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#絶対安全剃刀
mangacapsaicin · 2 years
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fumiko takano's absolute safety razor || 高野文子の『絶対安全剃刀』
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amalakamala2022 · 1 year
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amalakamala1万2000字インタビュー
2022年末頃実施のtelementeiko発表時のインタビューを今更ながら公開!
「バンドサークルの先輩は嘘つく」、「〇〇〇〇ーは爆発する」、「なべしゅうは狂犬だった」などのどうでもいい話から、amalakamalaのバンド名の由来やバンドの展望まで。
メンバーから、渡辺周(Vo,Gt)、ヴァイオラ伊藤(Gt)、シバサキ(Ba)が参加。
インタビュアー:わだしんぺい
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――まず今回の3人が、元々同じプログレサークルに所属していて……というところからamalakamala結成に繋がるかと思うので、その辺の話からお願いします。
渡辺周(以下、渡辺) 実は僕とヴァイオラくんとやっていた前身のバンドが微妙にあったんですけど、それは空中分解して。その次にヴァイオラくんと「新しくオリジナルのバンドをやりたいね」ってなって始まったのがamalakamalaなんですが、その時に作ってた曲が、割とシーケンス的なフレーズが入ってる曲で。それが弾けるベーシストがいいなっていうことで、シバサキくんを呼んだんだと思う。
ヴァイオラ伊藤(以下、ヴァ) ベースがDropDの曲だったんですね。それで、「シバサキくん、6弦持ってるから弾けるよね」みたいな話をした記憶がある。
シバサキ(以下、シバ) Pot-pourriも同じ理由で呼ばれた。低い音が出せるって理由で。
ヴァ (笑)
シバ やっぱ6弦ベース持ってると就職先が広がりますね。持つべきものは多弦ベースですよ。でもあの曲、辛かった……
渡辺 初期の代表曲、”Kamisori suite”。
――『絶対安全』?
ヴァ そう『絶対安全剃刀』(高野文子の漫画のタイトル)から(笑)。
渡辺 さっき、ちょっと調べたんですけど、2013年にヴァイオラくんがそのデモをサウンドクラウドに上げてるんですよ。”Traveling Sleepers”とか、”Quadra”が2015年だから、その間の2014年結成になるのかな。
シバ そんなに前なんだ(笑)。”Traveling~”はamalakamalaが出来た後に、「人間椅子みたいな曲を作ろう」みたいな流れで出てきたデモだったと思う。
ヴァ そうね、だから2014年くらいなのかなあ。大学卒業する前だった気がする。
渡辺 サークルでヴァイオラくんとPink Floydの”Echoes”のコピバンをしたのが2014年3月とかなんすよ。それが終わったあとにオリジナルバンドやろうってことになって、4月頃シバサキくんをリクルートしたんだと思う。
シバ それまで僕は、なべしゅう(渡辺)さんともヴァイオラさんともバンド組んだことなかった。
一回もやってないのにいきなり誘われて「怖いな~」と。
――(爆笑)。
シバ しかも、なべしゅうさんが怖い人ってイメージあった。
ヴァ ね! やっぱそうだったよね(笑)。
シバ みんなから「なべしゅうさんはマジで怖い」って。あの時なんか妙に優しく「シバサキくんベース上手いよ~」みたいに言ってきてたのも「コワ~~……」って。
渡辺 なははは(笑)。
ヴァ 当時の渡辺くんはホント、狂犬感があった。
シバ まあ、amalakamalaに入ってから「ああこういう人なんやなあ」と思うようになりましたけど。
ヴァ シバサキくんとはあんま絡みなかったんだよねえ、入ってもらうまでは。
シバ お二人とは、ほぼほぼ喋ったことなかったはず。
ヴァ なかったね、確かに。
シバ コピバンやったのもほぼ無いし。それ以後もamalakamalaしかやってない。
――よくバンド入ろうとしましたね。
ヴァ なんで入ろうと思ったの?
シバ ふつうにやっぱ御二方とも、めちゃくちゃギターヒーロー、ベースヒーローでしたので、「じゃあ、やるか」って感じでしたね。メールで、あのなべしゅうさんから「ヴァイオラくんとファミコンっぽいプログレバンドやろうと思ってます」っての覚えてます。
渡辺 そうかもしれない、忘れてた。
――その時はもう「ファミコンっぽい」ってコンセプトはあった?
渡辺 あったんじゃないですかね。
シバ “Kamisori”がそうだから、ってことだと思う。ピコピコしてるみたいなそういうニュアンスで。
渡辺 まあ、そういう感じでシバサキくんを誘って。他のメンバーの話もすると、Tomtomはヴァイオラくんが兼サーしていたダブ・レゲエのサークルで鍵盤を弾いてた。彼女はポストロックマニアみたいな方で、いい感じの音のシンセを弾いてくれるってことで。草稿くんはPot-pourriのサワヲくんの先輩で、ライブを観に来てくれた時に紹介してもらった。
――amalakamalaのライブで?
渡辺 いや、Pot-pourriのライブですね。僕が昔、特殊発声兼ノイズでPot-pourriにいて、2017年1月23日の池袋手刀に出た時ですね。その頃のPot-pourriって、今より最大の音が超デカい、静寂と爆音みたいな感じのバンドだったんですけど、ライブが終わった後に草稿くん(現在のドラム、ex. For Tracy Hyde)が……なんか、すごい馴れ馴れしい感じで「サイコーだった!サイコーだった!」って言ってきて(笑)。あとなんか傘をブンブン振り回してたりしてて衝撃だったんですけど、それが初対面でしたね。
シバ それって「amalakamalaに入ってくれないか」みたいな打診をした後なんすか?
渡辺 うん、打診してて。
ヴァ それで、草稿くんが来るからって我々もライブ観に行ったんだよね。
シバ ああそうか。
渡辺 今のメンバーはそういう感じだけど、2014年から17年の間はドラマーが安定しないというか、安定しないドラマーが一人いたっていうか。
――最初の頃は同じプログレサークルのりょうこっこくんが叩いてたと思うんだけど、演奏は元より、いるのかいないのか安定してなかった、っていう。
渡辺 そうそう。
ヴァ 存在が安定してなかった(笑)。
渡辺 りょうこっこの逸話は山ほどあるんすけど、今回その話は置いといて……ヴァイオラくんがドラム叩いてた時期も。
ヴァ あったあった(笑)。
シバ ヴァイオラさん、本気でドラムやろうとしててスネアとか買ってましたからね。なのに、その数ヶ月後に「やっぱギター弾きたい」って駄々こねはじめた。
ヴァ (笑)。
渡辺 ヴァイオラくんがアコギでやるんだみたいなアコギ期もありましたね。
ヴァ あった、マーシャルにアコギを突っ込んだ時も。
渡辺 そうそう(笑)。
ヴァ 音、すげえ良かったんだけど、めちゃくちゃハウりすぎて続けられなかった。
シバ 今言われて思い出しました。一回だけですからね。(笑)
ヴァ 一時間ぐらいしかやらなかった。
――「期」とかじゃない(笑)。
渡辺 いや、あの頃はいろいろ頑張ってたけど、ほんとにすごい迷走してて(笑)。「いろんなカバーをやってみよう!」とか言って1回やって「なんか違う……」みたいな話を繰り返してたような気もする(笑)。
ヴァ “Stairway to Heaven”もやったもんね。
シバ T2のカバーとか。
渡辺 それは草稿くんが入ってからだからもっと後。
シバ Camelの”Echoes”。
ヴァ ヴァイオラドラム期だね。
シバ あれ、めちゃくちゃクオリティ高くやってるのにどこにも発表してない(笑)。
ヴァ そうそう(笑)。でも、迷走してる時期に作った曲が今の曲なので、まあ曲作りの時期だったかもしれないですね。
渡辺 2017年くらいからが、ヴァイオラくんも僕も別のバンドで、ライブハウスで活動し始めた時期で。それに合わせてamalakamalaもちょっとだけライブやったりとかもありましたね。
ヴァ いつぐらいだっけ? 「そろそろレコーディングしたいね」みたいな話をしたのは。
――Twitterに挙げてる、草稿くんがプログレッシブファミコンサンバを叩いてる動画は、レコーディングの時だったんじゃ?
渡辺 あ、そうっすね。だから2018年か。
ヴァ そうだそうだ。
渡辺 だから……2018年からずっとレコーディングを、まあやっていると。
――今2022年なので、何かがやっぱりおかしいんじゃないかと思うんですけど。
シバ ははは(笑)。
渡辺 それはそうだと思います。
ヴァ 明らかにおかしい(笑)。
渡辺 要するにけっこう「満足いかないんだけど、満足いかないところが何かわからない」みたいな状態が長く続いてる。でも一応、”telementeiko”に関してはもういいかなと。
ヴァ あれはやり切れるところまでやったんじゃないかな。
――じゃあ、MVを公開した”telementeiko”について。あれはどういうコンセプトの曲なんですか?
ヴァ コンセプトでいうと、デモを作った時に僕がすごい高野文子さんの『絶対安全剃刀』にハマっていて。漫画から受けたイメージを曲にしようと思って出来た曲ですね。元はあの短編集に入ってる『早道節用守』。
――あれ、あの短編集の中では、極めてどうでもいい部類の話だと思うんですけど(笑)。
ヴァ あれは僕も読みどころというか、意味があるかっていうと多分、無いと思ってて。
シバ そうなんだ(笑)。
ヴァ ただ、その世界観ですよね。僕、アジアっぽいものにすごい惹かれてるところがあって。昔の日本とか中国とかインドとか。ああいうところの怪しい雰囲気みたいな。
――ああ、あの漫画の元ネタは山東京伝の黄表紙本で、当時の人が想像した架空の中国みたいな話じゃないすか、確か。
ヴァ そうそう。実際にある国とか時代がモチーフだけど、実在はしないような。
シバ カリフォルニアロールみたいなね。海外の人が考えた寿司みたいな。
ヴァ (笑)。そういう空気を出せないかみたいな感じで作ったデモだったような気がします。けっこうメロディは中華風というか、アジアっぽい旋律って僕の中で考えるとこんな感じだなあってところから作っていて。他にも元ネタがあるんですけど、色々くっつけたらああいう感じになった。
――他のメンバー的にはどういう印象の曲ですか?
シバ ヴァイオラさんの曲は、ベースが打ち込みで、人間が弾くことをあまり想定してないのを無理やり弾く感じで、運指がムズいんですよね。
ヴァ (笑)。一応、僕あれちゃんと弾いて作ってるんですよ。
シバ あ、そうなんすね……。だから多分ヴァイオラさんの曲は、ヴァイオラさんがベース弾くのが一番上手いんですよ。
ヴァ へっへっへ(笑)。
シバ だから嫌なんですよこのバンド。なべしゅうさんもベース上手いんで、ベース超絶上手いやつが二人いるっていう最悪なバンド。
一同 (爆笑)。
シバ それはそれとして(笑)、”telementeiko”はダブっぽいリズムがやっぱムズいっすね。
ヴァ そうね、ダブっぽい感じを出そうと思って。難しいフレーズだけどずっとそれを繰り返すみたいな。
渡辺 フレーズ途中の拍が抜けるみたいなね。
シバ あと……聴いて1年2年くらい、サビがどこだかまったくわかんなかったんすよ(笑)。僕がサビだと思って弾いてたところ、まったくサビじゃなかった。
ヴァ ちなみにどこなんだっけ、サビだと思ってたのは?
シバ あの、ジャーチャーチャー…(口でフレーズを言う)。ベースだとドゥートゥトゥートゥー…(口でフレーズを言う)あれサビだと思ったんすけど(笑)。
渡辺 あれサビでしょ。
ヴァ 違うよ。あれ間奏だよ。
シバ (笑)。ヴァイオラさんだけその次のターラーララーラーラ…
ヴァ ラーラーラー…
シバ が、サビだって言ってて(笑)。
ヴァ どう考えてもあそこがサビでしょ。
シバ 信じられなかった(笑)。でも、Tomtomさんは別のバンドでもヴァイオラさんと一緒にやってたから「ヴァイオラのサビ感みたいなの完璧に把握してる」みたいな発言をしてて、それが印象的でした。
――MVだとどの辺り?
渡辺 2分16秒くらいの、ピアニストみたいなのが登場するとこです。ヴァイオラくんの思ってるサビはその後なんだよね。
ヴァ うにゃうにゃうにゃ~ってなってるとこなんだけどね。
渡辺 そうそうそう。これちょっと面白くて、曲調的にはあそこでちょっと落ち着くというか、盛り上がりが落ちるんだよ。
ヴァ あっそうか……君たちのサビで盛り上がるのは、そこがサビだと思ってたからだね。
渡辺 いやまあ、サビの定義にもよるんだろうけど。一番音量的に盛り上がってるから。
ヴァ 音量的には、まああそこでひと盛り上がり来るよね。
シバ 僕がサビだと思ってるところの、ベースの気持ちよさはめちゃくちゃいい曲でしたね(笑)。
ヴァ ベースラインはあそこが一番。それはね、間違いではない。
シバ うん。ベースのサビだと思って弾いてる。
ヴァ 気持ちはわかる。曲のサビではないけど。
シバ (笑)。僕とヴァイオラさんしかわからない感覚の話をしている(笑)。
――じゃあ渡辺くんからも曲に関しての印象を。
渡辺 今、話にあったように、ダブとかファミコンとかプログレとかサイケとか、あとエスニック要素とかいろいろなものが合体してる感じが面白い曲ですよね。ギターとかシンセで言えば、譜面の割り方が少し特殊でリズム的にも面白かったり。YouTubeで曲の感想をいただいたりしてて、普通にサイケデリック・ロックとか、今日は「ニューエイジ風味のKing Crimsonっぽい」とか言われたり。友達からはブラックメタルのSighっていう日本のオリエンタルな感じバンドを思い出したとか、そういう話とかも聞きました。自分のギターに関していうと、ディレイとファズにディレイかけてサイケ感をより出したというか、そういうのはあるかもしれないですね。まあまとめると、いろんな要素がある、ということで(笑)。
――なるほど。じゃあその流れでPVの話もお願いします。
渡辺 フリーで使えるStable DiffusionってAI画像作成ソフトみたいなのがあって、それを元にしたDeforum Diffusionっていう動画を作れるものを使ってますね。僕が音楽を聴いて受け取った印象とか、音楽性みたいなところからワードを選んで動画生成していて、例えば「歌川広重が描いたUFO」ってので、月が2つ見えるシーンが出来てたり。ちなみに最近、UMA研究家みたいな友達から「月が2つあってなんだろうと思ったらUFOだった」みたいな話を聞いたんですが、まさにそれが出来ててちょっとびっくりした。
ヴァ 面白い(笑)。
渡辺 他にも「ジャングルの中のサイバーパンクシティ」とか「空飛ぶペット」とか「ジミ・ヘンドリックス」とかいろいろあるんですが、映像から作成ワードを想像するみたいな楽しみもある気はしますね。
ヴァ 僕は特に何も指定はしてないんですけど、渡辺くんの作った映像と、自分の脳内で想像してる映像とすごくリンクしたものが出てきてびっくりした。
渡辺 AIはバグった感じというか、あり得ない組み合わせを作れるの面白いですね。「サイバーパンクシティを浮世絵風に」するとか。
シバ そもそも映像のクオリティめちゃくちゃ高いですよね。音楽とも親和性高くて、最高のMVが出来てしまったと思った。ていうか、MVを作るって言ってから出来るのがけっこう早かったですよね。半年もかからなかった。
――他のプロジェクト基準で考えると爆速。
シバ そう(笑)。音源と比べたら信じられないペースで出来てる。
ヴァ 音源も、もう早く出しゃよかった感はありましたね。
渡辺 いや~でも、一番ベストなタイミングで出せたと思うよ。時間はかかったけど。
――では、他の曲のレコーディングの状況について聞ければ。
ヴァ まあまず、僕らはファーストアルバムを作っていて、その中の”telementeiko”って曲を先行でリリースしたんですけど、ほぼほぼ録り終わってるのがあと2曲あります。
シバ Artspace Aeorusのコンピレーションに入ってた”Quadra”と”Traveling Sleepers”っ曲をバンドアレンジで再録したものです。
ヴァ コンピとは構成が変わってたり、ボーカルが入ってるバージョンになってます。
シバ その3曲は、ほぼほぼ録り終わってるんですけど、まあ微修正を4年、5年、10年と……(笑)。
ヴァ 熟成した感じあるよね(笑)。
渡辺 いや、まあでも進んでます大分。かなり終わりは見えてる。
ヴァ それ3年前くらいから言ってるよね(笑)。
シバ 気持ちの問題なんだよなあ(笑)。
渡辺 いや違う、細かいところを何回も聴いて直してるからね。
ヴァ ギターのテイクとかもけっこう4年間の内でちょこちょこ変えたりしてるからね。
シバ そうなんですか。知らなかった。
ヴァ “telementeiko”だって最初アコギ入ってなかったけどカエたんだよね。
シバ あ、そのテイクまでは覚えてます。去年ぐらいやってましたよね?
渡辺 今年また録り直したよねアコギは。あと、”telementeiko”に関しては、ドラムをもっとダブ化する計画があって。今の段階でもドラムに相当エフ��クト入れてるんですよ。シバサキくん知ってた?
シバ ていうか一時期ハイハットにめちゃくちゃフェイザー掛かってませんでした?
ヴァ 掛けてたけど、なんかやりすぎたからちょっと削ったのかな。
シバ そこに耳が行き過ぎててむしろエフェクト減ったなと思ってました僕は。
ヴァ (笑)。
渡辺 そうフェイザーね。あれとかけっこう面白いよね。
ヴァ けっこうダブの常套句で、「ハイハットにフェイザー掛けるとかっこいいんだぜ」っていうのを当時ダブサークルの先輩から習いました。
シバ その人がホラ吹いてたら終わりじゃないですか!
――『バンドサークルの先輩』って基本的に嘘しか言わないから。
ヴァ 「ベリ○ガーは爆発する」とか。「それは巷ではベリ○ガーボムって呼ばれてる」とか。
シバ ははははは(笑)。
――ベリ○ガーに失礼すぎる。
渡辺 いや、サウンドレファレンスでNew Age SteppersとかDRY&HEAVYとかでのフェイザーの掛かり具合をけっこう確認したはずで…うん掛かってますよ(笑)。
ヴァ ソースありっていうことで。ドラムはやっぱりレコーディングしてくれてるヤミニさんもすごいこだわってくれてて。
渡辺 けっこう攻撃的な音だよね、アグレッシブな。
――そういえばヤミニさんにお願いしている経緯は?
渡辺 色々レコーディングで、曇ヶ原もさかさ族もやってくれてたから。
ヴァ ライブも観てくれてて、レコーディングする前からamalakamalaを認知してて応援してくれてたというのもあって、ヤミニさんに是非お願いしようって自然な流れで。
――その録り始めてもらった時期から言うと、大分原型残ってないんじゃないかっていう。
シバ フランケンシュタインみたいな感じですよ。3、4バージョンを全部継ぎ合わせて、その都度新しいバージョンがちょこちょこ入ってくるみたいな感じで。
ヴァ レコーディングで思い出したけど、僕らって「プログレッシブファミコンサンバ」って言ってるじゃないですか。でも、曲自体は全然サンバじゃないんですよ。
渡辺 あれねえ。覚えてるのは、「プログレッシブファミコンサンバ」にしようって俺が言ったんだよね。
ヴァ 確かレコーディング中に発案したんだよ。
――サンバ要素はどこから?
渡辺 つまり、ベースがちょっとChick Coreaの”Spain”みたいな、サンバっぽいフレーズになってるんですよ。それでスタジオで「ドラムもああいう感じでやってみたらどう?」みたいな話をして、やってみた動画があれです。
シバ でもあれ、動画で草稿がサンバキック出来てないから別にサンバではないっていう。
一同 (爆笑)。
シバ 音数がめっちゃあるからわからないけど、なんちゃってサンバドラム。俺もサンバ出来ないからなんちゃってサンバベースだし。
ヴァ シンバルとスネアのパターンがちょっとね。サンバっぽいっていうだけ
シバ 「音源にはしないでおこう」みたいな話もしたんですよね。バカすぎるっていうか、意味がわからないから(笑)。レコーディングは普通にやって、ライブだけ入れるバージョンにしようってことにしたんですが、それ以降ライブはやってないのでお蔵入りです。
渡辺 確かにそうかもしれん。
ヴァ だからホントは「プログレッシブファミコンダブ」とか言ったほうがいいかもしれないんですけど、ダブよりもサンバのほうが語呂がいいからファミコンサンバなんですよ。
渡辺 想像上のサンバ。
ヴァ 「俺の思うサンバ」っていう(笑)。
――telementeiko的な(笑)。バンド名のほうはどんな感じで決まったんですか?
ヴァ シバサキくんとか呼ぶ前からamalakamalaって名前だったよね。
シバ いや違います。バンド会議があって、その時に「“Kamisori suite”って曲をやってるからカミソリって名前でいいんじゃない?」って話が出てたんですけど(笑)。センチメンタル出刃包丁みたいでパンクバンドっぽすぎるからやめようって話をしてたら、なべしゅうさんがなんかamalakamalaっていきなり出してきたんですけど、覚えてます?
渡辺 いや、覚えてるっていうか明確にあるんだけど(笑)。こういう機会だから説明しとくと、まずアマラとカマラっていうのは、狼に育てられたインドの双子の名前なんですけど、その時、野生児みたいなのに興味があって。つまり、ロックを演る人って幽閉された地下とか、野外でやったりするから、野生児ってイメージと親和性があるなと考えてたんですよね。でも、カスパー・ハウザーとかだと、ちょっと寺山修司的な感じというか「そういうバンド」みたいになっちゃうじゃないですか。
シバ 怒られるぞ(笑)。
渡辺 僕の意向としては、もっとお里がわからなくて謎な語感のものがよくて、amalakamalaを推したっていうのがありました。響き的にもダウンタウンみたいな感じで。
シバ (爆笑)。
ヴァ 語呂もいいよね。
渡辺 英語でもない日本語でもないインド系の言葉なのもいいかなって。
――でも、僕と多分ヤミニさんは、アマラカマラで連想するのってあぶらだこなんですけど。
渡辺 そうなんですか(笑)。
――あぶらだこの、しかもだいぶ初期のポジパン期の曲で”WHITE WOLF”っていうのがあって。歌詞が「アマラ、カマラ」しか無いっていう。
渡辺 そうなんだ、知らなかった(笑)。
ヴァ 図らずしもパンクバンドになっちゃった。バンド名決める時の話、ほとんど覚えてないな。
シバ 「カミソリだけはやめよう」って意見出した記憶だけはあって。
ヴァ 多分、カミソリがいいねって言ったの俺なんだよね(笑)。まあ、確か他にも色々あった中で、amalakamalaが一番しっくりきたんだよね。
――じゃあちょっと話題を変えて……amalakamalaはギターが2人いるバンドですけど、それぞれの役割分担みたいなものを教えてもらえれば。
渡辺 多分、割とフリーキーなものを弾いてるのが僕で、ヴァイオラくんが堅実なものを弾いてるってのはあるのかもしれない。ホントは逆のほうがいいのかもしれないけど。
シバ バッキング然としてるほうがヴァイオラさんですよね。
渡辺 まあ曲によるんだけど。
ヴァ “telementeiko”では渡辺くんが今言った役回りなんですけど。
――いわゆるリードギターとバッキングギターみたいな感じで。
渡辺 けっこう、これといったものがあるというよりは。この曲はコレで行こうみたいな感じで決めてるのが正確なんじゃないかって気がします。ただ、各々の嗜好が出るって感じはあるかなと。ヴァイオラくんのギターは、トラディショナルなハードロックとかブルース・ロックとかを基調にしてて、リズムもものすごく安定していて、かつオールドなカッコいい音で、かつアルペジオがすごい凝っていて、聴いてたら別にそんなに難しくなさそうなフレーズなんだけど、やってみるとめちゃくちゃ難しいフレーズみたいなのがけっこうあって、すごいギターですよ。100点だよ。
シバ 言わされてるんすか?
渡辺 いやあ(笑)。
――自分との差で言うと?
渡辺 なんすかねえ…いや~やっぱ左手の使い方とかすごいっすよヴァイオラくん。コードを弾きながらルート変えたり、テンション入れたりとか、そういうちょっとの工夫が真似しづらいんじゃないかなって気がする。
――ライブで弦切れててもそのままアルペジオ弾いてたり。
渡辺 確かにそれもそう、耳がすごく良いですからね。アルペジオはヴァイオラくんの専売特許的なところあると思う。
ヴァ それはまあ得意不得意というか。amalakamalaでは、アルペジオは自分で考えたやつは自分で弾いてる。”telementeiko”のイントロとかもそう。
――じゃあ逆に、ヴァイオラくんから見たなべしゅうのギター。
ヴァ 渡辺くんとは、けっこうルーツ的なところは近い気がすると思うんですけど、僕ってスケールとかコードでアウトすることがすごい怖いんですよ。でも渡辺くんは割とアウトするタイプで、自分では思いつかないことをやってることが多くて。”telementeiko”とかも半音ずつ上がったり下がったりしてるとこがある。それって多分ふつうはやっちゃいけないような弾き方なんだけど、あの曲にはすごいそれが合っていて。彼のそういうアイデアは僕にはないものを持っている。
渡辺 不協和音を聞きすぎて耳がおかしくなっただけかも(笑)
ヴァ その不協和音に関する感覚がやっぱり絶妙だなあと。
渡辺 聴く音楽もポストパンクとかレコメン系とかの現代音楽寄りというか、不協和音の多い音楽がすごい好きだから、そういう感じはあるのかもしれないね。
ヴァ 二人で好みは被ってるんだけど、被ってないところもあって、そういうところの良さがすごく出ていると思う。
渡辺 でもヴァイオラくんの曲も、けっこう半音で動くところたくさんあるよね、コード進行的に。
ヴァ あんまり意識してないけど、それを上手く広げてくれてる。多分。
渡辺 うんうん。助け合いでした
ヴァ (笑)。
――シバサキくん的には2人のギターはどういう感じですか?
シバ ヴァイオラさんに関してはアルペジオの話に繋がる話と思うんですけど、コード感がすごい独特っていうか。『Animals』を聴きまくってる人なんだなあって。
ヴァ (笑)。
シバ Pink Floydっぽい変なコード進行の気持ちよさがあって、その感じがすごいカッコいいなと思いますね。なべしゅうさんは、ちょっとジャズ寄りというかブルージーな感じというか。あと、飛び道具的な機材をめちゃくちゃ使いますね、なべしゅうさん。ディレイとか音響とか空間系のやつ使ったりとか、モデリングギターみたいなの使ってたりとか。そういうガジェット的な部分でも、ヴァイオラさんとなべしゅうさんの違いがあって、そこは面白いかなあと。
ヴァ 確かにね。
渡辺 僕Line 6のアンプシミュレーター買ったんでね、amalakamalaのライブやる時はね、将来的にアンプなくそうと思ってるんでよろしくお願いします。
ヴァ じゃあ俺、三段積みにする。
一同 (笑)。
――では最後にまとめということで、3人から今後の展望を聞かせてください。
渡辺 とりあえずレコーディングを完成させるが一つですよね。あとは、例えば今回PVを出したんですけど、普通のバンドではしないようなことをガンガンやってくっていう方向性に振れてもいいのかなと思ってて。ライブハウスにガンガン出て、色々対バンして……ってのも一つのやり方なんですけど、PV作ったり海外の人とやり取りをしたりとか、そういうところに可能性を見出していくありなんじゃないかなって思ってる。国内だけで観るとプログレってマイナーみたいな扱いをされてるけど、Pink Floydって世界的に売れてるバンドじゃないですか。僕、イギリス行った時にPink Floydの話したら、現地の女の子とかが普通に”Wish you were here”とか歌い始めて「うわ、文化ちげえ」って思ったことあるんですよね。国内でも、コロナが始まってから一番最初に来日した外国のバンドがKing Crimsonだったみたいな話もあったり。だから先鋭的なバンドこそ普遍性がある気がしていて。amalakamalaも変にマイナーと思いすぎず、けっこういい線いくんじゃないかなって考えがちょっとある。そういうところを踏まえつつ、ワールドワイドに活動していけたら理想的ですね。
ヴァ 僕としては、まずアルバムを出そうってのが先決。それで、先々としてはやっぱり曲を増やしていきたいなっていうのがある。
――今は合計で何曲くらいあります?
ヴァ ライブですぐに出来るのが4曲。もうちょっと詰めれば出来るのが、2曲くらいあるのかな。
渡辺 いやでも”Kamisori”があるでしょ?
ヴァ “Kamisori”は、ちょっと今のままでは出来ないんじゃないの?
渡辺 出来るじゃん、普通に。え、何か変えたいとかあるの?
シバ 喧嘩しないでよ(笑)
渡辺 いやいや、喧嘩じゃないけど問題は炙り出しておきたい。
ヴァ まずあの曲を今の編成でやったことがないから、そのままやるかどうかってところ。まあそれで言うと、すぐ出せる曲は4曲だけど、”Kamisori”もやろうと思えば出来るし、”Raise”も出来るのか。だからライブやるくらいのストックはあるんだよね。
シバ 40分のステージでも、まあいけるかな、くらいの感じではある。ライブ呼んでくれということで。
ヴァ ただ、当然いいライブに出たいなっていうのはあるけど、それよりは曲を作って、ちゃんと完成させて発表させていくっていうほうが、どっちかというとやりたい。
渡辺 そうそうそう。一方で、この3人以外のメンバーがめちゃくちゃ忙しそうっていう問題があって、それがけっこう大変だよね。つまり、「久しぶりにスタジオ入ろうぜ」って言っても、この3人しか集まらなさそう(笑)。
ヴァ だから極論を言うと、スタジオに入らずいきなりレコーディングから始めちゃってもいいと思うんだよね。曇ヶ原の曲とかも割りとそう言うのがあるんだよね。
渡辺 そうだよね、それでもいいと思う。アルバムを完成させて出せば流れが作れるんで、ライブとかは全然しなくても、僕はいいけどね。
ヴァ してもいいし、しなくてもアピールしていく方法があるっていう意味では、渡辺くんの意見には賛成。で、思ってるのは、渡辺くんがすごくいい映像作るじゃないですか。今回の3曲とか全部映像つけて、一つの作品として3曲それぞれ出してもいいのかなと。
渡辺 全然いいよね。
ヴァ ていう意味では、アルバムを出すのも映像を出すのも、曲のストックが必要だなあと思ってますね。
渡辺 まあ今回録音したので、間奏曲とか加えるかもしれないけど。一応アルバムは作るけど、他の曲とかを最優先にしたほうがいい気はするよね。
ヴァ そうそう。で、これを勝ちパターンみたいにして、バンドのやり方にするのがすごいいいのかなと思ってる。映像にしても、ライブを撮影するより映像作品を作って観てもらうほうがクオリティの高いものが出せると思うんだよね。それで、レコーディングだったら一度に集まらなくても出来るわけじゃん。ライブを前提にしちゃうと、みんなでリハに入る時間が多分取れないけど。
渡辺 まあそうするしかないよ、基本は。多分、そのまま普通にやってくとライブオファーとか来るようになると思うけど。そんなたくさん出なくてもいいかなって気はしてて。
ヴァ ライブをやることを目的にしなくてもいいかも、ってところですね。
渡辺 まあでも、僕デカいライブハウスにいつか出たいと思ってるんで。野望はある。
ヴァ 企画に出ればいいんだよ。
渡辺 自分たちの企画をメインでやりたいみたいなのはありますね。僕ライブハウスに出すぎて、食傷気味になってしまったところが正直あるので。普通に昼のワンマンとか、なんかいい感じで午後も遊べるんだみたいなのがいいですね。
シバ みんな色々考えてて、すごいなあと思いました。まあ個人的には……いや、さっさとアルバムを出したほうがいい。
一同 (笑)。
シバ そういう難しいことを考えずに、アルバムをまず出す! いっぱい出す! また不満が出てきたら再録する! 回してく!これがamalakamala!! 観とけよお前ら!!!
渡辺 正論だ(笑)。
ヴァ シバサキくんが締めてくれたよ、その通りだよね。とりあえず俺たちがamalakamalaだってのを知ってもらわないことにはどうしようもないんだよ。
シバ 今回“telementeiko”を出して、けっこうPVもいい感じに伸びてて、実際、世界レベル目指せるいいバンドなんで……なんで作ったものを出さないんだってのを僕は5年間くらいずっと思い続けてきたので、早くやっぱ出したい。
渡辺 ほんとに申し訳ねえ。俺のエゴでした……
シバ 100%いい作品って作れないから80%でも早く出したほうがいいってのは、やっぱ思いますけど。まあ作業していただいているんで、僕は無責任に言ってるんですけども。
渡辺 いや、出したほうがいいとは思ってるので、ちょっと今年で最後にしたい。それはでもね、バンドメンバーの温かい応援が必要だよね。
ヴァ どんだけ応援してると思ってるんだよ~~!
シバ Twitterでamalakamalaで検索したら一番つぶやいてるの俺だぜ!
ヴァ 次が草稿くんでしょ(笑)。まあ俺もシバサキくんもお前は最高だと言ってるので、落とし所を作ってください、今年中に。
シバ ヤクザなの?
渡辺 落とし前をね。いや、ボーカリストってのは難しいわけよ。単純に。
ヴァ 渡辺くんさあ……じゃあ例えば、俺が突然代わりのボーカル連れてきたらめちゃくちゃ怒るでしょ。
渡辺 いや、怒んない。一応「話は聞くよ」みたいな感じで接すると思う。
ヴァ 怒れよ!!
シバ めんどくせえカップルの会話聴いてるの俺らは?
(その後、2023/6/17からBom6yx numataが新キーボードとして加入)
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anamon-book · 8 years
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絶対安全剃刀 高野文子作品集 高野文子 白泉社
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saritamix · 2 years
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出産
7/20
まずは誘発分娩を試みるため子宮口を拡げる処置をした。お風呂に入れなくなるのでこの日は10時頃にシャワーを浴びた。
11時過ぎ、内診で指を奥まで入れられる。せいぜい1cmくらいしか開いていない。この段階でもう泣き叫ぶほど痛い。ラミナリアという棒を3本入れられる。絶叫して泣く。
医師は「夜にバルーンを入れるけどこれよりは痛くないからね」と言った。マジか。それからいつも通り時間に追われる生活をし、ラミナリアを抜いてバルーンを入れた。お腹の中が痛い。腰も痛い。下半身すべてが痛い。自分の声も汚い。夫と通話しながら痛い痛いと泣く。夫の電話先では義実家の声が聞こえてきた。頑張れという声が聞こえたような気がするが、全く嬉しいと思えない。むしろ腹が立つくらい。誘発分娩舐めてた。もうこの時点で心が折れかける。
7/21
7時前後、助産師が入室し着替えるように指示される。体重測定をし荷物をまとめLDR室へ入る。モニターをお腹、両腕には血圧を下げる点滴と促進剤を入れる点滴、左腕には自動の血圧計が付けられる。
8時前後、点滴で水を入れられる。砕けるような腰の痛みと闘いながら血糖値測定をする。
9時過ぎ、産科医が来てバルーンを抜かれる。回診やエコーをやってくれる産科医は複数人いて、この時の人は苦手な医師だった(お腹のエコーもガンガン押し当ててきてめちゃくちゃ痛かった)。子宮口に指をガッと入れられたけど、私があまりに痛がったせいかすぐに抜いて助産師に「子宮口の開きを見といて」と言って早々に立ち去る。無性に悲しくて惨めな気持ちになる。眼鏡越しのあの冷ややかな目、怖い。
10時過ぎ、点滴は少し動くだけでピーピー鳴るからなかなか落ち着かない。スマホも満足に触れない。寝返りもモニターが付いているからなかなか出来ない。動く度に腰が痛い。頻尿だからトイレに行きたくなる。トイレに行くにはいちいちモニターを外して貰い、点滴を持ってドアから歩いて離れたトイレに行かなければいけない。そして尿はいつも通り溜めないといけないのでいちいちカップを取らなきゃならない。腰の痛みに耐えつつ椅子から降りてノロノロ歩きながらトイレに行く。点滴が両腕に2つあるので助産師の補助がないとトイレにも気軽にいけない。人間としての尊厳がガリガリに削られている気分。
12:45 血糖値測定とインスリン注射と昼食。ここでも時間が来たら血糖値測定を自分でしなければならない。その度に体を起こすのも辛い。
13:20促進剤増やされる。両隣の部屋からは産声が聞こえた。いいなぁ。私も早く産みたい。終わりたい。
途中から余裕がなくなり、時間と内容のメモをとるのをやめた。20時過ぎまで上記のようなことを繰り返した。もう何かに縋るような気持ちで過ごしていた。結局破水せず陣痛も来ずでお産には至らなかったので、またバルーンを入れられて明日の朝に再度挑戦ということになった。
前向きに頑張ると言ったのに頑張れていない無力感でいっぱいだった。
7/22
8時過ぎ、バルーンを抜いて子宮口の拡がりを確認される。せいぜい2cmくらいらしい。絶望的な気持ちになる。12時くらいまでダメなら帝王切開になることも考慮すると言われ(子宮口の様子を見つついけそうなら継続する可能性あり)絶飲食になる。お腹は空かない。ただ、喉の乾きが段々酷くなり辛くなる。お腹の痛みは昨日より強いのに陣痛が来る気配がない。喉がカラカラなのにトイレには行きたくなる。トイレに行く時に助産師に喉の乾きを訴える。トイレでうがいのみ行って良いと言われうがいのみ行う。これをあと3時間以上、もしくはそれ以上耐えなくちゃいけない。そう考えたらクラクラした。
13時前、心と体に限界が来る。あんなに生きたいと思っていたのに。辛すぎて夫にしにたいとメッセージを送る。号泣していたところ産科医が入室。1番好きな医師で涙腺が崩壊する。もう無理、耐えられないと泣きながら訴える。医師は優しく、でも少し残念そうな顔で「帝王切開にしよっか」と言った。せめて腰の痛みがなければもう少し頑張れた、と言うと「充分頑張ったよ」と言われ更に泣く(7/25のMRIで分かったこと。お尻の骨辺りに微細な骨折の治りかけの跡があったらしい。骨折していたから助産師のアドバイスの何をしても改善せず、激痛だったのかもしれない)。
13時30分に帝王切開を行うと言われ、バタバタと手術の準備が始まった。寝たまま剃毛されて手術着に着替えさせられた。その後、ストレッチャーに移され急いで手術室に運ばれた。産科病棟を出る時、別の助産師に励まされる。正直、怖いという気持ちは全くなく安堵感でいっぱいだった。色んな人から貰った優しい言葉だけを頭の中で何度も何度も反芻させていた。私も帝王切開で産まれたし大好きな友だちもフォロワーさんも職場のあの人もみんな頑張って乗り越えている。だからきっと大丈夫。
オペ室の前で1度止められる。助産師がオペ看に引き継ぎを行っていた。アレルギーの有無や歯について等、いくつか質問をされる。その後オペ室に入室。オペ看は説明をしながらずっと私の手をさすってくれていた。きっとものすごく恐怖を感じていると思われているんだろう。麻酔科医も入室してきた。「適宜状況を説明しますから安心して下さいね」と言ってくれた。状況の説明をしてくれるのは本当にありがたかったし、LDR室にいた時とは大違いだと思った。あの部屋にいた時は助産師が1名または2名ずつ機械的かつ定期的に入退室を繰り返し、色々な処置を行っていた。基本的にこちらから質問するまでは詳しい説明はしてくれず、ただ淡々と作業をこなしている状況が恐ろしくて苦痛だった。
麻酔を背中に3本ほど入れる。針は痛いけどじわじわ下半身の感覚がなくなってくる。尿カテーテルを入れられた。痛くない。腰の痛みも全く感じない。嬉しい。執刀医は私の好きな医師だから何も心配していなかった。
オペ中は必要最低限の会話以外ずっと無言のイメージがあったが、執刀医含め周りは普通に雑談を交えながらオペを行っていた。それも私に安心感を与えた。横にいる麻酔科医やオペ看に自分から雑談を出来るほど冷静だった。10歳頃に木から落ちて全身麻酔4時間の手術を行ったこと。その時の自分の方が弱音を吐かず頑張っていた記憶があるので、入院してからずっと頑張れていない自分に対して情けない気持ちを持ち続けていたこと。そんな話をした。
麻酔をしてもお腹をグイングイン押されたりグニョグニョされる感覚がすごかった。痛くはないけど変な違和感。麻酔科医がその時その時を教えてくれたけど、気持ち悪い感覚だなと思った。
14時13分
赤ちゃんが取り出され産声が聞こえた。肺はちゃんと完成されていた。良かった、と心から思った。小児科医が横に赤ちゃんを連れて来てくれた。赤ちゃんの皮膚は赤く、しわくちゃの顔で泣いていた。この子が本当に9ヶ月間も私の中にいたのか。なんか不思議な気持ち。
触れても良いと言われたので手や足に触れる。この感情を上手く表現出来る言葉が見つからない。ただ、涙が止まらなかった。早々に赤ちゃんはNICUに連れて行かれ、私の縫合の処置が始まった。ここから先はあまり覚えてないけど意外と時間がかかるな、寒いなと思った。処置が終わりリカバリー室に連れて行かれる。体が寒くて仕方ない。温風が出る機械で温められ、その後部屋に戻って寝かされた。両足には血栓防止のポンプらしき機械が取り付けられる。ちょっと気持ちいい。
部屋に戻され1人の時間になれたので、夫・友だち・家族等に出産の報告をした。
その後、小児科医から夫を今日呼べるか?とお達しが入り夫を呼び出す。NICUへの入院手続きを行ったらしい。
夫も私も直接会えないが、zoomで赤ちゃんの姿を見ることが出来た。夫によく似ているなと思った。
その後、眠気が来たので眠った。
尿カテーテルを入れているのでトイレに行く必要がなく、麻酔が効いているので腰の痛みも全く感じない。入院してから1番快適に眠れた夜だった。
その夜、入院して初めて安らかな夢を見た。赤ちゃんの口元にキスをする夢だった。キスをした後『あ、虫歯菌が移る。ダメだ…』と思ったら、赤ちゃんは嬉しそうにニコッと笑ってくれた。それだけでとても幸せな気持ちになれた。
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2022.07.22
35w 4d 2356g
午後2時13分
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leblog400 · 2 years
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liliyaolenyeva666 · 3 years
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📛 1386 「空手バカ一代」 #4, 5, 6。
テレビの中で 「空手バカ一代」 がはじまりました。今回は 「天狗と少年 (第4話)」 というお話です。電車に乗り、安房小湊駅で下車した アスカケンは 先週読んでいた “宮本武蔵” のやうになろうと、ひとり山の中 (奥州清澄山) で修行をはじめます。1年の月日が流れ、漁村では 山の中で 天狗と鉢合わせになるとかどうとかといった、奇妙な噂が流れているさうです。そんな中、森のどこかで ふたりの少年が キノコ拾いをしています。「天狗?そんなものいるわけない」 と少年。カラスが大勢集まっている場所に遭遇したふたりのうちのひとりがこわくなって逃げ出します。「ちっ、弱虫が!」 と、強虫な少年。沢山の バキッと折られた大木が目の前に広がっている場所に遭遇してしまった彼は思わず 「まさか!本当に天狗が!」 と呟き、そして 「あっ!」 と 仮面ライダー並みのジャンプ力を持った 空手着を着た青年が、跳んだり跳ねたり木々を飛び移ったりしながら木々を折ったり拳をぶつけたりしている光景に動揺します。「これは一体!」 と少年。「とわっ!」 と修行に励むは 空手着を着た長髪のアスカケンです。1年が経って あまりのイメージチェンジに誰だか分からなくなっています。「天狗じゃねえ、あれは山男だ」 と 天狗ではないことが分かった少年。「すんげえや」 と 目の前の山男に慄く少年。「あれは天狗よりすげえや」 と 天狗より上のいきものって何だろって考えさせる少年は アスカケンの側で じいっと アスカケンの魂の修行を見つめています。そんなアスカケンは ここのところ、滝で蹴り技の特訓をしたり (蹴りで 滝の水を とわっ!と切ります)、棒きれの両端に 大岩を結び、バーベルに見立てて歯を食いしばりながら持ち上げたり、大雨の中 うさぎ飛びでぴょんぴょん跳ねたり、吹き荒れる風の中で 修行のし過ぎでせうか、木から木へ ほぼターザンか狼少年ケンのやうに成り果てたり、腕力づくりのため、絶壁を足をつかわずに登ったり、親指一本での逆立ちを練習したりしています。「くっ、んっ、やったー !」 と、親指一本で 逆立ちが出来るやうになったアスカケンは 「よーし、この調子だと歩けるぞ」 と、逆立ち歩きが出来るやうになりたいみたいです。「うまい、うまいぞがんばれ!」 と こっそり見ながら ついつい声を漏らす少年に 「誰だ!何だこどもか、こんなところで何をしている!」 と 少年に喧嘩腰で叱り付けます。「おねげーだ、弟子にしてくだせえ先生っ!」 と少年。彼の回想シーンによると、行商をしている母は 元締めの “ボルネオのトラ” と呼ばれているらしい チンピラの親分に 上前を撥ねられて困っているやうです。ある日、荷を担いで出たのに何処にもいないおっ母を 小湊駅で ウロウロしながら探していた少年は ついぽろっと口が滑って おっ母が チンピラを通さずに行商をしていることをバラしてしまいます。なんて話しを “心” と壁に書いてある部屋の中で静かに聞くアスカケン。少年の名は “ミツル” というやうで、ミツルの為に グローブを買ってきたおっ母は チンピラらに捕まり、ひどい暴行を受け、地面で気絶してしまいます。そんな回想を終え、アスカケン先生は 「坊主はそれで空手をやりたいのか?」 と ミツルに尋ね、そして ミツルに空手を教えられない “3つの理由” を語ります。第一に “空手はそんなやつらをぶちのめすための道具ではない” と、先週まで やくざの用心棒だった者の台詞とは思えないやうなことを言い、第二に “年季がかかる” と、空手は ファミコンの “カラテカ” 並に さう易易とマスター出来るものではないと言い、第三に “母が喜ばない” と、元も子もないやうなことを言い放ちます。それに 「俺は修行中の身だ!俺に構わんでほしい!」 と、逆ギレする始末。口をあんぐりと開けて何も言えないミツルとともに お知らせに入ります。お知らせが明けても 修行中の身なアスカケンは 「ふんっ、てゃぁーーっ!」 と 森の木を痛めつけています。次から次へと 木をぶちのめすアスカケン。そんな超人的な先生を見ながら、見様見真似で木を殴るミツル。そんなミツルを見て 「あれほど言ったではないか!さあ帰れ、ここは子どもの来るところではない!」 と 森林破壊ぎりぎりな男に 帰れ帰れと言われ続けたミツルは涙します。それから いつかの日に “安房小湊駅前” で集まっているチンピラ共に 鎌を持ってタタタっと駆け、親分に襲いかかったミツルは 親分から “なかなかの根性だ” と 変に認められ、中華そば屋で 饅頭なやうな食事をご馳走されます。さらに 親分から グラスの中いっぱいに詰め込まれた札束を掴まされ 「親分って案外だなー」 なんて言いながら 顔を赤らめて親分に惚れ込みます。そんなころ、親指ひとつで逆立ち歩行に全力を注ぐ アスカケンは、親指逆立ちが出来るやうになります。喜びのあまり ミツルの残像まで浮き出してしまうアスカケンは 「あの坊主、どうしたかな」 と ちょっと気になってしまい、村人に尋ねたりしながら ミツル宅に裸足で向かいます。玄関を開けて 裸足の空手着姿の天狗マンを見て驚くミツル母ですけれど、そんなミツル母から ミツルの現在を聞いて驚くアスカケン。あれからどれだけの月日が流れたのか よく分かりませんけれど、ミツルは義務教育もどこへやら、お祭りの場でテキヤ商売をしています。「おい坊主、話があるんだ」 とアスカケン。「坊主、家へ帰るんだ」 とアスカケン。グレたミツルは 「理屈ばかりで何もしてくれない天狗とは大違いだ」 と、ほぼチンピラの仲間入りをしています。上前を撥ねるチンピラに苦しめられている人がいるんだぞ!と理屈天狗は ミツルを説得しますけれど 聞く耳を持たないミツル。とそこへ、ふんどし姿の親分 (赤ふん) と子分ら (白ふん) が現れ 「天狗?」 と聞き返します。こどもをぶん投げて喜んでいた親分は アスカケンに土俵で勝負しろ!と無茶な勝負を仕掛けます。売られたケンカは ついつい買ってしまうアスカケンは ふんどし一丁になり (白ふん)、ミッチー呼ばわりなミツルが見守るなか “ボルネオタイガー対天狗の里” の勝負がはじまります。互いに掴み合い、いい勝負が続きますけれど、投げ技でボルネオタイガーを ドガっと地面に叩きつけたアスカケンは 襲いかかってきた 子分を次から次へと投げ飛ばします。「もういないのか?」 と まだまだ余裕なアスカケン。どこからともなく 皆はドスを構え、アスカケンを囲むやうにじりじりと近づいていきます。そんな中で アスカケンは 「見たか坊主」 と、卑怯な手しか使わない輩どもに向けて 「こんな奴らが かかってきたときだけ空手は使っていいんだ!」 と 空手の誤った使い方をミツルに叫び教え、バッタバッタと チンピラらを余裕で ぶちのめします。「いぃー!おぼえてろ!」 と赤ふん親分。ミツルを見捨てたアスカケンは 「アハハハハ、すまなかったな。俺ももう少し考えればよかった」 と、少年のジンセーを危うく台無しに仕掛けたかもしれないのに アハハハハと笑い飛ばします。と、そこへ 相撲大会の関係者から米一俵が届きます。相撲大会の優勝賞品なやうです。「そのつもりで出ればよかった」 と、天狗先生。ひょいと米俵を左肩に担いで アハハハハハ と笑います。"さよなら" と 両目から涙するミツルと別れ、新たな課題に進んだ アスカケンは、手刀による自然石割りに全神経を注いでいます。パッと実写映像に切り替わったりしながら、自然の石は硬くて硬くて 手で割らうなんて考えは 狂気の沙汰だったとナレーションの声が聞こえてきます。
つづいて
テレビの中で 「空手バカ一代」 がはじまりました。今回は 「新しい出発 (第5話)」 というお話です。「俺は自ら求めてバカになるんだ!」 と、いきなり凄い台詞を飛ばすアスカケンは 先週のおさらいのやうな修行をせっせと 山を破壊しながら励んでいます。けれど、無性にさびしくなり、山を下りやうと思ったりした 少しおセンチな気分に浸ったアスカケンは、これではいけまいと 剃刀で ゾバッと右眉を剃り落とします。セーシン的にヤバミンなアスカケンの誕生です。「アハハハ バカの顔だ!空手バカの顔だ!」 と 空手だけではなく、風貌までおそろしくなってしまったアスカケンは 「73、74、75、76!」 と親指立て伏せに全神経を注いだり 「空手の戦いに助走はない」 と、助走なしで キングダムの主人公よりも高く飛んだり、相も変わらず 木々を破壊したりと 敵に回すと手に負えない感じです。さらに 「85、86、87、88 、91!」 と親指立て伏せの回数を増していくアスカケン。「いゃあー!」 と 雪降り積もる山の中を 親指逆立ち歩きで ガッシガッシと歩むアスカケン。彼は 自ら “最終試練” と強く思い込んでおります、先週の終わり間際に挑み挑んで敗れて終えました、日本の空手史上誰も成し遂げていないらしい “自然石の手刀割り” に再び挑みます。が! 「割れないっ!」 らしいアスカケン。「とことん勝負だ!」 とアスカケン。翌る日も翌る日も自然石を割るアスカケンは 蝉が鳴く季節になっても ひたすら自然石に手刀を浴びせています。手が割れないのが不思議ですけれど、そこには悩まず、瓦や煉瓦は割れるのに 自然石は何故割れないっ!と考え込むアスカケンは ある日 「しかし割れる!見える!」 と、突然にジオングを駆るキャスバル兄さんのやうなことを言い出します。「いやあー!」 と気合いを込めての一撃で 見事石を真っ二つに割ったアスカケン。不意に現れた 実写映像も石を割っています。「やりました、やりました!武蔵先生!」 と、宮本武蔵先生は 石を割ったり 割らうと思ったりしたことがあったのか無かったのか、その辺りはよく分かりませんけれど、とりあえず 先生に石割りの報告を済ませたアスカケンは 山を下りる決意をします。何となく古本屋から持ってきていたらしい “宮本武蔵 (数冊平積み)” に別れを告げるアスカケン。「ハハー 何年ぶりの街中かなー!」 と、山に篭ってから何年もの時が過ぎていたことに驚いてしまったわたしですけれど、町の小僧どもに 空手着一つでぶらぶら歩いているところを囃し立てられます。そんな ふざけた小僧に ふざけ半分で投げられた石を スパッとキャッチしたアスカケンは、側にあった木製の電柱に拳をお見舞いします。恐れ慄き 逃げ出す小僧たち。「ふふふ、お山の天狗さまか!」 と いかしたニックネームを付けられることが好きなアスカケンは 電柱の拳の跡を見つめ 「なかなか出来る!」 と渋い台詞を吐いた おじさんに後をつけられます。「あのう、何か御用ですか?」 とアスカケン。今週は つけられていることに気づいたやうです。アスカケンと稽古をしたいと おじさん。「あんた、いったい誰ですか?」 と アスカケン。おじさんは 漁師らしいです。「しかし、一分の隙もない」 と おじさんは並の漁師ではないことを察するアスカケン。何となく おじさんの家に案内されます。「はっ!これは!」 と おじさんの家の入り口に立て掛けてあった 穴だらけの畳を見て驚くアスカケン。「すごい!すさまじい抜き手!」 と アスカケン。砂に ぶっさぶさと両手を突き刺す 実写映像が流れます。強烈技であるやうです。実写映像を終え、砂浜で稽古をはじめるふたり。お互い すり足でじりじりと距離を狭めていきます。「ぬわああああー!」 っとアスカケンに向かってくる おじさん。飛びかかってきたおじさんに 「よし!今だ!」 と、何がよし!今だ!なのか教えてくれないまま お知らせに入ります。お知らせが明けると 「いくぞ!てやあーー!」 と 手刀と蹴りが 空中で激しくぶつかり合あうとしているところから始まります。「とおーーーっ!」 とアスカケンも雄叫びを上げて タイガーショットを決めるか決めないかの瀬戸際です。と突然に 「あゝ待って!お父さん、やめてください!」 と、ピンク色っぽい着物を着た娘さんが 何処からともなく現れて ふたりの稽古を中断させます。家に寄って行かないかと おやじさんからお誘いを受けたアスカケンは 「あ、はい」 と 一泊させて貰います。お酒を交わしながら “戦後初の全日本空手選手権!” という新聞記事を アリマさんというお名前らしい おじさんに見せられ “戦争で果たし得なかったわしの夢” を語られ “共に出場してみんかね?” なんて誘われて心がうずうず疼くアスカケン。「うーん、うまい!」 と タダ酒飲みに関しても超一流なアスカケンは お猪口で ぐいっぐいっとお酒を飲んだあと、柄にも無く 夜の浜辺で物思いに耽っています。「全日本空手選手権か」 とアスカケン。「檜舞台で力を試してみたい!」 とアスカケン。とそこへ 先ほどの娘さんが ふらっと現れ、空手の試合に出たがってる父をどうにか止めてほしいとお願いされます。アリマおじさんの娘、タエさんは 父親の空手に大反対しています。漁師の仕事を辞めて空手の練習ばかりな63才を “やめさせてください!” とタエさん。「しかし!」 とアスカケン。「堪忍してください!俺には俺にはどうしても出来ないんです!」 と アスカケン。カラテカがカラテカにカラテカの空手を辞めさせやうとすることの難しさに苦しみ悩むアスカケン。若い人の中で選手権に挑んで本当に勝てませうか?とのタエさんの答えに悩んでしまったアスカケンは 「もう夜が明けたのか!」 と答えを見出せないまま 朝を迎えます。おやじさんを説得する方法は 何となくわかっているアスカケン。勝負をして、おやじさんの “夢を叩き潰し諦めさせる” という おやじさんのドリームを叩き潰す方法のみは思いついたアスカケン。が、しかし おやじさんの、あの “抜き手の技” を破るための方法を 脳内シュミレーションしたところ、彼の指をすべてちぎり吹き飛ばすという計算結果が出てしまい 「いかん!悲しませたくない!」 と 今週も悩みます。という訳で、そんなやうな話を それなりに話してタエさんを泣かしたアスカケンは 「その漬物石をください!」 とタエさんに尋ねます。急に その漬物石をください!と言われてもと戸惑うタエさんに 「まあここで見ていてください」 とアスカケンは 「とおおお!」 と 庭の真ん中で 漬物石をガパっと割ります。この 日本の空手史上誰も成し遂げていないかもしれない、漬物石の手刀割の割り様をおやじさんに伝えればきっと すっぱり諦めてくれるだらう!と、なぜか走って逃げて姿を消したアスカケン。「おそるべきわざだ」 と その様を見ていたっぽいおやじさん。列車に飛び乗ったっぽいアスカケンは 「あなたの分まで俺は戦ってみせます!」 と心に決め、1947年、京都の円山公会堂で開かれた 第1回全日本空手選手権に出場します。北は北海道から南は九州まで 48名の猛者が技を競い合うこの大会は “手刀による瓦割り” から始まります。最低瓦を8枚割らないと失格になるらしいこの競技、皆が皆 様子見の8枚割りに挑むなか、いよいよアスカケンの登場です。が、しかし!アナウンサーと 空手5段の解説者から “まったく聞かない名” なんて言われてしまう ダークホースなアスカケン。そんな知名度0なアスカケンは 瓦17枚割りに挑むやうで、周囲から笑われたり 「やつはバカか!」 とか 「こんな男はカラテカではない!」 なんて言われてしまいます。
つづけて
テレビの中で 「空手バカ一代」 がはじまりました。今回は 「爆発した野生 (第6話)」 というお話です。白熱する “第一回空手選手権大会” で 17枚という瓦割りに挑戦するアスカケン。「とわぁっ!」 っと 右手を大きく振りかぶって 高く積まれた瓦に ビシッと一撃���喰らわすアスカケン。7、8枚は 割れずに残っています。見せかけかと周りに笑われるアスカケン。かと思ったらバリバリと割れていく瓦。17枚割りに成功したアスカケンに アナウンサーも だらりと汗を浮かせています。さてさて、第二試合と言うべき 勝ち抜き方式の “組手の部” がはじまりました。相手の身体と紙一重でなければならないこの試合、相手の身体に触れると 反則負けまたは失格減点になるさうで、実写映像の組手を流しながら、その紙一重なテクニックの凄さを見せつけます。そんな中 「すれすれの先に変化が無いやうではカラテカではない!」 と、すれすれの先の変化探しを始めてしまいさうな勢いのアスカケンは 九州の鬼と呼ばれている選手 (四段) との試合に挑みます。「はじめっ!」 と審判。後ずさるアスカケン。お互いの攻撃は バッチバチと めっちゃ身体が触れ合っていますけれど、透かさず 強烈な一本勝ちで勝利したアスカケンは 「力をセーブしなければ相手の頭を蹴り込んでいた!」 と、100%で戦ってしまうと 相手を再起不能、もしくはこの世から消してしまうかもしれないという恐怖に打ち震えます。「けだもの生活で 俺の中には野獣が棲んでいる!」 と、ヤクザの用心棒だったり、森の中で眉毛を剃って笑ってみたり、宮本武蔵に熱中していた生活がけだもの生活だったらしいアスカケンは 「俺の中の野獣をなだめ、人間のルールで戦うんだ」 と、人間のルールで勝負に挑みます。と、そこに 優勝候補ナンバ (五段) が試合に挑みます。「俺より遙かに経験豊かで華麗な技を見せる」 と つぶやきながら試合を見つめるアスカケン。目を瞑り 「くそー!」 と叫ぶ アスカケンは 「強い選手を見ると飛びかかって噛みつきたくなる!」 と、即反則負けが確定するやうな思いに悶え苦しみます。とりあえず 流しで顔を洗って 頭を冷やすアスカケン。次の試合、ベラボーに強いアスカケンは すぐに一本勝ちで勝利し、次の試合 (準々決勝) も すぐに一本勝ちで勝利します。そんな強すぎる無名な長髪男を 「技は鋭いが荒い」 と解説者。「強いことにはたしかにバカ強い」 と 難しいことを言う解説者。次なる準決勝戦も、互いに大空中戦を繰り広げるものの、 7、8秒の離れ業で相手を一本勝ちで倒すアスカケン。そんな ガンダムよりも強さうなアスカケンを見て だらだらと冷や汗を流す控え選手たち。「あんな選手が現実にいたのか」 と、観客席の中の学生服を着た少年が声を漏らします。さて、いよいよ決勝戦が始まります。ナンバ (五段) 対 アスカ (三段) の対決です。ひとまずお知らせに入り、明けると アスカケンの姿が見当たりません。「決勝戦に尻込みしたのでは?」 とアナウンサー。そのころ 「くれぐれも用心しなければ」 と、またまた 流しで顔をじゃぶしゃぶと洗い流していたアスカケンは 「野獣よ鎮まれ、落ち着け!」 と流しの上に写る鏡の中のアスカケンを見つめています。とそこに、学ラン姿の青年が現れます。「ん?わたしを呼びに?」 とアスカケン。学ラン姿の青年に 「応援しています、頑張ってください」 と励まされたアスカケンは 「いやあ、どうもありがとう」 と少し照れます。会場に向かう アスカケンを見て 「巌流島にコジロウを待たせたムサシのやうだ」 と学ラン青年。そんな遅刻気味なアスカケンの決勝戦がいよいよ始まります。開始早々 天高く飛び上がりライダーキックを浴びせるアスカケン。お互いに一歩も譲りません。ナンバの攻撃を躱しながら 「速い!鋭い!」 とアスカケン。「アスカさんのほうが押され気味だ!」 と 先ほどの学ラン青年。「焦るな、焦ったら俺の負けだ!」 と攻撃を緩めたアスカケンに ナンバの上段突きが アスカケンの左のこめかみに直接決まります。攻撃を受けた反動で 透かさずカウンターを決めてナンバをぶっ倒したアスカケンは 「噛みつかれて、俺の中の野獣が抑えきれず、飛び出してしまった」 と、無意識に攻撃の手が出てしまった己を呪います。互いの反則と軽くノビてしまったナンバに 試合は一時中断、"日本空手道 第一回大会 大会規則" では アスカケンの得点勝ちなのではないでせうか?と尋ねるアナウンサーに アスカケンの反則負けを主張する ナンバ贔屓な解説者。アスカケンの空手を邪道呼ばわりしたり、ケダモノ呼ばわりしたりと とことんまでアスカケンを認めないやうです。審判員の審議の結果 “異例の処置、10分間の休憩後 試合再開” となります。身構えるナンバに対し、正座したまま動かないアスカケンは 「孤独な日本一、孤独な日本一」 と、日本一になる前から 孤独な日本一になっている自分のビジョンを ホワワワワンと浮かばせています。「相手が挑んできたからには とどめを刺す!心の師 武蔵先生のやうに」 と、とどめを刺す気満々のアスカケンは 試合開始と同時に、いきなりのハイジャンプからのライダーキックで とどめを刺しました。「一本!」 と審判。「負けた」 とナンバ。「勝った」 とアスカケン。家の置き場所にとても困りさうな 巨大なトロフィーを授与されたアスカケンは 「これが空手日本一か」 とやや不満気です。一撃必殺の空手がこめかみに炸裂したのにも関わらず 命を落とさなかったことに 何故だ!と疑問を感じたアスカケンは 一撃必殺の空手で命を落とさなくて良かったね、なんて思ったりせずに、一撃必殺のカラテカを目指さうと 心に誓います。
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140-not-enough · 4 years
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古→長も長→古も古↔長もぜんぶ好き
手に入れた古長本を少しずつゆっくり読んでいます。距離感遠めの古長もいいしエロいことしてる古長もいい…さいこうだな…
悲しいのはすでに感想の送り先がないこと…全盛期にハマっていたら伝えられたのかな〜と思うととても申し訳ないです。でも巻末のコメント(古長好き!とか愛!とか書いてある)を読んでめっちゃやる気をもらいました。絵を描く度にまだまだだな…と自分に凹むんだけどやっぱもっと古長描きたい! 好きだ!
とりあえず今描いてるエロをどうにかします。手とか足とか難しくてなかなか線画にたどり着けないんだ…
Kindleで古典部シリーズを一気買いしました。ほら、もうすぐ入院だから…と言い訳しつつ買ったのにすでに読み始めてます。やっぱり面白い〜! 昔図書館で借りて読んだけど、電子でも手元にある方がしっかり読み込めていいなあ。
ついでに「米澤穂信と古典部」も購入。これもめっちゃ良いです。奉太郎が行く喫茶店「パイナップルサンド」、ブランキーっぽいな…と思ってたら本当に元ネタブランキーだったのが嬉しかった。見せびらかしてーたー見せびらかしてーるー。
あと古典部4人の本棚も良かった! 特に摩耶花の漫画本棚…クドリャフカの時の衣装も「!」と思ったけど、地球へ…、大島弓子、藤子・F・不二雄のSF短編、人魚シリーズ、わたしは真悟、絶対安全剃刀…そしてこいつら…! 私自身も少中高でこれらの作品にハマってたのでめちゃくちゃ興奮しました。でもこういう作品好きだとそりゃ漫研内でちょっと浮くよな…とも思いました。とりあえず私は摩耶花と漫画の話をしてみたい。
最後にプチトマトの写真を載せます。
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プリプリのツヤツヤ
おっぱいに見えるかおしりに見えるか、解釈が分かれそうなプチトマトです。
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buriedbornes · 5 years
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第37話 『白き山脈にて (1) - “屍術団"』 In the white mountains chapter 1 - “Necromancers”
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冬、雪深い季節に、エレドスティ山地に足を踏み入れる者は少ない。
麓に住む数人の狩人が、備蓄が尽きてやむを得ず食料を��めて入山するばかりである。
仮に入山しようとする者がいたとしても、無関係の者の多くは、そうした者達を自殺志願者として扱う。
そのため、道案内など頼まれようものなら、道連れを恐れ、誰も首を縦に振る事はない。
しかし、今回だけは、事情が違った。
多くの無知蒙昧な麓の村民達にとって、屍術師の集団などなおさら忌避すべき余所者だ。
私自身でさえ、置かれた状況の変化がなければ、そうした連中と同じように門戸を閉ざし、その冒涜者達と直接まみえることさえもなかっただろう。
しかし今、私は彼らと旅程を共にし、馬車に揺られながら、エレドスティの中腹へと向かっている。
村から半日ほどかけて、馬車は間もなく野営予定地に到着する。
幌の端を軽く捲って外を覗き込むと、麓の村が放つ灯光が白い斜面の先にぼんやりと小さく視界に映る。
あれは、滅びゆくものが放つ、最後の光だ。
私はその村の姿を遠目に見るごとに、死にゆくものを看取るような気持ちを抱いていた。
私が、妻や、老いた両親や、幼い我が子を看取ったときと同じように。
この冬の寒波は一層強く、そして何より、山が牙を剥いたのだ。
それは、自然の力強さだとか、野生動物の活動だとか、そういったものとは性質の異なる、この世のものとは思えない悍ましいものだった。
被害者の多くは、暗く虹色に発光するタール状の痕跡だけを残し、腕一本さえも帰ってくる事はなかった。
被害者こそ数人に留まったが、村の狩人達は完全に萎縮してしまった。
被害者達の末路を知る者はいないのだ。
誰だって、得体のしれない怪物に連れ去られ、どんな悲劇が待ち受けているのかわからない魔境に足を踏み入れるくらいなら、餓死した方がマシと考える。
私自身も、気持ちは同じだった。
狩人のワットと言えば、村で知らぬ者もいないほどの狩りの名手と謳われたものだ。
それが今では、屍術師達の手先に成り下がった、とでも言うのか。
それでも、良いじゃないか。
どうでも良かったのだ。
家族は皆、餓えて死んだ。
あとは私も後を追って、皆の待つ場所へ逝くだけだったのだ。
そこに、彼らがやってきた。
他の村民には門前払いされたそうだが、私はそうはしなかった。
相手が誰であろうと、誰が家に来ようとも、もう、どうでも良かったのだから。
この連中が帰ったら、その後自死しようか、とまで思っていたのだ。
しかし、悪魔は囁き、私は応えた。
エレドスティ山地の案内料は、今どき珍しい、金貨で支払われた。
これだけの金貨があれば、都市廃墟の闇市場に行けば、幾らでも食料を買える。
死なずに済む、生きられる。
そう思ったとき、はじめて死ぬ事が恐ろしくなったのだ。
村民達はきっと私を、家族を見殺しにした死にぞこないとして軽蔑するだろう。
金も分けずに、一人で屍術師達に取り入って生き延びた、裏切り者。
なんとでも言えば良い、それでも私は生きたいのだ。
そして連中は、この冬を越えられず、一人の例外もなく息絶えるだろう。
だから、あの灯光は、死にゆくものの光なのだ。
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私だけが、彼らの訪問を迎えたのだから、私だけが、生き延びる資格を有していたのだ。
屍術師達は、馬車を引き連れて現れた。
手綱を引き、二頭の馬を巧みに操るのは、意外にも女性だった。
はじめ御者席に座る彼女を遠目に見たときに、巨漢と見紛うほどの長身であった。
肩口で切り揃えられた銀髪の先が、黒いコートに縫い付けられたフードのファーに埋もれていた。
雪のように白い肌と切れ長の瞳が、妻に似ていると思った。
名を名乗り挨拶した私を一瞥し、彼女はそっぽを向いてしまった。
仲間との会話から、彼女はアリーセと名乗る事がわかった。
直接門戸に立ち交渉を持ちかけてきた男は、ライツと名乗った。
彼に対して抱いた第一印象は、”普通”だった。
特徴のない顔、伸ばし放題の髪をくくり、肩に垂らしていた。
ヒゲだけは丁寧に剃刀を当てているようだったが、それが逆に無個性さを強調しているようにも思えた。
鈍色のローブの中は見えなかったが、この寒い中でも厚着はしていないようだった。
交渉中も始終抑揚のない発声で、事実のみを淡々と述べていた事が印象的だった。
一方で、交渉が成立し、馬車から飛び降りてきた男は、逆の印象を与える人物だった。
男はジョゼフと名乗り、狼狽する私の掌を強引につかみ、白い歯を覗かせながら握った手を雑に振った。
短く刈り込まれ撫でつけられた髪と猟犬のような端正な容貌は、都会の社交界で幅を利かせていた男前の紳士達とやらを思わせた。
体のシルエットに沿ったハンター用のジャケットとキャップを着こなし、身振り手振りから��取りが感ぜられて、人に見られる事を強く意識しているだろう事が、余計にライツとの違いを際立たせたように思う。
馬車にはこの3人が乗り込んでいた。
そして、馬車の荷台の脇に積まれた、曰く有りげな大袋、5つ…
彼らが何の集団なのかを知っていれば、その袋が何を入れたものなのか、容易に想像がつく。
とはいえ、私はそのことを口に出す事はなかった。
袋は完全に密封されているようだったし、雪深く積もる山中においては、匂いが漂う事もないのだろう。
私は、荷台に設えられた簡易椅子の、一番外側に座していた。
その隣で、ライツが姿勢良く揺られていた。
ジョゼフは、あろうことかその死体袋の脇に鞄を放り、枕にして横になっていた。
アリーセは幌の外、御者席で馬車を進めていた。
道中、車輪の音だけが響いていたが、沈黙に耐えかねた私の質問に、ジョゼフが丁寧に答えてくれた。
彼らは”屍術団”を名乗り、人類の勝利と復興を標榜しているらしかった。
私はつい、随分安直な名だと言ったが、ジョゼフは「俺達にとっちゃ、名前なんてどうでもいいんだよ」と笑った。
屍術師達が集まり、この災禍をもたらした地底の王とやらを屠るために、各地に散在する様々な知識や技術を集め、日夜戦いに耽っているとの事だった。
組織には他にも多数の術士達がいるらしかったが、この3人のように少人数でグループを組み、任務に当たる事が多いとも聞いた。
その日を生きる事ばかりで精一杯の私にとっては、まさに雲の上のような世界だった。
彼らがどれほど恐ろしいものと対峙しているのか、想像する事もできなかった。
ただ、山中で村民が出くわしたような怪異も、彼らにとってはきっと、容易く解決してしまうような日常茶飯事なのだろうなという事は想像できた。
矮小で無力な人間には、自分で自分の未来を決める事すら叶わない。
私のようなただの狩人には、運命は変えられなかった。
己の手で己の運命を決められると信じる彼らの存在は、とても羨ましいと思った。
だから私は、仲間が消え去った山へと登っていく馬車の中でも、不思議と落ち着いている事ができたように思う。
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幌の外から馬の嘶きが響き、揺れが収まる。
馬車が目的の野営地に到着したのだ。
私は術士2人を促して先に降りてもらい、続いて地上に降り立つ。
長い時間揺られ続けていたせいか、降り立った直後に軽い目眩を感じ、私は思わず荷台に寄りかかってしまう。
エレドスティを登る道は、ここで途切れている。
車輪で踏み込めるのはここまでで、ここから先の斜面と険しい岩肌は、馬車で立ち入る事はできない。
この窪地の開けた荒れ地は、露出した土中に含まれる塩分のために雪が積もらず、狩人達が夜通し狩りを行う際にも野営のため頻繁に使われていた。
疎らに立った木の陰を見れば、ロープの切れ端や布切れが散見され、過去にここを使った者達の痕跡が確認できた。
おそらくは私自身が最後に山に登ったときに焚いた焚き火の跡もそのまま残されていた。
ライツは窪地に降り立つが早いか、すぐに石灰の白墨で荒れ地の地面に何かの図形を淡々と描き始めた。
アリーセは馬車の荷台と幹の太い手近な木をロープで手早く括り付けると、荷台に積まれたあの忌まわしき袋を次々とライツの描く図形の脇へと降ろし始める。
ジョゼフは、同様に馬車の荷台奥に積まれていたであろう折りたたみ式の椅子を取り出すと、図形の目前に揺れのないようしっかりと固定し、その上に深々と腰を下ろすと、懐中から取り出した帳面を熱心に読み込み始めた。
三者三様に、これから始まる探索に向けた準備を始めていると素人の私にもすぐに判断できた。
一方で、私自身はというと、明確な目的を持って動く3人を前にして所在なげにウロウロと図形の周囲を歩き回っていた。
時折、荷物を運び出す途中のアリーセの通り道を塞いでしまい、舌打ちされ、慌てて脇に避ける場面もあった。
やがて一通りの荷物は出し終えられ、図形を描くライツの手も止まった。
ジョゼフはそれに気づき、帳面を畳み懐中にしまい直すと、両手のひらで顔を2,3度強く打ち付けた後、気合を入れるように言葉にならぬ声を発し、ライツに声をかけた。
「やろうか、リーダー」
「急くな、結界が先だ」
そう答えたライツは、ブツブツとなにかの呪文のようなものを呟き始めた。
間もなく、光の筋がライツの指先から放たれると、窪地の周囲に積もっていた雪がその光を反射して輝き出すと、やがて私の視界はぼやけ始め、窪地全体にまるで靄がかかったかのような景色へと変じた。
「ワットさん。この窪地から外には決して出ないように」
「アンタ一人で死ぬ分には勝手だが、俺らまで見つけられたら困るからな」
ライツの説明を、ジョゼフが物騒な形で補足する。
アリーセは相変わらず無言のまま、腕組みをして山頂の方角を凝視していた。
ジョゼフは腰掛けた椅子の上で胡座をかくと、目を瞑り、頷く。
それを認めたライツが先程とは異なる呪文の詠唱を始める。
地面に描かれた図形が仄かな光を放ち始めると、アリーセが傍らの袋をひとつ軽々と抱えあげて、円形の図の中央に丁寧に横たえ、また元の位置へ帰る。
やがてライツの呪文に呼応するように図形の光は力を強め、やがて袋そのものが発光を始める。
あまりの眩さに、思わず手を翳して光を遮った。
次の瞬間、嘘のように光が去り、ライツの詠唱も途切れた。
ライツは図形の中央に歩み寄ると、袋を固く封じていた紐を丁寧に解いた。
すると、ああ、これがこの、悍ましき屍術師の業だと言うのか。
袋の中から、頬の肉が破れ、奥歯が露出した顔が覗く。
男の死体が、独りでに起き上がり、地面に手をつき、気怠げに立ち上がった。
ボロ布だけを身にまとい、体のあちこちが綻んで皮膚の内に秘めた真紅の筋肉が覗いている。
遡った胃酸が喉を焼いた。
臭いなどはない。
ただ、その悍ましさ、涜神的な情景に、心が悲鳴を上げていた。
「ジョゼフ、行けるか?」
ライツが死体に声をかけている。
当のジョゼフは、椅子の上で項垂れて、返事をしない。
直立した死体の喉がひゅうひゅうと鳴り、軽く咳払いをひとつ、そして地の底から響く呻きじみた声が発せられる。
「いつでもいけるぜ」
これが、今のジョゼフなのだ。
そこで項垂れた青年は今、ここに立つ死した者の身にその心を宿しているのだ。
耐えきれず、私はその場に吐瀉する。
馬車の中で受け取った林檎の残骸が荒れた土に撒かれる。
「おい、しっかりしてくれよ。ここからがアンタの仕事なんだ」
死体が、その見た目に反した軽口を私に向ける。
一見滑稽にすら見える、この世のものとは思えぬ一幕。
脳の奥の方が、急速に痺れて鈍磨していくのを感じる。
死体は、その立ち上がった時とは別人のような軽快な足取りで、早々に靄の結界の外へと駆け出して、そのまま見えなくなった。
ライツがその姿を見届けると、再び呪文を唱え始める。
やがて、靄の中に、鮮明な幻像が浮かび上がってくる。
風のように過ぎ去る山地の景色。
まるで、崖や岩場を駆ける猫科猛獣の瞳に映るものを覗き込むようだ。
やがてその視界は、今我々が立つこの野営地を見下ろす位置で止まる。
「視界、声、問題ないか?」
やまびこのような声が耳の中に響く。
「問題ない。ワットさん、あなたにも彼の視界と声が見聞きできているか?」
ライツの問いは非常に奇妙なものであったが、首肯する以外になかった。
ここからが私の仕事…
たとえ彼らが屍術に精通し恐るべき力を行使できたとしても、この山の地理には不案内なのだ。
だからこそ、この山に精通した案内人を、この山に生きてきた狩人を求めたのか。
震えが止まらない。
もう前に進むしかない。
これを選んだのは、自分だ。
生き残るための代償。
こうして図らずも、私は屍術師達の戦いに巻き込まれる事になった。
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~つづく~
※今回のショートストーリーは、ohNussy自筆です。
白き山脈にて (2) - “エレドスティ山地"
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
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ophelia333k · 2 years
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2022年6月15日
 眠らずに朝の6時を越えて、すっかり日が昇ってきてしまった中、Oasisの「Moning Glory」を聴いていた。
「All your dreams are made
お前の見た夢というのは全部、
When you're chained to (your) mirror with (your) razor blade
お前が鏡と剃刀から抜け出せなくなって出来たもの
Today's the day that all the world will see
それを今日こそ世界中に見せてやれ」
 最初の歌詞からもうかっこいいのだけど、「モーニング・グローリー」とはアサガオの種から抽出される、LSDに似た成分であり、そういえば青井硝子さんの『雑草で酔う』でもアサガオの種で幻覚が見えるという話はされていたから、こんなところで接続が起こるんだ、と驚いた。
***
 生きている中で一番楽しいと思える時間って、睡眠薬を飲んですべてが曖昧になって現実に夢が混入して夢に現実が混入しているようなあの感覚、状態かもしれないと、思う。というのも、結局のところ生活をしている時間のほとんどは何らかの不安に追われている状態なわけだけど、睡眠薬が効いているときはすべてが曖昧になって不安の感情なんて消え去って、躁に近い状態になる。何もかもができてどこへでも行けて何にでもなれるような気がする時間。
 曖昧な幻覚が空中には見えるし、文字列は波打っていて立体みたいに浮き上がってくるし、身体はふらふらで、だけど身体がふらふらであることとは対照的に、魂の方は普段よりも遥かに軽くなれている気がする。
 
 ***
 大森靖子の首を絞める夢を見た。もちろん自分は大森靖子の曲を弾き語ったりライブに行ったりするようなファンなので、特に恨みがあるわけではないけれど、とにかく大森靖子の首を絞めた。状況としては、自分は何かの組織の中に潜入しないといけなくて、その入り口の部屋には大森靖子がいた。そして、自分はドラえもんに出てくる秘密道具「透明マント」を被って隠れながらその部屋に入ったのだけど、色々あって大森靖子にぶつかってしまう。そのとき、自分は透明だからだれにも見られるはずもないのに、ぶつかってしまったことによって、彼女の瞳が自分の方へと向く、「ここに何かがいる」という眼と、自分の眼が合う。
  その瞬間、透明で絶対に気づかれないはずの自分の眼を彼女に見られてしまったことでパニックになってしまって、「いまここで殺さないと全部が失敗する」「いまここで殺さないと全部が失敗する」という思考が何度も繰り返されて、気が付いたら、大森靖子の首を絞めていた。大森靖子は必死に抵抗をして自分の首のところに手を添えているものの、私が首を絞める力には逆らえないみたいだから、どんどん首は締まっていって、もう少しで彼女が死んでしまうことが、彼女の表情や手先の感覚、絞めている時間から、何となく分かる。
 人の死、自分の手でか細い首を絞めてただひとつしかない命を不可逆的に奪ってしまうこと、そこで、どうしようもないくらいに怖くなってしまって、彼女が命を失うか失わないかのギリギリというところくらいで首から手を離した。
***
 最近、東浩紀の『存在論的、郵便的』を読んでいて、そこで紹介されていた、言語についての「コンスタティブ(constative)」と「パフォーマティブ(performative)」という区別は、かなり明快でいい概念だと思った。たとえば、「私は結婚している」という言明は、それが正しければ真だし、間違っていれば偽だから、コンスタティブ=事実確認的なわけだけど、「私は結婚します」という言明は、まさにその行為によって結婚を成立させるわけだから、それ自体は真でも偽でもなく、パフォーマティブ=行為遂行的なものになる。
 
 このような区別はJ・L・オースティンの言語行為論によって示されたものだけど、デリダはこの区別を批判して、端的に、すべての言明はむしろパフォーマティブだと指摘する。
 たとえば、「この牛は危険である」という張り紙は単に文字通りのことを意味しているのではなくて、「この牛は危険である(だから近づいてはいけない)」というように、パフォーマティブな言明(命令)を意味する(一方で、「この牛は危険である」という張り紙を見た人は、「危険な牛なんだ」と思って面白がって近づいてしまうかもしれなくて、何かが誤読されるということは、本質的に言語がパフォーマティブな機能を持っているから)。
 
 自分は「自己紹介」というものに対してずっと苦手意識を持っていて、「自己を紹介する」なんて言っても何を紹介するのか分からない、という感情がずっと付きまとっていたのだけど、それは端的に、「自己紹介」という営みがかなり「パフォーマティブ」な効果を持った(持たせようとする)ものである、ということに起因していたと思う。
 というのも、「みなさん自身のことを他の人に紹介してあげてください」という指示があって、「私は○○が好きです」とか「私は〇○をしています」とか言って自己を紹介するとき、それは単に文字通りに何かを説明している(コンスタティブ)のではなくて、それによって「私」をこう思わせたい、というパフォーマティブな力が働いているから。
 「私は猫が好きです」という自己紹介があったときに、それは文字通りに「私」が「猫を好きである」というコンスタティブな言説ではなく、「猫を好きである人だと思われたい/猫が好きな人には積極的に話しかけてきてほしい/猫が好きなタイプのかわいい子として見られたい」 みたいな、パフォーマティブな効果を期待しているし、そのようにして解釈する。
自己紹介とは、たとえば「真面目な人なんだ」とか「面白い人なんだ」とか「変わった人なんだ」とか、それぞれが思われたい自分をパフォーマティブな言語機能によって構築しようとするもので、それは自分の中から「その状況で見せたい自分」のために要素を抜き出すという営み(そして、自己紹介はときに誤読される)。
 そして、他に分かりやすい例としては、ファッション誌(的なもの)の言葉もそうであると思っていて、たとえば「夏物はこのワンピースが大流行!」という言説があったときに、それは「実際に今そのワンピースが流行している」というコンスタティブな意味に加えて、その「夏物はこのワンピースが大流行!」という言説を載せて、多くの人がそれを読むことによって、そのワンピースが流行することになるという、パフォーマティブな効果も含んでいる(「流行している」と言明することで、「流行している」状態が達成されること)。
 他には広告の言葉もそうで、「〇〇が大人気です!」という言葉は、文字通りに「〇〇が大人気である」ことだけを表しているのではなく、その言葉自体が、たくさんの人に読まれる中で、パフォーマティブに、「〇〇を大人気」にしていく。
 
 あと、この「コンスタティブ」と「パフォーマティブ」の話は、ドゥルーズとガタリの『千のプラトー』で、「言語とは本質的に命令そのものであり指令である」と言われていたこととも重なると思う(「火事だ!」という言明は「逃げなさい」という命令を含んでいるし、その意味ですべての言語は命令として機能する)。
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絶対安全剃刀で手首を切ろうかな
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mangacapsaicin · 2 years
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fumiko takano's absolute safety razor || 高野文子の『絶対安全剃刀』
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aveshi05 · 5 years
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カイコ録
◆黒い炎(中公文庫)
教科書で名前を見たことはあるけど、読んだことのない作家の短編作品を読めるので試読とかにも良い。タニザキ、ダザイの描く女性もだけど、カフー先生の描く女性もまた生々しく、文庫だと見かけないけど他の短編でオススメのものがあったら読みたい。安野モヨコ先生のセンスが良く、どの作品も楽しめたので他二冊も購入する予定。
◆白痴(新潮文庫)
『青鬼の褌を洗う女』は2019年の「あべくん読書大賞受賞」です。おめでとうございます。個人的にはいままで読んだサカグチ作品の中で一番『文学のふるさと』の思想の系譜だなと感じる小説。《私》が道程で立ち寄った山間の、閑散とした村の澄んだせせらぎの底に沈む、角の取れた石英からは悲しさや淋しさが絶えず染み出していて、その夏の暑さと切り離された冷え冷えとした小川の水を一口含むと身体中、細胞のくまなくまでそれらがすっかり広がって、不意に「私は随分遠くまで来てしまったのだな」と孤独を思い出してしまうようなイメージのある小説。
◆校閲ガール(角川文庫)
校閲の仕事は一生できね~~~!って思った。編集、校閲以降の後工程の仕事をしているせいでわかりやすいエンターテイメント小説として読めた。恋愛もあり、コメディもあり、少しのミステリと感動性もあるジャンル欲張りセットみたいな一冊。編集は[検閲済]。はっきりわかんだね。(※偏見。ただあまりにもあまりな赤字や原稿作成、納期は多い)
◆夏の葬列(集英社文庫)
ほぼショートショートなので、サッと読めるし教科書に掲載されていたので、難解な単語や表現はなかったような記憶があるので誰にでもおすすめできる良い一冊。『夏の葬列』や『十三年』はオチが素晴らしいのと、やっぱりファムファタルみのある女が男の人生を引っかきまわす作品を読むとQOLが上がるな、という実感を得られる。全体的な作品の傾向が最晩年のアクタガワっぽいというか、人間への失望とかニヒリズムみたいな、精神的に不安定だったり落ち込んでいる時に読むと鬱に引っ張られるような印象。
◆高野聖(角川文庫)
全編読みづらいので、良さが理解できていない。ナカジマ曰く「……日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。……」(青空文庫『鏡花氏の文章』より一部引用)だそうですが、漢文からの引用があったりするので、学がない以上厳しいです。ごめんなさい。ただ完全完璧とはいかないものの、『高野聖』の蛭が身体を這うシーンのような剃刀を背筋にあてられて、薄く皮膚が裂かれるようなヒヤリとした感覚や、幻想をぬけた後の視界が非常にクリアになる感覚の対比や切り替わりはすごいなと思った。幻想小説ではないけど『夜行巡査』はたまに思い出してぺらぺらと捲りたくなる作品の立ち位置になってきている。
◆夫婦善哉(岩波書店)
タニザキの『卍』を読んでいて気付いたことだけど、オダ作品の大阪弁くらいが丁度良いと言いますか(仕様とは言え)全編独白形態をとっている『卍』は平易な言葉が並んでいたとしても口語体故に読みにくさがあったけど、会話の中にするりと混ぜ込んで、それでいて「これは大阪の作品なのです」という塩梅が良いのは手腕なんだろうな。推しキャラの元ネタ作家なので評価が甘い自覚はある。一番は『湯の町』のやるせなさ。珍しく女性が世界を破壊しない弱い作品だからかな。
◆卍(新潮文庫)
これの狡いところは園子と光子のレズ性愛描写が一切ないところで、唯一緒に家族温泉に行ったり人気のない丘に行ったりしか書いていなくて、好きあってるし、このただならね~雰囲気の二人が、まさか性的接触をしてないわけがないだろうという断定を前提に読んでる深読み読者腐女子クンの、永年に渡り培った逞しい妄想力に全て委ねられているところです。つまり読者の隠していた、或いは予期していなかった「エロ」への興味や知識を白日の下に晒さねばならないで、対してタニザキはツンとすましている(私は書いてないでしょ。あなたが勝手に想像しただけですし)みたいなのが、この、この…。個人的には移住後の日本趣味に切り替わった作品群より初期の西洋趣味っぽい方が好みかもと気付いた。
◆武蔵野(角川文庫) 
読み進めるほどに、かつて田舎だった渋谷を一目でいいから見たくなる。特に秋と冬の風景の、刻々と変わっていく描写がめちゃめちゃめちゃ天才。優勝。世間に受けた『愛弟通信』はルポルタージュだけど、記者だからか、随筆(エッセイ?)とかの見聞を描くのが向いてるから小説よりもそういう作品が読みたい。この本の中の作品からはあまり自然主義作家っぽさは覚えず、詩人は浪漫主義なんだなという印象。
◆96 純(百年文庫)
『蝶々夫人』とか『ミス・サイゴン』が好きな人、『八重山の雪』も多分好き。『青鬼の褌を洗う女』もそうだけど、戦中・戦後の人の動きが描かれている作品の「もののあはれ」の中でも特に無常観や、人と人は永く共にあれない描写が好きなので余計に良さが増す。続編にあたる作品があるらしいけどこの読後感とか記憶を大事にしたいので読まなくても良いかな。
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itose01 · 5 years
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ラトレイア(礼拝)
「ひみつのはなぞの」の番外編です。本編は一覧(https://privatter.net/u/Itose)からどうぞ。 文字書きワードパレット(@Wisteria_Saki)様より 11.「灰色」「無音」「鏡」
拍手からリクエスト下さった方、遅くなってしまい申し訳ありません。ありがとうございました! 
――ガシャンッ!
 恋人と迎える朝にしては、少々騒がしい目覚めだった。 いや、そもそもその恋人が隣にはいない。昨晩は確かにこの腕の中に抱いて眠りについたはずなのに。とはいえ、彼が先に目覚めるのはそう珍しいことではない。太刀川は朝に弱い方ではないと自負していたけれど、それより少し上回って出水の方が仕事熱心だった。つまり、仕事のある日は決まって出水の方が早く目覚め、自分の身支度を整えた後に太刀川を起こすのがいつもの流れなのだ。  それが休日ともなると、平常の反動だと言わんばかりに出水は怠惰になる。日が高く上るまでベッドの上で過ごし、腹が減ったら太刀川に適当なフルーツを所望する。だから太刀川はリンゴとオレンジだけはナイフで難なく剥けるようになってしまった。それまでは人の急所に差し込むとか投げて相手の武器を弾くとか、そいった用途でしか使ったことの無かったのだから、大した上達である。  つまり、出水が先に目覚めていること自体はそれほどおかしなことではないのだ。けれど今日は休日で出水が早く起きる必要はないはずなのに。  そして何よりもあの不穏な破壊音。  かつて出水が一人暮らしだった頃、当時のストーカーにまんまと住居を割り出されてから、太刀川と共にセキュリティの厳重なマンションに住むようになった。よほどの事がない限り、太刀川に感づかれないままこの部屋に不審者が進入することは不可能だ。しかしその「よほどの事」を引き寄せるのが――時には自ら引き起こすのが――出水公平の出水公平たる所以だった。  一応の警戒心と、マットの下に入れている護身用の武器を用意して、音のした方へ急いだ。部屋を出て右に曲がり、短い廊下をまっすぐに行くとその先は洗面所だ。  ガチャッガチャッガチャッ!  続けて硬いものを抉るような短くリズムの良い破壊音。それと同時にこの距離でようやく聞こえた、粉砕された何かがバラバラとこぼれ落ちる音。 「……出水?」  壁際に身体をつけていつでも突入できるように中を窺い、けれども8割がたの確信をもって呼びかければ、すぐそこから「はぁい」と機嫌の良さそうな返事が返ってきた。  やっぱりか。  太刀川はそれなりに緊張していた身体の力を抜いて無造作に洗面所の中に入る。  どうせ、そんなことだろうとは思っていたのだ。  それなりの広さをもったそこは、大人の男が二人並んでも余裕がある。洗面台の全面に張られた大きな鏡が(太刀川にここを案内した業者曰く)自慢だった。  その鏡が、無惨にも叩き割られている。一打では足りなかったのか、一際大きな中央のひび割れの周囲に小さな穴がいくつも開き、そこから蜘蛛の巣状に罅が広がっていた。それらが絶妙に繋がって、あと一撃でも入れば一気に崩れ落ちそうだった。 「……いずみ、お前、何してんの」 「おはようございます、太刀川さん」  洗面台に片膝で乗り上げるようにして鏡に向かう出水の右手には、玄関の工具入れに入っていたはずのスパナが鈍く銀色に光っていた。その体勢のままで、首だけで振り向く出水はへらりと頬を緩める。  太刀川慶の恋人は、今日も相変わらずかわいらしかった。 「何って……見たとおりですけど」  何を当然のことを、とばかりに言うのでそれもそうかと納得しかけ、いやいやそうじゃないと持ち直す。 「ほら、とりあえずこっち」  加害者を標的から離すのが先決と、両脇に手を差し込み軽く抱え上げて奥にあるドラム式洗濯機の上へと載せてやると、出水は昨晩太刀川が脱がせたそのままの素足を一つ不満そうにぶらつかせた。 「なんですかもう」  裸足の指先にひっかけたオフホワイトのもこもこスリッパが危うく落ちそうになっていたから、もう一度その小さな指先ごと踵まで押し込んでやると、戯れるように太刀川を蹴り上げる素振りをしてみせる。当てる気がないとわかっていても位置的に危ういからやめてほしい。  やめなさい、となだめるように両手をつかみ、その流れで片手にもっていたスパナから手を離させてランドリーバスケットの上に積まれたタオルの山の上に放り投げてしまった。 「そりゃこっちの台詞だ。何があった?」  出水は時折ひどく不安定になる。というより、この生い立ちで「時折」で済んでいるあたり、出水もやはりどこかおかしいのだ。恒常的に頭がおかしくて、時折、情緒不安定になる。それが出水の「ふつう」で、太刀川は出水のそういうところがいじらしくてけなげでかわいいと思っていた。だから、こんなふうに甘やかに愛し合ったその翌日に、ベッドの上で怠惰を貪ることのできる貴重な休日の朝が���の破壊音で奪われたとしても、ちっとも不満などないのだった。 「なんていうか……朝起きて、顔洗おーと思って鏡見たら、ひどい顔だったんです」  向かい合わせに立つと珍しく太刀川が見上げる形になる。眉を寄せて、自分にもままならない気持ちを言語化しようとする苦心が見て取れた。 「そうか? そんなことないけどな」 「すごい、セックスしました、って顔」 「そりゃいい」  それは本当のことだった。赤く染まった目元は昨晩の名残だし、たくさんキスをした唇は化粧をした女みたいに赤くぽってりと腫れていた。首筋から胸元にかけてはそりゃもうひどい有様で、このままでは到底外には出せない。けれどそれは全く、悪いことではないはずだった。 「……でも、あの人はこんな顔知らない」  嫌われちゃうかもしれない。  その一言で、彼のおかしな思考の一端を見る。彼が「あの人」という相手など一人しかいない。「パパ」とも「父さん」とも呼べずに、名前を出すことも憚られ、あの事件から出水は自分の父親のことを「あの人」と呼んでいる。  そうして未だに慕っているのだ。自分の代わりに幾人もの少年を犯して殺した異常な殺人犯を。そうしてどうしたらまっとうに愛してもらえたのかを未だに考えている。  ――面会だって拒否されているくせに。この十数年、一度も会えていないくせに。ばかな出水。あっちはとっくにおまえのことなんて忘れているよ。  嘘だ。最後のそれだけはただの太刀川の希望だった。高い塀の向こう側で、出水の父親はたぶん未だに彼のことを想っている。  結局、気休めも誹りも選べなくて、「そうか」とだけ言った。出水が何を求めているとしても、それを太刀川が与えてやれるとは思えなかった。何も言わないことが太刀川の意思表示でもあった。 「ごめんなさい」  素直に謝ってみせる出水に笑ってしまう。何に対する謝罪にせよ、きっと彼はまた似たようなことを繰り返す。 「別にいいさ。鏡なんてろくに見てなかったしな」  だからできるだけ軽口に聞こえるように太刀川は答えた。この話はここで終わりだという合図を、出水も察したようだった。 「そこは見ましょうよ」 「あーでもひげ剃りは困るかも」  バスルームの鏡は見られないこともないが、太刀川が寝ている間にずいぶん念入りに破壊してくれたものだった。これに向き合って髭を整えようとはあまり思えない。 「あ、それならおれが剃ってあげます」  さも良いことを思いついたとばかりに瞳を輝かせている彼は、向かい側で鈍く光っている無惨にひび割れた鏡のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。  でも太刀川にはそれで良かった。出水の関心がこちらへ向いたことが純粋に嬉しい。割れた鏡と同じように、父親のことなどすっかり消え去っていることだろう。少なくともいま、この時間は。 「マジか」 「うん、その代わり太刀川さんはおれの鏡になってよ」  髪、すごいぼさぼさだからと、昨晩太刀川が両手でかき抱いたそのせいで、いつもよりいくぶん乱れたその頭を揺らしてみせた。 「いいけど、ちゃんといつも通りにできるか?」 「えー、どうかなぁ、いやうそうそ、大丈夫ですって」  出水は言いながら、身体を伸び上がらせて、かしりと太刀川の顎に歯を立てる。そのまま何度か淡く食まれた。食ってやるぞ、とでも言うように可愛い猫が小さな歯を立てる。 (この顎髭とも今日でしばらくお別れかもしれないなぁ)  分析官らしくないと言われたから生やし初めて、ようやく馴染んだところだったのに。これでなかなか評判が良かったのに。残念ながら出水は気に入っていなかったようだ。  まぁ、それでこの情緒不安定な子どもの機嫌が良くなるのならば良しとしよう。破壊された鏡と違って髭はすぐにまた伸びてくる。 「わかったわかった」  顎髭を狙う子猫をキス一つであやして、降参を告げれば、 「せっかくだから、テラス行きましょうテラス」  と、出水は俄然やる気を出した。太刀川の横をすり抜けて洗濯機を降りる身は軽く、洗面器にカミソリセットをがちゃがちゃと放り込んで、ブルーグレイのタオルを肩に引っかけてバスルームを出て行く。可哀想な鏡の始末は後回しらしい。  寝室から続く広めのベランダはもっぱらうちでは「テラス」という愛称で親しまれていた。椅子を向かい合わせに二つおいていっぱいになってしまう程度の広さだが、モザイクタイルの施された壁面が日光に照らされると反射の仕方によって色を変えて美しいのだ。よく晴れた休日に椅子にゆったりと腰掛けてだらだらとするのが出水のお気に入りだった。  出水の後を追ってバスルームを去る直前、ひび割れた鏡をもう一度見る。亀裂の入った醜い自分の顔がそこには映っていた。  割られた鏡は自己嫌悪の表出。プロファイルの基礎中の基礎だ。  ――あいつの場合は、何に対する自己嫌悪なんだろうな。  異常な父親からの愛情を未だに求める自分の不道徳さか、それともたとえ異常であったとしても結局父親の愛(という名の暴力)を得られなかった自分自身か。念入りに割られた鏡を見て思う。  灰色のバスルームは、天井にほど近い場所に設けられた小さな明かり窓から差し込む秋の陽光に、ほんのりと照らし出されていた。黒にも白にもなれない自分たちは、曖昧な自身を許したふりをしながらこんなところで児戯を繰り返している。居心地の良い場所に止まって、互いの許しを求め合って、それでどうにか生きていた。歪な箱庭の暮らしがこんなふうに続いていることに、太刀川は感謝していた。祈るべき神も正しい方法も知らないけれど、ふとしたときに何かに感謝し、祈りたくなるときがある。今がまさにそのときだった。  さて、出水はすっかり頭にないようだったが、洗面所から寝室とは反対に向かう廊下の壁には等身大の鏡が掛けられている。今ではこの家で唯一生き残っている鏡だった。寝室へ向かいかけて、ふと思い立ってそちらへと戻る。遠くから「たちかわさーん」と呼ぶ声が聞こえるのに、「おう」と軽く返事をしてから、美しい鏡面に自身を映すそれに向き直る。それから、太刀川は深く考えることなく拳を振り上げた。  ガシャン、という破壊音ーーそして無音。 (その沈黙は、ひどく歪な形をしていたけれど、それでも「祈り」というものにとてもよく似ていた)
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sasakiatsushi · 7 years
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小説家蓮實重彦、一、二、三、四、
人間に機械を操縦する権利があるように、機械にもみずから作動する権利がある。 ーー『オペラ・オペラシオネル』ーー
一、
 二朗は三度、射精する。そしてそれはあらかじめ決められていたことだ。  一度目の精の放出は、ハリウッドの恋愛喜劇映画を観た帰りの二朗が、小説の始まりをそのまま引くなら「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行くのは和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない」と気づいたそばから当の伯爵夫人にまるで待ち構えていたかのように振り返られ、折角こんな場所で会ったのだしホテルにでも寄って一緒に珈琲を呑もうなどと誘いかけられて、向かう道すがら突然「ねえよく聞いて。向こうからふたり組の男が歩いてきます。二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と、なかば命令口調で指示されて演じる羽目になる、謎の二人組に顔を視認されまいがための贋の抱擁の最中に起こる。
 小鼻のふくらみや耳たぶにさしてくる赤みから女の息遣いの乱れを確かめると、兄貴のお下がりの三つ揃いを着たまま何やらみなぎる気配をみせ始めた自分の下半身が誇らしくてならず、それに呼応するかのように背筋から下腹にかけて疼くものが走りぬけてゆく。ああ、来るぞと思ういとまもなく、腰すら動かさずに心地よく射精してしまう自分にはさすがに驚かされたが、その余韻を確かめながら、二朗は誰にいうとなくこれでよしとつぶやく。
 なにが「これでよし」なのか。ここは明らかに笑うべきところだが、それはまあいいとして、二度目の射精は、首尾よく二人組を躱したものの、ホテルに入るとすぐに新聞売り場の脇の電話ボックスに二朗を連れ込んだ伯爵夫人から先ほどの抱擁の際の「にわかには受け入れがたい演技」を叱責され、突然口調もまるで「年増の二流芸者」のようなあけすけさに一変したばかりか「青くせえ魔羅」だの「熟れたまんこ」だの卑猥過ぎる単語を矢継ぎ早に発する彼女に、事もあろうに「金玉」を潰されかけて呆気なく失神し、気がつくと同じ電話ボックスで伯爵夫人は先ほどの変貌が夢幻だったかのように普段の様子に戻っているのだが、しかしそのまま彼女のひどくポルノグラフィックな身の上話が始まって、けっして短くはないその語りが一段落ついてから、そろそろ「お茶室」に移動しようかと告げられた後、以前からあちこちで囁かれていた噂通りの、いや噂をはるかに凌駕する正真正銘の「高等娼婦」であったらしい伯爵夫人の淫蕩な過去に妙に大人ぶった理解を示してみせた二朗が、今度は演技と異なった慎ましくも本物の抱擁を交わしつつ、「ああ、こうして伯爵夫人と和解することができたのだ」と安堵した矢先に勃発する。「あらまあといいながら気配を察して相手は指先を股間にあてがうと、それを機に、亀頭の先端から大量の液体が下着にほとばしる」。  そして三度目は、伯爵夫人と入れ替わりに舞台に登場した「男装の麗人」、二朗への颯爽たる詰問ぶりゆえ警察官ではないにもかかわらず「ボブカットの女刑事」とも呼ばれ、更に「和製ルイーズ・ブルックス」とも呼ばれることになる女に案内されたホテルの奥に位置する「バーをしつらえたサロンのような小さな空間」ーー書棚がしつらえられ、絵が飾られ、蓄音機が置かれて、シャンデリアも下がっているのだが、しかしその向こうの「ガラス越しには、殺風景な三つのシャワーのついた浴場が白いタイル張りで拡がっており、いっさい窓はない」ことから戦時下の「捕虜の拷問部屋」を思わせもするーーで、この「更衣室」は「変装を好まれたり変装を余儀なくされたりする方々のお役に立つことを主眼として」いるのだと女は言って幾つかの興味深い、俄には信じ難い内容も含む変装にかかわる逸話を披露し、その流れで「金玉潰しのお龍」という「諜報機関の一員」で「かつて満州で、敵味方の見境もなく金玉を潰しまくった懲らしめの達人」の存在が口にされて、ひょっとしてこの「お龍」とは伯爵夫人そのひとなのではないかと訝しみつつ、突如思い立った二朗は目の前の和製ルイーズ・ブルックスをものにして俺は童貞を捨てると宣言するのだが事はそうは進まず、どういうつもりか女は彼に伯爵夫人のあられもない写真を見せたり、伯爵夫人の声だというが二朗の耳には自分の母親のものとしか思われない「ぷへーという低いうめき」が録音されたレコードを聞かせたりして、そして唐突に(といってもこの小説では何もかもが唐突なのだが)「こう見えても、このわたくし、魔羅切りのお仙と呼ばれ、多少は名の知られた女でござんす」と口調を一変させてーーここはもはや明らかに爆笑すべきところだが、それもまあいいとしてーー血塗れの剃刀使いの腕を自慢するのだが、その直後におよそ現実離れした、ほとんど夢幻か映画の中としか思えないアクション場面を契機に両者の力関係が逆転し、言葉責めを思わせる丁寧口調で命じられるがまま和製ルイーズ・ブルックスは身に纏った衣服を一枚一枚脱いでいって最後に残ったズロースに二朗が女から取り上げた剃刀を滑り込ませたところでなぜだか彼は気を失い、目覚めると女は全裸でまだそこに居り、これもまたなぜだか、としか言いようがないが、そもそも脱衣を強いた寸前の記憶が二朗にはなく、なのに女は「あなたさまの若くて美しいおちんちんは、私をいつになく昂らせてくださいました。たしかに、私の中でおはてにはなりませんでしたが、久方ぶりに思いきりのぼりつめさせていただきました」などと言い出して、いまだ勃起し切っている二朗の「魔羅」について「しっかりと責任は取らせていただきます」と告げて背中に乳房が押しつけられるやいなや「間髪を入れず二朗は射精する」。  帝大法科への受験を控えた二朗少年のヰタ・セクスアリスとして読めなくもない『伯爵夫人』は、ポルノグラフィと呼ばれてなんら差し支えないあからさまに助平な挿話とはしたない語彙に満ち満ちているのだが、にもかかわらず、結局のところ最後まで二朗は童貞を捨て去ることはないし、物語上の現在時制においては、いま見たように三度、何かの事故のようにザーメンを虚空にぶっ放すのみである。しかも、これら三度ーーそれもごくわずかな時間のあいだの三度ーーに及ぶ射精は、どうも「金玉潰しのお龍」が駆使するという「南佛でシャネル9番の開発にかかわっていたさる露西亜人の兄弟が、ちょっとした手違いから製造してしまった特殊な媚薬めいた溶液で、ココ・シャネルの厳しい禁止命令にもかかわらず、しかるべき筋にはいまなお流通しているもの」の効果であるらしいのだから、しかるに二朗は、一度として自分の意志や欲望の力によって己の「魔羅」に仕事をさせるわけではないし、彼の勃起や射精は、若く健康な男性の肉体に怪しげな薬物が齎した化学的/生理的な反応に過ぎないことになるわけだ。実際、物語上の時間としては過去に属する他の幾つかの場面では、百戦錬磨の女中頭の小春に技術を尽くして弄られようと、従妹の蓬子に「メロンの汁で手を湿らせてから」初々しくも甲斐甲斐しく握られようと、二朗は精を漏らすことはないし、ほとんど催すことさえないかのようなのだ。  つまりここにあるのは、その見てくれ��反して、二朗の性的冒険の物語ではない。彼の三度に及ぶ射精は、詰まるところケミカルな作用でしかない。それでも三度も思い切り大量に放出したあと、二朗を待っているのは、今度は正反対のケミカルな効用、すなわち「インカの土人たちが秘伝として伝える特殊なエキスを配合したサボン」で陰茎を入念に洗うことによって、七十二時間にもわたって勃起を抑止されるという仕打ちである。三度目に出してすぐさま彼は「裸のルイーズ・ブルックス」にその特殊なサボンを塗りたくられ、すると三度も逝ったというのにまだいきりたったままだった「若くて元気なおちんちん」は呆気なく元気を喪い、更には「念には念を入れてとスポイト状のものを尿道にすばやく挿入してから、ちょっと浸みますがと断わって紫色の液体を注入」までされてしまう。サボンの効果は絶大で、二朗の「魔羅」はこの後、小説の終わりまで、一度として射精もしなければ勃起することさえない。物語上の現在は二朗がケミカルな不能に陥って間もなく終了することになるが、それ以後も彼のおちんちんはまだまだずっと使いものにならないだろう。七十二時間、つまり三日後まで。そしてこのことも、ほとんどあらかじめ決められていたことなのだ。  『伯爵夫人』は小説家蓮實重彦の三作目の作品に当たる。一作目の『陥没地帯』は一九七九年に、二作目の『オペラ・オペラシオネル』は一九九四年に、それぞれ発表されている。第一作から最新作までのあいだにはじつに三十七年もの時間が経過しているわけだが、作者は自分にとって「小説」とは「あるとき、向こうからやってくるもの」だと言明しており、その発言を信じる限りにおいて三編の発表のタイミングや間隔は計画的なものではないし如何なる意味でも時期を心得たものではない。最初に『陥没地帯』が書かれた時点では『オペラ・オペラシオネル』の十五年後の到来は想像さえされておらず、更にそれから二十二年も経って『伯爵夫人』がやってくることだって一切予想されてはいなかったことになるだろう。偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき小説の到来は、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としてそれぞれ独立しており、少なくとも「作者」の権能や意識の範疇にはない。第一、あの『「ボヴァリー夫人」論』が遂に上梓され、かねてよりもうひとつのライフワークとして予告されてきた映画作家ジョン・フォードにかんする大部の書物の一刻も早い完成が待たれている状態で、どうして『伯爵夫人』などという破廉恥極まる小説がわざわざ書かれなくてはならなかったのか、これは端的に言って不可解な仕業であり、何かの間違いか���たまた意地悪か、いっそ不条理とさえ言いたくもなってくる。仮に作者の内に何ごとか隠された動機があったにせよ、それは最後まで隠されたままになる可能性が高い。  だがそれでも、どうしてだか書かれてしまった「三」番目の小説である『伯爵夫人』が、「二」番目の『オペラ・オペラシオネル』から「二」十「二」年ぶりだなどと言われると、それを読む者は読み始める前から或る種の身構えを取らされることになる。なぜならば、ここにごく無造作に記された「二」や「三」、或いはそこからごく自然に導き出される「一」或いは「四」といった何の変哲もない数にかかわる、暗合とも数秘学とも、なんなら単に数遊びとでも呼んでしかるべき事どもこそ、小説家蓮實重彦の作品を貫く原理、少なくともそのひとつであったということがにわかに想起され、だとすればこの『伯爵夫人』もまた、その「原理」をほとんどあからさまな仕方で潜在させているのだろうと予感されるからだ。その予感は、すでに『陥没地帯』と『オペラ・オペラシオネル』を読んでしまっている者ならば、実のところ避け難いものとしてあるのだが、こうして『伯爵夫人』を読み終えてしまった者は、いま、読み始める前から或る独特な姿勢に身構えていた自分が、やはり決して間違ってはいなかったことを知っている。二朗が射精するとしたら、三度でなければならない。二朗が不能に陥るとしたら、三日間でなければならないのだ。では、それは一体、どういうことなのか?  どういうことなのかを多少とも詳らかにするためには、まずは小説家蓮實重彦の先行する二作品をあらためて読み直してみる必要がある。数遊びは最初の一手からやってみせなければわかられないし、だいいち面白くない。遊びが遊びである以上、そこに意味などないことは百も承知であれば尚更、ともかくも一から順番に数え上げていかなくてはならない。そう、先回りして断わっておくが、ここで云われる「原理」とは、まるっきり無意味なものであるばかりか、おそらく正しくさえない。だが、意味もなければ正しくもない「原理」を敢然と擁護し、意味とも正しさとも無縁のその価値と存在理由を繰り返し強力に証明してきた者こそ、他ならぬ蓮實重彦そのひとではなかったか?
二、
 小説家蓮實重彦の第一作『陥没地帯』は、あくまでもそのつもりで読んでみるならば、ということでしかないが、戦後フランスの新しい作家たち、誰よりもまずはクロード・シモンと、だいぶ薄まりはするがアラン・ロブ=グリエ、部分的にはモーリス・ブランショやルイ=ルネ・デ・フォレ、そしてジャン=ポール・サルトルの微かな影さえ感じられなくもない、つまりはいかにも仏文学者であり文芸批評家でもある人物が書きそうな小説だと言っていいかもしれない。日本語の小説であれば、これはもう疑いもなく、その五年ほど前に出版されていた金井美恵子の『岸辺のない海』へ/からの反響を聴き取るべきだろう。西風の吹きすさぶ砂丘地帯から程近い、こじんまりとした、さほど人気のない観光地でもあるのだろう土地を舞台に、ロマンの破片、ドラマの残骸、事件の痕跡のようなものたちが、ゆっくりと旋回しながらどことも知れぬ場所へと落ちてゆくのを眺めているような、そんな小説。ともあれ、冒頭の一文はこうだ。
 遠目には雑草さながらの群生植物の茂みが、いくつも折りかさなるようにしていっせいに茎を傾け、この痩せこけた砂地の斜面にしがみついて、吹きつのる西風を避けている。
 誰とも知れぬ語り手は、まずはじめにふと視界に現れた「群生植物」について、「その種類を識別することは何ともむつかしい」のみならず、「この土地の人びとがそれをどんな名前で呼んでいるのかは皆目見当もつかないだろう」と宣言する。結局、この「群生植物」は最後まで名前を明かされないのだが、そればかりか、物語の舞台となる土地も具体的な名称で呼ばれることはなく、登場人物たちも皆が皆、およそ名前というものを欠いている。この徹底した命名の拒否は、そのことによって否応無しに物語の抽象性を際立たせることになるだろう。  もっとも語り手は、すぐさま次のように述べる。
 何か人に知られたくない企みでもあって、それを隠そうとするかのように肝心な名前を記憶から遠ざけ、その意図的な空白のまわりに物語を築こうとでもいうのだろうか。しかし、物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから、いかにも退屈そうに日々くり返されているこの砂丘でのできごとを語るのに、比喩だの象徴だのはあまりに饒舌な贅沢品というべきだろう。いま必要とされているのは、誰もが知っているごくありふれた草木の名前でもさりげなく口にしておくことに尽きている。
 だから実のところ命名は誰にでも許されているのだし、そこで口にされる名はありきたりのもので構わない。実際、わざわざ記すまでもないほどにありふれた名前を、ひとびとは日々、何のこだわりもなくごく普通に発話しているに違いない。そしてそれは特に「群生植物」に限らない話であるのだが、しかし実際には「誰もが知っているごくありふれた」名前さえ一度として記されることはない。凡庸な名前の、凡庸であるがゆえの禁止。ところが、ここで起きている事態はそれだけではない。かなり後の頁には、そこでは弟と呼ばれている誰かの「ここからでは雑草とちっともかわらない群生植物にも、ちゃんと名前があったんだ。土地の人たちがみんなそう呼んでいたごくありきたりな名前があった。でもそれがどうしても思い出せない」という台詞が記されており、もっと後、最後の場面に至ると、弟の前で幾度となくその名前を口にしていた筈の姉と呼ばれる誰かもまた、その「群生植物」の名を自分は忘れてしまったと告白するのだ。つまりここでは、名づけることのたやすさとその恣意性、それゆえのナンセンスとともに、たとえナンセンスだったとしても、かつて何ものかによって命名され、自分自身も確かに知っていた/覚えていた名前が理由もなく記憶から抜け落ちてゆくことのおそろしさとかなしみが同時に語られている。ありとあらゆる「名」の風化と、その忘却。覚えているまでもない名前を永久に思い出せなくなること。そんな二重の無名状態に宙吊りにされたまま、この物語は一切の固有名詞を欠落させたまま展開、いや旋回してゆく。そしてこのことにはまた別種の機能もあると思われるのだが、いま少し迂回しよう。  右の引用中の「物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから」という如何にも印象的なフレーズは、語句や語順を微妙に違えながら、この小説のなかで何度となく繰り返されてゆく。これに限らず、幾つかの文章や描写や叙述が反復的に登場することによって、この小説は音楽的ともいうべき緩やかなリズムを獲得しているのだが、それはもう一方で、反復/繰り返しという運動が不可避的に孕み持つ単調さへと繋がり、無為、退屈、倦怠といった感覚を読む者に喚び起こしもするだろう。ともあれ、たとえば今日という一日に、ここで起こることのすべては、どうやら「昨日のそれの反復だし、明日もまた同じように繰り返されるものだろう。だから、始まりといっても、それはあくまでとりあえずのものにすぎない」という達観とも諦念とも呼べるだろう空気が、そもそもの始まりから『陥没地帯』の世界を覆っている。  とはいえ、それは単純な繰り返しとはやはり異なっている。精確な反復とは違い、微細な差異が導入されているからではなく、今日が昨日の反復であり、明日が今日の反復であるという前後関係が、ここでは明らかに混乱を来しているからだ。この小説においては、物語られるほとんどの事件、多くの出来事が、時間的な順序も因果律も曖昧なまましどけなく錯綜し、あたかも何匹ものウロボロスの蛇が互いの尻尾を丸呑みしようとしているかのような、どうにも不気味な、だが優雅にも見える有様を呈してゆく。どちらが先にあってどちらがその反復なのかも確定し難い、起点も終点も穿つことの出来ない、方向性を欠いた反復。あたかもこの小説のありとある反復は「とうの昔に始まって」おり、そして/しかし、いつの間にか「とうの昔」に回帰してでもいくかのようなのだ。反復と循環、しかも両者は歪に、だがどこか整然と絡み合っている。しかも、それでいてこの小説のなかで幾度か、まさに不意撃ちのように書きつけられる「いま」の二語が示しているように、昨日、今日、明日ではなく、今日、今日、今日、いま、いま、いま、とでも言いたげな、現在形の強調が反復=循環と共存してもいる。それはまるで、毎日毎日朝から晩まで同じ演目を倦むことなく繰り返してきたテーマパークが、そのプログラムをいつのまにか失調させていき、遂にはタイマーも自壊させて、いま起きていることがいつ起こるべきことだったのかわからなくなり、かつて起こったことと、これから起こるだろうことの区別もつかなくなって、いまとなってはただ、いまがまだかろうじていまであること、いまだけはいつまでもいまであり続けるだろうことだけを頼りに、ただやみくもに、まだなんとか覚えていると自分では思っている、名も無きものたちによるひと続きの出し物を、不完全かつ不安定に延々と繰り返し上演し続けているかのようなのだ。  二重の、徹底された無名状態と、壊れた/壊れてゆく反復=循環性。『陥没地帯』の舞台となる世界ーーいや、むしろ端的に陥没地帯と呼ぶべきだろうーーは、このふたつの特性に支えられている。陥没地帯の物語を何らかの仕方で丸ごと形式的に整理しようとする者は、あらかじめこの二種の特性によって先回りされ行く手を塞がれるしかない。「名」の廃棄が形式化の作業を露骨な姿態で誘引しており、その先では程よくこんがらがった毛糸玉が、ほら解いてみなさいちゃんと解けるように編んであるからとでも言いたげに薄笑いを浮かべて待ち受けているだけのことだ。そんな見え見えの罠に敢えて嵌まってみせるのも一興かもしれないが、とりあえず物語=世界の構造そのものを相手取ろうとする無邪気にマクロな視点はいったん脇に置き、もっと単純素朴なる細部へと目を向けてみると、そこではこれまた見え見えの様子ではあるものの、相似という要素に目が留まることになるだろう。  たとえば「向かい合った二つの食堂兼ホテルは、外観も、内部の装飾も、料理のメニューも驚くほど似かよって」いる。しかし「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば、そこで約束の相手と間違いなく落ち合うことができる。目には見えない識別票のようなものが、散歩者たちをあらかじめ二つのグループに分断しており、その二つは決して融合することがない」。つまり「驚くほど似かよって」いるのにもかかわらず、二軒はひとびとの間に必ずしも混同を惹き起こしてはいないということだ。しかし似かよっているのは二つの食堂兼ホテルだけではない。他にも「まったく同じ様式に従って設計されている」せいで「どちらが市役所なのか駅なのはすぐにはわからない」だの、やはり「同じ時期に同じ建築様式に従って設計された」ので「旅行者の誰もが郵便局と取り違えて切手を買いに行ったりする学校」だのといった相似の表象が、これみよがしに登場する。建物だけではない。たとえば物語において謎めいた(この物語に謎めいていない者などただのひとりも存在していないが)役割を演じることになる「大伯父」と「その義理の弟」と呼ばれる「二人の老人」も、しつこいほどに「そっくり」「生き写し」「見分けがつかない」などと書かれる。  ところが、この二人にかんしては、やがて次のようにも語られる。
 あの二人が同一人物と見まがうほどに似かよっているのは、永年同じ職場で同じ仕事をしてきたことからくる擬態によってではなく、ただ、話の筋がいきなり思わぬ方向に展開されてしまったとき、いつでも身がわりを演じうるようにと、日頃からその下準備をしておくためなのです。だから、それはまったく装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらではありません。
 先の建築物にしたって、後になると「二軒並んだ食堂兼ホテルは、いま、人を惑わすほどには似かよってはおらず、さりとてまったくきわだった違いを示しているわけでもない」だとか「学校とも郵便局とも判別しがたく、ことによったらそのどちらでもないかもしれぬたてもの」などといった書かれぶりなのだから、ここでの相似とは要するに、なんともあやふやなものでしかない。にしても、二つのものが似かよっている、という描写が、この物語のあちこちにちりばめられていることは事実であり、ならばそこにはどんな機能が託されているのかと問うてみたくなるのも無理からぬことだと思われる。  が、ここで読む者ははたと思い至る。相似する二つのものという要素は、どうしたって「似ていること」をめぐる思考へとこちらを誘っていこうとするのだが、それ自体がまたもや罠なのではないか。そうではなくて、ここで重要なのは、むしろただ単に「二」という数字なのではあるまいか。だってこれらの相似は難なく区別されているのだし、相似の度合いも可変的であったり、そうでなくても結局のところ��装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらでは」ないというのだから。騙されてはならない。問題とすべきなのは相似の表象に伴って書きつけられる「二」という数の方なのだ。そう思って頁に目を向け直してみると、そこには確かに「二」という文字が意味ありげに幾つも転がっている。「二」つ並んだ食堂兼ホテルには「二」階があるしーーしかもこの「二階」は物語の重要な「事件の現場」となるーー、市役所前から砂丘地帯までを走る路面電車は「二」輛連結であり、一時間に「二」本しかない。とりわけ路面電車にかかわる二つの「二」は、ほぼ省略されることなく常にしつこく記されており、そこには奇妙な執着のようなものさえ感じられる。陥没地帯は、どうしてかはともかく、ひたすら「二」を召喚したいがゆえに、ただそれだけのために、相似という意匠を身に纏ってみせているのではないか。  「二」であることには複数の様態がある(「複数」というのは二つ以上ということだ)。まず、順序の「二」。二番目の二、一の次で三の前であるところの「二」がある。次に、反復の「二」。二度目の二、ある出来事が(あるいはほとんど同じ出来事が)もう一度繰り返される、という「二」がある。そして、ペアの「二」。二対の二、対立的(敵味方/ライバル)か相補的(バディ)か、その両方かはともかく、二つで一組を成す、という「二」がある。それからダブルの「二」、二重の二があるが、これ自体が二つに分かれる。一つの存在が内包/表出する二、二面性とか二重人格とかドッペルゲンガーの「二」と、二つの存在が一つであるかに誤認/錯覚される二、双児や他人の空似や成り澄ましなどといった、つまり相似の「二」。オーダー、リピート、ペア、ダブル、これらの「二」どもが、この小説にはあまねくふんだんに取り込まれている。オーダーとリピートが分かち難く絡み合って一緒くたになってしまっているさまこそ、前に見た「反復=循環性」ということだった。それは「一」と「二」の区別がつかなくなること、すなわち「一」が「二」でもあり「二」が「一」でもあり得るという事態だ。しかしそれだって、まず「二」度目とされる何ごとかが召喚されたからこそ起こり得る現象だと言える。  また、この物語には「大伯父とその義理の弟」以外にも幾組ものペアやダブルが、これまたこれみよがしに配されている。あの「二人の老人」は二人一役のために互いを似せていたというのだが、他にも「船長」や「女将」や「姉」や「弟」、或いは「男」や「女」といった普通名詞で呼ばれる登場人物たちが、その時々の「いま」において複雑極まる一人二役/二人一役を演じさせられている。この人物とあの人物が、実は時を隔てた同一人物なのではないか、いやそうではなく両者はやはりまったくの別の存在なのか、つまり真に存在しているのは「一」なのか「二」なのか、という設問が、決して真実を確定され得ないまま、切りもなく無数に生じてくるように書かれてあり、しかしそれもやはりまず「二」つのものが召喚されたからこそ起こり得た現象であり、もちろんこのこと自体が「反復=循環性」によって強化されてもいるわけだ。  こう考えてみると、もうひとつの特性である「無名状態」にも、抽象化とはまた別の実践的な理由があるのではないかと思えてくる。ひどく似ているとされる二者は、しかしそれぞれ別個の名前が与えられていれば、当然のことながら区別がついてしまい、相似の「二」が成立しなくなってしまうからだ。だから「二軒並んだ食堂兼ホテル」が名前で呼ばれることはあってはならないし、「女将」や「船長」の名が明かされてはならない。無名もまた「二」のために要請されているのだ。  陥没地帯は夥しい「二」という数によって統べられていると言っても過言ではない。それは文章=文字の表面に穿たれた数字=記号としての「二」から、物語内に盛んに導入された二番二度二対二重などのさまざまな「二」性にまで及んでいる。二、二、二、この小説に顕在/潜在する「二」を数え上げていったらほとんど果てしがないほどだ。とすれば、すぐに浮かぶ疑問は当然、それはどういうことなのか、ということになるだろう。なぜ「二」なのか。どうしてこの小説は、こうもひたぶるに「二」であろうとしているのか。  ここでひとつの仮説を提出しよう。なぜ陥没地帯は「二」を欲望するのか。その答えは『陥没地帯』が小説家蓮實重彦の一作目であるからだ。自らが「一」であることを嫌悪、いや憎悪し、どうにかして「一」に抗い「一」であることから逃れようとするためにこそ、この小説は無数の「二」を身に纏おうと、「二」を擬態しようと、つまり「二」になろうとしているのだ。  すぐさまこう問われるに違いない。それでは答えになっていない。どうして「一」から逃れなくてはならないのか。「一」が「一」を憎悪する理由は何だというのか。その理由の説明が求められているのだ。そんなことはわたしにはわからない。ただ、それは『陥没地帯』が「一」番目の小説だから、としか言いようがない。生まれつき、ただ理由もなく運命的に「一」であるしかない自らの存在のありようがあまりにも堪え難いがゆえに、陥没地帯は「二」を志向しているのだ。そうとしか言えない。  しかしそれは逆にいえば、どれだけ策を尽くして「二」を擬態したとしても、所詮は「一」は「一」でしかあり得ない、ということでもある。「二」になろう「二」であろうと手を替え品を替えて必死で演技する、そしてそんな演技にさえ敢えなく失敗する「一」の物語、それが『陥没地帯』なのだ。そしてこのことも、この小説自体に書いてある。
 つまり、錯綜したパズルを思わせる線路をひもに譬えれば、その両端を指ではさんでぴーんと引っぱってみる。すると、贋の結ぼれがするするとほぐれ、一本の線に還元されてしまう。鋭角も鈍角も、それから曲線も弧も螺旋形も、そっくり素直な直線になってしまうのです。だから、橋なんていっちゃあいけない。それは人目をあざむく手品の種にすぎません。
 そう、複雑に縒り合わされた結ぼれは、だが結局のところ贋ものでしかなく、ほんとうはただの「一本の線」に過ぎない。ここで「二」に見えているすべての正体は「一」でしかない。あの「向かい合った二つの食堂兼ホテル」が「驚くほど似かよって」いるのに「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば」決して間違えることがなかったのは、実はどちらを選んでも同じことだったからに他ならない。このこともまた繰り返しこの物語では描かれる。河を挟んだ片方の側からもう片側に行くためには、どうしても小さな架橋を使わなくてはならない筈なのに、橋を渡った覚えなどないのに、いつのまにか河の向こう側に抜けていることがある。そもそもこの河自体、いつも褐色に淀んでいて、水面を見るだけではどちらからどちらに向かって流れているのか、どちらが上流でどちらが下流なのかさえ判然としないのだが、そんなまたもやあからさまな方向感覚の惑乱ぶりに対して、ではどうすればいいのかといえば、ただ���うことなど一切考えずに歩いていけばいいだけのことだ。「彼が執拗に強調しているのは、橋の必然性を信頼してはならぬということである」。二つの領域を繋ぐ橋など要らない、そんなものはないと思い込みさえすればもう橋はない。二つのものがあると思うからどちらかを選ばなくてはならなくなる。一番目と二番目、一度目と二度目、一つともう一つをちゃんと別にしなくてはならなくなる。そんな面倒は金輪際やめて、ここにはたった一つのものしかないと思えばいいのだ。実際そうなのだから。  それがいつであり、そこがどこであり、そして誰と誰の話なのかも最早述べることは出来ないが、物語の後半に、こんな場面がある。
 よろしゅうございますね、むこう側の部屋でございますよ。(略)女は、そうささやくように念をおす。こちら側ではなく、むこう側の部屋。だが、向かい合った二つの扉のいったいどちらの把手に手をかければよいのか。事態はしかし、すべてを心得たといった按配で、躊躇も逡巡もなく円滑に展開されねばならない。それには、風に追われる砂の流れの要領でさからわずに大気に身をゆだねること。むこう側の扉の奥で待ちうけている女と向かいあうにあたって必要とされるのも、そんなこだわりのない姿勢だろう。
 躊躇も逡巡もすることはない。なぜなら「こちら側」と「むこう側」という「二つの扉」自体が下手な偽装工作でしかなく、そこにはもともと「一」つの空間しかありはしないのだから。そしてそれは、はじめから誰もが知っていたことだ。だってこれは正真正銘の「一」番目なのだから。こうして「一」であり「一」であるしかない『陥没地帯』の、「一」からの逃亡としての「二」への変身、「二」への離脱の試みは失敗に終わる。いや、むしろ失敗することがわかっていたからこそ、どうにかして「一」は「二」のふりをしようとしたのだ。不可能と知りつつ「一」に全力で抗おうとした自らの闘いを、せめても読む者の記憶へと刻みつけるために。
三、
 小説家蓮實重彦の第二作『オペラ・オペラシオネル』は、直截的にはジャン=リュック・ゴダールの『新ドイツ零年』及び、その前日譚である『アルファヴィル』との関連性を指摘できるだろう。小説が発表されたのは一九九四年の春だが、『新ドイツ零年』は一九九一年秋のヴェネツィア国際映画祭に出品後、一九九三年末に日本公開されている。同じくゴダール監督による一九六五年発表の『アルファヴィル』は、六〇年代にフランスでシリーズ化されて人気を博した「レミー・コーションもの」で主役を演じた俳優エディ・コンスタンティーヌを役柄ごと「引用」した一種のパスティーシュだが、独裁国家の恐怖と愛と自由の価値を謳った軽快でロマンチックなSF映画でもある。『新ドイツ零年』は、レミー・コーション=エディ・コンスタンチーヌを四半世紀ぶりに主演として迎えた続編であり、ベルリンの壁崩壊の翌年にあたる一九九〇年に、老いたる往年の大物スパイがドイツを孤独に彷徨する。  『オペラ・オペラシオネル』の名もなき主人公もまた、レミー・コーションと同じく、若かりし頃は派手な活躍ぶりでその筋では国際的に名を成したものの、ずいぶんと年を取った最近では知力にも体力にも精神力にもかつてのような自信がなくなり、そろそろほんとうに、思えばやや遅過ぎたのかもしれない引退の時期がやってきたのだと自ら考えつつある秘密諜報員であり、そんな彼は現在、長年勤めた組織へのおそらくは最後の奉公として引き受けた任務に赴こうとしている。「とはいえ、この年まで、非合法的な権力の奪取による対外政策の変化といった計算外の事件に出会っても意気沮喪することなく組織につくし、新政権の転覆を目論む不穏な動きをいたるところで阻止しながらそのつど難局を切り抜け、これといった致命的な失敗も犯さずにやってこられたのだし、分相応の役割を担って組織にもそれなりに貢献してきたのだという自負の念も捨てきれずにいるのだから、いまは、最後のものとなるかもしれないこの任務をぬかりなくやりとげることに専念すべきなのだろう」。つまりこれはスパイ小説であり、アクション小説でさえある。  前章で提示しておいた無根拠な仮説を思い出そう。『陥没地帯』は「一」作目であるがゆえに「一」から逃れようとして「二」を志向していた。これを踏まえるならば、「二」作目に当たる『オペラ・オペラシオネル』は、まずは「二」から逃走するべく「三」を擬態することになる筈だが、実際、この小説は「三」章立てであり、作中に登場するオペラ「オペラ・オペラシオネル」も「三」幕構成であり、しかも「三」時間の上演時間を要するのだという。これらだけではない。第一章で主人公は、豪雨が齎した交通機関の麻痺によって他の旅客ともども旅行会社が用意した巨大なホールで足止めを食っているのだが、どういうわけかこの空間に定期的にやってきている謎の横揺れを訝しみつつ、ふと気づくと、「いま、くたびれはてた鼓膜の奥にまぎれこんでくるのは、さっきから何やら低くつぶやいている聞きとりにくい女の声ばかりである」。
 いまここにはいない誰かをしきりになじっているようにも聞こえるそのつぶやきには、どうやら操縦と聞きとれそうな単語がしばしばくりかえされており、それとほぼ同じぐらいの頻度で、やれ回避だのやれ抹殺だのといった音のつらなりとして聞きわけられる単語もまぎれこんでいる。だが、誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのかということまでははっきりしないので、かろうじて識別できたと思えるたった三つの単語から、聞きとりにくい声がおさまるはずの構文はいうまでもなく、そのおよその文意を推測することなどとてもできはしない。
 むろんここで重要なのは、間違っても「誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのか」ということではない。この意味ありげな描写にごくさりげなく埋め込まれた「たった三つの単語」の「三」という数である。まだある。��人公が実際に任務を果たすのは「ここから鉄道でたっぷり三時間はかかる地方都市」だし、このあと先ほどの女の突然の接触ーー「かたわらの椅子に身を埋めていた女の腕が生きもののようなしなやかさで左の肘にからみつき、しっかりとかかえこむように組みあわされてしまう」ーーが呼び水となって主人公は「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」に「この国の転覆を目論む敵側の間諜がわがもの顔で闊歩しているという繁華街の地下鉄のホームでこれに似た体験をしていたこと」をふと思い出すのだが、そのときちょうどいまのようにいきなり腕をからませてきた女と同じ地下鉄のホームで再会したのは「それから三日後」のことなのだ。  「三」への擬態以前に、この小説の「二」に対する嫌悪、憎悪は、第三章で登場する女スパイが、いままさにオペラ「オペラ・オペラシオネル」を上演中の市立劇場の客席で、隣に座った主人公に「あなたを抹殺する目的で開幕直前に桟敷に滑りこもうとしていた女をぬかりなく始末しておいた」と告げたあとに続く台詞にも、さりげなく示されている。
 もちろん、と女は言葉をつぎ、刺客をひとり始末したからといって、いま、この劇場の客席には、三人目、四人目、ことによったら五人目となるかもしれない刺客たちが、この地方都市の正装した聴衆にまぎれて、首都に帰らせてはならないあなたの動向をじっとうかがっている。
 なぜ、女は「二人目」を省いたのか。どうしてか彼女は「二」と言いたくない、いや、「二」と言えないのだ。何らかの不思議な力が彼女から「二」という数の発話を無意味に奪っている。実際『陥没地帯』にはあれほど頻出していた「二」が、一見したところ『オペラ・オペラシオネル』では目に見えて減っている。代わりに振り撒かれているのは「三」だ。三、三、三。  だが、これも前作と同様に、ここでの「二」への抵抗と「三」への擬態は、そもそもの逃れ難い本性であるところの「二」によってすぐさま逆襲されることになる。たとえばそれは、やはり『陥没地帯』に引き続いて披露される、相似をめぐる認識において示される。どうやら記憶のあちこちがショートしかかっているらしい主人公は、第一章の巨大ホールで突然左肘に腕を絡ませてきた女が「それが誰なのかにわかには思い出せない旧知の女性に似ているような気もする」と思ってしまうのだがーー同様の叙述はこの先何度も繰り返されるーー、しかしそのとき彼は「経験豊かな仲間たち」からよく聞かされていた言葉をふと思い出す。
 もちろん、それがどれほどとらえがたいものであれ類似の印象を与えるというかぎりにおいて、二人が同一人物であろうはずもない。似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則を見失わずにおき、みだりな混同に陥ることだけは避けねばならない。
 この「似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則」は、もちろん『陥没地帯』の数々の相似にかんして暗に言われていたことであり、それは「一」に思えるが実は「二」、つまり「一ではなく二」ということだった。しかし、いまここで離反すべき対象は「二」なのだから、前作では「一」からの逃走の方策として導入されていた相似という装置は、こちらの世界では「二」から発される悪しき強力な磁場へと反転してしまうのだ。なるほどこの小説には、前作『陥没地帯』よりも更にあっけらかんとした、そう、まるでやたらと謎めかした、であるがゆえに適当な筋立てのご都合主義的なスパイ映画のような仕方で、相似の表象が次々と登場してくる。女という女は「旧知の女性に似ているような」気がするし、巨大ホールの女の亡くなったパイロットの夫は、第二章で主人公が泊まるホテルの部屋にノックの音とともに忍び込んでくる女、やはり亡くなっている夫は、売れない音楽家だったという自称娼婦の忌まわしくもエロチックな回想の中に奇妙に曖昧なすがたで再登場するし、その音楽家が妻に書き送ってくる手紙には、第一章の主人公の境遇に酷似する体験が綴られている。数え出したら枚挙にいとまのないこうした相似の仄めかしと手がかりは、本来はまったく異なる存在である筈の誰かと誰かを無理繰り繋いであたかもペア=ダブルであるかのように見せかけるためのブリッジ、橋の機能を有している。どれだけ「三」という数字をあたり一面に撒布しようとも、思いつくまま幾らでも橋を架けられる「二」の繁茂には到底対抗出来そうにない。  では、どうすればいいのか。「二」から逃れるために「三」が有効ではないのなら、いっそ「一」へと戻ってしまえばいい。ともかく「二」でありさえしなければいいのだし、ベクトルが一方向でなくともよいことはすでに確認済みなのだから。  というわけで、第三章の女スパイは、こんなことを言う。
 ただ、誤解のないようにいいそえておくが、これから舞台で演じられようとしている物語を、ことによったらあなたや私の身に起こっていたのかもしれないできごとをそっくり再現したものだなどと勘違いしてはならない。この市立劇場であなたが立ち会おうとしているのは、上演を目的として書かれた粗筋を旧知の顔触れがいかにもそれらしくなぞってみせたりするものではないし、それぞれの登場人物にしても、見るものの解釈しだいでどんな輪郭にもおさまりかねぬといった融通無碍なものでもなく、いま、この瞬間に鮮やかな現実となろうとしている生のできごとにほかならない。もはや、くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのものなのだから、これはよくあることだと高を括ったりしていると、彼らにとってよくある些細なできごとのひとつとして、あなたの世代の同僚の多くが人知れず消されていったように、あなた自身もあっさり抹殺されてしまうだろう。
 そもそも三章立ての小説『オペラ・オペラシオネル』が、作中にたびたびその題名が記され、第三章で遂に上演されることになる三幕もののオペラ「オペラ・オペラシオネル」と一種のダブルの関係に置かれているらしいことは、誰の目にも歴然としている。しかしここでいみじくも女スパイが言っているのは、如何なる意味でもここに「二」を読み取ってはならない、これは「一」なのだ、ということだ。たとえ巧妙に「二」のふりをしているように見えたとしても、これは確かに「くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのもの」なのだと彼女は無根拠に断言する。それはつまり「二ではなく一」ということだ。そんなにも「二」を増殖させようとするのなら、その化けの皮を剥がして、それらの実体がことごとく「一」でしかないという事実を露わにしてやろうではないか(言うまでもなく、これは『陥没地帯』で起こっていたことだ)。いや、たとえほんとうはやはりそうではなかったのだとしても、ともかくも「二ではなく一」と信じることが何よりも重要なのだ。  「二」を「一」に変容せしめようとする力動は、また別のかたちでも確認することが出来る。この物語において主人公は何度か、それぞれ別の、だが互いに似かよってもいるのだろう女たちと「ベッドがひとつしかない部屋」で対峙する、もしくはそこへと誘われる。最後の場面で女スパイも言う。私たちが「ベッドがひとつしかない部屋で向かい合ったりすればどんなことになるか、あなたには十分すぎるほどわかっているはずだ」。「二」人の男女と「一」つのベッド。だが主人公は、一つきりのベッドをそのような用途に使うことは一度としてない。そしてそれは何度か話題にされる如何にも女性の扱いに長けたヴェテランの間諜らしい(らしからぬ?)禁欲というよりも、まるで「一」に対する斥力でも働いているかのようだ。  こうして『オペラ・オペラシオネル』は後半、あたかも「一」と「二」の闘争の様相を帯びることになる。第三章の先ほどの続きの場面で、女スパイは主人公に「私たちふたりは驚くほど似ているといってよい」と言ってから、こう続ける。「しかし、類似とは、よく似たもの同士が決定的に異なる存在だという事実の否定しがたい証言としてしか意味をもたないものなのだ」。これだけならば「一ではなく二」でしかない。だがまだその先がある。「しかも、決定的に異なるものたちが、たがいの類似に脅えながらもこうして身近に相手の存在を確かめあっているという状況そのものが、これまでに起こったどんなできごととも違っているのである」。こうして「二」は再び「一」へと逆流する。まるで自らに念を押すように彼女は言う。いま起こっていることは「かつて一度としてありはしなかった」のだと。このあとの一文は、この小説の複雑な闘いの構図を、複雑なまま見事に表している。
 だから、あたりに刻まれている時間は、そのふたりがともに死ぬことを選ぶか、ともに生きることを選ぶしかない一瞬へと向けてまっしぐらに流れ始めているのだと女が言うとき、そらんじるほど熟読していたはずの楽譜の中に、たしかにそんな台詞が書き込まれていたはずだと思いあたりはするのだが、疲労のあまりものごとへの執着が薄れ始めている頭脳は、それが何幕のことだったのかと思い出そうとする気力をすっかり失っている。
 かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかしそれでも、彼女は繰り返す。「どこかしら似たところのある私たちふたりの出会いは、この別れが成就して以後、二度とくりかえされてはならない。そうすることがあなたと私とに許された誇らしい権利なのであり、それが無視されてこの筋書きにわずかな狂いでもまぎれこめば、とても脱出に成功することなどありはしまい」。『オペラ・オペラシオネル』のクライマックス場面における、この「一」対「二」の激しい争いは、読む者を興奮させる。「実際、あなたと私とがともに亡命の権利を認められ、頻繁に発着するジェット機の騒音などには耳もかさずに、空港の別のゲートをめざしてふりかえりもせずに遠ざかってゆくとき、ふたり一組で行動するという権利が初めて確立することになり、それにはおきかえもくりかえしもききはしないだろう」。「二」人組による、置換も反復も欠いた、ただ「一」度きりの逃避行。ここには明らかに、あの『アルファヴィル』のラストシーンが重ね合わされている。レミー・コーションはアンナ・カリーナが演じるナターシャ・フォン・ブラウンを連れて、遂に発狂した都市アルファヴィルを脱出する。彼らは「二人」になり、そのことによってこれから幸福になるのだ。『ドイツ零年』の終わり近くで、老いたるレミー・コーションの声が言う。「国家の夢は1つであること。個人の夢は2人でいること」。それはつまり「ふたり一組で行動するという権利」のことだ。  かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかも、もはや夢幻なのか現実なのかも判然としない最後の最後で、主人公と女スパイが乗り込むのは「これまでハンドルさえ握ったためしのないサイドカー」だというのだから(これが「ベッドがひとつしかない部屋」と対になっていることは疑いない)、結局のところ「二」は、やはり勝利してしまったのではあるまいか。「二」が「二」であり「二」であるしかないという残酷な運命に対して、結局のところ「三」も「一」も歯が立たなかったのではないのか。小説家蓮實重彦の一作目『陥没地帯』が「一の物語」であったように、小説家蓮實重彦の第二作は「二の物語」としての自らをまっとうする。そして考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。だってこの小説の題名は『オペラ・オペラシオネル』、そこには「オペラ」という単語が続けざまに「二」度、あからさまに書き込まれているのだから。
四、
 さて、遂にようやく「一、」の末尾に戻ってきた。では、小説家蓮實重彦の第三作『伯爵夫人』はどうなのか。この小説は「三」なのだから、仮説に従えば「四」もしくは「二」を志向せねばならない。もちろん、ここで誰もが第一に思い当たるのは、主人公の名前である「二朗」だろう。たびたび話題に上るように、二朗には亡くなった兄がいる。すなわち彼は二男である。おそらくだから「二」朗と名づけられているのだが、しかし死んだ兄が「一朗」という名前だったという記述はどこにもない、というか一朗はまた別に居る。だがそれはもっと後の話だ。ともあれ生まれついての「二」である二朗は、この小説の「三」としての運命から、あらかじめ逃れ出ようとしているかに見える。そう思ってみると、彼の親しい友人である濱尾も「二」男のようだし、従妹の蓬子も「二」女なのだ。まるで二朗は自らの周りに「二」の結界を張って「三」の侵入を防ごうとしているようにも思えてくる。  だが、当然の成り行きとして「三」は容赦なく襲いかかる。何より第一に、この作品の題名そのものであり、二朗にははっきりとした関係や事情もよくわからぬまま同じ屋敷に寝起きしている、小説の最初から最後まで名前で呼ばれることのない伯爵夫人の、その呼称の所以である、とうに亡くなっているという、しかしそもそも実在したかどうかも定かではない「伯爵」が、爵位の第三位ーー侯爵の下で子爵の上ーーであるという事実が、彼女がどうやら「三」の化身であるらしいことを予感させる。『オペラ・オペラシオネル』の「二」と同じく、『伯爵夫人』も題名に「三」をあらかじめ埋め込まれているわけだ。確かに「三」はこの小説のあちこちにさりげなく記されている。たとえば濱尾は、伯爵夫人の怪しげな素性にかかわる噂話として「れっきとした伯爵とその奥方を少なくとも三組は見かけた例のお茶会」でのエピソードを語る。また、やはり濱尾が二朗と蓬子に自慢げにしてみせる「昨日まで友軍だと気を許していた勇猛果敢な騎馬の連中がふと姿を消したかと思うと、三日後には凶暴な馬賊の群れとなって奇声を上げてわが装甲車舞台に襲いかかり、機関銃を乱射しながら何頭もの馬につないだ太い綱でこれを三つか四つひっくり返したかと思うと、あとには味方の特殊工作員の死骸が三つも転がっていた」という「どこかで聞いた話」もーー「四」も入っているとはいえーーごく短い��述の間に「三」が何食わぬ顔で幾つも紛れ込んでいる。  しかし、何と言っても決定的に重要なのは、すでに触れておいた、二朗と伯爵夫人が最初の、贋の抱擁に至る場面だ。謎の「ふたり組の男」に「二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と言って伯爵夫人が舞台に選ぶのは「あの三つ目の街路樹の瓦斯燈の灯りも届かぬ影になった幹」なのだが、演出の指示の最後に、彼女はこう付け加える。
 連中が遠ざかっても、油断してからだを離してはならない。誰かが必ずあの二人の跡をつけてきますから、その三人目が通りすぎ、草履の先であなたの足首をとんとんとたたくまで抱擁をやめてはなりません、よござんすね。
 そう、贋の抱擁の観客は「二」人ではなかった。「三」人だったのだ。しかし二朗は本番では演技に夢中でーー射精という事故はあったもののーー場面が無事に済んでも「あの連中とは、いったいどの連中だというのか」などと訝るばかり、ことに「三人目」については、その実在さえ確認出来ないまま終わる。つまり追っ手(?)が全部で「三」人居たというのは、あくまでも伯爵夫人の言葉を信じる限りにおいてのことなのだ。  まだある。一度目の射精の後、これも先に述べておいたが伯爵夫人は二朗に自らの性的遍歴を語り出す。自分はあなたの「お祖父さま」ーー二朗の母方の祖父ーーの「めかけばら」だなどと噂されているらしいが、それは根も葉もない言いがかりであって、何を隠そう、お祖父さまこそ「信州の山奥に住む甲斐性もない百姓の娘で、さる理由から母と東京に移り住むことになったわたくし」の処女を奪ったばかりか、のちに「高等娼婦」として活躍出来るだけの性技の訓練を施した張本人なのだと、彼女は告白する。まだ処女喪失から二週間ほどしか経っていないというのに、お祖父さまに「そろそろ使い勝手もよくなったろう」と呼ばれて参上すると、そこには「三」人の男ーーいずれも真っ裸で、見あげるように背の高い黒ん坊、ターバンを捲いた浅黒い肌の中年男、それにずんぐりと腹のでた小柄な初老の東洋人ーーがやってきて、したい放題をされてしまう。とりわけ「三」人目の男による見かけによらない濃厚な変態プレイは、破廉恥な描写には事欠かないこの小説の中でも屈指のポルノ場面と言ってよい。  まだまだある。二朗の「三」度目の射精の前、和製ルイーズ・ブルックスに案内された「更衣室」には、「野獣派風の筆遣いで描かれたあまり感心できない裸婦像が三つ」と「殺風景な三つのシャワーのついた浴場」がある。伯爵夫人が物語る、先の戦時中の、ハルピンにおける「高麗上等兵」のエピソードも「三」に満ちている。軍の都合によって無念の自決を強いられた高麗の上官「森戸少尉」の仇である性豪の「大佐」に、山田風太郎の忍法帖さながらの淫技で立ち向かい、森戸少尉の復讐として大佐の「金玉」を潰すという計画を、のちの伯爵夫人と高麗は練るのだが、それはいつも大佐が「高等娼婦」の彼女を思うさまいたぶるホテルの「三階の部屋」の「三つ先の部屋」でぼやを起こし、大佐の隙を突いて「金玉」を粉砕せしめたらすぐさま火事のどさくさに紛れて現場から立ち去るというものであり、いざ決行直後、彼女は「雑踏を避け、高麗に抱えられて裏道に入り、騎馬の群れに囲まれて停車していた三台のサイドカー」に乗せられて無事に逃亡する。  このように「三」は幾らも数え上げられるのだが、かといって「二」や「四」も皆無というわけではないーー特に「二」は後で述べるように伯爵夫人の一時期と切っても切り離せない関係にあるーーのだから、伯爵夫人が「三」の化身であるという予感を完全に証明し得るものとは言えないかもしれない。では、次の挿話はどうか?  三度目の射精の直後に例の「サボン」を投与されてしまった二朗は、今度は「黒い丸眼鏡をかけた冴えない小男」の先導で、さながら迷宮のようなホテル内を経巡って、伯爵夫人の待つ「お茶室」ーー彼女はあとで、その空間を「どこでもない場所」と呼ぶーーに辿り着く。そこで伯爵夫人はふと「二朗さん、さっきホテルに入ったとき、気がつかれましたか」と問いかける。「何ですか」「百二十度のことですよ」。今しがた和製ルイーズ・ブルックスと自らの「魔羅」の隆隆たる百二十度のそそり立ちについて語り合ったばかりなので、二朗は思わずたじろぐが、伯爵夫人は平然と「わたくしは回転扉の角度のお話をしているの。あそこにいったいいくつ扉があったのか、お気づきになりましたか」と訊ねる。もちろんそれは、小説の始まりに記されていた「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」のことだ。
 四つあるのが普通じゃなかろうかという言葉に、二朗さん、まだまだお若いのね。あそこの回転扉に扉の板は三つしかありません。その違いに気づかないと、とてもホテルをお楽しみになることなどできませんことよと、伯爵夫人は艶然と微笑む。四つの扉があると、客の男女が滑りこむ空間は必然的に九十度と手狭なものとなり、扉もせわしげにぐるぐるとまわるばかり。ところが、北普魯西の依怙地な家具職人が前世紀末に発明したという三つ扉の回転扉の場合は、スーツケースを持った少女が大きな丸い帽子箱をかかえて入っても扉に触れぬだけの余裕があり、一度に一・三倍ほどの空気をとりこむかたちになるので、ぐるぐるではなく、ばふりばふりとのどかなまわり方をしてくれる。
 「もっとも、最近になって、世の殿方の間では、百二十度の回転扉を通った方が、九十度のものをすり抜けるより男性としての機能が高まるといった迷信めいたものがささやかれていますが、愚かとしかいいようがありません。だって、百二十度でそそりたっていようが、九十度で佇立していようが、あんなもの、いったん女がからだの芯で受け入れてしまえば、どれもこれも同じですもの」と,いつの間にか伯爵夫人の語りは、またもや「魔羅」の話題に変わってしまっていて、これも笑うべきところなのかもしれないが、それはいいとして、ここで「四ではなく三」が主張されていることは明白だろう。とすると「ぐるぐるではなく、ばふりばふり」が好ましいとされているのも、「ぐるぐる」も「ばふりばふり」も言葉を「二」つ重ねている点では同じだが、「ぐる」は「二」文字で「ばふり」は「三」文字であるということがおそらくは重要なのだ。  そして更に決定的なのは、伯爵夫人がその後に二朗にする告白だ。あの贋の抱擁における二朗の演技に彼女は憤ってみせたのだが、実はそれは本意ではなかった。「あなたの手は、ことのほか念入りにわたくしのからだに触れておられました。どこで、あんなに繊細にして大胆な技術を習得されたのか、これはこの道の達人だわと思わず感嘆せずにはいられませんでした」と彼女は言う。だが二朗は正真正銘の童貞であって、あの時はただ先ほど観たばかりの「聖林製の活動写真」を真似て演じてみたに過ぎない。だが伯爵夫人はこう続けるのだ。「あのとき、わたくしは、まるで自分が真っ裸にされてしまったような気持ちになり、これではいけないとむなしく攻勢にでてしまった」。そして「そんな気分にさせたのは、これまで二人しかおりません」。すなわち二朗こそ「どうやら三人目らしい」と、伯爵夫人は宣告する。二朗は気づいていないが、この時、彼は「二」から「三」への変容を強いられているのだ。  ところで伯爵夫人には、かつて「蝶々夫人」と呼ばれていた一時代があった。それは他でもない、彼女がやがて「高等娼婦」と称されるに至る売春行為を初めて行ったロンドンでのことだ。「二朗さんだけに「蝶々夫人」の冒険譚を話してさしあげます」と言って彼女が語り出すのは、先の戦争が始まってまもない頃の、キャサリンと呼ばれていた赤毛の女との思い出だ。キャサリンに誘われて、まだ伯爵夫人とも蝶々夫人とも呼ばれてはいなかった若い女は「聖ジェームズ公園近くの小さな隠れ家のようなホテル」に赴く。「お待ちしておりましたというボーイに狭くて薄暗い廊下をぐるぐると回りながら案内されてたどりついた二階のお部屋はびっくりするほど広くて明るく、高いアルコーヴつきのベッドが二つ並んでおかれている」。こうなれば当然のごとく、そこに「目に見えて動作が鈍いふたりの将校をつれたキャサリンが入ってきて、わたくしのことを「蝶々夫人」と紹介する」。阿吽の呼吸で自分に求められていることを了解して彼女が裸になると、キャサリンも服を脱ぎ、そして「二」人の女と「二」人の男のプレイが開始される。彼女はこうして「高等娼婦」への道を歩み始めるのだが、全体の趨勢からすると例外的と言ってよい、この挿話における「二」の集中は、おそらくはなにゆえかキャサリンが彼女を「蝶々夫人」と呼んでみせたことに発している。「蝶」を「二」度。だからむしろこのまま進んでいたら彼女は「二」の化身になっていたかもしれない。だが、そうはならなかった。のちの「伯爵」との出会いによって「蝶々夫人」は「伯爵夫人」に変身してしまったからだ。ともあれ伯爵夫人が事によると「二」でもあり得たという事実は頭に留めておく必要があるだろう。そういえば彼女は幾度か「年増の二流芸者」とも呼ばれるし、得意技である「金玉潰し」もーーなにしろ睾丸は通常「二」つあるのだからーー失われた「二」の時代の片鱗を残しているというべきかもしれない。  「二」から「三」への転位。このことに較べれば、回想のはじめに伯爵夫人が言及する、この小説に何度もさも意味ありげに登場するオランダ製のココアの缶詰、その表面に描かれた絵柄ーー「誰もが知っているように、その尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、その図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです」ーーのことなど、その「尼僧」のモデルが他でもない赤毛のキャサリンなのだという理由こそあれ、読む者をいたずらに幻惑する無意味なブラフ程度のものでしかない。ただし「それは無に向けての無限連鎖ではない。なぜなら、あの尼僧が見すえているものは、無限に連鎖するどころか、画面の外に向ける視線によって、その動きをきっぱりと断ち切っているからです」という伯爵夫人の確信に満ちた台詞は、あの『陥没地帯』が世界そのもののあり方として体現していた「反復=循環性」へのアンビヴァレントな認識と通底していると思われる。  「このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから、いまはひとまずひかえておかれるのがよろしかろう」。これは伯爵夫人の台詞ではない。このような物言いのヴァリエーションは、この小説に何度もさも意味ありげに登場するのだが、伯爵夫人という存在がその場に漂わせる「婉曲な禁止の気配」だとして、こんな途方もない言葉を勝手に脳内再生しているのは二朗であって、しかも彼はこの先で本人を前に朗々と同じ内容を語ってみせる。一度目の射精の後、まもなく二度目の射精の現場となる電話ボックスにおける長い会話の中で二朗は言う。「あなたがさっき「あたいの熟れたまんこ」と呼ばれたものは、それをまさぐることを触覚的にも視覚的にも自分に禁じており、想像の領域においてさえ想い描くことを自粛しているわたくしにとって、とうてい世界の一部におさまったりするものではない。あからさまに露呈されてはいなくとも、あるいは露呈されていないからこそ、かろうじて保たれているこのあぶなっかしい世界の均衡を崩すまいと息づいている貴重な中心なのです」。これに続けて「あたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて維持されているこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねないから、わたくしが誰なのかを詮索するのはひかえておかれるのがよろしかろうという婉曲な禁止の気配を、あなたの存在そのものが、あたりに行きわたらせていはしなかったでしょうか」と、小説家蓮實重彦の前二作と同様に、先ほどの台詞が微��な差異混じりにリピートされる。こんな二朗のほとんど意味不明なまでに大仰な言いがかりに対して、しかし伯爵夫人はこう応じてみせるのだ。
 でもね、二朗さん、この世界の均衡なんて、ほんのちょっとしたことで崩れてしまうものなのです。あるいは、崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚をあたりに行きわたらせてしまうのが、この世界なのかもしれません。そんな世界に戦争が起きたって、何の不思議もありませんよね。
 いったいこの二人は何の話をしているのか。ここであたかも了解事項のごとく語られている「世界の均衡」というひどく観念的な言葉と、あくまでも具体的現実的な出来事としてある筈の「戦争」に、どのような関係が隠されているというのか。そもそも「戦争」は、前二作においても物語の背景に隠然と見え隠れしていた。『陥没地帯』においては、如何にもこの作品らしく「なぜもっと戦争がながびいてくれなかったのか」とか「明日にも終るといわれていた戦争が日々混沌として終りそびれていた」とか「戦争が始まったことさえまだ知らずにいたあの少年」とか「戦争の真の終りは、どこまでも引きのばされていくほかはないだろう」などと、要するに戦争がいつ始まっていつ終わったのか、そもそもほんとうに終わったのかどうかさえあやふやに思えてくるような証言がちりばめられていたし、『オペラ・オペラシオネル』の老スパイは「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」の思い出に耽りつつも、知らず知らずの内にいままさに勃発の危機にあった新たな戦争の回避と隠蔽に加担させられていた。そして『伯爵夫人』は、すでに見てきたようにひとつ前の大戦時の挿話が複数語られるのみならず、二朗の冒険(?)は「十二月七日」の夕方から夜にかけて起こっており、一夜明けた次の日の夕刊の一面には「帝國・米英に宣戦を布告す」という見出しが躍っている。つまりこれは大戦前夜の物語であるわけだが、ということは「世界の均衡」が崩れてしまったから、或いはすでに「崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚」に陥っていただけだという事実に気づいてしまったから、その必然的な帰結として「戦争」が始まったとでも言うのだろうか?  伯爵夫人は、二朗を迎え入れた「お茶室」を「どこでもない場所」と呼ぶ。「何が起ころうと、あたかも何ごとも起こりはしなかったかのように事態が推移してしまうのがこの場所なのです。(中略)だから、わたくしは、いま、あなたとここで会ってなどいないし、あなたもまた、わたくしとここで会ってなどいない。だって、わたくしたちがいまここにいることを証明するものなんて、何ひとつ存在しておりませんからね。明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまうという、いわば存在することのない場所がここなのです」。だからあなたがわたくしを本気で犯したとしても「そんなことなど起こりはしなかったかのようにすべてが雲散霧消してしまうような場所がここだといってもかまいません。さあ、どうされますか」と伯爵夫人は二朗を試すように問うのだが、このとき彼はすでに「サボン」の効用で七十二時間=三日間の不能状態にある。  そしてこの後、彼女はこの物語において何度となく繰り返されてきた秘密の告白の中でも、最も驚くべき告白を始める。そもそも先に触れておいた、二朗こそ自分にとっての「三人目らしい」という宣告の後、伯爵夫人は「お祖父さま」にかんする或る重要な情報を話していた。自分も含め「数えきれないほどの女性を冷静に組みしいて」きた「お祖父さま」は、にもかかわらず「あなたのお母さまとよもぎさんのお母さまという二人のお嬢さましかお残しにならなかった」。事実、隠し子などどこにもいはしない。なぜなら「それは、あの方が、ふたりのお嬢様をもうけられて以後、女のからだの中ではーーたとえ奥様であろうとーー絶対におはてにならなかったから。間違っても射精などなさらず、女を狂喜させることだけに生涯をかけてこられた。妊娠をさけるための器具も存在し始めておりましたが、そんなものはおれは装着せぬとおっしゃり、洩らすことの快感と生殖そのものをご自分に禁じておられた」。ならばなぜ、そのような奇妙な禁欲を自ら決意し守り抜こうとしたのか。二朗の死んだ兄は「「近代」への絶望がそうさせたのだろう」と言っていたというのだが、それ以上の説明がなされることはない。  だが実は、そうはならなかった、というのが伯爵夫人の最後の告白の中身なのだ。「ところが、その晩、そのどこでもない場所で、たったひとつだけ本当のできごとが起こった。ここで、わたくしが、お祖父さまの子供を妊ってしまったのです」。どういうわけか「お祖父さま」は伯爵夫人の膣に大量に放出してしまう。それが不測の事態であったことは間違いないだろう。だがやがて妊娠は確定する。当然ながら彼女は堕胎を考えるのだが、「ところが、お祖父さまのところからお使いのものが来て,かりに男の子が生まれたら一郎と名付け、ひそかに育て上げ、成年に達したら正式に籍に入れようという話を聞かされました」。こうして伯爵夫人は「一郎」を産んだのだった。しかもそれは二朗が誕生する三日前のことだったと彼女は言う。やはり隠し子はいたのだ。一郎はその後、伯爵夫人の母親の子として育てられ、いまは二朗と同じく来年の帝大入学を目指している。「しかし、その子とは何年に一度しか会ってはならず、わたくしのことを母親とも思っていない。ですから、ほぼ同じ時期に生まれたあなたのことを、わたくしはまるで自分の子供のようにいたわしく思い、その成長を陰ながら見守っておりました」。この「女」から「母」への突然の変身に、むろん二朗は衝撃と困惑を隠すことが出来ない。それに伯爵夫人のこのような告白を信じるにたる理由などどこにもありはしない。むしろ全面的に疑ってかかる方がまともというものだろう。二朗は自分こそが「一郎」なのではないかと思いつく。そういえば何度も自分は祖父にそっくりだと言われてきた。容貌のみならず「おちんちん」まで。それについ今しがた、伯爵夫人はここが「どこでもない場所」であり、それゆえ「明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまう」と言ってのけたばかりではないか。その舌の根も乾かぬうちにこんな話をされて、いったい何を信じろというのか。  ことの真偽はともかくとして、ここで考えておくべきことが幾つかある。まず「一郎」が伯爵夫人と「お祖父さま」の間の秘密の息子の名前だというのなら、二朗の死んだ兄の名前は何だったのか、ということだ。そもそもこの兄については、曰くありげに何度も話題にされるものの、小説の最初から最後まで一度として名前で呼ばれることはなく、そればかりか死んだ理由さえ明らかにされることはない。幾つかの記述から、���くなったのはさほど遠い昔ではなかったらしいことは知れるのだが、それだけなのだ。まさかこちらの名前も「一郎」だったわけはない。一郎が生まれた時には二朗の兄は生きていたのだから……書かれていないのだから何もかもが憶測でしかあり得ないが、結局のところ、兄は二朗を「二」朗にするために、ただそれだけのために物語に召喚されたのだとしか考えられない。そして別に「一郎」が存在している以上は、兄には何か別の名前があったのだろう。いや、いっそ彼は「無名」なのだと考えるべきかもしれない。実在するのかどうかも定かではない「お祖父さま」と伯爵夫人の息子には名前があり、確かにかつては実在していた筈の二朗の兄には名前が無い。「どこでもない場所」での伯爵夫人の最後の告白を聞くまで、読む者は二朗の兄こそ「一郎」という名前だったのだろうと漫然と決め込んでいる。だからそこに少なからぬ驚きが生じるのだが、つまりそれは「二」の前に置かれている「一」がずらされるということだ。その結果、二朗の「二」はにわかに曖昧な数へと変貌してしまう。それどころか彼には自分が「二」ではなく「一」なのかもしれぬという疑いさえ生じているのだから、このとき「一」と「二」の関係性は急激に解け出し、文字通り「どこでもない場所」に溶け去ってしまうかのようだ。  もうひとつ、このことにかかわって、なぜ「お祖父さま」は「一郎」の誕生を許したのかという問題がある。彼にはすでに「二」人の娘がいる。その後に奇妙な禁欲を自らに強いたのは、すなわち「三」人目を拒んだということだろう。「二」に踏み留まって「三」には行かないことが、二朗の兄言うところの「「近代」への絶望」のなせる業なのだ。つまり「三」の禁止こそ「世界の均衡」を保つ行為なのであって、このことは「お祖父さま」の爵位が子爵=爵位の第四位だったことにも暗に示されている。ということは、彼はひとつの賭けに出たのだと考えられないか。確かに次は自分にとって「三」人目の子供になってしまう。それだけは避けられない。しかし、もしも伯爵夫人との間に生まれてくるのが男だったなら、それは「一」人目の息子ということになる。だから彼はおそらく祈るような気持ちで「一郎」という名前をあらかじめ命名したのだ。逆に、もしも生まれてきたのが女だったなら、その娘が果たしてどうなっていたか、考えるのもおそろしい気がしてくる。  「三」の禁止。仮説によるならば、それは『伯爵夫人』の原理的なプログラムの筈だった。「一郎」をめぐる思弁は、そのことを多少とも裏づけてくれる。だがそれでも、紛れもない「三」の化身である伯爵夫人の振る舞いは、この世界を「三」に変容せしめようとすることを止めはしない。彼女は二朗を「三」人目」だと言い、たとえ「一郎」という命名によって何とか抗おうとしていたとしても、彼女が「お祖父さま」の「三」人目の子を孕み、この世に産み落としたことには変わりはない。「一」郎の誕生を「二」朗が生まれる「三」日前にしたのも彼女の仕業だろう。やはり「三」の優位は揺るぎそうにない。だから二朗が射精するのは「三」度でなければならないし、二朗が不能に陥るのは「三」日間でなければならない。考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。なぜならこれは小説家蓮實重彦の第三作、すなわち「三の物語」なのだから。  そして、かろうじて保たれていた「世界の均衡」が崩れ去った、或いはすでにとっくに崩れてしまっていた事実が晒け出されたのが、「ばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」から「どこでもない場所」へと至るめくるめく経験と、その過程で次から次へと物語られる性的な逸話を二朗に齎した自らの奸計の結果であったとでも言うように、伯爵夫人は物語の末尾近くに不意に姿を消してしまう。どうやら開戦の情報を知って急遽大陸に発ったらしい彼女からの言づてには、「さる事情からしばらく本土には住みづらくなりそうだから」としか急な出奔の理由は記されていない。かくして「三」は勝利してしまったのか。本当にそうか。実をいえばここには、もうひとつだけ別の可能性が覗いている。すなわち「四」。ここまでの話に、ほぼ全く「四」は出てきていない。しかし「三」であることから逃れるために、いまや「二」の方向が有効でないのなら、あとは「四」に向かうしかない。では「四」はいったいどこにあるのか。  伯爵夫人が「伯爵」と出会ったのは、バーデンバーデンでのことだ。「あと数週間で戦争も終わろうとしていた時期に、味方の不始末から下半身に深い傷を追った」せいで性的機能を喪失してしまったという、絶体絶命の危機にあっても決して平静を失わないことから部下たちから「素顔の伯爵」と呼ばれていたドイツ軍将校と、のちの伯爵夫人は恋に落ち、彼が若くして亡くなるまでヨーロッパ各地で生活を共にしたのだった。バーデンバーデンは、他の土地の名称と同じく、この小説の中では漢字で表記される。巴丁巴丁。巴は「三」、丁は「四」のことだ。すなわち「三四三四」。ここに「四」へのベクトルが隠されている。だが、もっと明白な、もっと重大な「四」が、意外にも二朗の身近に存在する。  二朗が真に執着しているのが、伯爵夫人でも和製ルイーズ・ブルックスでもなく、従妹の蓬子であるということは、ほぼ間違いない。このことは、ポルノグラフィックな描写やセンセーショナルな叙述に囚われず、この小説を虚心で読んでみれば、誰の目にも明らかだ。この場合の執着とは、まず第一に性的なものであり、と同時に、愛と呼んでも差し支えのないものだ。確かに二朗は蓬子に触れられてもしごかれてもぴくりともしないし、小春などから何度も従妹に手をつけただろうと問われても事実そのものとしてそんなことはないと否定して内心においてもそう思っているのだが、にもかかわらず、彼が求めているのは本当は蓬子なのだ。それは読めばわかる。そして小説が始まってまもなく、蓬子が伯爵夫人についてこともなげに言う「あの方はお祖父ちゃまの妾腹に決まっているじゃないの」という台詞が呼び水となって、二朗は「一色海岸の別荘」の納戸で蓬��に陰部を見せてもらったことを思い出すのだが、二人の幼い性的遊戯の終わりを告げたのは「離れた茶の間の柱時計がのんびりと四時」を打つ音だった。この「四」時は、二朗のヰタ・セクスアリスの抑圧された最初の記憶として、彼の性的ファンタズムを底支えしている。それに蓬子は「ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型」をしているのだ。二朗は気づいていないが、あの「和製ルイーズ・ブルックス」は、結局のところ蓬子の身代わりに過ぎない。そして何よりも決定的なのは、蓬子という名前だ。なぜなら蓬=よもぎは「四方木」とも書くのだから。そう、彼女こそ「四」の化身だったのだ。  小説の終わりがけ、ようやく帰宅した二朗は、蓬子からの封書を受け取る。彼女は伯爵夫人の紹介によって、物語の最初から「帝大を出て横浜正金銀行に勤め始めた七歳も年上の生真面目な男の許嫁」の立場にあるのだが、未だ貞節は守っており、それどころか性的には甚だ未熟な天真爛漫なおぼこ娘ぶりを随所で発揮していた。だが手紙には、緊急に招集された婚約者と小田原のホテルで落ち合って、一夜を共にしたとある。婚約者は誠実にも、自分が戦死する可能性がある以上、よもぎさんを未婚の母にするわけにはいかないから、情交には及べないーーだがアナル・セックスはしようとする、ここは明らかに笑うところだーーと言うのだが、蓬子は「わたくしが今晩あなたとまぐわって妊娠し、あなたにもしものことがあれば、生まれてくる子の父親は二朗兄さまということにいたしましょう」と驚くべきことを提案し、それでようやっと二人は結ばれたのだという。それに続く文面には、赤裸々に処女喪失の場面が綴られており、その中には「細めに開いた唐紙の隙間から二つの男の顔が、暗がりからじっとこちらの狂態を窺っている」だの「あのひとは三度も精を洩らした」だのといった気になる記述もありはするのだが、ともあれ二朗はどうしてか蓬子のとんでもない頼みを受け入れることにする。彼は小春を相手に現実には起こっていない蓬子とのふしだらな性事を語ってみせさえするだろう。それは「二」として生まれた自分が「三」からの誘惑を振り切って「四」へと離脱するための、遂に歴然とその生々しい姿を現した「世界の均衡」の崩壊そのものである「戦争」に対抗し得るための、おそらく唯一の方法であり、と同時に、あるとき突然向こうからやってきた、偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としての「小説」の、意味もなければ正しくもない「原理」、そのとりあえずの作動の終幕でもある。
(初出:新潮2016年8月号)
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kafujita · 5 years
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Cinema『ハウス・ジャック・ビルト』ラース・フォン・トリアー
私は今左手に、不可解なこの映画をただの娯楽に堕とす白いナイロン袋を持っている。
ソクーロフのファウスト、ドボロフスキーのホーリーマウンテン。
描きたいものを前にして物語を踏み躙る。たしかに完成された物語はどんなに胸をかき乱しても、指先にあてた絶対安全剃刀。物語を壊して安全装置をはずすって?それを映像、音楽、でやるのが映画でしょう。それができないなら辞めちまえよ映画
2019/08/16 アップリンク渋谷
不気味なものの肌に触れたい
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tinytable-blog · 6 years
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ギガタウン・イン・テラタウン
京都に行ってきた。
京都国際マンガミュージアムでこうの史代の企画展をやっているのである。題して「 ギガタウン・イン・テラタウン」。
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こうの史代は「ぼおるぺん古事記」がすき。なんというか、実験的なひとである。まんが界の筒井康隆か、 清水義範といったところだろうか。
新作の原画展示があったのだが、撮影OKだったのがうれしい。
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あとメイン展示のほうで、各年代ごとの書架があったんだけど、その1982年がすごかった。「AKIRA」「童夢」「気分はもう戦争」って、大友克彦仕事しすぎ。「風の谷のナウシカ」もこの年。ほかに「絶対安全剃刀」とか、「わたしは真吾」とか。
ところで行きがけに、ふと気が向いて錦市場を通り抜けてみたんだけど、いやぁインバウンドすごいわ。
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