#神戸モダン建築祭
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神戸モダン建築祭実行委員会(所在地:神戸市長田区、委員長:松原永季)は、2024年11月22日(金)から11月24日(日)まで、神戸市内および周辺エリアで「神戸モダン建築祭」を開催します。これに伴い、本日より公式WEBサイトを公開し、プ��グラムの詳細を発表しました。さらに、パスポート���販売とガイドツアーの抽選受付もスタートします。今年は新たに灘区や東灘区、さらには阪神間エリアまでを含む、全70件以上のモダン建築が公開される予定です。
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建築展覧会2024「ガイダンスのアーキテクチャー」ダイジェスト
主催:日本建築学会 後援:港区 会期:2024年10月3日(木)~14日(月・祝)10:00-17:00 会場:建築博物館ギャラリー内+中庭ほか 企画:川勝真一(建築センターCoAK代表理事) 桂川 大(STUDIO 大 / おどり場代表) 出展者: 東京建築アクセスポイント、生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪、ひろしまたてものがたりフェスタ、京都モダン建築祭、神戸モダン建築祭、東京建築祭、Local Places、山川 陸、for cities、tandem、建築ダウナーズ、津川恵理 デザイン・会場構成:studio TRUE
Full Video: https://youtu.be/Zs87Tmgy55E
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【神戸街歩き】北野 | 絶品ピザと人気のパン屋|神戸モダン建築祭|アンティーク家具と食器|KOBE Modern Architecture Fe...
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡く��る前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間���わたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨���出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠��、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をと��、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が��番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少��がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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連作:小学生審神者と刀たち
第参話「蜂須賀、主にとある進言をせし事」4
それより二週間後。ついに大改装の時がやってきた。住人たちはこの日に備え、暇を見つけては荷造りを進めたが、なかなかどうして大変な手間であった。 この本丸が稼働してから一月が経とうとしているのだ。ヒトとして生きていくには何かと物が必要だ。程度の差こそあれど私物はそれなりに増えている。 すべての荷の梱包を終えたのは当日の朝のこと。当然ながらさあこれで一段落、とはいかない。屋敷の外へ荷を運び出す作業が待っているのだ。 家事を担う式神たちの手も借りながら、風呂敷や段ボール箱に詰め込まれた品々をすっかり庭先に運び出したときには午近くになっていた。ここから先は、審神者の仕事である。 屋敷の庭に立つ少女の前には、新屋敷の小型模型が立体投影されていた。デフォルト設定の屋敷をいったん霊子にまで分解し、設計図に沿って再構築するのだ。 今日の彼女はいつもの白衣緋袴の上に無地の千早を重ねている。本来は奉納舞に用いる衣装であるが、この場では審神者の霊力を高め、霊子操作を補助するために小道具として機能する。くわえて左手には榊の枝に紙垂(しで)をとりつけた大幣(おおぬさ)を、右手には神楽鈴を携えていた。 練度の高い審神者は祝詞や祭具が無くとも霊子を操ることができるというが、少女の技量にはまだまだ不安がある。ゆえに、できる限り神職の正装に近い装身具が用意された。 特別な装束を身につけた少女は深く長く息を吐いた。大仕事を前に、緊張していないと言えば嘘になる。それでも、あの日、蜂須賀虎徹を顕��させた折の様な不安は無い。静かに精神を統一し屋敷を構成する霊子を少しずつ収束する。その中には、馴染み深い刀剣たちの気配が混じっていた。 少女の第六感は、彼らの痕跡を様々な色彩を放つ光の粒子として知覚する。この金色のは蜂須賀虎徹、白銀のは五虎退、桃色は宗三左文字・・・・・・。それらの粒子一つ一つに、ここで過ごした彼らのとの記憶が宿っている。 いつしか少女は微笑みを浮かべていた。大丈夫、みんなの気配が背中を押してくれている。 屋敷の輪郭が徐々に薄くなり、両手の祭具に宿る霊子が濃度を増していく。薄眼を開けて手首を返す。右手の神楽鈴が立てるシャリンという澄んだ音が辺り一面に響きわたった。その鈴音に導かれて、収束した霊子が分散し、新しい形に再構成されていくーー。
どれほどの時間が経っただろうか。少女が肩から力を抜いたとき、一同の前には前庭をそなえた屋敷が姿を現していた。 その屋敷は、正面から眺めると乳白色の化粧煉瓦が美しい洋館に見える。玄関には優美なアーチを描く白いドア。その上部にはステンドグラスが嵌め込まれている。向かって右手にあるテラスが目を引く。大きな窓が温室を連想させるのだ。 洋館部分は主に審神者の執務や本丸の管理、訪問者の接待といった公的な目的に利用する。山伏国広と、それに続くであろう者たちの為に設けたフィットネルームもこちらだ。鳴狐が希望した娯楽室もある。半地下にせり出す広間に、書架のみならず机やソファを並べたそこは、もはや図書館に近い。 この洋館の裏手に回れば数寄屋風の家屋が見える。こちらは主屋であり、少女や刀剣たちの居住空間だ。坪庭を囲む板張りの廊下で繋がれた造りを採用した。中庭に面した硝子戸や、幾何学的に組まれた木枠が、どこかモダンな風情を感じさせる。宗三の様に料理を好む者のために設けた大厨房と食堂はこの主屋に設けた。 実はこの主屋、和室と洋間が混在している。そのうちの一室、マントルピースのあるホールは以前の大座敷に代わる会議室だ。大浴場とは独立したタイル張りのバスルームもある。少女の居室は主屋三階の洋間だが、刀剣たちの居室は和室と洋間を同数用意した。南に面した部屋を選べば、以前と変わらぬ知泉回遊式庭園を望むことができる。 浮島の「ゲート」や、楠の大樹、そして未だ使用されたことのない茶室も据え置きだ。鍛刀部屋と道場は、利便性を考慮して、屋敷から独立した別棟として設置した。ことばもなく立ち尽くす一同を前に、近侍として主の相談に乗っていた蜂須賀虎徹が口を開く。 「皆の要望を考えると、和式と洋式の意匠を兼ね備えた屋敷がいいのではという話になってね」 この屋敷を作り出した張本人である少女は、『気に入ってもらえましたか?』 と書かれたページを開き、そろそろとスケッチブックを頭上に掲げた。その目はぎゅっとつむられている。 刀剣たちの反応を見るのが少女には殊更おそろしい。みんなの顔に失望が浮かんでいたらどうしよう? 蜂須賀には「サプライズの楽しみは大切だ」と説得されたけれど、やっぱり断りを入れておくべきだったのではないか。そんな疑念と不安に、少女は身を縮こませる。 けれどもいつまで経っても誰の声も聞こえてこない。さすがにこれは・・・・・・反応が鈍すぎる。何かあったのかと不審に思った少女がついに顔を上げようとしたそのとき、不意に何か柔らかいものが胸元に跳びついてきた。驚いて目を見開けば、そこには鳴狐のお供の姿。 「すばらしいです!主さまぁ!」 「これは面白い。予想外だ。最高」 混乱する少女の前にキツネの主人がいつの間にか現れて、彼女髪をくしゃくしゃにかきまぜる。先手をとられた堀川国広は、「抜け駆けはずるいですよ!」と叫びながら駆け寄��てきた。 「粋なお屋敷ですね! 兼さんも山姥切の兄弟もきっと気に入ってくれます。ありがとうございます」 真正面からの賛辞を捧げられて少女は耳まで赤くなった。次にやってきたのは五虎退と虎たち。頬を紅潮させた五虎退が 「主様! すごいです!」と喝采を上げれば、虎たちが歓声をあげながら跳びついてくる。それに対抗心を燃やしたキツネも加わって、少女は彼らに揉みくちゃにされた。 助けを求めて蜂須賀を見やっても、彼は悪戯に成功した子どもの様な笑顔で微笑むばかり。あれは駄目だ、助ける気がまるでない。「覚えてなさい」と唇を動かせば、彼はやれやれと肩を竦めて見せた。 興奮冷めやらぬ獣たちから少女を助け出してくれたのは山伏国広だった。軽々と少女を抱き上げた彼は「主殿、お見事!」と言ってニッと微笑んだ。その野性的な外見を裏切る繊細な動きで芝の上に降ろされた少女の前に、宗三左文字が現れる。物憂げな目をわずかに緩めて、青年は口を開いた。 「誰にも文句などはつけさせませんよ。あなたはよく頑張りました」 柔らかな声音で告げられたことばに、少女の目が潤んでいく。コクコクと何度も首を縦に振る彼女は、無意識に彼の袖を摘まんでいた。宗三左文字はそれを咎めない。彼はよく知っているのだ。少女が表にはしなかった葛藤を。刀剣たちの為に苦心した時間を。 最後にやってきた蜂須賀虎徹は主の涙に気づかぬ振りで、「さあ、屋敷の中を見せようか!」と一同に呼びかけた。少女の周囲から賑やかな歓声が上がるなか、蜂須賀の温かな手が肩に添えられた。ーーわたしの神様たちは、こんなにも優しい。 ーーー 荷運びも終わり、皆が新しい居室にに落ち着いた頃。荷ほどきにいそしむ刀剣たちとは裏腹に、主たる少女は新たな自室で大きな溜息を吐いていた。 審神者に就任するまでずっとマンション住まいだったから、居室兼寝室であるこの部屋は洋間にした。木製のベッドに、作業机、鏡台、クローゼット。小ぶりのソファ。センスのよい壁紙やカーテンは蜂須賀の手によるものだ。 この居心地の良い部屋には何の不満も無い。少女の眉を曇らせるのは、ベッドの上に広げたワンピースだ。この、見るからに仕立ての良いお洒落着を、これらから身につけなければならない。それがどうにも憂鬱で仕方が無い。 着飾った主を真ん中にして、新しい屋敷の前で記念撮影をする。それが蜂須賀虎徹の願いなのだ。 審神者に支給される白衣とあくまで袴は新人向けの装束であって、常日頃から着用を義務づけられている訳ではない。神楽鈴や大幣と同じく、 文字通り審神者という役職に「形から入る」ための装置なのだ。練度が上がればこうしたお膳立ても必要がなくなる。 顕現の様な神経を使う儀式は別として、今の少女にはこの装束を纏う必要も義務もない。けれども、彼女はこれまで、ただの一度も私服を身につけた試しはなかった。 そんな主に、蜂須賀は「この機会に俺の見立てた衣装を着て欲しい」とねだったのだ。もちろん、日頃から蜂須賀を頼みにしている少女が断れないと知った上で、だ。 少女は蜂須賀の言うところの「お仕着せ」に身を包むことに抵抗はない。むしろ今まで袖を通したこともない類の可愛らしいワンピース、こちらの方がよほどハードルが高い。鏡の前で何度か体に当てたはしたものの、すぐにベッドに放り出した。事の発端となった蜂須賀の提案が恨めしい。他ならぬ彼の頼みでなければ絶対に却下していた。だって、まるで似合う気がしないのだ。 審神者に就任する前、俗世では母親が選んだ服を疑うこともなく身につけていた。服だけではない。ペンケース、ノート、食器、鞄、靴、ありとあらゆる日用雑貨すべては母の趣味によるものだった。髪型も同じだ。いつもショートカットに髪を整えていた。顎にまで毛先が伸び��くると美容院に連れて行かれた。彼女の頭には、娘に好みを尋ねるという選択肢は無いようだった。 お母さんが今のわたしを見たらきっと怒るだろうなと、少女はぼんやり考える。あの人はわたしが女の子らしい装いをすることを嫌がっていたから。少女は陰鬱な思考を放棄して、ぺたんと尻もちをつく。ベッドに広がるワンピースの柄をじっと見つめていた。 「・・・なんです、そんなところに座り込んで」 何の前触れもなく降ってきた艶のある声に、少女は大いに狼狽した。驚いてふり仰げば、そこには物憂げな雰囲気をまとう青年、宗三左文字が建っていた。 身振り手振りでなぜノックをしなかったのかと抗議をする少女は、何度もドアを叩いたが返事は無く、そのうえ最初からドアは開け放たれていたと言われてがっくりと肩を落とした。「床に座り込んで宙を眺めている主の姿を見たら、心配にもなります」と告げる彼のことばは、まったくの正論だ。反論の余地も無い。 ぐうの音も出ない立場に置かれた少女は、潔く降伏することにした。宗三にソファを勧めて、自らも備え付けの椅子に腰掛ける。妖艶な青年は遠慮なくソファに沈み、長い足を組んだ。海外誌のトップを飾るモデルのように様になっている。美しい。 『何のご用ですか?』 「皆、新しい部屋に落ち着きました。気の早い連中は荷ほどきを終えて玄関先に出ていますよ」 宗三の言に驚いて柱時計を見れば、新居に足を踏み入れてから優に二時間が経っている。想像以上に長い時を呆けたままに過ごしていたようだ。 「主は女性ですから、支度には時間がかかるだろうと噂していましたけれど、何となく気がかりで」 「……」 足を組み替えた宗三左文字は、ベッドに投げ出されたままのワンピースを 流し目で見遣る。ペパーミントグリーンの、愛らしいそれ。 「なるほど。あなたの気鬱の原因は、アレですか」 見事に頭痛の種を言い当てられた少女は目を丸くする。蜂須賀以外の刀たちには、身支度を調えてから記念写真を撮るとだけ説明している。この本丸に就任してより初となる洋装を披露することは知らせていない。塞ぎ込む少女とワンピースを結びつける手掛かりはなかった筈だ。そんな少女の反応を見た宗三の顔には「腑に落ちた」と書いてある。 「それで? 何がご不満なんです? わが主様は」 不機嫌さを隠そうともしない宗三の態度に少女は抵抗する気力を失った。蜂須賀にも告げていない想いを、のろのろと文字にする。 『この服は、わたしには、にあわないです。髪も、ずいぶん伸びちゃった』 「まだ袖を通してもいないのに、なぜわかるんです」
にべもない青年の言に少女は黙り込む。ギュッと袴を握り込み、無言を貫く主の姿を前にして、宗三は盛大な溜息をついた。 駄目だ。刀剣たちの前では気を張って、主人らしくふるまおうと���めてきたのに。今日はどうも旗色が悪い。これではまるで駄々をこねている様だ。この胸の内には重苦しい感情が渦を巻いているのに、ちっとも伝えられやしない。
「そうですね。これを纏った姿が好ましいか否か。それはあなたが決めることです。第三者の意見はどうであれ」 「・・・・・・?」 主の態度に苛立ちを隠そうともしない宗三が言い放ったのは、幼い主の意向を尊重することばだった。しかし目を見ればわかる。理屈としては納得しても彼の感情はそうではない。事実、彼が続けたのは少女の懊悩を否定することばだった。 「これはあくまで僕個人の意見ですが、なかなか良いと思いますよ。そのワンピース」 『そうかな』 「ええ、そうですとも」 『でも、無理に着せようとはしないんですね』 「それは僕の主義に反しますから」
主たる彼女にこうまで歯に衣着せぬ物言いをするのは、今のところ宗三左文字くらいだ。その嫋やかな出で立ちに反して、少女が顕現させたこの打刀は直情的で血の気が多い。 実を言えば、そんな率直な言動を見せる彼のことを少女は少しばかり羨ましく思っている。だからだろうか。気がつけば、言わずにおこうと決めていた疑問を口にしていた。 『宗三、あのとき、どうして本当の願いごとをいわなかったの』 「おや、どうしてわかったんです」 『宗三の嘘はわかりやすいです』 「あなたも言いますね」 ふぅ、と細く長い息を吐き出して、宗三左文字は天を仰いだ。もしも映画であったなら、ここは主演俳優が優雅に紫煙をくゆらせる場面だ。 「僕の本当の願いは、誰かに頼んで叶えられる類のものじゃありませんから」 『宗三は、カゴの鳥でいるのはいや?』 「ええ、あなたと同じ様に」 向かい合う二人の間に沈黙が落ちる。主従は互いの目をじっと見つめた。そこに甘やかな空気などは微塵も無い。殺気すら感じさせる無言の応酬の後で、先に動いたのは宗三左文字の方だった。 「あなたも、この本丸という籠から出ることはできないのでしょう?」 「・・・・・・」 「そんな風に睨まずとも、無理に事情を聞き出しやしませんよーーあなたが僕に踏み込んでこない限りは、ですが」 この辺りが話を切り上げる頃合いだと考えたのだろう。胸に渇望を秘めた青年は「そろそろ失礼します」と口にして腰を上げた。少女はそれを黙って見送る。ドアノブに手をかけた宗三はしかし、そこで主の方へ振り返る。 「髪が気になるなら、堀川国広にでも頼むことです。くれぐれも僕に切ってくれなんて言わないでくださいね。僕らは刀の付喪神であって、鋏じゃないんですから」 脈絡の無い宗三の発言に、少女は首を傾げる。彼の意図を理解するまでには数秒を要した。・・・・・・思い返せば、彼に何が気にくわないのかと尋ねられたとき、この服と髪に違和感があると答えた。あれは話の枕だとばかり思っていたが、違ったようだ。 確かに、自分で髪を切る��信はないから、誰かに頼もうとは考えていたけれど。 髪が話題にのぼった時からずいぶん間が空いている。なぜ今頃になってわざわざ蒸し返す必要があったのか。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。少女の訝しげな態度を前にして、宗三左文字は憂鬱そうに呟いた。 「写真を撮るというから前髪を少しばかり整えてみたら。見て下さい、この様です」 そう言って彼が持ち上げた一房は、言われて見れば実にざんばらだった。真面目くさった声音のまま「どうやら僕は、思っていたよりも不器用だった様です」と悲し気に呟いた。 その情けない表情と先ほどまでの傲岸な彼の落差たるや。少女は思わず吹き出した。肩を震わせる主に、そんなに笑うことはないでしょうと拗ねて見せるものだから、ついに少女は腹を抱えた。 もしも声が出せていたなら大声で笑っていただろう。先ほどまで張りつめた空気はすっかり緩んで、霧散していった。泣き笑いをしながら少女は悟る。
宗三左文字は彼なりに気をつかってくれたのだ。彼の言うとおり、ひどく不器用なやり方で。 少女は乱れた呼気を整えながら、子どものように膨れる彼をおいでおいでと手招きする。向かう先は鏡台だ。ここには蜂須賀が必要だと言い張って集めさせた小物が詰まっている。 抽斗から何かを取り出した少女は、宗三に手を出せとジェスチャーする。怪訝そうな色を浮かべる青年の手のひらに載せられたのは、金属製のヘアピンだった。 鳥の羽根を模した装飾が控えめに施されている。摘まみ上げたそれをしげしげと眺めた彼は、やがてニヤリと微笑んで見せたのだった。 この日、幼い少女を主と仰ぐ刀剣たちは新たな屋敷を得た。引っ越し作業を一段落させた彼らは玄関先に集う。ペパーミントグリーンのワンピースを纏った少女がそこに登場すると、彼らは多いに湧き上がった。
晴れやかな衣装に身を包んだ主を囲んだ刀剣たちは、記念写真を撮影した。本丸の初期部隊の面々が顔を揃えたその一葉は額に納められ、少女の執務室に飾られている。 主の隣を陣取った宗三左文字が見慣れないヘアピンをしている理由は、少女と彼だけの細やかな秘密である。
了.
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【劇評】【レポート】25人が見た町の風景
パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」ワークショップ参加レポート
片山 幹生
〔写真:片山幹生〕
シアターコモンズ(ディレクタ-:相馬千秋)による企画のひとつ、パスカル・ランベールのワークショップに参加した。
結論から書こう。驚くほど即興的で自由なスタイルで行われたワークショップだった。そして三日目に行われた成果発表は、希有の演劇体験だったと言っていい。実に多様で豊かな都市の風景をワークショップ参加者のあいだで共有することができた。
ワークショップのテーマはそのタイトルに明確に示されている。すなわち「都市をみる/リアルを記述する」。会場となるSHIBAURA HOUSEを中心に半径500メートルのエリアを参加者が取材して、その結果を再構築して表現として提示するというものである。 ワークショップは1/25(水)から27(金)までの三日間、午後2時から6時まで行われた。
©SHIBAURA HOUSE
参加費は無料、ただし三日間連続して参加することが条件となっていた。平日の午後に三日連続参加しなければならないとなると、勤め人は参加することが難しい。募集要項を読む限り、俳優以外の人にも開かれた内容のワークショップになっているように思えた。実際の参加者は、俳優、ダンサー、演出家、振付師など舞台芸術制作に関わっている人がおよそ2/3、学生や私のような観劇人が1/3という構成だった。50名ほどの応募者があったそうだが、抽選によって25名が参加した。
【第一日目】自己紹介
ワークショップ会場のSHIBAURA HOUSEは、JR田町駅東口を出て、歩いて10分ほどのところにある。全壁面ガラス貼りの異彩を放つモダンなデザインのビルで、ルーヴル美術館ランス別館や金沢21世紀美術館などの設計で知られる建築家、妹島和世(せじまかずよ)が設計したそうだ。
公共施設ではないのだが、1-2階はフリースペースとして地域に開放されている。ワークショップ会場はこのビルの最上階5階にある。壁面はすべてガラス貼りになっているため、屋内から周辺の町の様子を見渡すことができる。 5階までエレベーターで上がり、受付をすませ、15メートル四方ほどの会場に入ると、パスカルが陽気に参加者を迎えてくれた。彼はひとりひとりに挨拶をしに近づき、参加者の緊張をほぐす。初日はまず30分ほどワークショップについてパスカルから、ほぼウェブページ上の記述と同じ内容の説明があった。
「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」。
なるほど、魅力的なコンセプトだ。でもいったい参加者は何をすればいいのか?
パスカルは「自分の自由を他の人たちにも共有してもらいたい」、ただし「ワークショップはこれまで時間がなくてほとんどやったことがない。うまくいくかどうかはよくわからない」と「えっ!?」と思うようなことを言う。
〔写真:片山幹生〕
パスカルが提示したワークショップのプログラム構成はきわめてシンプルなものだった。すなわち第一日目は参加者の自己紹介。二日目の明日は、町に出て参加者それぞれが取材。三日目最終日は、取材した材料を再構成して参加者が発表を行う。町を見て、材料を集め、それを再構成して、作品として伝える。要するにウェブに掲載されているコンセプト文以上のことは何も説明されなかった。
人を集めて、一日4時間×3日間、計12時間のワークショップをやるとなると、普通なら事前に時間配分を考え、いくつかのタスクで構成されるプログラムを準備しておくだろう。パスカルのワークショップはコンセプトこそ明瞭だが、その進行はその場の流れにまかせた行き当たりばったりで、きわめてルーズなものだった。
その自由さは最初の参加者の自己紹介から示された。25人の参加者がいるのだから、全員が自己紹介をやるとなれば一日目の時間全部を使ってもひとりあたり5分程度しか持ち時間がないはずだ。ところが最初の参加者の自己紹介は40分近い時間がかかった。話している内容にパスカルがいちいち介入し、話題がどんどん展開していったからである。
最初の参加者が音楽家でリトミックをやっていると話せば、パスカルは「それどういうもの?今、ここで、ここにいる人たちを相手にやってみせてくれないかな?」とリクエストする。また彼が彼の祖母と二人暮らしをしていると話せば、「今日の朝、おばあさんとどんな会話したか覚えている? それを今、あなた以外の人にできるだけ正確に再現させてみせてよ」などと行き当たりばったりの要求を行う。パスカルの奔放な突っ込みに誘導され、参加者の自己紹介の内容は、どんどん脱線し、ディープな内容になっていった。
パスカルのすごいところは、最終的に帳尻を合わせるという考えが、頭にないということだ。彼は参加者から言葉を引き出そうとする。彼のエネルギーと明るさ、そして通訳を介してのコミュニケーションとなるということがおそらく作用して、参加者はついうっかり普通、自己紹介で話さないような余計なことを話してしまう。その余計なことまで話すことが許容され、むしろ推奨される完全に開かれた自由な時間が、このワークショップにはあった。もちろん時間は有限だ。14時に始まり、18時には解散しなくてはならない。普通なら時間内に何とかまとめて、結論めいたものを出そうとする。そこで「自由さ」に欺瞞が生じる。しかしパスカルはそうではない。
こんな調子で一人一人の自己紹介を行っていたので、参加者25人のうち自己紹介ができたのは15人だけ��った。
「それじゃあ、今日はここまで。自己紹介の続きはまた明日やろう」 パスカルはワークショップの第一目が自己紹介だけ(それも全員やっていない)で終わったことを気にする様子はまったくない。なるほど「都市をみる/リアルを記述する」というテーマには入ることができなかった。でも濃厚な自己紹介を通じて、他者を知り、これからどういうことがこのメンバーで起きうるかについて想像できるような場を持てたことで、それは十分な収穫ではないか、というのがパスカルの考え方なのだ。
【第二日目】自己紹介(続き)、町歩きで調査
最初は自己紹介の続き。昨日は10人自己紹介できなかった参加者がいたはずだが、二日目に来ていたのはそのうち8人だった。二日目の自己紹介は40分ほどで終わった。二日目はリサーチの時間がとれないとさすがにまずいという意識が共有されていたからだろう。
〔写真:片山幹生〕
自己紹介が終わると、 「それじゃあ、これからみんな建物外に出て、iPhoneを使って写真を撮るなり、音を撮るなり、明日の発表のための取材をしてください。17時半にここに戻ってきてね」 パスカルの指示はこれだけだ。
どのように何を取材するか、明日それをどのように発表するかについては完全に参加者に委ねられている。参加者のおよそ2/3は演出家、俳優、ダンサーなど表現活動に携わる人たちだ。彼らはこれまで受け取ったメッセージをヒントに、表現のプロとしての矜持を持って、彼らが見出した都市の断片を再構成した作品を見せなくてはならない。もちろんアマチュアはアマチュアとしてこの自由さを引き受け、自分なりの表現を探さなくてはならない。20数名の参加者は建物外に出て、それぞれバラバラに自分たちの町のリアルの探索に出かけた。
17時半にSHIBAURA HOUSE5階の会場に戻る。パスカルから明日の発表について簡単に説明があった。そこで彼は次のような奇妙な指示を出した。
「最終日の三日目は、あなたたちに今日行った都市のリサーチの報告をしてもらうのですが、どんな形式での報告でもかまいません。ただ一つお願いしたいのは、一つの報告が終わったら、次の報告、それから次の報告、という具合に次々と区切りをつけて報告が行われるというかたちではやって欲しくないのです。各発表はあるがまま、なすがままの経過の中で、自然でゆるやかな連鎖によって行って下さい。一つの発表をそれに必要と思われる時間を十分に使って行い、それをしっかりとみなが受けとめてから、連鎖的に次の発表が始まるような感じで。発表は数秒でも数十分でも必要な時間、使って下さい」
私は質問した。「20人以上いるのですから、それでは全員が成果を発表できないかもしれませんね?」
この質問に対してパスカルは、「それはしかたない。C’est la vie(そういうもんだよ)だよ」とそれがごく当然のことであるかのようにさらっと答えたのだった。
【第三日目】発表:25人の見た都市のリアル
徹底的に解放的で自由なパスカルの発想に私は感動し、共感した。しかしその一方でこんなあいまいでいい加減な指示で、人は果たして集団のなかで自律的に動くことができるのだろうかという疑問も持ちながら、三日目のワークショップに臨んだ。
最終日のワークショップの開始時間となった。参加者のなかには開始時間よりもかなり早くこの場にやってきて、プレゼンの準備を行っていた人もいた。パスカルの呼びかけでまず集合写真を何枚か撮った。写真撮影が終わると、パスカルは部屋の端に置いてあった椅子に座り、腕組みをして機嫌よさげに部屋の様子をながめている。彼は何も言わない。
〔写真:片山幹生〕
手持ち無沙汰の沈黙の時間がしばらく続く。そんなよどんだ時間のなかで、最初に発表を行ったのは一般の人たちと即興劇の活動を行っていると自己紹介したDaichiだった。彼は昨日の午後に町の公園の様子を観察していたらしい。子供たち、その子供たちを引率する女性の保護者と黒人男性がいた。この黒人男性にDaichiは話しかけた。この情景がDaichiの指示のもと、何人かの参加者によって再現された。
〔写真:片山幹生〕
『都市をみる/リアルを記述する』というワークショップのタイトルに引きずられていた私は、昨日は各人がそれぞれ個別に町を取材していたこともあり、発表は個人ベースで、写真などをもとにした口頭報告のようなものが多くなるのではと思っていた。このため、このような演劇的形態から成果発表が始まったことに、ちょっとした衝撃を受けた。結果的には参加者のかなりの部分を占める演劇・パフォーマンスの作り手の多くは、自分の観察してきた都市情景を演劇的に、そして集団的に再現する方法を選択していた。それは彼らにとってはごく当たり前の選択だったのである。最初に行われたDaichiによるパフォーマンスで、私は成果発表の午後の空気のなかにすっと引き込まれた。この日の午後、参加者が経験した様々なパフォーマンスの詳細についてはここに記すと長くなりすぎてしまう。筆者のブログ『閑人手帖』にその詳細を記しているので関心を持たれた方がいれば、是非読んで頂きたい。
〔写真:片山幹生〕
この後、18時過ぎまで再構成された都市のリアルについてのさまざまな発表が、昨日パスカルが指示したように、シームレスに自然に連鎖するようなかたちで行われた。時間は区切られることはなく、ずっと継続して流れていた。あらゆるものの境界があいまいだった。各発表の境界も、演じるものとそれを見るものの境界も。プロフェッショナルな表現者とこれまでこうした表現をしたことがなかったアマチュアが、同じ立場で場と時間を共有しえたこと、属性の違いを超えて、さまざまな表現を通した交流が行われた。この午後の4時間のあいだに提示された「都市の風景」はなんと多彩で豊かだっただろうか。それぞれの表現が共鳴し合い、濃厚で深みのある演劇の時間に浸ることができた。 パスカルは個別の作品についての講評は述べなかった。ただこうしたヒエラルキーのない、自由でかつゆったりとした演劇の時間が実現していたことを賞賛した。パスカルはフランスでこうしたワークショップをやってもこのような時間は生まれ得なかっただろうと語った。しかし日本においてもこうした時間が成立したのはほとんど奇跡のように私には思える。
〔写真:片山幹生〕
『都市をみる/リアルを記述する』というコンセプトが魅力的で、開かれた可能性を持っていたことが、今回のワークショップの成功の要因の一つだろう。しかしこれほど充実した時間が実現できた理由はそれだけではない。パスカルはこのワークショップにおいて徹底して「何も教えない」人だった。彼はとにかく自由にいきあたりばったりにワークショップに臨み、自己紹介で参加者の心を解放した後は、第二日目のリサーチ以降、ほぼ何もせず、われわれが行うことをただ眺めていたのだ。自由を分かちあい、その自由がもたらす広大すぎる可能性を引き受けるには、楽天的な他者への信頼とその結果がどのようなものであろうと引き受ける覚悟が必要となる。私たち参加者はパスカルのおおらかさにその覚悟を読み取った。だからこそ、それぞれが安心して己の想像力を広げ、自分の手持ちの材料を使って、自���に表現する勇気を持つことができたのだ。
●片山 幹生(かたやま・みきお) 1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
ワークショップ・データ
パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」 http://theatercommons.tokyo/program/pascal_rambert/
【プロフィール】パスカル・ランベール 1962年フランス生まれ。劇作家、演出家、俳優、映画監督。80年代より演劇活動を開始��2011年アヴィニョン演劇祭で初演された代表作『愛のおわり』は9カ国語に翻訳、世界各地で500回以上上演が続いている。また2007年から2016年まで10年間にわたり、パリ郊外に位置するジュヌヴィリエ国立演劇センターの芸術監督を務め、自らの作品創作のみならず、世界各地の同時代演劇とフランスの観客をつなぐ役割を果たした。その功績が認められ、2016年アカデミー・フランセーズ演劇賞受賞。
日時:1/25(水)-1/27(金) 14時から18時
会場:SHIBAURA HOUSE 5F
上演言語:フランス語(日本語逐次通訳つき)
ワークショップ構成・演出:パスカル・ランベール
通訳:平野暁人
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