#観葉植物を枯らす
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うりはむしにあんどん
橙光沢のボディで体長は8mm程、一見愛くるしい姿をしているが、実はとんでもない曲者なのがこのウリハムシである。これまでの人生で可愛い顔した悪魔を何度も見てきたが、こやつも間違いなくその類だ(敵)。
ちなみに背中を漆黒にあしらったクロウリハムシもほぼ同じ所業。なのでここでは両方ひっくるめ「奴ら」と呼ぶ。
ウリハムシという名前からもわかるように、奴らは夏野菜として定植するウリ類を中心に多大な被害をもたらす。
一つは成虫による食害。上の写真は定植して数日経ったカボチャ苗で、青矢印で示したところが奴ら独特の食害跡である。まず葉上に円弧状の溝を掘り、植物が出す食害防御物質を遮断してからその内側を食べるのだ(トレンチ行動と呼ばれるらしい)。特に定植直後の苗にとってその影響は深刻で、ダメージが大きいと光合成が出来ず成長不良や枯死に至る。
こちらはウリ科ではなくマメ科のインゲンマメだが、下葉が餌食になった。ちなみに奴らは同様の手口で��弁や果実も食害する。
そしてもう一つは幼虫による食害。成虫はターゲットの株元近くの土に産卵し、孵化した幼虫はその根を食害する。またそれが進行すると茎の内部からも食害を受ける。さらに土の上に果実などがあるとそれに穴を開けて食害する。
葉、根、茎、花、実に至るまで容赦なく貪り尽くす極悪一家に対抗すべく、これまでいろいろな方法を試してきた(ハイコストな物を除く)。反射板の設置やネギ類の混植は効果見られず、農薬散布は効果もあるけど一時的、地道に捕殺(最近はお洒落に「テデトール」と言うらしい)なんか忙しくてとてもやってられない。
そんな中、光を透過する肥料袋などを利用して苗の周囲を覆う方法は不思議なほど効果がある。上の写真のようにを支柱4本立て四角柱状にするのが一般的で、その形状から「行灯(あんどん)仕立」と呼ばれる。
上から覗くと内部はこんな感じ。植え物はズッキーニだ。
奴らがこの中に進入できないのは飛翔で垂直降下が出来ないからだと言われるが、私はこの説には懐疑的である。だって上縁に取り付けば歩いて中に入れるもんね。葉の表は勿論、裏にまで回り込む奴が出来ないハズはない。恐らく本能的に閉鎖的空間をリスキーに感じて寄りつかないのではないかと私は思うけどね。ちなみに他の害虫の防除効果は薄く、ダンゴムシやナメクジなどは普通に進入してくる(笑)。
この行灯仕立を大量に導入する場合、カバーは鶏糞肥料の空袋が沢山あるので困らないが、支柱を必要本数用意するのが中々大変だ。購入すれば手間は無いが費用が掛かる。木の枝なんか利用すれば無料だけど手間が掛かる。う~む、とりあえず支柱を1本減らして三角柱状にしてみたが、問題は無さそうだ。
蔓ネット前に定植する場合はカバー上縁の一端をネットへ引っ張って固定すれば、さらに一本の支柱削減が可能に。下縁は思ったより安定しているが、変形が気になるようなら軽く裾埋めしてもいいよね。
この要領で20本のキュウリ苗にカバー掛け。形状的にはすっかり行灯崩れだけど、なかなかの壮観だ。
あれひょっとして、ネット側で2箇所引っ張るようにすれば支柱1本で済むのでは。。。いやあ今頃になって気が付いてしまった(嘆)。次回からそうしよう。
行灯仕立は害虫防除だけでなく、風除けや保温の効果もある。一方で中に湿気がこもりやすかったり、手入れし難くなると言うデメリットもある。
そして期間限定の措置であるのも特徴。苗が成長し丈が上縁まで達したら強制的に卒業となる。幼いうちは保護して貰っても、ある程度育ったら自力で生きて行かなきゃならないのがこの世の掟だ。とは言え今後も多少は面倒見るけどね。ウリハムシに好き放題させるのも癪だし、成果物を沢山収穫したいからね。
#田舎#田舎暮らし#里山#自然#自給自足#自給農#生き物#虫#昆虫#害虫#ウリハムシ#ウリバエ#甲虫#防除#行灯仕立#countryside#rural life#nature#self sufficiency#agriculture#cultivation#farm#farming#creature#insect#cucurbit leaf beetle#pest#vermin#protection#japan
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2024/4/30
抗がん剤治療のために2週間母が入院する。これが決定したのが10日ほど前。そしてこの日が入院日。
ほぼほぼ余命宣告されている身として、どのような気持ちで生きているのか心情を慮ることが難しい。
とはいえ、全人類いつか死ぬという宣告はされてるわけで、その間に成長して学んで社会に貢献して誰かに何かしらのバトンを渡して死ぬ。
つまり色々と忙しくてあまり死ぬことについて考え��い。母もとりあえず入院やら治療やらがあるのであまり考えないのかもしれない。
やることがなくなったときに一気にとんでもない不安や孤独が襲ってきそうだけど、たまにそれは俺もある。好奇心が枯れるまでは死にたくないので。
町田の隅っこで母と柴犬がひとまとめで実家で暮らしている。そこから母が抜けるわけで、誰が柴犬の世話をするのか。自分しかいない。
というわけで実家に2週間くらいいる。
別居婚なのか、これは。
朝から母に言われたとおりに誰に感謝されるわけでもないのに外猫に餌をやり、それに不満げな柴犬にギョニソを焼いてあげ(ムスケくれて食べないけど)、観葉植物に水をあげ、冷蔵庫にある食材で傷んでいるものを捨てて、なるべく食材を消費するように冷凍されていたアジを焼いて朝食を食べた。
洗濯をしたが、雨予報なのを忘れていた。
風呂場にしか干す場所はなく、浴室乾燥はなく、母は晴れてるときにしか洗濯をしなかったのかと思う。十数年前までは一緒に暮らしていたが母が担当していた家事については、つまり家や家族を維持するためのものには無頓着だったのがよく分かる。
扇風機を洗濯物に当てて、まぁこれでなんとかなるかと。
犬の散歩をして、これは健康になってしまうかもしれないと思いながら仕事のために出かける。
家から駅までやたら遠い。
イレギュラーが多いほうが頭は若くいられるそうだが、2週間。まぁ、仕方ないか。
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不��定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだ��だやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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昔を知るもの
そういえば少し前に、裏庭のイチジクの木が全て伐採されてしまったと書いた記憶が有るのだが、その後僅かだが片隅に根が残されているのを発見して観察していた所、まだ生きていたらしく新しい茎すらも伸ばし始めた。
しかし、放っておいたら今度こそ根こそぎ刈り取られてしまうのは確実な情勢だったので、当面は安全と思われる庭の別の場所への移植を試みた。
何であれ生命は基本的に環境変化に弱く、新しい環境に適応するのは植物であれ生物であれ簡単では無い。そこで失敗を前提に2カ所穴を掘り、肥料や、石灰、もみがら等を入れて水分を含ませた上で慎重に茎と根を切り取り2カ所に移植を行った。
数日後、移植したイチジクはモヤシの様に痩せ細り「やっぱり素人の移植はダメだったか」と一度は諦めたのだが、2つの内の片方はよく観察してみると、確かに痩せ細っては居るのだが微妙に緑色を帯びた箇所が有り心なしか生気を感じた。
特にこれ以上やれる事は思いつかなかったので水やりだけは続けていたのだが、片方は完全に茶色になって枯れ���しまった。しかし生気を感じた方は緑色の部分が少しずつ増え、背丈も僅かに伸び成長の兆しすらも感じるではないか。
もっとも、まだまだオレの掌ぐらいの大きさしか無いんだがな。昨日また確認してみたら、さらに少しだけ成長し小さな葉も出てきた。冬を越せるかどうかは分からないが、温かく見守っていきたい。
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タバコを土に埋めた1年後には…… 予想外の展開に「信じられない!」「とても素晴らしい」と称賛の声 - ねとらぼ
以下引用
タバコを土に埋めて1年かけて様子を観察したタイムラプスが、YouTubeで約10万2000件のいいねを集めるほど注目されています。タバコが分解される過程や、謎の植物が生えてくる予想外の展開など、とても興味深い動画です。
youtube
実験動画を投稿したのは、YouTubeチャンネル「Photo Owl Time Lapse(@PhotoOwl)」。観察は1年間かけて実施され、タバコが土の中で分解されていく様子がはっきりと記録されています。 埋められたタバコは、12日を過ぎたあたりから白くカビのようなものが発生。約100日後から土の中に緑色のコケのようなものが生え始め、ビンの側面を覆っていきます。コケのようなものは200日後、250日後、300日後と緑色から茶色へ変化していきます。
そして1年後、ビンを開けると中から取り出されたのは、タバコのフィルター部分のみ。葉タバコや巻紙の部分はなくなってしまいました。すっかり分解されてしまったようです。 また、予想外のことに、撮影では映っていなかった位置に植物の芽が生えていることを発見します。実験後にこの植物を土に植え替えて9日間ほど観察したものの、植物は枯れてしまったようです。
コメント欄には「土の中に本当にたくさんの小さな生き物がいることがよくわかる」「分解できるものとできないものを示すわかりやすい動画だ」といった意見が残されています。とても長い期間、高画質で撮影を続けた素晴らしい実験動画です。
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脈打つ楽園
窓枠から揺らぐ桜の枝も、明日には新緑に飲み込まれそうだ。そういえばここ最近の私の心は綺麗なものに反応しづらい日々が続いていたと思う。晴れの日にカーテンを開けると世界が広がる気がしたし、少し雑にひいてしまったコーヒー豆から苦味を感じた時でも満足していたし、少し開けた窓から春一番が吹き込めば、髪の間に隠れた前髪が目に入ってだるがったり、それさえ日常のきらめきの一粒に、感じていた。
限りなく思い出せる出来事として、喜びに溢れていたはずの、ぱりんと割れた器があって、肌に刺さるほど大きな破片はないから散らばったまま放っておいたのであった。掻き集めてしまえば自分が必死になって過去に浸るような馬鹿な羽目にあうので、毎日思い切り踏んづけて、粉々にする。胸を張るように歩いても曇天の日が多いとあからさまに気分は下がって、記憶の引っ掛かりである音楽を街中のドラッグストアで聞けば瞬きの回数が多くなった。ことごとく気分が天気に左右されるのは通常であったが、あの冬というのは、幾分長かった気がする。
青々とした芝、本当の芝生は全く青くない。はげて土が見え、何日か前に落ちた赤褐色の枯葉、折れたての小枝に誰かが落としたガムの包装紙。秋に忘れられたどんぐりの頭、裸足の指をくすぐる小さな蟻、どこからか飛んできた灰色の石ころ。大きな幹からぐんぐん伸びた枝や生まれたての葉っぱが影を落として、太陽は数分ごとに位置を変え、私たちはそれから逃げるように、お尻をよじらせ木陰を追いかける。誰かの恩恵を受けたわけではなく、私はいつも芝生の上にいる。小学生の時、近くの公園が養殖中になると近くのブランコで口を尖らせ、早く陽の光の元で寝転びたい気持ちを抑え、スニーカーの先端でゴム床を蹴った。中学生になると、芝生の上で読むものがミステリー小説になった。官能小説も相変わらず読んでいた。高校生、私は一人になりたかった。ブレザーの背中についた細い葉を手で振り落とし、スカートも入念に叩いて、草の匂いが残る裸足で靴下を履いて、窮屈なローファーで電車に乗った。それから今も、私は芝生の上で寝っ転がったり、体育座りをしたり、枝葉から覗く太陽をかざした手のひら越しに見たり、首が痛くなれば、足の甲を走る蟻を応援したりしている。
仲良くなったら変わるよ、好きになったら変わるよ、大人になったら変わるよ、経験したら変わるよ。自分というものが変化するということが大前提で人に教えられると、すごく窮屈な気分になる。好きなものは変わらない、増えるだろうけど。逃げ道だって変わらない。泣く時に来る場所も、聴く曲も、読み返す詩も、変わっていないのに。手の届かないところで美化され、日記の彩りとして消費され、全部同じになんてなれない。あくまで共通のものが私と貴方と誰かに存在して、分かり合える喜びが胸を満たすけれど、貴方や誰かが存在する以前から私はずっとここに居たはずだ。貴方のせいで変わったわけじゃ無い。貴方や誰かを通り過ぎた私が、覚えたての感情を抱いても、知らせたりなんてしない。私の全ては、貴方や誰かに、関係がない。もう居なくなったなら。
一定の冷たさが占めていた、細々とした砂利の音と唸る波の音が聞こえた真夜中の海に似ている。目を覚ませば春風が部屋の観葉植物を力強く揺らす季節になっていた。眠りかけていた機微ごと叩き起こされるも、自分のいる場所は変わっていない。薄く開けた唇の隙間から、生温かい陽気を味わう。次に瞳を閉じた時には安らぎが欲しい。深い眠りと呼吸に身を任せて。
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よしもとかよ 「日々是好日」。vol.121 (2023/11/22 + 11/29)
2023 22nd + 29th november
M1 powered by nature (Secret garden feat.Espen Grjotheim + Tracy Campbell)
M2 vihma (Varttina) M3 autumn leaves (Nana Mouskouri & Michel Legrand)
M4 ちいさい秋みつけた (おおたか静流) M5 ye Jacobites (Eddi Reader) M6 we are blood (Rita Coolidge) M7 les chose qui arrivent (Austine) M8 meu pobre capitao (Maria Mendes)
< 好日の素…球根を育てること、再び >
晩秋ともなると 木枯らしが吹いて、 枯れ葉が舞って…と、どこか 淋しいきもちになりそうなものですが… ヒヤシンスなどの球根植物は 晩秋から春にかけてのおたのしみ。 前回のテーマではないけど、 ここしばらくのうちに 球根植物が手元にいろいろ集まってきて たのしみが増えています。 昨年購入したヒヤシンスの球根は 鉢植えにして花を咲かせたあと 夏前に球根を掘り上げて乾燥して保管。 再び植えたところ、無事に芽が出てきました。 能登の祖父母の庭から 引っ越しさせたシラーは 芽は出たものの花を咲かせるには至らず。 植えっぱなしでよいとのことだったので 放置していたのですが、 さすがに先日、気になって 少し掘ってみたところ、 球根は無事のよう。 来春に芽吹いてくれることを期待しています。 草花交換会でやってきた 風知草の鉢に同居していたシクラメンは、 どんな花が咲くのかわからないので 夏越しにチャレンジ! シクラメンはいつも 夏にダメにしていたので 今回は事前に学習しました(笑。 そして…無事に夏越し成功! 目下は数ミリほどの葉が見えています。 同じく交換会で輿入れした ヒモサボテンの鉢の中には 謎の球根がひとつ。 ムスカリか何かかな?と思い ポリポットに植えて 放置していたら発芽!そして 花まで咲きました(笑! 咲いた花をもとに調べたところ、 チオノドクサという植物だったようです。 こちらも植えっぱなしOKとのことで 先日球根を確認してみると、 無事のよう。そして、もしかしたら 増えているかも…! こんな風に球根植物の成長を 観察していると、 晩秋の淋しさよりも わくわくする気持ちの方が おおきくなってくるのです。
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< 日々是食べたい! … 里芋のバターケーキ >
普段、おかずとして 食べている食材が、 お菓子にもなる、と知ったときって うれしい驚きがあるもの。 もうずっと前に お土産でいただいた、 里芋農家のおかあさんたちが つくったという 里芋のマドレーヌが おいしくて、忘れられなくて。 しかしレシピがないので… 試行錯誤しながら焼いてみたのです、 里芋のバターケーキ。 ヒントになったのは、バナナブレッド。 バナナを焼き込む際に フォークの背でつぶして たたくようにしていると 特有の粘り気が出てきます。 里芋にも粘り気があるので、 同じ手法でなんとかならないか、と やってみたところ、 生地の中に里芋らしさが残って しっとりほっくり、いい塩梅に。 ごまをたっぷりトッピングしたら しっとりした里芋の生地と クリスピーなごまの食感と香りが いい感じ! 晩秋になると思い出す、 大好きな一品になりました。
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『光や風にさえ』装画について
11/20の文学フリマ東京から気が付けば一ヶ月以上経っていました。わたしはこの一ヶ月、観葉植物が枯れそうだったり、置き配を盗まれたりしていますが、気鬱であることを除けばまあまあ元気です。
おかげさまで『光や風にさえ』もたくさんの方が手にとってくださり、中には感想をお寄せくださる方もいて、しみじみ喜びを噛みしめています。どうもありがとうございます。閉じこもって書いているとどうしても自分の作品の至らない点ばかりが目につきがちなのですが、あたたかいコメントを寄せてくださる方が多く、救われています。 ところで、この物語がとても難産だったことはくり返し語ってきました。 何とか本の形に漕ぎ着けられたのは、���ちがいなく、執筆当初から装画という形でお付��合いくださったフィビ鳥さんがいたからです。 この装画なくしてこの物語はなかったし、この装画を世に出さないわけにはいかない……と言うとおこがましく聞こえますが、そういった意識もたしかにありました。重ね重ね、感謝申し上げます。
私の装画の依頼の仕方、進め方などはあまり褒められたものでなく、参考にもならないのでその部分は割愛します。 (その節は本当にご負担をおかけして申し訳なかったです) イラストと物語が相互に作用して作品世界が変容、拡張していく体験は、何にも代えがたく、稀有な体験だったことを申し添えておきます。
こちらは表1案のラフ。 表紙はマヤ単体のみ、もし背景を入れるなら作中に登場する移民街(階段or中庭)という条件を提示させていただきました。 移民街のイメージはペドロ・コスタ映画的な……という話をした記憶があります。こういうの。
こちらは表4案。 案1で決定→2枚目で細部を詰めています。
表1のマヤが表4では変身している。これは、主人公であるナオミが認知する世界の揺らぎをみごとに表現してくださっています。 仕上がった装画は、ヤスミヤ様に題字入れ等デザインいただきました。 完成形がこちら。
表1と表4で題字が変化しています。かっこよすぎる。 表1の題字は特色を使っているので、実物はとっても鮮やかに印刷されています~!
また、製本版は挿絵(扉絵)もついております。 フィビ鳥さんが「肉体×植物」というかたちで考えてくださいました。
こちらはぜひ製本版でご確認ください。 マヤはナオミの妄想、と言ってしまえばそれまでです。 でも、そもそも個人が認識する世界は誰であってもそのひとの妄想でしかないとも考えています。 隣に立つ人と同じ景色をみていたとしても、その景色から得られる情報と解釈は常にずれていて、完全には一致しない。それどころか、 わたしが認知する「青」と隣のひとが認知する「青」が同じ色であることは誰にも保証できない。 莫妄想ということばがありますが、わたしはそれぞれが自分の妄想の世界のなかで踏ん張るしかない……。と考えています。
ここから先は、頂いたFA(一部再掲も含みます)をまとめました。
↑実際の本編からは削除してしまいましたが、こんな場面もありました。
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『光や風にさえ』書誌情報
【あらすじ】 未亡人として貧しい暮らしを送りながら、日系移民の社会に息苦しさを覚えるナオミ。あるとき船着き場に現れた二世の少女に導かれ、ナオミはより生きやすい場所、新天地をめざして開拓地からの逃亡を図る。事故の後遺症により夫に捨てられた少女、幽閉された先住民の女性、水上で生活する娼婦……。異国の旅を通じて、ナオミは自身が生まれもった困難と向き合っていく。
【入手方法】
・自家通販(匿名配送) ・Kindle
※Kindleには挿絵がついていないのでご注意ください。
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2023.7.9sun_tokyo
朝 暑すぎて目が覚める。 エアコンをつけるも、もうひと眠りするほど 早くもない、アラームよりは少し早い、微妙な時間。起きよう、と思うものの、すぐには立ち上がれず、右を向いたり左を向いたり、布団の中で、数分を引き延ばす。
そういえば、最近あまり夢をみていない。みているのかもしれないけれど、覚えていない。 子どもの頃は、ほとんど毎日夢をみていて、宙に浮いてかなりの距離を移動したり、知らない人に追いかけられて走って逃げた末に包丁で刺されたり(刺されたところで���が覚めたので、自分が死んだのか無事だったのかもわからない)、村を救う、みたいなハードな夢も多かった。 現実世界ではぼんやりと生きていたので(今もだけど)、毎日夢を生きる方がずっと大変で、起きるとぐったりと疲れていたりした。
起き上がって、白湯をつくり、洗濯をして、シャワーを浴びる。こないだ買ったデニムのちょっとワイドなパンツを履く。 どうせ汗で流れ落ちるけれど、一応化粧もする。
家を出ると曇っていて、風が強い。なまぬるい風。青空も見えるのに雨もぽつぽつ。不穏な天気。 このところ猛暑続きだったので、今日は少し涼しくて過ごしやすいのかな、と期待するも、しかし歩いているとすごい湿気で、あっという間に暑くなる。 今日は日曜日なので、1日お店にいる予定。
家からお店に歩いて行くときは、途中で公園の中を通る。あるときに、日傘をさしていても直射���光が強すぎて、日陰を求めて逃げるように公園に入ってみたら、ちょうどよい木陰の道があって、それからは、秋も冬も、雨の日も、いつも公園の中を通るようになった。外の道路を歩くのと、ほんの数メートル、ズレるだけなのに、景色が、世界が、全く違う。
何かの約束みたいに、枝につけられたピンクのリボン あじさいの坊やたち
多��何時間も同じ作業をしているんだろう、真剣な表情の砂場の男の子 何かを考えているようないないような、ぼんやりとベンチに座っているおじいさん 軽い足取りで植物のあいだを闊歩する鳩
メガネに白マスク、白シャツに斜めがけバッグ、というお揃いコーデの2人組とすれ違う。 白い小花柄ワンピースに白いバッグ、フラットバレエシューズな2人組と、すれ違う。
お店に着いたら屋上の植物たちに水をあげる。レモンマートルとシルクジャスミン。レモンマートルは、葉っぱをちぎるとレモンの香りがする、というのにひとめぼれして、先月、三茶の広場でやっていたマルシェで買った。 (マルシェで植木屋さんに葉っぱを嗅がせてもらったら、予想以上にレモンの香りで、テレビショッピングばりのリアクションをとり、即決した)
屋上はかなり過酷な環境で、しかもわたしたちがしっかりとした世話を出来ないので、前にいた植物は枯れてしまったのだけど、今のところ、この2人はなんとか元気でいてくれている。一緒にがんばって、夏を越そうね。
昼 12時になってお店を開ける。ドアを開けていると、外からは もわぁ とした空気が入ってくる。ぽつぽつとお客さんが来てくれるも、こんなに湿度が高くて暑い日は、みんな家にいた方がよいのではと思ってしまうくらい。座っているだけで熱中症になりそう。 ふらふらになりながら、何度もお茶とはちみつレモンを飲む。
夕方 最近は暑いからか、日曜日でも夕方以降にたくさんお客さんが来てくれたりするのだけど、今日はいちにちを通してお店は緩やか。屋上に出てひと呼吸。もうすぐ19時でも空はまだ、だいぶ明るい。 お客様がいないのでイスに座って、空を見上げる。広い空の下、とりあえず生きていれば大丈夫、と思う。息を吐いて、吐ききって、ゆっくり、吸う。背中まで空気を入れる。
横隔膜は開きすぎないで、背中は少し丸める感じ。頭は前に出ないように。ピラティスでまっすぐな立ち姿勢をおしえてもらうも、しっくりこないまま、だけど少しずつ、反り腰は直ってきている。お客様がいないのをいいことに、まっすぐ立つ練習をしてみるも、周りのビルの誰かから見えていたら、不気味だったかも。
夜 お店は21時で閉店。今日はわたしはnicolasに寄らずに早く帰ることに。 スーパーに寄って野菜や豆乳、アイスとチョコレートを買う。そして大好きな桃がなんとクーポンで割引になっていたので、もちろん買う。くだものはみんな好きなのだけど、中でも桃は特に好き。すべての食べものの中でも、上位に好き。このあいだnicolasで、今年初の桃をいただいたのだけど(もちろん天才的においしかった!)、デザートで食べるのと、そのままの桃を食べるのはまた違う気がする。というわけで、丸ごと桃は、今年初! 桃は柔らかいぬめぬめがいいのか、少し硬めのシャキッとしたのがいいのか。派閥があるらしいが、正直わたしは桃に関してはもう何でも好き。桃というだけで愛している。
義理の実家からいただいた、おいしいハムやソーセージと、パプリカを焼いたのとトマトと、味の薄い野菜スープを作って食べる。 最近夏バテぎみなので、麹甘酒も、ちゅーっ。 明日はもっと、暑いらしい。
先月のB&Bでの安達茉莉子さんと土門蘭さんのイベントのアーカイブを観ながら、横になる。このあいだ途中まで見たので、続きから。 (しかし気づいたら寝てしまっていて、ちょっとしか見れていなかった、これを毎回続けていて、全く見終わらないまま、視聴期限が迫っている)
翌朝 夫の人が帰ってきたら桃を剥いて食べよう、と楽しみにしていたのに、結局起き上がれず。そのまま寝てしまい、 桃は翌朝、食べました。ぬるり。あんまり甘くなかったけれど、これはこれで、愛している。
-プロフィール- くまがいれいこ 40歳 世田谷 本屋・twililight手伝い @reioyms
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ちょろぎ
このイモムシ、あるいはドリルビットのような物体はチョロギという植物の塊茎だ。関東以北では、おせち料理の食材として使わ��るらしいが、そもそもおせちに縁のない生活をしてきた私にとって、食べたことはもちろん、その存在すらこれまで知らなんだ。もう結構な齢だけどね(笑)。
このユニークな形状は栽培欲求をかき立てるのに充分だった。ただ世間ではそれほど特殊な物ではなく、フリマサイトから容易に入手できた。
入手したのが晩秋だった為、冬越しさせてやらなくてはならない。売り主に相談したところ、寒さにかなり強いので軽く土を被せておく程度で良いらしい。畝の一角を使っても良いのだろうけど、まあ初めての栽培だし、念のためバケットに入れて土を被せ、玄関の内側に置いた。
1つも痛むことなく冬越しした塊茎をポットに播種したのが3月の初旬。順調に発芽・生育して、一か月後の4月初旬には畝に定植した。上の写真はさらに一か月後の5月初旬の状況。
同じ畝の6月中旬の状況。定植後草取りすらしていないが、畝全体に広がり繁茂している。花穂も立ち始めた。
葉の形状はバジルに、花��形状は青ジソに似る。いずれもチョロギと同じシソ科だ。花の蜜を吸いに蜂や蝶などいろいろな虫が訪れるが、葉に食害された形跡は見当たらない。
秋になり葉の色が変わり始めた頃、試しに株元を少し掘ってみたが、まだとても収穫出来るような大きさではなかったので、上の写真のように完全に茎葉が枯れ果てるのを待ってから収穫することに(12月下旬)。
茎同様、根も細めなのだけど、がっしりと広がっているせいで引き抜くのは容易ではない。なのでショベルを使って掘り起こしながら収穫していく。
とりあえず根付きのまま集めて、そのあと塊茎を分離していく。かなりチマチマした作業だ。
「チョロギ独特のくびれに泥が残るのでブラシで丁寧に洗い落とす。。。」なんて記事を見かけビビっていたが、バケツに水と一緒に入れてグルグル掻き回したら、意外にもそれだけで充分綺麗になった。このあたりは育てる土質に依るかも知れない。粘土質が強いところだと泥落ちしにくいかも。
鍋で5~6分茹で、一部を晩酌のつまみに。味付けは軽く振った塩だけだが。。。見た目の奇抜さとは裏腹に素朴で淡白な味だ。うっすらと甘みも感じる。この茹で時間においてはホクホクとした仕上がりになったが、食感はキクイモのそれ��よく似ている。
残りは自家製の梅漬けの副生成物である梅酢に浸し漬け込む。数日後に食べてみたが、梅酢の味がしっかり浸みて良い感じになっていた。ただ漬ける場合にはもう少し茹で時間を短くしてカリカリ感を残した方がより適しているかも知れない。
実際にチョロギを育てて食べてみた総合的考察としては、クセのない味と食感は歓迎できるところだが、長い栽培期間と面積当たりの収量、そして収穫作業の手間などは他の作物と比較すると著しく効率が悪い。自給自足生活においては自分が食べる量を確保することが最重要なので、その観点からはこれを大がかりに育てていくことは得策では無いだろう。ジャガイモなら同じ期間で2度収穫出来るし、キクイモならもっと大きな固まりがゴロゴロと簡単に収穫出来るからね。
とは言え目立った害虫もなく、強健で手が掛からないメリットもあるから、他の野菜には適さない場所を使って育てることができるなら逆に合理的かも知れない。あるいはプランターで育てれば土ごとひっくり返して収穫できて作業がラクになるかも。いずれにしてもメインで栽培するような野菜ではなく、食生活に多様性を持たせる為に隅っちょで少量だけ育てるというのが無難なところかと思う(ビジネスでやるなら別だけどね)。
#田舎#田舎暮らし#里山#自然#自給自足#自給農#移住#チョロギ#丁呂木#草石蚕#塊茎#栽培#植物#野菜#根菜類#収穫#調理#ユニーク#countryside#rural life#nature#self sufficiency#agriculture#cultivation#farm#farming#chinese artichoke#plant#harvest#cooking
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20230709
雑記(道楽)
ペンタカンサ(聖王丸)の花
penta (五本の) acantha (棘)でペンタカンサ。
ペンタカンサ錦
どちらもホームセンターで180円ぐらいの小さい苗だった。斑入りはヤフオクだと1,500円〜高くて3,000円が相場なので掘り出しもんだったかも。
サボテンを育て始めた頃に興味の赴くままに買った安い普及種の苗がどんどんでかくなってしまい、これから管理が大変になる予感つか悪寒。植え替えで皮の手袋を平気で貫いてぶっ刺してくる。金鯱とか鬼雲丸とか棘がやばいやつどうしよう。
希少な株でもない限り誰かが引き継ぐこともないだろうし、ナウシカが出征する前夜に地下で育ててた腐海の植物の給��装置を切るシーンがあったがあれみたいなことをする時がいつかくる覚悟はしている。
(この部分書いて下書き保存してテレビつけたら金曜ロードショーでナウシカやってた。)
『君たちはどう生きるか』がもう公開されると知って驚く。あっという間だなあ。どんな話なんだろう。長編はこれで最後なんすかね。
兜丸
うちに来て確か4年目の株。今年はもう五回ぐらい花を咲かせている。ある程度成長してから購入した兜は結実させると体力が落ちるのか大抵枯れる。直径が10cm超えた株か接ぎ木じゃないかぎり受粉させない方が良いようである。まあ白点がV字等の特異な形質でもないので種子が採れても持て余すだけだが。
種から育てた兜丸も花を咲かせた。
春先の翠平丸
あれからいくつも棘を吹いて翠平丸らしい草姿に。
この棘で必死に自分を守っているんだな。
ここまで4年間ほぼ何の変化もなかったことを考えると長い道のりだった。
アガベ・ホリダ。種まいて3年目。
ゲオメトリクス
ゲオメトリクス (団扇接ぎ)
パキポディウム(恵比寿大黒)
本葉が生えて来た。
以前種から育てたパキポディウム(エブレネウム )は2年目に30株近くトレーごと地面に落として全滅させてしまった。
恵比寿大黒は二、三年目の苗をいくつか購入したが結構腐れてしまってやはり難しい。いくつか残った株で来年の春に種を採りたい。
ボンバックス(エリプティクム)の実生苗。
10粒で3,000円という値段で出品されており、聞けば一年前に採れた種らしく鮮度の部分で悩んだが、あまり出品されることもないのでここは賭けに出る。10粒中8粒発芽で我が軍の大勝利。途中で2つ腐れて結局6株残った。
実験で幹を横倒しで伸ばしてから強剪定を繰り返してまん丸に育てたろうと思う。
ふと思い出したこと。
何年か前色々なサボテン愛好家のブログを見て栽培のコツを勉強していた。
今や付けたはずのブックマークも見当たらなくなり辿り着けなくなってしまってうろ覚えだが、あるブログでおそらく中高年のサボテンマニアの方が自宅の温室のサボテンの様子を毎日更新していた。
ちょうど今日の私の日記のように花付きがどうだとか植え替えをしただとか極めて趣味的で自己完結した内容である。サボテン以外の生活のこと等に関しては特に書かれていなかった。
寝る前に過去記事から毎日少しづつ読んでいき数日かかって何年か分の記事を読み貯めた辺りで、とある月の更新の日付一覧を見ると一週間ほど更新が止まっていた。
再開した記事はいつも通りのサボテンの写真と観察記録が記されていたが記事の最後に「大学生の娘が冬山で遭難して亡くなり先日無事葬儀を終えました。」というような一言だけ書かれていた。次の日には何事もなかったように毎日淡々とブログは更新されていて当時は戸惑いというか違和感があった。
でも今になってその気持ちがほんの少しだけわかる気がする。
わかった気になっているが正確な所かも知れないが。
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『荒野の夢拾い』イベントの感想(ネタばれあり)
※ゲーム内画像:私のスクリーンショット
『荒野の夢拾い』イベントが始まると知った時、本当に嬉しかった。
アンドルーがこれまでに出たイベントは、全員参加のものを除けば3周年記念(グローバル版)とCOAⅥ(Ⅳに巡路人もいるけど…実装してください!)。この2つのイベントでの役割はまさかの朗読あり・動画ありでとても嬉しかった。豪華で充分満足している。
けれど、その活躍を見た後でも、やっぱり季節イベントでの活躍も見たいと思っていた。
季節イベントは、季節の催しと共にキャラクターの価値観が伺えて、趣がありとても好きだ。第五人格は基本的にシリアスな世界観なので、気分転換になる。そんなイベントに大好きなキャラが参加する姿を想像しただけでわくわくする。そのうえアンドルーはゲームでの詳細や他キャラクターとの関わりがなかなか明かされなかったので、ますます公式の描くアンドルー・クレスを渇望していた。
常に何らかのイベントに出ますように……と祈っていた。今年も例年と同じく、あわよくば植樹節イベントに出てますように……と祈っていた。何気なくチェックしたTLで祈りが現実になったと知った時は夢かと思った。イベントのメインなうえに頭に葉っぱが乗っている。頭に葉っぱが乗っている(重要)。私は緑色や植物モチーフが好きなので、植樹節イベントは特に好きなイベントだった。本当の本当に嬉しかった。(↓浮かれて撮った写真)
しかし、イベントが始まるまでに喜びが落ち着いて疑いの気持ちが高まってきた。本当にアンドルーがイベントのメインになることがあるのか?実は人気者のペット化した3匹がメインの��話なのでは?等々。
でも今なら断言できる。アンドルーは間違いなくこの物語の主人公だった。
荒れた昼夜の世界を延々と歩き続けるアンドルー。
入手できるスタンプやアイコン、家具のモチーフ(それらのテキストまでも!)どれもがアンドルーの憧憬を表していた。イベントに入れば男の影が見えたという記述だけで喜び、本人が言葉を発しただけで喋った!!!とはしゃぐ。タスククリアでヒントが解除されることに気付かず湖景村から一生出られないのでは?という恐怖もまた思い出だと思った(後で無事クリアできた。)あまりの供給に囲まれすぎて放心状態が続いた。
しかし、最初は会えたことに喜びを感じたものの、一日ごとに少しずつ世界の背景が明らかになり、これまでの植樹節イベントと違い少しも緑が増えないことに不安を感じた。徐々に植物ノートも埋まっていく���色々知りたいけど同時に終わりに近づいていると考えると嫌で、少し怖かった。アンドルーが咳き込む様子や食糧・水も手に入らない世界を見て、最後はどうなってしまうんだろうと心配だった。
『これが枝から落ちた最後の葉でないことを祈る。』
衣装テキストは、O・ヘンリーの『最後の一葉』を彷彿とさせた。原作を読んだことはない。ただ、病人が窓の外の枯れ葉を見つめて、あの最後の葉が散るとき私の命も終わると言った……というくだりだけは知っていた。
この荒れはてた世界で独りぼっちの『枯れ葉』なアンドルー。どう考えても最後の一葉じゃないかと思った。日に日に弱る様子や改善されない過酷な世界を見せつけられて、『あれ』(おそらくイチハツの種)への執着と最期へのほのめかしがあって。そんな決まりきった現実の前で『そうでないことを祈る』だなんて、どうしてそんな皮肉めいたことを言うんですか?(これだから第五人格は……)
そう考えているうちに7日目が訪れた。アンドルーはイチハツの種を見つけてしまった。先日の砂糖缶を思い出して、今度は落胆しませんようにと思った。喜ぶ姿を見ることができても、素直に喜べなかった。イチハツの種と共に永久の眠りについてしまうことを考えると怖かった。
しかし、そんな心配をよそにアンドルーは思い直したような口ぶりで話し出した。今の大地は種を植える価値もないと。この嵐が自分を呑み込むまで行くと。そして再びイベント画面で、あの変わらない荒野を歩き続けた。
正直初めはぽかんとしてしまった。アンドルーが生き続けた。それは嬉しいことだけど、本人の願いは完全に叶っていなくて、しかしアイリスの種は見つかって…………
これまでのイベントとは違い、7日目の日が過ぎても大地には一つも芽吹かなかった。相変わらず暗い荒野をアンドルーは歩いている。
悪意に溢れた世界、闇夜、孤独、叶わぬ願い……本編とさほど変わらないラストにやりきれなさを覚えた。
それなのに、何も好転していない世界だというのに、自暴自棄にもならずイチハツ(アイリス)を――希望という花言葉を持つものを――抱いて歩み続けるというのか。
こういう人なのか、アンドルー・クレスは。
このイベントをきっかけに『最後の一葉』を読んでみた。あのくだりの後には続きがあった。
最後の枯れ葉が2晩の嵐に負けず奇跡的に留まり続ける姿を見て、病人は考えを改め病状は回復した。しかしその葉は、病人の事情を知った知人の老画家が嵐の中壁に描いた精密な絵の枯れ葉だったのだ。そして画家は無理が祟ったために病人と同じ病に掛かり、命を落とす。
嵐の中でも残り続けた最後の一葉。
それを見て生き続けることを決めた病人。
アンドルーにとっては不本意な選択だったかもしれないけれど、死への歩みを生きる方へと変えた姿が重なった。
『何かが、あの最後の葉を散らないようにして、 わたしが何て悪いことを思っていたか教えてくれたのね。』
何も知らない病人はそう言い、病と闘う身体を起こして明日への支度を始めた。しかしその「何か」は神秘的な超常現象ではなく、紛れもなく人から人への思いやりだったように思う。
灰色ウサギさんから白ウサギさんへ。白ウサギさんからアンドルーへと希望が託されたように。
冒頭に目覚め、アンドルー・クレスが話しかけた『お前』がどんな人物かは明かされなかった。もし私たちプレイヤーに語りかけていたのだとしたら、そのことに意味があったように思う。大地が不毛であり続け、希望のイチハツを探すたった一人の人間であったアンドルーが『枯れ葉』という名前だったことにも。私たちにそれを眺める日々があったことも。
私たちプレイヤーはラストの後どうするのだろう。避難所へ行き地上を忘れた生活を送るのか、あの場で立ち尽くすのか、それとも。
私たちプレイヤーに呼び名があるとしたら何だったのだろう。他人の僅かな安らぎを奪いただ生き延びる虫けらか、安穏とした環境でペットのように外のことをよく知らず生きてしまった動物たちか、もしくは。
あの切ないラストを見て、アンドルーを地上で最後の植物、希望を持つ最後の一人にしてしまうかどうかを私たちに委ねられているように思えてしまった。だから私は、プレイヤーも一枚の葉となれるのではないか、と思う。アンドルーが夢見たような青空と、緑の大地と、イチハツの花畑が輝く世界を信じて希望を持つ葉に。そのために必要なのは――戦争にしてもその後の生き方にしても――やはり『他人への思いやり』なのかもしれない。
アンドルー、他にもきっとあなたと同じ事を願う人たちがいるはずだから。
���それで、そんな人たちが増えれば豊かな緑が帰ってくるはずだから。
そうしてあなたを取り巻くものが黒く濁るものたちでなく柔らかな緑となった時、最後の一葉でなくなった時に、豊かな大地にイチハツの種を植えてほしい。そして咲いた花々を見守って穏やかに眠れる日が来てほしい。
なんて素朴で難しい夢なんだろうか。
あなたの夢はいつもそうだ。
でもどうか、いつの日か叶いますように。
〈おわりに〉
・日没衣装の胸元がドリームキャッチャーだったの思い出して顔がクシャクシャになりました 夢を胸に抱き続け彷徨う人……
・奇跡的に夢が叶って青い空!緑の大地!!イチハツの花々!!!ができたとしてもアンドルーの体質だとその風景を暗がりから覗くことしかできないのでは?え?悲しい
・『3カ月探し続けた』というのがやけに具体的で意味ありげに思える。でも何を意味するかどこと繋がるのか分かりません。助けて……
・守り抜いていた研究所が実は……という雰囲気。でも具体的に実は何をしていた、というのが分からない。
→イチハツの種の資料を漁っていた時に見つけた奇妙な薬とは?「私」の予想とは?消えた灰色ウサギ(エミリー)、彼女が残した種とどんな繋がりが?
→ベトナム戦争に使われた枯葉剤もふと頭に浮かんだけれど確証はない。
容器の色から虹枯葉剤と呼ばれたとか?日本と違って虹の色は6色だけど……(アイリスは虹へと変わり……)(イチハツは花弁が6……)
・ログボの星座の文章がとても意味ありげで不穏だなと思いました。人間の成長を思い起こさせるような気も…?
・第七次大絶滅、完全にフィクションかと思っていたら現実でも大絶滅は既に5回起こっていてて、人類の環境破壊により6回目が起こりそうなんですね。6はあまりに近すぎるから7にしたのかな……未来の話として託されたのかな。
・こちらの方が翻訳された『最後の一枚の葉』を読みました。ありがとうございます。
https://www.hyuki.com/trans/leaf.html
・このたった二週間のイベントに歴史、植物学、アンドルーの背景推理や人となりが色々凝縮されてるなーと思いました。凝縮されすぎてて言いたいことがうまくまとまりません。あれこれ書きましたが……
毎度のことながら濃いイベントをありがとう。
来年の植樹節イベントはどんな内容でしょうね。全く別の舞台かもしれないし、もしかしたら続編かもしれない。今回のお話はあまりにも寂しすぎた(じゃなきゃこんな幸せを願う感想文書きません。)
次はもう少し賑やかで、誰かの幸せが叶えばいいなと思う。
ありがとう第五人格。これだから第五人格は……
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肉を切らせて骨を守る
連日休まず作業しているのと、水泳や、筋トレ、家事、デスクワーク、さらに忙しいのに断れず自転車の修理を頼まれ、それらで負荷が掛かりすぎたのか左手が腱鞘炎というかバネ指というのか分からないが、どうも動かすと痛む様になってしまった。
利き腕が左手なので何かと不自由するが、少しずつ右手に任せられる事は任せ、右手の精度を上げつつ慣れていくことにした。
しかしそもそも睡眠が足らず回復力が弱まっているのも問題だろう。季節的に夏の暑さに対する暑熱順化もまだ進んでいないのもあって、厳しい時期だ。
そういえばいつも目を楽しませてくれた観葉植物も2つ程、花を枯らしてしまった。適切に水やりをすれば花はもう少し長く咲いただろうが、どうやら水やりの頻度を読み誤っていた様だ。
水をやりすぎれば根腐りし、足らなければ花は枯れる。繊細な季節変化を読み切り丁度良い具合に調整するのは至難の業で、大抵は失敗を前提としてより被害の少ない方法で変化を受け止め、余り多くを望まず最悪の事態を回避出来れば十分と思って妥協する。そういうものだと思う。
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雨が降ろうと晴れやかに
2023年3月25日 大塚welcome Backにて
前��原夕子presents -In a Bright-
無事に終了いたしました!
ご来場くださった皆様
配信ご視聴くださった皆様
本当にありがとうございました!!
共演してくれたくまねちゃん。
スペシャルゲストにジャンベで三輪さん。
今月に入ってからのレコーディングとミックス(!!)を三輪さんがこなしてくれたおかげで、新たな音源も発売!!
「ハートフルなデモ」
青天井東京
ダンシングレディー
金魚姫
3曲ともアコギとジャンベによる音源です!
手に取って貰えて嬉しかった!
サブスクなくてごめんね笑
そんなわけで…ざっくり振り返ってみても、本当に皆様のおかげで素敵な時間を過ごせました。
緊張のピークが2回あったセットリストはこちら
1.歌々う
2.はじまりの青
3.わたしのハッピーエンド ← New!
(ゲスト:三輪昭徳 on ジャンベ!!)
4.東京ダンシングレディー
5.青天井
6.cloud 9
7.コネクト
8.バランスドール
en:金魚姫
何とかこの日までに形に出来た新曲。
またここから少しずつ育てていきたい所存…!
そして途中3曲とアンコールの計4曲は三輪さんをお招きしての演奏でした!
好評で嬉しかった!!
音源から演奏まで、スーパードラマー三輪さんをこき使ってバチ当たるかなこりゃ。笑
感謝とリスペクトを込めて、手がけてくれた音源は今後もしっかり売りさばいて届けて行きたいです!!
とにもかくにも。
ご来場の皆様、配信ご視聴の皆様、くまねちゃん、三輪さん、大塚Welcome Back スタッフの皆様…心から感謝でございます!!
伝えたいことが沢山ありすぎて、何を話したらいいのか、どう話したらいいのか。
結局はMCでも、終演後も、このブログでも、ありがとうばっかり言ってて、自分の語彙力の無さをひけらかしておりますが…
ほんとに胸いっぱいのありがとうしか出てきませんで…
この1年半ほどで、私なりに弾き語りのライブを沢山やって来ました。
私の成長を見守り続けてくれている方はもちろん、色んな場所で新しく出会ってくれた方、思わぬところから繋がったご縁や、アーティスト同士の交流も広がりました。
そうやって、少しづつ撒いて来た種が小さな芽を出してくれてたんだなと感じた。
ここからはその小さな芽を枯らしてしまわないよう、ちゃんと水をやって、肥料をやって、お手入れして…育てて行こうと思います。
観葉植物をすぐ枯らしてしまう前西原なのでとても心配ですが、きっと頑張れる。
帰り際、みんなが「またね」と言ってくれました。
曖昧なようでとても強力な口約束。
��とりひとりとの「またね」を叶えるためにも、4月以降のLIVEもしっかり歌っていきます!!
ブログまとめるのに時間かかってしまった。
なんなら昨日は肉焼きに行ってしまったってのもあるけど(楽しかった)その話はまた今度。笑
改めて…
前西原は夕子 Presents -In a Bright-
ご来場下さった皆様
配信ご視聴下さった皆様
くまねちゃん
三輪さん
大塚Welcome Backのスタッフの皆様
本当にありがとうございました!!
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📸古知谷 阿弥陀寺(京都市左京区)② Kochidani Amidaji Temple Garden, Kyoto 素晴らしいのはそのお寺の雰囲気…! 中国風の山門をくぐってから拝観受付にたどり着くまでも林の中を徒歩10分ほどの上り坂。 少しクタクタになる頃に周囲が開けると、立派な石段・苔むした石垣・そして自然の滝・石段の上の懸造の建築が現れる。すごい…。 その参道に植った京都市天然記念物の“古知谷のカエデ”は樹齢800年以上と言われ、大原の中でも随一の紅葉の名所として江戸時代から知られていたとか🍁 庭園はざっくり分けて以下の5つ。いずれも現在の若いご住職が自らが主体となって現代に作庭/整備されたものだそう。 でも歴史的な空間に溶け込んでいる。 ■受付横の枯山水庭園。苔の築山が印象的。“古知谷のカエデ”の背景が絶品!(前投稿の3-4枚目) ■本堂前の枯山水庭園。 こちらもカエデを背景にしながら、古知谷の山を借景としたスケールの大きな枯山水。その傍らに懸造で建つ茶室“瑞雲閣”があります。角度からの大原方面の山々の風景が絶景。(前投稿の1-2枚目) ■宝物館前の坪庭(池泉庭園)(写真1枚目) ■客殿から眺める中庭。苔の中に植った山野草が主役で、その雰囲気が安らぎの空間という雰囲気で◎ (写真2-3枚目) ■光明殿の前の立石のある庭。苔むした石段の先には非公開の石窟が… 一つ一つは大きなお庭ではないかもしれないけれど、“古知谷のカエデ”の風景が最大限に活かされ、そして境内全体がまとう別天地のようなロケーションが素晴らしく全体が一つの庭園空間のような感じ…。 決してアクセスが良い寺院ではないけれどオススメしたい寺院。車の人もお堂から近くの駐車場ではなく山門前の駐車場に止めて、その参道を歩いて厳かさを体感して欲しい空間! 京都・古知谷 阿弥陀寺の紹介は☟ https://oniwa.garden/konchidani-amidaji-kyoto/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #japanesearchitecture #japanarchitecture #kyotogarden #kyotoarchitecture #zengarden #landscapedesign #beautifuljapan #beautifulkyoto #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #kyototrip #kyototravel #kyototemple #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都旅行 #京都観光 #京都紅葉 #坪庭 #tsuboniwa #おにわさん (阿弥陀寺) https://www.instagram.com/p/Cph8nrqvHWA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ポインセチア「クリスマスマウス」赤い苞の部分が丸くてかわいいと大人気です。名前の由来は舞浜のお城にいるキャラの耳だそうなので、当店ではポインセチアが良くもつ魔法をかけて販売しています(はい、ホントにあるものをかけてます)
というわけでポインセチアの管理方法のうんちく。ポインセチアはトウダイグサ科の花木でブラジルなど比較的暖かいところが原産です。そのため寒さには弱く15℃くらいを下回ったら屋内で管理する必要があります。また乾燥にも弱く、屋内に取り込んでから暖房の直接あたる場所に置くと葉を落として枯らしてしまいます。屋外の寒風にさらすと一日で枯れてしまうのもそのためです。 寒さ乾燥を気を付けて、なるべく日の当たる場所で管理すれば長く楽しんでもらえます。また次の年も葉を赤くしたい、というご要望をよくいただきます。まず今からは前述のとおり寒さ乾燥に注意。基本15度以上を目安に屋内の日が当たる場所で管理します。来年の4月ごろにはニョキニョキ葉が伸びていると思うので根元下から2,3節を残して切戻し(ピンチ)を行います。けっこう勇気のいる作業ですが心を鬼にして行いましょう。
そして9月下旬からが勝負です。ポインセチアは短日植物なので昼の時間が短くならないと花を咲かせない、葉が赤くならない、です。ですので9月下旬から約1か月半から2か月、昼の長さを強制的に10時間以下にしてやります。具体的には段ボールの大きな箱を18時から翌朝8時まで、かぶせてやるのがいいでしょう。そうすることでちょうど年末クリスマス前くらいの時期に葉が色づきます。 しかしこの作業、かなり根気が必要です。以前僕も挑戦しましたが、あえなく挫折し、それ以降、年をこえたポインセチアはグリーンの観葉植物として楽しむことに決めています。それでも思いついたように色づくこともあります。生き物なのでコントロールするのはなかなか難しいですね。 (遮光する場合、日の光だけでなく蛍光灯などの人工光もNGですので箱をかぶせるのが現実的です。)
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