#盾の勇者の成り上がりく
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pdry2 · 2 years ago
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ヤバい ちょっと油断してたら こんなに溜まってた☺️ #ねんどろいど #魔女の旅々 #ローゼンメイデン #うる星やつら #ヤマノススメ #ノーゲームノーライフ #モーレツ宇宙海賊 #ウマ娘プリティーダービー #リコリスリコイル #その着せ替え人形は恋をする #盾の勇者の成り上がり #無職転生異世界行ったら本気だす #ソードアートオンラインオルタナティブガンゲイルオンライン #ゆるキャン #ソードアートオンライン #阿波連さんははかれない #デートアライブ #メイドインアビス #この素晴らしい世界に祝福を2 #先輩がうざい後輩の話 #プリンセスコネクトredive #ブラックロックシューターdawnfall #からかい上手の高木さん2 #不思議の海のナディア #痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います #くノ一ツバキの胸の内 #鬼滅の刃 #転生したらスライムだった件 https://www.instagram.com/p/CqN8d-1vDNE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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sqex-estore · 2 years ago
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「ドラゴンクエスト」×「吉徳大光」伝説のロト装備が「ロトの兜飾り」として誕生! 伝統工芸の職人技術を結集した逸品。 「スクウェア・エニックス」と、創業312年江戸最古の人形メーカー「吉徳大光」との共同開発で、「ドラゴンクエスト」シリーズの伝説のロト装備が、五月人形「ロトの兜飾り」として誕生いたしました。 ロトの兜は、高雅で重厚ある本物の「青銅」製。 江戸初期から400年以上の歴史を誇る「高岡銅器(富山県高岡市)」の伝統工芸職人の手によって、原型造りから型制作、鋳造、研磨、装飾まで、ひとつひとつ制作。 兜の両脇には、重厚か��迫力ある大きさの金属製「ロトの剣(全高約25cm)」、「ロトの盾(全高約13cm)」を配置。 両旗は、ロトブルーをイメージした藍色の生地に「ロトの紋章」の刺繍を施しています。 柄は、平安時代以降に用いられてきた格式高い伝統文様「雲立涌(くもたちわき)」。 雲が涌き起こる様子をかたどっており、「天に昇る竜は雲を呼び起こし、その勢いをさらに増す」とも言われています。 兜飾りの台座となる「櫃(ひつ)」は、気品ある漆黒色の中央に、金色���輝く「ロトのしるし」が施されています。 屏風は、作品名「序開之図(じょびらきのず)」で、ドラゴンクエストの1作目に登場する、「ラダトーム城」から見た「竜王の城」をイメージして制作。 序開とは、物事の始まりの事を指し、はじまりの地から竜王城を仰ぎみるスライムや、おなじみのモンスターなどが描かれています。 屏風の生地には、綸光(りんこう)と呼ばれる光沢感のある織物を使用しており、高級感ある仕上がりです。 端午の節句(五月人形)以外にも、お部屋の飾り・コレクションとしても楽しむことができる「ドラゴンクエスト ロトの兜飾り」。 「伝説の装備を身につけ、人生という冒険に打ち勝つ」という願いを込めて、勇者(お子様・皆様)のレベルアップ(成長)をお祈りいたします。
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kagurakanon · 4 days ago
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2025/02/27 九鬼哲学における時間論
「いき」の哲学で知られる戦前日本の哲学者、九鬼周造は留学からの帰国の途につく1928年にパリ近郊のポンティニーにおいて「時間の観念と東洋における時間の反復」と題する講演を行なっている。九鬼はこの講演において近代的時間観念をより根本から相対化するものとして〈回帰的時間〉というものについて論じている。
まず九鬼はこの講演で最初に時間の本質とは人間の「意志」にあることを主張する。しかもその上で東洋的時間の特徴は「繰り返す時間」「周期的時間」としての〈回帰的時間〉にあるとする。彼はその典型的なものとしてある存在(例えば人間)が別の存在(例えば虫や獣)に生まれ変わる「輪廻」を持ち出している。そして九鬼は「輪廻」とはカルマを前提にしている以上、その本質は〈同一性〉にあるとする。そして輪廻の本質が〈同一性〉にあるのであればもっとも典型的な輪廻とはある人間が永久に繰り返して同一の人間になり続けることであると九鬼はいう。
さらに九鬼は「輪廻」の本質を徹底していくと個人だけでなく宇宙全体が〈同一性〉の状態において周期的に再生するという観念に到達するという。その代表的なものが古代インドに生まれギリシアに流れていった「大宇宙年」という時間論である。それは絶対的に同一的な「大宇宙年」というものが無限に繰り返されるという考え方である。こうした「大宇宙年」を九鬼はフッサールの「形相的単体性」という概念を使って説明している。��ちそれは〈絶対的同一性〉と〈量的多様性〉とが相矛盾せずに両立するものである。このように各「大宇宙年」は互いに全く同一でありながら数の上では多であることができるのである。
九鬼はこうした無限に繰り返す「大宇宙年」という考え方を受け入れる時、通常の「水平的」な時間の流れに対して「垂直的」な時間というものが成立するという。この点、ハイデガーは時間の構造を「脱我」という語で説明している。つまり時間とは未来・現在・過去という「脱我」の存在の三様態の総括的統一即ち「脱我的統一」であるというのである。九鬼によればこうした意味における「脱我」は「水平的」な「脱我」であるという。
これに対して「大宇宙年」の無限の繰り返しによる回帰的時間では「垂直的」な「脱我」というものが存在するという。各「大宇宙年」は全く同一なのであるから一つの「大宇宙年」の中にある瞬間と全く同一の瞬間が、どの「大宇宙年」の中にも存在する。つまり「各々の現在は同一の瞬間を、その一部を未来の中に、他の一部を過去の中に持っている」のである。それゆえに各瞬間は「無限に深い厚さをもった瞬間」としての「永遠の現在」なのである。このように未来の「大宇宙年」における今、現在の「大宇宙年」における今、過去の「大宇宙年」における今というものの統一を九鬼は「垂直的」な「脱我」と呼ぶのである。
九鬼によればこの二つの「脱我」の相違は2点あるという。第一は〈水平的脱我〉にあっては未来・現在・過去という構成要素が「連続性」の下にあるのに対して〈垂直的脱我〉では未来の「大宇宙年」における今、現在の「大宇宙年」における今、過去の「大宇宙年」における今という各要素は「非連続性」の下にあるという。第二に〈水平的脱我〉では未来・現在・過去の各要素は「純粋異質性」を表しており、従って時間は「不可逆的」であるが、それに対して〈垂直的脱我〉では時間の各要素、即ち各「大宇宙年」における同一の瞬間は「絶対的同質性」においてあり、したがって時間は「可逆的」である。
ハイデガーの説く〈水平的脱我〉とは我々が日常体験している時間を分析したものであるから「現象学的」な時間といえる。これに対して〈垂直的脱我〉とは一種の「形而上学的=神秘的」な時間である。つまり〈垂直的脱我〉にあっては我々は通常の時間を乗り越え、文字通りの「脱我(エクスタシス=エクスタシー)」を体験するというのである。
ところで九鬼は先述のように時間の本質は人間の意志にあるとしたが、こうした「大宇宙年」を生み出すのもまた人間の意志であると考えた。そして九鬼は「大宇宙年」を生み出すいわば宇宙的な規模の意志を持った者として「自ら時間を新しく創造する巧妙なる魔術師」というものを想定している。こうした「魔術師」の持っている意志のようなものはすべてが絶対的に更新される「大宇宙年」の中では確かに「現実的」には存在しない。しかしそれは「潜勢的」には存在しうるのだと九鬼はいう。
・以上のような「輪廻」「大宇宙年」に関する議論の後で九鬼はこうした〈回帰的時間〉からの「解脱」を問題にする。そして九鬼によればこの「解脱」には二つの方法があるという。一つは仏教にみられるものである。時間の本質が意志というものにある以上、その意志を知恵によって否定し「涅槃」を実現することによって時間を「解脱」することができるはずである。九鬼はこれを「主知主義的超越的解脱」と呼ぶ。もう一つは武士道に見られるものである。それは仏教の場合とは全く逆に、意志を否定せずに無限に繰り返す「輪廻」を引き受けようとするものである。それは時間の中に自ら��んで身を投じ、いかなる挫折や幻滅にもめげず、自己自身の完成を無限に追い求めていくというのである。九鬼はこれを「主意主義的内在的解脱」と呼ぶ。前者は「非時間的な「解放」」「永遠の休息」を目指すものであり、後者は「真と善と美との苦しき探求の無限の反復にあって時間を懼れないこと」を目指すものである。前者は「不幸を逃避しようとする快楽主義」であり、後者は「不撓不屈、以って不幸を幸福に転じ、永久に我々の裡なる神に従わんことを勇敢に決意した道徳的理想主義」である。
この講演で九鬼がもっとも頻繁に使っている言葉は〈同一性〉というものである。それは宇宙の〈同一性〉であり、それに相即した〈自己〉の同一性である。この講演では〈自己〉というものがいかにして〈同一性〉を確保しうるかということが一貫して追求されている。そしてその結論として茎が持ち出したものが同一の生の無限の繰り返しとしての〈自己〉の永遠性であった。
いうまでもなく、ここで説かれている〈自己〉の永遠性とは水平的な時間軸に沿っての永遠性ではない。「輪廻」においても「大宇宙年」においても、各周期ごとに過去の〈自己〉は死滅し、全く新たな〈自己〉が誕生するのである。その意味で〈自己〉は絶対の断絶の下にある。従ってここでいう〈自己〉の永遠性とは〈垂直的脱我〉のところで説明したようないわば垂直的な時間軸に沿っての永遠性なのである。
〈回帰的時間〉の立場に立てば、現在の生すべての瞬間は全く同一の瞬間を過去と未来の無数の「大宇宙年」の中に持っていることになる。これら同一の瞬間は互いに絶対の断絶によって隔たりながら、しかも全く一体である。つまり水平的な時間軸に沿ってみたとき〈自己〉というものがいかに分裂し拡散したものであっても垂直的な時間軸においては、瞬間ごとに〈自己〉は同一性・永遠性を獲得することができるということである。
以上のように九鬼の場合〈自己〉の永遠性というものは各瞬間において感得されるべきであるとするならば〈自己〉の永遠性の追求ということは結局現在の〈自己〉の生の瞬間をいかに肯定し充実させていくかという問題に帰着することになる。
九鬼は「大宇宙年」の思想というものは死後の生を信じるということを前提にしたものではないという。通常、来世が存在するということは現世とは全く異なった別の生を受けるということを意味している。しかし「大宇宙年」という無限の回帰という考え方においては人間の生は一様にしかありえない。確かにそれは無限に繰り返されはするのだが、しかし全く同一の生が繰り返されるだけである。つまりそこでは現世の一度だけの生以外のあり方は存在しないのである。すなわち、九鬼によれば「大宇宙年」という考え方は人生を一度きりとする考え方を一層充実させ一度の人生の瞬間瞬間をかけがえのないものとして送らせるための思想だというのである。
このように考えると九鬼の説く〈回帰的時間〉というものは一種の〈運命〉というものを意味する時間であることがわかる。〈回帰的時間〉の立場に立てば現在の自己の生というものは過去の「大宇宙年」における自己の生の全くの繰り返しであり、その意味で現在の自己の生は無限の過去に定められた道筋を辿り直しているだけであるということになる。またこれからも人間は未来の「大宇宙年」において全く同一の生を無限回繰り返さなけれbならないのである。従って宇宙的な視点から見たとき、現在の自己の生は自己に与えられた絶対に変更のできない〈運命〉なのである。だとするならば現在の自己の生の瞬間を充実させるということは、それがいかなる生であれ、それを自己に与えられた〈運命〉と��て受容し、限りなく愛していくということであるはずである。
そのように考えるとこの講演で九鬼が説いていた二つの時間からの「解脱」ということの意味も理解できる。無限に回帰する時間を積極的に引き受けようとする「主意主義的内在的解脱」というものはただ時間の中に埋没していただけでは決して生まれないものであるはずであり、そこには時間から抜け出てそれを相対視し、宇宙的広がりの中で自己を捉えようとする「主知主義的超越的解脱」の契機が必要なはずである。そしてこの二つの「解脱」は一体となって〈運命愛〉といったものを構成しているのではななかろうか。
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uchu-household-blue · 1 month ago
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「ダイナミックな形で人間を捉えている」で腑に落ちたところがある。そうじゃないと多分だめだった。のは....対立にすぐ巻かれるから。何かから、心身の世話して成長じゃなくなった状態か後かの人ひとりの命がひとつずつで 手探りの闇があってその人なりに起き上がって、ーそして他者にされたことをしてしまうということがあったり(これ含み多いな)。回復なんて実は目指されてなかったりの現実に戻るというか、なかなか勇気のいる書き方だけど怖いものもないほどにそうなのだろう時に、くじけずケアを話すことば 心的外傷のあとで'人間的に変わった'のならば、動力の話をしたらよろしいか、それでも繰り返したくないほうを私が思うからなのか? 人と何をするのかによると言うべきか。モネでも比べるものでないと話していて思い出すと問いが残っている、でも考えてきたからまるっきり同一の苦しさではないが。ただ違うというコツがコツである程度の苦しさか、どのように向かえば良いのかは分かれない伝わらないまま。自分で考えてと言い張り合うならそれでいいのかもだけど、だからまず、まずケアを見てからなっ、 思ってたんだ私も 優しくなれたりしないの?って、思っていた一度でもそれを見つめたなら他人にそれをするなよって、思ってたけど。やっぱりここにも見えにくいワンクッションあったのだよな。予防をするために頑張るというゴールは、見てもらえないもののまま世界に帰ってゆく それを耐えつつ生きねばならない事の 守り方を否定する言葉が溢れてしまうから、誰と何をするの?の問いを持てない人には異論になるわけだったが、それでもやっぱり他人としての無力に根付かないと自分が立てないよな。。聞き入る力のことも分かりたいし、怯えたくないけど消えないから回復への過程の手法を取るしかないという閉じ込められ方を、気づいてもらえない。予防として仕組みを知るしかなかったとしたら、伝わらない寂しさも癒されはしないことを耐えて。みんなみんな孤独なのだから、出来ないことがあって良いまま、教育や面倒��経済の目当ての離散、青ざめるような荒治療や母性などまたは嫉妬など与えやすいほうに慣らされていくことに気づきたい気持ちと。ゲームじゃない、またはチームじゃないどっちかを分け合えないものの怖さにつけて?。挫折したり喪失したことでという言葉の後に、方法を探らないといけなかったし、自衛や予防をしなければもあって、とてもとても。私も自分の体験として消化しえればきっと押し付けず、自分との距離を取れるほどを目指すしかない気がするのこと、誰かと同じにはならないことと。その人のタイミングを待つのその...意味。優しさや深さに気づくみたいなところを言葉でまで均してはいけず、深さを受け止めるかさえ分からないんだ。自然と言えるものと意志といえるものの境も見合えないものなんだ。でも要る。自分だけが分かってるものとして、そして生きていくなんてこと。ダイナミックに帰れるなら幾分安心して、その帰り道を思い描けそうな希望もあるけれど。自分なりに変わり方を探す当てがきっと粒のままあるのだろうし 他人だから分からないの紙一重の上で、ことに'強さのようなもの'をその手の'好循環'としてそのまま受け取るわけじゃないからこそ、何に対する回復なのかや敬意のかたちを しぶとくやらないと目的も癒しも浮かばれないんだ、と感じたりして観ていた 一種崇高な手のつけようのないもの、回復してそして戻れないもの 少し以上に気持ちの悪いもの 打ちのめされていく連続で それでもケアを以て続くということ 自分の存在を超えたもの ちっぽけさを越えたもの?繋がりのほうから見たいけどこんなにも だから...頑張ろうも頑張れるも、やはり予感の悪い方とあってほしくはない。だから悩むんだよ。敏感に感じ取られている世界。それでいい。今とて沈黙の中に。命がどうってこと��いという日常の矛盾に溶けて。
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smapwpgas · 2 months ago
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贋作勇者とダイジェスト彼氏
呪!原作がだいたい10周年(2014年~2016年リリース)兼6月でクソコラボ第一弾5周年
この投稿は第一弾の方のクソコラボ初配信当時に当時の最新話について書き殴った内容を補完したつもりだったけど言い含めるような書き方がだる���なったのでほぼ書き直したものになります。
スマホのデータ飛んであの予告の時点でブチギレ待ったなしのクソコラボ第二弾やってなかったんだよなと~気まぐれに再DLしたらほんと当時やってなくてよかった~と心底思う内容だったんだけど じゃあ第一弾の方がマシだったかというと全くそんなことはなくて(むしろ第二弾はキャラを抜きにすれば良くも悪くも原作とは設定を共有しているだけで無関係だと思っている) パラレルともifともつかない原作と食い違いまくりの改変が入ってるのに無理やり同じ展開に着地させようとするいびつさが不気味なコラボを名乗る何かかつ既プレイは顔をしかめ未プレイは置いてけぼりでネタバレだけ垂れ流されてるので後からプレイしたところで完全初見として楽しめないという嫌がらせのような内容であることの悪質さがただ口を開けて主人公チヤホヤがドバがけされた泥食ってうまいうまい言ってる原作未プレイ層や原作をプレイしたけどただ文字を目で追ってただけの理解力が離断されてる層には伝わっていないので本日はこれについてお話します…
※全部ネタバレ クソコラボがそうであったように… ※「よくわからないけど自分の好きなものが悪く言われてる!」みたいな認識しかできない人たち、黙ろう!
第一弾:公式が原作エアプ!F彼ユア・ストーリーinゆるふわ異世界テーマパーク(難易度ピースフル・Any%)
クソコラボのクソイベントシナリオクソ一弾の舞台は「原作1章のストーリーの根幹である魔王(アンセスター)の襲来が起きていない世界」と明言されています。 この点に関してはそれ自体の是非を別にすればあくまでも原作のパラレルがコンセプトということになっていますが、それ以外の部分もしっちゃかめっちゃかに改変が入ってるかつクソイベの主軸となるストーリーそのものと完全に矛盾している(後述)のが問題です。
前述の起点がはっきりした改変によって原作とは異なる展開が生まれたして、その起点以前の要素が変わるわけはないし別物と言いながら原作の流れをクソ雑になぞってるのが意味わかんないし原作がぐちゃぐちゃにされた上頭サモってるエアプ連中が原作もこんなゴミだと思ってるのがほんと無理でもう…
メインヒロイン♂2人の背景とキャラ再現「エアプでもこんなんならんやろ」ってくらい雑すぎる問題
原作のオルグス:いわゆる王の���胤。都合の悪い存在なので生い立ちを隠して後見人以外の援助無しで平民として育てられた。王妃の子である異母弟(現国王)に自らの素性を明かすという復讐を達成するために騎士団長になったが、魔王襲来で異母弟を亡くした時点で恨みはなくなっている。国王と王妃の指輪は持ち主であった異母弟の遺言に従い譲渡されたもの。
クソコラボのホレブヌ:母親が王妃じゃないのか弟と異母兄弟なのかも不明。理由がはっきりしていないのに雑に原作をなぞってるせいで王族としてノーカン扱いされて「なんで自分が捨てられたんだ」とか言ってる。こっちが聞きてえよ!なのに平民として育てられながら王になってもいいように教育を受けたらしい。ハ?騎士になった動機は「兄だから弟とか国とか護らないかんじゃろ」とかいう謎理屈。隠し玉なのに?????なお指輪は自分が持ってるらしい。お前の弟どこいったん?????????????????????
王の落胤設定ないんじゃないか疑惑から漂う別人感に謎改変を挟みながら指輪を贈るとかの着地点だけ元ネタに合わせるの無理ありすぎでしょ…と呆然とした原作ファンの気持ちが伝わったでしょうか。 まあここからもっと酷くなるんですが…
上で書いた全く話の筋が噛み合っていないのに無理やり原作をなぞろうとする実写デビルマンを思い起こさせるクソ雑シナリオは1話目からエンジン全開なのでこちらも比較していきましょう。
原作 魔王によって故郷が壊滅(前線にいた)部下は全滅の状況で全てを失ったオルグスは魔王を討つため唯一の希望の勇者=主人公を頼るが、ひ弱な人間かつヘラヘラしている主人公を見て怒りのあまり襟首を掴み上げる。 (注:背景に関しては後から提示された情報に基づいた推測であり、該当のシーン自体はいわゆる第一印象の良くない出会いとして演出されている) 狼藉を止めに入るソール。勇者アゲ純粋培養全肯定botVS勇者サゲ力こそパワー型人外というシンプルな価値観の対立を見て私のために争わないでと呑気に喜ぶ作中世界の重みをまだ知らない主人公。
クソコラボ 魔王おらんけど万一とか言い訳つけて野次馬根性で勇者の元を訪れるオルグス(雑) なぜか突然脳筋チンピラ化して怒る理由もないのに「貴様が勇者だと?柔弱だな!」とか言って襟首を掴み上げてくるオルグス。後からやってくるソール。こっちはまだキャラ崩壊度が低いかと油断させた次の瞬間両者「1周目から持ち越��れた好感度」なる謎のキモデレ洗脳を施されて初見配偶者面し始めた挙げ句アホゴリラ同士のキャットファイトで酒場を破壊する。これ出して「原作再現!感動!」とか言われると思ってんのヤバいし実際に雑理解しかできないから喜んでる連中がいたのが怖い。 あと1話目から早々に何を改変してどこの辻褄が合わなくなっているかが把握できていないので原作では「故郷から別の街に避難しているため仮の仕事として酒場の給仕をしている」という設定の元侍女の端役キャラが原作通り酒場で働いてるのにご丁寧に「本来王宮付きの侍女を連絡役につれてきた」という3分前にした描写と矛盾しまくる言い訳がついてきます。もうやだ。あとバッカスが「主人公への気持ちは”まだ”恋愛感情じゃない」とか言ってるけど主人公との関係は義父寝取りから始まった四畳半史の中では貴重なスケベ要素なしの純然たる擬似親子だしバッカスは本命いるだろ。父親役設定のところだけ☆5棒媚びノルマのためにその関係になるまでの過程すっ飛ばして引っ張り出しておいて都合よくピンポイントで忘れてんじゃねえよ。 (追記)後から気づいたんだけどエルウェが城下町にいるのって地元が壊滅したからだからこいつもなんでいるねん組ですね(こういう細かいところから溢れ出る「原作再現との両立が難しいコンセプトを言うだけ言って達成できてない感」を感じろ)
ちなみに好感度引き継ぎとかいうクソみたいな言い訳はクソコラボ第二弾では影も形もありません。「大金かけて引いた☆5棒が女or俺にデレデレなかったらムカつく」みたいな考え方してるメイン顧客(財布)として想定しているところの蕎麦屋が蕎麦売ってることに文句つけてるに等しい差別主義者orガチャに溶かす金はあるのに買い切りゲームはできない頭サモ勢への”ハイリョ”なのかなんなのか知りませんけど…
オルグスルート(火竜の山)
原作 東へ避難するオルグスの故郷の人々。上で出た元侍女を通じてオルグスが前王の血を引いていることが示唆される。山で生活していた部下たちが山賊に身をやつしていたことに怒りと自責の念を覚えるオルグス。自分の命を投げ打ってでも魔王を倒したいという覚悟のオルグスに主人公が悲しむと伝えるソール。生ける屍として操られている人々。今まで逃げ腰だった主人公が本気を出す。二度と仲間を作らないと誓っていたオルグスが初めて心の底から主人公と打ち解け��指輪を贈る。
クソコラボ 故郷の人々なんてものはない。「育ち良さそう」と言われただけで自分から秘密であるはずの生い立ちをペラペラ話すオルグス。アホか?故郷が陥落していないので騎士のままの部下たち。なんで俺が捨てられたんだ~とかグダグダモノローグをかますオルグス���見たくない)命を投げ打つ覚悟は難易度ピースフルの世界には存在しない。ハイハイ優しい世界。食あたりで暴れるアホその3(ファヴニル)に秒で蒸発させられるリスクも考えずワー叫びながら突っ込んでくアホその4(主人公)を見て「キュンです🫰」とか言ってまだふっつ~に全然余裕で存在してる国の王の配偶者が持つべき指輪を昨日今日で会った他人に押し付けてくる知らんオッサン。なんか「どのように受け止めて貰おうと構わん」とか言ってるけどそんな生半可な気持ちで渡してんじゃねえよ。
というか読み直したら原作だとこんなクソ薄っぺらいテンプレツンデレ営業じゃなくて「…お前がいい。お前でなくては…駄目だ」ってちゃんと言ってるんですよ。原作に失礼すぎる。謝れ。
あとこのシーン呼び方もクソコラボの方は「貴様」呼びのままです。こういう原作の機微なんぞ知ったこっちゃないというエアプ感がここでも匂い立ってクソですね。
こんなことやっておいて告白ボイスはバージョン1のエンディング丸コピだしどさくさに「運命(さだめ)の”男”」って言ってたのをちゃんと性別が何でも対応できるように(半ギレ)「戦士」に変えてるしさぁ…コラボキャラにまでいつもの横暴を言い訳する時だけ都合よく引っ張り出してくるタヨーセー!カノーセー!ですか…ハァ…
以上まででまだなんと全5話+エピローグの2話までです(助けて…)ソールルートにあたる3話も本当にクソなんですけどどっちもクソだからクソ度の軽重とか比べるだけ無駄なので…
原作のソール:幼い頃に目の前で魔物に両親を焼かれる。村も全滅。繰り返し復活する魔王に対処するための組織として機能している「教会」の司祭である育ての親に保護され、魔王討伐のための捨て石になるよう教育されて育つ。弟弟子にあたるリカンツとは兄弟同然の関係(だと本人は思っている)
クソコラボのンーノレ:魔王討伐のことになると語気が荒くなるだけで親がどうなってるのかも不明。今気づいたけど☆4の説明見たら「親と”離れ離れになった”」とか書いてあってハァ~(呆れため息)なのに自己犠牲精神のくだりはちゃんと載っててもうやだ。孤児を捨て石として洗脳してることすら辻褄合わせられないんか?リカンツに関しては”交流を持っているため、一部が修道僧として共に稽古している”というクソボケふわふわ言葉でまるで交換留学生みたいな説明がされている。公式ちゃんと原作やった???
(追記)これが例えば仮に完全全年齢向けで小学生キッズとかの低年齢層を想定してあんまり重たい設定出すのはちょっと…とかならまだわかるんですけど年がら年中チンポジくっきりヨヨイノヨイのケツ出しマンボみたいなことやってて凄惨な過去に対してだけ繊細ぶるとかま〜じで異世界ゆるふわテーマパークなんだよな
原作のディテールがボケボケにボカされてる薄気味悪さに不穏なものをビンビンに感じつつストーリーを追っていきましょう…(嫌すぎる)
ソールルート(賢者の塔)
原作(賢者の塔) 砂漠を越えるための支度の途中、両親の指輪(自作)が店に流れているのを見つけるソール。高額をふっかけられて困っていたのを見て機転を効かせた主人公が物々交換で指輪を手に入れる。片方を持っていてほしいと主人公に指輪をつけるソール。 (ごちゃごちゃしてるんで諸々省略)ずっとソールに庇われるだけだったのが守る側へと変わっていく主人公(聖剣ビームの発動条件が「守りたい気持ち」というコテコテのやつなんで…) 敵の魔法を浴びて両親が生きていた子供時代の夢に閉じ込められるソール。主人公の剣のパワで呼びかけられてソール覚醒。 涙の流し方も忘れてしまった系の悲しみを今まで通り抑圧しようとするソール、泣いてもいいと言われて号泣。賢者の塔でさっきの敵を倒す(またごちゃごちゃしてるんで後は省略)
クソコラボ なんか勝手に自分一人で指輪見つけて買って両親の形見を恋のおまじないアイテム☆みたいな扱いしてるソール(ここでまずブチギレ) 初見配偶者面キモデレ洗脳の影響でまだ何も世話になってない主人公に指輪を贈る気満々のソール。 原作のメインキャラを情緒に問題のある人間にするのやめていただけます????? あとよく読んだら原作だと「剣の柄に原石がはまっている」(はめる前は役に立たない錆びた剣という王道展開)(原石ならこんなツルツルしとらんやろなどのツッコミは禁止)って書いてあるのにクソコラボだと「剣が白き石でできている」とか書いてあって間違い探しじゃなくて正しいところから探した方が早いレベルでウケる(真顔) サモキャラと世界設定匂わせに半分以上尺を食われる。
ハァ~~~~~~~
そして突然始まるソール本人とは1マイクロミリも関係のない神話上のソールとマーニのエピソード(原作ではこの名前の引用に関しては「ソール大好き疑似ブラコンの弟弟子が実はスコルの子孫」というコミカルな要素で消化されている) 合間合間に挟まる原作要素がほぼ無くなったごちゃごちゃ。クソつまんないライターの自己満テーマ���開陳のために急に親が死んでたことを思い出して「自分は親を見捨てた卑怯者」とか言い出すンーノレ。 お前襲われた当時幼児やぞ???????? ちなみに原作だとかつての自分と同じく親を亡くして泣くことしかできない孤児に「生きなければ親の願いが無駄になってしまう」と言い聞かせるシーンがあります。 原作のメインキャラを情緒に問題のある人間にするのやめていただけます????????????????????(二度目)
(追記)原作でも同じような後悔を抱いているという掘り下げはあるんだけど多層的な描写として入ってくるのと薄っぺらモノローグドーン!じゃ同じ印象にはならないんすわ
なぜか厨二病化して原作要素のケモフード付き衣装を指して「†魔物に喰われたが如きもの†」「†かつての自分の願いが叶ったのだろうか†」とありとあらゆる辻褄の合わないことを言い始めるンーノレ(クソデカブチギレポイント) 原作未プレイでもわかるかもしれないんですけど両親も故郷もエンチャントファイアされたんでリカンツとかマジでなんも関係ないんですよね。 そもそもクソコラボの中でも友好的な種族として出てきたのにリカンツに喰われたようとか言い出す無神経さがヤバい。 原作のメインキャラを情緒に問題のある人間にするのやめていただけます?????(三度目)
さらにごちゃごちゃなので省略。 さっき自分で「石はデカい方が強い」って言ってたくせ刀身丸ごと石でできてることになった剣を振り回してる主人公に取ってつけたようにめちゃクソ小さい石しかついてない指輪を渡してくる知らん糸目。 なんか「お護りいたします」とか言ってるけど上で書いた通り原作だとここでの話の要点って主人公が脱貧弱一般人して実質一番強いやつとして行動する覚悟を持つとかなんかそういうとこだし散々肉盾になってきたソールに対して「これからは自分が守る」って言ってるんですよね…いやこのクソエアプシナリオに言うだけ無駄なんですけど…。
原作or北欧神話無関係なのになぜかいるホルスの月の瞳と太陽の瞳がどうしたこうした。 まさか知らん糸目が魔物に喰われたとか急に言いだしたのってライターがソール&マーニと絡めて「月と太陽、超関係あるし超深い☆」ってドヤりたかっただけなんですか??????でなんか出てくる不死皇の本体。
なんで?????????
アンセスターいないのってこのクソ雑はしょり進行の都合なん???Any%って冗談で言ってたけど本当にずっと先の展開のデモシーンまで飛ばすRTA走者が使うバグみたいなん起きててハァ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみにこれ↓当時2話でうんざりして3話もどうせこんな感じのクソだろって書いた予想なんですけどまあまあ合ってて自分で笑っちゃった
・賢者の塔が再現できないからサモキャラのドタバタでお茶を濁す ・ンーノレの話よりサモキャラの過去語りの方が尺が長い ・1話で即落ちしてたのに勝手に感動して持ってた指輪をいきなり押し付けてくるンーノレ
4話~エピローグ
原作のストーリー要素ゼロ。マシになるかもしれないなどと油断してはいけない。 結局そもそもクソコラボ設定だとなんで存在してるのかもわからないバッカスが「なんで記憶ないんだろ~」とか言ってるけどこのイベントでキャラクターが「なぜだろう」と疑問に思ってることの大半は書き手の都合でしかないので筋の通る理屈はありません!ガハハ 「それは――それこそが――」みたいなセピア色ポエムと未だにプレイしてる人たちから揶揄されてる意味深ムーブをぶった切ってタイトルに行きますが答えは提示されません。本当に考えてる?
原作で描かれていた「魔法があっても死が覆されない世界で犠牲者が増えるほど戦力を増やす魔王の軍勢」「より上位の存在に弄ばれている魔王たちにとっても手詰まり」という重々しい要素を丸ごと削ってエアプの愚昧どもにもわかりやすいよう薄っぺらく説明してくれるネタバレ厨のネクロス。ついでにサモカスを指名してガンつけする。「お前の中にある異物(サモカス)が許せない」と全愚痴勢の気持ちを代弁するネクロス(実際はもうちょっと複雑な感情です~みたいな説明あり) こういうことやってて安売りデレ営業が足りなかったから第二弾の☆5棒どもは頭フォーマットされたんですかね~…
(1/22追記)シナリオがヘタクソすぎて今まで本気で気づかなかったんだけど後で出てくる名前連呼とかやたら繰り返してる「ねばつくような視線(原作の感情と比べると飯盒炊爨のおともに作るカレーよりシャバッシャバ)」とかってご都合主義⭐︎5棒錬成剣で切り離した2周目(笑)のネクロスをサモカス専用(笑)(笑)にするための寝取りの準備だったんすね(笑)(笑)(笑)
ごめんけどまじでばかおもろい笑笑笑笑笑
あんまりにもガバガバかつ薄っぺらいので見栄張ったせいでサイズが合ってないコンドームかと思いました(そんなことする人が実際にいるかは知りませんが…)
パチモンのネクロスもクソシナリオの薄さに対して自我がありすぎて茶番を自覚してるし特殊だと「本物の勇者と魔王はもっと手ごわいぞ」とか言ってるしなんなんだこれほんとに。
このクソコラボ全編の中で唯一原作ファンがクスっとできるニーズホッグの秒速掌返し。無反応のバッカスと出てこない指輪にブチギレるバッカス×ニーズホッグのオタク。後ろでそうだそうだと野次を飛ばす私(注:原作は情報量が多いのでどんなに熱心なオタクでもだいたい本命以外のキャラクター周りの設定の記憶が薄れがちなので反応が遅れる)言い忘れてたけど合間合間にまたサモキャラと世界設定匂わせが挟まってます。
これから冥府の門だというところまで来てサクサク進行だから覚悟が足りない!とか言って震え始める主人公。
お前自覚あったん!?笑
原作だと丁寧に積み重ねてきたものや導入として機能してたアンセスター編の役割をすっ飛ばして無駄にペチャペチャモノローグ垂れ流してるくせにキャラクターの感情には一切向き合ってこなかったツケですね…
最終話の冒頭、主人公がまたペチャペチャモノローグに入って「自分ならイベントをスキップしたり美味しいところだけつまめると思ってた」とか言い出す。
お前が今やってんのそれなんだけどそっちは自覚ないん!?笑笑笑
このクソコラボ用に雑改変された世界自体が命の重さから逃げてるのに「自分だけの旅路」とか適当言ってんじゃねえよ~~~~~~ ちなみに原作のラストでは「主人公(プレイヤー)が歩んだ道のりがあるからこ��キャラクターたちの好意は主人公に向けられているのであり、それを別の誰かが横取りすることはできない」とはっきり言ってます。でも2周目(笑)は別人(笑)だけど好感度(笑)は持ち越し(笑)(笑)(笑) ”僕”って結局なんなの?みたいな話とか当然エアプどもは意味がわからなくて困惑してるわけでここがまさに冒頭で言った既プレイは顔をしかめ未プレイは置いてけぼりでネタバレだけ垂れ流されてるという状態。アホに優しい日本語最大手wikiですら教えてくんに対してはてめーらにはおしえてやんねーくそしてねろ!の一点張りで笑う。 「道中一緒だった」とかいうまともに会話したことないクラスメイト程度のつながりしかないくせにネクロスの名前を呼び続ける主人公。エアプはこれ感動シーンと勘違いしてるかもしれないけど「ネクロス」の名前自体が”本物”がつけたものだからさぁ…お前ほんと何から何まで「1周目の引き継ぎ」なる謎概念におんぶに抱っこ授乳手コキしてる知ったか前方ユウジ面だけでほんとさぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~と思ってると2年ちょい後に原作ファンをブチギレさせることになるご都合主義☆5棒錬成剣でバッカスの肉体からネクロスを切り離す主人公。サモカスの受け売りで逃げる勇気!みたいなことを言い出すけどあいつが言う「逃げてもいい」は星5レアリティの男キャラにしか適用されないという法則があります(約束の海底都市参照)(滅びろ海底都市)
そもそも原作の軸だった「逃げた”僕”と逃げなかった”俺”」の「逃げ」を「割り当てられた役割から逃げるかどうか」の「逃げ」にずらすのは完全な論点のすり替えで、かつどちらがどちらに当てはまるかが真逆で本当にこれが最悪で… 前者が逃げているのは自分が世の中の規範(この場合は異性愛規範)から逸脱した存在として見られる恐怖に向き合うことで後者の役割(規範に基づいて期待されているもの)からの「逃げ」の先にあるのはまさしくその恐怖への対峙なのでほんと悪い意味で筋の通ってない屁理屈でもう���………
原作の価値観が「カムアウトする勇気=Good!」という平面的な物差しで終わっていたからこそ人によって本人の事情も周りの環境も違う現実の複雑さを考えればクロゼットのまま生きている人も肯定する結論にするシナリオを作る、という話になっていればよかったんだろうけど(ここまで仮定)その「別の旅路」とかいうのがま~~~~~~説得力マイナス100兆エアプ・ゴミクズ・ユア・ストーリーだったせいでどうにかなったかもしれないものも全部駄目になってただ原作ファンを怒らせただけでなんでタラレバキャンセルからのノー擁護です。
みんなで逃げよう!となんとなくハッピーエンド感を出してメディアリテラシーの低いプレイヤーを煙に巻いていますがこの2周目(笑)の人たちは特殊クエストでないこと(東京に来たのは”本物”たちだった)になったままクソコラボ第二弾に続きます。ハハハハハ
ここまで書いてもなんか言い返しておけば勝ちになると思ってる連中はバカの一つ覚えで別人別人って騒ぐんだろうけどじゃあ別人のこと好きになれないしそもそもコラボって言いながらパチモンつかまされるとかわけわかんないんでやめていただいてよかですか…
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thetaizuru · 4 months ago
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 「がんばれ」って、いきなり知らない人に言われても意味わからなさすぎてなんかムカついてくるというような、当然の「伝わらなさ」に対し、なぜか伝えることができる人の資質や能力を「カリスマ」と言う。  アップルコンピュータでマッキントッシュの開発を立ち上げたことで有名なエンジニアのジェフ ラスキンが、スティーブ ジョブズのカリスマ性について、こんな話をしている。「他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいた。」  「現実歪曲空間(リアリティ ディストーション フィールド、RDF)」というのは、マッキントッシュ開発メンバーで、現在はアップル社のソフトウェアテクノロジー担当副社長であるバド トリブルが1981年に造語したもので、「ジョブズ自身と他人に、ほとんどどんな考えでも吹き込む能力」であるという。この言葉を使って愚痴ったり、茶化しながらも賞賛したりしたという。トリブルは、『スタートレック』などの影響でこの語を思いついたらしい。厄介な面もあったが、RDFにより、実現困難性についての規模感や距離感を歪ませ、不可能だと思っていたことが実行可能な気にもなってきて、誰かがなぜか思いついたちょっとした打開策から一気に、実は最初から実現可能だったのだという感覚が作り出されて広まっていくという、まるでSFでも観てるような体験もしたという。
 「カリスマ」とは、「特定の人が持つ、他の人々を引きつけ感銘を与える強力な個人の性質」というような意味である。元々のギリシア語では「神より賜った能力」「恩寵」といった意味で、19世紀の宗教社会学や歴史��などで使われたこの語を、社会学者マックス ウェーバーが社会学の概念として導入した。ウェーバーは、社会における支配のありようを論ずる際に、預言者、呪術師、英雄などの個人に宿る非日常的な資質をカリスマとし、そのような人物による支配を「カリスマ的支配」として分析した。以後、カリスマという言葉は社会学的用語として普及した。  ウェーバーは「支配の正統性」について、権力を裏付ける正統性(レジティマシー)の基礎に関する理念型として、「カリスマ的正統性」「伝統的正統性」「合法的正統性」の3つを挙げた。カリスマ的正統性とは、支配者個人の超人間的資質やそれに基づく啓示などの指導原理に被支配者が個人的に帰依するときに生ずる正統性で、宗教的指導者の権力などがこれにあたる。伝統的正統性とは、血統や、古来からのしきたりなどに基づいて被支配者を服従させる正統性で、古くから存在する秩序と神聖性による支配である。合法的正統性とは、法をその基礎としているために、ほかの2つの正統性に比べて安定している。合法的正統性を他にもまして重視する国家は「法治国家」と称せられる。これら3つの類型はあくまで把握のためのツールとしての理念型であり、現実社会にそのまま存在しているわけでなく、実際の支配は、多くの場合、この3つの正統性が相互に影響しあって総合的に権力を基礎づけている。形式的にはデモクラシーのかたちを採用しながら実態はカリスマ的支配という例も少なくない。  カリスマ的人物への信仰の源は、奇跡あるいは勝利や成功によって、すなわち信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的能力や聖性を実証することにある。カリスマ的先導者の失敗はカリスマ信仰への裏切りとなり、往々にして追従集団の急速な解体が生じる。とは言え、人がカリスマに惹かれる理由である、カリスマが持つ非日常性は、自分の退屈な日常を破壊してくれるものであり、カリスマに引き寄せられた者は、カリスマに自己を委ね、本来の自己と向き合うことを避け、検証能力や日常的判断を手放す。カリスマに追従している間、カリスマへの批判を自身への攻撃と捉えたり、あるいはカリスマの聖性の証明と受け取る。  カリスマ的支配は、カリスマの不安定な性質、すなわち非日常性のために、ただ一時的にのみ存在する。ここからカリスマの日常化が始まる。カリスマ型支配は持続することはできず、伝統化されたものへ、または合理化されたものへ、あるいは両方の結合したものへと変化する。カリスマが世襲によって伝統化される場合は「血統カリスマ」、成文化された手段によって合理化される場合は「制度カリスマ」、あるいは、伝統化および合理化の結合によって非人格化される場合は「官職カリスマ」となる。これらはカリスマ本来の非日常性的性質が失われ日常化したものである。 
 今年7月13日(米時間)、トランプ次期大統領が、演説中に銃撃され右��を負傷するという暗殺未遂事件が起こった。シークレットサービスに囲まれて壇上を降りていく際に一度立ち止まり、シークレットサービスたちの間から身を乗り出し拳を振り上げ「ファイト」と叫んだ。実際には声は出してなかったと思う。マイクは拾わなかった。読唇術というわけでもなく、心に響くという感じだった。  多くの人が、この時のトランプ次期大統領の姿を、「バッドアス」(「マジかっけー」的な意味)と言い、「なんだかよくわからないが」と笑いながら、あの勇敢さこそが「これがアメリカだ」と感じた、と語っていた。  元々、前大統領として、あるいは成功したビジネスマンとして、カリスマ性を持っている人物が、銃撃されるも奇跡的に助かり、直後に勇敢な姿を示すという、カリスマ性をこれ以上なく圧倒的に強め、神格化されても当然な出来事の後で、トランプ次期大統領がとった行動や発言は、あるいは衝撃が走ると同時になぜか満ちていた不思議な静けさには、「カリスマ」というような言葉では表現できないものがあった。  この感覚を説明する概念をあえて探そうとするなら、宗教哲学の概念に「ヌミノーゼ」というのがある。神学者ルドルフ オットーが定義した概念であり、オットーは、「聖なるもの」のうち合理的な理解にかなう部分を除けた概念をヌミノーゼと呼んだ。先験的(ア プリオリ)なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。「聖なるものへの畏怖」というような感情である。
 今回の大統領選で、デモクラシーとかサイエンスとかジャスティスとかジャーナリズムとかエンターテインメントとかを名乗るカリスマ的支配が、少なくともその一部は、崩れていった。  ここ数年、多くの人が宗教観や精神性というようなことについて話していた。選挙期間にますます増えていった。そもそも語りえないようなものなので、漠然と宗教的で精神的だという以上の共通するテーマも、はっきりとした答えもないし、特定の宗教の話でもなく、熱心に信仰���てる人から最近までそんなこと考えたこともなかったという人まで様々だが、今になって思い返してみると、こうした話の一つの方向性は、どうしたら現状あるカリスマ的支配の外に出られるか、というようなものだった。それも、とりあえず今ここでは「カリスマ的支配」と呼んでいるが、もっと漠然とした現状認識というか考え方みたいなもの、つまり自分の考え方もどんどんディストピア的でカフカエスク(カフカ的不条理)な感じになっていくことから抜け出す方法はないか、というようなものだった。せめて、とりあえず自分の考えの外にあるものを宗教と呼んで忌避するというドグマでもあるかのようなアホっぽさからは抜けよう、ということでもある。  カフカエスクというのは、カフカ作品のような不条理なほど複雑な状況を形容する言葉で、そこから逃れようとし、答えを求めようとするが、場合によっては目の前に答えも出口も見えてるのに、なぜか手が届かないような不条理な状況のことである。  カフカ作品と多くのディストピア小説には、共通の下敷きとも言える作品がある。ドストエフスキーの小説で、特に『地下室の手記』(1864)である。近代的自我を初めて生々しく描写した作品とも言われる。極端な自意識から社会との関係を断ち、地下室という「自我の檻」に籠った男の手記である。近代社会への批判が綴られるが、思考がぐるぐる回っていき、自由や愛を求めるが、それさえも自ら手放すかのように手が届かない。  自我の檻に囚われた状態の「無能さ」や、不可避的に自我の檻へと追い込む思考回路や状況に焦点を当てるとカフカエスクになり、自我の檻を照射したような社会を描くとディストピアになる。
 トマス ピンチョンが2003年に、ジョージ オーウェル『1984年』(1949)の序文を書き、それとほぼ同じ内容のものがガーディアン紙に掲載された。その文章で「二重思考」についてこう書かれている。 「  私たちは、この「ある種の分裂病的な思考法」こそが、この小説の偉大な業績のひとつであると認識している。これは政治的言説の日常的な言葉として定着している - 二重思考の特定と分析である。エマニュエル ゴールドスタインの『少数独裁制集産主義の理論と実際』、オセアニアでは非合法とされ、例の本としてのみ知られている危険な破壊的テキスト、に書かれているように、二重思考とは精神鍛錬の一形態であり、その目標は、すべての党員にとって望ましく必要とされるもので、矛盾する2つの真実を同時に信じられるようになることである。もちろん、これは目新しいことではない。誰もがやっていることだ。社会心理学では古くから 「認知的不協和 」として知られている。また、「コンパートメント化 」と呼ぶ人もいる。有名なところではF スコット フィッツジェラルドが天才の証拠だと考えている。ウォルト ホイットマン(「私は自己矛盾しているだろうか? まあよい、自己矛盾しよう」)にとっては、大きく多数を含むことであり、アメリカのアフォリスト、ヨギ ベラにとっては、分かれ道に来たらとにかく進め、ということであり、シュレディンガーの猫にとっては、生きていると同時に死んでいるという量子パラドックスなのである。 ...  オセアニアを牛耳る超省庁の名前の背後にも、二重思考がある。平和省は戦争を行い、真理省は嘘をつき、愛情省は脅威とみなした者を拷問し、最終的には殺す。もしこれが不合理なまでにつむじ曲がりだと思われるなら、現在のアメリカを思い出してほしい。戦争遂行組織が「国防省(防衛省)」という名でも何の問題もなく、その最も強力な部門であるFBIによる人権と憲法の乱用が十分に文書化されているにもかかわら��、我々が「司法省(正義省)」と真顔で言うのと同じである。名目上は自由な報道機関は、「バランスの取れた」報道をするよう求められ、 あらゆる「真実」が即座に対極にあるものによって無力化される。毎日、世論は書き換えられた歴史、公式の健忘症、明らかな嘘の標的となり、それらはすべて、まるでメリーゴーランドに乗っているのと同じくらい害がないかのように、慈悲深く「スピン」と呼ばれている。私たちは、彼らが言うことよりもよく知っているが、そうでないことを願っている。私たちは信じると同時に疑っている - ほとんどの問題で少なくとも2つの考えを永久に持ち続けることが、現代の超国家における政治思想の条件のようだ。言うまでもないことだが、これは、できれば永遠に権力の座に居座り続けたいと願う権力者にとって、計り知れないほど有益なことである。 」
 カリスマ的支配の外とか、ディストピアっぽくなっていく自分の考えの外というようなことを考えようとすると、考えの外を考えるという矛盾だったり、当然の「伝わらなさ」や、そもそも自分で言ってて意味わかってないということに、無能さや虚無感を感じる。  太宰治『トカトントン』(1947)で、若者が、好んで読んでいた作品の某作家へと手紙を送る。何かに奮闘しようとするも、熱意が高まる度に「トカトントン」という音が聞こえてきて、どうでもよくなってしまう。この「トカトントン」は一体なんなのだろうか、という内容である。 「  この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。
 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。 」
2024年11月 ファイト ファイト ファイト
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takahashicleaning · 7 months ago
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��EDにて
ケリー・マクゴニガル:瞑想でストレスと友達になる方法
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
ストレス。そう、ストレスのせいで心拍数は増え、呼吸は速くなり、額にに汗が出て来たりします。しかし、ストレスが健康の敵とされてきた一方、ストレスが体に悪影響を及ぼすのはそう信じるからだ、と新しい研究が示唆しています。
心理学者ケリー・マクゴニガルは、私達にストレスを肯定的に捉える様にと促し、これまで知られていなかったストレスを軽減する仕組として、手を差し伸べ合う事を紹介します。
すべてではありませんが、オキシトシンという物質は、神経ホルモンで脳の社会的本能を絶妙に調整しています。オキシトシンは、ほかの脳内物質との相互作用で人々との親密な関係を強めるような行動を促します。
オキシトシンは、友達や家族とのふれあいを強く望むようにさせたり、人との共感を高め、さらには、私たちが大切に思う人たちを進んで助けたり支えたいと思わせたりもします。
実は、オキシトシンは、脳だけに働くのでなく、体の他の部分にも働きかけます。
その主な役割の1つは、心血管系をストレスの悪影響から守る事です。自然の抗炎症薬です。ストレスを感じても血管を弛緩状態に保ちます。特に、歓迎すべきと考える体への好影響は心臓に起ります。このホルモンの受容体が心臓にあり、オキシトシンが、心臓の細胞を再生し、ストレスで起きるダメージを治します。
しかし、経済的惨事や家庭危機などの重大なストレスを経験すると死のリスクが30%増加します。
それでも、皆が皆、増加してはいませんでした。他の人への思いやりに時間を費やした人々には、ストレスから来る死亡の増加は全くなかったのです。
ゼロです。
矛盾してるように見えますが・・・
現代から2550年ほど前、ブッタが最初に自ら発見、実践、体得、体系化したことです!
真実は、他人への施しや思いやることが、自分自身の回復力を作り上げます!!
ストレスからの悪影響は避けられないものではない事がここでも解りました。どのように考え、どう対応するかで、ストレスの経験の認識が変えられるのです。ストレス反応が自分を助けてくれていると考えるようにすれば、勇気が出るような生物学的反応が比較的、多少は起きるのです。
そして、ストレス下にいる人に手を差し伸べるようにすれば、自分の中に回復力を作り上げるのです。とはいえ、私自身、わざわざ、これ以上のストレスが欲しくなったというわけではありませんが、この科学的発見で、ストレスに関して新たに全く違った評価をするようになりました。
ストレスは、人との繋がりの中に喜びと意味を見い出��うとする思いやりの心と、そうです。そして、あなたのその鼓動している心臓の両方を助けます。あなたに力とエネルギーを与える為に一生懸命働いているその心臓にです。
あなたは、自分を信じて人生のチャレンジに立ち向かえると言っているということで、一人きりで立ち向かわなくても良い事を忘れないでいるという事です。
具体的には「親切は脳に効く」著作のディビッド・ハミルトンも言っています。
それ以外にも、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」があります。
テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」を行うことで「共感」が「思いやり」に発展し、さらに「親切」へと繋がっていきます。時間をかけて、何十万回も積み重ねることで脳の神経ネットワークを強化していくそうです。
衣食住に最低限必要なお金は維持しつつ、老化の予防にもなるし、全体との調和が大切ですね。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、危うく死ぬ。または、重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のこと。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
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ジョアン・ハリファックス:慈悲、そして共感の真の意義について
日本テーラワーダ仏教協会
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カレン・アームストロング:黄金律を復活させよう
個人賃金→年収保障、ベーシックインカムは、労働市場に対する破壊的イノベーションということ?2022(人間の限界を遥かに超えることが前提条件)
世界の通貨供給量は、幸福の最低ライン人間ひとりで年収6万ドルに到達しているのか?2017
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lyrics365 · 7 months ago
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ジャンクワーカー
昭和生まれ平成令和を駆け抜けるサムライ崩れ 泥水でもなんでもすすり二十有余年ジャンクワーカー 社畜家畜誇りだけは捨てず生きる屍 我武者羅這いつくばって幸せ見つけてやるぜ馬鹿野郎 上司の洗脳は解けずこのご時世でも命令口調 精神論根性論異論は認めず矛盾の武勇伝 飲み会じゃベロンベロン自論振りかざす伝統芸能 パワハラセクハラモラ���ラアルハラマタハラハラハラあらら アレよという間に消された上司と 自ら消えた後輩が残した業務を 愚痴も言わずこなす俺 ぶっ壊れてんのはお互い様だね 持続不可能かい御苦労様だね 分かんなくなったらとりあえず叫べ てめえの命がまだ真っ赤なまんまなら 同僚は自ら早期退職起業で夢叶えたらしい 住宅ローンに子供(ガキ)の養育費今そんな勇気なんてねえ プライベートも仕事に尽くし家族との時間さえ作れずに 残業からの帰宅灯りつけたら置いてあった離婚届 誰かの為は何の為?自分の金は無え…
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naotodays · 9 months ago
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2024年6月8日(土) 『はじまり』
表と裏。光と影。白と黒。生と死。
全ては絶妙なバランスで巡ってる。
ある人はこれらは全て別物だ。矛盾同士なんだと言う。
ある人はこれらは全て同じなんだ。仲間なんだと言う。
後者だと思う。
光があるから影ができて。
白い紙があるから黒が見える。
生の中に死がある。
現に表裏一体という言葉はもうそれになっている。それ。
何でも目に見えるものだけを見てしまっていないか。
はっきりしている(実ははっきりしている風なものだったりする)モ��もそのバランス(はっきりしていない対象に意識を向ける)を取ることが大事だったりしないかい?
(はっきりしているのにはっきりしていないものに意識を向ける?????)
でも、それが優しさなんじゃないかと思う。
世の中矛盾だらけ。もちろん理不尽。
でもその矛盾や理不尽に気づけたのなら、あとは質問を自分自身に投げかけるだけ。
質問を上手く出せれば、すなわちそれが答え。
世界はバランスを失っている。
皆んなが嘘をついている。
嘘が偏っている。
どちらかが正しいと思っている。
戦争をしている。
成長なんかしようとするから戦争が起きる。
もう成長はこの世界にとって大事ではないのかもしれない。
一番大事なのは、受け入れること。
悟ること。
つまり、バランスである。
バランスをGoogleで検索してみると、つりあい、均衡と出てくる。
バランスを失った世界は、戦争も起きるし、フェミニズムも広がらないし、国と国の問題、または個人間の問題。
それらが前に進まない。
そこにある感情だけが残る。
何か前に進むためにはバランスが必要で。
なにかを変えるための声は感情しかのこらない。
本当に何かを変えたいと思うから、変えようとしてはいけない。
何かを本質的に変えるためには忍耐を、訴えるためには勇気を。
もちろん正解を決めてしまえば、偏ってしまうが皆があーでもない、こーでもないって言いながらやんわりとした抽象的な答えだけが煮詰まっていくと良い世界になっていくと思う。
え、抽象的だと答えになってないって?
だって、バランスが重要だもの。
でも、抽象的な答えだけを知りすぎていると僕みたいな一般的ではない人間になってしまう。
これも矛盾してるね。
不幸な恋愛であっても、人を愛さないよりはマシ。
皆に幸あれ。
バランスを保とう。
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arataholic · 10 months ago
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ELLE Digital 01/2024 - Yokohara Yuki
Q1: I Got It là một ca khúc thể hiện tình yêu mãnh liệt, nhưng nếu bạn tỏ tình mà bị từ chối thì bạn có từ bỏ ngay lập tức không? Hay là có thể kiên trì bao nhiêu lần cũng được?
A1: Tôi muốn là người được tỏ tình hơn, nên tôi sẽ không tỏ tình đâu.
Q2: Mối tình đầu của bạn là khi nào? Bạn còn nhớ chuyện lúc đó không?
A2: Vài năm trước, lúc về nhà ở Shizuoka, tôi có mở album tốt nghiệp mẫu giáo ra xem, thấy ước mơ tương lai của mình ghi là "Kết hôn với ○○-chan" xong tôi kiểu: "Không có tí ký ức nào luôn, có thật là mình viết không vậy?" (cười).
Q3: Giấc mơ hồi nhỏ của bạn là gì?
A3: Tôi chỉ mơ hồ muốn mình nổi tiếng. Từ nhỏ tôi đã không thể tưởng tượng được mình sẽ đi làm bình thường như bao người, thế nên tôi nhắm đến mục tiêu trở thành cầu thủ bóng đá hay bóng chày, và rồi cuối cùng thì tôi ở đây.
Q4: Bạn nghĩ thế nào là một chàng trai tuyệt vời?
A4: Có thể quan niệm của tôi không còn phù hợp với thời đại ngày nay nữa, nhưng là một người đàn ông mà phái nữ có thể dựa vào.
Q5: Bí quyết làm đẹp của bạn là gì?
A5: Không có ạ. Tôi chỉ dùng những thứ tối thiểu như lotion và sữa dưỡng ẩm. Tôi cũng có dùng mặt nạ dưỡng da, nhưng nó không phải bí quyết gì đâu, tôi vừa đắp vừa nghĩ sao cái thứ này rắc rối thế.
Q6: Bạn sẽ thưởng gì cho bản thân sau khi nỗ lực?
A6: Ở nhà chơi game. Có thể thoải mái làm những gì mình muốn làm chính là phần thưởng tuyệt nhất rồi. Hôm nọ, sau khi kết thúc công việc, tôi bắt đầu ngồi chơi game từ chập tối với bạn bè, chơi đến 6, 7 tiếng. Trong phòng tôi có cả ghế và màn hình chuyên dụng để chơi game.
Q7: Gần đây bạn có sở thích gì?
A7: Tôi vốn đã có rất nhiều sở thích rồi. Gần đây thì tôi hay xem anime. Mấy bộ tôi thích dạo này là 『陰の実力者になりたくて!』 (The Eminence in Shadow), 『盾の勇者の成り上がり』 (The Rising of the Shield Hero). Tôi cũng xem mấy bộ đang hot như 『葬送のフリーレン』 (Frieren: Beyond The Journey's End) nữa.
Q8: Món ăn sở trường của bạn là gì?
A8: Gần đây tôi đã nấu dakgalbi phô mai. Tôi không giỏi nấu nướng lắm nên sẽ đi tìm công thức nấu ăn để nấu bất kỳ món gì tôi muốn ăn ngay lúc đó. Tôi cũng thường làm những món ăn nhẹ hợp với rượu, chẳng hạn như lòng mề.
Q9: Màn hình chờ điện thoại của bạn là gì?
A9: Là logo con chó mà tôi thiết kế. Logo đó cũng có trên những bộ quần áo tôi tự làm nữa.
Q10: Hoài bão của bạn năm 2024 là gì?
A10: Cả tôi và các thành viên đều mong rằng những gì chúng tôi thích và sở thích của bản thân sẽ có sự kết nối với công việc. Cá nhân tôi thì muốn livestream game. Thật thú vị khi vừa nói chuyện trong các tập youtube của nhóm vừa nghĩ xem nó sẽ mang lại tiếng cười cho mọi người như thế nào, nhưng tôi nghĩ việc thong thả chia sẻ những suy nghĩ của mình cũng rất vui.
Q11: Bạn mơ ước gì cho 10 năm sau?
A11: Tôi muốn báo hiếu gia đình. Tất nhiên sống vì bản thân là quan trọng nhất, nhưng tôi cũng sống vì gia đình mình nữa.
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eii-m · 1 year ago
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士官学校での或る体験
50年前の夏は、職業軍人養成の陸軍士官学校に在籍していました。私はその前年(昭和19年)に試験に合格し、終戦の年の2月に入学したのです。 その士官学校も、本土決戦に備えるためだったのかどうか、8月には浅間山の麓に疎開していて、そこで終戦を迎えました。士官学校生徒の私たちは、捕虜としてカリフォルニアの炭坑に連れていかれるというような噂も一部で流れていました。 疎開前でしたが、「歴史の大きな改変」を校庭に集まった全生徒の前で予言した高級将校がいました。戦局は敗戦が必至だと解っていたのでしょうか。敗戦後、割腹自殺をしたという上級教官の話も聞きましたが、そういう人達とは違った理性的な勇気の持ち主が、この集団の中にもいたというのも、いまでは大きな教訓となっています。 短い期間であっても、士官学校でのあれこれのことは、私にとって忘れ難い体験でしたが、中でも次のことは、生涯をつらぬくような一つの教訓にもなっているような気がします。 当時の陸軍士官学校では、昔からの伝統を重んじたのでしょう、毛筆で日記を書かされていました。それは強制でもありましたが、一面では、わずかに許された自由な表現の時間でもありました。それまでの中学時代に夏目漱石全集などを読み漁っていた私などには特にそう感じられていました。 しかし、ある日、思っていたことを率直に書きとめたことから、思わぬ波紋が起こりました。 “将校生徒といえども一人の軍人だし、軍人もまた日本人の一員である。” 書いたのはこれだけのことですが、感じていたのは、この士官学校で将校生徒々々と強調されおだてられることへの自制だったのでしょうか。願っていたのは、この集団以外の兵隊たち国民たちを蔑視するな、ということだったと思います。そういう愛国少年の一人だったのでしょう。 ところが、それがどうして「彼ら」に知られることになったのでしょうか、この日記を盾にとられて「貴様は自由主義者だ」と、教官からではなく同僚の同級生から決めつけられ、ある日「彼ら」の集団から呼び出され、とり囲まれて袋叩きにあったのです。 自由主義者というのは、当時の日本では反社会的思想の持ち主として最悪の決めつけ語であり、非国民と同義語に使われたものです。 「彼ら」というのは「幼年学校」���身者のことですが、この「幼年学校」というのは他国にはあまりない、日本帝国陸軍独特のもので、「彼ら」はそこで13~14才の少年時代から特別の職業軍人幹部養成教育を受けていたのです。ここから士官学校へはもちろん無試験で、はじめは将校の子弟を育てるためのものであったのかも知れませんが、この学校の出身者でないと、士官学校から陸軍大学を出ていても、中将どまりで大将にはなれないというのが、帝国陸軍の不文律であるといわれていましたから、彼らはそこで徹底したエリート意識を植え付けられていたのではないでしょうか。 「彼ら」は、私たち中学校出身者よりも数ヵ月遅れて士官学校に入ってきましたから、はじめは私たちの方からいろんな規則を教えてあげていたのですが、何の何の、しばらくすると「彼ら」は自らを帝国陸軍の「貞幹」(幹部)中の貞幹だといい、われわれ中学校出身者を『馬』と称して軽蔑しているのが分かってきました。「彼ら」は教官についても差別をしていて、よく隊をこえて幼年学校出身者の教官のところに結集しているのを知り「彼ら」の派閥意識に味気無い思いをしたものです。 今でも忘れません。中学校出身者が万葉集を読んでいたといって「軟弱者」と批判し、廊下に張り出された新聞の変なところを見ていたと難癖をつけて非難するという、そういうことを繰り返していました。 しかし「彼ら」が最大の集団的暴力を発揮したのは「兵科選び」の時でした。 当時、負け戦を続けていた日本軍の航空隊は飛べる飛行機もなかったのでしょう。殆どが爆弾を抱えて敵地敵艦に突っこみ、生きて帰ることは絶対にない、日本独特の無謀な戦術「特別攻撃隊」の要員だったのですが、「兵科選択」に際して、その「航空隊」を選ばなかった者に、「命惜しみ」として集団リンチをかけたのが彼ら幼年学校出身者の一部集団だったのです。 しかも彼らは、規則を破って深夜同級生に呼び出しをかけ、「命惜しみ」として集団暴力を加えながら、そのくせ陰では「俺は航空参謀だ」などといい、後方で指揮をとる「命惜しみ」をしようとしているのですから、偶然それを聞いた私は、彼らの本音を知り「許せない」と思いました。 本音と建て前の違い、非科学的なものの見方を平然とまかり通していたエリート軍人の卵たちの認識方法、それは当時の日本の指導者達の思考方法と共通性がなかったでしょうか。彼らにとって国家とは、天皇とそれをとりまく指導者集団、そして国民は彼らに奉仕する『馬』や『道具』と見ていたのではないでしょうか。 私の場合は、兵科選びでは彼らに強制された「航空隊」は拒否して「工兵隊」を選びましたが、それはやはり生きて帰ることが許されない「特別攻撃隊」に繋がっていましたので、その点ではリンチを受けなかったのです。けれども、さきにも言ったように日記の件で呼び出され、「自由主義者」だとして白昼軍服が血だらけになるぐらい集団で殴られたのでした。それもはじめに呼び出すときは、ただの一人で、「話がある」と呼びに来たのですから卑怯なやり方なのです��� 派閥的な集団主義は、しばしばこうした卑怯なやり口をもたらすのだということを身をもって知ったわけです。 野間宏の小説『真空地帯』では、将校間の反目の犠牲になった主人公(木谷一等兵)をかばうインテリの下士官がいましたが、私の場合は、軍服が血で汚れているのを認知していても教官はそのことには一言もふれませんでした。その教官は幼年学校出身ではなく、知的な人で、私も尊敬した人でしたが、そういう人でさえそうだったのです。いや、暴力をふるった「彼ら」でも、いま会えばどうということはない「普通の人」なのですが、皇国日本のエリート集団の卵たちの意識は、人を人とも思わないようにしてしまっていたのでした。 私はその頃、早くこうした汚い雰囲気から脱出して、死んでもよい、第一線に行って自由になりたいと思ったものでした。 自由を欲する気持ちというのは、いかなる場合も消すことのできない人間の本性だと今は思うのですが、勇敢な日本軍人の献身的な戦闘性というもののなかには、愛国心や周りの人々への愛情とともに、或いはそれとは別に、こうした半ば絶望的な自由への願望があったかも知れません。 苛酷な戦いを生き抜いてきた人たちが、戦争を語りたくないというのも、凄惨な極限状況とともに、こうした説明のできない非合理主義の横行が背景にあったことが影響してはいないでしょうか。 このようなせまい集団の派閥主義、官僚主義は、近代化の遅れた社会につきもののようで、今の日本でも払拭されていないように思えますが、軍隊という戦闘組織の中での派閥主義は暴力装置をもっているだけにいっそう恐ろしいのです。無謀な15年戦争を引き起こし、広大な戦線の中で非合理非科学的な戦略戦術で莫大な犠牲をもたらした、少なからぬ要因にもなったでしょう。 夏目漱石が明治の末期に“日本は滅びるよ”と喝破したのは、こうした日本の指導者層の非合理主義的体質が続くのを見抜いていたからかも知れません。 いずれにしても私にとっては、短い間の端的な体験が終生の教訓になったことは確かです。せまい派閥主義をどんな場合も嫌うようになりました。自らの体験や頭あるいは討論などで確かめないで、外から教え込まれたものを教条的に受けつけないようになりました。 戦後50年経って「経済大国」になった日本はもう「戦後」ではないという論もありますが、本当は、以前と同じではないにしても、似たような大きな矛盾を残したまま、日本の歴史は進行してきたように思えてなりません。 戦前のように、暴力主義の横行というのは露骨には見られませんが、矛盾を合理的に解決する努力の弱さや「派閥主義」は、残念ながらまだまだ続いているように思えます。矛盾を発見して、その解決方法を討論しながら推進していく民主主義の原点がまだ社会的に定着していないからでしょうか。 私の中学校時代の友人で、普通より早く4年生から当時の高等学校に入った秀才で、学徒兵として軍隊経験をもったM君が、終戦の年によこした手紙���中で言っていた言葉を思い出します。“天皇制が変わらない限り、日本はたいして代わらないのではないか”と。 「象徴天皇制」にはなったけれども、「お上依存」は克服されたのでしょうか。国民主権は確立されているのでしょうか。 日本の社会の、こうした困難な近代化の歩みの中で、『学習』は本当に大事なものに思えます。近ごろのように幼い時期からの受験本意の勉強は真の知性を損なわせ、またどんな分野でも余り早い時期から専門的分野に入りこむことは、視野を狭くさせ、大衆の存在を忘れさせ、民主主義と人間の自由な発展を遅れさせるような気もします。 “知を力として”この言葉の重みを、近ごろつくづく噛みしめています。そして戦後50年を経た今こそ、戦争の教訓から得た人類の貴重な歴史的遺産、「平和と民主の日本国憲法」をどうしても守り発展させ、子や孫たちに伝えないとと切実に願っています。
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ryou-takano · 1 year ago
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読了。アニメの展開が早過ぎるんだよなあ
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sulan1809 · 1 year ago
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Anti-Heróis - Como eles se tornaram tão populares?!
Anti-Heroes - How did they become so popular?!
アンチヒーロー - どうしてそんなに人気になったのでしょうか?
Quem assiste animes ou lê mangás, já deve ter visto um certo arquétipo de de personagem que tem o oposto dos atributos de um herói. A esse tipo de personagem, damos o nome de Anti-Herói. Em uma obra composta por mocinhos e vilões, tem que ter um anti-herói, para dar mais teor dramático para a obra. Os heróis representam o lado puro da humanidade, lutam em nome da justiça e são admirados como símbolos de superação, coragem e esperança, lutam basicamente para destruir os maus e proteger os inocentes; Os vilões representam o lado sombrio da humanidade, geralmente são os antagonistas principais, muitos deles são mafiosos, assassinos, ditadores, são movidos pela ideologia radical e desejam mudar o mundo através da força, como método de impor a vontade deles sobre os outros. Vilões costumam ser anarquistas e tendem a promover a discórdia e o ódio. Os vilões geralmente são entidades puramente malignas; Já os anti-heróis, estão em uma linha cinzenta que separa os heróis dos vilões. Anti-heróis são motivados pela autopreservação e interesses próprios, mas diferente dos vilões, há uma barreira que eles não ousam cruzar, o errado sempre parece-lhes mais fácil, costumam jogar dos dois lados aproveitando o que o herói e o vilão tendem a oferecer, o que os motiva pode variar da vingança à honra, são cheios de contradições e podem ter um arco dentro da obra no qual eles têm direito a uma redenção. E é por isso que os anti-heróis vêm conseguindo conquistar mais atenção do que os heróis e vilões.
Anyone who watches anime or reads manga must have already seen a certain character archetype that has the opposite of a hero's attributes. We call this type of character an Anti-Hero. In a work composed of good guys and villains, there has to be an anti-hero, to give more dramatic content to the work. Heroes represent the pure side of humanity, they fight in the name of justice and are admired as symbols of overcoming, courage and hope, they basically fight to destroy the evil and protect the innocent; Villains represent the dark side of humanity, they are usually the main antagonists, many of them are mobsters, murderers, dictators, they are driven by radical ideology, and they desire to change the world through force, as a method of imposing their will on others. Villains are often anarchists and tend to promote discord and hatred. Villains are usually purely evil entities; Antiheroes, on the other hand, are on a gray line that separates heroes from villains. Antiheroes are motivated by self-preservation and self-interest, but unlike villains, there is a barrier that they dare not cross; wrong always seems easier to them; they tend to play both sides, taking advantage of what the hero and villain tend to offer; what motivates them can range from revenge to honor; they are full of contradictions and may have an arc within the work in which they are entitled to redemption. And that's why antiheroes have managed to gain more attention than heroes and villains.
アニメを見たり漫画を読んだりする人なら誰でも、ヒーローの属性とは反対の特定のキャラクターの原型をすでに見たはずです。このタイプのキャラクターをアンチヒーローと呼びます。善人と悪役で構成される作品では、作品にドラマチックな内容を与えるためにアンチヒーローが存在する必要があります。ヒーローは人類の純粋な側面を表しており、正義の名の下に戦い、克服、勇気、希望の象徴として賞賛されています。彼らは基本的に悪を滅ぼし、罪のない人々を守るために戦います。悪役は人類の暗い側面を表します。通常、それらは主な拮抗薬です。彼らの多くは暴徒、殺人者、そして独裁者でもあります。彼らは根本的にイデオロギーによって動かされており、自分の意志を他者に押し付ける手段として力によって世界を変えることを望んでいます。悪役は通常、純粋な邪悪な存在です。一方、アンチヒーローは、ヒーローと悪役を分ける灰色の境界線上にあります。アンチヒーローは自己保存と私利私欲を動機としていますが、悪役とは異なり、あえて越えられない壁があります。彼らにとって間違っていることは常に簡単なことのように思えます。彼らは、ヒーローと悪役が提供する傾向にあるものを利用して、両方の立場を演じる傾向があります。彼らを動機付けるものは、復讐から名誉まで多岐にわたります。それらは矛盾に満ちており、作品の中で彼らが償還を受ける権利を有する弧を描く可能性があります。だからこそ、アンチヒーローはヒーローや悪役よりも注目を集めることができたのです。
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Outra coisa que vale ressaltar é que para identificar os anti-heróis, devemos escrutinizar algo escondido no passado deles. Pode ser um trauma, o que os levou a ser o que eles são. Isso prova que assim como acontece na realidade, anti-heróis são fruto do passado deles, principalmente das perdas que eles tenham sofrido. Vegeta é o exemplo mais proeminente de anti-herói shonen. Ele era um sujeito megalômano, agressivo, egoísta e arrogante, que tinha um fascínio descontrolado por batalhas intensas e detestava guerreiros que mostravam fraqueza perante ele, tanto é que ele assassinou Nappa, o parceiro Saiyajin dele, sem hesitar, quando este fracassou em derrotar Kakarotto. Vegeta tentou matar qualquer um que ousasse impedi-lo no caminho para derrotar Son Goku e conquistar a Terra. Ele promoveu assassinato em massa de namekianos em Nameko. Vegeta continuou sendo um grosseirão mesmo tendo tido o coração dele acalmado por Bulma e Baby Trunks; Ele se deixou levar pela magia de Babidi só pra ter uma chance de lutar contra Goku novamente; Ele deu um abraço em Trunks antes de se sacrificar para tentar destruir Majin Buu. E por fim, ele ajudou Son Goku a destruir Kid Buu. Admitidamente, Vegeta fez coisas terríveis, no entanto, ele se redimiu, mas ainda continua com os mesmos traços anti-heroísticos com os quais Akira Toriyama o designou. E é por isso que ele é tão popular entre os fãs...
Another thing worth highlighting is that to identify antiheroes, we must scrutinize something hidden in their past. It could be trauma, which caused them to be what they are. This proves that, just as happens in reality, antiheroes are the result of their past, especially the losses they have suffered. Vegeta is the most prominent example of a shonen antihero. He was a megalomaniacal, aggressive, selfish and arrogant individual, who had an uncontrolled fascination with intense battles and hated warriors who displayed weakness in front of him, so much so that he murdered Nappa, his Saiyan partner, without hesitation, when he failed to defeat Kakarotto. Vegeta attempted to kill anyone who dared stop him on his way to defeating Son Goku and conquering Earth. He promoted mass murder of Namekians on Nameko. Vegeta continued to be a boor even though his heart was soothed by Bulma and Baby Trunks; He let himself be carried away by Babidi's magic just to have a chance to fight Goku again; He gave Trunks a hug before sacrificing himself to try and destroy Majin Buu. And finally, he helped Son Goku destroy Kid Buu. Admittedly, Vegeta has done terrible things, however, he has redeemed himself but still continues with the same anti-heroistic traits that Akira Toriyama designed him with. And that's why he's so popular with fans...
もう 1 つ強調すべき点は、アンチヒーローを特定するには、彼らの過去に隠された何かを精査する必要があるということです。それはおそらくトラウマであり、それが彼らの本当の姿になる原因となるでしょう。これは基本的に、実際に起こることと同じように、アンチヒーローは過去、特に彼らが被った損失の結果であることを証明しています。ベジータは、典型的な少年アンチヒーローの最も顕著な例です��彼は誇大妄想的で、攻撃的で、利己的で、傲慢な人物で、激しい戦いに抑えられない魅力を持っていました。また、自分の前に弱さを見せる戦士を憎んでいたため、カカロットを倒し損ねたナッパを躊躇なく殺害した。ベジータは、孫悟空を倒して地球を征服する途中で彼を止める者を敢えて殺そうとしました。ナメコ星でのナメック星人の大量虐殺を推進した。ブルマとベビートランクスは彼にとって関係のある人物であったにもかかわらず、ベジータは無礼な男として振る舞い続けました。彼は再び孫悟空と戦うという明確な口実で、闇の魔術師バビディによってマインドコントロールされることを許しました。ベジータは、魔人ブウを倒すために自らを犠牲にする前に、息子のトランクスを抱きしめました。そして最後に、彼は孫悟空がキッドブウを破壊するのを助けました。確かに、ベジータはひどいことをしましたが、自分自身を償還しましたが、鳥山明が彼を設計したのと同じ反英雄的な特徴をまだ持ち続けています。これが彼がファンの間で非常に人気がある理由です。
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irmaladouce-composer · 1 year ago
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Alfredo Sirica
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Alfredo Sirica
アルフレッド・シリカ (24)
FROM ITALY
1999年4月25日 (24) にローマで生まれたAlfredo Siricaは、イ タリアのオルヴィエートを拠点に活動するサウンドトラック作曲 家です。15歳で初の長編映画(「Porches and Private Eyes」)の音楽を担当し、それ以来、いくつかの映画、ビデオ ゲーム、テレビ番組で活躍しています。 中でも、イタリアのテレビアニメシリーズ「Lampadino e Caramella」(全盲、全聾、自閉症の子供も楽しめる初のアニ メ)は2020年にユニセフ賞を受賞、短編映画「Bigger than Us」はアヌシー国際アニメーション映画祭でスタジオ・アルハ ンブラ賞を受賞、「愛の時間」「月光の物語」はそれぞれ2020 年と2022年にカンヌ映画祭に出展している。また、2021年に はローマのサンタ・チェチーリア音楽院でMusic Composition for Mediaを卒業。
現在は、アニメ「盾の勇者の成り上がり S3」からKevin Penkinとともにサブコンポーザーとして参加中。
Alfredo Sirica Profile
Born in Rome on April 25th.
1999, Alfredo Sirica is a soundtrack composer based in Orvieto, Italy. He composed the music for his first feature film ("Porches and Private Eyes") at the age of 15, and has since then worked on several movies, videogames and TV shows.
Among these, the Italian animated TV series "Lampadino e Caramella" (the first cartoon entirely accessible also by blind, deaf and autistic children) has won the UNICEF award in 2020, the short film "Bigger than Us" has won the Studios Alhambra prize at the Annecy International Animation Film Festival, "Time for Love" and "A Moonlight's Tale" have both screened at the Cannes Film Festival in 2020 and 2022 respectively. In 2021, he also graduated in Music Composition for Media at the Santa Cecilia Conservatory in Rome.
<You Tube>
<X Official>
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tomoevo4wo4 · 1 year ago
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盾の勇者の成り上がりって何が面白いの?
1: それでも動く名無し 2023/10/16(月) 06:26:46.78 ID:t21Gvlt8d 一期見たけど身内争いばっかしててつまらん 続きを読む Source: 鈴木さん速報
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thetaizuru · 9 months ago
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「 「<フォーマ(*)>を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」  -『ボコノンの書』第一の書第五節 」
 最近、何人かの人が、「シニカルだけどシニシズムじゃない」というような言い方で、人物やコンテンツなどを好意的に評価しているのを聞いた。  「シニカル」と「シニシズム」は、形容詞か名詞かという違いだけで、どちらも「キュニコス(シナックス)」という古代ギリシャ哲学の一派に由来する語である。現在の一般的な意味としては、「シニカルなジョークや言い回し」というような使い方をする場合の「シニカル」は、「皮肉っぽい」とか「嘲笑的」「批判的」というような意味で、そういうのが好きな人もいるとか、面白い場合もあるという程度には好意的にも使われるが、「シニシズム」は、「冷笑主義」と訳されるように、否定的な意味で批判的に使われる。「シニシズム (冷笑主義)」は「ペシミズム (悲観主義)」や「ニヒリズム (虚無主義)」などとほぼ同義として使われる。  「シニカル」とほぼ同義の語に「アイロニカル」というのがある。どちらも「皮肉」を意味するが、「シニカル」は、否定的で、しばしば嘲笑的で悪意の伴う皮肉を指すのに対し、「アイロニカル」は、事態の逆説性や予期せぬ結果を表現する際に使われ、楽しませるための冗談としての反語表現や風刺を指すとされる。「アイロニカル」(名詞形「アイロニー」)の語源はギリシャ語の「エイロネイア (虚偽、仮面、装われた無知)」であり、「表面的な振る舞いで本質を隠すこと」「無知の状態を演じること」といった意味がある。  「シニカルだけどシニシズムじゃない」という言い方は、なんとなくのニュアンスを言おうとしたもので、そう言われると確かにそうかもね的な話から、逆説的な言い方だけど、むしろシニカルだからシニシズムにならないんじゃないかというような話になって、どうすれば悲観的で虚無主義的な思考にとらわれずにいられるだろうかという話になっていった。結局のところ、自分を信じてポジティブにがんばれ的なところに落ち着くんだけど、先月末からの1週間は、逆説的にというか奇妙なことに、アメリカが、なんかわけのわからないポジティブさを示した。気に食わない評決が出た後、それがおかしいことも挑発的であることも明らかで、もちろん怒りの声を上げまくっているが、街を燃やしたり爆発させたりせず、募金して歌を歌って、テレビとかインフルエンサーとかにマジで影響受けちゃってた人とかがすごくわかりやすく露わになったこととかを笑ったり、そういう点では確かにシニカルかもしれないが、他人のことではなく自分のことについても、これまでの認識を見直す機会になったというようなことを語る人も多かった。
 恐怖や不安を煽るコンテンツのほうが再生回数を稼げるらしいからそんなのばかりになるのはしょうがないとか、そういうことは知ってはいても、おすすめに上がってくるサムネとタイトルがナルシシズムとクリックベイトだけを煮詰めたようなものだらけになってくるとウンザリするし、さらには、そういうのを見て真に受けてる人の気分を害さないように気を使わなきゃいけないような空気がなぜか広がっていて、虚無主義的にならないほうがおかしい気もしてくる。ポリコレとかを批判するどころか、そうした謎の空気に気を使わないだけで「シニカルだ」って言われてるだけなんじゃないかと考えると、多分そうだと思うが、これまでそうした人たちは「シニカルだ」どころか「差別者だ」「陰謀論者だ」と言われていたので、変な空気もずいぶん和らいだようにも思える。そもそも、トランプはロシアと共謀して大統領になったんだという説をカルト的に信仰してる人たちが、自分の意見と違う人たちを「女性蔑視」の「差別者」で「陰謀論者」と呼んでただけなので、そう呼ばれないように気を使わなきゃいけない商売の人たちマジで大変なんだろうなくらいには同情しつつ、見る価値はないと判断している態度は、確かにシニカルかもしれないが、4年ごとにアメリカが内戦で世界大戦でハルマゲドンする感じのやつにも飽きてるし、勝手に付けられてるレッテルでとりあえず括って「私が陰謀論と呼ばれている反グローバリズムを代表するオピニオンリーダーです」みたいな感じで出てきてゲートキーパーのポジション争いしたりグループ作りしたりしてるのからも遠ざかりたい。  似たようなことを思ってる人は結構多そうだということが示されているし、ということは、探せば面白そうなのも見つかりそうだし、自分の考えを変えるようなヒントもどこかにありそうだ。希望は示されていて、その点でギリ、悲観主義や虚無主義と同義での「シニシズム」にはならない。  「アイロニカル (反語的、逆説的)」な態度や事態を批判する「シニカル (皮肉的、拒絶的)」な態度が、偽善的なカルト的ユートピア楽観論を暴き、そこになぜか悲観的ではない希望を垣間見せているというアイロニーに、奇妙な面白さを感じる。
 「シニシズム」は、古代ギリシャの「キュニコス派 (犬儒派)」に由来する語だが、19世紀に、キュニコス派哲学の否定的な側面が強調され、問題視される形で、シニシズムを「人間の動機や行動の誠実さや善良さを信じない性質」「他者への不信感を特徴とする態度」として理解するようになり、すなわち「冷笑主義」という現代的な意味になったと言われている。  冷笑主義は、野心や欲望あるいは目標、主義主張や意見などの動機を持つ人々に対して一般的な信念や希望を抱かず、それらを虚しく、達成することのできない、究極的には無意味なものであると認識し、嘲笑や非難に値すると考える態度のことであるとされる。  冷笑主義は他者への不信感から悲観主義や虚無主義と混同されるが、それぞれの違いを言うのであれば、冷笑主義が慎重さによる不信感であるのに対し、悲観主義は敗北感に基づいた成功の可能性への不信感のことであり、虚無主義は人生に価値や意味があると信じることへの不信感であるとされる。  19世紀以降の、社会的価値や制度、権威に対する幻滅や不信感の結果として現れているとみられる、例えば「分離派」や「デタッチメント (分離、無関心)」などと呼ばれる文化的傾向や、社会的関与の必要性を拒絶する態度などが「冷笑主義」と呼ばれ、これは、人間が正しい倫理的選択をすることができるかどうかといったことなどについての悲観的な態度であり、その対義語として「ナイーブ」がある。  冷笑主義の積極的な側面としては、偽善を暴き、理想と実践の間のギャップを指摘したいという願望があるとされ、このことをジョージ バーナード ショーが端的に「正確な観察力は、それを持たない人からは一般的に冷笑主義と呼ばれる」と表現したと言われている。
 キュニコス派(犬儒派)は、紀元前5世紀のアンティステネスを開祖とするギリシア哲学の一学派で、同時代人であるソクラテスの影響を受けつつ、禁欲主義と清貧を重んじる独自の思想を展開した。  「キュニコス」という語は古代ギリシャ語で「犬のような」を意味し、「犬」を指す「キュオン」から派生したものである。キュニコス派が「犬」と呼ばれた理由の説明として、アンティステネスがアテナイの体育施設キュノサルゲス(「白い犬の場所」の意)で教えを説いたためとも言われるが、従来の常識を拒絶して何ら恥じることなく路上生活する彼らに対する侮辱として「犬」と、最初期から呼ばれていたことも間違いないようである。  古典キュニコス派は、美徳こそ幸福に唯一必要なものと考え、美徳の完成および幸福の達成を奨励しないあらゆる事を無視するほどこの哲学に従った。彼らは自分達を慣習から解き放とうと模索し、自��自足をしたり、ただ自然に従って生活した。富や権力、名声といった従来の幸福という概念を否定し、自分達にとって自然な暮らし方をすることで、人々は幸せを得ることができるとした。  キュニコス派は、不確実性の時代に、幸福の可能性や苦しみからの解放を人々に与えると主張した。キュニコス派に公式な教義は存在しなかったが、その基本原則とキュニコス派にとっての人生の目標とは、幸福感と精神的明晰さであり、誤った信念、不用心さ、愚かさ、うぬぼれなどを含む「トゥフォス (「煙」の意。「まやかし」や「妄想」を意味する)」からの解放である。  キュニコス派に影響を与えたソクラテスの問答法は、「知らないこと」の自覚から始まり、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る探究心と、節制した態度にある。知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄される。  ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開した。ソクラテスの用いた問答法は、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させて、相手自身で真理を発見させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は「エイロネイア (アイロニー)」と呼ばれる。  ソクラテスの思想には全般にわたって、自らの無知を自覚することこそが真の認識に至る道であるというような、二面性あるいは二重性が孕まれている。
 心理学において、思考がどのように二つの違った方法で生まれるか、または二つの違った過程(プロセス)の結果として生まれるかを説明する「二重過程理論 (デュアル プロセス セオリー)」というのがある。この二つの過程というのは、暗黙の自動的な「無意識」の過程と、明示的でコントロールされた「意識」的な過程として説明されることが多い。  今年3月に、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル カーネマンが亡くなり、彼の功績について話題になった。カーネマンは経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及び、不確実性下における意思決定モデルの一つであるプロスペクト理論で著名であり、行動経済学の先駆けとして知られる。  カーネマンは二重過程理論の二つの過程を、「直感」と「推論」で区別する新たな解釈を提供した。別の研究者による、より中立的な呼称として「システム1」「システム2」というのもあり、カーネマンもこの呼称を使った。カーネマンの「直感」は「システム1」に、「推論」は「システム2」にほぼあたる。  「システム1」というのは、無意識の推論であり、速く自動的に、暗黙のうちに行われるプロセスであるのに対し、「システム2」は、自発的にコントロールされた意識的な推論であり熟慮のことであり、これは遅く不安定である。  「システム1」を「ノンシンキング ブレイン」、「システム2」を「シンキング ブレイン」と呼ぶ人もいて、「システム2」すなわち「シンキング ブレイン」は起動させるのに「メンタルエナジー」が必要な状態だという。マーケティング広告としては、客に「メンタルエナジー」を使わせるようなものは即、大失敗とされる。「システム2」を起動させない状態が長く続いた状態を、「ゾンビモード」と呼ぶ人もいる。「ゾンビモード」は、本人の自覚がないまま何かにコントロールされているような状態で、本来「システム1」に分類される「感情」「主観」「共感」「想像」といったものまでが歪んだり、健全に機能しなくなる状態だと説明される。  そもそも人は意思決定の99%近くを「システム1」で行っているとも考えられていて、後になって、その意思決定や行動をしたもっともらしい理由を探しだしてくるのが「システム2」なのだとも言われる。カーネマンも、「人間にとっての思考とは、猫にとっての水泳だ。つまり、できなくはないけど、あえてしたくはないものだ」と言った。「システム2」は、遅くやってきてすぐにメンタルエナジーを大量に消費して停止する。
 メンタルエナジーの補給にはブドウ糖の摂取が効果的だという研究結果もあるようだが、なんか食ってりゃこの「トゥフォス」から解放されてゾンビが蘇るだろうと思えるほどナイーブにもなれないが、いや、でも、も��かしたら、逆に?
「 *無害な非真実 」(カート ヴォネガット ジュニア『猫のゆりかご』1963)
2024年6月 ライフ イズ ア ガーデン
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