吉田康一郎が当選した。
得票3,088、4位での上位当選だ。本当に、この選挙結果にはほっとした。安堵した、と言っていい。
私は、選挙期間ギリギリの、23:59まで中野駅に立った。多くの同志も、ともに立った。赤尾ゆみ先生もずっと立った。
「ネットには書かれてない」現場の戦いと言うものがある。
実は、前日に発覚した情報だが、このように吉田陣営も声を挙げよう���してた場に、枝野氏らが来て「リベラル系の政党の、大集会」が予定されていた。無論、大動員がかかるだろう。となれば、この催しものはできない。
そこで発案されたのが、”旅順閉塞作戦”だった。
吉田議員より書いていいという許可を得たので、当選のお祝いとともにこのプランを公開する。
今回、万が一があれば吉田康一郎は完全に政治生命を断たれていた。
その可能性だってゼロではなかったと思う。都議選、衆院選、区長選と戦ったけれども、より身近な市区町村議選とは階層の異なる選挙だ。
衆院選や都議選では、保守色が強いことを理由に支援するも、「区議選では(例えば自民の)保守系候補を応援してきた」という者だっている。それがどれぐらいの比率なのか、わからない。
また、区長選で得票があったため「あ��つは大丈夫」と攻勢を受け、選対が緩めば一気に崩壊する危険性だって常に存在していた。
私は、嫌なやつだったと思う。
この場で懺悔しておこう。23:59を過ぎてのち、吉田陣営の選挙カーをなおし、選挙事務所の片付けも手伝った。その場で、選対のメンバーにはお詫びしたのだけれども『高転びのリスクはあるぞ』『絶対に手を緩めるな』という趣旨の発言を何度もしている。これは、頑張っている選対に対して、非礼であると思っていたので、そのように謝罪した。(逆に恐縮された。)
外部の人間がとやかく言うべきではな��、という思い。
その上で「外部だから、憎まれ役に徹することもできる」というのがプライド。
各選対に入った際に、同じく引き締めを行っている。これは、議員として果たすべき当然の責務なのだ。
吉田康一郎氏には、選挙戦を終えてのち、二人きりになる時間があった。
車両を移動させる際、気を効かせて二人で行かせてくれたため。
この短い時間は、「厳しいことばかり言って申し訳ない」と、選対の方に頭を下げたことで(逆に恐縮させてしまい)、選対メンバーが与えてくれた時間だったように思う。私なりに筋を通したかったわけだが、この場を借りて時間を頂けたことに感謝したい。
短時間の、車の移動時間。
吉田氏の運転。選挙期間中だったら許されないのだが、戦いは終わった。
複雑にバックしないと停められない駐車場なのだが「すごいですね」と誉めたのだが、途中まですいすい行くものの、上手く止められない。
自転車の止め方がいつもと違ったからと強弁していたのだが、もう、ボロボロだったのだろう。中野駅の夜ペコが23:59まで。選挙事務所まで移動したのは1時を回っていたと思う。片づけを終わったのが、深夜2時とか3時だっけか。ちゃんと割り勘で、飯を食って帰ったのは朝の4時過ぎだったと思う。
車両の停車に手こづる吉田氏に、助手席から降りて、右だ左だと笑いながら。
そのあと、選対の皆が待つ場所に歩いて行った。
「もう、そろそろ、貴方と知り合って10年になるんですよね」から始まり、たった数分ではあるけれども、二人だけの時間があった。blogには書けない、極秘事項も話したし、書くほどではない極々私的なことも話した。
少しだけ、候補の素顔を書かせて頂きたい。
(上記において”氏”という呼称があるが、まだ議員の任期が始まっていないため、当選証書をは授与されているはずだが、議員という呼称はできないと思う。本当はそう書きたいのだけれど、正確を期すために。文中では、選挙期間中を指す場合には候補と言う名称も用いる。)
中野駅を守れ!旅順閉塞作戦私は、この作戦の立案に関わっているわけではないので、時間軸などについては齟齬がある可能性がある。
吉田氏より本日、許可を得て記す。
私は最終日、23:59まで中野駅に立ったのだけれど、そこで伺った大作戦だ。
この夜ペコは、実施できない可能性もあった。
前日に入った情報によると「枝野・蓮舫を呼んでの、大集会」が開催されようとしていた。
これに対し、吉田陣営が組んだ作戦とは。
それが、旅順閉塞作戦だった。
まずもって「選挙カーを動かさない」という作戦。
最終日の土曜日には、スーパーなど人が行きかう施設がある。そこに選挙カーをまわし、候補自ら政策を訴えるというのが、よくある手段だ。
中野駅は、人通りこそ多いものの、ここで演説をしたからと言って、どこまで票になるかはわからない。
また、延々とやってきたため、増える可能性は、多くはなかった。
この作戦は、「選挙カーを沈める」ような作戦であり、
最終日の、候補の遊説日程の全てを捧げるものであった。
また、後援会組織に尋常ならざる負担をかける。
様々な方に伺ったのだが、実は「中野駅に、大動員をかける」というのは、各種の選挙でよく見られた光景であり、いつもの彼らも手法であった。今回の弁士は、枝野・蓮舫。
私も、枝野さんを中野駅で見かけた。
実際に、いた。
吉田康一郎は、ここで選対に相談をする。
そして、同作戦は発令された。
書き出しだけ見ると、物凄い作戦のように思うだろう。
やったことはシンプルだ。
前日の夜から、後援会のスタッフが「駅に立つ」のだ。
桜の花見の場所取りみたいなもので、イメージカラーの黄色い旗とともに。
早朝ではなく、夜から、立つ。
聞いてみれば、シンプルだ。
だが、やるのは簡単ではない。
陣地を巡る、攻防戦実際に、実施に移された。
夜間は2名ほどの参加であると伺ったと思う。(記憶がやや、あやふやだ。)
吉田候補も立つと粘ったが、選対の判断で数時間だけ休憩させられる、
”最終日、候補に少しでも良い笑顔で立って欲しいから!”と選対に説得され、少しだけの仮眠。
代わりに後援会は、夜間から中野駅に立ち続けた。
そして、少しの休息のち確か朝の6時頃から、吉田候補も駅に立った。
ここに、選挙カーを移動させる。
どんなに人が多いと思われる場所があっても、この場所から「一切、動かさない」というのがポイントだ。
例年、リベラル系の野党が「大集会を開く」際に、車両を停車させている位置、まさにその位置に、自らの選挙カーを移動させる。
そして二度と動かさない。
当然、交渉はあったそうだ、
「どうか譲ってくれ、場所をどいてくれ」と。
願として拒み、死守する。
この場所には意味があり、往来の人間も含め「いい絵が撮れる」のだ。
リベラル系の野党が”とても支持されている”ように見える写真がとれる。
ちょうど車両も停車できる形態になっており、ほぼ恒例とも言える行事だった。
吉田氏は、かつて都議であった時代の党籍は民主。
右派で知られる民社協会の役員を拝命しており、西村真吾先生の弟子でありつつも、民社党が民主と合体したことで、議員の政党籍としては民主であった。
その前後だったろうか、蓮舫の選対に入っていたこともあるらしい。
だからこそ【ここで、止める】という堅い意思があった。
結果であるが、彼らは断念した。
連合系だろうか、それなりの動員をしていたようだが、離れた場所で気勢をあげる。
”勝った”のだ。
吉田氏の言った意見は、下記のもの。
「自分の票を積み上げていくのも選挙だ。
最終日に選挙カーをまわしマイクを握れば、一票一票はとれるだろう。
だが、相手の得票を伸ばさせないのも、選挙だ。
彼らが、一気に大動員をかけ、票を伸ばさせるのも悔しい。
旅順閉塞作戦をもって、ここで選挙カーを止めることも、吉田の選挙だ」と。
これをもって、中野駅の夜ペコは実施に移された。
リベラル系の野党が、大動員をかけていた場合には、中野駅で立つことは難しかったろう。
最後に「皆と立つために」選対は、体力を限界まで使い切ったのだ。
到着した、援軍そして、夜ペコに。
体力は、限界だったろう。
私は、17時より荻窪駅でマイクを握った。
”たまたま通りかかった”山田宏先生とともに小林ゆみ候補を応援するため。
深田萌絵氏や大山孝夫市議もマイクを握った。
のち、車両で移動し、中野駅についたのは、19時近かったのではないか。
吉田候補には「最終日に行く」とは言っていない。
ブログには書いていたけれども、把握しきれていないはずだ。
(そんな状況にはない。)
FBのアカウントが止まっていたため、撮影は深田萌絵。
中野駅に、着く。
連絡なんて、何もしていない。
声を枯らして、吉田候補が演説をしている。
20時まで残された時間は多くはなく、その声には体力の限界も感じた。
駆けつける、握手する、抱き合う。
演説中の、しかも選挙期間中の候補にしていいことではない。
”ちょっと貸して?”とばかりに、マイクを奪う。
『いいよ、いいよ、どんどんしゃべって!』という、吉田候補の声が、たぶん動画にも残っている。
「待たせたね、みんな!
俺は帰ってきた!さぁ、やるぞ、
区長選をともに戦った同志たちよ、最後の最後だ、今度は勝たせてください!
マイク納めとなるべき時間まで、残された時間は少ない。
このタイミングで候補のマイクを奪うなど、普通なら許されない。
だが、中野は別だ。ここは、23:59までやる。
マイクを落として、最後まで立つ。
まだまだ時間はある、戦いはこれからだ。」
これがだいたいの要旨。
動画で呼びかける、
発信したアカウントは、深田萌絵アカウント。
「さぁ、勇士たちよ。
マイク納めを終えた陣営(つまり、他選挙区)は、中野に集まれ。
ここは遅い、今からでも間に合う。集え、中野に!」
その時の一枚。
実際の動画その時の動画が、下記。
深田氏の”ちゃんと撮っとくから”の声から始まり、演説中の候補に駆けつけたところからスタートした。
(確認したら抱きあうシーンは、映ってなかった。)
ちょっと、私の悲壮感みたいなものは、伝わりにくいかもしれない。
深田氏をはじめ、中野で、みんなとどれぐらい戦ってきたかは、現場の人しか知らないため。
後援会をはじめ、ここで立っている方は、どれもこれも見覚えのある顔ばかり。
一緒に戦ってきた、大切な同志たち。
まずは同志たちへの御礼から、始めた。
吉田候補の許しを得て、そのまま応援演説に入る。
(やがて、会場は、シーンと静まり返っていく。この、空気の温度が変わっていくのもお楽しみください。)
動画の8分目ぐらい、ちょっと尋常ではないシーンがある。
深田萌絵氏の応援演説が終わったあたり。もう一度、私がマイクを借りている。
ある意味では見せ場。
吉田候補のマイクで、最終日。
許しを得て発言したのは「今日、この場に来たくて、でも来れない人がいる。
先般の区長選で、最後まで一緒に夜ペコをした、若いウグイスさんがいたと思う。
連日、選挙カーに乗っていた、あの子。
実は、あの子は江東区の区議で、自分が議員であることを伏せて、最後まで選挙をしてくれていました。名前は屋敷田あやか。
かなり厳しい選挙を戦っている。
この場にいる方は、申し訳ないが、江東区でも一票とってくれ!」と。
普通、他の選挙の候補を、名を出すことは許されない。
それを候補を許すことも、尋常ではない。
また、後援会が、集った仲間が大きな拍手をすることも、尋常ではない。
ここは現地のライブじゃないと伝わらない部分もあると思うが、是非、動画を見て欲しい。
のち、大山孝夫・那覇市議の応援演説が始まる。
一期生で、議員歴は長くはない。彼がどれぐらい話せるようになっているかも聴いて欲しい。
吉田候補と。23:59まで夜ペコ。
のち、選挙カーなどを事務所に移し、そのまま選挙事務所の片付け。
旅順閉塞作戦を完遂し、夜ペコを終えた吉田候補の写真。
イケメンで、身だしなみにこだわる吉田さんだから、この一枚は好きではないかも知れないけれど、
読者の皆様に、どれぐらい激しい戦いをしていたか知ってもらうために公開。
(声はかけたものの、ほぼ不意打ちの一枚)
がんばって、笑顔��
ここで笑えるのが、選挙人の凄みだ。
為書きの前で写真を撮ることになった。
遊びに行っているわけではないので、選挙事務所で候補と会ったことはない。
常に日程を(事務所などで聞き)、候補日程に併せて追いかけてきたからだ。
よって、この写真は、吉田候補ではなく、いつもの吉田”さん”との一枚。
この時点で選挙戦は終えており、候補と呼ぶべきではない。
この写真には、前後に何枚か、ある。
髪がはねて、「やばい、髪がいうことをきかない!!!」と慌ててる吉田さん。
自撮りで撮っているので、それを不意打ち的に撮影。
「え?やめてよwww」と言いつつ、必死にネクタイをなおしたり、身だしなみを整え始める。
さっきまで動画で配信され、色んな人が撮って(応援のために)アップした写真は、全部同じことになっているのに、と思った。
選挙を終えても、このあたりは、流石、イケメンだなと思った。
満面の笑顔でシャッターを押す、私。
ネクタイをなおす。
このあとが、冒頭の話。
選対の皆様に、「厳しいことばかりを言ってきた。外部の者にも関わらず。
これこそが、外部から応援に入るものの責務だと思っている。
常に全力で戦ってきた皆様に、大変に失礼をした。」と。
すっと頭を下げたところ、一緒に戦っていたスタッフ(仲良しもいる)たちから、恐縮されつつ、提案をされた。
(のち、皆からは、いや、あれにはしびれたわ、と言われた。)
「車の移動、ちょっと二人で行ってきてくれますか?」と。
車を苦労して停めて、それから歩いた。
”もう、10年になるんですよ”と。
最初の出会いは、西村真吾先生でしたね、とか。
あのとき、貴方は都議で、イケメンだった、とか。
「私は、30歳になりたてぐらいだった。
真吾先生の紹介で、都議選の手伝いに。チャリを一緒にこぎましたね。
今年、私も40歳になりました。」
(初めて会った時、私は市議に浪人中。吉田さんは都議だった。)
「のち、立ち上がれがあり、衆院選。(吉田さんは次点で落選)
次世代があって、私が爆破予告を受けて、貴方が励ましてくれて。コメント出して、いろんなことがありました。」
「真吾先生の息子さん、ひかるさんが府議に当選したんですよ。」
「いやぁ、年をとりました。
思えば、我々もベテランとか中堅なのでしょう、
もう若さを理由にはできない。」
短時間だけれども、色々と話した。
吉田さんからの答えは、この場では書かない。照れくさいから。
(無論、結構、極秘の情報も取り扱っている。)
この頃は、選挙戦を終えた、深夜2時か3時ぐらい。
中野区の、歩道を二人で歩きつつ。
この写真のとき、まだ当落は確定していなかった。
吉田康一郎、当選
4位での、当選だった。
電話でワーワー言った。
当選直後の候補は、とにかく忙しい。
各所から連絡が入る。
ちょっと名残惜しそうだったけれど、「じゃ、切るから」と。
「任せますよ、いろいろ。」
「私と同じこと、地方議会でできる即戦力ですから。
これで私もだいぶ楽になる。政界に、貴方が戻ってきたのだから。」と。
当選を報告する、吉田さん。
後ろには、私の為書きがある。ずっと、ど真ん中に貼ってくれていた。
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吉田康一郎さん
当確です!
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みんなで、万歳。
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万歳三唱
吉田康一郎候補
当確です!#中野区議会議員選挙#吉田康一郎
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貴重な、当選直後の動画がアップされていたため、ここに紹介する。
中野区議会議員選挙
吉田康一郎候補
上位当選です!
おめでとうございます
無所属トップタイ!#中野区議会議員選挙#吉田康一郎#無所属#中野駅北口
1,050人がこの話題について話しています
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恐らく、ほぼ同レベルのスキルを持ち、同等の戦闘力を有する地方議員は、吉田康一郎しかいない。
旅順閉塞作戦を見てもわかるように、彼は徹底している。
敵と目せば、最後の最後までとどめを刺す。
ロジカルに、理論的に、法と数字を駆使して戦う。
当選が決まって、本当に嬉しかった。
4位という、大きな票を頂いたことも嬉しいけれども、それだけじゃない。
単に、戻ってきたこと。
思えば、衆院選という大きな挑戦で泥をつけ、区長選で敗れ。
6年だろうか、7年だろうか、政界の表舞台から去っていた。
寂しかった。
いつも連絡をとりあっていた。
保守系のイベントでも、よく会う。
「早く、戻ってきて欲しかった」んだ、私は。
本日のBlogには、いくつか失礼な表現もあったろう。
ただ、まぁ、誰も怒らないと思う。
私の特権とは言いませんが、もう、これしか言う言葉がない。
できるだけ現場の空気を、そして言いたくて言えなかった言葉を行間に折り込めば、私にはこれ以外の書き方はできない。
すべて愛情表現で、すべて喜びの発露だ。
中野区の有権者に、ただ感謝する。
私の、大切な同志を政界に戻してくれてありがとう。
選挙を支えてくれた同志に、感謝する。
汗を流してくれて、ありがとう。
ともに同じ戦線に在れたこと、私は誇りに思う。
吉田康一郎が、戦線に復帰。
あの男が、政界に帰ってきた。
日本を変える選挙結果であると思うし、
これが第一歩となるだろう。
いまは、ただ、嬉しい。
当選を祝う方は、FBでのイイネ・シェア、Twitterでの拡散をお願いします。
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音。震え、、
(2014年 制作)
東京からボイスパフォーマーの山崎阿弥を招聘。
コンセプトは『音は震え』である。
山崎阿弥の声は西陣ファクトリーGardenを、声の持つ目に見えない何かで震わせた。
パフォーマンスでは、山崎は二階のロフト部分を、帰山は一階部分を使用。上と下に分かれてパフォーマンスし、お互いに共振した。
この機に西陣ファクトリーGardenを詳しくリサーチした。
元工場のオーナーであり、Gardenの大家さんでもある財木氏(かつてこの地に西陣織ネクタイ工場を経営していた財木氏は、工場跡を大幅に改修し、アートスペースとしてアーティストに貸し出した)にインタビューを行い、たくさんの貴重な情報を得ることができた。
そこで得たものは後々のKiyamaniaの活動に活かされることになった。
西陣の長い歴史の中で、元来織物工場であったGardenというスペースがどのように使われていたのか、そしてスペースに残されたさまざまな道具がどのように使われていたのか(糸を繰る錘、糸車など)。
特に関心を引いたのは、水についてだった。
西陣は糸を染めるための大量の水を必要とした。
財木氏曰く、かつて西陣には豊富な湧水があったということだった。
山崎と帰山は番外編として、京都の前衛アートの拠点である木屋町UrBANGUILDにてパーフォマンスをおこなった。
ダンサーの黒子沙菜恵氏をゲストに、30分の即興をおこなった。
企画・構想:山崎阿弥、帰山玲子/出演:山崎阿弥、黒子沙菜恵、帰山玲子
宣伝美術:納谷衣美
写真:ハヤシハジメ
Sound. Shaking,,
(2014)
Kiyamania has invited Ami Yamaski, a vocal performer from Tokyo.
“Sound is a vibration.” Just as the concept of this work, NFG was shook by something invisible in Ami’s voice.
The venue was divided in two acting areas, up and down stairs. Reiko used the main floor and Ami used the loft. While being apart, both can feel each other’s energy.
Taking this creation as an opportunity, Kiyamania has done further research on NFG. Through an interview, a lot of valuable information was given by Mr Zaiki, who was the owner of the former factory, and the landlord of NFG. Mr. Zaiki has renovated the former factory drastically, and was renting the space to artists. This information including the way they utilized the space as a former weaving factory through a long history of Nishijin, and the usage of the various parked tools such as spindles and spinning wheels, became an important resource for Kiyamania’s later creations.
In Particular, his story about water drew special attention. According to Mr. Zaiki, weaving Nishijin needed a lot of water to dye yarns and Nishijin area once held a large amount of spring water.
Later on, Ami and Reiko decided to perform an extra edition of the work at UrBANGUILD, a venue known for their selection of avant-garde art performances in Kyoto. Reiko has invited dancer, Sanae Kuroko for this performance. It was a 30 minutes improvised performance.
Concept and Performance: Ami Yamasaki/Reiko Kiyama
Guest Dancer: Sanae Kuroko
Promotional Design: Emi Naya
photos:Hajime Hayashi
Translation:Sachi Masuda/ Tareek “TK” Holmes
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