして以下5点についてRMC(役割・任務・能力)協議を進めることで合意した。
第1が《同盟における調整》だ。日本がいつ、どのような状況でどのような反撃をするのか、その際、米国はどうするのか、これまで以上に《同盟調整メカニズムを通じた二国間調整》機能を強化せざるを得なくなったのだ。
第2が《平時における同盟の取組》だ。具体的には《日米共同情報分析組織》を発足させるとともに日本の南西諸島を含む地域において平時から日米の施設の共同使用を拡大し、共同演習・訓練を増加させ有事に備えるというわけだ。
第3が《同盟の抑止力・対処力》だ。日本の反撃能力をより効果的に発揮できるようにするためにも《統合防空ミサイル防衛、対水上戦、対潜水艦戦、機雷戦、水陸両用作戦、空挺(くうてい)作戦、情報収集・警戒監視・偵察・ターゲティング(ISRT)、兵站(へいたん)及び輸送といった任務分野》での日米間の協力を深化させるということだ。
激変環境で役割認識を
第4が《宇宙・サイバー・情報保全》だ。日米同盟の現代化に伴い日米の軍事、情報分野での関係が拡大・強化されることになるが、それは同時に米国の軍事機密に日本がより多くアクセスすることを意味する。よって日米両国の軍事機密を盗まれないよう、サイバーセキュリティおよび情報保全を強化する、としているわけだ。
第5が《技術的優位性の確保》だ。有事を前提に、防衛産業の強化と防衛装備品に関する自由主義陣営でのサプライチェーンを強化していくということだ。
内閣改造後、直ちに木原稔防衛相が訪米し、オースティン米国防長官と会談したが、その目的は《日米協力の下での反撃能力の効果的な運用を含め、同盟の役割・任務・能力に係る議論を加速することを確認》することであった。
確かに憲法は一���字も変わっていない。だが、国家安全保障戦略の策定と反撃能力の保有、そして日米同盟の現代化という形で、わが国の安全保障政策と日米同盟が激変しつつある点にも目を向けておきたいものだ。(えざき みちお)
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ラスト10日
目次
8/7
8/8
8/9
8/10
8/11
8/12
8/13
8/14
8/15
復習
8/16
余談
8/17
8/18(当日)
8/7
苦手を固めるなら今
ということで以下をピックアップ
特殊商品売買
組織再編
過程で一般商品売買を復習
新株予約権付社債もミス
関係ないけど、ブルズとペーサーズの第7戦を観た。
ラストダンスではスティーブカーのスリーポイントで流れ変わったとミラーが証言してるけど、その後もカーがオフェンスチャージをとるところ、ピッぺンが要所でリバウンド、ビッグショット決めていた。
カーのような仕事をしたいなと思った。味方を鼓舞するような。頑張ってる奴は誰も見離さない。
8/8
特殊商品売買の続き
プロ簿記等で手元商品区分法と対象勘定法もチェック
割賦販売は、原価率の特定がミソ
合格情報 第三問対策
TAC 2020 模試
リースの復習
貸し手側は、利息相当が粗利
キャッシュフローは時間取れれば、取れる部分あり。支払利息関連は別建なのに注意。
GTキーを活用する
÷=も 例 5÷=2=
有価証券の保有目的区分
固定資産の償却年数、月数は絶対に間違わない
8/9
共用資産の減損損失の測定方法は未学習?もしくは完璧に忘れていた。
→上記にこだわりすぎて、キャッシュフローや帳簿組織等の時間さえかければできるところを落とした
直前答練の有価証券はまたケアレス
為替手形の処理をミス→仕入/売掛金
連結は拾えるところを、早めに拾う
2018年の模試
本支店は拾えるところだけ拾う
割賦販売も、利益率を使わないところまで追う
対象勘定法の繰越割賦商品=期末未回収原価=期末未回収売価(割賦未収金)−期末未回収利益(繰延割賦売上利益)
社債も月数の間違いに留意
連結のれん算出、評価差額は税効果の有無を必ず確認する
割賦売掛金 戻り商品損失を出す際は前期分には、貸倒引当金のみならず、繰延売上利益もあるので留意
68回過去問。
苦手な本支店で面食らったけど、そこまで難関じゃない。さらっと復習しよう。
減損はまた出そう。大きな単位の場合は、減損損の兆候がない資産グループも、回収可能価額の計算上は引きずられる。
転換社債・区分法もそんなに難しくないので、手を付けたかった。
特に設問の1番初めの問題はかなり簡単なことが多い。
このまま過去問の第一問第二問は対策していこう。
明日は去年の問題を2時間解いてみよう。とにかく時間がなかったことだけ覚えてる。
リトル・フィートのウィリングが名曲過ぎる。久々にクロスオーバーした。
8/10
69回過去問
第三問は、売掛金等簡単なところのケアレスは絶対ダメ
委託販売の積送諸掛の、月初月末の洗替モレ
圧縮積立金の相手勘定は、繰越利益剰余金でよいが、繰延税金負債の相手勘定は当然の如く法人税等調整額
自己株式の処分差損の場合、資本金等増加限度額から控除される
処分差益の場合、その他資本剰余金が計上される
分配可能額は、剰余金と自己株式、自己株式の処分対価、その他有価証券評価差額金の控除まで
のれん等調整額は深追いしない
連結は、連結開始時の純資産じゃなか気をつけること
第67回過去問
減損は、共用資産が絡まなければ個別に判定
貸引の凡ミス
総記法の販売益は貸方残。積送品の借方残と、理論上の月末残(残った個数分)との差額。
夕食後、もう少しやりたかったが、今日はここまで。
みんな、同じ条件じゃないし、少しは買い物・料理して、子供と遊んで寝かしつけるまで含めたうえで、どこまで出来るかが自分に出来る最大限。
子供じゃないんだから。
ボーとしてきたので、明日頑張ります。5時に起きれるかな。
8/11
なんとか5時過ぎに起きて、第1回答練の第三問。
34/50点。
退職給付でケアレス。
社債発行費は5年でOK。
資本的支出の当初の耐用年数もOK。
売掛金、貸引は、やはり時間をかけた割には、2勝2敗。雑収入と売上はOK。
どちらかといえば、当座預金から、支払手形、買掛金をせめたほうよかったかもしれない。
小切手は銀行持ち込みでOK
手形は入金・引き落としの事実が必要
特殊商品売買・組織再編・為替予約・外貨換算等をテキスト3・4で復習
これなら、家族がいてもなんとか出来る
その後、直前答練の第三問復習、30点と意外とミス多し。
減損は割引前将来CFと、使用価値の算出をごっちゃにしない
退職給付の簡便法の費用は要注意。また人件費で処理する場合もある。
資本的支出があった場合の減価償却費の切り分けは要注意
今日は子供が作った弁当を殆ど食べてくれた。
それと久しぶりに聴いたCHVRCHESがめちゃくちゃ良かった。
8/12
第二回答練の第二問で、工事会計と外貨換算会計、本支店会計で18/25
実際に使える時間を考量すると妥当か
ホテルでの缶詰めを画策中
その場合、コピー機をどうしようか。コンビニぐらいしかないか。
今日も、弁当を作って、お風呂にいれて、寝かしつけ。
仕事もあったので、やむなし。
ボブディランの新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』を聴いてたら、とても穏やかで良い内容だった。
8/13
仕事前に昨日の復習
工事損失引当金は、当期末までに見込まれる損失を計上
つまり、その時点での工事利益(工事損失)の累計に対し、完成時までの損失が不足している部分を、その期中に計上しておく
��の影響を受け、通期の工事損失累計を合わせるために、翌期の工事原価は、調整される
その後、第二回答練の第一問、第二問。
キャッシュフローの売上をまちがったため、要復習。
ソフトウェアの売上原価も間違え。
退職給付と資産除去債務はOK。
明日から、ホテルに缶詰めなので、就寝。
8/14
早朝から泊り込みの準備
今日は定時で退社して、どんどん解いていこう
キャッシュフロー計算書の営業収入は、貸倒損失分の控除が漏れていた
ソフトウェアは、販売開始時点の見込販売収益÷販売実績と、単純な年数割の大きい方
翌年度以降は、残存簿価に対し、同様の計算を続ける
出来なかった売価還元法はプロ簿記を参照
値入、値上、値下は簿記上の取引ではなく、経営側だけで行っている処理という部分に納得
逆に、値引・割戻は販売後、想定外の理由で値段を動かしている
売価還元低価法は、純値下げ額を除外した原価率を、期末売価にかけることで、期末簿価について、収益性の低下に基づく切り下げ額を反映させる
値下げ額を除外すると、原価率は下がる。
原価率が下がると、期末簿価も下がる。
結果として、値下げによって生じた収益性の低下を反映できる
イメージ 在庫処分で値下げを実施した場合、通常の売価還元法では、値下げ額を引いて、実際の売価を出しているが、低価法では除外することで、値下げ前の売価を反映できる
結果として、商品評価損で認識する
あまり時間が無いので、形に拘ってる場合じゃない
ガンガン量をこなす
第3回答練 第一問第二問 8/25、13/25
キャッシュフロー見積法の取崩は、受取利息で処理するのを初めて知った。
債権金額−貸引×当初約定利子率
部分純資産直入法は税効果を忘れない
資産除去債務は完答
新株予約権付の取得側の処理、権利行使前の有価証券勘定は、いずれにせよ期首に振戻を行っている
どこかで、今まで解いた答練を復習せねば
まとめて解説みるでいいので
ソフトウェア、やはりデータ入換費用は含めないでOK!
特殊商品売買を解く時間無かった
特殊商品の売買を復習するには非常に良い問題
解ききれなかったものや、イマイチ解説読むだけでは次解けるか自信ないものは、仕訳を書き出してみる
手と頭のイメージが繋がる
ボーッとしてきたので12時就寝
また明日頑張る
8/15
第4回答練の第一問、第二問。8/25、12/25。
会計方針の変更、繰越利益剰余金の相手は売掛金じゃなくて、売上。
他人振出の当座小切手の受領は、現金勘定。
取立依頼時に、当座 / 現金
手形は取立完了時のため留意
社債利息の現金払いはスポットレートでOK
復習
リースの残価保証は、現在価値に含める。償却では残存価額として取り扱う
維持管理費用は、リース資産の計上額に含めるべきものではないので控除して計算する
売上原価対立法では、値引後は売上を修正するだけでOK
キャッシュフローの営業収入は貸引を考慮する
66回はもう一回解いても良いかも
セールスアンドリースバックの資産の計上額は、所有権移転なら実際売却額、そうでなければ売却額と現在価値の低いほう
8/16
2020年のTACの模試
第三問は38/48で手をつけたところはほとんど正解。
一方で70分くらいかけてしまい、為替予約と工事契約を解く時間なし。
キャッシュフロー計算書の、売上債権は貸倒引当金とセット。
借入金の為替予約の場合は、利息分め期末に時価評価する必要がある場合あり
余談
何とか結果を残したいので、視野が狭くなりそう
だけど、目標の日商簿記1級に向けての非常に良いトレーニングになってるのは事実
そして、勉強を続けていく限りは、受ける事はノーリスク
勿論、家族(特に妻)には負担を掛けているので報いたいが
何となくだ��ど、試験委員もそこまで実務に役に立たない、今の時代には必要ない論点を作問するとは思えないので、普段から実務をやっている自分は有利なんではないか。
特に退職給付と、資産除去債務は間違う気がしない
あとは、減損を押さえておきたい
その中で、本質が分かってるかを問うには、比較問題や、推定問題がポイントとなる
ここまでやって、全く手が出ない問題は他の人も分からないと割り切る!
枝葉にこだわらず、加減を知った回答ができるように、今まで解いた問題
特殊商品売買、リース、ソフトウェアの理解を中心に復習していく
時間をついやしてしまった場合も、他の人も同様のはず
意固地にならずに次に進んで行く
さて、午後はもう一度、2時間問題に挑戦
第67回、85点。
総記法の益の出し方、キャッシュフローの貸引の取り扱いをチェックしよう。
8/17
とうとう前日
第68回の過去問に取り組んだが、解答要求に悩んだ箇所が複数あり、特に第三問、本支店、新株予約権付社債
調べてみると、ネット上でも指示不適切である旨も描かれており、悪門の類かと
そこに気付けた事について、前向きに捉えよう
8/18(当日)
朝の復習終了
ここまでやって、分からないところは、安全圏の人を除き、他の人も出来ない
多少失点しても、他で取り返すぐらいのメンタリティで。
自信を持って、ゆっくりと電卓を叩き、答案に記入しよう
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2023年10月7日(土)
三重県紀北町・奥川ファームから隔週に���く定期便、畑無農薬野菜・平飼い有精卵・地鶏・手打十割蕎麦、今回は玄米はお休みした。前回同様、紀伊長島港に揚がった魚の干物も入っている。をを、なんと<伊勢うどん>まであるではないか、恐らく過日私がお取り寄せした記事を読んでのお気遣いであろう。暫くは楽しい食生活になるなぁ、おっと、体重減は意識しなければならぬ。奥川さん、いつもありがとうございます。
5時15分起床。
日誌書く。
涼しくなってきたので、今朝は煮麺をいただく。
洗濯する。
今日と明日は<第13回AIDS文化フォーラムin京都>、実行委員のツレアイは午前8時に自転車で出発する。
職場の<公衆栄養学研究室>のInstagram、<かるしお認定商品>の紹介シリーズでミックスナッツを取り上げている。毎朝朝食にいただくので、試しに注文してみた。
奥川定期便到着、そばを冷凍庫に、卵を冷蔵庫に、大きなキュウリをしょうゆ漬けに仕込む。
AIDS文化フォーラムで展示する<メモリアル・キルト>を車に積み、会場まで運ぶ。M姉とO姉がサポートに来てくれる。
帰宅して、<文楽11月公演>のチケット予約、11/18(土)第2部の最前列をゲットした。
残りご飯を牛丼に仕立てて早めのランチ、これから喜楽館へと向かう。
<新開地・喜楽館>は今週3回目、席に着くとすぐに後から声がかかり、振り向くと東京の落友・Nさんであった。今夜の天満天神繁昌亭の桂千朝独演会を観て、そのまま日帰りされるとか。終演後、新治さんに挨拶して帰路に着く。
桂駅でいつもの揚げ物を買って帰宅、息子たちの夕飯を用意する。
ツレアイは遅れて帰宅、まずは同居猫・ココの点滴だ。一週間前に受診した際に腎機能の衰えを指摘されたので、週一で点滴を再開したのだ。やはり少し元気なく、点滴中も大人しく我慢している。
やっと終わって遅めの晩酌開始、残り物をあれこれ片付ける。
録画番組視聴。
片付け、入浴、さすがに遅い時間にたっぷりいただいたので、体重は300g増。
歩数は足りないが何とか3つのリングは完成、水分は1,550ml。
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