#話の特集 1979年9月号
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話の特集 1979年9月号 表紙=和田誠「色川武大」
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晶文社・広告=話の特集 1979年9月号
「スポーティングライフ入門」戸井十月/「ほんやら洞の詩人たち」片桐ユズル・ 中山容・中村哲 編/「猫と話しませんか」P・モイーズ、深町真理子 訳/「対談 植草甚一」/「スーパーマンが飛ぶ」小野耕世
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人ロケット技術者が米国亡命、ベール脱ぐ極超音速ミサイル
渡部 悦和
英国のタブロイド紙デイリー・エクスプレス(Daily Express)は1月23日、情報筋の話として、中国人ロケット科学者が米国に亡命したために、中国当局に衝撃���走っていると報道した。
この亡命者は大物の科学者で、映画「007」で有名な英国の秘密情報部(MI6)が亡命の手助けをしたと報道されている。
周知のとおり、MI6は英国の対外諜報機関で、国外の政治・経済などの秘密情報の収集・情報工作を任務としている。
亡命した中国人は、有名な国営企業である中国航空工業集団(AVIC)に所属し、中国が誇る極超音速滑空兵器(HGV)である「DF-ZF」(「東風ZF」、NATOコードネームでは「WU-14」と呼ばれている、図1の写真でDF-17と書かれた部分)の開発に重要な役割を果たした科学者だった。
DF-ZFは、弾頭として中距離弾道ミサイル「DF-17」に搭載され、マッハ5以上の高速で飛翔し、射程約1000~1500マイル(1600~2400キロ)の目標を攻撃する極超音速兵器になる。
以下、DF-ZFを搭載したDF-17をDF-17極超音速滑空ミサイルと呼ぶ。
極超音速滑空ミサイルについては、米中露などの主要国の間で熾烈な開発競争が行われているが、特に中国のDF-17極超音速滑空ミサイルの実験は頻繁に行われ、部隊配備されているとも言われていて、米国の専門家の間でも評価が高い。
その情報は、中国にとって極秘中の極秘であり、他国への流出などあってはならないことだ。
さらに亡命した科学者は、DF-ZFのみならず人工衛星の軌道を利用して米国を攻撃する極超音速ミサイル運搬システム「部分軌道爆撃システム(FOBS:Fractional Orbital Bombardment System)」の開発にも関係したという。
つまり、亡命者を確保した米国は、中国の極超音速滑空兵器のみならず、FOBSに関する中国の極秘情報も入手することになる。
これは中国と技術覇権争いを展開する米国にとっての画期的成果になる可能性がある。
今回の亡命事件は日本の安全保障にも影響を与えることなので、簡単にまとめてみた。
▪️亡命の経緯
2021年9月末、亡命した30歳代の中国人科学者は香港の英国情報機関に初めて接触し、中国の極超音速滑空兵器に関する詳細な情報を持っていることを明らかにした。
科学者は、亡命計画が発覚すれば中国に死刑を宣告されることを承知の上で、妻子とともに亡命することを希望したという。
その連絡を受けたMI6のロンドン本部は、情報部員2人と技術部員1人の3人で、香港に向かったが、その際にCIAにも連絡した。
このため、MI6チームには、CIAの2人も加わったという。
MI6とCIAは当初、この科学者が北京の工作員であることを懸念していたという。
しかし、科学者の人物や資格を確認する過程で、この科学者が中国の最新の極超音速兵器開発について、詳細な情報を有していることを確認した。
科学者から提供された技術情報のほとんどは彼の頭の中に入っていたが、技術データを密かに持ち出すことも可能であったという。
亡命希望者は家族とともに英国旧植民地に渡航し、その後ドイツの米軍基地へ、そして英国経由で米国へ飛ぶ脱出計画が実行に移された。
この30代の科学者が西側に逃亡した理由は、イデオロギー的な理由ではなく、中国での極超音速滑空兵器の開発で重要な役割を果たしたにもかかわらず、昇進を拒否されたことへの憤りであった。
自分の才能を認め、もっと高く評価されるべきだという確固たる信念からだった。
共産党一党独裁体制でも人の心をコントロールすることはできなかったのだ。
DF-17極超音速滑空ミサイルについて
亡命者が開発に携わったDF-17極超音速滑空ミサイルについて簡単に紹介する。
DF-17は、中国が世界に誇る極超音速滑空兵器DF-ZFを搭載可能な中国の固体燃料式・道路移動型・中距離弾道ミサイルである。
DF-17 は、DF-ZFの予測不可能な軌道により、敵の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)による迎撃を難しくしている。
DF-17はDF-ZFとともに、2019年10月1日の国慶節軍事パレードで正式に披露された中国初の極超音速滑空ミサイルであり、世界で初めて完全初期運用に入ることになった。
DF-ZFの軌道は低高度に抑制されるため、敵のABMにとって、通常の再突入体よりもはるかに迎撃が難しく、複雑なものになる。
また、滑空することでDF-ZFの機動性が高まり、射程距離が伸びるとともに、潜在的なABMの迎撃を避けるため、さらに複雑なものとなっている。
加えて、DF-17はDF-ZFではなく通常の再突入体(核・非核の弾頭)を搭載することも可能である。
DF-17のプロトタイプの実験は2014年1月から2017年11月までの間に少なくとも9回の試験飛行が行われ、成果を出している。
米国は、極超音速ミサイルの開発において、中国のDF-17に遅れていると認識していて、米国の極超音速ミサイルの開発を加速している。
いずれにしろ、今回の中国科学者の亡命により米国に非常に貴重な情報がもたらされることになるだろう。
部分軌道爆撃システム(FOBS)について
亡命者が関与したFOBSについても説明する。
FOBSは、旧ソ連が1960年代に開発したが、1979年に調印された米ソ間の��2次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅱ)で禁止されたものだ。
図2を見てもらいたい。FOBSでは、発射したミサイルを一度、衛星軌道に乗せ、地球を一回りする前に飛翔体を降下させ目標に突入させるもので、衛星爆弾とも呼ばれる。
FOBSは、米国の弾道ミサイル防衛の弱点を突くシステムであり、ICBMなどの弾道ミサイルよりも対処が難しいと考えられている。
中国は2021年8月、FOBSらしき新型ミサイル実験を行った模様だ。
2021年11月16日に公開された米テレビ局CBSによるインタビューで、ジョン・ハイテン米国統合参謀本部副議長は、「ミサイルは地球を一周し、そこから切り離された飛翔体は、中国国内の砂漠に設営された目標から40キロ離れた地点に着弾した」と話している。
これは中国が2021年8月に実施した実験で、従来の弾道ミサイルに極超音速滑空兵器(HGV)を搭載するのではなく、衛星打ち上げロケット長征を使ってHGVを周回軌道に乗せて地球を一周し、HGVを切り離して目標を攻撃するものだ。
つまり、新型ミサイルは、通常の弾道ミサイルとは違う軌道を採用した。
中国から南に向けてミサイルを打ち上げ、大気圏から宇宙に入り、気象衛星と同じように、南極・北極を回る「極軌道」で地球を一周。再び中国上空に戻ると、そこからHGVを発射し、砂漠の目標近くに着弾させたという。
これにより中国はロケット発射基地から地球全域に対し打撃する能力を持ち、打撃の前の警告時間も短くすることが可能になる。
なお、FOBSは、北極回りの弾道ミサイルに備えた米国の弾道ミサイル防衛(BMD)の弱点である、南極周りの地球周回軌道を利用するケースが多い。
さらに、中国のミサイルは単なるロシアのFOBSのコピーではなく、軌道上から地上へ向けて発射されたのは、最高速度がマッハ20にも及び不規則な軌道を描くHGVだったのだ。
▪️北朝鮮もFOBS技術保有の可能性
FOBSについては、中国やロシアの専売特許ではなくて、北朝鮮もその技術を保有しているという情報がある。
電磁パルス攻撃(EPM攻撃)の研究で有名な米国のピーター・プライ博士によると、北朝鮮はFOBSの実験を行い、その技術を持っている可能性があるという*1。
北朝鮮は 2012年12月12日、衛星「光明星3号(KMS-3)」の発射と周回に成功した。
そして、2016年2月7日には衛星「光明星4号(KMS-4)」の発射と周回に成功した。
その衛星軌道は、ソ連が米国に対して高高度電磁パルス(HEMP:High-altitude EMP)攻撃を行うために開発した「部分軌道爆撃システム」の軌道と類似している。
つまり、北朝鮮のロケットは、米国の方向(北方向)ではなく、南の方向に打ち上げられ、南極軌道上の衛星となりスーパーEMP弾を運んだ。
「スーパー EMP衛星」は、米国の対弾道ミサイル防衛体制の手薄な南方向から米国に接近し、���州をHEMP攻撃の影響圏に置く最適な高度を周回している。
今や、北朝鮮は、スーパーEMP衛星で米国を含む地球上のすべての国を攻撃する能力を備えていることになる。
以上のような分析は我々日本人には馴染みがないかもしれないが、注目すべき分析であることを強調しておく。
そして、今回の中国人科学者の亡命事件は、北朝鮮のFOBSにまで焦点を当てる結果になった。
北朝鮮は、FOBSのみならず、HGVに似たミサイルの発射実験を行っている。中国のみならず、北朝鮮の動向にも警戒が必要な理由がここにある。
*1=Peter Vincent Pry,“North Korea EMP Threat-North Korea’s Capabilities for EMP Attack |EMP Shield”
科学者亡命の影響
科学者の亡命は、中国のみならず米国や日本にも大きな影響を与えるであろう。
人民解放軍を研究してきた私にとって、今回の亡命事件で今まで分からなかったことが明らかになるだろうという期待感がある。亡命の影響を以下に列挙する。
①米中露を始めとして多くの国々が最先端兵器開発の焦点としている極超音速滑空兵器HGVについて、中国の技術レベルが明らかになるであろう。
中国のHGVの技術が本当に米国の技術を超えたものなのか。HGVの命中精度はどの程度のものなのか。地上に存在する大きな固定目標に対してであれば命中するかもしれない。
しかし、動いている艦艇(例えば米海軍の空母)が目標であるならば、本当に命中するのか。この点に関して私は懐疑的に見ている。
たとえ停止中の艦艇が目標であったとしても、マッハ5以上の極超音速で不規則な飛行をしながら、目標に本当に命中するのか。中国の技術レベルを知る絶好のチャンスだ。
②米国や英国は、亡命科学者からもたらされた情報をもとに、HGVの開発を加速することができるかもしれない。
③FOBSやHGVは、中国やロシアのみならず北朝鮮も開発を行っており、その技術の一部を保有している可能性がある。
日本の安全保障を考えた場合、中国、ロシア、北朝鮮の連携に対して、日米英の連携を深めるべきであろう。
④中国にとって科学者の亡命はショッキングな出来事である。
流出するHGVなどの技術情報を無効にする措置を取るには最低2年はかかると言われている。この間に、日本もHGVの開発に目途をつけるべきであろう。
▪️おわりに
今回の亡命事件は、米国にとっても日本にとっても良いチャンスである。
特に日本は、このチャンスを最大限に利用して、人民解放軍をはじめとする中国情報の入手に努め、日本の防衛を強化するべきであろう
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名前左側の数字が改名回数である。 1969年2月 立川談志に入門。前座名、1.立川ワシントン。談志に入門した理由として本人は、当時落語協会会長であった6代目三遊亭圓生が会員の落語家に対して「弟子取り禁止」を通達しており、その意に反して弟子を受け入れていたのが談志だけだったため、と語っている。 1972年 破門。桂三枝(現:6代桂文枝)門下に移籍、2.ジョニー三ノ介の名前で漫談家として活動。 数ヶ月で3.桂三ノ介と改名。 1977年 4.桂三Qと改名。 1979年 談志門下に戻る。 同年11月 5.立川談トンと改名。二ツ目昇進。 同年 6.立川カメレオンと改名。談志より「志ん生の改名記録(18回)を抜け!」という命令が下る。 1980年 7.立川レーガン(当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに由来)と改名。 1981年4月 8.立川丹波守と改名。 1983年5月 9.英国屋志笑と改名。 1983年 談志一門が落語協会を脱会するが、協会のスパイとして残留を命じられ10.立川レフチェンコ(元KGBのスタニスラフ・レフチェンコに由来)と改名、その後小さんに除名され本人も脱会、英国屋志笑から立川レフチェンコに戻した後、1984年に11.立川世之介と改名。 12.立川フルハムロード(三浦和義の経営していた輸入雑貨店に由来)、一週間だけ立川世之介に戻り、1985年に13.立川小錦(当時話題を呼んだ大相撲力士小錦に由来)に改名。 1986年 14.快楽亭セックス及び15.立川マーガレット、これは「セックス」という高座名がNHKからクレームがついてNHKでのみ「立川マーガレット」を名乗っていたという逸話がある(浅草キッドの玉袋筋太郎と共にNHKでのみ強制的に改名されたケースとして有名)。 1989年 元号が昭和から平成になるに伴い16.立川平成と改名。なお、川嶋紀子婚約報道の渦中、渋谷ジァン・ジァンなどアンダーグラウンドな場では「立川紀子」を名乗っていた。 1990年 国立演芸場若手花形演芸大賞で金賞 1991年 国立演芸場花形演芸大賞金賞銀賞の集いで年間特別賞を受賞。 1992年9月 17.2代目快楽亭ブラックを襲名し真打昇進。
快楽亭ブラック (2代目) - Wikipedia
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『大きな屋根 建てる──釜石市民ホールTETTO 2013-2019』刊行記念 写真家と建築家、編集者のトーク奥山淳志×ヨコミゾマコト×富井雄太郎
ものごとに懸命に取り組んでいる時、その記録は後に残りにくいものです。また、私たちの記憶は曖昧です。
9年前の東日本震災で使用できなくなった岩手県釜石市の市民文化会館に代わる新しい市民ホール建設の過程を記録した写真集ができました。まちの中に、突然空き地ができて建築工事が始まっても、それまでそこに何があったのか、すぐには思い出せません。毎日のように前を通っていたにもかかわらず。写真集をつくり、釜石の皆さんにお渡しすることで、釜石のまちの歴史の一断面として、人々の表情、時の空気を後世に伝える役割を担えれば、と考えたのです。まちも建築も一人でつくることはできません。人だけではありません。地勢や気象などもかかわってきます。あまりにも当たり前すぎて、普段見流しているそのことを、具体的な物にしておきたいと思いました。震災では、形のあるものないもの、とてつもなく多くのものを失いました。その一方で、得られたものも少なからずあるように思えます。それは、元々私たち自身の内側にあって、災害をきっかけに表に現れてきたものではないかと感じています。写真家の奥山淳志さんや編集の富井雄太郎さんとも、あらためてそのような話をしたいと思っています。この機会を一人でも多くの方々と共有させていただければ幸いです。(ヨコミゾマコト)
■『大きな屋根 建てる──釜石市民ホールTETTO 2013-2019』 「釜石市民ホールTETTO」の工事の始まりから終わりまで、そして完成の瞬間やその後の日常、釜石の風景、人々の表情を、写真家・奥山淳志が捉えた。建築家の頭のなかで構想され、多くの人の手と物によってつくられ、やがてまちの風景となっていく。6年にわたる膨大な記録。
奥山淳志 Atsushi Okuyama 1972年大阪府生まれ、奈良県育ち。京都外国語大学卒業後、出版社に勤務。1998年岩手県雫石町に移住し、写真家として活動を開始。以後、東北の風土や文化を撮影するほか、人間の生きることをテーマにした作品制作をおこなう。受賞歴に、2006年「Country Songs ここで生きている」でフォトドキュメンタリーNIPPON2006、2015年「あたらしい糸に」で第40回伊奈信男賞、写真集『弁造 Benzo』および個展「庭とエスキース」(ニコンサロン)で2018年日本写真協会賞 新人賞、2019年第35回 写真の町 東川賞・特別作家賞がある。2019年『庭とエスキース』(みすず書房)を上梓。
ヨコミゾマコト Makoto Yokomizo 1962年神奈川県生まれ。1984年東京藝術大学美術学部建築科卒業、1986年同大学院修了。伊東豊雄建築設計事務所を経て2001年一級建築士事務所aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所開設。2009年東京藝術大学美術学部建築科准教授、2015年より同教授。受賞歴に、2005年「TEM」で東京建築士会住宅建築賞 金賞、2006年「富弘美術館」で日本建築学会賞 作品賞および日本建築家協会賞、2007年「STYIM」で日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞 金賞、2019年「新発田市庁舎」で日本建設業連合会 BCS賞など。
富井雄太郎 Yutaro Tomii 1979年 東京都生まれ。2002年早稲田大学理工学部建築学科卒業。2005-10年新建築社、2012-15年東京藝術大学美術学部建築科 教育研究助手。2010年出版社・millegraph[株式会社ミルグラフ]設立。主な出版物に『ガンツウ|guntû』(著:堀部安嗣、2019)、『国宝・閑谷学校|Timeless Landscapes 1』(写真:小川重雄、解説:西本真一、2017)、『内藤礼|1985-2015 祝福』(2015)、『犬島「家プロジェクト」』(著:妹島和世、2014)、『クリエイティブリユース──廃材と循環するモノ・コト・ヒト』(著:大月ヒロ子 他、2013)など。
開催日 2020年3月9日(月)
時間 19時30分スタート *イベント当日、お店は18時にてクローズ致します 会場
Title 1階特設スペース
参加費 500円+1ドリンク500円
定員 25名
お申し込み 手順1:メールの件名にイベント名、メール本文にお名前(氏名)/電話番号/枚数(1人2枚まで)を明記して、以下のアドレスに送信ください。
手順2:「予約完了」の返信をいたします。(メールの受信設定にご注意ください)。
手順3:参加費は当日会場受付でのお支払いとなります。
お申し込み・ご予約は定員に達し次第締め切らせていただきます
イベント情報の詳細はこちら
from honyade.com https://ift.tt/2uUBk5J
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1969年10月5日 テレビアニメ『サザエさん』放送開始。
(1969年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4)
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1969年7月20日、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。 8月15日-17日、 米ニューヨーク州サリバン郡ベセルでウッドストックフェスティバルが開かれた。1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。
SF作品などを通して夢見ていたことが実現し、若者たちが共有した理想を高らかに歌い上げていた一方、8月9日、米ロサンゼルスで、狂信的カルト指導者チャールズ マンソンの信奉者3人組によって、女優シャロン テートが殺害された。
第二次大戦終戦後、‘科学と民主主義’に夢と希望、理想を抱き、信じ、それは民主国家に限らず世界共通のはずだとも信じて、SFなどの作品や文化を通して楽しんでいた社会は、アポロ月面着陸とウッドストックのあった1969年に一つの到達点に至る。 しかし、ベトナム戦争は止められず、カルトは暴走、麻薬は蔓延。政治的敗北に打ち拉がれる。 何か大きな勘違いをしてたんじゃないかと困惑してたところに、「チャールズ・マンソンがビートルズのファンだった」という話と、その歪んだ愛が凶行にまで至ったということが追い打ちをかける。
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「ちょっとした愉快な解釈の違いは以前からあったけど、どれも無害で、くすっと笑えるものだった……でも、そういうささいな解釈のあと、とうとう最高に恐ろしい解釈が現れた。あの時点から全ておかしくなった。でも僕らのせいじゃない。僕らに何ができるって言うんだい?」
(殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」 ローリングストーン 2019/08/10 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31701/1/1/1)
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日本では学生運動/大学紛争、新左翼運動が全国に波及、社会問題に発展していた。 1969年1月18日-19日 東大安田講堂攻防戦 10月21日 国際反戦デー闘争 11月16日-17日 佐藤首相訪米阻止闘争 11月17日 佐藤栄作首相訪米、11月21日 3年後の沖縄返還合意を取り付ける。
1967年から続いた学生運動、新左翼運動の高揚に一つの終止符が打たれた。
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1970年3月31日 よど号ハイジャック事件
犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発たんとしてい���。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(原文そのまま) という声明文を残している。
(よど号ハイジャック事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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1972年2月19日-28日 あさま山荘事件
2月21日19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。 「私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 」
(あさま山荘事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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2つのニクソン・ショック: 1971年7月15日 第1次ニクソン・ショック; ニクソン訪中宣言、翌1972年2月 北京訪問 1971年8月15日 第2次ニクソン・ショック; ドル・ショック、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、ブレトン・ウッズ体制の終結。
1972年2月21日のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換、冷戦時代の転機となった。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語も生まれた。
(ニクソン・ショック https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF ニクソン大統領の中国訪問 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F)
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当時を知る人たちからは怒られっかもな勝手な解釈で言うと、カウンターカルチャー/ヒッピーカルチャーはビートルズの活動にレペゼンされていて、ビートルズ活動停止-解散のあたりでほとんど終焉。
1970年 ビートルズ解散 (1971年3月12日ビートルズの解散が法的に決定された)。 (ビートルズの解散問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
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何か大きな勘違いをしてるんじゃないかと省みることも困難になってい���。 「総括」という言葉はこの時、怖いものになっていた。
総括とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C (チェック、点検・評価)」に相当する。 日本の新左翼党派である連合赤軍において、「真に総括させるために殴る」ようになりエスカレート、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる要因となった。(山岳ベース事件: 1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件)
(総括 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D) 山岳ベース事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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PDCAサイクルとよく比較されるフレームワークにOODAループ(「観察 Observe」「仮説構築 Orient」「意思決定 Decide」「実行 Act」) がある。 PDCAサイクルは明確な工程がある場合の業務改善に最適なフレームワークであるのに対し、OODAループは意思決定をするためのフレームワークであり、不明確で常に変化していく状況の中で、現状にあるものから最善の判断を下し、即座に行動を起こすことを目的としている。
OODAループを発明したジョン ボイド(アメリカ合衆国の戦闘機操縦士、航空戦術家、軍事著作家)は、朝鮮戦争終戦後、アメリカ空軍戦闘機兵器学校においてF-100の教官を務めた。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、「40秒ボイド」という渾名が進呈された。
(OODAループとは?PDCAサイクルとの違いと具体例 https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213 ジョン・ボイド https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA))
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「解釈で言うと~」みたいな言葉は、事実誤認が見つかった時や、状況が変わったときの修正/変更が可能/必要なポイントに印をつけとくためだったはずが、自分の解釈/思想/気持ちが優先されることで、修正不可能になり暴走、思考サイクル/ループは崩壊する。
1970年代、過激な政治志向が消えた後の「シラケ」の時代になる。 表現においては、敗北後のPTSD(シェル ショック)の心理療法としての「プライマルスクリーム」と「無知のヴェール」に覆われた状態(ジョン ロールズ『正義論』1971年刊)の時代、バカを装って叫ぶ「パンク」の時代へと移行する。
(『正義論』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA))
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戦闘ストレス反応( combat stress reaction, CSR)とは一般に戦闘によってもたらされる心理的な反応をいう。戦争後遺症とも称される。
軍事心理学や軍事医学の研究では戦闘ストレス反応は戦闘を経験した兵士が陥るさまざまな反応を含む幅広い心理的障害(心身症)として定義されており、例えば研究者のノイは戦闘において兵士が被る非物質的な損害であると定義している。
第一次世界大戦において兵士の戦闘ストレス反応を研究した軍医は爆音を伴う塹壕に対する砲撃によってこのような障害が生じると考え、このような症状をシェル・ショック (shell shock)(日本語で砲弾ショック、戦場ショックとも) と呼んだ。しかし後に砲撃に関わらず長期間に渡る戦闘によっても反応が見られることから戦争神経症 (war neurosis) へと呼称は変化する。この兵士達の観察を基にして、ジークムント・フロイトは反復強迫的な外傷性悪夢について研究した。
第二次世界大戦にかけて呼称はさらに戦闘疲労 (combat fatigue) とも呼ばれ、戦闘の期間があまりに長期間にわたると性格や能力に関わらず全ての兵士がこのような反応を示すことが明らかにされた。
朝鮮戦争では従来のような戦闘ストレス反応による損耗は減少し、精神病的損害 (psychiatric casualities) という名称で戦闘ストレス反応に関連する症状を示す兵士が評価されるのが通例となった。しかし研究の焦点は戦闘行動によって示す古典的な戦闘ストレス反応から新しく後遺症に移ることになる。
1980年代にかけてベトナム戦争からのベトナム帰還兵が、社会復帰後に深刻な心理的障害を示すことがアメリカ精神医学会で研究されるようになり、これは心的外傷後ストレス障害 (post traumatic stress disorder, PTSD) と命名された。
(戦闘ストレス反応 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%BF%9C)
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ベトナム戦争: 1973年1月27日 パリ和平協定調印 1974年8月9日 ニクソン米大統領辞任 1975年4月30日 サイゴン陥落
(ベトナム戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89)
ベトナム戦争の終戦を、1969年に一つの到達点に至り崩壊を始めたカウンターカルチャーの「終わり」と見立て(1979年の映画『地獄の黙示録』で流れるドアーズの「ジ・エンド」)、そこから明るい文化がはじまる(『スター・ウォーズ』(新たなる希望)1977年公開)。 一方で、それまでのSFの流れや、暗い1970年代のイメージを汲んで、‘終末後の世界’を描いたものが「サイバーパンク」になっていく。「ロボット/レプリカント(模造品、量産品)の異常変異と反抗」や、「対立する価値観の間での葛藤」または「心理サイクル崩壊後の暴走」などがサイバーパンク作品のモチーフやテーマとして使われていく。
1985年 プラザ合意。日本はバブル景気へ。1980年代は結構明るい時代。
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ざっくり言うと: 1960年代; ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (素敵) 1970年代; ニクソンが中国に行く (ショック) 1980年代; 星の王子ニューヨークへ行く (超おもしろい)
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「サイバーパンク」のビジュアルイメージを強烈に打ち出した『ブレードランナー』(リドリー スコット監督、1982年)と『AKIRA』(大友克洋監督、1988年)という二作品が描いた‘2019年’の50年前である1969年に、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。
SF作品ではテーマの一つとして「社会(都市)の変化により人の心はどう変わるか」という都市論的考察も多く描かれた。
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1964年10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会(第18回オリンピック競技大会、1964東京五輪)は、開催期間には、10月14日のソ連のフルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(東京五輪には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。 東海道新幹線(開会式9日前の10月1日に開業)や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。またオリンピックを見るためにテレビを買ったりと、日本の都市と生活の一つの転換点でもあった。
1964東京五輪開催が決まった1959年(5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された)、その年度の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」というフレーズに、感覚が伴い始めたのが1964年の東京五輪が過ぎた後だった。 1959年度白書の言葉は「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」という事実認識だった。
「1964年以降の高度成長期後半は(1973年のオイルショックまで成長は続いた)、お父さんはバーやキャバレーやダンスホールで騒がず、ケーキとプレゼントを買って、郊外の家に帰っていった。 高度成長期は、暴力的だった祭りが、すこし人がましくなっていく時代だった。元気ではあるが、少しは文化的に暮らそう、と考える余裕が出てきたのだ。戦後の混乱期は、ようやっと1964年を境にきれいにおさまっていったのだろう。」 (2017.11.16 1964・東京オリンピックは「社会の熱気」を持ち去った…!? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53500?page=3)
(1964年東京オリンピック https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF オリンピック景気 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%99%AF%E6%B0%97 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本経済の課題 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2015/05/201502-03_69.pdf)
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戦後が終わり、東京五輪が終わり、‘戦争を知らない子供たち’が若者になり(『戦争を知らない子供たち』作詞: 北山修、作曲: 杉田二郎。1970年発表)、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。1969年は、時代の転換点の一つだった。
その1969年のさらに50年前、ヴェルサイユ条約が締結された1919年、なんかやばいことめっちゃ起きてた。
(cf. 1919年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1919%E5%B9%B4)
「ファシズム」と「共産主義」、「革命」と「戦争」、「20世紀の様相をかたちづくってきたもの」、「科学」と「民主主義」。 それぞれの時代や場所、その時の感情や取り巻く環境、そして言語によって、それらの言葉は何を連想させ、何を変え、何に変えられてきたのだろう。
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新しい知識体系を学ぶということは、「隠されたもの」を語源とする「オカルト(秘学、神秘、超自然的なもの)」に近い側面がある。
英語の「アルジェブラ(代数学)」の語源となる著書や、名前が「アルゴリズム」の語源となったことで知られる、9世紀前半のイスラム科学の学者、天文学者、数学者であるアル=フワーリズミーは占星術師でもあった。 天文学と占星術が分離されるのは17世紀科学革命後であり、分離後も占星術は現代に至るまで引き継がれ、1960年代のカウンターカルチャーにも影響を与え、現在もサブカルチャーのひとつとして残っている。
科学と、疑似科学あるいはカーゴカルトのようなものを峻別するには困難がつきまとい、たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えることで残り続ける。 形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為が、本質からの逸脱を招く。
逸脱を招かないため、逸脱してしまった時に戻るため、困難��打ち勝つため、正直さを失わないために重要な心の領域を分析する心理学的手法も、占星術は導入している。 さまざまな手法の上に独自の解釈を組み込みドグマ化していくというのは、疑似科学やオカルト的言説に限らず、絶対的指導者不在の自ら進んで設立または参加した集団でも、どんなところでも起こりうる。 かつての自分自身の考えと、今また考える自由に、引き裂かれもする。
(フワーリズミー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC 西洋占星術 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 カーゴ・カルト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88)
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ユング心理学で「布置」と訳されるコンステレーションという言葉がある。(constellation「星座」の意。 そこから転じて“点と線で連なっているもの”を表す語としても用いられることがある。)
個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(コンステラツィオーン、独語:Konstellation)という。
(分析心理学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
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一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、それらが一つのまとまりとして、全体としての意味を持ったものに見えてくることがある。あるいは、新しい言葉を手に入れたり、新しい体験をしたことで、認知のパターンが変わり、今までも見ていたはずなのに認識できていなかったものが見えてくることがある。 一方で、混沌を秩序づけ世界を理解可能なものにしたいという感情が、ランダムな物事の中に何らかのパターンを認識させてしまう。データの違いを無視して類似性を強調することにより、誤った結論を推測するという誤謬に陥る危うさがつきまとう。
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振り返ると、転換点ばかり。
僕たちは回転している。
2019年12月 プレリュード
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Photo
MAGAZINE - 2019.10.30
それぞれの全感覚祭 Photo by Katsuhide Morimoto
今年の全感覚祭は様々なドラマを作ったと思います、そこで以下のライターのみなさまに協力いただいきそれぞれの全感覚祭を綴っていただきました。
ご協力いただいたのは以下の方々です、ありがとうございました。
石井恵梨子さん、大石始さん、渡辺裕也さん、田中亮太さん、金子厚武さん
まずはマヒトゥー・ザ・ピーポーのこの文章を読んでみてください。 http://s-scrap.com/3425
前日はひたすら台風の動きを見守っていた。国民の代表者は顔を出すことも何かを語りかけることもなく、ただ「命を守る行動を」とNHKアナの連呼だけが続いた夜。なんとなく共同体に守られている、いざとなったら国が守ってくれる、そんな幻を信じられた時代はとうに消滅していることを思い知る。濁流が溢れ出す光景。無力すぎて泣きたくなる。誰もがこうやって見捨てられ、自己責任のシュプレヒコールの中、無力に死ぬだけなんだろうか。
理想よりも人命を優先して中止になった全感覚祭19 TOKYO。代わりに急遽決まった13日夜の渋谷サーキット「Human Rebellion」は、大袈裟ではなく、最後の希望のように感じられた。ボンヤリした何かに守られるんじゃない。自分から守りにいかなきゃいけない。本当に自由な音楽の鳴る場所を。
渋谷Duoに着いたのは10:30。まだ客足も少なくIDチェックもスムーズに終了。先にやっていたライヴが撤収したばかりで、まだ何も始まってい��い時間帯だ。ぼんやりしていたら目の前に一台のバンが到着し、運転席からはノーベンバーズのマネージャーが。あれ石井さん何やってんの。いや暇だから搬入手伝いますよ。かくして���席スタッフとなる私。エントランスフリーの投げ銭制とは、こんなにも気持ちの滞りをなくすものなのか。演者/スタッフ/ゲスト/一般客という線引きがないから、本当に自分が大事にしたいもの、今やるべきことがスッと見えてくる。普段ライターとしてパスを受け取っている立場に、なぜか少しの羞恥を覚えた。そんなものじゃない、私が欲しいのは音楽だったと改めて気づかされる。そうなれば迷わず財布を開く。いや、先に開いているのは心なんだろう。全感か君もそれなりにかわいく見えてきた。
11時、クアトロ周辺はすでに長蛇の列だ。さながら渋谷に突然現れた巨大ヘビのように、それは秒単位で尻尾を伸ばし続けていた。ラグビー観戦後の酔っぱらいが次々と声をかけてくる。「これ、なんの列?」「今から何があるんですか?」。そんなに知られてないし言ってもわかんない、たぶんあなたたちは全然興味ない世界。だけどDIYで急遽行われることになった奇跡みたいなサーキットだよ。勢い込んでぶちまけたい気持ちをぐっと押さえ、一言「音楽イベントです」と答えておく。そうそうGEZANってバンドの、みたいな補足の声は上がらない。みんな素知らぬ顔のままだ。内緒にしときましょう、という暗号のようでもある。だってこれは彼らの声明をキャッチした人たちだけの祭でしょう? くつくつ笑い出したくなるような黙秘の快感を、渋谷の繁華街の真ん中で、私たちは確かに共有していたと思う。
11:25にクアトロ内へ。大量の客が相変わらず無言のまま5階フロアに吸い込まれていく。そして、突然に開花するみんなの笑顔。フロアでそれぞれがビールを飲み、知り合いを見つけてはしゃぎ、ゆらゆらと身体を揺らしている。なんだよ、みんな騒ぎたくて仕方なかったのか。ずっと我慢して黙秘を続けてたのか。台風直撃のニュースを知ってからほぼ一週間。ようやく全感覚祭が始まる。長かった。いよいよだ。無言のテレパシーみたいに飛び交う気持ちが膨らんでパンパンになった瞬間、爆音のSEとともにメンバーが登場した。そのときの歓声の凄まじさ、神懸ったような爆発力を、私は一生忘れないと思う。
「俺はメディアとかメジャーって枠に期待してないし、それよりは個人の力のほうを信じてる」。
かつてマヒトが語ってくれた言葉だ。狭いオルタナの世界で大きなうねりは生まれにくい。DIYはいいけれど、広めるという点で��どうなのか。そんな問いに対する彼の見解だった。正直、普段関わっている商業��/音楽メディアを全否定された気分だったけれど、じゃあ自分はGEZANと別の世界で生きていくのかと自問するきっかけにもなった。答えはNOだ。属性は何でもよくて、私は今日、ただの個人としてここに来た(この文章を書くことも当初はまったく予定になかった)。みんなそうだろう。自分の意思で渋谷に集まり、それぞれの判断でカネを払い、それぞれのハコに散らばっている。問われているのは「どこに属すか」ではなく、「その選択をした自分を誇れるかどうか」だ。チケット代という設定すら取り払うことで見えてくるもの。選択することで顕になってくる己の輪郭や思想。湧き上がってくるエネルギーの清々しさに自分でも驚く。やっとわかった。これが彼の信じてきたものだったのか。
ライブの詳細やMC内容を逐一書くつもりはない。ただ、GEZAN一発目の始まりが「DNA」だったことは、この全感覚祭「Human Rebellion」の空気を完璧なまでに象徴していた。そのことだけを記しておこう。クソな真実をかき消すファズの眩しさ。マヒトは人差し指で遠くを指すような仕草を何度も繰り返してみせる。もっと遠くへ、誰より高く、イメージひとつで飛んでいこうと誘うように。それは理想論者の夢ではない、リアルな実感を伴う光景だった。どん詰まりの資本主義の裏側、機能不全な民主主義の果て、革命ごっこも終わったロックシーンの極北で、もう、新しい価値観は動き出している。 石井恵梨子
渋谷の路上に群衆が溢れかえる光景を見て、僕は日本各地で目の当たりにしてきた祭りのそれを連想した。祭りとは五穀豊穣の祈願などさまざまな目的を持つが、担い手の魂を活性化し、生命力をチャージするためのものという一面も持つ。その意味では、全感覚祭とは祭りそのものでもあった。入場料は投げ銭、しかもフリーフード。音楽イヴェントとしては前代未聞だろうが、祭りや神事と考えれば決して珍しいことではない。投げ銭とは祭りにおける花代であって、投げ銭ボックスにガンガン札を入れていた彼や彼女は、イヴェントの観覧者という立場を超えて祭りの担い手だったともいえる。
僕が運良く観ることができたのは、切腹ピストルズ、Tohji、KID FRESINO、BLACKSMOKERS、やっほー、折坂悠太、そしてGEZANの2ステージ(林以樂はタッチの差で見逃した)。ただし、どのステージで何を観たかということは大きな問題ではないだろう。あの夜の渋谷にいたこと、あるいはGEZANとその仲間たちが発信し続けたメッセージを受信したこと。それこそが重要だったはずだ。会場に入ることができなかった方々も、全感覚祭という極めて特殊な「祭り」を体験した当事者である。
ひとつのコミュニティーやネットワークが何かに飲み込まれることなく、独立してそこに存在し、なおかつその存在を主張すること――それは社会に対する異議申し立てにもなりうる。そのことをいささか混乱したかたちで証明したのがこの日の全感覚祭だったはずだ。あの夜を体験してしまったからには、もはや傍観者ではいられない。この時代を生き抜くため、僕らは何をしていけばいいのだろう? 大石始
下水から追われたネズミがセンター街を元気に駆け回っている様子をツイッターで確認し、戦々恐々としながら夜の渋谷に着くと、そこに溢れかえっていたのは、とにかく人、人、人。台風の襲来によって室内待機や避難を余儀なくされ、誰もが不安に苛まれた1日を経て、人々はその鬱憤を晴らすように外へ飛び出してきた。そんないつも以上に騒がしい渋谷で、全感覚祭は開催された。 開催中止から、まさかの緊急開催へ。キッズの落胆は一気に歓喜へと変わり、その興奮は渋谷全感覚祭というイベントに、尋常ではない熱気とカオスを生み出していく。そしてこの状況に触発されたのが、他ならぬ演者たちだった。もしかすると、出演した全バンド/アーティストが過去最高のライヴをこの1日で更新してしまったんじゃないか。それくらいにどの演者も凄まじかった。いま自分はとんでもない瞬間に立ち会っているーーそう思えるようなライヴしかなかった。大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそうだったのだ。イベントに対するオーディエンスの期待値の高さと、そこから放たれる熱気によって、アーティストのパフォーマンスはこんなにも変わるのだ。 フード・フリーの会場には行けなかったものの、ラママでカレーをいただくことができたのだが、あれもまた貴重な体験だった。店員さんはこちらにカレーを差し出してくるだけで、投げ銭すら求めてこないのだが、こうした催しで食事をタダで提供されたときの背徳感は想像以上に大きかった(ので支払った)。それにしても、カレー、めちゃくちゃ美味かったです。
最後は絶対に3度目のGEZANで締め括りたかったが、WWW Xはすでに入場規制。あえなくここで俺の全感覚祭は終了…かと思いきや、おなじく入場しそびれた友人数名とたまたま遭遇。まだ遊び足らないよねってことで、そのままコンビニ前で酒盛りがスタート。「今日のミツメ、ちょっと凄くなかった?! XTCみたいだったよね!」「入場規制で結局GEZANいっかいも観れなかったわ…」「あいつ、渋谷に来たけど入れなかったらしいよ。まだそのへんで飲んでるって」「てか、台風ハンパなかったよね」「このまま『ジョーカー』観に行こうかな~」。そんな感じで宴は朝までグダグダとつづき、いよいよ���が降り出したところでお開き。間違いなく、全感覚祭は渋谷の街すべてを飲み込んでいた。
渡辺裕也
2019年の〈全感覚祭・東京編〉で、僕がもっとも観なければいけないと思っていたのは、THE GUAYSだった。はじめに言っておくと、僕は彼らと特に親しいわけではない(キャプテン以外からは認知もされていないはずだ)。ライヴを観た回数も片手で数えられるくらいだし、バンドについてはファンとさえ言えない程度の知識しか持っていない。
そんな僕が、なぜ今回THE GUAYSだけは観ておくべきだと考えたかというと、どのバンドよりも彼らこそがこの〈全感覚祭〉という大きな渦の中心で、その混沌としたエネルギーと対峙している存在だと思ったからだ。もちろん、看板を掲げているのはマヒトやGEZANだろう。だが、十三月のSNSに投稿された準備風景や、THE GUAYS自身の動きを目にするかぎり、彼らがこの祭りにおいて、紛れもなく中枢でもあり、最大の貢献者であることもひとつ事実なのだと思えた。
にも関わらず、メンバーのヒロシの健康上の理由により、大阪開催の〈全感覚祭〉でTHE GUAYSが出演できなかったことはショックだった。いるべきときにいるべき人がいない。そうした役回りをこのバンドが背負うことに、ヒロイズムを投影することは許されなかった。
頑なに悲劇の主人公たることを拒絶する態度は、〈全感覚祭〉も同様だった。台風による中止の決定からありえないスピードでの、渋谷での深夜開催。大阪での出演キャンセルを経て、ようやく復活をはたす今回のTHE GUAYSもまた、十三月チームの〈決して倒されない〉という姿勢の、小さな象徴でもあるように思えた。
THE GUAYS前に出演していたのはLEARNERS。予想通りLa.mamaのキャパでは収まりきらず、会場には入場制限がかかっていた。入場待ちに並ぶと、入り口を挟んだ向かい側には、マークシティのあたりまで、参加受付(=IDチェック)を待つ長い列ができている。24時半頃だっただろうか、新規の受付が終了したことがアナウンスされた。〈え〜!〉と悲鳴があがるなか、パラパラと人が散っていく。そのなかに近付いてくる人がいると思ったら、ライターの金子厚武だった。彼は残念そうな顔をして渋谷の街に消えていった。
さて、LEARNERSが終わると、ぞろぞろと人が退場し、無事にLa.mamaに入ることができた。他会場ではすでになくなっていた、赤色の〈全感覚祭〉ソックスの在庫があったので嬉しい。家族からゲットしてこいと頼まれていたのだった。
小さなライヴハウスのなかには、ほかの小さなライヴハウスでよく見かける顔がやけに多い。〈全感覚祭〉という常軌を逸したとさえ言えそうなハレの場で、わざわざいつもと同じよう場所で、いつもの面々で、いつも観ているバンドを観なくても……とも思ったが、自分と同様に、みんなも、の日のTHE GUAYSを目撃しておきかったのだろう。
そうした、いわばホーム的な空間で、THE GUAYSはほぼ定刻通りに演奏をスタートした。そのライヴは……思っていたよりも普通だった。だけど、それがとても良かった。4人のパンクスがステージに立ち、懸命に楽器を鳴らし、歌を叫ぶ。そして、オーディエンスは手を振り上げたり、笑ったりする。いつものライヴハウスの風景だ。もちろんヒロシやキャプテンのMCは感動的だったが、なんのへんてつもないTHE GUAYSのライヴだったことが、なにより素晴らしかった。カリスマでもない天才でもない僕たちと、いつもの場所。エクストリームさが取り沙汰されることの多い〈全感覚祭〉において、その中心にTHE GUAYSがいることは、すごく重要なことなのかもしれない。そこは、帰れる場所でもあり、何かをはじめる場所でもあるのだ。
田中亮太
〈RAWLIFE〉にしろ〈東京BOREDOM〉にしろ、〈未整理なオルタナティヴが一番面白い〉と思う自分にとって、今年の〈全感覚祭〉は非常に魅力的なラインナップでした。会場と日時が急きょ変更となり、OKAMOTO’SやPeople In The Boxをはじめとした一部のアーティストが出演できなくなったことは残念でしたが、それでも千葉会場の中止決定から迅速にこの日の開催に向けて動いたアーティスト、ライブハウス、スタッフへのリスペクトもあって、〈見たい〉というより〈体感したい〉という想いは余計強まっていました。
ただ一つ問題があって、僕はこの日自分のバンドのライブがあり、IDチェック・入場受付がスタートする22:00はもちろん、トップバッターを飾る23:30のGEZANにも間に合わないであろうことが確実だったのです。ただ、GEZANはこの日複数回出演するから、どれかを見れればよいかと思い、まずは自分も〈全感覚祭〉の出演者の一人であるかのような気分でライブをし、軽く打ち上げをして、一旦家���帰って楽器を置き、〈0:00からのカネコアヤノには間に合うかも?〉くらいの感じで、まずはメイン会場のO-EAST/DUOへと向かったのでした。 渋谷に到着し、そこで待っていた現実はみなさんご存知の通り、O-EAST/DUOの周りをグルッと取り巻く長蛇の列。渋谷に向かう電車の中で、〈ノベンバと原田郁子さん、折坂くんと踊ってばかりの国のどっち見るかで悩む〉なんて呑気をツイートをしてたのですが、他の人のツイートはあんまり見てなかったので、状況が全然把握できてなかったのです。それもあって、この時点ではまだ〈マズイ!〉とも思わずに、むしろ〈すごいことになってる!興奮してきたな〉というサンドウィッチマンのような気持ちになり、〈みんな音楽好きじゃーん!〉という嬉しい気持ちの方が勝っていました。
で、今にして思えば、ここでもうちょっと焦って、〈受付会場の中で一番規模の小さいラママなら、スムーズに受付できるかも〉と機転が利けばよかったのですが、自分のライブの打ち上げですでに軽く酔っ払い、浮かれていた自分がそんな判断をできるわけもなく、なんとなく〈とりあえずクアトロ行ってみるか〉と思うも、���っぱり待っていたのは長蛇の列。〈WWWX行ってみるか〉と思うも、もちろん長蛇の列。ここで初めて〈あ、これやばいんじゃね?〉と思い、やっと〈ラママが一番列短いんじゃね?〉と気づいたのですが、それでもまだまだ鈍感力を発揮し、〈これもう2:20からのDischarming Manが見れればそれでいい!〉とか思いながらラママに向かった自分は幸せなやつでした。
案の定、ラママも受付待ちの人が並んでいましたが、他の3会場に比べれば中蛇の列くらいで、〈よし、ここに並べばとりあえず受付はできそう〉と思ったものの、少し並んでいると周りから、〈他の会場は受付自体終了したっぽい〉との声が。ようやく事の重大さに気づき、〈えー!〉と思ったのですが、冷静に考えれば、キャパが無限なわけあるまいし、受付の時点で入場規制がかかっちゃうことも十分あり得たわけで。〈ガーン〉と思いながらも、ラママの受付枠が残っていることに一縷の望みを託し、さらに待つこと5~10分……結局願いは叶うことなく、〈受付終了です〉との声が聞こえ、ここで僕の〈全感覚祭〉は事実上の終了となりました。
印象的だったのは、〈何だよそれ!もっと早く言えよ!〉みたいなブーイングがほぼなくて、〈だよねー〉みたいな感じだったり、〈もう終電ないからオール確定じゃん!〉と笑いながら話しているような人が多かったこと。もちろん、中にはライブが見れなくてめちゃくちゃ悔しかった人もいたと思うけど、みんな〈全感覚祭〉の心意気に共鳴して、ライブハウスに入り切れないくらい多くの人が集まったことに、むしろパワーをもらってるように感じられたし、もともとそういうパワーを持ってる人たちが引き寄せ合って、この場に集まったってことかもなと思ったりもしました。というわけで、ライブはひとつも見れなかったけど、〈見たい〉というより〈体感したい〉という当初の目標はバッチリ果たしたので、ラーメンを全感覚で味わって帰宅。次はちゃんとライブ見たいけど! 金子厚武
数年に一度、音楽シーンがあるひとつのイベントをきっかけに大きく動くことがある。シーンが動くというよりも新しい流れが認識されるといった方がいいだろうか。その日をきっかけにあるサウンドやシーンが閾値とでもいうべきものを超え、そのジャンルやシーンが広く知られる分岐点、その日を境に一気に広がり始め明確にシーンが浸透していくようなイベントである。1979年の新宿ロフトの東京ロッカーズ、1996年のRAIBOW 2000、1998年のAIR JAM、2004年もしくは2005年のRAWLIFEなどなど、ある程度の年齢の音楽ファンであれば心当たりがあるのではないだろうか?
2019年の全感覚祭は4月の開催決定の報とともに、フードフリーのステイトメントがでた瞬間から特別なものになる予感が漂っていた。去年大阪堺にて2日間開催された全感覚祭2018の異様な熱気や、この企画の中心にいるGEZANのアルバムのリリースからドキュメンタリー映画��公開、Fuji Rock 2019のホワイト・ステージのライブの流れはすべて全感覚祭に向けて進んでいるように思えていたからだ。9月に堺で開催された全感覚祭は本当にいい雰囲気だった。このイベントはもちろん音楽が中心にあるのだけど、今年のフードフリーの効果は絶大だったと思う。ラインナップを見てもらえばわかると思うが、かなりエッジのたったアクトが一日中演奏している。去年もこのイベント独特のラインナップで時折フロアのテンションが上がり、全体にちょっとした緊張感が広がる瞬間があった。しかし今年はあちこちで振舞われる食べ物の掛け声が転換中に響き、みんなが食べ物を手にとって食べ始めると不思議に和んだ空気が流れていて、これまでに感じたことのないやわらかな雰囲気だった。
今年の全感覚祭はひとつの分岐点だったと思う。しかしそれは冒頭に挙げたような音楽的な新しさを打ち出すという意味ではなく、今の時代に対して力強くプロテストの声をあげるのとも違い、自分たちのアイデアに素直に従った結果だったと思う。いまの政治に対して意見を言うことではなく、見に来てくれた人たちに食事を振る舞うことが、なによりも参加した人たちに現実を考えさせたのではないだろうか。フードフリーに協力してくれる生産者や調理してくれる人たちとのやりとりを細かくSNSにアップすることで、これまでアクセスすることのなかった音楽と農業がリアルに近づいて、それぞれの存在をお互いが知ってゆく。その流れを見て、現場で食事をした音楽ファンはどんなアジテーションよりも何かを考えはじめたと思う。
そしていよいよ東京!と、僕らキリキリヴィラ・チームも芋煮のための準備をしていたところ、10月12日の東京は台風の直撃で中止となってしまった。それでもただでは転ばないのが十三月のチーム。13日の深夜、渋谷のライブ会場を複数押さえオールナイトで全感覚祭『Human Rebelion』としての開催となった。どの会場も入場規制ということもあり僕自身も4つのライブしか見れず多くは語れないのだが、これまで一緒に全感覚祭を支えてきたHave a Nice Day!や踊ってばかりの国の出演は全感覚祭のストーリーとして最高だった。なによりも、この夜の渋谷が十三月の夏の風物詩『セミファイナル・ジャンキー』の拡大版だったのはさすがと言うほかない。
与田太郎
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[ exhibition ] 9月6日(金)〜9月7日(土)の2日間、(PLACE) by method にて、第6回を迎える「スイスカルチャートーク VOL.6」及び、ポップアップ写真展を開催いたします。
ECALの略称で知られるスイスのローザンヌ美術大学(University of Art and Design Lausanne)は、研究・創造の優れたプラットフォームとして、世界で大きな注目を集める美術大学の一つです。その学部と修士課程からなる写真学科は、デジタルやウェブ、ネットワークの操作、書籍の新たな形態、多種多様なメディアでのイメージ作りなど、インタラクティブな展示デザインから動画まで、現代写真の応用研究の境界を継続的に押し広げています。 この夏、ECAL写真学科修士課程の13名の学生が、約10日間の東京での滞在期間中にそれぞれのテーマ(プライバシー、食べ物、ロボット、建築、孤独、オタク文化、東京2020など)のもと、リサーチ・制作を行ったプロジェクト「ECAL × Tokyo Photographic Research」。 本プロジェクトは、写真家 小山泰介と、キュレーター 山峰潤也を発起人として、アーティスト、キュレーター、デザイナー、研究者らの水平的かつ有機的な協働によって企画・運営・実行されるプロジェクト「TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH」との協働により実現されます。 今回のポップアップ写真展は、「ECAL × Tokyo Photographic Research」の成果及び、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHを紹介する内容となっております。 また、9月6日(金)19:00より、「スイスカルチャートーク VOL.6」では、ECALの写真学科を率いるミロ・ケレールと、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH代表・写真家の小山泰介を登壇者に招き、本プロジェクトの概要や彼らの活動、さらに視覚と美術そして都市との入り組んだ関係性を探ります。 また、スイスカルチャートーク終了後には、レセプションパーティーを行います。ぜひ、ご参加下さい。 皆さまのお越しをお待ちしております。 ECAL × Tokyo Photographic Research ポップアップ写真展 会期:2019年9月6日(金)〜9月7日(土) 時間:9月6日(金)16:00〜21:00 9月7日(土)10:00〜17:00 会場:(PLACE) by method 住所:150-0011 東京都渋谷区東1-3-1 カミニート#14 地図:http://goo.gl/maps/nzyvr 電話番号:03-6427-9296 スイスカルチャートーク VOL.6 日程:2019年9月6日(金) 時間:18:30開場、19:00スタート(21:00終了) ※トーク終了後、レセプションパーティーが開催されます。 参加費:無料 申し込み:お名前・電話番号を明記の上、スイス大使館 文化・広報部へメールにてご連絡下さい。 メールアドレス:[email protected] 登壇者: ミロ・ケレール(Milo Keller)/ 写真家・ECAL 写真学科長。 1979年生まれのスイスの写真家。建築とデザイン分野の作品で特に知られる。2007年よりECALで教鞭を取り、2012年にはその写真学科長(学士過程)に就任、さらに2016年には写真学科修士課程をECALに設立。Wallpaperや ヴォーグ パリ、イヴ・サンローラン、ヴィトラなどの企業・雑誌の仕事では、アート・ディレクターのJulien Gallico と多くタッグを組む。これまでに彼の写真作品は、ローザンヌのエリゼ写真美術館やニューヨークのアパチュア・ギ ャラリー、そしてチューリヒのデザイン美術館などで展示されている。 小山泰介 / 写真家 1978年生まれ。東京在住。文化庁新進芸術家海外研修制度によって2014年から2年間ロンドンで活動し、その後アムステルダムを経て、2017年末に帰国。生物学や自然環境について学んだ経験を背景に、実験的なアプローチによって現代の写真表現を探究している。主な個展に『WAVES AND PARTICLES』(Metronom / モデナ 2019)、『 SENSOR_CODE』(Seen Fifteen / ロンドン 2018)、『PHASE TRANS』(G/P gallery / 東京 2018)、主なグループ展に、『ソウル・フォト・フェスティバル〈BRAVE NEW WORLD〉』(ソウル市立北ソウル美術館 / ソウル 2018)、『AIMIA | AGO PHOTOGRAPHY PRIZE 2017』(オンタリオ美術館 / トロント 2017)、『あいちトリエンナーレ 2016 トランスディメンション − イメージの未来形』(岡崎シビコ / 岡崎 2016)ほか多数。 www.tiskkym.com/
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Stefan Prins Improvisation Live シュテファン・プリンス インプロヴィゼーション・ライヴ 【演奏】 シュテファン・プリンス(エレクトロニクス) 有馬純寿(エレクトロニクス) 池田拓実(エレクトロニクス) 石川広行(トランペット) 山田岳(ギター、ベース) 【日時】2018年11月3日(土)18:30開場 19:00開演 【料金】2,000円+税(1ドリンク別) 【会場】荻窪ベルベットサン 東京都杉並区荻窪3-47-21 サンライズビル1F 荻窪駅から徒歩約8分 http://www.velvetsun.jp 【出演者プロフィール】
シュテファン・プリンス(エレクトロニクス) 1979年ベルギー生まれ。ベルギーの大学(工学科)を卒業後、アントワープ王立音楽院にてピアノと作曲を学ぶ。リュック・ファン・ホーフェに師事し、マスターを最優秀で修了。その後、ブリュッセル王立音楽院にて音楽とテクノロジーをペーター・スウィンネンに、ハーグ王立音楽院ソノロジー研究所にて研鑽を積むほか、アントワープ大学にて文化の哲学、テクノロジーの哲学を学ぶ。さらに、ハーバード大学にて作曲家ハヤ・チェルノヴィンに師事、博士号を取得。アンサンブル・ナダルのディレクターであり、エレクトロニクスを担当。即興コンサートも盛んに行なっている。近年エレクトロニクス音楽の分野で最も注目を集める作曲家の1人である。若い世代からの人気も高く、その作品はヨーロッパの様々な音楽祭で上演され、多数のアンサンブルがレパートリーとしている。即興演奏は、彼の音楽活動において過去20年近く不可欠な部分であり続けている。collectief reFLEXible、Ministry of Bad Decisionsの一員としても活動する。
有馬純寿(エレクトロニクス) 1965年生まれ。エレクトロニクスやコンピュータを用いた音響表現を中心に、現代音楽、即興演奏などジャンルを横断する活動を展開。ソリストや室内アンサンブルのメンバーとして「サントリー芸術財団サマーフェスティバル」「コンポージアム」など多くの現代音楽祭に参加し、300を超える作品の電子音響の演奏や音響技術を手がけ高い評価を得ている。第63回芸術選奨文部科学大臣新人賞芸術振興部門を受賞。2012年より国内外の現代音楽シーンで活躍する演奏家たちと現代音楽アンサンブル「東京現音計画」をスタート、その第1回公演が第13回佐治敬三賞を受賞した。2016年より読売新聞にて「音楽季評」を連載中。帝塚山学院大学人間科学部情報メディア学科准教授。京都市立芸術大学非常勤講師。
池田拓実(エレクトロニクス) 音楽用または汎用プログラム言語を用いた作曲、演奏活動を行なう。主な作曲作品は東京現音計画、タンブッコ・パーカッション・アンサンブル、実験音楽とシアターのためのアンサンブル、ヴォクスマーナ等の団体、演奏家によって委嘱、演奏されている。近年は作曲補助プログラム「LotusRoot」を開発、近作に用いる他、インターネットで公開している。「DUBHOUSE:物質試行52」「Music as film」等、七里圭監督映画にて音楽制作の他、生演奏付き上映の演奏を担当。木下正道、多井智紀と共に、電気楽器・改造機器・コンピュータ等の電気機器で演奏する「電力音楽演奏会」を不定期に開催。第4回AACサウンドパフォーマンス道場優秀賞。
石川広行(トランペット) 1984年3月17日、北海道室蘭市生まれ。高校時代にジャズと出会い、高校卒業後は札幌で演奏活動を行う。その後、洗足学園音楽大学に入学。ジャズを原朋直氏、クラシックを佛坂咲千生氏に師事する。在学中にバークリー音楽院に留学。タイガー大越氏、Hal Crook氏に師事する。帰国後、洗足学園音楽大学を卒業した後に都内各所で活動中。リーダープロジェクトである石川広行Groupではオリジナル曲を中心に演奏している。これまでの主な参加バンドは、ものんくる、佐藤恭子リトルオーケストラ、廣瀬真理子とPurple Haze、Blacksheep3D、小西遼ラージ・アンサンブル、赤塚謙一Big Band、D-musia Large Ensemble、MALTA Big Band等。
山田岳(ギター、ベース) 現代音楽の演奏を活動の主軸とし、広く内外の作曲家との交友を通して多くの独奏曲や室内楽、協奏曲などの初演に携わる。またアコースティックギター、エレクトリックギターに加え19世紀ギター、バロックギター、リュートなどピリオド楽器の演奏も得意とし、時代にとらわれない幅広いレパートリーを持つ。2017年、ALM Recordsより初のソロアルバム「Ostinati」をリリース。ギターのあらゆる可能性を示した鮮烈な録音として話題を呼び、「レコード芸術」誌にて特選盤に選出、加えて第55回レコードアカデミー賞にノミネートされた。第9回現代音楽演奏コンクール“競楽IX”第1位。第20回朝日現代音楽賞を受賞。桐朋学園芸術短期大学、福山平成大学非常勤講師。
【関連企画】 シュテファン・プリンス レクチャー 10月30日(火)18:30|国立音楽大学合唱スタジオ http://www.kunitachi.ac.jp/event/concert/lesson/20181030_01.html 〈現音・秋の音楽展2018〉 世界に開く窓 エレクトロニクスの新展開 作曲家シュテファン・プリンス初来日 11月5日(月)19:00|牛込箪笥区民ホール http://www.jscm.net/?p=5159 next mushroom promotion vol.14 個展 11月9日(金)19:00(プレトーク18:30)|大阪・豊中ローズ文化ホール http://kinoko2001.music.coocan.jp/CCP.html
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著作[編集] 最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤとシンダール語に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriandとしてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。 トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話)、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』などである。 このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロースからのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』として出版された。 だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年に『ホビットの冒険(The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年から1955年にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語(The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズの仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり』の作者で親友のC・S・ルイスは絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。 1960年代、『指輪物語』はアメリカの多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会��象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。 トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学というジャンルに多大な影響を残した。 文献学のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ』の『巫女の予言』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ』から取られている。トールキンはベーオウルフについての認められた権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。 中つ国の歴史は死の直前まで書き続けている。息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイの助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年に『シルマリルの物語(The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『The History of Middle-earth』シリーズや『終わらざりし物語』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』だけは『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年の第二版で一つの章が抜本的に改訂された���ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。 アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーにあるマーケット大学の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォードのボドリアン図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。 言語[編集] 「アルダの言語」を参照 文献学、言語に関する研究は特に熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の人工言語を発明するにいたった。中でも二つのエルフ語、すなわち「クウェンヤ」と「シンダール語」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、中つ国の詳細な宇宙論や歴史を創り上げた。 トールキンは専門であるアングロ・サクソン語(古英語)や古ノルド語に加えて、他のインド・ヨーロッパ語族の諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語とラテン語、ドイツ語やオランダ語などのゲルマン諸語とその古語(古サクソン語など)、ゲール語やウェールズ語といったケルト諸語、バルト諸語やスラヴ諸語など)、さらにはウラル語族のフィンランド語など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これがクウェンヤの着想を与えたと書いている。 彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及ぼしている。特に"dwarf"(ドワーフ)の複数形を"dwarfs"ではなく"dwarves"としたり、"Elf"(エルフ)の形容詞形を"elfish"ではなく"elvish"と表記する慣例は彼によって生まれた。 派生作品[編集] 1951年のミルトン・ウォルドマンへの手紙(Letters #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。 「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」 多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『トム・ボンバディルの冒険』と『農夫ジャイルズの冒険』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『道は続くよどこまでも』に曲を付けた)だった。1970年代初期、デンマークのマルグレーテ2世は『指輪物語』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。 しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。 1946年の手紙(Letters #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにもディズニー的であると拒否した。 「たれた鼻のビルボ、わたしの意図したオーディンのような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」 また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、1954年にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(Letters #144)。 「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」 そして1958年、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(Letters #207)。 「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」 この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く(「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」)。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。1968年、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権をユナイテッド・アーティスツに売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたりディズニーが関与することを一切禁止した(Letters #13, 1937年)。 「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」 ジョン・ブアマンが70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは1976年に製作の権利をソウル・ゼインツの会社の傘下にあったトールキン・エンタープライズ(英語版)に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。ラルフ・バクシ監督によるロトスコーピング手法で製作され、1978年に公開された。 その後『指輪物語』の配給権はミラマックス社を経てニューラインシネマ社に移り、2001年から2003年にかけてピーター・ジャクソンの監督によってロード・オブ・ザ・リング三部作として初めて実写映画化された。 書誌[編集] 創作[編集] 1936年 Songs for the Philologists, E.V. Gordon他と共著 1937年 『ホビットの冒険』The Hobbit or There and Back again 1945年 『ニグルの木の葉』Leaf by Niggle(Dublin Review誌に掲載) 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1945年 『領主と奥方の物語』The Lay of Aotrou and Itroun, Welsh Review誌に掲載 辺見葉子訳、「ユリイカ」1992年7月号所収、青土社 1949年 『農夫ジャイルズの冒険』Farmer Giles of Ham 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1953年 『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Son 論考 Ofermodとともに出版された 『指輪物語』The Lord of the Rings 1954年 第一部『旅の仲間』The Fellowship of the Ring 1954年 第二部『二つの塔』The Two Towers 1955年 第三部『王の帰還』The Return of the King 1962年 『トム・ボンバディルの冒険』The Adventure of Tom Bombadil 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1964年 『木と葉』Tree and Leaf 『妖精物語について』On Fairy Stories 『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 『妖精物語の国へ』 杉山洋子訳 ちくま文庫 2003年 ISBN 4-480-03830-2 所収 『ニグルの木の葉』 1966年 The Tolkien Reader(『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『木と葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『トム・ボンバディルの冒険』を収録) 1966年 Tolkien on Tolkien (自伝的) 1967年 『星をのんだかじや』Smith of Wootton Major 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1967年 『道は続くよどこまでも』The Road Goes Ever On, ドナルド・スワンと共著 学術的な著作[編集] 1922年 A Middle English Vocabulary 1924年 Sir Gawain and the Green Knight E. V. Gordonと共著、『ガウェイン卿と緑の騎士』の中英語から現代英語への翻訳 『サー・ガウェインと緑の騎士: トールキンのアーサー王物語』山本史郎訳 原書房 2003年 ISBN 4-562-03605-2 1925年 Some Contributions to Middle-English Lexicography 1925年 The Devil's Coach Horses 1929年 Ancrene Wisse and Hali Meiohad 1932年 The Name 'Nodens' (Report on the Excavation of the Prehistoric, Roman, and Post-Roman Site in Lydney Park, Gloucestershire所収) 1932年/1935年 Sigelwara Land parts I and II 1934年 The Reeve's Tale (ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の批評にHengwrt manuscriptを導入して、方言のユーモアを再発見した) 1937年 Beowulf: The Monster and the Critics 1944年 Sir Orfeo 1947年 『妖精物語について』On Fairy Stories(Essays Presented to Charles Williamsに掲載) 1953年 Ofermod, The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Sonとともに出版。 1962年 Ancrene Wisse: the Ancrene Riwleの英語テキスト。 1963年 English and Welsh 1966年 『エルサレム聖書』Jerusalem Bible (翻訳と索引を担当) 没後に出版された作品[編集] 1974年 『ビルボの別れの歌』Bilbo’s Last Song 『ビルボの別れの歌』脇明子訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 1975年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (編集版) - Jared Lobdell編 A Tolkien Compass 1st edition 所収。トールキンが書いた『指輪物語』の翻訳指示。 1975年 Pearl (poem) と Sir Orfeoの翻訳 1976年 『サンタ・クロースからの手紙』The Father Christmas Letters 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳、トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 1977年『シルマリルの物語』The Silmarillion 1979年 Pictures by J. R. R. Tolkien 1980年『終わらざりし物語』Unfinished Tales 1980年 Poems and Stories (『トム・ボンバディルの冒険』、『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『星をのんだかじや』をまとめたもの) 1981年 The Letters of J. R. R. Tolkien Selected and edited by Humphrey Carpenter with assistance of Christopher Tolkien 1981年 The Old English Exodus Text 1982年 Finn and Hengest: The Fragment and the Episode 1982年 『ブリスさん』Mr. Bliss 『ブリスさん』田中明子訳、トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 1983年 The Monster and the Critics and Other Essays (論考集) 1988年 『樹と葉』Tree and Leaf 『妖精物語について』On Fairy Stories 『ニグルの木の葉』Leaf by Niggle 『神話の創造』Mythopoeia 上記すべて『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 1983年–2002年The History of Middle-earth(英語版) シリーズ I. 1983年 The Book of Lost Tales 1 II. 1984年 The Book of Lost Tales 2 III. 1985年 The Lays of Beleriand IV. 1986年 The Shaping of Middle-earth V. 1987年 The Lost Road and Other Writings VI. 1988年 The Return of the Shadow (『指輪物語の歴史』The History of The Lord of the Rings v.1) VII. 1989年 The Treason of Isengard (The History of The Lord of the Rings v.2) VIII. 1990年 The War of the Ring (The History of The Lord of the Rings v.3) IX. 1992年 Sauron Defeated (The History of The Lord of the Rings v.4) X. 1993年 Morgoth's Ring (The Later Silmarillion v.1) XI. 1994年 The War of the Jewels (The Later Silmarillion v.2) XII. 1996年 The Peoples of Middle-earth 2002年 The History of Middle-earth Index 1994年 Poems from 'The Lord of the Rings' 『「中つ国」のうた』 瀬田貞二・田中明子訳 アラン・リー挿画 評論社 2004年 ISBN 4-566-02381-8 1995年 J. R. R. Tolkien: Artist and Illustrator (a compilation of Tolkien's art) 1995年 Poems from 'The Hobbit' 1997年 Tales from the Perilous Realm 「農夫ジャイルズの冒険」Farmer Giles of Ham 「トム・ボンバディルの冒険」The Adventure of Tom Bombadil 「ニグルの木の葉」Leaf by Niggle 「星をのんだかじや」Smith of Wootton Major 上記すべて、『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1995年 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』Letters from Father Christmas 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳、トールキン絵 1995年 評論社 ISBN 4-566-00458-9 1998年 『仔犬のローヴァーの冒険』Roverandom 『仔犬のローヴァーの冒険』 クリスティーナ・スカル、ウェイン・G・ハモンド編 山本史郎訳、トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 2002年 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』Beowulf and the Critics(Medieval and Renaissance Texts and Studies, Volume 248) Michael D.C. Drout 編 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9 2005年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (完全版) - Wayne Hammond and Christina Scull 編 The Lord of the Rings: A Reader's Companion所収。トールキンが書いた『指輪物語』の翻訳指示。 2007年 The Children of Húrin 2007年 The History of The Hobbit 2009年 The Legend of Sigurd and Gudrún 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』 クリストファー・トールキン編、小林朋則訳 原書房 2018年 ISBN 4-562-05588-X 2013年 The Fall of Arthur 2015年 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』The Story of Kullervo 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 2017年 Beren and Lúthien 入手可能な日本語��[編集] 『ホビットの冒険』瀬田貞二訳 岩波書店、1965年 『ホビット ゆきてかえりし物語』山本史郎訳、原書房 1997年。ダグラス・A・アンダーソン注 『ホビット ゆきてかえりし物語 注釈版』原書房(単行判)、文庫判(上下)、各2012年。新版 『指輪物語』瀬田貞二・田中明子訳 評論社、新版1992年 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 『シルマリルの物語』田中明子訳 評論社、新版2003年 ISBN 4-566-02377-X 『終わらざりし物語』クリストファ・トールキン編 山下なるや訳 河出書房新社(上・下) 2003年 ISBN 4-309-20396-5 ISBN 4-309-20397-3 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 「農夫ジャイルズの冒険」吉田新一訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 「星をのんだかじや」猪熊葉子訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 「ニグルの木の葉」猪熊葉子訳 「トム・ボンバディルの冒険」早乙女忠訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 『農夫ジャイルズの冒険』吉田新一訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02273-0 『星をのんだかじや』猪熊葉子訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02270-6 『ビルボの別れの歌』脇明子訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 『ブリスさん』田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1995年 ISBN 4-566-00458-9 『仔犬のローヴァーの冒険』 クリスティーナ・スカル、ウェイン・G・ハモンド編 山本史郎訳 J・R・R・トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 新版2003年 ISBN 4-566-02111-4 「妖精物語とは何か」 「ニグルの木の葉」 「神話の創造」 『妖精物語の国へ』 杉山洋子訳 ちくま文庫 2003年 ISBN 4-480-03830-2 「妖精物語について」 「神話を創る」 「ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還」 『ファーザー・クリスマス―サンタ・クロースからの手紙』ベイリー・トールキン編 瀬田貞二・田中明子訳 評論社 2006年 ISBN 4-566-02383-4 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9
https://ja.wikipedia.org/wiki/J・R・R・トールキン
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小松理虔トークライブ 「復興の今」 地に生きる、地を生かす月刊誌『地域人』(大正大学出版会)
【ジュンク堂 池袋本店】 東日本大震災から9年。 福島から発信をつづける小松理虔さんが「復興の今」を語ります。 小松さんは初の単著『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞を受賞した気鋭のライターで、被災地福島で実践をつづける地域活動家です。 大正大学地域構想研究所編集「地域人」には53号「特集 地域と人を記録する」の巻頭インタビュー、54号の「特集 地域とエネルギー」と連続して登場していただきました。 小松さんとともに、「復興」にとって大切なことは何か?を考えてみませんか。
【講師紹介】 小松理虔(こまつ りけん) 1979年、福島県いわき市小名浜生まれ。 法政大学文学部卒業後、福島テレビ入社。 2007年、中国・上海で日本語教師を務めたのち、日本人向け情報誌を編集。 2009年帰郷。地元でサラリーマンをしながら地域活動を始める。 2015年以降フリーランスに。 2019年、『新復興論』で第18回大佛次郎論壇賞受賞。
★入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくださいませ。 ※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承ります。 ※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。 ※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111)
■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。 ジュンク堂書店池袋本店 TEL 03-5956-6111 東京都豊島区南池袋2-15-5
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写真家 細倉真弓 × 菅付雅信トークイベント「あくまで写真だと主張する写真」 『コマーシャル・フォト9月号』(玄光社)連動企画
写真作家として、東京都写真美術館のグループ展で作品を展示し、海外のフォトフェアにも参加し、ロンドンの写真集出版社から作品集も出しながら、商業写真でも『Them magazine』や『i-D Japan』などのファッション誌や『サイゾー』、そしてファッションブランドMame Kurogouchiのプレコレクション写真などを手がけている細倉真弓は、作家活動と商業写真で同じ美学を両立できている稀有な存在。
『コマーシャル・フォト』2019年9月号(8月16日発売)では、注目の細倉真弓の特集を掲載。 その連動企画として、細倉と特集を手がけた編集者の菅付雅信の対談トークを開催します。 青みがかったユートピアのような世界観を伴って、明快なロジックを持って活躍する彼女の写真観に触れる機会をお見逃しなく。
※同日14時〜開催『佐藤直樹 紙面・壁画・循環―同じ場所から生まれる本と美術の話』刊行記念 本とアートが交差する場所 佐藤直樹 × 小崎哲哉 × 菅付雅信 トークイベント 両方ご予約頂くと、特典としてエディターズ・リパブリックのノートをプレゼント!
【プロフィール】 細倉真弓(ほそくら・まゆみ) 1979年京都府生まれ。 立命館大学文学部、および日本大学芸術学部写真学科卒。 主な個展に『JJuubbiilleeee』(G/P gallery、東京、2017)、グループ展に『小さながらもたしかなこと 日本の新進作家 vol.15』(東京写真美術館、東京、2018)などがある。 HP
菅付雅信(すがつけ・まさのぶ) 編集者/株式会社グーテンベルクオーケストラ代表取締役。 1964年生。『月刊カドカワ』、『カット』、『エスクァイア日本版』編集部を経て独立。 『コンポジット』『インビテーション』『エココロ』の編集長を務め、出版物の編集から、クライアントのプランニング&コンサルティングを手掛ける。 著書に『はじめての編集』『物欲なき世界』『写真の新しい自由』等。 またアートブック出版社ユナイテッドヴァガボンズの代表も務める。 『コマーシャル・フォト』『WIRED JAPAN』WEBで連載中。 写真集では篠山紀信、森山大道、上田義彦、マーク・ボスウィック、エレナ・エムチュック、片山真理などを編集。 NYADC銀賞受賞。
日程 / 2019年9月1日 (日) 時間 / 18:00~19:30 (開場17:30) 料金 / 1500円(税込) 会場 / 本店内 小教室
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神野真吾 × 成相肇 × 山本高之「現代アートと美術教育」 美術手帖2月号(美術出版社)特集『みんなの美術教育』関連トーク
学校における図工・美術科だけでなく、子どものためのプログラム、アーティストを育てる専門教育、そして生涯学習までを指す「美術教育」。 現在の学校、美術館、美大、幼児教育など、教育現場の側から、美術教育の多様なあり方とその可能性を考察した『美術手帖』2月号の刊行を記念し、代官山 蔦屋書店でトークイベントを開催いたします。
紙面の特集と連動した今回のトークイベントでは、多数の教育普及プログラムを手がけた経験を持つ学芸員の成相肇氏、アートの理論と社会/教育とをつなぐ研究を行う神野真吾氏、そして教育をテーマとする作品にも取り組むアーティスト山本高之氏をお招きして、三者それぞれの異なる立場から、特に現代美術の領域における美術教育の捉え方について、ギャップや課題も含め考察します。
【参加条件】 以下対象商品のうちいずれかを代官山 蔦屋書店にてご予約、ご購入いただいたお客様がご参加いただけます。
【お申込み方法】 以下の方法でお申込みいただけます。 ・代官山 蔦屋書店 店頭 (2号館1階 アートフロア) ・お電話 03-3770-2525(アートフロア) ・オンラインストア
【対象商品】 ・書籍『美術手帖』2019年2月号(美術出版社 1,728円/税込) ・イベント参加券(1,000円/税込)
【ご注意事項】 *参加券1枚につきお一人様がご参加いただけます。 *イベント会場はイベント開始の15分前から入場可能です。 *当日の座席は、先着順でお座りいただきます。 *参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承くださいませ。 *止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。 上記をご了承の上ご参加くださいますよう、よろしくお願い致します。
【プロフィール】 神野 真吾(じんの・しんご) 1967年横浜市生まれ。 東京藝術大学大学院美術研究科美学専攻博士前期課程修了。 山梨県立美術館学芸員を経て2006年より千葉大学教育学部准教授。 千葉アートネットワーク・プロジェクト(WiCAN)代表。 共著に『社会の芸術/芸術という社会』(フィルムアート社、2016)ほか。
成相 肇(なりあい・はじめ) 東京ステーションギャラリー学芸員、評論家。1979年島根県生まれ。 2003年一橋大学大学院言語社会研究修了。 府中市美術館学芸員を経て、2012年4月より現職。 主な企画展に「石子順造的世界」(府中市美術館、2011~12)、「パロディ、二重の声」(東京ステーションギャラリー、2017)ほか。
山本 高之(やまもと・たかゆき) アーティスト。1974年愛知県生まれ。 ロンドン大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン修了。 2017年度に文化庁新進芸術家海外研修にてロンドン滞在。 近年の主な個展に17年「山本高之Children of men」(アートラボあいち、名古屋)など。
会期 / 2019年02月06日(水) 定員 / 50名 時間 / 19:30~21:00 場所 / 蔦屋書店1号館 2階 イベントスペース 主催 / 代官山 蔦屋書店 共催:美術出版社『美術手帖』編集部 問い合わせ先 / 03-3770-2525
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【八重洲ブックセンター40周年記念催事】村田沙耶香さん サイン会 『地球星人』(新潮社)刊行記念
なにがあってもいきのびること。 恋人と誓った魔法少女は、人間工場と対峙する。 「工場」は、「恋愛」がどんなに素晴らしいか、その末に人間を生産することがどんなに素敵か宣伝している。 私はいつまで生き延びればいいのだろう――。 衝撃の芥川賞受賞第一作。
※サイン会の前に、15分程度のミニトークショーがございます。
◆こちらのイベントは、「八重洲ブックカードゴールド会員」の無料聴講特典対象外です。
【プロフィール】 村田沙耶香 ムラタ・サヤカ 1979(昭和54)年千葉県生れ。玉川大学文学部芸術文化学科卒。2003(平成15)年「授乳」で群像新人文学賞(小説部門・優秀作)受賞。2009年『ギンイロノウタ』で野間文芸新人賞、2013年『しろいろの街の、その骨の体温の』で三島賞、2016年「コンビニ人間」で芥川賞受賞。著書に『マウス』『星が吸う水』『ハコブネ』『タダイマトビラ』『殺人出産』『消滅世界』などがある。
日時 / 2018年9月6日 (木) 19:00~(開場時間18:30) 会場 / 本店 8F ギャラリー 募集人員 / 100名 ※定員になり次第、締め切らせていただきます。 主催 / 主催:八重洲ブックセンター 協賛:新潮社 申込方法 / 1階カウンターにて、『地球星人』(8月31日発売、本体価格1600円)をお買い求めの方に参加券をお渡しします。 また、お電話によるお申込みも承ります。(03-3281-8201) 電話予約の方もご購入+参加券お渡し後のご入場となります。当日開演時間までにお求めください。開演1時間前からは8階カウンターで受付いたします。 ※書籍の発売前でも、ご予約を承ります。 ※整理券の番号順にサインをいたします。 ※サインは、当店でお買い求めいただいた『地球星人』のみに入ります。それ以外の物にはサインできません。また、お1人様1冊限りとなります。 ※サイン本には、お客様のお名前を必ず入れさせていただきます。 ※開催中の撮影・録音はできません。
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小松理虔 × 三根かよこトークイベント「価値観の潮目を作り出すために」 『新復興論』(ゲンロン叢書)刊行記念
小松理虔さん初の単著『新復興論』の刊行を記念し、トークイベントを開催します。 小松さんは福島県いわき市在住のアクティビストであり、東日本大震災以後の復興に現場で立会い、地元浜通りから発信を続けてきた方です。 その集大成と呼ぶべき『新復興論』は、復興がもたらした「復興の味方か/敵か」という二項対立を乗り越える思考を追求しています。 対談相手としてお迎えするのは、社会文芸誌『たたみかた』の編集長、三根かよこさんです。 創刊号では「福島特集」を組み、第2号の「男らしさ女らしさ」特集もいま話題を呼んでいます。 「復興の味方/敵」、あるいは「男/女」。現代の日本では二項対立ばかりが目立ちます。 そんななか、異なる価値観が交わる場所をいかにして作り出すのか。そんな「潮目」について、注目のおふたりに語っていただきます。
【プロフィール】 小松理虔(こまつ・りけん) 1979年福島県いわき市生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。共著に『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』、『ローカルメディアの仕事術』ほか。
三根かよこ(みね・かよこ) 合同会社アタシ社 ディレクター・デザイナー。千葉県出身。カナダで7年間を過ごす。リクルートメディアコミュニケーションズ在職中に桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科を卒業し、2015年4月に夫で編集者のミネシンゴと合同会社アタシ社を設立。現在は30代のための社会文芸誌「たたみかた」の編集長、美容文藝誌「髪とアタシ」や書籍のデザインを手がけつつ、企業の外部編集者としても活動する。
日程 / 2018年9月14日 (金) 時間 / 19:00〜20:30 開場 18:30〜 料金 / 1,350円(税込) 定員 / 50名様 会場 / 本店内 小教室 お問合せ先 / 青山ブックセンター 本店 電話 / 03-5485-5511 受付時間 / 10:00~22:00
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永井博 × 都築響一スペシャルトークショー「サルマネイラストレーター天国」 Hiroshi Nagai late summer, long Sunset Penguins Vacation Book Store
近年、「これ、アリなの!?」と判断に困るほど剽窃スレスレの模倣的作家が跋扈する、イラストレーター業界。 アリ・ナシ判断~その価値基準までを永井博さん、ゲストに都築響一さんをお迎えし、お二人が語ります!
【参加条件】 代官山 蔦屋書店にて イベント参加券(1,000円/税込)もしくは、永井博「Time goes by…」(4,104円/税込) をご予約、もしくはご購入いただいた先着70名様に参加券をお渡しいたします。
【お申込み方法】 ・店頭(2号館1階 アートフロアレジカウンター) ・お電話 03-3770-2525(アートフロア) ・オンラインストア
【対象商品】 ①イベント参加券(1,000円/税込) ②永井博「Time goes by…」(4,104円/税込)
【ご注意事項】 *参加券1枚でお一人様にご参加いただけます。 *イベント会場はイベント開始の15分前からで入場可能です。 *当日の座席は、先着順でお座りいただきます。 *参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承くださいませ。 *止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。
【プロフィール】 永井博 HIROSHI NAGAI 1947年12月22日、徳島市に生まれる。 グラフィックデザイナーを経て、1976年よりイラストレーターとして活躍。大瀧詠一の「A LONG VACATION」、「NIAGARA SONG BOOK」等のレコードジャケットに代表されるトロピカルでクリアな風景イラストレーションを得意とする。 出版物として、CBSソニー出版「A LONG VACATION」(1979年)、「HALATION」(1981年)、小学館「NIAGARA SONGBOOK」(1982年)、ぶんか社「time goes by…」 (2008年)を刊行。 また、大瀧詠一のアルバムジャケット「A LONG VACATION」では、CBSソニーより、「アルバムジャケット特別賞」として、ゴールドディスクを受賞している。 大瀧詠一のレコードジャケットによって、そのイラストの作風は独自の地位を築き、その他、サザン・オールスターズ、松岡直也、石黒ケイ、藤原ヒロシと川辺ヒロシ、憂歌団、杉山清貴など、多くのアーティストのレコード / CDジャケットを飾る。近年ではAORのコンピレーション『breeze』シリーズ、ikkubaru『Amusement Park』、『brighter』、TEEN RUNNINGS『NOW』、サニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』のジャケットのアートワークを担当。2016~2017年単独のエキシビション「Penguin’s Vacation Restaurant」を東京 CAY にて、「Penguin’s Vacation Book Store」を代官山 蔦屋書店にて開催。また同年7月に「time goes by…」が復刊される。
都築 響一(つづき きょういち) 1956年東京生まれ。1976年から1986年まで「POPEYE」「BRUTUS」誌で現代美術・建築・デザイン・都市生活などの記事を担当する。 1989年から1992年にかけて、1980年代の世界現代美術の動向を包括的に網羅した全102巻の現代美術全集『アートランダム』を刊行。 以来、現代美術・建築・写真・デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集を続けている。 1993年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』を刊行。 1997年、『ROADSIDE JAPAN』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続けている。 2012年より有料週刊メールマガジン『ROADSIDERS’weekly』を配信中。
会期 / 2018年08月02日(木) 定員 / 70名 時間 / 19:30~21:00 場所 / 蔦屋書店1号館 2階 イベントスペース 主催 / 代官山 蔦屋書店 問い合わせ先 / 03-3770-2525
チケットのご予約はこちら オンラインストアでの受付は2018/7/31(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。
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