#禁書 グーテンベルクから百科全書まで
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すでに著名な出版社によって好奇心を刺激され、非日常的な体験を掻き立てられ、法律となった規則の遥か彼方へと向かっていたヨーロッパの大衆は、別の次元へ引き上げられていった。
マリオ・インフェリーゼ著/湯上良訳『禁書 グーテンベルクから百科全書まで』(2017年8月、法政大学出版局)
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第五講|ヨーロッパと日本をつなげる
日本文化の禅から世阿弥の時期、ヨーロッパはまさにルネサンスを迎えていました。ルネサンス時代についてはよく「人間復興」とか「人間再生の時代」とかと書いてあります。それまで続いていた暗黒の中世からやっとトンネルを抜けて開花した明るい時代だとか、いよいよヨーロッパが人間性を取り戻した輝かしい時代、としてとらえられている人も多いでしょう。でもそんな単純なことではないんです。そこには「神の知」と「人間の知」をめぐる、情報編集的な葛藤が色々と複雑におこっていた。
ヨーロッパでも日本でも、人間文化のいちばん奥には、古代神話の世界があったわけです。これをまとめて「ミュトス」といいます。神話世界、筋書きという意味です。アリストテレスが早くに指摘した上で、人間文化はこの筋書きに絡んで進んでいるという。わたしたちは自分たちの民族の記憶を、長らく神々の神話に託して継承してきました。それがやがて制度化され組織化され、宗教として体裁が整ってくると、神はバーチャルではあるけれ��、全知全能の存在になって、現実社会のセンターとしてそこかしこに君臨していぎます。
それを最も推し進めたのが、ヨーロッパにおいてはユダヤ教とキリスト教です。ユダヤ=キリスト教では「知」というものは全知全能の神から流出してくるものだと考えたんです。そしてそれを人間社会が受け継いでいく。そのレセプションのために、「神学」のような体裁が生まれ、また神の知の管理センターとしての教会や修道院が発達していったわけです。そしてそこに「神父」という人たちが登場しました。教会や修道院はまさに「神の知」を形としてあらわすようにつくられました。
社会や文化には「同」を求める流れがある一方で、必ず「異」となる流れがあるわけで、ヨーロッパではその「異」が中世で目立ってくるんです。
12〜13世紀ごろの教会の建築様式のことを「ゴシック」という言い方をします。パリのサン・ドニ教会とかノートルダム寺院とかケルン大聖堂とかが有名です。いずれも尖頭アーチが天空に伸び上がった、巨大で壮麗なカテドラルです。巨大な一冊の聖書を建築によって体現したような空間。
ゴシックという言葉は、ゴートっぽいという意味で使われた言葉で、野蛮な異教徒たちの様式、という意味あいをもっていました。純正統派的なキリスト教の様式とは違った、異教徒の匂いをぷんぷん放っていたというわけです。意外です。
ゴート人というのは、4世紀から5世紀にかけてゲルマン人の大移動にともなって北方からやってきて、ついにイタリアに入って東ゴート王国をつくった民族です。
キリスト教は「異」なる外部者たちによってもたらされた異教徒な文化やシステムを、「同」の中に取り込みながら、だんだん論理やデザインや情報戦略を強化していくという歴史がずっと続いていく。ごくごく縮めていえば、ルネサンスというのは、この異教趣味にかなり傾いたところから出てきた文化様式。「異」は「異」として認めようじゃないか。
もともと中世のキリスト教は、人間が人間のことや自然について探求したり思索したりふるような「知」を禁じていた。アダムとイブがエデンの園から追放されたのは、禁断のリンゴを食べたからですが、あれは人間が知らなくていいことを知りたがった、という意味です。
ダヴィンチは、人間解剖図も書けば水流の観察もすれば、ヘリコプターや飛行機の設計もする。芸術から科学まであらゆることに手を出していた。キリスト教的にいえば、このような好奇心というか知の探求精神そのものがたいへんに異教徒だったわけです。キリスト教が封印してしまった「人間らしい知」というものがヨーロッパの古代の地層のなかに��っていた。それが古代ギリシア・ローマの「知」です。なかでもプラトンの哲学やアリストテレスの論理学や自然学です。しかし、これらもきちんと保存し継承してきたのはヨーロッパ人でなくてイスラム文化圏の人々。多くがイスラムの「知恵の館」に収集され、アラビア語に翻訳されていた。
で、12世紀〜13世紀にかけてキリスト教的な信仰とギリシア・ローマ的な哲学や理性をなんとか調和させるためにラテン語という特殊な言葉を用いて独自の学問体系をつくろうとします。一言でいえば、どうやってキリスト教とアリストテレス体系を両立させるか、融和させるかということに挑んだ特別の学問。ラテン語はそういうために作られた体系言語。
13世紀半ばくらいになると、かなりの点でうまく融合できるようになっていきます。このスコラ哲学(ムダな論議をたくさんしてきた)の頂点の時期がちょうど建築様式としての「ゴシック」に対応している。
ゴシック建築もスコラ哲学も、キリスト教の教義、すなわち神の知を、いかにして現実世界に置き換えていくかというところから生まれたというふうに見るといいでしょう。そのために「神の知」をいったん部分部分に分けて、それぞれについて合理的で現実的な解釈を加えておいた上でそれを再統合していくという方法をとっていったわけです。
こうしていったん再統合されると、そこからさらに次の新しい方法が生まれていきます。建築様式でいえば、ゴシックからグレコ・ローマン様式、すなわちギリシア・ローマ様式。東ゴート王国の地層の下に眠っていたギリシア・ローマ文化が前面に出てきた。ここからルネサンス様式というものが芽生えていく。
ルネサンスといえば、だいたいイタリアにおこった文芸やアートの動向のことを指すことが多いのですが、同じころにヨーロッパ各地、ドイツでもフランスでもイギリスでもスペインでも、それぞれの国においてルネサンス的な文化の盛り上がりがありました。
ヨーロッパ中世の夜明け。
出来事①
キリスト教権力の弱体化
十字軍遠征そのものは結果的に失敗。ローマ教皇庁の権力が後退。
出来事②
教皇権にかわって各国の国王の力が増大
とくにフランスとイギリスが大きく台頭。14世紀には領土問題や王位継承をめぐって100年にわたる英仏戦争がおこります。このときイギリスに圧されていたフランスを救うために立ち上がった一人の女性。ジャンヌダルク。13歳の少女が神のお告げによって立ち上がりフランス郡を勝利に導いた。
出来事③
イタリア商人の近代化
十字軍をきっかけにイタリアの港湾都市を拠点とする地中海交易が活発になり、たとえばベニス、ジェノバ、フィレンツェ、ミラノといった都市が大きな経済力をもっていた。とくにシェイクスピアの戯曲で有名な「ヴェニスの商人」たちは、東方からもたらされる香辛料や絹などをヨーロッパ諸国に売りさばいて儲けまくった。
イタリアの商業都市でルネサンスが開花した背景。
こういう変化のなかで、キリスト教自体も大きく変わっていく。1450年にグーテンベルクが活版印刷を発明。最初に印刷されたのが聖書。人々が聖書を身近に手に取ることができるようになると、これまでのローマ教会の在り方に疑問をもつ人々があらわれてきます。ドイツの修道僧マルティンルターがでてきて「95か条の問題提起」をしたことがきっかけで宗教改革につながる。
このときに聖書の教えに戻ろうというスローガンを掲げて登場したのが、プロテスタント派。日本の大学でいうと、青山学院、明治学院、関西学院など。
さらにフランスのカルバンが厳格な聖書主義を説いて宗教改革を強力に推し進めた。このような動きに対して守旧派のカトリックも「イエズス会」が組織される。イエズス会は教皇の絶対権力を守りプロテスタントと徹底的に対抗し、未知の国々に出かけては熱心に布教していく。日本にキリスト教をもたらしたフランシスコザビエルは、このイエズス会の宣教師。上智大学、聖心女子大、清泉女子大、白百合、南山大学、ノートルダム、平安女学院。
人間の歴史は古代このかた長いあいだ、本を読むときは声を出していた。本は音読しかできなかった。それがグーテンベルクの活版印刷以降、黙読がはじまり、声の文化が薄れていった。
印刷革命と宗教革命の引金を引いたルネサンス時代の次が(途中マニエリスムをはさみ)バロック。バッハ、ヘンデル、モンテベルディの時代。バロックというのは「ゆがんだ真珠」という意味。代表的なのがベルニーニの彫刻。1620年ごろにサン・ピエトロ大聖堂の装飾彫刻をすべて請け負う。「物語性の強調」とても演劇的でドラマチック。そして2つ以上の焦点があり、その2つの焦点が互いに動きあって独特のねじり感覚、ドラマ性を生み出している。バッハの「フーガ」は2つのモチーフが互いに追いかけけっこする様式。追想曲。ルネサンスでは焦点はつねに一つだった。
ルネサンスの世界観では宇宙はたった一つので、神秘主義の影響もあってマクロコスモスとミクロコスモスは神を中心にして完全に調和ひているもの、秩序をもったものと考えられていた。
バロックでは、唯一型の宇宙観が崩れはじめマクロコスモスとミクロコスモスとが二つながら対比してくる。かつ、二つの世界はかならずしも完全に対照しあっていない。それぞれが動的でそれぞれが焦点をもちはじめる。
ルネサンスでは正円の世界、バロックでは楕円。
バロック時代は科学革命がおこっていた時代。極大のマクロコスモスと極小のミクロコスモスのそれぞれについて科学によって明らかにされていった。16世紀半ばにコペルニクスが地���説を発表。(その前はプレイマイオスの天動説)イギリスでは1600年にウィリアムギルバードが「地球磁石論」著作、イタリアのガリレオガリレイは天体望遠鏡をつくる。ドイツでは、ケプラーが宇宙モデルを構想して惑星が楕円軌道を描いている「ケプラーの法則」を発表。17世紀後半になると、ニュートン「万有引力」
シェイクスピアこそ、バロック的な光と影の、神と人間の、生と死の葛藤を物語にした作家。ハムレットの悩みこそ「生きるか死ぬか」まさに二焦点的、バロック的。
編集とは。
そのままではいっしょにしにくいものや、それまで誰も関係があるとは思っていなかった現象や情報に、新しい関係性を発見したり、もう一つ特別な情報を加えることによって関係線を結んでいく。新たな対角線や折れ線を見つけていく「方法の自由」、「関係の発見」
人間は、マクロとミクロを考える葦
デカルトの(我思う、ゆえに我あり」は人間の存在を世界の存在とともに数学のように証明したかった。そのデカルトが自分よりも30歳も年下なのにどうしても会いたくて会いにいったのがプレースパスカル。「パスカルの定理」「人間は考える葦である」「人間は、自然のうちでもっとも弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」
人間は折れやすく壊れやすいからこそ考えるのだ。人間の小さなことがらに対する敏感さと、大きなことがらに対する無感覚は、奇妙な入れ替わりを示している。
同時期日本では、分割しない見方がさまざまな日本文化を生んでいく。座の文化、一座建立。いろいろな人々が集まって一座を設けて、そこに何かを見立てていく。そこには出会いがある。一期一会、分割しない文化。
東山文化(銀閣)では、和風と漢風の融合がおこる。如拙や周文といった人たちがあらわれて、和風の水墨画が生まれ、ついち狩野派が大和絵の方法を加えた日本的な水墨画の一派をおこします。そしてこれを、雪舟が完成させた。
一休さん(一休宗純)を慕って茶人の村田珠光(そのあと珠光の好みを継承した武野紹鷗、完成させた利休がでてくる)や能の金春禅竹、連歌師の飯尾宗祇が大徳寺に集まっていた。
利休の茶の湯を「侘び茶」、本当は立派な唐物を揃えてもてなしをしたいのだけれど、とりあえず今はこんな粗末な道具しかない、あなたに申し訳ない、といった詫びる心をあらわす。
つながりの文化。人と人のつながりだけでなく、茶碗や花や庭や言葉や書がそれぞれつながっていった。
千利休。一本の竹を選び出す眼、竹を一辺両断にする決断力。
利休の茶の湯精神を継承したのが、古田織部。織部は武家の出身でお父さんが信長に従って情報戦略を担当していた人。ただ、織部は利休の精神を誰よりも理解しながら、茶の湯をもう一度、開放する。茶室を広くし、窓も八つ開けた明るい空間「八窓庵」に。自由奔放にゆがみ茶碗を好んだ。織部焼は美濃や瀬戸でたくさん作られている。
ルネサンスの利休、バロックの織部。
利休の茶(長次郎の茶碗)は正円の世界。茶の湯という一つの焦点だけを極めていった。織部のほうは、ゆがみやひずみをもった楕円の世界。まさにバロック。
日本文化はいつも対称的。
「弥生型、縄文型」「公家型、武家型」「都会型のみやび、田園型のひなび」
「漢」と「和」の両立、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような二つの軸で動いてきた。
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