#第五人格初詣
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)5月31日(水曜日)弐
通巻第7775号
テスラは「人質」である。テスラの総売上高の21%は中国である。
イーロン・マスクが突如、北京へプライベートジェットで乗り付けた
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イーロン・マスクが5月30日に突如、北京へプライベートジェットで乗り付け、秦剛外相と会談した。
マスク所有のジェット機は「2015 ガルフストリーム G650ER」で、アラスカで給油後、日本、韓国上空を飛行したことがロイターの追跡で判明しており、当初の予測ではマスクは北京で李強首相と面会する予定と言われた。
中国外務省によれば、会談で、「テスラはデカップリングや供給網の分断に反対し、中国での業務拡大を続けていく」と話したという。
「米中対立のさなかだが、テスラは中国重視の姿勢をアピールしたい。世界第2位の経済大国(=中国)がさらなる市場開放に向けて努力し、海外投資に対する魅力を高めている状況にあることを世界的に宣伝できる機会ともなった」と関係者は言う。
蛇足だが中国の報道では「秦国務委員兼外相がマスク(世界一の金持ち。資産2000億ドル)と会見」となっており、報道の重点の置き方が、順番と資産にあることを物��っている。
秦剛外相は「テスラを含む諸外国企業に中国が市場志向、法的、国際的なビジネス環境の構築に尽力する。中国の発展は世界にとってチャンスだ。健全で安定した建設的な中米関係は、中国と米国だけでなく世界全体にとっても有益だ」と綺麗ごとを述べた。
中国に大工場をかかえ年間45万台を上海工場で生産するテスラは、換言すれば「人質」である。なにしろテスラの総売上高の21%は中国である。
イーロン・マスク訪中の直前にもスターバックスのCEO、ラクスマン・ナラシンハンが、アップルCEOのティム・クック、ファィザーCEOのアルバート・ボウラらが訪中した。
スタバは中国全土に展開しているが、価格は日本より高いのに若い世代に人気がある。
アップルのスマホは中国で組み立てられており、またファイザーの中国における売り上げも巨大である。
▲マスクはトランプ支持からデサンティスに乗り換えたのか?
問題はイーロン・マスクの政治的立ち位置だろう。
政治的にはトランプを支援し、巨費を投じてツィッターを買収して、「永久凍結」されたトランプのアカウントを再開する。マスクは共和党支持である。
ところが一方で、次期大統領選挙ではトランプに挑戦するデサンティスを熱心に支援している。
マスクの政治行動で気になるのは台湾統一に関して「台湾を特別行政区として統一すれば良い」と中国側に吹き込まれてことを直截に表現していることだ。
バランス感覚から言えばテスラの市場は中国であって台湾ではない。したがって台湾独立には距離をおいているか、無関心である。
したがってマスクがのこのこと北京へ詣でたことは中国の政治宣伝の鴨だったことにならないか。
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園��各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだった��証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史��その庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除く��ど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
『一流と日本庭園』 生島あゆみ 著 CCCメディアハウス
正伝寺 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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【原爆、アメリカ】 4年前の春のことである。私はアメリカの中西部、いわゆる「トランプ王国」の本場のような場所を観光で旅した。目的はイリノイ州スプリングフィールドにある、エイブラハム・リンカーンの墓を詣でることだった。 ある大変な田舎の町で、私は土地の南北戦争史愛好家の方々と歓談する機会を得た。もちろん土地柄が土地柄だから、皆さん「私はFOXテレビしか見ないんだ」などと豪語する、ゴリゴリの保守派である。ただまあ、場の話題はリンカーンほか南北戦争史に関することで、私のつたない英語も笑って許してくれながら、とても楽しいひとときを過ごした。 会話の終わりごろ、一人の男性が私にこう問うた。 「お前は俺たちの国の歴史にやたら詳しいなあ。遠くから来て滅茶苦茶大した奴だ。日本では南北戦争史の人気が高いのか?」 私は笑って返した。 「いや、ほとんどの日本人は関心ありませんよ。でも、古い世代の左翼が意外に好きで、Japanese Communist PartyのBig Bossであるミスター・フワは日本を代表するリンカーン・マニアだ。まあ、マルクス気取りってやつですよ」 私がそう答えると、場は大爆笑となった。リンカーンとカール・マルクスは同時代人で、マルクスは南北戦争を奴隷解放、人種平等、つまり貧者の富者に対する階級闘争と見てリンカーンを熱烈に支持し、当時彼が滞在していたイギリスからアメリカに、北軍を激励する手紙も送っている。もっとも、リンカーン自身は社会主義というものが何なのかよくわかっておらず、自身が海外のおかしな政治勢力に利用されることを警戒して、努めて社交儀礼程度の対応しかしなかった。この「マルクスの一方的なリンカーン愛」は南北戦争史愛好家の間ではよく知られた話で、現代日本のコミュニストさえそんな風なのかと、場のアメリカン保守の皆様方は笑いの声を上げたわけである。 私も笑いながら、続けて言った 「ああ、そういえばヒロシマ・シティーの元市長で、ソーシャリストのミスター・アキバという人物もリンカーン好きですよ」 当然また、場は爆笑すると思った。しかし次の瞬間、場は逆に静まり返った。少し間をおいて���一人がばつの悪そうに言った。 「……悪いな。そのヒロシマという町を俺は知らない」 私はそれに対し、まったく深い考えもなく、軽くこう返した。 「え、そうなんですか。昔、世界で最初にアトミック・ボムが落ちた町です」 場はますます静まり返り、「俺、もう用事があるんだ」と三々五々、人は帰りはじめ、そこでお開きのようなことになってしまった。 私もよく分からないままその場を辞し、その集まりに連れて行ってもらった人と、その日の宿へ向かった。その途上、その人が本当に涙をポタポタと垂らしながら、私にこう言ってきたのである。 「許してくれ、カンダイ。原爆は本当にいけないことだった。アメリカはたくさんの過ちを犯してきた国だ。でも、本当にそれを申し訳ないと思いながら、少しずつみんなでがんばっているんだ」 私は原爆投下とは戦争犯罪なのかとか、アメリカの第2次大戦時の行動の是��とか、そんなことを念頭に置いて「ヒロシマ」の名を出したわけではまったくなく、逆に面食らって、何と返していいのか分からなかった。突然のことに戸惑いながら、「私は第2次大戦終結後、30年以上もたって生まれた人間で、かつ広島や長崎の出身者でもなく、あなたたちの前で被害者のような顔をする資格はない。また、戦争に正義も悪もない。当時の日本もアメリカも、それぞれにいいところ、悪いところがあった。確かに戦争の中では悲惨なことが起こるが、それは当時の関係者が、当時の限られた状況の中で、彼らなりによくも悪くもベストを尽くした結果である。それはそれこそ南北戦争史を学んでいけば、誰もが到達する一つの結論だと思う。反省は必要だろうが、後世からの安易な断罪は誰も必要としていない。少なくとも私にそんな風に謝るのはやめてほしい」というようなことを何とか語ったことを覚えている。 繰り返すが、この話が起きた現場はカリフォルニアやニューヨークといったインテリ・リベラルの牙城ではなく、保守の本場、トランプ旋風の中心地、中西部である。よくこの季節になると、「アメリカとは夜郎自大な国家で、日本への原爆投下のことなんか何も悪く思っていない。そういう傲慢な気風は、トランプ登場でますます強くなっている」というような発言が、日本の「論客」とされるような立場の人たちからしばしば上がってくる。しかし私は4年前、以上のような経験をして、それはかなり違うのではないかと思っている。月並みではあるのだけど、やはりわれわれは圧倒的に相互理解、本気の交流が足りない。アメリカでさえそうなのだから、中東だのアフリカだのになれば、その断絶はいかほどなのだろう。とにかく人と話をすることは大切だ。 世界��平和でありますように。それを空念仏とせず、われわれの一人一人が、それに向かって誠実に歩めますように。
2019年8月9日 小川 寛大
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あなたにだけは忘れてほしくなかった
アメリカ合衆国、ニューヨーク州、マンハッタン、ニューヨーク市警本部庁舎。 上級職員用のオフィスで資料を眺めていた安藤文彦警視正は顔をしかめた。彼は中年の日系アメリカ人である。頑なに日本名を固持しているのは血族主義の強かった祖父の影響だ。厳格な祖父は孫に米国風の名乗りを許さなかったためである。祖父の信念によって子供時代の文彦はいくばくかの苦労を強いられた。 通常、彼は『ジャック』と呼ばれているが、その由来を知る者は少ない。自らも話したがらなかった。 文彦は暴力を伴う場合の少ない知的犯罪、いわゆるホワイトカラー犯罪を除く、重大犯罪を扱う部署を横断的に統括している。最近、彼を悩ませているのは、ある種の雑音であった。 現在は文彦が犯罪現場へ出る機会はないに等しい。彼の主たる業務は外部機関を含む各部署の調整および、統計分析を基として行う未解決事件への再検証の試みであった。文彦の懸念は発見場所も年代も異なる数件の行方不明者の奇妙な類似である。類似といっても文彦の勘働きに過ぎず、共通項目を特定できているわけではなかった。ただ彼は何か得体の知れない事柄が進行している気配のようなものを感じ取っていたのである。 そして、彼にはもうひとつ、プライベートな懸念事項があった。十六才になる姪の安藤ヒナタだ。
その日は朝から快晴、空気は乾いていた。夏も最中の日差しは肌を刺すようだが、日陰に入ると寒いほどである。自宅のダイニングルームでアイスティーを口にしながら安藤ヒナタは決心した。今日という日にすべてをやり遂げ、この世界から逃げ出す。素晴らしい考えだと思い、ヒナタは微笑んだ。 高校という場所は格差社会の縮図であり、マッチョイズムの巣窟でもある。ヒナタは入学早々、この猿山から滑り落ちた。見えない壁が張り巡らされる。彼女はクラスメイトの集う教室の中で完全に孤立した。 原因は何だっただろうか。ヒナタのスクール��ッグやスニーカーは他の生徒よりも目立っていたかもしれない。アジア系の容姿は、彼らの目に異質と映ったのかも知れなかった。 夏休みの前日、ヒナタは階段の中途から突き飛ばされる。肩と背中を押され、気が付いた時には一階の踊り場に強か膝を打ちつけていた。 「大丈夫?」 声だけかけて去っていく背中を呆然と見送る。ヒナタは教室に戻り、そのまま帰宅した。 擦過傷と打撲の痕跡が残る膝と掌は、まだ痛む。だが、傷口は赤黒く乾燥して皮膚は修復を開始していた。もともと大した傷ではない。昨夜、伯父夫婦と夕食をともにした際もヒナタは伯母の得意料理であるポークチョップを食べ、三人で和やかに過ごした。 高校でのいざこざを話して何になるだろう。ヒナタは飲み終えたグラスを食洗器に放り込み、自室へ引っ込んだ。
ヒナタの母親はシングルマザーである。出産の苦難に耐え切れず、息を引き取った。子供に恵まれなかった伯父と伯母はヒナタを養子に迎え、経済的な負担をものともせず、彼女を大学に行かせるつもりでいる。それを思うと申し訳ない限りだが、これから続くであろう高校の三年間はヒナタにとって永遠に等しかった。 クローゼット���ら衣服を抜き出して並べる。死装束だ。慎重に選ぶ必要がある。等身大の鏡の前で次々と試着した。ワンピースの裾に払われ、細々としたものがサイドボードから床に散らばる。悪態を吐きながら拾い集めていたヒナタの手が止まった。横倒しになった木製の箱を掌で包む。母親の僅かな遺品の中からヒナタが選んだオルゴールだった。 最初から壊れていたから、金属の筒の突起が奏でていた曲は見当もつかない。ヒナタはオルゴールの底を外した。数枚の便箋と写真が納まっている。写真には白のワイシャツにスラックス姿の青年と紺色のワンピースを着た母親が映っていた。便箋の筆跡は美しい。『ブライアン・オブライエン』の署名と日付、母親の妊娠の原因が自分にあるのではないかという懸念と母親と子供に対する執着の意思が明確に示されていた。手紙にある日付と母親がヒナタを妊娠していた時期は一致している。 なぜ母は父を斥けたのだろうか。それとも、この男は父ではないのか。ヒナタは苛立ち、写真の青年を睨んだ。 中学へ進み、スマートフォンを与えられたヒナタは男の氏名を検索する。同姓同名の並ぶ中、フェイスブックに該当する人物を見つけた。彼は現在、大学の教職に就いており、専門分野は精神病理学とある。多数の論文、著作を世に送り出していた。 ヒナタは図書館の書棚から彼の書籍を片っ端から抜き出す。だが、学術書を読むには基礎教養が必要だ。思想、哲学、近代史、統計を理解するための数学を公共の知の宮殿が彼女に提供する。 ヒナタは支度を終え、バスルームの洗面台にある戸棚を開いた。医薬品のプラスチックケースが乱立している。その中から伯母の抗うつ剤の蓋を掴み、容器を傾けて錠剤を掌に滑り出させた。口へ放り込み、ペットボトルの水を飲み込む。栄養補助剤を抗うつ剤の容器に補充してから戸棚へ戻した。 今日一日、いや数時間でもいい。ヒナタは最高の自分でいたかった。
ロングアイランドの住宅地にブライアン・オブライエンの邸宅は存在していた。富裕層の住居が集中している地域の常であるが、ヒナタは脇を殊更ゆっくりと走行している警察車両をやり過ごす。監視カメラの装備された鉄柵の門の前に佇んだ。 呼び鈴を押そうかと迷っていたヒナタの耳に唸り声が響く。見れば、門を挟んで体長一メータ弱のドーベルマンと対峙していた。今にも飛び掛かってきそうな勢いである。ヒナタは思わず背後へ退いた。 「ケンダル!」 奥から出てきた男の声を聞いた途端、犬は唸るのを止める。スーツを着た男の顔はブライアン・オブライエン、その人だった。 「サインしてください!」 鞄から取り出した彼の著作を抱え、ヒナタは精一杯の声を張り上げる。 「いいけど。これ、父さんの本だよね?」 男は門を開錠し、ヒナタを邸内に招き入れた。
男はキーラン・オブライエン、ブライアンの息子だと名乗った。彼の容姿は写真の青年と似通っている。従って現在、五十がらみのブライアンであるはずがなかった。ヒナタは自らの不明を恥じる。 「すみません」 スペイン人の使用人が運んできた陶磁器のコーヒーカップを持ち上げながらヒナタはキーランに詫びた。 「これを飲んだら帰るから」 広大な居間に知らない男と二人きりで座している事実に気が滅入る。その上、父親のブライアンは留守だと言うのであるから、もうこの家に用はなかった。 「どうして?」 「だって、出かけるところだよね?」 ヒナタはキーランのスーツを訝し気に見やる。 「別にかまわない。どうせ時間通りに来たことなんかないんだ」 キーランは初対面のヒナタを無遠慮に眺めていた。苛立ち始めたヒナタもキーランを見据える。 ヒナタはおよそコンプレックスとは無縁のキーランの容姿と態度から彼のパーソナリティを分析した。まず、彼は他者に対してまったく物怖じしない。これほど自分に自信があれば、他者に無関心であるのが普通だ。にも拘らず、ヒナタに関心を寄���ているのは、何故か。 ヒナタは醜い女ではないが、これと取り上げるような魅力を持っているわけでもなかった。では、彼は何を見ているのか。若くて容姿に恵まれた人間が夢中になるもの、それは自分自身だ。おそらくキーランは他者の称賛の念を反射として受け取り、自己を満足させているに違いない。 「私を見ても無駄。本質なんかないから」 瞬きしてキーランは首を傾げた。 「俺に実存主義の講義を?」 「思想はニーチェから入ってるけど、そうじゃなくて事実を言ってる。あなたみたいに自己愛の強いタイプにとって他者は鏡でしかない。覗き込んでも自分が見えるだけ。光の反射があるだけ」 キーランは吹き出す。 「自己愛? そうか。父さんのファンなのを忘れてたよ。俺を精神分析してるのか」 笑いの納まらないキーランの足元へドーベルマンが寄ってくる。 「ケンダル。彼女を覚えるんだ。もう吠えたり、唸ったりすることは許さない」 キーランの指示に従い、ケンダルはヒナタのほうへ近づいてきた。断耳されたドーベルマンの風貌は鋭い。ヒナタは大型犬を間近にして体が強張ってしまった。 「大丈夫。掌の匂いを嗅がせて。きみが苛立つとケンダルも緊張する」 深呼吸してヒナタはケンダルに手を差し出す。ケンダルは礼儀正しくヒナタの掌を嗅いでいた。落ち着いてみれば、大きいだけで犬は犬である。 ヒナタはケンダルの耳の後ろから背中をゆっくりと撫でた。やはりケンダルはおとなしくしている。門前で威嚇していた犬とは思えないほど従順だ。 「これは?」 いつの間にか傍に立っていたキーランがヒナタの手を取る。擦過傷と打撲で変色した掌を見ていた。 「別に」 「こっちは? 誰にやられた?」 キーランは、手を引っ込めたヒナタのワンピースの裾を摘まんで持ち上げる。まるでテーブルクロスでもめくる仕草だ。ヒナタの膝を彩っている緑色の痣と赤黒く凝固した血液の層が露わになる。ヒナタは青褪めた。他人の家の居間に男と二人きりでいるという恐怖に舌が凍りつく。 「もしきみが『仕返ししろ』と命じてくれたら俺は、どんな人間でも這いつくばらせる。生まれてきたことを後悔させる」 キーランの顔に浮かんでいたのは怒りだった。琥珀色の瞳の縁が金色に輝いている。落日の太陽のようだ。息を吸い込む余裕を得たヒナタは掠れた声で言葉を返す。 「『悪事を行われた者は悪事で復讐する』わけ?」 「オーデン? 詩を読むの?」 依然として表情は硬かったが、キーランの顔から怒りは消えていた。 「うん。伯父さんが誕生日にくれた」 キーランはヒナタのすぐ隣に腰を下ろす。しかし、ヒナタは咎めなかった。 「復讐っていけないことだよ。伯父さんは普通の人がそんなことをしなくていいように法律や警察があるんだって言ってた」 W・H・オーデンの『一九三九年九月一日』はナチスドイツによるポーランド侵攻を告発した��である。他国の争乱と無関心を決め込む周囲の人々に対する憤りをうたったものであり、彼の詩は言葉によるゲルニカだ。 「だが、オーデンは、こうも言ってる。『我々は愛し合うか死ぬかだ』」 呼び出し音が響き、キーランは懐からスマートフォンを取り出す。 「違う。まだ家だけど」 電話の相手に生返事していた。 「それより、余分に席を取れない? 紹介したい人がいるから」 ヒナタはキーランを窺う。 「うん、お願い」 通話を切ったキーランはヒナタに笑いかけた。 「出よう。父さんが待ってる」 戸惑っているヒナタの肩を抱いて立たせる。振り払おうとした時には既にキーランの手は離れていた。
キーラン・オブライエンには様々な特質がある。体格に恵まれた容姿、優れた知性、外科医としての将来を嘱望されていること等々、枚挙に暇がなかった。だが、それらは些末��過ぎない。キーランを形作っている最も重要な性質は彼の殺人衝動だ。 この傾向は幼い頃からキーランの行動に顕著に表れている。小動物の殺害と解剖に始まり、次第に大型動物の狩猟に手を染めるが、それでは彼の欲求は収まらなかった。 対象が人間でなければならなかったからだ。 キーランの傾向にいち早く気付いていたブライアン・オブライエンは彼を教唆した。具体的には犯行対象を『悪』に限定したのである。ブライアンは『善を為せ』とキーランに囁いた。彼の衝動を沈め、社会から悪を排除する。福祉の一環であると説いたのだ。これに従い、彼は日々、使命を果たしてる。人体の生体解剖によって嗜好を満たし、善を為していた。 「どこに行くの?」 ヒナタの質問には答えず、キーランはタクシーの運転手にホテルの名前を告げる。 「行けないよ!」 「どうして?」 ヒナタはお気に入りではあるが、量販店のワンピースを指差した。 「よく似合ってる。綺麗だよ」 高価なスーツにネクタイ、カフスまでつけた優男に言われたくない。話しても無駄だと悟り、ヒナタはキーランを睨むに留めた。考えてみれば、ブライアン・オブライエンへの面会こそ重要課題である。一流ホテルの従業員の悪癖であるところの客を値踏みする流儀について今は不問に付そうと決めた。 「本当にお父さんに似てるよね?」 「俺? でも、血は繋がってない。養子だよ」 キーランの答えにヒナタは目を丸くする。 「嘘だ。そっくりじゃない」 「DNAは違う」 「そんなのネットになかったけど」 ヒナタはスマートフォンを鞄から取り出した。 「公表はしてない」 「じゃあ、なんで話したの?」 「きみと仲良くなりたいから」 開いた口が塞がらない。 「冗談?」 「信じないのか。参ったな。それなら、向こうで父さんに確かめればいい」 キーランはシートに背中を預け、目を閉じた。 「少し眠る。着いたら教えて」 本当に寝息を立てている���ヒナタはスマートフォンに目を落とした。
ヒナタは肩に触れられて目を覚ました。 「着いたよ」 ヒナタの背中に手を当てキーランは彼女を車から連れ出した。フロントを抜け、エレベーターへ乗り込む。レストランに入っても警備が追いかけてこないところを見ると売春婦だとは思われていないようだ。ヒナタは脳内のホテル番付に星をつける。 「女性とは思わなかった。これは、うれしい驚きだ」 テラスを占有していたブライアン・オブライエンは立ち上がってヒナタを迎えた。写真では茶色だった髪は退色し、白髪混じりである。オールバックに整えているだけで染色はしていなかった。三つ揃いのスーツにネクタイ、機械式の腕時計には一財産が注ぎ込まれているだろう。デスクワークが主体にしては硬そうな指に結婚指輪が光っていたが、彼の持ち物とは思えないほど粗雑な造りだ。アッパークラスの体現のような男が配偶者となる相手に贈る品として相応しくない。 「はじめまして」 自分の声に安堵しながらヒナタは席に着いた。 「彼女は父さんのファンなんだ」 ヒナタは慌てて鞄から本を取り出す。 「サインしてください」 本を受け取ったブライアンは微笑んだ。 「喜んで。では、お名前を伺えるかな?」 「安藤ヒナタです」 老眼鏡を懐から抜いたブライアンはヒナタに顔を向ける。 「スペルは?」 答える間もブライアンはヒナタに目を据えたままだ。灰青色の瞳は、それが当然だとでも言うように遠慮がない。血の繋がりがどうであれ、ブライアンとキーランはそっくりだとヒナタは思った。 ようやく本に目を落とし、ブライアンは結婚指輪の嵌った左手で万年筆を滑らせる。 「これでいいかな?」 続いてブライアンは『ヒナタ』と口にした。ヒナタは父親の声が自分の名前を呼んだのだと思う。その事実に打ちのめされた。涙があふれ出し、どうすることもできない。声を上げて泣き出した。だが、それだけではヒナタの気は済まない。二人の前に日頃の鬱憤を洗いざらい吐き出していた。 「かわいそうに。こんなに若い女性が涙を流すほど人生は過酷なのか」 ブライアンは嘆く。驚いたウェイターが近付いてくるのをキーランが手を振って追い払った。ブライアンは席を立ち、ヒナタの背中をさする。イニシャルの縫い取られたリネンのハンカチを差し出した。 「トイレ」 宣言してヒナタはテラスを出ていく。 「おそらくだが、向精神薬の副作用だな」 父親の言葉にキーランは頷いた。 「彼女。大丈夫?」 「服用量による。まあ、あれだけ泣いてトイレだ。ほとんどが体外に排出されているだろう」 「でも、攻撃的で独善的なのは薬のせいじゃない」 ブライアンはテーブルに落ちていたヒナタの髪を払い除ける。 「もちろんだ。彼女の気質だよ。しかし、同じ学校の生徒が気の毒になる。家畜の群れに肉食獣が紛れ込んでみろ。彼らが騒ぐのは当然だ」 呆れた仕草でブライアンは頭を振った。 「ルアンとファンバーを呼びなさい。牧羊犬が必要だ。家畜���黙らせる。だが、友情は必要ない。ヒナタの孤立は、このままでいい。彼女と親しくなりたい」 「わかった。俺は?」 「おまえの出番は、まだだ。キーラン」 キーランは暮れ始めている空に目をやる。 「ここ。誰の紹介?」 「アルバート・ソッチ。デザートが絶品だと言ってた。最近、パテシエが変わったらしい」 「警察委員の? 食事は?」 ブライアンも時計のクリスタルガラスを覗いた。 「何も言ってなかったな�� 戻ってきたヒナタの姿を見つけたキーランはウェイターに向かい指示を出す。 「じゃあ、試す必要はないね。デザートだけでいい」 ブライアンは頷いた。
「ハンカチは洗って返すから」 ヒナタとキーランは庁舎の並ぶ官庁街を歩いていた。 「捨てれば? 父さんは気にしない」 面喰ったヒナタはキーランを窺う。ヒナタは自分の失態について思うところがないわけではなかった。ブライアンとキーランに愛想をつかされても文句は言えない。二人の前で吐瀉したも同じだからだ。言い訳はできない。だが、ヒナタは、まだ目的を果たしていないのだ。 ブライアン・オブライエンの実子だと確認できない状態では自死できない。 「それより、これ」 キーランはヒナタの手を取り、掌に鍵を載せた。 「何?」 「家の鍵。父さんも俺もきみのことを家族だと思ってる。いつでも遊びに来ていいよ」 瞬きしているヒナタにキーランは言葉を続ける。 「休暇の間は俺がいるから。もし俺も父さんもいなかったとしてもケンダルが 相手をしてくれる」 「本当? 散歩させてもいい? でも、ケンダルは素気なかったな。私のこと好きじゃないかも」 「俺がいたから遠慮してたんだ。二人きりの時は、もっと親密だ」 ヒナタは吹き出した。 「犬なのに二人?」 「ケンダルも家族だ。俺にとっては」 相変わらずキーランはヒナタを見ている。ヒナタは眉を吊り上げた。 「言ったよね? 何もないって」 「違う。俺はきみを見てる。ヒナタ」 街灯の光がキーランの瞳に映っている。 「だったら、私の味方をしてくれる? さっき家族って言ってたよね?」 「言った」 「でも、あなたはブライアンに逆らえるの? 兄さん」 キーランは驚いた顔になった。 「きみは、まるでガラガラヘビだ」 さきほどの鍵をヒナタはキーランの目の前で振る。 「私が持ってていいの? エデンの園に忍び込もうとしている蛇かもしれない」 「かまわない。だけど、あそこに知恵の実があるかな? もしあるとしたら、きみと食べたい」 「蛇とイブ。一人二役だね」 ヒナタは入り口がゲートになったアパートを指差した。 「ここが私の家。さよならのキスをすべきかな?」 「ヒナタのしたいことを」 二人は互いの体に手を回す。キスを交わした。
官庁街の市警本部庁舎では安藤文彦が部下から報告を受けていた。 「ブライアン・オブライエン?」 クリスティナ・ヨンぺルト・黒田は文彦が警部補として現場指揮を行っていた時分からの部下である。移民だったスペイン人の父親と日系アメリカ人の母親という出自を持っていた。 「警察委員のアルバート・ソッチの推薦だから本部長も乗り気みたい」 文彦はクリスティナの持ってきた資料に目をやる。 「警察委員の肝入りなら従う他ないな」 ブライアン・オブライエン教授の専門は精神病理学であるが、応用心理学、主に犯罪心理学に造詣が深く、いくつかの論文は文彦も読んだ覚えがあった。 「どうせ書類にサインさせるだけだし誰でもかまわない?」 「そういう認識は表に出すな。象牙の塔の住人だ。無暗に彼のプライドを刺激しないでくれ」 クリスティナは肩をすくめる。 「新任されたばかりで本部長は大張り切り。大丈夫。失礼なのは私だけ。他の部下はアッパークラスのハウスワイフよりも上品だから。どんな男でも、その気にさせる」 「クリスティナ」 軽口を咎めた文彦にクリスティナは吹き出した。 「その筆頭があなた、警視正ですよ、ジャック。マナースクールを出たてのお嬢さんみたい。財政の健全化をアピールするために部署の切り捨てを行うのが普通なのに新しくチームを立ち上げさせた。本部長をどうやって口説き落としたの?」 「きみは信じないだろうが、向こうから話があった。私も驚いている。本部長は現場の改革に熱意を持って取り組んでいるんだろう」 「熱意のお陰で予算が下りた。有効活用しないと」 文彦は顔を引き締めた。 「浮かれている場合じゃないぞ。これから、きみには負担をかけることになる。私は現場では、ほとんど動けない。走れないし、射撃も覚束ない」 右足の膝を文彦が叩く。あれ以来、まともに動かない足だ。 「射撃のスコアは基準をクリアしていたようだけど?」 「訓練場と現場は違う。即応できない」 あの時、夜の森の闇の中、懐中電灯の光だけが行く手を照らしていた。何かにぶつかり、懐中電灯を落とした瞬間、右手の動脈を切り裂かれる。痛みに耐え切れず、銃が手から滑り落ちた。正確で緻密なナイフの軌跡、相手はおそらく暗視ゴーグルを使用していたのだろう。流れる血を止めようと文彦は左手で手首を圧迫した。馬乗りになってきた相手のナイフが腹に差し込まれる感触と、その後に襲ってきた苦痛を表す言葉を文彦は知らない。相手はナイフを刺したまま刃の方向を変え、文彦の腹を横に薙いだ。 当時、『切り裂き魔』と呼ばれていた殺人者は、わざわざ文彦を国道まで引きずる。彼の頬を叩いて正気づかせた後、スマートフォンを顔の脇に据えた。画面にメッセージがタイピングされている。 「きみは悪党ではない。間違えた」 俯せに倒れている文彦の頭を右手で押さえつけ、男はスマートフォンを懐に納める。その時、一瞬だけ男の指に光が見えたが、結婚指輪だとわかったのは、ずいぶん経ってからである。道路に文彦を放置して男は姿を消した。 どうして、あの場所は、あんなに暗かったのだろうか。 文彦は事ある毎に思い返した。彼の足に不具合が生じたのは、ひとえに己の過信の結果に他ならない。ジャックと文彦を最初に名付けた妻の気持ちを彼は無にした。世界で最も有名な殺人者の名で夫を呼ぶことで凶悪犯を追跡する文彦に自戒するよう警告したのである。 姪のヒナタに贈った詩集は自分自身への諌言でもあると文彦は思った。法の正義を掲げ、司法を体現してきた彼が復讐に手を染めることは許されない。犯罪者は正式な手続きを以って裁きの場に引きずり出されるべきだ。 「ジャック。あなたは事件を俯瞰して分析していればいい。身長六フィートの制服警官を顎で使う仕事は私がやる。ただひとつだけ言わせて。本部長にはフェンタニルの使用を黙っていたほうがいいと思う。たぶん良い顔はしない」 フェンタニルは、文彦が痛み止めに使用している薬用モルヒネである。 「お帰りなさい、ジャック」 クリスティナが背筋を正して敬礼する。文彦は答礼を返した。
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藍月,第十四話,我願為你
三千多年前,由神祇統治的時代被後世稱呼為「神代」。
位於十六神頂端的三位神祇光明、黑暗以及火神統治著互不干涉的五個世界。
西方瑟伊爾大陸是曾經的人界,與東方大陸的魔界信仰執掌鮮血與戰爭的黑暗神廷被稱為「武聖皇」,以初代魔王的身分統御這片大陸。魔族最古老的貴族曼德沙家族即為武聖皇的後裔,將血魔法以及通往冥界的血池贈與自己的後代。
在武聖皇離開下界,原本的魔界分割為五個國家,分別是東方的常悠、暗星,中心的月妃,西方的那華是由一半魔族一半海之民組成,南方是崇拜龍神的歐龍國。經過數百年的爭鬥,曼德沙家族憑藉血魔法的庇佑以及受到血池祝福的魔劍,於常悠國首都滄雨繼承「魔王」之位,統御西方大陸。
……
……
一片死寂。
緊接著,議論聲此起彼落。
「那就是滄雨的魔王?怎麼看都是小孩子!」
「他看起來挺好相處的,跟傳聞中的完全不一樣。」
這位魔王陛下與想像中完全不同。因為他無論何時都帶著令人如沐春風的笑,有些人將他稱呼為「��面魔王」。
兩人並肩時比起夫妻更像是姊弟,如此這般的議論聲當然一字不漏地被魔王陛下聽在耳裡。
他們之所以敢如此大膽,卻是因為他們對魔族的情勢有所了解。
對魔族稍有了解的人都知道,魔王陛下與大皇后過去曾因為三皇子殿下有過爭執。而魔王陛下,卻選擇丟下大皇后星澄站在三皇子殿下那裡。這位勤懇工作卻不被尊重的大皇后,只被當成一個不夠漂亮的擺飾。
有些大膽的人掩著嘴訕笑,突然感覺背後一片冷意。
戰戰兢兢地回頭,正好撞上魔王陛下不帶溫度的視線。此時他帶著招牌的笑容,就朝議論的人們走過來。
「諸位似乎在說很有趣的話題,能讓我加入嗎?」
這句話用的是還算標準的神族語。
「魔、魔王陛下……」
弱小的神族光是靠近魔王,就會被他身上那股黑暗氣息入侵而身體不適,稍具抵抗力的人也不禁在他面前瑟瑟發抖。與柔和的笑容相反,魔王身上散發的那股強大魔力正警告對方不該造次。
即便身高與外貌不具威脅性,按在腰間配劍溫柔摩娑的手卻威脅性十足。
偌大的入口彷彿被奪走聲音,靜得能夠聽見急促的呼吸。
徹.曼德沙的口吻仍舊溫柔:「不繼續說了嗎?」
「非常抱歉,請、請您原諒。」
「我不希望亞德的生日宴會見血,所以,這件事情就到此為止。作為聖法提加的貴族,希望對外賓品頭論足前能夠更謹慎一點。」
提著裙子的大皇后輔佐官這才匆忙趕到,狠瞪了發言的子爵一眼,轉向徹。
「非常抱歉,讓您遇到如此不愉快。我將會秉告神王陛下,請他務必懲處,還請大皇后見諒。」
徹看向大皇后星澄,後者嘴角微翹,看來心情不錯。
星澄笑道:「呵呵,不過是些無聊的閒言碎語。輔佐官大人不必擔心,只是初犯,我不會記在心上。好了,別再說些不愉快的事了,帶我去見亞德吧?」
魔王陛下對大皇后伸出手,兩人並肩步入王宮大廳。魔王走動時,作為髮飾的紅色鈴鐺發出清脆的聲響。
直到屬於魔王的樂音遠去���屏息的人們才終於吐出一口氣。
「那就是『紅色惡靈』。」
議論的聲音仍舊,或是恐懼、或者憤怒,終究只能是壓低聲音的耳語。
對聖法提加的神族而言,第七代的魔王徹.曼德沙是最難纏的對手。
徹的血魔法搭配邪劍「嗜血」,在戰場上所向披靡,甚至被譽為武聖皇之後的最強魔王。與強大的戰力相反,七代魔王陛下愛好和平,在位三百年雖不曾主動發動戰爭,與歐龍的三次內戰次次親征並大獲全勝。對反叛者的手段殘酷,使得這位看似少年的魔王,被同族暗暗稱呼為「滄雨的紅色惡靈」。
至今魔王徹已經在位三百年,神族與魔族的和平也維持了相同時長。聖法提加的人們對這位魔王既是期待、又是恐懼。
人們想知道,這年會是和平的另一個里程碑、或者是終結?
……
記憶中的清脆鈴鐺聲接近,亞德朝聲音的來向看。
伴隨著禮賓的樂音,魔王徹.曼德沙陛下與初次見面的大皇后踩著紅毯前來,亞德一眼就認出對方,內心難掩激動。
亞德連忙上前招呼,「好久不見,魔王陛下。歡迎來到聖法提加。」
「亞德,好久不見。你這段時間過得還好嗎?」
「託您的福。」
倘若對象是其他人,這些不過是社交辭令。這回,亞德卻字句發自內心。
收到徹贈與的晨曦後,亞德在聖法提加的生活雖然不算事事順心,卻少了不少麻煩。最起碼他有了自己的宮殿與可靠的侍者,不需要看那些貴族僕人的臉色,更不需要被他們言語嘲諷。
「這位是我的大皇后,星澄.曼德沙。」
「您好,大皇后陛下。我是聖法提加的第一王子亞德.拉斯奇,很榮幸與您見面。」
星澄以扇掩面,那雙代表闇星國的漂亮的紅眼睛打量著亞德,好半晌才握住亞德伸出的手。「初次見面,亞德殿下。我經常從陛下那裡聽說你的事。雖然你也有魔王之眼,卻跟三皇子殿下不怎麼相似。陛下,您怎麼說?」
「我覺得很好。」
兩人的互動明顯包含弦外之音,還沒等亞德弄懂意思,諾伊莎便接話道:「有兩件事情要稟告魔王陛下,是有關聖王御下的神諭事情。」
「光明女神的預言又跟我有什麼關係?」
「與其說是神諭,不如說是跟聖王本身有關。您應該也有所耳聞,新任的聖王是個很特別的人。他的神聖魔法造詣很高,幾乎能夠與伊芙蕾希雅相提並論。」諾伊莎頓了頓,「除此��外,他還自稱是殿下的兄弟。」
至此,徹終於面露驚訝。
「亞德,這是怎麼回事?」
四人隨著諾伊莎進入會客室,亞德簡略地向兩人描述了早晨的事。
聽見神諭的時候,徹與星澄飛快地交換了視線。據說徹正在尋找失蹤的龍之君主,也難怪對神諭中提到「沉睡的龍」特別感興趣。
「也就是說,早上那股從聖法提加發出的力量,就是聖王的傑作?如果真是這樣,這為聖王比起伊芙蕾希雅殿下可是有過之而無不及。」
亞德道:「我第一次跟聖見面,是在洗禮的時候。聖他不但是受到光明女神認可的聖王、跟我一樣是紫色眼睛,魔力也跟我很接近,感覺可信度很高。晚點聖會代表光聖教前來,到時候應該有機會見面。」
星澄問:「拉娜陛下怎麼說?」
「她說很驚訝,但不無可能。母親生下我之前,因為我身上同時有神聖魔力與深淵魔力經常身體不適。為此,神后陛下曾經邀請黑森林女巫前來聖法提加協助,不久後,我就出生了。她猜想,或許是母親跟黑森林女巫有過約定。」
「是傀儡、還是魔法生物?不,不對,如果真是如此,不可能走進光聖殿,更不可能主持神諭儀式。」徹沉吟了片刻,「既然這樣,計劃要稍微改變了。亞德,小時候我曾經問過你,在聖法提加是否待的愉快。現在你是怎麼想的?」
作為黑髮的混血王子,亞德其實不怎麼喜歡聖法提加。雖然不曾想過離開,卻不能像之前那樣肯定地說「我想留下來」。
然而,這短暫的猶豫就是最好的答案。
體貼的魔王必下沒有追問,伸手摸了摸亞德的頭。
「今天是你的生日,我不想成為壓力。我只是想告訴你,我的邀請永遠有效……而且對聖也是如此。」
「可是,他是聖王。滄雨能夠接受光聖教的聖王嗎?」
徹笑道:「有何不可?魔界由許多國家組成,有各自的種族與信仰。比方月妃國就是信奉光聖教的宗教國、西方的那華國由海之民統治、南方的歐龍信仰龍神。血統對魔族來說,不像聖法提加的神族那麼重要。」
「一般的神族可以在聖法提加生活嗎?」
「當然可以。根據國家不同,還是有血統限制。魔王不同於神王,雖然擁有絕對的權威也統領五國,對各國的影響有限。嚴格來說,只有位在常悠國內的滄雨城才勉強算是魔王轄下。」
亞德忍不住好奇:「既然各國有國王,為何又要聽命魔王?」
「因為魔王與國王都是魔族頂尖的強者,在外敵入侵時,有義務帶兵出��。魔族是強者為尊,只要魔王或者魔劍的持有者過世,就會舉辦武鬥祭。在武鬥祭勝出的人,會得到魔劍以及挑戰魔王的機會。在祭典落敗的魔王就被迫遜位。」
「原來如此,這確實很符合魔族的天性。」
「如果有機會的話,歡迎你來滄雨參與武鬥祭。或許有機會成為未來的魔王?」
「這有點難度,您還是饒了我吧。」
眾人又隨意聊了一陣子,魔王夫婦這才離開,諾伊莎也提早接待賓客。
亞德抓準時機潤飾宴會的講稿,掐準時間迎接琉璃。
此時琉璃早已準備完畢,正在鏡子前面練習走路的儀態。看見有人比自己更緊張,亞德感覺自己似乎沒那麼害怕了。她才走幾步又回到鏡子前調整緞帶,好陣子才發現亞德到來:「殿下,您怎麼不提醒我!」
盛裝的亞德倚在門邊,一臉笑容:「反正還有時間,看妳這樣也挺有趣的。」
「……殿下!」
「好了,不開玩笑。」亞德對琉璃伸出手,「琉璃,我們走。」
這是亞德第一次喊她的名字。
琉璃詫異抬頭,正好望進亞德的笑容:「別露出那種表情,不習慣也得裝得自然一點,免得被人議論。」
「好的。那我也……噫!」
亞德很自然地伸出手搭住琉璃的腰。琉璃嚇了一跳,悲鳴著往後閃躲,在跌倒之前被亞德伸手抓住。只見亞德滿臉無奈:「躲成這樣有點傷人自尊啊。」
是因為突然拉近的距離、漂亮的容貌,還是因為聲音呢?總之,琉璃滿臉通紅。
「抱歉,我有點怕癢。」
「好吧,那就換個地方。肩膀可以嗎?」
少年戴著手套的手小心翼翼地搭上肩,往自己的身邊帶。有過心理準備,琉璃臉上雖然薄紅未褪,終於不再閃躲,看來像是羞怯的小情侶。
……太好了。琉璃鬆了口氣。
誰知亞德盯了她好半晌,執起她的手,在手套上落下親吻。
居然突襲!琉璃努力克制抽手的衝動。
「殿下好像很熟練。」
不論是惡作劇,還是調戲良家婦女這點。亞德一本正經:「這是一般貴族的禮儀,妳得快點習慣才行。」
與此同時,午後六點的鐘聲響起,遠處神王陛下正在致詞,兩人在稍遠處準備。
看來認真又溫和的王子殿下意外喜歡惡作劇。
這點,她應該很難習慣。
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什麼是筆勢
書畫同源——中國畫是寫出來的
「象形」為六書之首,上古人創造文字,用符號傳達信息的首選方法是直接畫出物之形象,一目了然。然而待文字經歷了成熟期,完全線條化與符號化後,便可見文字反過來影響繪畫的情況。
如1994年出土於甘肅省高台縣駱駝城的墓中壁畫牧鹿圖中,可見畫師是運用幾個部件定式與少有變化的筆畫來進行創作的。從金文中可以看到「鹿」字的主要構成元素為:鹿角、鹿頭(突出眼睛)、鹿身、鹿蹄。注意此時鹿腿是直的,多一筆僅僅表示鹿蹄的特徵。在小篆中鹿角簡化為線條,頭部仍保留大眼睛的樣��(鹿眼睛或眼神在世界各地文化中都有不可侵犯的地位),鹿身縮短,而鹿蹄的線條彎曲,由此衍化成隸書中的「比」字形。這時的「鹿」字更接近於盤腿跪坐的小鹿,正如壁畫中所畫。
再看這幅兒童畫,我記憶中八十年代最初學畫時就是這樣被教育的,現在許多兒童仍然繼承了這樣的概念。實際現實中中國並不容易見到這樣的房子,也不知為何太陽是紅色的並且要有刺。但是我們可能先看看草的畫法。
商承祚《〈說文〉中之古文考》:「《石經.春秋經》:『隕霜不殺屮』,艸之古文作屮。案:屮、艸本一字。初生為屮,蔓延為艸。」
外國兒童畫中也有類似的表達格式,但是草似乎沒有定式,不像中國小孩畫草必須用三筆,這實際上仍然是繼承了「寫畫」的標準。
楚簡「屮」的寫法將左右兩筆連寫,變成類似一個底座上面添一根草。這樣的「寫」法在甘肅墓葬筆畫中也可見,只是中間多幾根草。其影響可能延續到波斯、印度、蒙古帝國的細密畫中,但在列王書插畫中看到的草已經圖案化,而不再是文字書寫。
再看兒童畫中的雲。據我所知,外國兒童畫雲大多是花瓣狀,而記憶中小時候被教畫的雲一定要有一個尖尾巴,正如孫悟空的筋斗雲一般。這也很令人疑惑,這個尖到底是什麼?
這是《說文解字》中的古文「雲」字,其實是「云」,雲的本字。也有一個 尖。但這裡我認為還有更深一層的啟示。
書法的根基——勢
這個小尖表達的真正意義,我認為是說明了雲氣的運動方向。無論現實中雲運動起來是什麼樣,這個小尖指向雲朵走向的相反方向,成為了雲氣尾巴的意符。
雲是氣的典型具象代表,漢朝人信仰��與自然會有意識地通過氣的具象化來傳遞信息。氣的運動稱之為「勢」。「勢」是「天」的語言,其審美價值在人類所創文字以上。這也是草書興起的最主要原因——其中有勢。 金觀濤教授認為草書的興起源於對宇宙論儒學的道德價值逆反,書法的產生源於文字意義與書寫行為被分離開來,這時「一種在儒學修身中不明顯的修身方法出現了,這就是去體驗『勢』。」「這種『勢』一旦和道德有關,立即和道德價值逆反所指向的天人關係對應起來。」正因為這種價值逆反,才導致趙壹咬牙切齒,然而「東漢末對草書之狂熱乃是魏晉玄風的前奏。」
因此,書法之所以成為藝術,就是以之體驗「勢」與修身道德的掛鉤。但以書寫來創造「勢」,必須基於用筆技術(使用兩個鋒)的絕對精準(八面鋒),正如音律必須遵守嚴格的音準才能創造音樂。桓靈時期張芝、鍾繇已將法則發展到極致,韋誕造出絕頂文房,有了這樣各方面的條件,二王才能登峰造極,將書法發展成為中國藝術的核心。
從趙壹《非草書》中的牢騷恰恰使我們知道,在張芝將章草推進為今草的時代,民眾已經開始自發地有意識地追求書法,不為功利、道德、社會的肯定而義無反顧地去做這件事,其實這已經是藝術行為了。
什麼是筆勢——法
這樣我們可知,書法作為一門藝術,必須依靠精熟的「用筆」技術,創造出超越語言文字的「筆勢」,如果只寫一個簡單的字,有這兩樣已經成功,張懷瓘說「書則一字已見其心」。如果這個字的筆畫多,那麼便需要運用幾個筆勢,或書寫整篇,其間的節奏安排,藏度呼應總稱為「裹束」。
這便是黃簡老師說的「書法三要素」。玉堂禁經說「夫書第一用筆,第二識勢,第三裹束。三者兼備,然後為書,茍守一途,即為未得。」非常嚴格,書法的「法」不是隨便說說的。
筆勢在書法中仍然屬於技法的範疇,正如筆法的發展一樣,是逐漸總結經驗,慢慢成熟的。
王羲之之所以被認為是書聖,正因為他用筆精悍,運用筆勢絕妙。從他的墨跡中可以讀出當時揮毫的情景,甚至可以看出就算見面也未必看得出的情懷。細讀筆勢,還可深究,不得不欽佩他在文字上的博學,精通隸法,並且出神入化的創造力,如今依靠科技,將古文字典全部輸入電腦,也未必能創造得比他高明。
黃簡老師從張旭的「八法」「五勢」出發,整理出直至清朝的古籍中後人補充的筆勢,將之歸納入一個筆勢系統,以便今人運用。這是具體的書法技法。正如一門新語言的單詞表。但筆勢的「勢」究竟是什麼呢?以下我們從廣義上探索一番。
書法對其他藝術的影響——山水畫
《史記.天官書》記載了漢朝觀天象的守則,如果天邊出現了某種雲,那這一戰最好不要打了。我們知道雲就是天的氣,雲的形態和運動就是氣勢,表現出來的是天的語言,是宇宙對你說的話。那麼現在人類也想學習這門語言,想通過製造表象,來表達超過表象能說出來的內容。
書法的藝術架構實際上極其超前,二十世紀的John Cage通過東方哲學摸索到了一絲書法的創作模式(依靠一個精準的系統來製造變化,最終放手於自然),便改變了整個西方音樂界的發展。在我看來,書法的體系比他所使用的還要複雜,至今還沒有一門藝術能夠超越。
試想在魏晉時期出現了這樣幾千年後仍然無法超越的藝術模式,怎可能不影響其他的藝術?
顧愷之雖然沒有山水畫作傳世,但讀一段他的「畫雲臺山記」可以看出書法的影響:
山有面,則背向有影。【點畫向背】
可令慶雲西而吐於東方。【佈置,勢】
清天中,凡天及水色,盡用空青,【意先筆後】
竟素上下以暎日。【預想佈置】
西去山:
別詳其遠近。【虛實】
發迹東基,轉上未半,【筆勢,度,連】
作紫石如堅雲者五六枚。【筆勢】
夾岡乘其間而上,【筆勢,度,連】
使勢蜿蟺如龍,【筆勢】
因抱峰直頓而上。【筆勢,藏,斷】
下作積岡,【筆勢,呼應】
使望之蓬蓬然凝而上。【筆勢,仰】
次復一峰,是石,東鄰向者峙峭峰,【筆勢,映帶,重起一勢,東】
西連西向之丹崖,下據絕磵。【筆勢,呼應,西】
畫丹崖臨澗上,當使赫巘隆崇,畫險絕之勢。【承接西,險勢】
天師坐其上,合所坐石及廕。【靜勢,收】
宜磵中,桃傍生石間。【另起一筆】
畫天師瘦形而神氣遠,【筆勢,度,連】
據磵指挑,回面謂弟子。【筆勢,顧盼】
弟子中有二人臨下,到身大怖,流汗失色。【筆勢,向下】
作王良穆然坐答問,而超升神爽精詣,俯眄桃樹。【筆勢,呼應桃樹】
又別作王、趙趨。【另起一筆】
一人隱西壁傾岩,餘見衣裾,【靜勢】
一人全見室中,使輕妙泠然。【靜勢】
凡畫人,坐時可七分,衣服彩色殊鮮微,此正蓋山高而人遠耳。【推遠,收勢。】
從這段文字可以看出,顧愷之不是在記錄某山,也不只是對於天師與王、趙的敘事,而是在造勢,每一塊石頭與山峰之間都有聯繫。雲臺山就像是書法家的蘭亭序,是一個背景架構,實際上有沒有五六枚紫石,是五枚還是六枚都不重要,重要的是在這整幅畫中可以感受到一股氣韻的運動,而這股氣韻不是別人,正是顧愷之本人。後代的山水畫作無不遵守這樣的創作手法。
理解了書法的創作模式,就掌握了中國藝術的核心。也不難明白為什麼蟲書鳥書、花鳥畫很容易被士人瞧不起了,表象的模仿即使達到極致,也還是低於自然的創造。而花道、柔道、太極拳無非是基於像書法這樣的表達方法,最終目的都是通過「勢」來表達修身成果。
人是自然的造物,而人生中的每一個遭遇與作出的每一個決定,都使人成為一個獨特的生命,因此人也是自己的造物。「究天人之際」,人與天鬥爭又和解的反覆過程,就像書法的修行一樣,需要花一生時間與其糾結,真正留下的藝術品,都是人世間痛苦而珍貴的寶石。
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蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
原創2021-08-30 20:14·博史通今
清朝康熙四十四年(1705年)九月初七,清宮中一位年長的宮女病逝,康熙的心情十分沉痛,下旨為該宮女舉辦隆重的葬禮。這次葬禮有三個比較特殊的地方:
第一,這位宮女已經93歲了,歷經天命、天聰、崇德、順治、康熙五個時代。
第二,康熙不僅親自過問她的葬禮,還給禮部下旨,要按嬪妃之禮來辦理這位宮女的喪事。
第三,不僅如此,康熙還允許十二皇子胤裪為她守靈七日。出殯那天,除了皇五子、皇十子照顧皇太后,皇十四子留在紫禁城外,其他諸位皇子都參加了她的喪儀。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
縱觀清史,宮女有如此待遇的,僅此一人。這位宮女,名叫蘇麻喇姑。她曾是孝莊的隨身侍女,也是康熙的啟蒙女老師。本文,筆者將和大家分享這位傳奇的清宮女子。
一、草原上的口袋
提起蘇麻喇姑,就不得不提她的主子布木布泰,後者還有一個大家耳熟能詳的名字——孝莊文皇后(“孝莊”雖然是諡號,但為了便於閱讀,下文稱孝莊)。約在明朝萬曆四十一年,孝莊出生在科爾沁草原上,她的父親是蒙古科爾沁草原上的貝勒。孝莊是家族的二小姐,身為蒙古貴族,她剛出生就註定和別人不同。按照慣例,等孝莊到了孩提時代,家族就要為她挑選同齡侍女。約在孝莊五六歲的時候,貝勒府挑中了一位叫蘇茉兒的女孩,她比孝莊大一歲,她身體健壯,為人沉穩懂事,很快得到了孝莊的認可。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
蘇茉兒是蒙古語的音譯,翻譯成漢語的意思是“草原上用毛製成的口袋”。後來,蘇茉兒改名為蘇麻喇,意思是“半大的口袋”。若干年後,由於蘇麻喇在宮中威望甚高,宮中上下都習慣在她的名字後面加一個“姑”字,這才有了後世聞名的蘇麻喇姑。
蘇麻喇姑出身於窮苦牧民家庭,被選為侍女,是她們家最大的喜事,入選當天,她發誓要一生一世照顧孝莊,事實證明,她做到了。
自從蘇麻喇姑到了貝勒府後,她就和孝莊一起學習滿語,憑著自己的聰明伶俐和刻苦努力,蘇麻喇姑很快精准地掌握了滿語,這為她以後輔佐孝莊,啟蒙康熙打下了基礎。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
後金時期,孝莊所在的博爾濟吉特氏是蒙古黃金家族的後裔,在蒙古族中威望甚高,努爾哈赤為了拉攏蒙古部族,幾度和該家族聯姻。例如,努爾哈赤的第八子皇太極之妻就是布木布泰的姑姑哲哲。天命四年(1625年)二月,在兄長吳克善的護送下,孝莊帶著侍女蘇麻喇姑遠赴盛京,她和她的姑姑哲哲一樣,成為了皇太極的女人。後來皇太極繼承汗位,孝莊成為了皇太極側福晉。皇太極稱帝後,孝莊被冊封為莊妃,並且生下了皇九子福臨。
從家族的二小姐,到皇太極的側福晉,從莊妃,到孝莊文皇后,孝莊走到哪里,蘇麻喇姑就陪到哪里。後宮艱險,女人更是不易,但蘇麻喇姑一直是現在的左膀右臂,是孝莊最信任的人。
《史記·遊俠列傳》中有一句話:
而布衣之徒,設取予然諾,千裏誦義,為死不顧世。
意思是說,出身雖然不高,但為了當初自己的諾言,不管遇到多大的困難也不放棄。蘇麻喇姑雖是女子,但也足見高義。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
其實,對於孝莊來說,蘇麻喇姑的存在,不僅僅是忠心護主,更是多年來的陪伴和慰藉。
二、手制國初衣冠
眾所周知,努爾哈赤雖然有“清太祖”的廟號,但實際上,他並不是清朝的建立者。後金天聰十年(1636年),也就是孝莊來到盛京的第十年,皇太極改汗位為帝位,正式建立大清,改元崇德。因此,在清朝的歷史紀元中,1636年是天聰十年,同時,也是崇德元年。
從後金到大清,這不能僅僅是一個政權換了名稱,更是禮儀、體制的轉變,印璽、服飾等都要重新設計。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
蘇麻喇姑心靈手巧,在針線上頗具造詣,而且,他熟悉滿蒙文化,因此,莊妃向皇太極推薦蘇麻喇姑來設計清朝的開國服飾。《清史稿·卷一百零三》記載:
蘇麻喇姑,孝莊文皇后之侍女也,國初衣冠飾樣,皆其手制。
蘇麻喇姑充分吸收了滿、漢、蒙等北方各族服飾的優點,通過修改和創新,出色地完成了國初服飾的製作。
從“皆其手制”這四個字可以看出,蘇麻喇姑在清朝開國時期的工作量應該很大,清朝國初時期各層級的禮儀服飾,基本上都出自蘇麻喇姑之手。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
從皇太極立國到宣統退位,清朝國祚長達296年,而蘇麻喇姑所設計的開國服飾,實際上在清朝延續了296年。
所以,蘇麻喇姑雖是一介宮女,但她也創造了歷史。
清朝崇德八年,皇太極在盛京猝然駕崩,皇長子豪格和睿親王多爾袞(皇太極第十四弟)為了爭奪皇位幾乎兵戈相向。在關鍵2H2D持久液 德國黑螞蟻
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時刻,孝莊派遣蘇麻喇姑聯繫多爾袞,通過孝莊的精心佈局,最終年僅六歲的福臨成為“黑馬”,成功繼承了皇位,是為順治帝。
次年,清軍入關,蘇麻喇姑跟隨被尊為皇太后的孝莊到達關內,從此住進了紫禁城。當時,順治帝年幼,朝廷大政皆由攝政王多爾袞把持,為了避免後宮幹政,孝莊每個月和順治見面的機會並不多。這期間,蘇麻喇姑就成了他們母子之間的“傳話筒”,蘇麻喇姑經常去看望順治。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
年幼的順治帝長期受多爾袞壓制,性格上有些偏執,蘇麻喇姑善解人意,多次耐心勸解。
三、賴其訓迪,手教國書
清朝順治十年(1653年),順治納佟圖賴之女佟氏入宮為妃,次年,佟氏為順治生下三皇子玄燁,也就是後來的康熙帝。由於佟氏並不得寵,所以順治帝對玄燁起初並不重視。這時,孝莊命蘇麻喇姑來照料玄燁。
玄燁幼年時非常聰明,蘇麻喇姑教他讀書寫字,康熙的滿文和蒙文的啟蒙,都是蘇麻喇姑所教。《嘯亭續錄》記載:
仁皇帝幼時,賴其(蘇麻喇姑)訓迪,手教國書,故宮中甚為高品。
意思是說,康熙幼年時,蘇麻喇姑是康熙的啟蒙女老師,蘇麻喇姑的字寫得非常好,在故宮中是上品。
蘇麻喇姑:康熙的啟蒙女師,除夕喝洗澡水,活了93歲,成清朝傳奇
蘇麻喇姑和玄燁之間,有一件事不得不提。順治十二年,當時玄燁年僅2歲,宮中天花生盛行。順治和孝莊商量,把宮中的諸位皇子全部轉移到宮外避痘。後來玄燁染上天花,居住在北京西華門外的福佑寺內,蘇麻喇姑奉孝莊之命,日夜守在玄燁身邊。
在那個年代,天花的致死率極高,一旦染上天花,很難倖免。但在蘇麻喇姑的照料下,玄燁神奇地痊癒了。康熙後來曾回憶說:
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認識巴西柔術:勝負往往取決於如何「感受」對手
單純具備技術性的知識其實並不足夠,真正完美的展現必須將技術去蕪存菁,讓所有的招式都如同身體反應般自然。— Daisetsu Suzuki 鈴木大拙 日本哲學家。
槓桿原理
Rickson Gracie (著名巴西柔術紅帶大師, 亦入選 MMA 名人堂) 對於我理解巴西柔術的 格鬥理念有很深遠的影響,Rickson 帶來的不 只是單純的動作技術與比賽策略,更重要的是 他對巴西柔術全面性的理解,我的柔術理念來 自於他所重視的槓桿原理技巧,也是我至今所 有教學的出發點。
大家都知道槓桿原理的概念,但卻很少有人 能確實在柔術中發揮槓桿的優勢。本書中呈現 的技巧都是圍繞在支點與力臂在巴西柔術中所 能發揮的效益,例如該如何舉起比我重兩倍的 對手?又該如何用關節技控制力量大我三倍的 人?共同的答案就是借助槓桿原理的方式。所 以在進行任何抱摔或壓制的技巧時,永遠要設 法找到可以讓自身力量最大化,同時又能降低 對手力矩的施力點,也就是在兩人對峙的槓桿 中找到對自己最有利的支點。
深刻體會巴西柔術 “If you think, you are late. If you are late, you use strength. If you use strength, you tire. And if you tire, you die.” “ 想了就會慢;慢了就得費力; 費力加速疲勞;疲勞讓你錯失勝利 ”
這是我相當喜歡的一句諺語,在巴西柔術中 勝負往往取決於你如何「感受」對手,所有動 作的決定不應該來自於刻意的思考,而是身體 感受雙方力量的變化,藉由肌肉記憶做出的自 然反應。舉例來說,對手在比賽中會不斷試圖 突破你的守勢,你會在「感受」到對方意圖的 瞬間做出改變,當下的變化速度絕對不容你有 任何停下來思考的時間,有的只是不斷做出更 快的「反射動作」。
因此如何將所有的柔術動作都鍛鍊到如身體 反應般自然,也是我從最早的學生時期就開始 努力的目標。而所謂的反射就是不需要透過大 腦的思考,同時也能避免憤怒、恐懼或挫折等 負面情緒的干擾,因為在你意識到之前,反射 的動作早已完成。即便在比賽末盤拖著疲憊甚 至接近受傷的身軀,對手再度推動你的手肘發 動攻勢,你都能依靠本能進行應對,不會有多 餘的時間讓你陷入低潮的心理狀態。在不需要 思考的前提下,所有動作的啟動都來自於感受 對手動靜的直覺反應,這也是我信奉的「無念 (no mind) 」的心理境界。
腰帶分級的制度
巴西柔術會依照每個人訓練的經驗與程度用 不同顏色的腰帶進行分級,白帶與藍帶代表從無經驗到初學的程度;紫帶表示掌握基本技術 的中階選手;棕帶與黑帶則代表從進階層級到 可以教授巴西柔術的水準,再往上則有紅黑帶 與紅帶兩種更高的層次,這些都是學生在學習 巴西柔術可以作為參考的指標之一。
白帶
我會把白帶所代表的階段比喻為人從出生到 開始社會化的過程,就如同孩子對父母的信 賴,白帶的初學者也必須先主動相信自己的指 導老師。學習任何新事物勢必會有許多疑問, 但對於白帶選手更重要的是專注與訓練,白帶 選手必須盡可能接觸多樣的進攻、反應動作與 身體擺位,我會希望白帶選手能在這個階段盡 可能更全面的認識巴西柔術的內涵,並針對各 種技術均衡發展。
或許有人會主張白帶學生不需要接觸特定的 進階動作,但我反對的理由是對於白帶學生來 說,多方面理解巴西柔術的內容也是基礎的一 部份。白帶學生的能力當然很難完美演示出所 有動作的細節,但不代表白帶學生可以不需要 對這些細節有最基本的認知,因為唯有專研這 些細節才能真正掌握動作的技術。更何況在柔 術的賽場上,你所熟知的招式都有可能被對手 施加在自己身上,這些細節反而是攸關你如何 在危險情況下求生取勝的關鍵,因此白帶學生 進步的原動力,反而應該來自最原始的求生本 能。
學習是一段漫長的旅程,依照每個人不同的 訓練背景,作為白帶學生的時期通常在六到 十八個月不等。由白帶升到藍帶是相當關鍵的 一環,我會希望自己的學生在晉升之前都能做 好萬全的準備。
或許有些人會因為天生的優勢或運動能力, 在短時間內晉升到較高的段位,甚至能有相對 突出的抱摔技巧或曾經擊倒過某些人,但這對 我來說都不是晉升的考量重點,我不會因為某人天生神力就破格讓他晉升段位,而是更看重 柔術學習者的基礎和原則,因此我會讓自己去 了解我所有的白帶學生,這樣才能真正知道他 們在技術與品格上是否能有實質的進步。
藍帶
對於多數人來說,藍帶應該是僅次於黑帶 以外需要最多時間學習的階段,因為從這個 階段開始,學生會開始統整白帶學到的基礎 技巧來發展屬於自己的一套柔術戰略。藍帶 學生會經歷一段反覆驗證所有技術並加以應 用到實戰的學習過程,簡單來說就是一個實 驗性的階段。
所有柔術中的摔技、防禦與越位突破等技巧 都需經過反覆的測試,來幫助自己找到實戰中 最適合的選項,從發掘新的招式組合到驗證與 實用都會需要大量的思考與練習,所以藍帶 往往會成為柔術學習者花最多時間鑽研的階 段。
紫帶
晉升到紫帶代表學生必須更加精進自己的技 術,並開始學習如何輔助教導柔術,建立於藍 帶時大量訓練與驗證的成果。紫帶學生必須學 習如何輔助較低段位的學生避免犯下與自己相 同的錯誤,所以紫帶學生與藍帶學生在學習過 程上是密不可分的。
同時紫帶學生也會受到棕帶學生的砥礪,加 強紫帶學生的攻擊速度與防禦的完整性,這樣 的訓練強度刺激是藍帶學生還無法達到的,因 此紫帶學生在教與學的兩端都會有相當充足反 饋,達到最好的進步效果。
同時紫帶階段也是開始可以接觸黑帶選手的 時期,黑帶選手可以適時給予紫帶學生更高的 挑戰,同時也可以再次體認到自己也經歷過相 同艱辛的學習歷程。從晉升紫帶到棕帶之前的時間,學生應該把握機會多向黑帶選手請益來 提升自己的柔術造詣,這也是我對紫帶學生後 期主要的訓練目標。
我認為紫帶學生要晉升到棕帶,必須提高對 於自身技術的能力與信心,不會受到藍帶與白 帶的質疑所影響,對自己一同訓練的同伴與對 手表示敬重,並能順暢地連結攻防兩端的技巧 應用,只要達到這些條件就有資格晉升到棕 帶。
棕帶
棕帶選手在技術水準上已經相當接近黑帶選 手。棕帶面臨的課題通常都在於如何面對自己 技術上的一些小瑕疵,只要能將其去蕪存菁, 往往一點小小的改變,就足以讓棕帶選手晉升 到黑帶的殿堂。這些小秘訣通常都是乍看之下 毫不起眼的提示,例如一點點的重心變化或者 動作時間點上些許的不同,但這些往往都是棕 帶學生本身很難察覺的盲點,所以在棕帶學生 訓練環境中有黑帶選手的提點是相當重要的一 環,因為這些黑帶選手都是曾經克服過自身盲 點的老手,棕帶學生在訓練上會非常需要借助 他們的眼光。
相信自己的段位
在學習柔術的過程中,如果你開始懷疑自己 投入的時間與升段的速度,那麼你就已經輸給 了自己。我希望各位柔術學習者銘記在心,在 你晉升到藍帶、紫帶或棕帶的段位之前,就應 該對自己的能力與技術有所知覺,你會知道自 己是否有那份實力獲得該項段位,而這種感受 是騙不了自己的。腰帶段位的體制只是在你和 指導者之間建立起連結,指導者只是判斷你是 否到了能晉升的時間點,但你會知道自己是否 真正符合該段位所包含的條件,對於自身能力 技術有所了解的人應該會在得到段位之前就已 經做好準備。
段位的晉升不是按表操課,如果只依照日期 或出席率來給予段位,並無法反映出學習者實 際的進步與能力,柔術所包含的面向應當是更 為廣泛的。
在我的認知中,以最快的速度得到特定的段 位本身並沒有意義,當然對於多數人來說精進 到最後,戴得最久的往往就是黑帶,所以你是 花四年或十四年來得到這條黑帶其實並不重 要,因為你在往後的歲月中都是一名黑帶柔術 家,因此更重要的應該是你如何打造這條黑帶 的歷程。
腰帶段位在本書代表的意涵
本書對於腰帶分段的概念和坊間其他柔術教 材可能有不同的出發點,雖然不應該把腰帶顏 色所代表的能力內涵完全條列化 ( 這不代表說 白帶的學生沒有機會使用到較高階的降伏技 巧 ),但這樣的分級可以幫助你在柔術學習過 程中,對不同階段需要專攻的課題有更清楚的 認識。
舉例來說,紫帶學生在晉升到棕帶之前應該 要能了解所有常用的柔術防禦體位 (Guard), 如果一個棕帶學生還無法掌握這些防禦技 巧,就很難繼續學習棕帶開始強調的突破技 術 (Pass)。腰帶分級的初衷是幫助學生建立明 確的基礎門檻,並確實提高各項技術的掌握與 信心,所以白帶學生首先要能適應自己是處在 柔術世界的底層,先學習最基本的生存保護技 能;而對於處於高強度競爭的上層黑帶選手, 則需要專注於加強自己各種攻擊降伏的技巧與 戰略,就如同現實世界的弱肉強食一樣。
透過柔術追求自我提升
柔術是一項需要與同伴練習才能掌握技術的 個人運動項目,但在練習過程中跟對手多餘的 比較只會阻礙自己的進步空間。我在教學經驗上都會將每個學生視為獨立的個體,在進行對 練時,學生雙方之間的輸贏並不是我在乎的重 點,我需要能看到學生在每次對練中是否能嘗 試發揮出自己能力範圍內的柔術技巧,輸贏並 非學習過程的要素,只要能確實發揮所學的柔 術技巧,即使連續五場都被降伏也必定有所收 穫。
如何達到更高的柔術境界
在追求柔術造詣上的突破,自尊心過盛往往 會是最大的阻礙。當然不可否認維護自尊是人 類難以避免的情緒表現之一,例如要在眾人面 前演示動作,會很自然的擔心可能表現欠佳, 但想突破就必須克服這種自我阻礙的心境,不 用害怕在眾人面前失敗,你追求的應該是實質 的卓越而非看起來不差的表面而已,所以差別 只在於能否勇於嘗試與挑戰。
學習柔術必須保有孩童般的初心,小孩在學 習新事物方面通常會比成人有更快速的成長曲線,很大一部份的原因來自於孩童能把純粹 的樂趣擺在個人自尊之前,適時地讓孩童時期 學習的初心帶領你繼續前進,反而更能增加進 步的動力。練習時不妨試著讓白帶學生對自己 使用騎態;試著給所有人對自己使用十字固定 的機會,很少會有高段位的選手願意讓初階學 生對自己使用降伏技巧,但撇除技術層面的差 異,很多時候都是把自尊看得比學習效果更重 要。
將訓練帶入生活之中
所有對身心有益的活動都能對你的柔術技巧 有所幫助,不管是去衝衝浪、爬爬山甚至好好 吃一頓營養的晚餐等等。除了運動本身的好處 之外,這些休閒活動更可以徹底放鬆心情,讓 你在下一次的柔術訓練能更加專注。
此外也能透過冥想、體能訓練與其他肌肉伸 展活化系統來提升柔術技巧,例如巴西自然體 操 (Ginnastica natural) 就是一種結合柔術與 瑜伽來編排的運動伸展技術,所有的自然體操 動作可以在不需要同伴的情況下獨立訓練,許 多動作更可以幫助學生模擬柔術訓練最常使用 到的肌肉收縮方式,幫助在柔術訓練上發展出 更具專項性的肌肉協調與柔韌性。
你也可以借助許多其他媒介的學習管道來加 深對柔術的認識,例如教科書籍或教學影片, 但最終還是得回歸到與同伴之間實際的對練操 作,才能將動作轉化成肌肉記憶。
在跟指導者學習柔術技巧的同時,也要保持 客觀思考與判斷的眼界,不需要一昧的盲從指 導者的所有指令,我總是反覆提醒學生不要永 遠執著在我傳授的觀點!一旦我看到有某些學 生自己發展出其他獨特的技巧時,我總是請 他毫不保留的和所有學員分享,像是 Marcelo G a rc i a 、 Fe r n a n d o“ Te re re ”A u g u sto 、 Eduardo Telles 和 Demian Maia 都曾經作出讓我眼睛為之一亮的動作表現“到底他是怎麼 辦到的?”我也希望所有的學生能夠向他們學 習。而學習最忌諱的就是永遠只依賴單一的資 源管道,因為沒有任何一位老師可以解決學生 所有的疑問,我教學的目的不是為了讓學生受 限於我的柔術風格,而是希望讓學生藉由主動 思考的方式發展出更集大成的柔術表現。
競技比賽與柔術
當然不是所有的柔術學習者都以參賽為訓練 目標,有些人只是單純享受學習柔術知識的樂 趣;有些則可能不習慣在聚光燈環繞下的競 賽氛圍,我也很享受柔術以外的許多休閒運 動,但同樣地,我也不會把比賽當作是訓練目 的。某些學生不喜歡比賽的理由很常是因為不 知道如何面對輸掉的情緒,贏了比賽固然開 心,但輸掉比賽的瞬間卻很容易讓人感到沉重 與挫敗,因此怕輸的情緒反而成了這些學生抗 拒比賽的主因。
在職業的競賽中有許多選手也會面臨這個問 題,巴西柔術的競賽除了技術之外更同時考驗 選手對柔術的知識、策略、時間限制以及生理 健康條件和態度。很多人對比賽的理解往往不 夠全面,就如同所有的競技運動一樣,再好的 選手都不會永遠是冠軍。以巴西柔術世錦賽為 例,30 名頂尖好手捉對廝殺產生出一個世界 冠軍,難道是因為那 29 名選手不夠努力才輸 掉比賽?還是冠軍真的有比其他選手更強大的 條件嗎?即便是擁有頂尖技術的選手也有可能 在第一輪就被淘汰,因此比賽的變數往往無法 靠單一指標來決定。
一旦你有參賽的規劃,就必須認知到比賽是 一門對抗壓力的藝術,某些人很早的時候就開 始面對生活中不同的壓力,有些人對於壓力的 調適則相對缺乏經驗,但即便不是在賽場上, 壓力還是會因為某種比較或對抗的心理狀態而產生。賽場下的選手也有可能比場上的選手有 更大的壓力,因為自己就是壓力產生的來源, 他的心理可能在對抗某種怕輸的感受,或者掙 扎著某項抉擇可能的風險,這些都反映出競技 比賽中最大的對手永遠是自己。
即便到了賽場面對你的對手,如果未能調適 好內心種種壓力的產生,最終影響的還是自己 的表現。你得先讓自己的內心回歸平靜才能將 重心轉向對手,然而這也代表一旦你能有足夠 的心理準備調適壓力,你對自己的表現就能充 滿信心,在奪冠的過程中最大的課題往往不是 對手的戰略,而是自我心理調適的準備。
最後還是希望,如果你想學習完整的柔術技 巧或者特定選手的實戰風格,最好的方式還是 加入固定訓練的道館或武術學校。或許某些人 會抱持著藉由自己訓練和參加比賽的方式可以 更快速的成長,但其實好的訓練環境與適當實 力的訓練同伴所帶來的效果會比頻繁參加比賽 更好。
當然不可否認的是賽場上確實有平時訓練裡 無法學到的經驗,但對於技術的精進並沒有太 大的幫助,因為對方在比賽時所用到的招式只 是他所有柔術技巧的一小部分,唯有透過一同 參與道館的訓練,才能了解到對方整體技術的 全貌,甚至連觀察對方如何進行暖身與緩和放 鬆都能有所收穫,同時也可有互相切磋討教 的機會,這才是讓柔術技巧進步最穩定的方 式。對於觀眾來說,欣賞比賽是認識這項運動 最直接的方式,但要讓一項運動與技藝得到傳 承,比賽只是其中的一小部分。
本文選自 旗標出版《巴西柔術教本》一書。
「想了就會慢;慢了就得費力;費力加速疲勞;疲勞讓你錯失勝利」 巴西柔術中的勝負往往取決於如何「感受」對手,所有動作的決定不應該來自刻意的思考,而是透過身體感受雙方力量的變化,藉由肌肉記憶做出自然反應。也就是在感受到對方意圖的瞬間做出改變,當下的變化速度絕對不容任何停下來思考的時間,有的只是不斷做出更快的反射動作。這是一門格鬥術,也同時是一門藝術。
◎ 書籍資訊:https://pse.is/3bq3lh
◎ 延伸閱讀:巴西柔術強化求生本能:跳脫恐懼,培養韌性
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4月1日,美國鬧出4個國際笑話!拜登登機發生意外,美移民壓境
出來混遲早要還的。強如美國也不例外。
繼拜登演講頻頻口誤、忘詞、“出洋相”之後,4月1日“愚人節”這天,美國又鬧出了4個國際笑話。
一,繼登機“三連摔”之後,拜登上飛機時又出意外了。
1日,環球網報導稱,拜登準備搭乘“空軍一號”前往匹斯堡時,又在上舷梯的時候又不小心絆了一下,但所幸拜登走得比較慢,所以並沒有像上次一樣摔倒。
據悉,當時機場正下著雨,而拜登此次前往匹斯堡,就是為了公佈一項2萬億美元的基礎設施計劃。
所以,當時登機的拜登,一手提著公文包,另一隻手則撐著傘,緩緩地、小心翼翼地走上舷梯。但沒想到,即便拜登這麼小心了,中途還是出了個小意外。
雖然,相比3月19日拜登登機時的“三連摔”,這次的意外算是“有驚無險”,但在半個月不到的時間裡,拜登接連2次在登機的時候出狀況,不免加劇外界對其身體狀況的擔憂與質疑。
猶記得,在拜登“三連摔”後,白宮方面給出的解釋是“當時機場風太大了,台階也不好對付”;而這一次,難不成又要將責任全歸咎在“下雨天”上?
此外,30日,白宮發言人承諾,會向外界公佈一份拜登的全面健康報告,但由於不知道拜登什麼時候會再去看醫生,所以暫不確定公佈報告的時間。
事實上,美國媒體、民眾之所以會如此“執著”於拜登的身體狀況,並不是沒有原因的。
現年78歲的拜登在參選之初,就被外界質疑“年紀太大、不太合適當總統”,當時的特朗普也沒有將拜登視作自己的對手,還給他起了一個“瞌睡喬”的稱號。
而當大選進行至三分之二的時候,拜登與特朗普“爭雄”的局勢已經形成了,不少美國人又開始質疑,如果拜登當上了總統,會不會因為“年事已高”而無法履行完總統任期。
如今,拜登當上總統後,其演講多次失誤、忘詞,時常忘記自己在幹什麼等情況,再度加深了外界的質疑與擔憂。
尤其是在近期,拜登政府突然改名為“拜登-哈里斯政府”,再度引發了外界對於“拜登若無法履職、副總統哈里斯是否會接替總統職位”的猜測。威而鋼 偉哥藥吧 Viagra 藍色小藥丸 犀利士 必利勁 必利吉 樂威壯 西地那非 他達拉非 達泊西汀 伐地那非 阿瓦那非 威而鋼藥局 威而鋼副作用 威而鋼英文威而鋼價格
或許,對於現年78歲的拜登而言,如今最大的挑戰並非疫情、經濟等危機,也不是特朗普、共和黨人發起攻勢,而是年齡。
尤其是在美國如今“內憂外患”的情況下,拜登肩上的擔子確實不輕。
然而,即便拜登處境已如此嚴峻,壞消息也不曾放緩步伐。關鍵時刻,拜登的兒子亨特鬧出了第二個“笑話”——寫書自曝“家醜”。
1日,《紐約時報》報導稱,亨特即將出版的回憶錄——《美好事物》將在4月6日正式上市,不過,目前多家媒體已通過“某些渠道”,率先獲得了這本書。
在書中,亨特回憶了早年痛失親人的經歷,還談了自己存在酗酒等壞毛病,更是透露自己曾與大嫂有過一段“不倫關係”。
面對這些大尺度的內容,美媒直呼,“太火爆了”。
這裡要提一下,亨特是拜登的二兒子,大兒子是博·拜登,當過兵,還曾擔任特拉華州總檢察長一職,十分優秀。
但可惜的是,在2015年,博就因病去世了,終年46歲。拜登當上總統後,還親自到博的墓碑前、表示悼念。
很顯然,相比優秀的博,亨特可以稱得上是“坑爹”的存在了,除了有一些不良習慣之外,還曾因為捲入“通烏門”事件,給拜登的政治生涯造成打擊。
但如今,嫌麻煩不夠多的亨特,居然專門寫了一本書,將自己的種種不好經歷“和盤托出”,簡直是在給拜登“幫倒忙”。
畢竟,從媒體透露的部分書中內容來看,拜登的總統形象受到打擊,估計是在所難免的��。不得不說,在“坑爹”這件事上,亨特確實“造詣匪淺”。
這回,全球估計都要看拜登笑話了。
但這還沒完,拜登頻頻“出糗”之後,美國軍方也“出洋相”了。
1日,美國陸軍布拉格堡基地負責人加薩韋表示,近期該基地的武器、裝備失竊情況越來越猖獗了,預計有上千萬美元的軍備被偷走,而後轉手、賣到了別的地方。
加薩韋還指出,這種軍備失竊的情況,並非第一次發生,在2020年,該基地就收到了177份關於武器被盜的報告。
可見,美軍基地武器被人盜賣的情況,似乎已經成了一種常態。並且,從“屢禁不止”的情況來看,美軍中“監守自盜”的情況也存在已久了。
如此一來,美國民眾該擔憂了——這還沒打仗呢,武器裝備就全沒了,要是打仗了,難不成要士兵拿著木棍、刀劍在戰場上沖鋒?
此外,同樣在1日,美國軍方還開了一個與“愚人節”相呼應的玩笑——用核彈開鑿“死海運河”。
日前,由於蘇伊士運河被堵,各國貨輪停滯不前的同時,也導致的美軍“艾森豪威爾”號航母被困地中海。
對此,五角大樓十分著急,破天荒地表示,願意伸出援手、幫助埃及疏通河道。
當然了,美國這麼積極,並不是想做好事,而是希望運河早點疏通,美軍航母能盡快返回波斯灣,防止“航母真空”的情況持續,導緻美國對伊朗施壓策略的失敗。威而鋼 偉哥藥吧 Viagra 藍色小藥丸 犀利士 必利勁 必利吉 樂威壯 西地那非 他達拉非 達泊西汀 伐地那非 阿瓦那非 威而鋼藥局 威而鋼副作用 威而鋼英文威而鋼價格
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2020年11月16日
TBSラジオ赤江珠緒たまむすび月曜「竹山、ガムテープ買ってきて!」 三省堂新明解国語辞典「ラジオ」の用例「最近のラジオはおもしろくない」は昭和47年の初版から。今週19日発売の第八版は?
初詣を年末に済ませる“幸先詣”
2020年も残すところあと1カ月半ほど。 12日に行われた政府の分科会では、初詣についてマスク着用や消毒のうえ、混雑を避けるよう呼びかけることを求めた。 そんな中、初詣を年末に済ませる新たな動きが始まっている。
例年三が日には60万人の人が訪れるという広島市の広島護国神社では、初詣を前倒して行う幸先詣(さいさきもうで)を呼びかけ、人の密集を緩和させようとしている。
命名の由来は「幸先よく新年を迎えられますように」という願いが込められていて、「年内に神様へ今年1年間の神恩を感謝し、新たな年のご加護を願うというもので初詣の混雑を避け、ゆったりとご参拝いただき、新年の『幸(さち)』を『先(さき)』に戴きましょう」
(広島護国神社��場合)期間は12月13日の「正月事始め」の日から12月31日。正月事始めとは、新年を迎えるための準備を始める日として、昔から「煤払い」や、門松の材料を取りに行く「松迎え」、お雑煮をたくための薪などを山に取りに行く習慣がありました。また幸先詣では、例年年明けに授与していた破魔矢・熊手・土鈴などの縁起物も年内に授与もいたします。
初詣というのは江戸時代ぐらいからのもので、古くは年末年始に「年籠り(としごもり)」や「恵方参り(えほうまいり)」や「初縁日(はつえんにち)」など様々な形があり、現在のような初詣の形式はここ100年ぐらいのもの。
元々正月は、歳神様を自宅に迎えるもので、門松は目印、鏡餅は歳神が宿るご神体のようなものでした。一般家庭にしめ縄を飾るのも神様を迎えるからでした。ですから、年末年始の参拝には色々な形があっても問題はなく、ご利益などに変化なし。
幸先詣だけではなく、初詣の分散をしていただくために、本来は立春正月と言って立春から年が変わる2月までにお参りいただければ大丈夫だという告知などを行います。
立地が広島城址で出入口が2カ所あるため、三が日限定で入口と出口を決めて参拝者の流れを一方通行にするということを基本にして、その他、密集を避けるために、手水舎を封鎖し、授与所では御守、御札などの見本や一覧の看板を設置して、不特定多数の人が授与品に直接触れないようにします。
また、おみくじは結ぶ所を設置せず、すべてお持ち帰りいただきます。更に願い絵馬も掛け所を設置せず、書いたらその場でお預かりして後日お祓いと祈願をするように変更します。
幸先詣は、広島護国神社の他に、邇保姫神社(広島市)や日峯神社(北九州市)などでも呼びかけている。
保険証、発行停止でマイナカードと一体に 自民が提言(日本経済新聞)
『自民党のデジタル社会推進本部が政府に提出する第1次提言案が分かった。マイナンバーカードに健康保険証の機能を加えて一体にするよう提案する。移行を促すため、現行の保険証は発行停止を検討するよう求める』
マイナンバーカードが普及しないのは、政府への信頼がないから。健康保険証と紐づけして無理やり持たせるやり方は、絶対に良くない。個人情報がすべて紐づけされる監視社会にまっしぐらだ。(志位和夫議員)
誰も頼んでいないのに、保険証にも免許証にもマイナンバーを付けると。つまりこれはかつて大不評で挫折した自民党「国民総背番号制」じゃないか。国民をどうしても受刑者のように管理したいのだな。(清水潔さん)
IOC会長、菅首相との会談で海外からの観客のワクチン接種を提案=橋本五輪相(ロイター)
菅「東京ドームや横浜スタジアムで観客は満員の7-8割に抑え科学的な根拠も踏まえた実証実験を行った」
バッハ「東京大会を開催できると確信していたが、菅首相の話を聞いてさらに確信を得た」
5割制限を無視して行った調査のための人体実験。人の命をなんと思っているのか?(国立遺伝学研究所・教授 川上浩一さん)
日々増加中のコロナ感染者数。この国の現実を全く無視して逆走していくめちゃくちゃ感がすごい。(清水潔さん)
野口聡一さん搭乗の宇宙船「クルードラゴン」打ち上げ成功
米フロリダ州のケネディ宇宙センターから現地時間15日(日本時間16日)、野口聡一さんらが搭乗する米スペースX社の新型宇宙船クルードラゴンが打ち上げられました。打ち上げは無事成功し、約27時間半後に国際宇宙ステーションに到着する予定だということです。
中国、「戦争準備」本格化 制服組トップ、態勢転換に言及―台湾などの緊張にらむ(時事ドットコム)
【北京時事】中国で先月下旬に開かれた重要会議を受け、中国軍が「戦争準備」の動きを強めている。制服組トップの許其亮・中央軍事委員会副主席は「能動的な戦争立案」に言及。習近平国家主席(中央軍事委員会主席)は、米国の新政権発足後も台湾や南シナ海をめぐる緊張が続くと予想し「戦って勝てる軍隊」の実現を目指しているもようだ。
7−9月期実質GDP 年率で21.4%増 内閣府
内閣府が16日発表した7−9月期の国内総生産(GDP季節調整値)速報値は、4−6月の前期比で5.0%増、この成長が1年続いた場合で年率換算すると21.4%増となったとのことです。
コロナ禍で明暗くっきり 広島のお好み焼き店に「地域格差」が生まれた理由
GoToイート、ポイント9割未使用 付与は近日終了(朝日新聞)
飲食店側からは「予約サイトばかりもうかる仕組み」との声も/出典:東洋経済オンライン11/3(火)
ポイント付与、予約受付の状況は?
「ぐるなび」「食べログ」「ホットペッパーグルメ」などでは、14日から15日にかけて、予約の受付を相次いで終了。予算に達したためという。/出典:TBS系(JNN)11/16(月)
米モデルナ 新型コロナのワクチン「94.5%の有効性」
アメリカの製薬大手モデルナは現地時間16日、開発中の新型コロナウイルスのワクチンについて、「94.5%の有効性がある」とする臨床試験の暫定的な結果を発表しました。
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活佛轉世”制度 ——西藏政治權利鬥爭的宗教形式
【全文提要】西藏活佛轉世制度是特有的一種政治和宗教制度。在歷史上它傳承佛教基本教義、儀軌,協調藏族宗教上層錯綜複雜的政治因素、宗教因素,解決宗教首領的地位和政治、經濟權力的傳承和延續問題。 本文以活佛轉世制度的起源與發展為線索,探究轉世靈童的確認方法,對比歷史上佛教顯密真實轉世實例,發現“活佛制度”的虛偽性與功利性。 由此得出結論,為護如來正法故:1.轉世活佛這方法不可取,應該逐步廢除取消;
2.要用推選的方法選出幾位高僧大德(修持得十分精進,很有成就,戒律清淨,又能通達佛經、演說佛法),讓他們作為佛教上層喇嘛,那才是真正的可以弘揚正法。 本文主要講述西藏上層兩大活佛轉世現象,西藏還有許多中小活佛轉世,同樣存在弊端,另文再述。
一、 什麼叫“活佛轉世”西藏密宗在大喇嘛死後,為了保持教派的穩定性,傳遞權力和財產,而按一定方式尋找到一個幼童,並認為他是大喇嘛死後轉生的,由這個幼童來繼承大喇嘛死前的宗教地位以及政治、經濟的權利,這就是密宗的“活佛轉世”。活佛,藏語稱“朱古”,意思是佛的“化身”。按照藏傳佛教的觀點,那些佛學造詣精深、修證高超的高僧大德在完成佛業圓寂後,他的靈魂又轉生為新的肉身,繼續完成弘法大願、普度眾生,這種轉生為前世化身的人,稱為前世的轉世靈童,即此活佛的下一世。西藏密宗不同的宗派都有“活佛轉世”,這些轉世的“活佛”,在西藏已經形成一個身份特殊的群體。在歷史上,“活佛轉世”制度,是西藏密宗最重要的制度,特別是在解放前政教合一的西藏,最大的“活佛”達賴喇嘛不僅是宗教領袖,而且還是世俗政權的首領。“活佛”不僅在現實生活中享有至高無上的權力,他還掌握著貧民百姓死後是進“天堂” 還是下“地獄”的鑰匙。因此,如果一個平民的兒子被認為是“活佛轉世”,那麼立刻是“一人得道,雞犬升天”,不僅他本人一下子從普通的平民百姓變成萬人景仰的領袖,而且他的家族也一躍變為西藏最有勢力的貴族。因此在西藏,“活佛轉世”現象成為西藏社會的一個獨有特色。“活佛轉世”制度可以說是藏傳佛教的一個創舉。在這裏,活佛的傳承既不是通過家族式的繼承,也不是通過現代意義上的選舉,而是通過“轉世”這一宗教化的手段完成的。這種傳承方式把佛教的基本教義、儀軌和藏族宗教上層錯綜複雜的政治因素、宗教因素協調起來,巧妙地解決了宗教首領的地位和政治、經濟權力的傳承和延續問題。因此“活佛轉世”從一開始出現,就和政治有著不解之緣。
13世紀以前,藏傳佛教的各教派都採用家族式傳承方式,如藏族歷史上最早形成的教派寧瑪派的傳承最初是家庭世代繼承,寧瑪派的創始人 “三素爾” 就是祖孫三代,素爾波且之後是由其養子窮·喜饒劄巴襲養父之業,再後由素爾窮之子卓浦巴·釋迦僧格領導寧瑪派。三素爾之後,由於寧瑪派的勢力日漸興盛,寺廟也逐漸多了起來,傳承就以師徒相傳為主。薩迦派採用的是基本上以昆氏家族為基礎的家族內部傳承方式。如“薩迦五祖”中的初祖貢噶寧波是該派創始人袞卻傑波的兒子,二祖索南孜摩、三祖紮巴堅贊,都是貢噶寧波的兒子,四祖薩迦班智達·貢噶堅贊是紮巴堅贊的侄子,五祖八思巴·洛追堅贊則是薩迦班智達的侄子。噶舉派雖然支派很多,但大多採用師徒傳承的方式。藏傳佛教其他的一些小教派,如希解(zji-byed-pa)、覺宇(good-yul)、覺囊(jo-nang)等等,也都採用師徒傳承的方式。為了適應格魯派勢力發展和教派首領的穩定,很快便形成了格魯派四大活佛轉世系統:達賴喇嘛轉世系統,班禪額爾德尼轉世系統,章嘉轉世系統,哲布尊丹巴轉世系統。這四大轉世系統均源於該派創始人宗喀巴四大弟子。活佛轉世制度形成之後,格魯派各主屬寺廟都爭相效法。於是蒙藏各地都出現了不同等級的大大小小的活佛。據史書所載,到清末時,僅在蒙古地區的喇嘛寺廟就數以千計,大小活佛不計其數。
二、 活佛轉世的歷史根源西藏的“活佛轉世”制度,最先是由密宗噶瑪派的大喇嘛攘迥多吉創立的。噶瑪派是噶舉派的一個支派,是由都松欽巴創立的。都松欽巴於1110 年出生在今天���四川藏區,父母都是修密法的人,所以他自幼跟隨父親學修密法。噶舉派的創始人是瑪爾巴,瑪爾巴傳法給米勒日巴,米勒日巴傳塔波拉結(崗波巴),都松欽巴在30 歲時跟隨塔波拉結學習密法。1147 年,都松欽巴在西康,興建了噶瑪丹薩寺和楚布寺,從此,以噶瑪丹薩寺和楚布寺為上下兩主寺,形成了西藏噶瑪噶舉派。由於都松欽巴曾戴黑帽傳法,後人因此將這一派又稱為黑帽派。1193年,都松欽巴去世。1204年,噶瑪拔希在西康出生,年長後隨都松欽巴的弟子崩劄巴學習密法。傳說噶瑪拔希“神通廣大”,成為密宗裏面,神通僅次於教主蓮花生的人物。1283年,噶瑪拔希去世。1284年出生在後藏貢塘地方的攘迥多吉,被認為是噶瑪拔希的轉世靈童。這是密宗歷史上第一次出現“活佛轉世”現象。攘迥多吉再追認都松欽巴為噶瑪噶舉派第一世“法王”,噶瑪拔希是第二世,於是攘迥多吉就成了噶瑪噶舉派的第三世“法王”。1407年,噶瑪噶舉派的第五世“活佛”銀協巴被明朝永樂皇帝封為“大寶法王”,一直傳到現在的第十七世。 噶瑪噶舉派歷代祖師傳承表
瑪爾巴
米勒日巴
崗波巴
都松欽巴(1110—1193年,1140年30歲時跟隨崗波巴學師,第一世法王 黑帽傳法,建造噶瑪丹薩寺和楚布寺)
崩劄巴
噶瑪拔希(1204—1283年,第二世法王)
轉世為 攘迴多吉(1284年出生在後藏貢塘,第三世法王)
紮巴僧格(第四世法王 元國師 紅帽系)
銀協巴(1407年,第五世法王,永樂年間被任命為大寶法王一世)
西元1253年元朝忽必烈南征雲南大理時經過康區,召見了噶瑪拔希,並要他隨侍左右,遭到拒絕。西元1256年,蒙古大汗蒙哥召見噶瑪拔希,賜給他一頂金邊黑色僧帽及一顆金印,於是噶瑪拔希這一系就稱為黑帽系。西元1259年,蒙哥死。1260年忽必烈在開平自稱大漢,忽必烈最小的弟弟阿裏不哥在和林也自稱大漢,於是兄弟之間展開了爭奪蒙古大漢的鬥爭。經過了一年的戰爭,阿裏不哥兵敗,忽必烈登上了大漢之位。噶瑪拔希因以前不肯追隨忽必烈,在爭奪漢位的鬥爭中又有幫助阿裏不哥的嫌疑,被忽必烈投入監獄,後來又被流放到蓋烏曲地方,直到西元1264年,才獲釋。噶瑪拔希回到西藏,卒於1283年。據說噶瑪拔希在死前聲稱要轉世。西元1284 年,攘迥多吉在後藏的貢塘出生,被認定是噶瑪拔希轉世再來,5 歲時他被迎請到噶舉派主寺楚布寺。於是噶瑪噶舉派追認都松勤巴為一世、噶瑪拔希為二世,攘迥多吉便是第三世“活佛”,由此開創了藏密“活佛”轉世傳統。西元1332年,攘迥多吉奉召進京,為元朝皇帝元寧宗和皇后灌頂。第三世噶瑪噶舉派黑帽系活佛 攘迥多吉的弟子——紮巴僧格曾被元朝封為國師,並賜紅帽。紮巴僧格死後也開始“轉世”,由此開創了噶瑪噶舉派的第二個“活佛”轉世系統,稱為紅帽系。
【本人觀點】“活佛轉世”的最早創立人應該是噶瑪拔希,因為這位祖師不但修持定力很好,而且神通廣大,是著名而且是噶瑪噶舉派的一代宗師。西元1253年,元朝忽必烈南征雲南,要召見噶瑪拔希,並命令他隨侍左右,遭到噶瑪拔希的拒絕。三年以後,蒙古大汗蒙哥以很恭敬的禮節召見噶瑪拔希,並賜給他一頂金邊黑色僧帽和一顆金印,噶瑪拔希接受了,這就是以後所謂的黑帽系傳統。但是又過了幾年以後,想不到形勢變化,蒙古大汗的蒙哥已經去世,而且忽必烈戰勝了他的又一個政敵——他的弟弟阿裏不哥,然後自立為王,登上了大漢之位。想到以前噶瑪拔希曾拒絕過他的請求,而且在爭奪王位時幫助過阿裏不哥,忽必烈就把噶瑪拔希投入了監獄,後又把他流放到蓋烏曲,直到西元1264年噶瑪拔希才獲得釋放,回到了西藏,過了十幾年才過世。臨死前,他自己說要轉世,因為弘法志願還未了結,噶瑪拔希死於1283年。第二年1284年,出生於後藏貢塘的一個孩子攘迥多吉,被認定為噶瑪拔希轉世再來。1332年,這位轉世活佛 攘迥多吉 奉召進京,為元朝皇帝元寧宗和皇后灌頂。攘迥多吉追認他的祖師都松勤巴為第一世,追認他的師父噶瑪拔希為第二世,他自己為第三世,他的弟子紮巴僧格被封為國師,並賜紅帽。也就是說,噶瑪拔希完成了他繼續弘揚藏密,並由黑帽系轉為紅帽系的任務。 這位噶瑪拔希祖師毫不含糊、清楚地認定後世繼承人,不需要像以後採用什麼定位、定方向、摸物,金瓶制簽等種種繁瑣方式來確定轉世靈童,越是繁瑣的方式,選靈童越不正確,他清清楚楚認定下一世轉世為誰,這才是對的。但後面幾百年,藏密各派的轉世都不明確,叮囑含糊,以後用各種方法來尋找靈童,這裏面有很多誤差和不正確的地方。那麼像噶瑪拔希這樣正念分明的轉世其實在中國歷史上不乏其人。我這裏僅僅舉兩個例子,一個是佛家的和尚轉世,一個是儒家書生,中國很有名氣的儒家心學的代表王陽明,那麼就請看下麵兩個故事。
慧業和尚──陳慧業~~廿五年後果重來~~陳幸覺 記 學人十二世太祖濟美公,生六子,長子即學人房祖慧業公也。當慧業公生時(萬曆四十年壬子三月),家人均見一老僧,穿藍衣,自外入,剎那不見。太祖妣旋生慧業公,餘五子,皆以慧字為派。慧業公生後,十四歲入泮,十六歲舉孝廉,十八歲中會魁,娶明狀元大學士黃仕俊之女為妻,十九歲、廿一歲二年,均生一子。廿五歲欽差行人司行人,往江西祭名儒徐元扈,公畢返朝覆旨。途中渴甚,土人指前面金牛山之金牛寺,可駐足飲水,公從而往。甫至山前,群僧五體投地恭迎,寺內鐘鼓大鳴,公以為僧人慣技,要求佈施,乃徑前直入方丈室。 知客僧趨前合十,問曰:‘公得毋乃慧業祖師乎?’ 公愕然!曰:‘爾何知我乳名也?我乳名確是慧業,今已用嵋雪二字矣,爾又何以稱餘為祖師?’知客僧曰:‘是真祖師也,僧人祖師慧業,萬曆四十壬子(一六一二),三月初四日向明,祖師將臥房關鎖,至大殿禮佛,召集眾等雲:『今天午刻圓寂,二十五年之後,丙子八月十八日回寺。』迨卓午,祖師複叮嚀:『臥房不可開啟,廿五年後餘回自啟。』眾諾如命,祖師遂寂,僧人是時年方十二歲耳。昨夕方丈悟真師伯,即祖師之師侄也,及監寺等夢祖師雲:『明日午刻,餘現宰官身回寺。』方丈醒後,與監寺言,計與祖師所說回來日時符合,故敢作如是說。’ 公聞言,尚未深信。未幾,群僧鹹集,頂禮叩拜。 公呼知客僧至前曰:‘此寺我似曾到過,但餘在廣東,未嘗到此,何以有此感覺?爾雲爾祖師慧業,臥房關鎖,二十五年後自回開啟,此臥房曾否開啟?在於何處?導餘一看。’知客答:‘此房未啟。’領公步至臥房外,公見門鎖塵封,不類新鮮所作,複仰首一觀,乃曰:‘是矣。’著取扶梯至,命從者���簷前第五行瓦內,取匙啟門,匙果在,公親手啟門,步入室內,見一油燈,無油而將滅,公乃剔芯使亮,見臥榻尚存,遂登榻趺坐,大笑而逝。 後屍歸寺化,衣冠運回家鄉安葬,此乃朝命,故不能奉遺體回籍耳。太祖妣因是孀居,至兩子長成,自結精舍於甘竹灘畔,持素禮觀音,至八十三歲,無疾而終。順德陳幸覺謹記。
明朝大儒學家王陽明的前世今生王陽明的學問道德在當世都受到世人的讚歎。他五十歲那年,到江蘇鎮江金山寺,結果他發現,這個地方怎麼這麼熟悉,好像在這裏住過,就在寺院裏遊覽。有一位出家的法師陪著他,兩個人來到一個關房門口,這是一個房子,很小的一間,門窗都緊閉著,上面還有封條。王陽明先生看到這個房子很熟悉,好像曾經在這裏住過,但是他這一生確實是第一次來,他就想請這個出家人給他把這個房門打開,他想進這關房裏面看看,出家人不同意。他告訴王先生說,這個寺院裏什麼地方你都可以去,就是這個關房裏面,有我們五十年前的一位老和尚,在這裏圓寂。這位老和尚圓寂以後,他的肉身沒有壞,還保留好好的,現在供在這個關房裏面,所以���們都不敢進去,是為了保存他。 王陽明很好奇,堅持哀求這個法師讓他進去看看。後來熬不過,這位法師也知道王先生學問道德都是受世人景仰的,最後同意讓他進去看一眼。結果這個房門一打開,進去一看,真的有一位老和尚,肉身還坐在一個蒲團上。這個肉身雖然是五十年前已經圓寂了,就是死了,但保存得還很好。王陽明看到這個老和尚的臉,怎麼覺得好像似曾相識,一扭頭,看到牆上有一首詩,這首詩是老和尚在五十年前圓寂之前在牆上題的。這首詩的內容是:“五十年後王陽明,開門猶是閉門人;精靈去後還歸複,始信禪門不壞身。”你看看,這位老和尚,他預知過去未來,他已經知道,五十年後,自己投胎輪回,叫什麼呢?叫王陽明。他說他五十年後還要回來,五十年後這個王陽明,開門猶是閉門人,王陽明開門的時候才知道,五十年前閉門的人,就是五十年後開門的人。 所以老和尚這首詩為我們證明了,精靈去後還歸複,精靈就是我們的靈魂,佛教裏面叫神識。這個神識離開身體以後,他將來還回來,給大家信心,知道禪門當中有這麼有本事的人,他這個身體還不壞,修行功夫好,肉身沒壞。結果五十年後這個人還回來,看自己前世的肉身。我們想想,這位老和尚,功夫真是不簡單,在佛教裏說有這個功夫,但是他沒有能跳出輪回,結果來世變成王陽明瞭。他的學問道德都很好,這是他前世修行的結果。但是這一生他都忘了,他不再記得自己前世的修行。所以這就很可惜,過去的修行中斷了,再來,功夫就不如前面。所以這種人,假如他能夠發願念佛,求生淨土,即可往生。佛教裏說,只有往生淨土,才能夠跳出輪回,這是凡夫唯一能夠得救的方法。老和尚如果念佛有他那個功夫,那他一定,那一生就能夠成就,他就不用再來做王陽明瞭。換句話說,有這麼功夫的人,假如不念佛求生淨土。這個功夫往往都是白費的。這是歷史的一個故事。
三、 西藏密宗為什麼要創造“活佛轉世”制度?西藏密教後弘期開始後,一些密教的祖師,因為學識和聲望,受到地方首領和群眾的信奉,信徒捐獻了大量的田地、人戶、牲畜、財物作為供養,這使得部分寺院的寺主逐漸成為擁有土地、牲畜、農牧民戶等生產資料的領主。這些寺廟,還自行建立了法庭、監獄、不脫離生產的地方軍隊等,以適應管理地方政務的需要。由於吐蕃王朝已經土崩瓦解,西藏沒有一個統一的政府進行管理,這些逐漸發展起來的寺屬莊園,各自為政,形成了以寺院為中心的星羅棋佈的大小“獨立王國”。西藏密教的教派,種類繁多,不同教派各霸一方,自我標榜,門戶之見頗深,勢不相容,政爭與教爭糾纏在一起,相互征戰不休。 在這樣的歷史背景下,各派為了凝聚本派的力量,在傳遞政權、教權的時候,為了確保新上任的領袖的穩定性、聲望、號召力等,逐漸摸索出“活佛轉世”這種形式。 西藏密宗初期,是以師徒傳承、家族傳承的方式,來傳遞政權和教權的。師徒傳承,理論上來講,上師可以在弟子中選擇一個優秀的弟子來繼承,但是往往出現弟子們在上師死後,互相不服氣的局面。因此會導致教派的分裂,如噶舉派曾經由一派裂變成八個小派。家族傳承,例如,在元朝,掌握西藏地方政權的是密宗的薩迦派,薩迦派屬於西藏的薩迦巴家族。薩迦派的政權、教權,是以父子(伯侄)相傳的形式來傳遞的。這種的傳承,雖然保持了血統的純淨,但是,往往受生育的限制以及家族衝突的限制。而且密宗格魯派的出家喇嘛,不能結婚生子,最終密宗發展為穩定的“活佛轉世”的方式來傳承。
四、 轉世靈童尋找的方法與步驟 1.測定轉世靈童轉生的地點和位置(1)依照老活佛去世前的遺言,來確定轉生的地點。通常達賴、班禪死前的遺言很簡短,只是說一個大概的範圍。例如:六世達賴喇嘛倉央嘉措,生前曾寫過一首著名的情歌:“請求白色大雁,借我淩空雙翼; 並不遠走高飛,理塘一轉就回。” 後來,在六世達賴死後,喇嘛們就是根據這首詩提供的方向,在理塘尋訪六世達賴喇嘛的轉世靈童。 (2)以“占卜”方法來確定轉生的地點。西藏最盛行的占卜方式就是羊胛骨占卜法。羊肩胛骨占卜法是把剔淨肉的羊肩腫骨放入火中,然後根據腫骨火燒後的裂紋來判斷吉凶等等。占卜在西藏“活佛轉世”制度中所起到的作用是巨大的,甚至在達賴、班禪及其他大活佛的轉世問題上起決定的作用。例如,四世班禪死後,五世達賴喇嘛親自占卜,明確指出了靈童的轉世地點,借此找到了轉世靈童。(3)以“降神”的方法來確定轉生地點。密宗的降神,就是通過專門的護法神(巫師)借助鬼神附體,來指示轉世靈童的出生地,或者在候選靈童中確定哪一個才是真正的轉世靈童。這些所謂的護法神(巫師),就是所謂的能與神靈相通的通靈者,西藏最有名的護法神(巫師),是乃窮寺的乃窮“活佛”。尋找轉世靈童,在班禪、達賴等眾多活佛占卜以後,對轉世靈童出生的方向還要多次請西藏最著名的護法神來降神占卜確定,例如:十三世達賴喇嘛死後,經過班禪大師占卜確定了轉世方位後,仍然要請乃窮活佛來降神,降神的結果說是達賴轉生到西藏的東北方向。乃窮護法神的降神經過是這樣的:降神儀式前,乃窮活佛被悄悄地領進乃窮寺的大殿。這時大殿上香火繚繞,濃煙嗆鼻。乃窮活佛從他的禪房裏被專人領了進來,胸前掛著一面閃閃發光的大銅鏡。侍從給他穿上了緞袍,然後領他登上神壇。此時只有鼓樂在大殿裏縈繞回蕩。按儀式的程式他開始“顯靈”。他的兩眼一合,身子往旁邊一歪,一動也不動地躺在了軟墊上。面部失去了血色,生命好似已經從肉體上飛離。突然間,就象遭到電擊一樣,他全身彎曲,四肢抽搐,身子痙攣得成了弓形。據說這時神靈已經附著了“凡體”。不一會乃窮活佛又開始顫抖,臉上佈滿豆大的汗珠。侍人們從裏邊抬出一頂巨大而古怪的法冠給他戴上。法冠非常的重,必須兩個人才能抬起它。戴上法冠,乃窮活佛幾乎會被壓倒在地,動彈不得。這以後,乃窮活佛顫抖得越來越兇猛,沉重的法冠也開始左右搖擺起來,他的面容會變得越來越恐怖:眼球被壓出了眼窩。兩腮腫脹往往還會出現塊塊紅斑,牙縫裏還發出“咯咯”的咬牙聲。猛然間,好似僵屍復活,乃窮活佛突然會變得力大無比,竟然能頂著法冠搖搖晃晃地站立起來,在鼓樂的伴奏聲中手舞足蹈地旋轉起來。他一面蹦跳著,一面用拇指上的大戒指猛擊胸前的銅鏡,叮噹聲幾乎把鼓聲淹沒。旁邊的侍從不斷地往他的手裏放青稞粒(據說得到這些青稞,便可以得到其中所表現的聖力)。在場的人吐舌屈膝,敬畏萬分。這以後乃窮活佛漸漸地平靜下來,幾位侍從迅速將他抓住。這時,按照降神儀軌的程式,大喇嘛馬上就要詢問乃窮“轉世靈童”的轉生方向,由乃窮活佛發出神諭,告知班禪或者達賴喇嘛的轉生地點。(4)以“湖中顯影”的方法來確定轉生地點。西藏的拉姆拉措湖,被稱為是聖湖,在確定班禪、達賴喇嘛死後的轉生地點,有時候要到拉姆拉措湖,觀看湖中的顯影來確定。例如:十二世達賴喇嘛圓寂後,乃窮活佛經過占卜,指派上密院堪蘇洛桑達傑一人前去觀看聖湖顯影。隨後,堪蘇帶著一班人馬來到聖湖。由於乃窮活佛在降神問蔔時,明確指定只能讓堪蘇一人在拉姆拉措湖觀看顯影,所以,其他隨行人員只能在湖畔等待。由於湖水的流動,在聖湖正中會出現一幅倒影、幻影,據說這些幻影能給喇嘛們提供一些尋找班禪、達賴的轉世地點的線索。一般說來,觀看完聖湖顯影後,尋訪工作就進入了另外一個階段。2.確定轉世靈童轉生的方位通常情況下,觀看聖湖顯彰的人員返回拉薩後,經過討論後,根據占卜、降神、觀湖的結果,確定了轉世靈童轉生的方位,一些高級喇嘛和顯要人員開始被分別派往西藏各地,尋找轉世靈童了。3.最後的認定(1)讓靈童自己“摸物”的方法來確定他是否認識前生用過的法器所謂的摸物,就是在認定大喇嘛死後的轉世靈童的時候,當所找的幾個候選的靈童都符合條件的時候,就是將死去的大喇嘛的遺物,混在其他物品中,讓這些候選靈童來辨認,碰巧摸到遺物的兒童,就被確認為轉世靈童。有的所謂摸到遺物完全是謠傳。如四世達賴喇嘛死後,窮結家族的小男孩,被選中成為五世達賴喇嘛阿旺洛桑嘉措,他所謂摸中四世達賴的遺物,就是編造出來的謊言。《五世達賴喇嘛自傳——雲裳》裏,五世達賴阿旺洛桑嘉措說:“當時人們議論我是不是也是一個活佛轉世,有的人說我是噶瑪噶舉派的傑察促巴活佛或是主巴噶舉派的喇嘛拉孜瓦的轉世”。此時找到四世達賴的“轉世靈童”除了窮結家族的男孩以外,還有兩個,據《曆輩達賴喇嘛生平形象歷史》披露窮結家族男孩被選中為五世達賴的經過是:“(與五世達賴喇嘛年紀相仿的還有)——雅隆曲嘉的第八子意雲諾布,娘布地方的一家人也堅持他們的兒子是最可信的轉世靈童。這樣就有了三個轉世靈童候選人。為了讓轉世靈童合法化,格魯派中資曆最深的四世班禪和下密院夏仲嘉袞喬群經過商議,決定在藏北熱振寺的文殊菩薩像前以糌粑丸抽選(西藏的一種占卜方式,將三個候選靈童的名字放在糍粑團中抽籤)。最終確定了貢噶米居多嘉旺格嘉布為四世達賴喇嘛的轉世靈童。” 窮結家族的小男孩終於成了五世達賴喇嘛。在《五世達賴喇嘛自傳——雲裳》裏,五世達賴喇嘛極其坦率地寫道:“當經師噶居巴按規矩將前輩達賴喇嘛用過的佛像和念珠拿出來讓候選轉世靈童辨認時,我並沒有說認識這些東西的話,可噶居巴出門後說靈童都認識。後來,當我不努力學經時,噶居巴就悔恨地說,‘那時你並沒有認出前輩的用品’。”例如:六世班禪死後,當時尋訪到的班禪轉世“靈童”共有四個,劄什倫布寺派出六世班禪的近侍蘇本堪布前往勘驗四個“靈童”,他拿出六世班禪曾經用過的茶杯、鈴杵、念珠等,讓“靈童”自己挑選,結果日喀則白朗宗吉雄羅卡的“靈童”拿的東西是六世班禪的,於是蘇本堪布肯定這個小孩是六世班禪的轉世靈童,而其他三位“靈童”自然也就被放棄。(2)金瓶制簽制度金瓶掣簽,也就是在清代的乾隆皇帝,為了防止最後認定轉世靈童時候出現徇私舞弊,命令對所尋找的一個或數個轉世靈童,進行抽籤決定的認定靈童的方式。 在清代,西藏地區是採用政教合一制度,由於靈童被確認為是死去的大喇嘛所轉世以後,本人和家族都能得到極大的利益,因此,在確認“轉世靈童的時候,經常出現徇私舞弊的現象。在護法神“降神”的時候,特別是在決定達賴、班禪的繼任人選時,“降神”一般事先由西藏的大貴族暗中決定的,哪位貴族權大、錢多,護法神就會被哪位收買,護法神就會指定這個大貴族或與這個大貴族有親密關係的家庭中出生的孩子,成為達賴的繼承人。 有時候,甚至出現幾個轉世靈童出自一家的舞弊現象。例如:六世班禪、劄什倫布寺的劄薩喇嘛仲巴呼圖克圖、噶舉派噶瑪巴第十世紅帽活佛沙瑪爾巴都出自一家,而且都是通過“降神問蔔”尋訪認定的。更為荒唐的是,蒙古的哲蔔尊丹巴呼圖克圖死後,恰逢貴族圖謝圖汁的夫人懷孕,眾人為了討好圖謝圖汁,都說胎兒是哲蔔尊丹巴轉世,等孩子生下來,卻是一個女孩,一時成為笑料。針對這種舞弊現象,1792年,乾隆皇帝通知軍機大臣:“(對於護法神指定‘轉世靈童’),朕思其事,近乎荒唐,不足憑信。拉穆吹忠(護法神巫師)往往受人囑託,假託神言任意妄指,而藏中人等因其事涉神異,多為所愚,殊屬可笑。此等拉穆吹忠即系內地巫師,多以邪術惑人耳目。而拉穆吹忠降神時,舞刀自紮,身體無害,是以人皆信之。此等幻術,原屬常有。但即使其法果真,在佛教中已最下乘。若使虛假,則更不值一噱。其妄誕不經,豈可仍前信奉?”乾隆皇帝的想法很清楚,拉穆降神一不可信,二易被人操縱,必須改革。乾隆皇帝,為了穩妥處理此事,先派大臣福康安對這些護法神進行現場考察,看看他們是不是真的如傳說的一樣“能以刀自割,以舌舔刀”而不受傷。現場考察的結果是:這些護法神都沒有這個能力。於是乾隆五十八年三月辛醜,指示軍機大臣說:“至藏內拉穆吹忠一事,前據福康安等續奏,親加試驗,俱不能用刀自紮,以舌舐刀。但若竟革去吹忠(護法神),勢不能將前後藏略具聰明之幼孩遍加試驗等語。所奏尚屬未當。吹忠等所習幻術尚不及內地之巫師,積習相沿,最為可笑。若仍由該吹忠等降神指認,伊等皆可聽受囑託,假託神言,任意妄指,雖由金奔巴瓶內簽掣,而所掣之人仍不能無徇情等弊,不過系一二權勢之人主謀,而吹忠四人內大約即系拉穆一人主持,其弊亦也概見。”基於福康安面試的結果以及拉穆吹忠四大護法存在假託神話,弄虛作假的實際情況,1792 年,清政府制定的《二十九條欽定章程》,第一條確定了“金瓶掣簽”認定達賴喇嘛、班禪及其他活佛之轉世靈童的制度。乾隆皇帝在諭示中明確指示,今後指定轉世靈童,不准拉穆吹忠等人插手,完全由金瓶掣簽最後決定。金瓶掣簽制度規定:在尋找達賴、班禪以及其他活佛的轉世靈童的時候,在確認靈童時,邀集四大護法,將靈童的名字及出生年月,用滿、漢、藏三種文字寫於簽牌上,放進瓶內,進行抽籤確定。即使找到的靈童僅只一名,亦須將一個有靈童名字的簽牌,和一個沒有名字的簽牌,共同放進瓶內,假若抽出沒有名字的簽牌,就不能認定已尋得的兒童,而要另外尋找。“金瓶掣簽”制度確立以後,第一個經金瓶掣簽認定的是十世達賴喇嘛。事實上,清朝的皇帝,即能夠封達賴為西藏的地方最高長官,也能革除達賴喇嘛的封號,比如:乾隆皇帝曾革除六世達賴喇嘛的封號;十三世達賴喇嘛,借助英國人的勢力,謀求西藏獨立,也被光緒皇帝革除過名號。清朝的皇帝不僅有權革除西藏大喇嘛的權利、封號,乃至有權停止“活佛”的轉世。例如,噶瑪噶舉派的紅帽系第十代轉世活佛卻朱嘉措,勾結庫爾喀人(今尼泊爾)入侵西藏,乾隆皇帝派大臣福康安打敗庫爾喀人後,卻朱嘉措畏罪自殺。乾隆皇帝命人將卻朱嘉措的遺骨分掛在西藏的各大寺院,以為叛國者戒。後來清廷下令禁止紅帽“活佛”系統轉世,命令紅帽系的喇嘛改信黃教,並將紅帽系的主寺羊八井寺所有財產予以查抄。
四、“活佛制度”的虛偽性在西藏,達賴喇嘛被認為是“觀音菩薩”的化身,班禪是“阿彌陀佛”的化身,達賴喇嘛對此也不否認。 達賴和班禪在清代,皆為清政府所承認。清政府命達賴管理前藏,班禪管理後藏。雖然達賴和班禪地位平等,都受清朝政府的冊封,但是達賴的勢力遠遠超出班禪。清政府讓達賴班禪各管一塊地方,目的分而治之。因此達賴班禪之間為了爭權奪利,往往搞得水火不能相容。例如:清王朝結束了它的封建統治以後,達賴喇嘛開始強迫劄什倫布寺服從他的統治,並向班禪管轄區派糧派款,徵兵徵稅,而劄什倫布寺則堅持過去的舊例,不願有任何負擔,於是雙方的矛盾開始激化。1902 年,九世班禪曲結尼瑪去拜見十三世達賴喇嘛的時候,歡迎他的儀仗隊擊鼓經過布達拉宮,達賴喇嘛非常生氣,說班禪在達賴喇嘛門前擊鼓是妄自尊大,罰了班禪1500 兩銀子。1916 年,九世班禪給達賴喇嘛去了一封信,除了申述劄什倫布寺的困難外,要求到拉薩與其見面。十三世達賴喇嘛在信中同意他來拉薩面談,但又說政教事務很忙,提議推遲到第二年會晤。班禪只好服從。可是一年過去了,達賴喇嘛又突然宣佈:要“閉關靜坐”3 年,在此期間,謝絕一切來訪的客人,班禪也不例外。班禪只好又等了3 年,才經達賴喇嘛的同意,到拉薩會晤。但這位黃教領袖的拉薩之行卻遭到了前所未有的冷遇,達賴喇嘛只派了一個代表去歡迎他。九世班禪與十三世達賴喇嘛會晤後,很快離開了這個不歡迎他的城市。 1923 年11 月,十三世達賴喇嘛命令劄什倫布寺的幾個負責官員前往拉薩,沒想到這些人剛到拉薩,就被投進了監獄。九世班禪異常恐懼,他預感到這是大禍臨頭的惡兆,如不出走,勢必危及他的生命,於是當即決定向青海方向出走。1923 年11 月15 日夜,九世班禪先在15 名近侍親信的保護下,秘密向北出走,無人知曉。隨後,他們開始穿越藏北草原,並從那裏翻過唐古喇山脈,進入了青海藏區。九世班禪在漢地流浪多年,始終沒有能夠返回故鄉,最終客死中國內地。 班禪系統,因為勢力弱小,一直依賴中央政府的支持,所以歷代的班禪是愛國的,擁護祖國統一的,十世班禪直到解放軍解放西藏以後,在中央政府的干預下,才得以回到了後藏。 再者,達賴喇嘛既然是轉世再來,經過這樣不斷的轉世再來,應該每一代的密法證量都要高於上一代,可是為什麼每況愈下呢?五世達賴和六世達賴個性完全不同,他們是一個人轉世的嗎? 五世達賴喇嘛洛桑嘉措,借助蒙古人的力量,最終建立了政教合一的地方政權,五世達賴還寫作了《西藏王臣記》《引導大悲次第論》等密宗的學術著作,可謂文治武功,都有所建樹。 據說他還是一個瘋狂的巫術崇拜者,他的巫術儀式(殺敵法),分為每年定期舉行的,和突發舉行的。他認為他政治上的勝利,主要是由於他的巫術,而蒙古人的幫助則是次要的。(參閱Zahiruddin Ahmad: Sino-Tibetan relations in the seventeenth century, in: Serie Orientale Roma XL, Roma 1970)Kagyupa的檔則稱五世達賴將九個惡魔從牢籠中放了出來,讓它們將蒙古軍隊引入西藏進行屠殺。五世達賴的巫術記載在他編寫的兩本書裏:《密封的秘密傳記》和《金冊》,有興趣者可以去看Samtsen Gyaltsen Karmay所寫的 Secret visions of the fifth Dalai Lama. The gold manuscript in the fournier collection, London 1988. 可是等他轉世為六世倉央嘉措的時候,卻變成了一個喜歡遊樂,尋花問柳,放蕩不羈的年輕人。在第五世班禪的傳記裏說:“休說他(倉央嘉措)受比丘戒,就連原先受的出家戒也無法阻擋地拋棄了。最後,以我為首的眾人皆請求其不要換穿俗人服裝。但是,終無效應。”自那以後,倉央嘉措便穿起俗人衣服,任意而為。白天在龍王潭內射箭、飲酒、唱歌,恣意嬉戲。還到拉薩近郊去遊玩,與年輕女子尋歡作樂,放棄了戒行。最終六世達賴,因為自己的放蕩不拘,被乾隆皇帝廢除達賴喇嘛的職位,死在了被押往北京的路上,成為政治的犧牲品。既然轉世,習氣個性都應有相似之處,可是第六世倉央嘉措和第五世洛桑嘉措,兩位個性截然不同,值得深思推敲。達賴喇嘛所謂是“觀音菩薩”轉世再來,是否真實? 密宗黃教的“活佛轉世”制度,本來就是為了傳遞世俗的政權,在這個政權傳遞過程中,黃教內部各派的勢力,鉤心鬥角,互相傾軋,甚至是謀殺。如,黃教找到達賴喇嘛的轉世靈童以後,要等這個靈童長大到18歲以後,才能親政——親自掌握政教大權。在達賴喇嘛親政之前的這段時間裏面,西藏的政教大權掌握在攝政王的手中,攝政王往往是低於達賴班禪一級的“活佛”。在權力炙手可熱的西藏,誰掌握權力,就能得到巨大的現實利益,攝政王往往是不會輕易地將手中的權力,他們往往想方設法的延長自己的攝政時間,有的甚至採取在達賴喇嘛成年親政以前,將他謀殺的手段,以達到個人目的。如:達賴九世,活了11歲;達賴十世,活了22歲;達賴十一世,活了18歲;達賴十二世,活了20歲。固然不能單純地從壽命上確定其轉世制度的虛偽,可是卻也很能說明問題。歷代達賴喇嘛的福報太差了,佛菩薩如何不會察見因緣,如何會如此匆忙地轉世,死了又來,來了又匆匆地死。《優婆塞戒經》卷第二之“自他莊嚴品第十一”記載:善生言:“世尊!菩薩摩訶薩,具足幾法,能自他利?”(佛說)“善男子!具足八法,能自他利。何等為八?一者壽命長遠、二者具上妙色、三者身具大力、四者具好種姓、五者多饒財寶、六者具男子身、七者言語辯了、八者無大眾畏。”善生言:“世尊!何因緣故菩薩得壽命長?乃至大眾不生怖畏?”佛言:“善男子��菩薩摩訶薩無量世中慈心不殺,以是因緣獲得長壽。” 從索南加措獲得達賴喇嘛的稱號算起,至十三世達賴,歷代達賴喇嘛的平均壽命不滿35歲。可見,達賴喇嘛過去無量世中沒有做到“慈心不殺”,所以不能長壽。達賴喇嘛於生死不能自在,於業不能自在,因此其所謂是“觀音菩薩”的化身,並非真實。 西藏密宗內部,大小“活佛”之間,為了爭權奪利,充滿了爾虞我詐,你死我活的鬥爭。如“西藏密宗發展簡史”一文所提及的“熱振事件”。 再如,1899年,西藏發生一起預謀暗害十三世達賴喇嘛的事件。前攝政第穆·阿旺羅桑赤來饒傑卸任以後,勾結其侄兒羅布次仁和頓丹等人,對達賴親政表示不滿,企圖將達賴謀害殺死,篡位攝政。為了達到此目的,將達賴生年月日,寫在符咒上面,埋在布達拉宮四周。他們又送達賴一雙靴子,在靴底裏面,縫了達賴生年月日之符咒。當時達賴頓感不適,後來發現靴底有可疑之處,拆開檢查,發現符咒。根據這一線索進行追查,遂逮捕羅布次仁和頓丹,該二犯因見證據確鑿,無可詭辯,全部供認不諱。鑒於前面數代達賴喇嘛年紀很輕,就莫名其妙地患病死去,十三世達賴喇嘛,每餐以前,都要有專門護衛先檢驗食物中有無毒藥。達賴喇嘛是西藏大小活佛的一個代表,在西藏,從解放初期至民主改革時,光西藏自治區境內,大約有3000 到4000位轉世活佛。除了達賴喇嘛和班禪外,還有策墨林活佛、功德林活佛、丹傑林活佛、熱振活佛、第穆活佛、帕巴拉活佛、洛薩林活佛等。另外,在劄什倫布寺和拉薩的哲蚌寺、甘丹寺、沙拉寺,大大小小的活佛更難以枚舉。此外,在青海的塔爾寺、甘肅的拉蔔楞寺,還各有一名大活佛,他們就是章嘉活佛和嘉木樣活佛,他們同屬於格魯派,其宗教地位在達賴喇嘛和班禪之後。總結以上各點可以說西藏密宗所謂的“活佛轉世”,是為了達到政治目的的一種手段,被愚弄和欺騙的是不明真相的藏密信徒和群眾。政治鬥爭的犧牲品:四位達賴壽命不長從五世達賴喇嘛以後,西藏就逐步形成這樣一個傳統,一個幼兒被認為達賴轉世靈童後,經過坐床、受戒和多年佛學教育後,到18歲就能親政掌管政教權力。可是從五世達賴後能登上寶座,較長時間執掌西藏政教大權的,只有4位,這就是七世、八世、十三世、十四世。其餘的除六世早早廢立,九世達賴隆多嘉措(1805年-1815年)生於西康土司之家,1808年被認定為八世達賴的轉世靈童。經中央政府批准免於金瓶掣簽,當年坐床。11歲於布達拉宮暴亡。十世達賴楚臣嘉措(1816-1837)生於理塘仲奪地方,經金瓶掣簽選定,迎入布達拉宮坐床。1628年入哲蚌寺學經,1633年受比丘戒,22歲親政前暴卒於布達拉宮。十一世達賴凱珠嘉措(1838-1855)生於康區打箭爐,1841年在駐藏大臣的主持下,在布達拉宮進行金瓶掣簽選定,次年坐床。18歲那年正月受命親政,12月暴亡於布達拉宮。十二世達賴喇嘛成烈嘉措(1856年-1875年)生於西藏山南沃卡地方,經金瓶掣簽選定。親政第二年在布達拉宮圓寂。他的家庭後來併入藜西拉魯家。 從政治角度看,達賴是統治西藏的政教領袖,但事實上還有一個人分享他的政治權力,這就是攝政王。攝政王一般是在一個達賴圓寂而另一個還未達到親政年齡的情況下,由中央政權選派在西藏有影響的高僧擔任的。這位攝政一方面要代理達賴喇嘛行使權力,另一方面要負責達賴靈童的尋訪事宜,一直到下世達賴親政後,他們才退出政治舞臺。因此一旦一位達賴要親政了,就意味著攝政王的權力要失去了,於是就在新的一世達賴親政前後想方設法加害他們,因此不能排除這可能就是九世至十二世達賴早年天亡原因,證據是沒有的,但民間有鼻子有眼的傳說很多。 有學者作過統計,歷代達賴親政知多少,計算下來,自西元1661年(順治十七年)達賴五世參政(共計22年,有4位第巴扶佐之)至1959年西藏發生叛亂,達賴十四世出逃印度的299年中,西藏世俗行政大權依次先後操掌於3位蒙古汗王、3位第巴、4位噶倫(其中3位噶倫聯合執政)、2位郡王、10位四大林活佛、1位班禪大師、及四位其他高僧手中達222年之久,人均執(攝)政8年多。而歷代達賴喇嘛一世至四世並未親政,從達賴五世至十四世實際親政僅77年,僅占三個世紀的四分之一時間,十位達賴喇嘛人均執政不至8年。這當中親政時間最長的是十三世達賴喇嘛土登嘉措,達30年。 達賴喇嘛世系 年 代 原 名 重 要 事 件 達賴一世(追認) 1391-1474 根敦主 紮什倫布寺創建人,自任座27年。達賴二世(追認) 1475-1542 根敦嘉措 紮什倫布寺、哲蚌寺堪布 達賴三世 1543-1588 索南嘉措 任哲蚌寺做主,塔爾寺創建人,為達賴喇嘛稱號之始。達賴四世 1589-1616 雲丹嘉措 蒙古族,任哲蚌寺和沙拉寺堪布 達賴五世 1617-1682 阿旺羅桑嘉措 清政府賜金冊金印,尊為喇嘛教最高領袖。達賴六世 1683-1706 倉央嘉措 1697年入布達拉宮座床,1705年被清政府廢黜。達賴七世 1708-1757 格桑嘉措 1751年受清政府命掌管西藏地方政權,是政教合一制度的開端。達賴八世 1758-1804 絳貝嘉措 1781年受命清政府掌管西藏地方政權。達賴九世 1805-1815 隆朵嘉措 暴卒,年僅11歲 達賴十世 1816-1837 楚臣嘉措 暴卒,年僅22歲 達賴十一世 1838-1855 克主嘉措 1855年受命清政府掌管西藏地方政權,暴卒,年僅18歲 達賴十二世 1856-1875 成烈嘉措 1873年受命清政府掌管西藏地方政權,暴卒,年僅19歲 達賴十三世 1876-1933 土丹嘉措 1894年開始親政,政治態度一直在清政府和英政府之間搖擺不定。達賴十四世 1935- 丹增嘉措 1959年達賴喇嘛逃離西藏,在西藏設立的政府要員也流亡印度達蘭薩拉成立了西藏流亡政府。綜上所述,達賴三世,活了46歲;達賴四世,活了28歲;達賴五世,活了66歲;達賴六世,活了26歲;達賴七世,活了49歲;達賴八世,活了47歲;達賴九世,活了11歲;達賴十世,活了22歲;達賴十一世,活了18歲;達賴十二世,活了20歲;達賴十三世,活了58歲。 其中,有幾世的壽命特別短:四世,28歲六世,26歲九世,11歲十世,22歲十一世,18歲十二世,20歲。這些並非自然死亡,都是由於爭權奪利而死於非命的。
總結本人(戴德金剛上師)認為:第一、轉世活佛這方法不可取,應該逐步廢除取消;第二、要用推選的方法選出幾位高僧大德(修持得十分精進,很有成就,戒律清淨,又能通達佛經、演說佛法),讓他們作為佛教上層喇嘛,那才是真正的可以弘揚正法。
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看湯沈之爭的曲學背景與論爭實質
看湯沈之爭的曲學背景與論爭實質
元曲乃至於南曲(溫州雜劇、弦索官腔、海鹽腔、崑山腔)這些承續古來詩詞曲的劇詩體的古典戲曲,皆是定腔的,即,每只曲牌即是歌曲,曲調是一定不變的。皆見於周德清《中原音韻》及沈寵綏《度曲須曲》的《弦律存亡》一章及本書它章所舉論。
因為各曲牌的旋律要守住,唱出來的音高須與該所唱的字的陰陽四聲或至五聲、七聲要相協,此即明代曲家王怡庵所說的『諧聲』。所以元代周德清《中原音韻》的《正語作詞起例》裡,就舉了不少元代元曲曲牌內用字的陰陽四聲不當,而造成拗嗓之例。因為曲牌是固定了的唱腔,所以原其曲牌內尤其重要處的字(如務頭),都有最適當聲與字相應所應采的陰陽平仄,應平而仄、仄而平、上去而去上、去上而上去,則一如周德清于《中原音韻》序文指出的:『平而仄、仄而平、上去而去上、去上而上去者,諺雲鈕折嗓子是也,其如歌姬之喉咽何』。
而王驥德在《曲律》的《論平仄》及《論曲禁》二章內,更就『拗嗓』(即周德清所說的『鈕折嗓子』)說明之:『四聲者,平、上、去、入也。平謂之平,上、去、入總謂之仄。曲有宜於平者,而平有陰、陽(陰、陽說見下條),有宜於仄者,而仄有上、去、入。乖其法,則曰拗嗓。』(《論平仄》)、『拗嗓。(平仄不順。)』(《論曲禁》)。
而沈寵綏《度曲須曲》的《弦律存亡》洋洋灑灑,大談特談明代當日不少知名的清工,依自我所好,隨心去依其心中的定義的行腔,而成了曲唱,因為不是在唱崑山腔的應有唱法,就唱成了不是崑曲應有的唱腔。沈寵綏指出,當日一些不明格律的曲家清工,自由依體會去行腔曲唱,違反了崑曲的聲腔格律的唱法,唱出來的唱腔成了不是在唱崑曲的隨心腔,同時這種依隨意行腔也違反了崑曲的唱法。此即沈寵綏所說的:『反就平仄例填之曲,刻意推敲』『總是牌名,此套唱法,不施彼套』『但正目前字眼,不審詞譜為何事』『總是【前腔】,首曲腔規,非同後曲』『廢卻當年聲口』『以合掌為卑拙』『即使以今式今,且毫無把捉,欲一一古律繩之,不徑庭哉』。
而其所指的『但正目前字眼』『反就平仄例填之曲,刻意推敲』,即是指當日那些明末不明聲腔格律的清工,自己依想像中的行腔,不核對文字格律的曲譜,而徑以填詞者的所填各曲辭,管它合不合文字格律,都依自己認為的行腔方式,自由地去曲唱之,不明崑曲的各曲牌的聲腔格律,是實有其本牌的腔格(『本腔』,即基本曲調),即只只崑曲曲牌皆有惟一的一定唱腔的屬於那只曲牌歌曲的本腔存在,而自曲子詞到宋詞、元曲以來的詩詞曲長短句體的韻文的戲曲,發展到了海鹽腔基礎上成立而重視『轉音』的『新聲』的崑山腔,已更在以基本曲調為本腔外,再加上了把基本曲調再依各字的陰陽七聲的所填不同,再去調整相應的頭腔的腔格。而顯出雖是同名曲牌,卻因為填詞的陰陽七聲不同,而唱腔上會依聲腔格律,而在調整頭腔及與鄰近的腔無縫連接之下,有些微相異的工尺來,此即如沈寵綏《度曲須知》的《四聲批窾》一章所詳言如何對應曲牌內用字的陰陽七聲的不同,而調整該字的原有基本曲調的上在頭腔上的基腔的方法的崑曲的訂譜法。
而崑曲的各曲牌的基本曲調的各字的腔格,即各字的基腔的存在,且應作為調整每一字的頭腔的腔格的基準。於是若是產生了違反崑曲聲腔格律,就等於落入了不是在唱崑曲,而走上了任意行腔的曲唱歧路,此即沈寵綏所指出的『但正目前字眼』『反就平仄例填之曲,刻意推敲』,即明白表示那些主張及��踐任意自由推敲的行腔之下所唱出來的唱腔的不是在唱崑曲,亦即在所謂的行腔曲唱之下,其實唱出來的是自由創作之下而廢卻崑曲各曲牌原有的唱腔,即『廢卻當年聲口』,而變成自由唱;而且每個人依自我意志去自由地行腔,各有各的調,都沒有規律,各清工隨口唱,沒有固定的章法格律,於是造成了『總是牌名,此套唱法,不施彼套』『總是【前腔】,首曲腔規,非同後曲』『以今式今,且毫無把捉,欲一一古律繩之,不徑庭哉』。
而當日天下,能唱得合律的,反而是戲班的戲工,故沈寵綏說:
『今優子當場,何以合譜之曲,演唱非難;而平仄稍乖,便覺沾唇拗嗓,且板寬曲慢,聲格尚有遊移,至收板緊套,何以一牌名,止一唱法,初無走樣腔情,豈非優伶之口,猶留古意哉』、『覺梨園唇吻,彷佛一二』。
戲工的固定少變的合律方法,是崑曲得以盛行的原因:
沈寵綏所說的『今優子當場,何以合譜之曲,演唱非難;而平仄稍乖,便覺沾唇拗嗓』,任何崑曲的劇本,如果每位填詞的作家都依著南戲的詞譜,如《南曲譜》等去填,則戲班的演出,只要點出板來,完全可以唱的很順且合律,故每個唱出來的音和陰陽平仄,皆可以很和協,而且合于應唱的該曲牌的聲腔,所以沈寵綏才說這些填詞者的作品是『合譜』的劇���,所以『演唱非難』;而如果劇作裡的『平仄稍乖,便覺沾唇拗嗓』。
於是像《牡丹亭》等作品,為何戲班無法唱,因為戲班曲師看到劇本,若只是『平仄稍乖』這些屬於『拗折天下人嗓』的『拗嗓』現象,崑山腔都可以仍唱得出來,但《牡丹亭》等作品,往往每只曲牌,常有內中多一句,少一句,或多太多襯字,還有缺字的,於是因為於唱格不合,即沈寵綏所說的『腔律』『腔規』的不合,亦即起因是由於因不合文字格律,而導致不合聲腔板律,而理不出頭緒,亂了套,故而致點不出板來,也就無法照該曲牌的唱腔的格式及應有唱腔去照套其聲腔格律之下的該曲牌應有的唱腔,而因此無法演唱,於是當日不少熱心傳揚崑曲的曲家,就把《扗丹亭》改寫成合律的作品,但文彩不如湯顯祖原作,不能賞高級知識份子的心,及如此一來,又觸動了湯顯祖的火氣,於是湯顯祖發表了有名的『不妨拗折天下人嗓子』的脫離群眾而走孤芳自賞的過激言論,而和站穩崑曲可以傳揚數百年,而與平民百姓站同一陣線的崑曲的傳揚推動的沈璟等人唱反調;
如若湯顯祖『不妨拗折天下人嗓子』這種屬於封閉心境的士大夫孤芳自賞的論調勝利,則崑曲亦不待明朝亡而因脫離群眾而自亡了,一如明末沈寵綏痛心疾首於明末,看到當日清工把崑曲以自由行腔的曲唱之下,唱成了只只走調的自由創作,不成其崑曲應有的曲牌唱腔,而致崑曲其實已亡於明末清工,故其於《弦律存亡》此章,即指出:明末崑曲己亡于自由隨心行腔的曲唱的清工而只存於戲工,故而有撥亂反正的《度曲須知》一作的問世,而如果連能唱合律的崑曲的戲工也不能唱的如湯顯祖的作品,卻成了劇作者人人所奉的衣缽,人人都去寫『不妨拗折天下人嗓子』的作品,讓戲工也唱不出來,則崑曲更因推動戲曲主要的媒介的戲班之亡,而更不會見到清初根基於群眾之上的蘇州派崑曲的盛際的一日了。
湯顯祖因為其寫的傳奇劇作被批評不合律,因此很不高興,於是在《答呂薑山》中指出:『凡文以意、趣、神、色為主。四者到時,或有麗詞俊音可用。爾時能一一顧九宮四聲否。如必按字摸聲,即有窒滯拼拽之苦,恐不能成句矣。』
按,如果湯顯祖的論點可以成立,那麼,寫一首詩,不也可以不顧應有的平仄及五言或七言,或四或八句,也可以違背應有的平仄,也可以於五言詩裡突而出現了四言或六言,七言,或四句詩添了一句或少了一句,因為每個寫不合詩格的人都可以用以下的飾詞來開脫了:
『凡詩以意、趣、神、色為主。四者到時,或有麗詞俊音可用。爾時能一一顧平仄句法否。如必按字摸聲,即有窒滯拼拽之苦,恐不能成句矣。』
今天,翻看湯顯祖所寫的每一首詩,沒有一首為了伸張其『意、趣、神、色』的『到時』及『或有麗詞俊音可用』,就於是寫成有出格脫軌的詩出來,為何寫詩在五言七言裡都像個老學究老古板一一循諄遵詩格,拋掉『詩意』,可以不顧『意、趣、神、色』,硬塞入到詩格裡的既有的平仄,字數及句數的框框裡。我國文藝理論大師的朱光濳在其名著《詩論》在論寫詩需服從詩律時指出:『從心所欲,不逾矩是一切藝術的成熟境界,如果因牽就固定的音律,而覺得心中情感思想尚未能恰如題分地說出,情感思想與語言仍有若干裂痕,那就是因為藝術還沒有成熟。』湯顯祖寫詩就對於詩不會因為『詩意』大發,而致五言詩就在意趣神色到時,於是非用一句六言,還是可以屈從從詩律,硬濃縮成五言來表達,也不會非要多一句成了五或九句,也不會因非得為表達『詩意』而去少了一句,成了三或七句詩。
但一到寫作填起南北曲曲牌的曲辭,其這方面的『藝術還沒有成熟』,以致于駕馭曲辭不致造成了猶如明末大麯家沈寵綏《度曲須知》裡所說的:『今優子當場,何以合譜之曲,演唱非難,而平仄稍乖,便覺沾唇拗嗓』,而讓優伶演出時,感到平仄大乖,都不能依照每只曲牌的固定唱腔的『譜』唱得下去,故而湯顯祖創作曲辭的能力就有所不足。但湯顯祖反而不但不知自我加強,反而用飾詞來強詞奪理。
今日學界,若為了捧湯顯祖的飾詞,而還為他的不合譜的填詞以致于造成藝人演唱的『難』及覺得『沾唇拗嗓』的飾詞開脫,甚至齊聲頌贊,以為他的『曲意』有多偉大的,能不再三反思為何湯顯祖寫詩就沒有那一套『詩意』的標準,填曲牌時卻以『���意』為自己開脫而議論大發,再立一套標準,而堅持寫下不合律,讓演劇的演員『拗折嗓子』,無法演唱的情況呢,則所謂的『曲意』,不就是因為掌握填曲詞的能力不足所限,而一味嘴硬的飾詞嗎。明明填不出某曲牌,不如就自創曲牌名好了,否則打著填某曲牌的名號,實際上填出來的曲辭卻不是該曲牌該有的格式的辭,豈非是在掛羊頭賣狗肉了。
湯顯祖的自己加油添醋亂加改腔的海鹽腔的四夢,後世沒有人有心記譜保存下來,清初以來於江西最後的告別一睹後,至今日不存;而反而依崑曲聲腔格律的要求而或放棄曲牌名對稱的原固定唱腔而改集曲或改依馮夢龍的改辭,或改又一體唱腔的崑曲可以演唱的《牡丹亭》可以長存,不就說明了歷史的千百年眼挑選了誰了嗎。
歷史唾棄掉不合律的湯顯祖自由依字聲行腔的作品,一如崑曲界於後世沒有保存任何一隻明末末流清工自由而不合腔律亂唱的曲腔是一樣的道理,而最後歷史選擇的是依戲工之『一牌名,止一唱法,初無走樣腔情』,每只曲牌以固定唱腔做為基本曲調的唱法,厘正聲腔格律後保存于《南詞定律》及《九宮大成南北詞宮譜》而傳承到今天,而沙汰掉了那些如湯顥祖依字聲行腔唱海鹽腔,及崑曲末流清工自由曲唱,不知樂而妄唱的唱腔。
或謂,南曲譜是為崑腔編寫,所以湯顯祖採用海鹽腔或宜黃腔的格律,既言格律,則譜安在。從傳聞為元代文宗天歷年間的九宮十三調譜至明代嘉靖年間蔣孝的南曲譜,乃至於萬曆年間沈璟的南曲譜,其實皆為南曲之譜,至於弦索官腔也好,海鹽腔也好,崑山腔也好,都是用此譜,只是沈璟在其南曲譜裡,是依崑板點板的。蔣孝成南曲譜時,乃海鹽腔的天下,難道可以說,此譜非為海鹽腔創作劇本應遵而別有譜,別有格律。而沈璟的南曲譜實本于蔣孝的南曲譜,多只是加句讀,加平仄上去,及說明文字,與崑山腔的板眼而已,內容少有更動。故可以看出,並沒有海鹽腔或宜黃腔的專屬格律,故《牡丹亭》不合格律處,不論用海鹽腔的角度或崑山腔的角度來看,都是完全相同的不合格律。所以崑山腔的戲班唱不出來,海鹽腔的戲班必定也唱不出來。
張大複《梅花草堂筆談》卷七,提到明代十分有名的一位崑曲清工王怡庵時,指出:
『王怡庵教人度曲,閑字不須作腔。閑字作腔,則賓主混而曲不清。又言,諧聲發調,雖複餘韻悠揚,必歸本字。此宇宙間不易之程,非獨一家事也。王在長安,薄游營妓間,戲演張敏員外,識者絕倒。諸部聞之,競相延致,至馬足不得前。斯豈無挾而然耶。然諸部政不知,此劇其一班耳。擅場事故,在《崔徽傳》。予嘗叩之兩頤,翕翕自動,嵇談阮笑,誰不自喜。周旋竟日,絕不及《牡丹傳》。予問故,曰,政複難,然難處最佳。又問難處,逡巡久之,曰,迭下數十餘閒字,���一二正字,作麼度。予笑曰,難,難,政複佳。』
此文內談到王怡庵的崑曲清唱及場上演出的功力鎔深,連北京的戲班都爭相延請。而與張大複相見時,相談整天,都沒有談到《牡丹亭》。
按:文中的《牡丹傳》,即指牡丹亭,一如文中的《崔徽傳》,即指《西廂記》。所以張大複就問王怡庵,王怡庵答道:唱《牡丹亭》很『難』,『難』到好的不得了的程度,張大複一問之下,王怡庵答覆,因為湯顯祖《牡丹亭》內往往幾十個襯字,正字才一兩個,襯字反而多於正字,多不合文字格律,怎麼能唱得出來(『作麼度』)。這就是明代知音的崑曲清工王怡庵對於湯顯祖《牡丹亭》倒底出了什麼問題,以致于竟根本不能用崑曲唱得出來,於襯字太多的角度,提出說明。
按,王怡庵此人,明末馮夢龍在《墨憨齋復位雙雄傳奇》第二十二出裡的【滾浪煞】一曲的眉批上曰:『煞從來每句截板,此系王怡庵唱定,便於戲場,姑存之。』亦提及其造詣。
所以,我們從明代當日這位有名的清工曲家之言,就可以看出不合文字格律,以致不合聲腔格的『諧聲』度曲,以致於無法唱不合格律的作品,一如明代以合於聲腔格律的戲工,于沈寵綏在《度曲須知》的《弦律存亡》一章裡所指出的,戲工對於不合文字及聲腔格律的作品,一聽即知有拗嗓等問題之言:『今優子當場,何以合譜之曲,演唱非難;而平仄稍乖,便覺沾唇拗嗓,且板寬曲慢,聲格尚有遊移,至收板緊套,何以一牌名,止一唱法,初無走樣腔情,豈非優伶之口,猶留古意哉』、『覺梨園唇吻,彷佛一二』。在正牌清工曲眼裡對湯顯祖劇作的不合律無法唱的情形,明確做解釋的,出自於當日崑曲清工王怡庵的說明原委,即為一例。
但不是史料有載,湯顯祖親自教宜伶怎麼樣唱嗎。而宜伶是唱海鹽腔的,而《牡丹亭》等湯顯祖的傳奇作品,不是史有明載被海鹽腔的伶人的宜黃的伶人唱了出來了嗎。不是也有記載還是有些家班,如崑山當地大官僚王錫爵的家班即用崑山腔演唱過,故還可以演唱嘛。
按,如果詳讀沈寵綏在《度曲須知》的〈弦律存亡〉一章裡所指出的當日的末流清工的自由唱,而崑曲戲工不能唱的,自由唱的末流清工都可以用:『唱家又不按譜相稽,反就平仄例填之曲,刻意推敲,不知關頭錯認,曲詞先已離軌』、『總是牌名,此套唱法,不施彼套;總是【前腔】,首曲腔規,非同後曲,以變化為新奇,以合掌為卑拙,符者不及二三,異者十常八九,即使以今式今,且毫無把捉』、『今之獨步聲場者,但正目前字眼,不審詞譜為何事;徒喜淫聲聒聽,不知宮調為何物,踵舛承訛,音理消敗,則良輔者流,固時調功魁,亦叛古戎首矣』、『而時調則以翻新盡變之故,廢卻當年聲口』,而隨聲以非崑曲的唱腔的曲唱方式唱出來,故可以知事實的真相了,雖知音的曲家及明代的所有曲家都一致責難《牡丹亭》等湯顯祖作品不合律,但那些放棄崑曲格律,去自由曲唱的清工,自可吚啊地自由創作而下腔而可以唱出來非崑曲的自由創作腔。因為湯顯祖對於不合格律處,因為海鹽腔的宜伶也唱不出來,往往每只曲牌,常有內中多一句,少一句,或多太多襯字,還有缺字的,於是因為於唱格不合,即與海鹽腔的定腔的『腔律』的不合,亦即起因是由於因不合文字格律,而導致不合聲腔板律,而理不出頭緒,亂了套,故而致點不出板來,也就無法照該曲牌的唱腔的格式及應有唱腔去照套其聲腔格律之下的該曲牌應有的唱腔,而因此無法演唱,於是湯顯祖以沈寵綏所談到的一些崑曲清工的依字聲行腔,廢卻崑曲唱法,也依其自敘被『雷光』般地頓悟是依字聲行腔,不合律而演唱海鹽腔的宜伶唱不出來時,即以其依字聲行腔的自己想法,去教宜伶 ,於是唱出的就不是純正的海鹽腔,而是不合律而原本宜伶不能依海鹽腔唱出來的地方,改易過原定腔的腔。
一如沈寵綏所指斥於明末崑曲清工把崑曲唱成大大地走調,湯顯祖也廢卻海鹽腔當年聲口而大大走調。而沈寵綏指斥於明末把崑曲唱成依字聲行腔的曲唱以致於亡崑曲的清工的『唱家又不按譜相稽,反就平仄例填之曲,刻意推敲,不知關頭錯認,曲詞先已離軌』、『總是牌名,此套唱法,不施彼套;總是【前腔】,首曲腔規,非同後曲,以變化為新奇,以合掌為卑拙,符者不及二三,異者十常八九,即使以今式今,且毫無把捉』、『今之獨步聲場者,但正目前字眼,不審詞譜為何事;徒喜淫聲聒聽,不知宮調為何物,踵舛承訛,音理消敗,則良輔者流,固時調功魁,亦叛古戎首矣』、『而時調則以翻新盡變之故,廢卻當年聲口』,完全適用于不明曲意的填詞門外漢的湯顯祖的『自掐檀痕教小伶』。
明末阮大鋮《春燈謎傳奇》自序:『餘詞不敢較玉茗,而差勝之二:玉茗不能度曲,予薄能之。雖按拍不甚勻合,然凡棘喉殢齒之音,早于填時推敲小當,故易歌演也。』即以當行的曲家角度,申論了湯顯祖實『不能度曲』,即指其實為不明格律。一如明末臧懋循《玉茗堂傳奇引》言湯顯祖『學未窺音律』、『按亡節之弦歌,幾何不為元人所笑乎。』是因臧懋循明白自元曲以來到崑曲的所有南北曲各聲腔,皆為定腔,而評湯顯祖的劇作不合南北曲的定腔的譜理,是因不明南北曲的成音的依腔填詞的固定唱腔的音律所致,所以根本擺放不進每只曲牌的固有唱腔裡去或擺進去唱來拗嗓。
而明末張琦《衡曲塵譚》所說:『近日玉茗堂杜麗娘劇非不極美,但得吳中善按拍者調協一番,乃可入耳』,亦指出了《牡丹亭》要能由崑曲演出,必須『調協一番』,而此一『調協』的正律方式,如不更動湯顯祖的原作,則多一句者,並前或後句為一;少一句者,少唱一句唱腔,或折一句為二句;襯字太多者,則改唱為念,或采不合律的添板;缺字者,一字重複唱為可依崑曲聲腔格律推得之那些合律的『調協』之法,或後有改集曲之法,
按,改集曲,又非始於明末清初的鈕少雅的《按對大元九宮詞譜格正全本還魂記詞調》,而至少清初以來即有之,見《九宮大成南北詞宮譜》內即收有非鈕少雅版本的《牡丹亭》的集曲版本之例可證。而當然,如明末一些清工以依自由創非崑曲唱腔的自由隨心令,把崑曲唱成四不像的自由唱的野狐腔,是應摒而不論。如果對於崑曲的格律都一無所知,把『依字聲行腔』當成崑曲成腔之理,寫出的一些學術著作及如〈從依字聲行腔與南曲用韻看湯沈之爭的曲學背景與論爭實質〉之類的論文,也不免落入于天馬行空,全不著題旨了。(劉有恆,臺北)
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【山形雙年展2020】社交驟停 我們更需要藝術去連結彼此
無法相見,格外想念。日本東北山形縣的文藝盛事「山形雙年展」,每年吸引數以萬計來自全球的藝街迷朝聖,諦結了無數珍貴緣份,故此策展團隊眼見現時疫情凶險,各地藝術友未能如常來訪,深感可惜。團隊幾經諮詢,決定今年的第四屆「未知深處的藝術祭 山形雙年展」(みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ)不會取消或延期,但將改以較安全、無懼隔阻的「網上直播及展覽」形式繼續舉行。
始於2014年的「山形雙年展」,是日本規模迷你、意念卻宏大的藝術盛會,主辦單位東北藝術工科大學,自311東北大地震後,一直期盼善用藝術大學的資源,推動藝術、設計與社會責任結合。過去三屆的策展人、繪本作家荒井良,特別關注在地藝術創作與教育,每一屆他均會與團隊安排客席藝術家,率領藝術大學的學生、當地居民、孩童,同於城鎮做共同創作,並廣及藝術、設計、音樂、食材、工藝及歷史等多個範疇,極富人文精神。
今屆「未知深處的藝術祭 山形雙年展」,將由稻葉俊郎(Toshiro Inaba)擔任新一任策展人。稻葉俊郎現職醫師,也是東北藝術工科大學的兼任教授,有資深的醫學、藝術、歷史及社會學造詣,因此他將會針對 「後疫情」新生活,夥同美術指導中山ダイスケ(Nakayama),以「山的形狀,生命的形式」作年度主題,將展期內七組主要參展項目的演出、裝置、畫作及工藝品等,透過直播、影片播放、座談,以至網路商店等形式,呈現於日本以至外地觀眾眼前,藉此跟大眾探討疫情之下藝術文化存在的價值與必要性,也讓未能親往山形藝術迷,仍可通過嶄新的方式,體會山形初秋之美與人情味,連結彼此心靈。
「未知深處的藝術祭 山形雙年展2020」 展期:2020年9月5日(六)至9月27日(日) *展期中,五、六、日、國定假日預計將開啟「網路LIVE直播」 *從開幕起,各項展出的影片,可隨時點開觀看。 *門票免費(部分的影片觀看需要付費) 官方網站:https://biennale.tuad.ac.jp/
撰文:KC 圖片來源:山形雙年展官方網頁(https://biennale.tuad.ac.jp/)
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