#西鉄バスの車窓から
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GO WEST 西九州新幹線に乗り放題(14)嬉野温泉駅 その2
嬉野市を鉄道が通る(鉄道駅ができた)のは新幹線が初めてです。
券売機は自由席券のみ(指定席券は窓口へ ~ ただし営業時間内)
駅は町はずれにあり、嬉野温泉街やバスセンター(嬉野温泉バスセンター)からはやや離れてます。JRバスと祐徳バスが乗り入れてます。
西口(温泉口)駅前広場のイベント会場
「あらら、こわれてる?」
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嬉野温泉駅(10分)… イベント会場の様子
嬉野温泉→新大村(14分)… デッキの車窓から
つづく
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2022年 八景シリーズBest5
新幹線、保存車両、モノレール。様々な鉄道を八景シリーズで紹介し、今年は制作数271作品、総掲載枚数1000枚以上を突破した。
今年から「鉄道の利用風景」を中心としたテーマを設けてみた。あるときは80年代や90年代を想像するような作品にしたり、あるときは普段使いを意識した作品にしたり、毎回テーマを設けて安直にならないように心掛けた。撮影はテーマを意識した場面を考え、撮影後に作品構成を決めたらレタッチでよりイメージに近いもの実現しようと細かく調整をしてみた。
アーカイブで確認も出来るが、せっかくなのでランキング形式で5作品をピックアップ。Tumblrでは紹介できなかったちょっとした裏話も入れつつ、今年を振り返ろうかと。
第5位 No.412 湘南八景 空中バス-湘南モノレール
(12/23投稿)
モノレールや新交通システムの登場が多かった。それぞれ「未来」を土台とし、どんな未来なのかより深掘りしたテーマを考えてみた。湘南モノレールでは「昭和の未来」がパッと浮かび上がり、それに合いそうなものを撮影した。
例えば平成の車両だがこのボックスシートはどこか古臭さがあり、窓の映り込みを利用し自然体な乗車風景を撮影した。広告の色味が邪魔なのもそうだが、この形をよりダイレクトに伝えたいと、モノクロにトーンダウンし古いイメージが先に来るようにした。
未来��テーマにした中では好評だったようでピックアップした。
第4位 No.272 多摩八景 ありがとう8631F
(6/16投稿)
来月引退予定の東急8500系。今年は7作品(No.144、No.272、No.286、No.318、No.353、No.361、No.410)で登場し、引退間地かの日常風景を紹介している。
「他人とは違う写真をつくりたい」。そんなことを考え始めたのが、この電車がきっかけだったとか。八景シリーズが始まる前は、この車両をSNSやブログで掲載したりするが、たまにSNSに出す友人の1枚がうまくて、あの作風に憧れたのを思い出す。
投稿の大半は8637Fだが、今回は8631Fの作品をチョイス。やはりスタンダードな車両を好んでいた人間としては、この編成の引退でひとつの歴史が終わったような気分である。
第3位 No.340 湘南八景 Everyday 江ノ電
(10/2投稿)
きっかけは江ノ電の写真だった。江ノ電は作品でもたびたび登場しているが、朝の江ノ電は撮ったことがない。いつも混んでいる江ノ電が、日が出ている時間帯でも空いているのは見たい。そんな好奇心で朝6時に鎌倉からスタートしていた。
内容は生活感を重視したいため、海沿いを走る区間は外し、鎌倉の狭い住宅地 を中心に絞った。生活感の中にもちょっとした珍しさを入れたいと思い、朝の連結や夜の分割を入れた。作品ではおまけ程度の登場だが、連結と分割は一つの作品にしたいと考えNo.341を作成した。
構成だが、当初は「朝」、「昼」、「夜」と段々と変わる構成だった。ただいつも通りで、つまらないと感じていた。変えるにしてもどう変えよう、「毎日って何?」、「生活感ってどう表現する?」ともう一度根本的なところから考えてみた。
そこでふと思った。毎日は1日だけではない、何度でも来る。当たり前だが、このことに気づかされた。構成を一度白紙にし、「朝」、「昼」、「夜」、「朝」、「昼」とコロコロ変わるようにした。一つずつ伝えるのではなく、作品全体を伝えることを意識しよう、そんなきっかけになった作品だったかと。
第2位 No.348 武蔵四景 旧型 西武2000系
(10/10投稿)
西武といえば黄色い。その残党も主要路線では2000系を残すのみで、西武へ行く度に記録していた。 “No.348”では記録したものを寄せ集めし、作成作品数を増やそうと水増ししたような作品とか。たまにアクション数(リブログといいねを合わせた数)がちょっと伸びる程度で、11月には完全に忘れ去られるぐらいの勢いだった。
転機は12/7のことだった。いつもはたまに来る程度だったアクティビティの通知が、急に異様な盛り上がり、しかもこのNo.348だけ。何があったと思ったら、tumblr 日本語スタッフ( @nihongo)で紹介されたようで、ちょっとしたコメントを残してくれた。それをきっかけに拡散され、しばらくはいいねの通知が続いている。
影響力のあるアカウントからの紹介、改めて凄い。おかげで他の作品にもいいねを貰えて、ささやかではあるが嬉しさを感じていた。改めてtumblr 日本語スタッフ( @nihongo)に感謝申し上げます。
西武を象徴する西武2000系だが年々数を減らし、見かける機会が減ったようにも思える。80~90年代の映画やアニメの舞台を再現するには必要な車両だが、その舞台と共に遠ざかろうとしている。
第1位 No.363 横浜八景 静→動-京急金沢文庫増結
(10/30投稿)
技術者達も驚愕。かつて京急に部品提供を行っていたドイツのシーメンス社の人たちが現地視察した際、そんな逸話を残した朝の金沢文庫増結。この光景を一度は見たいと、朝早くに向かった。
なんでも5分ごと、多いときは2線同時に作業が行われる。乗客の列は作業途中の動いている電車に近づき始め、それも増結を行うたびに同じ動きをする。日本の朝ラッシュは嫌なほど知っているが、増結作業と慣れた乗車光景が平然と行われることに、日本人でも異様な光景に思えた。 写真は明暗のバランスを均等にして修正しやすいようにと考えたが、そんな暇はなかった。目まぐるしく変わる作業、瞬時にアイディアを出し、それをすぐ形にする。ファインダー越しを信じ、ひっきりなしに行われる増結作業を、無我夢中で撮影していた。
構成は目まぐるしく行われている様子をイメージして、増結、合図を次々と変わるように盛り込んだ。もう少し様々な内容を詰めたかったが、増結シーンは8枚の制約で1つの構成に仕上げた。あまりたくさん詰め込むより、一つの作品で目まぐるしさを大切にした。
その代わり、Instagramでは出せなかったシーンを中心に投稿してみた。それがかなり好評だったようで、投稿するたびに盛り上がりがあり、過去最高の反応もあったとか(ドア開 11/22投稿)。 tumblrでは大人しいリアクションだったものの、あの光景の凄さとInstagramの盛り上がりが印象的で、今回トップにした。
いかがでしょうか。まだまだ紹介出来ていない��品も多くあり、それを眺めるだけでも正月の暇つぶしにはなりそうかと。 来年もシリーズを継続しつつ、何か新しいことが出来たらいいですね。それではよいお年を。
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各地句会報
���鳥誌 令和6年10月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年7月1日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
浜木綿を染めし落暉の日本海 かづを ナースとて香水ほのと香りたり 同 風に波打つまで育ちゐる青田 同 網戸越し松に鴉が羽繕ひ 清女 這ひ出でし苔を褥に夏の蝶 笑子 青梅雨の沖へ沖へと藍深む 同 産土の茅の輪くぐりに星が降り 希子 女達噂話や梅雨しとど 和子 虚子愛子柏翠句碑に大夕立 匠 蛍や自害に果てし一城主 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月4日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
夏の雲飛行機雲に結ばれて 喜代子 狭庭にも大株四葩二本咲き 由季子 天筆に今年も祈る星祭 都 パナマ帽モボモガの世に生きた親 同 青すだれ隣家の灯り遠くなり 同 単衣着て白き衿足なまめける 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
梅雨の蝶なれば鼓動のやうな翅 順子 阿羅漢に逢ふには黒き麻を選り 同 蚊遣香きれいどころを紫に 光子 剥落の喜怒哀楽の貌涼し 風頭 金ピカの阿弥陀炎暑を撥ね返す 佑天 遅れ從く行人坂の上に夏 昌文 唇うすき五百羅漢の薄衣 同
岡田順子選 特選句
茄子植うる角を曲りて羅漢寺 和子 阿羅漢の肋へ夜々の早星 光子 女人描くやうに蚊遣の煙かな 和子 朝涼に羅漢千ほど詣でけり 軽�� 羅漢へは夏の讃美歌届かざる 俊樹 水鉄砲水に沈めてゆく遊び 和子 汗の我汗無き五百羅漢像 緋路
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
いそいそと出かける母の洗ひ髪 成子 原罪を忘れしごとく髪洗ふ 朝子 髪洗ひ沛然の夜を深眠り 美穂 身体の壺深くせむ泉湧く 同 蝙蝠となりイザベラの墓を守る かおり 無限とはあの夏雲のあふれやう 朝子 遠ざかる汽笛を胸に髪洗ふ かおり 待つ事に慣らされたかなソーダ水 修二 昼寝覚また見失ふ青い鳥 かおり いいかげんな返事はできぬ滝の前 睦子 地の底に坑道のあり夏薊 朝子 水海月ニュートリノとは身の不才 久美子 青く浮く水の惑星飛ぶ蛍 光子 群るること嫌ふ子の飼ふ目高かな たかし 手の中に捨つるつもりの落し文 美穂
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
炎帝や新幹線の響動もせり 時江 汗の顔拭いても直ぐに汗の顔 みす枝 蛍の夜君と辿つた田舎道 和子 網戸より青き大空真清けし 時江 雲の峰向けて大きなホームラン みす枝 羅に齢見せたり隠したり 世詩明 万緑の中に抱かる風化仏 時江 弁解はすまじと白扇閉ぢらるる 昭子 老いたれば野盗の如く西瓜喰ぶ 世詩明 魂の抜けて極楽大昼寝 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月8日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
すこやかと母の昼寝のたのもしき 和魚 入道雲更に一段気負ひ立つ 秋尚 昼寝して疲れひと先づ剥がれゆく 貴薫 妣の忌や水やうかんの三姉妹 美貴 入道雲夢語り合ふ部活の子 同 保母泣かせ昼寝の時に元気な児 エイ子 海風に昼寝誘はれ母の膝 史空 束の間の午睡ゆらゆら旅の途中 のりこ 離れ島入道雲に呑み込まれ 史空 よく冷えて角立ちてをる水羊羹 三無 入道雲掴みきつたるクレーン車 同 今少し続きに未練昼寝覚 秋尚 定期船入道雲に溶けてゆく 史空 昼寝さめ穂高の風は空の色 ます江 幼子の昼寝絵本を抱きしまま 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
断面のやうなビル窓夕焼けて 都 アイスコーヒー別れるために会ふ人の 同 火取虫灯りともせばあらあらし 和子 狛犬の口を漱ぐや男梅雨 美智子 さらばへて汗もかかずに老いてゆく 悦子 目の前��影と思へば蚊喰鳥 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月12日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
非常なる毛虫退治も日常に あけみ きようだいが内緒の話ハンモック 裕子 今日を無事に終へて夜風と衣紋竿 同 山寺や山あぢさゐの道になり 令子 蛍飛ぶ幼き頃を誘ひ出し 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
滴りに苔むす岩の息づかひ 多美女 凌霄花掴まり処なき揺れて 亜栄子 早苗饗やのんびり浸る露天風呂 幸風 解体の決まる旧家や釣忍 百合子 葛餅を分厚く切りて客迎へ 美枝子 葛餅のギヤマン盛の重さかな 文英 涼しげに楓日傘の年尾句碑 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月16日 萩花鳥会
七月場所若手の力士続続と 祐子 雷神へ千の手拝む千年の樹 健雄 水田に波紋広げて梅雨に入る 俊文 今咲いた深夜の電話月下美人 恒雄 仙人掌の生きぬく力強きこと ゆかり 夕立の真つ只中の下枝かな 吉之 雷鳴に負けじ響くや母の声 明子 母逝きて幾年たちぬ仙人掌花 美恵子
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令和6年7月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
無雑作に立て掛てあり古葭著 雪 青葉木菟夜は淋しと鳴くならん 同 此のに金色飼はれし師の月日 同 足羽山はみだして来る蟬時雨 かづを 万緑を鎧ふ最古の天守閣 同 風鈴や此の先老をどう生きる 真喜栄 一と日毎老鶯の声啼細る 英美子 半百生鯖より蛸の足を買ふ 賢一 草を引く予定は未定なる気まま やす香 蛍の夜君と語りし田圃径 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
加賀鳶の夕顔の種翔しけり 世詩明 朝顔の晒したてなる朝の雨 同 梅雨の灯に手相見る癖ケセラセラ 清女 牽牛花の螺旋昇るや夢連れて 千加江 朝顔や父母ゐなく実家もなく 令子 夏のシャツざぶざぶ洗ふ達者に洗ふ 同 いとさびし師の忌が一つ増えた夏 淳子 雲の峰背ナに担ぎて手を振れり 和子 朝顔の咲いて嬉しきことも無く 同 荒梅雨や工事現場にヨイトマケ 数幸 光陰を渦に背負ひし蝸牛 雪 サングラス顔を隠してゐるつもり 同 光りたき所に光りゐる蛍 同 又の世も火蛾と生まれて灯を恋ふか 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月19日 さきたま花鳥句会
山百合や日に三本の村のバス 月惑 しなやかに見沼の青田穂を孕む 八草 翡翠を待つ三脚の影伸びて 裕章 はたと止む平家の里の夜の蟬 ふゆ子 梅雨明けて肌に塗るもの一つ増え としゑ 葉は枯るも生きてゐるよとミニトマト 恵美子 けだるげな猫の往診暑気中り みのり 酔芙蓉午後の日差しに色の濃く 彩香 愛想なき冷たさが好き竹婦人 良江
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令和6年7月21日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
隠沼の何処に存すか牛蛙 文英 炎帝を弾きとばして母の塔 三無 雨上り烈日をあぶ蟬と吾 久子 夏の沼水切りの輪閃閃と 三無 みんみんの遠く近くに読経めく 慶月 琅玕の風をたわわにアッパッパ 幸風 隠沼を揺さぶる響き牛蛙 亜栄子 漢行く灼けし空缶蹴りとばし 三無
栗林圭魚選 特選句
ご褒美はお花畑の大饗宴 白陶 水無月の乾き切つたる空となる 秋尚 炎天の隠れやうなき径白き 同 父母と黴の匂ひや里の閨 経彦 沼いつも古色を湛へ蜻蛉生る 千種 石仏の錆びし錫杖金絲草 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年7月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
金漿つけしお羽黒とんぼ登場す 雪 蝙蝠や国府の名残り路地路地に 同 真白なる羽根たたみたる火蛾の果て 同 夕方に雲の集まる男梅雨 たけし 宮涼し巫女の舞ふ袖ふくらめり 同 柿葺閂錆し竹落葉 同 蟬時雨一山丸ごと震へをり みす枝 夫逝きし庭より聞こゆ青葉木菟 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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2024年8月11日(日曜日)13:00~17:00 会場 伝心庵(京都)
◆第一部《TriYoga/エスラジEsrajと二胡生演奏によるフロー》
●残席2です。
『京の庭に流れるインド音楽と二胡の音色×TriYoga』
12:40 受付開始
13:00-14:30 ヨガ
参加費 事前予約3,000円(税込) 当日3,500円(税込)
定員 15名
TriYogaの瞑想的なフローに、Esrajエスラジ奏者-若池敏弘氏と台湾出身の二胡奏者-鍾於叡Shou-u Ray氏との、伸びのある二つの弓の調べを添えていただきます。風光明媚な伝心庵の日本庭園と優美なエスラジと二胡の音色に包まれて、心と体を解放する時間をともにしましょう!
◆第二部《インド古典楽器エスラジEsrajと二胡、タブラの共演演奏会》
15:00 受付開始(開場)
15:30-17:00 エスラジEsrajと二胡、タブラの共演演奏会
入場料 事前予約3,500円(税込) 当日4,000円(税込)
定員 40名(先着順)
台湾を拠点に世界で活躍中の東インドの擦弦楽器エスラジEsrajと北インドの打楽器タブラを演奏する-若池敏弘氏
世界各国で公演活動を行っている台湾出身の二胡奏者-鍾於叡Shou-u Ray氏
共演アルバム「strolls」は世界的な音楽賞“グローバル音楽賞”で銀賞受賞
今回、日本初共演が実現! 貴重な機会をお見逃しなく!
◆お申込み方法
《TriYoga》のお申込み先はこちら↓
https://reserva.be/leelayoga/reserve?mode=service_staff&search_evt_no=13eJwzNrU0M7IAAARjAUI
または [email protected] 茨木宛まで
《エスラジEsrajと二胡、タブラの共演演奏会》のお申込みはこちら↓
URL(クレジットカード事前決済)
または [email protected] 長瀬宛まで
第一部/第二部の両部は申し込みの方へ(事前の予約制6,000円。)
※窓口が違うためご注文ください。
2部の演奏会のみ参加ホームへの演奏会の申し込みが必要です。
●1部のヨガの参加は現金でのお支払いになります。当日受付で2500円をお支払いください。元気のみ
主催 ●●運営事務局
◆会場情報
伝心庵
〒616-8016 京都市右京区龍安寺西ノ川町30-1
アクセス https://maps.app.goo.gl/g6XLubCr3UJjN3EB9
市バス/JRバス「龍安寺前」停留所下車徒歩3分
京福電鉄北野線「龍安寺」駅下車徒歩5分
お車でお越しの場合は、近隣のコインパーキングをご利用ください
◆プロフィール
エスラジ・タブラ奏者 若池 敏弘(わかいけ としひろ)
兵庫県出身、台湾在住 1987年インドにてインド古典音楽を習い始める。 2011年、台湾音楽界で最も影響のあるとされている「金曲音楽賞」の演奏者部門で最優秀賞にノミネート。 2021年第12回「金音賞」にて最優秀演奏賞、2023年制作のアルバム「strolls」は世界的な音楽賞であるグローバル音楽賞で銀賞を獲得、第14回金音賞にて2度目の最優秀演奏賞および最優秀民謡アルバム賞を獲得。 日本国外で精力的に活動を繰り広げ台湾の音楽会にも影響を与えている。
二胡奏者 鍾於叡(Shou-u Ray)
台湾出身、台湾文化大学演劇学科マスタークラス中国音楽グループおよび音楽学科卒業。 伝統的な中華オペラ、ワールドミュージック、演劇など、ジャンルを超えたさまざまなスタイルの音楽に積極的に参加し、近年では日本、アメリカ、リトアニア、中国などを訪れ、各国で公演を行っている。 現在、基隆市立中華オーケストラの団員。 2023年参加したアルバム「strolls」は世界的な音楽賞であるグローバル音楽賞で銀賞を獲得、第14回金音賞にて最優秀民謡アルバム賞を獲得し、最優秀演奏賞にノミネート。
ヨガ 茨木恵孑(いばらき けいこ)
TriYogaインストラクター、アーユルヴ��ーダセラピスト
エスラジを弾くことを楽しんでいます。世界各国で愛されている、動く瞑想と言われるTriYogaの魅力を伝える中で、日々のプラクティスとして心身の浄化を体験中。同時に、YOGAの源流である聖典ヴェーダーンタも学び続けています。また、インドの伝統的な音楽の魅力にも惹かれ、2019年エスラジ奏者、インドや台湾で活動されている若池敏弘先生と出会い、エスラジを学び練習しています。
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2023/09/17
一日だけ京都にいた。京都国立近代美術館の展示を見たいと思ったからだった、あまり深いことは考えずに、なんとなくでも興味が湧いたら、それを単なる錯覚だとか抑えずに、とりあえず軽い気持ちで見に行ってみようというモードにあり、それを実行したかった。職場にコロナに感染した人がいて、自分のデスクに近い人だし備品を共用してた人だったので、最近の体調不良からして自分はグレーだと思われるし、今までにあまりない感じの深刻な頭痛がきていつもの薬が効かないということでいよいよこれは、と暗い気分になって仕事を早退した日の夜、22時くらいの夜行バスで向かった。どうもお腹の調子が悪い。でもバスに乗ったら平時の感覚が戻ってきた、たっぷりある移動中に山本精一の本を読もうと思って、財布とかと一緒にリュックに入れた。途中の鮎沢SAは涼しくていい匂いがした、自分の知っている少し昔の夏休みの匂いに近く、下界とは違ってさわやかだった。人の気配がなく、私にはまだ逃げ場があると思える、曇っていて星は見えないけど、この場所は多分自分の味方であり続けてくれるはずだ。途中で酔わない程度に本を読む、やっぱりこの人は頭がおかしい。お腹の調子が悪いしこんな寝不足じゃ、小学生の頃なら吐いていただろう、あんまり眠れないまま5時半に京都駅前に着き、時間的にまだ真っ暗だったら嫌だなと思っていたが思いの外明るくなっていて安心した。国道1号を北へすすみ、日がのぼる頃の鴨川を見たいということでどんどん歩いていった、くるりの「ロックンロール」を聴きながら歩くと歩くスピードと合ってて、人も全然いないし人の匂いも全然なく、空気はすずしく、なんとなく自由って感じがあり気分が良かった。高瀬川を渡り、左にカーブするコンクリートの橋を渡る、急に開けて広い川が見える、東側の山の稜線が朝靄と朝日でぼんやり霞んでいる、いいなあと思う、だんだんお腹が空いてきたけどそのままお寺とか神社に行くのがいいかもと、近くにあった豊国神社を参拝した。そのまま川の東側の小道を北へ進むと良さそうな和菓子屋さんがあったけど朝早すぎてやっていない。五条まで来て、川縁に降りてたもとを歩いていった。白鷺とかゴイサギとかカモとかカラスとかがいる、朝の方が川の水もきれいに見えて断然良い。とにかく朝が早すぎて落ち着けるところがそんなになく、疲れない程度に歩くしかなかった。8時半くらいまでぶらぶらして、期待外れだった朝ご飯のお粥をお腹に押し込み、地下鉄に乗って蹴上まで行き、今度こそ「インクライン」を見るんだと思っていたのに、結局やっぱり「インクライン」がどこにあるかわからず、以前来たのと同じルートで南禅寺に行き、水道橋と、本堂の龍の天井画を見た。もうこの辺りで気温が上がってしぶとい暑さに疲れ始めていた。やっぱり同じルートでそのまま平安神宮の方に琵琶湖疎水の脇を歩いて、美術館についたが微妙に開館まで時間があったので、その辺を一周してから入館。朝早いのに若者が結構きていて京都ヤングの文化程度の高さを感じた。眠すぎて時々急に電池が切れたように意識がブラックアウトする。工芸品が所々ケースなどに入れず直に展示されているので万が一そっち側に倒れ込んじゃったりしたら非常に危ない。何度か前や後ろに倒れそうになりながら、そのため監視員にうっすらマークされながら一個一個見たんだけど、やっぱり時代が新しくなるにつれてつまんないというか、何をこいつらはしたかったんだろう、みたいな気持ちが湧いてきて飽きてしまった。60年代までは工芸品とオブジェの境界に迷うような姿勢が見えて、それが作品に直結してる感じがして良かったけれど。最後の部屋ま��来てやっと意識が安定してきたので、また最初の方の部屋に戻って展示のストーリーを確認しながら見た、まあ話は分かったがなんかやっぱりつまらないので、単純にいいと思った展示物だけを見て終了し、コレクション展の階に行くと、やっぱりいい絵があったので、安心した。山崎隆の屏風絵《神仙》、《歴史》、村山知義のリノカット、伊藤久三郎の《人々》。これらを見られただけでも収穫だということにする。広くて明るくて客もあんまりいない、すいすいと自分のペースで回って、気分がいい。正常な空腹を感じたので、ああ自分は元気になったんだと安心し、東山からまた地下鉄で二条城前まで行き、頑張って微妙に体力を消耗する暑さの中を歩いていったのに、ちょっと一人で入るのに勇気が必要なカフェでは、狭い待合スペースにイケイケの若者、いや、文化に明るそうな高踏そうな?若者たちが鮨詰め状態なのが見え、すぐに心が閉じてしまって踵を返した、東西の太い道路を横切って、写真のギャラリーに行って��展示を見て、川崎祐という人の写真集を買った、東京で今個展���催中らしい(知らんかった)。最後にまた鴨川を見たかったけれど東海道新幹線の遅延の報を知り、しょうがないのでもう駅に向かう。やたら店内の暗いコンビニで適当に買ったアイスを食べながら日陰を歩く、どこもめちゃくちゃ混んでいて全ての人を黙らせたい衝動が起こったがナチュラルな関西弁は聞いていてそこまで気分が悪くない。京都駅で家にお土産を買って、結局定刻通りに運行しているらしい「ひかり」に乗る、名古屋まで30分くらい、忙しなさすぎてあんまり感傷?に浸ることもなく、でも夕方の車窓はやっぱり美しく、斜め後ろの座席の家族連れがうるさいな~ってことすら流せるくらい順調、定刻通り名古屋について颯爽と下車したら名古屋はまた死ぬほど人がいて、面食らった。改札近くのトイレも駅ビルのトイレもどこも全然空いてなくて、夕ご飯を買いたかった売店も観光客らしい人たちで大混雑していて、たかが名古屋のくせにと軽くイラついた。やっとのことで名古屋屈指の古い地下街の、そのまた地下(地下駐車場の)のお手洗いで用を足し、普通にバスにも間に合った、隣席は発車時刻ギリギリで乗り込んだ黒人の若いお兄さんだった。一瞬、バスジャックされたりしたらやだなとほんの一瞬思ってしまった(彼は終始、携帯などには一度も触れることなく、黒いリュックを抱えて多分寝ていた)。窓がでかいバスで、サッサカ暮れていく空と、高速の防音壁と、一瞬だけ帰ってきた名古屋の街とをゆったりした気分で眺めた、高速に乗る、というのはどこか、挑むみたいな気持ちになる。これからのとてつもない長い距離と時間に、後ろに去っていく風景に、空の色に、それがすごい好きだった。とてつもなく長い距離、というのが私にとっては重要なのです。とてつもない距離とそれが抱えている時間に次第に倦んでいく感覚さえ自分にとっては。こんなにも離れていたということ。これから離れていくということ、小さくなっていくことの寂しさと安心。夕方の名古屋高速はいい。伊勢湾岸道に入り、羅針盤のアルバムを聴きながらうとうとしていると、早々に「足柄から大井松田まで渋滞25キロ通過60分」の表示を見かけた。終電には間に合うかなと思って途中のSAで悠長にソフトクリーム(静岡茶味)を食べてたら、どんどん渋滞が伸びて40キロとかになっていた。横浜から首都高の入り口までも渋滞が始まってるということで地獄が待ってるらしかった。終電に間に合わなかったら交通費をいっぱいにケチった旅行が丸潰れになる~とか焦り始めていると、いざとなったらなんと父が東京駅まで出動してくれるという連絡が。ありがて〜けどそれもまた問題だよと思う。こんな年齢になった娘などもうどこで痛い目にあっていようがのたれ死んでようが放っておけばいいのにと思う。バスの運転手さんは非常に優秀な人と見えて、比較的空いている道ではちゃんとそれなりのスピードで走っていく。特に工事で端っこの車線が慢性的に通行止めの道でも、ガンガン右車線で飛ばしていき、どんどん後ろへ車が抜かされていくのが面白かった。この快調なスピードの上にいないとわからない音楽ってあるよね、ということで、くるりやスピッツやフジファブリックや奥田民生を聴いた。絶対そうなのだ。おなじみの足柄SAにたどり着くと、またものすごい数の車が集まっていて駐車場はごった返していて交通整理をする警備員さんが怒号ともつかない叫びで駐車できずあぶれた車、というかドライバーをさばいていた。御殿場を過ぎて雨が降ってきたけど、いつの間にか雲が切れて止んでいて、夜空はすごく澄んでいて星がいくつも見えた。こういう経験も、夏休みとか冬休み特有のものだった。渋滞でノロノロ進む車内でまた例の本を開く。人や動物に簡単にすぐ殺意を抱いたりしていて忙しそうで笑える。そもそも自分はこういう文体ににハマるたちだし、かなり真理らしいことを言ってたり考え方の極端さには共感すらしてしまうが、憤りとかマイナス?の力が増大した時の思考の飛躍と行動・言動が怖すぎて(ときどき時代錯誤感もあるし)、この人が父親でなくて本当によかった。歌声がいい、歌詞もいい、ギターもすっごいカッコいい、しかし。で、そんなこんなで終電に間に合うか、間に合わないか本当に微妙な時間になってきていたが、運転手さんの的確でメリハリある優秀な運転のおかげで遅れは1時間弱だった。心身ともにきついこともめちゃ多い仕事とは思うがやっぱり運転がうまい人はかっこいい。あと夜行バスは疲れている時はもちろん基本的には交通手段の選択肢から外すべきだ。どうせ眠れないから。ふらっとどこかへ消えたいと思った時、忙しない旅程を組むと感動する余裕も大して持てず帰ってきたときに何も変わっていない自分にただ、ただただ絶望する。0時前の混んでいる中央線快速、火でもつけたい気持ちに駆られつつ、急に疲労が襲ってきてまた意識がガンガン途切れて忘れたはずの吐き気も出てきて、薄めた地獄みたいだった。
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2023年1月19日(木) 出張旅行記その51 【1月13日】 ホテルへピックアップに来てくれたタクシードライバーは,店主の大きなカバン2つを見て,びっくりしていました。タクシーはセダンタイプ。今日は店主の他に4人の客が乗ると言います。他の客の荷物を乗せることができるか心配なようです。 必然的に体の小さな店主は後部座席へ。次のホテルで西洋人男女の4人が乗り込んできました。後部座席になんとか4人並び,出発。体をさらに小さくして詰める店主に,大丈夫だよ,と声をかけるお兄ちゃん。気さくな4人組のようです。 店主が抱えているSaxケースを見て,それは何?と声をかけるお姉ちゃん。Saxだと知ると,ワォ!じゃあ,今日のバスの中では,あなたのSax演奏を聴けるわけね!と嬉しいことを言ってくれます。 プロじゃない,趣味だからとは言っておきましたが,4人の期待値が上がりすぎているのではないかと心配です。どうか,彼らの前で吹くチャンスが訪れませんように。40年前に生存していたという,陸サーファーのような気持ちの店主。沈黙は賢って,こういうことでしょうか。 バスターミナルに着き,店主の大きな荷物も屋根に上げてもらいます。万が一を考えて,リュックには防水シートも兼ねたパックをします。これは,空港に荷物を預ける際にベルトが邪魔にならないようにかけるカバーで,リュックに付属していた逸品です。3年前にあった,防水カバーをかけたのに天地反対向きに置かれて意味がなかったという事態を避��ることができます。ある程度。 ノンキァゥのバスターミナルから歩いてホテルを探すのも面倒だったので,とりあえずの宿を一泊,ネットで押さえます。バスに乗りながらそれができるというのが,本当に便利です。ネット環境バンザイ! 途中休憩でタイのオロナミンC,いや,リポビタンD的存在のM-150を発見。ここラオスでも,多くの人におじさまたちに愛されています。長いバス旅や体調を崩した時によくお世話になりました。今回もゲット! 水は,ビアラオ会社の出す飲料水です。安心のブランド。5,000キープは,もしかすると18年前と値段が変わっていないかも。あれ?当時は3,000キープだったかな?(自信ない) ルアンパバーンを離れる道中で鉄橋を見ます。これは,ウドムサイに続く路線ですね。やがてはルアンナムター,そして中国へとつながる予定です。 メコン川が肥沃な濁流であるのに対し,特に北部の小さな川は青い川が多いです。南部に住んでいた店主からすると,珍しい光景に思えます。そびえ立つ山々も南部には少ないので,これまた珍しく思います。 途中,巨大なダムを見ました。ラオスには,現在たくさんのダムが建設され,水力発電を行っていると聞きます。電力を売るという巨大な市場を生み出す一方で,環境の激変は免れず,その影響はいかなるものか。心配は尽きません。もちろん,自然環境に関する問題は,ラオスだけでなく日本も,世界中のどこの国においても重大な問題となっています。 可愛らしい犬の親子を見かけました。ラオスでは犬も猫も基本放し飼いです。お金持ちがペットとして飼う場合に首輪をつけることがありますが,ほとんどが自由です。その代わり,狂犬病の心配も高く,さすがの店主もできる限り犬には近づかないようにしています。 マイクロバスはエアコンが利いていませんが,気温は涼しいし,窓を開けていればすこぶる快適です。しかし,舗装道路の状態が悪いと,前の車が巻き上げた砂埃が入ってきます。 おまけに,日差しの強いこと!半袖だと腕が痛い!日本から持ってきた夏用の袖カバーだけでは防御しきれなかったので,ジャンパーを前後反対向きに���て袖を守ります。帽子をかぶっていたのですが,日差しの向きが変わると帽子のつばだけでは防ぎきれず,ついに前布を取り付けます。イメージは,風の谷のナウシカのユパさまです。隣の西洋人のお姉ちゃんも,Nice!と笑ってくれました。このような細かな努力の継続が,老化を防ぐんですよ。いや,これホント。 途中うたた寝をしたり、記事を書いたり。4時間もするとバスは目的地ノンキァゥに着きました。あまり苦労した感じはしません。 ついに新天地に着きました。 【お知らせ】 ベトナム,ラオスへの買い付け旅行のため,しばらくの間休業いたします。ご迷惑おかけしまして申し訳ありません。 2023年1月28日(土) 19時からの営業再開を予定しています。 ご来店,お待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年2月4日(土),3月11日(土)の開催を予定しております。 16:30~18:30 上福島コミュニティーセンターにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ラオスの旅 #バスの旅 #変わろう日本 https://www.instagram.com/p/CnlgATkSLf7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#カフェ#バー#東南アジア料理#サバイディー#osaka#fukushimaku#cafe#bar#福島区グルメ#福島区ランチ#福島区バー#ラオス#ベトナム#チキンライス#ラオスの旅#バスの旅#変わろう日本
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平戸を歩く Hirado, Nagasaki 2018.12.31 平戸城、木造家屋、崎方公園、幸橋(オランダ橋)、平戸桟橋バスターミナル
平戸中心部のイラストマップ(Stroly): https://viewer.stroly.com/1619770826/ https://stroly.com/maps/1619770826/ 松浦鉄道 佐世保中央→佐々→たびら平戸口 鉄軌道 日本最西端の駅へ 2018.12.31 日本の鉄軌道で一番西の駅 たびら平戸口駅 すれ違い MR-600形603 伊万里行&レトロン号 MR -500形501 佐世保行 西肥バスで平戸大橋を渡る たびら平戸口から平戸へ 松浦鉄道 たびら平戸口駅 MR-600形606 伊万里行。佐世保行 604とすれ違い→出発 松浦鉄道 MR-600形606 伊万里行 たびら平戸口駅→松浦→伊万里車窓 佐世保駅バスターミナル 西肥自動車&させぼバス 1990年代製バスが健在! まとめて 2018.12.31 <プレイリスト> 九州のウォーキング 展望地 Viewing Spot 九州の観光地 Kyushu Tourism Spot 海の風景 Sea 商店街 Shop Street 城下町 日本の公園 Japanese Parks 日本の城2012- Casle, Japan 2018~2019年末年始 西九州旅行 九州地区のバス Japanese Bus 路線バス2016-2018 バスターミナル Bus Terminal -2019
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Watanabedori intersection in Tenjin, Fukuoka city #渡辺通四丁目交差点 #渡辺通四丁目 #tenjin #fukuokatenjin #fukuokacity #fukuokacitystreetscape #fukuokawalker #福岡散歩 #渡辺通り #西鉄バスの車窓から #西日本新聞ビルディング #博多大丸 #大丸福岡天神店 (at 博多大丸 福岡天神店) https://www.instagram.com/p/ChM-hVDvQKm/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#渡辺通四丁目交差点#渡辺通四丁目#tenjin#fukuokatenjin#fukuokacity#fukuokacitystreetscape#fukuokawalker#福岡散歩#渡辺通り#西鉄バスの車窓から#西日本新聞ビルディング#博多大丸#大丸福岡天神店
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2022.9.19(祝)~ 福岡市
6:50 ~ 灰色一色の空
心配していた台風14号は今日の朝方に飯塚市付近を通過して山口県方面へ進みました。昨晩は日付が変わる頃に時より風がうなる音がしたのですが、正直に言って台風と言った感じではありませんでした。眠りに着くまでに窓ガラスが心配になることもありませんでした。結果として、雨や風の音、建物の揺れなどで眠りを妨げられることなく朝まで眠れました。ただ、晩も朝も緊急車両のサイレンは良く聞こえてきました。
直撃時間帯の福岡市は雨も風も小康状態が続き、台風通過後の10時20分ころから雨が降り始めました。その時点で吹き返しの風も吹き始めましたがまだ強くありません。→ 1時間たって、時より唸りながら強い風が吹きはじめました。雨は小降り。→ 13時半頃、一旦鎮まる。→ 14時40頃から、今までで一番強く吹く。台風の中心は島根県の海沿い付近。(風の通り道が日本海上に出た=朝鮮半島で遮られない。)→ 16時過ぎても強風が治まらず、17時を過ぎてから落ち着いてきました。結局、通過後の方が荒れた台風でした。(日中で且つ、窓ガラスを心配するほどでなかったのでよかったです。)
今日は西鉄バスも朝から止まってます。JR もですが、いつも使ってるアプリ「どれどれ」の画面では列車が表示されてました。昨日の最終で(?)更新が停まっているようでした。
7気象機関の台風予測進路 … Integrated Multi-Agency Tropical Cyclone Forecast(日本時間・気象庁 19日 9:00)
米軍合同台風警戒センター(JTWC)より(日本時間 19日 3:00)
Windy.com : Wind map & weather forecast … 欧州中期予報センター(ECMWF)モデル・「風」の画面(日本時間 19日 16:00)
気象庁
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各地句会報
花鳥誌 令和5年10月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年7月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
あぢさいや錆ゆくときもずぶ濡れて 光子 雨に白く汚されてゐる木下闇 緋路 サイレンも街騒もまだ梅雨の底 久 鉄骨が叩く鉄骨濃紫陽花 緋路 見覚えのビルはもう無くサルビアに いづみ 夏草のつぶやくやうな雨であり 和子 鉄条網梅雨の蝶さへ寄せつけず 同 支へ切れぬ天へ石柱梅雨深し 昌文 飛石をぬらと光らせ五月雨 久 その人は梅雨に沈みながら来る 順子 五月闇不穏な波の来るといふ はるか
岡田順子選 特選句
列車音遠ざかるとき浜万年青 はるか 庭石は梅雨のものとて黄泉のもの 俊樹 サイレンも街騒もまだ梅雨の底 久 鉄骨が叩く鉄骨濃紫陽花 緋路 雨の日の桔のうしろすがたかな 美紀 萱草のそびらに恩賜なりし闇 光子 潮入りのみづは昔や通し鴨 いづみ 支へ切れぬ天へ石柱梅雨深し 昌文 瞬ける雨粒蜘蛛の囲の銀河 緋路 雨に白く汚されてゐる木下闇 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
鹿の子啼く隠れの島に入日濃く 修二 たはむれの莨にむせし桜桃忌 久美子 寂しさを下から崩すかき氷 朝子 茉莉花の別れ際こそ濃く匂ふ 美穂 不如帰久女の夢と虚子の夢 修二 首の無きマネキン五体暑き日に 愛 蟬生る瓦礫の闇の深きより かおり ひまはりの花と育ちて銃を手に 朝子 バレエ団の窓へブーゲンビリア満つ 愛 蔓薔薇をアーチに育て隠居せる 光子 うつし世のものみな歪み金魚玉 かおり バス停のバスまで覆ふ夏木かな 勝利 梅雨空にジャングルジムがひつそりと 修二 襖絵の孔雀の吐息寺炎暑 勝利 君嫁して香を失へり花蜜柑 たかし
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月6日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
らつぱ隊香り奏でる百合の花 さとみ 風鈴が相づちを打つ独り言 都 香水に縁の無き身や琥珀色 同 身ほとりの置き所無き土用の入り 同 滴りの奥にまします石仏 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
黒塀や蔵してをりし八重葎 宇太郎 ふりかへる砂丘の海の線は夏 同 葛切や玻璃にスプンの当る音 同 夏草の中の林道下りけり 同 ソーダ水斜めに建ちし喫茶店 同 向ひ風麦藁帽を光背に 同 白服を吊りたる明日の再会に 悦子 浜昼顔一船置きし沖を恋ふ 同 白南風旅の鞄をコロコロと 美智子 足跡や巡礼のごと砂灼けて 栄子 紫陽花やうた詠むくらし悔もなく すみ子 玫瑰の咲くや砂丘の果の路 益恵 躊躇なく風紋踏んで白い靴 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
早苗饗や手足を伸ばす露天の湯 幸風 はらからや薄れゆく過去心太 百合子 一品を後からたのむ心太 秋尚 青楓雄々しく抱ける年尾句碑 三無 天草の歯ごたへ確と心太 文英 朝顔に護符つけ市の始まりぬ 幸子 朝顔のつぼみ数へて市を待つ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
西日射す鏡に海女の手櫛かな 昭子 兜山古墳を包む大夕焼 ただし 良き事の有りや無しやの今朝の蜘蛛 信子 信州に梅雨のかけらの雨が降る 三四郎 石も又涼しきものの一つかな 昭子 香水や周囲の心独り占め みす枝 梅雨寒や口を預けて歯科の椅子 信子 うなだれて少年の行く片かげり 昭子 僧逝きて久しき寺の夏椿 英美子 猛暑日や万物すべて眩しめり みす枝 天近き牧牛の背や雲の峰 時江 コップ酒あふる屋台の日焼顔 英美子 サングラス外し母乳を呑ませをり みす枝 かぶと虫好きな力士の名をつけて 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
芋焼酎醸す香りの満つる街 三無 団扇さし出かける孫の下駄の音 ことこ それぞれが里の焼酎持ち寄りて あき子 老媼の団扇頷きつつ動く 和魚 児に送る団扇の風のやはらかく ます江 店先で配る団扇の風かすか ことこ 泡盛の味覚えたりこの良き日 同 団扇手に風のざわめき聞く夕べ 廸子
(順不同特選句のみ掲載) …………………………………………���…………………
令和5年7月11日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
沖縄の鳳梨乾いた喉癒す 裕子 青空や収穫の日の夏野菜 光子 夕暮れは車窓全開青田風 紀子 貝釦一つ無くした夏の暮 登美子 まだ聴けるカセットテープ夏深し 同 雲の峰送電線は遥かなり 令子 夕焼に路面電車が揺れてゐる 裕子 鐘を撞く寺は山上雲の峰 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月11日 萩花鳥会
透き通る海は自慢よ海開き 祐子 救助士の臀筋たくまし海開き 健雄 夏草や一対すべて青の海 俊文 生ビール久方ぶりや子とディナー ゆかり 引く波に砂山崩る海開き 恒雄 天の川点滅飛機の渡りゆく 美惠子
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令和5年7月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
羅を纏ひしものの身の一つ 世詩明 天国も地獄も自在孟蘭盆会 同 風の盆男踊りの笠深く 幹子 盆の供華華やいでゐる村の墓地 同 ギヤマンの風鈴揺れる蔵の街 嘉和 古団扇思ひ出の新しき 雪 縁側に男冥利の裸かな みす枝 ナツメロを口ずさみつつ草を引く 富子 蓮開く様自力とも他力とも やす香 神主の大きな墓を洗ひけり ただし 在りし日のままに夏帽吊し置く 英美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
田舎家の土間のだんまり朝�� 要 炎帝の遣はす鴉黒く群れ 千種 会釈する日傘に顔をなほ深く 同 夫恋ひの歌碑を見てより秋近し 炳子 飴色に枯れ空蟬の垂れ下がる 久子 古民家の故郷の匂ひ壁に黴 経彦 三猿の酔ふ草いきれ庚申塔 眞理子 古民家の茅屋根匂ふ炎天下 三無
栗林圭魚選 特選句
蓮花の水面の余白空の青 亜栄子 カラフルな浮輪乗り合ふ市民バス 久 じやぶじやぶと揃ひのティーシャツ水遊び 三無 咲き足せる泰山木の真白かな 秋尚 森少し膨らませをり蟬しぐれ 慶月 水音に誘はれつつ灼くる道 眞理子 惜しげなく涼しさ放つ水車小屋 要 ひとときの静謐滝に対峙して 久子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月19日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
マッカーサーパイプ咥へてアロハシャツ 千加江 遠雷や織部の茶碗非対称 泰俊 二業地に一の糸鳴る夜涼かな 同 悠久の光り湛へて滴れり 同 青田風満目にして夕仕度 清女 脱ぎ様のまことしやかに蛇の衣 雪 退屈をもて余しゐる古団扇 同 洗ひ髪訪ふ人も無く待つ人も 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月21日 さきたま花鳥句会
沢蟹の渡る瀬石に日の名残り 月惑 空蟬や辞書に挟まる紙兜 八草 家眠る厨にひとりバナナ剥く 裕章 山の水集め男滝の帯となる 紀花 どら猫にまさる濁声夏の風邪 孝江 炎天に心字の池面雲動く ふゆ子 打水や土の匂ひの風生まる 康子 行くほどに街路華やぐ百日紅 恵美子 睡蓮の葉を震はせて鯉の道 みのり 八の字を書きて茅の輪を潜りけり 彩香 誘蛾灯今は無人の故郷駅 静子 枇杷熟るる眷属訃報また一人 良江
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令和5年7月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
半夏生何処が嫌ひと云はれても 雪 蛇にまで嫌はれさうな蛇苺 同 何処をどう突いてみても蟇 同 お隣りは今はの際と虎が雨 一涓 師の友は文教場址合歓の花 同 守宮まづ招き入れくれ舎入門 同 忘れじの人今も尚蛍の夜 同 入道雲天下制する勢あり みす枝 藍浴衣片方だけにピアスして 昭子 サングラス外して妻は母となる 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年7月23日 月例会 坊城俊樹選 特選句
空蟬や地中の記憶あるらしく 要 靖国の坂みんみんの急くに急く 昌文 炎天に零戦仰角三十度 佑天 鳥居へとまぬがれがたき炎天を はるか その日近付き靖国の灼けてをり 慶月 みんみんの高鳴く魂の声として はるか
岡田順子選 特選句
熱き骨ぽきぽきたたみ日からかさ 眞理子 真白な祢宜の出て来し木下闇 政江 笛の音の遠くに生まれ夏の果 光子 零戦を撮る少年の夏休み 慶月 下乗せし老女紅濃く夏詣 同 英霊に七日の魂の蟬時雨 政江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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1️⃣中国地方乗り鉄旅(新山口~徳山)
2021.09.05
今回の乗り鉄旅は18きっぷを使って4日間、中国地方の廃線になりそうな路線を中心に巡る。観光・グルメとか無し。ただ、乗って、乗り継いで、車窓からの風景を眺めるだけ。 こんな酔狂なプランに友達二人が参加希望。二人ともこちらと同じ乙女座で、同じく鉄道の旅が好きだが、決して「鉄オタ」ではない♪ 東京を出発したのは9月2日(木)、21:50東京駅発のサンライズ出雲。これで終着駅、出雲市まで行き、そこから18きっぷ利用開始。木次(きすき)線、芸備線、姫新(きしん)線を乗り継ぎ、初日は岡山県の津山泊。 2日目は津山から因美線で鳥取、山陰本線で松江へ戻り、ここから出雲市までは既にサンライズ出雲で昨日も通過しているので、一畑電鉄に乗り換えるという素敵なプランで出雲市へ戻る。そして再び山陰本線に乗り換えるも、8月の豪雨の影響で江南~田儀は代替バスに乗り換えて歴史ある温泉地、温泉津(ゆのつ)に宿泊。 3日目は山陰本線を更に西へ向かって益田へ。山口線に乗り換えて新山口へ。ここで同行の友人とお別れ。一人は福岡空港から、もう一人は宇部空港から当夜のうちに帰京。 ってことで、「独り旅」となる新山口駅からの投稿~~
新山口駅は2003年までの駅名だった小郡(おごおり)駅のほうが馴染がある。
右は岩国行きでこちら乗車。 左は下関行きで二人が乗車。 どちらもいい顔だ♪
瀬戸内海~
日本海とはちょっと違う
徳山駅で15分停車
山陰・裏日本から来ると随分、都会に見える。 友達の話によるとJR各社の協議が行われていて、今度、JR東日本、JR西日本から一部切り離して、「JR裏日本」という儲からない路線の会社を作るそうだ、うひゃ!
すぐそこは徳山の港
駅ピアノ
駅ふぐ
駅図書館
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あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか? まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下との境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。 徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。 ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベランダに男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向かって若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。
東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の���貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建ち、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。
アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。 掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。��隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。 通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。
わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部を一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。 人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか? そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか? あるいは都市は既に死んだ? 人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける? このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。 実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの炎を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?
白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。 午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。 こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか? 都市の穴蔵とはそんなに浅いものだったのか?
いやぁ、 未来都市ですね、
ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。��る濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。 未来都市? だってこんなの、見たことないですよ。 ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市? ここは現在なのに? ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だ��ら、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。
ようやく気づいたか。 ああ。 それで? おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと? どうかな、 本当は都市なんか存在しないのか? どうかな、 すべては幻想だった? そうだな、 どっちなんだ。 まあ結論を急ぐなよ。 おれはさっさと結論を出して原稿を書かなきゃならないんだよ。 知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。 あんたは誰なんだ。 まあ息抜きに歩いてこいよ。 息抜き? いつもやっているだろう。あの循環だよ。 ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。 キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする? 豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。 リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭も指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。 と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の躍動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。
それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都市がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。 なあ、そうだろう? 応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。 コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所によるランドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。 さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場で物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。
ほら、 幕は上がらないだろう、 お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出してみろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ? あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか? それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在した。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な玄関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか? 胸を抉られるような気持ちだったはずだ。 そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほっとしたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか? もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。 では、お前は想像の世界に満足したか? そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七��戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じながら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。 結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう? こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。 とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都���へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。
実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。 あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。 この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。 長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。アトリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう? 一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。
まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。 わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、���ぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。 どうかな、 で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう? そうだな。
もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。
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立山黒部アルペンルート 電鉄富山から黒部ダム手前まで
6時に起きて準備をする。
窓の外は青空で、雨晴海岸に行ったことが今日に繋がったのだと思った。
ホテルの朝食バイキングを食べに行くが、前日夜に食べた担々麺と唐揚げの満腹感があって、あまり食べられなかったが、一通りの惣菜を食べ、朝カレーも食べた。
旅行すると全ての欲求が高まる。
食欲なんてその最たるもので、気になったものは買って全て口にいれてしまう。しかしそれを抑えてしまっては旅でも旅行でもなく、ただの移動であると俺は思う。欲求の解放こそ旅、旅行の醍醐味なのだ。
ホテルを後にして電鉄富山駅へ向かう。
今回はJRの発行するフリー切符なので、アルペンルートの切符は電鉄富山駅の窓口でもらう。15から20人ほど既に改札へ並んでいるが、もっと並んでいると思ったので少し拍子抜けする。
窓辺の席に座ると、朝日が照らしてくる。
これは俺のこだわりの一つだが、朝は東向き夕方は西向きの席に座ることにしている。
陽に当たることで朝も夕方も気持ちが高ぶっていき、逆光の中で眺める景色が更に風景を映えさせてくれる。それは岩井俊二監督作品の画によく似ている。
一時間ほど過ぎると渓谷が見えてくる。
これは所謂黒部渓谷とは別物であるが、そこに架かる橋が美しかった。
その後すぐに立山駅に到着する。
ここからアルペンルートの始まり。
最初はケーブルカーで急斜面をゆっくりと登り美女平へ。この日は混んでいなかったので、立山駅に到着してすぐにケーブルカーに乗れたが、夏休みや紅葉の時期などは、ここで待ちの時間が生まれるため、スケジュールは余裕を持った方がいい。
ケーブルカーは15分もしないくらいで登りきり、美女平に到着する。次にバスに乗り換えて室堂へ向かう。
50分ほどの乗車時間だが、途中で日本最大落差350mを誇る称名滝が見える滝見台を通過する。そこでバスは一度停車し、ゆっくりと進んでくれるため、木の間から遠くの斜面を白く流れ落ちていく称名滝を見ることができる。そこを過ぎれば立山��劔岳、大日岳といった山岳信仰で有名な山々を眺めることが出来る開けた場所に出る。不覚にもその山並みの壮大さを前にしながら、陽の光の暖かさに負けて終点まで眠ってしまった。
室堂で時間があったので、近くを散策することにした。
ここで標高はアルペンルートの中でも最高の標高2500mにあり、周りには7月でも雪が残っている。そのため、体に少し寒さを感じる。
少し先に火口湖ミクリガ池の展望台がある。漆黒の青とでも言うべきその湖面にも雪があり、うっすらと雲を浮かばせる空がそこには映っていた。
天然水を飲める場所もあり一口飲んでみた。
味は甘みがあるわけでもなければ、何か風味があるわけでもない。まじりっけ無しの水とはこういうもので、体の中にすーっと入って沁み込んでいく。その感覚は他の湧水や浄水を飲んだときのそれとは全く違う。これから登山へ向かう人々は、みんなこの水を水筒に詰めて登山道を進んでいく。喉の渇きを感じたときに最適だと思った。
次に乗るのは標高3000m弱のの立山を貫く立山トンネルをトロリーバス。
日本で現存するのはここだけで、電車のように上部にある架線の電気を使って走る、言わばバスと電車のハイブリッドのようなもので、法律的には電車に相当するという現代の日本では極めて珍しい乗り物。
高度成長期には東京や大阪、名古屋でも走っていたため、漫画こち亀ではその時に纏わるエピソードの回がある。
乗り心地は普通のバスよりも揺れや音が少ない印象。スピードも早く10分で大観峰へと到着。
ここでロープウェイへ乗り換える。
運良く一番前の真ん中に立つことが出来た。
真ん中右に見えるのが黒部ダム湖。
窓が開いているので風が通る。
途中に支柱が一本もないのがすごい。
これで一気に500mを下る。
そしてダムへ向かう最後の乗り物は再びケーブルカー。
この先に待っているのが黒部ダム。
続きはまた別で。
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2019.11 両神山
前回の谷川岳登山からたった2日後。関東周辺の山は紅葉の時期であり、比較的近場の秩父らへんまで日帰り登山しようかと計画。 立て続けに来る台風でなかなか山に行けなかったということもあり、登山ラッシュ。 近場の日帰りなら、せっかくだから大学の友人を久しぶりに誘ってみる。
東京の実家に前泊。西武秩父0820発のバスに乗り日向大谷口へ向かう。バスに乗るとき運転手さんから言われたのだが、台風の影響で途中道路が崩落しており、バスは日向大谷口の手前で引き返すとのこと。登山口まで向かうにはバスを降りて1時間ほど歩く必要があるが、そのまま向かうことにした。途中でバスを1回乗り換えなければならないのだが、高校生くらいのテニス部20人が途中駅で下車するのにすごく時間がかかり、バスの乗換え時間に間に合わなかった。両神山へ向かうのは4人だったので、薬師の湯でタクシーを配車し4000円くらいで登山口へ(4人で割り勘)。バスは途中で引き返すけどタクシーは日向大谷口まで行ってくれため、なんだかんだで当初の計画通りの時刻に到着できた。
【コースタイム】日向大谷口 (1000)→登山道入り口(1015) →八海山(1130) →弘法之井戸(1200) →避難小屋(1215) →横岩(1300) →両神神社・休憩(1310) →山頂(1350) →両神神社(1420) →避難小屋(1450) →弘法之井戸(1455) →登山道入り口(1615)
タクシーで日向大谷口に到着し、まず目に入ったのは大崩落を起こした駐車場(見る影もないが)。写真には写っていないが、駐車場横に建っていた建物も崖の下に落ちていた。駐車場は近くにまだいくつかあるから、無理に復旧させないかもしれない。 ・・・これはもう直せないんじゃないの?
日向大谷口から登山口へ。
麓は紅葉しておらずまだまだ緑。道幅がかなり狭く、場所によってはすれ違いが困難な箇所も。ただ、避難小屋までの2時間くらいは写真のように平坦でゆるい上り坂なので歩きやすい。
駐車場だけでなく登山道も台風の影響をかなり受けていて、本来は登山道であるはずの道が土砂で埋もれていたり流されていたり。その上あまりテープが張られていないので、進行方向について頻繁に悩まされる。
渡渉が数箇所あり。
約2時間で弘法之井戸という水場に到着。
先の水場から避難小屋までは15分くらい。こんな立派な山小屋なのに無人である。とてももったいない感。
おまけに中はこんなに広々としており、明らかに最初は有人の山小屋として作られている。昔の登山ブームのときに建てられて、あまり人が来なくて廃業してしまったのだろうか。避難小屋にしてはすごく快適だと思う、水場も近くにあるし。
中腹まで登ってくると紅葉が綺麗。この日はお昼過ぎても天気が良い。
山肌も色づいている。谷川岳のときもそうだったけど、やっぱこのスマホは赤色がダメだな、実際はもっと綺麗だったのに。
避難小屋から山頂までは急勾配がずーっと続く(鎖場やガイドロープも結構あった)。ここまでストイックに急坂続く山は関東では知らないな。自分は友人のペースで登っていたのでほとんど疲れなかったけど、山が約1年ぶりの友人にはかなりキツいと思う。
避難小屋から急坂を1時間登り続け、両神山の神社に到着。ここから山頂まではまだ30分以上するので、山頂踏む前にここでお昼休憩をとることに。
神社から山頂までも急坂続き。この山なかなか凄いわ笑。
極めつけは山頂直下の崖登り。鎖もあるし別に大したことはないけど「こんなものまで出てきたよ」感があった。
山頂はあまり広くなく、10人もいればいっぱいになる。
標高1700mとそこそこ高いだけあって景色は良い(ちょっと樹々が邪魔だけど)。霞で富士山は見えなかった。他の山もみんな紅葉しており、山肌は見渡す限り橙。
山頂にて山座同定中のおじさん。写真を撮るお兄さん。
下山は下山で足に負担が大きい。なにせ今度は急な下り坂となるので、重力で加速する体を受け止めるのが大変。降りるスピードは早いんだけどね。登りのときよりも周りを見る余裕ができて、やはり紅葉は綺麗だった。
山頂から登山口まで約2時間半。避難小屋までは早めに着けたと思うのだが、そこから登山口までがダラダラ長い。先にも書いたように、台風の影響による登山道の変更などで道に迷ったり。あと、さすがに友人もへばってしまい休憩を何度か入れたりもした。
帰りもバスが来るとこまで1時間ほど歩く必要がある。バスが出発するちょうど1時間前に下山できたので、今から向かえば乗車することはできる。が、友人がもう歩きたくないらしく、日向大谷口までタクシーを呼ぶことに。バス停までという選択肢もあったけど、社会人なのでリッチに西武秩父駅まで(約1万円)。
そもそも台風の影響が無くバスがちゃんと登山口まで来てくれていれば、1時間も歩く必要なくその場で待っていればいいだけで、今回みたいにタクシー呼ぶ必要はなかった。
日向大谷口から西武秩父までは約1時間。タクシー��るまで20分くらい待っていた時間もあるけど、それでもバスに乗っていたよりは早い到着だったと思う。西武秩父駅は数年前にリニューアルして、駅直結のお店や温泉ができて賑わっている。嬉しいのは、ちょい呑みできるお店。秩父の利き日本酒3種+秩父の豆腐で800円くらいだったか、特急が出発するまでのちょっとした時間にちょうどいい。
最近導入された西武鉄道の特急。窓が広い!
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赤井川村
みなさん、こんにちは。
今回ブログは、日本で最も美しい村連合に加盟している
赤井川村の一泊滞在記です。
赤井川村のキャラクター”あかりん”。
赤井川以外の、《日本で最も美しい村連合��加盟村》
北海道上川郡 美瑛町
山形県最上郡 大蔵村
岐阜県大野郡 白川村
長野県下伊那郡 大鹿村
徳島県勝浦郡 上勝町
熊本県阿蘇郡 南小国町
東に札幌市、南西に小樽市、北に余市町、南に倶知安町に
隣接する総人口1,188人(2019年5月13日現在)の村です。
きれいな円を描く赤井川カルデラの中心部が村の中心部であり、
噴火口に人が住む(死火山ではありますが)、日本で唯一の村です。
赤井川村には、キロロスノーリゾートもあります。
札幌駅を11時38分発のJR函館本線エアポート111号小樽行に乗車します。
当日は雨。
小樽までの車窓は海岸線を眺められて、まるで小さな旅のようで好き。(^^)
小樽で、倶知安行の汽車に乗り換え、余市駅へ向かいます。
余市駅はSuicaやPASMO等の交通系ICカードでの改札はできませんので、
小樽駅で一旦改札を出て、きっぷを購入します。
車内の運転席の様子。
液晶パネルなど無い、無骨なデザインが格好良いです。
余市駅到着12時59分。
JR北海道は駅ナンバリング制度を実施して、
余市駅はS18。
駅ナンバリングは札幌駅を起点とする始終着駅のローマ字の頭文字と、
札幌駅を01とする駅の番号で構成されています。
駅ナンバリングの目的は、
外国人旅行客が安心して旅行できるようにするため、
特定の駅の識別を容易にする手段を提供し、
道内完結の定期特急列車が運転される線区と、
外国人旅行客の利用が多い線区に導入されています。
北海道内では、2007年(平成19年)札幌市営鉄道に続いて導入されました。
余市駅から赤井川へのバスは一日4便あります。
13時55分発のバスに乗車することにして、、、。
余市駅前通りに面した鮮魚店「柿崎商店」で昼飯。
バスの乗車時刻まで、1時間の余裕を持っていたのですが、
さすがに人気店で、入店待ちの列。
内心、間に合うかどうかヒヤヒヤしながら注文の料理を待ちます。
蟹肉のほぐし身とイクラを載せたルビー丼。
酢飯大盛りを追加しました。
美味しかった!(^^)
赤井川村行きのバスに乗車しました。
約24分の乗車時間で、赤井川農協前にて下車。
赤井川村唯一のコンビニ「セイコーマート」前。
今回の泊まりは、セイコーマート横にある民泊の「旅酒処 混沌」。
混沌のバーカウンター。
先に来ていた友人達が、なにやら料理を始めていました。
余市の柿崎商店で購入してきた牡蠣の酒蒸しを作っていました。
牡蠣をさばくのは、群馬県沼田を拠点に、
”Team Mizue”というスキートレーニングキャンプをしている
スキーヤーのマツシン。
味付けは、旅人でスキーヤーでススキ��のBAR残心のオーナートゥールさん。
美味い牡蠣でした。
野菜の天ぷらを揚げているのはマサオミ君。
マツシンがわらびの煮付けを作ってます。
オリンピアンで、VECTOR GLIDE スキーヤー星瑞枝さんもいらっしゃいます。
ゴルフコンペ参加のために北海道へ来ているそうです。
youtube
ワラビは、瑞枝さんの実家で採れたワラビだそうです。
ワラビは、天日干しして、手揉みして、
天日干ししてまた手揉みして二日間かけ、
手間をかけて乾燥ワラビを作るんだそうです。
カウンター横にチップ入れの瓶。
ワールドワイドなお金がいっぱい。(^^)
ベトナムのお札もあります。
赤井川の住人さんからのじゃがいもをもらいました。
キロロスキー場でBLACK CAFEを営業している
ブラックさんファミリーも散歩ついでに立ち寄ってくれました。
夕日がきれいでした。
夕方、近くの赤井川カルデラ温泉にみんなで歩いて向かいます。
あかいがわカルデラ温泉
入湯料400円。
営業時間10時〜21時(採集入館時間20時30分)
旧泉質名 食塩泉・芒硝泉・重曹泉(美人湯の代表格) 塩化物・炭酸水素塩・流酸塩 (お湯は無色透明です)
夜は霧が発生していましたので、
翌日は朝5時30分頃に雲海の景色を見に、峠の展望台へ来てみました。
赤井川村はすっぽりと雲海の底。
雲海に浮かぶ羊蹄山の姿は素晴らしい景色でした。
雲海を見た後は、キロロスキー場まで送ってもらい、
余市岳登山へ出発。
次回ブログへ続きます。
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