#腹は立て損喧嘩は仕損
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引越しの記録
6月26日(水)
引越し作業が辛くてヘロヘロ。本当にすぐに疲れてしまう。疲れてて泣けてくる。
6月27日(木)
ノンちゃんとご飯。誕生日プレゼントを渡した。体調が悪かったので健康的なものが食べたいって思っていたら、猫吉というお店に行こうって提案してくれて助かった。とろろご飯の定食を食べて大満足。そしていつもの喫茶店。名前とメニューが変わっていて、あの美味しい���スタは食べられないという事実に驚いた。ずっと続くものなんてないのか?今、続いていること全て、すごいぞ。私はこの日もヘロヘロだったのだけど、ノンちゃんと話している途中で疲れを忘れていた。ノンちゃんはすごい。この日から左耳がなんだか塞がったような感じがし始めた。少し心配。
6月28日(金)
引越し前日。最後の出勤。みんなにレモンケーキを配った。自分と同じ歳の双子ちゃんと一番仲良くしてくれたYさんから可愛らしいお菓子を貰った。Yさんが寂しいと言いながら本当に泣いてしまいそうで焦った。しんみりしないようにちょっとヘラヘラしてしまった。家に帰って来てからじわじわと寂しさにおそわれた。4年間、居たんだな。夜、業者の人に不用品を持って行って貰った。軽トラで来る話だったのに普通のトラックで来てびっくり。雨だからという理由だった。約束していた値段は変わらなかったから、ラッキー。「若いから」という理由でなんでもかんでも積み込んでもらえた。カタコトの日本語と微笑み。その後、土屋さんとノンちゃんと電話。いよいよだなという壮大な計画が始まった。
6月29日(土)
引越し当日。体力勝負。沢山動いてヘトヘト。引越し先までどうやって移動しようか迷っていたら引越し屋さんが助手席に乗せてくれてラッキーだった。開口一番、あいみょんみたいですねと言われた。何度か人からあいみょんみたいと言われたことがある。似ているのか?仕事の話になり、これまでの経緯を聞いていたらインタビューしている人の気持ちになってなんだかアツかった。その人は正社員になる必要性に対し、疑問を感じているタイプの人だった。共感がほしい訳ではなく、自分の意見はしっかり突き通す感じだったので、言葉の厚みを感じた。無事に到着。すると、母と父と妹もやって来てびっくり。生まれて初めて引越し蕎麦を食べた。そんな文化があること自体知らなかった。年越し蕎麦みたいでワクワク。ドーナツと私の大好きな和菓子屋さんの饅頭も食べた。その後、雨樋が詰まっているとのことで、業者の人とまた色々やり取りをした。人と話しすぎて疲れた。
6月30日(日)
すんごくバタバタ。毎月恒例の一ヶ月の振り返り投稿は意地でもやりたくて更新。この日は部屋の引き渡し・立ち会い日だった。掃除を頑張ったのだけど、壁にサーっと傷があり、2万円くらい損した。悔しい。こういうことで悔しくならないような人間になると心に強く誓った。悲し��った。おまけに物干し竿を持って帰らなくちゃいけなくて、握り締めながら電車に揺られ、そのまま帰宅。もう、あまりにも疲れていた。寝る前にピルクルのミラクルケアのむヨーグルトを飲んだ。6月は人生最大の疲労だったなと思う。
7月1日(月)
やっほー、七月。妹の誕生日。喧嘩をしていておめでとうって伝えられなかった。転出届と転入届を出すために市をハシゴ。1万歩歩いた。市役所で健康的なお弁当に出会えて嬉しかった。野菜がたっぷり。そういえば最近野菜を食べていなかったのだ。雑穀米も美味しかった。元気が出て、免許の書き換えもやりに行くことが出来た。警察署に入るのは、悪いことしていなくてもどきどきする。お年寄りが多かった。お年寄りの人が普段何をしているのか疑問だったのだけど、こういった場所に集まっているのだなって謎が解け、スッキリした。この日の移動中は服部みれいさんの「あたらしい自分になる本」を再読。早速、無印でオーガニックコットンの下着を購入。自分に優しくなりたい。
7月2日(火)
耳鼻科へ。聴力検査の結果、やはり左耳の聴こえが悪かった。薬をもらえたからしっかり治していきたい。治りますように。その後、美容院だったのだけど30分前にキャンセルの電話が来てびっくり。落ち着くためにコメダへ。あみやきサンドとホットミルク。お腹が満ちると落ち着く。金曜日に変更。気を取り直して図書館へ。小さい頃によく行っていた図書館で匂いがすごく懐かしかった。カードを無事に再発行できた。工藤玲音さん、服部みれいさん、銀色夏生さんの本を数冊借りた。機械に重ねて置くだけで借りられてハイテク過ぎて驚いた。電子書籍も借りられる。すごいすごい。帰りに妹の誕生日プレゼントを購入。コスメキッチンの人に全部決めて貰った。プロに聞くのが結局早い。渡すのが楽しみ。帰宅後、父に頼んでいた机が届いた。早すぎる誕生日プレゼント。これでようやく椅子に座って字を書ける日がやって来た。色々頑張りたい。
7月3日(水)
メンタルが圧倒的に安定した。安心、安心。早寝早起きが習慣化している。祖母のおかげだなって思う。今日は祖母もお休みだったから粗大ゴミの整理を一緒にやった。なんとか処理の仕方がわかってよかった。電話の女の人が凄く丁寧でわかりやすかった。出掛けずにひたすら部屋の整理や連絡を頑張った。夜ご飯は炒飯を作った。美味しくできてよかった。そろそろ仕事を決めなくちゃ���この先の檸檬の予定が決まっているからこそ!仕事一筋だった祖父の仏壇に向かってお祈りしてみた。
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The Other Day, I Met a Bear(R18)
よく晴れた昼下がり、タヴは���斧を持ち出して薪割りをしていた。 昼食を食べた子どもたちは村の遊び場に行ってしばらく帰ってこないだろう。溜まっていた雑事を片付けるのにこれほど打ってつけの時間はない。 今日みたいに木材が乾いているうちにまとめてやっつけてしまおう。タヴは斧を振り、てきぱきと薪を割っていく。 かつては剣と盾を携えて、パラディンとして困窮した人々を救う善行にいそしんでいたタヴだが、頭にとりついた異星の幼生を親玉ごと退治して以来、恋人のドルイドとともに居場所を失った人々を導くため安全な森の奥で生活をするようになった。今では孤児たちの保護者を務めながら村の中での生活を満喫している。 今やっている薪割りもその暮らしの一部だ。 軽く汗ばんだ首筋を肩にかけた手ぬぐいで拭き、ふう、とため息をつく。 そのとき、近くの茂みががさがさと鳴った。 タヴはなんの警戒もなく振り返ると、その視線の先にいた茶褐色の塊ににこりと笑いかける。
「おかえりなさい、朝から見回りご苦労様――」
茂みからぬうっと現れたのは、大きな一頭のケイヴ・ベアだった。 もともと大型の種だが、目の前の個体は目を瞠るほど大きい。 タヴはその姿を見て安心した。村の遠くまで見回りに出た恋人は早く見積もっても一日はかかると言っていたが、思っていたよりも早く帰ってきたらしい。 獣は濡れた鼻をひくりと動かして、タヴを見つめている。 なぜ彼が茂みから出たきり動かないのか、タヴは深く考えていなかった。斧を下ろして汗を拭うと、再び視線を合わせて近づこうとする。 違和感はそこで生じた。 森の木洩れ日が差した瞬間、きらりと獣の毛並みが針のように輝いた。
「ッ……!!?」
タヴは本能的な恐怖を感じ、ぶわりと総身に鳥肌が立った。 その場に立ち止まって後ずさる。 彼女の動作に焚きつけられたかのように、雄熊は信じられないほど大きな口を開けて咆哮した。
――違う!
すぐ誤解に気づいたタヴはとっさに手斧を拾おうとざっと土を蹴る。危険な旅をしていた頃の瞬発力はまだ死んでいなかった。 伸ばした利き手が斧の柄を捉えた瞬間、恐ろしい咆哮がもうひとつ増えた。 どすどすと重量のある音を立て、疾駆する巨大な影が目の前に立ちふさがる。 これ以上何が起きたとタヴはまばたきしながら��の姿を目で捉えた。 現れたのは、向こうに負けず巨大なケイヴ・ベアだ。タヴに背中を向けると、先に現れた雄熊に向かって荒々しく威嚇する。 その力強い背に守られるような感覚に、タヴは天の啓示を受けた乙女さながら直感した。
「ハルシン!」
恋人が変身したケイヴ・ベアは雄熊を一歩も踏み出させまいと牽制している。 斧を構えたタヴは彼に庇われている手前、自分からはうかつに動けずその場から状況を見守るしかなかった。 おそらく、相手は眠りから覚めたばかりで途方もなく荒ぶっている熊だ。長い冬眠に栄養をとられ、山の狩場だけでは空腹を満たせなかったのだろう。 豊かな自然に囲まれた土地に住む以上こういった事態は大いに考えられ、それ故ハルシンは定期的な見回りを欠かさなかったが、今日は間が悪かったらしい。 ケイヴ・ベアたちは牙を剥き合い、腹の底から響くような咆哮を立て合っていたが、しばらく睨み合った末、痺れを切らしたように相手の雄が立ち上がった。 即座にハルシンも同じ姿勢をとる。
――グオオオオッ!!
――――ングオオオオッッッ!!
鋭い鉤爪のついた前足同士が交差し、互いの身体にしがみつくように組み合って、首に牙を立てようとする。 目の前で繰り広げられる取っ組み合いの迫力に気圧されて、タヴは息を呑んだ。 初めて見る成人した熊同士の戦いは熾烈を極めた。しかもどちらも体格が似ているせいで一瞬どちらが恋人なのか目で追うのもやっとという状況だったが、タヴは次第にあることに気が付く。 一方の雄は相手に咬みつこうと躍起になって追いかけているが、もう一方は激しく頭を振って急所に食らいつかれるのを避けながら、前足で敵をいなしている。 たまに牽制するように肩に咬みつくが、深追いはしない。 相手を殺すのではなく、自身の優位を示して敵意を奪う。その年季の入った喧嘩の仕方を見て、彼がハルシンであると気づくのはさほど難しいことではなかった。 だが根気強い説得に似た対応に、血が昇った雄は聞く気を持たない。 タヴは意を決した。手斧を放り投げて家の中に駆けていくと、伝統のある調度品のようにダイニングに飾られていた大盾を携えて戻ってくる。 タヴは盾を正眼に構えて、太陽の光を弾いた。 村での生活が始まって使うことがなくなっても、よく磨き上げられた鋼は日光を鋭く跳ね返す。 雄熊は反射的に光に気をとられ、タヴに視線を向けた。 その隙を逃さずハルシンは突進する。 ハルシンの巨躯に突き飛ばされ、雄熊の身体が地に伏せる。 突き出した前足で相手の頭部を押さえつけ、ハルシンは大きく牙を剥き出しにすると、その顔に向かって長く咆哮した。 地響きのような低い鳴��声がこだまし、森を震撼とさせる。 これ以上ないほど見事にマウントをとられた雄はようやく自分の立場を知ったらしく、一度は抵抗するように低く唸ったものの、やがてハルシンの足元におとなしく転がった。 すっかり威勢をなくした姿を見て、ハルシンはゆっくり身体をどける。 熊はハルシンの様子を伺いつつ立ち上がり、その姿を視界に入れたまま徐々に後退していった。 彼が黙って見つめ返していると、熊は少し虚勢を張るようにグルル……と鳴きながら山に身体を向けて去っていく。 深い緑の中に褐色の背中が消えていくのを見て、タヴの緊張の糸が一気にほぐれる。
「びっくりしたぁ……一時はどうなることかと……」
タヴは盾を下ろし、大きくため息をつく。 ハルシンが熊になって戦うところを見るのは初めてではないが、熊同士の戦いとなると話は違ってくる。 まさに大自然の洗礼を受けた気分だ。 「タヴ、お前に助けられた。力だけでは押し負けていたかもしれない」
ハルシンは変身を解くと、熊の去っていった方を注意深く見つめた。 「かなり若い雄だった。生まれつき身体が大きいから気も大きい。一度だけではわかってもらえなかったかもしれないな……今後も何度か説教する機会があるかもしれん」
彼が守るのは村の安全だけではなく、自然の均衡そのものだ。 あたら若く血気盛んな若熊が人を襲い、モンスターとして退治される運命を辿るのをハルシンは危惧したのだろう。 自然を尊ぶ恋人の判断にタヴも賛成だった。
「お互い損しないやり方があるといいよね……」
人間にも獣にも住む土地が必要だ。争いが起きる前にハルシンはできることをすべてやろうとしている。見回りもそのために行っていることだ。 だがタヴはあらゆる責任がハルシンに集中しすぎていないかときどき心配だった。 タヴ自身もまた子どもたちの養育を引き受けながら村の安全に気を遣っているが、ハルシンのように野生動物まで導くことはできない。 もし子どもが危険に晒されれば、間違いなくタヴは獣を排斥してしまうだろう。 そうならないようハルシンがいるのだが、こんなことがあるともしものことが頭の隅をよぎる。
「……模索するしかないな」
ハルシンは噛み締めるように言い、タヴも静かにうなずいた。 そこでようやくタヴはエルフに戻った彼の姿を落ち着いて見ることになった。 肩や腕には熊との格闘でできた生傷がいくつかあり、裂けた服から血が滲んでいる。
「――血! 治療しないと!」
「ん? いや、そんなに深い傷じゃないぞ、心配するな」
「でも……そんな傷見せたら子どもたち心配しちゃう」
「ん。まあ、そうか………」
「それに私も心配よ」
そう言ってタヴはその場で恋人の上半身から服を脱がせると、癒しの手の呪文を唱え、傷を癒しにかかる。
「……それにしても、一目見てよく俺だとわかったな」
ハルシンは��々ばつが悪そうに治療を受けていたが、��がて口をひらくと、タヴにそう言った。 正面から手を伸ばして肩の傷に光を当てていたタヴは、「ああそれ?」と苦笑しながら答える。
「堂々と現れるもんだから、向こうがハルシンだって一瞬は思っちゃったんだけどね。でもよく見たら全然違うって気づいて……」
何が特徴的だとかそういう具体性のある話ではない。 ただ見つめ返してくる視線の穏やかさだとか、佇まいとか、そういう心に訴えかけるものが違っていた。 熊になったハルシンと接していくうちに彼の雰囲気そのものが自分の中に自然な感覚として根付いたのだろう。
「それに、私を守ってくれる熊なんてほかに心当たりないし」
出血が収まり、傷がふさがると、タヴの腕が引っ張られた。 裸の胸に抱き寄せられ、力強くキスされる。 不意の展開に驚いたが、そのキスには彼の真剣な感情がこもっている気がして、タヴは自然に身を任す。
「ん……」
しばらく味わうようにハルシンは唇を重ねる。 タヴを抱く腕は彼女の腰に回り、強く密着するように抱き締める。 暖かい木洩れ日に包まれるようなキスの感触と、彼の逞しい胸に受け止められる心地よさにタヴはゆっくり目を閉じた。 だが、次第に違和感に気づく。
「え……?」
自分の足の付け根になにか固いものが当たっていることを察し、タヴは素っ頓狂な声をあげた。 ハルシンはすまなそうにタヴの首筋に顔を埋める。
「久々の喧嘩で血が昇ったのかもしれないな……すまない、そのうち落ち着くと思う」
恋する獣のようにタヴの首に頬をすり寄せ、深くため息をするハルシン。 彼の興奮を肌に感じて、タヴの心臓はどくりと跳ねた。 とても落ち着くためにそうしているとは思えないが、ほかに方法がないのだろう。
「……もし、落ち着かなかったら……?」
タヴは恐る恐るつぶやいた。 今は大人だけの生活ではない。 子どもたちがいる。 まだ彼ら彼女らは大人の男にこういう生理現象があることを学ぶには早すぎる。
絶対に避けたい。
「……い、家の中、行こうか……」
恥ずかしさに身を裂かれそうになりながらタヴは小さな声で言う。 この問題は明るいうちに処理しなくてはならない。できるだけ早く、確実に。 タヴが優しく腰を撫でて促すと、ハルシンは一度身震いし、彼女の身体を大きく抱え上げた。
「うわっ」
「本当にすまん、タヴ」
そのまま横抱きにされ、家の中へと急ぐ道すがら、「一回で済むといいが……」と心配そうにこぼしたハルシンのひと言にタヴは軽くめまいがする。 今日は熊同士の喧嘩以上のものを見ることはないと思っていたが、どうやらもっとすごいことになりそうな気がする。 今日は薪割りが捗ってよかったとタヴは現実逃避のように考え、苦笑した。
身体の大きなハルシンとタヴがふたり寝できるようにと、この生活を始めてから村民によって贈られたベッドは丈夫にできていた��� 子どもたちが寝た後に自分たちがすることを想定している造りに、都会育ちのタヴは田舎の新妻ってこんな目に遭わされるんだろうなと完全にオープンな村の空気を少し恨めしく思ったりもした。 だがみんな気は優しくて良い人ばかりだ。 この村で彼らとともに生活を始められて本当によかったと思う。 そんな彼らもまさかふたりが昼間から子どもたちの目を逃れてベッドを酷使することは予想していなかったと思うが。
「ああっ……!」
高く突き出すようにした腰を抱き寄せられ、熱った逸物をゆっくりと挿入されていく。 胎内から溢れる熱い快楽にタヴは両手でシーツを掴んだ。 いつもなら挿入してしばらくは甘く緩やかに彼女を愛するハルシンだが、今ばかりは「すまない、もう動くぞ」と性急な口調でつぶやき、腰を動かし始めた。
「あっ、あっ、ああっ、ああ……!」
奥まで一気に突き込み、引き抜いてはまた突き入れる。 その間隔の激しさにタヴは何度も喘いだ。 最初は手と舌を使って慰めていたが、野性に目覚めた彼のそれは生やさしい愛撫では満たされなかった。 結果、お互い裸でベッドに上がって獣の交尾のように番っている。
(まだ昼なのに……こんなことになるなんて……)
興奮に染まった頬をシーツに押しつけ、はあはあと息を切らしながらタヴはなけなしの理性で自省した。 ハルシンは自分だけが欲を発散するのは不公平だと思ったらしく、すでにタヴも十分すぎるほど前戯を施されている。 発情した恋人の匂いや空気にあてられて、タヴもすっかり時間を忘れて彼との行為に没頭してしまった。 今、子どもたちは村で元気に遊んでいるだろう。今から夕飯のことを考えている子もいるかもしれないし、ほかの子のように木登りが上手くいかなくて夜になったらタヴとハルシンに慰めてもらおうと考えている子もいるかもしれない。 彼ら彼女らが求める保護者の顔とはあまりにかけ離れた弛緩した表情で、タヴは後ろから突かれるたびびくびくと魚のように跳ねた。
「はあッ、は、あッ……タヴ……ッ!」
ハルシンが熱い息をこぼしながら名を呼ぶ。 重量のある彼がタヴに腰を打ちつけるたびベッドもぎしぎしと土台から揺れた。 今までの経験上よほどのことがないと壊れることはないと知っているからか、それとも危険な本能に理性を完全に上書きされたか、今のハルシンは獣のように振る舞っている。
「あっ、あっ! ハルシン……っ! も……イっちゃ、う……!」
「あッ、ああ……すまん、俺はまだかかる……ッ!」
「ああっ! あんっ、あぁっ、ああああっっっ!」
今日何度目かの謝罪を口にしながらタヴの腰を抱きかかえ、ハルシンはさらに突き入れる。 息をつく間もない激しい腰遣いにタヴの目の前は快楽だけで明滅した。 泣き叫ぶような喘ぎ声を喉から振り絞って、絶頂する。
「ッふ、ん……!」
達したタヴ��手足の力をなくして弛緩したが、ハルシンはそこになおも腰を叩きつけ、さらに快楽を追いかける。
「あ"……あ"、あ"あ"あぁ……っ」
すでにタヴの感覚は限界だった。 頭の中が強制的に朦朧となり、彼と自分との境界があやふやになる。 猛った本能を抑えきれず、無我夢中で自分を追いかける彼の欲望がまるで自分のもののように感じられる。 かつてマインド・フレイヤーに寄生されたとき、同じく幼生を抱えた仲間たちと感覚を共有させられたときの何十倍も濃密な感覚がタヴを襲う。
熊が吼える声がした。
「おおッ……!」
ハルシンは一度ぶるりと身を震わせると、タヴの中に己を解き放った。 どくどくと精液が注ぎ込まれる。タヴは惚けた表情でそれを受け止めていた。
(おなか、熱い……)
「……すまない、中で出してしまった」
ハルシンは激しく息をつきながら詫びると、ゆっくりと自身を取り出した。 村の生活が始まったときから内心タヴはいつ彼の子を授かってもいいと思っていたが、現状はまだしばらく村の子どもたちに愛情を注ぐべきだろうとふたりで結論を出していた。親だと思っているふたりに実子が生まれたら、ほかの子たちは愛情に不均衡が生じるのではと不安になるだろう。 綺麗事かもしれないが、ふたりは村にいる全員を抱き締めて育てたいのだ。 ハルシンは濡れそぼった秘部に指を差し入れ、奥から精を掻き出すように動かした。 少しもったいない気がしたが、タヴは納得してそれを受け入れた。 窓の方を見ると、まだ太陽は出ている。
「よかった……間に合いそう」
今から汚したシーツを洗って干してもまだ猶予はありそうだ。 しかし今すぐは動けそうにない。身体の芯が疲れきっている。
「疲れただろう。少し休憩していてくれ、家のことは後は俺がやる」
「うん……任せてもいいかな」
「当たり前だ」
ハルシンは頭を屈めてタヴの唇にキスをした。
「……今日はすまなかったな」
「もう、謝らないで……、私も気持ちよかったから、いいよ」
タヴが笑いかけると、さっきから顔色が少し暗かったハルシンも安心したように微笑む。
「愛してる、タヴ」
そうささやいてもう一度キスをする。 後を引かない優しいキス。 くすくすと笑い声を立てて、タヴは、私も、とささやき返す。 抱き締めた恋人の肌は、汗と太陽の匂いがした。
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 5月23日(月) #友引(丙子) 旧暦 4/23 月齢 22.3 下弦 年始から143日目(閏年では144日目)にあたり、年末まではあと222日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 22週目の月曜日、21/53回目の月曜 で残りが32回です💦月曜日は何か と支度に手惑い梃子摺るもんです💦 今朝は定刻にキッチリ目が覚めと云うよ リも2時間も前からスタンばってた😅 早起き過ぎる🤣😂🤣爺だ��らかw 日曜日の爺夢活でグロッキーなんで早く 😪💤寝過ぎちゃうんですよ😅💦 って呑気に構えてたら、鶯谷まで乗 り過ごしちゃました⤵️折角、池袋 で乗り替えの時にエスカレーター駆け上っ て一本早いのに乗れたのに⤵️こう 云うの「元の木阿弥」っては大袈裟 かな😅💦って事で今週もご贔屓に🤚 . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #キスの日(#KISS DAY). 1946(昭和21)年5月23日(木)、日本で初めてキスシーンが登場する映画となった、佐々木康監督の「はたちの青春」が封切られた日です。 主演の大坂史朗と幾野道子がほんのわずかに唇を合わせるだけのものでしたが、これが話題になり、映画館は連日満員だったそうです。 . #友引(トモビキ). 六曜の名称の1つで、相打ち勝負なしの日のこと。 つまり良いことはないが悪いこともない日のことである。 ちなみに六曜は仏教とは関係なく葬式を避けるという話は迷信である。 「友人を引き込む」とされている日とされている。 友引の日には、結婚式、入籍、七五三、お宮参り、引越し、建築、契約、納車、宝くじ購入、は問題ない日です。 験担ぎで拘るなら、凶となる11時~13時の間を避けると良いでしょう。 六曜は、先勝(センショウ)、友引、先負(センプ)、仏滅(ブツメツ)、大安(タイアン)、赤口(シャッコウ)の6つである。 . #世界カメの日(#タートルデー、#WorldTurtleDay、#国際デー). . #ラブレターの日(#恋文の日). . #チョコチップクッキーの日. . #リボンナポリンの日. . #不眠の日. . #難病の日. . #ステハジの日. . #日本初の地下鉄. . #国産小ねぎ消費拡大の日(毎月23日). . #乳酸菌の日(毎月23日). . #ジャマイカ労働者の日. . #メキシコ生徒の日. . . ■本日の語句■. #腹は立て損喧嘩は仕損(ハラハタテゾンケンカハシソン) 【解説】 腹を立てれば損をするばかりだし、喧嘩をしても損をする。 怒りは抑えたほうが得だと云う事。 . . 1980(昭和55)年5月23日(金) #西丸優子 (#にしまるゆうこ) 【女優】 〔長野県〕 . . (南千住駅) https://www.instagram.com/p/Cd4GeOIhl5V0fGAf9CPatI94n1FYfniwElGW_40/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#友引#キスの日#kiss#世界カメの日#タートルデー#worldturtleday#国際デー#ラブレターの日#恋文の日#チョコチップクッキーの日#リボンナポリンの日#不眠の日#難病の日#ステハジの日#日本初の地下鉄#国産小ねぎ消費拡大の日#乳酸菌の日#ジャマイカ労働者の日#メキシコ生徒の日#腹は立て損喧嘩は仕損#西丸優子#にしまるゆうこ
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ノンストップ
2020年(日本公開は2021年)/韓国/カラー/100分
2020年に韓国で公開。日本では2021年2月から数館で公開した「ノンストップ」をレンタルDVDで鑑賞しました。
北朝鮮の人民軍特殊部隊が作戦実行中に最強の女戦士モクレンは突然仲間を撃ち逃亡。脱北して韓国に逃げてしまう。
十年後、韓国のとある市場でねじり揚げパン屋を��む女性ミヨン(オム・ジョンファ)がいた。お店は繁盛しているものの生活は豊かではない。夫のソクファン(パク・ソンファ)もPCの修理業をしている。洗濯機が壊れているためにオロナミンCの裏蓋キャンペーンで洗濯機の二等を狙っていたが一等のハワイ旅行を当ててしまう。当初は二人共喜んでいたものの、冷静になったミヨンは倹約家の性格から当選した裏蓋を売却して生活費にあてようとする。そんな時、娘のナリが喧嘩して帰ってきた。原因はささいなことだったが、話を聴いていくと自分だけ旅行が出来ていないナリの寂しさが解ったため、一転して家族でハワイ旅行に向かうことになった。
そんな中、北朝鮮の工作員が韓国に潜入していた。逃亡したモクレンがエアハワイに搭乗してハワイに向かう情報を得て同じ飛行機に乗ろうとしていた。ミヨン家族は仁川国際空港までシャトルバスで向かったために受付ギリギリのタイミングでやってくる。しかしこれが幸いして3席の内、2席がビジネスクラスにアップグレードされる。ミヨンとナリがビジネスクラスに座り、ソクファンはエコノミーに座ることになる。
北朝鮮の工作員によるハイジャックが実行される。しかし肝心のモクレンが見つからない。一方、ハイジャックが実行されていた最中にお腹を壊したミヨンはトイレに居たために難を逃れたのだが…というお話でした。
実は僕は飛行機ファンという面もありまして新作映画の中に「珍しく韓国映画の中に飛行機モノがあるな。」程度の軽い気持ちでレンタルしてみたんですが、これがなかなか面白い作品に仕上がっていました。韓国のお母さんが思わぬ形で大活��するコメディでありつつ、ガン&格闘アクションは格好良く仕上がっているし、思わぬキャラクターが動いたり隠し球だったりするサスペンス的要素もしっかりしています。
良いキャラには幸せに、悪いキャラにはそれなりの仕打ちが起きて欲しい観客の願望にも上手く答えている点にも好感。ただ、それに答えるあまりに「今飛行機は何処にいるのよ?」という疑問が残ったのはちょっと残念だったかな。ハワイに向かっている最中にハイジャックが起きて北朝鮮に向かって、それを主導権を握り直して…とやっているので燃料は余分に消費しているし、機体の損傷も起きているので「ラストに向かう場所」には到底無理なはずだし…というのがあるんですよね。「理屈よりも物語の気持ちよさに身を任せる」のが正解でしょうし、変に飛行機の知識が無い方が楽しめるのかも。日本映画の「ハッピーフライト(2008年。奇しくもこちらも目的地がハワイ)」の時は航空会社で働く人を真面目に取り上げすぎたために「実��こういう事が起きたらどうなるんだろう?」というシミュレーション作業の様になってしまいラストが劇的になりにくかった事を考えると、飛行機モノで「リアルと映画のウソとのちょうど良いバランス」を取るのって相当難しいのかもしれません。
「リアルと映画のウソのちょうど良いバランス」と言えばセットで組んだ飛行機がちょうどいい上手いバランスに仕上がっていてこちらの方は映画ファンとしても飛行機ファンとしても両方満足出来る内容でした。実際のビジネスクラスはもっと席数が多くて斜めに配置されたりと作りが複雑だったりするんですが、登場人物の会話を綺麗にカメラで収めようとするとあの席数・配置が正解でしょうね。あとキャビンアテンダント(CA)さんの休憩部屋「クルーレスト(クルーバンク)」は大人が立てるほど大きくはないです。googleで検索して貰うと解ると思うのですが横に寝転ぶスペースは十分確保している一方、縦のスペースとしてはかなり狭い空間ですからね。でも芝居をするにはあの大きさのスペースが無いと絵が映えないですから、ここでの映画のウソの付き方もとても良かったと思います。
韓国映画を見ていると頻繁では無いもののたまに大塚製薬のポカリスエットを見かけるんですが、オロナミンCも韓国で売っているのは始めて知りました。しかも物語のきっかけとして使われている訳ですから見ていて嬉しかったです。
了
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11180143
愛読者が、死んだ。
いや、本当に死んだのかどうかは分からない。が、死んだ、と思うしか、ないのだろう。
そもそも私が小説で脚光を浴びたきっかけは、ある男のルポルタージュを書いたからだった。数多の取材を全て断っていた彼は、なぜか私にだけは心を開いて、全てを話してくれた。だからこそ書けた、そして注目された。
彼は、モラルの欠落した人間だった。善と悪を、その概念から全て捨て去ってしまっていた。人が良いと思うことも、不快に思うことも、彼は理解が出来ず、ただ彼の中のルールを元に生きている、パーソナリティ障害の一種だろうと私は初めて彼に会った時に直感した。
彼は、胸に大きな穴を抱えて、生きていた。無論、それは本当に穴が空いていたわけではないが、彼にとっては本当に穴が空いていて、穴の向こうから人が行き交う景色が見え、空虚、虚無を抱いて生きていた。不思議だ。幻覚、にしては突拍子が無さすぎる。幼い頃にスコンと空いたその穴は成長するごとに広がっていき、穴を埋める為、彼は試行し、画策した。
私が初めて彼に会ったのは、まだ裁判が始まる前のことだった。弁護士すらも遠ざけている、という彼に、私はただ、簡単な挨拶と自己紹介と、そして、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎませんか。」と書き添えて、名刺と共に送付した。
その頃の私は書き殴った小説未満をコンテストに送り付けては、音沙汰のない携帯を握り締め、虚無感溢れる日々をなんとか食い繋いでいた。いわゆる底辺、だ。夢もなく、希望もなく、ただ、人並みの能がこれしかない、と、藁よりも脆い小説に、私は縋っていた。
そんな追い込まれた状況で手を伸ばした先が、極刑は免れないだろう男だったのは、今考えてもなぜなのか、よくわからない。ただ、他の囚人に興味があったわけでもなく、ルポルタージュが書きたかったわけでもなく、ただ、話したい。そう思った。
夏の暑い日のことだった。私の家に届いた茶封���の中には白無地の紙が一枚入っており、筆圧の無い薄い鉛筆の字で「8月24日に、お待ちしています。」と、ただ一文だけが書き記されていた。
こちらから申し込むのに囚人側から日付を指定してくるなんて、風変わりな男だ。と、私は概要程度しか知らない彼の事件について、一通り知っておこうとパソコンを開いた。
『事件の被疑者、高山一途の家は貧しく、母親は風俗で日銭を稼ぎ、父親は勤めていた会社でトラブルを起こしクビになってからずっと、家で酒を飲んでは暴れる日々だった。怒鳴り声、金切声、過去に高山一家の近所に住んでいた住人は、幾度となく喧嘩の声を聞いていたという。高山は友人のない青春時代を送り、高校を卒業し就職した会社でも活躍することは出来ず、社会から孤立しその精神を捻じ曲げていった。高山は己の不出来を己以外の全てのせいだと責任転嫁し、世間を憎み、全てを恨み、そして凶行に至った。
被害者Aは20xx年8月24日午後11時過ぎ、高山の自宅において後頭部をバールで殴打され殺害。その後、高山により身体をバラバラに解体された後ミンチ状に叩き潰された。発見された段階では、人間だったものとは到底思えず修復不可能なほどだったという。
きっかけは近隣住民からの異臭がするという通報だった。高山は殺害から2週間後、Aさんだった腐肉と室内で戯れている所を発見、逮捕に至る。現場はひどい有り様で、近隣住民の中には体調を崩し救急搬送される者もいた。身体に、腐肉とそこから滲み出る汁を塗りたくっていた高山は抵抗することもなく素直に同行し、Aさん殺害及び死体損壊等の罪を認めた。初公判は※月※日予定。』
いくつも情報を拾っていく中で、私は唐突に、彼の名前の意味について気が付き、二の腕にぞわりと鳥肌が立った。
一途。イット。それ。
あぁ、彼は、ずっと忌み嫌われ、居場所もなくただ産み落とされたという理由で必死に生きてきたんだと、何も知らない私ですら胸が締め付けられる思いがした。私は頭に入れた情報から憶測を全て消し、残った彼の人生のカケラを持って、刑務所へと赴いた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「失礼します。」
「どうぞ。」
手錠と腰縄を付けて出てきた青年は、私と大して歳の変わらない、人畜無害、悪く言えば何の印象にも残らない、黒髪と、黒曜石のような真っ黒な瞳の持ち主だった。奥深い、どこまでも底のない瞳���つい値踏みするように見てしまって、慌てて促されるままパイプ椅子へと腰掛けた。彼は開口一番、私の書いている小説のことを聞いた。
「何か一つ、話してくれませんか。」
「え、あ、はい、どんな話がお好きですか。」
「貴方が一番好きな話を。」
「分かりました。では、...世界から言葉が消えたなら。」
私の一番気に入っている話、それは、10万字話すと死んでしまう奇病にかかった、愛し合う二人の話。彼は朗読などしたこともない、世に出てすらいない私の拙い小説を、目を細めて静かに聞いていた。最後まで一度も口を挟むことなく聞いているから、読み上げる私も自然と力が入ってしまう。読み終え、余韻と共に顔を上げると、彼はほろほろ、と、目から雫を溢していた。人が泣く姿を、こんなにまじまじと見たのは初めてだった。
「だ、大丈夫ですか、」
「えぇ。ありがとうございます。」
「あの、すみません、どうして私と、会っていただけることになったんでしょうか。」
ふるふる、と犬のように首を振った彼はにこり、と機械的にはにかんで、机に手を置き私を見つめた。かしゃり、と決して軽くない鉄の音が、無機質な部屋に響く。
「僕に大してアクションを起こしてくる人達は皆、同情や好奇心、粗探しと金儲けの匂いがしました。送られてくる手紙は全て下手に出ているようで、僕を品定めするように舐め回してくる文章ばかり。」
「...それは、お察しします。」
「でも、貴方の手紙には、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎませんか。」と書かれていた。面白いな、って思いませんか。」
「何故?」
「だって、貴方、「理解させる」って、僕と同じ目線に立って、物を言ってるでしょう。」
「.........意識、していませんでした。私はただ、憶測が嫌いで、貴方のことを理解したいと、そう思っただけです。」
「また、来てくれますか。」
「勿論。貴方のことを、少しずつでいいので、教えてくれますか。」
「一つ、条件があります。」
「何でしょう。」
「もし本にするなら、僕の言葉じゃなく、貴方の言葉で書いて欲しい。」
そして私は、彼の元へ通うことになった。話を聞けば聞くほど、彼の気持ちが痛いほど分かって、いや、分かっていたのかどうかは分からない。共鳴していただけかもしれない、同情心もあったかもしれない、でも私はただただあくる日も、そのあくる日も、私の言葉で彼を表し続けた。私の記した言葉を聞いて、楽しそうに微笑む彼は、私の言葉を最後まで一度も訂正しなかった。
「貴方はどう思う?僕の、したことについて。」
「...私なら、諦めてしまって、きっと得物を手に取って終わってしまうと思います。最後の最後まで、私が満たされることよりも、世間を気にしてしまう。不幸だ��己を憐れんで、見えている答えからは目を背けて、後悔し続けて死ぬことは、きっと貴方の目から見れば不思議に映る、と思います。」
「理性的だけど、道徳的な答えではないね。普通はきっと、「己を満たす為に人を殺すのは躊躇う��って、そう答えるんじゃないかな��」
「でも、乾き続ける己のままで生きることは耐え難い苦痛だった時、己を満たす選択をしたことを、誰が責められるんでしょうか。」
「...貴方に、もう少し早く、出逢いたかった。」
ぽつり、零された言葉と、アクリル板越しに翳された掌。温度が重なることはない。触れ合って、痛みを分かち合うこともない。来園者の真似をする猿のように、彼の手に私の手を合わせて、ただ、じっとその目を見つめた。相変わらず何の感情もない目は、いつもより少しだけ暖かいような、そんな気がした。
彼も、私も、孤独だったのだと、その時初めて気が付いた。世間から隔離され、もしくは自ら距離を置き、人間が信じられず、理解不能な数億もの生き物に囲まれて秩序を保ちながら日々歩かされることに抗えず、翻弄され。きっと彼の胸に空いていた穴は、彼が被害者を殺害し、埋めようと必死に肉塊を塗りたくっていた穴は、彼以外の人間が、もしくは彼が、無意識のうちに彼から抉り取っていった、彼そのものだったのだろう。理解した瞬間止まらなくなった涙を、彼は拭えない。そうだった、最初に私の話で涙した彼の頬を撫でることだって、私には出来なかった。私と彼は、分かり合えたはずなのに、分かり合えない。私の言葉で作り上げた彼は、世間が言う狂人でも可哀想な子でもない、ただ一人の、人間だった。
その数日後、彼が獄中で首を吊ったという報道が流れた時、何となく、そうなるような気がしていて、それでも私は、彼が味わったような、胸に穴が開くような喪失感を抱いた。彼はただ、理解されたかっただけだ。理解のない人間の言葉が、行動が、彼の歩く道を少しずつ曲げていった。
私は書き溜めていた彼の全てを、一冊の本にした。本のタイトルは、「今日も、皮肉なほど空は青い。」。逮捕された彼が手錠をかけられた時、部屋のカーテンの隙間から空が見えた、と言っていた。ぴっちり閉じていたはずなのに、その時だけひらりと翻った暗赤色のカーテンの間から顔を覗かせた青は、目に刺さって痛いほど、青かった、と。
出版社は皆、猟奇的殺人犯のノンフィクションを出版したい、と食い付いた。帯に著名人の寒気がする言葉も書かれた。私の名前も大々的に張り出され、重版が決定し、至る所で賛否両論が巻き起こった。被害者の遺族は怒りを露わにし、会見で私と、彼に対しての呪詛をぶちまけた。
インタビュー、取材、関わってくる人間の全てを私は拒否して、来る日も来る日も、読者から届く手紙、メール、SNS上に散乱する、本の感想を読み漁り続けた。
そこに、私の望むものは何もなかった。
『あなたは犯罪者に対して同情を誘いたいんですか?』
私がいつ、どこに、彼を可哀想だと記したのだろう。
『犯罪者を擁護したいのですか?理解出来ません。彼は人を殺したんですよ。���
彼は許されるべきだとも、悪くない、とも私は書いていない。彼は素直に逮捕され、正式な処罰ではないが、命をもって罪へ対応した。これ以上、何をしろ、と言うのだろう。彼が跪き頭を地面に擦り付け、涙ながらに謝罪する所を見たかったのだろうか。
『とても面白かったです。狂人の世界が何となく理解出来ました。』
何をどう理解したら、この感想が浮かぶのだろう。そもそもこの人は、私の本を読んだのだろうか。
『作者はもしかしたら接していくうちに、高山を愛してしまったのではないか?贔屓目の文章は公平ではなく気持ちが悪い。』
『全てを人のせいにして自分が悪くないと喚く子供に殺された方が哀れでならない。』
『結局人殺しの自己正当化本。それに手を貸した筆者も同罪。裁かれろ。』
『ただただ不快。皆寂しかったり、一人になる瞬間はある。自分だけが苦しい、と言わんばかりの態度に腹が立つ。』
『いくら貰えるんだろうなぁ筆者。羨ましいぜ、人殺しのキチガイの本書いて金貰えるなんて。』
私は、とても愚かだったのだと気付かされた。
皆に理解させよう、などと宣って、彼を、私の言葉で形作ったこと。裏を返せば、その行為は、言葉を尽くせば理解される、と、人間に期待をしていたに他ならない。
私は、彼によって得たわずかな幸福よりも、その後に押し寄せてくる大きな悲しみ、不幸がどうしようもなく耐え難く、心底、己が哀れだった。
胸に穴が空いている、と言う幻覚を見続けた彼は、穴が塞がりそうになるたび、そしてまた無機質な空虚に戻るたび、こんな痛みを感じていたのだろうか。
私は毎日、感想を読み続けた。貰った手紙は、読んだものから燃やしていった。他者に理解される、ということが、どれほど難しいのかを、思い知った。言葉を紡ぐことが怖くなり、彼を理解した私ですら、疑わしく、かといって己と論争するほどの気力はなく、ただ、この世に私以外の、彼の理解者は現れず、唯一の彼の理解者はここにいても、もう彼の話に相槌を打つことは叶わず、陰鬱とする思考の暗闇の中を、堂々巡りしていた。
思考を持つ植物になりたい、と、ずっと思っていた。人間は考える葦である、という言葉が皮肉に聞こえるほど、私はただ、一人で、誰の脳にも引っ掛からず、狭間を生きていた。
孤独、などという言葉で表すのは烏滸がましいほど、私、彼が抱えるソレは哀しく、決して治らない不治の病のようなものだった。私は彼であり、彼は私だった。同じ境遇、というわけではない。赤の他人。彼には守るべき己の秩序があり、私にはそんな誇り高いものすらなく、能動的、怠惰に流されて生きていた。
彼は、目の前にいた人間の頭にバールを振り下ろす瞬間も、身体をミンチにする工程も、全て正気だった。ただ心の中に一つだけ、それをしなければ、生きているのが恐ろしい、今しなければずっと後悔し続ける、胸を掻きむしり大声を上げて暴れたくなるような焦燥感、漠然とした不安感、それらをごちゃ混ぜにした感情、抗えない欲求のようなものが湧き上がってきた、と話していた。上手く呼吸が出来なくなる感覚、と言われて、思わず己の胸を抑えた記憶が懐かしい。
出版から3ヶ月、私は感想を読むのをやめた。人間がもっと憎らしく、恐ろしく、嫌いになった。彼が褒めてくれた、利己的な幸せの話を追い求めよう。そう決めた。私の秩序は、小説を書き続けること。嗚呼と叫ぶ声を、流れた血を、光のない部屋を、全てを飲み込む黒を文字に乗せて、上手く呼吸すること。
出版社は、どこも私の名前を見た瞬間、原稿を送り返し、もしくは廃棄した。『君も人殺したんでしょ?なんだか噂で聞いたよ。』『よくうちで本出せると思ったね、君、自分がしたこと忘れたの?』『無理ですね。会社潰したくないので。』『女ならまだ赤裸々なセックスエッセイでも書かせてやれるけど、男じゃ使えないよ、いらない。』数多の断り文句は見事に各社で違うもので、私は感嘆すると共に、人間がまた嫌いになった。彼が乗せてくれたから、私の言葉が輝いていたのだと痛感した。きっとあの本は、ノンフィクション、ルポルタージュじゃなくても、きっと人の心に突き刺さったはずだと、そう思わずにはいられなかった。
以前に働いていた会社は、ルポの出版の直前に辞表を出した。私がいなくても、普段通り世界は回る。著者の実物を狂ったように探し回っていた人間も、見つからないと分かるや否や他の叩く対象を見つけ、そちらで楽しんでいるようだった。私の書いた彼の本は、悪趣味な三流ルポ、と呼ばれた。貯金は底を尽きた。手当たり次第応募して見つけた仕事で、小銭を稼いだ。家賃と、食事に使えばもう残りは硬貨しか残らない、そんな生活になった。元より、彼の本によって得た利益は、全て燃やしてしまっていた。それが、正しい末路だと思ったからだったが、何故と言われれば説明は出来ない。ただ燃えて、真っ赤になった札が灰白色に色褪せ、風に脆く崩れていく姿を見て、幸せそうだと、そう思った。
名前を伏せ、webサイトで小説を投稿し始めた。アクセス数も、いいね!も、どうでも良かった。私はただ秩序を保つために書き、顎を上げて、夜店の金魚のように、浅い水槽の中で居場所なく肩を縮めながら、ただ、遥か遠くにある空を眺めては、届くはずもない鰭を伸ばした。
ある日、web上のダイレクトメールに一件のメッセージが入った。非難か、批評か、スパムか。開いた画面には文字がつらつらと記されていた。
『貴方の本を、販売当時に読みました。明記はされていませんが、某殺人事件のルポを書かれていた方ですか?文体が、似ていたのでもし勘違いであれば、すみません。』
断言するように言い当てられたのは初めてだったが、画面をスクロールする指はもう今更���えない。
『最新作、読みました。とても...哀しい話でした。ゾンビ、なんてコミカルなテーマなのに、貴方はコメをトラにしてしまう才能があるんでしょうね。悲劇。ただ、二人が次の世界で、二人の望む幸せを得られることを祈りたくなる、そんな話でした。過去作も、全て読みました。目を覆いたくなるリアルな描写も、抽象的なのに五感のどこかに優しく触れるような比喩も、とても素敵です。これからも、書いてください。』
コメとトラ。私が太宰の「人間失格」を好きな事は当然知らないだろうに、不思議と親近感が湧いた。単純だ。と少し笑ってから、私はその奇特な人間に一言、返信した。
『私のルポルタージュを読んで、どう思われましたか。』
無名の人間、それも、ファンタジーやラブコメがランキング上位を占めるwebにおいて、埋もれに埋もれていた私を見つけた人。だからこそ聞きたかった。例えどんな答えが返ってきても構わなかった。もう、罵詈雑言には慣れていた。
数日後、通知音に誘われて開いたDMには、前回よりも短い感想が送られてきていた。
『人を殺めた事実を別にすれば、私は少しだけ、彼の気持ちを理解出来る気がしました。。彼の抱いていた底なしの虚無感が見せた胸の穴も、それを埋めようと無意識のうちに焦がれていたものがやっと現れた時の衝動。共感は微塵も出来ないが、全く理解が出来ない化け物でも狂人でもない、赤色を見て赤色だと思う一人の人間だと思いました。』
何度も読み返していると、もう1通、メッセージが来た。惜しみながらも画面をスクロールする。
『もう一度読み直して、感想を考えました。外野からどうこう言えるほど、彼を軽んじることが出来ませんでした。良い悪いは、彼の起こした行動に対してであれば悪で、それを彼は自死という形で償った。彼の思考について善悪を語れるのは、本人だけ。』
私は、画面の向こうに現れた人間に、頭を下げた。見えるはずもない。自己満足だ。そう知りながらも、下げずにはいられなかった。彼を、私を、理解してくれてありがとう。それが、私が愛読者と出会った瞬間だった。
愛読者は、どうやら私の作風をいたく気に入ったらしかった。あれやこれや、私の言葉で色んな世界を見てみたい、と強請った。その様子はどこか彼にも似ている気がして、私は愛読者の望むまま、数多の世界を創造した。いっそう創作は捗った。愛読者以外の人間は、ろくに寄り付かずたまに冷やかす輩が現れる程度で、私の言葉は、世間には刺さらない。
まるで神にでもなった気分だった。初めて小説を書いた時、私の指先一つで、人が自由に動き、話し、歩き、生きて、死ぬ。理想の愛を作り上げることも、到底現実世界では幸せになれない人を幸せにすることも、なんでも出来た。幸福のシロップが私の脳のタンパク質にじゅわじゅわと染みていって、甘ったるいスポンジになって、溢れ出すのは快楽物質。
そう、私は神になった。上から下界を見下ろし、手に持った無数の糸を引いて切って繋いでダンス。鼻歌まじりに踊るはワルツ。喜悲劇とも呼べるその一人芝居を、私はただ、演じた。
世の偉いベストセラー作家も、私の敬愛する文豪も、ポエムを垂れ流す病んだSNSの住人も、暗闇の中で自慰じみた創作をして死んでいく私も、きっと書く理由なんて、ただ楽しくて気持ちいいから。それに尽きるような気がする。
愛読者は私の思考をよく理解し、ただモラルのない行為にはノーを突きつけ、感想を欠かさずくれた。楽しかった。アクリルの向こうで私の話を聞いていた彼は、感想を口にすることはなかった。核心を突き、時に厳しい指摘をし、それでも全ての登場人物に対して寄り添い、「理解」してくれた。行動の理由を、言動の意味を、目線の行く先を、彼らの見る世界を。
一人で歩いていた暗い世界に、ぽつり、ぽつりと街灯が灯っていく、そんな感覚。じわりじわり暖かくなる肌触りのいい空気が私を包んで、私は初めて、人と共有することの幸せを味わった。不変を自分以外に見出し、脳内を共鳴させることの価値を知った。
幸せは麻薬だ、とかの人が説く。0の状態から1の幸せを得た人間は、気付いた頃にはその1を見失う。10の幸せがないと、幸せを感じなくなる。人間は1の幸せを持っていても、0の時よりも、不幸に感じる。幸福感という魔物に侵され支配されてしまった哀れな脳が見せる、もっと大きな、訪れるはずと信じて疑わない幻影の幸せ。
私はさしずめ、来るはずのプレゼントを玄関先でそわそわと待つ少女のように無垢で、そして、馬鹿だった。無知ゆえの、無垢の信頼ゆえの、馬鹿。救えない。
愛読者は姿を消した。ある日話を更新した私のDMは、いつまで経っても鳴らなかった。震える手で押した愛読者のアカウントは消えていた。私はその時初めて、愛読者の名前も顔も性別も、何もかもを知らないことに気が付いた。遅すぎた、否、知っていたところで何が出来たのだろう。私はただ、愛読者から感想という自己顕示欲を満たせる砂糖を注がれ続けて、その甘さに耽溺していた白痴の蟻だったのに。並ぶ言葉がざらざらと、砂時計の砂の如く崩れて床に散らばっていく幻覚が見えて、私は端末を放り投げ、野良猫を落ち着かせるように布団を被り、何がいけなかったのかをひとしきり考え、そして、やめた。
人間は、皆、勝手だ。何故か。皆、自分が大事だからだ。誰も守ってくれない己を守るため、生きるため、人は必死に崖を這い上がって、その途中で崖にしがみつく他者の手を足場にしていたとしても、気付く術はない。
愛読者は何も悪くない。これは、人間に期待し、信用という目に見えない清らかな物を崇拝し、焦がれ、浅はかにも己の手の中に得られると勘違いし小躍りした、道化師の喜劇だ。
愛読者は今日も、どこかで息をして、空を見上げているのだろうか。彼が亡くなった時と同じ感覚を抱いていた。彼が最後に見た澄んだ空。私が、諦観し絶望しながらも、明日も見るであろう狭い空。人生には不幸も幸せもなく、ただいっさいがすぎていく、そう言った27歳の太宰の言葉が、彼の年に近付いてからやっと分かるようになった。そう、人が生きる、ということに、最初から大して意味はない。今、人間がヒエラルキーの頂点に君臨し、80億弱もひしめき合って睨み合って生きていることにも、意味はない。ただ、そうあったから。
愛読者が消えた意味も、彼が自ら命を絶った理由も、考えるのをやめよう。と思った。呼吸代わりに、ある種の強迫観念に基づいて狂ったように綴っていた世界も、閉じたところで私は死なないし、私は死ぬ。最早私が今こうして生きているのも、植物状態で眠る私の見ている長い長い夢かもしれない。
私は思考を捨て、人でいることをやめた。
途端に、世界が輝きだした。全てが美しく見える。私が今ここにあることが、何よりも楽しく、笑いが止まらない。鉄線入りの窓ガラスが、かの大聖堂のステンドグラスよりも耽美に見える。
太宰先生、貴方はきっと思考を続けたから、あんな話を書いたのよ。私、今、そこかしこに檸檬を置いて回りたいほど愉快。
これがきっと、幸せ。って呼ぶのね。
愛読者は死んだ。もう戻らない。私の世界と共に死んだ、と思っていたが、元から生きても死んでもいなかった。否、生きていて、死んでいた。シュレディンガーの猫だ。
「嗚呼、私、やっぱり、
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Doc Martin(ドクターマーティン)1-3
Portwennを下痢症の集団感染が襲い、マーティンはありうる様々な原因を検証していくが、なかなか尻尾をつかめない。
気になる語彙・ノート
医療
- vascular specialist:血管専門医 - 心臓外科医(cardiologist/cardio surgeon)とは隣接の領域か
- chemo:化学療法、特に癌に対する抗がん剤治療を指す - chemotherapyの竜
- remedy:治療法、療法、または治療薬を指す
- adrenal:副腎の - かの有名なadrenalineは副腎髄質から発生する - adrenalineが果たす”fight or flight”態勢への移行に対して「闘争か逃走」と訳されていたのは感心した
- inhaled corticosteroids:吸入ステロイド薬 - 副腎皮質で発生するホルモンの一種 - 全身性の副作用を避けるため、
- fluticasone:フルチカゾン - コルチコステロイド剤の一種
- MRHA:MHRAの誤りと思われる、Medics and Healthcare Regulatory Agency
- chlorinate:塩素消毒する
- cryptosporidium parvum:クリプトスポリジウムパルバム - 下痢症をもよおす寄生虫クリプトスポリジウム���一種 - 日本では感染症法で特定病原体として指定されている
- fecal coliform:糞便性大腸菌
一般
- hare:ノウサギ - rabbitはより小型で穴に生息するが、hareはより大型で野に生息する
- splash out:大盤振る舞いする、奮発する
- thrust:ぐっと押しやる、押し込む - 劇中では受け身でhappen to get intoという意味合いで使われているか
- natural:生来の性質・気質として向いている
- out of commission:故障の、機能していない - もともとは退役、予備役を示す
- air one’s laundry in public:プライベートのことをべらべら話す
- wheel out:繰り返し引き合いに出す、繰り返しその手段に出る
- tyke:ちびガキ
- cagy:警戒して話さない
- thong:ソング - タンガなどとともに日本ではTバックとして認知されることが多いらしい
- fire away:どしどし質問・意見を投げつけ始める
- make sb redundant:余剰人材とみなす、クビにする
- swab:綿棒
- ‘ere:hereのhの発音が落ちたもの
- stale:味・香りが落ちた、劣化した、賞味期限切れ - 時間がたって劣化したことを示す
- a run of:立て続けの、続けざまの
- tummy bug:腹痛、おなかの不調 - 腹部の軽度な不調一般をさす
- as strong as ox:牛みたいに頑健 - oxは去勢済みの役牛をさす - 日本語では牛は牛だが、英語ではcow, cattle, oxなど様々。生活に密着したものは、単語レベルでの細分化が進むのだろう - 逆に、日本語では稲、米、飯などの細分化が例になるだろうか
- county:州 - イギリス系の行政区分でstateの下
- concentration:濃度
- take calls:電話対応する
- culprit:原因、犯人
- get hold of:得る、つかむ、獲得する
- on the dole:失業手当を受けている
- balls-up:騒動、さわぎ
- pitchfork:ピッチフォーク
- inbreed:近親相姦
- field day:運動会、野外演習、大騒ぎで楽しむ日
- water treatment plant:水処理施設
- obstructive:邪魔になる、邪魔な
- constructive dismissal:推定解雇、外形的自主退職
- pull the rug out from under:裏切る
- set the ball rolling:すでに͡コトをはじめる
- lurgy:病気、体調不良
- back to square one:元の木阿弥に戻る、白紙に戻る
- vindicate:嫌疑をはらす、無実を証明する
- hindsight:後知恵、結果論
- shambles:ごみ、わやくちゃ、流血沙汰、修羅場
- direct debit:直接送金
- standing order:定額自動振り込み
- shoot off:出ていく
ストーリー・感想(※ネタばれ注意)
本話のサブストーリーは例にもれず二つ。一つはPortwennで広がる集団下痢症の原因追及、もう一つは息子アルの独り立ちをめぐる配管工バートの葛藤を描く。
集団での下痢症が広まっていることを確認したマーティンは、紆余曲折を経つつ、原因が水道水にあると仮説を立てる。被害の拡大を防ぐため、水道水の検証結果が出る前にラジオで水道水汚染の可能性と対処法を伝えるのだが、ラジオパーソナリティのキャロラインはじめ現地住民から大反発をくらう。 実は、Porwennでは過去にも水道水汚染さわぎがあり、観光業をはじめ甚大な経済的損失を被っていた。最終的に事実でないことが確認されたものの、自殺者や今でも失業中の家族がいるという。
マーティンは極めて優秀な医者であるが、彼の目的は人々の健康や公衆衛生の維持にあり、その先にある人々の暮らしや幸せまで考慮することは少ない。マーティンの場合、ミクロでの彼の社交性の無さがマクロ的に職業観などにまで影響しているのだろう。その意味で、第一話の冒頭でルイーザが指摘した、マーティンが相手にしてきたのは”body”であって”people”ではないというのは的を射た指摘かもしれない。 しかし実際のところ、正しいバランスを見つけるのは難しい問題だ。コロナ禍にある我々にはなじみ深いconflictでもあり、考えさせられる。すべての人間がhomo economicusであるという仮定がなくとも、大規模化・複雑化した現代社会においては原理・原則を重んじるマーティンの考え方が正しいのだろう。しかし、小規模な共同体では個別具体的な影響がより大きな意味を持つ。その中で必ずしも致命的ではないリスクに対しては、もう少し柔軟な対応もあり得るのかもしれない。
一方、Portwennで配管工を営むバートは息子のアルと喧嘩してしまう。 アルは配管工として生きていくことに疑問を抱えており、大学��コンピュータの勉強をしたいと思っているが、バートはそれを許せない。 バートは一人親として息子に抱く想いを、町で出会ったマーティンに語る。いつかアルを一人前に育て上げ、一緒に配管工として成功を収めるという夢を忘れられない、そんな親心をアルがわかってくれないというのだ。そしてバートの肩を持たないマーティンにも”shove it!”と当たり散らすありさま笑 しかしさっきまでブツクサ言っていた男が、ミネラルウォーターの箱を抱えてマーティンを訪れる。配管工を営むかたわらミネラルウォーターの販売も手掛けており、今回の騒動のおかげで大儲けできたので「還元」しにきたらしい。気丈というか面の皮が厚いというか。。。笑
そうこうする内に水道水の無実が示されると、マーティンの疑いの目はこのミネラルウォーターに向けられる。 バートの家を訪ねたマーティンは、フランス産と謳ったこの水が実は井戸水をボトル詰めしたものであることを突き止める。水源近くではヤギが飼育されており、どうやらこの水が騒動の原因だ。
この商売を諦めなければならないことを知ったバートはひどく落胆する。口ではアルに反対しつつ、心のどこかで息子が独立する未来を覚悟していたバートは、 学費捻出のためにこの副業を始めていたのだった。 マーティンの勧めを受け、バートはアルに本心を打ち明ける。副収入はなくなったが、アルが仕事を続けながら夜間学校に通えばいいとバートは言う。 一般的に子供というのは親の思った通りにいかないものだろう。それぞれの家庭がそれぞれのやり方で折り合いをつけなければならないが、自分や周囲を見てもナカナカ簡単ではない笑
偶然ではあるが親子をとりもったマーティンはラージ親子の信頼を手に入れ、診療所のコンピュータの定期メンテをアルが請け負うことになる。
個人的なつながり第一号といえばルイーザ。本話中で彼女はマーティンをパブに誘う。正確には、マーティンが彼女を誘うように話題を仕向けており、もちろん彼の性格的に到底スムーズにはいかなかった。。。お前らは初デートに挑むteenagerかと。。。笑 しかも落ち合ったパブで、マーティンは駐在マークにつかまり、しょうもない恋愛相談を持ち掛けられてしまう始末。
ともあれ、 ルイーザとマーティンの関係は一歩(半歩?)前進。前回のロジャー然り、徐々にマーティンが共同体に受け入れられていく様子が気持ちいい。
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※サークル内企画「自分の過去作品をリメイクしよう!」で書いた作品です。
高2の時の作品「しとしと降る雨のリズム」のリメイクです。オリジナル版は下にあります。
中途半端なモブキャラF②
※
「嬉しいなぁ」
クマを買った帰り道、エミはにこにこしていた。きっと今だってエミはあの時のままの気持ちなんだろう。いや、さすがにそれは私のただの願望か。
「そんなに嬉しい?」
手にとってクマばかり見ているので何度も自転車に轢かれそうになるエミの手を引きながら私は訊いた。
「とってもとっても嬉しいよ」
クマにアテレコしながらエミは答えた。親指と人差し指で器用にパタパタとクマの手を動かし、顔を隠して照れさせたりする。どうしてエミはこんなに私に懐いているのだろう。何が好きなんだろう。どこも良いところがないのに。魅力なんて一つもない。エミが私と一緒にいるメリットがない。
「私なんかとお揃いで何が良いんだか」
赤信号の向こうで細い雲が流れている。空が高い。
「私はユイちゃんがいなかったらダメダメだよ」
はいはい、と聞き流す。エミはいつも優しい。良い子だ。誰にでもだ。私がいなくたってエミは強くて優しいだろう。エミが外国人に道案内している時も、うずくまっているおばあさんに声をかけて救急車を呼んでいる時も、私はぼーっと突っ立って、いないふりをしていた。関係ないですよ、とモブに徹していた。なぜそれで私を見損なわないのか、見放さないのか。むしろ不自然だ。何を企んでいるんだ。いや、きっと、エミが優しすぎるせいだろう。企みがあるならさすがにもう実行してるはずだ。あまりにも一緒に過ごした時間が長すぎる。エミは私を見捨てられない。エミはこの通り私にとにかく甘いので、私はどんどん弱くなる。依存させられているような気もする。ダメにさせられている。エミのせいで私は嫌な奴なのかもしれない。でも別に良いや。エミが助けてくれるし。エミがいるから、私はいつもエミ頼みだ。エミがいなかったら友達いないもん。
「人を助けたいとか、心配、とか初めて思ったのが、タコ公園でユイちゃんを見た時なんだよ」
エミは横断歩道の白いところだけを楽しそうにひょこひょこ歩いた。私はそれを見ながらのそのそと歩く。
「記憶力すごいねー。えらいえらい」
「あー! 信じてないでしょ」
エミがむすっと膨れる。きっとエミの中ではそういうつもりなのだろう。そんなのどうせ勘違いなのに。だから私なんかに懐いているのだ。私がこんなに性格が悪いのに、クラスで浮かないのも、いじめられないのも、エミの明るさのお陰だ。エミはクラスの他の仲良しグループとも上手くやっている。私はエミがいないと一人ぼっちだけど、エミは違う。エミは���こへでも行けるし、何でもできる。きっとそのうち自分の勘違いに気付いて、私なんていらなくなるだろう。エミの目と頭がまともになったら、私がエミに見捨てられるのだ。私なんかに構うのはエミがどこかイカれてるからだろう。まともになったら嫌われるに決まってる。
※
「汚い」
明らかに自分からぶつかりに行ったくせにチサトは死んだ顔で吐き捨てた。どんどんエスカレートしていく。きっとまだまだ酷くなる。
「ゴミの菌で死んじゃうー」
取り巻きがまたふざけて騒ぎ出す。エミとぶつかったチサトの肩を大袈裟に拭いて、別の子にタッチする。
「何すんのキモすぎ」
きゃーきゃーと黄色い声をあげながら、鬼ごっこが始まる。触られたところを大袈裟にごしごしと擦る。
「ゴミちゃん洗ってあげるよ。このままじゃ汚すぎて死んじゃうよ。ゴミちゃんを綺麗にしてあげる。ほら」
鬼ごっこをしていた子分Cがエミをトイレに連れて行こうとする。汚い汚いと騒いでいたくせに動こうとしないエミの腕を掴んで引っ張る。加勢が来て、笑いながら背中を押したり、小突いたりしている。そして思い出したように「もう、触っちゃったじゃん」などと言いながら、うへぇという顔をしてみせる。
誰か来ないだろうか。大人とか、正義感あふれるヒーローとか。先生とか見回りに来れば良いのに。誰かモブじゃない人。いや、先生が来たって無駄だ。助けてくれない。私たちを助けてくれる人なんていないのだ。チサトたちも馬鹿じゃないので目立つ時間帯でエミをいじめることもない。それに、救世主が現れたところで私たちはこの事実を隠すだけだろう。そして「本当に何でもないんだな」と念押しされたのを頷き、去られたところで落胆するのだ。結局は無駄。関係ない人しかいないのでどうしようもない。
一度、勇気あるクラスメイトによって担任に告発され、学級会が開かれた。その子にとっては関係があったんだろうか。しかし、告発者は匿名だった上、エミも黙り込んでいて、結局は���サトたちの説明だけで終わった。結局モブはモブ。役に立たないし無駄だった。その時の説明だと、チサトとエミが喧嘩をして小突き合いになったのだということだったので、チサトとエミはお互いに「ごめんなさい」を言い合わさせられ、私たちは拍手をした。茶番だ。バカバカしい。でも誰も茶番だなんて指摘しなかった。ただモブたちは何の責任も負わず、勝手にがっかりしていた。チサトたちがいない休み時間の会話には、先生の対応への落胆が色濃く出ていた。しかし、誰一人そんなことが言える権利なんてないのだ。だって、主張してない。今だってもしヒーローが現れても、私たちは素知らぬ顔をするのだろう。だってモブだし。むしろ隠蔽に協力するのだろう。自分は悪くない、関係ない、気付いてくれない、助けてくれないのが悪い。関係ないから仕方ない。
無駄に正義感の強そうな英語教師が、ラクガキされたエミの机やノートを見つけ「誰にされた」と騒ぎ出したことがあったが、今度は、何度訊かれても「自分でやった」とエミがきっぱり言い切ったことで、先生��ら気味悪がられただけで終わった。エミもまた素知らぬ顔をして隠蔽に協力している。一番の当事者なのに何故なのだろう。まるで傍観者だ。らしくない。いや、未だにチサトを可哀想と思っているのだろうか。エミならあり得る。まだチサトを助けようと思っているのかもしれない。何でそこまでするのだろう。チサトになんてそんなに構ってやる義理はない。チサトが犯されて、虐待されても、地獄に堕ちても、私には関係ない。勝手にされてれば良いし、勝手に地獄に行けと思う。むしろ地獄に堕ちろ。
「ゴミちゃん、頭うんこ臭いんじゃない?」
トイレからずぶ濡れのエミが出てくる。廊下に出てきているのに、にやにや笑いながら子分がエミの背中をデッキブラシで擦っている。まだ新しい鮮やかな緑。毛がしっかりとしていて、痛そうだ。
「こいつ便器に頭突っ込んで水流で洗ったんだよ。やばくない? 」
手を叩いて笑いあっている。自分でやるわけがない。どうせやらせたのだろう。最低だ。いや、でも今日はマシだ。便器に投げ捨てられたお弁当を食べさせられていた日もあった。それに比べればマシだ。腹を壊したり、吐いたりする危険性はない。濡れたままだと風邪を引くかもしれない程度の危険性なので、今回のはまだ良かった。大丈夫。マシだ。エスカレートの一方ではなかったということだ。そうだ。そのうち飽きないだろうか。飽きてくれれば良い。ただの遊びならどうせそのうち飽きる。
やはりエミもチサトも気持ち悪いほどの無表情だった。もう何も感じないようにしている。何も見ないようにしている。知らないふりをして生きている。気付いてないふり。分からないふり。彼女たちもまた、私のような傍観者に近いのだ。
「死んでよ。汚れてる。どんだけ磨いてあげても綺麗になんないよ。生きてたってどうせ逃げられない。死んだ方が良い」
ゴシゴシとデッキブラシで擦られるエミに向かってチサトは言った。なんだかエミはぽかんとしている。もうここにはいないのだろうか。
チサトはきっと自分自身に言っている。これは他人を使った自傷行為なのだ。優しいエミを凶器にして。エミが何でこんな目に遭わないといけないのか。前世で殺人でもしたんだろうか。いや、前世なんかないし、死んだら終わりだ。エミのどこに落ち度があったんだろう。「あの子ももっと反抗したら良いのに」と誰かが小声で言ったのが聞こえた。そうだ。反抗しないということは受け入れているのだ。エミは喜んで受け入れているのだ。好きで殴られ、汚物扱いされ、水をかけられているのだ。そういう趣味なのだ。世の中にはいろんな人がいる。多様性を受け入れるべきだ。仮にエミが嫌がっていたとしてそれは明確に表明しないエミが悪いのだ。表明の仕方が足りないのだ。傍観者たちにも、チサトたちにも伝わるわけがない。伝わってないなら思っていないのと同じだ。
別に誰もこの醜悪な行為を嫌悪していない。受け入れているのだ。不快に思う者なんて一人もいないし、その必要もない。許容しているのだ。仕方ないことなのだ。チサトも、エミも、子分たちも、傍観者たちも、甘んじて、喜んで受け入れているのだ。そこに何も悪いことなんてないし、変えないといけない部分もない。このままで良いのだ。
※
私が堂々と生きていたことなんてあっただろうか。いつもこそこそして、卑怯に、自分だけは傷付けられまいと、関係ありません、という顔をして嵐が過ぎるのを���だ待っている。
暴力を見ていた。幼稚園児の頃はいちいちピーピーギャーギャー騒いでいた気がする。その頃は怖がる役のモブだったんだと思う。いつだって黄色い声をあげるのはモブの役目だ。外で暴力があった時も叫ぶのはモブ。別に殴ってる人も、殴られている人もギャーギャー言わないものだ。私はそう思っているし、そういうものだ。でも騒ぐのも面倒になってきた。だって騒いでも無駄だし。仕方ないし。
母が泣いている。父が怒鳴っている。小学生の私は居間でドリトル先生を読んでいる。本を読むのにとても集中しているので周囲のことなんて見えていない。それまで読んでいた学校の怪談シリーズを読み終わってしまったので何を読もうか迷っていたら、エミが薦めてくれた。
父が寝室に戻って、母は一人で洗い物をしながら泣いている。そして、何を思ったのか、泣きながら皿を床に叩きつけた。私はビクッと思わず飛び上がる。驚いただけだ。怖いとは少しも思っていない。そんなこと思う気持ちもないし。それより、ドリトル先生は動物と話せるのだ。それは勉強の賜物なので、勉強を頑張っていれば大抵のことはできるようになるのだと思っていた。映画のドリトル先生はそういう能力という設定になっていることを後から知って、落胆した。
「宿題もうやったの」
破片を集めながら母が私に話しかけてきた。
「終わってる」
さっきまでこの場でやっていたのに、この人は私を何も見ていないんだなと思った。目の前のことで精一杯なんだ。本来なら優しい娘は母が叩き割った皿の破片拾いを手伝ってやるべきなのだろう。しかし私は優しい娘じゃないのでしない。私は家でもただのモブだ。父と母の夫婦喧嘩の背景映像だ。這い蹲っている母を椅子から見下ろしている。「ユイは冷たいね」と母も言っていた。そうなんだろう。そう言われるからそうなんだと思う。しかし、だからと言って母を責めてはいけない。母も一人の人間なんだから仕方ない。母は悪くない。苦しんだり、悲しんだり、ストレスが溜まることもある。仕方ない。大人は大変なのだ。「子供は良いよなぁ」と酒を飲みながら父も言っていた。子供は楽してるんだから、辛いことばかりの大人を受け入れてあげないといけない。「子供に戻りたい」と母は泣いていた。そんなに羨ましいんだ。これが羨ましいんだ。私は楽をしている。私は良い。グッド。マーベラス。大人になったら一体どんな地獄が待ってるんだろう。大人ってそんなに辛いのか。まだまだこれからもっと苦しいことや辛いことが待っている。まだまだだ。これからだ。頑張れ。ファイトだ。負けるな。頑張って生きろ。耐えろ。歯を食いしばれ。これくらいで音を上げるな。
「嫌だねぇ」
エミが言った。私が、家に帰りたくないと言った時の話だ。おとうさんとおかあさんがけんかするからかえりたくない。馬鹿だ。なんでそんなことを言ったんだろう。言っても仕方のないことなのに。言ったって先生もクラスメイトも「大変ね。仲をとりもってあげてね」とか「うちもそんなもんだよ」とか笑うくらいなのに。
「嫌じゃないよ。大丈夫���よ。これくらいで嫌なんて言っていたら大人になれない」
「でも嫌なものは嫌じゃん」
どうせエミも心の中では「それくらい」と笑っているんだろう。うるさいな。大人が喧嘩してるところなんて見たこともないくせに分かったような口をきくな。家族で仲良く過ごしてることくらい知ってるんだからな。私はエミのこういうところが嫌いだ。大嫌いだ。知りもしないくせに、他人の地獄にずかずか上がってきて生ぬるい共感をするな。分からないくせに。理解できないくせに。モブでいとけよ。本当は、私は心のどこかでずっとエミを鬱陶しいと思っていたのかもしれない。こんなに長く一緒にいれば当然エミにイライラすることもあったし、疎ましく思うこともある。本当は邪魔だったのだ。要らなかったのだ。だからエミからこうして引き離されてせいせいしているんだ。関係ない立場になれて心底良かったと思っているんだ。エミがいない方が良いんだ。エミだって、私なんかといない方が良い。私がエミの価値を下げている。
私は自分が辛いと思っていた。でも違った。とても恵まれている。もっと辛い人がたくさんいるのに、私はそれを微塵も助けようとは思わない。辛いわけがないじゃないか。バカバカしい。私は他人の地獄にずかずか上がり込むような真似はしない。勝手に苦しんでいて下さい。どうせ放っておいても大人になったら辛いことや苦しいことでいっぱいなのだ。どうしてわざわざ苦しみに行く必要があるのか。チサトはもっと地獄を見ているだろう。エミはもっと地獄を見せられているだろう。私は襲われたことも、殴られたことも、便器の弁当を食わされたこともない。私は楽をしている。地獄には底がない。私はきっとまだまだ地獄に堕ちる。痛めつけられている人間をただ眺めているだけで済むなんて、なんて幸福なんだ! すごいね!
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女子高生と山月記
「虎になる」というフレーズが流行った。
高校時代の話だ。かつて鬼才と呼ばれた男が、己の心に潜む獣に振り回されて虎になる話を習った。重い題材なのにどうにも心にひっかかる上、人間が虎になるという衝撃的展開に驚いた。加えて「尊大な羞恥心」だとか「臆病な自尊心」とかいう妙に語呂の良いワードが登場することから、わたしたちは授業が終わってもこの話を忘れられず、結果「虎になる」というフレーズを局地的に流行らせた。
わたしたちは虎になった。主に葛藤してどうしようもない時や人間関係が煩わしい時、そして自分が嫌いになった時に。具体的に言うならテスト前や恋愛にまつわる他者とのいざこざ、理想と現実の狭間でもがいた時に、現状の気怠さを「ほんと虎になるわあ」と溜息交じりに吐き出したのだ。
仲のいいグループだけで使う暗号のような、気怠さの共有コードのような使い方をしていたのに、いつしか他のグループにも「虎になる」子が現れた。使い方を教えたわけじゃない。なのに彼女たちはわたしたちが使うように「このままじゃ虎になる」と自然に言ってみせた。
言葉は感染する。きっとわたしたちが使うのを聞いて、自分たちのグループにも採用したんだろう。だけど説明してもいないのに完璧な用法で虎になってみせた彼女に驚くとともに、「山月記」という物語がわたしたちに与えた影響に驚いた。グループとか関係なく、わたしたちは同じものを受け取っていた。
あの頃、わたしたちは言葉に出来ずとも、仄暗いものを心の中に感じていた。山月記を教わる前は��々が好き勝手に感じていたものだ。だけど中島敦が、山月記という物語を通じてわたしたちに教えてくれた。あれは間違いなく「虎」だった。
怪物と親交を深める
��人たちと虎になっていたのは、もう昔の話だ。
今は内なる虎どころか目に見える怪物と相対する年頃になった。つまり就職してお局様と出会う羽目になった。歩く脅威とはまさにこのこと。生きているだけでケチをつけられ、重箱の隅という隅をほじくり回される。
仕事面では優秀だけど気に食わないことがあれば謎のコネで上に訴え、悪評を広め、最終的には泣き叫び壁を殴り颯爽と帰っていくお局様。人生で初めて出会う怪物がここにいた。
上司ガチャ爆死というワードが脳裏をよぎる中図太く仕事を続け、数年経った今はお局様に個人的なドライブに誘われるなど驚くほどに良好な関係を築いた。怪物の懐にちゃっかり収まった形になる。
努力をお局様との敵対や転職活動ではなく和解(と言ってもこちらに非は無いので向こうの軟化を待つだけ)に費やしたのは、お局様に好かれたかったからではなく、単純に可哀想だと思ったからだった。
もちろん腹は立った。この人さえいなければ職場は良い人ばかりだし、天国だろうと考えた。だけど度が過ぎる不条理を与えられると怒りよりも疑問が湧く。何故この人はこんなにも怒っているのだろう、と。一度そう思ってしまうと止められない。わたしはお局様が人目もはばからない怪物になってしまった理由を求めてサバンナの奥地へと旅立ったのだった。
この場合サバンナの奥地というのは比喩で、しかしお局様の私生活や歴史といった個人情報を知るには誰かの心の奥地、それこそサバンナのように深い場所へ踏み入らなければならないと考えていた。怪物のような同僚とはいえ、他人のことをべらべらと喋るわけがないと思っていたのだ。だけどわたしがお局様の詳細を尋ねると、先輩方はみな知ることが当然だと言わんばかりに必要以上を教えてくれた。
悲しくてありきたりな話だった。偏見と既存利益に潰されていた若い女性が、ひょんなことから道を外れて二度と戻れなくなった話。詳細は書かないけれど同情の余地がある。お局様はひどい仕打ちを受けた上、助けてくれる人もいなかった。だからといって女という女をいびり倒す理由にはならないけど、性格が歪む原因としては大いに納得できる。
そして過去から現在までひとりの人間を歪め続けた不幸をネタのように話せる人間に囲まれてしまったことも、お局様にとっては不幸だろうなと感じた。「昔は可愛かったのに、あの時は大変だったんだよ」と笑って言うくらいなら、あの時と言わず今助けてあげればいいのに。
お局様の世界観にも一応の倫理はあるらしいけど、誰も興味が無いから触れない。あれだけ噂話を教えてくれた先輩も、昔は可愛かったと謎目線の上司も、お局様がお怒りになる基準を知らず天災のように諦めるだけ。お局様マニュアルというか対応心得が無いのかと尋ねれば、ぜひあなたが作ってくれと笑われた。台風の発生機序を研究し始めた頃の人間ってこんな感じなのかな、とか思ったりした。
お局様と普通に話すようになってから、こんなことを言われた。
「これまではひとりで全部決めてきた。誰も決めてくれないから。だけどひとりで決めるのは大変だから手伝ってほしい」
誰も決めてくれないったって、あなたが全部聞く耳持たなかったんでしょう。そう言いかけて思い出した。
お局様が感情に任せた強い口調で話した後は、誰もが「あの人はああ言ってるんだよね」と腫れ物に触るような扱いをする。少し経って冷静になったお局様が前言撤回して別の意見を言うと「気分で言うことがコロコロ変わる」と冷ややかな態度を取るだけ。そして最終的に「誰からも意見が来なかったから私が決める」とお局様が決定を下す。
この間、お局様に意見できる人は影で溜息をつくだけで何もしない。怯える人は陰口だけで何も言わない。お局様の目線からすると、確かに孤独な一本道だ。
「喧嘩がしたいわけじゃない。違う意見も聞きたい」
そう言われた瞬間に眩暈がしたのは、自分の認識が揺らいだからだ。
何でこの人は急に普通の人っぽいことを言うんだ。目が合った奴らを全員ボコボコにするような生き方をしているじゃないか。もしこの人がこんな、いかにも普通のことを言うと、わたしはこの人を怪物じゃなくて普通の人だと思ってしまう。普通だから理不尽な仕打ちに歪んで、歪んだから手を差し伸べてもらえなくて、手を差し伸べてもらえないから怪物になった、ただの可哀想な人に見えてしまうじゃないか。
わたしがお局様に対して行ったのは、普通のことだけ。
何をしたか? 無視されるとわかって挨拶をして、注意をされれば非礼を詫びて、フォローされればお礼を言った。わからないことがあれば聞き、無知を咎められれば反省する。お前はわたしを特別にいじめるが、こっちはお前をなんてことのない日常の一部としか思っていないぞという反抗心からの行動だけど、特別なことは何もしなかった。
特別なことなんて何もないのに、お局様はわたしを懐に入れた。先輩たちからは猛獣使いと呼ばれた。上役からはお前がお局様のハンドルを握るんだと謎の激励を受けた。だけど何も響かない。きっと褒められて、認められているんだろうけど何一つ嬉しくない。頭の中にこびりついて離れないのは、わたしが自分の意見を真っ向から言った時の、嬉しそうなお局様の顔。
この人は普通の人なのに、こんな怪物になってしまったのか。
一度でもそう考えてしまうと、信じて立っていた足元がぐらぐらと揺れるような、どうしようもない不安に襲われた。
おはよう自我
性格は25歳を過ぎると変わらない、というのは友人の言葉だ。
25という数字の根拠はわからない。だけど友人の体感としては大体それくらいの年頃から融通がきかなくなっていくらしい。友人はわたしが受けた理不尽(主にお局様)の話を聞くたび「凝り固まった奴らはどうしようもないよ」と諦め顔で笑う。
友人の言葉には納得できたりできなかったりするけれど、個人的には「大人になったら性格は濃縮される」という持論を推したい。気の利く人がいつしか神経質になった��、雑な人はおおらかになったり。自我が確立した人間の性格は、とんでもない理不尽や幸運が無ければ、培った自我から派生していくものだと思っている。
と、したり顔で喋ったものの、わたしの体感として自我の芽生えはつい最近で、偶然にも25歳の時だ。友人がどうしようもないよと匙を投げる年頃にやっと芽生えた。遅すぎる自我よ、おはよう。
自我がない25年間は何をしていたんだと言われそうだけど、それなりに頑張って生きていた。もちろん記憶はあるし、自由意志もあるし、ちゃんと人間として過ごしていた。それでも不思議なことに、25歳の時不意に「自分はこういう人間なんだ」と納得する瞬間があったのだ。
出来ること出来ないこと、やりたいことやれないこと。理解と諦めと希望がごちゃ混ぜになった不思議な気分だった。ふわふわと漂っていた自分の表面に薄皮が張られたような、世界の解像度が上がったような、言い知れない感覚をどう表せばいいのかよくわからない。
だけどひとつ確かにわかるのは、自分と他人は違う人間だ、とこれまで以上に感じるようになったこと。自分の基本的なかたちがわかったから、生きるのが少し楽になった。
大辞林によると、自我とは「意識や行為を主体としてつかさどる主体としての私」らしい。細かい定義を個人がどれだけ認識しているかはさておき、インターネット上では「最近自我が芽生えた」と呟くアカウントがいくつか存在する。自分を赤ちゃんだと思う人RT、みたいな感じではなく「主体としての私」が芽生えたのがつい最近、という雰囲気のアカウントだ。
自我が芽生える前後のツイートを遡って見てみても、特に差異は感じない。普通に人生の断片が記載されているだけで自我の有る無しなんてわからない。それでも本人の体感として「最近自我が芽生えた」という意識があるのは、わたしと境遇が似ているようで親近感が持てた。
そんな顔もしらないアカウント達が「自分は20代後半に芽生えた。周囲もそれくらいで芽生える人が多い」「自分は双子だから物ごころついた時から他人との違いや自我を感じて生きていた」「自我が芽生える前の生き方をよく覚えていない」などと呟く様子を眺めるのが好きだった。
他人に求められる役割や、着せられがちな生き方がある。だけどそれよりも自分の行きたい道があって、思考しながら日々進む。思い悩むこともあるけど他人のことはあまり、気にしなくなった。
友人たちも似たような感じだ。個人主義になったと言えばいいのだろうか。みんな自分の世界があって、他人の世界も大切にする。学生時代と違って気の合わない人たちとは距離も置けるし、大人になってからの方が楽しい人間関係を築けると確信した。
確信した。そう、それは間違いじゃない。だけど気になることがあるのだ。
自分というかたちを知るほど、興味のないものを全く取り込まなくなってきた。行動の自由度が高まった分、思い通りにならない時に苛立ちを感じてしまう。わたしはどんどん我儘になっている気がした。
友人の言葉を借りれば、人間は25歳を過ぎると性格を変えることができない。
これはもしかして「だいたい25歳あたりから自分の歩き方がわかるから進む道を譲らなくなる。結果として柔軟性が無くなり、自分を形作る価値観の再編ができない」のではないか。そしてわたしの理論では性格というのは濃縮される。価値観の再編ができないままどんどん濃くなっていく。
ここで一文、山月記から引用をする。
「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」
濃縮されゆく人間の気質は、いずれ猛獣に至る。
このまま気のおけない友人に囲まれて、自分のやりたいことをやって、見たいものだけを見ていったらわたしの性格はどんな風に濃縮されるのだろう。今現在、気の合わない人たちを排除した人間関係を築いているくらいだ、この先解放的な性格になるとは思えない。
自分の世界を深めることは、他人が持つ世界との差異を浮き彫りにすることだ。自分の信条に合わない世界も必ずあるだろう。わたしはそれを尊重できるだろうか。
耳に優しい言葉を聞いて、見たいものだけを見て、自分の世界を深めていく。それは風の吹かない部屋で延々と穴を掘ることと何が違うのだろう。わたしがいつか狭い穴の中で暮らすようになったら、「外は晴れてるから出ておいで」と言ってくれる人はいるだろうか。もし誰もいなかったら、わたしは永遠に穴���中で暮らす羽目になる。
そして「穴の中より広い家の方が荷物も置けるし便利だよ」という他人の忠告を、忠告として受け取ることができるだろうか。視野が狭くなってしまえば、自分の世界以外のものは全て亜流に見えるかもしれない。「この穴の良さがわからないなんて」とか言ってしまうかもしれない。
自分が世間一般から大きく外れた生き物になってしまう可能性を、初めて考えた。
そして、冷やかな目で見られ持て余されたお局様に自分の姿が重なる。
わたしもお局様のようになる可能性がある。
そんな考えに至った時、心の中で虎が吠えたような気がした。
内側からの足音
ここで改めて、山月記を復習する。
山月記 (中島 敦) 隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こwww.aozora.gr.jp
ものすごく簡単にあらすじを書く。
能力はあるのに生活が苦しい李徴という男がいる。地方の役人を辞めて詩で生きようとするものの全然売れない。家族養うには詩じゃ無理だな、と再び役人になるも、昔見下していた奴らが出世して指示出ししてくるからプライドがぼろぼろ。発狂して虎になってしまった。
そして虎として生きていた李徴は、かつての友人である袁傪と再会する。
李徴は袁傪と会話をする。「何かが呼んでるから外に出たら自然と走り出しちゃって、すごい夢中で走るうちに力がみなぎって、気づいたら虎になってたんだよね」「人の心と虎の心が混じってるから、うさぎ食べる時もあれば自己嫌悪がやばい時もある」「このまま虎になる予感がするけど、詩で有名になれなかったのが心底辛いからちょっとこの詩メモって」とか。
そして「でも虎になった理由、心当たり無いわけじゃない」と���以下のように語る。
人間であった時、己は努めて人との交りを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
(中略)
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
そして李徴は「妻と子供にはもう死んだよって伝えて」「妻子よりも詩のことを先に話しちゃうあたりほんと虎」と自嘲しつつも「もうこの道通らないでね」「ちょっと歩いたら振り返ってみて。今の姿見せる。もう二度と君が会いたいなんて思わないように」と話して、宣言通りに虎となった姿を見せて、友人の前から姿を消す。
以上、ざっくりとした説明だけど、引用部分には思い当たる節しか無くひたすらに心が痛い。中島敦の破壊力に怯えるとともに、これがデビュー作という事実に驚く。
そして大事なところだから何度も引用をする。
「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」
わたしの中に芽吹いた自我は、よりよい人生への切符であると同時に猛獣の幼生でもあった。自分と世界の間に線を引く術を知ってしまったから、世界を自分のことのように感じ入ることが無くなって呼吸が楽になった反面、濃縮されゆく自分自身を希釈することが難しくなった。
自分の見える範囲、好きな範囲だけを掘り進めるのが本当に楽しいからこそ、強く思う。自我は、猛獣だ。虎だ。そして心地よい世界への入り口だ。李徴が虎になった時「身体中に力が充ち満ちた感じ」と表現された理由がよくわかる。
自分に自信を持つことは、素晴らしくもあり恐ろしい。
有名な動画だけど、自分を信じることの恐ろしさはこれを見るとわかりやすい。この動画ではバスケットボールが延々とパスされていく。そこで、動画の中で「白服の人が何回パスに参加したか」を答えてほしい。
おわかりいただけただろうか。
この動画の目的に気づいてもらえただろうか。
動画には事実が映されている。そのうち、わたし達はどれだけの情報を受け取っただろうか。見たいものは見えたとしても、見なかったものは、無かったことにされただろうか。自分でも気づかないうちにかけていた色眼鏡は、いつ外せるのだろうか。
どうしてこんなにも、わたしは自分の中にいる猛獣を恐れているのか。
それは「素敵な自分でいたい」とか「よりアップデートされた自分でいたい」なんていうお綺麗なものじゃなくて、ただ単に身近な怪物たちが哀れで醜いからだ。
愚痴ついでに説明するとお局様の他にもう一人、職場に怪物がいる。
わたしと同時期に入ってきた男の子だった。素直で明るい体育会系で、愚痴をこぼすのが下手くそ。溜め込んでしまうタイプだなあと気にかけていたけど、ちょっと会わない間に怪物に変貌していた。
彼は愚痴を言うのも、話し相手を選ぶのも下手だった。どんな悪態にも同調し、否定せず、建設的な意見よりも感情的な意見を述べ、煽ることが得意な奴とつるんでしまった結果、自分の抱く負の感情を全て「尊重されるべき真っ当なもの」と思うようになった。友人は選んだ方がいい。悪い奴じゃなくても癖のある奴は用法容量を守るべき。ちなみに癖だらけの煽りマンは、わたしがプレイしているゲームに出てくる「キャスターリンボ」という奴が本当によく似てる。
彼は職場の人間のうち大半を嫌いになった。もちろん顔には出さないけれど、壁に耳あり障子に目あり、キャスターリンボと話している内容は筒抜けだから彼の罵詈雑言レパートリーは皆よく知るところである。
彼が人を嫌う基準は、最初こそ真っ当だった。仕事が適当だとか、やり方が強引だとか。その点、性別や見た目、歩き方やで人を嫌うお局様とは違う。しかし次第に腹を立てるハードルがどんどん下がって、人によって許す許さないの基準を大きく変えた。
そして一度嫌いになった人間を徹底的にマークして、どんな同情的背景があろうと、その背景含めて人間性や犯したミスを延々と馬鹿にするのだ。「あいつの事情なんて俺知らない」と子どものように頬を膨らませながら。
そして後輩たちを集めて、愚痴を肴に飲み会を開く。下には強く上には媚び、ながら唾を吐く。なお建設的な意見を表立って言いはしない。影でこそこそと、キャスターリンボや後輩たちに愚痴るだけだ。
愚痴のレベルがえげつない彼は、今でこそ腫れ物に触るように扱われるけれど、仕事に対する誠実さや巧みな話術は目を見張るものがあって、キャスターリンボとつるみさえしなければ将来の幹部候補だったと上司が嘆いていた。でも今の彼が幹部になったらパワハラセクハラモラハラが権力と服を着て歩いているような感じになってしまう。とんだ化け物だ。そうなればすみやかに辞職しなければならない。
人間の相性は化学反応のようで、理想通りには進まない。向けられた感情を鏡のように反射するコミュニケーション術を持ったキャスターリンボと、負の感情のコントロールが下手くそな彼は、壊滅的に相性が良すぎたのだろう。
かつて同期として肩を並べていたはずの彼は、随分遠くに行ってしまった。入ってきた頃は、溜息交じりに扱い方を囁かれるような人間ではなかった。こうなる前に何か出来ることがあったのかもしれない。そんなことを考えては、現状を思い気分が沈んだ。今のわたしは彼に嫌われているから何を言っても届かない。
お局様も彼も、良いところはあるものの人間として尊敬できない。好きか嫌いかで言えば嫌いだ。興味はあるし同情もするけど、こんな人間にはなりたくない。だけどわたしは最近、自分の都合で他人に苛立つことが増えた。あえて見たいものだけを見ているように思う。見たくない自分を見つめていると、二人とも、わたしの生きる延長線上に立っている気がした。
周囲を巻き込みながらも気持ちよく生きている二人がどうにも他人事には思えない。わたしが彼に対して何かしたかったと思うのは、自分がもし怪物になった時、誰かに止めてほしいと思うからなのかもしれない。
臆病者の旅路
「自分が行動を起こせば変わった、なんて思うのは傲慢だよ」
怪物になった彼のことを引きずるわたしに、屈強なミスチルファンがそう言った。このミスチルファン(以下ファンと呼ぶ)は彼のことを友人の友人程度に知っており、彼の変貌過程も知っている。
「あいつは成るべくしてそう成ったんだよ。あんなになっても誰も止めてくれない程度の人間関係しか築けなかったあいつ自身に問題があるから、周りがどうこうって問題じゃない。そこまで気にするのは筋違いだし踏み込み過ぎ」とファンは言う。ドライな意見に聞こえるけど自信満々に言われると一理あるような気がしてくる。
ファンはわたしよりも早い段階で「自我」を確立していた。中学高校の時には既に今と同じ自分の世界を、自分の理論を持っていたらしい。そして「調子乗ってたらボコボコにされたけど、叱ってくれる人がいなかったら自意識モンスターになってたから良かった」と話してくれたことがある。
もしかしたら、自意識モンスターという概念を持っているファンには自分が怪物になる恐怖を理解してもらえるかもしれない。そんな思いで打ち明けた。これまで書き連ねてきたことを、一から十まで長々と。
ファンは時々頷きながら、黙って聞いてくれた。そして話が終わり、沈黙が続く。どんな反応をするかと待っていたら、ファンは突然歌い出した。
「滞らないように揺れて流れて、透き通ってく水のような心であれたら「アー↑」
名曲HANABIである。
「HANABIだ、まじHANABIだわ」と、ファンはひとりで納得しながら桜井さんすごいと呪文のように唱えた。そして「今度ミスチルの詩集貸すよ……曲もいいけど文字で見たら全然雰囲気違うし染み込み方が違うから」と力強く約束してくれた。ミスチルが詩集を出していたことを、わたしはその時初めて知った。
ファンが言うには、HANABIという曲は「ボーカルの桜井さんが冬場金魚の水槽を掃除するときにね、水が冷たいからちょっと貯めて放置しつつ……あれ塩素抜きを兼ねてたんだっけ? まあいいけど水貯めた翌日水の中に金魚を入れたらバタバタ死んでね、金魚が死んだのは水の中に空気が無かったからなんだけど、ああ水も死ぬんだな、人間も同じだなあという思いからHANABIという曲が生まれたんだよ」ということらしい。
ファンは歌い出し以降、わたしの怪物化への懸念に言及することなく、いかに桜井さんが素晴らしいかという話を延々と続けた。詩の作り込みが凄まじく、自分が生きる中で曲の印象が変わっていくのが面白いのだと。そして「HANABIの解釈がまたひとつ深まってしまった」「桜井さんはアップテンポな曲に容易く地獄を放り込む」と満足そうに去っていった。
わたしはミスチルファン歴が浅く、桜井さんのことはまだよくわからない。だけどファンの感性や屈強さは心から信頼している。だから、わたしが怪物の話をした直後に突如��われたフレーズをファンの回答として勝手に受け取ることとした。
空気も水も溜まれば淀む。人だって立ち止まれば淀むのだ。透き通った心でいたいなら常に心を動かさなくてはならない……そういうことなんだろう。と思った矢先にファンからLINEが届いた。
「今みたいに揺れるのが大事なんだと思う」「自分はこれでいいのかって悩み続けること自体に意味があって」「どんどん新しいものを取り入れていけば」「自浄作用も働くし」「周りの人からも大事にしてもらえる」
細切れに届く言葉は胸に響くものの、お前それ面と向かって言ってほしかったし何なら歌う前に言ってくれやという気持ちが前に出る。
だけどこういう想定外の行動によって、自分の思い浮かべるやりとりよりも斜め上のやりとりが生まれた時、世界はわからんことだらけだなあと驚きを感じる。面白い時も苛立つ時もあるけど、こうやって人から驚きを貰える限り、わたしの世界はおそらく滞らないのだと思う。
問題はわたし自身が、自分の心を「揺れて流れる」ような不安定すぎる場所に置き続けられるか、ということで。驚きを与えてくれる友人がいても、結局は自分次第だ。
心に住まう猛獣はわたし自身であり、手綱も握っている。だけど、不安がどうにも拭えない。他の人たちはわたしのように猛獣を恐れたりしないのだろうか。ただ真っ直ぐに生きているのか、それとも自分を恐れることなく律することが出来るのか。
本来これは感じなくても生きていける恐怖なのかもしれない。だとしたら、そんなものに怯えているわたしは貧乏くじを引いてしまったのか、あるいは精神が未熟なのか。
そんなことを考えている時、インターネットで出会った友人の言葉を思い出した。ぼんやりと覚えていたものを、もう一度あれ教えてと頼みこんだらログを発掘してくれたので引用させていただく。
「文明の広がりと生命維持とか考えると色々面白いよね。例えば日本人はとても鬱になりやすいけど、統計とってみるとアフリカ(人類の起源)から離れるほどセロトニントランスポーター(心の安定に寄与する物質を運ぶもの)の働きが弱いんだってさ。つまりとても不安になりやすい」
「でも私たちがアフリカから極東に辿り着くには、それは重要なことだったんだよね。不安で周りを確認しておっかなびっくり足を踏み出す人間じゃないと、遠くの目的地には到達できない。人間どうしたってネガティブになりがちだけど、私たちはネガティブだからこそ今まで生存できてたってわけです」
「古代文明が栄えた場所も、全部あったかいところなんだよね。シュメール、アッカド、バビロニア。ほかの四大文明も。でも、時代を追うにつれて主役は北へ北へと移っていってるんだよね。やっぱりアフリカから遠く離れれば離れるほど不安だから、色々立ち止まって考えることが多くて、その結果なのかもしれないなあなんて思ったりします」
「じゃあ、移動手段と情報伝達が過度に発達した現代や未来はどうなるんだろうって思うと、途端に法則が当てはまらなくなるから困る。文明の北上は臨界点だし、等しく技術が飽和したなら、今度は環境の恵まれた南の辺りから自由な発想が生まれてくるのかもしれないし、もしかしたら、さらなる北を求めて人間は宇宙にさまよい出すのかもしれないなって思いました」
この話を聞いた当時は、人間すげえや、とか何でこの人こんなこと知ってるのすごっ面白っとしか思わなかった。だけど今はこの話に励まされている。
臆病者じゃないと到達できない場所がある。精神論じゃない。今わたしがここで生きているのは、過去の臆病者たちが一歩を踏み出した結果。わたしの未熟さ、抱える恐怖は、もしかしたら遥か遠くに辿り着くために必要な要素なのかもしれない。
行き着く先できっとわたしは色んなものに触れて、考えて、自分を確かめては組み替える。心の中の猛獣に押しつぶされて他を顧みない怪物となれば、完結した世界に満足して旅に出る気にもならないだろう。だけど恐怖に震える間は、怪物にならず歩いて行ける。長い旅路に意味はある。現に足を伸ばしてオンラインの世界に辿り着いたからこそ友人に出会い、知識に触れ、こうして励まされたのだから。
いつか怪物になるわたしへ
それでもやっぱり、わたしはいつか怪物になると思う。
いずれ自分が塗り替えられるという恐怖と戦いながら、怪物化に抗いながら、最終的には成ってしまうと思うのだ。様々なものを見聞きして、考え込んで、いつか考えることを止めて。そうして引き籠る内側の世界はきっと居心地が良い。自分を疑い続けるような旅を続けるより、好きなものだけを追及する方が幸せだと思う。
自分の世界の外に向けた想像力が、わたしを人間たらしめている。目の前に立っている人が見えないところで泣いている可能性を考えるし、自分の理屈が他人に通用しないことを知っている。
だけどこの想像力を全て自分のためだけに使うのなら、誰が泣こうが喚こうが知ったこっちゃないし、理屈は押し通すものとして狡猾に立ち回るだろう。自分のためだけに生きれば毎日がもっと楽になる。
怪物になりたくないと思うたび、怪物の良さを突き付けられる。いつの日かこんな風に悩むことすら面倒になって、全てを放り投げて大の字に寝転ぶ時が必ずやって来る。わたしは臆病な奴だから、自分を傷つけて揺るがすものから必ず逃げたくなるだろう。そして考えることを止めて、周りにイエスマンだけを置いて、自分だけの素敵な世界を作りたくなるはずだ。
怪物になったら、怪物じゃない時の理想なんて理解できないかもしれない。だから正気があるうちに「わたしが変なことを言ったらボコボコにしてほしい」と介錯願いを数人に出している。勇者を育てる魔王がいたならこんな気分なのかもしれない。どうか綺麗に殺しておくれ、わが愛しの勇者たちよ。もし君達が先に怪物化したら喜び勇んで殴りに行くね。
いつか怪物になるわたしは、世間で触れ合う怪物どもに中指を立てて生きている。いずれ自分も辿る道、自覚も無しに通る道。哀れで醜い、と言われる側に立った時、わたしは何を見ているだろう。自分が怪物になったと気づかず、他の奴らを見下しているのだろうか。実はもうとっくに怪物なのかもしれないけど、勇者たちからの正論パンチが飛んできていないからまだセーフだと思いたい。
ふざけて「虎になる」なんて言っていた頃から、随分遠くに来てしまった。見える景色も歩き方も随分変わったけど、わたしという人間の連続性はゆるやかに保たれながら過去から未来へ伸びていく。願わくばこの悩ましい旅路が、葛藤ばかりではなく瑞々しい驚きと喜びに満ちたものになりますように。
この文章はいつか怪物になるわたしへ向けた弔辞であり、激励であり、備忘録だ。
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花咲か飼育委員
一人読み 性別不問 15分程度
こちらのシナリオを投稿させて頂きました
https://ul.boikone.jp/webview/shareLink?screenType=scenario&contentType=12&contentId=29351
→ボイコネ閉鎖に伴い、こちらに移行します。
0:花咲か飼育委員
◆:あるところに、正直な生徒がいました
◆:この正直な生徒の名は花崎さんです
◆:正直で人のいい花崎さんは平凡な学生生活を送っており、飼育委員として動物たちを深く可愛がっていました
◆:動物と言いましても、この学校で飼育している動物は全てARのプログラムで、通称《アニマ》と言います
◆:プログラムの飼育は、過去の愛玩動物の飼育と同様に、情操教育の一環として一般家庭でも普及しているのです
◆:人々は皆、ARを常に視認できるように、ARレンズを目に入れて過ごすので、アニマ達といつでも触れ合うことができるのです
◆:プログラムでも仕草はかわいいものですよ
◆:しかし、何らかの理由で飼えなくなってしまった人々がアニマを放置することで、野良アニマとなってしまうことも最近では増えてきています
◆:ある日、野良アニマがふらふらと学校に迷い込んできました
◆:どうやら、他の野良アニマと喧嘩をしたのか、プログラムの一部が破損しているようです
◆:花崎さんは飼育委員としてその野良アニマを保護し、プログラムを直し、「シロ」と名付けて、学校で飼うことにしました
◆:花崎さんはシロのことをとても可愛がりました
◆:シロも花崎さんにとても懐いていました
◆:シロの可愛さも手伝い、シロと花崎さんの周りには自ずと人が集まって賑やかになり、たちまち学校ヒエラルキーのトップと言える程になってしまいました
:
◆:しかし、これをよく思わない、欲張りな生徒がいました
◆:隣のクラスの風見さんです
:
◆:風見さんはみんなの嫌がる風紀委員にわざわざ志願し、風紀に対して無関心な先生方や、短期間で成果を挙げたい生徒会を得意な口車に乗せ、「この学校の風紀を守る!」という口実の下、未だかつてないほどに風紀委員の権限を強化した実力者です
◆:今までは風紀に関する張り紙を貼って、委員会室でダラダラするだけの風紀委員達でしたが、風見さんが委員会に入ってからというもの、風紀委員の判断によって、あらゆる私物を学業に不要と認定し、没収する、多忙な日々に追われるようになりました
◆:持ち物が必要か不要かという線引きに関して、一般生徒と風紀委員の間で議論はありますが、ほとんどの場合は風見さんの言う通りになります
◆:既に風見さんから受け取ってしまった大好きなアイドルの限定グッズや、夜の学校で撮られてはいけないような証拠写真などが頭をちらついてしまい、先生達が議論に口を挟むことなどできはしませんでした
◆:もちろん、カメラを取り上げられたくない情報通の新聞部は風見さんの味方です
◆:好きになった女の子を体育館裏に呼んで、ラブレターをこっそり渡したところを見つかった、奥手な柔道部の大将も風見さんに従います
◆:議論になりそうになると、風見さんはすぐに声だけは大きい体育の先生を呼び出します
◆:学業に専念できる環境を整えているような活動なので、学生の保護者からの受けはよく、まるで無政府状態の学校に秩序をもたらす救世主のようにも見えました
◆:しかし、実際にはどれも風見さんの欲望を満たすための仕組み作りに過ぎなかったのです
◆:風紀委員の委員会室の備品は、そのほとんどが没収品で、この前までは空っぽの棚と椅子と机しかなかったのに、今では最新式のAI機器が揃い、学校で唯一のいつでも快適に過ごせる場所となっていました
◆:委員会室のARには、現実世界と同様に、様々なお宝プログラムが揃い、それらは風見さんの自慢でもありました
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◆:さて、シロがやってきてからというもの、学校中の話題はシロのことで一色となりました
◆:それを聞いた風見さんは大変うらやましがり、自身が所有するのに相応しいと言って、シロを没収しようとしました
◆:「学校の風紀を乱すんじゃない!没収だ!」
◆:ですが、シロは野良アニマとして学校に保護された身であって、独り占めすることはできません
◆:それどころか、勘違いが一言でわかるその発言に、周りにいた他の生徒達からはクスクス笑われてしまいました
◆:花崎さんは人がいいものですから、「風見さんもシロと遊びたいんだろうな。」なんて呑気に思い、「はい。休み時間が終わる前に返してくださいね。」とシロを手渡してしまいました
◆:すると、風見さんは空気の悪さと、僅かながらに感じてしまった羞恥心を搔き消したい思いもあって、シロの首輪の紐ををグッと強引に引いていきます
◆:シロは嫌がって抵抗します
◆:そんなシロをなんとしても連れていくため、風見さんは両足を地面に踏ん張って、紐を肩にかつぎ、歯を食いしばりながら、顔を赤鬼のように真っ赤にして、強く引っ張ります
◆:その結果、シロはずるずると引きずられながら風紀委員の委員会室に連行されることになりました
◆:ようやく委員会室に入ってきた風見さんは、まるでマラソンでもしてきたかのように汗だくで、シャツもベトベトでした
◆:委員会室で戦利品を整理していた他の風紀委員達も、その光景を見て思わずクスクスと笑い出します
◆:風見さんは、今までに見たたことのない屈辱的な光景に、シロを憎々しく見ました
◆:シロも自身を引きずってきた風見さんを、仲良くなれない存在だと認識していました
◆:風見さんは委員会室の中に入り、足を使って扉を強引に閉めるや否や、今にも逃げ出しそうなシロの首輪の紐を他の風紀委員に無理やり引き渡して、どっかりと自慢の椅子に座りました
◆:シロを引き渡された風紀委員は、受け取ったシロのつぶらな瞳を見て、ニヤニヤしながら頭を撫でようとしました
◆:伸びてきた手にシロは驚いて、風紀委員の周りをぐるぐると逃げ回ります
◆:風紀委員は紐が絡まないように、シロを追って後ろを覗き込んだり、片足を上げたりしていますと、紐を持っていた手の力をいつの間にかふっと抜いてしまいました
◆:シロはさらに勢いよく走りだします
◆:すると、風紀委員はバランスを崩して大きな尻もちをつきました
◆:それを見た周りの風紀委員達は、ケタケタと笑いながら、シロを捕まえようとします
◆:シロは風紀委員達から逃れるために、委員会室を軽やかに走り回ります
◆:「早く捕まえろ!」と、風見さんが叫ぶと、風紀委員達は我が身を案じます
◆:ここでアニマ一匹を捕獲するのか、長時間の八つ当たりを後々甘んじて受けるのかなんて比べる必要もありません
◆:皆、慌てて目の色を変えて、シロに飛びかかってきました
◆:シロも負けじと委員会室を縦横無尽に飛び回ります
◆:ひとりの風紀委員が棚の上のシロに飛びかかると、棚に山積みにされた漫画やお菓子は辺り一面に飛び跳ねます
◆:次の風紀委員が机の上に逃げたシロに飛びかかると、机はバーンと音を立てて、置いてあったオレンジジュースやコーラを部屋中にまき散らします
◆:シロは、風見さん自慢のお宝プログラムにぶつかりながら部屋の中を走り回ったので、多くのプログラムからジジジッジジジッとか、プシューという嫌な音が鳴ったり、勝手に起動を始めて飛び跳ねるプログラムがありました
◆:慌てた風見さんは、腹立たしさに任せて、手元にあったプログラムクラッシャーという対プログラム用のハンマーで、シロを叩き殺してしまいました
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◆:かわいそうなシロは、一声「きゃーん!」と鳴くなり、動かなくなってしまいました
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◆:風見さんは「学業には不要なものだもの…」と言って、人が見ることの無いようにシロを箱に入れて、飼育室に返しました
◆:花崎さんはどんなに悲しかったことでしょう
◆:懸命になってシロを治そうとしました
◆:しかし、シロを治すことはかないませんでした
◆:仕方なくシロを、誰にも見つからないようにこっそりと自身のデバイスに格納しました
◆:壊れたプログラムを個人のデバイスに入れることは、意図せず暴走した時に想定外の被害をもたらすことから、とても危険と言われています
◆:本来は許されるものではありませんが、花崎さんはそれを覚悟の上でシロを引きとったのでした
◆:そして、いつかシロのプログラムを治そうと誓うのでした
◆:「シロ・・・ごめんね・・・必ず、治してあげるからね・・・」
:
◆:それから、花崎さん以外の人がシロの存在を思い出さなくなったある夜、シロのプログラムは再び動きはじめました
◆:しかし、それは元のシロ、つまりアニマの形はしていませんでした
◆:シロという器に隠れていたそれは、白い布状でふわふわと浮いており、手で触れると形を変えていきます
◆:ずっと気持ちが沈んでいた花崎さんは、シロがまだ生きているように思えて、ついつい長く遊んでしまうのでした
◆:「・・・シロは人を楽しませるのが本当に好きだよね・・・」
◆:こうして遊んでいる間に、この形の定まらない物にも少し癖があることが分かってきました
◆:花崎さんの気持ちを汲み取るかのように、触れると形を変えて行くのですが、楽器に形を変えるとその完成度はとても高く、実際に音を奏でることもできたのです
◆:音はとても心地よく、身体の内に沁み入るようでした
◆:その音を奏でることが楽しくて、花崎さんは音楽を始めました
◆:こうして奏でられた音楽は、自身だけでなく周りの人々も幸せな気分にさせてくれたので、シロが来た時のように花崎さんの周りには人々が集まり始めました
◆:学校内だけではなく、噂は隣町・・・いえ、SNSですぐに広まる時代ですから、それこそ全国の人に知れ渡りました
◆:花崎さんはみんなが笑顔になる様子が楽しくて、外で演奏するようになりました
:
◆:すると今度も、それを聞いた風見さんは大変うらやましがりました
◆:こう見えて、風見さんも音楽が好きで、楽器の練習を始めたこともありましたが、あまりにも上達できないことに腹を立て、それをすべて楽器のせいにして、練習を止めてしまったのでした
◆:「花崎さんが楽器をいきなり始めて、こんなにも人を集めているのは、きっと楽器が良いに違いない!あの楽器なら私もすぐに上手くなれるはず!」と思いました
◆:風見さんは、外で演奏をしている花崎さんの前に現れて、「ずっと演奏しているのは疲れない?休んで聴いていなさい」と半ば強引に楽器を奪い取るのでした
◆:花崎さんは、急に何が起こったのかと思いましたが、長く演奏をしていたので、手に力が入らず、不意をつかれたこともあって呆気なくシロを渡してしまったのです
◆:抵抗する間も無く、風見さんが楽器を弾き始めました
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◆:しかし、過去に受けた仕打ちを、憶えていたのでしょうか
◆:ついさっきまで、天上世界に至らないと聴けないと思われるような素敵な音を奏でていたシロは、この世の終焉に及んでも聴くことがないような耳をつんざく音をかき鳴らし始めたのでした
◆:集まっていた人たちは耳を塞ぎ、敵意を込めた目で演奏者である風見さんを見て罵声を飛ばします
◆:風見さんは、かき鳴らされた音に三半規管が狂わされたのか、はたまた期待していた反応とのギャップで見ているものを信じられなくなったのか、周りから浴びせられている声を何一つ聞けなくなるほどに、頭の中が真っ白になりました
◆:楽器を借りて少し触っただけなのに、いま目の前で自分が責められているのはおかしいし、もしもそれが事実ならその原因はこの楽器にあるはず・・・と思うやいなや、楽器を再び叩きつけて粉々にしてしまいました
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◆:・・・冬の枯れた地面に叩きつけられたそれは、もう何も奏でません
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◆:花崎さんの目からは、自然と涙が流れてきました
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◆:でも、僅かな望みを信じて、粉々になったシロのもとに駆け寄り、そのカケラをかき集めましたが、もう元に直せないことは一目見て分かりました
◆:花崎さんがカケラをかき集めている間、周りの人に声を掛けられる人は誰もいませんでした
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◆:冷たい風が吹きました
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◆:シロであったカケラの一部は、風に舞い、空をキラキラしながら、枯れ木に降りかかりました
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◆:周りの人の中から、それに気が付いた人の話し声がコソコソと聴こえてきます
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◆:花崎さんも胸の痛みを抑えながら、頭を少しあげ、人々が指さす方に目をやりました
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◆:そこには桜が咲いていました
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◆:いいえ、それは桜のように見えました
◆:実際にはカケラが枯れ木に当たった時に弾けた、一瞬の火花が、桜のように見えたものでした
◆:それを見て、花崎さんの目からは余計に涙が流れてきましたが、周りの人々には笑顔が戻りました
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◆:それも、人を集めるのが好きなシロの意思だったのかもしれません
◆:風が強く吹いて、シロのカケラは辺り一面を飛び回ります
◆:陽が傾き、赤い光を反射して白いカケラは桜色に変わって飛んでいきます
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◆:花崎さんは、最後にみんなの笑顔をシロに見せたくなりました
◆:そして、その手に持っていたカケラを天に向かって投げつけるのでした
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◆:「シロ・・・みんな・・・笑顔になったよね・・・」
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2021/5/22
朝、Nからの連絡で目が覚める。その内容に飛び起きてガッツポーズ! 大慌てで支度をして、心のアンテナを調律しながら向かいます!
ちょっと胸の高鳴りが止まらないんだけれど、鈴の音を聴きながら歩いていたら落ち着いてくる。ぴょこっとした黄緑色のコケみたいのがかわいらしくて、しゃがんで写真をとる。12時ぴったりに駅に到着。改札前にはほかにも大勢のひとたちが個々に待ち合わせをしていて、人とひとが再会するところどころにぴこっと笑顔の花が咲く。改札から出てきた女のひとがお友達を見つける、とっても嬉しそうにおたがい駆け寄って、控えめながら抱き合っている。男の子たちの集団にさいごのひとりが遅れて到着する、男の子たちはまるでホームランを打ってベンチに帰ってくるチームメイトを迎え入れるように、うぇーいってさいごのひとりに肩をぶつける。そんな再会の様子を眺めていたら、泣いてしまいそうになって、上を向く。
5分になって、階段からまた大勢のひとたちが下りてくる。その中からNとKさんの姿を探す。あれれ、おかしいな、遠くからでもすぐにわかるはずなのに、と思ったら、下りてくるひとだかりの中から一本の手が挙がる。だけども、そのすぐ近くにいるはずのKさんの姿がいまだに見出せなくて、あのラピュタのパズーみたいなひとがKさん? いつもと雰囲気のちがうNの髪型と服装がチャイナかわいくて胸の♡に矢がズキュンと突き刺さる。そしてKさんと衝撃のご対面、経験的にこういうときにはそこに「関係」のような何かが発生して、居心地の悪さといったら大げさだけど、くすぐったさのようなものを感じる。それはぜんぜん悪いことではなくて、いい予感のほうがはるかに多いくらいなんだけど、Kさんの目をひとめみたとき、そこに関係のような何かがまるで発生しなくて、へぇ~って言いながらこっちを眺める生身のKさんがそこにいる。おたがいに初めましてって挨拶を交わしながら、え、これはいったいどういうことって思う。対面してひとのことを見ようとすると、そこに何かしらの機微を感じるっていうか、何かしらの関係のような何かが生じる。だけど、Kさんにはそれがまるでなくて、すんなりKさんのことを見ているし、Kさんにも見られていると感じている。え、なんだろう、あいだに関係みたいな何かがないから、おたがいにすれ違っているんだけど、それだけに相手をちゃんと見据えている? Mさんとはじめてふたりで会ったとき、Nとはじめてふたりで会ったとき、関係していくなかで喋っているじぶんの声が生身にきこえるときのことを思い出している。ふだんは関係みたいな何かの渦にからめとらて、わけがわからなくなって、その渦の流れにのまれるままに喋っているから、それは喋らせられている感じにも似ていて、じぶんでも何を言っているのかよくわからなくなる。だけども、ふたりと喋っているときは、不思議とじぶんの声が録音の声をきいているみたいにはっきりきこえていて、これと似たようなことが視線を介するだけで起きているような感じがする。じぶんの声がきこえるように、じぶんの投げ掛けている視線が見えるような。
NとKさんが今朝のことを相性抜群の夫婦漫才みたいにたっくさん話してくれて大笑いの連続! コッちゃんのこと、より子のこと、カラスのこと、不審な警備員さんのこと、お友達の野田さんのこと、Kさんの壮絶な部屋のこと。Kさんはコッちゃんはカラスをお友達と思ったんだよって言い、Nは怯えていたと思うって言う。不審な警備員さんに対して態度を豹変させるKさんのNの物真似がおもしろすぎる。それから、Kさんの部屋に入ろうとしたときのNの再現も!
Oさんの魚介カリー。三人で来たものだからOさんびっくりしている。Kさんは端がいいんだよね、とNがKさんを優しく気遣う。席についたとき、Kさんとふっと目が合って、涙がうるみそうになる。注文を済ませるまえからKさんのマシンガントークが止まらない! ポン、ポン、ポーンとどんどんはなしが飛躍する。生まれ故郷の島のはなしをしていたと思ったらビールをゼリーにしてみたはなしになっていて、そのふたつのはなしを繋いだのは船の回転するスクリューが起こした泡だったりする。お友達の野田さんのはなしが何度か浮上する。Kさんはけっこうズケズケと野田さんを批判したり、もう会わないよう��しようと思ったとか言う。それでもKさんは今朝も野田さんに挨拶をしていたらしくて、批判は批判としてあるんだけれど、それとはすれ違って野田さんのことをありのままに見ようとしているのかなって思う。Kさんのマイスプーン、すっごく小さくて掬えるご飯が少ないうえに、大盛りだし、ずっとずっと喋っているから食べるのが誰よりも遅い。Nとふたり、Kさんの食べ終わるのを待つんだけれど、Kさんがまたベラベラ喋りはじめて、これだから食べるの遅いんだよねってじぶんでツッコんでいる。ごちそうさまでした。
公園に向けて歩きながら、Kさんのこと一瞬で好きになっちゃいましたって伝える。Kさん、首筋に冷たい風のよぎったみたいに、きらいにならないでねって言う。野生のルンバ。Kさんは色んなものを見たり触ったりしながら歩く。まるでそのひとつびとつに挨拶をしているみたいで、じっさいに通りがかったひとにもこんにちはって挨拶をする。行きにかわいいなって思って写真を撮ったのと同じ種類らしき黄緑色のコケみたいなのにも触れる。これと同じかなって写真を見せる、うれしいな。墓場道、いい感じの葉っぱの下に赤い実が落ちている。しゃがんでその実を見ていたら、目のピントがだんだんと密かに蠢くそれに合ってきて、すぐ近くにアリさんたちの大行列ができている。
公園に帰ってくる。Nが大きくなったカモの赤ちゃんに大驚き! Kさんがいつもルリコンゴウインコのいる樹とすっと一体になる。長年この公園のことを見てきて、この樹と戯れているのはルリコンゴウインコとKさん以外知らない。かと思ったらKさん、雨も降っていないのに雨が降ったらこの池の水面に波紋ができるのかなって。まさに雨の波紋のことを考えていた矢先だったから、いきなりそんなことを口走るKさんはやっぱり超能力者なの? 雨の降っていないときでもアメンボがいれば波紋が見られるけど、いまはカモの赤ちゃんがぜんぶ食べちゃっていないって伝える。Kさんはコイたちに熱心な視線を注いでいる。Nが水面に浮かぶ赤い実みたいのをコイが食べては吐き出していることに気がつく、ベェーってすぐに吐き出しちゃう。えさをもらえると思っているのか、コイたちがどんどん集まってくる。コイからはこっちのことがどんなふうに見えているんだろう。Kさんはひらっと泳いだり、飛び跳ねたりするコイたちをみて、色んな芸があるって言う。
小学校のニワトリを見にいこうとするけれど、ニワトリ小屋のところには入れなくて、Kさんはよれよれの草花を持ち帰る。信号を渡って、100均とファミマ。メモ、こんど信号待ちのときみんなと足で踊るやつやりたい。念願のゴザがあって、ゴザを買う。青と黄色と緑。そういえばかよこさん、青の時計みつかったらください! Nに促されてボールも買う。ニンマリ。ボールも買う。Kさん造花を触りながら足に良さそうだと言う。え、どういうことって思って造花を触ってみると、たしかに足で踏んづけたら気持ちよさそう。お茶をひとつ選ぶのにもNのKさんことを想う真心みたいなのがポロっと出ていて涙がうるむ。買い物を済まして横断歩道で信号待ち。メモ、こんど信号待ちのときみんなと足で踊るやつやりたい。空の雲がどす黒い色をしていて、おおッ、きたなって気持ちが盛り上がってくる。さっそく雨が降りはじめる、Nが傘をひろげる。入る? (雨に打たれるの好きだから)まだだいじょうぶ。
屋根のあるベンチで雨宿り。大勢のひとが集まっている。何だったか忘れたけど、子どもが面白いことを言ってクスッと笑う。雨はすぐに弱まって、屋根のなかが少しずつ空いてくる。そこへTがひらひら手を振りながら登場する。(駅で雨宿りしてるってもっと早くに気づけたらな、傘あったから迎えに行きたかったな)大あくびを連発するKさんはコクッと一瞬寝かけている。Tとの挨拶がひとしきり済んで、KさんにTを紹介するときには、Kさんはまたずうっと喋りっぱなしのモードにもどっていて、Nといっしょにこれまでのいきさつをひと通りおさらいする。Nの物真似とか再現がなんど見聞きしても面白くって、面白くって大笑いするたびにKさんもいっしょに大笑いしてくれる。Kさんも気ままに笑っているのだから、いっしょに大笑いしてくれるっていう言い方も変なんだけれど、なんだか「いっしょに笑っている」という感じがして心がぽかぽかする。Kさんはわりと頻繁に、いつもこの時間なにしてる? って質問をする。じぶんのときはOさんのところにいるときだったから、ここにいるよって応えたけども、何かもっと言い方があったんじゃないかっていまになって思う。いつしかKさんの視線が一点に固定されるようになり、その視線の先にはTの目がある。KさんがTの真っ直ぐな眼差しを褒める、そう! そう! そうなの! って全力で同調する! じぶんのことのように嬉しいなぁ。と思ったら、きみはひとのはなしをよく聞けるね、おおらかだね、土地柄なのか、家族の影響なのかってKさんに褒められる。それで何故だか咄嗟に思い出したのがお母さんの家出のはなし。真夜中、お父さんと喧嘩をして激怒していても、一枚、二枚、三枚と、台所のお皿をゆっくりと丁寧に床に落として割っていく。そして、じぶんと弟を引き連れて高速道路で実家に帰る。Kさんはすごいな! そういう表現方法もあるんだなって、お母さんのことも褒める。音と形で、いちど壊れたものは直らないってことを伝える教育だったのかも、とまで。すごいなぁ、そんなこと考えたこともなかった。この家出のはなしはお母さんとの思い出のなかでもとくに好きなはなしで、いつも車に乗るときは弟と後部座席に乗っていたんだけれど、弟は爆睡しているし、子供心ながらなんかじぶんはお母さんの隣に座らないといけないような気がして、そのときはじめて助手席に座ってシートベルトをしめた。お母さんは一言も喋らずに脇見もせずに高速道路をひたすら運転して、くるりの『ばらの花』とか、フラワーカンパニーズの『深夜高速』を繰り返し大音量で流した。じぶんは音楽やその歌詞に耳を傾けながら、色んな光の過ぎてゆく高速道路の夜景をじっと眺めていた。我ながらいい思い出である。
みんなの出会いのはなしになったりして、ツイッターのはなしになったりして、そのKさんの言い回しがどうしても思い出せないんだけれど、ツイッターが歯車のようにうんぬんでみんなを結びつけてくれたんだね、とっても感動的なことを言ってくれて、Nを筆頭にわわわわわ~ってなる。Mさん、それからRとNちゃんもこっちに向かっているらしい。そしたらKさんがいきなり「Nちゃんはやれることちゃんとやっててえらいね!」ってNの肩をガシッと後ろから抱く。わああああっと泣きそうになっちゃう。巨乳になって小5と中2と高2の男の子にお願いしておっぱい触ってもらう夢みた。夢のはなしになって、毎晩眠りに就くとき、いい夢見れますようにってお祈りしていることをはなしたら、Kさんがそうだよね、お祈りって大事だよねって。その一言がとてもうれしい。
Kさんのはなしどれもテープレコーダーに録音しておきたいくらいいいはなしなんだけども、あとで思い起こそうとしても、その言葉の数々はびっくりするくらいあたまを通り抜けていて、なんとなくの印象だけは残っていても、不思議とその言い回しを思い出すことができない。Kさんのはなしには主に二種類あって、ひとつはこういうことがあったっていうある特定のエピソード、こっちのことはまだ思い出せるんだけれど、もうひとつの個別のエピソードに付随する人と人との関係性や繋がりの抽象的なはなしについては、そのどれもに深く共感しているのにも関わらず、具体的になにを言っていたのかはイマイチ思い出すことができない。とにかく大量の言葉を発しているからというの���ひとつ、南方熊楠みたいにキーワードひとつではなしがどこかに飛躍して、いつかの絵しりとりのように文脈が途切れているというのがひとつ、でも、それだけではないような気がする。とにかく大量の言葉を発しているのに言葉はいらないんだ、とも言う。それでも言葉を発し続けるKさんのはなしをどうにか汲みたいと思って、とりとめもない全体像を思い浮かべる。ところどころのはなしに散りばめられた「挨拶」ってキーワード。もっとシンプルに声掛け? というか一歩その対象にこちらから素直な気持ちで歩み寄ろうとすること? そんなような何か。さいしょはKさんのことをとらえどころのない不思議なひとだなって思っていたけれど、だんだんとこのひとは、ものすごく小さくて細やかな信念みたいものをひとつびとつ丁寧に丹念に、いまにも崩れ落ちてしまいそうな積木みたいに、どうにか積み重ねようとしているんじゃないかってことを思う。やれることやっててえらいね! って言葉に、言葉はいらないと言いながら、それでも周囲の発する機微のひとつびとつを言葉にして掬わないと気が済まないKさんの律儀な性根。Kさんにいきなり歯並びきれいだねって褒められる。ほら、私もきれいなんだよって前歯を見せるKさん。そんなこと大昔に恋人に言われたっきりだから照れちゃう。
そんなこんなで雨上がり、芝生にゴザを敷いて、念願のキャッチボール! 楽しいなぁ、ほんとうに楽しいなぁ! 四人でぐるぐるボールを回し合う。そこにお待ちかねのRとNちゃんが池の石橋をてくてく渡ってくる。R髪の毛のびたね、いつものジャージだね。Nちゃんはじめまして。このあいだ思いがけずケンカの火種をつくってしまってごめんね。なんかぐるっと芝生の上で円になっていて、どっちが先に言ったか忘れたけれど、Nちゃんって呼びかけていて、Nちゃんも名前をただ呼びかけてくれる。そのたったの一言から、何でも知ってるよ、何でもわかってるよ、何にも知らないかもしれないし、何にもわからないかもしれないけど、だいじょうぶ、ぜんぶ何でも受け入れられるよって感じのすごい大きな朗らかな気持ちが伝わってきて、��い子だなって思う。Nちゃんは一人称がじぶんの名前で、それがとっても似合っている。なんとなくAさんのことを思い出す、Aさんも一人称がじぶんの名前で、いつも朗らかで、スクッとまっすぐ地面に立っていて、面倒見がよくて、良くないと思うことはちゃんと良くないよって言ってくれる。Nが「ね、みんないい子でしょ」って宝物を見せるように言うのがとてもうれしいね。Mさんから、美容室の予約があって、来てもすぐに帰ることになっちゃうから今日はやめとくって旨の連絡がくる。そのことをきいたKさんが「いいね、予約してあるから来られないってことちゃんと伝えてくれるのがいいよね」って旨のことを言う。次々とあたまを通り抜けてゆくKさんの言葉のなかで、このことはあたまにはっきりと残っている。あまりにも当たり前のことを当たり前に褒めているから、かえって耳に残ってしまったらしい。もしかするとKさんの名言の数々がすっぽりあたまを通り抜けてしまうのは、あまりにも当たり前のことを当たり前に肯定してくれているからなんじゃないかって、そんなことを思う。その当たり前のことは人と人とが関係していくうえで、うやむやに、曖昧に、何となくそこらじゅうの人に身についていたり、おろそかにされても大して気にもされないような些細なものかもしれなくて、でも、Kさんにとってのそれらは当たり前なんだけれど当たり前じゃない、当たり前じゃないんだけど当たり前なそんな些細のことを草の根の運動のようにひとつびとつ積み上げようとしているようなそんなような気概を感じる。お昼にはじめてKさんと出会ったときの不思議な感覚の謎が解けていくような感じがする。もしかしたら、あのときKさんとのあいだに感じた関係の途切れのような何かは、うやむやに関係の渦に巻き込まれるまえに、まず相手のことを関係されてしまうまえのありのままの生身の姿で見ようとする意志の表れだったんじゃないかってことを思う。ひとでも動物でも植物でもものでも、ありとあらゆるこの宇宙のものは個々にそれぞれにそれらだけの固有の光を発しているって思う。そう思っている。ナイーブに言えば、そういうものものと関係していくことは、そのひとつだけの、それだけでひとつの膨大な宇宙のようなものから、じぶん都合のものだけをつまみ食いするようなふうになってしまう。たとえば、掃除機をゴミを吸い込むための道具をみなすように。必ずしもそれが悪いことだとは思わない。人と人でも、人とものでも、関係してなんぼだと思う。関係していくなかで(たとえば、じぶんに固有の光を誰かにわかってもらえないとかして)傷ついたりすることもあるかもしれないけれど、ちょっとずつ、ちょっとずつでも、ひとつずつ、ひとつずつでも、完璧な関係なんてものはないかもしれないけれど、よりよい関係にしようとやっていきたい、そのための草の根の第一歩として、まずは関係するまえのありのままの姿を見ようとする、そんなようなKさんの気概が、ある道具をそれに求められている用途とはまるでちがう仕方で使おうとすることに表れているのかもしれない。こんなことを書き連ねるじぶん自身も、Kさんやみんなをじぶん都合のものに落とし込めているのかもしれない。この日記を書きはじめた当初、その日の空がきれいだなって思ってそのことを書こうとしたんだけれど、きれいって書いたらそれ以外の何かが欠落してしまうような気がして、そのことを書けないって書いたことををよく憶えている。それからはどう思ったとか、こう思ったとか、そういうことを書くのをなるべく差し控えて、みたものをそのままに書くようにしていたように思う。自然のこととか、じぶんとは直接あんまり関係のないひとのこととか、そういうことを。だけども、みんなと出会った頃からこの日記のあり方も変わってきた。じぶんと直接的に関係のあるものごとについても、その関係の渦中から書いていきたいと思った。きっかけは大好きなみんなのことを書き残しておきたいっていう素朴な理由なんだけれど、それは関係の渦中からしか書けなくて、いままでのようにはいかなくて、どう書いたらいいんだろうってことの以前に、どう関係したらいいんだろうってことがまるでわからなくて、そんなわからなさにさいしょのヒントをくれたのがHさんのからだを張ったさよならの仕方だった。それがものすごくうれしくって、みんなのことよくわかるような気もするし、ちょびっとしか知らないけれど、それでも、それでも、ちょっとだけでも、思っていることや感じていることを言葉やからだで表に出して伝えられたらなって思う。
友達が少ないってはなしをしたらRが意外だという。Kさんも友達が少ないらしい。でも、いまはこんなに友達できたよ! 円になってしばらく立ちばなしをしていたら肌寒くなってきて、円をひろげて6人でキャッチボールを再開する。ぐるぐる、ぐるぐる、隣から隣へボールを投げる。Kさんのボールをキャッチして、Rにボールを投げる。RはNちゃんに近距離にもかかわらずけっこうな速球を投げる。Nちゃん、ちゃんとキャッチしていてすごい! だんだんと野球部の練習みたいに捕っては投げ、捕っては投げが速くなる。逆回転、Rがイノシシみたいな怖い顔で剛速球を投げつけてくる。しかも、ためて、ためて、ためて、いきなり投げつけてくる。捕れたときは手のひらがジーーーン。捕れなくて池ポチャ、ボールが思ったよりも水を吸い込んで、水を切っていると、誰かがラーメン屋の湯切りみたいって、みんなラーメン屋の湯切りの真似をしている。なんて愉快なんだぁ! Kさんの胸をめがけて軽く抜いたボールを投げる、Kさんが捕り損ねると胸ポケットの小銭がチャリンと心地よい音を鳴らす。Kさんの投げ方はドカベンの殿馬みたい。このあいだTと投げ合ったときには容赦ない力の込められたボールがきたものだけど、Nに投げるときはとても捕りやすそうに投げている。またRが怖い顔で凄んでくる、顔が怖いよ~って言うと、Rはサイコパスみたいなヤバイ笑顔になり、それがもっと怖くて笑ってしまう。からだが温まるというか暑いくらいになってきて、みんなゴザのところに集まり、Rを誘って二人で投げ合おうよ。ちゃんと距離をとって投げ合う。Rにフォームがきれいって言われる。エッヘン! 真っ直ぐがいい感じにRの胸に届く。ためしにスライダーを投げたらくくっと曲がる。フォークを投げようとしたら指から抜けなくてワンバンになっちゃう、走らせてごめん!
お腹痛いのをおして来ていたTがひと足先にバイバイ。ひらひらと遠ざかって姿が小さくなってゆく。恐竜みたいとも思ういっぽう、名前のとおり蝶々みたいだなぁとも思う。またね!
ゴザに寝転がって主にKさんのはなしをきく。数時間まえからNが頻りに「Kさん今日はたくさん喋って疲れたねえ」ってKさんの背中を撫でながら優しく労わるんだけれど、Kさんのマシンガントークはいっこうにおさまる気配なし、それどころかより加速さえしているような……。ここでもNの物真似と再現が炸裂して、何度見ても大笑いしちゃう。それから今回がはじめてになる神社に参拝したときのKさんの物真似「きょうも元気で楽しいです、ありがとう!」Nが、私はお願いごとばっかしてたのにKさんはって。ううぅって、とうとう感動して泣いてしまう。それから話題は主にNちゃんとRのことに。Nちゃんがじぶんで「Nは男気あるからな」って言う。その自信にあふれた強い一言にとても好感をもてる。Rが軽くKさんに説教されるようなかたちになって、ニヤニヤしちゃう。ここでもKさんはごめんね、とか、ありがとう、とか、些細なあいさつのことを言っている。でも、きみは素直だな、飾らないところがいいよって説教しながらもRのことを褒める。同棲のはなしから、じぶんにも同棲生活が長くあったはなし、それから、頑張り屋さん、もがいているひと、あがいているひと、悪あがきしているひとが好きってはなし。たぶん、それはじぶん自身も悪あがき好きで、悪あがいているときに生き生きとしているからなんだと思う。なんでいっしょに暮らそうと思うんですかってRからの質問に、だって好きだったらずっといっしょに居たいと思うでしょって。それはそうだけどKさんが言うと不思議な感じってR。なんだかその一言が引っかかっていて、こんどどういう意味なのかきいてみたい。
重ねがさねにトイレ、Kさんの姿がふいに見えなくなってちょっと不安になる。まあ、だいじょうぶだろうと思いながらもKさんが帰ってきていないことをNに伝える。Nはとぼとぼ広場のほうに歩いてゆき、小さくなったNがぽつんと広場の片隅に立っている。空はもう暗くて、そのぽつねんとした後ろ姿を見ていたら何となく胸騒ぎがしてきて、そういえばKさんが空のペットボトルをわざわざ持っていったことが急に気がかりになってきて、じぶんもKさんを探しにいく。どこにもいないねってNと合流、星に帰ったのかな、公園を半周して元いた場所にもどってくるとKさんはふつうにそこにいる。かるく迷子になっていただけだったみたい。よかった! 信じられなかったことがちょっと悔しい!
さよならの時間、どぎまぎしながら駅に向かって歩く。それぞれに方向も状況もなにもかもちがう。Rが来たばっかりなのにもう帰るのかって。その素直な気持ちがうれしくて、それだったらうちに寄ってく? って言いたいんだけれど、早朝の朝5時から活動しているKさんとNのことを考えると口どもってしまう。そういうときにも素直に思っていることを伝えて、これこれこう思うんだけどどうってことをうやむやな関係に流されずに伝えていけたらって思う。そういうときいつも矢面に立って、どうにかしようと頑張ってくれているのがNだ。その姿勢を見習っていきたい!
まずNちゃんとRを見送る。電光掲示板の数字のことからNちゃんに、ひとよりちょっと目のいいことが唯一のとりえだよって自虐的に伝えてしまったけれど、そのことはけっこう本気で自慢に思っているよ。電車が走りだして、窓枠からNちゃんの顔が見えなくなったとき、Nちゃんがひゅっと顔を覗かせて、また(^^)/を見せてくれたとき、すごいうれしかった。階段を渡ってNとKさんも見送る。すぐに電車きて、ふたり乗る、向かい合う、いい表情、目がとってもいい、走る。
Kさんのようになりたいなって本気で思う。ちょうど10歳差、10年後、Kさんのようになれたら、いや、なってやるぞって強い決意をかためる。かためさん。
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ひとみに映る影シーズン2 第四話「ザトウムシはどこへ行く」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 最低限の確認作業しかしていないため、 誤字脱字誤植誤用等々あしからずご了承下さい。 尚、正式書籍版はシーズン2終了時にリリース予定です。 (シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!! pixiv版 (※内容は一緒です。) ☆キャラソン企画第四弾 牛久舎登「かっぱさん体操」はこちら!☆
དང་པོ་ 洗面所で顔を洗い、宴会場に戻る。時計は丁度六時をまわった所だ。ふと、窓の外から懐かしい歌が聞こえてきた。 『かっぱさん体操第一ィィィ!』『プッペケプッぺップー』 「うー。何だよぉこんな朝っぱらからぁー!」 「ふわあぁ~」 「ああ、かっぱさん体操の時間……」 朝っぱらから近所迷惑な体操音楽によって、佳奈さん、万狸ちゃん、玲蘭ちゃんが同時に布団から出てきた。玲蘭ちゃんと私はカーテンを開け、大音量で音楽を流しながら体操する河童の家教団を眺める。 「牛久の河童はかっぱっぱーのパァー」 「お皿を磨いてツーヤツヤーのツャー」 「「みんなで腹からワッハッハーのハァー、笑顔に勝るー力なし」」 「は? 二人なんで歌えるの?」 歌詞を暗記している私達を、佳奈さんが訝しんだ。 「佳奈さんの地元にはいませんでしたか? 河童信者」 「ぜぇんぜん」 「北関東から東北あるあるなんじゃない? 私も会津にいた時はほぼ毎朝だったのに、沖縄(うちなー)では一度も聞いた事なかった」 影電話で万狸ちゃんにも聞いてみる。 <木更津はどう?> 「一度だけ布教に来た事はあったね……あの体操で大狸様を怒らせちゃって、追い出されてた」 <あはははは> 河童の家、案外ローカルネタなのかな。 「じゃあ、どの学年にも一人はいる子河童も知らないですか? 佳奈さん地元は京都でしたっけ」 「ううん、両親両方京都だけど東京生まれ東京育ち……そもそも子河童って何?」 「そこからですか」 茨城県に本拠地を置く新興宗教、河童の家。元お笑い芸人の牛久舎登が発足し、『笑顔に勝る力なし』を教義とする。そのため宗教活動では一発芸や話術を磨く修行をし、信者は男も女も子供も、皆河童のように頭頂部を剃り上げる。この教団が近所にあると毎朝『かっぱさん体操』という体操曲が爆音でかかり、また近隣の学校には通称『子河童』と呼ばれるお調子者な学生が何人か生息する。そして彼らは将来、教団が運営する芸能事務所『かわながれ興業』に所属するんだ。でも人を笑わせる、そして人から笑われる事も最上の幸福であるという教えを拡大解釈した信者が、パワハラやいじめ、体罰を起こして時折問題になっている。 「私が知っている河童の家についての情報は、こんなところですかね」 「へぇ……やけに芸能界に影響力がある宗教だと思ってたけど、そんなだったんだね」 「ああ、東北も多いけど、大阪には芸人養成学校があるから日本一信者が多いんだって」 玲蘭ちゃんがスマホで調べてくれた。 その時、トントン、と襖がノックされる。 「おはよぉございます……。お嬢さん方。河童さんが体操終えて食堂混む前に、朝食行きませんか?」 タナカDだ。 「そうしよっか」 カメラが回るだろうから、私達は各々最低限顔を描く。眉毛面倒だから影で作っちゃった。後で朝風呂に入ってからちゃんと直そう。 གཉིས་པ་ 食堂に行くと、奥の席で既にタナカDが朝食を一品ずつ物撮(ぶつど)りしていた。テーブルには全員分のネームプレートと朝食が配膳されている。 「ぅあ~~~~~~~~……」 席につくなり、佳奈さんからアイドルが一番出しちゃいけないような声が漏れた。 「どうしたんですか佳奈さん、まるで深夜バスにでも乗ってたみたいな顔して」 「似たようなもんだよ……ずっとすごい雷鳴ってたじゃん。しかもなんか救急車の音とかしなかった? それで朝はかっぱさん体操。ほぼ一睡もできなかった」 「救急車、ですか」 「はぁ……一美ちゃんは本当にどこでも眠れるよね……昨晩大雨だった事も知らなかったでしょ」 「うーん……」 本当の事を言うと、眠るどころじゃなかったんだけど。それを説明する事もできないからもどかしい。 「雷雨ぐらい気付いてました。私も全然休んだ気がしないです」 「でも寝てただけいいじゃん」 「嫌な夢を見てたんですよ。私は地元のお寺の尼僧になってて、お御堂のバルコニーが浸水して和尚様が馬頭観音になってすっごい怒ってる夢」 この内容は嘘ではない。そういう夢を見たのは事実だ。 「ば、罵倒観音? なにそれカオス……それはうなされるわ」 「おう何だ何だ、お二人共だらしないですなぁ!」 タナカDが物撮りを終えて席につく。彼は朝から声が大きい。 「まあ冷めないうちに食べようじゃありませんか。『じゅんなぎ』もありますよ」 「へえ、じゅんなぎですか」 手元のネームプレートを裏返すと、朝食メニューが書かれていた。 『朝食 おこんだて イシガキダイのちらし寿司 小松菜とかぼちゃのお味噌汁 わかめの辛子味噌和え じゅんなぎ』 おお、朝からなかなか豪華だ。ちらし寿司は大きな鯛のお刺身がどっさり乗っていて海鮮丼のよう。お味噌汁のかぼちゃもほうとうを彷彿とさせる大きなスライスで食べ応えがある。わかめは勿論新鮮な生わかめ。そして、千里が島で一度は食べてみたかったじゅんなぎ! 「皆さん、これはですね。『蓴菜(じゅんさい)で鰻繋ぐ』、つまり『ヌルヌルした野菜でヌルヌルした鰻を捕まえるような行いは無謀である』という諺が由来の、千里が島の郷土��理なんです。蓴菜と冷製の鰻を湯葉で巻いてあるから、『不可能を可能にした縁起物』、すなわち霊力が上がるパワーフードなんですよ!」 「おぉいおいおい、紅さん。台本もないのに詳しいですなあ! ま、僕はじゅんなぎが無くても今日は無敵ですがねぇ……フフン」 「どうしてですか?」 「いやね? お二人が眠れない夜を過ごしていた間に恐縮ですけど。昨夜、狸おじさんのおかげですごぉく縁起の良さそうな夢を見ましてですねぇ!」 「へ?」 何の事ですか? と言いたげな表情で、隣のテーブルの斉一さんがこちらを見る。 「夢に人語を話す化け狸が出てきて、僕にお酌してくれるんですよぉ。なんかご利益ありそうでしょぉ。しかもただの化け狸じゃない、ドレッドヘアのちょいワル狸ですよ!」 「ぶっ!! げほ、げほ!」 斉一さんが辛子味噌和えをむせた。ていうか、その狸、完全に斉二さんの事じゃないか。 「い、いや、わざとじゃないんだよ!? なーんか俺もタナカさんと晩酌する夢を見た気がしてたんだけど、本当わざとじゃないのマジで!!」 当の本人は必死に否定している。要するに寝ぼけてタナカDに取り憑いたまま寝ていたという事らしい。どうりで今朝あんな事があったのに、斉一さんしか迎えに来なかったわけだ……! 「狸おじさん、風水的にはどうなんですか? ラスタな狸って縁起いいんですかね??」 「ん゙っ、ん゙んっ……き、聞いた事ないですね……あれかな! 昨晩私が張った結界が効いている証拠とか! はい、ぽ、ぽんぽこぽーん……ふっくくく……ぽっ、ぽこ……」 斉一さん、完全にツボに入ってしまったようだ。佳奈さんも釣られて肩を揺らしだした。 「ちょっふっふっふ……タナカDが能天気すぎるだけだよそれ! てか狸おじさん困ってるし……なにラスタな狸って!?」 「部屋にラスタな狸がいたら報告した方がいいですか?」 「あっはっはっはっは!!」 何故か玲蘭ちゃんまで佳奈さんに調子を合わせる。じゃあ私も。 「玲蘭ちゃん、ラスタな狸はタナカさんに譲るんで、可愛い女の子狸は私が貰っていい?」 「それなら昨夜ずっと一美の隣で寝てたよ」 「きゃー! アハハハ」 皆で和気あいあいと食事していたら、いつの間にかじゅんなぎを無意識に食べてしまっていた。けどなんか、別にもういいかな……という気分だった。 གསུམ་པ་ 食後。手短に朝風呂に入り、軽く荷物をまとめてホテルを発つ。今日はまず主要な観光スポットを幾つか巡って、図書館で資料を見ながら埋蔵金の場所を推理する段取りだ。ロビーを出ると、青木さんが待ってくれていた。 「おはようございます。昨晩は凄い雨けど、ご快眠を?」 「全然だよー。そこの三角眉毛は別だけど」 「おう誰がデブで三角眉毛だとぉ? この極悪ロリータ」 「佳奈さんデブとは言ってないじゃないですか。いいから行きますよ、お二人共。青木さん困ってるでしょ」 手元で地図を見ながら、一行はまず徳川徳松こと御戌神(おいぬのかみ)が祀られる、御戌神社へ。ホテルから海沿いのなだらかな丘を五分ほど登ると、右手に見えたのは『石見沼(いしみぬま)』だ。青木さんが解説をしてくれる。 「中央に大きな岩をご覧で? あれに水切りで石当てるのに成功すると、嫌いな相手が怪我を」 「初っ端から物騒な観光スポットですね!?」 驚く私の背後で、カメラを抱えたタナカDがガハガハと笑った。 「これぐらいで驚いてちゃあ後が持ちませんよぉ紅さん! なにせ千里が島は縁切りのテーマパークですからなぁ。この後はもっともっと物騒な所をお見舞いしていきますよぉ」 「タナカさん、あなた本当にこの島を応援したいんですか? それとも視聴者をドン引きさせたいんですか?」 「ナハハハ、だぶか放送後は調布飛行場に行列が出来ているかもしれませんよ? 『あの紅一美がチビった恐怖の心霊島』と……」 「青木さん、石! 丸い石ください、水切りしやすそうなやつ!!」 「あややや、喧嘩はやめて下さいだぁあ!」 と、こんな所で尺を取っても始末に負えないから、小競り合いを演じたらさっさと移動する事に。暫く進み、御戌神社の鳥居が見えてきた。 「ウゲ……」 それを見た途端、私は絶句。それは鳥居と呼ぶには余りにも不気味な色に見えた。まるで糖尿病で壊疽を起こした脚みたいな……いや、この異常には心当たりがある。 「佳奈さん、この鳥居なんか変じゃないですか?」 「え、普通じゃない?」 思った通り、佳奈さんは平然としている。これは倶利伽羅龍王を討伐した時、地元の神様から聞いた現象だ。倶利伽羅を生み出した邪教、金剛有明団にまつわる物は、信仰心に準じて見た目が変わって見えるらしい。例えば倶利伽羅も金剛信者には美術品のように美しい龍に見え、金剛に恨みがある私には汚物にしか見えない。今回もそれと同じ……つまりこの神社は散減同様、金剛にまつわる領域なんだろう。我慢して入るしかなさそうだ。བཞི་པ་ まずは普通の神社と同様、手を清める。案の定手洗い場も気持ち悪く見えて、正直とてもじゃないけどここの水に触れたくない。ていうか臭い。牛乳を拭いた雑巾みたいな臭いがする。とりあえず口はつけず指先をちょっとだけすすいだけど、後で境外で肌荒れするまで手を洗いたい! 詳しく境内を見る前に、賽銭箱に小銭を入れて手を合わせる。金剛とこれ以上因縁が続いては困るから、小銭がない振りをして五円玉をタナ��Dからタカった。神様に手を合わせている間は金剛への嫌悪感を読み取られないように、無我を貫いた。 参拝が終わったら、境内を進み御戌神が眠る『御戌塚(おいぬづか)』へ。境内はそこそこ広い割に、随分と殺風景だ。まず社務所がない。青木さんいわく、神社境内に職員が常駐すると現世との縁が切れてしまうからだそうだ。そして狛犬もいない。御戌様が御神体だからだという。 奥へ進んでいる途中、私はふと左手に一際強烈な禍々しさを感じた。見ると竹やぶに覆い隠されるように、傘立てみたいな簡素な祠が建っていた。厳重にしめ縄が巻かれ、星型の中央に一本線を引いたような記号の霊符が貼ってある。 「青木さん、あれは何ですか?」 「大散減(おおちるべり)というオバケを封じた祠ですだ。あまり直視したら良くないかも……ああっタナカさん、撮影など!」 「ダメかい? そんなに恐ろしいオバケなの、そのオオチルベリってやつは」 「モチのロンだから! 体が五十尺もある、八本足にそれぞれ顔がついてて、そのうち本物の顔を見つけて潰さないと死なない怪物で! しかも人間の肋骨食べて、一本足のミニ散減を生み出すとか。だからともかく、大散減は撮っちゃダメですだぁ!」 「一尺って何メートルでしたっけ、なんだか想像つかないですなぁ~」 タナカDは渋々とカメラを逸らした。人間の肋骨から新たな散減を生み出す……昨晩、おばさまの肋骨から散減が生まれた瞬間を私は見た。それに、倶利伽羅龍王も……。 そして私達は御戌塚に到着。平将門公の首塚みたいなお墓っぽい形状の石碑を予想していたら、実際は犬の石像だった。徳松さんご本人は不在のようだ。恐らく既に成仏されたか、どこか別の場所にいるんだろう。 「あれ? 一美ちゃん、これ犬じゃなくない? タテガミがあるよ」 「これはどちらかと言えば狛犬ですね。狛犬は獅子に似ているんです」 「あ。確かに、普通の神社の狛犬も、タテガミ生えてたかも! そういえば、徳川徳松は狛犬の魂を持ってたんだよね。じゃあお犬様の犬種って狛犬なのかな?」 「あはは、そうかもだ。それと、志多田さん。御戌様はわんこの『犬』でなくて、十二支の『戌』という字を」 「へー、どうして?」 青木さんによると、戌という漢字は滅ぶという字が元になっているそうだ。植物が枯れて新たな命に変わる様子を表しているんだ。早逝して祟り神になった徳松さんをよく表していると思う。 「御戌塚から伸びる道は、竹やぶで薄暗いのが『亡目坂(なきめざか)』、奥の見晴らしいい方が『足失坂(あしないざか)』で。いずれも嫌な奴を思い浮かべながら歩くと、それぞれ違ったご利益がとか。ちなみに足失坂を途中で右に下ると『口欠湿地(くちかけしっち)』が……」 「青木さん、今は特に切りたい縁はないんで大丈夫です!」 さすが御戌神社周辺は地名が物騒だ。昨晩斉三さんが言っていた、『気枯地』という言葉がしっくり来る。これ以上ここにいても千里が島のネガティブキャンペーンにしかならなさそうだから、私達は次の場所へ移動する事にした。ལྔ་པ་ 足失坂を下り、ザトウムシ記念碑がある『千里が島国立公園』へ。物騒な地名とは裏腹に本当に見晴らしが良い。閉塞的な御戌神社から出た瞬間、空がばっと広がったような感じだ。麓に見える口欠湿地も空の青を反射して美しく輝き、それをタナカDが嬉々としてカメラに収める。千里が島の縁切りや祟りとい��た暗い側面だけじゃなくて、こういった絶景も収録出来たのは本当に良かった。 国立公園は坂中腹からふもとまでの広い敷地を有する。地面は芝生とシロツメクサで覆われ、外周は桜並木に囲まれている。ただ、やはり気枯地だからか、桜はどれ一本として真っ直ぐ生えていなかった。 ザトウムシ記念碑は簡素な作りで、歌詞と小さなイラストだけ書かれた石碑だ。歌い継がれてきた民謡のため、作詞作曲者は不明らしい。また隣にはザトウムシの生態を説明するパネルもあった。 「ええと、『ぼくはクモに似てるけど、ダニの仲間なんだよ! 八本足に見えるけど、そのうち一本は杖なんだよ! 一人ぼっちよりも、みんなで集まるのが大好きだよ!』なるほど……ザトウムシがワサワサ密集してたらなんかちょっと嫌ですね」 「僕前に公園のベンチで、黒いタワシみたいな塊落ちてて……触ると大量のザトウムシがブワササーと」 「やだー! 青木君やめてよ~」 「わはははは!! それは最悪ですなぁ!」 公園を抜けて市街地へ降りていくと、月蔵(つきくら)小学校と併設する町民図書館が見えてきた。カメラに群がる小学生達に軽くファンサービスしながら、図書館へと急ぐ。私がお目当ての子はみんな「ドッキリ大成功! したたびでーす!!!」と絶叫しながら全力疾走で追いかけてくる。佳奈さんの影響だ。私も期待に応えて校庭をダッシュしたら、地面から急にスプリンクラーが出てきて水を撒き始めた! 「ぎゃー! また騙されたーっ!!」དྲུག་པ་ 何とか濡れずに済むも、息絶え絶えで図書館に入る。トイレを借り、やっと手を洗えた! と安堵して戻ると、皆は既に資料が並べられたテーブルを囲んでいた。太っているタナカDと大柄な青木さんは、小学生向けの低い椅子で収まりが悪そうにモゾモゾ蠢いている。私も着席するとカメラが回り、タナカDが進行を始める。 「実際に歩かれてみて、お二人何かお気付きになった事はありますか?」 気付いた事か。幾つかあったけど、金剛有明団や霊にまつわる情報は直接共有できない。少しぼやかして話そう。 「斉ぞ……ええと、狸おじさんから伺ったんですが、植物が曲がって生える土地は風水的に不吉らしいんです。それで今日気にして見ていたら、御戌神社がある坂の上に近づくほど木がねじれたりしてて、海沿いの石見地区や市街地である月蔵地区はそうでもないんです」 「御戌様が埋蔵金を守ってるからかな? じゃあ神社の近くが怪しいね!」 佳奈さんが消せる蛍光ペンでコピー地図を囲んだ。 「不吉な場所ですかぁ。だぶか神社から一番遠い南側、竹由……こりゃ『たけよし』で合ってるかい?」 「ですだ」 「竹由地区ね。この辺はまっすぐ生えてるんですかねぇ」 確かに地名に『よし』が入っていて、島の南側は縁起が良さそうではある。私達はまだ行っていない竹由地区の資料を見ると、小さなお寺が一つあるだけで後は住宅街のようだ。 「志多田さんはどうだい?」 「うーん、埋蔵金については何もなかったかなー。ところで青木君、この地図のここ、誤植じゃない?」 「え、誤植で?」 全員で地図を確認する。佳奈さんが指さしている箇所には、『新千里が島トンネル(旧食虫洞)』と書かれていた。昨日、私と青木さんが行ったコンビニの所だ。 「食虫……洞? 確かに変ですね。『虫食い洞』なら虫がトンネルを掘ったような感じで意味が通じるけど、食虫洞じゃ洞窟が虫を食べちゃうみたい」 「でしょでしょ? それともウツボカズラがいっぱい生えてるのかな」 「いえ、『食虫洞(くむしどう)』が正解で。ウツボカズラは生えてねぇけど、暗いから虫を食うコウモリが住んでるかもだ」 「うーん、そういう問題なのかな……? まあ関係ないからいっか……」 佳奈さんは煮え切らない顔のまま、地図を机に置いた。タナカDが仕切り直す。 「じゃじゃじゃあ、まずは今まで埋蔵金探しに失敗した方々の仮説を見てみましょうよ! 青木君」 「はい、こちらを」 タナカDは青木さんが差し出した資料を私達側に向ける。インターネット上で日本各地の徳川埋蔵金に関する情報をまとめたサイト、『トレジャーまとめ』さんの記事コピーだ。これまでザトウムシの歌詞をもとに埋蔵金のありかを探索した人々のレポートらしい。上からざっと目を通す。 ・その一 ザトウムシは座頭、盲目の暗喩だ。歌詞の『ザトウムシ』という言葉の総文字数を歩数として、記念碑から亡目坂を登る。そして到着地点の地面を掘ってみた。 結果 何も出てこなかった。これを試みた探索者の一人が島を出た後(以降は修正液で消されている) ・その二 『水墨画の世界』は白黒、あの世を表している。竹由地区には名前に『虫』がつく虫肖寺(ちゅうしょうじ)があり、そこには墓地が隣接している。その墓地で、黄昏時に太陽が見える西側の井戸内を調べた。 結果 何も出てこなかった。これを試みた探索者全員が数日後、(以降は修正液で消されている) ・その三 ザトウムシが埋蔵金を表しているなら、食虫洞は金を蓄える隠し場所に違いない。歌詞の通り、黄昏時から逢魔が時にかけての時間、トンネルを調査した。 結果 翌々日、(以降は数行にわたり修正液で消されている。塗りこぼしから微かに『トンネルが永遠に続いて外に出られ』という一文が垣間見える) ・その四 『口欠』『足失』『亡目』など体の欠損にまつわる地名は心霊現象や祟りが多いという。その三箇所いずれかに宝があるとみて、調査した。 結果 それらの地点には共通して護符の貼られた祠があり、護符を剥がした探索者は肋(次の行以降は紙ごとハサミで裁断されている) 「「いや怖いわ!!」」 全部読み終わる前に佳奈さんと異口同音! 「ちょっと青木君、これ元は何て書いてあったの!?」 「すいません、あんまりにも酷いデマなどが。根も葉もねぇので僕が修正を!」 「本当にデマなんでしょうね!?」 「嘘こいてねぇです、本当に事実無根なので! 大体、コトが事実なら普通新聞に載るなど……」 事実なら新聞に載るほどの事が書いてあったのか。これは下手に島を引っ掻き回すと、またとんでもない事になりそうだ。 「まあまあまあ、お嬢さん方。要はあなた方がね、埋蔵金を見つけちゃえばいいんですよ」 「なに他人事みたいに言ってるんですか、この三角眉毛は。祟られる時は全員祟られるんですよ? わかってんですか?」 「そーだそーだ、デブちん三角眉毛!」 「おう遂にちゃんとデブって言ったな!? 今日の僕にはラスタな狸がついているんだ。一人でもしぶとく生き残ってやるぞぉ」 「一美ちゃん、ちょっと今夜御戌神社で丑の刻参りしよっか」 「了解しました。加賀繍さんのぬか床に五寸釘入ってるから分けてもらって……」 ん? 「佳奈さん、今の言葉もう一回いいですか?」 「え? だから、『御戌神社』で『丑の刻参り』」 「……それだ!」 ラッキー! 今の超下らないやり取りで、歌詞の謎が一つ解けたかもしれない! 「おぉ何だい、そんな聞き返すほど僕を呪いたいのか小心者」 「違いますよ。見て下さい、歌詞の一番と二番の冒頭……」 ザトウムシの一番、二番の歌い出しは、それぞれ『たそがれの空を』『おうまが時の門を』だ。 「いいですか? 昔の日本は十二時辰(じゅうにじしん)、つまり十二支で時間を測る単位を使っていました。その単位では、『逢魔が時』と『黄昏時』……つまり夕方から夜に変わる時間帯は、『酉の刻』と『戌の刻』になるんです」 「じゃあ歌詞に当てはめると、一番は『戌の刻の空を』、二番は『酉の刻の門を』に変換できるって事?」 「はい。ここで思い出しませんか? 御戌塚から伸びる二つの道」 「薄暗い亡目坂と、見晴らしがいい足失坂……あっ、『戌』から『空』が見えるのは足失坂だ!」 「そうです。しかも続きの歌詞が『ふらついた足取りで』、足って言ってるんですよ! 一方二番……酉の門といえば?」 「神社の『鳥居』! 坂からまた神社に戻っちゃってる!?」 「そうなんです!」 つまり、私の説はこうだ。この歌は埋蔵金のありかを一箇所漠然と示しているんじゃなくて、そこに至る道順のヒントが歌詞になっているんだ。御戌塚から始まり、足失坂を通って何らかのルートを経由。やがて神社に戻って、そこからまたどこかへ行く……こうして遠回りをする事自体が、埋蔵金を発見するために必要なのかもしれない! 「なるほど、道順を! それは今まで誰もやらなかったかもだ……それにしても、お若いのによく十二支の時間をご存知で?」 「あはは、青木さんより若くはないですよ~。小さい頃ちょっとだけお寺に住んでた事があって、こういう歴史っぽい雑学にちょっと明るいだけです。ただ……」 残念ながら、歌詞に干支にまつわる描写はそれしかないんだ。そこから先の謎はまだわからない。私が自説をフリップに書き終えると、タナカDが佳奈さんに話を振る。 「志多田さんどうですか? 紅さんがワンアイデア出しましたよぉ」 「急かさないでよー。私まだ食虫洞の謎が頭から離れないんだから。そーいうタナカDこそ何かないの?」 「僕かい? そうですな……このサビの、『月と太陽が同時に出ている』って、日蝕か月蝕って事でしょ? 千里が島で日蝕月蝕が観測された事って歴史的にあるんですかねぇ?」 「え? この歌詞って単純に黄昏時の事じゃないんですか?」 「あ、そうか。そりゃ黄昏時には月と太陽が両方見えますな」 すると今度は佳奈さんが閃いた。 「ちょっと待って、日蝕……?」 佳奈さんは私の手元から地図を取り上げ、食い入るように見つめ始める。 「……しょく、ふき、ぞう、すずり……」 「佳奈さん?」 「あー、そういう事かあ! これ、千里が島の地名ってさ、繋げるとみんな漢字一文字になるんだ!」 「え、そうなんですか?」 「どういう事で?」 青木さんも知らなかったようだ。全員興味津々��佳奈さんの指さす地図に見入った。 「例えばこれ、食虫洞はさ、食と虫を繋げて書くと日蝕の『蝕』になるでしょ。亡目坂は盲目の『盲』、月蔵は臓器の『臓』」 「すごい、本当ですね! 石見は書道の『硯(すずり)』、竹由は『笛』ですか。あれ、でも足失坂は……」 「『跌(つまずく)』。常用漢字じゃないけど」 「つまずく?」 タナカDは自分のスマホで『つまずく』と入力し、跌と変換できるか試みた。 「ああ、跌(つまずく)だ! 確かに跌ですよ跌! いや、よく読めますなあ。ところで佳奈さん、最終学歴は?」 「いちご保育園だってば。何度も聞くなー!」 佳奈さんは国文学分野で大学を卒業しているけど、年齢不詳アイドルである彼女にとってそれは公然の秘密だ。タナカDはそれを承知の上で度々ネタにしているんだ。 「あれ、佳奈さん。それを当てはめたら歌詞解読できるかもしれませんよ!」 「え本当? よーし、やってみよう!」 こうして数十分試行錯誤しながら、私達したたびチームの歌詞解釈はほぼ完成した。それが、こうだ。 たそがれの空を ザトウムシ ザトウムシ歩いてく (御戌塚から始まり、空が見える方向へ進む) ふらついた足取りで ザトウムシ歩いてく (そのまま神社境外に出て、つまずきやすい道、つまり足失坂へ進む) 水墨画の世界の中で 一本絵筆を手繰りつつ (足失坂のふもとから水墨画の世界、硯と水を象徴する石見沼へ進む) 生ぬるい風に急かされて お前は歩いてゆくんだね (石見沼から風が吹く方向、口欠湿地方面へ進む) あの月と太陽が同時に出ている今この時 ザトウムシ歩いてく ザトウムシ ザトウムシ歩いてく (口欠湿地から月が太陽を蝕む場所、旧食虫洞へ進む) おうまが時の門を ザトウムシ ザトウムシ歩いてく (食虫洞を抜けた所から丘を登り、御戌神社の鳥居をくぐる) 長い杖をたよって ザトウムシ歩いてく (神社境内から視覚障害者が杖を頼りに歩くような暗い道、亡目坂へ進む) ここまで考察した段階で、地図に道順を引いていた佳奈さんがペンを止めた。 「何これ……星……?」 蛍光ペンで地図に書かれた道筋は、島の中心に魔法陣のような模様を描いていた。五芒星の中心に一本線を引いたような、シンボルを。 「佳奈さん。まだ、解読できてない歌詞は残ってますけど……これはこの形で完成だと思います」 「一美ちゃんもそう思う? これ以降の歌詞って、対応する地名が見当たらないんだよね……」 「青木さん」 私はさっきの埋蔵金探し失敗談を手に取る。 「この消されている箇所、要するに全部『祟りがあった』って事ですよね?」 「はい……あ! いえ、そんな事は……」 「そうなんですね。つまり余所者が千里が島を検めるためには、正しい儀式か何かを踏まないと祟りに遭う。その儀式の方法こそが、この民謡ザトウムシに隠された暗号の正体だった」 「……」 「私、さっきこのシンボルを見たんです。御戌神社の、祠で……」 もう私の中で謎は核心に迫っていた。霊能者達は今それぞれ除霊活動に励んでいるけど、『ザトウムシ』……恐らくは、怪物の親玉であるそれを倒さなければ島の祟りは終わらないのだろう。 「結論が出ました、青木さん。ザトウムシは、徳川埋蔵金のありかを示している歌じゃありません。私はこれを……八本足の怪物、大散減を退治するための手順を示した歌だと思っています」 衝撃的な結論に全員が呆然としていると、窓の外で何かが破裂するような音がした。更に間髪入れず、河童信者が一人血相を変えて図書館に飛びこんでくる。 「たた、た、大変です! 大師が……大師が……紅さん、ともかく来てください!」 「え? どうして私が……うわあ!?」 河童信者は乱暴に私の腕を掴み、外へ連れ出した。他の皆も続く。牛久大師が私を指名したという事は、また散減が現れたのだろう。けど今はカメラが回っている。玲蘭ちゃんや万狸ちゃん達は別行動だし……私、どうすればいいの!?
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思わぬ”返り討ち”も…イライラして物に当たった話が味わい深い
集計期間:2020年5月17日~5月19日 回答数:15713
どうにも怒りが抑えきれなくなり、物に当たってしまった…そんな経験はありませんか?
人間ですから、誰しもやり場のない怒りに襲われることはありますが、一時の怒りがとんでもない後悔を生むことも。
今回は、そんな「イライラして物に当たってしまった経験」 にまつわる調査です。
イライラして物に当たってしまったことはありますか?
回答者15713名のうち、イライラして物に当たった経験を持つ人は全体の約75%を占める結果に。
ここからは、何に当たってしまったのか具体的な例を見ていきましょう。
イライラの犠牲になった物たち
・足とかぶつけると、そのぶつかった壁とかドアとかをつい叩いてしまう。(それもまた痛いのでトータルでは損してると思う。)
・夫婦喧嘩の時、どうにも抑えきれず、かと言って相手を殴るわけにも行かず、思わず、持っていた湯呑み茶碗を投げて割ってしまった。直後にそれが大のお気に入りだった茶碗と気付き、却って落ち込んだ記憶がある。
・ゲームが上手く出来なくて、ファミコンのコントローラーでカセットをボコボコ叩いていた。大人になってからはない。
・友達はいらないお皿割ったって言ってたけど、後片付けが大変そうだから、私は段ボール思い切り蹴飛ばしたり潰したりしていた。
・細かいことからずっと我慢していてちょっとしたきっかけで限界が来てしまい壁を殴ったら穴があいてしまった。
・彼と喧嘩して、2人で大切にしていたものにあたって壊してしまった。また買おうって彼は言ってくれたけど、もう手に入らなくなっていた。7年くらい経つ今となっては笑い話のいい思い出だよって彼は言ってくれるけどすごーく後悔している。
・会社で元々部下だった年上のメンバーが、私が部署異動になった事で、態度が180度変わって、仕事の頼み事でもいちいち文句を言うようになった。この頃はパワハラも世間で言われ始めた時期でもあり、我慢していたが、急ぎの頼み事をお願いしたときに断わられたため、その元部下が立ち去ったあと、水筒を床に投げつけてしまった。周りのメンバーは私に同情してくれた。
・イライラした時よく風呂場の浴槽にタオルを水に濡らして投げていました。なぜかスカッとしました。
・バイト先の先輩に頭に来すぎて廃タイヤを蹴りまくった
・いくつもあるが、1番は数十万するクラリネットを叩きつけて折った事、いまだに悔やんでます
・揚げ物している時に上手に揚げれないことにイライラして菜ばし投げた。息子と喧嘩してイライラして人参投げた。
・料理中にダメ出しくらって菜箸を手で折って投げつけて家を出た
・接客で好き放題のお客様にいらついて、陰で壁を蹴り飛ばしたことがあります
・中学生の頃、アメリカの大統領選挙でブッシュ大統領が再選した際に、憤りを感じて教室のドアを蹴っ飛ばした。
・パートに会社に入り始め 先輩パートのイヤミに腹が、立って ビールの空きカンを踏みつぶしてストレス解消した
・姉と口論になり 口では勝てなかったので 傍にあった物を壊して スッキリ
・旦那が浮気した時、旦那の大切にしていたセーターを切り刻んだ。
・仕事で部下のミスにイライラして自販機を蹴飛ばしたらアイスコーヒーが出て来た。ラッキー!
・あまりに理不尽なことを言われ、往来で恥をかかされ、八つ当たりで壁にキック。壁はビクともせず、足の痛みで我に返りました。
・160席ほどある飲食店です。ランチが終わると、夕方空宴会場になることが多くて、木製のテーブルとイスをされて移動させ会場を作ります。御客に横柄て、部長に嘘報告ばかりして自分のこと株をあげようとする店長にイラッとして、宴会場製作中にイスを投げてしまったことがあります。割と高そうなイスの脚が折れてしまいました。誰も見ていなかったので、ボンドでくっつけておきました。物にあたってはいけませんね。
・好感触の企業からお断りの手紙が届いた時、思わず手紙をビリビリと破いて丸めてゴミ箱に捨てた。
・先生に濡れ衣を着せられて、怒り狂って壁をぶん殴って、骨折した。
・高校時代、好きな人が他の女子とはなしているだけで頭にきて、階段の壁をグーで殴って小さな穴を空けてしまった。壁の薄さにもビックリしました。因みにただの片思いの相手です。
・ゆで卵の殻がうまく向けない時捨てた
・500のペットボトルのお茶を壁に向けて投げたら蓋が緩くてそこら中に撒き散らした上に、買って2週間足らずの新品PCにまでお茶がかかり修理不能となった
・小学生の頃は鉛筆を折っていた、中学生の頃は鏡を割っていた、高校生になると自分を…(苦笑)
・反抗期真っ只中の頃、家に一人の時にカッターで親のコートを切りつけて、こりゃヤバイと思ってキレイに縫った。
・姉と喧嘩し、ムカついて羽毛布団にハサミをぶっ刺して羽毛を取り出し、風邪を引かせた。今は八つ当たりした布団には申し訳ないと思ってる
・妊娠中にお金が無いのに、旦那がパチンコ店に行ってしまい、当時、携帯電話もない時代だったので、腹が立って!!帰ってきた時に掃除中だったので、掃除機を投げつけて先が壊れてしまいました汗
・夫と喧嘩して、仲直りにとケーキを買って帰ったのですが、更に喧嘩になり、買ってきたケーキを投げつけ、部屋がベタベタになりました…。
・中3の頃、バットで庭の柿の木を殴りまくった。理由は全く覚えていない。
・仕事で悩んだ時のうっぷんをはらすために、ワイシャツを引き裂いてボタンを飛ばす
↑「イライラの犠牲になった物たち」と書きましたが、ケガをしたり取り返しのつかないことになったりと返り討ちに遭う確率も高いようです。
イライラのぶつけ方も千差万別で、怒りを爆発させながらもケガを避ける配慮が見受けられたり、明らかにやりすぎと思われるような行為もあったり、そもそもイライラする理由がよくわからなかったり…いや、イライラの理由なんて人それぞれですね。撤回しましょう。
しかし、回答例を見てわかったとおり、一時の感情に流された破壊的な行動には、必ず代償がともないます。今回の調査を他山の石としましょう…!
アンケートにご協力いただきありがとうございました。
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3日目 土岐氏 @kxtxh_
めちゃめちゃ付き合い長くなったね〜。ぶっちゃけ土岐さんとはこんなに長い付き合いになるとは思ってなかったなあ。お互い離れてた期間もあったから厳密に言えば2年ちょい?…それでも凄いよね。君が知っての通り僕はめちゃめちゃ気分屋だし、面倒なことは何より大嫌いだし、すぐ損得で動いちゃう様なほんと最低な人間だったりして、振り回し過ぎって言われるくらい今まで散々振り回して来たけど、文句1つ言わずにずっと「山谷さんだから」で振り回されてくれる土岐にいつもありがとうって気持ちでいっぱいです。この場を借りて言うね、いつもごめん。それと、ありがとう。
思えば、こんなに付き合いも長いのに喧嘩もしたことないよね。じゃれ合い程度のディスり貶し合いは沢山あるんだけど。こう、本気で君にイライラしたな〜とかもうこいつ縁切ってやろうかなって思った時が一回もないなって。…あ、一回だけ喧嘩じゃないけど言い合いした時はあったね。自分のことじゃないのに僕以上に本気で悲しんでくれて僕以上に本気で怒ってくれて、あの時はなんで土岐が僕以上に傷付いてるのか、怒ってるのかわかんなくてなんで!なんで!?って駄々っ子みたいなことしか言えなかったけど、今なら凄いわかる。きっと、俺が土岐氏の立場でも同じ様なことを思って同じように怒ってたと思う。僕の為に沢山怒ってくれてありがとう、守ってくれてありがとう。
土岐氏は昔から自分のことより周りのことを優先する癖があって、仕事に関しても、土岐氏自身が気付かないうちにどんどん溜まっていって、爆発しちゃうのがほんとに心配です。ある時、夜中に電話掛かって来てその時初めて君が強い人じゃないんだな〜って気付いた僕が言うのもなんだけど!もっと頼れ馬鹿!限界になる前に頼れ!
頼りないかもしれないけど、酔っ払いの相手くらいはいつでも受け付けてます。こう見えて、元同事務所でそれなりに付き合いもあるんでね!
まあ、あとはなんだ。土岐氏がこの世界から離れてた間に実は一時期他の土岐くんとも繋がってたことあったんだけど、こうやって君が戻って来てくれて前みたいに話せて、改めて僕にとっての土岐隼一は君だけなんだなって思いました。滅茶苦茶腹黒いし、ナルシストだし、筋肉バカで自分の筋肉大好きマンだし、おしゃべりクソゴリラで、でもメンタルはほんのちょっとだけ弱くて仲間思いで優しくてあったかくて、気付いたら隣に居てくれて、そんな土岐隼一が大好きだよ。
だからもう勝手に居なくなるなよ!僕ももう居なくならないから…!……多分!
PS.一年前に貸した傘はいつ返してくれますか?
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船徳
落語にでてくる若旦那というものは、親孝行でみんなの模範になってるなんてえ人物はおりません。道楽をしつくしたあげくに勘当されて、出入りの船宿の二階で居候《いそうろう》なんてえことになります。 「えー、おはようございます。若旦那、あなた、一日こうやって二階でぶらぶらしていたんじゃあ退屈でござんしょう」 「おや、親方かい。べつに退屈なんかしないね。この窓をあけて下をみていると、通るのはみんな男か女のどっちかだがね。たまにゃあ変わったやつが通らねえかとそれをたのしみにしてるから退屈なんかしやしない」 「のんきなことをいってちゃいけませんよ。あっしはね、いつまでもあなたをお世話してるのはかまわねえんですが、それじゃあ、あなたのためによくありません。なんかあなたもお仕事をおやりなさらなけりゃあ、大旦那のお怒りがいつになってもとけませんから……」 「ああ、いろいろと心配をかけたが、あたしも覚悟をきめたよ」 「覚悟をきめなすった?」 「ああ、あたしゃあ、ここのうちの商売になるんだ」 「うちの商売? なんです、それは?」 「きまってるじゃないか、船頭さ」 「じょうだんいっちゃいけませんよ。あなたは一口に船頭とおっしゃいますがね、なまやさしい仕事じゃありませんぜ」 「なまやさしい仕事じゃないったって、みんながやってることじゃないか。できないことはあるまい」 「そうおっしゃいますがね、夏なんざあ涼しくっていいようですが、さて商売となって沖へでもでて、東北風《ならい》でもくらってごらんなさい。そりゃあおどろきますから……」 「ああ、わかってるよ。だから、あたしゃ覚悟をきめたといったじゃないか」 「あなたがどうしてもなりてえとおっしゃるんなら、あっしはおとめしませんよ。おなんなさい」 「��うかい、それじゃね、店の若い者をここへよんどくれよ。あたしが船頭の仲間いりをしたしるしにね、ここでぱあっと散財をするから……」 「散財をするからって、若旦那、あなた、ふところぐあいはどうなんです?」 「そりゃあもちろんお金はありゃしないから、おまえが、一時たてかえるのさ」 「うふ、あなたのいうことは、どうもだらしがなくっていけねえ」 「ついちゃあね、みんながあたしのことを若旦那、若旦那というだろう。若旦那って船頭はないからさ。みんなとおんなじように、徳なら徳と、名前をよびつけにしてもらいたいとおもうんだが……」 「そんなことはどうでもようがすがね、いまともかくも、ここへ若えやつらをよびよせましょう……おい、お松、お松」 「はーい」 「河岸《かし》へいってな、おれが用があるからって、若えやつらをよんでこい。あいつら、またぐずぐずしてるといけねえから、すぐくるように、そういいなよ」 「はーい……熊さん、八つあん、熊ん八つあん!!」 「なんでえ、よせやい、熊ん八だってやがら、まとめてよぶない。なんか用かい?」 「親方がよんでるよ。みんなに叱言《こごと》いうんだって、こわい顔してるよ」 「わかったよ。すぐいくからって、そういってくんねえ。おい、親方が叱言だってさ」 「うそだよ。お松のいうことなんかあてになるもんか。あんなほらふきはありゃあしねえや。こねえだだってそうだ。おれが河岸でふんどしを洗濯してたんだ。すると、あいつが、燃えだしたあ、燃えだしたっていうんだ。おだやかじゃねえから、おらあとんでったんだ。『どこが燃えだした?』と聞くと、『へっついの下が燃えだした』っていうんじゃねえか。『ばか、いいかげんにしろ』って、河岸へ帰ったら、ふんどしがながれちまってた。それっきり、おらあふんどしをしめねえ」 「きたねえな」 「しかし、親方の叱言ってなんだろう? 留公、おめえなんか心あたりはねえか?」 「はっはっは、どうもすまねえ」 「すまねえって、おれにあやまったってしょうがねえや。なんかあんのかい?」 「よしゃあよかったんだよ。こねえだ、あんまりひまだったから、船を大川までだしたんだ。気が張ってねえときはしかたのねえもんだね、舳先《へさき》を橋ぐいにぶつけちまってね、さきのほうをすこしけずっちまったんだ。すぐに大工《でえく》のほうへまわしときゃあよかったんだが、気がつくめえとおもって、さきのほうを縄でまきつけといたんだが、あれがばれたかな」 「それにちげえねえや。それだよ、きっと……それにしてもおかしいな。みんなに叱言っていうなあ……おい、寅、おめえなんか親方に叱言をいわれるこたあねえか?」 「あはは、どうもしょうがねえ」 「しょうがねえって、なんかあったのかい?」 「十日ばかり前だったが、ちょいと祝儀《しゆうぎ》をもらったもんだからね、いつもごちそう酒ばかりでうまかあねえや。たまには手銭《てせん》で一ペえやりてえとおもってね、それからとなり町のすし屋へいってたらふくやっちゃったんだ。となりの野郎に喧嘩ふっかけてね、徳利三本と皿を四、五枚ぶっかいたんだよ。それを親方どっかで聞いてきたんだろう」 「それだよ。それにちげえねえや。だけど、ここでぐずぐずいってたってしょうがねえや。これからいって、叱言をいわれねえさきにあやまっちまうとしよう。もうこれよりほかに手はねえんだ」 「では、なにぶんたのまあ」 「じゃあついてこい。どうも手数がかかるやつらだ。へい、親方、どうも相すみません」 「みんなこっちへへえれ」 「へい、八も留も寅もみんなこっちへへえれとよ」 「へえらねえほうがいいや。叱言はね、こうやってあたまをさげてりゃあ、上のほうを通っちまうから……」 「あんなことをいってやがら……へえ、親方、どうも相すみません。留の野郎でござんす。あんまりひまだってんでね、船をいたずらしちまやあがったんで……舳先《へさき》を橋ぐいへぶつけて、さきのほうをすこしけずっちゃったてえんです。だから、やったらやったでしょうがねえ、なぜ大工《でえく》のほうへまわしとかねえてんでね、いま叱言をいったとこなんで……気がつくめえなんてんで、縄でまきつけといたなんて、そんな横着《おうちやく》なことをしといちゃいけねえって、いまさんざっぱら叱言をいったとこなんで……へえ、お腹もお立ちでしょうが、きょうのところはひとつごかんべんねげえてえもんで……」 「留、ここへでろっ、なぜてめえはいつもどじなんだ。客があったらどうするんだ? なぜ大工のほうへまわしとかねえんだ。てめえはそういうばかだ。ろくなことをしやがらねえ。いつやったんだ? おらあ、ちっとも知らなかった」 「えっ、おい、親方は知らねえんじゃねえか」 「知らねえたって……そうだろうとおもったから、さきにいってあやまったんじゃねえか……ええ、親方、寅の野郎でござんす。祝儀をもらったもんですから、いつもごちそう酒ばかりでうまくねえから、たまには手銭で一ペえやりてえてんで、となり町のすし屋へいってたらふくやって、となりの客に喧嘩ふっかけて、徳利三本と皿を四、五枚ぶっけえたてんですが、それを親方がどっかで聞いてきたんだろうってね……」 「どうもうちにゃあろくな野郎はいねえな。どうしててめえたちはそうなんだ。飲んで喧嘩なんぞすりゃあ、うちののれんにかかわるじゃねえか。おい、寅、なんてばかなんだ。てめえってやつは……いつやったんだ? ちっとも知らなかった」 「えっ? ……おいっ、こんなおしゃべりはねえな。親方は、なんにも知らねえんじゃねえか。てめえばかりがいい子になりやがって、親方の知らねえことを、みんないいつけちまったじゃねえか」 「だって、おらあ、てっきりそうだろうとおもったからいっちまったんだ」 「まあいいやな。ぐずぐずいったってしかたがねえや。これから気をつけろ。そんなこって呼んだんじゃねえんだ」 「へえ、どんなご用なんで?」 「ここにいらっしゃる若旦那なんだが、きょうから、おめえたちとおんなじようにな、船頭になりてえとおっしゃるんだ。できるか、できねえか、とにかくめんどうみてやってくんねえ」 「えっ、若旦那が船頭に? おい、聞いたかよ、そうじゃねえかとおもってたね。なにしろ、こないだうちから、船いたずらしてましたからね。若旦那、おなんなさいよ。ありがとうござんす。あなたが船頭になってくださりゃあ、あっしどもだって肩身が広《ひれ》えや。それにあなたなんざあ柄《がら》がいいや、おつなこしれえで櫓《ろ》へつかまって、裏河岸のひとまわりでもまわってごらんなさい。芝居にでてきそうな船頭ができるね。いいえ、ほんとう……柳橋の芸者衆がほっとかないよ。『ちょいとみてごらんよ。なんてまあすっきりした……まるで役者衆みたいな船頭さんだわ』てんで……ようっ、音羽屋!!」 「ばかっ、てめえたちがそんなことをいうから、若旦那がよけいにのぼせて船頭になりたがるんじゃねえか。ともかく、若旦那てえ船頭はねえからな、まあ、みんなとおんなじように、徳、徳とよびつけにしてもらいてえとこうおっしゃるんだ」 「よう、はなしはそうこなくっちゃいけねえや。そりゃあ、たしかに仲間になりゃあ、若旦那てえのはよびにくいやな。そりゃあ、やっぱり名前をよびつけにしなくっちゃあ……え? なんだよ? なんだってんだよ? なんだと? それができねえだと? どうして?」 「きのうまで祝儀をもらってた若旦那じゃねえか。船頭になったからって、急によびつけにできるもんか」 「なにいってやんでえ。そんなこといってたら若旦那だってこまりなさらあ……あっしはよびつけにしますぜ。え? やってみろ? いまですかい? いまねえ……そうですか、ええ、よびつけにしますけれどもね……いえ、できねえことはねえけれど……やい、やい、やい、やいってんだ」 「なんだ、それは?」 「いえ、あっしだって恩人をよびつけにするんですから、やい、やいってんで景気づけをしなくっちゃあ……では、若旦那、はじめますよ。ええ、やい、やい、やいってんでござんす」 「なにいってるんだ」 「むずかしくって、どうも……これがずっとはなれてたらすぐにできるんだが……おーい、おーい、へっへっへ……いまやるよ。ほんとうに。おーい、へへへへ、徳やーいてんで、ごめんなさい」 「あれ、あやまってやがらあ」 とうとう若旦那は船頭になりました。
四万六千日、お暑いさかりでございます。なにしろ、浅草の観音さまに、この日一日おまいりをすれば、四万六千日おまいりしただけのご利益《りやく》があるというので、たいへんなにぎわいでございます。 「あついね、おまいりもいいがね、このほこりをあびていくのがいやだね。きょうはこうしようじゃねえか。柳橋に大桝《だいます》てえ船宿があるんだが、あそこへいって船でいこうじゃねえか」 「いやだよ。おまえさんは酔うとすぐに船に乗りたがるけれど、あたしゃ船はきらいなんだから……船はうごくだろ」 「うごかない船じゃしょうがねえじゃねえか。きょうは、まあ、あたしにおまかせよ。あたしがついてるから大丈夫だよ……こんちわ」 「おや、いらっしゃいまし。まあよくいらっしゃいました。お竹や、おしぼりをふたつ持っといで……まあ、おあついじゃございませんか。ここんとこあんまりおいでがないから、どうなすったかとお案じ申しておりました。おつれさま、どうぞおはいりあそばして……まあ、六千日さまで、おまいりに……そうでございますか……ねえ、旦那、先日の妓《こ》がね、もういっぺんあなたにお目にかかりたいと、わざわざたずねてきましたの……いえ、ほんとなんですよ」 「おいおい、おかみ、あたしは、友だちといっしょなんだよ。くだらないことはいわねえでもらいてえな。あの……さっそくだが、船を一|艘《そう》仕立ててもらいてえんだが……」 「まあ、ありがとう存じますけれど、なにしろ、きょうは六千日さまで、お船がみんな出払っておりますんで、お気の毒さまでございました」 「そいつあまずいね。友だちがいやがるのをむりにつれてきたんだから、それじゃあ、あたしの立ち場がないじゃねえか。あっ、そういえば、おかみ、河岸に一艘もやってあったぜ」 「あら、ごらんになったのですか。お船はございますんですが、お役に立つ若いものがおりませんので……」 「そいつあまずいねえ。なんとかしておくれよ。そこがなじみじゃねえか……おいおい、おかみ、うそいっちゃいやだよ。そこにいせいのよさそうな若え衆が居眠りしてるじゃねえか。あっ、そうか、船が一艘あって、若え衆がいるところをみると、こりゃあお約束だね。いや、手間はとらせない。あっちへやってもらったら、すぐに帰すから、ちょいと、そのう、若え衆を貸しておくれよ。いいだろう? ねえ、おい、若え衆、若え衆」 「へっ、ただいまっ……あっ、あーあ……あっ、お客さまだ。へっ、いらっしゃいまし」 「若え衆、お約束なんだろ? そこんとこをすまねえが、大桟橋《おおさんばし》までやってもらいてえんだ。すぐ帰すよ。ね、いいだろ?」 「へっ、ありがとう存じます。ただいますぐにまいりますから……」 「徳さん、おなじみのお客さまですからね。もし途中でまちがいでもあるといけませんからね」 「へえ、おかみさん大丈夫ですよ。やらしてくださいよ。近ごろじゃあね、腕がもうビュウビュウうなって��すから、この前みたいにひっくりかえすようなことはござんせん」 「おい、おい」 「え?」 「えじゃないよ。あの男のいうことを聞いたかい?」 「なにが?」 「なにがって、近ごろじゃあ、腕がビュウビュウうなってます。この前みたいにひっくりかえすことはござんせんてえ……じゃあ、前にはひっくりかえしたんじゃねえか」 「大丈夫だよ。この若え衆はね、寝てるとこをおこされたもんだから、ねぼけて、そんなおかしなことをいってるんだよ。おかみ、大丈夫だね」 「ええ、そりゃあ大丈夫でございます」 「さあ、さあ、はやくおいでよ。さあ、手をとってあげるから……大丈夫だよ。そこは、すこししなったって……ほうら、どっこいしょのしょっ……どうだい、いい心持ちだろう?」 「いい心持ちだろうって、まだ、いま乗ったばかりで、船はうごいちゃいねえじゃねえか……どうも、さっき若え衆がいったことが気になるなあ」 「気にすることはないよ。おまえさんは、船はきらいだ、きらいだっていうけれど、これから蔵前通りをあるいていってごらんよ。もうほこりをあびてしょうがないじゃねえか。そこへいくと、船はほこりをあびないだけでもいいよ。水の上をすーっといく気分なんてじつにいいもんだから……どうでもいいけど、若え衆はどうしたんだい? あついからすぐだしてもらいてえんだが……はばかりへでもはいってるんじゃねえかい? おかみ、お手数でもみてきておくれよ……ねえ、もうちょっとの辛抱だよ。これで船がでれば、涼しいしさ、船てえものはおなかがすくから、むこうへいって酒はうまいし、食いものはうまいし、きっとおまえも好きになるよ……おかみ、どうしたい、船頭は? えっ、はばかりにいない? なにしてるんだろう? みかけはいせいがよさそうだったが、いやにぐずじゃねえか。あっ、あんなとこからでてきやがった。どうした、若え衆、たいそうおそいじゃねえか」 「へえ、相すみません。ちょいと髭《ひげ》が生えておりましたんで、床屋へいってあたってきましたもんですから……」 「おい、おい、聞いたかい、色っぽいね、どうも……客を待たして髭をあたってるやつもねえもんじゃねえか」 「へい、相すみません。そのかわりいせいをつけまして、はちまきをいたしまして……」 「なんだ、てめえのあたまじゃねえか。どうとも勝手にするがいいや」 「へい、では船をだしますから……よう、いよう……」 「徳さん、徳さん、腰を張ってね」 「へえ、よう、いよう!」 「おい、おい、若え衆、なにをうなってるんだよ。いくらうなったってでるわけはねえじゃねえか。船はまだつないであるじゃねえか」 「へっ? あっ、どうも相すみません。あわてたもんですから、なんとも申しわけござんせん……では、こう縄をときまして……よう……へい、でました」 「あたりめえじゃねえか。まあ、文句はいったものの、若い船頭はいいね。なんといってもきれいごとだ。船頭の年よりはいけませんよ。腕はいいったって痛々《いたいた》しいよ。水っぱななんかたらしてね。もう若いのにかぎるよ……どうだい、いい気持ちだろう、え、いい気持ちだろうよ」 「おまえは好きだから、そうやってよろこんでるけども、あたしゃあんまり好きじゃないからべつにうれしかあないよ。しかし、まあ、これくらいのゆれかたならがまんどこだろう」 「はりあいのねえ男だな。もっとよろこべよ……おい、若え衆、竿は三年、櫓《ろ》は三月ぐらいのことは心得てるよ。いつまでもその竿を突っ張ってねえで、いいかげん櫓とかわったらどうなんだい?」 「へっ、ここんとこをでますあいだ、もうふたつばかり、えーしょ、えい……え、こんちはご参詣でいらっしゃいますか。お日がらもよろしくて……」 「おい、若え衆、あいさつなんかどうでもいいよ。おいっ、船がまわるよ」 「へえ、ここんとこは、いつも三度ずつまわることになってまして……」 「おい、三度まわるとこだってよろこんでちゃあいけませんよ。おい、どうなるんだ」 「ああ、立っちゃいけませんよ。立っちゃあぶないですから……いよっ、よいしょ、よいしょ……おまいりもたいへんでござんすね、こうあつくっちゃあ……もし、そちらのふとった旦那、あなた、もうすこしこっちへきてくださいよ。ふとってて、さきのほうへいかれたんじゃ、梶がとりにくくってしょうがねえ。しろうとは、なんにも知らねえからこまっちまうな」 「おい、若え衆、おい、おい、船がゆれるよ。おい、ゆれかたがひどいよ」 「へえ、ここんとこは、いつもよくゆれることになってまして……」 「おい、またかい、ゆれることになってましてなんてよろこんでちゃこまるな……おい、おい、若え衆、この船てえものは、ばかにまた端《はじ》へよるね。まん中へでねえじゃねえか。おい、石垣へくっつきそうだよ」 「へえ、この船は、まことに石垣が好きでござんして……」 「かにみてえな船だな。おい、おい、ほんとに石垣へくっつくよ。あー……とうとうくっついたよ。くっつきましたよ」 「へっ、くっつきました」 「おい、くっつきましたってよろこんでちゃこまるな。どうなるんだ?」 「どうなるんだって、あなたがた、さっきからそこで文句ばかりいってますがね、船なんてものは、なかなか自由になるもんじゃあありませんよ。うそだとおもったら、ここでやってごらんなさい。そのこうもり傘を持ってる旦那、ちょいと石垣を突いてください。はずみで船がでることになっていますから……」 「こんなに用の多い船てえのはないね。突くのかい? このこうもり傘で? よし、突くよ……そーれ、よいしょ……おいおい、おいおい、いけねえ、いけねえ、石垣のあいだにこうもり傘がはさまったまま船がでちゃったじゃねえか」 「手をのばしてとってください」 「手をのばすったって、とどかないじゃねえか。もういっぺん、あすこへやっとくれよ」 「へえ、もう、はなれたらおあきらめなすってください。もう二度とあすこへはもどれません」 「なんだい、とれねえのかい? あすこに傘がみえててとれないなんてのは情けねえはなしだ」 「いいじゃねえか、おまえ、傘の一本や二本、いのちにはかえられねえや。どうせあれは福引きであたったんじゃねえか」 「福引きであたったっておれの物《もん》じゃねえか……だめかい? とれねえのかい? 人間、どこで損をするかわからねえや。情けねえねどうも……ま、しかたがねえや……どうだい、船の乗り心地は? ぐあいはどうだい?」 「ぐあいどころじゃないよ。運動になるったってなりすぎますよ。のべつにおじぎばかりしてるじゃねえか」 「おじぎばかりしてるっていうけど、おまえばかりがおじぎしてるんじゃないよ。あたしだってしてるじゃないか。おたがいに失礼がなくっていいや。これなら、むこうへいって食いものがうまいよ。おたがいに腹がすくからね……よくこなれるよ」 「こなれすぎるよ。こんなにゆれちゃあ、胃袋までこなれちまうよ」 「そんないやなことをいうなよ……あたしゃ、ひとつ、たばこが吸いたいてえ心持ちなんだがね、ちょっと火箱をとっとくれ、とっておくれよ」 「うるさいな。おまえはまた、このさなかにたばこなんか吸わなくったっていいじゃないか……さあ、おつけなさい。さあ、おつけなさいよ。あれっ、なにしてるんだよ。あたしがこうだしたときにおつけなさいてえんだよ」 「おつけなさいったって、あたしがこうだすとひっこましちゃうんじゃねえか。どうしておまえさんは意地のわるいことをするんだい? ずいぶん長いつきあいじゃねえか。なにもそんなに薄情なことをしなくったって……だしっぱなしにしといとくれよ」 「だしっぱなしにしろったって……こっちだって、なにもひっこめようとおもってひっこめるわけじゃねえんだから……ひとりでにひっこんじまうんだからしかたがねえや。どうしてもつけたいとおもったらね、おまえさん、手をのばしたらいいだろう」 「じゃあ、手をのばすよ。いいかい、ほら、ほら、いよっ、いよーっと……あ、ついた、ついた。たばこを吸うんでもたいへんなさわぎだよ……おい、おいおいっ、この船はどうなってるんだい? おいおい若え衆、ながれてるよ。船がながれてるよ、どうなってるんだい?」 「どうなってるってねえ……お客さん、あなたがたにうかがいますが、泳ぎ、知ってますか?」 「いやだよ、おい、そんなもの知らないよ」 「知らない? ……じゃあ、水天宮さまのお札持ってますか?」 「そんなもの持ってないよ。どうなるんだい?」 「なにしろね、目に汗がはいっちゃって、さきがみえねえもんですから……むこうから大きな船がきたら、よけてくださいよ」 「おい、なにをいってるんだい、あたしたちゃあ船へ乗ってるんだよ。船頭じゃないよ」 なんといっても、しろうとみたいな船頭ですからたまりません。 「おい、まいっちゃったよ、この船頭」 「まいっちゃったじゃないよ。あたしゃ、こんな船へ乗ったことがねえ。三年ばかり寿命をちぢめちゃったよ。おどろいたね、だいいち桟橋《さんばし》へつかねえじゃねえか」 「おい、若え衆、しっかりしとくれよ。もうひとっ丁場だよ。あすこへみえてるじゃねえか。おい、若え衆、もうひとっ丁場だよ」 「へえ、へえ……もうだめなんで……」 「おい、もういかないんだよ。船頭がまいっちゃったんだから……」 「いかないったってしょうがねえじゃねえか、どうするんだい?」 「どうするったって、こうなりゃあ、もうしょうがねえから、水のなかへはいっていくんだよ」 「おい、じょうだんいっちゃあいけないよ。だから、あたしが、いやだ、いやだてえものを、むりやり乗せたからじゃないか。おまえさん、あたしをおぶっとくれ」 「だけど、ねえ、ここは浅いんだよ。下がみえてるじゃないか……まあ、いいよ。おぶってやるよ。あたしがすすめて乗せたもんだから……さあ、尻をはしょって、下駄を持って、わすれものはないかい? では、あたしの背なかにしっかりとおぶさるんだよ。いいかい……大きな尻《けつ》だね。おまえてえものは、男のくせにずいぶん大きいね……いいかい、ちゃんとつかまってないとひっくりかえっちゃうよ。さあ、さあ、いくからね、しっかりつかまってるんだよ……おいおい深いよ。それに下がぬるぬるしてて、いやにすべるよ……おい、若え衆、おれたちはあがるけどね、おい、若え衆、まっ青な顔してるけど、いいかなあ、おーい、若え衆、しっかりしろよ。大丈夫かーい」 「へっ……へっ……お客さん、おあがりになりましたらねえ……船頭をひとりやとってくださいまし」
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優しくて冷たくて(じぇらしっくわーるど 1)
絶対俺って損な役回りな気がする
確かに頭も悪いし気が利かないし、男に憧れられることがあっても女にウケる容姿じゃない。
だからって
妹みたいででもちゃんと女として意識してる奴に「使われる」なんてふざけんじゃねぇって頭にくるのにそれなのに
「ワタシに甘えられて仕方なくと言えよ?」
と言葉のわりには拗ねたような可愛い顔でみあげられれば
おぅ、任せとけ
なんて笑顔をみせてしまうんだから
損な役回りというよりは
ただの道化師なのかもしれ��い
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「うぃっす」
窓からのっそりと無駄にデカイ図体で恋次が入ってきた。
「……ルキアは?」
「あー、えっと、あ、あれだ!アイツの隊舎で何かあるみてぇで? ……んで、あの、俺にコッチ行ってテメェの代行業手伝ってやれとか」
「…………ふぅん」
シドロモドロな恋次は本当にダセェな、と腹立たしいが笑いそうにもなる。これ絶対、ルキアに頼まれて本当は俺を挑発する台詞でも仕込まれて来ているはずに違いない。なのにこの下手な芝居はバカ丸出しだ。
ていうかルキアもバカなんだよ。使う相手間違えてんだろ。恋次なんて腕力バカで脳ミソツルツルなのになんでコイツに頼むんだ?
とはいえ、無駄に目線をフラフラさせて何とかルキアの代わりに俺を懲らしめようとしている恋次は憐れだが、少しだけむかつく。
なんだかんだとルキアが頼るのはコイツだからだ。俺の知らない幼い頃のルキアを知っているのも、同じ副隊長職なのも白哉とも繋がりがあるから、よく3人で飯食ったりしてんのも
、そうやってふわりとルキアの傍にいるのが当たり前みたいに恋次はいつだってルキアの傍にいる。
そしてきっと本人も無意識に、
あっちの世界では自分がルキアの隣にいるのが当たり前だと思っている気がする。
「…………」
「…………」
お互い思うことがあるからか、無駄な沈黙。先に口を開いたのは恋次だった。
「……ケンカでもしたんか?」
「まぁな。てか怒ったのはルキアだけでさ、俺は別にルキア怒らすつもりなんかなかったんだけど」
それは本当。
どうしてルキアがあんなつまんないことで「やだ!一護最低だ!」と怒ったのか皆目検討もつかない。なんだよ~と宥めようにもあの時のルキアは大きな目をキッと吊り上げて俺の手を振り払おうと暴れた。
あんまり暴れるから「冗談通じねぇの、疲れんだけど」とちょっとイライラして俺が口走ったのが琴線に触れたらしく
ルキアはあの喧嘩から尸魂界に帰ってしまった。
「アイツ、素直じゃねぇし頭固いから大変だろ」
「まぁな」
「オマエには特にぶつかるしなぁ?でもあれでも優しいとこや可愛いとこもあんだぜ?」
何言ってやがるこの赤髪バカ
そんなの知ってるし、おまえにそんな、宥められるように教えられる筋合いはねぇんだけど
そう感じてしまえば目の前の大男がやはり憎たらしくなってきた。
「あいつ無意識にスゲーエロいじゃん?」
「……ぁ、あぁ、」
「昔からそーなの?」
「ぅえ?……あー、そーか、な……?」
突然目を泳がせて曖昧な返事をしだした恋次に少し満足する。絶対ぇコイツはわかってないし知らない。ルキアがどんなにエロいかわかってないんだ知らないんだと思えば、さっき俺に可愛いとこもあるなんてえらそうに言ってたコイツが少しは許せるような気持ちになる。
「だからある意味俺を虜にして変態にさせるのはアイツのせいなわけじゃん? そーゆー話しただけなのにさ、怒ってんだもんな?たち悪ぃよなぁ?自分が無意識にエロいこと言ったりそーゆー仕草してんのになぁ?」
「…………ぉ、ぉう、そーだな」
恋次の慌てぶりと青褪め始めた顔に笑いそうになるのを堪える。
せいぜい勝手に想像して苦しめアホ恋次。
「つーわけでぇ、とっとと帰って来いって言ってたって言っといてくれよ、頼むよ恋次」
爽やかに笑って、「天然エロはたち悪いよなー?オマエならわかってくれるよな」とまた窓から帰らせるように促せば、そうだよななんてモゴモゴしたまま動揺して恋次は窓からいそいそと帰ろうとしている。今来たばかりなのに。
おまけにルキアがエロいと聞いて動揺しすぎたのか、窓枠におでこをぶつけた。本当に面白い。
「寂しがってるから、早く帰ってやれって言ってくれよな、頼むぜ?」
だめ押しをして恋次を見送った。
最後の言葉は本音だった。
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正義の味方
いつも通り出勤すると、シャッターの降りた店の前でおっさんが寒そうに首を縮めて立ち尽くしていた。何となくヤバい気がしたので、目が合わないようにしながら足早に通り過ぎようとしたが、案の定、おっさんは話しかけてきた。
「おい、お前ここの奴だろ。もう入れてくれよ」
「大変申し上げにくいのですが、開店前ですので、開店までお待ちください」
「こんな寒い中待ってるの辛いんだよ。俺、年だからさ」
そっちが勝手に来たんだろ。頭イカレてんのか。
「お客様、開店は九時からなので。まだ一時間あります」
「俺一人くらいどうってことないだろ」
「あなただけを特別扱いすることはできません。それに中で開店作業がありますので」
「先に買ったらとっとと帰るから邪魔はしねぇよ」
驚いた。入った上に買い物する気でいるらしい。衝撃的だ。開いた口が塞がらない。閉めてるけど。スーパーくらいどこでもあるだろ。気でも狂ってんのか。普段どんな僻地にいるんだ。
「開店作業がまだなので売ることはできません」
「俺このあと仕事あるから急いでんだよ。時間ないんだよ」
「お忙しいところわざわざありがとうございます。お仕事が終わってからのご来店をお待ちしてます」
みじんも感謝していないのはバレている。一瞬むっとした表情を浮かべたものの、おっさんはすぐに頼み込む姿勢へと戻った。
「仕事終わるの遅いから夜は無理なんだよ。なぁ頼むよ」
「別の日にお願いします」
「今日しかない」
はい出た。こういう系の奴は「今日しかない」とすぐ言う。こういう系の奴同士で作戦会議でもしてるんじゃないかレベルで同じことを言う。お前ら一体普段どうやって予定たててんだ。今までどうしてたんだ。さては、常に行き当たりばったりなのか。そうか。
「お休みの日にお願いします」
「休みは予定が入ってるから」
じゃあ予定やめれば。いつまで先の予定まで立ててるんだか。
「では日程調節の上ご来店お願いします」
「ほんとお前らは殿様商売だな。客を見下しやがって。柔軟な対応っていうのができないのか」
ほら。本性を表した。こちとら目があった瞬間からそういう人だと思ってましたよ。
「そんな風にはみじんも思ってませんが、あなたにそう感じさせてしまったことには申し訳ないと思います」
何が悲しくてタイムカードを切る前から仕事をしないといけないのだろう。気分は最悪だ。朝の星占いは三位だったのに。まぁ当たったことないけど。昔フられた日の星占いも一位だった。
「黙れ。調子に乗るな」
それはこっちのセリフだ。勝手に並んでおいて何なのだ。頭がおかしいんじゃないか。
おっさんが拳を振り上げる。俺が若い女だったら「責任者呼べ! いや、社長だ! 社長を出せ!」などと喚き散らされて終わりだったろう。あーあ。客に手をあげられるなんて滅多にないことだが、たまにある。まぁ、これで通報すれば勝てるので黙って殴られておけば良い。でも決して喜ばしいことではないので本当にうんざりする。面倒くさい。仕事も大して好きじゃないが、働いてる方がマシだ。まぁでももし選べるんだったら働かずに気楽に生きられる人生の方が良かったな。選べないけど。宝くじで二億当たんないかな。
その瞬間、僕らの間に颯爽と立ちはだかる男が現れた。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要なんてありません」
おっさんの腕を片手で止めながら奴は言った。駅で見かけたら十分後には忘れてそうなくらい平凡な顔をしていた。おそらく出勤途中らしくスーツを着ている。
そして奴は空いた方の腕を大きく振り上げた。堅く握りしめられた拳。痛そうだ。勢いをつけて振り下ろす。途端に吐き気がした。文字通りの意味で。今朝のコーヒーが鼻の奥でつんとしている。喉の奥でコーヒーとゲロの苦みが混ざり合いながらせり上がってくるのを飲み込む。ひりついたような不快感が残る。鳩尾が鈍く痛む。言葉にならない呻き声が口から漏れた。涎も一緒にこんにちは。
えっ、何で何で。おかしくない?
何で俺が殴られてるの。わけわからなさすぎ。奴に問いかけようと言葉を発そうとしたが、呻くだけで言葉にならない。奴は本気だ。本気で鳩尾を殴られた。
腹を抑えて地面にうずくまっていると、さっきのおっさんはうひぃと変な声をあげて一目散に逃げていった。そりゃあ逃げるよな。こんな頭のおかしい奴が割り込んできたら。
スマホを取り出そうと腹から手を離した瞬間に、上から容赦なく足が降ってきた。ずん、と重みのある感触と音がした、ような、気がした。カラカラと音を立ててスマホが地面を転がっていく。乗せられた革靴から手を引き抜こうとすると、さっと足を退けられ、また倒れ込んでしまった。爪が剥がれた気がして見てみたが、剥がれていなかった。少しヒビが入っただけだ。手の甲全体が赤くなっている。骨が折れているかは分からない。案外人間は頑丈だ。小学生の頃、滑り台のてっぺんから落ちた時も、同じことを思った気がする。じんじんと痺れるように痛むが、とりあえず動かせるので、欠勤しなくて済みそうだ。この人手不足の状態で休んだら他のメンバーに負担を強いてしまう。
「あなた何なんですか」
腹から声を捻り出して言った。まだかすれている。
「正義の味方だ」
奴は俺の前髪を掴んで引っ張る。痛い痛い。こんなに短いのにそんなに引っ張ったら頭皮が千切れちゃうって。
「正義の味方なのにそんなことするんですか」
振り払おうと力の入らない方の手も使って、奴の腕をめちゃくちゃに叩く。しかし、びくりともしない。
「お前が悪い」
わけがわからない。理不尽だ。何の言い掛かりなんだろう。ぶちぶちと髪の毛が何本か抜けた。あー。ハゲ予備軍と言われてるのに貴重な髪の毛数本が無惨な姿にされてしまった。
ぱっ、と手を離されて尻餅をつく。手をついたところで、踏まれてない方の手の上にも足が振り下ろされる。この数分のうちに何回「折れたかも」と思っただろう。本当に痛い時は声なんて出ない。悲鳴をあげて助けを求めたいのに痛くて声が出せない。さらに鳩尾に蹴りが入る。ゲロが口内にまで出てきた。喉から口にまでひりつく不快感がある。それをペッと奴に向かって吐きかけた。
奴はさっと身を引いたが、カッターシャツの裾をほんの少し俺のゲロが汚した。明らかに不愉快そうに眉を潜める。そこで間髪入れずに俺は彼の足に突進した。手に力が入らなくても体当たりくらいはできる。俺が足の上に乗っかった形で奴は倒れ込んだ。俺を離そうと手で俺の頭を掴もうとしたので、ゲロ塗れの口で奴の親指に噛みついてやった。前歯だと力が入る気がしなかったので、あえて横を向いて思いっ切り噛み付いた。ゴリゴリッと嫌な音がする。もちろん、ちぎる気で噛んだ。奴が驚いてギャッと悲鳴を上げる。俺には出なかった類の声だ。俺の歯はそこまで強くないだろうが、それくらいの気合いでやればある程度効くだろう。奴は空いた方の手でガンガンと俺の頭を殴る。口の中に血の味が滲む。俺のじゃない。肉に歯が食い込む。気持ち悪くて離しそうになったが、俺はさらに顎に力を込めた。頬を平手打ちされても、頭を拳でごんごん叩かれても俺は離さない。目がチカチカする。実際に揺すられているよりも大きく視界が揺れている気がする。目の前が全体的に白っぽく、幾多もの点が瞬きながら流れていく。これが俗に言う星が舞うというやつだろうか。生温かい鉄臭さが喉の奥にしみていく。浸食されるような嫌悪感。
「犬みてえなマネしやがって。気持ち悪い」
掠れた声で罵られたので言い返そうとしたが、顎の力が緩みそうになったのでそのまま歯を食いしばった。心の中で「俺犬派なんで、そういう悪口はちょっとやめていただきたいですね」と言い返した。
もがく奴の蹴りが何発か俺の腹にまた入る。めり込む深さを感じて、男の体も意外と柔らかいんだなぁと思った。鈍痛。またゲロがあいつの指にかかる。噛まれた手を夢中で振り回して店のシャッターに俺は打ち付けられた。ガシャガシャと騒々しくシャッターが音を立てる。俺の頭はなかなか割れない卵みたいだな。ぼやーっと視界の靄が濃くなり、全体的にチカチカしている。青とか赤とかにも点滅している。遠くで別の人たちの声が聞こえてきた気がした。
体から力が抜けていくような、いや、意識だけが外れるみたいな気がして、ハッと気付いた時には病院のベッドに寝かされていた。
初めて仕事を休んでしまった。皆勤だったのに。皆勤くらいしか取り柄がないのに。やってしまった。思わず頭を抱える。大慌てで店に連絡して遅刻を謝罪し、向かおうとしたが、既に事情を知っているらしい店長に「災難だったな。今日は休め」と止められてしまった。幸い、大した怪我はしていなかったらしく、一日で退院はできた。
聞いた話によると、出勤時に俺たちを見かけた後輩が通報したらしい。年下なのにしっかり者だ。
「気を付けて下さいね」
後になってから話した際に警察官からなぜかそう注意された。
「罰せられるべきは彼でしょう」
「いや、彼は『正義の味方』なので、我々は罰することができません」
俺の頭の上には疑問符が飛び交っていただろう。
「『正義の味方』は『正義の味方』ですよ。良いから気を付けてください」
全く意味が分からなかったが、とりあえず空気を読んで俺は曖昧に笑って頷いた。もしかして俺が知らないだけで皆知っているのだろうか。そう思って、Google検索をしたり、SNS内を調べたり、数日間は普段見ないくだらないワイドショーも嫌々見てみたりもしたが、まるでわからなかった。奴は一体何だったんだろう。
「正義の味方って知ってる?」
仕事中に品出しをしながら後輩に聞いてみた。
「急に何ですか。『正義感の味方』は『正義の味方』ですよ」
後輩は警察官と同じことを言った。そういえばあの警察官も俺より若そうだった。世代差だろうか。
「それが分からないから訊いてんだよ。ググッても出てこないし」
「そんなの載ってるわけないじゃないですか。『正義の味方』は『正義の味方』ですから。それ以外の何者でもない。どうせまたググって調べようとしたんでしょ。無駄ですよ。そういう物じゃないんで」
後輩の表情を見る限り嘘をついているわけではなさそうだ。しかしますます訳が分からない。俺は同じ質問を先輩にも店長にもしてみたが、ほぼ同じ答えだった。店長は「考えたって分からないぞ」と付け加えた。狐につままれたようだ。俺を置いて世界が変わってしまったような気がする。いや、世界がおかしく見えるというのなら、それはもう俺がおかしいのだろう。もし世界中の誰もが犬を見て「猫」だと言っていたら、客観的事実として俺の認識が狂っているのは間違いない。
正義の味方の正体がわからないまま数日が過ぎたある日、突然それはやってきた。休日にGEOで新作ゲームの中古が出てないか見ていると、ゴーンゴーン、と突然鐘が鳴り響いた。しかしそれは俺の頭の中でだけだ。俺以外誰も鐘の音に驚いていないし、鐘なんてどこにもないからだ。
気が付いたら俺は店を飛び出して猛ダッシュしていた。そして横断歩道もない車道を横断し、斜向かいのケータイショップへ突っ込んでいった。いらっしゃいませの声を無視して奥のカウンターへ突っ込んでいく。そこでは厚化粧のババアが金切り声で「分かるように言わなかったあなたが悪いんでしょ! 私は素人なんだからね!」と叫んでいる。そして無駄にキラキラしたケースに入ったヒビだらけのiPhoneを大きくふりかぶった。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
iPhoneを持ったその手を掴む。どこかで聞いたような台詞が俺の口から飛び出した。目の前の女の子がほっとした顔で俺を見上げている。あちゃー。違うんですよ。
俺の拳がカウンターの向こうにいる女の子の頬をビンタする。あーあ。それなりにかわいい女の子だったのに残念だ。こんな形以外で出会ってたら一回くらいヤれてたかもしれない。スニーカーのままカウンターに上り、何が起こっているのか理解できていないその顔面に、引っこ抜いてたキーボードを叩き込む。キートップがいくつか落ちる。多分元々ぐらぐらしてたんだと思う。AとKがころころと床に飛び降りる。あとBがあったらAKBなのに惜しい。
ババアは面食らって口をパクパクさせながら震えている。
「あなた何なんですか」
鼻血をぽたぽたと白いテーブルに垂らしながら女の子が俺を睨みつけて言う。おお怖い怖い。接客やってる女は穏和そうにみえても大体怖い。これは単なる俺の経験談だ。
「正義の味方だ」
口が勝手に動いていた。何これ。
あー、いや、これ知ってるわ。これ。なんかマンガで見たわ。いや映画だったかな。両方かもしれない。ゾンビの血を摂取するとゾンビになるってやつでしょ。その理屈じゃん。正義の味方の血を摂取すると正義の味方になっちゃうんでしょ。俺、あいつの血、めちゃくちゃ飲んだわ。あれじゃん。思いっきりあれじゃん。わかるわかる。これ知ってるやつだわ。進研ゼミでやったところじゃん。進研ゼミだったっけ。Z会かもしれない。ってか最近Z会って聞かないよな。もしかして潰れた? くもんにやられた?
ガン、と頭に衝撃を感じた。女の子にiPadで頭を殴られた。形的にたぶんiPad Proだ。ホームボタンないし。ひどい。iPadは人を殴るものじゃありません。超高級鈍器だ。ボロキーボードとは訳が違う。
しかしそこへさらに鐘が鳴る。ゴーンゴーン。これは俺にしか聞こえていない。なぜなら誰もその音に反応していないからだ。
俺は弾かれたようにケータイショップを飛び出す。そして歩道を全力で走る。何人かはねたかもしれない。徒歩で人をはねるなんて前代未聞だ。いや、徒歩じゃないな。俺は走っている。しかも普段こんな速度で走ったことがない。オリンピックに出られるんじゃないだろうか。尋常じゃない速度で風景が流れていく。階段を上り、閉まる改札を無理やり突破して走る。後ろで駅員が何か叫んでいる。こんなことならPiTaPaを作っておけば良かった。
駅構内で泣き叫ぶ幼児がいる。
「黙りなさいって言ってるでしょうが! なんでそんなにママを困らせるの!」
半泣きの若い女が手を振り上げている。俺は寸前でその手を止める。細い腕だった。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
俺は女を解放し、両手で幼児を突き飛ばす。軽い体は簡単に吹き飛んで柱へぶつかりかけたが、すんでのところで女が受け止めた。
「何するの」
女がヒステリックに叫ぶ。ほんとそうですよね。でも俺正義の味方だから仕方ないんです。
「あなた何なんですか」
母は強し、というやつだな。さっきまで殴ろうとしていた幼児をぎゅっと抱き締めている。俺に対して敵意をむき出しにしている。
「正義の味方だ」
またもや口が勝手に動いた。おいおい。俺は女から幼児を引き離そうと女の腕を蹴った。
「やめなさい」
振り返ると複数人の警察官がいた。俺は無視したが押さえ込まれてしまい、ようやく俺は幼児を女から奪おうとするのをやめた。逮捕はできないが、手を出せないわけではないらしい。
「また『正義の味方』か」
警察官がうんざりした様子で言っていた。好きでなったわけではない。これは感染症のようなものだ。パニック映画なら世界中に「正義の味方」が広がり、感染者と非感染者の攻防戦が始まるのが妥当な展開だろう。そもそも正義の味方は今どれくらいいるのだろう。俺が知らなかっただけで、誰もが当然知っている程度の知名度があるのだろうか。いや、殴られた人は皆驚いていた。それともあれは自分が「正義の味方」に殴られるなんて、という驚きだろうか。「正義の味方」はいつからいるのだろう。どうやって始まったのだろう。俺が産まれた時にはもういたのだろうか。
先日殴られた時とは違って、iPad Proで殴られた頭は全然痛まなかった。正義の味方を全うしている間は俺は無敵でいられるらしい。走る速度も尋常じゃない。元々あまり腕っ節は強くないが、人を殴る強さだって以前より強い気がする。「正義の味方」を殴り返した時よりも遥かに手応えがあったのに、まるで自分の体は痛まなかった。体罰は、ぶった方も痛いのだからお互い様、という謎理論が昔は流行していたが、自発的に殴っておいてその言い分はどうかしているとしか思えない。自傷行為の道具にされただけじゃないか。
解放された後、俺はのろのろと線路沿いの道を歩いていく。相変わらず世界は不機嫌だ。道の端でボソボソと喧嘩しているカップルがいる。ドラッグストアで店員にいちゃもんをつけるジジイがいる。信号がタイミング悪く変わって舌打ちをするサラリーマンがいる。補助輪の自転車で母親を追いかける子供が、晩ご飯に対する不平不満を連ねている。外に出れば、こうして、息をするように不機嫌な人々が視界に飛び込んでくる。いつから世界はこんなにも不機嫌になってしまったのだろうか。
あの流行病があった数年間のせいだ。誰もがそう言う。それが一番都合が良いから。あの前と、あの後で、決定的に何かが変わってしまった。皆何となくそう思っているから諦めている。仕方なかったのだ。太刀打ちできない未曾有の災厄のせいなのだから仕方ない。あの病の世界的流行で何百万人もの死者が出て、流行抑制のために多くの犠牲を払った。あれは身体だけでなく、世の人々の精神すらも根深く蝕んでしまった、とよく言われているし、俺もそう思っている。二千年代にもなってそんなことに人類が右往左往させられるなんてフィクションじみていた。俺はあの頃、社会人になって新人とも言われなくなり、ようやく新しい環境も身になじんできたところだった。そんな所に強制的に環境変化をねじ込まれ、人間関係も大きく変わらざるを得なかった。世界は元には戻らないし戻れない。完全に元通りになんてなりっこないのだ。世界は重度の脳梗塞を起こしてリハビリ中の老人だ。後遺症は一生ついて回る。途中から気付いていた。とぼけていただけだ。誰もが、後に残る世界は素晴らしいものだという前提の夢物語をしていた。絶望しないように。皆我慢してたから。今だってまだ我慢してるから。皆えらいから。頑張ったから。我慢したのに、頑張ったのに、バラ色の未来がやって来ないだなんてあんまりだ。そんなことがある訳がない。まだ今は途中なのだ。然るべき成果が得られるのはまだ先なんだ。もっと我慢したら、もっと頑張ったら、幸福な世界が実現するのだ。でも、皆、ずっとずっとは頑張れないし、我慢できないから、ちょっとくらい当たり散らしてしまうのは、仕方がない。そして、こんなにも皆不機嫌なのに鐘の音はしない。正義の味方の発動条件は何なのだろう。
今まで働いてきて、何度も訳の分からない客に絡まれたことはある。流行病の時は特にひどかった。毎日のように赤の他人から罵られていた。でも、正義の味方が現れたことなんて一度もない。自称「正義」の罵倒をしてくる人はいくらでもいたが。そんな時こそ正義の味方は来るべきだった。でもいなかった。もしかしたら、俺は未来の正義の味方だから爪弾きにされていたのだろうか。なるのが必然だとしてカウントされていたのだろうか。いや、俺だけじゃない。皆、働いていて嫌な思いはしている。先輩が、後輩が理不尽な怒りをぶつけられているのを見るのも嫌だった。でも、正義の味方なんかが助けてくれたことはなかった。無闇に叫ぶ客を、俺たちは「雑魚がキャンキャン吠えやがって。こっちがビビって従うとでも思ってんのか」という冷めた目で見ていた。今もそうだ。どんな穏和な従業員でもあの目をすることがある。あれは諦念だ。無になっている。無駄に傷付かないよう、受け身をとっているのだ。怒ったりしたい。そういう点では、こうして世界が不機嫌になり始めた時に、他の人よりも耐性があるのかもしれない。正義の味方は爆発的な怒りに呼び寄せられるのだろうか。だとしたら、少々の不機嫌や苛つきには反応しないのかもしれない。我慢できていては駄目なのか。正義の味方とは一体何なんだろう。俺の知る限りではただの乱暴者でしかない。世間の人々が正義の味方に対してどのような感情を抱いているかは分からない。きっと訊いてもまた「『正義の味方』は『正義の味方』」というよく分からない回答をされるのだろう。まるでそこだけが触れてはいけない世界のバグみたいに皆型にはまった答えしか言わない。それとも俺が知らないだけで言及すると罰せられるような法律があるのだろうか。
この考えを話せる相手がいたらな。しかし、こんな話ができるほど、自分をさらけ出せる身近な相手はいない。恋人か家族か親友でもいないと無理だろう。生憎誰もいない。親友は数年前の流行病で死んだし、恋人には捨てられた。家族とは疎遠だ。爺ちゃんが死んだ時に実家に戻らなかったからだ。流行病があったから、行くのをやめた。移動を控えなければいけない時なのだといくら説明しても理解してくれなかった。家族には許せなかったらしい。冷血だの人でなしだのと罵られ、それ以降、連絡はとっていない。仕方なかった。俺にはどうにもできなかった。今だって何も出来ない。いや、何もしていないだけだ。出来る気がしないから。また調子に乗ったところを世界からボコボコに殴られて台無しにされるのだ。いくら得ても奪われるのなら最初からなければ何の問題もない。
と、暗い気持ちになっても仕方ない。全然嬉しくないが、俺は正義の味方だ。嬉しくないついでにヒーロー衣装を揃えることにした。立ち寄ったドン・キホーテのパーティーグッズコーナーで三十分吟味した結果、馬と鹿のマスクを買った。曲がりなりにも接客業をしているのであまり顔を晒したくはない。顔バレNGだ。俺的に。持ち帰った鹿のマスクから角の部分を切り取り、馬のマスクに穴をあけて嵌め込んだ。馬と鹿のキメラみたいな生き物のマスクができた。お手製ヒーローマスクの完成だ。米津玄師かよ。高校生の頃めちゃくちゃ流行ってたなぁ。パクったんじゃないよ。馬と鹿を米津玄師が一人占めするのは良くない。俺にだって使わせろよ。
あれ以来、幾度となく鐘は鳴った。鐘が鳴る度、俺はヒーローマスクを被り無双モードで町に繰り出し、別段悪いこともしていない人をボコボコに殴りつけて帰ってきた。他人の家に上がり込むこともあった。戸締まりが甘ければ、開けられる出入り口がなぜか瞬時に分かり、そこから乱入したが、どこも空いていなければ窓やドアを破壊して入った。しかし損害賠償を求められることはなかった。正義の味方に法律は無効らしい。警察官や「『正義の味方』だから」と何度か渋い顔をされたことがある。そういうものらしい。ありがたいと言えばありがたい。正義の味方の活動は俺の意思とは関係のないところなのだから。心神喪失扱いにでもなってるんだろうか。
拳に血が滲み互いの血が混ざってしまうことも、俺のように噛みつかれたこともあったので、「正義の味方」をあちこちにうつしてしまっている可能性もある。しかしうつせば治るものでもないらしく、相変わらず鐘は鳴り、俺は走り出していた。しかし、正義の味方は意外とご都合主義らしく、仕事中に呼び出されることはなかった。その上、正義の味方をしても疲れない。痛みもない。なので日常生活に今のどころ支障はない。俺を殴った奴のように他にも正義の味方がいるはずだが、鉢合わせたこともない。これだけ頻繁に制裁を加えているのに知人を制裁したこともない。とはいえ、正義の味方はどうやら分担されているらしい。思いの外、待遇が良くて驚いている。正義の味方はどこぞのホワイト企業が取りまとめているのだろうか。もっと振り回されると思っていた。フィクションの世界のヒーローというのはそういうものだ。
正義の味方らしき人が走っているのは何度か見たので、俺以外にも正義の味方は何人もいるのは間違いない。一匹見たら百匹いると思えって言うし。見かけた正義の味方の中には俺が殴って流血戦をした人もいたので、やはり正義の味方が血でうつるのは間違いないらしい。ゾンビじゃん。広がり方が悪役だ。彼ら、彼女らは人らしからぬ走りっぷりをしているので分かりやすい。正義の味方になる前は見たことがなかった。彼らはいなかったのだろうか。それともいるのを俺が認識していなかったのだろうか。
把握している限り正義の味方によって死んだ人はいない。加減をしているつもりはないが、加減はできているらしい。思い返してみれば、健康的な若者相手なら道具の使用も辞さないが、老人や子供は丸腰で殴っている。正義の味方は正義の味方であり、公平だ。
そして、正義の味方の制裁を受ける側も、呼んでしまった側も正義の味方を知らない。必ず何者かを問われるので「正義の味方」と名乗る。名乗ることで正義の味方は正義を味方になるのだろうか。それとも一度でも正義の味方と関わることで「『正義の味方』は『正義の味方』だよ」とプログラムされるのだろうか。
仕事帰りに、弁当屋の丸椅子で唐揚げが揚がるのを待っていると、スマホが震えた。取り出すと、なんとなく追っているコミックスの更新通知が来ていたので、ダウンロードして開く。もうすぐアニメ化されるらしい。確かにそこそこ面白いもんなぁ。
「すみません」
とびきり懐かしい声がした。小柄な女性が弁当屋のカウンターの前に立っていた。Web注文の画面を見せて、FeliCaにタッチをした。
恋人だった。
恋人だった人だった。よくできた話だ。こんな風に町でばったり会うなんて。ベタなラブソングじゃあるまいし。何て声を掛けようか。名前で呼んだら気持ち悪いだろうか。苗字か? 旧姓か新姓か? 旧姓で呼んで訂正されたら心臓に悪いし、新姓だと馴染みがなさすぎて口にしただけで心臓に悪い。
もたもたしているうちに彼女の方から声をかけてきた。俺の苗字を呼ぶ。ただ呼ばれただけだし、そもそも付き合う前はそう呼ばれていたのに、なぜだか傷付いてしまう。女々しい。俺はこうして何かにつけてうじうじしている奴だった。元々そうだった。彼女によってますます女々しくなる。彼女といた頃の俺は今よりもっともっと弱かった。支えてくれる人がいると人は弱くなってしまう。奪われる側の人間だった。その頃の俺が呼び起こされてしまう。
「久しぶりじゃん」
彼女は笑顔を向ける。
「ほんと久しぶりだよね」
妙にぎこちない口調になってしまう。
「こんな所でどうしたの」
「今実家にいるから。おつかい」
彼女はプラスチックの容器に詰められたらコロッケを見せながら言った。そういえば、彼女の実家と俺の家は同じ生活圏内だった。知らないうちに会っているかもしれない。お互い面識はないから会っていたとしても分からないけれど。いずれ挨拶しないとなんて話してたこともあったっけ。
何で実家にいるんだろう。妊娠して里帰りか? 妊婦には見えない。離婚したのだろうか。
「何かあったの。実家の家族とかに」
あえて可能性の低そうなところに言及する。
「別に実家にくらい行くでしょ」
大げさだなぁと笑う。また彼女は俺にがっかりしているのだろうか。いや、もう赤の他人となってしまった今、俺にそもそも期待なんてしないだろう。違う。元々恋人だって、赤の他人だ。何考えてるんだ。イカレたのか。よく考えれば分かることだ。やはり、ただ単に久しぶりに実家に戻ってきているだけなんだろう。そういえば、世の中は三連休らしい。
唐揚げ弁当お待ちのお客様ー、とマスクを付けた店員に呼ばれ、レシートメールを見せて、カウンターに置かれた弁当を袋ごと手にする。昔は手渡しだったなぁ、と思った。彼女と付き合っていた頃はまだそうだった。あの頃と同じ店員はもういない。流行病があってから、極力接触せずに販売を行う取り組みがどんどん普及した。
「元気にしてる?」
自分で口にしてみて、元気ってなんだろう、と思った。健康ではあるけど元気ではない気がする。もう随分長いこと元気じゃないかもしれない。元気とは何だろう。何これ。哲学的命題か。
「元気だよ。そっちこそ元気?」
「それなりに」
それなりに。それが一番しっくりくる気がした。
「あのさ『正義の味方』って知ってる?」
我ながらいきなりだな。
「もう。何その質問。哲学? それともそういうキャラでもいるとか?」
彼女が首を傾げる。少し泣きそうになった。俺の知ってる世界だ。懐かしい気持ちで世界が以前の形に戻ったような気すらした。
平和に付き合っていた頃も、俺はよくぼーっと今考えなくても良いようなことを考えては落ち込んでいた。ある意味平和ボケ。平和すぎて、有り余った脳味噌を無駄な思考に使ってしまう。そうして難しい顔で考え込んでいると、テレビを見ていた彼女が不意に振り返り「あー! またなんかうじうじしてるんでしょ」と首ねっこを掴んでくる。「首はやめて弱いからマジでマジで」なんてソファの上で転げていた。
もしあの病の流行がなかったら俺たちはまだ付き合っていただろうか。いや、元々駄目だったのを、災厄が暴いただけだ。人間関係がダメになるのは往々にしてそういうものだ。原因は目の前の出来事だけではない。決裂する瞬間、もっともっと前から原因が積み重なっているのを見ようともせず、ただ目の前の出来事に憤慨している。これは一般論だ。俺の話じゃないよ。
「そうだよな。やっぱそうだよな」
そうして、俺は「正義の味方」にまつわる話をした。俺が正義の味方であることは伏せた。俺にとって正義の味方であるのは情けなく恥ずかしいことだ。まだ俺は彼女になるべく格好をつけたかった。それが何の効果も成さないことを知っていながらも。
「何それ。下手な小説みたい。無名のアマ作家が書いたなんちゃってラノベじゃあるまいし。疲れて夢と現実が混ざっちゃってるんじゃないの。ちゃんと寝なよ」
「だよな」
笑ってみたものの、残念ながらこれは夢ではない。鞄の中のヒーローマスクがそう言っている。でも俺が狂っているわけではないことが証明された気がした。もし狂っていたとして、俺も彼女も狂っている。それだけで、救われてしまった。俺はまた彼女に救われた。別れても尚。
「そろそろ行かないと」
彼女は腕時計を見ながら申し訳なさそうに言った。すっかり袋の中のおかずは揚げたてではなくなっている。
「また飯でも」
あはは、と彼女は笑いながらひらひらと手を振った。馬鹿にされたんだろうか。いや、性格的にそうではないだろう。変わっていなければ。これは、ただ、誤魔化されただけだなのだ。彼女と俺が飯に行くことなんて���もうないのだ。馬鹿にはしていないが、いよいよ頭がおかしくなったくらいは思われたかもしれない。
家までの道を歩いていく。世界がまだ安穏としていて、俺たちが付き合っていた頃は、この道を彼女と一緒に手を繋いで歩いていた。坂道で突然競走を始めたり馬鹿なことをしていた。昔の話だ。昔の話は昔の話でしかないし、正義の味方は正義の味方でしかない。彼女に確認をとる必要なんてなかったのに、どうして確認なんかしたのだろう。自己満足に他人を巻き込んだだけだ。ああ駄目だ。すっかり、弱い俺が呼び戻されてしまった。後ろから多い被さっている。重い。気付けにコンビニで発泡酒を買い足す。唐揚げ弁当はすっかり冷めていた。
「無理だよ」
あの日、四角い画面の中で彼女が言った。俺は何も答えずにキーボードの埃をエアーダスターで吹いた。キートップも汚れている。拭き掃除しないといけないな、と思った。画面に目を戻すと彼女の後ろのポスターが剥がれかけているのが気になった。もうずっと気になっているけど言うタイミングを逃してしまった。
「私もあなたも別々の場所で働いてるし、会うためには電車にも乗らないといけない」
がっかりした、なんて言う子じゃないけど顔には思い切りそう書いていた。ドライすぎる回答だ。俺の「会いたさ」は渇いてパサついた状態でくるくる俺一人の部屋で回っている。
「君は寂しくないの」
問いかけると、あはは、と画面の中の彼女が笑った。悲しそうだった。俺は何でそんな顔をさせてしまったのだろう。
「ねぇ、私の話聞いてた?」
何を急に言い出すのだろう。面食らってまた黙ってしまった。黙っている俺に彼女は言葉を重ねる。
「君が話し出す前に、私が何の話してたか覚えてる?」
俺は必死に記憶の糸を辿ったが、まるで思い出せなかった。なんとなく彼女がしゅんとしたり笑ったりしていた顔が浮かんでくる。
「聞いてないもんね。適当に相槌打ってりゃ良いって思ってるよね。私のこと好きだって言うけど、私のことなんて、あなたは何も見えてない。あなたはいつも自分に夢中。嫌い嫌いって言ってるくせに。大嘘だよ。そんなに自分が好き?」
彼女の後ろのポスターが剥がれかけているのが気になった。彼女の好きなアニメのポスターだ。劇場版の前売り券を買った人だけが先着でもらえるものだ。一緒に買いに行ったし、貼る時は俺も手伝った。上の段を留めたのは俺だ。俺の貼り方が悪かったんだろうか。
たぶんその時からどんどん、どんどん、俺と彼女はズレていった。噛み合わなくなっていった。いや、もっと前からそうだったのに気付いていなかっただけかもしれない。世界の混乱が収束へ向かい、ようやく出歩けるようになった時も、俺たちは一向に会う約束を取り付けなかった。何となくどこそこへ行こうと話をふっても、以前のように彼女は話を進めてはくれなかった。俺はそれ以上踏み込むことができなかった。もし踏み込んでいたら奇跡の起死回生があったのだろうか。俺が悪いところを全部なおしても彼女はもう俺からどんどん離れていくだけだ。そう思いたい。思いたいだけ。俺はそれをすんなりと受け入れた。見苦しくすがりついても結果は何も変わらないことが分かっていたから。
その二年後に彼女は俺の知らない男と入籍した。教えてくれるような友達もいなかったのでFacebookで知った。綺麗な花嫁姿だった。知らない男で良かったなぁと思った。何かが少しずつ違っていたら自分がその知らない男になれていただろうか。時々集まって遊ぶような微妙な仲の友達はあの病気のせいですっかり疎遠になってしまい、今だってもうお誘いは来ることもない。ひょっとしたら何人かはあの病気にやられて死んでしまったかもしれない。それ以外の要因でぽっくりいってる可能性もある。LINEくらい送れば、生きてるかどうかくらい分かるかもしれないが、そこまでしようとも思わない。持ってしまうことが怖いから。失うことが怖いから。奪われることが怖いから。怖い。怖いのだ。俺は本当は臆病なのだ。小学生の頃お化けが怖くてトイレに行けずにおねしょしたことがある。怖がりなのだ。テストで百点をとりそうになって、あえて一つ間違えたことがある。怖い。怖かった。百点をとってしまうのが怖かった。好きな子に告白されたのに断ったことがある。怖いのだ。それを受け取ってどんな目に遭わされるか分からない。そんな恐ろしいことができるわけがない。彼女にはフられようと思って告白したら、付き合えてしまった。恐ろしいことをしてしまった。その結果がこれだ。自業自得だ。俺が全部悪い。全部全部悪いそういうことにして欲しい。じゃないとあんまりだ。
夕闇を背景に電線でカラスが鳴いている。
電信柱を拳を打ち付けた。じん、と骨に響く。正義の味方ではない俺は強くもないし、痛みも感じる。電線に止まったカラスは驚きもせずに鳴いている。もう一発叩く。握り拳に力を入れる。さらにもう一発、もう一発、とだんだん打ち付ける速度が速くなる。関節の皮がすりむける。電信柱の黄色と黒の縞模様に血が滲む。黄色に付いた血は目立つ。擦り付けられた血が不規則に線を引く。表面が無駄にぼこぼこしているので、俺の指は下ろし金にかけられた大根みたいだ。何にそんなに怒ってるんだろう。とりつかれたみたいに、そうしないといけない気がした。
電信柱はびくともしない。そりゃそうだろう。たかがこれしきの衝撃で動いたら電信柱は電信柱としての役割を果たすことができない。もし俺が今正義の味方だったら、電信柱をへし折ることくらいできただろうか。豪邸の重いドアを蹴りで開けたこともあるくらいなので、できたかもしれない。
骨ばった指にも肉はあ���。皮がすりむけた中には肉がある。血が巡っている。生きているから。大根おろしでミンチが作れる。何言ってるんだろう。大根も下ろし金もここにはないけど。
俺の気持ちはどこに向ければ良い。こんなに怒っているのに。正義の味方は来ない。誰に怒っているのだ。何に怒っているのだ。自分か。彼女か。友達か。家族か。過去か。未来か。世界か。あの流行病か。正義の味方か。分からない。何がそんなに嫌なんだ。誰も悪くないし、何も悪くない。あの病の時、自業自得だという言葉が流行った。外出したんだから自業自得だ。その仕事を選んだんだから自業自得だ。事情なんて知ったこっちゃない。そのくせ責める。自業自得だ。お前が酷い目に遭うのはお前が悪いからだ。なんでそんな酷いことを言うんだろう。どうして誰も彼もがそんなに荒んでるんだろう。テレビをつけてもSNSを開いてもいつも誰かが誰か責めている。何でそんなことするんだろう。知っている。分かっている。問うまでもない。理不尽に酷い目に遭うのが当たり前だと認めるのが怖いからだ。自業自得じゃなかったら壊れてしまうから。俺はその話を彼女にもした。彼女は俺が話し終わるまでひたすらうんうん、と受け止めて「大丈夫だよ」と言った。こんなに話したら気持ち悪いんじゃないかと俺が変に話を反らそうとすると「言って良いよ。大丈夫だよ」と促した。彼女は全部お見通しだった。彼女の「大丈夫だよ」が聞ければ、大丈夫な気がした。大丈夫じゃないけど、大丈夫な錯覚ができて、彼女にそう言われたら半日くらいは俺は正義の味方じゃなくても無敵だった。でもそんなことはもう無い。一生無いかもしれない。じゃあどうすれば良いんだ。憎む相手をくれ。何も憎めないし、恨めないなんてあんまりじゃないか。しかし俺はやり場のない怒りを電信柱にぶつけている。電信柱も悪くない。分かり切ったことだ。でも電信柱はビクともしないから。平気だから。殴ったって平気だ。俺の家にはサンドバックもパンチングマシーンもないから仕方ないよね。スーパーの床で駄々をこねて転がり回っている子供と同レベル。大の大人になっても。こんなおっさんになるなんて子供の頃は夢にも思ってなかった。彼女と付き合っていた頃だって思っていなかった。やっぱりあの病気が悪いのだ。でも病気は殴れない。じゃあ何を殴れば良いんだ。そうだ電信柱だ。でもどうしてだろう。ちっともすっきりしないのだ。やっぱり駄目だ。早く来てくれ。やはり正義の味方のことは正義の味方は助けないのだろうか。
「来いよ! とっとと来いよ! ほら! 何で来ないんだよ」
息を切らしながら、電信柱を蹴る。じん、と痛みが股関節にまで上ってくる。痛くない方の足で蹴ろうとしたら、バランスを崩して倒れてしまった。馬鹿だな。馬鹿なんだ俺は。でも、俺馬鹿なんだよ、って誰に言えば良いんだろう。正義の味方じゃなくて良い。通行人でも警察官でも良い。誰か俺を見つけてくれ。
ゴーンゴーン、と鐘が鳴る。正義の味方の出番だ。やっぱり俺がヒーローになるしかないらしい。俺は血まみれの手でヒーローマスクを被る。
痛みが消えていく。正義の味方は無敵だ。痛みなんて正義の味方には似合わない。足が勝手に動き出す。猛ダッシュで俺は家から離れていく。唐揚げ弁当は電信柱の下で置き去りになっている。食べられる頃には冷めているだろう。誰かが間違えて捨ててしまわないことを祈る。捨てられさえしなければ現代文明の利器、電子レンジがあるから大丈夫だ。現代に生まれて良かった。俺は恵まれている。電子レンジのない土地や時代だってあるのに、俺は電子レンジのある土地と時代で生きることができている。電子レンジを得ている。俺から電子レンジを奪うことはできない。ざまあみろ。
見知らぬ民家の塀をよじ登り、一階の屋根から、開け放たれた二階の窓にダイブした。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
俺は目の前の女が振り下ろそうとした包丁を白羽取りした。包丁を奪って窓の外に投げ捨てる。なんかヒーローっぽくて格好良い。格好付けすぎだろうか。顔が隠れているから余計に芝居じみた言動をしている気がする。ヒーローマスクはダサいけど。
「は? お前何?」
危うく刺されるところだった男が言った。お前が言うのかよ。危機を救われたことにイマイチピンと来ていない様子だった。
「正義の味方だ」
俺は男の顔面に擦り剥けた血まみれの指で殴りつけた。痛くはないが傷が塞がるわけではない。うっかり血が口に入ってしまったかもしれない。あちゃー。これでこいつも正義の味方になってしまう。また世界が平和になってしまう。やっちまったな。
包丁を持っていた女は男を庇おうとしたが、俺はそれを振り払う。男の方を膝で固定し、馬乗りになって顔面を殴る。ジタバタともがいているが俺は今無敵なので効かない。女がめそめそと泣いている。ぺちぺちと叩いてきたが、俺はビクともしない。ひんひんとしゃくり上げている。多分あれはメンヘラだ。メンヘラっぽい鳴き声してるから。ほら、来てるTシャツもそれっぽい。あんなの絶対ヴィレヴァンでしか売ってない。
男の鼻っ柱を血まみれの拳で何度も打ちつける。鼻から血が出てきた。鼻血だろうか。それとも鼻の外側を怪我したのだろうか。鼻の外側からの出血だとしても鼻血というのだろうか。鼻から出たどこまでの血を鼻血というのだろうか。その謎を解き明かすため俺はアマゾンの奥地へと向かった。アマゾンってどこの国だっけ。
ところが俺はメンヘラに悲鳴をあげさせられることになった。焦げ臭い嫌な匂いがして、匂いの元を辿ってみると、思わず立ち上がってしまった。
「これ以上殴ったら、燃やすから」
振り返ると、メンヘラが百円ライターをカチカチしている。明らかに自分の親指も炙っているが気にしていない。狂気の沙汰だ。いや、メンヘラだから自然か。いつの間にか俺のスニーカーの靴ひもがチリチリと焦げていた。それ自体は特にマズいことではない。しかし、俺は痛みが分からない。気が付いたら焼き殺されているかもしれない。それはさすがにヤバい。自分が殺そうとしてた男を守るために見知らぬ男を焼き殺そうとする心理もヤバいけど。
俺は男を蹴り、メンヘラを蹴り、また窓から外へ出て行った。ポツポツと雨が降ってきた。ボロ屋根で雨粒が踊る。俺の唐揚げ弁当どうなってるんだろう。
だんだんと正義の味方の力が抜けていく。いつもそうだ。出てくる時は一気に出てくるのに、抜ける時はビーチボールの蓋が緩んでしまったみたいに徐々にふにゃふにゃになっていく。だんだんと走る速度が落ちてきて、最終的に俺は一人で雨に打たれながら歩く寂しいおっさんになった。ヒーローマスクも外して手にぶら下げる。明らかに不審者だ。電信柱を殴った痛みが疼く。足が痛い。擦り剥けた指はヒリヒリとする。男を殴った痛みは残らない。ご都合主義だ。雨足が強まってきてとりあえずヒーローマスクを傘代わりにしたが、大した効果が得られるはずもなく、肩も足も濡れていく。正義の味方になることでハイになっても抜ければ結局なる前と同じメンタルに落ち着く。弱く、奪われるだけの俺。自発的に他人を殴ったことなんてなかったのに。
気付いてしまった。
正義の味方を呼ぶのは怒りじゃない。暴力なのだ。それもただの暴力ではない。人間への暴力だ。誰かが誰かに暴力を奮おうとした時、正義の味方は呼び出される。幸か不幸か、俺は自発的に暴力を奮おうとしたことがない。優しく生きていたら損をする。へらへらと良い子ちゃんぶっていても、誰も守ってくれない。暴力を奮おうとするクズだけが救われる。元々我慢できる人は、暴力に頼ろうなんて思ったこともない人はただただ虐げられているだけ。正直者は馬鹿を見る。
雨に打たれた唐揚げ弁当を手に取る。俺と同じで唐揚げ弁当も誰にも見つけられなかったらしい。いや、見つけたところで片付ける義理もないか。すっかり唐揚げが湿気ている。雨水だって中に入ってしまっているかもしれない。受け取った時は美味しそうだったのにこんな姿になってしまった。電子レンジも万能じゃないので、唐揚げ弁当を元の姿に戻すことはできない。
良い子にしてたって誰も助けてくれない。良い人でいたって何の得もない。そんなこと昔から分かっていたじゃないか。必死に努力して何事もなく無事に終わった物事は無視され、悪事だけが罰せられる。商売にもよくあることだ。クレーマーの主張だけが受け入れられ、何も言わずに満足している人たちの意見は無視され、改悪が繰り返される。行動を起こせ。黙るな。判断しろ。動け。さもなくば、ただ奪われ、ただ殴られ、死ぬだけだ。
というのは極論だけど、あながち間違っていない気もする。
正義の味方は人々の暴力を引き受ける。受け止めはしない。ただ引き受け、それを受け流す。そして暴力を客観視させる。正義の味方はやはり正義の味方なのだ。勧善懲悪だ。正義の味方は常に弱者の味方だ。暴力に至るほどの不快を強いられた、暴力に頼らざるを得ない弱者救済のために正義の味方は正義の味方たりえる。正義の味方は正義の味方でい続ける。暴力は悪なのだと見せつけるためだけに、耐えきった者が殴られる。いつかこの世界から暴力がなくなるまで、この連鎖は続く。確かにここのところ、殺人事件や傷害事件のニュースを目にしない。正義の味方の効果だろうか。
「いただきます」
誰と一緒でも、たとえ一人でも、いただきますと言うところが俺の良いところだと誰かが言っていた。誰だっけ。俺の妄想だろうか。だって一人でもいただきますを言ってるだなんて誰も知りようがない。そんな言葉をかける人がいるわけがない。バスタオルを首に巻いたまま、しおしおの唐揚げを割り箸で挟む。発泡酒はまだ冷蔵庫の中だ。
大気汚染の成分とか入ってるよ、やめなよ、絶対ヤバいって、と頭の中で誰かが言う。その誰かは彼女であり友達であり家族である。俺の知っている「誰か」のキメラだ。
電子レンジで温められた唐揚げは、思ったより変な味はしなかったが、何となくじゃりじゃりした。誰かが近くを歩いて泥でもかけたんだろうか。
「でも唐揚げは唐揚げじゃん」
俺は誰かのキメラに答えた。じゃりじゃりする弁当の続きを頬張っていく。食べ終わってから飲もうと思っていた発泡酒が不意に飲みたくなって、冷蔵庫に取りに行く。発泡酒の後ろでタッパーが積まれている。色とりどりの蓋のタッパーの中には母親がこの家で作ってくれたものも、恋人と作ったものも、皆で宅飲みした時の残りもある。ちゃんとある。間違いなくここにある。黒っぽい中身のそれらを指でつついてみる。胸の奥で小さな火が灯った。これがきっと愛しさだ。どれも入れた瞬間のことを覚えている。楽しかった。嬉しかった。ありがたかった。ずっとこうしていたかった。
発泡酒を手にとって、俺は冷蔵庫を閉めた。
「赤ちゃんじゃないんだから自分の感情くらい自分でコントロールしなよ」
誰かのキメラが言う。電信柱を殴ったのがそんなにダメですか。俺は正義の味方の世話になったことがないのに。それなら一生赤ちゃんで良いです。生後372ヶ月の赤ちゃんです。ほぎゃー。新生児みたいに快と不快しか感情がなければ良かった。
ピンポーン
ハッと目を覚ます。いつの間にか俺はベッドで眠っていた。もう日が高く昇っている。慌ててシフト表と電波時計の隅の日付を交互に見る。良かった、休みだ。
そして慌てて布団から飛び出し、インターフォンに出る。
「はい」
「宅配便でーす」
寝癖を手櫛でなおしながら玄関へ向かう。マジか。これ夢オチかよ。つまんないやつじゃん。
玄関のすぐ横に置いているシャチハタで押印する。実家からだった。開けると一番上に「HAPPY BIRTHDAY」と印字されたカードが入っていた。裏面に懐かしい文字で「たまには帰っておいで」と手書きの文字が書いてある。今日は俺の誕生日だ。また年をとった。また古びていく。老いていく。どんどん死んでいく。両親から、あの時は悪かった、と何度謝罪されただろう。決して許していないわけではない。俺は少しも怒っていない。むしろ家族を大切に思っている。カードを捨てると、その下には保存のきく食べ物と俺の好きな作家の新刊が入っていた。新刊はもう持っているから要らない。古本市場に売りに行かないと。食べ物は役に立つ。
とりあえずテレビをつける。
「国がしっかり経済が復活するための支援をしないとダメなんですよ。納税ってこういう時のためのものじゃないんですかね」
嫌いなワイドショーだ。深刻な口調で、被害者代表みたいな面をしてタレントがコメントしている。相変わらずだ。あの流行病があってから、いつ見かけても、こういうテンションの話題を飽きもせずに放送している。偶然見たときに限ってそうなっているだけだろうか。それとも、忘れているだけでずっと前からこの調子だったかもしれない。
チャンネルを回す。一通り流してみて、きのこの炒め物をしている番組に落ち着けた。
また誕生日が来た。いくつの時から誕生日が嬉しくなくなっただろうか。最後の楽しかった誕生日は、彼女と過ごしていた気がする。彼女が来て手料理を作ってくれた。たぶん冷蔵庫のタッパーの中にまだその時の残りがある。楽しかったなぁ。「別れよう」と言った時の彼女の驚いた顔が浮かんでくる。分かってたくせに。言わそうとしてたくせに。それともアレか。俺が歩み寄るのを待ってたのか。図々しい。試し行為か。そういうのはうんざりだ。勘弁してくれ。傷付いた顔をするのはやめろ。自業自得じゃないか。
ゴーンゴーン。鐘が鳴る。俺はソファの上に転がっていたヒーローマスクを被る。
あーあ。分かっていたけど、やっぱりこれ現実か。つまんないやつじゃん。
然るべき成果が得られるのはまだ先なんだ。今はまだトンネルの中にいる。止まない雨はない。まだか、まだかと俺は我慢している。頑張っている。
ダッシュでマンションの階段を駆け下りていく。三階まで降りたところで、隣のビルに飛び移る。まるでヒーローじゃないか。いや、正義の味方なんだからほぼ等しい。体が軽い。こんなに体が軽いのは俺が正義の味方だからだ。風を切って俺は走っていく。俺は奪われない。失わない。だって正義の味方だし。イカしてる。イカレてるの間違いかもしれない。まぁ、ともかく、正義の味方は正義の味方だ。俺は俺だ。平気だ。そう、「大丈夫だよ」。
口の中で呟いたその言葉は飴玉みたいにいつまでも転がっていた。
ひょっとしたら、もう誰もが正義の味方なのかもしれない。
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